腕は筋肉痛。手首は腱鞘炎。腰も軋んでいる。寝不足と過労で足がふらふらする。体が疲れ切っていて御飯が食べられない。御飯が食べられないせいで母乳の出が悪く一弥の機嫌が悪くなる。泣き止ませるために抱っこする。筋肉痛も腱鞘炎も悪化する。御飯が食べられないどころか何も食べていないのに吐き気がする。

本表紙 金原ひとみ著

第七 涼子

差し込み文書

早育の中高校生カップルの性

セックスすると、相手のことが好きになる。最初はためらいながらセックスして、次第にためらいがなくなっていって、それと共にどんどん好きになる。ためらいがなくなった先には惰性があって、惰性になると関係もセックスも惰性になる。それで好きなのかどうなのか分からなくなって、早育の中高校生カップルは浮気や些細な喧嘩がきっかけで別れる。

恋愛の先に心も躰も満たされる楽しい快感を得られその先に結婚であるという甘い考えは非常に危険である。夫をいくら愛していた妻でも子が産まれると母性に変化する。夫が父性に変化しないことに妻は失望しつつ、恋愛時と同じ態度でセックス快感を求め続ける夫にやんわりと拒否しつつそれは結婚の義務と諦め、早く終われと演技する。或いは逆の場合もあり二人が心から淫蕩し満足し合えず次第に不機嫌さ増していき浮気・不倫というセックスレスの原因が発生する。

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 泣き喚く一弥に馬乗りになり、両手を脚で挟み込む鼻吸い器の先端を一弥の鼻の穴に差し込みチューブを咥え、一気に吸い込むとずずずずという音ともに鼻水がタンクの中に移動した。もう片方の鼻の穴からも吸引して、脚の力を緩めて解放すると、一弥は抗議するように泣き声を上げハイハイで私から離れた。鼻吸い器を使い始めてまだ数日だというのに、一弥は鼻吸い器を見ただけで逃げ出すようになってしまった。

 保育園に通い始めて一ヶ月、二回目の風邪だった。保育時間は当初の五時間から一時間ずつ増やし、今では七時間の契約にしているが、それに比例して一弥の通院回数が増加しているのは明らかだった。治るまで保育園には行かせない方がいい、他の子に移してしまうかもしれないし、風邪に加えて他の病気まで貰ってきたらどうするんだ。浩太の主張は正しいかもしれない。でも保育園ではほとんどの子が鼻水を出している。

やっと完治させて連れて行ったとしても、またすぐに風邪を貰って来る可能性は高い、浩太は、私が働いていない事を負い目を感じているため、強くは反論できないと知っていて保育園を休ませろと言っているのではないか。浩太がいる時に、一弥が咳をしたり鼻水を垂らしてるとどきっとする。

保育園批判、保育園に子供を預ける私批判が始まるのではないかと、私は浩太を盗み見て身構える。保育園を利用する口実が必要だ。仕事があるから、という口実が。一弥が二度目の風邪をひいてから、私は本格的に自宅周辺にあるバイト募集中の張り紙を見比べるようになった。

 一弥が機嫌を取り戻し、テレビの前に戻って遊び始めた時、充電器に挿していた携帯が鳴った。
「五月と三人で食事の件だけど、五、七、十三のどこか空いている? お泊まり前提な感じで」。ユカからだった。三人で食事しようと提案された時は盛り上がったけれど、今はそれほどの熱はない。ハロインパーティの時、はっきりと自覚した。私と彼女たちとの間には大きな壁がある。あの高級マンションの中で、私一人が激しい疎外感を抱いていた事にユカは気づいていない。

私はユカと五月さん以外の知り合いが居ないというのに、ユカは自分の知り合いと話をしてばかりでほとんど私をほったらかしにして、五月さんの方が気を遣って私の相手をしてくれていた。元々無神経だとは思っていたけれど、ここまでとは思わなかった。ユカと再会してから、彼女に付き合ってネイルサロンとスパとショッピングに行った。スパや食事は奢ってくれたけど、これいいよこれもいいよと次々勧めてくるボディケア用品や洋服を断ち切れず、封印していたクレジットカードを使う羽目になった。

十個百円パックを求めて遠くのスーパーに通っていた私が、百五十グラムのボデイケアに六千八百円。卵三個分ほどの量のボデイクリームで卵六百八十個の金が消えた。馬鹿みたいだ。今度一緒に美容室行こうよ、傷んでいるとこ切ってトリートメントしてもらうだけで全然違うよ、

子供と一緒だとお風呂ゆっくり入れないじゃない? 脱毛するとムダ毛の処理しなくていいから楽だよ、私の行っているとこ紹介で入ると二人とも割引になるんだけどどう? 涼子はもっと大人っぽい服の方がいいんじゃない? クロエとかケンゾーとか似合うと思うよ。ユカはそうして無神経な善意を押し付けて私を追い詰めていく。

 先月の保育料は六万円を超えた。人のせいにするつもりはないけれど、ユカの「延長すればいいじゃん」という言葉が免罪符となってためらいが薄れているのは事実だ。長い時間預けているわけでもないのに六万円を超える保育料にはさすがに閉口した。明細書を何度も見返した挙げ句、浩太には金額を言い出せず、ダイニングの戸棚から出産祝いを引っ張り出し振り込み行った。赤ん坊の誕生を祝うお金で、母親がその赤ん坊と離れる時間を買うとは、皮肉な話だ。

 子持ちの専業主婦である私に夜の予定などある訳がない。五日も七日も十三日もいつでも空いてますよ、そう返信してしまいたい気持ちを抑え、「だったら七日がいいかな」と返信した。送信しましたというメッセージが出た瞬間、強烈な憂鬱が襲った。私は行きたくないのだ。食事会に行きたくないのだ。ユカの虚ろな目が頭に浮かぶ。「今、見た?」と言うユカは明らかにラリっていた。

 知り合った頃から、ユカは薬を乱用していた。抗鬱剤や睡眠剤などの処方薬から、MDMAやマリファナなどドラッグまで、常に多種類の薬を持ち歩いていた。薬の使用や入手方法について、何で、どうして、どうやって、という問いにユカは答えた事はなかった。ユカは薬とドラッグについて、恐らく高校一年の時彼氏の次に多くの時間を共にした私に対しても口を閉ざしていたのだ。

そうして私の干渉を拒んでいたにも拘わらず、クラブに行くとユカは必ず私にMDMAを手渡した。飲んだ振りをする時もあったし、本当に飲んだ時もあった。このままユカと一緒にいたら自分は駄目になる。そう思った一因はドラッグだったはずだ。ドラッグをやっている時、ユカはさほど普段と変わらないように見えた。でもよく言っていたのだ。彼女はラリっている時、しょっちゅう「光ってる」「光ったよね?」「私光ってる?」などとしつこく光がどうのと話していたのだ。

ハロウィンパーティの時にユカが空を見上げて発した言葉は、フラッシュバックのように私に過去の記憶を見せた。ユカドラッグをやるタイプの子だという事は覚えていた。でもユカとの決裂のきっかけとなった出来事を、その時ようやく思い出した。

 高一冬だった。私たちはMDMAが抜けきれないままクラブを出て、駅の近くで始発を待とうと歩いている途中、三人の男達にナンパされた。いかにも遊び人風な外見に懸念を示した私のアイコンタクトをあからさまに無視して、ユカは一人の男と手をつないで私の先を歩いた。公園で飲みゲームを続け、安物のウィスキーをたらふく飲まされ、自分が立てなっていることに気づいた頃、ユカはトイレに行くと言ってその場を離れた。

ふらつくユカに、一人の男が付き添った。それから数分後、空が明るみ始めた繫華街の外れにユカの大声が響いた。何を言っているのか聞き取れないほどの激しい罵声が数十秒続いた後、元々そんな声はなかったかのように、静かな空気に戻った。

ユカはそれっきり戻ってこなかった。私は残っていた二人の男にマワされ、意識を取り戻した時公園の草むらに寝ていた。ハッとしてバッグを探して、財布と財布の中身を確認して、その後携帯を確認した。近くの公衆トイレで息んで精液を出してから、激しい二日酔いに顔を歪めたまま、私は帰路についた。

 次の日電話を掛けて来たユカは、あの男がトイレで襲ってきたから拒否って帰った。と話し、「涼は? ヤッた?」と聞いた。私は「ヤッたよ」と答えて、しばらく下らない話をしてから電話を切った。あれが決定的だったのだ。えーヤッたの? どっちと? 両方? と明るく聞くユカが、私には受け入れられなかった。

私を置いていったユカを責める気はなかったけれど、少なくとも私はユカの渡したMDMAで前後不覚になり、ユカがついて行ったから仕方なくナンパについて行き、ユカが上手い事を言って一気に拒んだせいで、その分私が、飲まされる羽目になったのだ。はっきりとしたきっかけとして自覚している訳ではない。でも私は明らかにあれ以降、徐々にユカを避けるようになっていった。

ユカもきっと気づいていたはずだ。でもユカはあの日の事についてそれ以上何の言及もしなかった。ヤッた? ヤッた。という言葉で、彼女の中では完結したのだ。あの時ユカと距離を取った事が間違っていたとは思わない。じゃ今私がユカと付き合っているのは何なのだろう。

あの時、私はユカを拒絶する事が出来た。でも今、救いのない状況で、私はユカを必要としてしまっているのかもしれない。そしてユカは、そういう私の状況に付け込んでいるのかもしれない。被害妄想が過ぎているのだろうか。私は大きく息を吐いて携帯を充電器に戻した。

 深夜、一弥の泣き声で目を覚まし、起き上がって胸を出し、吸いつかれた瞬間嫌な予感がした。一弥のおでこに手を当てると、確かにいつもより熱い。下半身から焦りがこみ上げてくる。明日は保育園に預けられないかもしれない。乳を含ませたまま立ち上がり、ダイニングの戸棚から体温計を取り出しベッドに戻った。脇の下に無理矢理押し込むと、一弥は体温計を外そうともがき、とうとう乳首を口から離し泣き叫んだ。

浩太は起きない。一ミリも動かず眠っている。一弥をあやす振りをしながら軽く蹴ると、浩太はもぞもぞと寝返りを打ち私に背を向けた。騙しだまし一弥の腕を押さえつけていると、体温計が鳴った。38・5℃。熱を出したのは二回目で、前回は37C前半までしか上がらなかった。

保育園の規則では、38℃を超える発熱がある時は預かれない事になっている。どうしたら良い。どうしたら。悩みながら、どうせ一弥を預けても、私は動画に映る一弥を見続けているだけだと思いに至る。仕事をするわけでもない。自分は空っぽなのだと気づいた私は、力尽きたように反対側の胸を出し、一弥に差し出した。

 二日保育園を休ませた。三日目の朝、一弥の熱は37・4℃まで下がっていた。今にも爆発しそうな爆弾を抱えているような緊張感だった。私はこの爆弾を保育園に預け、逃げるようにして帰宅するだろう。まだ眠っている一弥の脇の下から体温計をゆっくり抜き取り、私は先にベッドを出た。
「おはよう」
「ああ、起きたの。一弥どう?」
「三十七度一分」そう。じゃあ今日もお休みだね」
「七度一分だよ?」
「だって、ちゃんと熱下がってないじゃん」
「三十八度以下だったら預けられる事になってるけど」
信じられないと言わんばかりに、浩太は口を開けたまま私を見つめた。
「風邪を引いている子を預けるの、可哀想だと思わないの?」
 私は黙り込んだ。この人は何を言っているのだろう。
「一弥はまだ十ケ月だよ? この間一緒に見たじゃない、急性脳症のドキュメンタリー。一弥が取り返し付かない事になってもいいの? 子どもはあっという間に熱が上がっちゃうんだよ? 保育士が一弥の変化に気づけると思う?」
 頼るものは何もない。
「一弥守れるのは涼子だけなんだよ。それは涼子だけに与えられた特権なんだよ」
 ここは奈落の底だ。「今週いっぱい休ませた方がいいよ」

 私は今日も一弥と離れられない。地獄という特権を与えられ喜べと言われている。涙も出ない。一昨日行った小児科の先生も、熱が下がりきるまで保育園には行かせるなと言った。彼らは「保育園に行かせるな」の一言で済むが、私はその一言で一日中一弥と付きっきりなって看病、育児をしなければならないのだ。

小児科の先生は保育園に預けている話した時明らかに私に軽蔑の目を向けた。先月、保健所で予防接種を受けた時も、保育園という言葉を発した瞬間医者と看護師が私を白い目で見た。働くは母親がこんなに増えた世の中でも、こんなにも保育園に無理解な人が多いのだ。彼らはそうして母親に罪悪感を植え付ける。浩太も医者も世間も、お前は駄目な母親だとレッテルを貼る。

 体中が絞られた形でからからに乾ききったぼろ雑巾のようだった。腕は筋肉痛。手首は腱鞘炎。腰も軋んでいる。寝不足と過労で足がふらふらする。体が疲れ切っていて御飯が食べられない。御飯が食べられないせいで母乳の出が悪く一弥の機嫌が悪くなる。泣き止ませるために抱っこする。筋肉痛も腱鞘炎も悪化する。御飯が食べられないどころか何も食べていないのに吐き気がする。

永遠にこのスパイラルが続くような気がした。砂のように崩れ落ちる自分の身体が頭に浮かぶ。私は育児マシーンではない。私は一弥の餌槍マシーンではない。一弥を生かすためだけに存在しているのではない。私だって生きている。人としての尊厳が欲しい。僅かな尊厳が欲しい。

 浩太を送り出すと、目を覚ました一弥にご飯を食べさせ、化粧もせず一弥をスリングに入れて家を出た。大通りで乗ったタクシーにドリーズ近くの交差点の名前を伝える。カーナビには8:15と出ている。契約は九時からだったけどもうそんな事はどうでも良かった。四十五分ぶんの延長料金、千五百円で一人の時間が買えるのだ。体温の欄に三十六度九分、と噓を書いた連絡帳を渡し、「何かあったら連絡ください」と言い残して逃げるようにドリーズを出た。

建物を出た瞬間浮かぶ上がりそうなほど体が軽くなった。そうだ私は今、自分の体に溶けていた九キロの肉の塊を切り離したのだ。足が地面を踏み歩いていると思った。私は久しぶりに蘇った現実感に沸き立つ喜びを抑えきれず、帰りの途中カフェに寄ってモーニングを食べた。美味しかった。生きていると思った。

私は生きている。その実感が私の存在を強化しているようだった。自分には何でも出来るような気がした。今私は育児以外の事なら何でも出来る。でも私には育児はできない一点のみで随落した女という烙印を押される。墜落した女でいい。皆から罵倒され否定されてもいい。味方はいない。

私は一人で生きている。手を差し伸べてくれる人はいない。結論が出るとすっきりした。誰かの理解や支えがなくとも私は一人で生きていける。そう思った。

 帰宅すると、パソコンをローテーブルに置きドリーズの動画を開いた。一弥は元気そうだ。保育士に抱っこされにこにこ笑っておもちゃで遊んでいる。ほら見ろ。何でもない。大丈夫じゃないか。私以外の人が見ていても、一弥は何不自由なく育っていく。私が居なくたって、私が死んでしまったって、一弥は死なない。きちんと育っていく。私と一弥は別人だ。

 昼過ぎ、冷凍の唐揚げを四つ食べ終えた頃、電話が鳴った。私は携帯に浮かび上がった「浩太」という名前を見て動揺した。一弥は昼寝していると言えばいいんだと、無理に気持ちを落ち着かせ通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「もしもし一弥は?」
「うん、今お昼寝してる」
「ドリーズに預けてるだろ」
 凍てつくような恐怖が襲った。
「動画見たら一弥がいたぞ」
「浩太が会社行った後、六度台まで下がったの。だから預けたの」
「今お昼寝してるって噓ついたのは何なんだ」
「ドリーズでお昼寝してるって事だよ。私だって動画見てたんだから」
「今週は行かせない方がいいって言っただろう。涼子はいつもそうやって噓ついてるのか? いつも俺に噓ついてこういう事をしてるのか?」

 いつになく荒々しい口調に、私は次第に冷めていく。浩太は敵だ。私から自由と尊厳を奪う敵だ。
「うるさいっ!」
 私は大声を上げた。そもそも何で動画なんて見てるの私の事信用していないって事なの私は行かせないって言ったんだからそれを信じて見ないはずじゃない、私は浩太が帰ってきた後にきちんと熱が下がった事も一弥が元気だった事も説明しようと思ってた浩太が私を信用しないせいで全てが駄目になるそもそも電話の一声で一弥は? って何なのドリーズにいると知ってるなら何でドリーズにいるんだって最初から聞けばいいじゃない浩太のやり方は汚いよ私を陥れるような言い方をして噓つき呼ばわりするなんてひどいよ浩太は卑劣だよ。

言葉を挟ませずそう言い切ると電話を切った。どっと涙が溢れた。悔しさのあまり金切声を上げ、ドリーズのカメラの操作権を取得してお昼寝をしている一弥の顔をズームの+ボタンを連打した。画面いっぱい広がった一弥の顔を撫でる。携帯が鳴っている。私は無視してパソコンの中の一弥に愛していると叫んだ。愛してる。こんなにも愛しているのにみんな私を批判する。私の何がいけないんだ。私の何が悪いんだ。精一杯努力しているのに! 

私はパソコンを閉じ、顔を洗いに行った。冷たい水で涙と鼻水を流すと、腫れた目を擦らないようにタオルを押しつける。凶暴な動物が体の中で暴れているようだ。必死に取り押さえようとするが途中で力尽きる。ぎゃーっ。声を上げて叫ぶ。背中が壁に当たった。洗面所が揺れた気がした。どしんどしんと床が踏む。

凶暴な動物は動きを止めない。壁にぶつかり足が壁を蹴りピンボールのように洗面所中を飛び跳ねぶつかり続ける。動物が動きを止めた時。私は体中に痛みを感じながらへたり込んだ。おでこを強く床に押しつけ、床に向かって呻き声を上げる。誰か助けて! 言葉にならない言葉が叫びとなって口から漏れた。

何で私はこの世界に生きているんだ。この世界の入り口に誘ったのか。私は一度でもこんな世界を望んだ事はなかったはずだ。這うようにしてダイニングに戻ると、携帯を開いた。着信履歴には浩太からの着信の間にドリーズからの着信が入っていた。「ドリーズルームの矢田です。かずちゃんが午睡の途中でひどく泣き始めたので、熱を測ったら37.・8℃ありました。ご連絡頂ければと思います」留守電にそう入っていた。矢田さんの声の向こうに、狂ったような一弥の鳴き声が響いていた。私は発信ボタンを押した。

「もしもし、中山一弥の母ですが」
「ご連絡ありがとうございます。矢田です。かずちゃん、午睡前は機嫌が良かったんですが、午睡中に突然わっと声を上げて泣き始めまして、三十八近い熱だったのでご連絡させていただきました。早めにお迎えに来られそうですか?」

「多分‥‥一時間から一時間半でお迎えに行けると思います。
「そうですか。すいませんが宜しくお願い致します」
 電話を切ると、私はその場にうずくまった。自由が欲しくて一弥を保育園に入れた。でも自由は手に入らなかった。自由を手に入れる自由を、私は出産したその瞬間に失ってしまったのかもしれない。もう二度と私は自由を手に入れる事はないのかもしれない。

 あと一時間したら支度を始めよう。時計を確認すると私は考えを止め、一言ごめんとだけ打ったメールを浩太に送信した。

 えっ、中耳炎? 電話の向こうでユカが間の抜けた声を上げた。
「そうなの。ものすごい泣き方をしてて、おかしいなとは思ってたんだけど、昨日起きたら耳垂れが出てて」
「あー、うちも零歳の頃こじらせたよ。耳垂れ出て、抗生物質飲ませて、良くなったと思って抗生物質切った途端にまた耳垂れ、みたいな感じで三ヶ月くらい続いた。耳鼻科は何て言ってんの? 抗生物質出された?」
「うん。今飲ませてる。取り敢えず、二日に一回くらい鼻水と耳垂れの吸引に来てくださいって」
「うちも三ヶ月週二ペースで通ったぜ?あ のさあ、素人考えだけど抗生物質長めに飲ませた方がいいよ。ちょっとでも膿が残っている状態で抗生物質切るとまた、二、三日で膿が溜まって鼓膜破れちゃうから。長めに飲ませて一回きちんと完治させた方がいいと思う。繰り返すと癖になっちゃうっていうし」
「りんちゃんは? 今でも中耳炎になる?」
「うちはもう耳痛いって自分で言えるから、そしたらそっこうー耳鼻科行って鼓膜敗れる前に抗生物質で叩くようにしている。でももう半年くらいなってないよ」
「それで、保育園ってどうしてた? 耳垂れ出てる間って、預けたいいの?」
「預けたよ。別に中耳炎だと預かれないっていう規則はないみたいだし。細菌感染だから他の子に移る可能性は出るかも知れないけど、もう仕方ないよねそれは。まあでも、今は穴開いてて痛くない状態なんでしょ?」

「そうなんだけど、すぐ塞がっちゃうんでしょ? 塞がった時まだ赤かったら鼓膜切るって言われたんだけど、どうなの? 痛くないのあれって?」
「痛がるけど、やった方がいいと思うよ。腫れてる時、すごく泣くでしょ。一瞬痛い思いをさせて、あと楽に過ごせた方が早く綺麗に治るんだってよ」

 一通り中耳炎のアドバイスを聞いた後で、そんなわけでちょっと七日は無理かもというと、かずちゃんが大丈夫そうならないうちは構わないよとユカは言った。
「五月にも意見聞いてみるわ。中耳炎くらいでそんな過敏になる事はないよ。旦那とかあがうるさく言う?」
「言う。もう保育園辞めさせた方がいいんじゃないかとまで言ってる」
「そうなんだ。確かに喋れない赤ん坊が痛がっている姿って見てて辛いけど、三歳までの記憶なんてなくなるんだから、気にしない方がいいよ」

 またメールするねと言うユカにありがとうと返した。電話も切って、随分と気が楽になっているのに気づく、三ヶ月中耳炎をこじらせたという話は恐怖だったけれど、切羽詰まっている時にあの「がさつさ」に触れると心が穏やかになる。でも彼女との間に横たわるある種の理解を、浩太と共有する事はできないだろう。三歳までの記憶なんて無くなるんだからと言えば、本気で言ってるのかと浩太は目を見開くだろう。

いい気なものだ。自分は病院にも連れて行かず薬も飲ませず看病もせず「こんなに小さい子が苦しんでいるのを見るのが辛い」と眉をハの字にしていれば良いのだから。週に二回も三回も病院へ連れて行き毎回一時間近く待たされ泣き喚く一弥を抱っこして汗だくになって診察を受ける更に薬局で再び二十分以上待たされて薬を貰いへとへとになって帰宅して家事をして泣き喚く一弥を押さえつけ鼻水を吸い取ったり薬を飲ませたりしなければならないこの大変さを理解していない浩太に、一体どんな発言権があると言うのだろう。

抗生物質を飲み続け、耳垂れも鼻水も止まったため保育園に預け始めたら再び鼻水を出し始めた。そんな矢先の食事会だった。本人はさほど辛そうではなかったけれど、抗生物質のせいで便がゆるくなっている事や、鼻吸い器を持ち歩かなければならない事や、あれこれと気を遣わなければならないであろう事が憂鬱だった。

 運動会の時にちらっと会って、ユカにあまり良い印象を持たなかった浩太は、ユカの所に泊まりに行く、話すと顔を曇らせた。でも、五月さんも来ると言うと途端にそうか良かったなと表情を変えた。浩太は芸能界の話に弱い。外で芸能人を見かける時などいつまでもしつこくその話をする。浩太のそういう所に、ガキっぽいとか、俗っぽいとかいう軽蔑ではなく、生理的な嫌悪に近いものを感じる。

 ユカの家は高層タワーマンションの二十二階だった。前に、賃貸で3LDKだと言っていた。きっと家賃は三十万円を超えるだろう。五月さんはきっとユカ以上に高い家に住んでいるはずだ。家賃十万のコーポミナガワで精一杯、むしろ貯金を切り崩して生活を維持している状況を思い出すと、やっぱり自分が場違いな気がして足が重かった。

「いらっしゃーい すぐ分かった? 場所」
「うん、大丈夫…‥ねえ何か、ユカ黒くない?」
「最近日サロン行ってて」
「黒過ぎない? ヴィクトリア・ベッカムみたいだけど」
「うんまあ、これ以上は焼かないよ」
 ユカは目を合わせず、あまりそこに触れてほしくないといった態度で言った。本人もここまで焼くつもりでなかったかもしれない。
「何かあったの? 突然こんなに黒くするなんて」
「ううん、別に。何となく、強くなりたいなーって思って」
「強くなると黒なるは違わない?」
「でもほら、アメリカ人の女の人とか強そうに見えるじゃない」

 まあ見えるけど言いながら靴を脱いだ。ユカの褐色の細い四肢は木の枝のように見える。ハロウィンパーティの時には色白肌だったのに、この短い期間でここまで焼いているという事に何か病的なものを感じる。高校生の頃、一緒に日サロンに通っていた時もここまで黒くなかったはずだ。

リビングに上がると、五月さんが子供たちと遊んでいた。飾りっ気のない部屋の中で、子どものおもちゃだけが色鮮やかだった。壁紙とカーテンは白、ソファもローテーブルもテレビ台も本棚も全て黒。ダイニングテーブルのみがダークブラウンで、木目を晒した一枚板のものだった。

「あ、涼子ちゃんかずちゃんこんにちはー」
 五月さんはにっこりと笑って手を振った。弥生ちゃんと輪ちゃんはおままごとセットの周りでせっせとお料理ごっこして、五月さんに次々と料理を出しはきゃっきゃっとはしゃいでいる。スリングから降ろすと、一弥は一気におもちゃ箱に向かってハイハイし、大量のおもちゃのせいで閉まらない蓋の隙間からおもちゃを引っ張り出そうとしている。

「りんちゃんのー」
 輪ちゃんがおもちゃ箱に向かって走り出した。かずちゃんにおもちゃ貸してあげなさい、というユカの言葉に「はーい」と返事して、輪ちゃんはおもちゃ箱から次々におもちゃを取り出し一弥に渡した。一弥はきゃーっと歓声を上げ、おもちゃを鷲づかみにして齧り始める。

 輪ちゃんがそう言って一弥の両頬を人差し指でつつき、そのままぐっと顔を寄せ、一弥にキスをした。一弥はびっくりしたのか、うー、と声を上げきょろきょろと辺りを見渡している。
「止めなさい、かずちゃん嫌がってるでしょ」
「あ、大丈夫だよ」
 べたべたしている輪ちゃんに気づいた弥生ちゃんが一弥に近づき、後ろから抱きしめた。
「弥生も赤ちゃんだーい好き」
 かずちゃんていうのよ、とキッチンからユカが言う。シャンパンでいい? と聞いてうんいいよと声を上げ、私は子どもたちの脇に座り込んだ。
「やっぱり赤ちゃんは可愛いわー」

 五月さん穏やかな表情で言った。切れ長の目を細め、小さな顔を緩ませている五月さんは、見ていてどきどきするほど美しい。
「大変じゃなかったですか? このくらいの頃」
「大変だった。でも何か、本当に忘れちゃうんだよね大変だった事って。初めての子どもだし、分かんらない事だらけでどうしようって思っている間に赤ちゃんの時期が終わちゃったきがする。もっと手抜いて気楽に赤ちゃんとの生活楽しめば良かったなあって今は想うな。多分私、赤ちゃんの可愛さをいっぱい見逃してきたと思う」

 二人目になれば、もっと気を抜いて楽に育児が出来るのだろうか。今一人目の赤ん坊を育てている私には、今まさに全てが切羽詰まっていてそこまで見渡す事が出来ない。二人目は三歳差でという願いだって潰えそうなほどに、子どもとの生活に疲弊している。一弥が双子だったらと思うとぞっとする。

双子だったら、もうとっくに逃げ出していたかもしれない。じゃあ何で私は二人目が欲しいのだろう。私はなにかイメージで、二人目が欲しいと思っただけなのではないだろうか。
「五月さんは、辛くはなかったですか? 逃げたいとか、苛々するとか、そういう事なかったですか?」

「あったよ、変な話、虐待する親とか、殺しちゃう親とか、気持ちわかるって思った」
 当たり前だよこれは育児という名の拷問だからね。そう言ってユカがシャンパンを手渡した。五月ちょっといーい? と言われて五月さんがキッチンに向かう。つかまり立ちしていた一弥に輪ちゃんが勢いよく抱きつき、一弥が転びかけたため私は慌てて手で支えた。大丈夫? 痛かった? と弥生ちゃんが一弥を覗き込む。やっぱり女の子は優しい。私は、二人の小さな女の子が我が子を可愛がり、面倒を見たがっている姿に胸が震える思いがした。

こんな小さな女の子にだって母性があるのだ。赤ちゃんを可愛いと感じる本能があるのだ。私は何故一弥に対してこういう本能的な愛情や優しさを持てないのだろう。母親だからこうしなきゃいけない。あれしなきゃいけない、という動機でしか一弥に関わることが出来ないのだろう。

「あ、涼ちゃんちょっとテーブルの上かたしといてもらえる?」
 キッチンでハムを盛りつけているユカがそう言ってテーブルを指差した。私は立ち上がり、新聞と手紙類をまとめてローテーブルに移動させた。封書にはグッチやクロエ、出版社や新聞社のロゴがプリントされている。ユカにはユカの生活があって、ユカの仕事があって、それらはユカでなければならない理由がある。結婚したばかりの頃は専業主婦になりたいと思っていた。でも今、ユカや五月さんの特権的な仕事が羨ましくて仕方ない。

開いた大判の封筒の上に出ていた二冊の「Maxx」を手に取って表紙を見ていると、ハムの盛り合せを持ってきたユカが「それいる?」と聞いた。
「いいの?」
「うん二冊あるから」
「ユカ、マックスに何か書いているの?」
「その号だけね。結婚特集にエッセー書いたの。下らないから読まないでいいよ」
 えー面白かったよーと五月さんがキッチンから声を上げた。駄目男は何故駄目なのか。トレーを持ってきた五月さんそう言いながら人差し指を立て、私もこういうぶった切り系のエッセー書けるようになりたいなー、と続ける。

「ぶった切ってないよ。私のエッセーは愛だよ」
「うん、最近ファッション誌でエッセーの連載始めたの。ただの身辺雑記だけどね」
 ねえ五月の持って来てくれたカルパッチョってもう味ついてる? オリーブオイルとか足す? 味ついてるけど、バルサミコとかあったらかけると美味しいかも。バルサミコなんてないようちには庶民家庭だぜ。そう言って笑い合いながら、二人は再びキッチンに戻った。何か手伝う事ある? と聞くと子どもたちを見てて、と言われ、私は子どもたちの中に座り込んでおままごとの相手をした。

喋れる子との距離感が掴めない。相手がどんな言葉を知っていてどんな言葉を知らないのか分からないため、話しづらいのだ。でも輪ちゃんと弥生ちゃん見ていると、いつか一弥もこうして私と言葉を交わす日が来るのだと希望が持てた。私の今の苦しみは、一弥が口をきけない事が大きな原因となっているはずだ。一弥が話せるようになれば、育児のストレスは軽減するに違いない。

 テーブルにはハムとチーズの盛り合わせやカルパッチョ、ローストビーフやサラダやナポリタンスパゲッティが並んだ。
「すごい。美味しそう」
「ほとんど伊勢丹の出来合いだけどね。カルパッチョとローストビーフは五月の手作りだから美味しいはず。ナポリタンは子ども用ね。別に大人が食べてもいいけど」
「何かごめんね、私だけ何も持って来なくて」
 いいのいいの、子どもの看病している時にご飯の事なんて考えたら気が狂うから、とユカが言う。五月さんも大きく頷いて「うちも忙しい時は冷凍ばっかだよ」と言った。やっぱりワインの一本でも持って来るべきだった。

「あれ、五月さんシャンパンは?」
「ああ、私ちょつと体調悪いからお酒控えてるの」
 五月さんはペリエの瓶を上げて言った。そうそ言えばこの間のパーティの時も五月さんはお酒を飲んでいなかった。妊娠してるんじゃないか。一瞬そう思って、その疑惑を補強する要素が他にないか観察する。お腹はすっきりと引っ込み、爪はパールホワイトの無地、顔色や顔つきにも変化は見られず、つわりに苦しんだ風には見えない。思い過ごしか。私は観察を止め、一弥の皿にナポリタンを取り分けた。

 しまったカルボナーラにするんだった! 子どもたちの強烈な食べ散らかしを見てユカが言う。木目テーブルの僅かな亀裂にスパゲッティを詰め込んで遊んでいた輪ちゃんは服を全部取っ替え、ほとんど手づかみで食べていた一弥も持っていた服に着替えさせた。さすがに、弥生ちゃんはしっかり零さずに食べている。

三歳になればあんな風になるんだろうかと思ったけれど。きっと五月さんがきちんと躾つけているのに違いない。モデルという職業から、遊んでいる印象を持ったけれど、五月さんは保育園でみるどんな母親よりも育児熱心に見える。弥生ちゃんのしっかりとした言葉使いや、礼儀正しさにもそれが表れている。モデルの子どもだからと、世間に馬鹿にされないようにというプレッシャーもあるかもしれない。

 子どもたちにあれこれ邪魔をされながら。私たちは育児の話を中心にあらゆる話をした。仕事、保育園、ママ友、シングルマザー、子ども手当、出産、ファッション、生活の知恵、お題はいくらでもあった。三人が三人とも話をしたい事と聞きたい事を交互に繰り出し、子どもたちのうるささもあって常に賑やかだった。

育児とは、賑やかな所でするものだ。例えばどちらかの両親と同居したり、弟妹が出来たりすれば、このどん詰まりの孤独感は薄らぐのだろう。それはそれで耐え難い孤独がありそうだけど、とにかく密室育児やってみて思うのは、育児には必ず誰かの助けが必要だという事だ。

 十時過ぎ、ユカが既にうとうとしていた輪ちゃんを子供部屋に連れて行き、その後五月さんが弥生ちゃんを寝かしつけを済ませると、私は最後に腕の中で眠り始めた一弥を置きに行った。暗い子供部屋には、所狭しとぬいぐるみや人形の家や車の大型遊具などが置かれている。空いていたちいさな布団に一弥と一緒に横たわり、少しずつ腕を外していく。

一弥がはっとしてうわーんと声を上げると、隣の布団でもぞもぞと輪ちゃんが動き、私は慌てて乳房を出して一弥に押し付けた。乳首を口に含むと、一弥は数分でくたっと眠りについた。足音一つ立てないように静かに部屋を出て、ドアを閉めた瞬間ほっと全身から力が抜けた。眠ってくれなかったらどうしようと、今日ここに来る前から心配だったのだ。リビングに戻ると、私に気づいたユカがやっと静かに飲めるねとワインを持ち上げた。

「ねえ、いつか三人ともシングルマザーになったら皆で一緒に住まない?」
 白ワインを、一本、ほとんど一人で空けてしまったユカがそう言った。
「いいね。誰か一人見ていれば他の二人は遊びにいけるし」
「一人フリー、一人が子ども担当、一人が家事担当で一日ずつ交替制にするっていうのは?」
 五月がそう言うと、ユカは「家事は家事代行に頼んじゃわない?」と不平を口にした。

「家事代行週何回呼べば全く家事をしなくて済むかな」
「うちは週一で事足りてるよ」
「ユカは料理しないから洗い物出ないしね」
「そんな事ないよコップとかは洗っているよ。でもさあ、考えてみればシッターも一人いればいいわけじゃん? たまにそうやってまとめて見てもらって、三人で飲みに行ったりもしたよね」
 いいねといいねと口を揃えて盛り上がった後、誰が一番最初に離婚するかな、と五月さんが遠い目で言った。
「うーん、うちは別居だけど一応上手くいっているからなあ。セックスレスじゃないし」
「私は取り敢えず経済的にある程度自立しないと離婚できないなあ」
「じゃあ私かな」
 冗談とも本気ともつかない口調で五月さんが言った。五月さんから、どことなく寂しげな空気が発されているような気がして言葉に詰まった。
「なに、五月離婚するの?」
「ううん、そうじゃないけど。何となく、私が一番しそうだなって思って」
 分かんないよ、どんな夫婦でも急転直下であっという間に離婚するからね、ユカは茶化すように言って自分の周りの離婚経験者たちの話を始めた。

「編集者なんて結婚経験者の半分以上は離婚経験者だよ。離婚していない人はかなりの確率で不倫してるし、ほんと鬼畜だぜ編集者っつのは」
「私の周りもほんと離婚率高いわ。モデルとか女優とかって結構平気なんだよね。家庭がなくなっても事務所って居場所があるし、皆ちやほやしてくれるし。彼氏とか旦那に固執する理由がないっていうか。そう言えば、二人って結婚何年目?」
「私はまだ二年目です。結婚してすぐ妊娠しちゃって。もうちょっと新婚生活を楽しみたかったなあ」
「私は六年目」
 一瞬流しかけてぎょっとする。え、ユカって結婚六年目なのと聞くとそうだよと眉を上げてユカは言った。
「って事は、十代の頃に結婚したの?」
「ぎりぎり十代だった」
 高校の頃から、こういう女は早く結婚するだろうとは思っていたけれど、十代の内に結婚していたとは思わなかった。
「五月は?」
「うちは出来婚だったからまだ四年目。でもやっぱり、一緒に暮らした事もない人といきなり結婚して子どもを産むって無理があるわ。新婚生活なんてなかったもん」
「一人で暮らしてる間にある程度旦那調教しておいた方が、子ども出来た後楽だしね」
 ユカは調教したの? と聞くと手と首を同時に振りながら「いやいや」と言う。

「私はもうただただひたすら恋愛してたって記憶しかない。調教とか思いもつかなかった。だからこんな事になっているんだと思う」
「駄目じゃん。でも、浩太ってもっと家庭的な人かと思っていたけれどな。結婚したら全然家事しないし、育児も手伝わないし。騙された、って感じ」

 妊娠中、私は浩太と一緒に可愛い赤ん坊を育てていくつもりだった。生まれて初めて、彼の子どもに対する姿勢を見て、私は落胆した。浩太はあくまでも子どもの母親の責任で育てるべきという考え方で、帰宅後疲れていない時だけ一弥を可愛がって、泣き始めたらほったらかしてテレビを見始める。

それでいて、誰々は一度もオムツを替えた事がないって言っていた、誰々は沐浴って言葉も知らなかった、と自分の父親や会社の先輩の例を挙げ「俺は風呂に入れた事もあるし、オムツも替えられる。他の男たちよりずっと育児を手伝ってる」と自分が家庭的で献身的であると言い張る。

 二本目のワインが空になった頃、ふわっ、ふわっ、ふわーっ、と一弥の泣き声が聞こえた。やばいやばい、と呟きながら子ども部屋に駆け込み、一弥を抱き上げすぐに乳首を咥えさせた。輪ちゃんと弥生ちゃんはぐっすり眠っている。早く眠って欲しい一心で、添い乳にしてトントンと背中を叩く。一弥はいつもと違う場所に戸惑っているのか、時々きょろきょろと辺りを見渡している。横になったまま乳を吸われている内、体中が弛緩していくのが分かった。久しぶりに飲んだアルコールのせいだろうか。いけないと思いながら瞼が閉じていく。

 気がつくと、ぬいぐるみの山に半身を突っ込み、一弥に背を向けて寝ていた、慌てて上半身を起こすと、カーテンの向こうが僅かに明るんでいるのが分かる。もう四時間、いや五時くらいだろうか。お腹を出して大の字になっている一弥に布団掛けると、私はそっと部屋を抜け出た。話し声は聞こえない。二人とも眠ってしまったのだろうか。リビングのドアを開ける前にぱちぱちと音が聞こえた。

薄く開いた隙間を僅かに広げると、眼鏡をかけたユカがダイニングテーブルでノートパソコンを打っているのが見えた。物凄い勢いでブラインドタッチをして、瞬きもせず画面を見つめている。急ぎの仕事でもあったのだろうか。適当に打っているのではないかと思うくらい高速でキーを打ち続けるユカがあまりに異様に見えて、声をかけるべきか掛けないべきか迷っていると、不意にぱちぱちという音が止まった。このまま子供部屋に戻って寝ようかと思っていた私は、ユカが顔を上げて私を目で捉えた瞬間足が竦む思いがした。見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず言葉に詰まる。
「あ、起きた?」
「ごめん、邪魔しちゃった?」
「ううん。大丈夫。仕事じゃないから」
「そうなの? 何かすごい早いんだね打つの」
 恐る恐る、ゆっくりリビングに足を踏み入れた。
「打つって、これ?」
 キーを指さすユカにうんと頷く。
「そうなのかな、あんまり人の打っているとこ見ないから分かんないけど。何か飲む? そうそう、デザートワインあるんだけどちょっと飲む?」

 ユカがそう言いながらパソコンを閉じるのを見て、私はおずおずとダイニングテーブルについた。小振りなワイングラスを持ってきたユカは半分ほどまでワインを注ぎ、乾杯、とグラスを上げた。さっきまで一心不乱にキーを打っていたとは思えない、穏やかな表情だった。
「五月さん寝ちゃった?」
「うん。四時過ぎくらいにダウンして、今寝室で寝ている。昨日朝から撮影であんまり寝ていなかったんだって」
「私もすっかり寝込んじゃったよ。慢性的な睡眠不足だから、いつも寝かしつけで寝ちゃうの」
「うちは零歳の頃が一番よく寝てくれたけどなあ」
「ほんとに?」
「うん。三ヶ月から一歳くらいまで夜九時から朝九時まで寝てくれてた。今じゃ九時間くらいしか寝ないもん」
 信じられない。私は産後半年までほぼ一時間おきくらい起こされて授乳をしていた。今も一晩に二度は夜泣きをする。やっぱり一緒に寝ているから夜泣きすんのかなあと思うよー、とユカは煙草の煙を吐き出しながら怠そうに言った。

「一緒に寝ると子どもも親も熟睡できないっていうし。モニターつけとけば鳴き声は聞こえるし、ベビーベッド入れときゃ心配ないし、そろそろ別寝でもいいんじゃない?」
「ユカは何で別々に寝ることにしたの? 私皆添い寝するものだと思ってた」
「私は皆別々に寝るものと思っていたの。旦那と二人で寝る時間を大切にしたかったし。私好きな男以外の人間とべたべたすんの嫌なんだよね」

 母親にそんな風に言われる輪ちゃんが可哀想に思えた。赤ちゃんと別々の部屋で寝るなど、考えられない。皆今にも死んでしまそうな小さな赤ちゃんが心配だから、一緒に寝るのだ。
「添い寝するのってアジア圏の国だけだって、家屋とか家具の違いのせいもあったんだろうけど。育児事情なんて文化で全然変わってくるんだし、楽なやり方選んだ方が得だよ。添い寝は突然死症候群の原因の一つだっていうしね。まあ産んだ以上世話はするけど、振り回されるのは最低限にしたいじゃん」
「ユカって、輪ちゃんの事好きなの?」
「好きだよ。愛しているよ。輪が死んだら生きていけないよ」
 ユカの言う愛が分からない。きっと私の愛とユカの愛は違う物を指している。マックの募金箱を見て泣いていたユカの姿が思い出される。「輪が死んだら生きていけない」。彼女の言葉に、マックの募金箱を見て泣くという行為に通じるものを感じる。
「ユカ、ヤクやってるでしょ」
「は?」
「この間ハロウィーンパーティの時ヤクやっていたでしょ」
「やってないよ。十代の頃に、結婚する前にもう止めた」

 ユカのしれっとした態度に、私は高校の頃何度も苛々させられていた。ユカは何も変わらない。結婚して子どもが出来ても何も変わらずに自分を維持させている。私はこんなに変わったのに。こんなにも色々な物を捨てたのに、ユカは何も捨てていない。ドラッグさえ止めない。子どもと一緒に寝る事さえも拒む。どんな状況に身を置いても絶対に自分を曲げようとしない。

この苛立ちは何かに似ていると思った。浩太に対する苛立ちだと気がついた。私は、子どもに適応しない親、適応できない親が腹立たしくて仕方ないのだ。それはきっと、私が子どもに適応しなきゃと強く思いながらも出来ない自分自身を激しく責めているからだ。

「やったら何だっていうの?」
 炎のように怒りが湧く。別にと言って、私は黙り込んだ。ワイングラスを持ち上げ甘たるいデザートワインをぐっと喉に押し込む。
「でもユカがヤクをやる事で傷つく人がいるかもしれない」
 何それ。ユカは薄笑い浮かべて嘲るように言った。
「私そういうのおかしいと思うけど。例えば自傷する人とか死にたいとか言う人に対してそういう事言う人がいるよね? あなたが自分を傷つけることで親が傷つくとか、そういう事言う人。でもおかしいと思わない? その人はその人の悩みの中でその人なりの答えを出しているのに、どうして他人が傷つくの? 

人は誰かの所有物じゃないよね。悲しいなら分かるよ。ショックを受ける、っていうのも分かる。間違ってると思って助言するのも分かる。でも傷つくなんて有り得ない」まくし立てるユカの言葉を聞きながら、ショックを受けると傷つくの違いは何だろうと思う。

「私とユカが遊ばなくなったのって、何でだったか覚えてる?」
「あれでしょ、涼子がナンパしてきた男たちと青姦したからでしょ」
「覚えていた」
「私記憶力はいいから」
 私は黙り込んだ。私はユカに対して、この事を上手く話すことが出来ない。だからあの時も、「ヤッた?」「ヤッた」という言葉で終わったのだ。自分が傷ついたことを、私はユカに対してどんな言葉で伝えてよいのか分からなかった。ユカは傷つくという事の意味が分からないのだ。そんな人に自分がいかに傷ついたか説明して何になるのだろう。

「あの時涼子は、私が涼子に残してあの場を去ったことに傷ついた。次の日私が電話でへらへらしてた事にも傷ついた」
 ユカは今もラリっているのだろうか。濃いメイクを落とさないまま眼鏡を掛け私が傷ついた事を断罪するかのように話す黒いユカは気違いじみて見える。
「そうだよね?」
「そうだよ。傷ついたよ。あの時もうユカとは仲良く出来ないって思った。だって私二人にマワされたんだよ? ヤクと酒でもう全然歩けなくて、逃げることも出来なかった」
「あの時バッを飲んだのも酒を飲んだのも涼子の意志でしょ。私はバッ上げただけで強要した覚えはないし、ナンパしてきた男たちも涼子を押さえつけて北京ダックみたにパイプをかませて飲ませたわけじゃない」

「でも飲まない事なんてできない状況だった。私が傷ついた事をユカに責められる理由はないよ。私はユカを信用していた。だからユカが助けにも来なくて一人で帰った事とか、次の日ヤッた?て軽く聞いてきた事に傷ついた」
「そもそも何で私が助けに来ると思ったの? 何で私が涼子と一緒になってマワされた事を悲しむと思ったの?」

 気分が悪い。もうユカとは話したくなかった。頭がおかしくなりそうだ。
「はいはい。飲んだ私が馬鹿でした。マワされた私が馬鹿でした」
「これは真面目な話だよ。涼子はあの男たちにヤられる事にそこまで強い抵抗は感じなかったはずだよ。でなかったら酒なんて飲まなかったはずだよ。ある程度色んな事に適当な気持ちなってなければバッだって飲まなかったはずだよ。あの男たちは涼子が本気で抵抗していればヤらなかったはずだよ。

私にはあの男たちはそこまで悪質な人間には見えなかった。ねえ涼子はどうして傷ついたの? ほんとに傷ついたの? 涼子は傷つきたかったんじゃないの? あの時、これは傷つくいい機会だと思って傷ついたんじゃないの? 涼子にはそういう所があるよね。自分がされたいと思っている事をされたくないされたくないって言い張って、自分からされに行ってわざと傷ついてみせるみたいな所」

 真面目な話だよと言うがユカがどれだけ真面目なのか私にはわからない。顔つきは穏やかで、彼女の心地よさそうでもある。ユカの言葉と態度が乖離しているような場面がこれまでにも何度も見た事があって、それは一様に私を苛立たせてきた。

「訳わかんない。ラリってんの? 私そんな事した事ないよ。考えた事もないよ。私は単に、ほんとに単に、ユカの仕打ちに傷ついたんだよ」
「じゃあ涼子は本当に、あの時の私の言動に幻滅して私から距離を取ったの? 私の事嫌いになったの?」
「嫌いなったっていうか、うんざりしたって行った方がいいのかもしれないけど」
「私が中退した後、涼子が私の事を擁護してたって聞いたよ。ミヤとかモッチに対して、私のこと擁護したって」

 口を噤んでじっとテーブルの木目見つめる。忘れていた記憶が僅かに蘇った。「ヤリマン」「露出狂」「○○の彼氏獲った」ユカが中退したという噂が広まりきった頃、そう陰口を叩いて盛り上がっていた級友たちに対し、確かに私は「ユカの事知らないくせに」と吐き捨て、「ユカはそんな子じゃない」と擁護した。ユカの最低な所を直視し続け最終的にユカを拒絶したのに、私はユカを馬鹿にする彼女たちが許せなかったのだ。

「人のこともよく知らないくせに陰口叩いている子たちがムカついたんだよ」
「涼子は私の事も自分の事も、なにか勘違いしてるんじゃない? 私のあの時の行動が信頼を失わせるような類の関係性を私たちは本当に築いてた? 私は、自分を傷つけるつもりでも悪意もなかったのに他人が傷つくという事が現実に有り得るとは思わないし、涼子が傷ついたとは思っていない。傷ついたと思うのであれば、それは涼子が何か間違った価値観を持ち出しているからじゃないかと思う」

「どっちが間違っているとかそういうのおかしいと思う。私は単にユカの価値観についていけなくなったんだよ。マワされる友達を見捨てて帰っても傷つけたとは思わないユカのその価値観に、私は元々違和感を持ってた。ずっとユカともう無理だ無理だって思いながら付き合っていた。それが決定的になったのがあの時の事だったってだけだよ。ユカの価値観と違うのは最初から分かってた。ユカみたいな女が目新しくて、興味で近づいても最後にはやっぱついていけないって思ってユカから距離を取った。単にそういう事じゃない?」

「私は涼子と価値観を共有すべきだと思ってた。涼子が私を間違っていると思うなら、私の価値観がそういう価値観である理由を説明しなければならないと思っていた」
「ちょっと待って。訳分かんないよ。私たちって友達でしょ。恋人とかそういうんじゃないでしょ。何でそんな話になるの。価値観の共有とか、そういうんじゃなくて、私は友達って、もっと普通に仲良く付き合える人の事だと思うけど」

「私は涼子と本気で付き合ってた。でも涼子はそんな堅苦しいのが嫌だと思ってた。気軽に付き合いたいと思っていた。気軽でありながら、センチメンタルだけは共有出来るっていう都合の良い友達を求めていた。私たちは友達っていうものに全く違う種類の幻想を抱いてたんだろうね」

 ユカの言う本気って何だ。堅苦しい関係を拒んだのはユカだったはずだ。ユカの本気は私の考える本気じゃない。私はユカといると強烈な疎外感を抱く。向こうに私を拒絶しようという意志があるわけでもない。それなのに私たちはここまでわかり合えないし、理論が理解できたとしても本当の意味で分かり合う事は一生ないだろう。人と人との関係の限界を目の当たりにしているような気持ちになる。

「つまりヒトラーがレームと一緒に第三帝国を築き上げようって野望を抱いたら、レームはヒトラーとビリヤードとかダーツをして遊んでいたと思ってたみたいな事だよ。それでレームはお前何でダーツやんんだ、第三帝国とかなてこと言ってんじゃねえダーツやんねーんだったらもういいよってキレてヒトラーと縁を切ったみたいな事だよ」
ユカのたとえ話は昔から不愉快だった。小さい声でそう言うと、ユカははっと息を吐き出して笑った。
「安心してよ。私は大人になったから」
 だからお前の好きな友達キャラ演じてやると、そう続くかと思ったけど、ユカは黙り込んで煙草に火をつけた。やっぱり駄目だと思った。私たちは一緒にいて意味のある組み合わせではないのだ。
「もうちょっと寝るわ。私」
「どうする? もう一組布団あるから寝室で寝てもいいし、ソファでもいいし」
「いいよ。一弥と一緒に寝る」
「布団小さくない?」
大丈夫と言うと私は立ち上がって子供部屋に向かった。途中、キッチンが目に入って足が止まる。ぐちゃぐちゃに置かれた皿ややグラス、食べ残しは干からび、皿にこびりついているのが分かる。
「ごめん、朝起きたら洗い物とか片付けるから」
「いいよいいよ。明日家事代行来るから、そのままで」
 そうと呟きリビングを出て子ども部屋に入ると、弥生ちゃんと輪ちゃんが重なり合うようにして眠っていた。
一弥の横になり。目を瞑った。体は痺れたように疲れているのに、黒板に爪を立て端から端まで走り回っているような不快さが消えず、体の緊張が解けない。閉じた瞼の裏で、濃い褐色の肌をしたユカが一心不乱にパソコンを打っている。

 一弥の泣き声で目を覚ました時、既に子ども部屋に輪ちゃんと弥生ちゃんは見当たらなかった。その場で母乳を飲ませてからリビングに行くと、五月さんと弥生ちゃんがテーブルについていた。
「おはよう。よく眠れた?」
「ひさしぶりにぐっすり眠れました。あの、ユカは?」
「輪ちゃんがどうしてもお風呂に入るってぐずり始めたから、今入れてる。ご飯食べるでしょ? 用意するね」
 五月さんはそう言ってキッチンに向かった。
「え、いいです自分で適当に食べます」
「いいよいいよ。座ってて。コーヒーでいい?」

 はいと答えて、私は一弥を抱っこしたままテーブルについた。弥生ちゃんおはよう、と言うと弥生ちゃん少し恥ずかしそうにおはよう、と言ってはにかんだ。ケチャップをかけたスクランブルエッグをフォークで突き刺し、小さな口で僅かずつ食べ進み、時折コップからこくっこくっと音をたててお茶を飲む。三歳でこんなにしっかりするのかと感心して「食べるの上手だね」と言うと、弥生ちゃんは「弥生もうお姉ちゃんだから。こぼさないんだよ」と言う。コーヒーと温め直したスクランブルエッグ、トーストに昨日の残りのハムやサラダを持ってきた五月さんにありがとうございますと言うと、母乳でお腹が一杯の一弥を遊ばせておき、三人で向き合って朝ご飯を食べ始めた。

「五月さんが作ったんですか?む
「うん。ユカ、子どもには魚肉ソーセージ渡しときゃいいと言うから、作るよって言ったの。って言っても殆んど昨日の残りだけど」
「大丈夫なんですかね。ユカ、ロクにご飯作ってないみたいだし、何かちょっと愛情が薄いっていうか、あんなんでいいのかなって、私なんか思っちゃうんですけど」
「育児は、適当なら適当なほどいいと思うよ。理想が高すぎるとストレス溜まっちゃうじゃない? 予定通りいかなかったりするともう駄目だって思っちゃったり」
 まあそうですけどと言いながら、ヤクをやりながら育児するのは適当すぎるだろうと思う。

「私、ユカといると楽なんですよね。噂話とか陰口とか言わないし、正直だし。家族とかモデル仲間とも違って、ほんと普通の友達って感じで付き合える」
 コーヒーの入ったマグカップを置いて、スクランブルエッグを頬張った。ふわふわしていて、油の嫌な味もしない。何かコツがあるのだろうか。
「ユカはそんな子じゃないですよ」
「そんな子じゃないって?」
「何て言ってたら良いのか分からないけど、あんまりユカの事信用しない方がいいですよ」
「それって、何で?」
「ユカは普通に付き合う分には良いのですけど、一歩間違うとあっという間に関係が破綻するんです」
「間違うって?」
 五月さんの表情が真剣で、何と言ったら良いのかどんどん分からなくなっていく。
「何ていうか、つまりユカのあるゾーンに踏み込むと、消費されちゃうみたいな事です。疲れて、疲れ果てて、最後にはこちが諦めちゃう、みたいな」
「それは、彼女が作家だから?」
 五月さんの言葉に、なにかに腑に落ちたような気がした時、輪ちゃんのはしゃぐ声が聞こえて私は口を噤んだ。ばたばた音がして裸の輪ちゃんがリビングに駆け込んできた。それを追いかけてユカが「待てっ」と走り込んでくる。げらげらと笑う輪ちゃんを捕まえ、オムツを穿かせるユカを、私と五月さんは笑って見つめた。でももうそこに、昨日の夜の三人で居た時のような暖かみを感じられないような気がしたの、私だけだっただろうか。

 五月さんの車で、ドリーズまで送って貰うことになった。ユカは悪いけどと前置きしとから、結局あの後仕事してて徹夜になっちゃったからめっちゃ眠くて、輪送って貰えない? と五月さんに頼んだ。昨夜私に仕事じゃないと言ったのが噓だったのか、それとも今のが嘘なのか、追及してもユカはしれっと言い逃れるだろう。五月がいいよと言うと、ユカはドリーズに電話をかけて五月が送りに行く旨を伝えた。

輪ちゃんは事態が吞み込めていないのか、じっと押し黙って連絡帳に記入するユカを見つめている。ペンを走らせるユカが、頭に乗った雪を落とそうとするかのように一度頭を振ったのを見た瞬間、私は何となく、ああユカは今もヤクをやってるんだと思った。じゃ行ってらっしゃいと手を振るユカを見て、とうとう輪ちゃんはユカが一緒に来ないことを悟ったのか眉間に皺を寄せ泣き出しそうな表情を見せたけれど、やっちゃんママとドリーズ行ってと言われると無表情になって家を出た。最低な母親だ。そう思った。じゃまたねと手を振るユカに、私は目を合わせないまま背を向けた。

 車に乗った輪ちゃんは、弥生ちゃんと嚙み合わない会話をして笑っていたけれど、どことなく元気ないように見えた。一番小さいからとチャイルドシートに座らせてもらった一弥は、動けないのが嫌なのかぐずぐずと半泣き状態だ。後部席で三人の子どもを見ながら、唐突にこの子たちにとっての幸せは何なのだろうという疑問が湧いた。この子たちとっても不幸だろうか。

 駐車場から歩いてドリーズの入口まできた所で、抱っこしている一弥の耳から耳垂れが出ていることに気づいた。ぎょっとして一瞬歩みが止まった。再発したのだ。鼻水は出ていたけれど、大泣きする事もなかったから油断していた。寝ている間に鼓膜が破れたのだろうか。弥生ちゃんと輪ちゃんと手を繋いで歩いてくる五月さんにばれないように、カーディガンの袖でさっと耳垂を拭った。ここまで来て、一弥を家に連れて家に帰るのは嫌だった。五人でエレベーターにのり込みドリーズに入ると、私は再び一弥の耳垂れを拭き取り、耳垂れで袖を折り返した。

 五月さんと別れて電車で家に帰ると、パソコンでドリーズの動画を開き、一歳児クラスを映し出した。そしてカメラがゼロ歳児クラスに向かうと操作権を取得し一歳児クラスに戻し続けた。耳垂れや鼻水を拭かれている所などを動画で浩太に見られたら、また喧嘩になる。私はユカを愛情の薄い母親だと軽蔑して輪ちゃんが可哀想だと思いながら、自分が愛情の薄い母親と思われるのが嫌でこんな工作をしているのだ。一弥も輪ちゃんも同じなのかもしれない。母親に十二分に愛されてないという点では、同じなのかもしれない。

 十一時を過ぎ、そろそろ浩太の休み時間になると思って見張りを強化し始めた時、電話がかかってきた。緊張しながら手に取ると、ドリーズという名前が出ていた。耳垂れがばれたのだろうか。私は電話を無視してカメラをゼロ歳児クラスにカメラを向けた。一弥はいない。授乳室でミルクを飲んでいるのか、それともオムツ替えだろうか。現実の全てから目を逸らしたかった。パソコンを離れると、私はユカに貰ったMaxxを開いた。コート特集やブーツ特集をじっくり見つめる。二十代前半向けの雑誌のせいか、あまり欲しいと思える物がない。カルチャーコーナーの手前に結婚特集を見つけてユカのページを探した。見開きのエッセイにはユカがにっこりと笑っている大きな写真が載っている。

「結婚に適した男は、母親か女きょうだいから愛情をもって突き放された事のある男、あるいは年上の女に性的手ほどきを受けたことのある男だ。結婚に適しない男は、一人っ子で母親から溺愛、あるいは拒絶され、年下の女を相手に横暴なセックスしかしたことのない男だ。そういう男は老人と呼ばれる歳になるまで、他人に優しさを持つことが出来ない。優しさと感じるそれは、自己愛の一端でしかない。優しいと感じた次の瞬間には、他の女かテレビを見ているだろう。」

 書き出し部分を読んで苦笑が零れた。五月が面白かったよといった気持ちがわかる。ユカの書く改行の少ない悪趣味な小説よりも、こういう身近なエッセイの方が読んでいてじっに面白い。ぱらぱらとMaxxを読み終えると。ドリーズに電話を掛けた。一弥は耳垂れを出しており、お昼ご飯前と後に一度ずつ吐いたという。今からお迎えに行きますと答えると、私はソファに寝転んだ。じっと目を瞑ってこのまま眠りたいと思いながら、私は次の瞬間には支度を始めるだろうと分かっている。

 十二時前にお迎えに行くと、幼児クラス以外の子たちは皆お昼寝をしていた。ゼロ歳児クラスに行くと、一弥を抱っこした矢田さんが「早めのお迎えありがとうございます」と頭を下げた。
「どうですか」
「二回吐いたから、ちょっと機嫌が悪いだけで変わりないです。でも耳垂れが結構出ていて」
 すいませんでした、ありがとうございます、そう言うと私は荷物をまとめて一弥をスリングに入れてドリーズを出た。電車に乗って家の最寄り駅で降りると、中休み直前だった駅前の耳鼻科に駆け込み、五十分待って鼻水と耳垂れを吸引してもらい、調剤薬局で抗生物質と喉と鼻の薬と吐き気止めの薬をもらって帰宅した。

嘔吐性の風邪が流行っているからそれだろうという耳鼻科の先生の言葉を信じて、小児科は見送ることにした。一弥に薬を飲ませるとどっと疲れが出て、ぐずる一弥を胸に抱いたままソファに横になった、顔のすぐ近くでぎゃんぎゃんと鳴き声を上げる一弥に苛立ちが募っていく。一弥をダイニングのカーペットに置くと、私は寝室に入った。子どもに苛々した時は一度距離を取るのが良いと、この間保育園で配布していた虐待防止に関するリーフレットに書いてあった。

私は、一弥の目の前で叫び声を上げて壁を殴りつけるという虐待まがいの事をしてしまったときから、いつか自分が虐待してしまうのではないかという恐怖を抱き続けていた。ベッドにごろっとして横になり目を閉じていると、一弥の泣き声がどんどん近くになってくる。来るな、来るな。私の虚しい願いは届かず、寝室のドアに一弥の手が鈍く当たる音がする。上手に叩くことが出来ないのか、頼りないもたれかかるような音を聞き続ける事が出来ず、私は一弥に当たらないように僅かにドアを開けた。

一弥はつかまり立ちしているようで、その僅の開きでバランスを崩して尻餅をついた。火の点いたようにびゃーっと泣き声がして、私は俯いたまましゃがみ込み手を伸ばした。一弥を抱き上げとんとんと背中を叩く。一弥は泣き止まない。泣き声が叫び声に変わっていく。昼寝をしていないため眠たいのだろう。ゆらゆらゆすると、一弥は暴れて嫌がった。再びダイニングに一弥を置き、トイレに入った。トイレの便座に座り両手で顔面を押しつける。涙が出た。腕ががくがくしている。昨日の泊まりと今日のばたばたで体が疲れ切っている。

これ以上抱っこは出来ない。親指を咥え強く噛んだ。再び一弥の声が近くなる。ドアを叩かれる前に私はトイレを出て一弥を視界に入れないようにダイニングを通って物置と化している四畳半の部屋の押し入れに入り襖を閉めた。真っ暗な押し入れの中、体育座りして耳を塞いだ。殺人鬼に追われたようだった。一弥の泣き声が恐ろしくて仕方ない。来ないで、来ないで。殺さないで。怯えて、縮こまり、再び一弥の泣き声が近づいているに気づいた瞬間どきっと胸が痛む。

お願いだからそのままそこで眠ってくれ。そこにーで泣き疲れて眠りについてくれ。でも泣き声も私の恐怖も高まるばかりだった。ぼろぼろと涙を流しながら押し入の戸を開けると、一弥の吐瀉物に濡れて泣き喚いていた。雑巾と除菌テッシュで吐瀉物を片づけると、シャワーを浴びさせるため一弥の汚れた服を脱がせた。一弥は泣き止まない。恐らくさっき飲ませた薬も吐いてしまったのだろう。口をヘの字に固め、私は黙々と一弥を洗った。

一弥はお風呂用のベビーチェアにすっぽりお尻を挟まれる形で座り、ぎゃんぎゃん泣きながら洗う私の手から逃れようと必死なっている。手を振り払われた瞬間、シャワーが手から落ち私の顔をと胸元が濡れた。頭にがつんと殴られたような衝撃が走り、シャワーの栓をぐっと捻って水の勢いを最大にすると一弥の顔に向けた。一瞬して一弥の泣き声が消えた。

体中を快感が包んだ。私はこの快感を得るためにわざとあんなに苦しんでいたのではないか。キレて一弥を虐待するために、キレる理由を作ったのではないか。私はわざと一弥に追い回されたのではないか、わざと吐かせたのではないか、わざとシャワーを振り払われたのではないか。シャワーの勢いに頭をのけぞらせ、一弥は手足をばたつかせぼこぼこと口元から音をさせている。一瞬「ぐっ」と言いう声が聞こえた。死んでしまう。

私はシャワーをバスタブの中に投げると顔中を濡らしげぼげぼげと水を吐く一弥を抱きしめた。一弥を力一杯抱きしめ、プラスチック張りのお風呂場の中で飛び跳ねた。シャワーのお湯が勢いよくバスタブを走り排水溝に流れ落ちていく。生後半年まで、私は一弥のおもちゃやスプーンや湯冷ましを飲ませ、自分の狂乱に付き合わせている。母親に殺されかけ叫ばれ抱き上げられ飛び跳ねられている一弥は、幸せだろうか、不幸だろうか。

「どうしようか。私一弥のこと虐待してるのかもしれない」
「かもしれないって何、何したの?」
 大量の水を飲みぐったりとして一弥を寝かしつけ、私が電話を掛けたのはユカだった。浩太でも母親でもなくユカだった。虐待してもいると知っても私を軽蔑しない人は、ユカしかいなかった。
「このままじゃ殺しちゃうかも知れない」
「かずちゃんは今どうしてるの?
「今寝たところ」
「どこか怪我とかしてる?」
「してない」
「私も何度も何度も殺してやろうかと思ったよ。ほんと育児は辛かったし今でも辛いよ。でも駄目だよ。そこで終わらせちゃ駄目だよ。絶望こそが起爆剤なんだよ。絶望する事でのみ人は起爆できるんだよ」
「お願い、意味わかない事言わないで」
「起爆は絶望した人にだけ可能な自己治癒なんだよ。子どもにとか幻想としての母性を恐れて攻撃に走るのは良くない。攻撃は常に弱者の逃げ道で、そんな事をしても必ず負ける。涼子が今すべきことは攻撃じゃなくて起爆だよ。涼子はそうする事でしか救われない」

 ユカは頭がおかしいんだ。話が通じない、ユカは何事にも傷つかない、傷つけられないのだ。たとえ彼女が夫を亡くしたとしても、輪ちゃんを亡くしたとしても。彼女は絶望して例の起爆をするのだろう。輪が死んだら生きていけないよとユカは言った。でも彼女はそう思って見ようしているだけじゃないだろうか。

ユカは変わってしまった。元々変な女だったけれどこんなに話が通じない人間ではなかった。きっとユカは「小説を書く自分」というフィルターを通じて世界を見ているせいで、現実からかけ離れた世界を生きるようになってしまったのだ。彼女は本当の絶望も本当の恐怖も本当の愛も知らない。彼女は現実をゲームのように生き、ゲーム内で本当の幸せや不幸も攻撃している。

二次元の世界に耽溺(タンデキ)しているオタクに対するのと同じような嫌悪感が湧く。ユカは現実を生きていない。そういう安全な場所から現実を生きる人たちを批評して、下界に住む奴らを馬鹿ばっかりだと嘲っている。何でそんなことに傷つくてんの? 何でそんな事に苦しんでんの? 笑って上から見下ろしそこから降りようともしない。どんなに手を伸ばしても届かない処に彼女は生きている。そして、階段もエレベーターもないのにこっちにおいでて手を振るのだ。

もう大丈夫落ち着いたから。そう言って電話を切ると、私は寝室に戻って一弥の隣に寝転がった。まだ髪の毛の湿る一弥があまりに静かで、息をしているかどうか口元に手をかざして確認する。小さな吐息が私の手を温めた。小さな口と鼻を両手で塞ぎ、ばたつく一弥に馬乗りになってもがき掻き苦しむ姿を見つめながら一弥を殺していく想像をする。

私は立ち上がり、洋服ダンスの上の小物入れの中から「虐待を防ぐために」と書かれたリーフレットを取り出した。子どもの虐待とは、というページに「子どもがつらい思いをしていれば虐待です」「親も苦しんでいるはず。一緒に考えましょう」「子育ては社会の課題。地域で子育てを応援しましょう」とあり、児童相談所の電話番号が印刷されている。

私はリーフレットを畳むと小物入れに戻した。その場に座り込んで床に顔を押しつける。こんなに孤独だった事があっただろうか。ダイニングに行くとパソコンを立ち上げGoogleのトップ画面を表示させた。助けて助けてと呟きながら「助けて」と打ち込んで検索ボタンを押す。お門違いなページしかヒットしない。私を助けるものはインターネットにもない。携帯にもない。家庭にもない。自分の中にもない。多分そんなものは存在しない。
つづく 第八 五月
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