私たちは弱者と向き合う時、常に暴力の衝動に震えている。私たちは常に、弱者に対する暴力への衝動がある。でも暴力の衝動に身を任せて弱者を叩きのめしても、人は大概満たされない。

本表紙 金原ひとみ著

十章 涼子

【広告】性的欲望に負けて人生を台無しにした人が言うセリフは、平穏で安心安全で家族みんなで暮らせ孫たちに囲まれる人生が本当は一番幸せだと言うのだ。
 デカチン不倫男の巧みな性戯によって人妻を心逝くまで何回もイカせ、さらに君は素晴らしいなどとおだてられれば腹を痛めた我が子まで見捨てる覚悟ができるのが女の性であり、また。妻より容貌も性格も少し劣っていても性的にすごく満足させてくれる浮気女にぞっこん惚れてしまえば家族をも顧みない夫もいる。しかし、世の常、哀れというかその関係は長くつづくことなく終わってしまうことが少なくない。

夫婦関係に新風を取入れ刺激的な性の心地よさを満たし、かつ避妊方法としても優れているソフトノーブルを膣に入れることでコンドームLL寸長さのペニスと同じ効果を発揮するさらに、性行為が短時間で射精してしまうという欠点もある。前戯としてノーブルウッシングC型を用いることで男の体力消耗を軽減してくれ、女を短時間で何度でもイカせることもできる。
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 耳垂れと鼻水を垂らす我が子を見ていると、この子は体内が腐敗し、この黄色いくねばつく液体が頭から指の先まで詰まっているのではないかという気になる。嫌がって泣き喚く一弥の耳垂れを綿棒で拭い、臭いを嗅いでみたい衝動に駆られつつ、キッチンの蓋付きゴミ箱に放り投げた。もう何度目だろう。抗生物質と咳と鼻の薬を飲ませ、良くなったと思って抗生物質を中断すると二、三日で再び耳垂れが出て、また抗生物質を処方される。

ユカは完全に膿がなくなるまで抗生物質を与え続けた方がいいと言ってたけれど、医者は一週間以上赤ちゃんに抗生物質を飲ませるのは、と渋って処方としようとしない。浩太は自分が病院に連れて行った事など一度もないくせに、病院を替えるべきじゃないか、抗生物質を止めるべきじゃないか、いや抗生物質をもっと長く与えるべきじゃないかと私のやる事に文句をつける。

一弥が常に鼻水を出し中耳炎を繰り返しているせいで、完璧にたてたはずの予防接種のスケジュールも狂いまくっている。今手元にある予防接種票は三種混合が二枚とポリオが一枚、任意でもヒブワクチンを二回と、これからの季節に備えてインフルエンザワクチンも打ちたいと思っているのに、このままでは近々風疹麻疹混合の予防接種も届き、節酒スケジュールは更に混迷を極めるだろう。

インターネットで情報を取集し、汚い空気が良くないとあれば実家に頼んで空気清浄機を送ってもらい、車通りの少ない道を選んで歩き、細菌が良くないとあれば帰宅時はもちろん数時間おきに一弥の手を洗い消毒し、横になったまま飲み物を飲むのが良くないとあれば添い乳を止め寝る時も夜泣きの時も縦抱っこで飲ませ、飲み終えてから五分ほどは横にさせないようにした。

煙草が良くないと知った時は、浩太がよく一緒に営業回りしている吉村さんが吸っているのを思い出し、吉村さんがタバコを吸う時は必ず窓を開けてくれと懇願した。浩太鼻で笑い、私が本気で言っているのだと分かると目を丸くした。保育園を休ませろだの病院を替えろだのと文句を垂れるばかりお前は窓を開ける事も出来ないのかとカッとして、私は激昂し浩太をなじった。

吉村さんがタバコを吸っているせいで一弥が中耳炎になるなんて有り得ないと言い張りながらも、「とにかく一弥が完治するまでは」という私の強い要請によって、吉村さんと一緒に営業回りをした日は帰宅後ダイニングに上がる前にシャワーを浴びてもらう事になった。

 朝一で訪れた耳鼻科の待合室には既に十人以上の患者がいて、診察券を出してから四十五分が過ぎ、いい加減機嫌の悪い一弥をあやすのも抱っこするのももう限界という頃、携帯が鳴った。昨日の夜、私が送ったメールの返信だった。「年末進行で、もうばたばた。来月中旬辺りまで時間取れなさそう」文末には悲し気な顔文字がついている。

輪ちゃんの誕生日以来、ユカは明らかによそよそしくなった。突然の当日ドタキャン、連絡も何もなしのドタキャンだ。そんな事をする時点で正気でないことは確かだけれど、ほんとうにごめんねーという調子の良い声で始まった「十年来の友達が突然自殺を匂わせるようなメールを入れてきてそのまま失踪しちゃって、友達の旦那と探し回ったの。色んな人に電話を掛けまくったから充電は切れてしまうし、見っかったは見つかったんだけど手首をざっくりいってて病院に行ったり色々その後のケアーしている内にもう次の日のお昼になって」

という言い訳を一度は信じたものの、ユカのけろっとした表情を見ている内に疑心が強まり、その理由を伝えるためにだけ誘ったかのように、ベーグルを残し中の具だけを食べ終わるとあっさり「じゃあ私締め切り前だからそろそろ」と言い、だったらこれ、と渡した輪ちゃんのプレゼントを「ありがとうー。色々ごめんね」とへらへら笑って受け取りカフェを出て行く背中を見つめながら、私はユカの口にしたドタキャンの理由が嘘であることを確信した。

そもそも、ユカが友達の失踪や自殺を、推奨する事はあっても止めることなんて事は有り得ない。でも私はユカに対して「ムカつく」という気持ちにはならなかった。無責任なユカに対して、私はこれまでずっとムカついてきたけれど、今回に限っては同情に近い感情を抱いた。きっと、彼女が口にしたドタキャンの理由は、彼女自身も「信じてもらおう」という気で話したものではないはずだ。

ユカが本気で嘘をつこうと思ったら。話の内容はともかくとして、少なくともあんな態度では話さないはずだ。体裁としてドタキャンの理由なるものは伝えはするけれど、それは嘘であることを前提とした上での体裁であって、これ以上この件に関して一切言及しないで欲しいという意思表示であるかのような、そんな気がした。

ドタキャン騒動から一夜明けた土曜日、ユカから送られた「昨日は本当にごめんね。事情は今度ゆっくり話すね」というメールにも、週末を挟んで月曜カフェで落ち合い理由を聞いた時にも、私はこれまで一度も感じたことのなかった悲壮感を目の当たりにした気がした。軽い口調でへらへらとした表情もむしろ痛々しく、あちこち激しくぶっかった末、潰れも壊れもせずに帰還したピンボールのようにくたびれた印象を受けた。

だから私は、そろそろ落ち着いただろかという打診を兼ねて昨日、「また今度三人で食事でもしない?」と当たり障りのないメールを送ったのだ。

 ドタキャンされた日、確かに私は苛立っていた。まただ、ユカがまたやりやがった。そんな気持ちでいた。心配そうにユカに電話を掛け続け、家に行ってみようか、輪ちゃん引き取ってうちで待っていようかと提案する五月ちゃんに、私は素直な気持ちで同意できなかった。約束の時間から一時間経った頃、五月さんは副園長の芦谷先生に今日は六人で食事をする予定だったんですと事情説明し、輪ちゃんを引き取らせてくれないかと頼んだ。

もちろん本人も予想していたのだろうが、保護者の方の承諾なしには無理ですと断られ、仕方なく私たちは自分の子だけを引き取る事にした。一歳児クラスを通ってゼロ歳児クラスにお迎えに行く私を、輪ちゃんが見つめていた。話しかけないでと思ったけど、輪ちゃんは一弥をスリングに入れて立ち上がった私を見上げ、「パーティーは?」と聞いた。ママがお迎えに来たらパーティしようね、と笑いかけ、まだ何か物言いたげな輪ちゃんに背を向けてクラスを出た。

入り口で五月さんはわざわざ自分から一歳児クラスに赴き、何やら輪ちゃんと話しているようだった。戻ってきた五月さんに何て言ったんですかと聞くと、「ママは後で来るからねって。今日パーティが出来なくてもまた今度皆でパーティしようね、って」と悲しげに言った。よその子どもを見て、あんなに切ない気持ちになるのは初めてだった。タッチドアを開けてドリーズを出る際、振り返る輪ちゃんが私たちをじっと見つめていた。柵に手を掛け、帰っていく私たちをじっと見ていた。思わず涙がこみ上げた。

五月さんも同じ気持ちだったのか、眉間と鼻に皺を寄せていた。プレゼントで膨らんだ、私と五月さんのバッグが虚しかった。もしかしたら何か勘違いしているだけかもしれないからと、五月さんはドリーズの近くのカファで待っていようと提案した。「いくら何でも、朝まで保育園に置き去りなんて事はあり得ないでしょ」と五月さんは笑っていたが、八時を過ぎても九時を過ぎてもユカとは連絡はつかず、ドリーズに電話を掛けても「お母様もお父様も電話に出ないんです」と途方に暮れた様子だった。とうとう十時を回ってカフェが閉店準備を始めた頃、窓の外に見覚えのあるベビーカーを見つけて私は声を上げた。

「輪ちゃん」
 慌ててカフェを出て声を掛けると、輪ちゃんは泣いていたせいか、それとも眠いせいか分からないけれど赤く腫れぽったい目を私に向けた。今日がお誕生日で、お母さんと友達らにお祝いをしてもらうはずだった、たくさんプレゼントをもらうはずだった輪ちゃんは、無表情で私を見つめた。ベビーカーを押していたユカの旦那さんに会釈すると、後ろから追いかけて来た五月が輪ちゃんに駆け寄ってその手を取った。

「今日、パーティをやる予定だったんですよね?」
 旦那さんの言葉に、そうなんですよと五月が答えた。
「ずっと連絡が付かなくて、心配だったので近くで待っていようという事になって」
「すいませんでした。連絡が取れ次第すぐに連絡を入れるように言います」
「何か、あったんでしょうか。事故とか、事件とかに巻き込まれた可能性は‥‥」
「大丈夫だと思います。彼女は割とこういうことをするタイプの人間なので」

 じゃあ、と言って彼は軽く頭を下げ、再びベビーカーを押して歩き始めた。身を乗り出して私たちを振り返る輪ちゃんと「また今度パーティしようね」と五月が声を掛けた。その時、赤い目の輪ちゃんが僅かに微笑んだのを、私は見逃さなかった。輪ちゃん笑いましたよねと聞くと、五月さんはうんと頷いた。輪ちゃんが無事に保護者に引き取られた事に安心したものの、ユカの旦那の態度が腑に落ちず、私は悶々とした気持ちでいた。

割とこういうことをするタイプの人間なので。という言葉は確かにそうだ。私だってユカのドタキャンに「またやりやがった」という気持ちでいた。でも自分の夫が、自分の最も近くいる人が「そういうタイプの人間」として自分を認識しているという事に、ユカはどんな思いでいるのだろう。ユカと仲が良かった高校一年の頃、いつかユカが突然行方不明になったり、前触れもなく自殺するかもしれないという予感めいたものを感じる事が合った。

でも今、私は輪ちゃんがある日突然死んでしまうんじゃないかという、数倍後味の悪い予感を胸に抱いていた。大人びた顔立ちで無表情を決め込む彼女は、ある日突然保護者の怠慢などが原因で事件や事故に巻き込まれ、音もなく消えてしまうような気がした。

 カフェに戻ると、既に眠りこけソファに置かれていた一弥を「見といて」と頼まれた弥生ちゃんがしっかりと一弥の手を握ったまま「輪ちゃんは?」と大きな声を上げた。輪ちゃんはパパとお家に帰るんだって。だからパーティはまた今度ね。と穏やかな表情でいう五月さんに、弥生ちゃんは大きく頷いた。さっきまで「ユカはひどい母親だ」「輪ちゃんが可哀想だ」という私の嘆きを聞いていたせいか、弥生ちゃんはどことなく安心したような表情を見せていた。

言葉の全てを理解している訳ではないだろうが、私たちを包む不穏な空気を、弥生ちゃんも肌で感じていたのだろう。弥生ちゃんは、顔はそんなに似ていないけど、性格は五月さんそっくりだ。皆に優しく、思いやりがあって、三歳なのに大人のような気遣いもする。苦しんでいる人、悲しんでいる人と一緒になって苦しみ、悲しむような、心の優しい女の子になるのだろう。

近くのイタリアンレストランで軽く食事をした後、五月さんの車で送ってもらった。別れ際、子供たちが眠っている後部席を一瞥してから、五月さんはこう言った。「もしも今回の事が、ユカが故意に引き起こした事態であったとしても、今日の事で一番傷ついてるのはユカかもしれない。

ムカつく気持ちはわかるけど、ユカを責めるような事はしない方がいいと思う」。ムカつく気持ちはもうなかった。輪ちゃんも、ユカも、ユカの旦那さんも、ただただ不憫だった。一弥を抱いて帰宅した私は、何の取り柄もない統一感に欠けた部屋を見渡し、胸の奥に仄か明るいものを感じた。私は幸せだ。少なくともユカよりは恵まれている。そう思った。

 一弥くん。中山一弥くん。名前を呼ばれてはっと顔を上げると、私は返信を打ち始めていた携帯をバッグに放り込み、一弥抱き上げ診察室に入った。額にドーナツ型の鏡を付けた先生は、私と一弥に気づくと「ああこんにちは」と微笑んだ。その表情に「またか」といううんざりしたものが感じられる。

「今朝、また耳垂れが出ました」
「そうですか。えっと、三日前に抗生物質を切ったんですね。じゃあ今日も抗生物質を出しますんで、取り敢えず三日飲ませてください」
 一弥を抱いたまま診察台に座ると、もうすっかり慣れ切った流れ作業のように、私は一弥の足を両足で挟み、抱きしめるように両腕を抱え込んだ、身動きが取れなくなり泣き喚く一弥の頭を「綺麗にしてもらおうねー」と看護婦が甘ったるい声を出しながら二人がかりで押さえつける。先生が吸引器に細かい金属のノズルを付け、一弥の左耳の耳垂れを吸引し始めた。痛い! とこちらが顔を背けたくなるほど奥までノズルを突っ込んで吸引すると。次に反対側の耳を覗き込んだ。

「うーん、こっちも赤いね」
 言いながら、次はノズルをゴムのチューブに付け替え、先生は一弥の鼻水を吸引し始めた。吸引されている間一弥は声を詰まらせ、チューブが抜かれるギャーッと身悶えして大声を上げた。
「喉も赤いね。多分、治りかけた時に保育園で菌をもらってきたっちゃったんだろうね」

 先生は一弥の耳に点耳薬を垂らし丸い脱脂綿を詰めると「はいお終い」と微笑んだ。
「あの、中耳炎って、普通こんなに長引く物なのでしょうか」
「うーん、ちょっと長いね。二週間くらいだっけ」
「もう三週間で、耳垂れは四回目です」

「とにかく新しい風邪を貰わないようにする事、鼻水が出てる時は吸引。また明後日か明明後日にもう一度診させてください。鼓膜が塞がってもまだ腫れたら切りましょう」

 はあと頷くと、「じゃあネブライザーやってってください」と言われ、私は診察台から立ち上がった。ぎゃんぎゃんと泣き喚く一弥を抱きかかえ、吸引器を口元に当てようとするものの、一弥は顔を張って嫌がるばかりで、ほとんど吸入出来たとは思えなかった。待合室で処方箋を待ちながら、私は荒野に一人取り残されたような気持ちでいた。浩太も医者も、本気で一弥の中耳炎の治癒を祈ってはいない。

浩太は無責任に私や医者を批判するばかりだし、医者はヒステリックな親にクレームを付けさせないだけの診察と処方する事が目的であって、本気で一弥を中耳炎地獄から救い出そうとはしない。自分の子供が一弥と同じ状況に置かれた時、彼はあんな態度で治療しないはずだ。恐ろしかった。私は、一人で一弥の中耳炎の責任を持たなければならない。中耳炎が治らないのも、治るのも、全て私のせいなのだ。孤立無援だった。

立ち向かおうという気持ちには全くなれなかった。まるで、一弥の本当の母親は他に居て、私はその母親の代理で病院に通い薬を飲ませ鼻水を取っているかのような、そんな気持ちだった。真っ向からこの現実に向かい合おうとすると、「逃げたい」「助けて」という逃避の言葉が先に浮かぶのだ。私の責任じゃない! 私は一弥の中耳炎の当事者ではない! そう思わないと正気を保てなかった。

 調剤薬局に行くと、五人ほどの客の中にお腹の大きい妊婦がいて。お腹の張り止めでも処方してもらったのだろうかと、文庫本を読んでいる彼女を横目で見つめながら、一弥が泣きださないように抱っこしてうろうろ店内を歩いていた。あんたのその余裕しゃくしゃくな生活も、お腹の子が生まれれば即終了だ。そんな意地の悪い気持ちになる。

筋肉がちぎれそうになる左腕に、ぐっと体を伸ばした一弥のせいで強い負荷がかかる。いたっ、と顔を顰めた時、文庫本から顔を上げた妊婦が一弥を見て微笑んだ。あっ、あーっ、と声を上げ、一弥も笑顔で手を伸ばしている。二人が笑顔で見つめ合う姿を見て、私は胸を鷲掴みされたようにはっとした。妊婦と赤ん坊が微笑み合う様子には、他を圧倒する力があった。まるで、彼女こそが一弥のお母さんであるかのような、そんな気がした。

 五月さんの姿が脳裏に蘇る。五月さんは妊娠してるんじゃないかという疑いは、少し前から抱いていた。この間、輪ちゃんの誕生日の日に食事をしたとき、最近体の調子が悪くてと言いながら五月さんが一瞬お腹を触ったのを見た瞬間、ああきっと妊娠しているんだと思った。私は僅かに心が温まるのを感じたけれど、次の瞬間激しい怒りと悲しみに、顔をゆがめた。夫婦仲が悪いと愚痴をこぼしていたのに、寝室も別だと言っていたのに、何で妊娠してるんだという理不尽な怒りが湧いた。

自分でも戸惑うくらい、私は妊娠したと思しき五月さんに嫉妬心を抱いていた。例えば、ユカが妊娠したと言っても、私は何の怒りも感じないだろう。セックス好きのゴム嫌いなイメージのあるユカには、いつ妊娠してもおかしくないだろうという思いがどこかにあるのだ。でも五月さんは節操のないタイプではないし、計画的に人生を考えている人だという印象があって、つまりどこかで、私は五月さんと同族意識を持っていたのかもしれない。

そしてまだ次は考えていない、と二人目に後ろ向きと思われた五月さんが、計画的なのか事故的なのか分からないけれど妊娠したのかもしれないと思うと、とにかく私は激しく恨めしい気持ちになった。処女を捨てないと言い張っていた友達が、ある日突然じぶんよりさきに初体験を済ませたような、そんな気持ちに近いのだろうか。

そこまで考えたところで、馬鹿馬鹿しいなって思わず笑みがこぼれた。確かに瞬間的に激しい怒り嫉妬心に打ち震えたけど、それから数分もしない内にその怒りも嫉妬心もほとんど思い出せなくなっていたのだ。妊娠したとの報告されたらどんなに幸せな気持ちになるだろうとわくわくさえした。でも確かに、嫉妬心が燃え盛る音を、その時私は聞いたのだ。

 薬を貰い、保育園に行くため駅に向かって歩き始めると、一気に気分が軽やかになった。保育園に着けば私は自由になる。病院や調剤薬局で待たされるのと違って、自分が歩けば歩いた分保育園に近づき、抱っこすれば抱っこした分残りの抱っこの時間が減る、という事は素晴らしい幸福だ。

もしも「あと三十分抱っこすれば寝る」しか、「あと四十分我慢すれば泣き止む」と分かっていれば、私は全くストレスなく育児が出来るだろう。いつ終わるか分からない。一分後かもしれない一時間後かも知れないし五時間後かもしれない。永遠に終わらない事はないと分かってはいても、その次の見えなさに、私は怯え、逃げ出したくなってしまうのだ。

 一弥の泣き声で頭を上げる。時計を光らせると1:27と出ている。中耳炎のせいか風邪のせいか、ここしばらく夜泣きが多い。酷い時は一晩に五度も乳首を貧られた。大量に母乳が出しているからか、私もこの三週間で二度乳腺炎になって、一度は38.7℃の熱を出し、もう一度は自分で絞りまくり安全ピンで詰まった乳口をほじくって無理矢理開通させたが、乳首にかさぶたが出来て二日ほどは母乳を飲まれるたび酷い痛みに悩まされた。

 ほとんど目を開けられず、手探りで一弥に乳首を咥えさせる。一弥はぐずぐず言いながらこくんこくんと母乳を飲み始めたものの、突然焼き印を押されたような痛みが走り、ぎゃっと声を上げて一弥を引き離した。痛いっ! 怒鳴りつけると、一弥は一度大きく揺さぶった。揺さぶられっこ症候群という言葉が頭をよぎるが、眠い頭と痛みで冷静になれない。揺さぶられ、乳首を奪われ、ぎゃんぎゃんと泣き喚く一弥の声に顔をしかめながら、私は嚙まれた左乳首を覗き込んだ。

一昨日も強く嚙まれ、やっと痛みがひいてきた所だったのに、また傷になってしまうかもしれない。夜泣きの時は、ぐずりながら母乳を飲むためによくこうして乳首を嚙まれ、ここ数日頻度が高すぎる。痛みで一気に噴出した汗と動悸と怒りに震えながらそっと左の乳房をキャミソールに入れると、痛みが走った。もう母乳を上げる気にはならず、私は泣き喚く一弥抱きかかえ、キッチンでミルクを作った。

マグマグからミルクを飲み干す一弥を見ながら、それでも母乳を上げなければ胸が張って痛くなり再び乳腺炎になるんだという卑屈な気持ちになる。何故こうも、母と子は共存依存的なのだろう。こんなにも私に痛く辛い思いをさせる一弥だけれど、一弥を失えば私は破滅だ。精神的にも、肉体的にも、私は一弥なしでは生きていけないのだ。

 一弥が二百ccのミルクを飲み干すと、マグマグを分解して洗い桶に入れた。本当は、マグマグはお茶や水を入れるものであって、ミルクやジュースなどの濃度や糖質の高い飲み物は衛生上入れてはいけないのだ。私は、マグマグに菌が繁殖していく様子を想像し、その菌が一弥の口から体中に広がっていくイメージを思い浮かべた。私はもう、一弥の幸せや健康を、素直な気持ちではおれない。一弥が健康を損ねれば損ねただけ、自分の負担が増えるという意味でしか、一弥の病気を受け止められない。

リビングの充電器にささったままの携帯を光らせると、浩太からメールが入っていた。「吉村と渡辺と少し飲んで帰る」。どうせ飲みにいっているんだろうとは思っていたけれど、メールを見てしまったせいで怒りが湧き目が冴えた。だっ、だっ、と手を伸ばして抱っこを懇願する一弥を抱き上げると、左手で抱えたまま右手で冷蔵庫の中を漁った。もういつ明けたのかも思い出せない芋焼酎を取り出すと、ロックグラスに半分ほど注いで一気に飲み干した。

元の味は思い出せないが、何となく冷蔵庫に長年入っていた味がして、吐き気がする。もう一度グラスに半分注ぐと、一弥が手を伸ばしてあっあっと声を上げ始め、私は苛立ち紛れにグラスを一弥の口元に押し付けた。強烈な匂いに顔をしかめ、一弥はわーんと声を上げて泣き始めた。私はそれを飲み干すと、ボトルを冷蔵庫に戻してグラスを洗い桶に入れてベッドに戻った。虚しかった。今浩太は同僚と仕事の愚痴や嫁の愚痴や子どもの可愛さなんかを話しながら美味しい酒を飲んでいるのだろう。

私は吐きそうなほど眠い中子どもに乳首を嚙まれミルクを作り暗いキッチンで冷蔵庫臭い酒を一気飲みして、数時間後に再び起こされるのであろう予感にうんざりしながらベットに舞い戻っているにも拘わらず、浩太は何ものにも邪魔されず何ものにも抑圧されず何ものにも自由を奪われずに楽しいお酒を飲んでいるのだ。一弥は、十分ほどぐずぐず泣いた後眠りについた。私もまた、いつの間にか目を閉じた。

 朝までの間に計三回夜泣きで起こされた。三度目に起こされた時、二度目に起きた時はいなかった浩太が、酒臭い寝息を吐きながらベッドの端で眠っていた。二度目三時、三度目四時半だったから、その間に帰って来たのだろう。夜嚙まれた時は気づかなかったけれど、顔を洗うついでに洗面所で胸を出して見ると。左の乳頭の下に、やすりで削られたような荒い傷跡が付いていた。
二度目に起きた時と三度目に起きた時、右だけを飲ませたせいで、左の乳房の方が明らかに大きく張っている。保育園に送ったら搾乳しようと思いながら、私は顔を洗い始めた。

 一弥を保育園に送った帰り、不意に実家に行ってみようと思いついた。駅から母親に電話を掛けると、私はケーキを買って実家に向かった。
 家の中はいつもより散らかっているような気がして、お茶煎れるね、と言う母親の後ろで、ぐるりとリビングを見渡した。高かったのよーと以前母親が自慢していたバルマンのトレンチコートが床に落ち、踏みつけられたのかしわしわになっている。キッチンに立ってぞっととした。流しに食べ残しのこびりついたお皿が大量に詰め込められ。今にも虫が湧きそうな、いやちょっと皿を動かせば小蠅や蛆が顔を出しそうなほどだった。

「何これ」
「光が来なくなったのよ」
「自分でやればいいじゃない」
「忙しくてね。ここんとこ家事は光に頼りきっていてたし、光がうち辞めてから、そのせいで仕事も倍増して」
「叔母さん、何で辞めたの」
「あとお母さん、お父さんと離婚するから」
 は? という間抜けな声に、母親は答えずポットに水を入れた。生き残っているお皿が無かったため、仕方なくあまり汚れていなかったお皿を二枚洗って、フォークと一緒にテーブルに出す。
「何で?」
「あんたも修治も所帯を持ったわけだし、別に迷惑かかんないでしょ」
「迷惑だって言っているんじゃなくて、何でかと聞いているの」
 母親はいつもこうして話を脱線させていて、最後には風吹けば桶屋が云々というような筋違いの結論しか出さない。
「光と浮気してたのよ。あの人。だから追い出したの。そうしたらアパート借りて光と一緒に住み始めたのよ。もう何か、笑っちゃうわ」
 母親の背中を見つめながら、ケーキの箱に貼られたシールを撫でる。叔母の白い顔が頭に浮かぶ。躁鬱のブタ女と、父親がセックスをした。表情が険しくなっていくのが自分でも分かった。でも今自分が経つポジションは、きっと叔母を激しく憎んでいるであろう母を客観的に眺められる場所であるような気がして、父親に対する嫌悪を私は敢えて口にしなかった。

「でも安心して。この家はくれると言うし、多分慰謝料も貰えるし、お母さんはもうすぐ新しい恋人を見つけるから。会社軌道に乗っている時でよかったわ」
 何と言って良いのか分からず、しばらく黙り込んでからケーキの箱を開け、ふうんと頷いた。お母さん何食べる? と聞くと、キッチンから身を乗り出して箱の中を見つめ、ブルーベリータルト、と答えた。ブルーベリータルトとショートケーキをお皿にだし、残りは冷蔵庫に入れた。
「離婚した後、お父さんとお母さんが死んだら、私とお兄ちゃんには両方の遺産を相続する権利があるのかな」
 別に興味もないのに、私は何故かそんなことを聞いていた」
「知らないわよそんな事。お父さんは離婚ですっからかんになるかもしれないし、お母さんの遺産は会社の運営にあてるかしれないわよ。嫌ね、親の離婚話聞いてまずお金の話なんて」
「ああ、ごめん。何かでも、現実味がないっていうか、夢の話聞いているみたいなんだけど」
「初めてじゃないのよ。あの人たち、あなたたちがまだ小さい頃にも浮気してたの」
 私はお茶が出て来るのを待たずにショートケーキのフィルムを剥がすとフォークを突き刺した。
「お父さんは、あなたたちが小さかった頃、あなた達を裏切ったのよ。あなたたちの叔母と浮気をして、私たち家族を欺いたのよ」
「何で、浮気を知ったのに叔母さんが家に出入りするのを許したの?」
「浮気がバレてから数年間は、光はこの家に来なかったわ。覚えてない? 三年くらいかしら、一度も来なかったわよ。でも、あの子鬱病になったでしょ? 何だか可哀想になっちゃって、光も充弘さんと結婚したし、もう大丈夫だろうって情をかけたら少しずつ家に来るようになっちゃって。でも二人がまた関係を持ち始めたのは、本当にごく最近の事なのよ。あなた達が出て行った後の事だから。だから、今回は別にあなた達を欺いたわけではないの」

 そもそも、父親が私が子どもの頃に浮気をしていたのが、私や兄に対する欺きであったと言えるのだろうか。母親がなぜ、前回は家族を欺き、今回は母親のみを欺いたのだという所に妙なこだわりを持っているのが、気味悪かった。
「多分お父さんからも話がいくと思うけど、そうね、来年初めにも離婚は成立すると思うわ。相続やら何やらの話は、今度弁護士に聞くから」
 そう。と呟くと、イチゴを頬張った。酸味が強くて、甘さが足りない。私は、イチゴの酸味とばさばさの生クリームと母親の話のせいで、日常が歪んでいくのを感じた。まるで夢でも見ているかのようだった。今にも、一弥の泣き声で目を覚ましそうだった。

「ねえ、私とかお兄ちゃんって、子どもの頃中耳炎やった?」
「中耳炎? やってないと思うけど。かずちゃん、まだ中耳炎なの?」
「うん。何度も耳垂れ出して耳鼻科通いしてる」
「可哀想にねえ。かずちゃん、体弱いのかしら。修司もほら、小学生の頃しょっちゅう寝込んでたじゃない? 毎週毎週病院に通って。ほら、あの子起立性調節障害だったから」

 母がこの「起立性調節障害」という言葉を口にするたび、私はひどいムカつきを覚える。兄が頭痛や腹痛を訴えるたびにヒステリックな様子で病院に連れて行き、いつも納得いく診断をもらえず、溺愛している兄を信じたい気持ちと「仮病ではないか」という疑念の間で常に苛立っていた母親は、隣町の藪医者にかかりこの「起立性調節障害」という病名をもらい、やっと納得したのだ。

それからは鬼の首を取ったように、あるいは何かの免罪符のように「起立性調節障害」という言葉を乱用して、学校にもお父さんにも私にも「修司は起立性調節障害だから」と言い続けてきた。例えば「偏頭痛」とか「胃弱」などの言葉では彼女は納得出来なかったのだ。それらの言葉にはどことなく、怠け者の言い訳じみたニュアンスが含まれているからだ。

彼女は、あまりにも有名な病名ではなく、でも何となく重病そうな響きを持つその病名に納得し、藪医者にすがったのだ。兄は本当に飲むべきなのかどうかも不明な頭痛薬や胃薬を飲み続けた。でも学校を休んだ兄がいつも布団の中で漫画を読んでいたのを、母親が買い物に出かけるとテレビゲームをやっていのを私は知っている。

多分母親も知っていた。彼らはそれを暗黙の了解として、病弱な息子と、病弱な息子を看病する母という役を演じていたのだ。私は、彼らの茶番を目の当たりにするたびうんざりし続けていた。

「あんまり過保護すぎるのも良くないみたいよ。例えばできるだけ薄着にさせたり、あんまり薬を飲まないとか、大きくなったらラジオ体操とか行水とかさせてみたらいいんじゃない?」
 私が中学の頃から「太った」と言えば食事中何度も「食べ過ぎじゃない?」と眉を顰め、「瘦せた」と言えば食事中何度も「もっと食べなさい」と言う母親だ。「一弥に厚着させれば「これじゃ暑いわよ」と文句を言い、薄着にさせれば「これじゃ寒いわよ」と文句を言うに決まっている。

実際、産褥期に実家に世話になった時も、一弥の寝ている部屋を暗くしていたら「暗いわよこれじゃ不安になるに決まっている」と言い、明かりを点ておいたら「明るいわよこれじゃ眩しいに決まっている」と文句をつけた。彼女は、とにかく何でもいいから、何か口出しせずにはおれないだけなのだ。

「薬を飲ませなきゃ鼓膜を切り続ける事になるのよ」
「鼓膜を?」
「鼓膜の奥にある炎症を抑えるためには抗生物質が必要で、でなければ鼓膜が自然に壊れるまで泣かせ続けるか鼓膜を切開して膿を出すかしかないの。何も知らないくせに薬を飲ませだの飲ませないだの口出ししないで」
 まあ、と一言呟いて、母親は大袈裟に眉を顰めた。
「可哀想にねえ。まだ零歳前なのに。やっぱり、しばらく保育園休ませたら?」
 休ませたら誰が面倒見ると思ってるんだという言葉を飲み込む。

「お母さんが仕事を辞めてかかりきりで育てた子どもが起立性調節障害で病弱だったわけでしょ? 私は保育園で色んな病気を貰って、結果的に強い子になるっていう説を信じる」

 あらそうと言って、母親はお茶を飲み干した。発熱続きで保育園を休ませることも多く、毎晩三度も四度も夜泣きをされる日々に疲れ、出来る事なら実家を頼りたいと思っていた。きっと私は、今度一弥を預かってくれない? というひと事を言うために今日ここに来たのだ。ようやく実家に行こうと思いつた自分の真意に気づいたけれど、とてもそんな事を言える雰囲気ではなかったし、私はやはりこの人には一弥を預けられない、こんな人には一弥を預けたくないと思った。

結局、浩太にとっても医者にとっても母親にとっても、一弥の問題など所詮他人事でしかないからだ。
「ああしたらこうしたら」と言うだけで一弥の苦しみを自分の問題として受け止めていないのだ。それは母親、つまり私の責任であって、自分の責任ではないという立場から好き勝手に文句や意見を言っているだけなのだ。私は、誰かを頼りたいという気持ちこそが最も愚かで無意味な希求であったと知った。

 何かあったか言いなさいよ、母親は最後にそう言ったけど、「離婚が成立したら知らせるから」と続ける彼女に、一体何が言えるだろう。玄関まで見送りに来た母親が外の光を浴びた瞬間、その顔の青白さに気がついた。肉の落ちた頬の陰影すらも目の当たりにて、私も初めて夫に浮気された彼女に同情した。

 帰り道、一歩ずつ足を踏み出すたび、父親に対する嫌悪感が募っていくのを感じた。私がこの世で最も気持ち悪いと感じる女と、父親がセックスしていたと思うと、私の血までもが汚れたような気持ちになった。父親の店で働く気が、どんどん失せていく。叔母と一緒に暮らす父親と、つい数時間前まで叔母とセックスしていたかもしれない父親と、一緒に働きたくない。私は不動産屋の前に置かれていたフリーペーパーの求人誌を一冊抜き取り、ぱらぱらとめくりながらマンションに帰宅した。

 これまで三回面接を受けたけれど、子どもの風邪などで早引けなど多くなるかもしれないと話したせいか、三回とも見事に落ちた。カラオケボックスやレストランではなく、スーパーやお総菜屋など、主婦向けのパートの方が受かりやすいかもしれない。でも自分がスーパーのレジ打ちをする姿や、お総菜屋で三角巾を頭につけている様子など、想像もしたくないのが本音だった。

そんな事を言っていられない状況なのは分かっている。このままでは、私は保育料で貯金を食いつぶしてしまう。一弥が一歳になる前に入ろうと思っていた学資保険だって、このままでは何年先になるか分からない。ドリーズは保育士も質が良いと思うし、綺麗だし清潔だし、他のお母さんたちの感じも良いけれど、やはりこのまま通わせ続けるのは無理だった。

四月入園の願書提出期間までにパートでもバイトでもとにかく働き先を見つけ、区役所に出願するつもりだった。もし認可保育園に入れれば、保育料は半分か、それ以下になるはずだ。最近の食卓はもやし料理と浩太の会社の冷凍食品ばかりだし、一ヶ月まともにショッピングにも行っていない。日に日に大きくなっていく一弥の服もぴちぴちになってきた。

股のホックが閉まらなくなったロンパースをシャツとして着せ続けていると、一弥までもがぽろぽろに使い古された惨めな赤ん坊に見えてくる。半月前にリペアしたまま伸ばしぱなしのネイルも、根本が五ミリ近く出ているし、右の人差し指し薬指にはひびが入っている。接着剤で補強し続けて来たけれど、いよいよ限界に近づいてきた。お金もなければ仕事もない。

せめてどちらか一つでもあれば、私は全く違う気持ちでいただろうか。例えばお金があればユカのように精神的に参っていたり荒んでいたとしてもそれなりの生活が出来るし、仕事があれば五月さんのように旦那さんと上手くいっていなかったとしても仕事と家庭の間でバランスを取れる。お金も仕事もない私には余裕が生まれる隙がない。どうして私だけ。という思いが拭えない。どうして私だけ、こんなに必死になってがむしゃらになって、惨めな思いをし続けなければならないのだろう。

 どさっと倒れ込んだソファから体を起こせないまま部屋を見渡すと、壁に掛けられた正方形の写真立てが目に入った。一弥が生まれた頃に買ったものだ。縦横合わせて五枚の写真を入れられる大型のそれには、まだ結婚する前の私と浩太の写真、結婚式の写真、一弥の生まれた時の写真、一弥のお宮参りの写真、一弥と浩太と一緒に実家に帰った時に皆で撮った写真、とバンスよく私の周辺の人々がはめ込まれている。幸せそうに笑う人々がじっとこっちを見つめている。

写真の中の全ての人が偽物に見える。何かのドラマを演じているような、いや、もっと質の悪い、例えば安っぽい結婚式のパンフレッドに出てくる偽物の家族、偽物の夫婦のように見える。あれは、かつて私が持っていた家庭なのだろうか。それとも、私が思い描いていた理想の家庭なのだろうか。でも今だって、この中山家にカメラを向ければ、それなりに幸せそうな三人家族の写真が撮れるのだ。

家庭像なんて、そうして簡単に改竄され偽造され捏造されていくものなのかもしれない。現に、私が山岡家の娘だった頃のそれなりの幸せな思い出は、父親の不倫を知らされ、母親の落ちぶれた姿を見て、金メッキが剝がれるように本当の姿を現し始めた。父親は幼い私を欺いていた。母親の言葉が、何故か今になって重くのしかかった。

 バッグの中で携帯が鳴っていた。誰だろうと思う前に。もううんざりしている。私の携帯に、良い知らせは舞い込まない。携帯に背を向けるように体をよじった瞬間、ずきんと痛んだ胸にうっと声が漏れた。恐る恐る胸に触って、その痛みに顔を顰めた。何故こんなになるまで気づかなかったのだろう。

左の胸にしこりのように固くなっている所があった。見ると、しこりの周辺は赤くなっている。乳頭に詰まりは見えない。自分で絞って詰まりを取るか、一弥に吸ってもらうしかない。一度出来た詰まりは、出来てしまった以上出すしかないのだ。情けない気持ちで、私は乳頭から乳首全体を揉み解し、バスルームで母乳を絞った。乳房を刺激すればするほど母乳は作られ、詰まった乳腺の奥にある乳管洞が肥大し痛みが増す。

でもこのまま絞らずアイスノンで冷やして母乳の製造を中止しても、現状維持するだけで詰まりは取れない。痛い部分を左手で押しながら、右手で乳頭を絞る。産後、看護婦さんが教えてくれたやり方だった。確かに、どろっとした黄色い母乳を出す乳腺が一つある。見るからに不味そうだ。上半身裸になって必死に胸を絞っている自分の姿が鏡に映っているのを見てぞっとする。

出産以来、自分がそれまでとは全く別種の生き物に、それこそ母というグロテスクな生き物になってしまったような気になる事である。ユカや五月さんに、そんなグロテスクさは感じない。もう少しすれば、せめて断乳をすれば、グロテスクさは薄れるのかもしれない。今、一弥の食料として一弥の世話係として、一弥の生命と生活を一手に引き受け、一弥がいて初めて涼子、涼子がいて初めて一弥、というような関係性の中で、私はグロテスクな生き物として生きざるを得ないのだろう。

 自分が妊娠するまで、私は妊婦を見ると恐ろしい気持ちになった。あの大きなお腹の赤ん坊が入っているんだと思った瞬間、反射的に「気持ち悪っ」と呟いてしまった事もあった。でも面白い事に自分が一度妊娠を乗り越えてしまうと、妊婦という生々しさにこの上ない幸福を見て取るのだから、人間というのは身勝手なものだ。

私もきっと、断乳をしたら、授乳をしている母親を見て幸福な気持ちになったりするのだろうか。この間私が五月さんが妊娠していると思って嫉妬心を抱いたように、胸にむしゃぶりつく小さな赤ん坊を抱く母親に、嫉妬すらするのかもしれない。

 乳房の痛みと固ささは、マッサージと搾乳で多少和らいだけれど、まだ詰まりが取れた感じはしなかった。私はアイスノンをミニタオルでくるみ、ブラジャーに挟んだ。重い腰を上げて携帯を取り出すと、留守電が入っていた。私の携帯に留守電を残すのは、ドリーズだけだ。思った通り、37・8℃ですと一弥の体温を伝える留守電を聞き終えると、私はドリーズに折り返した。

 機嫌が悪かった。破れた鼓膜が閉じてしまうのかもしれない。大声で泣き喚く一弥をスリングに入れ、私はドリーズを出た。背中に、保育士が練習をしているのか、途切れ途切れのピアノの音が届く。ジングルベルだった。そうかもう、クリスマスシーズンなんだ。そう言えば、昨日のニュースでツリーの点灯式の様子流していた。あれは六本木ヒルズだっただろうか。結婚前、クリスマスシーズンになると私は浩太とよくイルミネーションを見に行った。

私たちはそういう、模範的なカップルだった。恋人同士がするとされる事は、ほとんど経験してから結婚をした。お揃いの指輪を買ったり、誕生日にはネックレスやブレスレットを買ってもらい、時にはカードや手紙のやり取りをして、年に一・二度はディズニーランドに行き、喧嘩をした時浩太が深夜に私の家まで謝りに来た事も、浮気を疑われて携帯を見せた事も、見せてもらった事も、お揃いのストラップも、お互いの名前を入れたメールアドレスも。私たちは幸せな恋愛を楽しんでいた。私は、浩太と幸せな家庭を築くはずだった。

 だっだっだっ、と騒ぎながら私の肩を叩く一弥を見下ろす、スリングの圧迫と、歩く振動が胸に伝わって痛かった。少し前、零歳だか一歳だかの子どもを家に置きっぱなしにして、夫婦で出かけてる間に子どもが布団で窒息死してしまったというニュースがあった。「子どもがいなかった頃みたいに、二人でデートをしたかった」という両親の言い分に、多くの人々が噛みついた。

子どもが子供を産んだ。責任感がなさ過ぎる。育てられないんだったら産むな。犯罪者となり、罵詈雑言を浴びせられた彼らも、数年前は普通の恋人同士だったはずだ。誰からも責められる余地のない、幸せな恋人たちだったはずだ。数え切れないほどのデートを重ねて、絆を深め、愛し合い、多かれ少なかれ妊娠を喜んだはずだ。育児に追われ二人の時間がなくなり、以前のように甘い時間もデートもセックスも思いやりもなくしかけた頃、前みたいに二人でデートをしたいと思ったのではないだろうか。

預けられる場所もなく、ちょっとだけなら平気だと、いつも夜から朝までぐっすり寝ているから、その間なら大丈夫だろうと、数時間だけと思って出かけたのかもしれない。不安だったかもしれない。心配で気が気ではなく、予定より早く帰ったかもしれない。でも赤ん坊はベッドの中で一人苦しみ、一人で死んでいた。もがき苦しんだ様子を思わせる乱れた布団を見て、まだ温もりの残る。あるいは冷たくなっている赤ん坊を抱き上げて、彼らは何を思っただろう。私は彼等を責める事が出来ない。

もし浩太が、「たまには、二人で出かけたいな」と言ったら、私は自分がどんな行動に出るか想像もつかない。

 買い物をして帰ろうと思ったけれど、一弥がぐずっていたためそのまま帰宅した。私も、早く胸を吸ってもらいたかった。見ると、さっきより赤みが増し、触れると中に岩でも入っているかのようにがちがちになっている。家に帰った途端悪寒が走り、がたがたと体が震えはじめたのは、急激な発熱のせいだろう。私は、頭が朦朧としてずきずきと痛んでいくのを感じながら、体温計を手に取り一弥を抱き上げ左の乳房を吸わせた。コクコクと飲み始めた一弥の脇の下に体温計を挟む。

まだ治りかけの傷としこりが、一弥の口の動きと共に痛みだした。ピピッという音を確認して抜くと、37.5℃と出ていた。38℃までは預かれることになっているのにという苛立ちを感じながら、ぞわぞわと立っていく鳥肌を撫で、今度は自分の脇の下に体温計を挟んだ。すぐにピピッと鳴った体温計には38.1℃と出ている。発熱した一弥を迎えに行ったのに、私の方が発熱してる、という理不尽な状況ら顔を引きつらせたまま体温計をケースに戻した。

んーっ、顔を顰めた一弥を見てぎょっとすると同時に、胸に熱した油を掛けられたような痛みが走った。ぎゃっと声を上げ一弥を勢いよく引き離す。叩きつけるようにして一弥をソファに置くと、痛いでしょッ! と大声で怒鳴りつけ一弥の脇をばすんと平手で叩いた。ソファが沈み込み、それと一緒に一弥がぐらりと揺れる。
一弥は身悶えするように泣き声を上げ、嗚咽を漏らしている。私は、自分がじんわりとした快感に身を委ねているのに気がついた。

「痛いでしょっ!」
 自分でも発狂しそうになるほど大きな声で一弥の顔面から五センチの所まで顔を近づけ怒鳴りつける。
「嚙むなっ!」
 パンパンと一弥の両脇を叩きつける。
「分かったかー!」
 怒鳴りつけ、叩きつける。ソファの上で揺れながら、一弥はわんわんと声を上げ涙を流すだけだった。分かりました、すいませんでした。もう嚙みませんと、一弥が言う訳はないのだ。分かっているのに、私は満足いく反応を見せない部下を上司が怒鳴りつけているように、怒りを募らせ声を高くしていく。

一弥がソファに顔を押し付けようとするのを見て、私は一弥の両腕を掴んで投げるようにカーペットに降ろした。替えたばかりのソファカバーを鼻水で汚されるのが嫌だった。ティッシュで鼻水を拭うと、私は一弥を抱き上げ寝室のベッドの壁側に寝かせ、ダイニングに戻ってソファにごろっと横になった。

一弥は泣き続けている。今私がこの家を出て行きそのまま数時間も放置したら、一弥はベッドで窒息するだろうか。恐る恐る胸を覗き込むと、乳首が何か変形しているように見える。上下から乳輪のきわ付近を嚙まれ、ロケット形のような、先の尖ったような形になっている。不味かった腹いせか、それとも単なるぐずりか分からないけれど、一弥への怒りは収まらない。

もう何が何でも断乳だと意志を固めた私は、とにかくこの乳腺炎を治さなければと、内から外からひりひりと痛む左胸を見つめて舌打ちした。産院の母乳外来に行くか、それとも専門でやっている桶谷式に行くか、携帯で施術料金を調べていると、寝室の方から聞こえてくる鳴き声が一瞬止まった。ちらりと寝室の方を見やる。

またすぐ始まった泣き声の嵐を無視して、私は携帯を操作し続けた、しばらくすると、一弥の泣き声に混じってドアを叩くような音がして、顔を上げた。閉まりきっていない寝室のドアが揺れていた。一弥は、今初めて、自分でベッドから降りたのだ。私はそう気づくや否や、ぐっと熱が上がったような気がして身を屈めた。私の逃げ場所は、日に日に狭くなっている。あと二ヶ月やそこらで、一弥は歩き出し、やがては自分でドアの開け閉めが出来るようになり、私の逃げ場所はなくなるのだ。

逃げるためには、それこそ一弥をどこかに捨てるか、この家に放置して出て行くか。この間ユカがやったようにドリーズに預けたきりで蒸発するしかないのだ。首が据わった記念、寝返りした記念、お座りが出来た記念、初めて自分でソファに上がった記念、とそれぞれ写真を撮ったりビデオを撮ったりして一弥の成長を祝ってきたのに、一弥が一人でベッドから降りられたようになった事を、私は全く喜べなかった。

一弥はドアの隙間からダイニングに出て、私を見付けると僅かに泣き声を落とした。どきどきした。自分が一弥に何か危害を加えてしまうのではないかという恐怖と、一弥をめためたに殴りつけてやりたいという衝動に引き裂かれるようにして、私は凍り付いたままソファによじ登ろうとする一弥を黙って見ていた。このままでは駄目だと思った、距離を取らなきゃと思った。苛立ちと興奮を押し隠すように平静を装うって立ち上がると、キッチンに向かった。

自分が虐待をしてしまうかもしれないと思った時は、一杯の水を飲むと良いと、どこかに書いてあった。人の怒りは持続しないため、少し時間を取って冷静になればキレなくて済むというのだ。私はポカリスェットをコップに注いで一気に飲み干した。私が居なくなった事に再び怒り、泣きながらこっちに向かってくる一弥を一瞥し、流しの上の棚を開け甘い物を探した。チョコレートの大袋を見つけ、乳腺炎には甘いもの脂っぽいものが一番よくないと知りながら誘惑には勝てず、一つ手にとって個包装を破ると口に入れた。一口サイズのチョコが舌を刺激し始めると、少しずつ気分が落ち着いて行くような気がした。

煙草もお酒も飲めず友達と飲みに行ったりカラオケに行ったりできない私にとって、チョコは唯一のストレス発散法と言っても良いかもしれない。振り返ると、一弥は私の手にしているチョコの袋に眼を止め、あっあっあっ! と激しく手を振っていた。最近、大人の食べている物を何でも食べたがる。無視して口の中に残ったチョコを注ぎ足したポカリで流し込む。

二つ目を食べながら、更に高くなっていく声に耐えきれず、食べている間だけでも泣かないでいてくれるならという気持ちになって、一つ取り出すと一センチ角ほどの大きさに割り、一弥の口に放り込んだ。これまて、一口もジャンクフードを与えて来なかったという自分の意地が崩れていくのを感じたけれど、次の瞬間にそんな事どうでも良くなった。

涙を止め、初めてのチョコの味に驚き酔いしれるような表情で味わっている一弥見ながら、私は少しだけ心が和むのを感じた。チョコの袋を持ったままダイニングのソファに座り、ぽりぽりと三個目のチョコを嚙み砕いていると、ハイハイで追って来た一弥がもっともっとねだるように私の膝につかまり立ちをして手を伸ばす。

「もうお終い。これは大人の食べ物」
 一弥は私がチョコをくれる気がないのを悟り、狂ったように泣き喚いた。頭を振り体をばたつかせ、激しく抗議している。自分の目がつり上がっていくのが分かった。激しい眼光で泣き喚く一弥を睨みつける。ごろごろとカーペットに体を押し付けるようにして泣く一弥を見ていると、何と卑しい子だ、という嫌悪感が体中を駆け巡る。

ムカムカして、私は足のつま先で一弥の脇腹をつついた。もういいよと一言呟くと、私はチョコの個包装を開け、また小さくした一欠片を指先でつまんで一弥に見せた。その途端泣き止んだ一弥は親鳥から餌を貰う小鳥のように口でチョコを追うようにしてぱくんと口に入れた。ぐずぐずしゃくりあげながら、一弥は口をもごもごと動かし、美味しいのか自分の両頬をぺちぺちと叩いた。

「それでお終いだからね」
 吐き捨てると、わたしはまたチョコを頬張った。胸が痛い。今日は乳腺炎になったのも、実家で食べたショートケーキが原因かもしれないのに、今チョコレートを食べたら悪化するだけだ、分かっているのに手が止まらない自分が、狂ったようにチョコを求める一弥と重なって、もう止めようと袋の口をくるくる丸めた。

「あっあっあっあーー」
 一弥はまたソファでつかまり立ちすると袋に向かって手を伸ばした。
「もうお終いって言ったでしょ」
 言いながら、ウェットティッシュで一弥の汚れた口を拭いた。
「お昼寝しようか」
 注意を逸らそうと、キッチンのマグマグを指差して「お茶飲んで寝んねしよう」と言うと。一弥はもう貰えないと理解したのか全身で絶望を表現している。泣き声を無視して、私は一弥に背を向けて麦茶作りを始めた。一弥が泣き始めると、空間が歪む。断末魔の叫びのような声で部屋中の空気がぎたぎたに切り裂かれ、目の前の映像がぐらっとぶれ、足元が不安定になり、次第に気持ちが不安になり、次に恐ろしくなり、遂に私は凶暴になる。うるさいって言っているでしょ! 怒鳴りつけると、ソファでつかまり立ちしていた一弥を片手ではたいた。強い力は入れた訳ではなかったけれど、まだつかまり立ちしか出来ない一弥は派手に倒れた。

「食べたいんだったらいくらでも食べればいいっ」
 チョコの袋を鷲づかみにすると、私は個包装を破りチョコを砕かずそのまま一弥の口に押し込んだ。手元が怒りと恐怖に震えている。がしっと大袋に手を入れると、大量にチョコを取り出し再び個包装を破く、食え食え食え食え。言いながら私は次々に袋を裂きチョコを取り出し一弥の口に詰め込んでいく。身をよじって逃げようとする一弥に馬乗りになって、嗚咽してチョコを吐き出そうとする一弥の口を手で押さえつける。押さえつけている右手の、薬指の爪が割れているのに気づいて、体中が麻痺していくのが分かった。

左手でチョコを掴むと、私は包装を開けずにそのまま二つか三つ一弥の口に押込み、吐き出そうとする一弥の口を再び右手で押さえつけた。んーんーと苦し気に顔を歪め、真っ赤にしている一弥を見て私は確かに「殺してしまう」と思った。感情に支配されて体が思うように動かないなんて事は有り得ない。体が勝手に動いてしまったなんて事は有り得ない。

私は私の意志で、感情的でありながら冷静に、一弥を窒息死させようとしているのだ。私は涙を流しながらチョコで一杯になった一弥の口を押さえつけ、顔を真っ赤にしてもがき苦しむ一弥を見つめ、どこか恍惚としている。きっと私は、ずっとこうしたかった。私を抑圧し苦しめ私の居場所と尊厳を奪うこの赤ん坊が、ずっと憎くて仕方なかったんだ。

「大っ嫌いだ!」
 大声で言うとほっとした。
「一弥なんか大っ嫌いだ!」
 大声で唾を飛ばしながら体内に巣くう憎しみを吐き出すように言うと、私は弾かれたように一弥から退いた。手にはチョコと一弥の涎が交じり合った茶色い液体がねっとりついている。一弥は動いている。死んでない。口の周りを真っ茶にして呻き声を上げている。排水口が詰まるような音がして、すぐにごぼっと音をたてて一弥はチョコを吐き出した。

嘔吐き始めると止まらなくなったのか、ごぼごぼとどんどんチョコを吐き出していく。仰向けの一弥の顔を伝わってチョコが一弥のシャツを濡らし、首筋を濡らし、髪の毛を濡らし、祖母からもらったアイボリーのカーペットを汚した。苦しいのか一弥は横を向き、咳込むようにして唾とチョコの混じった液体を吐いていく。胃の中の物まで吐き出しているのかもしれない。

私はその様子を見つめながら、一度ぱんと破裂したようにして座り込むと、一弥のズボンとオムツを引っぺがすように引き下ろす。途中で何度も引っ掛かり、私は人差し指の爪が折れた事にも気づく。一弥か下半身裸になると、自分の怒りを全てそこに籠めるようにして右手を振り上げてお尻に叩きつけた。ぱんと音がして、一弥はびくりと飛び上がり嗚咽混じりの悲鳴を上げた。

「バカっ!」
「死んじゃえ」
 言った言葉に、自分が傷ついていた。私は一弥の死を願っている。ぼろぼろと涙が流れた。言ってしまったと思った。とうとう言ってしまったのだと思った。
「一弥なんか死ねっ。一弥なんか死んじゃえ!」

 慟哭(どうこく)しながら一弥のお尻を叩き続ける。一弥は次第に声を上げなくなり、びくびくと震えるだけになった。膝頭に温かい感触が走り、見ると一弥がおしっこ漏らしていた。お尻は真っ赤に腫れ上がり、睾丸の裏まで赤く腫れていた。膝から下をびしょびしょにして、私は立ち上がった。立ち上がったその勢いのまま一弥の腹を蹴りつける。空気の抜けたサッカーボールのような感触が足に走る。

一弥も空気の抜けたサッカーボールのように、どさっと音をたてて転がった。何度も何度も蹴りつける。一弥が死ぬ。そう思いながら蹴り続けていた。私は一弥が死んでもいいと思っている。そう思うと、生まれて初めて感じる悲しみが襲った。悲しかった。私は我が子が死んでもいいと思い、殺そうとしている。その事実が、私に一弥の死ほどの悲しみを与えた。

大声で泣き喚きながら一弥を蹴る私は、もう泣きも動きもせず痙攣している一弥の、今にも永遠に閉じてしまいそうな虚ろな目にどう映っているのだろう。それが一弥の見た最後の風景だとしたら、あまりにも可哀想ではないか。そう思いついた瞬間、私は足を止め。立ち尽くしたまま左右の袖でごしごしと涙を拭った。悲しくて悲しくて仕方なかった。でも誰も私の悲しみを認めないだろう。

私の悲しみは、誰にも認められない私はその場に崩れ落ちるとカーペットに顔を押し付けるようにして泣き喚いた。一弥の足が私の腕に当たった。一弥は動いていた。一弥は死なないかもしれない。そう思うと、胸の中に「一弥が死なないのなら今度こそ優しい母親になろう」という気持ちと「駄目だ私は絶対にまた一弥を虐待してしまう」という思いが渦巻く。

引き裂かれそうだった。このまま一弥と一緒にいたら、私も一弥も破滅だ。こんなに愛しているのに、私たちは一緒にいたら破滅する。涙と鼻水と涎とチョコで顔をぐちゃぐちゃにした一弥が、目だけで私を見つめた。びくびくと体をよじっている。痛いのだろう。チョコの甘い匂いを口からぜいぜいと吐き出しながら、疑問符に溢れた瞳で私を見つめている一弥に覆い被さると強く抱きしめた。一弥を私の肌で包みたいと思った。

私の体温で一弥を温めたいと思った。一弥がお腹の中にいた時のように、一弥と一体化したかった。一弥と溶け合いたかった。自分が何故こんなにも矛盾に満ちた気持ちになるのか分からない。混乱していた。一弥が愛おしいのに、一弥の顔を見ていると、私は狂ってしまう。

一弥はそのまま、ダイニングで息を引き取るかのように静かに眠りについた。一時間ほどして起き出した一弥の汚れた服を脱がせると、背中や腕や足に痣が出来ていた。おでこから髪に隠れた頭皮にかけても、どこかにぶつけたかのように赤い痣が出来ている。ぐずぐすと泣きながら口の中を引っ搔くような仕草を見せたため、お茶を飲ませてから覗いて見ると、口の中も二箇所ほど切っていた。お風呂に入れて身体中を綺麗に洗い、オムツを穿かせ押入れの中から引っ張り出した服に着せた。貰い物の一歳児サイズの服で少し大きかったけれど、新しい服を着せた一弥を見ていると何か一新されたような気がした。

一弥は先ほどの惨劇を覚えているのかいないのか、時折痛みに顔を歪めて泣き喚くものの、私を怖がる様子もなく何度も抱っこをせがんだ。カーペットはバスルームで部分洗いをした。お湯で流し、中性洗剤で擦ると、チョコの染みは思ったよりも綺麗に取れた。

 浩太は珍しく八時前に帰宅して、私たちは三人でご飯を食べた。浩太はどことなく、機嫌が良いように見えた。実家に行ったこと、両親が離婚するという事、乳腺炎になってしまった事、勢いよく世間話をしながら、私は浮遊感に囚われていた。熱のせいも知れないけど、今目の前にあるものが現実とは思えなかった。

私と一弥はあの時カーペットの上で死に、今見ているこの現実らしきものは、天国で一弥が見ている夢ではないだろうか。浩太の話す部長の失敗談に笑い声を上げる。一弥はステイに落ちたご飯をスプーンで掬ってテーブルに広げている。今この瞬間、私たちは幸せな家族だった。写真の中にいるような、素敵な三人家族だった明らかに、何かが可笑しかった。

「一弥、風呂入れようか?」
 食事を終えた浩太が、テレビを見ながらそう提案した瞬間、私は喜びに顔をほころばせそうになってから、慌てて「いい」と言った。
「私たち夕方に入っちゃったの。一弥まだ微熱あるし、私も乳腺炎だから、さっと出ちゃうおうと思って」
「そうなんだ」
 ありがとうね、今度入れてね、と微笑みながら、いつになったらあの痣がすべて消えるだろうと、私は一弥の服の下に隠れた青痣や赤味を帯びた腫れを思う。保育園も、しばらく行かせない方がいいかも知れない。そう思いつつ、保育園に預けなければまた一弥を蹴り、殴り、今度こそ殺してしまうのではないかと思う。

でも預けなければ児童相談所に通報されるかもしれない。でもと、私は自分の中に明るい気持ちを見つける。私はもう二度と一弥を虐待しない気がした。私が一弥を虐待する事など、あり得ないような気がした。この素敵な三人家族の中で、虐待という惨劇また起こるとは。もう思えなかった。

 珍しく三人一緒にベッドに入り、二人が先に眠ってしまうと、しばらく暗闇の中で天井を見つめ、頭上の時計が十二時過ぎを示しているのに気がついた頃、ベッドを抜け出し。お風呂場で胸を絞り、固い部分が小さくなっているのを確認する。黄色い母乳を飛ばす乳腺の、僅かに白っぽいものを浮かび上がらせている。これが詰まりだとしたら、後もう少しで開通するだろう。体温計で熱を測ると、37.7℃まで下がっていた。夜泣きの時、あるいは明日の朝の授乳で、もう詰まりは取れるかも知れない。

 ブラジャーの中にアイスノンを挟むと、ジャケットを羽織って財布と携帯と鍵だけをポケットに入れて家を出た。久しぶりに、深夜のコンビニに出かけるつもりだった。少ないながらも、表にはまだ人通りがあった。まだ現実が現実には見えない。私は何か、指針を見失ってしまったようだ。コンビニの前で立ち止ると、携帯を取り出しだ。少し迷った挙句、土岐田ユカという名前を表示させ、通話ボタンを押す。二度三度、と呼び出し音が鳴り、もう寝ているよなと言い訳のように考えながら切るのボタンを押しかけた時、もしもしという声がした。

「あ、もしもし」
「珍しいね涼子から電話なんて」
「うん。あのさ」
「うん?」
 自分が何を言おうとしていたのか、そもそも何を言うつもりがあったのか、分からなくなって言葉が続かず、携帯を握る手の力が弱くなった瞬間「かずちゃんは?」とユカの声がした。そうか私の虐待を明らかにではなくとも可能性として認知している人がここにいるのだと思った瞬間、涙が溢れ喉が詰まった。嗚咽が零れる。私は、自分が一弥と隔離され、その隔離された場所で私の虐待は行われていると思っていた。でもそれを知っている人が、中山涼子が今どこかで虐待しているかも知れないと思っている人がこの世にいるのだという事実に、救われたような気持ちになった。

「かずちゃんは大丈夫?」
「大丈夫」
 絞り出すようにそう言うと、私はまた声を漏らしながら泣いていた。大丈夫じゃない。一弥は母親の手で口にチョコを詰められ窒息死させられそうになった挙句尻を叩かれ蹴り上げられた。彼はまだ、自分の置かれた状況を理解していないだろう。恐怖や痛みという形でしか、今日の事件を感じ取っていないだろう。

私がこれから数年間虐待をせず育児を続ければ彼は今日の虐待の事を忘れるだろう。でも私は壊してはならないものを壊してしまった。それはもう元には戻らないのだ。私のせいで、今日一弥は、一生「虐待された人」であり続ける事になったのだ。自覚がなかろうが、周りに認知されなかろうが、その事実は永遠に変わらない。

「今、外なんだよね。行こうか?」
 電話耳に押し当てたまま、首を振る大丈夫、と呟くと、大きなため息が電話越しに聞こえた。ユカは今、何をしているのだろう。
「こんな事って?」
「結婚も子どもも、全部望んでした事だったのに、全然幸せじゃない。結婚なんてしなきゃ良かった。子どもなんて産まなきゃ良かった」

 言いながら、私は今の自分の気持ちを一ミリもユカに伝えられていないというもどかしい思いに駆られた。そもそも私は、子どもを虐待する自分自身を受け止めきれていないのだろう。だから、そんな私が虐待する自分自身について何か語ろうとしても、それが上手く形にならないのは当然の事なのかもしれない。
「私たちは社会的弱者と生活を共にしている」

 嫌悪感が立ち上がる。私はユカがこうして語り始めると、嫌気がさして馬鹿馬鹿しくなって、はいはいと笑って流したくなる。
「例えば涼子が今、一弥を捨ててもいいですよ、戸籍も抹消します誰もあなたの事を責めません罪にも問いません、という特権を与えられたとしたら、涼子は一弥を捨てる?」
「捨てない。そんな事出来ない」
「じゃあもし、捨て子が日常的に行われ、罪に問われない国に生きているとしたら?」
「捨てないよ。捨てられない」
「涼子は捨てるよ」
「捨てないよ。私には一弥が必要なんだよ」
「私たちは常に、これが人間本来の形である、という画一的な価値観を押し付けられ、強要されている。その型からはみ出せばはみ出すほど、人は排除され叩かれる。涼子は今、その価値観からはみ出し、非人道的とされている感情を抱いてしまう自分自身に戸惑い、そういう自分を責めている。

でも涼子の行為も感情も、自然なものだと私は思う。自然だから虐待してもいいとは言わないよ。涼子はそういう自分を否定するのでもなく肯定するものでもなく、社会的な倫理と自分自身の倫理の狭間で、両方の正当性を公平に吟味して、その中で自分がどういう立場に立つべきかもっと考えるべきだよ。涼子はまだ何も絶望する段には至っていない」

「私は、こんな自分でいたくない。弱者に暴力を振るっちゃいけないと思ってる。でも抑えられない」
「抑えられないなんて噓だよ。涼子は自分が虐待をしたくてしているという事を認める方がいい」さっき一弥を虐待していた時の恍惚と快感を思い出し、体が震えた。
「私たちは弱者と向き合う時、常に暴力の衝動に震えている。私たちは常に、弱者に対する暴力への衝動がある。でも暴力の衝動に身を任せて弱者を叩きのめしても、人は大概満たされない。

例えば涼子が一弥を殺したとしよう。涼子は不幸だよ。このまま虐待しながら一弥の育児を続けていく、それもまた不幸だ。虐待をせず虐待への衝動に打ち震えながら笑顔で育児を続けていく。それもまた不幸だ。じゃあ涼子が幸せになる道はどこにあると思う?」

「全てを捨てて、逃げ出す?」
「それで涼子は幸せになれる?」
「なれない」
「幸せの形は絶えず変化していくものだよ。これが幸せだと、何者かに押し付けられた虚像を拒絶して、一から自分でそれを構築していく事はそれほど難しい事ではない筈だよ」

 分かっていた。ユカに悩みを打ち明けたところで、何の解決にもならない。ユカと私の価値観を擦り合わせて何か結論が得られるなどとは、もちろん思っていなかった。確かに私は、ユカと話しても何の解決も、結論も出せなかった。でも私は心の中でユカを羨みつつ小馬鹿にして、僅かに苦笑していた。ユカは、私の陥っている状況をAと仮定して、その仮定を立証するために私を使っている。

彼女の中で、私はAというゲームの登場人物で、ユカはそのAの世界観からはみ出した私に関しては無頓着で否定的だ。ユカにとって重要なのはAというゲームであって私ではない。彼女は私を身代わりにしてAというゲームを楽しんでいるだけだ。きっとユカは、私だけでなく自分の周りにいる全ての人たちの不幸をゲームにし、食い物にしているのだろう。

輪ちゃんや、旦那さんの事も、身代わりにして利用しているのだろう。でも私は、誰かにレッテルを貼ってもらいたかったのかもしれない。ユカの断定的な台詞を聞けば聞くほど、私は気が楽になっていった。
「ありがとう」
 私はそう呟いた。ユカはまだ何か言い足りない様子ではあったけれど、とにかく何かあればまた電話してと言って、電話を切った。私はしゃがみ込んでいた体を起こすと、座り込んでいた駐車場の車止めから腰を上げ、コンビニに入っていった。

 しんとしたダイニングに、あー、あっ、うー、と時折一弥の声が響く。赤ちゃん用の椅子に腰かけ、スタイを首に巻きプラスチックのスプーンを不器用に動かして離乳食を頬張る一弥に背を向けたまま、私は冷え切った足を左手でさすりながら、右手で連絡帳に記入していた。ここに引っ越しして来た時から実家から貰った小花柄のカーテンは、遮光でない為外の明るい日差しを部屋に通している。

晴れても温度が上がらない季節になったのかと、ボールペンを走らせながら思った。「昨日、自宅の階段で転んでしまい、体とおでこに痣が出来てしまいました。病院でレントゲンを撮って検査をし、問題なしと言われました、何か変わったことがありましたらいつでもご連絡をください」連絡帳項の欄にそう嘘を書くと、私はノートをバッグに入れた。何やら要求する素振りを見せる一弥に、はいはいと言ってマグマグを引き寄せる。ストローを咥え、んっ、むんっ、むと喉を鳴らしてお茶を飲む一弥は、健康優良児に見える。中耳炎も、今の所小康状態を保っているようだ。離乳食もよく食べ、今朝は珍しく泣かずに起きた。

 スリングに一弥を入れると、よっこいしょ、と無意識的に声を上げて立ち上がり、私は家を出た。電車に乗り込むと、いつもより少し時間が遅いせいか、車内はそれほど混み合っておらず、私は誰にも触れる事なくドアの前に立った。

 駅から保育園までの五分ほどの道のりを歩きながら、寒いね、すごく寒いね、と風に体をすぼめながら一弥に同意を求める。あー。あっあっ。と、一弥は返事するようにそう言った。
「今日は、一弥の好きな山崎先生はいるのかな?」
 あーっ。一弥は両手を伸ばして私の胸に触った。昨日の夜中、夜泣きをした一弥に飲んでもらっている際に乳管は開通したようで、今朝は熱も下がっていた。
「涼ちゃーん」
 顔を上げると、向こうからユカが歩いてくるのが見えた。輪ちゃんを乗せたベビーカーを押して手を振っている。おはよ、と声を上げたけれど、張りのないその声が届いたかどうか分からなかった。マックスマーラだろうか、キャメルのロングコートを羽織り、その下に幾何学模様のワンピースを覗かせて大ぶりのサングラスをかけたユカは、近づいてくるともう一度「おはよう」と言った。おはよう輪ちゃん、とベビーカーに向かって声を掛けると、輪ちゃんは「おはよう」と私に元気よく挨拶してから、スリングから輪ちゃんを見下ろす一弥に手を振った。

「かずちゃんおはよー。久しぶりー」
 言いながらユカはサングラスをずらし、ん? と眉を下げた。
「どうしたのこれ?」
 ユカの指先は、一弥のおでこに向いていた、なに? と一度惚けて見せてから、ああと頷いた。昨日あんな電話をした私に対して、敢えておでこの痣を指摘するユカに、本当の事は言えなかった。ユカが何を考えているのか分からず、不気味だった。
「階段で転んじゃったの。うち、エレベーターないから、三階なのにいつも階段で上がり降りしてて歩きたがるからスリングから降ろしたんだけど、ちょっと目を離したすきにころんじゃって」
「そうなんだ。一歳くらいの頃って、一日一回 は怪我するよね」
 気を付けるんだよー。と言って、ユカは一弥の頬を撫でた。一弥はきゃっきゃっと声を上げてにこにこと笑いかけている。

「あ、いけない。私今日取材でも急いでいるんだった」
 ユカはそう言うと、「おさきー」と手を振って保育園へ続く坂道を上がっていった。ベビーカーからちょこんと顔を出して振り返る輪ちゃんは、にこりともしないで、私の腕の中の一弥を見ているようだった。かっかっかと十センチ以上ありそうなヒールで走るユカを見つめながら、私は自分の足が動かない事に気がついた。坂の下に立ち尽くしたまま、固まってしまった足を訝しげに見下ろす。ユカは、これから保育園に行き輪ちゃんを預けた後、園長先生か副園長に、私が虐待していることを話すような気がした。

私はユカに一弥を取り上げられるような気がした。ユカに陥れられ、二人の男に輪姦された日の事を思い出す。あの日も肌寒い朝だった。私は一人公園で目覚め、自分の股間が乾いた精液と土で汚れている事に気づいたのだ。「大嫌いだ!」私はその場でそう大声を上げてしまいそうになる。足元から何匹もの虫が顔に向かって這い上がってくるようなおぞましい思いがして、私は両手で一弥を抱きしめた。気づくと私は、踵を返しきた道を再び歩み始めていた。

 帰りの電車は空いていた。優先席の端に腰かけた時初めて、自分が激しく興奮している事に気がついた。どきんどきんという鼓動が、一弥までをも規則的に揺らしている。一弥を抱く腕が、僅かたりとも緩められない。

 帰宅して鍵を掛け、スリングから一弥を降ろすと、冷蔵庫からポカリスェットを取り出してペットボトルから一気に飲んだ。ペットボトルの口を離し、はあっと大きく息を吐くと、ぜいぜいと肩で息をした。シンク下の棚に手を掛け摑まり立ちしている一弥が、私の様子を見つめたまま突然うわーんと声を上げて泣き始めた。昨日のあの惨劇を思い出したのかもしれない。

台所に立つ私を見て、チョコを欲しがって窒息死させられそうになったときの事を思い出してしまったのかもしれない、止めてくれ止めてくれと祈りながら、私は一弥がぽろぽろと涙を流し、限界まで息を吸い込んだ後に「ぎゃーっ」と叫ぶ声を上げる様子を見つめていた。目を見開き、私はずきずきと激しい痛む胸を押さえたまま、寝室に駆け込みドアを閉めた。一弥の鳴き声がどんどん高くなっていく。

ドアの前に呆然と立ち尽くしたまま、私はドアが叩かれる音に震え、激しくなきじゃくった。ばんばん、という音と、一弥の叫び声がぐるぐると螺旋状に絡み合って、脳天からぐるぐるとぶち込まれているようだった。止めてっ、と叫び声を上げる。止めてっ、叫びながら、私はドアを叩き返した。ドアの向こうの一弥はその音に驚いたのか、更に激しく声を上げる。私はベットに潜り込み布団を被った。分厚い羽毛布団を突き抜けて鼓膜を刺激する一弥の叫びと鳴き声が、私の理性をどんどん奪っていく。

 十分も経つだろうか、ドアの外にはまだドアを叩き喉を嗄らしても尚も泣き喚いている一弥がいる。私はベッドから出ると、箪笥の上の小物入れを開いた。「虐待を防ぐために」と書かれたリーフレットには、いくつも小さな皺が走っている。ポケットから携帯を取り出し、開くとかちんと小さな音がした。児童相談所という文字の下にある電話番号の、一つ目の数字「0」のボタンを指に乗せる。永遠に、私はその0を押せるような気がしなかった。

一弥との別離を指すその「0」を自分の力で押すことは不可能だと思った。泣き、怒り、疲れ、ぐったりし、また泣き、怒り、疲れ果てた一弥が、それでも力を振り絞って泣き声を上げ、ドアの外で私を求めている。ドアを開けくれと、自分の前に姿を見せてくれと、抱き上げてくれと、私を求めて声を張り上げている。ドアの外の一弥と一緒に、私も力を振り絞る。一生懸命、救いを求めて、力を振り絞る。木の棒のように固くなった親指がぎこちなく動き、0を押した。液晶に0が浮き上がったと同時に体中を襲った安堵と絶望が膝を折り、私を躓かせた。
つづく 十一章 五月
キーワード セックスを楽しむ、自分の体は自分で守らなければならない、心を通わせない夫婦生活、離婚の決意、不倫