私は抗鬱剤を飲むという選択は自分自身で自分をコントロールする事だと思っていたのに対し、彼は抗鬱剤を飲むという事は外から与えられた選択であり自分自身のそれではないと言った。「誇りある人は幸せになる薬を飲まない」。央太の発した結論が、私からコントロール感覚を奪った。

本表紙 金原ひとみ著

第六章 ユカ

「広告 既存の避妊法嫌い、快感をこよなく愛するセックス好きのゴム嫌い外だし。ではなく膣内射精できる特許取得「ソフトノーブル避妊具、ノーブルウッシング(膣内温水洗浄器)」を用い、究極の快感と既存の避妊法に劣らない避妊ができる」

「央太が死ぬ夢を見た。ある日突然央太が死んだにも拘らず、私は泣き悲しみもせず、淡々と仕事と育児と家事をこなしている。でも私は、自分が央太の死を本当の意味で理解していないことを知っている。近いう内に、私はふとしたきっかけで一瞬にして央太の死を理解してしまう。そしてその瞬間私は発狂するに違いない。そう思いながら、いつ理解が訪れるのか心の奥底で怯えながら央太のいない世界を平然と生き続けている」

 昨日の夜、央太へのメールの最後にそう書いた。昨日の朝、私は足元から浸水してくるような恐ろしさに包まれて目を覚ましたのだ。央太からの返信には、「何か気持ちが悪い夢だね」という感想と共に、彼の夢の話が書かれていた。

「俺も今日奇妙な夢を見た。ボルヘスの巨大な思考の真ん中に寝そべっていて、何処からどうやって手をつけたら良いのか分からず藻掻いている、っていう夢」
 そう言えば、央太は最近ボルヘスの本を読んでいた。朝六時半、朝日をカーテンに遮られた真っ暗な部屋の中、コンタクトを入れていないためぐっと顔を画面に寄せてまま、私はメールを「ota」というフォルダに移動した。

 別居を始める前、このパソコンに央太から一通のメールが届いた。フォルダが添付されたメールの本文には「瀬良さんの」と一言あって、私はその数日前、瀬良さんの論文がサイトから削除さている、と央太に話をしたのを思い出した。文章で保存してあるから送ってあげるよと彼は話していたのだ。

しかし添付されていたのは瀬良さんの論文ではなかった。彼が添付するフォルダを間違えたのだ。フォルダに保存された四つの文書フォルダに書かれていたのは、央太の文章だった。私は途端に平静を失った。静かにパソコンに向かい央太の文章を読み進めながら、自分がどんな気持ちでいるのか分からないほど混乱していた。

妻への畏怖、苛立ち、他の女への欲望、子どもも含めた家族そのものを受け入れがたい様子。そういう、私に対する裏切りともとれるような内容への混乱もあった。しかしもっとも私が央太に対して発したはずの言葉を、私に似たキャラクターが発していたのだ。日常会話を小説に生かすなど、デビュー以来日常的に行ってきた事であるにも拘わらず、私は自分でも意外な程の怒りと屈辱を感じていた。

それはきっと、彼の文章が小説ではなかったからだ。彼は自分の体験を日記のように書き記しながら、私から名前を剝奪し一つのキャラクターに落とし込んだのだ、それが私には耐えがたかったのだ。夫の文章を読みながら私は、「こういう男と付き合うべきではなかった」という深い後悔の念に駆られていた。

毎週ジャンプを読んでいる男とか、アウトドアが好きな男とか鏡の前で筋肉を強調するポーズをとる男とか女子高生もののAVが好きな人とか、そういう男と付き合うべきだったのだと。私はプリンタを起動させ全ての文章を二部ずつプリントすると、それぞれファイルに挟んで衣装ケースの奥と編集者からもらったキューバ土産の葉巻を保存するために買ったヒュミドールに仕舞い、二つのUSBメモリーにフォルダを保存しメールを削除した。私は、私が永遠に知り得ないはずの夫のモノローグを手にしたのだ。そう思うと目眩がした。

 激しく混乱した挙げ句に、私はもう二度と精神的に夫を受け入れることが出来ないだろうという結論を出した。しかし二時間後にその結論は覆った。私は彼の文章を読み。もう彼を受け入れらないと思い、終いには彼に対して異常なまでの愛おしさを感じたのだ。出会った頃のように狂おしく彼を愛されずにいられない自分を感じた。

私はずっと、彼は私に溶けない他人なのだと理解すら出来ないのだ、と気づいた事が本来の愛を喚起させたのかもしれない。その感情の変化について私はあらゆる可能性を考えて来たけれど、自分自身がどこまで分析を拒んでいるように、腑に落ちる結論には至らなかった。とにかく私は夫の書いた文章を読み、夫を嫌いになって、また好きになったのだ。夫は間違ったフォルダを添付した事に気づかないようで、私は一方的に夫への好意を募らせていた。

 それから数ヶ月後、夫は別居を提案した。私の中での愛情が再燃し、関係が改善し始めた矢先の事で、何故彼が別々に暮らしたいと言ったのか私には理解出来なかった。このまま仲の良かった頃のような関係に戻っていくのではないかと思っていた私には、受け入れがたい申し入れだった。

でも私たちが別々に暮らすことになった。夫が出て行き、私は更に夫がから逃れられなくなった。離れれば離れるほど引力が働いて、私は夫に吸い寄せられていった。結婚したばかりの頃は何もかもが単純だった。互いに好きだから一緒になった。互いに好きだから一緒にいた。でも今、私たちは好きだからという理由だけでなく色々なものが複合的に合わさった結果、一緒にいなければならない何らかの衝動を抱えているという感じがする。

愛情はある。夫への強烈な愛情が未だに激しく私を苛む。でも愛情と同じくらい大きなものが、術後の癒着のような邪悪な形で、私たちを離れなくさせているように感じる。

 ガタンっ、と大きな音がして振り返った。ばたばたと足音がして、暗い部屋の中に光が差し込む。ママー、と駆け寄ってくる輪を抱き上げ、パソコンを閉じてリビングに出た。パンと魚肉ソーセージとヨーグルトを出すと、NHKの教育番組を点けて顔を洗いに行った。最近は、放っておいても一人で色々と時間をつぶしてくれるようになった。零歳の頃に比べれば雲泥の差だ。

コットンを染み込ませた美容液を叩き込みながら、今まさに零歳児の世話をしている涼子の事を思い出す。近々また涼子を誘って食事でもしよう。そう思いながら、夫の文章を読んだことを思い出した。私はあの文章を読みながら、人の部屋に設置された盗聴カメラの映像を見ているような不安と緊張と罪悪感を覚えていた。

ドリーズの動画で涼子が見ているであろう一弥を観察している時にも、そういう緊張感を覚えていた。私はそうした人の秘部を見るとその人のことが好きになる。人を好きになりたいから、人を覗き見たいのかもしれない。この世の中には、この世に生きるすべての人には、自分には理解出来ない原理があるのだと思う事でのみ、私はこの世とこの世に生きる全ての人を許せるような気がするのだ。

 寝室に戻って充電気に差していた携帯を取り上げると、時間確認した。今日はゆっくり支度出来るなと思いながらローテーブルに立てた鏡に向かうと、輪が不思議そうに私を見つめているのに気がついた。

「なあに?」
「電話しゅるの?」
「しないよ。時間見ただけ」
「しょっかあ」
 時間知っているの? と言うと、輪は黙ったまま数回頷いた。そうなんだ、と顔を緩ませて輪の頬を撫で、ファンデーションのパフを顔に滑らせる。輪は時間という概念がないせいか、数ヶ月前の出来事を昨日起こった事のように話したり、五分前の事を遠い過去のように話したりする。確か、私が時計を読めるようになったのは、幼稚園の年中くらいだったように思う。きっとあと三年くらいは、彼女は時間という概念の外側で生きているのだ。

 テレビを見ていた輪が突然私の方に向き直って言った。思わず笑って、買えるかなあと言うと、輪は「時間買って」「時間たい」と繰り返して泣き始めた。欲しいという物をほとんど買い与えてきたせいか、輪は何でも買えると思っている節がある。

「分かった分かった。今度買ってあげる。今日は時間屋さんはお休みだから、また今度ね」
 輪は頷いて涙を拭うと、ぐずぐすと鼻をすすってテレビを見始めた。子供だましとはよく言ったものだ。私は輪と話している時にだけ「相手は私の言葉を私に伝えたい意味とは別の意味に受け取っているのではないか」という疑いが挟まれない人間関係は、疑いが挟まれる人間関係に比べて純度が高いが、濃縮五倍のめんつゆを飲み干すように胸焼けするものでもある。

ドリーズに輪を送り、近くのカフェに向かっている途中、道路を挟んで向こう側の歩道に涼子の姿を見つけた。私は一瞬手を挙げかけて黙ったまま立ち止まり、その場から涼子をじっと見送った。今月の初めに涼子とドリーズで再会してから。数回二人でランチに行った。この間は運動会で初めて涼子の旦那を見た。一弥を挟んで旦那と並ぶ涼子は過不足ない家庭を持つ主婦に見えた。

しかしその印象に反して、ドリーズのカメラはストーカーのように一弥を追い続けている。零歳児クラスと一歳児クラスを見渡せる「カメラ1」は一弥が預けられている間、ほとんど涼子に独占されているのだ。彼女の事をもっと知りたいという気持ちと、遠くから眺めていたいという気持ちがある。私は涼子とかつて高校時代のような関係に戻る事を警戒していた。私はもう涼子を見失いたくないのだ。

 チキンベーグルとラズベリーソーダを載せたトリーを持って、テラス席に座った。ノートを開き、左手でベーグルからチキンとチーズを抜き取って口に運びながら、右手でノートに「涼子」と書きつける。万年筆のたっぷりとしたインクがじっとりと紙に染み込んでいく。

「倹約、貯蓄、夫に死亡保険、子供にも学資保険、三十代前半までにマンション購入が夢。幸福を目的に生きている。現実的なものを幸福と交換していく生き方。等価交換の価値観。彼女はとってスロットのコインは一枚二十円であり、それ以上でも以下でもない。これだけの事をしたら、これだけの見返りが戻ってくると信じている。気弱な性格ゆえその要求に応えがちな夫の性質が、彼女の等価交換の価値観を増強している。赤ん坊にその価値観を適用出来ないため、育児に多大なストレスを感じている」

 そこまで書くと次のページに「五月」と書いた。
「ストーリーで世界を把握しようとする性質。自分の過去をありがちなドラマ的ストーリーに当てはめて考える傾向。男にだらしなかった下級階級の母に対する憎しみと、いじめられっ子だった自分のコンプレックスを糧に成りあがったが、子どもが出来たことでコンプレックスが薄れ仕事への意欲喪失(?)劇場型の夫と内気な娘とヒステリーの母親が、彼女のストーリーを構成する重要なキャラクターとして上手く機能している。「悲劇のヒロインの挫折と再生」彼女はこのテーマを永遠に演じ続ける」

 そこまで書いて万年筆のキャップを嵌めた。こうして人を安易にカテゴライズして悦にいる私の姿は、人の目にどれほど気持ちの悪いものに映るだろう。自己嫌悪を感じた瞬間には、小説家なんてそんなものだ。そもそも人間なんて建前と体裁を取り払えば誰だって気持ちの悪いものだ、裸になってそんなに恥ずかしい? という自己欺瞞と卑しい露悪趣味がこういう事をする自分を肯定してしまう。

恥ずかしいに決まっているじゃないか! 小説家である事を印籠のように掲げるな! お前は小説家になった事でその恥ずかしい性質を社会に許容されてしまった悲劇の動物だ! 裸になるってそんなに恥ずかしいか? なんてよく言えたものだ! チキンを全て食べてしまうと、私はベーグルを脇の草むらに放った。すぐに雀がやって来て、パンをついばみ始める。クサクサした気持ちで雀を踏みつぶしてやろうと思っていると、大きなカラスが上空からものすごい勢いで飛んで来た。

声を上げそうになるのを抑え、わっと顔を伏せようとした瞬間、カラスはパンをついばんでいた雀を一匹咥えて流れるように飛び去った。散り散りに飛んで行った雀たちが、様子を窺いながら一匹、また一匹と戻ってくる。私はあの、一匹だけ捕まってしまった雀だ。つつましく恥部を晒して人のおこぼれで飢えを凌ぎ、最後には強大な敵に呆気なく食われてなくなる。

 一度舌打ちをすると、私はバッグの中のピルケースを取り出し、ツリーを一錠飲み込んだ。ミカに紹介されたヘッドショップから大量にツリーを購入して以来、ツリーは私の日常に溶け込み今や自分の体の一部のように感じられる。耐性から回復までのインターバルが短いせいで常用が止まらないのだ。明日は飲まない、私はツリーを飲むたび固く誓う。

そして「十二時を過ぎたら明日、ではなく朝起きたら明日、だ」とか「そもそも今日とか明日って何?」などと適当に屁理屈をこねくり回して結局すぐに飲んでしまう。初めて飲んだ時物足りないと感じたその効き方は、百五十錠もある、という状況の中では「いくら飲んでも依存しない」「いくら飲んでもなくならない」という矛盾した二つの安心感を産んだ。

 パソコンを開いて溜まっていたメールに返信を書き始めた頃、隣のテーブルに座った学生二人が学祭か何かの話を始めた。「俺はやっぱりおにぎりでいきたいんだよ」「熱血な感じの男の子がそう言って憤りを露にした。「何でたこ焼きじゃないんだ何で焼きそばじゃないんだって皆言うんだろ? でもおにぎりの何がいけないわけ?」。

一方的に話されている男の子は「はあ」と繰り返しながらへこへこしている。私はそのおにぎりに固執する男の子が気持ち悪くて憎くて憎くて堪らなくて憎すぎるあまり好きになっておにぎりでいい! と言いたい衝動に駆られた。煙草で口を塞ぐと、私は奥歯を嚙みしめ首を竦めたままあっという間に全ての返信を書き終えた。

 髪が薄くなったような気がするんだよ。窓ガラスに映る自分の生え際を見つめていう央太に、ふうんと呟いて煙草に火を付けた。ピクルスをつまみ、ラッパのような形をしたグラスを注意深く持ち上げる。

「そんな気がしない?」
「いつも言っている」
「違うよ。この数ヶ月の間にものすごく薄くなったんだよ」
「二ヶ月に一回は全く同じセリフ言ってるよ」
「違うんだよ今回は本当に薄くなったんだよ」
 央太のおでこを見つめて、そこが特にいつもと違った印象を与えない事を確認して「別に何ともないよ」と答えても、央太は難しい顔で窓ガラスを見つめていた。
「私この間何とかって民族のドキュメンタリー見たの」
「へえ、何? ヤノマミとか?」「ううん。ヤノマミとか?」
「ううん。ヤノマミじゃなくて。忘れちゃったけど、何とかって民族。英語の番組でよく分からなかったけど、今でも生贄の儀式があって、結構凄惨なシーンがあって、まあモザイクがかかってたけど」
「人が殺されるシーンがあるの?」
「ううん。撮影クルーは儀式には参加出来なくて、儀式の様子を撮ってたの。残酷な動画探し続けてたら行きついただけなんだけど」
「ふうん。どこの国の?」
「分かんない。その民族の酋長が禿げてたの」
「そうなの?」
「うん、央太、乞食は禿げないって言ってたでしょ? 洗わないから禿げないんだって。洗うから禿げるんだって」
「うん。実際乞食は禿げている人っていないんだよ」
「でも酋長は洗ってないんだよ。干ばつ地帯だったし。でも禿げてたの」

 そうか洗わなくても禿げるのか、と独り言う央太にもう一度「全然禿げてないよ」と声を掛けると、私はマッシュポテトに手を伸ばした。ソーセージ、ロールキャベツ、牛フィレステーキ、次々と出てくるドイツ料理はどれも美味しく、ロールキャベツを数口食べたところでお腹が一杯になった。フィレ肉を一口食べると、私はビールで口の中に残るソースの味を流し込んだ。互いに最近の仕事について話ながら、昼過ぎに飲んだツリーがいつの間にか完全に抜けていることに気づいた。いらっしゃいませという声に顔を上げると、一組のカップルが入って来たところだった。

「川島さんと秋吉さんがずっと下らない話をしてて、もうほんと苛々してさ。幸田さんがトイレ行った時にそろそろ仕事の話をって言ったら、何こいつ興ざめな事言ってんの、みたいな顔をするんだよ」
 央太が憎々しげな口調で、一昨日の打ち合せに関してそう零した。私はちらりとカップルの女の後ろ姿を見やった。

「それで、幸田さんは満足そうだったの?」
「幸田さんはまあ満足そうだったね。結局誰も真面目な話なんかしたくないんだよ。打ち合わせっていうのはそうやって皆でわいわいネタ出し合って盛り上がればいいって思ってんだよ」

 私も編集者との打ち合わせでまともな話する事少ないよ、そう話している途中、振り返ったカップルの女と目が合った。ブスだ。私はその女に対する結論を出すと、央太に向き直った。女は女を見るとき自分よりブスか美人かを気にする生き物だ。

そしてどこか一つでも外見に自分より劣った点を見出せなければ、その相手とは決して仲良くなれない。例えば五月は圧倒的に美人だけれど、私は彼女を自分とは他ジャンルの女と思っているから仲良くなれるのだ。私はエンターテイメント、五月はアート、みたいに区別して。

「俺さあ」
「うん」
「昔バイトしてた会社で、普通の男が一年かけて乞食になっていくとこ見た事があるんだよ」
「会社からその男を見てたって事? それとも会社にいた男が乞食になっていったって事?」
「会社の近くの高架下に乞食のたまり場があって、窓から見てたんだよ。最初はスーツ着た普通のおじさんだったんだけど、一年後にはどこを見ても乞食、って感じになってて」
「髭もぼーぼーって感じ?」
「髭は剃ってたと思うけど、最後はもう誰が見ても乞食って感じになったんだよ」
「その人、今もそこにいるの?」
「分かんないな。もういないんじゃない? 
十年以上前の事だし」
「央太は、その人の事見ながら、その人に自己投影してたの?」
「いや、そんな事はないけど。でも何か、ドキュメンタリー番組見ているみたいでさ」

 ふと、最近行きつけの喫茶店で入った新人店員の事を思い出した。気弱そうでありながら、強烈なテヘロ臭いのする爽やかな青年だ。胸の谷間や太ももに彼の視線を感じると、彼は性的にリードしている自分が目に浮かぶ。それまで自分の中に微塵も存在しなかった人格が、歳を重ねるにつれ次々現れてくるのには驚かされる。

仕事でも、ちらほらと自分より年下の編集者や作家が出始めている。そういう人達と打ち合わせをする時、私はある種の先輩的な顔や話し方をしなければならないのだ。自分にそんなキャラクターが芽生え始めた事が遺憾で仕方ない。自分は永遠の後輩、永遠の妹、永遠の下層階級だと思っていた。状況と年齢と立場で、人は気づかぬうちに立ち位置を底上げされしまうのだ。その悲しみたるや想像を絶する。

「今日泊まってかない?」
「いや、今日は精算があるから会社戻らなきゃいけないんだ」
「浮気?」
「違うよ。疑うんなら会社に電話すればいい」
 央太はうんざりしたように笑って言った。カウンターの向こうの掛け時計を見やって、そろそろ行こうかと言うと、央太はもうこんな時間かと呟いて、最後に一本と言って煙草を咥えた。

 ねえおうちゃん。やっぱり泊まって行かない? 自分が珍しくわがままを言っている理由がよく分からなかった。タクシーを停めてようという所でそう言われた央太は、軽く迷惑そうな顔に滲ませどうかしたのと眉を上げた。
「何か辛い事でもあるの? 輪ちゃんと上手くいってないとか」
「輪とは仲良くやってるよ。何か寂しい時があるんだよ」
 違う。寂しい気持ちなんて少しもない。央太を困らせるために言ったのか、寂しいという噓の気持ちをアピールするために言ったのか、どこか深層では浮気を疑っているのか、ただ人肌恋しくて一緒にいる時間を引きのばしたいのか。どんな目的の上で発された言葉なのか全く分からない。
「寂しいだ?」
「よく分かんない。違うかも」
「土曜日明後日じゃん。すぐだよ」

 そうだねと言って、央太の停めたタクシーに乗り込み、窓の外に向かって手を振った。ドリーズのビルに到着すると、一階のトイレでドイツ料理を吐いてからエレベーターに乗り込んだ。四階で降りると、ガラスの自動ドアの向こうから輪が走り寄ってくるのが見えた。満面の笑みで、向こう側からばんばんガラス戸を叩いている。

離れて離れて、とジェスチャーをすると輪は笑顔のまま数歩下がった。先生がタッチスイッチを押して開いたドアをすり抜け、輪は私に抱きついた。最後の一人だったようで、保育士も二人しかいない。

以前は保育園を延長する事に罪悪感を抱いたけれど、最後の方になると先生が付ききりで遊んでくれ、好きなおもちゃで遊べるためか、いつもよりご機嫌な事が多い。案の定、輪は「帰らなーい」と私の手をすり抜け、さっきまで遊んでいたという大きなボールを追いかけ始めた。

 家に帰って寝かしつけを終えると、ペットボトルのコーラを飲みながらダイニングテーブルで連載小説の推敲を始めた。推敲を六回繰り返した原稿はもう既にどう直すべきか分からなくなっている。原稿に零れたコーラを足元に落ちていたバスタオルで拭った。昨日は確信を持って「素晴らしい」と思えた原稿が、今日は少しも面白いとは思えない。原稿を書き上げてから締め切りまで、いつもこうして一喜一憂してばかりだ。

つまらない原稿は全く頭に入らず、一枚板のテーブルに走る細い亀裂にボールペンをなぞらせていると、電話が鳴った。
「ユカさん?」
「うん。オギちゃん?」
「うん。今何してた? 話していい?」
「いいよ。今推敲してたとこ」
「連載の?」
「そう」
「邪魔した?」
「平気」
「俺は執筆してた」
「何の?」
「コラム。何か最近虚しくなるんだよ。一人で本とレコードに囲まれた部屋でパソコンに向かってると。歳かな」
「外で書けばいいのに。短いものだったら携帯で書いてもいいんだし。ライブやった直後とかだったら凄い物が書けるんじゃない?」
「うーん、俺は割と切り替えが必要なんだよ。はいこっちらザックのオギちゃん。こっちからミタラス。打ち合わせの時は萩窪ですみたいな。そういうとこ分けていないかとぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ。ユカさんもそういうとこあるんでしょ? チャンネルっつーか」

「あるにはあるけど、私の場合は仕事は文筆だけだから。オギちゃんみたいに色んな事やっていると、ちょっとそういう回路が違うんだろうね」

「色んな人形使い分けて腹話術やって、ピエロみたいに皆沸かせてる感じがして、何か時々馬鹿馬鹿しくなるんだよ。例えば今俺に彼女が居たらその彼女に全部の俺を見てもらえるけどさ、俺一人で色んな役やって、家に帰っても一人、って何か最近くるんだよ」

 オギちゃんは央太と同い年だ。もし央太が結婚しておらず、子どもがいなかったら、三十半ばを迎える彼は一体どんな生活を送っていただろう。
「自分に対するコントロール感覚がないんじゃない? あれもやりたいこれもやりたいで増やしてきた仕事をコントロールしていると思ってたのに、気づいたら仕事にコントロールされているような気がして、自分はこれまで何をやってきたのかって考えちゃうみたいな、何か私、ありきたりな事言ってる?」

「いいんだ。ありきたりの悩みだから。まあただ単に彼女がいたらなあって思うんだよ最近。俺もまあ、日和ったな」
「マリリン・マンソンはよぼよぼのおじいちゃんになってもライブでメンバーにフェラさせるかな」
「フェラさせないだろうね」
「寄る年波に抗い過ぎてもね」
「ユカさんってそうさばけてる人だったけ?」
「私、二十代に入ってから、色々必然的なあれこれで変化を受け入れざるを得ない事ばっかりだったから、そういう自分を肯定しないとやってられないのかも」
「もっと無邪気に自己肯定しなよ」
「無邪気なつもりだけど」
「作家ってひねくれてんな」
 かつてなく、オギちゃんが近い存在に思えた。私はオギちゃんを近い存在に感じつつも、その近さを見て見ぬふりするような付き合い方をしてきた。私は彼に近しい人と認識することに抵抗を感じているのだ。それが彼の麻薬依存体質を敬遠しての事なのか、同じ分筆業である事への嫌悪なのか、無邪気に単純に生きたいという自分自身の虚実ないまぜになった願望を阻害する者であると無意識的に警戒しての事なのか、よく分からない。

 私たちは三十分ほど話して、来週のCLOSERのイベント日に合わせて食事の約束をしてから電話を切った。

「最近ケームが楽しくない」。結婚したばかりの頃、央太がそう話していた事があった。RPGゲームがストーリーを介して提示する難解なパズルや戦闘を繰り返し、苛々したり喜んだりしていると、自分が猿回しの猿として作り手側にコントロールされているような気がするのだと彼は説明した。

自分のコントロール感覚他人に奪われる苛立ちは私にも理解できた。私は自分の意志に反する現象を自己の喪失として忌み嫌い、ハイになりたい時はハイに、鬱になりたい時は鬱に、泣きたい時に泣き笑いたい時に笑う、という自分の意志と現実を結び付けるために薬やドラッグ、小説や音楽やショッピングなどの助けを借り、なりふり構わず努力を続けてきた。

央太はゲームの話で私の同意を得ると、宗教の例を挙げた。ボスを倒す事、ゲームをクリアする事、神に近づく事、神に許される天国に行く事、を幸福としそれを目的としたシステムに自らを組み込むのは間違っていると言うのだ。私は疑問を抱いた。ゲームをやる事、宗教に入る事を自分自身で選択しているとしたら、それはコントロールされる事を選択していると言えるのではないか。

猿回しの猿が自分から志願して猿回しの猿になってっているとしたら、そこにコントロール感覚を喪失する理由はないのではないか。そもそもあなたは一時的なルサンチマンを求めてゲームをやっていたのではないか。という私の反論に、央太はもちろんそうだったけど前置きした上で、でも俺は自分が猿回しの猿になっていると気づいてしまった時点で。もう猿回しの猿になりたいとは思えなくなってしまったんだと言った。

次に彼は抗鬱剤の例を挙げ、「飲むべきではない」と断言した。私は自分の幸せも感動も怒りも悦びも悲しみも、全て自分でコントロール出来るのだと全能感を持つことで、それまでアチコチ飛散していた自分自身を拾い集める事に成功したと思っていた。飛散した自分を飛散したまま放置する事は怠慢だと思っていた。

私は抗鬱剤を飲むという選択は自分自身で自分をコントロールする事だと思っていたのに対し、彼は抗鬱剤を飲むという事は外から与えられた選択であり自分自身のそれではないと言った。「誇りある人は幸せになる薬を飲まない」。央太の発した結論が、私からコントロール感覚を奪った。

 央太とその話をして以来、私は自分自身に対するコントロール感覚に対して、それまでよりも無頓着になっていった。自分の中に理解出来ない自分が居て、自分の中にはコントロール出来ない自分がいる、そう思うと気が楽になった。人の中に魔界がある。私はそう思う事にした。今の私にとって。小説を書く事と摂食障害、そしてツリーが魔界だ。小説を書く意味を考え始めたら、私は魔界を隠蔽するために小説を書く自分を殺してしまうだろう。

摂食障害の理由を考え始めたら、私は魔界を隠蔽するため摂食障害を克服してしまうだろう。ツリーも同じだ。つまり私は小説を書き食べ物を吐いたり断食したりツリーを飲んだりという事で、自分の中の魔界を存続させている。きっと私は、ツリーの常用を本気で止めようとは思っていないのだ。

 私はツリーにコントロールされているのか、それともツリーを飲み自分をコントロールしているのか、或いはツリーを斡旋したミカにコントロールされているのか、いやまたは、私にミカを紹介したオギちゃんにコントロールされているのか、だとしたらオギちゃんを産んだ母親に、もっと言えばオギちゃんの祖先に、それなら人間の起源に、それともこの世界に。思考回路が自分にとって都合のいい形に、ぶつぶつと途切れていくのが分かった。原稿をクップで留めると、私はコーラを持って寝室に向かった。

 化粧の仕上げに真っ赤なリップを塗り、白い生地に赤いラインが映えた背中空きナース服に袖を通した。鏡に向かってどこまで屈むと横乳が見えるか確認する。アメリカで買った物だけに、若干サイズが合っていない。パテントのベルトをぐっと閉めると、襟を立て、聴診器を首にかけ、仕上げにジャケットを羽織った。赤いニーハイタイツが目立つけれど、前を閉めれば外を歩けないほどではない。

「おしまい?」
 輪の言葉に頷いて鏡から振り返ると、おしまい、と笑った。針金の入った矢印形の尻尾と、カチューシャの黒い角はぴんと上を向き、きっとした一重瞼の輪は本物のデビルに見える。輪の手を取り、私はヴィトンの真っ赤なバッグを持って家を出た。タワーマンションの真ん中を貫くエレベーターに乗り込むと、乗り合わせたおばさんが輪を見て笑った。
「今日ハロウィンでしたっけ」
「そうなんです。これからパーティで」
「可愛いわねえ」
 輪はニャツと笑い、渡した時から片時も離さないフォーク形の槍をおばさんに向けた。止めなさい、と槍を取り上げると、輪は怒って「やだりんちゃんのー!」と喚き始めた。
「こんな可愛い男の子に刺されるなら嬉しいわ」

 おばさんの言葉に笑いながらエレベーターを降り、マンションの前でタクシーを停めた。輪を隣に座らせ、片手でピルケースを取り出しツリーを一粒飲み込む。輪が保育園で覚えて来たハロウィンの歌を一緒に歌いながら、ピルケースにデパスとハルシオンが入っている事を確認した。二駅隣の駅前で涼子の姿を見つけ手を振る。涼子は黒いサングラスのワンピースを、一弥はドクロ柄のロンパースと、大きなドクロマークの入ったよだれかけをつけいる。

「かずちゃん可愛い。涼子は魔女?」
「そう。帽子は中」
 涼子は大きなバッグを指さして言った。ユカは? という言葉にジャケットを開いて見せると、涼子は大袈裟に苦笑してみせた。
「それって旦那さんの趣味?」
「旦那が好きなのはバニーガール。涼子の旦那は?」
「私そういうの絶対無理だから」

 そう言う涼子は随分と明るく見える。精神的に余裕が出て来たのだろうかと思った瞬間、いやでも今日はドリーズの動画には一弥が映っていたと思い出す。子どもをあやしながら子どもと自分の身支度するのが如何に大変かと愚痴をこぼし合っていると、タクシーは麻布の高層マンションに到着した。

 パーティ開始から三十分が経過したマンションの一室には、それぞれ思い思いに仮装した二十人ほどの人々が集まっていた。ドラキュラや白雪姫、ラムちゃんやシザーハンズのエドワードなど、その念と気合の入れようにはさすがセレブのお遊び、と思わせるものがある。出迎えてくれたつけ鼻を付けた魔女姿のリカさんに注射器を向けて「採血しまーす」と言うとリカさんは調子よく「やだー」と叫んだ。

同じ魔女姿の涼子を、お仲間ですか? と茶化してから紹介した、渡されたシャンパンを飲んでいると、「ユカー」と手を振る五月がリビングの奥に見えた。輪は尋常ではない格好の大人たちにびっくりしているのか、人口密度にやられているのか、動揺しているようだった。輪は動揺している時、思考回路を遮断して自閉する傾向がある。

輪は泣いたり話したりという解決方法ではなく、ただじっと口を真一文字に結び、虚空を睨み付け傍から「毅然としている」風に見えるようなやり方で平静を保とうと努力するのだ。動揺を全く押し隠さず、うわーんと声を上げ母親の胸に顔を押し付けている一弥が可愛らしい。
「五月きれい!」
 五月は立ち上がると、そう? と笑って斜めにポーズを取って見せた。襟の高い真っ赤なチャイナドレスはオーダーメイドだろうか、ぴったりと長身の五月に張り付き、絞り切ったモデルの体型を浮き彫りにしている。すごーい、と隣で涼子が歓声を上げる。

「ユカもめちゃくちゃエロいよ」
「他に取柄がないからね。弥生ちゃんは?」
「あ、あっちでリカさんの娘さんが子供を見てくれてるの。もし離れても平気そうなら二人も子どもと遊ばせときなよ」

 子どもたちの声が聞こえるリビングの隣の部屋を覗くと、十五畳程の部屋で十数人の子どもが遊んでいた。室内用の滑り台やジャングルジム、風船やお絵かきスペースまで用意されている。ママ、パパ友を中心にやるから是非子連れで、とは言われていたけど、ここまで対応してくれるとは思っていなかった。すごーい、と私が声を上げると同時に、輪は私の手を振りほどいて走り出した。

お絵かきスペースに用意されたプーさんのシールを目ざとく見つけたようで、それを手に取ると同時に貼る紙を探し始めた。セパレートのチャイナ服を着た弥生ちゃんが輪を見つけ。りんちゃん! と笑顔で駆け寄った。さすがにモデルの子だ。輪と一学年違いとは思えない背の高さとプロポーションで、ぱきっと着こなされたチャイナ服も幸福そうだ。

中学生くらいの女の子と、前にインタビューの際に同行していた「moda」編集部の女の子が、シールに夢中で弥生ちゃんを無視している輪の様子に笑いながら。「見ていますよ」と声をかけてくれた。あの女の子がリカさんの娘かと思いながら、じゃあよろしくお願いしますと答えると、私は子どもスペースから離れた。

「リカさん。子どもいるって知らなかった」
「私も最初知った時びっくりしたの。シングルだって言ってたから、子どもが居ないと思い込んでいて」
「あんな大きい子がいるなんて。あのくらいになると、もうシッターとかいらないのかな?」
「あの子がシッターしてるわけだからね」
 五月はそう言って笑った。
「リカさん、あの子が三歳の時に離婚して、それからずっと一人で育てきたんだって」
「さすがリカさん。でも大変だっだろうね」
「ね。想像するだけで恐ろしい」
「まあ、実質今私は一人で育てているわけだけど。でも、五月も母子家庭だったんだよね?」
「そうだけど、うちの母親はずっと男探してたし、実際結婚してくれる男が現れたらあっという間に結婚したからね。二人の子どもと三人で生きて行く覚悟なんてなかったんじゃないかな」
「五月は男がいなくても平気でしょ?」
「そう見える?」
 五月が自嘲的に笑って言った。彼女には「強くならなければならない」「一人でいきていける女にならければならない」という強迫観念に近い意志とそうなれない自分に対する自責の念が感じられる。子どもより男を中心に生きている母親を憎んでいるのだろうか。

五月がモデルとしてデビューし、仕事が忙しくなって来た頃、彼女の母親はよく自殺を仄めかして失踪したという。「橋が見える」とか「工場がいっぱいある」などと電話で伝えられるヒントを元に、五月は姉と何度も母親捜しに奔走したと話していた。その頃義父とうまくいっていなかった母親は、社会的に認められ始めた娘に依存の矛先を向けたのだろうと五月は分析していた。

そういう分析をしながら母親に見切りをつけない所など、いかにも二時間ドラマ的なストリートに絡めて取られている感じがする。
「駄目だわ。絶対入らない」
 涼子が一弥を抱っこしたまま戻ってきた。一弥は母親の胸に顔を押し付けてしくしくと泣いている。
「びっくりしちゃうよね。変な人ばかりだもんね」

 五月が一弥を覗き込んで言う。授乳出来るところあるかと聞く涼子を、パウダールームがあるからと五月が連れて行った。リビングと客間を開けっ放し、半立ち食いの形で飲み食いをしている人たちの中には、雑誌でよく見かけるモデルや女優の姿もある。全く華やかな世界だ。何かのパテが載ったカナッペを食べながら低い窓枠に腰掛け、外を見る。

二十八階の高層マンションの一室からは、美しい夜景と東京タワーが拝める。もしゃもしゃとカナッペを噛み砕きながら下を見つめていると、自分が顔面からどんどん降下していき地面すれすれの所で足に巻き付くゴムがぴんと張ってびよんと上に跳ね上がるバンジージャンプの映像が浮かぶ。じくじくと背骨が熱い、私は体を縮めて出来る限り背骨を丸めた。

「土岐田さん」
 見上げると、タキシードを着た長身の男が立っていた。見覚えはあるけれど名前が出てくる兆しはない。
「クルーズの取材の時担当させてもらった奥田です」
「ああ、まつげくれたよね」
 そうですそうです、と笑って彼は隣に腰掛けた。作家にヘアメイクがつくのは、テレビとファッション誌に出る時くらいだ。頼りない記憶ではありながら、随分と細かい事にまで気が廻る人で、やっぱヘアメイクは女より男だなあと思ったのを覚えている。

「土岐田さんが子供を連れているのを見てびっくりしました。子供を産んでも全然変わらないですね」
「いや、多分色々変わったはず」
「うちも、今十一ケ月の子どもがいるんです」
 柔らかな口調と細やかな気配りから完全にゲイだと思い込んでいた私は、おめでとう大袈裟に言い、男の子? 女の子? と取り繕うように聞いた。
「男の子です。今向こうで妻と遊んでいます。土岐田さん、本出すペース変わってないですよね? 育児しながら執筆って大変じゃないですか?」
「もう地べたで這いつくばって書いているよ。奥田さんは?」
「うちは、奥さんが仕事復帰しないって言い始めてて、家の事はやってくれているんであれですけど。でもやっぱり大変です」
「育児してる?」
「まだまだです。週の半分はお風呂入れますよ。寝かしつけもやっています」
「ほんとに? すごい。零歳でそこまでやってるんだったら満点でしょ」
「事務所に入っているから、多少は融通はきくんで、仕事ちょっとセーブしてもらってるんです」
「偉い。鑑だね。奥さんが羨ましい」
「でもやっぱりストレス溜まるみたいで、たまにヒステリーになって大変ですけどね」
「まあ、ヒステリーは女にとって年に数回の祭りみたいなもんだから」
「前に、俺のばあちゃんが言ってたんです。女の人って時々わーってなるけど、ほんとは甘えたいだけなのよ、って」
「いい話」
「それ聞いてから、修行だと思ってうんうんって流すようにしてるんです」

 にっこり微笑みを浮かべ、シャンパンをぐっと飲み干した。何か飲みます? と立ち上がって聞く奥田さんに「じゃあコーラを」と言うと、私は外に向き直った。ぽろぽろと一気に零れ始めた涙を、指先で拭った。何故こんなに感動しているのだろうと思いながら顔を上げると、窓にナースキャプを付けた自分が映って、私は涙を止めた。奥田さんに声をかけられ振り向くと、コーラを渡されると同時に紹介された。
「うちの奥さんです」

 初めまして、と微笑む彼女は、茶色い髪をすっきりとアップにまとめ、小さなティアラをつけ白いドレスを着ている。童顔で小柄な彼女は、子どもがいるようには見えない。
「シンデレラだ」
 私が声を上げると、恥ずかしい、と呟いて彼女は顔を俯けた。そっかだから奥田さんタキシードなんだ、と言うと奥田さんも恥ずかしそうに笑った。百八十越えのモデル体型の奥田さんと、百五十前半であろう小柄な奥さんが、妊娠出産を経て助け合いながら零歳児の育児をしているのだと思うと、この世界には私の見えない所で何千何百万もの奇跡が生じているのだと気になる。彼女のティアラがきらきらと光り輝き、その輝きが太陽のように強烈で私は灼熱の砂漠に放り出されたような枯渇を感じた。

「二人ともすごく綺麗。チビちゃんは? 靴のコスプレとかじゃないよね?」「息子はタキシード柄のロンパースで」
 王子様が二人かあ、と言うと、彼らは顔を見合わせて笑った。後で子ども紹介してねと手を振りながら、激しい高揚に胸がどきどきと痛む。私はシンデレラの仮装をした奥田さんの奥さんに乗り移ったかのようだった。強烈な幸福感に体が弾け飛びそうだ。

「お腹いっぱいになってちょっと機嫌良くなったみたい」
 パラパラ漫画のように次から次へと色々なことが起こる。頭がパンクしそうだ。
「ほんとだ。笑っている」
 さっきまでと打って変わって、一弥はにこにこと興味津々な様子で周りの人を眺めている。涼子は一弥を指して「ちょっとトイレ行きたいんだけど、抱っこしてもらっていい?」と聞いた。いいけど泣かない? と言いながら立ち上がり一弥を受け取る。一瞬不思議そうな顔をしたけれど、一弥はすっと私の腕の中に収まった。

男の子はごつごつしていると言うけれど、やっぱり小さい子はふわふわしている。むちむちとした手足が、私の腕の中で不自由そうに動く。可愛くて仕方ない。かずちゃんかずちゃん、と歌うように呼び掛けると。にこっと笑って小さな目で私を捉える。ママはトーイレーだよ、歌いながらお腹をこちょこちょするときゃっきゃっと声を上げた。

私は自分が彼の母親であったらと想像して激しい高揚を感じる。首筋に息を吹きかけると、一弥は身をよじって笑った。高い高い、と持ち上げかけて、自分が今ツリーを飲んでいる事と尋常ではない幸福感に包まれているのを思い出してとどまる。赤ん坊とは何て可愛いのだろう。

自分が子供を産むまで子どもが可愛いと思えた事など一度もなく、輪が産まれた後も赤ん坊の内は「何て面倒な生き物なんだ」と苛立っていたにも拘わらず、輪に赤ん坊よりも子どもという言葉が相応しくなってからは他人の赤ん坊がどうしようもなく可愛く見える。
「ごめん、ありがとう」

 戻ってきた涼子が一弥を抱き上げると、我が子を取り上げられたような寂しさが募った。
 十時を回った頃、眠くてぐずり始めた子どもの親たちが次々に帰り始めた。そろそろ輪も眠たいだろうと思って見に行くと、プレイスペースの隅に敷かれた布団で既に眠っていた。おままごとをしながらうとうとしてたんで布団に寝かせました、と言うリカちゃんの娘に色々ありがとうと言うと、リビングに戻ってすっかりデザート系の景色に様変わりしたテーブルから大きなイチゴを摘んで頬張った。

五月から紹介されたモデルのリナちゃんから紹介されたマイという女の子がトイレから戻ってきたのを見つけ、私は彼女の腰掛けた窓際のソファに向かった。
「チビちゃんはまだ眠くなさそう?」
「ああ、さっき見たらまだ元気に遊んでて。うち、いつも寝かせるの遅いんで」
 そうなんだと言いながら隣に腰掛け、乾杯と言って彼女のワイングラスにコーラの缶をぶつけた。
「マイちゃんって、子ども保育園に入れてるんだよね?」
「入れていますよ。入れなきゃ仕事出来ないです」
 男の人が興奮しちゃうから大きな声じゃ言えませんけど、とリナちゃんが彼女をAV女優だと明かした時、彼女は恥ずかしそうに笑いながらも何かしらの尊厳を絶対に手放すまいという強い意志を感じさせる目で私と五月を見つめていた。

 保育園のあらゆるネタを話して笑い合っていると、彼女は警戒の色を薄め、子どもに対する苛立ちや子どもが出来たせいで被る事になった不利益を口にし始めた。思うように仕事ができない事、もっと夫に子供の面倒を見て欲しいという苛立ち、保育園に預ける事や夫に預けて夜飲みに行くことを咎める両親への憤り。とにかく今は子供と離れたくてしょうがない。彼女はそう締めくくって眉間に皺を寄せた。

「私もそうだった。一分でも一メートルでも離れたかった」
「でもそういう事言うと、皆鬼母みたいな目で見て来るんです」
「育児未経験者は子どもと母性に幻想を抱いてるだけ、経験者は、歯を食いしばって頑張ったのに、って自己肯定したいだけだよ」
「そう言ってもらえると気が楽になる」

 彼女はワインをぐいぐい飲みながら、子どもが出来た時に引退を決意した事、実際に出産した後、やっぱりAV女優を辞められないと思い直した事、子どもが出来るまでは仕事をバカにしていたが、自分が心からこの仕事を必要としていたのだと気づいた事、産後に復帰した途端人気が出始め単体を張れるようになった事などを話した。

「私さ、ずっと小説書いていると小説が嫌いになる時があるんだけど、マイちゃん男が嫌いになる事ってない?」
「馬鹿馬鹿しい気持ちになる事はあるかな」
「馬鹿馬鹿しい、ね」
「どんな男見ても、私のじゃないにしてもチンコ晒してAVで抜いてんだろうって思う。もっと言えば、どんな女見ても、お前の彼氏旦那は私たちAV嬢で抜いてんだぞって、皆見下せるっていうか」
 私は笑って、それは最強、と彼女の肩を叩いた。愉快で爽快だった。もっと彼女の本音が聞きたかった。
「何かすごい性格悪い事言っていますね私」
「ねえねえ、じゃあエロゲーとかやってる男ってどう思う?」
「エロゲーやっている男は私の中では男じゃないっていうか人間じゃないからノーカウント」

 エロゲーオタクが、現実の女より2Dの女の方が優れてる、と言うのの逆バージョンだ。よく言った、と声を上げ、私は彼女のグラスにワインを注いだ。理解出来ないものはとりあえず否定、という人たちは私は否定しない。理解出来ないものを取り敢えず肯定しようとする人たちは偽善者だし、それは肯定を装った否定だ。AV嬢がオタクに対して肯定的だったら、私は世の中の全てが信じられなくなるだろう。

 子どもが泣き始め、もう帰らなきゃと言うマイちゃんとアドレス交換して、今度ランチねと手を振ると、テラスのガーデンテーブルにいた五月と涼子に合流した。涼子は酒嫌い、五月は明日撮影、私はツリーとの併用を避けていたため、三人そろってコーラの缶をぶつけた。

「ねえユカ、私さっき輪ちゃんに月取ってっ言われたよ」
「つき?」
 涼子は五月に向かって首を傾げた。あれあれ、私は月を指さした。満月に近い真っ白な月は、トンネルの出口のように真っ暗な空を照らしている。
「何それ。かわいい」
「輪、月見ると欲しいって言うのよ。だから私伸ばして取ろうとして、あれっ取れないなあ、って演技いる事にしてるの。名月を取ってくれろと泣く子かな、って俳句あるじゃん。本当に言うんだなあと思ってさ」
「取れないよって言ったら泣きそうな顔をするから慌てたよ」
「五月は背が高いから取れると思ったんじゃない?」
「そんなデカ女みたいに言わないでよー。でも、弥生って段々ああいう事言わなくなってきてるから、やっぱりちっちゃい子っていいなあって感動したなあ。女の子って何であんなにすぐ大人みたいになっちゃうんだろうね」

「ずっとああいうバカな事言って欲しいもんだわ」
「ユカはいいね。育児楽しんでて」
「楽しんでいないよ。苦しんでいるよ。今私シングルマザーみたいなもんだぜ?」
「ユカみたいなお母さんになりたいよ。育児に苦しまない母親に」
 苦しんでいるって言ってんじゃん。と言っても五月は笑ってはいはいと流すだけだった。
「五月さんも、育児に苦しんでいるようには見えないけど」
「それを言ったら、涼子ちゃんはすごく幸せそう」

 そんな事はない、と強い口調で涼子が反発する。今でも一晩に二回は夜泣きするし、離乳食も嫌いだわ母乳は止められないわ保育園の送り迎えは大変だわベビーカーのってくれないわ腰痛も出るわ旦那は鈍感で育児は非協力的だわ、とおどけたようにまくし立てる。

「でもさ、弥生が三歳過ぎた辺りから、赤ちゃんを見ると堪らなく幸せな気持ちになるの。赤ちゃんを抱っこしているお母さんたちが、本当に幸せそうで羨ましくて」
「五月は二人目欲しいとか思う?」
 うーんと唸って、思ってはいるけどと言葉を濁した。夫との不仲を愚痴っていた人にかける質問しては無神経過ぎたかもと思い、五月は仕事大変だもんねと言うと、まあねと弱々しく笑った。
「私は二人目は三歳差がいいな」
 涼子が晴れやかな声で言う。一瞬にして。ドリーズのあの動画を見ているのは涼子ではないのではないかという疑いが浮上する。育児に疲れ果てているにも拘わらず病的に子どもを監視し続ける母親、というイメージを彼女の晴れやかな言葉を覆した。

「でもセックス嫌なんでしょう?」
「涼子ちゃんセックス嫌なの?」
「子どもが出来てからはもう触らないで、って感じで。胸も張っているし、毎日毎日疲れ切ってるし」
「でもヤなきゃ出来ないわけじゃん。それはいいの? 我慢するの?」
「子作りは別だよ」
 涼子の気持ちはよく分からない。旦那とはヤりたくないけど子作りのためならって。育児は大変だし辛いけど、二人目は三歳差で産みたい。旦那の事を馬鹿にしながら、旦那と別れる事も全く考えていない。彼女には矛盾や破綻があるように見えるけど、きっと彼女の中では何の矛盾も破綻もないのだろう。

「ユカは? 二人目考えてないの?」
「あ、むり。輪で手一杯。とてもとても。ゴムは着けていないけど」
 今出来たら困る。オギちゃんと遊ぶようになってからはずっとそう思ってきた。子作りは少なくとも薬の常用を止めてからだ。つまり私は二人目を作るという決断と共に薬を断つという決断を迫られるという事であって、二つともそう潔く踏み切れる類の内容ではない。でも輪に手がかからなくなっていくにつれ、赤ん坊への欲求が高まっているのも事実だった。一人でいいと決めているわけではない。

いつかもう一人くらい、とは思っている。でもそのいつかを決断する事は、輪と央太との三人での生活や、一人っ子である輪や、一人娘の母である自分を失うという事だ。私は輪を出産した時、初めて失ってしまったものの大きさに気づいて取り乱した。央太と二人だけの世界が崩壊して、圧倒的な存在として輪がその世界に君臨した。たった一人の大切な人であった央太が、二人の大切な人の内の一人になってしまったのだ。

輪と共に退院した日から、私は毎日何度も気絶するように眠ってはすぐに輪の泣き声で起こされ、そういて小間切れ睡眠を繰り返しながらオムツを替え授乳をし離乳食を作り抱っこし掃除洗濯洗い物をした。こんな過酷な生活を楽しめる人間がいるなどとは全く思えなかった。央太がもう少し家事育児を手伝ってくれればと思い続けて苛立っている内、私と央太の愛に満ちた世界は跡形もなくなった。

央太が家事も育児も私と輪との生活を放棄して、週末婚という選択をした時から私たちの関係が一気に改善したというのも皮肉な話だ。今、私はもう辛いとか逃げたいとか、そういう事を考えない。育児が大変だと思う事が無くなった。輪に手がかからなくなってきたこともあるだろうが、大変でなくなった訳ではなく大変さに慣れたのだ。

私はもう、子供が居なかった頃の自分を思い出せない。あの頃に戻りたいという、あの頃という理想を失っただけだ。私は大きな世界を喪失した。かけがえのない、美しい甘い日々を失った。今輪が死んだとしても、輪のいる世界と神のいない世界のどちらかでしか生きられない。神の存在を知らなかった頃の自分には二度と戻れないのだ。

「今、見た?」
 顔を上げて言うと、五月と涼子は「なに?」と辺りを見渡した。
「今、ピカッて光ったよね?」
「え? 雷?」
 涼子が不思議そうな声に、全然気づかなかった、と五月が同調する。目を瞑った僅かな間に、瞼の外で閃光が走ったのだ。私は二人の言葉に答えず黙ったままゴロゴロと音がするのを待った。音は鳴らなかった。
「光っても音が聞こえない事もあるからね」
 さらっと言う五月と、飲み過ぎじゃないのー? と呆れたように言う涼子。二人の言葉がくぐもって聞こえる事に違和感を覚えた瞬間、激しい風の音が聞こえて辺りを見渡した。体はどこも風を感じない。耳鳴りだ。現実感覚が薄れていっているのが分かる。

「ちょっと寝不足かも」
「どうする? 泊っていく? リカさん、子ども部屋で子供と一緒に寝れるようにしてくれるって言ってたよ」
「あ、今日は帰るわ。明日早い時間に打ち合わせがあるんだ。涼子は?」
「ユカが帰るなら私も」
「私はもうダウン。泊ってくわ」
 テラスからリビングに戻ると、今度は食事会ね、という五月の言葉にうんうんと頷く。五月が一番忙しいんだから、都合の良い日程メールしてよと言うと、分かった、と笑顔を見せた。残り僅かとなった客の相手をしてたリカさんにタクシーを呼んでもらうと、眠ったままの輪を抱っこしてマンションを出た。ずっと一弥を抱っこしていた涼子は、タクシーに乗り込むなりぐったりした様子で疲れたと一言零した。

「ほんと、片時も離れなかったね」
 うんという言葉に覇気がない。大丈夫? と声を掛けると大丈夫、と素っ気ない言葉が返ってきた。私は輪の頭を肩に載せると。体中を弛緩させて目を瞑った。
 いつの間にか寝入ってしまったようで、運転手の「この辺りですか?」という言葉で目を開けると、「そこを右に行った所で降ろしてください」という涼子の声が聞こえた。

「あ、もう着いた?」
 お先にね、と言って涼子が札を差し出した。
「いいよ。どうせ帰り道だし」
「行きも出してもらったから」
 いいよと言いかけて、涼子の眼光が妙に鋭い事に気づいて、黙ったまま三枚の千円札を受け取った、タクシーが停まると、じゃあねという言葉に固い笑みを添え、涼子はタクシーを降りた。ドアが閉まり、最終目的地を確認する運転手と、二、三言葉を交わすと、私は走り出したタクシーの中から振り返った。涼子のあの態度は何だったのだろう。そしてあの雷は。一向に治まる気配のない耳鳴りの中、私は座り直すとじっと口を閉じフロントガラスの向こうを見つめた。ジャケットのポケットから携帯を取り出すと、天気予報のサイトにアクセスした。位置情報を確認した後、注意警報は出ていませんという文字と、太陽マークが浮き上がった。

「ここはどう行きますか?」
 運転手の言葉に顔を上げ、「真っ直ぐ行って、次の次の信号を左へ」と答えた時、うーんと声を上げて輪が目を開けた。寝とぼけているのか、頭をぐらぐらさせながら辺りを見渡している。
「寝てていいよ」
 輪はやだっ、と声を上げ、りんちゃん起きるよ、と言い張った。マンションの正面玄関前でタクシーから降りると、輪は本当に「歩く」と言い張って私の腕から降りた。眠気で足元はふらつく輪と歌いながら階段を登り切り、マンション内に入る。鍵を差し込んでオートロックのドアを開け、エントランスを走り回る輪に「おいで」と声を掛けたけれど輪は返事をせず、壺に飾られたサルスベリの木と真っ赤な花に手を伸ばしている。倒れちゃうよ、触らないで、という声に振り返り、にゃっと笑って輪は赤い花に向かって背伸びをした。止めなさい、と声を上げて歩み寄ると、輪はきゃーっと声を上げて私から逃げた。小さな体がたたたっとスニーカーの音を立てて閉まりかけていた自動ドアに向かう。追いかけて輪の腕を掴もうと伸ばした私の手が空を掴んだ。

「だめっ」
 大声を上げた瞬間輪はドアの脇にばしんと両手をつき、次の瞬間人感センサーに反応して再び開き始めたドアに左手を巻き込まれた。私が短い悲鳴を上げてドアに飛びついたと同時に輪のぎゃーっという鳴き声が大理石のエントランスに響き渡る。異常事態に気づいた自動ドアは、人を挟まないように設定しているのか、再び開く力が加わって輪の手はがくんと手首まで巻き込まれた。

右手で輪の手を引っ張り、左手でドアを押し戻しながら隙間を広げようと手前に引く。助けてと声を上げかけた瞬間、大丈夫ですかっ? と輪の泣き声を聞きつけた警備員が管理人室のカウンターから顔を出した。「助けてくださいっ」という言葉が輪の泣き声にかき消される。警備員がカウンターから出てくる前に、がくっという感触と共に輪の手が外れた。肩で息をしながら、ぎゃんぎゃんと泣き喚く輪の手を取って手の平と甲を確認する。赤くなっていたけど、骨折している様子はない。

「大丈夫ですか」
 駆け寄って来た警備員に大丈夫ですと溜息混じりに言う。心臓がぱくぱくと脈打ち、頭がくらくらしている。
「すいません、急に走り出して、ここのガラスに手を突いた所を巻き込まれてしまって」
「管理人室に簡易的な救急箱はあるんですが、手当てしていきますか?」
「いえ、家で手当てしますので。すいませんでした」

 一応管理会社に事故報告として報告しますのでと部屋番号を聞かれ、2201号室ですと答えると、泣き喚く輪を抱っこしたまま再び謝って自動ドアをくぐった。まるで夢の中にいるようだった。体中が強烈な緊張と興奮で、浮遊しているかのように重力を感じない。床にビーズのクッションを敷き詰められているかのように足元が揺らいでいる。五分も経っていないのに、どういう経緯でどういう事になったのか、細かく思い出せなかった。脳裏に蘇る事故のシーンはスローモーションのようにゆっくりと頭の中に再現され、所々途切れるたように抜け落ちている箇所がある。

「見せてごらん。大丈夫? 痛い?」
「痛い。痛いっ。冷たいにするっ」

 輪は左手を右手で包み込み、怒りと驚きを隠さずわんわん泣き続けている。家に入るとどさっと体が重たくなり、私は玄関先で輪を降ろして冷凍室から取り出したアイスノンをバンダナで包むと輪の左手に押し付けた。泣き止んだものの、輪はぐすぐすとしゃくり上げ肩を震わせている。明日の朝病院に連れて行くべきだろうか。左手の甲はさっきよりも腫れが増している。じぶんで、と言う輪にアイスノンを渡し、その場にへたり込むように座ると、輪に向かったまま両手で自分の頭を抱え込んだ。

「ドアが動いている時は近づいちゃ駄目だよ」
 輪は鼻をすすりながらこくこくと頷き、いつの間にか左手ではなく右手にアイスノンを押し付けている。ふっと軽く息を吐くと、寝ようかと言って輪の肩を叩いた。

 輪を寝かしつけると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。五百ミリリットルを一気に半分ほど飲み、一本煙草を吸ってから残りを飲み干した。事故の原因に直接関係があったのかは分からない。でも輪と一緒にいる時にツリーを飲むのは止めるべきだと思ったけれど。もう深夜の二時を回っていた。

央太は起きている筈だった。そして、央太は深夜二時に電話を掛けたところで迷惑がらないだろうと分かっていた。でも私は電話を掛けなかった。ふと痛みに気づいて手を眼の前に持ち上げると、左手の指の第二関節付近を中心に赤く腫れ上がっていた。ドアを押し戻そうとした時に私も挟み込まれる形になったのだろう。輪と同じ場所にできた打撲痕を見つめながら、私は突然悲しみに襲われびくびくと体を震わせた。

ぼろぼろと落ちる涙をぬぐわず、左手を拳にして目の前のローテーブルに叩きつけた。たこ殴りだぜって声を上げて更に数回殴りつける。打撲の痕は更に腫れあがり、赤黒い内出血が浮き上がった。明日、輪が私の手を見たら、「手を挟んだのは自分じゃなかったか」と肌寒い混乱を引き起こすのではないだろうか。

突然、フラッシュを焚かれたかのように感じて顔を上げる。窓の外で、瞬く間にいくつもの雷が空をぶった切るように落ちて来るのが見えた。力強く太い閃光が枝分かれして地上に向かい、地響きのような音を立てる。立ち上がってカーテンが全開になった一面の窓の前に立つと、ざーっと雨音がしてあっという間に窓が一面に濡れた。

今自分が見ているものは現実だろうか。私は興奮のせいで忘れていた耳鳴りに気づいた。強風のようなゴーっという音が脳に直接語りかけてくる。強風と雷と激しい雨音。嵐が街も私もめちゃめちゃに破壊する。明日の朝。街は、私は、同じようにそこにあるのだろうか。嵐の中に佇む私は突然何がどうなっても良いという気になってバックからピルケースを取るとパチンと蓋を開け入っていた五個ほどのツリーを全て手の平に出すと口に押し付けて一気に飲み込んだ。

次にハルシオンのアルミ包装を破って一つ一つ口に入れていく。ハルシオンを三つ飲み込みデパスに手を伸ばしかけた瞬間「何がどうなっても良い筈がない」と呆気なく気持ちが覆り、ピルケースを放り出すとトイレに入り。便座を上げ便器の上で喉の奥に人差し指と中指を突っ込んだ、ごりごりと喉の粘膜を押し嘔吐を促す。

水で薄まったコーラの味がしたと思った次の瞬間、薬の苦い味が口の中に拡がる。溶けそこなった薬がぽちぽちと音を立てて数個便器に落ちた。胃がひっくり返りそうなほど何度も嘔吐(えず)くと、私は床にへたり込み、便器の周りをぐるりと囲むように体を曲げて目を閉じた。
つづく第七 涼子
キーワード 保育園批判、保育園、泣き喚く、抗生物質、耳垂れ、鼻吸い器、仕事、保育園、ママ友、シングルマザー、子ども手当、出産、ファッション、生活の知恵、一晩に二度は夜泣きをする、ヤリマン、露出狂