何故私には手に入らなかったのだろう。私は一体誰とだったら、ああいう家庭を築けたのだろう。待澤とだったら、どうだったのだろう。亮と結婚したのは間違いだったのか。弥生を産もうと決めたのは。仕事を続けると決意したのは。不倫を始めたのは。間違いだったのだろうか。

本表紙 金原ひとみ著

第五章 五月

「広告 挿入避妊具なら小さいチンコ、ユルユル膣であっても相手に満足させ心地よくイカせられる」
 昨日の夕方、パーティで会って以来初めて、ドリーズでユカに会った。もう信じられないくらい疲れている、とうんざりした表情で言い、ファミレス行こうか? と輪ちゃんに提案しているユカに、「夕飯の下準備して来たんだけど、作り過ぎたから一緒にどう?」と誘った。いいの? と一瞬の迷いもなく乗った。

子供たちを寝かしつけてシャンパンを開け、五月って呼んでいい? というユカの無邪気な言葉で、五月さんから五月、土岐田さんからユカへと呼び名を変えた瞬間から、私たちは急激に距離を縮めていった。ユカの明け透けな性格と、ゴシップ的な事に興味のなさそうな所、別の業界の人である事、それでいて彼女も著名人である事、そういう理由がないまぜになって安心感を生み、育児への不安、子供が出来てからの仕事に対する不満、夫との不仲、生活も仕事も家庭に縛られてしまうことへの憤りを次々と言葉に変換した。

ユカの、あからさまな否定も肯定もしない態度も、それでいて人なつこい口調や表情も、自分の殻を取り払うのに最適な要素だった。朝四時、トイレに立った隙にユカがソファで寝てしまうまで、私たちは途切れる事なく話していた。

 ユカにだったら待澤の事を話しても良いのではと、私は何度か告白の衝動に駆られた。私がどれほど非人道的な事を言ったとしても、彼女は絶対に私を否定しないような気がしたのだ。でも、今日友達になったような人に対してそんな告白をしてどうするんだという冷静さが勝って良かった。もしもユカに話してしまっていたら、どんな意見を言われていたとしても私は後悔したように思う。

 さすがに寝不足だったのか、ソファで寝入ってしまったようで、はっと起き上がるとすぐに携帯を確認した。スタジオ入りが一時間後に迫っていた。今日はツダちゃんのお迎えはない。慌てて洗面所のドアに手を掛けた所で、中に亮がいる事に気が付いて一瞬ためらう。でも今ここで引き返したら、亮は私が自分を避けてたと分かるはずだ。観念して開くと、亮は振り返りもせず、黙ったまま泡のついた顎に剃刀をあてていた。昨日、断りもなくユカを泊めた事を怒っているかもしれない。
「ごめん、コンタクトだけ取っていい?」
「ああ」
 使い捨てコンタクトレンズを二枚ほどぱきっと切り取ると、黙ったまま洗面所を出た。九カ月前まで、私たちは常にぶつかり合っていた。何気ない今日の出来事や、知り合いのエピソードを話していても、あっという間にどちらかが「それはどういう意味だ」と言いがかりをつけ破綻した。関係が上手く行かなければいかないほど、私は関係修復のためにコミュニケーションを求め、亮は「話すと悪化する」とそれを拒絶した。

そしてかつてないほど大きな喧嘩の果てに「平穏な生活が出来ないなら離婚を視野に入れる」と言われた瞬間から、私は彼に何かを求める事が出来なくなった。彼に「平穏な生活」を与えるため、自分から彼に話しかける事を止め、話しかけられた時に必要な事だけ話すようになった。

亮が「離婚」という言葉を用いて私を拒絶した瞬間から、待澤と浮気を始めるその時まで、無価値な家畜になり下がったような気持ちで、同じ家に暮らす夫を他人のように感じつつ、そうなった理由や経緯に思いをはせるよりも、これからどうやって生きて行けば自分のプライドと居場所が保てるのだろうと、私はそればかり考えていた。

夫に拒絶されながら育児や家事をこなしいく生活に埋没していけば、自信とプライドを喪失していくだけだと分かっていた。私は家庭から逃げるようにして、仕事に戻っていった。仕事を増やしたいと伝えた時、浜中さんは訝った。出産以来仕事をセーブしたいと言い続けていた私が、突然そう言い出した事を不審に思ったのだろう。家に居場所がないですと言えずに、子供に手がかからなくなってきたのでと私は答えた。

 考えてみれば、弥生を妊娠したのはNYで挫折し、プライドを喪失していた時だった。プライドを取り戻すために出産をしたにも拘わらず、家庭に居場所がなくなったら、今度はプライドを取り戻すために仕事を増やし、更にそれだけでは心の均衡が保てず不倫を始めたのだ。そこまで考えて、いや違うと思った。私にとって弥生も家庭も仕事も不倫も、そういうものではない。でも何かが違うのかは、自分でもよく分からなかった。

 車に乗り込むと、浜中さんからメールが届いた。来週のスケジュール変更に関する確認だった。湘南での撮影が、悪天候のためにスタジオ撮影と入れ替わっていた。スタジオ撮影は水曜に変更され、上がり時間は保育園のお迎えに合わせて六時になっている。木曜は待澤の授業がない。徹夜明けで仕事に向かう彼が可哀想で、いつも出来るだけ水曜日に誘うようにしていた。シッターのハナちゃんに、来週の水曜お迎えから明け方まで大丈夫? とメールを送った。ハナちゃんがOKなら待澤の都合を聞こうと思いながらエンジンをかけ、駐車場から車を出した。

 停滞している大通りを避けて路地を走っていると、ハナちゃんからメールが入った。大丈夫ですよという言葉に、ニコニコマークが付いている。信号待ちで停車して、待澤の都合を聞こうと新規メール作成ボタンを押した瞬間、高い声が届いて顔を上げた、すぐ脇の公園で、二組の親子が遊んでいた。弥生と同じくらいの背丈の男の子が、お父さんとサッカーボールを取り合っている。

きゃっきゃっと声を上げ、息を切らして走り回る男の子を見ながら、ほとんど反射的に窓を開けた。もう一組は父親と母親と、三人の子供という組み合わせだった。そうか、今日は土曜日で。見ていると、三人の子供と砂場で遊んでいたお父さんが突然ひょいと木に登った。あっという間に中腹まで登った様子を見て、鳶職の人かも知れないと思う。

一番大きな男の子が、僕も僕もと後に続く。足元が危なっかしく、見ていて手に力が入ったけれど、父親が手を貸すと男の子は何とか父親の隣まで登った。五歳くらいの女の子が二人を見上げ、まなちゃんもまなちゃんもとせがむ。駄目だよ、まなは女の子だろう? チンチンついてないだろう? とお父さんが木の上から笑って宥めた。

母親が危ないから止めなさいとそれに同調する。彼女は大声で不満を漏らし、父親に向かって手を挙げしつこくせがみ続けた。末の、一歳くらいだろうか、まだ走り方もおぼつかない子が「抱っこ」と要求するように木の上の父親へ両手を伸ばす様子を見ながら、自分が涙を流しているのに気がついた。

サッカーをしていた男の子は、滑り台の一番上まで上り、下にいる父親とボールを投げ合い、一投ずつ大きな笑い声を上げている。鳴らされたクラックションに気づき、慌ててジャケットの袖で涙を拭うと、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

何故私には手に入らなかったのだろう。私は一体誰とだったら、ああいう家庭を築けたのだろう。待澤とだったら、どうだったのだろう。亮と結婚したのは間違いだったのか。弥生を産もうと決めたのは。仕事を続けると決意したのは。不倫を始めたのは。間違いだったのだろうか。

 弥生は私と公園に行くといつも他の子供を見ている。羨ましそうに見ている。いつも何をするにも私の判断を仰ごうと私の顔を盗み見て、自分から友達を作ろうとはしない。いつだったか、他の子供たちが楽しそうに走り回るのを弥生がじっと立ち尽くして見つめ続けている後ろ姿を見た時、発狂しそうになった。

あまりに痛々しくて、あまりにも苛立たしくて、あまりに悲しくて、そういう弥生をあまり受け入れがたくて、「ママと遊ぼう」という一言すら口にできず私は強烈な憤慨に混乱し目を逸らした。人見知りしない子に、無邪気な子に、活発な子になってもらいたいと思って赤ん坊の頃から色々な所に連れ回し、色々な人に会わせて来た。

同業者の子供たちは皆元気で活発だ。物怖じせず、人見知りせず、積極的に遊ぶ。何故弥生だけが「行動する」前に「考える」子になってしまったのか。保育園には、ナイーブな子は他にもいる。朝、やだやだと母親にしがみつき、クラスに入ろうとしない子を見ると、弥生はまだましな方だと思える。客観的にみれば、弥生のナイーブさや人見知りはさほど重症ではないはずだ。

でも弥生はモデルの娘だ。その自意識が拭えない。弥生は、私が幼かった頃にそっくりだ。母親の後ろにいて中々友達が作れず、一緒に遊ぼうと言われるとまず先に母親に「どうしよう」という目を向けていた自分にそっくりだ。自分がそうだったから余計に、弥生の弱さが耐え難いのだろう。亮がもっと育児に参加していれば、亮が大きな愛情で包み込んであげれば、弥生はもっと自信のある子供になったはずだという苛立ちも相まって、私は弥生と公園に行くといつも虚しさを抱え込んで帰宅する。

 スタジオに入る前に一度車を停め、ファンデーションのコンパクトを開け涙の跡を確認した。パフで下まぶたを押さえると、集合時間までまだ五分ある事を確認して待澤へのメールを打ち始めた。来週水曜の夜空いてない? 簡潔なメールを送信すると、踏んでいたスニーカーの踵を引っ張り足首に合わせ、アクセルに足を載せた。

 撮影で買い取ったルブタンのパンプスは、買って四ヶ月が経つ今も履いて一時間で踵が痛くなる。パンプスから踵を外したまま、ハイウェストで締めたサッシュベルトを更に絞った。ロングジャケットを羽織り、タクシーが停まる直前にサングラスを掛けた。ロビーでチェックインを済ませ、エレベーターへ向かいながら僅かに顔を俯ける。顔は帽子やサングラスで隠せるけど、背の高さだけはどうしようもない。

 ここ数ヶ月、明け方ホテルから家に向かうタクシーの中で、ツイッターを確認するようになった。最近では外に出ると「今○○で森山五月を見た」とリアルタイムで実況されることが少なくない。何より先に「誰かに目撃されていないか」という不安を解消しないと、私は安心して日常生活に戻れないのだ。

自分の名前を検索する虚しさを嚙みしめながら検索ボタンを押し、検索結果が出るまでの僅かな時間の緊張には、全くなれる兆しがない。エレベーターに乗り込むと、他に乗り込んでくる人がいない事を安堵しつつ、四十五階のボタンを押した。下界から離れるほど、現実感覚が薄らいでいく。

 案内されて個室に入ると、待澤はビールを飲みながら煙草を吸っていた。おつかれ、と言い合いながら隣に腰かける。高級ホテルであり従業員がプライベートを守るであろう事、レストランに小さな個室がある事、直前でもレストランと部屋の予約が取りやすいという理由で、待澤と会う時はいつもここを使っている。

いつも、私が「〇日空いてる?」とメールをして、「空いてる」という返事を確認してからレストランと部屋を予約する。そうして私の一方的な誘いに応え、私の都合と事情に振り回されている待澤は、その事に関してこれまで一言も文句を言ったことがない。そうして一歩引いた所から「必要ならいつでも」という態度で私に応える待澤が、本当にいい人だと感じる事もあれば、無責任だと感じる事もある。でも結果的に、私は自分にとって好都合な男と不倫相手に選んだと言えるだろう。

「仕事はどうだった?」
「疲れた。早く飲みたい」
「おつかれ。あ、この間見たよ。boda」
「読んだの?」
「どこで、買った」
「恥ずかしいな」
「多分俺が女性誌買う方が恥ずかしかったよ」
 私はその様子を想像して短く笑った。ネットで買えば良かったのにと言うと、コンビニで見つけて、何か嬉しくなって何も考えずにレジに持っていっちゃってさ、と待澤は笑った。

「そうそう、手が綺麗って言われてさ」
「うん?」
「そのコンビニの定員の女の子にさ、金払う時、手綺麗ですね、って」
「ほんとに? どんな風にいわれたの?」
「うわー、って感じでほれぼれしたよ。見る? って手出したらいやいや、って笑われたけど」
 笑いながら、ほら、女の子ってみんな男の手が好きなんだよ、と言った。待澤と出会った十五の頃から、待澤の手が好きだと言い続けていた。
「ちょっとどきどきした?」
「どきどきするよな? そう? みたいな」

 おどけて言う待澤の脇腹を軽く小突いて、運ばれてきたシャンパンを飲み始めた。何食べたい? と聞く待澤に「マンゴーとアボカドのサラダは?」「バジル風味の季節料理スープは?」「チーズ盛合せは?」と確認する。彼はそうして私の提案するメニューに、否定的な言葉で答えたことが無い。いつも「いいね」と微笑み、私の意向通りの注文をする。

夜はほとんど炭水化物を取らない私に一切文句を言わない人は、モデル仲間以外では待澤くらいだ。彼は食事にも仕事にもお金にも執着しない。プライドも自意識も薄い。だから彼は自分自身を見誤らない。自分を実際より高く、或は低く見積もる事はしない。その待澤の完成された統一感が、私にとって一番の魅力だった。

「一本」
 呟いて待澤の煙草を一本手に取った。弥生を妊娠して以来禁煙していたけど、待澤と一緒の時だけ煙草を吸うようになった。見慣れない煙草のパッケージに書かれていた銘柄が、私には読めない。確か、フランスの煙草だと言っていた。

「あ、ねえ、卓球って毎週恒例になっているの?」
「ああ、一カ月くらい前にマスターがコーチを紹介してくれて、先週からその人のレッスン受け始めたんだ」
「へえ。どうだった? レッスン」
「結構褒められたんだよ。最初は素人のお遊びだと思ってたけど、みてみたら意外に上手くてびっくりしたって言っててさ。そのコーチに乗せられて今度大会出ようって話になって」
「大会?」
「つってもあれだ。おじいちゃんおばあちゃんも出るような、素人のやつだよ」
「へえ。すごいじゃん」
 不愉快な気持ちを押し隠し、笑顔で言った。最近非常勤仲間で卓球行ってるんだよ、という話を始めて聞いたのは二カ月ほど前の事で、それ以来待澤は毎週土曜日に男女二対二で卓球台のあるカフェに通い、昼から夕方までしっぽり卓球して夜は四人で飲みに行っている。

男女で行っているというのも、そういう講師仲間のようなものに属しているというのも、大学のサークル的なノリで大会に出るというのも、最初は「付き合いで」という感じだったのが、最近は随分と楽しそうに参加しているのも、不愉快だった。待澤は、そういうものを馬鹿にしている人だったと思っていた。でも考えてみれば、私だって子持ちのモデル仲間で定期的にホームパーティを開き、アナベラのパーティのような下らない社交場にも顔を出して、よその子供の誕生日会には手料理を持参して弥生と出かけて行くのだ。

「見に行きたいな。大会」
「俺、彼女です、って紹介しちゃうよ?」
 いいよ、と言って待澤の手を取った。じゃあおいで、という言葉が随分と軽く、冗談のような響きを持っている事に胃がざわついた。

「こんなに綺麗な彼女がいるって知ったら、みんな俺の事を見直すだろうなあ」
 はいはい、と笑い、スープかにズッキーニをすくい上げ口に入れた瞬間、私はふと気が付いた。待澤が卓球をする事を快く思わないのは、自分が絶対にそこに参加できないからかだ。そして周りの目を気にせず待澤と陽の当たるカフェで卓球できる女がいるのだという事実が、彼等の関係性以前に不愉快で仕方ないのだ。

 食事を終えると先に一人で店を出て、階を移動して部屋に入った。バスタブのコックを捻り、洗面台の鏡に自分を確認すると、バスルームを出てジャケットから煙草を出した。さっき、カートンで持っていた待澤に「一箱ちょうだい」と言ってもらったものだった。「Gauloises」という銘柄を「ガウロイセス」と頭の中で読んでみたけど、きっと間違っているだろう。フィルムを剥がし一本取り出した所で、ライターを持っていないのに気づいてバッグの中に放り込んだ。カシッ、とカードキーの開く音がする。もう何度も経て来た「カシッ」は、いつも心臓の鼓動を煽る。重たいドアが音を立てて開き、待澤は鞄とジャケットを床に落としながらやって来た。

「風呂入る?」
 立ったまま屈んでキスすると、待澤はそう聞いた。
「うん」
「じゃあ俺も」
 待澤が煙草に火をつけたのを見て私もと言うと、彼は煙草を一本手渡し、火をつけてくれた。隣に座った待澤は、首筋に舌を這わせながらサッシュベルトに指をかけ何度か引いた後、「お手上げ」と両手を上げた。笑いながら立ち上がると自分でベルトを外し、ワンピースを脱ぎながらベッドに座る待澤の視線に応えるように振り返った。

「すげえいい」
 はしゃぐような声で言って、待澤は手を伸ばした。彼を跨いでベッドに膝をつきその手の中に収まると、待澤は手を伸ばしブラジャーのホックを外した。解放された小さな胸が、間髪入れずに熱い手に包まれた。待澤は胸を口に含み、後ろに回した手でお尻を掴む。

「ほんと、子供を産んでるとは思えないよな」
 一瞬すっと高揚が冷めた。子供を持ったことのないからだろうか、彼にはそういうデリカシーが欠けている。弥生といる時、私は不倫妻ではない。同じように、待澤といる時私は母親ではない。例えば弥生に「不倫しているとは思えない」などと言われたら酷く動揺するのであろう事と同じように、私は待澤から「子供」という言葉を聞くたび、ビーズのネックスレスが千切れたように、自分が統一感をなくしてばらばらになっていくのを感じる。

 洗面所に入ってパンツを下してた所で、裸で入ってきた待澤が後ろから抱きしめてきた。お風呂は? と聞くと、ちょっとだけ、と待澤はうしろから指を入れた。手の平を下向けにして潮を噴くまで二本の指をピストンさせると、大理石の床に私を座らせた。左手をひんやりした大理石に、右手を待澤の太股にあて、口だけで咥え込み、少しずつ動きを速めていく。バスタブから溢れたお湯が跳ね、腿を濡らた。

立って、という言葉に従って洗面台に手をつくと、待澤は後ろから入れた。鏡越しに見える彼は、笑い合って話している時と別人に見える。突かれれば突かれるほど、開いた足が僅かに内向きなり、顔が下を向いていった。ほら見ろという言葉と共に髪の毛を鷲掴みにされ、引っ張られた、見ろよ、と言われ体を揺さぶられながら薄く目を開くと、ママかわいい、という弥生の言葉に、鏡越しにありがと微笑みかけていた今朝の自分が、髪を乱した形でそこにいた。

腰の動きと共に、太股に睾丸が当たる。肌と肌が当たって音がたつ。下から胸に手が伸び、乳首が待澤の長い指に刺激される。右手が胸からお腹を滑り、激しく突かれている性器の僅かに上で止まりクリトリスを探り当てる。クリトリスと膣と乳首とを刺激されている自分を、私は顔を上げ自主的にみつめて、再び目を逸らした。

 明後日の事だけど、おずおずと声を掛けた私は、亮は予想以上に軽く、「ああ、行くよ」と答えた。「再来週の土曜日、十時から弥生の運動会です」そう送ったメールに返信がない時点で来ないんだろうと判断して、母親を誘って行こうか一人で行こうかと二択で考えていた私は、拍子抜けしながらも久しぶりの家族三人の外出に心が躍るのを感じた。

とはいえ、亮を起こす際に向けられる迷惑そうな視線や、亮の身支度の進み具合と時計とを交互に確認しながらやきもきする時間や、どことなく他の保護者たちを馬鹿にした態度をとる亮のフォローなどを思うと、憂鬱な気持ちも残った。

 車に乗り込むと、弥生をチャイルドシートに乗せベルトを嵌め。左右反対になっていた靴を履かせ直した。バッグを漁って赤いステッカーを取り出すと、弥生は「自分で貼る」と嬉しそうな声を上げ、胸の辺りに貼り付けた。昨日の夜「明日はママとパパと三人で運動会に行くよ」と言うと、弥生は「パパも来るの?」「三人で行くの?」と何度も確認して「やったあ」と声を上げた。興奮のせいか中々寝付けず、今朝はいつもより一時間早く起きた。

「これ、入場の時に必要だから」
 言いながら、運転する亮にもステッカーを差し出した。亮はああと呟いた後しばらくしてから、「何のためなの?」と不機嫌そうに聞いた。
「不審者対策でしょ。ほら、前にも変な人が保育園のイベントに乱入した事件があったじゃない。お母さんと来るかもって思って、三人分貰っておいて良かった」

 一昨日もこのステッカーを貼ったのを、亮は覚えていないのだ。私は亮が子どものイベントをただひたすらに「面倒なもの」と感じているのを知りながら、そういう態度を目の当たりにするとどうしようもなく腹が立つ。私は毎日毎日、この子を預けに行かなければ仕事も出来ず、へとへとになるまで仕事をしててもお迎えに行かなければならず、帰宅後もお風呂や寝かしつけで労働を強いられるというのに。「面倒なもの」と思うのは仕方ないが、露骨にそういう態度を取るのは、「面倒なもの」を日々請け負っている私に対して失礼ではないだろうか。

あんなに喜んでいた弥生は、亮の苛立ちを感じているのか、二人で通園する時に比べてだいぶ口数が少ない。黙ったまま無表情で前を見つめている弥生を覗き込むと、弥生は私に気づいて「へへっ」と笑った。その目には空気を読んでいる事を悟らせまいと作られたおどけと、亮の機嫌を損ねることを怖れる者同士としての「ね?」という同調の意が含まれているように感じたのは、私の考えすぎだろうか。

 大学の体育館を借り切って行われる運動会には、毎年多くの保護者が詰めかける。近くのコインパーキングは全て埋まっていて、ぐるぐると周辺を探しているうちに開始時間が近づき、仕方なく私と弥生だけが先に車を降りて会場に入った。紅組の保護者席は満席状態で、後列の僅かなスペースにビニールシートを敷いた。

園児の数は全体で五十人ほど、多くが両親、或は祖父母と共に来ているため、保護者たちだけで軽く百人を越している。更に保育士やサポーターは三十人を越え、体育館は既に熱気でむせ返っていた。数人の知り合いが「あら弥生ちゃん」とか「こんにちは」と声を掛けてくる。私が笑顔で明るく答えても、弥生ははずしがって俯いていた。

壇上で園長先生の挨拶が始まると、膝立ちになって壇上と入口を交互に見つめる。亮は、もしかしたらこのまま来ないかもしれない。ふとそう思う。亮が一人でぐるぐると駐車場を探している様子を想像すると、不意に車が会場と別方向に向かい、そのまま消えていくイメージが続いた。

 競技スペースを挟んで向こう側の、白組の保護者席にちらりとユカが見えた。あぐらをかいている旦那さんの左足に右足を載せ、何やら真剣な表情で話している。輪ちゃんは蚊帳の外という感じで手持ち無沙汰にしていたけど、すぐに同じクラスの友達とステッカーの見せっこを始めた。

人の家庭のことながら、何となく安心して表情を緩ませると、ユカは私に気づいて大きく手を振り、「後でそっち行くね」的なジェスチャーをした。大きく頷いてシートに腰を下ろすと、「おうち帰りたい」とぐずり始めた弥生を膝に座らせた。
「運動会、あんなに楽しみにしていたじゃない」
「パパは?」
「お車停めてから来るよ」
 うー、と声を上げて私の胸に顔を押し付けてくる。弥生は、こういうイベントが苦手だ。行くまでは嬉々としているのに、実際にいつもと違う場所や状況に置かれると急に不安になるようだった。
「弥生、ママに駆けっこ見せてくれるって言ったでしょ? よーいどん、って上手に出来るんでしょ?」
「弥生は答えず、ぐいぐいと顔を押し付けてくるだけだった。やっちやんどうしたの? と声を掛けてくる同じクラスの友達らに、「やっちゃんちょっと恥ずかしいだって」と弥生の背中を撫でながら答えた。

 ゼロ歳児のハイハイ競争から、一歳児、二歳児の駆けっこが始まって、とうとう三歳児の番が来ると、先生が「皆いちれーつ」と声を掛け、子どもたちをスタート地点へ連れて行った。弥生は嫌がっていたけれど、好きな先生に手を引かれるとようやく立ち上がった。弥生の駆けっこが始まる直前、入口に亮の姿が見えた。見渡している亮が、今にもふいっと背を向けていなくなってしまいそうで、私は大きく手を振った。

「駅の近くの駐車場に停めて、そこからタクシーで来た」
「最初からタクシーで来れば良かったね」
 無表情で苛立ちを露にする亮にお疲れ様と言って、私はシートの脇にずれた。
「もう弥生の番になるよ」
 そう、と呟いて亮はシートに置かれたビデオカメラを手に取った。どうやるんだったっけ、と呟く彼の手元に手を伸ばし、ここを回して電源を入れて、ここから録画、と説明しながらどきどきした。亮の体温を肌で感じられそうな距離が、落ち着かなかった。夫とこんな近づくのがいつ以来か、もう思い出せない。

「パパは? って気にしてたよ。手を振ってあげれば?」
 いいよと言って立ち上がり、亮は順番待ちしている弥生を撮り始めた。弥生は私を見失ってしまったのか、不安そうにきょろきょろと見回している。弥生、と大きな声を上げて手を振ると、弥生は私に気づき泣き出しそうな顔になった。

「ちゃんと走れんのか?」
 亮はそう言って、パパっと声を上げた弥生に軽く手を挙げた。とうとうスタート地点に立った弥生は、後ろを振り返って助けを求めるように先生を見つめては私達を見た。大丈夫だよ。出来るよ、というように笑顔で声をかけてる先生に促されてスタートの姿勢を取ると、「よーい、どんっ」の声を掛け声で弥生は走り始めた。

不安はどこかに消えたのか、じっとゴールを見つめて走っている。よそ見して転ぶんじゃないかと思ったけど、弥生は私たちの前を走り過ぎ、十五メートルほどの距離を真っ直ぐ走り切った。ゴールで先生に抱きしめられ、頭を撫でられている弥生を見つめながら。目頭が熱くなった。かつてなく、弥生が頼もしく見える。
 
「すごいね。よく走れたね。ちゃんとゴール出来たじゃないかって思った」
「でも三位だろ。あいつの走り方何か変じゃないか? 足が地面から離れない感じで」
 亮の言葉は私の下半身に重たく響き、ジーンズが裾から濡れていくような不愉快な気持ちになった。言われるまで、順位がある事に私は気づいていなかった。何に言ってるのあの子があんなにがんばったのという気持ちと、三位しか取れないなんて愚図な子だ、という苛立ちが混じる。でも、ぐずだという苛立ちは本来私の中にはなくて、亮から押し付けられたものだ。

この人と弥生を育てていたら、私は弥生の事を愛せなくなる。そう思った。この人と結婚生活を維持させるにせよさせないにせよ、私は一人で弥生を育てていくべきかもしれない。駆け寄ってくる弥生をみつけ、立ち上がった。ぎゅっと足にしがみついた弥生は、誇らしげな表情で私を見上げた。

「ママ見てた?」
「見てたよ。すごかったね。かっこ良かったよ」
「弥生ゴールしたんだよ」
「ちゃんと見てたよ、上手く走れたね」
 パパ出来たよ、と亮に駆け寄った弥生は「がんばったね」という言葉をかけてもらい、満足そうに笑った。弥生を真ん中に鋏み、私たちは三人並んで他のクラスのダンスやリトミックを見た。駆けっこが出来た弥生はうきうきしていたけれど、そのうきうきが駆けっこが出来たという本来の意味から、次第に「険悪な両親を和ませる」目的に変化しつつたるのが分かった。

二歳の頃。弥生は私たちに喧嘩の予兆が出始めると「喧嘩だめ」「怒っちゃだめ」とそれぞれ注意して私たちを和ませた。三人でお散歩をしていた最中、亮がいつものごとく嫌味を言い始め、一触即発のムードが漂い始めた時には、道端に生えていたタンポポを摘み、私に渡してくれた時もあった。「大丈夫だからね、泣かないでね」保育士や私を真似ているのであろう弥生の言葉に、私はサングラスの奥で涙を流した。

私は泣きながら亮に背を向け、弥生を抱き上げ二人で家に帰ったのだった。その時、出産してから初めて、弥生と二人で生きていく事を考えた。でも、夫婦関係が悪化の一途を辿り、「離婚」という言葉を亮の口から聞いても尚、私は弥生と二人で生きて行く道を選択できないでいる。逡巡している内、弥生はこうして過剰に空気を読める子になってしまった。

彼女はもう、無邪気さで私たちを和ませることが出来ない。弥生の無邪気さを奪ったのは、私なのかもしれなかった。タンポポをくれたあの時、私が弥生と二人で幸せな家庭を築いていこうと決心出来ていれば、弥生は今も無邪気に公園を走り回っていたのかもしれない。

 三歳児クラスの親子競技が始まりますと先生の声が聞こえ、弥生の手を持って立ち上がると、亮が「俺が行くよ」と立ち上がった。運動会自体を馬鹿にしているようでありながら、こういう時に燃えやすい亮は、一昨年の運動会では父兄参加の綱引きに出た。久しぶりにそういう亮の姿を見るのは嬉しくて、撮っとくね、とビデオを挙げて手を振った。

前の保護者たちが一斉に立ち上がってカメラを構え始めたため、壇上近くの「ビデオ撮影室」と張り紙のある台へ移動して録画ボタンを押した。ズームアップしていくと、亮と一緒にいるせいか、弥生はさっきより大分リラックスしているように見える。二人が先生に渡された紙のバンドを頭につけるのが見えた。弥生の頭にはウサギの耳、亮の頭には亀の甲羅。亮と弥生は互いに指差して笑い合っている。カメラを通して見る彼らは息を吞むほど美しく、私はその二人の輝きに金縛りのような体の硬直を感じた。

「産まれるまでどんな顔なのかなあってあんなに言っていたくせに、産まれた途端顔について何も言わなくなった」亮は弥生がまだ零歳の頃、育児に関する喧嘩の果てにそう言って、その理由を「弥生が俺に似ている」からだと断言した。弥生をモデルにさせたいとは全く思っていない。でも確かに、どこかで私は自分によく似た小さな女の子を心待ちにしていたのかもしれない。

 この間、ドリーズで初めてユカが手を引く輪ちゃんを見た瞬間、一重瞼の中性的な顔立ちに、まるでそこにいるのが自分の娘であるかのような気がして、私は激しく戸惑った。確認するように、私はユカを見上げ、次にパーティでちらっと見かけたユカの旦那さんを思い出した。この配合でこうなるのかと考えている自分が非人道的というか、卑しいような気がして、私は混乱を抱えたまま彼女たちを夕飯に誘った。

自分が出産を経験して以来、輪ちゃんも含め強烈な存在感を持つ子供を見ると、自分が親だったらと想像せずはいられない。でも今、こうして遠くから見る弥生は他の誰よりも光り輝いている。

亮もまた、私を避けたり嫌味を言ったりしている時の負のパワーを失い、出会った頃の、誰かに負けるなどと考えたこともないような、強気で活気に満ち溢れた在り方を全身で表しているように見えた。遠くから美しく輝いて見える家族は、私の前にでると突然輝きを失いどんよりとした家族になる。彼らの魅力を奪っているのは、私なのかもしれない。

「よーい、どんっ」
 掛け声と共に、弥生と亮は手を繋いで走り始めた。第一ゾーンで弥生がウサギの真似をしてぴょんぴょんと跳ねながら走り、第二ゾーンでは亮が網をくぐった。第三ゾーンでは二人で一緒にでんぐり返しして、最後に亮が吊るされたパンにかぶりつき、二人は手を繋いでゴールした。私はまた目頭を熱くして、手を振る弥生に大きく手を振り返した。二人は一位だった。

 運動会が終盤に差し掛かった頃、トイレの帰りに白組の保護者席に向かった。弥生の友達のお母さんたち数人と言葉を交わし、ユカにも声をかけてから戻ろうとかと見やると、他のお母さんと話している所だった。邪魔するのも何だしと背を向けた瞬間、さつきー、とユカの声が届いた。

「弥生ちゃんすごかったね」
 大声で言われたのがむず痒く、私は苦笑しながらユカの方に歩いて行った。
「旦那さん運動神経良いんだね。うちなんかお前が行けあんたが行けって喧嘩になったよ」
 後ろの旦那を指さしてユカが顔をしかめる。一歳児クラスのダンナの前、ユカと旦那さんが頭につけるとんがり帽を押しつけ合っているのを発見して、私は密かに笑っていた。でも、うんざりした表情でとんがり帽を被り立ち上がった割には、ユカは輪ちゃんと手をつなぎ随分と楽しそうに踊っていた。こんにちは、と旦那さんに声を掛けられてからしゃがみ込むと、ユカは話していたお母さんを指して「高校の頃の友達なの。涼子」と紹介した。

「初めまして。柏岡です」
 彼女は「中山です。いつも雑誌で見てます」と微笑んだ。茶髪の巻き毛にDVFのラップドレスという、運動会には不釣り合いな服装のユカに比べると地味だけれど、育ちの良さや品を感じさせるお母さんだった。周囲の人たちから与えられた愛情が、彼女から溢れ出ているかのような温かさを感じた。

「五月って柏岡って言うんだ?」
「言わなかったっけ? そうそう柏岡です」
「へえ。あ、私は大槻」
「大槻なんだ? 何かイメージ違うなあ」
「土岐田さんって言われる方が多いからあんまり実感がないんだけど」
「そっか、二人とも旧姓で仕事をしてるんだよね。いいなあ。私完全に中山になっちゃったもん」
 でも、山岡涼子より中山涼子の方がしっくり来てるよね、と言うユカに「そう?」と彼女は口を歪めた。いかにも高校時代からの友達、という感じがする。元々仲の良かった友達が子供を持って「ママ友」になるのと、母親同士が知り合って「ママ友」になるのでは全く意味が違う。特に、保育園でのママ友なんて、プライベートな域に立ち入らないよう気を遣っているから、子どもに関する話以外はほとんど出来ない。

「ユカと涼子ちゃんは同い年なの? 二十、五? 六?」
「私は二十六になる。そう言えば五月は?」
「二十九。じゃあユカが一番下なんだ」

 思わずくすっと笑うと、涼子ちゃんもくすくす笑った。何で笑うわけ? と言いながらユカが笑う。ねえ今度三人でご飯食べない? うちおいでよ。しばらく話した後に、ユカが提案した。
「行く行く。一弥連れていってもいい?」
「当たり前じゃん。皆子連れだよ。でも飯は二人が作ってね」
「何それー。ユカもちゃんと料理しなよ。旦那さんも輪ちゃんも可哀想だよ」
「ユカって料理作らないの?」
「作らない。締切り前はドリーズで夕飯のオプションつけるし、じゃない時は外食か出前」

 信じられなくないですか? 涼子ちゃんは私にそう言って、ユカ料理上手いのにさあ、と続けた。まるで、彼女たちは高校時代にタイムスリップしたように見える。
「私が料理するとさあ、美味しいから私の手料理以外食べられなくなっちゃうでしょ? 私なりの食育だよ」

 三人は笑い合って、わいわい話をしている内に壇上で閉会式が始まった。じやあ今度メールするから、というユカの言葉に頷いて、私と涼子ちゃんは自分のシートに戻った。亮は眠そうな弥生を膝に乗せ、むっとした表情で前を見つめている。
「あの子、この間ちらっと会ったでしょ? うちに泊まりに来てた」
「何だあれ。デートしに来てんのかよ」

 亮が顎で指した先を見ると、ユカが旦那さんの足に自分の足を載せ。その上に輪ちゃんを座らせている。
「仲が良さそうでいいじゃない」
「こんなところでする事じゃないだろう」
 不穏な空気を感じたのか、両親を交互に見つめる弥生に手を伸ばした。おいでと微笑むと、弥生は立ち上がって私にそう言って抱きついた。私の膝に乗っても、弥生は無表情の中に僅かな? 怯えを浮かべ、黙って私を見つめている。やり過ごそうと思ったけれど、弥生の人形のような顔にむかむかして、言葉が口について出た

「両親が険悪でいるより、ちょっとくらいべたべたし過ぎるくらいの方が子供にとって良いと思うけど」
 盾突かれたのが意外だったのか、怪訝そうな亮の顔がじわじわと怒りの色が滲んでいく。
「険悪なのは誰のせいだ」

 断定的な口調で亮は言った。人目が気になった。保育園の運動会とはいえ、誰がネットに書き込むか分からない。弥生と繋いだ右手が、私の汗か弥生の汗かわからないけど汗ばんでいった。じっと口を噤んで、亮から視線を逸らした。
「誰のせいだよ」
「後にして」
「誰のせいだって聞いてんだよ」。
 亮の言葉を無視して、私は弥生に微笑みかけた。
「…‥お前が浮気しているって聞いたぞ」
 皮膚内に詰まっている肉や血が、綿になってしまったかのように全身が麻痺していった。何それという呟きに力が入らない。不意に、私がユカたちと話している間に携帯を盗み見られたのではという疑いが浮上したけれど、すぐに携帯は私のポケットに入っていたと思い出す。そもそも確定的な証拠を掴んでいたら、こんな言い方はしないはずだ。閉会式が終わり、集合写真を撮りますという声と共に、周囲は慌ただしく帰り支度を始めていた。今そんな話をしなくてもいいじゃないと言いかけて、でもそう言うと浮気を肯定している事になるような気がして「してないよ何それ」と強い口調で小さく言った。

「こっちが聞きてえよ」
 亮は吐き捨てるように立ち上がった。喉がひりつくように痛んだ。弥生は亮を見上げ目に涙を浮かべている。今にもコップから水が溢れるように泣き始めそうだった。黙ったままこの場を後にして、冷静さを取り戻してから話し合うべきだと思いながら、私は弥生を抱いたまま立ち上がって口を開いた。

「していようがしていまいが亮はどうでもいいんでしょ」
 眉間に皺を寄せて振り返った亮が、今まで見せて来た亮とは別人のように見えてぞっとした。膨らませた風船から空気が抜けたように、体から自信が抜け落ち縮んでいるように見えた。
「亮は私の事拒み続けてずっと私から逃げているじゃない」
「拒んでいるのはお前だ!」
 殴りつけるような大声に、弥生がびくっとして、瞬きを忘れて固まった。周囲の人たちもふっと会話を止めた。一瞬の後にざわめきは戻り、その空気の弛みを感じたのか、弥生が堰を切ったようにうわーっと声を上げて泣き始めた。わんわん泣き喚く弥生を、震え出した腕で強く抱きしめ、ごめん、大丈夫だから、と耳元で囁いた。顔を上げると、亮の背中が体育館から消えて行くのが見えた。

私は片手で弥生を抱えたままシートを畳むと荷物をまとめ、写真撮影の人混みをすり抜け、数人のお母さんたちに会釈をしつつ体育館を出た。車は亮が乗って帰るだろうと判断して、すぐにタクシーを捕まえた。やっと泣き止んだ弥生を抱きしめ、もしあの場にいた誰かが週刊誌に暴露したら、どんな見出しで書かれるだろうと想像する。浜中さんに報告するべきだろうか。興奮が収まらないまま、ふと見下ろすと弥生は私の腕の中で眠っていた。

 マンションのドアを開け、玄関に亮の靴がない事を確認してその場で荷物を下ろし、眼を醒まさない弥生を子供部屋のベッドに寝かせた。リビングのソファにどさっと腰を下ろして天井を見上げると、雨が降ってきたようにどっと涙が溢れた。明日は撮影だという冷静な気持ちで涙を止め、冷蔵庫からジェルのアイマスクを取り出しながら、私は急激に亮に対する執着心が高まっているのを感じた。

まだ、私たちの関係には修復の余地があるかもしれない。私たちは今日、ただいまとかお帰りとか、運動会に行くか行かないとか、今月の生活費がとか、そういう話ではなく自分の気持ちを、九カ月ぶりに口にしたのだ。彼はまだ、私に対する興味を完全には失っていないのかもしれない。

亮は私に対する興味、関心を完全に失ったのだと判断して、不倫を始めた。逆に言えば興味と関心を失われたと思い込み不倫を始めても、私が亮と別れる事が出来なかったのだ。亮の、私に対する興味がまだ僅かにでも残っているのだとしたら、私の不倫は亮に対してのみならず私自身に対する罪でもあり、重大な過ちだ。

 玄関に置きっぱなしだったバッグを取りに行くと、開いたジッパーの隙間から弥生と亮がつけていたウサギの耳とカメの甲羅が見えた。寝室に戻り、不在ランプに気づいて携帯のロックを外した。一瞬、亮かも知れないと思って開いたメールは待澤からで、「運動会どうだった? 五月も走ったの?」と茶化すような絵文字と共に入っていた。昨日の夜、明日は運動会に行くのだとメールを送った。夫が一緒に行くという事は書かず、「父兄参加の競技に出なきゃいけないかも!」と明るく締めくった。

不倫を始めてすぐの頃、私は夫婦関係の悩みを全て待澤に話したけれど、いつの間にか暗黙の内に、夫の話はタブーになっていた。私たちにはもう関係を始めた頃とは別のステージに上がっている。振り返ると私たちが経て来たステージには針が敷き詰められていて、後戻りをすれば激しい痛みが伴うであろう事は明白だった。夫を失ったとしても、待澤を失ったとしても、私は激しく傷つくに違いない。自分が傷つかないためには、二人をだまし続けて行くしかないのだ。だから私は半年間、夫に浮気をひた隠し、待澤には夫の影を感じさせないよう努力してきたのだろう。

 返信の言葉を思いつかないまま携帯を片手に寝転んでいると、ママーという声が聞こえた。リビングに出て起き抜けの弥生を抱き上げると、顔に涙の跡を見つけ、それをウェットティッシュで拭った。可哀想にと思ったけど、弥生が一言「パパは?」と尋ねた瞬間、本当に惨めなのは私で、弥生は私を嘲っているのではないかという気がした。

 枕の下で鳴り響く携帯のアラームを、目を瞑ったまま止めた。撮影だ。と思い出すと一気に眠気が覚めた。六時にロケバスが迎えに来る予定で、弥生は昨日の内に実家の母親に預かってもらった。そうか今、この家には亮と私しかいないのだ。もう寝ているだろと思いながら、掛け布団を剥いだ。乾燥だろうか。喉ががさがさしているのに気づいて加湿器を見やったけれど、きちんと稼働していた。

今日も明日も朝から長時間の撮影が入っている。冷蔵庫の中をチェックして、残り物の雑穀米とトースターであぶっためざしを食べると、薬箱を漁った。余裕のある時はホメオパシーで何とかしているけれど、今日明日の事を考えたら、早いうちに叩いてしまった方が良いだろう。弥生は大丈夫だろうか。ホメオパシーを預けおけば良かったと思いながら、抗生物質と咳止めをぷちりとシートから放りだした。

水を取りにキッチンに行く途中、尿意を感じてトイレに向かった。腰を下ろす前に戸棚を開け妊娠検査薬を手に取った、弥生の出産後、一日でも生理が遅れるとすぐに検査するようになった。弥生を妊娠中、妊娠に気づく前に飲んでいた薬やお酒の事が、ずっと心配の材料となった私の気を煩わせていたのだ。

検査薬は妊娠していないかを確認するためのものではなくて、排泄後のウォッシュレットのように、日常を快適に送るための一要素でしかなくなっている。スティックのキャップを外すと、先の吸収体に尿をかけた。

 股間を拭うと説明書を箱に戻してからパンツを上げた。ビニールに包んで行きがけに捨てて行こうと思いながら、洗面台に置いていたスティックを手に取った瞬間、左の小窓にブルーの横線が浮き上がっているのを見て体が硬直する。慌てて箱の裏側の説明書きを見る。左の小窓に横線が出たら陽性、ラインが出ずに判定終了サインが青く染まったら陰性。

飛び跳ねるように鼓動する心臓に、どんどん呼吸が上がって行くのが分かる。震える手で箱の説明書を取り出し、もう一度確認する。更に検査薬と箱に書かれた商品名が同一であるか確認する。再びスティックを見ると、横線がくっきりと浮かび上がったまま、判定終了サインが青く染まりきった。殴られたように心臓が痛んだ。過呼吸のせいか指先が僅かに痺れ始めていた。産めるはずない。口を閉じたまま呟いた。

ここ数日で、私は夫とやり直していく手立てあるのではないかと思い始めていた。しばらくは待澤をはけ口にして、少しずつ夫と和解していき、最終的には待澤と別れ夫と二人で元通りの生活を送る。そういう卑劣な計画が実現するような気がしていたのだ。運動会の日の夜、私は絶対に浮気はしていないと亮に断言し、亮が信じるよと言うのを聞いた瞬間前向きな気持ちになって、一昨日は亮の帰宅に合わせて豚の角煮を作った。

亮は珍しいなと言って珍しく穏やかな表情を見せ、二人で日本酒を飲んだ。飲んだのはほんの一時間程度だったけれど、私たちの関係が大きく改善したような気がして沸き立つ喜びを抑えきれなかった。休日の前日には、またつまみを作って亮の帰宅を待とうと思っていた。次は亮の好きなふろしき大根にしようか、それとも鰤大根にしようか、という考えは消し飛んで、私はまず自分の腹に根付いた胎児の処遇を決めない事には一歩も前に進めないのだと自分に言い聞かせた。

検査薬と説明書を持ってトイレに立ち尽くし、考えていたのは中絶だった。夫との関係を修復していくには、まず中絶するしかなかった。いなくなれと望めば宇宙に飛んでいくわけではない。固く閉じた子宮口をラミナリアでこじ開け胎児を掻き出さなければならない。でも、十代の頃に経験した中絶手術の過程や術後の経過を思い出しながら、私は自分の中で一向に中絶という方向性が定まらないのを感じていた。

走馬灯のようにものすごい勢いで、私はこれからの可能性を考え始めた。待澤にも夫にも事務所にも何も言わず堕胎する。待澤に話して堕胎する。待澤に話し、夫と離婚して待澤と結婚して四人家族になる。弥生を残してこの家を出て待澤とお腹の子と三人で暮していく。今すぐどうにか夫とセックスして、ごまかしごまかし夫の子として育てていく。夫にすべてを話し、夫とお腹の子を育てていく。いや、無理だ。考えがどんどん現実味を失っていくのを気づいて、私は考えるのを止めた。

もっと言えば、私はどの道も現実的だとは思えなかった。どの道も、私が選べる気がしなかった。浜中さんの顔を思い出すと、胃が痛くなった。タレントが所属する事務所で大した仕事もなく燻っていた時、移籍しないかと声をかけてくれてから。もう十年近い付き合いになる彼は「不倫と麻薬だけは手を出すな」と事あるごとに私に注意をしてきた。不倫相手の子供を妊娠したと言ったら、彼はいつもの穏やかな顔を、どんな風に歪めるだろう。

 前の生理が終わってから、セックスは三回しかしていない。中出しは一度もしていない。弥生の妊娠は亮が酔っぱらって中出しした時だった。十代の頃に堕胎という結果になった妊娠も、中出しだった。十四の時に初めてセックスをしてから何百、いや何千と、私は外出しで妊娠を免れたはずだ。

「差し込み文書」アンジャッシュの渡部建の不倫報道
2020年6月11日発売『週刊文春』で報じられた、アンジャッシュの渡部建の不倫報道は一般的な“不倫”ではなく多目的トイレというゲスさに世間は驚いたが、一般社会でも多く見られ左程驚くことではない。どんなに可愛い奥さんでも、普段仲が良くても、本人の有り余る性欲の持ち主既婚者と知り近寄ってくるゲス女とそのプレイをしないと満たされない性癖の渡部建との違いはなく同じく顔を公開し晒さらされてもよい案件だ。何も知らなかった妻の佐々木希さんはどんなに絶望的な気持であろうかと推敲される。

金があって自由時間あり気に入った女が言い寄れば世の中の大勢のモテ男達の食指を止めることはできないのだ。或いは恋愛依存症的性欲旺盛な女達もその乱れ切った恋愛やセックス快感の食指を止めることはできない深い性的悩みだともいえる。このような行為は社会的制裁、法的措置が取られるので長続きできないし、悲惨な結果が待っている。
一瞬夢みる放恣(ほうし)な姿態、姦通
 男と女の性愛がどういうものであるかを知っている女にとって、誘惑者のことばは、たとえ精神的なことしか語らなくても、すべてベッドにつながって、妻の心は落ち込んでゆく。不倫に踏み切る時の妻の状態は、十人が十人同じもので、要するに好奇心に負けたのである。秘密を持つということが、単調な妻の生活に、精神の緊張を与える。
女が一番いきいきと魅力的にみえるときは、ある目的のために、ウソをついて、必死に演技するときだろう。
 人妻を満足させるほど、人妻を姦通への誘惑に引きずり込むため、情熱的になってくれる男は、どちらかと言えば、精神的プレーボーイで、人妻をものにするまでの過程を愉しんでいるのであり、ものにした女は他の多くの女同様、大して珍しくも美味しくもない女なのを知っている。

妻たちの深層心理
 性を重要視し、性が人生の中で最大の関心事のように考える風潮は、マスコミの扇動のせいもあるけれども、それに乗せられやすい女たちの浅薄さのあらわれで、今の人妻の多くは、自分から性の自縄自縛にかかっているようなところもある。

 夫の浮気が、感覚的に許せないといって一度や二度の、あるいは、ある時期の夫の浮気以来夫との性交渉を断つというような、潔癖な妻は滅多にいるものではない。
 ある時期、思い出すたび、口惜しさと、不潔感に、泣いたり、わめいたりしても、いつのまにか夫を受け入れているし、男とはそんなものだというあきらめで、あきらめてしまっている。

セックスの技術を極める
父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル下記商品群である。

 不倫という関係の中たった三回の外出しで妊娠したのか。私は本気で、誰かが私を呪ったり、陥れようとしているのではないかと感じ始めていた。妊娠は当然の結果だ。原因と結果ははっきりとしている。でもそれが何らかの計画の上に作られた結果のように感じられて仕方なかった。でもそこに計画があるとしたら、それは自分自身の計画でしかないと思いに至ると、トイレに蹲(うずくま)って泣いた。

 血の気の引いた顔をコントロールカラーで隠すと、サングラスを掛けてエレベーターに乗り込んだ。地下のダストシュートで検査薬を捨て、階段を上り一階の正面玄関から外に出た。明るく「おはよう」と声を掛けてくる撮影クルーに、口元だけで微笑み「おはよう」と声を上げた。ちょっと今日風邪気味で、とツダちゃんに言い残すと、私は一番後ろの席に座った。ミネラルウォーターを数口飲み、サングラスを通して身じろぎもせずに窓の外を見つめながら、私は誰にも言わず一人で中絶する道を真剣に考えていた。妊娠は恐らく間違いない。今だったら術後の回復もそう時間はかからないはずだ。

私が一時的に苦しめば、後は何もなかったように時間は過ぎて行くだろう。夫との関係も修復出来るかもしれないし、仕事も失わない。でも何もなかったように待澤と関係を続けていけるのだろうか。手術を終えた時、きっと私は彼と会いたいと思えないだろう。中絶手術の様子を思い出した後に続くのは、弥生を出産したLDRの光景だった。

妊娠を継続させれば、胎内で肥えきった赤ん坊が私の子宮から出てきて、私の腕に抱かれ、私の乳を飲み、出産から一年も経てばママと言ったり抱っことせがんだりして、弥生と同じように私にまとわりつくのだろう。ぐっと唇の両端を下げ、目を細めて頼りない声で泣き喚く新生児を思うと、堕胎など絶対にできないという気になった。産むしかないのだろうか。私はさっきの真逆に考え始めていた。男の子が欲しかった。弥生は絶対男の子。お腹の子が女の子だと聞いた時から、次は男の子、次は男の子、と思っていた。夫とのセックスが減り、追い打ちをかけるように子宮筋腫が見つかったからは、弥生で打ち止めになるのかもしれないと思うようになっていたけれど、今お腹にいる子は男の子かもしれない。

待澤は、上に兄がいる。男の血が強いのかもしれない。筋腫の事を考えると、これは私が子供を産める残り少ないチャンスと言えなくもない。私は先月の生理が何日に来たかスケジュール帳で確認し、出産予定日が大体六月頃であるのを算出し、そうすると弥生とは四歳差になるのかとか、生まれてすぐ弥生の幼稚園受験だから大変だなとか、丁度母胎の免疫が切れる頃に冬が来るから弥生に風邪をうつされるかもしれないとか、そういう事も考えていた。

外や保育園で小さな赤ちゃんを見かけると、駆け寄って頬ずりをするほど赤ちゃんが好きな弥生は、赤ん坊の誕生を喜ぶだろうか。それとも赤ちゃん返りして手こずらせるだろうか。赤ん坊を抱きしめる弥生の姿を想像すると、もう自分が中絶するとは到底思えなかった。中絶したくないのであれば、出来るだけ早く待澤に話をし、彼の意向を聞かなければならない。彼が堕してくれと言うのであれば、私に選択肢はない。夫も待澤も失って、一人で二人の子どもを育てていく事は出来ない。でも、産むことになったらメディア対策はどうしたら良いのだろうか。

女優やタレントだったら確実に業界追放だ。モデルは割合私生活に制約は少ないけど、もし大々的に週刊誌に書かれたら、もうスポンサーはつかないだろう。今結んでいるCMの契約期間がいつまでだったか記憶を探る。事務所の力を借りて妊娠を隠し、二ヶ月か三ヶ月産休を取って何事もなかったように仕事に戻り、第二子の存在は少なくともスポンサー契約が切れるまで隠し続ける。或は、夫に全てを話し、夫と離婚した上で「元夫の子供」として出産する。

こそこそと出産するよりずっと気が楽であるけれど、自分の子供を「元夫の子供」とする事を待澤がどう思うか、夫が激昂して全てを週刊誌に売る可能性もあるし、別の男の子供を自分の子供と公表される事も耐え難いと感じるかも知れない。でも夫にだって立場があるはずだ。妻が浮気相手の子供を妊娠して離婚する羽目になった、と思われるのは彼だって気分が良くないだろう。私は自分が、子供と仕事の事ばかり考え、待澤と夫の気持ちをパズルのピースのように考えているような気がして、ぞっとした。

 撮影の合間に、海辺で一人皆の輪から離れ、弥生を妊娠した時一番最初に行った個人院に電話を掛けた。子宮筋腫の検査は、弥生を出産した病院で受けている。そっちで診てもらった方がいいと思いながらも、夫と一緒に妊婦健診に通い、夫ともに弥生の誕生を喜んだ産院に行くのは気が引けた。

悩み抜いた末に決めたブランド院と呼ばれる有名な産院のLDRで、予定日を十日以上過ぎ、二十時間にも及んだ陣痛を経て、やっと出て来た弥生の産声を今でも鮮明に思い出せる。裏声のように高く細い声を聞いて、私も涙を流した。産着に包まれ私の腕に収まった小さな弥生を抱きしめていると、亮が私の右手に手を重ねた。世界で一番大切な二人の人間が、私の手の中にある。そう感じた瞬間私は強烈に満たされ、二十時間の陣痛の疲れが出たのか、病室に戻るストレッチャーの上で意識を失うようにして眠りについた。

目を覚ました時、最初に亮の背中が目に入った。背を向けて立ち尽くす亮をぼんやりと見つめ、彼がじっと見下ろしているのが小さなベッドに寝かされた赤ん坊であることが分かった途端、妊娠中ずっと抱えてきた「亮が赤ん坊を愛せなかったら、私が赤ん坊を愛せなかったら」という不安が木っ端微塵に吹き飛び、強烈な安堵を感じ私は声を上げて泣いた。この家族を守るためなら、私は何度でも死ねるとも思った。何人でも殺せるとも思った。

あの家族はどこに消えたのだろう。私は新たな子供を出産する事で、更なる悲劇を生みだしてしまうのではないか。分からなかったけれど、私に残された道は出産と堕胎の二つしかなかった。夫との関係も待澤との関係も、どちらかを選択した上にしか成り立たない。私は、自分がもう恋愛というステージで彼らと関係を動かしていく事が不可能となってしまったのかを知って、失恋によく似た喪失感が優しく体中を包み込んでいくのを感じていた。

 撮影から戻って弥生を迎えに行き、家に帰って寝かしつけを終えると、私はソファで横になったまま、待澤へ送るメールを打っては消し打っては消ししていた。病院できちんと妊娠を確認してから話すつもりではあったけれど、とにかく会う予定を入れておかなければという焦りがあった。

話したいことがある、と言うのも何となく重大感が漂いすぎる。でも重大な事なのだからそう言うべきなのだろうか。病院は明後日金曜日の午前中に予約を入れた。待澤の金曜の授業は何時からだっただろと考えながら、メールを少しずつ打ち進めていく途中、ばたんと音がした、いつもよりずっと早い帰宅だった。亮はリビングを少し開けて「お帰り」という私の言葉に「ああ」と返し、冷蔵庫からビールを取り出した。彼は私から遠いソファの端に腰かけると、テレビを点けた。

今強烈に亮に話したいことがあるにもかかわらず、言葉が喉元に引っかかるような感覚があった。しばらくしてそれが、今自分が陥っている状況を伝えたい欲求であるのに気づいて愕然とした。付き合い始めてから「離婚」の言葉を聞くまで、私はずっと亮に言葉を費やして来た。どんな悩みも亮に話して二人で解決してきた。

そんな事出来るはずもないけど、今日一日感じてきた混乱や苦しみや孤独感を、私が正確に伝えられるのはきっと亮だけなのだ。亮に抱きしめてもらいたいという欲求が湧き上がった。抱きしめてもらいたい。指一本でもいいから触れたい。激しい愛おしさに気が狂いそうだった。

私は亮のことが好きで、亮の代わりは誰も出来なくて、亮は私の全てのエネルギーの源で、たとえ亮が私を一ミリも愛していなくても、彼が私を憎んでいたとしても、彼が存在するという事実が私にエネルギーを送り続けるだろう。自分の中でそういう結論が出ると、私は強烈な幸福感に包まれお腹に手を当てた。私は、お腹の子を産むような気がした。もう寝るねと言って携帯を手に立ち上がると、うんという言葉を背中に受け止め寝室に戻り、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。

これからどうしたらよいのか見当もつかない。次の瞬間に自分が何をすべきかすら分からない。でも何も恐ろしくなかった。私はこれから自分に降りかかる幸も不幸も全て無条件で受け入れるだろうと思った。
つづく 第六章 ユカ 
キーワード、ツリー、彼の麻薬依存体質、抗鬱剤、摂食障害