レストラン経営の夫を捨て非常勤講師と結婚。週刊誌に書かれる最悪の見出しを想像しながら、もしも私との事が全て公になれば、大学を辞めなければならなくかもしれないと話した。
本表紙 金原ひとみ著

第八 五月

「広告 挿入避妊具なら小さいチンコ、ユルユル膣であっても相手に満足させ心地よくイカせられる」

 妊娠? すっきりした一重の目を見開き、私を捉えた。彼はしばらく深刻そうな表情を浮かべた後に、どうしたい? と聞いた。堕ろしたくはない。自分の情けない言葉にひどい自己嫌悪を感じた瞬間、待澤は私の手を握った。

 一週間前、病院で妊娠を確定された日、私はその足で待澤との待ち合わせに向かい、昼でもいいからという、関係が始まって以来初の突然の呼び出しを受けたにも拘わらず、レストランで落ち合ってから二十分以上何の疑問も口にしない待澤の察しの悪さに諦めて、自分から妊娠の事実を告げた。手を握られたまま、これまでの経緯を一通り話すと、待澤はここじゃ落ち着かないねと言って部屋を取りに行った。私たちは部屋に移動すると一度セックスをして、裸でベッドに寝転んだままこれからについて話し合った。

 給料が少ない事、自分が非常勤から常勤に昇格する可能性が低いこと、予備校の仕事を増やしていくかもしれないという事、今の生活を維持させていくには、私の収入に頼らざるを得ないであろう事を、待澤は私に打ち明けた。分かっているとは思うけど前置きしてから、今の旦那の稼ぎとは比べものになんないぜ、と続けた待澤は、特に今の仕事や収入を恥じる様子もなく、淡々としているように見えた。

レストラン経営の夫を捨て非常勤講師と結婚。週刊誌に書かれる最悪の見出しを想像しながら、もしも私との事が全て公になれば、大学を辞めなければならなくかもしれないと話した。不倫と妊娠の事実が週刊誌に書かれれば、その可能性は高い。どうせ腰掛けだよと待澤は笑ったけれど、話しながら私は何処かで、待澤と結婚するという事に違和感を抱いていた。

モデルを始めて以来、同じ業界の人や、この仕事をしていて知り合った人ばかり付き合ってきたせいで、生活レベルに大きな差のある人とは付き合ったことがなかった。自分がバイトを掛け持ちする非常勤講師と結婚するという事に、不安とまでいかなくとも、どういう生活になるんだろうという悶々とした思いがあった。でも元々、私は今の生活レベルに拘っているわけじゃない。正直なところ、四十万を超える今のマンションの家賃には疑問を抱え続けてきた。亮のセレブ志向に合わせていただけで、私自身がそういうものに拘っているわけではない。むしろ私には待澤との現実的な生活の方が適しているような気もした。

「弥生ちゃんはさ」
「うん」
「どうなのかな。いきなり知らない男がお父さんになるって」
「最初は人見知りすると思うけど、子どもって自分と遊んでくれる人なら誰とでも仲良くなれるし、適応能力はあるから大丈夫だと思うよ」
 待澤は、育児と家事は出来る限り手伝うと話し、保育園の送りは毎日出来るよと言った。結婚したら、土日は三人で公園に行こうな、それで、夜は俺が作るから三人で飯を食おう。待澤の言葉に振り向いて、私はまじまじとその顔を見つめた。

待澤に対して、家庭の不満を話したことはあったのを、私は思い出した。何で私には手に入らなかったんだろう、後に続いて出てきそうな言葉を、待澤に何を強要しているように聞こえるかもしれないと押しとどめ、直ぐに無理に明るい声を出して話題を変えたのだ。

 待澤がそれまでの性的な存在から、家庭的な存在に変化し始めている事に戸惑いを感じながら、そうして空想混じりの話をつづけて、私たちは笑い合った。待澤は同棲をした事がない、結婚も、子どもを持ったこともない。待澤が考えている以上に子どもとの生活は過酷だし、二人の子どもとの生活は私にも想像がつかない、同棲も結婚した事もない自分が、突然二人の子持ちになって三人の人と共同生活する、っていう事についてよく考えて欲しい、まだ猶予あるから、一週間考えて。
私は最後にそう言うと、弥生をお迎えに行くため先に部屋を出た。

待澤は三日後に私を呼び出し、産んで欲しいと言った。待澤の腕の中で、私は我が子の未来に安堵した。でも同時に、諦めにも似た罪悪感が心に芽生えた。

 サングラス、ジーンズにハイカットスニーカー。いつものラフな格好に包んだ体が自然と縮こまった。出張所にいる全ての人が私を見ているような気がする。やっぱり誰かに頼んだ方が良かっただろうかと思いつつ引き返せず窓口に近づくと、中年の女性職員が顔を上げた。

「すいません。離婚届を頂きたいんですが」
「あ、はいはい」
 必要以上に軽く答える職員が、顔を引きつらせているような気がした。激しい鼓動の中で「二枚ください」と付け加えた。職員は、二枚の離婚届を区のマーク入ったクリアフィルに挟み手渡した。

「それと、前夫の姓を使いつづける場合って、何か申請が必要なんでしょうか」
「ああ、はいはい。離婚の際に称していた氏を称する届、というのがあります」
 ずいぶん直接的な名前の届だなあと思いながら、差し出されたA4サイズの届をクリアファイルに挟んだ、こんな安っぽい紙への記入で、私のこれからの姓が決まるのだと思うと不思議な気持ちだった。輪越してから半年間は再婚できないため、僅かな期間森山姓に戻り、また待澤姓になるのは諸々の手続きを含めて面倒だと判断して、待澤と結婚するまで柏岡性でいようと決めていた。

仕事は旧姓で続けているため、病院や役所くらいだしか呼ばれなかったけれど、いざ柏岡という姓を失うのだと思うと、名残惜しい気持ちになる。そして保育園で弥生の名字が変わる事にも、私は抵抗があった。私自身、子供の頃親の離婚と再婚でころころと名字が変ったのは嫌だった記憶があるのだ。あなたのお名前は? と聞くと「柏岡弥生ちゃんです!」と答える娘に、遠くからぬ未来の新しい名字を覚えさせなければならないのが、今から憂鬱だった。
 
 離婚後半年女性が結婚できないのは、離婚した際に妊娠していた場合、父親を法律的に確定させるため、という理由らしいけれど、私の場合妊娠していて父親が誰であるかも分かっているのだから、途方もなく意味のない話だ。

 離婚届を手に入れて出張所を出た私は、車に乗り込んでファイルをバッグに突っ込んだ。離婚届に記入して、夫に離婚したいと申し出る、ある程度二人の話がまとまったところで事務所に相談、夫と事務所の意見を聞いた上で弁護士に依頼、弁護士を通して協議を進め公正証書を作ったら、離婚届を提出。思い描くそのプランが実現するまでには、想像できないほど長く険しい道のりが待っているような気がする。

プライドの高い亮は、離婚しないと言い張ったりはしないはずだ。弥生に関しても執着しない。むしろ自分が養育するのは不可能だと言うだろう。でも不倫と妊娠の事実を告げたら、感情の激しやすい彼は何をするかわからない。だとしたら、離婚した旨を話して様子を見て、不倫と妊娠に関しては事務所の人か弁護士が同席している時に話した方がいいかもしれない。でも、離婚と切り出せば、亮だってさすがに理由ぐらいは聞くに違いない。

その時、私は誤魔化す事が出来るだろうか。夫に離婚の意向を伝えるのが先か、事務所に相談するのが先か、弁護士に依頼するのが先か。弁護士に頼むにしても、モデルや芸能人などのケースを受け持っている人を事務所に紹介してもらった方が良いのか。事務所に噓をつくことも考慮に入れ、全く関係ない弁護士に依頼した方が良いのか。判断を間違ったら大変なことになるという焦り、激しいつわりが始まる前に色々片付けておきたいという焦りから、考えれば考えるほどどうしたら良いのか分からなくなっていく。

 子どもを産むと決めた時、私は亮に妊娠の事実を告げずに離婚する道を考えていた。でも離婚の専門書を読み、離婚後三百日問題を知って、それが不可能であると気が付いた。離婚後三百日以内に生まれた子供は、自動的に前夫の戸籍に入る。この法律のせいだ、前夫の戸籍に入ってしまう事を懸念し母親が出生届を出さず、結果的に子供が無戸籍になってしまうケースが増えているというのだ。

そんな馬鹿な話って、と思いネットを調べ回ったけれど、別居や離婚調停中であったとしても婚姻中に他の男の子供を妊娠するなんて何という馬鹿女! という罵倒ばかりがヒットしてうんざりするだけだった。専門書を読み漁った挙句、離婚後に懐妊した子供が早産で三百日以内に生まれた場合などを除いて、前夫の協力なしにこの問題を解決することは現状ではほとんど不可能だと理解した。

亮の子供として出生届を出した後、亮に摘出否認の調停を家裁に申し立ててもらう、あるいは私が親子関係不存在確認の調停を家裁に申し立てる。今の所考えられる解決策はその二つしかなく、親子関係不存在確認を申し立て入る場合でも、DNA鑑定などで亮の協力が必要だった。とにかく、今は穏便に亮の協力を得ることが最優先だった。でももし私が出生届を出してそのまま何も言わなければ、その子供は戸籍上亮の実子という事になる。そうなったら亮だって困るはずだ。

 離婚後三百日問題について調べながら、不思議な気持ちになった。自分が今、不倫相手の子どもを妊娠するという、最も卑劣な女が引き起こされている類の状況に身を置いているという事に、実感が湧かなかった。私の何も悪意も、何の企みも、何の作為もなく、ただひたすら必死に生きてきただけだ。もしもこの事実が表沙汰になったら、週刊誌は私を卑劣な淫乱不倫モデルとして世間に晒すだろう。でも不倫愛の子供を妊娠するという状況に至るまでのプロセスな、私の亮に対する愛情があったり、毎日のように流してきた涙があったり、藁にも縋る気持ちで待澤に相談した夜があったり、待澤の事が好きだった十代の頃と同じようなノスタルジックな恋愛感情の再燃があったりという事実を、誰が理解するだろう。

こんな結果を求めていたわけじゃない。私は不倫を選択した事も、妊娠を選択した事も、夫との離婚を選択した事もない。選択はいつもなかった。常に一つしか道はなかった。それでも週刊誌に書かれれば、私は卑劣な不倫モデルだ。

 帰宅した私はリビングのダイニングテーブルに向かって離婚届を広げた。証人は誰に頼もう。真っ先に、ユカの顔を思い浮かべた。あとは誰がいいだろう。ふと、待澤の顔が浮かぶ。離婚届の証人に不倫相手の名前があるというシュールな状況を、私は受け入れそうにない。「柏岡亮」「柏岡五月」と名前を書き込み、生年月日、住所、本籍、子どもの名前など記入していく。

ボールペンを走らせていると、こんがらかった糸がするっと解けていくように、亮と離婚するという事の意味が柔らかくなって私の頭の中にしみ込んでいった。これまで離婚する離婚すると思いながら全く実感が湧かなかったそれが、ようやく事実として現実に現れ、自分の四分の三ほど失われたように空っぽな気持ちになった。

肩が震え涙があふれた。入籍を終え、安定期の内に慌てて行ったフランスのハネムーン、弥生が生後半年の頃に行った沖縄旅行、弥生が一歳の頃に行ったハワイ、弥生が二歳の頃に行ったニューヨーク。それぞれの亮の姿がスライドショーのように頭に蘇る。亮の仕事のせいでいつも強行スケージュールだったけど、旅行中、亮は東京での生活や仕事から解放されたようににこにこして、いつもより優しかった。

妊娠中、仕事に行く前に私の夕飯を作り置きしてくれた亮、お腹が大きくなりこむらがえり繰り返すたび足をさすってくれた亮、徹夜明けで一緒に両親学級に出てくれた亮、陣痛中ずっと腰をさすってくれていた亮、弥生が誕生する瞬間わなわなと震える私の手を握ってくれていた亮、毎晩深夜に帰宅するとベビーベッドで眠る弥生をじっと眺めつづけている亮、弥生が初めてパパと言った時、涙を浮かべながらビデオカメラを探しに行った亮。ついこの間まで、私たちは愛情に満ちていた気がする。

レゴを作ったお城に一つの硬球が投げ込まれたように、一瞬でバラバラと、それは崩れ落ちてしまった。硬球を投げたのは私か、それとも誰の感情にも依拠しない、ただの運命か。自分でも全く予想していなかった虚無感に涙を流しながら、私は昨日の夜ユカに言われたことを思い出した。

 昨日の夜、ユカと涼子ちゃんと食事をして、子どもたちと涼子ちゃんが眠ってしまった後、私はユカに妊娠の事実を打ち明けた。望んで作った訳ではなく、不倫相手の子供であると告白しても、ユカはにこにこしておめでとうと繰り返した。話し始めると止まらず、実は夫とやり直していけるんじゃないかと思い始めた矢先の妊娠だった事、でもお腹の子が弥生と何歳差になるとか、女の子かなあ男の子かなと考え始めると堕胎したくない気持ちが先行してしまった事。

不倫相手が産んで欲しいと言った事、彼は育児にも家事にも協力的で、幸せな家庭を築けそうだと言う事、でもこれから事務所と夫に対して上手く立ち回らないと全てが破綻してしまうであろう事、そういう点に於いて不倫相手はあまり役に立ちそうでない事、でもともかく子どもが出来た以上前に進むしかなくて、進むための材料は全て揃ってしまったという事、でもあまりにも色々なことがくるくる展開して、現実の状況に気持ちが追いついて行かないという事。今の気持ちを全てぶちまけた。

「五月は旦那さんの事がまだ好きなの?」
 ユカは一通り話を聞いた後、そう聞いた、一瞬どう答えて良いのか分からなくなって表情を曇らせた後、私は首を捻った。

「分からない、夫との間には、複雑な愛情とか弥生の事とか、これまで二人で歩んできた過去とか、拒絶され続けて事で、憎しみに近い感情を抱いてきた経緯とか色々あって、夫に対する気持ちがこういうものだって、一言じゃ言えない」

「多分、五月も旦那さんも、本心では離婚したいとは思っていないんじゃないかな。二人とも別れたくないのに、別れることになっちゃう事って、本当にあるんだね」

 今できるベストな判断をして、その判断を元に前に進もうとしている私にとって、ユカの言葉はあまり気分の良いものではなかった。そもそも、何故ユカに亮の気持ちが分かるのだろうという疑問も湧いた。私はずっと、半年以上、亮は私との結婚生活に全く執着していない、別れたがっている、私から離婚を切り出すのを待っているのかもしれないと悩み続けてきたのだ。

「でもきっと、今五月が求めている幸せは、その新しい彼と築き上げる事の出来ない幸せなんだね」
 それは。今私が求めているのは恋愛の成就ではなく、家庭の充足であるという事なんだろうか。独り言のようにそう言い切ったユカが納得したような表情でいたため、私はそれ以上何も聞かなかった。でも私は本当に嬉しいよ、五月の二人目の子どもとして産まれてくる子は本当に幸せだよ。大変なことはいっぱいあるだろうけど、五月の未来は約束されてる。ユカの祝福はじわっと胸に染み、私は満たされた気持ちでユカのベッドで眠った。

 ユカと話して前向きな気持ちになった私は、離婚届を取りに行き、離婚届に記入し、ユカの言葉が正しいかった事を知った。好きだという言葉では表現できない。でも私の中には亮に対する情なのか執着なのか未練なのか分からないけれど、何か割り切れない強烈な思いがあるのは間違いなかった。離婚届に記入しただけでこんな感情の爆発が起こるなんて、予想もしていなかっただけに動揺は大きかった。

 もし、待澤が堕ろしてくれと言ってたら、私は全く違う道を歩いていただろう。でももし待澤が堕ろしてくれと言うよう男であったとしたら、そもそも私は待澤と不倫関係にならなかったはずで、妊娠が分かった時点で、私はこうなる事を何処かで予期していたはずだった。離婚届をクリアファイルに挟んで寝室のチェストにしまい、ベッドに横になった。ベッドわきに置いてあったジェルのアイマスクを目に押し当てながら。ふっと、お腹に視線をやり、手を当てた。考える事が多すぎて、お腹の子ども自体についてなかなか深く考える余裕がない。

手の平をお腹に滑らすと、そこに胎児がいる事が不思議に思えてきた。外はばたばたとしています、あなたが生まれるまでにあなたを迎える状況を整えておくから、安心して育ってください。子宮に根を張った胎嚢を思うと、一刻も早く子供の顔を見たくて仕方なくなってくる。性別が解るようになるのは、四ヶ月後くらいだろうか。名前は何にしよう。

予定日は七月だから、文月、文子、文人、文哉。そう考えながら、弥生の時も予定日が三月だったら弥生にしようと思いながら、実際には予定日を大幅に過ぎ、四月に生まれてしまったのを思いだす。結局胎児の時から呼び続けてきたこともあって弥生に決めたけど、また同じようなことになるかもしれない。お腹の子供について考えている内、離婚への絶望感が薄れている事に気がついた。

 寝過ごして、三十分延長してしまった保育園にお迎えに行くと、弥生は私を見つけてママっと声を上げ、自分が読んでいた絵本を見せてくれた。
「ねえママ弥生これ大好きなの。犬のジロウちゃんのお話ね、ジロウちゃんが迷子になっちゃう。えーん、ってするのよ」

 そうなの? と覗き込む、弥生の頭を撫でる。自分が妊娠したと分かってから、弥生が可愛くて仕方ない。女性ホルモンのせいか分からないけど、とにかく弥生のやる事なす事可愛く見える。

 弥生を後部座席のチャイルドシートに座らせてベルトを締めると、運転席に座った。大型バスに乗ってます。切符を順に渡してね、お隣へ、はいっ、お隣へ、はいっ。歌い始めた弥生に声を合わせ、二人で歌った。近く、これが三人になり、四人になるのだ。約束された未来は、言葉に出来ないほど輝かしいものに思えた。

 先週来た時ははち切れそうなほど張り詰めた気持ちでいたのに比べて、今回は晴れやかな気持ちでいた。
「どうされるか、決まりましたか」
「やっぱり産もうと思います」
 前回受診した際、中絶を視野に入れていると話したせいか、先生は私の来た早さから堕胎を選択したと思ったらしく、ほっとしたような笑顔を見せた。弥生の時も妊娠の確定をしてもらったこの個人病院は、先生も看護婦も穏やかで、アットホームな雰囲気が気に入っていた。出産を取り扱っていたら、弥生はここで産んでいたかもしれない。

「そうですか。体調はどうですか?」
「まだつわりもそんなにひどくもなくて体調はいいですけど、昨日の夕方頃僅かに出血があったんです。出血と言っても、茶色いおりものが下着についている程度だったんですけど」

 まあ大丈夫だろうと思いながら気になってインターネットで調べてみると、妊娠初期の出血は直ぐに受診した方がいいという記述が多かったため、慌てて予約を取った。
「そうですか、ちょっと診てみましょう」
 パンツにつく程度の出血で受診するなんて、心配性だと笑われるんじゃないかと思ったけれど、先生は真剣な表情でそう言って診察台に指さした。カーテンで仕切られた脱衣スペースで下着を取ると、スカートをまくり上げて診察台に座った。

「筋腫の事もあるので、何か変だなと思ったらこうして迷わず受診してくださいね」
「ええ、でも筋腫自体は妊娠に差し障りのない場所にあるんですよね?」
「獎膜下筋腫なので、基本的には全くと言って良いほど影響はありませんが、やはり筋腫は妊娠の邪魔者であります。心配しすぎてストレスになってしまうのは良くありませんが、小さなリスクを抱えていると事を覚えておいてください」

 分かりましたと言うと、先生はじゃあちょっと診てみましょう、と言ってエコーを挿入した。固い感触に、腰に力が入った。中でエコーが何度か向きを変え、胎嚢を探しているのが分かった。カーテンを開くと、画面の真ん中にはこの間と同じように黒い丸が映し出されていた。
「柏岡さん」
「はい」
「ここが胎嚢なんですが、まだ赤ちゃんが見えません。週数的には、もう見えても良い頃なんですが」
「そう、なんですか」
「それと、この週数だと、胎嚢が一週間で三倍くらいの大きさになっていても良いはずなんですが、前回から倍くらいの大きさにしかなっていません」
「それはつまり…・」
 一度診察室に戻ってお話しましょう、という言葉を聞き、事態が自分の予想した方向へ流れていないのを知った。診察台を降りて下着をつけ、まあ大丈夫だろう、大丈夫なはず、と思いながら診察室のドアを開け先生の前に座った。緊張で、バッグの持ち手を掴む手に力が籠った。

「これが前回の写真、それで、これが今回の写真です。十一ミリなので、前回の五ミリから倍くらいにしかなっていません。まだ何とも言えませんが、流産の可能性があります」
「どのくらいの可能性ですか?」
「経験上、五割から六割の可能性で、流産です」
 体中に鳥肌が立ち、息が浅くなっていくのを感じた。こんなに高い可能性で流産を示唆されるなんて、思ってもいなかった。一気に涙がこみ上げてきて、目から涙が零れそうになるのを僅かに顔を上向けて堪える。ヒステリックになったら、先生は気を遣って言うべきことは言えないかもしれない。私は静かに息を吸い込み、唾を飲み込んだ。

「もちろんまだ分かりません。小さいとはいえ、大きくなっているので、初期は中々大きくならない事はたまにあります。その後きちんと育つ可能性も、五割程度はあるという事です」
「流産か、そうでないかは、いつ頃分かりますか?む」
「来週、一週間後くらいにまた来てください。恐らく一、二週間の内に大丈夫そうか、無理そうか分かると思います。その前にまた出血や痛みがあれば来てください、ちょっと、日曜を挟んでしまうので心配ですけど、日曜に何か異変があったら、救急病院に行ってください」

「例えば、もしこのまま少しずつ育っていったとして、赤ちゃんに何かしらの障害が残る可能性はありますか?」
「はっきりしたことは言えませんが、もし胎児自体に重大な問題があった場合、大きくならず流産になる可能性の方が高いです」
「そうですか。流産になった場合、自然に流れてしまうんでしょうか?」
「基本的には、流産の時は流産になると分かった時点で出来るだけ早く手術した方がいいです。自然に流れしまう事もありますが、その場合とても痛いです」
「とても…・」
「はい、自然に流れた場合でも、子宮の中に残留物があれば搔爬手術が必要になるので、基本的には流産になったら早めに手術をした方が良いと思います」
「分かりました」
「出来るだけ安静にしていてください。仕事もあるでしょうし、お子さんもいらっしゃるので難しいかもしれませんが、極力仕事をセーブして、旦那さんに手助けしてもらって、可能な範囲で横になっていてください」

 夫には話せない。事務所にも話せない。私は判りましたと言って、診察室を出た。待合室に戻ってソファに腰掛け、まだ事態が飲み込めないまま、膝頭を見つめる。そういう不幸が今自分の身に降りかかっているのだという事実が、夢のように感じられた。流産の可能性を全く考えていなわけではない。待澤が産んでくれと言った時も、一・五割程度の妊娠は流産するからその可能性も考えなきゃいけないと、私は待澤に話をした。

でも私は、第二子を出産するというストーリーに、疑いを抱いていなかった。私はどこかで、そういう不幸は私を避けて通るはずだと思い込んでいた。筋腫があると分かったときも、私はその自分の想像力の及ばなさに愕然とした。生理のある女性の三分の一が筋腫を持ち、全ての妊娠の一・五割は流産という結果を迎える。今の私の状況は、さほど特異な状況ではないはずだ。冷静に冷静にと思っていたけれど、支払いをし次回の予約を入れ、産婦人科と同じ並びにあるカフェに入ってカフェオレを飲んでいると、肩の力抜けて涙が出た。

待澤に伝えなきゃと思いながら、中々携帯を手に取る気になれなかった。それでもカフェに入って一時間も経った頃、私は待澤にメールを打った。胎児が見えない事、胎嚢や稽留流産などの言葉を簡単に説明しつつ打ち込んだ。十分が経った頃、返信が来た、私のことを心配しているようだった。もしもお腹の子が駄目だったら、その分今いる子どもを大切にしていうという内容だった。

仕事が終わったら電話すると、最後に書いてあった。私は、自分がさほど待澤の助けを必要としていない事に気がついた、自分一人で背負い込むのは耐え難かったけど、今は夫も待澤も誰も私の支えにはならないだろうと思った、私は誰よりも、弥生に会いたかった。一刻も早く、弥生に会いたいと思っていた、弥生が愛おしくて仕方なかった。弥生の存在は奇跡だと思った。

出産した時に感じた奇跡を、お腹の子を失うかもしれないと思った瞬間、再び強く実感した。弥生が私のお腹の中で育ち、子宮から出てきて、どんどん大きくなり、私にまとわりついたりいたずらをしたり、怒ったり泣いたりしているのは奇跡だ。子どもを育てるという事は、奇跡に立ち会うという事なんだ。そう思いつくや否や、両手を顔に押し付け、声を殺して肩を震わせた。

 その夜、待澤は電話を掛けてきた。五月が辛い時、そばに居てやれないのが辛い。今日一晩、ベッドの中で抱きしめてあげられたらって思うよ。ドラマのような待澤の言葉は、一時的に私を温かい気持ちにさせたけど、でもここに待澤がいて一晩抱き合ったとしても、私はさほど救われないだろうと思った。むしろ、一人でゆっくり考えたいのにと思ったかもしれなかった。今、私は誰の助けも必要としていない。どうして、いつ、私はこんなに一人になってしまったのだろう。

 やよいー、と声を掛けると、はーい、と間延びした返事が届いた。
「お着替えも自分で出来る?」
「出来るよ。弥生お着替え出来るんだよ。れいこ先生が凄いねって褒めたんだよ」
「じゃあお着替えもしてくださーい。あとバッグの準備もね」
 はーいという声を聞きながら薄く伸ばしたファンデーションの上に筆を滑らせた。アイブローと口紅だけを塗った顔はいつもと何も変わらない。流産しかかっている女の顔には見えない。化粧品をしまうと、保育園の連絡帳と財布、携帯をバッグに放り込んだ。

「ママ見てっ」
 子ども部屋から走ってきた弥生が、弾むような声でそう言った。上下の組み合わせはあまり良くなかったけど、シャツもスカートも後ろ前が合っているし、靴下もきちんと履けていた。偉いね、やっちゃんすごい。大きな声でそう言うと、弥生は勢いよく私に抱きついた。どしんという衝撃に腰が引けた。
「弥生、ママちょっとお腹が痛いから、気を付けてね」
「お腹痛いの?」
 弥生は心配そうな顔をして私を見上げた。ちょっとねと言って頭を撫でると、弥生は見上げ「弥生髪の毛二つに結びたい」と両手を耳の後ろの辺りでグーにした。はいはいと笑ってブラシとゴムを用意し、私は弥生の髪を結い始めた。二歳を過ぎたころから、この髪を結うという行為は、私と弥生の関係の中で重要なコミュニケーションになっている。不思議と、私が苛々している時や、疲れている時、弥生は髪結んで、と上目遣いで頼まないのだ。靴を履かせていると、亮の部屋から物音が聞こえて、こんな時間に起きるなんて珍しいなと思っていると、ドアが開く音がした。
「おはよう」
「ああ、もう出るとこ?」
 弥生がパパと声を上げ、亮に向かって駆け出した。亮は腋の下に手を入れ、弥生を抱き上げた声を上げて喜ぶ弥生と、穏やかな表情で弥生を見つめる亮を見上げた。この二人を私が引き離すんだと思った。離婚する際、亮は弥生との定期的な面会を要求するだろうか。それとも、私の実の父のように、二度と会わないという決断を下すのだろうか。

「俺も行くよ」
 ほんとに? と言いながら、ふっと冷たくなっていった所にお湯を掛けられたような、ひりつくよな温かさを感じた。本当は、いつ流産が始まるか分からない状態で亮と出かけるのは億劫だった。でも私は、久しぶりに亮と二人で弥生を送りに行けるのが嬉しくて、三人で家を出た。

 保育園の前の道で車を停めると、俺が行くよと言って亮はチャイルドシートのベルトを外した。連絡帳を渡すと、弥生は行ってきます、バイバイ、と言って車を降り、亮と手を繋いで坂を上って行った。二人を見送ると、私は携帯を取り出し電話を掛けた。
「もしもし」
「こんにちは。すいません、今日何時でも良いので予約を取りたいんですが」
「すいません、今日は全て予約で埋まっておりまして」
「あの、流産するかもしれないと言われていて、今朝も出血があったんです。出来るだけ早く診て頂きたいんですが」
「分かりました。では…・一時頃ではいかがでしょうか」
「大丈夫です。じゃあ一時に」
 電話を切ると、はっとため息をついて携帯を閉じた。もうだめかもしれない。流れてしまうのかもしれない。流産かもしれないと言われて三日、トイレに入る時は毎回どきどきしていた。下着に血が付いたら。トイレットペーパーに血が付いていたら。そうして綱渡りのような気持ちでトイレに入っていた私は今朝、とうとう綱から落ちた。色がよく見えるようにと穿いた白い下着の真ん中に、前回よりも濃い茶色の血がついているのを見た瞬間、胸に衝撃が走った。胸を押さえ、大きく息を吸って吐いて、量と色を確認した後、私は用を足してトイレを出た。

 亮が一緒に来ると言わなかったら、タクシーで送り、そのままタクシーで家に帰るつもりだった。今にも破裂しそうな水風船を抱えているような気持ちだった。今この瞬間、股からどっと血が流れ始めたらどうしよう。亮の前で流産が始まってしまったら、私は痛みに歯を食いしばりながら、妊娠の事実を告げるのだろうか。

「土曜って、子供少ないんだな」
 助手席に乗り込んできた亮は、そう言いながらシートを後方にスライドさせた。
「そうだね。でも土曜は合同保育だから、赤ちゃんとか年上のお兄ちゃんとかお姉ちゃんと遊べて楽しいみたいよ」

「ふうん。どっか、コーヒーでも飲みに行く?」
 うんと言って、私は車のサイドブレーキを外した。あのほら、家の近くのテラスの店にしようぜ、亮は座席に深く腰掛け直しながそう言った。弥生が一歳になり、ドリーズで一時保育を始めた頃、私たちはよくこうして、弥生を送った後二人でブランチをしたり、コーヒーを飲みに行ったりしていた。信号待ちの間、話している途中で亮の頭に白髪を一本見つけた。三十八になった亮は、確かに出会った頃よりも老けている。五年間この人と一緒に居た。四年間この人と暮らした。それはとても重要な事に思えた。
「白髪」
「うそ。どこ?」
 バックミラーを覗き込む亮の耳に近い生え際を指さすと、亮は一本白髪を引き抜いたようだった。
「こないあださ、髭に一本白髪があってさ。もうびっくりしたよ」
「でも白髪交じりの髭って格好いいよね」
「まだ三十代だぜ? 白髪交じりの髭なんて普通五十過ぎてからだろ」
 話しながらパーキングに車を止めることはできない、私たちはカフェに入った。ご飯食べていなかった亮はオープンサンドとコーヒーを頼み、私はキウイのスムージーを頼んだ。かつて一緒に来ていた頃も、亮はいつも同じメニューを頼んでいた。テラス席に座って話していると、懐かしい思いがする。私は、私たちの間に何の問題もなかったころに戻ったかのような錯覚に陥った。今まさに子宮が他の男の子を孕みその子が死にかけているかもしれない時、私は夫と話しをして穏やかな気持ちになっていた。

諸行無常の響きあり、ふとそんな言葉が浮かんだ。弱い生き物は死に絶え、弱い種は絶滅し、弱い細胞は流れる。そういう自然の摂理に直面している私は、じっと、心が動かないのを実感していた。子ども自身の力でも、自分の力でも、どうにもならないのだ。そう思うと、私は今一人の人の終わりゆく運命という壮厳なものに触れているような気がして、感情が沈黙しただ静粛な気持ちになる。

 私と亮は二時間以上話をしていた。時折、一瞬にしてこの平和な時間が崩壊するような類の亮の苛立ちに怯えてもしたけど、何とか普通の会話が成立していた。互いにぎこちないながらも、二時間喧嘩にならなかったという事実は、少なくとも一か月前からは信じられないような快挙だった。病院の予約を入れていなければ、私は亮が帰る、あるいはどこに行く、と主張するまで亮に付き合っていたはずだった。

「今日は、これから何か予定あるの?」
「ああ、三時に仕入れ先行くんだ」
「そうなんだ、私、一時に病院行くことになってて」
 ああ、そう。亮はそう言って、腕時計を見やった。
「俺は一回家戻るわ。歩いていくからいいよ」
 何の病院かと聞かれたら、歯医者と答えるつもりだった。でも亮は聞かなかった。席を立ち、私たちは店を出た所で別れた。一度だけ振り返った。離婚届を突き付け、不倫と妊娠の事実を告げ、摘出否認をしてもらうはずの人に対して、私は一体何してるんだろう。なぜ一緒に食事をして、世間話をしていられるのだろう。不思議だった。例えば私が彼と食事をして世間話をした後に「じゃあこれ」と離婚届をさっと出せるだろうか。出来るはずだ。それは、子供が流れかかっているからだろうか。

いや、子供が流れかけていなくても、私は夫に誘われて一緒にカフェに行っただろうし、彼が席を立つまで彼に話していたはずだ。結局私は、子どもが出来た、じゃあ離婚しなきゃ、という流れに乗っているだけなのだ。私の気持ちではない。私は私の状況の中で、するべき事と、出来る事の狭間で、多大な妥協をしながら選択肢のない選択を続けているだけなのだ。離婚が私自身の純粋な意志であれば、明日離婚を言い出そうとしている時に夫とカフェに行って笑って話など出来ないはずだ。

「今朝、茶色がかった血が出ました。とろっとした感じで、この間よりも量が多かったです」
 診察台に乗る前から。もう駄目なような気がしていた。弥生を妊娠している間、不正出血は一度もなかった。おしるしもなかった。出産予定日を過ぎ、子宮口を開くためのバルーンを入れるまで、一滴も出血しなかった。普通だと思っていたあの妊娠が、今は随分と遠く儚いものに思える。尿蛋白がダブル+になっても、貧血になっても、つわりで吐いても、転んでも、弥生はびくともしなかった。予定日を過ぎても、しっかりと私の子宮に根を張っていた。

「柏岡さん。見てください」
 エコーを入れられてすぐ、カーテンが開いた。
「ここです。三日前から、ほとんど大きくなっていません。やっぱり流産だと思います」
 きっともうだめだ。頭の中ではそう思っていたはずなのに、先生の言葉に震えるほど動揺していた。胎児の見えない黒い胎嚢を見つめながら私はふと、十年以上前の中絶の直前の診察を思い出した。数時間後に私の子宮から掻き出される胎児が、超音波の画面の中でどくんどくんと脈打ち、くるくると動いていた。そうだった、あの時は胎児も、心拍も確認されていたんだ。その思い出した内容に関して、どんな感想を抱いてよいのか分からず、私は呆然としたまま下がった診察台から降り、下着をつけた。診察室に戻って先生と向き合い、大きくなっていない胎嚢を写したエコー写真を見つめる。

「胎児は見えません。胎嚢も大きくなっていない。恐らく、ここから育っていく可能性は低いです。育たないのであれば、細胞はどんどん劣化していきます。そういう古い細胞があると、子宮にも良くありません。出来るだけ早くうちの手術をお勧めいたします」

 先生は穏やかな口調で、優しい言葉を選びながら、伝えるべき情報を私に伝えていく。
「分かりました。あの、手術は大体何時から何時までかかるんでしょうか?」
 手帳を出し、来週、再来週のスケジュールを確認する。
「術後は、どれくらい安静にしてた方が良いのでしょうか」
「そうですね、二、三日は仕事を休んで頂きたい所です。それで二週間くらいは無理のない生活を心がけて頂きたいですね」
「そうですか。一番早く手術出来る日はいつになりますか?」
「来週水曜日になります」
 来週は火曜日と木曜日に撮影が入っている。
「あの、金曜は無理ですか?」
「金曜は別の手術が入ってしまっていて…」
「そうですか。じゃあ、ちょっと一度スケジュールを変えられないか確認してみます。もしスケジュールが変更出来たら、水曜にお願いしたいんですが」
「分かりました。空けておきます。分かりましたら早めにご連絡ください。流れてしまうのを防ぐために貼り止めのお薬と、感染予防に抗生物質を出しておきますね」
「あの、もう望みはないと思って良いのですよね」
「そうですね。七週でこの大きさでは、まず無理です。胎児も見えませんし」
「分かりました」
 別室で看護婦から手術についての説明を受け、手術の書類と処方箋をもらって病院を出て歩いていると、涙があふれた。もう諦めるしかない。お腹が空洞になったようだった。まだいる。でももう育たない、赤ちゃんの細胞はどんどん劣化し、私の子宮を蝕んでいく。手術するしかない。

分かっている。でもどうして、先生は、たまたま弱い細胞がくっついただけだろうと言っていた。一人出産している事だと、筋腫の位置や大きさを見る限り、胎児側の原因だろうと。全ての妊娠の一割以上に起こる事だ。子たくさんの人なら一度や二度は流産しているとも聞く。普通の事だし、自然淘汰だ。頭では理性的に考えられても、考えていることは裏腹に体中に動揺が広がっていく。

 調剤薬局で薬を待ちながら、帰りに近くのカフェに寄って行こうと考えて、一瞬の後にそんな体じゃないんだと思いだした。家に帰って、弥生のお迎えの時間まで静かに過ごそう。お腹の子と過ごせる時間は限られている。ずっと、自分自身の状況や待澤や夫との関係について考えを巡らせてばかりで、お腹の子の事は考えられなかった。流産がほぼ確定した今、私はやっと、顔を見る事なく別れるであろう我が子に向き合えるような気がした。

 駐車場に戻る途中、ケーキ屋が目に入って、足が止まった。甘い匂いにお腹が疼く。私はまだ妊娠しているのだ。熱っぽいし、疲れやすいし、眠いし、いつもよりお腹がすく。でも少しずつその症状が弱まっているのも感じていた。

 家に帰ると、リビングに夫がいた。濡れた髪をタオルで拭きながら、ソファで雑誌を読んでいた。「ただいま。もういないかと思った」
「お帰り。早かったね」
「だって病院だもん。さっき言わなかった?」
「ああ、言ってたね。それ何?
「ケーキ。食べる?」
「ケーキ? 食べる」
 多めに買っておいて良かったと思い名から、ベリータルトとフランポワーズのムースをお皿に出した。二人でぺろりと食べ切ると、私たちは去年の友達の結婚式での、ケーキ入刀の失敗談を話して笑い合った。亮は結局、時間ぎりぎりまで家に居て、そろそろ行くわと少し慌てた様子で出かけて行った。一人になってすぐ、ドリーズに電話を掛けた。

今日、出来れば夕飯をお願いしたいんですがと言うと、保育士が調理師に確認を取ってから、大丈夫ですと答えた。夕飯は六時からという事で、七時まで延長をお願いして電話を切った。出来るだけ、安静にしていたかった。痛みはない。出血も、下着につく程度だ。でも私のお腹に根を張り踏ん張っている赤ちゃんに苦しい思いをさせたくなかった。

センチメンタルだろうか。でも母がセンチメンタルにならなかったら、誰がセンチメンタルになるのというのだろう。次に浜中さんに電話を掛けた。その電話には出ず、しばらくしてかけ直してきた浜中さんは、珍しいなあ電話かけてくるなんて、と何故か上機嫌に言った。

「来週木曜の撮影の事でちょっと相談したい事があって」
「うん」
「悪いんだけど、その日の撮影、日程変えてもらいたくて」
「え? 何、どうして?む
「実は不正出血と下腹部痛が続いてて、筋腫の事もあるから一度内視鏡検査をって先生に言われてて」
「大丈夫か? それで、検査が来週木曜?」
「うん、そこが一番早く検査できる日で」
「そうか、ちょっとネクストに聞いてみるよ。日帰りで出来るの?」
「うん。でも前後は出来るだけ安静にしたいから、水曜から金曜を避けて入れてもらえると助かる」
「付き添いは必要か?む
「大丈夫。お母さんに来てもらう」
「病院は?」
「聖星総合病院」
「そうか、分かった。調整してもらうよ。でも出血の事とか、もっと早く話してもらわないと困るよ。こうして直前になって迷惑掛けられるより。早め早めに言ってもらった方がこっちは対策を取りやすいだろ」
「ごめん。ちょっとナイーブな話であるから」
「そりゃそうだけど」
「悪いんだけど、この事お母さんくらいしか話していないから、ツダちゃんとか、社長とかには言わないで欲しい」
「取り敢えず、今の段階では言わないよ。でも何か、重大な病気が解ったりしたら真っ先に教えるんだぞ」

 うん、と明るい声を出して、電話を切った。親戚の危篤とか、葬式などよりも、実際の理由に近い噓の方がバレにくいと、融通のきかない事務所に所属し続ける中で学んできた。病院に電話を掛けると、水曜に手術をお願いしますと伝え、更に母親に電話を掛け、来週の木曜私の病院に付き合う事になっているから、と口止めをお願いした。十代の頃から私の嘘に付き合わされてきた母親は、珍しいね、と笑っただけで、理由は聞かなかった。ヒステリックだったり「がさっさ」だつたり、面倒な所はあるけど。何故か子供の悪事には寛容な母の存在が、どこかで心の支えになっているのを感じた。

 ベッドに横になると、私は待澤にメールを打ち始めた。今朝また出血があって、もう駄目だろうと言われた事、来週の水曜に手術の予定であることを書いて送信した。今日は土曜日だ。待澤は今、卓球に行っている。メールが返ってくるのは、多分夜だろう。今まさに、仲の良い同僚たちと卓球をしている待澤を思うと、本当に私は一人きりだという気持ちになった。

私はお腹の子に関して、一人で決着をつけなければならない。一度目は中絶、二度目は出産、三度目は流産。それぞれ別々の経緯を辿った妊娠だったけれど、そのどれもが、誰にも頼らず自分自身で乗り越えるべきものだった。少なくとも私は、三度の妊娠と、それぞれの結果を受け、その都度自分の人生が大きく変化したのを実感している。

 暗い部屋の中、お腹に手を当てていると宇宙にいるような気持ちになった。無重力の中で宙ぶらりんになって、揺れているようだった。今、死にかけている、或いはもう死んでいる胎児と私が一体化したと思った。

 一時間も経たない内に、私は待澤からのメールで目を覚ました。「そうか。残念だけど、仕方ないね。水曜、もし五月が嫌じゃなかったら付き添いたい。駄目かな? こういう時、一緒にいてやれないのが辛い。手術の前に一度会えない?」
 私は返信を打たず、携帯を枕の下に入れてまた眠りについた。

 弥生をお迎えに行き、帰宅した後も、私はソファで横になっていた。ちょっとお腹が痛いからねと言うと弥生は心配そうな顔をして、「大丈夫? 痛い?」と何度も覗き込んできた。私に乗ってきたり、体当たりをしたりという激しい遊びはせず、弥生は大人しくままごとをして、「はいごはん」「はいお茶」「はいデザート」「はいお薬」と次から次にお皿に食べ物の玩具を持って来てくれた。ちょっとお腹痛いから、今日はお風呂なしでいい? と聞くと、泣き出しそうな表情で、「弥生はお風呂入らない」と答えた。お風呂に入れない事ではなく、私に元気がない事が、私に元気がない事が、彼女には辛いのだろと分かった。

 寝かしつけている時、弥生は何度も「ママ抱っこ」と両手を伸ばしてきた。お腹を庇いながら、私は求められるだけ抱きしめた。横になって抱きしめていると、弥生のふっくらとした太ももがお腹に触れた。弥生がお姉さんになり、妹か弟の世話を焼いて得意げになっている姿が思い浮かぶ。私を取られたように感じてわがままを言ったり甘えたりしている姿も。弥生がお姉さんになったところを見たかった。弥生をお姉さんにさせてあげたかった。暗闇の中、小さな体を抱いて、私は赤ちゃんと弥生が戯れているビジョンを頭からフェードアウトさせていった。

 夜の十過ぎ、待澤から電話が掛かってきたけれど、私は迷うことなく無視した。暫くするとメールが入ってきて、話したいとあった。「今は一人で考えたい。明日またメール入れるね」。それだけ打ち込んで送信すると携帯をバッグに放り込んだ。私は今、待澤を全く必要としていなかった。相手が夫だったら、私は言葉を尽くしただろう。流産に関して考えてきた事、自分の中での感情の変化、喪失感、そこから見えてくる新しい世界、それぞれ時間をかけて話しただろう。

私は、夫にそれは単に一緒に暮らしているからとか。そうでなければ都合が悪いとか、そういう理由だけではないはずだ。私はなにか、どんなに言葉を尽くしても、待澤には絶対に私の気持ちや考えが正確には理解できないだろうという確信があるのだ。それはもしかしたら、共に我が子の誕生を目の当たりにし、育てていくという共同作業を経る事でしか培えない関係性があるという事なかもしれない。

もちろん、結婚して一緒に生活していく中で、そういう関係性は築いていけるはずだ。でも今、子供を持った事も育児をしたことも結婚もしたことのない待澤が、私の気持ちをどれだけ誤解なく理解してくれるだろうか。きっと待澤は私に同情し、私を慰めようとし、抱きしめ、どうにか私の傷を癒そうとするはずだ。でも私はそんなものは求めていない。彼が私を慰めようとすればするほど、私は自分が彼の好きな気持ちを見失ってしまうような気がした。携帯はまたすぐにメールの受信を告げたけど、私はなかなか見る気になれない。

 手術前々日、私はいつものホテルのレストランではなく、以前住んでいたマンションの近くにある、和風創作料理店の個室にランチの予約を取った。多少のリスクを冒せば、これまでだって色々な所に来れたはずだった。でも私はリスクを冒さず毎回同じレストラン同じホテルに予約を取った。それはある意味、強制的なマンネリであったかもしれない。私の方から、待澤とどこか行くための努力をするべきだったのかもしれない。自分から食事や旅行に誘う事などできない状況に、待澤は置かれていたのだから。

 ここでどっと流産が始まったら大変だ。そう思って、個室に入る前にトイレの場所を確認しておいた。待澤からは、十分くらい遅れるとメールが入っていた。手持ち無沙汰で、携帯を取り出すとデータのアイコンをタッチして、「Yayoi」というフォルダを開いた。弥生の写真をスライドさせ一枚一枚見つめていると、数時間前まで一緒に居たはずの弥生がもう随分と遠い存在に見える。

移動中や、私はこうして弥生の画像を見つめる。気持ちも落ち着くとか、がんばろうと思えるとか、そういう事はないし、日常生活で最も多くの時間を共に過ごしている人を、一緒にいない間も見てしまうというのは不思議な事ではあるけれど、何故か見てしまう。それはただ単に、可愛いからだろう。可愛い猫がここに居たら、きっとじっと見つめてしまうのと同じように、可愛いものはいつも人の視線を奪う。

どうやっても、私にとって最も可愛い人は、男でも自分でもなく弥生なのだ。突然、画面が切り替わって着信を表示した。夫からだった。一度辺りを見渡しから通話ボタンを押した。今から食事でもどう、なんていう電話だったらどうしよう。今どこにいると聞かれたら、何と言おう。色々考えながらもしもしと言うと、さっき松川さんの奥さんから電話が来て、五月からホームパーティの返事が来ていないって言っていたぞ、と亮は苛立ち混じりにまくし立てた。彼はその日行けないから、とだけ言って私の返事も聞かず、亮は電話を切った。松川さんの奥さんに電話を掛けてみる気になれず、私は再び弥生の画像をスライドさせ始めた。

「ごめん待った?」
 待ち合わせ時間を十五分過ぎ、待澤が爽やかな笑顔を浮かべて個室に入ってきて向かいに腰を下ろした瞬間、やっぱり会っておいて良かったと思った。絶対に会いたい、会っておきたいと気持ちと同時に、会うべきじゃないかという疑いが消えなかった。でも待澤の姿を見た瞬間、私は愛おしさと安堵に包まれた。前は、夫と居るときは待澤の事を考え、待澤と居る時は夫の事を考えていた。でも妊娠が分かってからは。目の前にいる人が全てのように見える。

今私の目の前にいて、今私の体に触れる可能性のある人以外は、ほとんど無意味の存在に感じられる。今日待澤と別れたら、きっと私は待澤の姿が見えなくなった瞬間、次に待澤と会うのが億劫になっているだろう。

 泣くかもと思ったけど、待澤と話しながら、私は一度も泣かなかった。軽い食事を終え、隣に座って手を握って待澤に寄りかかって、私は泣かなかった。待澤は、流産しても結婚するという前提で話していた。子供が駄目になったから結婚しない、と言うようなタイプでない事は分かっていたけど、流産がほぼ確定した今、私は夫とやり直していく道を考え始めていた。そして同時に、同じくらい待澤との新しい生活を心待ちにしてもいた。

幸せになろうねと言う待澤に、私は微笑で頷いた。でも手術をした後、私は夫に離婚を言い出せるだろうか。妊娠が分かって、待澤結婚しようと言われ、やっと離婚を決意しても尚、私は言い出すことを躊躇していた。手術をして。待澤の子がお腹から消えたら、もっと言い出せなくなるだろう。でもだからといって、まただらだらと不倫を継続させていくのだろうか。問題は私に結論を出すだけの意志がない事だ。私が、誰かの流れに身をゆだねる事しか決定できない事だ。

「水曜日、いいよ。忙しいんでしょ?」
「もしかしたら、気が変わるかもしれないだろう。やっぱ来て、ってなった時、行けるようにしておこうと思って」

 待澤は、既に水曜は休講にしたと話していた。それを聞いた瞬間、私は彼が頼もしいと感じると共に、そこまでされてもという気になった。お前は、自分をどれだけのものだと思ってるんだという気にもなった。私はあなたの子を妊娠しただけであって、まだ生まれていない以上あなたは私の子供の父親じゃない、そんな傲慢な思いがあるのだろうか。彼はお腹の子の父親なのだから、私と同じように子どもの死を悲しむ権利がある。

私はそう思えない。それに、彼は悲しみをどうにかしようと思っているだけであって、子供自体についてはそこまで考えが及ばないはずだ。彼はお腹の子を見たこともなければ、触れた事もないし、私の口頭で妊娠の事実を知っただけだ。全て私が狂言である可能性も、彼は未だに抱えているのだ。

「そうかもしれないけど、分かんないな、一人の方が気楽なのかも」
「そう思ったら、そう言ってくれればいい。子供の事は、仕方ないんだろうけど、五月が心配なんだよ。自棄になっちゃったりするんじゃないかって。五月が、強いタイプの女じゃないってことは、分かっているから」

 ああと思った。彼は、昔の私の姿を拭切れていないのだ。確かに十代の頃、精神的に弱いタイプの女だった。恋愛にのめり込んで仕事をドタキャンする事もあったし、嫌なことがあるとすぐに逃げ出して、いつも母親や事務所に尻拭いをしてもらっていた。でも私は今、一時の母だ。待澤は、女が母になる事の意味を分かっていない。

例えば私に子供が居なかったとしたら、子供が出来た事を待澤と同じように喜び、子供が駄目になりそうな事を待澤と同じように悲しめたかもしれない。でも今、私は待澤の言葉に違和感を抱いてしまう。私は自棄にならないのではない。もう自棄になれないのだ。弥生という存在が、もう私を錯乱や自殺へは向かわせてくれないのだ。

「何か、波があって、ああもう駄目だ死にたいって気持ちになる時と、まあ仕方ないよねって気持ちになる時とあって、今は仕方ないって思っている。まあ、駄目かも駄目かも、って思ってて、駄目ですと言われたから、少しずつ生殺しされていった苦しみもあったけど、突然駄目ですって言われるよりは心構えが出来ていたのかも。当日とか、術後にぶれる事もあると思うけど、でも乗り越えるしかないからね」

 言いながら、私は自分の話す言葉以上に自分が落ち着いているのを知る。自分の中で起る感情の爆発とか雪崩みたいなものも、この歳になると自分で何とか出来てしまうもので、大泣きしても激怒しても、一日たてば大抵受け入れてしまうという、そういう人間になった事を感慨深く思った。誰かに話したり、誰かに責めたり、誰かに縋りついたり、誰かを怒鳴りつけたり、そういう事をしなくなって自分の中で静かに苦しんで悲しんで、暫くすれば何となく受け入れている。

十代で中絶をした時、私は本当に気が狂ったかと思った。彼氏も家族も巻き込んで、大変な迷惑をかけたし、自分自身も本気で何度も死ぬと思った。でも今、私は自分一人で子供の流産を受け入れる事が出来ている。もし私に子供がいなかったら、私はもっと絶望的な気持ちになっていたかもしれない。でも子供がいて、出産の苦しみも喜びも知っていて、育児の大変さも知っている。

子供という現実を経験していく中で、私自身が崩壊するような感情を失っていったんだろう。昔は、皆に迷惑を掛けた。多分どこかで、迷惑を掛けても当然だと思っていた。過剰な自己愛、私を利用する大人たちへの苛立ち、破滅的に生きたいという願望と、そういう私を受け入れ責任を取ってくれる人いるという安心感、そういうものに溺れて、私は好き勝手に生きていた。でも今、私は自分自身の問題を他人に転嫁できない。なんて悲しい事だろう。今、私は私の責任の下でのみ、私として存在し得る。

「そうだ、これ書いてもらえない?」
 私はバッグの中から手術の同意書を出した。全身麻酔のため、家族による同意が必要だった。
「ああ、いいけど、俺の名前じゃ駄目なんだよね?」
「うん。家族じゃないと駄目なだから父親の名前を書いて、電話番号は待澤の書いてくれない?」
 夫の名前を書いてもらうのは抵抗があった。私は紙ナプキンにもう一年以上会っていない継父の名前を書いて待澤に差し出した。
「もし手術中に何か問題が起きたら、待澤に連絡がいくからね」
「大丈夫なんだよね? そんな大変な手術じゃないんだよね?」
「大丈夫大丈夫。まあ多分、この手術内容以外の事をするためには、同意が必要なんじゃないの?」
「そっか。何か、心配だな」
 大丈夫だよと言うと、本当に自分が、手術に関してそこまで思い悩んでいないのだと思えた。私は、何だかんだ言って、割と平気なのだ。手術までの間に一度か二度は驚くような感情の波に晒されるだろうと思っていた。でもそこまで大きな波はなく、私は落ち着いていた。若い頃の中絶のショックが、イメージとして強く残っていたせいかもしれないのだろう。もっと悲しかっただろう。夫には、涙を見せただろうか。慰めを強要しただろうか。

 手術までは私服で過ごしてもらうと言われていたため、コットンのトップスとシルクジャージーの柔らかいスウェットパンツを着て、対のパーカーを羽織った、夜用のナプキン、眼鏡、手術の同意書、待ち時間のために一応文庫本も用意し、いつもも付けている結婚指輪とネックレスは外してポーチに入れた。起きた時、寝ぼけたまま水やお茶を飲んでしまうんじゃないかと心配だったけど、何も口にしないまま、私は支度を終えた。昨日の残りを使ってアサリの酒蒸しの卵とじと、玄米、味噌汁と漬物を用意すると、弥生を起こして食卓に座らせた。

いつも、弥生の食べ残しをぱくっと食べてしまう癖を思い出して、私は食卓から離れて弥生の持ち物を支度した。昨日、母親に保育園のお迎えを頼めないかと電話したけれど、こういうときに限って友達と食事に行くからと断られた。さすがに術後その足で弥生を迎えに行くのは辛いだろうと、最後の手段でハナちゃんに「急で申し訳ないんだけど」と電話を掛けると、お迎えから寝かしつけまでだったらぎりぎり何とか、と承諾してくれた。
「ママー」
 ごちそうさまして、お皿を下げ終えた弥生が、ソファに座る私の足元にやって来た。
「どうしたの?」
「ママにごろんってしたいんだよ!」
 弥生は甘えた声を出して、私の太ももに顔を押し付けた。おいで、と手を伸ばすと弥生はソファに上り、ごろんと寝そべって私の膝に頭を載せた。二人になるはずだった子供、弟か妹が出来るはずだった弥生。新しいパパが来て、子供が産まれ、四人になるはずだった家族。二人の新しい家族を迎える時、私と弥生は互いに協力し合い支え合う心強いパートナーとなるだろう。リビングを見渡して、最後に私を見上げる弥生の顔をじっと見つめる。

「ママ、まだお腹痛い?」
「うーん、ちょっとね」
 弥生を起こし、手を伸ばしてきたのを見て腰が引けた、子供は、突然物凄い力で突進してきたりぶつかってきたりすることがあるのだ。びくりとしつつも逃げずにいると、弥生は私のお腹に手を当て、ゆっくりとさすり始めた。
「ママ、良い子良い子」

 レースのフラットカーテンを通して、細長い光が差し込むリビング。フラッシュが焚かれたように呟く温かいリビング。ママ、大丈夫だからね。弥生の声がふんわりと私を包む。ありがとう、そう言って弥生の頭に手を載せる。私を見上げた弥生の目が、分娩台の上で初めてその体を胸に抱いた時眩しそうな表情で僅かに開いた瞼から覗いたその目と同じであるのだと思い出し、強烈な喜びが襲った。
「ママ病院行く?
「行くよ。すぐに元気になるからね。そしたらまた遊ぼうね。一緒に公園行こうね」
 やったとあと声を上げて笑う弥生を抱きしめ、時計を見上げた。十時に病院に行き、十二時過ぎに手術開始、多分私は三時間くらい麻酔で眠って、起きて暫く回復を待ち、夕方診察を受けて美容院を出るだろう。さっき、待澤からメールが入っていた。病院の最寄り駅にいるから、もし会いたくなったら電話してとあった。弥生を保育園に送った後、私は待澤に会うだろう。

私たちは車か、あるいはどこか人気の少ない喫茶店かで向き合い、待澤は優しい言葉を口にし私のお腹に手を当てたりするかもしれない。そして私その姿を見て冷め、同時に救いを感じるだろう。診察台で子宮口を開くためにラミナリアを挿入された後、個室で手術を待ちながら、私は多分、夫の事を思うはずだ、まだ家で寝ているはずの、亮の事を頭に思い浮かべるはずだ。声を聴きたいと思うかもしれない。電話を掛けたいかもしれない。何気ないメールを入れようと、メールを打ってみたりするかもしれない。

でも私は亮に電話を掛けないし、メールも入れないはずだ。待澤にも、電話もメールもしないはずだ。私はその時、そういうあれこれを考え尽くした挙げ句、神聖な気持ちにこれから剝離される子供との残された時間を過ごすはずだ。お腹に手を当て、深呼吸をし、胎児と自分が繋がっているのを深く実感する。

 弥生を強く抱きしめながら、私はそうしてこれからの今日一日に思い馳せた。全てが愛おしかった。陽の光も窓から覗く青い空もいつものリビングも、腕の中の弥生もまだ眠っているであろう亮も私を待っている待澤も、失うものも、うしなわないものも、全てがかってなく、輝いていた。清々しかった。私は幸せだった。こんなにも心が穏やかかな日は、生まれて初めてかもしれないと思うほどだった。
つづく第九 ユカ
キーワード ギャル系ショップ、肌は黒く髪は金、デコネイルにギャル服、誕生日パーティ、ツリーを乱用、ドラッグSSR1とMDMA、小説を書いてきた、