咳を止め、一弥がわなわなと震えながら限界まで息を吸い込んでいく。くる、くる、と思っていると断末魔の鐘切声が部屋中に反響した。狂人と化した一弥の口元をタオルで拭い、ベッドから下ろすとシーツを外し、ぎゃんぎゃんとのたうち回る一弥の汚れた服を脱がせると、フローリングについた汚れを拭き取り、マットレスに染み込んだ吐瀉物を更に拭き取っていく。汚れ物を全て洗面台に詰め込むと

本表紙 金原ひとみ著

第四章  涼子

「広告 既存の避妊法嫌い、快感をこよなく愛するセックス好きのゴム嫌い外だし。ではなく膣内射精できる特許取得「ソフトノーブル避妊具、ノーブルウッシング(膣内温水洗浄器)」を用い、究極の快感と既存の避妊法に劣らない避妊ができる」

 泥のように崩れ落ちそうな体を起こし、泣き喚く一弥を抱き上げ授乳を始めた。寝室にはカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。ちゆっ、ちゆっ、と一弥の口が母乳を吸う音を聞きながら、少しずつ覚醒していく。浩太は私が用意しておいたおにぎりを食べ、すでに会社へ到着しているはずだ。一弥が乳首から口を離すとダイニングに連れて行き、ソファでつかまり立をさせてオムツを替えた。

NHKの教育番組を点け、炊飯器に残ったご飯でニンジンとジャガイモ入りのおじやを作り、一弥を椅子に座らせ首にスタイをつける。母乳を飲み終えたばかりの一弥は、おじやを手づかみでテーブルに広げるばかりで、一向に口に入れようとしない。椅子の下にはビニールシートを敷いているが、たきに飛び散るおじやがシートを越えそうになってはらはらする。

濃い煮物や油を使ったものを食べるようになったら、カーペットを外すかもしれない。アイボリーのカーペットは祖母からの出産祝いで、「赤ちゃんがハイハイをするようになったら、頭を打たないように敷いてあげてください」というメッセージと共にもらったものだった。高級なベルギー製カーペットは、敷いてから数ヶ月経った今でも全く部屋に馴染んでいない。

 お腹いっぱいだよね。一弥にとも自分ともつかない呟きが零れる。数日前、連絡帳の朝食の欄に「8:00母乳 9:30分離乳食」と記入して渡したら、「昼ご飯が十一時からなので、出来れば八時頃に朝ご飯を食べさせていただきますか」と保育士に言われた。起きるなり泣きながら空腹を訴え、乳首にかぶりつかないと泣きやまないというのに、泣き喚くのをほったらかして朝飯作れとでも言うのだろうか。

魔法瓶にお茶を用意しておこうか、夜の内に朝ご飯を作っておこうか。鬱々と解決策を考えながら、ほとんど食べてもらえなかったおじやと汚れたシートを片付けた。洗面所で顔を洗っていると、テレビに飽きたのか、ダイニングで一弥が泣き始めた。こんな時、これまでは母乳を飲ませて泣きやめさせていたけど、今母乳をあげたら、一弥は保育園での離乳食も食べないだろう。

一弥を膝にのせ、あやしながらさっと化粧をし、連絡帳を開いて片手で記入していく。就寝・起床時間、昨夜・今朝の食事の時間、便の有無、体温。最後に「連絡事項」という欄で手が止まる。最初の数日こそ、哺乳瓶が使えないので飲み物はストローかマグマグで飲ませていただけますか、とか、排便の時はお腹をさすってやると安心するようです、などと書いていたが、もう何も書くことがない。他の人は一体、毎日毎日何を連絡してるのだろう。ペンを片手に暫く悩むと、私は時計を見上げ連絡事項を空欄にしたままバッグに押し込んだ。

 九キロを超えた一弥をスリングに入れ、二駅隣の保育園に到着する頃には足腰がぎこちなく軋んでいる。体力はある方だと思っていたが、左手首が腱鞘炎になりかけているのを始め、寝不足と過労による目眩やふらつき、抱っことスリングによる腰痛が、どんどん精神力を奪っていく。出産以来、授乳によるホルモン変化のせいか風邪を引きやすく、乳腺炎も幾度となく繰り返し、月に一度は必ず三十八度以上の熱を出している。しかしどんなに熱を出しても、私は育児から逃れられないのだ。

「おはようございます」
 保育士の言葉に同じ言葉を返す。保育士は更に一弥に向かって「おはようかずちゃーん」とにっこり微笑んだ。この、甘ったるい空気にもいずれ慣れるのだろうか。こういう過剰な赤ん坊適応ぶりを目の当たりにするし、親が来ている時だけこうして優しい表情を見せているんじゃないかと勘ぐってしまう。連絡帳を渡すと、一弥に行ってきますと手を振りクラスを出た。低い仕切りで区切られた一歳児クラスには、二人しか子供がいない。

きっと散歩中なのだろう。ユカはもう、子供送り終えてたのだろうか。関わりたくないと思いながら。私はどこかでユカと会う事を楽しみにしていた。きっと、浩太や親には叩けない軽口を、友達と叩きたいだけなのだろう。高校時代の友達や、専門学校時代の友達に連絡してみようかと思う事もあるけれど、いつもすぐに億劫になってしまう。今自分が感じている育児の苦しみや喜びを共有できない人と、私はもう有益な関係を築けないような気がする。

 改築されたばかりの部屋にはオイルヒーターが張り巡らされ、コッコッコッという微かな音と共に部屋を暖めている。外は暑いくらいだというのに、母親はいつも「部屋を快適な温度と湿度に保つ」事に執念を燃やしている。ちょっと前、母親に公共料金の額を聞いて閉口した覚えがある。

若い頃お金に苦労したせいかもしれないが、五十を過ぎて事業に成功した母親が、こうして少しずつ狂っていく姿を見ているのは気分が良いものではない。私が堅実な生活を求めているのは、彼女に対する反発もあるのかもしれない。

「一言も相談してくれないなんて」
「だから、急だったの。空きが出たって言われの、つい先々週なんだから」
「大丈夫なの? 無認可なんでしょ?」
「認可じゃないけど、認証保育園だよ」
「それって、どう違うの?」
 浩太とのやり取りの繰り返しだ。私は苛立ちを隠さずカップを荒々しくソーサーに置いた。浩太を説得して、次は母親、じゃあ次は浩太の両親を、私は説得しに回らなければならないのだろうか。

眉をハの字にして心配そうな表情を浮かべながら、彼女は心の底で私を責め、軽蔑しているのが分かる。私は苦労して自分の手で子供二人を育て上げたのにと言わんばかりだ。妊娠中、出来れば無痛分娩にしたいと言った時も、彼女は「痛い思いをして産まないと実感が湧かないよ」と言って私を啞然とさせた。痛いのと痛くないのだったら痛くない方がいいに決まってる、と言うと「耐えられないような痛みじゃないのよ?」とやはり眉をハの字にして答えた。

「とんでもなく痛いのよ」「あんな痛み体験した事はなかったわ」「あんなに痛い思いをして産んだのに」と幼い頃から彼女に言われ続けて恩着せがましい言葉が、妊娠中の私が陣痛、出産を怖れてやまない理由になっていると、彼女は思いもつかないようだった。結局、近くに無痛分娩をやっている病院がなく、八時間の陣痛を経て自然出産に至ったが、やっぱり多少遠い所でも無痛にしておくんだったと後悔した。

「例えば、ベビーシッターじゃ駄目なの? 少しくらい援助してもいいのよ」
「あんなに狭い家の中でベビーシッターを雇うの?」
「ここでかずちゃんに見て貰えばいいじゃない。近いんだから」
「頼りきりになるのはいや」
 そんな事したら一弥に関して私の意見も主張も通らなくなってしまう。母親のルールで動かなければならなくなってしまう。そして終いには一緒に住めばいいじゃない、と言い始めるに決まっている。

「でも、どうするの? バイトのことお父さんから聞いたんでしょう?」
「来年まで待つよ。仕方ないじゃない」
「じゃあそれまで何をするの? かずちゃん保育園に預けて、一人で何をするの?」
「しばらくはゆっくり過ごす。私、一弥が生まれてからずっと一人の時間なんて持てなかったんだよ? 少し疲れが取れたら、短期のアルバイトでもいいし、在宅の仕事でもいいし、何かするつもり」

 在宅の仕事って、内職のこと? と呆れたように母親が呟く。来年の四月にウェートレスの女の子が結婚退職するまで空きが出ない、父親は申し訳なさそうにそう言った。雇う事はできるけど、涼子にとって居づらい環境になるかもしれない、と言う父に何が何でも今すぐ雇ってくれと言えるはずもなく、私はこれから半年間別の時間を潰さなければならない事になった。

浩太の稼ぎだけで、生活費と保育料を賄うのは不可能だ。このままでは貯金が減っていき、貯金が減ればマイホームが遠のいていく。一刻も早くバイトを探さなければと思っているが、どんなに求人情報のフリーペーパーを持ち帰っても一向に開く気になれず、テーブルに積み上がったそれは浩太への「働く気があります」というアピールとしてのみ役立っている。

「うちの会社で働く気はないの?」
 絶対いや。呟くと紅茶を飲み干してティカップをソーサーに置いた。こうして実家で母親に小言を言われながら、私はどこか開放感に満ち溢れている。これまで九カ月間、一弥が眠っている時間以外は一弥をあやしながら、一弥の泣き声を聞きながら生活していたのだ。一弥のコミュニケーションの比で言えば、この母親と向かい合って話すというそれなど無に等しい。あの、壁をぶち破って土足で踏み込んでくるような赤ん坊の乱暴なコミュニケーションに慣れてしまうと、大人同士の関係が如何に快適で楽で虚しいものかが分かる。

 母親が黙り込んでパウンドケーキを食べ始めると、携帯を開いてブックマークから「view」というサイトへ飛んだ。IDとパスワードを空で入力し、操作ポタンをクリックして一歳児クラスからゼロ歳児クラスへカメラを動かす。携帯だと画面が小さく見ずらいけれど、一弥の姿はいつもすぐに見つかる。保育士に抱かれた一弥にズームアップすると、その保育士の手元を見てぎょっとした。

保育士は、哺乳瓶で一弥にミルクを与えていた。ミルクはストローかマグマグで飲ませてくれとお願いしたのに、せっかく哺乳瓶を飛ばしてマグマグに慣れさせたのに、そろそろコップで挑戦させようと思っていたところだったのに、哺乳瓶の乳首に慣れてしまったら、乳頭混乱を起こすかもしれないのに。

私は、ここまで哺乳瓶を使わずに育ててきたという自負が他人によって踏みにじられたのを感じ、激しい怒りと屈辱を感じた。お迎えの時に言わなければと思いながら、一弥が哺乳瓶からミルクを飲み干す様子をじっと見つめる。

「あ、そうそう、光がかずちゃんの一歳の誕生日プレゼント、何にしようかしらて悩んでたんだけど、何か欲しい物ある?」

 全身が重く固く強張っていくのを感じた。あの叔母が一弥へのプレゼントを考えていると思うだけで、ストーカーに命を狙われているかのような不安と恐怖に襲われる。私は携帯を見つめ、その言葉を無視した。母親はそれ以上何も言わなかった。

 私が小学校低学年の頃に鬱病を発症した叔母は、その後良くなったり悪くなったりを繰り返していたが、リハビリのためにもと母が軌道に乗り始めた自分の会社で働かせるようになってからはぐるりと反転し、激しい躁状態が続いている。子供がいないせいか、叔母は私や兄が幼い頃から積極的に関わろうとしてきた。

幸の薄い彼女を見ているといたたまれない気持ちになって、私も兄も幼いなりに気を遣い、出来るだけ叔母を受け入れようとして来たけれど、ころころと変化していく叔母の態度に耐えきれなくなり、私たちは彼女から距離を取るようになった。今となっては、いい歳をしてべったりと寄り添っている彼女たちの関係そのものが気持ちが悪い。

 私が高校生だった頃、旦那が会社をリストラされ鬱病が悪化した叔母が、薬を飲み過ぎたのか突然ハイテンションでうちにやってきたことがあった。母親不在だっためにリビングに通し、お茶を煎れてそこで待っていてくれと言って自室に籠もると、叔母はすぐに私の部屋にやって来てドアの前に座り込み、突然自分の若い頃の性体験について話し始めた。

確か、土曜か日曜の休日だった。明るい日差しが差し込む、暖房の効いた暖かい部屋で、私はラグに緊張した下半身を下ろしたまま、大声を上げて部屋を飛び出しそうになる自分を押しとどめ、まくし立てるように話す叔母をじっと見つめていた。次第に音が消え、周囲が無音となり、唾を飛ばして話す彼女だけが明るい部屋の中で浮き上がって見えた。

無音の中で何かを話し続ける彼女はチャップリンのようだった。私は薄い微笑みを顔に貼りつけ、叔母の白くむくんだ水死体のような顔が、あらゆる表情を形作っていくのを見つめ続けた。それからどのくらい時間が過ぎたのか分からない。涼子? と突然無音の世界に兄の声が飛び込んできた。はっとして顔を上げると、ドアから兄が顔を出していた。

突然堰を切ったように激しく脈打ち始めた心臓に、呼吸が整わないまま立ち上がり、叔母の脇をすり抜けると私は財布も携帯も持たずにふらふらと家を出た。二十六年間生きてきて、一度も神秘的な体験や、霊的な体験をしたことがないけれど、唯一あの時以来、私は完全に叔母を受け付けなくなった。叔母さんの話はしないでくれとどんなに頼んでも、母はたまにこうして軽はずみに叔母の名前を口にして私は憂鬱な気持ちにさせる。母経由でもらった叔母のからの出産祝いは真っ白なブラケットで、一度も箱から出さずに押入れに突っ込んだままになっている。

 一弥は一歳児クラスとゼロ歳児クラスを仕切る柵に手をつき、つかまり立ちをしていた。ただいまと言うと、一弥はふにゃりと顔を緩めた。つられて笑みがこぼれるが、お帰りなさいませと声を掛けて来た担任の保育士は「ミルクの事なんですが」と切り出すと、表情が険しくなっていくのが分かった。

「今日動画を見ていたら。ミルクを哺乳瓶で上げているのが見えたんです。私、ミルクはストローかマグマグであげてくださいって、連絡帳に書いておいたんですけど」

「申し訳ありません。あの、かずちゃん、今日離乳食をほとんど食べなかったのでお昼寝の前にお腹が空いてしまって、担任が寝かしつけで手が離せなかったので、別のクラスの新人にミルクを頼んだんです。その時ストローかマグマグでという事を伝え忘れてしまって」
「そうですか、早くコップに慣れさせたいと思っているので、今から哺乳瓶には戻したくないです」
「申し訳ありません。今後は徹底していきたいと思います」

 平謝りの保育士にそれ以上言うことは出来ず、よろしくお願いしますと言うと一弥を抱っこしてロッカーに向かった。あまり強く言い過ぎると。モンスターペアレントだとか、ノイローゼだとかいうレッテルを貼られ、一弥がいじめられるかもしれない。着替えと連絡帳をバッグに突っ込むと、スリングを肩にかけた。一弥を入れて立ち上がろうとした瞬間、びしっとヒビがいるような痛みが腰に走った。

ロッカーに手をついて数歩よろけてから、私は上体をゆっくり起こした。カンガルーのようにスリングから顔を出す一弥はにっこり笑って、ぴっと片手を挙げ辺りを見渡している。バイバイをしてるらしい。他の子たちを見て覚えたのだろうか。バイバイ、って言うんだよ。一弥の成長に顔をほころばせそう囁くと。私は一弥の背中をぽんぽんと叩き帰路に着いた。

 あとちょっとだ。朝の明るい日差しに顔を顰めたまま。自分に言い聞かせる。おーい。間の抜けた声に気づいて顔を上げると、手を振っているユカが見えた。髪をびしっとアップにまとめ、エスニック風のノースリーブミニワンピースにゴールドのサンダル、大きなサングラスを掛けている。

やっぱり瘦せたなと思う。服から飛び出した四肢は頼りないほどに細い。あんな体で子供を抱っこ出来るんだろうか。思いながら、手を振り返した。ユカがベビーカーを押してやってくると、初めて見るユカの子供に笑いかけた。二歳とは思えないほどすっきりした大人っぽい顔立ちと、やっと頭が隠れたばかりといった感じの薄い髪の毛がミスマッチで、どことなくエキゾチックな印象を与える子だった。見比べると、一弥のいかにも赤ちゃん顔が随分と愛らしく見える。

「男の子?」
「に見えるよね」
「女の子なんだ? なにちゃん?」
「輪っていうの」
「おはようりんちゃん」
 輪ちゃんは不思議そうな顔で私を見上げ、しばらく沈黙した後におはよー、と笑った。笑顔がユカに似ている。ユカはスリングの中からサングラスに手を伸ばす一弥に向かってサングラスを上下させて見せ、きゃっきゃっと笑う一弥の頭を撫でた。なにか、この間再会した時よりもユカの態度が有効的に感じられる。子供が一緒だからだろうと思いながら並んで残り数十メートルの道を歩き、一緒にエレベーターに乗り込んだ。

「もう十月なのに全然暑いね」
「相変わらずだね。ユカの格好」
「そう? さすがに大人になったでしょ?」
「そうかあ?」
「涼子は何か大人しくなったね。昔はいっつもミニスカートだったのに」
 それはあんたに影響されていたからだ。その言葉を飲み込んだ。高校三年にもなる頃には、もうミニスカなんて穿いていなかった。でも、高校二年の途中で中退したユカが、その後の私のファッションを知る筈もなかった。

「ねえこの後なんか予定ある? 何か食べに行かない?」
 家で食べていたけれど、行く行くと答えた。友達と食事に行くというだけで、こんなにうきうきするなんて子供の頃以来だ。私たちはそれぞれ子供をクラスに送ると、出口で合流して一緒に保育園を出た。この辺よく知らないんだけど、と言うと、朝マックしない? とユカが提案した。もっと何かセレブな事になっていると思っていた私は、軽く落胆しながらいいよと答えた。でも高校の頃と全く変わらないような距離感に、心地良さを感じる。

「ねえそれってどこのバッグ?」
 ああこれ? とユカはバッグをかけた肩を上げた。ああこういうやり取りが、十年前の私たちにも何度もあったのを思い出す。
「サンローランの、これすっごい丈夫なの。とか言ってぽろぼろだけど。色違いで三つ買っちゃったよ」
「金持ってなあ」
「ねえそのプラダって、マンマ?」
「うん。マンマっぽくないでしょ?」
「全然見えない。でかくていいね。軽い?」
「軽い軽い。子連れの時はいつもこれ」
 私も買おうかなー、と言いながら、ユカは手を出した。バッグを渡すと、あっ、軽―い、と言ってユカはバッグを肩にかけた。明るい十月の日差しの下、かつての私たちの姿が蘇る。高校一年の夏休みが明け、少しずつ秋めいてきた町並みを、オール明けか何かで二人並んで朝マックだか朝ロッテだかに向かっていた姿。あの頃、もう既に私たちの関係は破綻に向かっていたような気がする。
ユカと一緒にいる間、ずっと私たちは駄目になる、駄目になる、そう思っていたような気がする。きっとユカも、同じように終わりを予感しながら私と過ごしていたのではないだろうか。

 ソーセージエッグマフィンにしよう、ユカは独り言を、先にカウンターに向かった。私はしばらくメニューを見上げてから、ユカの後ろに並んだ。注文を終え出来上がりを待つユカの隣に立ち、ホットドックのセットを頼んでお金を払うと、隣でユカが大量の小銭を募金箱にジャラジャラと詰め込んでいくのを見やり、何してんのと苦笑する。

「何の募金?」
 覗き込むと、透明な募金箱には小さい子供の写真と共に「お店に来られない子供たちにも、ハッピーを」と書いてある。財布が重かったのだろうと、財布の中の小銭を全て投入したユカを見上げてぎょっとする。
「どうしたの?」
「最近こういうの弱いんだよね」
 今にも涙を零しそうに涙ぐんでいるユカは、お待たせしましたーという声に反応し「先行ってるね。二階の喫茶席」と言ってトレーを持ってさっさと階段を上がって行った。ユカは、少なくとも私と一緒に遊んでいた頃、募金箱を蹴り上げるタイプの女だった。実際に蹴り上げた事があったかどうか思い出せないけれど、募金箱を抱えて募金をお願いしますと迫ってきたボランティアの人に唾を吐きかけた事があったような気がする。

子どもが出来て変わったのだろうか。違和感を抱きつつも、一弥がお店に来られないような病気になったらと考えると、自分もまたぐっとこみ上げるものを感じた。私も子供が出来てから、子供絡みの感動ものにめっきり弱くなった。
「こっちこっち」
 喫煙席の奥まったテーブル席に座るユカは、さっきの表情をすっかり失い煙草をくわえたまま手を挙げた。
「ああいうコピーって何だかね」
「なに? 募金の事?」
「マックに来られる事って別にハッピーじゃないし」
「来られないよりは来れた方がハッピーなんじゃない? ていうか泣いてたじゃんユカ」
「心のどこかで馬鹿馬鹿しいと思ってても、衝動に任せてお金入れるのが正しい募金じゃない?」

 そうかな、と言いながらハッシュポテトを齧った。窓も開いておらず、換気扇が回っているのかも分からない喫煙スペースは煙たくて、誰一人として煙草を吸わない家に住んでいる私はいるだけで体を悪くしているような気になる。

「『マディソン郡の橋』って知ってる?」
 唐突な話に、ポテトを持つ手を止めた。
「何だっけ、映画?」
「そうそう。昔、私が中学生くらいの頃、家で母親があの映画観て号泣してた事があってさ」
「ユカのお母さん、観劇屋って感じだもんね」
「いや、それでね、その日の夕飯時かなんかにね、そんなに良い映画だったの? って聞いたわけよ。泣き方が半端なかったから」
「うん」
「そうしたら彼女、下らない不倫映画よ、って吐き捨てたの」
「‥‥それって、なに? どういう事?」
「よく分かんないでしょ? 気持ち悪いでしょ? 気持ち悪―って思ったんだけど、最近私もよく映画で号泣した後、クソ映画だったねー、って言って旦那に呆れられるの。多分募金も同じような事なんだと思う。ねえファーストフードのハンバーガー一つに何頭分の牛肉が入っているか知ってる?」
「え、知らない」
「五百頭分だよ? そんなどこの牛の肉とも分からないもん食わされてる子供ってハッピーだと思う? まあ私は子供にマック食わせるけどね」

 そうだこれだ。私がユカと居て不快になるのが、この乖離の仕方だ。ユカは自分の乖離を自覚した上で乖離して、その乖離を肯定しているから、訳の分からなくなっていく。
「で、涼ちゃんはどうなの最近? 育児はうまくいってんの?」
 唐突に切り替わった話に、苦笑する。ユカにはどこか、自分本位なキャラクターを演じているふしがある。
「まあ、大変」
「ストレスない?」
「あるよ。もう毎日へとへとだもん。ユカは? もう楽になった?」
「あー楽になったー、って感じたのは一歳三ヶ月だった」
「あと半年か。早く喋れるようになって欲しいよ。何で泣いているか分からない時が一番つらい。すっごく苛々する事ってなかった? かっとして声荒げちゃう事とあって、いっつも自己嫌悪になる」

「今でも苛々しまくりだよ。何度バイブ突っ込んでやろうかと思ったことか」
 笑い声を上げながら、ユカだったらやりかねないと言うと、やらねーよとユカも笑った。隣のテーブル席に座っているサラリーマンがバイブという言葉に反応してか、ぎょっとした表情でユカを見やった。

「保育園入れる事も、本当はすごく抵抗があったんだよね」
「何で? 巷に流れる三歳児神話のせい?」
「まあね。特にうちは旦那も母親も保育園反対してるからさ。押し切って入園させたから、何か意地で自己正当化してるみたいな感じになっちゃって。自分の辛さは誰にも理解してもらえないっていうか」
「保育園に預けてる母親たちは皆「辛いですよね」の一言で理解するよ」
 笑って、そうかもね、と答えた。結局、同じ境遇にいなければ分からないものかもしれない。不思議なほど、私はユカに共感を示してもらって安堵していた。
「ユカはさ、母親って損な役回りだと思わない?」
「思うよ。でもさあ、何て言うか」
「うん」
「涼さあ、ユミって覚えている? 一緒のクラスだった」
「山崎ユミ?」
「そうそう。あの子も私と半年違いくらいで子供を産んでさ」
「そうなの? 全然知らなかった。あの子、確か編入したんだよね? 美容だっけ?」
「そうそう。何かの取材の時に偶然彼女がメイクについてさ。それからたまに遊んでたんだけど、偶然同じ時期に出産したわけ。そしたら、私が育児に苛々してくさくさして、旦那と喧嘩ばっかりしているようなときにさ、ユミはいつ会っても超幸せそうな顔で赤ん坊を抱っこしてるわけ。

どんなに赤ん坊が泣いても苛々しないし、むしろこの子が泣いていると私は不幸だと感じなの。彼女見てるとさ、何で私は彼女みたいに優しい気持ちで育児が出来ないんだろうって、すごく惨めな気持ちになったんだよね。彼女さ、とてもこんな小さい子を預ける気になれないっていって、せっかく軌道に乗っていた仕事もまだ復帰してこなくてさ」
「何でかな。‥‥環境がいいのかな」

「それもあると思うよ。親も頼れる見たいだし、旦那も協力的みたいだし。でも環境だけじゃない気もするんだよね。彼女がああいう人だからこそ、周りもそれについていってる所があるだろうし、あんな女が妻だったら、男は早く家に帰りたくなるよなーって思う」

 まあね、と言いながら浩太のことを思った。今、あの家が帰りたくない家庭になっているという事は分かる。でも、無理して幸せな母、幸せな家庭を演じたとしても、自分が辛いだけだ。私は子供を産んでしまった瞬間、幸せになる道を断たれてしまったのだろうか。自分は母親に向いていなかったのではないか。産むべきではなかったのではないか。九カ月、ずっとそう悩み続けてきた。

「まあ、うちのぐらいになると全然楽だよ」
「やっぱり、話すようになると楽しい?」
「うん。ママ大大々好き、と言われるとあー良かったー、って思う」
「もうそんな事言うの? いいな、早くそんな事言ってもらいたい」
 一弥にそんな事を言われたらと思うと、脱力してしまう。早く、一弥と手を繋いでお散歩をしてみたい。ママ大好き、と抱きつかれたい。そういう、幸せな親子像に憧れる気持ちは強烈にある。ママ愛してる、一弥にそう言われたら、私はその時すべてが報われて、その場で泣き崩れるかもしれない。二歳になれば、一弥もそういうやり取りが出来るようになるだろうか。でも、泣くか母乳か寝るばかりを繰り返している一弥を見ていると、あの子に二歳など永遠に訪れないような気がしてしまう。

「涼ちゃんの旦那は協力的なの?」
「うーん、どうだろう。まあ早く帰って来る時はお風呂に入れてくれるし、オムツ替えとかも言えばやってくれるけど」
「すごいじゃん。偉いじゃん」
「ユカんとこは? 育児とないの?」
「子供と遊びはするけど、育児は全然しないね。別居してるし」
「別居?」
「週末婚ていうの? 土日だけ旦那が泊まりに来るの」
「じゃあ平日は一人で全部育児してるの?」
「まあ、夜仕事がある時はシッター頼むけどね。でも、旦那とは別居前よりも上手くいってるよ。向こうも平日私に全部押し付けてるって後ろめたさがあるのかも、土日は私と子供の相手してくれるし」
「子供と二人きりって、不安じゃない?」
「不安だよー。強盗とかレイプ犯が来たらどうやって輪を守ろうかとか。今自分が脳梗塞で死んじゃったら誰がいつ輪に気づいてくれるか考える」

 自分本位で幼児的、私のユカに対する評価はそういうもので、そのユカが一人で育児をしているのだと思うと何とも言えない気持ちになる。今、私が浩太を失い一弥と二人で生活をするとなったら、きっと私は取り乱し、一弥に対しても優しく接する事など出来ないだろう。でもユカの余裕は、仕事で成功している事や、お金を稼いでいる事に起因しているに違いなかった。

ユカの前提には、自分が社会にも家庭にも必要とされ役立っているという大きな自負と自信がある。それがない人の空虚さに、ユカの想像は及ばないのだろう。妬みという感情にもならない、情けない思いをした。私は一体何をしているのか。何がしたいのか。父親の店でのバイトから出来ず、自分にできる生産的な事と言えば倹約だけだ。

「涼ちん今日これからバイト?」
「ううん。何か、バイト出来るのが来年からになっちゃって」
「あ、そうなんだ。私十二時からネイルサロン行くんだけど、一緒に行かない?」
 出産以来、ネイルサロンには一度も行っていない。財布の中にいくらあっただろうと考えてすぐ、カードで払えばいいやと思い直して、行く行くと答えた。ユカはすぐに電話を掛け、私の分の予約を入れた。タッチパネルの携帯を持つユカの手には、パールの新緑に繊細なアートとストーンが施されている。どんなネイルにしよう。ネイルサロンに立ち込める、アロマとジェルの混ざり合ったような匂いを思い出すと、気分が高揚していく。

経済的に体力的に、多少無理してでも、保育園に預けたらまずこういう事をすべきだったのかもしれない。育児が辛く、夫とも上手くいかない生活の中で、きっと綺麗な自分だけが自分を癒してくれるのだ。

 きらきらと音がしそうなサロンで、マッサージを受けリクライニングチェアに深く腰掛け、時折冷たいハーブティーを飲みながら、私たちはずっと話していた。日常生活の愚痴から、夫への苛立ち、世間の母親に対する思い込みへの苛立ち、何でこんなに乳腺炎になるのかという悲しみ、どんな愚痴を零しても、ユカは「そうそう」と言い自分の体験した面白い話やびっくりするような話を返した。

こんなに話が通じる人が居るなんて思ってもみなかった。私はずっと、共感してもらいたかっただけなのだと思った。誰かに助けてもらいたいのではなく、誰かに共感してもらいたかっただけなのだと。ただ「そうそう」と言い合うだけで、雲が晴れていように爽快だった。浩太が、私の打つ球を何度も何度も空振りし「わざと空振りしているのではないか」と思わせるのに比べ、ユカはどんな球にも変化を付けて返してくる。

 二人のネイリストが同時に席を外した隙に、「子供出来てからセックス減った?」と聞くと、ユカは「減ったの?」と苦笑いしながら訊き返した。
「減った。月一か、あっても二」
「ひどい。旦那可哀想」
「ユカは?」
「週二くらいかなあ。別居してると数は打てないけど、会った時は必ずヤるようになるよね」
「そういうもんなんだ」
「涼ちゃんって、今でもセックス嫌いなの?」
 高校時代に散々セックスについて話したせいで、私たちは互いにほとんどの性癖を知り合っていた。
「嫌いって言うか、好きじゃないってだけだよ。でも子供が出来てから本気で嫌いになった。胸も張ってるしさ。大体子供の隣でそんな気分になれないよ」
「セックスないと、不安にならない?」
「ていうか、セックスがなくても愛し合えるのが本当の愛じゃない?」
「だから涼はさ、あれなんだよ。根底にものすごい自己肯定があるんだよ」
「何それ。そんな事ないよ」
「あるある。涼は他人に肯定してもらわなくても自分で肯定出来る人だから、セックスがなくても自分が愛されていないなんて思いもしないんだよ。すっごい自信があんの。何でかなあ、ご両親がきちんと愛情を注いだからかなあ」
「でもセックスって全肯定だからね。全肯定って暴力だからね」

 はいはい、と流して大きくため息をついた。基本的に、女は産後のセックスが嫌いになるはずと思っていた私は、共感を得られずに落胆していた。ふっと時計を見上げると、二時を過ぎたところだった。私の懸念に気づいたのか、ユカが延長すればいいじゃんと言う。

「延長って、そんな直前にお願い出来るものなの?」
「七時くらいまでだったら当日でも大丈夫だよ」
「でも、そんなには付き合えないよ」
「分かってる分かってる。帰りにこの裏のAVEDA寄りたいの。そこだけ付き合ってよ。チャック何とかいうのを買いたいんだよね」
「ユカってスパとかよく行くの?」
「たまーに。締め切明けとかに。スパとかエステって馬鹿馬鹿しいけど、散財している感と自分磨いてる感でしかも癒しきれないし」
「あー何か、分かるかも。昔はアロマとか馬鹿馬鹿しくてしょうがなかった」
「私たちも日和ったね。今度一緒に行こうよスパ。全身三時間コース」
「ユカに付き合っていたらあっという間に破産だよ」

「一回くらい奢るよ。まあ今日はそのチャクラ何とか買うだけだから、買ったらすぐにドリーズまで送るよ」
「私を送った後どうすんのぬ?」
「あの辺で原稿書いて、七時にお迎え」
 ふうんと言って、ユカのバッグを見やった。開いたバックの口から、チカチカとランプを灯しているパソコンが見える。ユカは今朝私と偶然会わなかったら、仕事をしてからネイルサロンに来て、また仕事をして迎えに行くつもりだったのだろうか。もちろんいつもいつも子どもを預けて遊んでいるわけではないだろうが、ユカは子供を預けてこういう所へ来ることに罪悪感を持たないのだろうか。

夫は全く育児をしないとユカは言っていたが、浩太のように保育園に入れる事を嫌がるような人ではないのだろう。母性幻想を押し付けるような人ではないのだろう。彼女には、そういう抑圧を受けた跡が見えない。

 遅くなって。すみませんでした。クラスに入って言うと、保育士は大丈夫ですよと微笑んだ後、「すいません、一つご報告しなければならない事がありまして」と言って一弥の脇に座った。
「わざとではないんですが、少し大きなお友達が勢い良くかずちゃんに駆け寄った時、ちょっと爪が当たってしまって、すぐに冷やしたんですが傷になってしまったんです」

 保育士は本当に申し訳なさそうな顔をして、一弥の顎の辺りを示した。一瞬、胸の辺りがひんやりして、血の気が引いた、顎から首にかけて、動物に引っかかれたように並んだ二本の赤い線が浮き上がっていた。誰がやったんですか、そう声を荒げたくなるのを抑えて、ぐっと歯をかみしめた。

「本当に申し訳ありませんでした。今後こう言う事がないように気を付けていきます」
「よろしくお願いします」

 それ以上何も言うことは出来ず、私は微笑むことも出来ないまま一弥に手を伸ばした。もう痛くないのか、一弥はきゃっきゃっと笑いながら私の胸に収まった。保育園に預ける事は、こういう事なのだ。私以外の人が一弥を保護し監督する。一弥一人に一人の保育士がつくわけではない。保育士の手がふさがっている時は放っておかれ、その監督不行き届きで、こういう事故も頻繫に起こるだろう。

元々、たまに大きな子と一緒に保育されているのを、危なっかしいと思っていた。まだハイハイしか出来ない子供と、走り回って遊ぶ子供を一緒に保育していたら、こういう事故は起こるのが当然だ。やっぱり、認可園に入れるべきだったのだろうか。でも認可に入れたとしても、防げないものなのだろうか。

一弥の美しい肌に一つの傷をつけずに育てていきたいのなら、保育園になど入れるべきではないのだ。私は一弥を抱く腕に力を籠めた。保育士が連絡帳を渡すとき、私は思わず俯いた。彼女が、ストーンとブリオンで飾り付けられたネイルを見ているような気がした。

この母親は保育園を延長してネイルサロンに行っていたのか。そう思われている気がして、
苛立ちと悔しさと罪悪感に駆られながら、荷物をまとめスリングに一弥を入れた。黙ったままクラスを出ると、一弥をスリングの上から強く抱きしめる。一弥の顎の傷と引き替えに、私はこのきらきらと輝く、一万六千円のネイルを手に入れたのだ。ハンドマッサージに使っていたマッサージオイルの華やかな香りが鼻孔に届いて、私は顔を顰めた。
「今日は本当にすいませんでした」

 連絡が行き届いているのか、入り口で副園長の芦谷さんが頭を下げた。いえ、と一言呟くと、私はパンプスに足を入れドリーズを出た。この事を話したら、浩太はもう保育園に行かせるなと言うかもしれない。二つの小さなミミズ腫れが、私に重責を与えていた。痛かった? そう聞くと、一弥は私の顔に手を伸ばし、にこにこ笑った。

この子は何も分かっていないのだ。私が育児に疲れ果てて保育園に入れたことも、皆の反対を押し切って保育園に入れたことも、母親である意味で自分を拒絶している事も、この子には分からないのだ。エレベーターを降りた所で立ち止まった瞬間、その場で座り込んでしまいそうなほどの脱力感が襲った。何故私は「子供は怪我をするものだ」と思えなのだろう。「こんな怪我くらい」と思えないのだろう。

保育園預ける罪悪感は、本当に外部から押し付けられたものなのだろうか。赤ん坊というのは本当は、手厚く、傷一つ受けず、大切に大切に、母親に温かく保護されて育てられていくべきという思いが自分の中にあるのではないだろうか。でもそれだって、結局は社会に刷り込まれた母性なのではないだろうか。

自分は何一つ間違っていないと強く思う気持ちと、それに相反する気持ちに揺さぶられ、自分が悪いのか悪くないのかも分からないまま「ごめんね、ごめんね」と呟いて、一弥の手を握った。自動ドアを出ると、外は朝よりも肌寒い、これからは上着が必要になるだろう。湿度の低い風に吹かれながら一弥を抱き、かつてないほどの孤独を感じた。私の味方は私しかいない。そして私は私を味方にしながらも私を否定している。悲しかった。

 家に帰って離乳食を食べ終えた辺りから、一弥の機嫌が悪くなった。ぎゃんぎゃんと泣き喚き、乳を呑んでいる間は泣き止むものの、飲み終えるとまた泣き始めた。お気に入りの玩具を持たせても高い高いをしても、何をしても泣き止まなかった。

保育園に行きはじめると、環境の変化で不安定になる子もいるという。今日他の子に引っかかれた事を思い出して、怖がっているのかもしれない。どこか具合が悪いのかと思ったけれど、熱もなく咳や鼻水も出ていなかった。

 隣の家に聞こえるかもしれないと思うと焦りは強くなるばかりで、八時半にお風呂、九時には授乳をして寝かしつけといういつものスケジュールがどんどん狂っていく。泣き疲れたのか、少しずつ泣き声が小さくなり始めると、一弥を抱っこしたままお風呂の用意をし、さっと入れてさっと出ようと思いながら、啼き声を上げる口に歯ブラシを突っ込み歯を磨いた。

自分と一弥の服を剥ぎ取るようにして裸になると、ぬるめのお湯に浸かり、傷に染みないように気を遣いながら一弥の顔を少しずつ洗う。一弥を洗い終えると、寝かしつけた後元気があったらもう一度入ろうと、自分はどこも洗わず風呂を出た。泣きすぎたのとお風呂上がりのせいで、一弥の体はじめっと火照り、オムツと服が何度も引っかかる。

ズボンがなかなか上がらず、苛々してぐっと引き上げると、一弥はぎゃーっと叫び声に近い泣き声を上げた。鏡を見ると、十分ほどしかお風呂に浸かっていなかったのに、私の顔は焦りと苛立ちで真っ赤になっていた。

 暴れる一弥を抱き上げて寝室に行くと、ベッドの上で座ったまま授乳をした。訪れた静寂に、少しずつ血が下がっていく。ゆっくりと大きく息を吸い、じっくりと吐き出した。一弥は飲みながら時折肩を震わせてしゃくり上げ、虐められた子が母親に助けを求めるかのようだった。

その時不意に、私は一弥が憎たらしくて仕方なかくなる。乳で泣き止む一弥が、泣き声で私を虐めているかのように感じられた。この子の泣き声に、この九カ月私はどれだけ焦らされ、悩まされ、苛立たされ、無力感を味わされた事だろう。母乳を飲み終えた一弥を壁際に寝かせると、隣に横になった。

お風呂の時アップにまとめていた髪の生え際が、少し濡れていた。ふっとこめかみの辺りから、ねっとりした汗の臭いが漂った。一刻も早く一弥を寝かしつけない限り、私はシャワーを浴びる事が出来ない。寝かしつけてシャワーを浴びたとしても、泣き声が聞こえたらその瞬間私のシャワーは終わりだ。

しかし一緒に眠ってしまえば、シャワーは確実に明日の夜まで持ち越される。何故、私の生活が、私の人生が、私の思い通りにならないのだろう。そもそも、私は子供を持つことを望んでいのだろうか。思い出されるのは、早く子供が欲しいねという、浩太のうきうきした声だった。

 母乳を飲みながら既にうとうとしていた一弥の瞼がわらわらと閉じ、ほっと息をついた次の瞬間、静かな空気をえぐるように鋭い啼き声がして、私の心臓をわしづかみされたようにびくりと体を震わせ、内臓がぞろぞろと蠢くような恐怖に顔を引きつらせた。足をばたつかせ、布団を蹴り上げながら一弥は顔を真っ赤にして泣き喚いている。涙は出ておらず、癇癪に近い声だった。

どうしたの、大丈夫だよ。胸元をとんとん叩きながら声を掛けても、一弥は何も聞こえないように泣き続ける。どうしたの、大丈夫だよ、おいで。抱き寄せ体を密着させると、一弥は私の腹を蹴り、顔を左右に振った。一弥の降り上げた腕が顔に当たり、反射的にいたっと声が出る。声を掛けても、抱き上げようとしても、正気に戻らせようとぱんぱんと手を叩いてみせても、一弥は一向に泣き止まず、全てに拒否反応を示す。

おくるみで包むと赤ん坊が安心するのは、胎内でぎゅっと縮こまっていた時の安心感を思い出すからだといういつか本で読んだ情報を思い出して、布団で一弥の両手を押さえ、左右をくるみ込んだ。みの虫のような状態にすると、一弥は思い通りに動かない手足を更に興奮したのか、真一文字に固められたままぎゃーっと叫び声を上げた。

顔は真っ赤を通り越して紫がかって見える。こういう事はこれまでたまにあったけれど、今日はさすがに度を越して、いるような気がする。やっぱりどこか悪いのではという不安が膨らみ浩太に連絡した方が良いのだろうか。でもどうせ接待中は電話に出ないしとベッドに座ったまま逡巡していると、時計が九時五十分を指しているのが目に入った。

お風呂に入る予定も、明日の朝の予定も、全ての時間割が狂っていっている。一弥が咳き込み始め、咳き込みながら泣こうとして更に咳き込み、何かを喉に詰まらせているような呻き声を上げた。横向きにさせて背中をさすると、一弥は手をはねのけたいのか両手を振りながら更に嗚咽する。うっ、うっ、うぇっ、と体を硬直させているのを見て、慌てて掛け布団をどかし、一弥の口元に両手を差し出した。

暗闇の中、今さっき自分の胸から出たばかりの温かい母乳が落ちて来るのが分かった。指の隙間からぽたぽたと垂れ始めたのを感じ、ベッドにから降りると肱と足でドアを開け、キッチンの流しに吐瀉(としゃ)物を流し、手を洗った。洗面所からバスタオルを持って寝室に走ったが、ベッドにお座りをした一弥の脇で、夕飯がべっとりとシーツに染み込んでいた。

咳を止め、一弥がわなわなと震えながら限界まで息を吸い込んでいく。くる、くる、と思っていると断末魔の鐘切声が部屋中に反響した。狂人と化した一弥の口元をタオルで拭い、ベッドから下ろすとシーツを外し、ぎゃんぎゃんとのたうち回る一弥の汚れた服を脱がせると、フローリングについた汚れを拭き取り、マットレスに染み込んだ吐瀉物を更に拭き取っていく。汚れ物を全て洗面台に詰め込むと、キッチンで手を洗い寝室へ戻る。

マットレスの濡れている部分に新しいタオルを敷き、その上にシーツを掛け、暴れる一弥にロンパースを着せ、再びベッドに寝かせた。泣き声は既に鋭さを失い、嗄れ切った喉からカエルのような声を上げている。もう一回飲む? と胸を差し出すと一弥は乳首を咥えたが、咥えながら再び泣き出し、終いには小さい前歯で乳首を嚙みつけた。ぎゃっと叫んで一弥を引き離すと、再びばたばたと暴れはじめた。

一弥、もう寝ようよ、もう疲れたでしょ? そういう自分の声が震えていた。仕切り直しだと自分に言い聞かせて、一弥を寝かせ隣に横になる。一弥は足で布団を跳ね除け壁を蹴りつけた。痛かったのか、弱まっていた泣き声が再び力を増す。

自分の泣き声や、手足に触れるものの感触一つ一つに、どんどん興奮していっているように見える。もはや、この場でこの事態を収める事は不可能なのかもしれない。抱っこをして少し外を歩いてみようか。それともテレビを見せて気を紛らわせてやろうか、それともしばらく放っておいて様子を見ようか。

「ぎゃーーっ」
 叫び声と共に全身が震えた。叫び声は一弥ではなく私のものだった。一弥は私の声に驚いたのかびくっと体を震わせ動きを止めた。
「ぎゃーーっ」
 喉が潰れるほど激しく長く、私は再び汚い声を上げていた。一弥はうわあっと声を上げ、私の膝によじ登った。その時感じたことのない初めての快感か、体中をじんわりと包んでいく。この子は私が恐ろしい時にも私にしか頼る者がいないのだ。訳の分からない感動と体が引き裂けそうなほどの興奮の中、私は再びあらん限りの力を振り絞って叫び、拳で壁を殴りつけた。一弥はびくりと震え、私の胸元に抱きついた。

喉が焼けたようにじりじりと痛み、叫び声は途中で咳に変わった。胸元に一弥の熱を感じながら、吠えるように全身で叫び何度も何度も壁を殴りつけた。ほとばしるように涙があふれ、顔が真っ赤になって髪の毛が逆立ちそうなほど体中から強烈なエネルギーが放出されているのが分かる。びくびくと体が震え、私は抱きつく一弥に厭わず顔面を布団に押し付けた。

お迎えに行き、一弥の傷跡を見るまであんなに楽しい気持ちでいたのに。久しぶりに息抜きをして、ユカと愚痴を零し合ってすっきりして、しばらくは余裕を持って育児が出来るだろうと思っていたのに。お迎えに向かいながら早く一弥に会いたいと、心を躍らせていたのに、全てが台無しになってしまった。

涙と涎がシーツを濡らし、痛む喉と右手を庇うようにしてうずくまった。一弥は私にしがみつきわんわん泣いている。地獄だ。ここは地獄だ。私は次第に泣き声を落とし、ひーっと何度もシーツに向けて声を零した。喉が嗄れ切った頃、一弥は私に抱きついたまま眠ってしまった。ベッドに座り、顎に拵えた傷と涙と鼻水の跡を晒す一弥の顔を見下ろしたまま、放心した体をしばらく動かす事が出来なかった。体中に電流が走ったかのように全身が痺れていた。

罪悪感が、私の心臓を締め付け殺そうとしているかのようだった。静かに一弥を離し、横にさせる。布団を掛けた瞬間ぴくりと一弥の腕が動き、ぞっと背筋が凍る思いがしたが、一弥はすぐにまた寝息を立て始めた、こんな叫び声を上げたら、こんなに泣いたら、こんなに殴りつけたら死ぬんじゃないかというほど叫び、泣き、壁を殴った。暗闇の中、右手を持ち上げると、ため息がでるほど美しい薄ピンクのネイルと赤く腫れ上がった甲が目に入る。

股や膝の裏、脇や胸の下にじっとり汗が滲んでいた。それでももう、お風呂に入る気力も体力もなかった。洗面所に置きっぱなしのシーツやタオルも気になっていたが、今は横たわっている以外の事が出来る気がしない。このまま眠りにつき、目覚めないまま一生を終えたいと思った。枕に乗せた頭を捻り、一弥を見やる。一弥は眠かったのだ。ずっと眠たかったのだ。だからあんなに機嫌が悪かったのだ。

私は今一弥が泣いていた理由に気づいたようだったけれど、本当は一弥が泣き始めた時から分かっていたのかもしれなかった。よく分からなかった。この数時間に起こった事が、私にはわからなかった。興奮の為か寝付けず、時折体を震わせて涙を流し、じっと天井を見つめていた。一弥が眠ってから一時間も、いや二時間も経っただろうか。ドアが開く音に続いて、浩太が靴を脱ぐごとごとという音が聞こえた。私は涙を止め、目を閉じ、息を殺して布団を被った。
つづく 第五章 五月
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