夫婦生活が行き詰まり始めた頃、別々に寝るようになったけれど、週末婚を始めてからはまた一緒に寝るようになった。パンツ穿いてないのと言うと、央太はワンピースの裾から手を入れて本当だ、と尻を撫で上げた。キスをしながら

本表紙 金原ひとみ著

第三章  ユカ

「広告セックスの技術を極める
父性・母性に満足できない男・女の性は浮気・不倫を繰り返し繰り返すということで満足しているかといえばそうではない。これ以上ないという究極のオガィズムを得るために彷徨(さまよう)っているのだろうが、セックスの技術を極め鍛錬されたペニス・膣によってのみ究極の快感(オガィズム)を相手に与えられるし、自分も得られる。その手助けをしてくれるソフトノーブル下記商品群である

 うっすらと目を開け、何の手応えのないシーツをまさぐる。ベッドの央太は居らず。パンツもない。手を伸ばして床を探ると。パンツを諦めてキャミソールワンピースを被り、のそのそとベッドを出た。足の付け根辺りに精液が乾いて張り付いている感触があった。ドアを開けリビングに出ると、すぐそこのソファで文庫本を片手に眠っている央太を跨いで載っかる。
「おはよう」
「何でここにいるの?」
「寝付けなくってさ。眠くなるまでここで本読んでようと思ったら、そのまま寝ちゃったよ」
「起きたらおうちゃんが隣に居なくて寂しかった」
「今何時?」
「分かんない」
 もぞもぞと嫌がる彼に、私はさらに強く抱きついた。夫婦生活が行き詰まり始めた頃、別々に寝るようになったけれど、週末婚を始めてからはまた一緒に寝るようになった。パンツ穿いてないのと言うと、央太はワンピースの裾から手を入れて本当だ、と尻を撫で上げた。キスをしながらもう輪が起きて来る頃かなと思っていると、子供部屋の方からとっとっととっ、という細かい足音が聞こえた。ぱたんっ、と大きな音がしてリビングのドアが開き、輪がリビングに現れる。

「あーっ」
 輪は驚いたような声を上げ私たちの脇に駆け寄り、りんちゃんもりんちゃんもと言いながらソファに登った。りんちゃんのばん、そう言って、彼女は私と央太の間に割り込もうと手を突っ込む。最近、央太が来ている時はこうして取り合いになる。私が央太に甘えるのを真似しているだけかもしれないけど、この瞬間、私は自分に対して「幸せだ」という身も蓋もない結論を下してしまいそうになる。重たいよと言いながら、央太は私と輪をまとめて抱きしめた。完全に央太を奪われてしまうと、私はキッチンへ行き、三人分の朝ご飯を用意した。

 家でゴロゴロしていたいと嫌がる央太を無理矢理連れ出して三人で散歩をした後、焼き肉屋で夕飯を食べた。他のお客さんたちに話しかけに行ったり、あちこち遊び回る輪を𠮟りつけたり、帰り道でどうしてもお菓子が欲しいと泣き喚く輪に負けてスーパーに寄ったりして帰宅すると、私は輪に買ったばかりのお菓子の袋を開けてやり、トイレに籠もって食べたばかりの肉を嘔吐した。

汚れた手をトイレットペーパーで拭き取ってレバーを引くと、とっとっとっ、と足音が聞こえた。鍵のかかったドアの取つ手を、輪ががちゃがちゃと回している。ママー、とドアの向こうから今にも泣き出しそうな声が聞こえた。床に汚れが付いていないか確認して、天井に向けて消臭剤をひと噴きしてからドアの鍵を開ける。

 「ママー。リンゴジュースたい」
 輪は最近、食べたい。もやりたい、もう欲しい。も全て「たい」で要求する。
「リンゴジュースはないよ。牛乳か、お茶か、オレンジジュース」
「えーっとぉ、ミカンジュース!」
 話しながら洗面所で手を洗い、口をゆすぎタオルに手を擦りつける。輪にワンピースの裾を引っ張られながら、洗面台の鏡を覗き込んだ。嘔吐のせいで、軽く目が充血している。キッチンでジュースを注ぐと、リビングのソファに戻った。帰り道で話題に上がったブレッソンについて調べているらしく、携帯を片手に寡黙な央太と、左端に腰かけた私の間に輪が座った。

コップを渡してすぐに輪はこぼれたーと間の抜けた声を上げ、気をつけてっていってるでしょっと大きな声を上げて布巾を取りにまたキッチンへ戻る。布巾が見当たらず洗濯カゴの中にあったタオルに手を伸ばすと、ママ怖いねぇ、という央太の声と、こわいねー、という輪の同調がリビングから聞こえた。タオルを持って立ち尽くし。一瞬リビングに戻るのをためらう。この家庭内に於ける自分の役割が、分からなくなる。でもそんなの分かってたまるかと思い直し、タオルを強く握ってリビングを出た。小言を言いながら、ごめんなさーいと笑う輪のシャツにタオルを擦りつける。

 輪を寝かしつけしまうと、WOWOWの二流映画を見ながらワインの栓を抜いた。おつまみ用に買っておいた瓶詰めのピクルスを開けると、二人で交互に箸を突っ込む。美味しい、美味しいね、これ美味しいねほんと、と唸るようにして私たちはキュウリやヤングコーン、タマネギやカリフラワーのピクルスをどんどん食べていた。

「何か、今本当に体が必要としている物って感じがするなあ」
「うん。染みるって感じ。やっぱりお酢って体に良いのだろうね」
「子どもの頃って、こういうの嫌いだったけどな」
「私も。ハンバーガーから出して捨ててた」
 カークラッシュのシーンをじっと見つめ、この俳優ってファンタスティック・フォーに出てた人だっけ? とか、いや違うよこの人はあれに出てた人だよあのほら、よーっと、あの銀行強盗の映画、とどうでも良い会話をしながらピクルスを食べ、とうとう瓶を空っぽにした。

「若い頃ってさ、食べ物ってそんなに好きじゃないじゃない?」
 央太はそう言って、グラスにワインを注ぎ足した。彼は大学生の頃、半年間カロリだけで生きていたことがあるという。
「まあ、少なくとも若い子はグルメじゃないよね。腹を膨らますことが目的って感じで」
「若い頃は、夢を食べているからね」
 何それ、と私は思わず笑い声を上げて央太の肩を叩いた。彼は「そう思わない?」と少し恥ずかしそうに笑いながら、「夢は食べられなくなったから、食べ物くらいは美味しいものを食べてもいいじゃないかって気になるんだよ。大人は」と言った。
「素敵な話だね」
「そうかな。悲しい話じゃない?」
 言いながら、私たちは肩を震わせて笑った。彼は今年で三十六になった。知り合った頃、二十代残り僅かというところだった彼は今、四捨五入したら四十だ。彼と知り合った頃十八だった私は今、四捨五入したら三十だ。チューハイとビールばかり飲んでいた私は、央太に付き合っていく中でジントニックやワインを飲むようになり、一枚一万が限度だったワンピースは一枚二十万でも買うようになった。

央太の手ほどきで苦手だったインターネットを克服し、DVDもCDもケースを捨て、収納ファイルにまとめるようになった。今の仕事を始めてすぐに央太と結婚した私は、央太と暮らしていく中で、そうして少しずつ価値観を変えていった。私には、央太の要素が大量に溶け込んでいる。だから私は央太を他人だと思えない。彼は私の血のようなものであって、彼と別れたとしても、その血は永遠に体内を巡り続けて行くだろう。

 ああこんにちはー。まったりとした声を上げて、釜谷先生は軽く右手を上げた。
「こんにちはー。何か咳が止まらなくなってしまって」
「あー。今流行ってるよ。咳の風邪。今日もこの一時間で三人吸入」
 そうですかー保育園でも流行ってるみたいで、と言いながら先生の前に座ると、輪が更に泣き声を高くして身をよじった。予防接種をほとんどここで受けさせたせいで、一歳を過ぎた辺りからここへのルートを通るだけで泣くようになった。先生が耳に体温計を入れ、口の中に金属のヘラを突っ込み、赤いねと呟く。
「赤いですか」
「赤いですね。ちょっとひゅーひゅー言っています。吸入していきますか?」
「じゃあお願いします」
「抗生物質出しますか? 抗生物質でぱっと治しちゃった方が早いですよ」
「お願いします。ペリアクチンとムコダインがきれそうなんで、出してもらえますか?」
「はいはい。じゃあ十日分出しておきますね。あ、お腹は平気?」
「ちょっと便秘っぽいです。少しお腹がぽっこりしてるような感じもして」
 先生はぎゃんぎゃん泣き喚く輪のお腹を触って更に泣かせた後、抗生物質を出すんで整腸剤も出しときましょうと続けた。奥の治療室に入ると、看護師が用意してくれた吸入器を騙し騙し輪の口元に当てる。看護師に何か指示を出した後、先生はカルテに書き込みながら「こないだ新聞見ましたよー」と言った。
「インタビューですか?」
「ええ。知っている人のインタビューって、何か不思議ですね」

 でも写真がね、と捨て台詞を吐くと、先生は診察室に戻って行った。歩いて五分というのもあるけれど、初めて先生が私のことを作家だと知って、デビュー作読みましたよと言った後、僕あの主人公のフィギアを作ったんですよと呟いたのを聞いた瞬間、引っ越さない限りここに通い続けるだろうと確信した。釜谷診療所の待合室はいつも患者で溢れていて、彼はこの病院の中で神のようにしなやかに振る舞っている。時に苛立ち混じりに、時に面倒くさそうに、時にはうきうきと、気まぐれテンションで二人の女性看護師、二人の男性看護師を動かし、ものすごい数の患者を診る。

彼はなるべくして変人となり、なるべくして医者となり、やるべき事を着々と遂行しているような気がする。彼の存在に、私は全く乖離を感じない。どんな真人間であったとしても、そこに僅かでも乖離が見える人間を私はかかりつけ医にしたくない。

 輪を保育園に送ると、コップを借りて薬を飲ませた。おやつの後の薬を預け、ややこしい投薬依頼書にあれこれ記入した輪に手を振る。慌ただしく靴を履き、タッチドアを開けて出るとエレベーターの前に出しっぱなしのベビーカーを折りたたんだ。ベビーカー置き場に詰め込み、バッグを肩にかけた瞬間エレベーターが開いた。

「おはようございまーす」
 降りてきた母親にそう言ってすれ違おうとした瞬間、エレベーターに乗り込もうとしていた足が止まった。
「ユカ?」
 スリリングに赤ん坊を入れ、大きなバッグを手に持った涼子が、エレベーターから降りてきたところ立ち止まりじっと私を見つめていた。
「涼子じゃん。久しぶり」
「やっぱり。私この前ここに見学に来た時、ユカの事見かけたの。絶対ユカだって思ったんだけど、やっぱりユカだったんだ」
「そうなの? 気づかなかった。声かけてくれれば良かったのに」
「ねえねえ、ずっとここに預けているの? 私一昨日から預け始めたの。ねえ最近どうしてるの? 十年ぶりじゃない?」

「零歳の頃からここ預けてるよ。もう育児と仕事でいっぱいいっぱい。涼子は?」
「お父さんの店でバイトしてたんだけど、出産の時辞めて、でも預け始めたからもう少ししたらまたお店で働くつもり」
「あ、お母さんの仕事、上手くいっているみたいじゃん。この間雑誌で見たよ」
「あれ見たんだ。何か最近忙しくやってるみたい。ユカ、この近くに住んでるの?」
「うん。歩いて十分。涼子は?」
「私は二駅隣。子連れで電車で通うの、ほんときつくてさ。車買うか、引っ越しなきゃっやてられない」
 六ヶ月か、七ヶ月くらいだろうか。スリングの中の赤ん坊がまくしたてるように話す母親を見上げて不安そうだ。名前は? 今何歳?」
「来月で二歳。今一歳児クラスだから、学年一つ違いだね」
「あ、旦那さんは? 何している人?」
「普通の会社員だよ」
「ねえ私ユカのデビュー作読んだよ」
「あ、知ってたの?」
「知ってる知ってる。新奈から聞いたの。たまに雑誌とかでも見かけたんだ。でもすっごい偶然じゃない? こんな偶然があるなんてびっくりだよ。何でこの辺に住んでいるの?」
「旦那の会社が近いから」
「ふうん。そうなんだ」
 なにか、涼子は突然テンションが下がったように暗い表情を見せた。それと同時に赤ん坊が泣き始めた。私は行ってしまったエレベーターを呼び戻すために下向きの矢印を点灯させると、また会うだろうから、今度お茶でも行かない? と明るい声で言った。渋谷や新宿で遊び呆けていた昔の友達に「お茶」という言葉を発する違和感に、笑顔が苦笑へ傾く。
「行く行く。色々話そうよ。すっごい久しぶりなんだし」
「十時に送ってるの?」
「うん。十時から、五時間だけ預けてる。これから少しずつ延ばしていくつもりだけど」
「そうなんだ。私九時からなんだけど、今日病院行ったから少し遅くなって。いつもだったら送ってるから、多分またすぐに会うと思う」

 じゃあまたねと言う涼子に手を振って、下に参りますと言うエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まって降下が始まると、後ろを向いて鏡に映る自分の姿を見つめた。涼子か。と独り言が口をついて出る。十年ぶりの再会と言えば、もう少し盛り上がるものかと思っていた。この間ちらっと涼子を見かけた時にも、私の中には何の感情も湧き起こらなかったし、今こうして言葉を交わしても、特に強い感情は湧き起こらない。でも、十年も経つとやっぱり変わるなという感想がしんと心に残ったから、私は鏡を見やったのだろう。

鏡の中の私は、確かに涼子と遊んでいた頃から十年分の何かが蓄積したような顔をしていたけど、目の下に隈も出来ていなければ顔色も悪くない。ファンデーションが乾燥した皮膚を浮き上がらせてもいなければ、ニキビも出来ていない。保育園に預け始めたばかりの頃は、私もあんな顔をしていたのかもしれない。

私は、どこにも頼れない孤独な育児に疲れ切っていた頃の自分を思い出してうんざりした。出産から約半年、誰にも頼れない状態で育児をしていた。今の私には、シッターの山岡さん、家事代行の永妻さん、少ないけれどママ友もいる。育児の大敵は孤独だ。孤独な育児ほど人を追い詰めるものはない。コーヒーサイフォンの中でぐわぐわとお湯が立ち上がっていくように、狂気が頭に疑縮されては気が狂う。

 ふと、森山五月の事を思い出した、彼女の圧倒的な存在感は、あのパーティから一週間が経とうとしている今も強烈に脳裏に焼き付けている。中身のある感じはしなかったけれど、人としての偉大さに近いようなあのオーラは誰にも覆せないだろう。また会ってみたい。また会ってあの人の事を知りたいと思っていた。

彼女が何を考え、何を意図して、どんな生活を送っているのか知りたい。でもすぐに、それが彼女を書いてみたいという職業病に近い欲求であることに気づいて、私は誰にもばれないにも拘わらずどことなく羞恥心を抱いたまま足を速めた。

 大型ビジョンを見上げ、設置された灰皿の前で立ち尽くしていると、金に結びつく女を求めて男たちが声を掛けて来る。女の子のランクで自分の報酬が変わるのだと、スカウトをやっていた男友達から聞いた事がある。確か、Aランクが二十万くらいで、Bランクが十万くらいだったように思う。AとかBとか人の目だけで簡単に判断される事に憧れる。結婚もしてなくて子供もいなかったら、私は今頃作家の傍らキャバ嬢として働いていたかもしれない。

「働いているから」
「昼間は普通に働いている子っていっぱいいるよ。週二でも、結構稼げるんだよ」
「結婚してるし」
「そうなの? 今幾つ?」
「二十五」
 キャバ嬢として終わりの見えている年齢だろう、キャバ嬢の市場では、自分は腐り始めている。二十二くらいかと思ったー、言いながら男は名刺を手渡し、気が変わったら電話して、いい気晴らしになるよと言って去って行った。二十一を超えた辺りからだろうか。スカウト市場に於ける自分の需要が変わり始めたことに気づいた。

 小学生六年の時、池袋で親から少し離れて歩いていた時に初めてスカウトされてから、あらゆるスカウトに声を掛けられ続けてきた。十代の頃から明らかに変わったのは、スカウトたちがナンパをしなくなったことだ。昔はスカウトついでにナンパをする男がたくさんいて、キャバクラに興味がないと分かるとカラオケ行こうとかご飯行こうと誘ってくるのが定番だった。今、そういう手合いはほとんどいない。若くてバカな男市場に於いても、私は腐り始めている。

 スカウトが去って、大型ビジョンが十時二分前を示したところで、若い男が声を掛けて来た。まだ腐り切ってはいない。そう確信している自分が、女として随分落ちたなと思う。

「今何待ち?」
「ひとまちー」
「来るまで飯いかない?」
「もう来るよ。十時待ち合わせだから」
「じゃあ今度食事行かない?」
「結婚してるし」
「え? 旦那と待ち合わせ?」
「ううん。友達」
「友達って女?」
「男」
「男って、旦那怒らないの?」
 煙草を大きく吸い込んで吐き出しながら「旦那はそういう人じゃないから」と答えた。そういう人じゃないから。それは合っているし、間違っている。私は何か、自分が都合の良い考え方、言い方をしているのに気づいて、閉じた口に力を籠めた。私は自分に都合の良い考え方、言い方をして、世界をゆがめている所がある。ありのままの世界を見たいという欲求は強烈にあるのに、私は半ば作為的に世界を歪めて無理矢理納得しようとしている。

男を追い払う煙草を消し、また次の一本を取り出した。三十になったら、ナンパはされなくなるんだろうか。定期的に抱いてくれる夫が居て、仕事がある以上、そうした安易な自己確認の必要はないだろうが、ある時ふっと魔が差してナンパしてきた男とヤッてしまう、そういう可能性がどんどん失われているという事だ。

三十を超えて適当な男と適当にセックスしたいと思ったら、出会い系にでも登録するしかないだろうか。グレーのくたっとしたジャケットを羽織り、長くも短くもない髪の毛をルーズにセットし無精ひげをたくわえた彼の姿を見つけ、私はすぐに声を掛けず、人混みに同化している彼をしばらく見つめた後「オギちゃん」と声を上げ同時に手を挙げる。オギちゃんは私に気づくと、にっこり笑ってやって来た。

「待った?」
「そんなに」
「どうする? どこがいい?」
「サニーは?」
 いいよと言うオギちゃんと並んで歩き始めると、騒がしい人混みの中、私たちは手振り身振りを交えつつ途切れる事なく話し、サニーに入った。薄暗いレストランは盛況で、私たちは奥まった角っこの席に座った。ソファ側の席に座った私の隣に、オギちゃんが脱いだジャケットをふわっと置く。

「この間さ、梨川幸治と対談したんだ。知ってる?」
「知ってる知ってる。作曲家でしょ?」
「ユカさんの小説好きなんだって。本全部読んでいるっ言ってた」
「へえ。意外。私も聞こうかな。あの人のCD」

 クオリティは保証しないよと言った、オギちゃんはおどけてたように顔を歪めた。ジントニック、和牛のタルタル、エビのフリット、カルボナーラを注文すると、オギちゃんはそこにシャンディーガフを付け加えた。オギちゃんがシャディーガフ以外の酒を頼むのを見た事がない。お酒は甘いものしか飲めないと、前に言っていたような気がする。

 最近見たDVDの話、最近出来た映画の話、小説の資料として読んでいる本の話。友達の話。けたけたと笑いながら下らない話をしている内、ミカの事を思い出した。この間ミカがツリーをくれた。私はそれを伝えようとかと一瞬思って、止めた。もらった3錠は、既に飲み干してしまった。

ソフトな効きが逆に依存度を高めるようなドラッグだと思った。ミカは昔薬剤師だったらしいと、クラブで会うオギちゃんの仲間から聞いたことがある。でも今何をしている人なのか、何処で暮らしている人なのか、どういう交遊関係をもっているのかは全く知らない。でもそれを言ったら、私はオギちゃんを通じて知り合った人たち皆も、「オギちゃんの友達」と安易にカテゴライズして詳細をうやむやにしている。

もっと言えば、オギちゃんの事だってよく知っている訳ではない。ザックという売れないバンドをやっているという事、CLUBCLOSERでたまにDJをやっていて、DJネームはMITARSU、家族は両親と兄が一人、結婚歴はないが二十代後から三十代半ばまで同棲していた彼女が居たという事、よくサブカル系の雑誌で音楽評を書いていて、小さな出版社から一冊だけ短編小説を出しているという事。

集約して、ミュージシャン兼小説家兼音楽評論家、と一言で片付けてしまう事はできるけど、彼がどういう人なのか、言って見ろと言われたら一言もオギちゃんを批判するような言葉は吐けない気がする。それを言ったら、夫の事はどうなんだろう。私は夫の具体的な情報を、きっと七割程度は把握しているけれど、三割が不明なまま彼を評するようなことは私には出来ない。私のこういう類の考え方を、夫は逆に不誠実だと言う。否定も肯定も、ある種の無自覚さをもってなされるべきだと言う。

「あ、今何回目だっけ?」
 唐突にオギちゃんが顔を上げて聞いた。とぼけてみせたい気持ちになったけれど、間をおいてからああと連載? と訊き返した。頷くオギちゃんに「今出ているのが三回目」と答えると彼は軽く顔をほころばせた。

「今すぐいいよね。盛り上がってきたっていうか」
「ありがう。やっと筆が走り始めた感じ」
 シャンディーガフを持ち上げる彼を見つめながら、両腕に緊張が走る。オギちゃんが私の小説に対して何か発言しようとする瞬間、私はいつも反射的に発生する緊張に、平静を装うと体を硬くする。

「ミスティフィカシオンって知っている?」
「何それ」
「人を煙に巻く。神秘化する。って意味」
 人を煙に巻いて神秘化するって事? そう言いかけて、この勢いで言うと語気が荒くなってしまうと気づいて一瞬言葉するのをためらうと、オギちゃんは私のその様子に気づかないように続けた。
「あの、柳田と門田のキャラクターは、小説史上かってない最上のミスティフィカシオンだよ」
 何の影も感じさせない、本当に私の小説を楽しんでいるような笑顔でオギちゃんはそう言った。それに対して、私は胃に重苦しい鉛を括り付けられたように、体中が重く、口元が硬くなっていくのを感じた。三回目の原稿の、柳田と門田の描写を一文ずつ思い返していく。一体何が彼にそう言わしめたのか。記憶を手操る。

「そろそろ行く?」
 二人のフォークが動きを止め、ジントニックのグラスがくたっとしたライムと氷だけになってしまうと、私はおしぼりで手を拭きながら言った。うん行こうと言いながらオギちゃんの差し出した煙草の箱を持ってトイレへと歩きながら、推敲し過ぎたせいでほとんど完璧に記憶している文章が、誰かに朗読されているように頭の中で走り続けている。

 店を出て並んで歩きながら、オギちゃんは私のブーツとショートパンツの間から覗く太ももを撫でた。キャッキャとはしゃぎながら踊ったり走ったり、くっついたり離れたりを繰り返す。信号待ちをしながら、オギちゃんを待っている間見上げていた大型ビジョンが、花の映像を流しているのが目に入った。鮮やかな紅い花、黄色い花。トイレで飲み込んだ錠剤が胃の壁面や内容物に飛散していくのを感じる。足が止まりそうになって、一歩先を歩くオギちゃんの手を握った。

「何か最近ユカさんと付き合っているような気になるよ」
 オギちゃんは笑いながらそう言って手を握り返した。大通りから裏通りに入って、「CLOSER」という青白いネオンに照らし出された階段を降りていく。たむろしている男女の間を通ると、オギちゃんが入り口に立つ男と二、三言葉を交わす。大きく笑い声を上げたオギちゃんに顔を上げた瞬間、自分が猫背なっているのに気がついた。行こう、手を伸ばすオギちゃんの手を取り、私たちはドアをくぐった。

オギちゃんが私のバッグを持ってロッカーへ消え、手ぶらになって戻ってくると一緒にフロアーを出た。音と言うより振動と言った方がしっくりくるようなジャングルがずしずしと鳴り響く中、オギちゃんの友達数人と手を振り合い顔を寄せて言葉を交わす。ブースには女のDJが入っていて、あちこちから光が彼女を照らし出す。

人の入りはまだ七割程度だった。ブースの方に向かおうとした瞬間、背後からオギちゃんの「何か飲む?」という言葉が聞こえて、うるさいと怒鳴りたい気持ちを抑えて「コーラ」と答える。オギちゃんがバーカウンターに向かう後ろ姿を見ながら、ゆっくりと人の群れからはみ出て壁際のソファに座った。

はしゃいだ人たちの声があちこちから体に突き刺すように自分へと向かってくる。肩を上下して、息は上がっているのに心拍数は上がっていない。私は何か自分の身体がバランスを崩しているのではないかと思い始める。私の右手と誰かの左手が、同じ鍵盤の上で美しいメロディーを奏でていたのにそれが少しずつずれていって、やがて不協和音となり始めたような。でもそもそも、私が自分以外の何ものかと美しいメロディーを奏でた事があっただろうか。

発作的に悪い予感が膨らんでいく。「東京ガスの者ですが」という声がして顔を上げたけれど、もちろん東京ガスの者がクラブまで訪ねてくるはずはない。蓋の開いた箱から一昨日の記憶がすばっしこい蛇のように飛び出し、ぐるぐると体中に巻き付いてくるのを感じる。ガスの点検に来た男は、私の著作が大量に詰め込められたスチール書架を一瞥してから風呂場に向かった。「

 彼は私が作家だと気づいたかもしれない。私が金持ちだと勘違いしたかもしれない。インターホンの音で執筆を中断した私は彼に苛立っていた。彼が自分の事を馬鹿にして横暴な態度を取っていると思い込み、何らかの形で復讐をしようと思ったかもしれない。手足を縛られてビニール袋を被せられ、窒息しかかっている所を金槌で殴りつけられる自分の姿が頭に浮かぶ。何故かかってないほど鮮明にその姿が、その痛みが想像出来る。

二度三度と金槌を叩きつけられ、その都度私の生き延びたいという気持ちが砕け散り、次第に形がなくなっていく。ぎゃんぎゃんと泣きながら殺されていく私を遠巻きにみつめる輪とビニール越しに目が合う。東京ガスの男と共に部屋に押し入ったもう一人の仲間は、怯え切ってへたり込んでいる輪の首根っこを掴んで十キロ強の暴れる体を軽々と持ち上げ壁にたたきつける。聞いたことのないような声を上げた輪は、次に顔面を叩きつけられる。鼻から口からか、両方からか分からないが輪の顔下半分が噴き出した血で真っ赤に染まっている。

濁音混じりの悲鳴を上げる輪の後頭部を中心に、更に数回叩きつける男。輪が声を上げなくなると、その体は床に投げ捨てられ、ビニール越しに見ている私はもう輪が助からないことを知る。輪が男のスニーカーに幾度となく蹴り上げられ、妙な痙攣を起こしているのを見つめながら、私は最後の一撃を喰らわされとうとう思考が途切れる。

「ここに居たの。今ミシオとマリちゃんに会ってさ、ユカさん来てるって言ったら会いたがってたよ」
 私は悲鳴を堪えながら顔を上げた。体中に震えが来て、首筋が痙攣していた。後で行くと上下の歯をがっちり嚙みしめたまま唇で言うと、私は下を向いた。分かったというオギちゃんの声がして、同時に頭にオギちゃんの温かい手を感じた。そして彼が私から離れて行くのが分かった。今の生活は、長くは続かないだろう。きっと今にどこかが破綻する。近いうちに私はどこかへ追放される。ここがどこなのかわからないまま。また別のどこかへ追放される。

 顔を上げる。私は今目覚めたかのようだったけれど、ずっと目を瞑っていただけだったのかもしれない。オギちゃんに「後で行く」と答えた時から、さほど視界は変わった様子はない。でもフロアーを見ると、ブースにはさっきの女のDJではなく、白衣を着た金髪の男が立っている。たくさんの人が音楽に合わせて跳ね、楽しそうに仲間と肩を組んだり手を取り合ったり抱き合ったり、白衣のDJの声を反復したりしている。

汗をかいたグラスからコーラを一気に飲み干すと、私はフロアーに出た。その瞬間DJがブースから出て、出鼻をくじかれた、と思っていると「DJ.MITARA.SU!」という声が聞こえた。見上げると、オギちゃんがブースにいる所だった。誰かから借りたのか、さっき持っていなかった中折れ帽を被っている。オギちゃんがマイクで掛け声をかけながらレコードを回して始めた。私の好きなハッピーハードコアの曲だった。

ブースの方に向かいながらミタラスー、と手を振って声を掛けると、オギちゃんは私に気づき大きなジェスチャーで投げキスを寄越した。それを見たオギちゃんの友達からブーイングが飛ぶ。オギちゃんがDJをやている所を見ると、気持ちがいい、最近は女のDJが増えてきたけれど、やっぱりDJは男であるべきだ。女は男がブースでレコードを回したりミキサーをいじったりと細かい作業をしているのを見て、自分の身体がいじられているような快感を得るものだ。

オギちゃんのDJはいい。ハッピーハードコアという選択一つとっても、思う所がない。
オギちゃんはアンビエントを嫌悪し、ただひたすら突き抜けていくような明るさでもって場を盛り上げていく。私はとにかく速い曲が好きだ。速ければ速いほどいい。160bpm以上が私にとっての音楽だ。私は音楽に情緒も思想性も求めない。ブースの真正面で手を伸ばして飛び跳ねる。CLOSERに居る時、私は死にたいと思っているか死ぬほど楽しいと思っているかのどちらかだ。

 輪を保育園に送って帰宅すると、寝室でパソコンに向かった。インターネットに接続して「ミスティフィカシオン 意味」で検索する。日本語のサイトには、「ごまかす、煙に巻く」大抵がそう書いてある。フランス語の綴りを調べて検索して、検索結果を翻訳サイトで読み漁った。必ずしも悪い意味で使われる言葉ではないと知って、ゆっくり緊張がほどけていく。

それでも私は過去三回分の原稿を読み返し、執筆中の四回目の原稿に微調整を加えた。出会った瞬間からごく自然にオギちゃんの存在は私の中でむくむくと肥大し、今では何らかの支配力を持っているようにすら感じられる。でもその支配こそが、私がオギちゃんに求めているものであって、オギちゃんはただ私の欲望に応えているだけかもしれなかった。

 手を加えた原稿を推敲し、五回目の原稿を二枚ほど書き進めた頃、集中力が切れた。もう駄目だ。呟きながらベットに倒れ込むと、さっき無視してしまった着信を思い出して携帯を手に取った。知らない携帯番号からの着信で、誰だろうと思いながらベッドに放った。起き上がって遮光カーテンを開けると強烈な陽光が差し込み、煙草の煙で淀んだ空気が鮮やかに浮き上がる。

カーテンと窓を全開にすると、性欲に任せてクローゼットを開けた。バイブに手を伸ばしかけた時、僅かにバイブ音がして振り返る。携帯はさっきの不在着信と同じ番号を浮かび上がらせていた。
「はい」
「ユーカ?」
 激しい陽光、明るい部屋、これから私に刺さる予定のバイブ。ぬくぬくとした気持ちが一瞬にして消失したのが分かった。
「ミカ?」
「久しぶり。何か最近すれ違っちゃってるみたいで、なかなか会わないね」
「この番号、誰から聞いたの?」
「前に交換したじゃん」
「したっけ」
「うん。赤外線で」
 ミカはきっと噓をついている。私は赤外線を未だに使いこなせていない。ミカの知り合いで私の携帯番号を知っているのは、オギちゃんの他に誰がいただろうと考えて、それが本当に僅かであると思い出して緊張が高まっていく。

「そうだっけ。どうしたの? いきなり」
「ああ。あのさ、前に上げたツリーって試してみた?」
「うん。試した」
「どうだった?」
「良かったよ。強すぎず弱すぎずで」
「そう? 良かった」
「ツリーがどうしたの?」
「うん。あれ非合法薬物に指定されることになったんだって。再来月」
「そうなの?」
「それでさ、ヘッドショップやってる友達が非合法になる前にツリーの在庫をさばきたいと言ってて」
 私は、ミカに対する不信感と共に、大量のツリーの在庫を想像して温泉に浸かったような癒しを感じているのに気が付いた。
「今からちまちま売ってたん間に合わないから、割安で大量に買ってくれる人を探してるんだけど」
「買わないかってこと?」
「うん。ユーカだったら金あるだろうし、有名人だから目立った事しないだろうって思って」
 ミカのその安易な言い草に、私は初めて彼に対して好感を持った。顔を見ていないから、警戒心が薄れるのかもしれない。ミカの顔、表情を思い出そうとするけれど、無意識の防衛として記憶を抹殺しているのか、中々形にならない。

「幾らくらいなの?」
「ツリーって割と人気あって、一時期3錠一万とかそういう時もあったくらいなんだけど、百で十八万にするって」
「百で十八万」
「うん」
 私はしばらく沈黙して、今ここで答えを出すのをためらった。考えてみれば胡散臭い話だ。そもそも私はミカに携帯番号を教えていないのだ。彼が電話を掛けてきている時点で不審なのだ。しかもボラれているのかお得なのかも私には分からない。
「オギちゃんとかには、声掛けてるの?」
「掛けてないよ。オギにはこの事を言わないでね」
「どうして?」
「オギは、ユーカのこと自分でコントロールしたいみいだから」
 何それ、と言いながらどきどきする。私の居ない所で、誰かが自分に関してああ言ったこう言ったという類の話を聞くと、私は異常なほど緊張して倒れそうになる。例えば私の夫がこの間、妻に関してこんな事を言ってた、みたいな話を他の人から聞くと、それがどんな内容であったとしても私は呼吸が止まるほど身を硬くする。

「なにコントロールって」
「うん? 分かんないよ。ユーカの事をどこかに導きたいと思ってるんじゃない?」
 私は自分が見てきたオギちゃんのイメージと、ミカがオギちゃんに対して持っているイメージが大きくかけ離れているのを感じた。

「前さ、俺がケタミン大量に持っていた時、ユーカやるかなって言ったら、オギすげえ顔してユカさんに何も渡すなって言ってさ。何か主治医みたいな気持ちなんじゃないかと? 俺が処方箋書いてるみたいな気持ちになってんじゃない? 何か変だよねあの人」

 心から馬鹿にしているような声で言い切ると、どうする? とミカは続けた。見ているだけで人の不安や恐怖心を煽るタイプのミカが、人当たりも良く人に安心感と共感を与えるタイプのオギちゃんを「変」と言っていることに、価値観が揺らいでいく。

「ちょっと考えてみる。また夕方くらいに電話するよ。ちなみに買うとなったらどうやって受け渡すの?」
「直接でもいいし、ユーカがお金払うならバイク便でもいいよ。一応、まだ合法だから、その辺は気楽に」

 分かったと電話を切ると、またベッドの上に携帯を放った。確かに私はいつも、オギちゃんに与えられるまま吸ったり飲んだりしてきた、そこに自分の意志が介入しない事によって、依存を免れている所もあるのだろうと自覚していた。私が何か、面倒な問題を押し付けられるような気になって、憂鬱を感じ始めいた。

楽観的に考えられないことに関して早々に結論を出さなければならない状況に置かれる、という負の連鎖が始まる。生後六ヶ月の輪が中耳炎を一ヶ月近くこじらせた時も、抗生物質を長期投与するか一旦切るかの決断を迫まれノイローゼになった。このままじゃいけない、もっと安易な結論をと考えているうちに、まあ大量に買っておけばいつでも飲めるし、誰かにあげる事も出来るし、そもそもあれだけソフトなんだから中毒にはならないはずだという本当に安易な結論が出た。でもだったら何故非合法に指定されることになったのか。

出来てまだ日が浅い薬物の後遺症なんてよく分からないのに。とかそういう気持ちもあったけど、とりあえず買うだけ買って、飲まなくたっていいんだとまた無理矢理安易に思い込んだ。百で十八万なら、靴を一足買ったと思えばいい。私はミカに電話を掛けると、百五十ヒット買うと伝えた。

 電話を切ると、性欲が食欲に負けている事に気づいて、キッチンからポテトチップスを持ってディスクに戻り、パソコンをインターネットに接続した。ニュースサイトやブログを一通り見て回ると遣る事がなくなり、ふと思いついて「view」というお気に入りに入ったサイトをクリックした。

記録してあるパスワードとIDを入力し、「カメラ1・カメラ2・カメラ3」の選択肢からカメラ1をクリックすると、別のウィンドウが開く。カメラを上下左右に動かせ、ズームや明るさ調整も出来るこの保育園のライブ動画は、私がドリーズに輪を入園させようと思った動機の一つだった。

「操作」のボタンをクリックすると、それから三十秒ほどカメラを動かすことが出来る。続けて見る時は、三十秒を越えたらもう一度操作ボタンを押し、また操作権を得る。昼休みなどは、保護者達のカメラの争奪戦になるのか、あちこちのクラスが慌ただしく映し出される。

 預けはじめた頃は、一日に一度は見ていたように思う。虐待されているのでは、きちんとミルクをあげてくれているのか、オムツはちゃんと替えてくれているのか、不安に駆られるのは最初の一ヶ月だけだ。私は、動画に映し出された一人の赤ん坊を見つめ続けた。ハイハイをする赤ん坊、つかまり立ちしようとする赤ん坊。保育士に抱かれる赤ん坊を、私は見つめ続けた。涼子の子供だった。

一弥、と言っただろうか。私は資料の本を片手に、数分に一度のペースで動画をチェックした。何度見ても、あの赤ん坊が映っている。他人の赤ん坊を見つめながら、子供を見続ける涼子を覗き見ているような気になった。もちろん、涼子の夫や祖父母が見ている可能性もなくはない。でも涼子に違いないと思った。

こういう事をするのはいつも母親だ。赤ん坊が動くと、少し遅れてカメラが赤ん坊を追う。子供が座り込むと、ぐっと画面がアップになる。表情も、よだれかけの模様も、はっきり分かるほどズームされる。今の涼子の姿を動画でみてみたかった。マウス、あるいは携帯を片手に、二駅の自宅で何時間も保育園にいる我が子を見つめている涼子を、見てみたくて仕方なかった。

 涼子の赤ん坊は約二時間映し出されていた。途中、二度ほど他の保護者に操作権を奪われたようで別のクラスにカメラが向いたけど、涼子はすぐに奪還して零歳児クラスの一弥を映し出した。二時間が経った頃、ふっと見やると二歳児クラスが映っていた。またすぐ零歳児クラスに戻るかと思いきや、もうカメラは動かなかった。

もうお迎えの時間かも知れない。私は、涼子が慣らし保育をしていくと言っていたのを思い出して、カメラ3を別ウィンドウで開いた。しばらくベッドで本を読み、三時十分前になるとパソコンの前に戻った。入り口に向けられたカメラの動画を見ていると、三時五分前に涼子がやって来た。まだ慣れていないのか、タッチパネルで戸惑っている。涼子がクラスに向かうと、カメラ1のウィンドウを開いた。操作権を取得すると、ズームアウトして全体が見えるようにしておく。

涼子がやって来た。携帯のおもちゃで遊んでいた子供に笑顔を見せて隣に座ると、保育士に頭を下げ、ロッカーから荷物を出していく。子供にパーカーを着せながら、保育士と何か話し込んでいる。ミルクの事だろうか。それとも午睡の事だろうか。マイクが付いていたらいいのにと、もどかしい気持ちになる。

椅子に体育座りしながら、私は涼子が子供をスリングに入れ、園を出て行くのを見送った。我が子を延々見続けていた涼子よりも、今こうして涼子を見ている自分の方が恐ろしいのではないか。一瞬持ち上がった冷静な気持ちを、これは小説の取材であるのだからと相殺する。

 二十歳を過ぎる頃まで、私は女と男というカテゴリーに大きな意味を見出していなかった。でもデビューして社会に出ると、性別の違いはこの身に重くのし掛かり、次第に女流作家という言葉にさえ憤りを覚えるようになった。この日本に根強く残る女性蔑視の感情を人から、或いは世間から感じると私は過剰に苛立ち、相手を論破しようと躍起になった。

でも私は、あるイベントで対談したフランス人の女性作家の言葉にはっとした。「女性蔑視は、男のみによってなされるものではない。女性による女性蔑視もあるのだ」。それを聞いて私は、これまで男性による女性蔑視に耐え難いまでの苛立を感じていたにもかかわらず、自分自身もまた激しく女性を蔑視していたことに気がついた。

いつもそうだ。私は男の良い所ばかりを見て、女の嫌な所ばかりを見ている。そして世間から求められる女性性の受け入れを拒み、自分の中にある女性性をも蔑んでいた。「お姫様ですよ」私の膨らみ始めたお腹にエコーをあてた女性医師がそう言った瞬間、私は凍てつくような怒りを感じた。ここまでお腹を育て上げてきたのに、と裏切られた思いだった。

自分の子宮に根を張った一人の女性を受け入れるのに時間はかからなかったが、私はまさに一人の女性が股から出てきてその女性の女性器を目の当たりにする瞬間まで、もしかしたら男かもという望みを捨てきれなかった。考えてみれば、娘を出産したのは女性蔑視を矯正する良い機会だった。

確かに私は女性に対するある種の嫌悪を、出産によって克服した。でも出産によって新たに受けることになった女性蔑視に苛立っている内、自らの内にある女性蔑視を克服する道を見失ってしまった。私は涼子という病的な母親を見て興奮していた。自分がそういう気持ちの悪い女であるという事を含めて、私は女を嫌悪し憎み蔑んでいる。そして何故か、その女のおぞましい女性性に惹きつけられる。
つづく 第四章  涼子
 キーワード  三度四度の夜泣き、乳腺炎、腱鞘炎、ママ大好き、保育園預ける罪悪感