産後、胸を触られるのが嫌になったり、セックスに積極的でなくなるというのは、よくある話だという。授乳中の胸を触られるのは、苦痛しかない。産後一ヶ月の検診で、避妊は必要ですがもうセックスはしてもいいですよ、と医者に言われた時、まるでセクハラをされたかのような嫌悪感に包まれ、私は言葉を失った。

本表紙金原 ひとみ著

一章 マザーズ ユカ編 五月編 涼子編

広告 既存の避妊法嫌い、快感をこよなく愛するセックス好きのゴム嫌い外だし。ではなく膣内射精できる特許取得「ソフトノーブル避妊具、ノーブルウッシング(膣内温水洗浄器)」を用い、究極の快感と既存の避妊法に劣らない避妊ができる」
バラユカ
 体育座りを始めて、どのくらい経つだろう。丸まった形でくるくる回されローストされていく、首から上を切断された鶏が頭に浮かぶ。石膏で型取りされているかのように全身が固まっていて、どこかを動させばぎしぎしと音がしそうだった。頭の先から足の先まで筋肉を僅かな動きさえも拒否していて、嚙みしめる奥歯もまた、僅かたりも動かない。

不意に胸元に強烈な光が灯り、一瞬の後、それは驚異的なスピードで私の全身を駆け巡り始めた。光の駆け巡る道筋にじわっと快感が染みていく。ナメクジの通った道がきらきらときらめくように、光の通ったみちはキラキラピンク色に光り、ひりつくような快感をもたらしている。ピンクの蛍光塗料が溶かされた媚薬入りローション。光は体中にそういうものをまだらに塗りたくり、最後は呆気なく右耳の辺りで消えた。残ったのはぬらぬらと仄かに光る、下品な色だけだ。私はこのフロアーの隅っこで体育座りをして顔を膝に埋め、まだらに発情している傾向ピンクの蛍光体だ。

「ユカさん」
 僅かに顔を上げて視線を巡らせ、ジントニックのタンブラーを持ったオギちゃんの姿を見つけた。
「いかない?」
 オギちゃんブースの方を指さして聞いた。彼の人差し指の向こうでストロボライトが激しく点滅して、人差し指の先端が光っているように見え、その既視感に頬が緩む。
「オギちゃん」
「うん」
「手繋いで」
 アクセントを間違えて発せられた声を、オギちゃんは大音量の鳴り響く中でも理解してくれたようで、ソファに腰かけると私の左手を左手で握り、どうしたのと言いながら右手で私の肩の辺りをさすった。私が寒気を感じているのが、彼にはわかったようだった。私はもう大分長い事、メンソレータム地獄だかムヒ地獄だかに放り込まれたように、全身をひりひりさせていた。

「あれだよね。ユカさんていつもそうだよね」
 私の手は彼の爪に食い込ませていて、根本が剝げかけているジェルのスカルプが取れてしまうんじゃないかと思いながら、力を緩められなかった。手を繋いでいる時間が長くなればなるほど、彼の手に対する執着心が芽生えていく。

オギちゃんの手がなくなったら死んでしまうかもしれないと思った。でもそんなはずはない。私は彼の手がなくなったところで別に死にもしなければ悲しみもしないし、むしろ手がなくなったらそのなくなった状況に執着心を芽生えさせるはずだ。そもそも彼が声を掛けてきた瞬間、私はひどく疎ましい気持ちになったのだ。

「いつも最初さ、そうやって丸くなるよね」
 私はいつも絶望してるんだ。丸くなってローストされながら絶望して、絶望し尽くして初めて希望を持てるんだ。絶望が私の一番の起爆剤であって、生きていく糧でもあるんだ。そう伝えたかったけれど、ぎりぎりする奥歯でうまく伝えられるか分からなかった。それに今自分が、他人に自分の気持ちや考えを口にするのは良くないような気がした。

そこには誤解が生まれ、人を疎外し、疎外される結果に結びつくように思えた。突然自分の周辺がヨーロッパ風の洗面台となり、私の顔が蛇口となり、見知らぬ男が私の頭に生えた取手をくるりと捻り、私の口から数時間前に食べたパスタが吐き出されていく映像が浮かんだ。半固形のゲロが男の手に落ち、男の顔を濡らす。顔を上げ、鏡に顔を映す男の顔面には私の吐いたパスタがへばりついていて、まるでミミズを顔に蔓延らせているように見える。

よく見ればそれは本物のミミズかもしれない。私はミミズを食べていたのかもしれない。夜九時過ぎ、私はイタリアンレストランでオギちゃんとジントニックを片手にボロネーゼのパスタを食べていたはずだったけれど、本当は小学校の鶏の飼育小屋周辺で土を掘り返し石をひっくり返し、ミミズをわんさか捕獲して食っていたかもしれない。

「あ、ミカが来たよ。行かない?」
「いい」
 じゃあ、すぐに戻るね、と続けてオギちゃんが私の肩と手から両手を離し、私がまたただの虚しいローストチキンに戻ってしばらくすると、少し離れた所から微かにミカとオギちゃんの声が聞こえた。ミカとオギちゃんの声が、ゆっくりと速度を増し始めた音楽に紛れて、次第に判別不能になった。少しずつ奥歯の力を抜いた。自分は場違いだ。私は、自分がここにいる事にいつも違和感を覚える。

ふっと腰を浮かせると、ショートパンツのポケットから携帯を引っ張り出した。時間が気になった。駆り立てられるようにして眼前に持って来ると、両足の間でサイドボタンを押す。00:36という時間が目に入り、ほっとして息を吐いた。でも十二時半という事は、一時間以上ここに体育座りしている事になる。今日は何故か、なかなか絶望し尽くさない。

「ユカ」
 顔を上げるミカがいた。私は彼に名前を伸ばして呼ばれるたび、自分の名前と彼の名前が似ている事に嫌悪感を抱く。白人と黄色人のハーフなのに、何故か褐色の肌をした彼は、その濃い肌色を歪め微笑みを浮かべた。でもそのはっとするような美しい顔立ちをした彼の表情に態度に仕草に造作一つ一つに根付く、払拭しようのないおぞましさが何なのか未だに全く分からない。私はいつも、彼が目の前に現れるたび、温い恐怖と共に彼が去って行くのを待つしかなかった。

恐ろしい故か、狂気がどんどん薄れていく。初めてオギちゃんが面白いんだよこいつ、と彼を紹介してきた時の驚きと恐怖が、会うたびに思い起こされる。○○フィリアとか、○○マニア、とぃつた既成の変態性ではなく、もっと得体の知れない、未来的な変態性をミカには感じる。ミカはSFを感じる。ミカには宇宙を感じる。きっとこの人は、私の知らない事をたくさん知っているだろう。私の知りたくない事ばかり知っているだろう。一瞬でも気を抜いたら、私の知りたくない事をテレパシーでどしどし送り付けらそうで、私はミカから目を逸らした。
「行こう」
「いい」
「おいでよ。僕と踊って」
「オギちゃんは?」
「オギもあっちにいるよ」

 ミカの温かくごつごつした手に手首を摑まれ、ぐらっと体勢を崩し、床に足をついた。普通に摑まれいるだけなのに、ロボットに摑まれているような気がするほど手首が痛かった。彼は超合金に皮膚を被せたロボットかもしれない。

不安だった。一刻も早くオギちゃんの側に行き、手を伸ばしたいと思った。でも立ち上がった瞬間わっと勢いよく身体中に血が回ったように力がみなぎり、不安は吹き飛んだ。ああまた、絶望し尽くした。そう思った瞬間、私はミカとなだれ込むようにして踊る人々の中に足を踏み入れていた。
バラ涼子
 後ろからバイクのエンジン音が届き、どんどん近づいてくるその音に顔が険しくなっていく。もやもやとした不安は次第に形となり、恐る恐る振り返ると、風が立つようなスピードで二人乗りのバイクは私に近づき、ぶつかると思って身を歩道脇に寄せようと足を踏み出した瞬間、私はバイクの後部に乗っている男にラリアットを喰らわせられ、その腕になぎ倒されようにして地面に倒れ込み、耳から顎の辺りをアスファルトに擦りつけ、苦痛に呻きながら悲鳴を上げるようとした瞬間、バイクに降りて来た男にバッグを奪われた。

男が私のバッグを前との間に挟むようにしてバイクの後部に乗ると、しなやかな流れ作業のようにバイクは大きなエンジン音を立てすんなりと走り出した。ものすごいスピードで視界から消えた。ナンバープレートは二つに折りたたまれていて、私は一文字も把握する事が出来なかった。芸術的な手際の良さだった。右手に持っていたはずのコンビニ袋は、私の二メートル先ほどに落ち、お菓子やジュースを辺りに散乱させていた。

首の痛みと顔面の痛み、そして肩掛けバッグを乱暴に奪われた時に打撲したのであろう腕の痛み。顎がひりひりと痛み、血が流れる感触が走る。顔の傷は綺麗に治るだろうか。バッグの中のファンデーションのコンパクトがあったはずだと思いだすが、今まさにそのバッグを奪われたのだと思いに至る。

顔から血を残したまま、散らばったお菓子やジュースを拾い集めるべきか、それとも拾わずに足早に家へ帰るべきか考えている自分があまりに情けない存在に思えた。自分がまるでぼろ雑巾のように、サンドバッグのように、いや、金品を奪い取られたという点を考えればもっと完膚なきまでに惨めな存在になっているのを感じながら、私は何処か、恍惚としている。

 自分がそうして引ったくり事件に巻き込まれる想像をしながら、視点を定まらないような間抜け面をしているのに気づき、口元に力を入れた。後ろを振り返る。バイクは来ない。バイクの音すら聞こえない。コンビニの前で、バイクを挟んでたむろしている二人組の男を思い出す。コンビニに入る時も、出る時も、二人と目が合った。

私はきっと彼らに襲われるのだろうと思い込んでいた。そして、そうなる事を望んでいた。自分の妄想で終わったことを知り、全身から力が抜けてその場に立ちすくんだ。前も後ろにも人はいない。私を襲う者はいない。私は普通に。この重たいコンビニ袋を持って帰宅するのだろう。中山浩太・涼子。そう、名字を失ったかのような形で書かれた表札のかかる、コーポミナガワ305号室に。

 現実的な想像をする。私はこれから重たいコンビニ袋を右手と左手で交互に持ち代えながら帰路を歩み、この道の突き当りを左へ、更に五十メートルほど歩いた所を右に曲がり、見えてきたコーポミナガワの灯りに絶望しながらコーポミナガワへと足を踏み入れ、汚らしい自転車置き場と化している一階の一番奥にある階段で三階まで上がり、全く今時エレベーターのないマンションなんて苛々しながらドアを開け、音を立てないように気を付けつつ袋から飲み物を取り出し冷蔵庫に詰め、お菓子を一つ選び取り開封し、それを口に放り込みながら最後にファッション誌を取り出しソファにも転んで読み始める。

そして睡眠不足のため、ソファで雑誌を見ながら数十分もすればそのまま眠りにつくが、それから二時間もしないうちに一弥が目を覚まし泣き喚き、眠気にふらつきながら寝室へ行き一弥の声に目を醒ましもしない浩太に苛立ちながら一弥を抱き上げ、ソファに戻るとカシュクールのトップスをはだけて一弥の口に乳首を押込み、母乳を飲まれながら眠たい目を擦りつつさっきの雑誌の続きを読むだろう。

その後はわからない。一弥が乳首を口に入れたまま再び眠りにつけば、私は一弥を抱きかかえたまま浩太の眠るベッドに戻り、そのまま三人で川の字になって眠るだろうが、飲み終えても一弥が眠らなければ私は一弥を抱っこして歩き回り、腱鞘炎になりかけている左手首を庇いつつ、僅かな睡眠時間を求めてありったけの力を振り絞って寝かしつけるだろう。

 道の真ん中で立ち尽くしたまま、これからの数時間を想像している自分があまりに滑稽で、その場にしゃがみたくなる。子どもが生まれて九カ月。私は事件を求めていた。このまま失踪をするでもなく、夜遊びに出かけるでもなく、自分の意志とは関係ない所で不可抗力的に事件に巻き込まれ、非日常へと足を踏み入れる事を望んでいる。

顔から血を流したまま帰宅してた浩太を叩き起こしたり、警察を呼んだり、事情聴取をされたり、浩太に優しく介抱してもらったり、ほんの一時一弥の育児から解放されたりという、そういう非日常が欲しくて堪らなかった。一日でいい。いや、数時間でもいい。日常から飛び出せずとも、日常を歪めるだけでもいい。いつもと違う景色を見たい。

 子どもを寝かしつけ、夫の許しを得て、或いは夫が眠りについた後、こうしてコンビニに買い物に出る事だけが今の私の息抜きとなっている。一度外に出た私は二度と帰りたくないと思いながら、コンビニで読みたくない週刊誌やファッション誌を片っ端から読み漁ったり、欲しくもない化粧品を品定めしたり、特に必要でない飲み物を買いこんだりして、事件を夢見ながらゆっくりと帰路を歩み、嫌だいやだと思いながらドアを開き日常の中の日常に戻る。

こんな息抜きでも、ないよりはましだ。子どもと二人でずっと家に居ると。それがぐつぐつと煮えたぎる五右衛門風呂に沈められたり、針山に落とされたりするのと同等の地獄であることを知ったのは、出産直後の事だった。

出産三日後、私は産院の病室で初めての夜間母子同室を体験し、マタニティブルーで自我が崩壊するかと思うほどの混乱に見舞われ、もう二度と自由は手に入らないのだと絶望して泣き喚いた。あの時の絶望は、マタニティブルーから立ち直っても尚、薄められたブルーとして私の日常にのし掛かっている。

 一体何がいけないのだろう。私は普通に好きな男と結婚して、妊娠して、一児をもうけただけだ。何が間違って、私はこうして毎日毎日満たされない思いを抱えたまま、満たされない気持ちで育児と家事を続けているのだろ。皆が普通にやっている事だ。結婚も妊娠も出産も育児も家事も、皆が普通にこなしている。私は何故そこに順応出来ないのか。そこに充足を感じられないのか。毎日毎日、母乳をやりオムツを替え着替えさせ風呂に入れ買い物に連れて行き離乳食を作り掃除をし洗い物をし、時に予防接種や健診に連れて行き、日曜日は家族三人で買い物や食事に行き、毎晩三人で川の字になって眠っている。

そういう毎日を送りながら、どうしようもない不能感に苛まれる。自分に与えられた仕事を淡々とこなしているはずなのに、自分が全く生きている意味のない、空っぽな人間に思える。実際、人間に生きている意味などないかもしれない。この世に生きる全ての人間がただの穀潰しなのかもしれない。五体満足な肉体を携え、成長し老化していく事を前提に生まれてきた魂を世話していく内、何をこんなに必死になって育てているのだろと思うようになった。今私は、育児の意味が分からない。赤ん坊の意味が分からない。人間の意味も分からない。

 ついこの間まで、何も考えずに遊び、飲み、友達とメールし、夫と仲良く暮らしていた。何かについて思い悩み事すらなかった。どうしてしまったのだろう。何故人間の意味についてなど考えているのだろ。ネットで募集をかければ、通り魔やひったくりをしてくれる人を雇えるだろうかと考えながらゆっくり歩き出していく内、殺伐とした気持ちの中に。全く相反する温かい気持ちが芽生える。一弥に触れたい。一弥に乳首を吸わせたい。一弥の笑顔が見たい。一刻も早く、あの愛くるしい肉の塊を抱きしめたい。私の腕の中で柔らかく蠢く一弥の体を思うと、見知らぬ男に暴行をはたらかれる自分を想像している時と同じような恍惚が湧き上がっていった。
バラ五月
 ばばばばば、と音を立ててバスタブに溜まっていくお湯を待ちながら、このまま溶けてベッドイシーツの染みになってしまいそうだった。からっからになるまで仕事をしていた。横になったまま煙草に手を伸ばして灰皿を引き寄せた。指が灰皿の中の灰に触れ、汚れた指をシーツに擦りつけた。あーあ。どんだけ疲れてるんだか。そう言いながら、待澤は隣に寝そべった。

「もう駄目、お風呂入れないかも」
「一緒に入ろうよ」
 待澤が覆いかぶさるようにして背中を愛撫し始めた。背中空きのカットソーから感触が走って、眠気が少しずつ薄れていった。声が零(こぼ)れて、待澤はスカートをたくし上げた。
「待澤」
「なに?」
「会いたかった」
「五月は、二人になると甘えるよね」
 くすくすと笑いながら、待澤は首筋を愛撫した。
「二週間ぶり? 三週間?」
「そっか。そうだね」
「ねえ五月」
「なに?」
「俺たちもう半年になるんだよ」
 どきっとして、口を噤んだ。私は、不意を突かれ動揺し、そこから何か自分を非難する言葉を待澤が口にするんじゃないかと恐くなった。私の恐怖心をよそに、待澤は特にそういう素振りは見せず、早く一周年迎えたいねと言った。朗らかに微笑んだ。私は何を怯えているんだろう。待澤はそんな男じゃない。

分かっているのに、待澤が次の瞬間には何か私にとって不利な事を言いだすんじゃないかと、恐れている。一体何が不満なんだ。自分の欲深さに、また腹が立つ。でも待澤が愛撫を続け、下着を取られた辺りから、自分の欲深さもわがままもどうでも良くなった。

「風呂、入る? 入らない?」
 待澤は膣に指を入れながら聞いた。あとで。そう言うと、指は二本に増え、動きに力強さが増した。お湯の音がさっきと違って聞こえた。お湯はもう溜まって、排水口に流れ落ちているかもしれない。激しく喘いで、潮を噴いた。太ももに飛んだ飛沫を、待澤は綺麗に舐め取ったようだった。半身を起こし、シーツがびっしょり濡れているのを見て、仕事中に大量に水を飲んでいたのを思い出す。すごいね。待澤はそう笑って、おいでよと私を引き寄せた。

 人差し指で親指を作った輪っかと唇を一緒に反復運動させていると、どんどん無心になっていった。このままじゃロボットになってしまうそうだと、咥えたまま待澤を見上げた。待澤は私の髪を撫で、凶器だなあと呟いた。うん? と動きを緩めて首を傾けると、そのエロさは凶器だな、と言い直した。

私は自分のエロさが凶器となって待澤の首を串刺しにしている所を想像した。でも次の瞬間には、待澤が私の体に縫い針を沈めていく姿が浮かんだ。待澤に会うたびに、彼に針を埋め込まれているように感じる。待澤に針を刺されるたび、私は待澤から離れなくなっていく。少しでも後ろを振り返れば、少しでも身動きすれば、針は体内でひしめき激痛を伴うだろう。

会えば会うだけ、私は待澤を必要としていっている。それも別に、私自身が望んだ結果としてそうなっているのではなくて、ただただ、流れの結果としてそうなってしまっている。私は、待澤が必要だと思えば思うほど、待澤に会うのが恐ろしくなっていくのを感じていた。

待澤との関係が続けば続くほど、それが自分自身の意志によってコントロールされているわけではないという気持ちが募っていった。私は、私一人として待澤を求めているのではない。私の中には二人の他人が溶けている。

 待澤が腰を上げると、私は髪を散らしてベットに横になった。百七十五の長身に、幼女のような胸、瘦せすぎの体。自分はエイリアンだと思っていた。いつも、どこに行っても、自分だけが飛び抜けて大きかった。自分だけが女らしい体つきに成長しなかった。自分だけが食べても食べても太らなかった。中学一年生の時、自分に普通に生理が来た事に、私は驚きを隠せなかった。

私には一生生理なんて来ないんじゃないかと思っていた。一生、自分を愛してくれる男なんて現れないんじゃないかと思っていた。でもそんな事はなくて、生理は来たし、私の特異な顔立ちを愛する男達は少なくなかった。でも彼らと付き合うたび、彼らが私を異人種として愛でているような気がして気持ち悪くなった。

待澤に、そういう嫌悪は感じない。待澤の母親は、百七十以上の長身だという。待澤は私と同じくらいの身長しかないけど、それを指摘すると、背の高い母親は実母ではないのだと彼は教えてくれた。彼が、背の高い、血のつながりのない女性と十年以上暮らしていたのだと思うと、彼に対する執着心が芽生えた。

 セックスの後、私はお腹の精液を拭かずにそのままバスルームに向かった。重力に従って落ちていく精液の流れは小さな逆三角形に作られた陰毛で止まり、じわっとそこに滲んだ。どどどど、とお湯を排水溝に流し込んでいるバスタブの向こうに手を伸ばし、コックを閉じた。途端に辺りが静かになって、大理石の床が冷たさを増したような気がした。

大きな洗面台に向かい、鏡の中の自分を見つめ合ったまま精液に触れた。精液は眩いまでの照明を受け、ぬらっと光っていた。精液を臍の辺りに伸ばしながら、じっと自分を見つめた。小さい顔、切れ長の一重まぶた、胸下まで伸びた黒髪、棒のような四肢、へこんだお腹。自分の美しいと思えるようになるまで時間がかかった。自分が価値ある存在であると思えるようになるまで時間がかかった。

仕事で成功していく過程はそのまま、私が自分フェチになっていく過程でもあった。背が高いとか、顔が小さいとか、そういうちょっとした特異性があるだけで、人は自分を愛するときにフェティシストになってしまう。もっと普通に自分を愛したかった。シルバーのティシュボックスから二枚ティッシュを抜き取ると精液を拭い、ゴミ箱に放ってからバスタブに冷え切った足を入れた。

 膝を抱えるようにしてお湯に浸かっていると、待澤が入って来た。裸のまま来て、そのままバスタブに浸った彼は後ろから私に密着し、私は背中に当たる彼の胸がまだ激しく上下しているのを感じた。久しぶりだったせいか、今日は特別激しく、特別長かった。
「大丈夫?」
「ヤッてる時さ、五月のこのネックレスがきらきらしててさ、もう俺ヤバいんじゃないかって思ったよ」

 きらきらしてた? と振り返って言うと、待澤は疲れた表情のまま眉を上げ、きらきらしてるよな、これ、と私の首筋を触った。私はネックレスのヘッドを掴んで、軽く持ち上げた。白いシェルの土台にシルバーで聖母マリアが象られたヘッドを吊すチェーンは、きらきら光っていた。このネックレスを買ったのは三年前ほどの事だった。

三年間、頻繫に身に着けていたネックレスのチェーンがこんなにきらきらしているのを知らなかった私は本当だ、と呟き、同時に今さっき洗面台の鏡越しにみていた、精液のきらめきを思い出した。指輪やブレスレットと違って、鏡越しに目に入らないせいだろうか。私はこれまでほとんどこのネックレスの存在を意識してこなかった、チェーンを磨きに出した事すらなかった。

これまで体の一部のように感じて来たネックレスを不意に意識し始め、自分が途轍もなく不気味な物を首から下げているような気になって、チェーンからゆっくりと手を放した。ネックレスに盗聴カメラが仕掛けられ、この三年間の私の記録が胸元に詰まっているような錯覚に陥って、目眩がした。遠のきそうな意識を繋ぎ止めるように、後ろから待澤の両腕が伸びて来て、私の体はふわっと水の中で抱きしめられた。
バラユカ
 シッターの山岡さんを見送ったその場で、玄関で眠ってしまったようだった。カーペットの感触に顔を顰(しか)め、ぼこぼこに跡がついているであろう頬を上げると、すぐ脇で輪(りん)が首を傾げているのに気づく。手を伸ばして輪の頬に触れ、おはようと言うと、輪は不思議そうな顔で私を覗き込んだ。
「なーにーのー?」
 なにしてんの? と言えない輪は、毎日毎日私が何かするたび、なにのー? と聞く。多くの幼児語が自然発生的に生まれては、あっという間に正しい言葉に矯正されていくのを見ていると、こういう言葉も期間限定なのだと愛おしい気持ちになる。あと数ヶ月か数週間、あるいは数日して輪が「なにしてんの?」と言うようになったら、輪はもう二度と「なにのー?」と私を覗き込みはしないのだ。
「ねんねしてたんだよ」
「ここ? ねんね?」
「うん。でも輪ちゃんはこんなとこで寝ちゃ駄目だよ」
「寝るだめ?」
「だめだめ。風邪ひいちゃうよ。お腹痛い痛いになるよ」
「ぽんぽんいたいの?」
「いやいや、ママは平気。でも輪ちゃんはお布団で寝ようね」
「できる。りんちゃんおきるよ!」
 はいはいと言いながら、パン捏ね器で脳みそが捏ねくり回されるような頭痛に顔を顰めて起き上がった。それが定期的に発生することで何かしらの秩序を保っているかのような気になるほど機械的で、規則的な痛みが襲ってくる。キッチンでペットボトルからコップら水を注ぎ一気に飲み干すと、パックの野菜ジュースにストローを差し輪に手渡した。水が螺旋状に落ちていくように、ぐるぐると冷たさが移動していく。

頭から足元に向かって、どんどんと体が冷めていくようだった。でもすぐに、頭から足元に向かってもやもやと熱が戻っていく。口を限界まで開き、目を見開くと眼鏡がずり落ちた。コンタクトは外してあるけど、外した記憶が残っていない。でも眼鏡をかけていることは、きちんとケースに入れて保存液に浸けていたのだろう。

 飲み物は座って飲みなさいという私の言いつけを守って、一人でさっさとリビングのソファに座ったらしい輪の、おなかすいたー。という声がくぐもって聞こえる。耳鳴りがひどく、強風の中に立ち尽くしているかのようにざーざーと音がする。ちょっと待ってと呟くと。もう一杯水を飲み干し、ロールパンとハムと作り置きしておいた茹で卵を皿に載せる。

毎朝、目覚めと同時に空腹を訴える輪のために、二日酔いの朝も睡眠時間一時間の朝も容赦なく叩き起こされ朝ご飯をせがまれる私のストレスを緩和するため、朝ご飯は二分以内で出せる物に限定している。キッチンから出た私の手元をみて、輪は不服そうな顔をした。

「ちゅうちゅうめんめん、たべたい」
 イヤイヤ期特有のとりあえず拒否という様子ではなく、何か切実なものを感じさせる言い方だったため、目の前に出したらはたき落とされるかもと。ローテーブルに皿を置き、輪の前に座った。一体なぜ、麺類をちゅるちゅるめんめんと言うのか分からないけれど、恐らく保育園で他の友達が言っていたか、保育士が教えたのだろう。

ちゅるちゅるめんめんー、と言いながら唇の両端を限界まで下げ、顎をしわくちゃにする輪を見ている内、私は不意に輪が可愛くて可愛くて仕方なくて、八重歯と奥歯でぎたぎたに嚙み殺してやりたい衝動に駆られ舌打ちをした。我が子の血と肉片で地獄絵図となったこのリビングが、鮮やかに頭に浮かぶ。こんな小さい体に、そうした大量の血液をまき散らして周囲を恐怖に巻き込んだり、いずれ大量殺戮を繰り広げ周囲を恐怖に巻き込んだり、そういう可能性が秘められているという事実に、唐突に感動する。

ぽとりと床に落ち、少しずつ乾いていく輪の小さな二つの眼球が、驚いたように私を見つめている。二つの眼球が落ちた部屋は、リビング全体が輪という巨大な箱型の怪物になったように見える。大きく息を吸って、何度かに分けて吐き出した。スプラッターな想像の原因が昨晩の薬だとは思わない。

薬をやっていてもいなくても、私は逃げ惑う子どもをナイフでめためたに切り刻んでいく想像をするし、目を白黒させて泣き喚く子どもを縛り付けベンチでめきめきと骨を折っていく想像をするし、顔を赤くして泣き叫ぶ子どもに殴る蹴るの暴行を加えて内臓を潰していく想像をする。愛する者の壮絶な死を、人は想像せずにはいられないのだ。

 保育園に送ったら少し寝よう。そう思いながらソファに横になる。私の足をぎゅっと押しやり、「どーけーて」と怒ったように言う輪の脇腹をくすぐると、けたけた笑いながら、輪は私の手から逃れようとばたつき始めた。
「やだー」
「やだじゃなーい!」
 そう言って両脇に手を入れ抱き上げると、輪は満面の笑みを浮かべきゃっきゃっと声を上げた。愛おしさに。胸が潰れそうになる。一年前までは、こんな風に可愛とは思えなかった。輪のせいで、私はあらゆる物を失うだろうと思い込み輪を憎んでいた。例えば実際に、私は夫とある意味で、ある部分、引き裂かれた。子どもが出来て以来、みる見る間に黒雲が広がっていくようにして夫婦間の不和は広がり、私たちはあっという間に互いを憎み合うようになった。

そして七ヶ月前唐突に、夫はこの家を出ていった。要因は有り過ぎて、どれが決定的な理由となって彼が出て行ったのかは分からなかった。出て行ってほしくない、切り出されたとき第一印象でそう思ったけれど、私は引き留めることは出来なかった。私は夫に何かしらの罪悪を感じていて、留める言葉一つ、留める素振り一つ、留める視線一つ、表現できなかった。

 鏡を見て化粧が完全に崩れているのを確認すると、直すのを諦めて大きいサングラスをかけ、輪に靴下と靴を履かせた。
「りんちゃんも。りんちゃんもおめめするー」
 騒ぎ立てる輪に分かった分かったと言いながら、バッグを漁ってキッズ用のサングラスを渡した。やったー、と声を上げサングラスを手にくるくると回る輪を見ながら、彼女の言葉が実感というよりも、状況に応じて発されているという事実が私を温かい気持ちにされる。言葉を獲得していく事によって、輪が人間的な人間に去勢されていく姿を見ていると、自分を肯定されているような気になるかもしれない。

赤ん坊は、ストリートを否定する。文脈を否定する。輪が喋られなかった頃、私が常に抱えていた不安や苛立ちは、自分の生きていく糧である小説を、そういう形で批判されていたのかもしれない。赤ん坊の輪といると、私はどんどん小説を書く事の意味を見失っていった。そして輪が絵本を読み、主人公やキャラクターに感情移入して泣き真似したり、笑ったり、怒ったりするようになると、私は俄然小説に対するモチベーションを取り戻していった。

 ドリーズルームまであと二十メートルという所で、輪と同じクラスの女の子を連れたお父さんが後ろを歩いていること気がついて、大きく会釈をした。
「輪ちゃんおはよう」

 にっこりと輪に挨拶する彼に続いて、優奈ちゃんおはよう、と私も彼の押すベビーカーに乗る女の子に笑いかけてた。暑いですねとか、最後のこの坂がきついですよねとか、他愛もない話をしていると、彼はふと思い出したように、輪ちゃん運動会出ますか? と聞いた。

「ああ、出ようと思っています。去年出れなかったんで、今年こそはと。優奈ちゃんは?」
「出ますよ。そっか、じゃあ輪ちゃんがんばろうね」

 彼の言葉に、輪はきょとんとしているだけだった。がんばろうねー、と私も声を掛ける。二歳児の運動会がどんなものか、想像がつかない。運動会のお遊戯の練習をしましたとか、今日はかけっこをしましたか、保育士が教えてくれる事もあるけど、実際に輪がどの程度真っ当な練習、真っ当なかけっこをしているのかは分からない。きっと、本番ではロクに何も出来ないだろう。

 私たちはそれぞれ、表に立っている警備員と挨拶を交わし、二台のベビーカーでエレベーターをぎゅうぎゅうにして四階に上がった。他の保護者や保育士たちにおはようございますと連発しながら輪の手を引きクラスまで送ると、まとわりつく子どもたちの頭を撫で、担任の保育士と二、三言葉をかわし、連絡帳を渡す。荷物をロッカーに入れると、既にお気に入りの保育士の膝の上で絵本に夢中になっている輪にじゃねと手を振り、足早にクラスを出た。

 出入り口まで来たところで、応接室、時にパーティションで区切り授乳室として使われているガラス張りの四畳ほどの個室で、向かい合っている二人の女性が目に入った。一人は副園長の芦谷さんで、もう一人は赤ん坊を抱っこする若い母親だった。入園希望者が見学に来ているんだろう。

タッチパネルで登園時間を打刻しパンプスに足を入れた瞬間、個室からうわーん、と赤ん坊の泣き声が聞こえ、私は振り返った。焦ったように赤ん坊の背中をとんとんと叩く母親が「すいません」と言いながら顔を上げた瞬間、私は顔を俯(うつむ)けてバッグを肩にかけた。その母親はこっちを見やったようだった。私はタッチスィッチでオートロックのドアを開き、振り返ることなく園を出た。

 子どもと離れ、一人になった途端、表情もテンションも三トーンくらい下がったのが分かる。一人でいる時の自分の方が、妊娠前から慣れ親しんできた自分であるけれど。子どもが居る時の自分とどっちが本当の自分かと言えば、そう大して違いはないような気がする。一人でいる時の自分、子供がいる時の自分、夫といる時の自分、オギちゃんたちとクラブにいる時の自分。そのどれもが偽物で、私と関わる輪以外の全ての人は、それが偽物であると理解した上で、私という人格を認識しているようにも思う。

 帰宅すると、化粧も落とさずコンタクトも外さず、寝室に直行して布団に潜った。右腕はメンソレータムを塗りたくったようにすーっとしている。触ってみると本当に冷たくて、左腕を触ってみるとこっちは普通に温かい。その違いに何故か苛立ちを感じつつ。ノートパソコンで再生したAVとバイブで一度オナニーをするとそのまま眠りについた。

 ぱちんと目が覚め、汗をかいている自分の身体を不審に思いつつ、横になったまま辺りを見渡した。あまり寝た気がしない。何時だろうと、枕の下に入れていた携帯を探っていると、ピンポーン、ピンポーン、とインターホンの音が聞こえた。がんがんと痛む頭を押さえて起き上がり、リビングに出て通話ボタンを押す。

「はーい」
「サクサクです。お荷物を届けに参りました」
「あ、お願いしまーす」
 自動ドアの開錠ボタンを押すと、逆光で顔のよく見えない配達員は映像から消えた。バイク便が届く予定なんてあっただろうか。記憶を巡らせるが思い当たらない。昨日の夜以降送受信をしていなかったか、○○時に○○を送りますというメールを見落としたのかもしれない。ふと、再生ボタンを押して、記録に残っている静止画を確認する。インターホンの音で目が覚めたのかと思ったけれど、サクサクの配達員は今の回しか映っていなかった。

最近、ふっと目覚めた次の瞬間に、こうしてインターホンが鳴る事が多い。自分が何か超能力的なものを持っているような気がすると同時に、自分が自分以外の何者かにコントロールされているような気もする。私の憑き物が、眠っている私をそっと指先でつつきお届け物ですよと囁いて起こす様子が頭に浮かんだ。

 配達員が上がってくるのを待ちながら、リビングに散乱した輪の食べ残しを片付けると再びインターホンが鳴り、玄関に向かった。はい、と言いながらドアを開いた瞬間、ぎょっとする。丸っこいフォントで右胸に「サク」と縫い込まれたジャンパーを着込んだミカが、私の顔を見つけてにっこり笑った。

ミカ? 似ているだけの他人であるという可能性を疑いつつ呟くようにひと言漏らすと、ミカは褐色の顔にかかる、くるっとカールした黒髪の隙間から私を見つめたまま右手をポケットに突っ込み、その中からちっとリモコンボタンを押した。その時、私の膣の中でバイブがうねり始め、え、と声を上げ内股になって足元を見やり、次にミカを見上げようとした瞬間、目が覚めた。

 ベッドの上で飛び上がるようにして上体を起こすと、足元でバイブが振動していた。胃の辺りが痙攣して、激しい動悸がわっと体中を温めた。寝返りを打った拍子か何かに、バイブがオンになってしまったのだろう。冷静に考えながら、くねくねと蠢きけばけばしいフラッシュを繰り返すクリアピンクのそれに手を伸ばし、オフボタンを押した。呼吸はなかなか整わず、私はじっと座り込んだまま開いた右手を胸に当てた。

 昨夜、ミカとオギちゃんと他の顔見知りたちと散々踊った後に、トイレへと続く廊下で再び体育座りを始めて動かなくなった私に、ミカが声をかけてきた。
「ユーカ。大丈夫?」
 しゃがみ込み、覗き込んでいるであろうミカに、私は顔をあげないままひらひらと手を振り、大丈夫、あるいは、あっち行って、というジェスチャーをし、そのまま顔を俯けていたけど、目の前で何やらごそごそと音がして、不安になって顔を上げた私に、ミカは小さなジップ付きのビニール袋を差し出した。床にはめ込まれた青い照明を頼りに見る限り、そこには数粒の錠剤が入っているようだった。

「あげる」
 むっとした。いや、かっとしたと言った方があっていたかもしれない。私はミカに激しく苛立ち、あからさまに顔をゆがめ嫌悪感を示した。
「いつもオギに何か貰ってるの? ちゃんとインターバルとってる?」
 わっと立ち上がって、この男の顎をつま先で蹴り上げてやりたいと思いながら、私はミカを真っ直ぐ見つめた。ミカの気持ちが分からなくて、そうして一ミリたりとも共感させないミカが恐ろしかった。私はミカから視線を逸らすと、また膝に顔を埋めた。

「それなに?」
「合ドラ」
「合ドラ?」
「ツリー。知らない?」
「分かんない。聞いたことあるかも」
「あげるよ」
 足音が聞こえて顔を上げた瞬間、ミカはすっと顔を近づけ、耳元で「一人の人に頼るのは良くないよ」と言い、私の手に置いていくようにしてビニール袋を渡した。
「一人の人って?」
「萩窪さん」
 ミカはいつもオギちゃんの事をオギと呼ぶのに、なぜ荻に窪をつけ、さんまで付けるのだろう。不審と不安を顔に貼り付けていると、かつかつとヒールを鳴らしてトイレに向かうディーバ系ギャルと視線が合いそうになって、ゆっくりと俯いた。恐い、気づくとそう呟いていた。ミカが恐いのに、ミカに恐いと嘆いてどうするのだと、混乱している自分が更に恐ろしくなる。

そんな風に、と小さな声がして、それに続く言葉が聞き取れなかったため、視線をミカの口元に移す。丸くなっているから恐ろしいんだよ、彼は呆れたような調子でそう続けて、撫でようとしたのかよっこらしょという意味だったのか分からないけれど、私の頭に手を置いて立ち上がりフロアーに戻って行った。

 トイレの個室に入るとビニール袋を照明にすかしてしばらく見つめていたけれど、三つの白い錠剤が入っているという情報以外何も読み取れなかった。ジップを開けることなく、ビニール袋をブラジャーの中に差し込むとトイレを出た。中箱のフロアーを歩き回り、やっとラウンジにオギちゃんの姿を見つけると手を振って、オギちゃんの座るソファの前に座り込んだ。彼の手を握って落ち着くと、不意に上から視線を感じ、胸元の大きく開いたUネックのタンクトップを軽く抑えた。

こっち座れば? と自分の隣に指さすオギちゃんに、いいと首を振って見上げると、何か飲む? と立って続けて聞かれコーラと答える。ちょっと待ってねと言って立ち上がり、背中を向けた彼をじっ見送った。煙草に火を付け、ミカと話していると異次元に連れていかれるような浮遊感に搦め捕られてしまうのは何故だろうと考えていたけど、二つのコーラを持ったオギちゃんが戻ってくると、私たちは下ネタを言い合ってけたけたと笑い、私はいつの間にかブラジャーの中の錠剤を忘れていた。

結局ミカに貰った薬は飲まなかった。帰りのタクシーでブラジャーの中からバッグに移したビニール袋の中には、まだ三つ錠剤が残っている。

 バイブを持って寝室を出ると洗面所でメイクを落とし、バイブを石鹼で洗った。化粧を落とすと最悪だと思っていた顔色はもっと最悪に見え、ローラーで顔をコロコロしながら寝室に戻って、バイブをビニールバッグに戻しクローゼットの中に押し込んだ。

 ベッドから落ちかけていた掛ふとんを戻し、デスクに向かう。この部屋で仕事をしていても何となく緊張感がなく、ベッドに寝ても何となく休めないのは、寝室と仕事部屋が渾然一体となっているせいだろう。パソコンでメールの送受信をすると、受信トイレの中に夫の名前を見つけクリックする。メールを読み終えるとヘッドホンを付けて音楽をかけ、書きかけの原稿をクリックした。

 途中、何度か電子辞書を、そして何度かネットで調べ物をし、四時間かけて十枚程度の原稿を書くと、完全に集中力が切れてしまったのを感じて手を止めた。床にこぼれている郵便物の中から大判の封筒を手に取り封を破る。ハリウッド女優が写る「moda」の表紙をめくり、目次を調べてカルチャーページの「BOOK」の箇所を開くと、来月刊行の新刊の書影が最初に目に入った。自分の写真写りを確認して、最初のページからめくり直す。

ファッション界のニュースから、ブーツ特集、アウター特集が次々と現れる。去年と比べて随分軽くなった「moda」を両手に感じながら、来年度で更に広告が減ったら廃刊かも知れないなと思いつつ、スポンサーが減ったせいか分からないけれど充実感のない特集をぱらぱら素通りする。

 ファッションページとカルチャーページの間に見開きのエッセーが載っていて、そこに「森山五月」という名前を見つけて手を止めた。すっきりとした一重を淡いヌードカラーで彩り、黒髪をぴったりとタイトにまとめている写真には、CM撮影時のオフショット、と小さな見出しが付いている。

エッセーはCM撮影の様子や、最近行った誰々のパーティで会った誰々の事、ロハスな生活スタイル等々が書かれていて、散漫なブログ的文章でありながら、その散漫さが彼女自身の余裕を表しているような形にまとまっていて、雑誌の編集者か事務所の人間がしっかり文章を直しているのだろうと感じた。

彼女を間近で見た時、百八十くらいありそうに見えたけど、プロフィールには百七十七と書かれていた。彼女を目にしたとき、その覆しようのない圧倒的な存在感に気圧され、百六十三の自分の発言権も人権もないような気になった。世界で一番人の背が高いと言われるオランダに行った時も、私は同じような劣等感を持った。あと五センチ背が高ければ、と飽き飽きするほど繰り返してきた想像を、また繰り返す。

 保育園へお迎えに行き、近くのスーパーに寄って輪の好きなヨーグルトや、ワインやシャンパンを買い込むと、ベビーカーに乗ったままヨーグルトを大事そうに抱える輪と歌を歌いながら帰宅した。

 帰るなり、散歩の時に拾ったのであろうどんぐりや葉っぱをパーカーのポケットから散乱させ、玄関を散らかした輪を見やり、次に家事代行が来るのは月曜日だから三日後かと考える。家事代行を頼むようになって、苛々しなくなった。家事も育児もすべて自分でやっていた頃は、手伝ってくれない夫に苛立ち、毎日何度も飲み物をこぼす輪に苛立ち、輪がおもちゃ箱からおもちゃを出す度に、輪を寝かしつけた後それを片付ける自分の姿を想像して気分が悪くなった。

 どんぐりをご飯に見立てておままごとをしたり、レゴでお城を作ったりして遊んだ後、お風呂に入った。メタボ気味のお腹、握るとセルライトが浮き出る、むっちりとした太ももと丸いお尻。尻はオムツかぶれで赤くなっている箇所があり、私は風呂を出たらそこに薬を塗ろうと考える。

小さく丸々とした体がせっせと動き回り、洗面器やアヒルのおもちゃで水遊びをしている姿は、まだがりがりだった新生児の頃を思い起こさせ、母を充実感で充たしていく。生まれた時、輪は2552グラムだった。2500以下だったら自動的に小児科に入院だと聞いていた私は、看護師にハサミを渡され臍の緒を切る時、あざとくも緒を長く残して切った。

 輪の部屋で寝かしつけを終えると、軽くリビングを片付け、三回分の洗濯物が積み上げられた一角で服を畳んだ。時間は十一時を過ぎている。寝室でパソコンの前に座ると、夫にメールを書き始めた。別居を始めてから、夜に一度メールを送り会うのが日課になっている。昨日も、迫っていたオギちゃんとの待ち合わせ時間に焦りつつ、夫にメールを書いてから家を出た。毎朝、起きてすぐに送受信をする夫から返事が来ていて、それを読むのが私の一日の始まりだ。明日来るとき電話して、私はそうメールを締めくくると、送信ボタンをクリックした。

 明日は土曜日で、夫がこの家にやって来る。夫に会うのだと思うと、いつも軽く緊張が走る。完全に相手に慣れ切ってしまった夫婦生活が、通い婚という形をとる事によって再び結婚前のような緊張感を孕んでから、私たちはうまくいっている。少なくとも相手を軽んじなくなったし、尊重するようになったし、自立した所で結びついているような感覚がある。

別々に生活する中で、子どもがいるため限られているけれど、定期的に夜遊びが出来る程度の自由も手に入れた。夫もまた、何かしらの自由を手に入れただろう。言いようのない孤独感も虚無感もあるけれど、それは別居のせいというよりも、生きて行く上で必要なだけの孤独感、虚無感のように感じる。夫と付き合い始めた時から、私は夫を使ってその孤独と虚無を埋めてきた。

でもそれは多分、わからないけど間違っていた。子どもが出来たからかもしれないけど。結果的に破綻したのだ。でも、私は夫で孤独と虚無を誤魔化しながら、果てしなく幸せだった。輪が生まれるまで、私は夫と二人で甘美な時間を過ごしてきた。結婚から五年が経って輪の出産に至る頃、私たちの関係はすでに行き詰まり、あちこちガタがきていたのかもしれないけど、それでも竜巻のように激しい幸福に包まれていた。

今の私には、幸せかどうかという基準自体がない。幸せである事も、不幸である事も失った私は、ただただ、ひたすらにやるべき事をやって生きているだけだ。幸福を求める事も、不幸を忌む事もしない。

 リビングの電気を消すと、バッグの中からミカに貰ったビニール袋を取り出した。この数時間で何か飲み喰いしたかと記憶を巡らせ、ジュースとハムを数切れしか口にしていないのを思い出す。通過儀礼の激しい物であっても、吐くことはないだろう。寝るか、飲むか、逡巡しながらインターネットで「ツリー、合ドラ」で検索する。

ソフトなエクスタシーみたいな感じ。大凡感想はそんなもので、カクテル用に使う人が多いようだった。肩透かしを食らったような気分で、一錠口に含むとミネラルウォーターで飲み込んだ。ミカがくれたものだからものすごい物なのではないかと、私はどこかで思っていたのだ。

 この、二十二階のマンションから身投げしている自分を想像する。ぐちゃぐちゃに潰れた頭蓋骨、がつんと地面に叩きつけられ変に折れ曲がった体、頭を中心にじわじわ広がっていく血液。死体は目を見開き、力を失いだらしなく開いた口からは舌が覗いている。輪は朝七時に目覚め、パリの空港で駄々をこねて買ってもらった黒人の赤ちゃん人形を抱きしめたまま部屋を出て、リビングを通り母の寝室のドアを開けるとベッドに母の姿はなく、トイレやお風呂や父親の部屋を探してもその姿は見つからず泣き始める。

延々と泣き続け、とうとう空腹に耐えられなくなった頃、輪は踏み台を持ち出しIHクッキングヒーターの向こうに置いてあるパンを貧り始めるが、喉が乾いてまた泣き始める。ジュース、ジュース、と喚いても母は現れず、暫くするとおもちゃとパンで寂しさを凌ぐが、とうとうぱんぱんに膨らんだオムツからはおしっこが漏れ、

泣きながら濡れたズボンとオムツを不器用に脱ぎ、かぶれた箇所を引っ搔き猿のように赤くなった尻を晒したまま、ママおいで、ジュースのみたい、と騒ぎ続け、歩道ではなくマンションの敷地内の中庭に落ちていたために掃除婦が来るまで発見されなかった遺体やっと搬送された後、部屋の様子を見にやって来た管理人と警察によって輪は保護され、夫の携帯に連絡が入る。

 自意識過多だ。自分の死を想像する自分をそう片付けると、寝室に籠もった。ディスクのオーディオで、最近お気に入りのフレンチ・ロックのCDをかけベッドで横になると、しばらくしてベッドに触れると背面にじわっと水がにじむような感触が走った。もそもそと起き上がると私はほとんど無意識的に、ベッドの上で膝を抱えた。
バラ涼子
 寝ない。絶対に寝ない。私は絶対に寝ない。強く思っていた次の瞬間、自分が口を開けて眠りに始めているのに気づいてびっくりして頭を上げた。再び頭を下ろしてしまえば、私は一弥が夜泣きをするまで寝続けてしまうだろう。一弥を起こさないようにゆっくり起き上がると、静かにベッドを出た。足が床についた瞬間、眠気のせいかぐらんと視界が揺れた。寝かしつけながら、寝かしつけられてしまう日々が続いている。

私が持てる自分の時間は、一弥が寝付いた後にしかないのだ。そのほとんどが家事や雑用で消えてしまうが、この時間がなければ私は一日の全てを一弥に支配されている事になり、私という人間が生きている証拠すら完全に消えてしまうような気がする。万が一落ちてしまった時のためにベッドわきにクッションを並べ、ドアを僅かに開けたままダイニングキッチンに戻った。

お風呂上りに湯冷ましを飲ませるために使ったマグマグは、容器、蓋、ストロー、パッキン、飲み口、と五つのパーツに分解すると、一日分の洗い―物が溜まった洗い桶に放り込んだ。ゴム手袋をはめながら、洗い桶の中を見つめる。今日一弥が使ったマグマグは四つ。つまり私は計二十個のパーツを、それぞれ適したツールを使い洗い上げなければならない。一時期分解せずに適当に洗っていたら、あっという間に飲み口から異臭が、蓋の裏の細かい隆起にカビが発生し捨てる羽目になった。一日の最後、疲れ切った体を奮い立たせて挑む洗い物の中に、色鮮やかなマグマグが沈んでいるだけでストレスが倍増する。

 でも今日はいつもと違った。ゴム手袋をはめながら、私は解放感の真ただ中にいるのを感じた。小細切れ睡眠のせいでほとんど疲れが取れていないにもかかわらず、体には力がみなぎっていた。ストロー用の棒状ブラシに洗剤を含ませ、指で泡立てからストローと飲み口計八本を一本洗っていく。丹念にブラシを滑らせ。ストローの外側をスポンジで擦りつける。

子どもの健康のために、子どもの衛生環境のため、子どものストローやコップに慣れていくためのステップとして、マグマグを使う事も、マグマグを清潔に保つことも必要だ。固く口を閉じ、マグマグを洗う事の大義名分を考える。本当は無心でやるべきなのだろうが、家事や育児に虚しさを感じれば感じるほど、私は虚しさの理由を考えてしまう。

自分は今、何故こんな事をして、しているのだろうと。それは最終的には、早く子どもが欲しいねと、私より早く先に口にした浩太に責任があり、責任あるくせにロクに育児を手伝わない浩太が諸悪の根源であるという結論に落ち着き苛立ちを増幅させる結果となる。

足音が聞こえ、身を固くする。がちゃりとドアノブが回り、玄関に現れた浩太にお帰りと振り返って言うと、浩太の表情は芳しくない。不貞腐れたように小さくただいまと言うと鞄を椅子に置き、ビニールのトートバックから業務用包装された冷凍食品を二つ取り出し冷凍庫に入れた。捌けない在庫か試作品を貰って来たのだろう。食品加工会社で営業を担当している浩太は、結婚以来それらを定期的に持って帰る。

結婚当初は家計の助けになると喜んでいたが、食べ続けて半年も経つと、浩太の会社で使っている脂の味が口の中から広がるたび嫌悪感を抱くようになった。離乳が完了しても、一弥に浩太の会社の物は食べさせたくない。マグマグを洗いきり、お皿を残して細々した物を洗ってしまうと、水を止めゴム手袋を外した。ソファに腰かけていた浩太は私を振り返り、テレビのリモコンに伸ばしかけていた手を止めた。浩太は毎日毎日、帰宅後五分以内に必ずテレビを点ける。最近、テレビの電源が入るぷつん、という音が耳に届く瞬間、立ち眩みがするような息苦しさを感じる。

「見に行ったの?」
「うん。すごく綺麗な所だったよ」
 私の明るい声は浩太のいら立ちを強めたようだった。
「預けるなら認可に、って言ってたじゃない」
 浩太は無理に穏やかな口調を装おうとしていて、私はそれに苛立ちを感じた。
「認可に入れないよ。私はまだ働いていないから、絶対に無理。認可保育園の待機児童数知っている? 区役所のホームページでみたけど、ゼロ歳児だけで二百人いるんだよ。」

「でも認可外は良くないよ。事故も多いっていうし、質の低い保育士が多い手言うし」
「認可じゃないけど、すごく綺麗で良いところだったよ。保育士さんたちもみんな清潔な感じだったし、入り口はオートロックで、監視カメラもあって、警備員もいて、セキュリティもしっかりしてるし、内装は有名なインテリアデザイナーがデザインしたんだって」
「綺麗だからって、質の良い保育をしているとは限らないでしょ。それに認可外保育園って高いんじゃないの? お金は捻出できるの?」

「切り詰めれば何とかなるよ。区から保育助成金も出るみたいだし」
 浩太との話し合いは平行線を辿るかもしれない。だとしても、私は今日もらってきた書類に記入し、来月から馴らし保育を始めるだろう。私は理性的に、理性を失った自分を自覚している。このままでは近い将来、私は発狂するだろう。私はひとえに、平和な日常を求めているだけだ。

「ていうかさ、俺に黙って認可外に入園希望を出したって、どういうこと?」
「真由美から話聞いて、このままじゃ絶対に認可に入れないって、ここから通える範囲で認可外を調べたらドリームルームを見つけて、すごく綺麗な所だったからとりあえず問い合わせてみたの。待機児童が何十人いるって言っていたから、空きが出たら連絡くださいと言っておいたんだけど、どうせ無理だろうと思っていたし、私もすっかり忘れてて」

「だから、何で俺に黙っていたの」
「別に黙っていたわけじゃなくて、毎日へとへとになってて言いそびれちゃっただけよ」
 本当は認可外に片つ端から電話をかけて、入園希望を出していた。ドリーズが綺麗な保育園で、ネットで見つけた時こんな保育園に入れたらいいなと思ったのは確かだが、とにかくどこでもいいから預けられる場所が必要だという思いが先行していた。

希望を出していた六つの保育園の内、ドリーズから一番に連絡が来たのはドリーズの保育料が他の認可外保育園に比べて三割程度高いからだろう。第一希望はもっと安い保育園だったが、保育所が途方もなく不足している現状では、こちらに選ぶ権利など与えられていない。

 今朝、一弥に授乳をしながら出た電話で、空きが出たと聞いて頭が混乱した。即決しなければ次の人に空きを奪われるのではないかと焦った私は入園させますと言ってしまいそうになるのを抑え、一度見学させて下さいと言う副園長に今から行きますと伝えて電話を切り、浩太に報告メールを送ると慌てて一弥をスリングに入れて電車に乗った。

この機を逃したら永遠に保育園に入れないかもと思ったら、気が焦って仕方がなかった。私は入園希望を出した時から、入園は無理だろうと思いつつ、この瞬間をずっと心待ちにしていたのだと気が付いた。

「最初は週に二、三日通わせて少しづつ慣らしていって、一弥が保育園に慣れるならもっと増やしてもいいし、嫌がるのなら、週に二、三度だけ預ける形を続けてもいいと思う」
「来年とか、再来年じゃ駄目なの? 一弥はまだ九カ月だよ? あんな小さい子を預ける事に、涼子は不安を感じないの?」

「感じないわけないよ。でも来年になったら絶対に入れない。私の後に待機している人達、ゼロ歳児クラスだけで二十人以上いるんだってよ? 一歳児クラスになったらもっと多くなるはずよ。とりあえず入園させておいて、ほとんど通わせてなくたっていいじゃない。今を逃したら、幼稚園に入るまでどこにも入れないかもしれない。私だってもっと外に出たいよ」

「外に出たいなら、俺が休日少し預かったりしてもいいよ」
 預かるって何だ。自分が保育士やベビーシッターだとでも思っているのだろうか。お前の子どもなんだからお前が面倒を見るのは当然だろう。しかもほんの二時間だって一人で面倒見られないのに、預かってもいいだなんて良くも言えたものだ。預かってくれるって言ったじゃない、そう言って一弥を任せて外出したら、浩太は私が帰宅してから何時間も不機嫌なままでいるのだろうとも分かる。反発心を抑え込み、顎に力を入れて黙り込んだ。

「お義父さんとか、お義母さんに見てもらったりも出来るんじゃない?」
「仕事があるでしょ」
 二人ともほぼフルタイムで働いているのに、仕事で疲れ切った二人に預けて羽根を伸ばせとでも言うのだろうか。もちろん、預かってと言えば時間が許す限り喜んで引き受けるだろう。でも、可愛い可愛いと言いながら「ちょっとくらい泣かせといてもいいのよ」とか「あんまり抱っこすると抱き癖がつくわよ」とか「まだ母乳をあげているの?」などと古い育児観念に縛られている母親と対立するのは目に見えている。

退院後二週間、実家に戻って産褥期を過ごす予定だったのが、結局一週間足らずでこのマンションに戻ったのは、そういう母親に耐えられなかったためだ。そして私はその時に感じたストレスと苦痛を、もう散々言葉を尽くして浩太に伝えたはずだ。

「浩太は、私の努力が足りないと思っているの?」
「そんな事は言ってないよ。何でそんなことを言うの」
「だって私の気持ちを尊重しないし、私の気持ちなんてどうでもいいと思ってるように見える。それはどこかで、浩太が私を否定しているからじゃない?」

「何でそんな風に思うのかなあ。俺はそんな事言ってないよ。ただ、いきなり保育園に入れるなんて言われたから、もっと他に選択肢はないのかって、話し合いたいだけだよ。もちろん保育園の事は、全面的に育児をしている涼子に決定権があるとは思っているよ。でも涼子のやり方はひどいと思う。家庭のことは、話し合って決めて行くべきだって、俺は思っていた。俺に黙って入園希望出してたなんて、そんなのないじゃない」

 それを言ったらまた浩太が私を軽蔑するから黙っていたのだ。産後の二ヶ月が経った頃、過労と精神的重圧に耐えきれず、とうとう理性的に育児を続けることが出来なくなり、張りつめていた糸が切れたように大泣きして弱音を吐いた私に、浩太は月並みな慰めの言葉を掛けたが、最後に「でも涼子はもっと家庭的な人だと思っていたよ」と付け加えたのだ。

私が家庭的でない事に一番悩み傷つき罪悪感に苛まれているのは私なのに、私は浩太に断罪されたのだ。私にそういい放った浩太に幻滅せざるを得なかったし、浩太がああいう言葉を口にしたという事は、彼もまた私に何かしらの幻滅と怒りを感じていたのだろう。それ以来二人の意見は冗談のように噛み合わず、相手に歩み寄ろうという気持ちすら失ったように感じる。

私は彼の求める母性を持っていない。それが悪い事だとは思わない。でも何故か罪悪感だけがある。自分は劣った母、劣った女であるという罪悪感だけがある。
「勝手に入園希望出したのは、悪かったと思っている」

 浩太はしばらく考えているような表情を見せ、ソファに深く腰掛け直すと、とうとう「パンフレットとか、もらってきた?」と聞いた。私はバッグの中から入園案内のパンフレットを出すと、浩太に差し出した。元気に遊び回る子どもや、友達と遊べる子どもならまだしも、言葉も喋れず歩く事も出来ない赤ん坊だ。私自身、不安や迷いもある。これまで自分がせっせと世話をし育ててきた、他を圧倒する輝きを携えた我が子が、保育園で他の子供たちと同列に扱われるという事には強い抵抗がある。

保育園の特集をしているニュースを見た時、小さな子どもたちがびっしりと並べられた小さな布団の上で各々ごろごろと横たわり。薄っべらい布団を掛けられている様子を見て少なからず衝撃を受けたし、もっと言えばぞっとした。唯一無二の我が子が、ああして蜂の巣のように並べられた布団に寝かされ、他の子供たちと並んでお昼寝をすると思うと、とても耐えられないという気持ちになる。

 浩太はパンフレットを読みながら、少しずつドリーズルームに対する警戒心を解いていったようで、保育士がどんな人だったか、園の雰囲気はどうだったか、子供たちの様子はどうだったかと質問をぶつけ始め、私の話に笑顔を見せ始めた。
「それで‥‥涼子はココットで働くの?」
「お父さんに、空きがないか聞いてみる」

 頼めば、ウェートレスかレジで採ってくれるだろう。結婚した頃から妊娠七ヶ月までバイトをしていた父親の洋菓子店は、主婦が片手間にやるバイトとしては最適だった。父親は母親のように干渉しないし、仕事に関してもうるさく言わない。母親が保育園に反対したとしても、父親が庇ってくれるだろう。

保育料も、私のバイト代を充てればいい。でもバイト代のほとんどが保育料に消え、出産以来諸々の出費で増えていない貯金もこのまま増えて行かないのだとしたら、一体私は何のためにバイトをするのだろう。子どもと離れるため、自由のため、発狂しないためだろうか。

浩太が保育料一覧のページを飛ばしてめくる手元をみて、静かに腹部の緊張を解いた。今私は、自分の存在理由や人生の理由なども分かっていないのだから、子どもを保育園に預ける理由やバイトをする理由など分からなくて当然なのかもしれない。

「じゃまた、ケーキ漬けの日々が来るんだな」
 浩太はパンフレットを閉じると柔和な表情でそう言った。その言葉を聞いたとたん、じんと膝の感覚が鈍り、私は自分が今にも泣き出してしまいそうなほどの安堵に包まれているのを感じた。私がいなければこの子は死んでしまう。九カ月、疲労と寝不足でぼろぼろになった体でずっと耐えてきたその重圧が、僅かずつ溶けて行くのを感じた。

「ありがとう。私何か、最近ずっと家に居て、ひたすら家事と育児ばっかしてて、このままじゃ駄目になるって、何かしなきゃってずっと思っていたの」
「涼、出産してから元気がなくなったよね。それは、心配してたんだ」

 浩太の手が私の右手に触れた。だったら、あなたが睡眠時間か仕事時間を削ってもっと育児を手伝えばよかったのに。私は一瞬にして激しく苛立ち、浩太の手を握り返しながら、泣き出してしまいそうな感動が既に薄れているのを気が付いた。

 産後、胸を触られるのが嫌になったり、セックスに積極的でなくなるというのは、よくある話だという。授乳中の胸を触られるのは、苦痛しかない。産後一ヶ月の検診で、避妊は必要ですがもうセックスはしてもいいですよ、と医者に言われた時、まるでセクハラをされたかのような嫌悪感に包まれ、私は言葉を失った。

自分がセックスをしている所など、もう想像できなかった。妊娠後期は一度もセックスをしなかった。前期破水の原因はほとんどがセックスだと聞いていたし、赤ん坊の入った大きなお腹の体にわさわさと揺さぶられるのも耐えられなかったし、胎教を推薦されるような周数なのだから当然セックスの声も胎教に届くのだと思ったら、とてもする気にはなれなかった。後期の三カ月間と産後の一ヶ月の、計四ヶ月我慢してきた浩太が可哀想で、二週間に一度くらい相手をしていたけれど、産後三ヶ月を過ぎた辺りからほとんど拒むようになっていった。

育児で不眠不休の生活を送っている私に対して、一弥が寝付いたのを見計らって手を伸ばしてくる浩太が、ひどく無神経でデリカ―のない男に感じられた。いつも申し訳ない体で断りはするが、実際は「私が睡眠不足でへとへとになっているのに何でそんな事を求められるのか」という怒りの方が強くある。浩太が求めて来る回数は減り、今では三週間か一ヶ月に一度になった。それでも拒む事もある。

 でも今日は、伸ばされた手を押しとどめなかった。保育園に入れる事を承諾してくれた浩太に対して、感謝の気持ちを表さなければならないような気がした。でも一弥が目を覚ましてしまった時のために、脇に目隠し用のクッションを置いて前戯もそこそこに浩太が挿入し、ぎっ、ぎっ、ぎっ、という音ともにベッドを揺らし始めると、男の身勝手さが下半身から全身の骨身に染みて気持ちが悪くなった。

感情や気持ちを無視して乳房が張っていくのも腹立たしかった。浩太の動きが激しさを増し始め、乳首からつっと母乳が垂れたのが分かった。体が自分の意志とは全く関係なく反応しているのを目の当たりにすると、自分が不良品のように感じられる。体と気持ちは完全に一致していて欲しい。そうでなければ私は混乱してしまう。今私には、揺るぎない秩序が必要なのだ。

 三カ月前、ベッドの下に隠された痴女もののエロ本を見つけた時も母乳が出た。怒りと恥辱でかっとして、ページをめくっていると勢いよく母乳が出始めた。じわじわと授乳用のトップスを濡らしていく胸を見下ろし、私は自分自身にもバカにされたような気になった。自分の存在の間抜けさに啞然とした。

ハイハイを始めたばかりの一弥が手に取っていたらと思うと、自分の作り上げてき高潔な世界が汚されたように感じた。この家に浩太はいらないと感じた。私と一弥で、この家は構成されているべきだと感じた。エロ本をレジに持っていき、代金を支払っている浩太の姿を思い浮かべると吐き気がした。

浩太は、私が一弥のオムツを替えたりご飯を食べさせたりお風呂に入れたり着替えさせたり抱っこしながら洗い物や洗濯物をして、夕飯の買い物以外ほとんど外に出ず密室育児に苦悩している正にその瞬間、どこかのコンビニか本屋でそうしてエロ本を厳選し購入したに違いないのだ。

帰宅した浩太に、隠すなら一弥の手の届かない場所に隠してと言ってエロ本を放ると、彼はバツの悪い表情を浮かべ、吉村が押し付けたんだよと同僚の名前を使って言い訳をしながらゴミ箱に捨てた。ゴミ箱も一弥が漁るでしょと怒鳴ると、浩太はごめんと呟いてゴミ袋をまとめて捨てに行った。戻ってきた浩太に、ちゃんとセットしておいてとゴミ袋を投げつけると、私はやっと怒りが鎮まっていくのを感じた。

 私は自分の意志でオナニーをした事がない。男に求められてして見せた事はあったけど、そんなに良いものだとは思わなかったし、したいと思ったこともなかったし、セックスも元々好きな方ではなかった。それでも妊娠が分かるまでは浩太の望みに応じて、一般的なカップル程度にローションプレィや目隠しプレィくらいは付き合っていた。でも今はもう、性的な面でしたくない事に付き合わされるのが耐えられない。

ついこの間まで一緒にローションプレィを楽しんでいた妻が、鬼のような形相でエロ本を投げつけ、セックスを拒むようになるとは、浩太は思いもしなかっただろう。それもこれも、育児に手助けがないせいだ。私が一人で孤独に戦っているからだ。戦士はローションプレィをしない。私はもう女という生き物ではないのだろう。

 もうじき終わる。浩太の表情を見やってそう思う。ぶり返し始めたエロ本に対する怒りで浩太を張り飛ばしたい衝動に駆られ、意識を別の所に向けようと目を瞑った。脳裏に蘇ったのは、ドリーズルームで見た土岐田ユカの姿だった。顔が見えたのは一瞬だったけど、絶対にユカだと確信した。十年前よりも瘦せ、化粧も変わっていたけど、ひらひらとしたタンクトップにショーパンツ、明るい茶髪、という姿には十年前のユカと同じものを感じた。高校生の頃のユカは年中ノーブラでいつも露出が激しく、私が初めてユカを見た受験の日、彼女は赤いファーコートにサングラスに透けるような金髪という姿でテスト用紙に向かっていた。

入学してすぐの頃、たまたま隣に座ったユカが授業中にも拘らずコアラのマーチを貧りながら、「食べる?」と私に差し出したのが、私たちが初めて言葉を交わした瞬間だった。そういう非常識な女だったからこそ、いつしか遊ばなくなり連絡先すら不明になって何年か経った頃、彼女が作家になったらしいという噂を聞いて、私は安直に納得した。

その後何度か雑誌で見たことはあったけど、こういう発言をするくらいなら雑誌に出ない方が読者を減らさないで済むのではないかと思うような、どこかしら癇に障るインタビューばかりだった。昔からそういう、どことなく人を不快感を与える女だった。仲は良かったし、ユカと一緒にいるとほんと楽しい、と思い込み高校一年の一年間は毎日のように一緒にいたけれど、少し距離を取り始めると、何であんなに嫌な女と一緒に居られたんだろうと不思議に思った。一緒にいる間、私は無意識的に彼女のペースに嵌り、これが楽しいという事なのだと思い込まされていたような気がする。

 浩太がお腹に射精すると、顔を寄せて来た浩太と一度長くキスしてからティッシュに手を伸ばした。全てを拭き取り服を着て、一弥の目隠しを置いていたクッションをどかすと真ん中に横たわった。左に一弥、右に浩太という配置で、ダブルベッドには全く余裕がない。幽体離脱をしたように、天井から見たその様子を想像してみると、一刻も早くこの場所から逃げ出さなければという焦りに似た衝動が走り、目を閉じると私はまた記憶に集中した。

 ユカは明らかに私を無視した。やばい、とか、まずい、という目の逸らし方ではなかったけど、彼女の目には何かしらの嫌悪感があった。成功した人にありがちな、過去をほじくり返されるのが嫌いという類のものだろうか。でも、私は彼女の秘密の過去を握っているわけではないし、人にどう思われようが別にというスタンスでいる彼女が、そんなことを危惧するとも思えない。

 そこまで考えた時、そもそも私たちは何故、高校二年に上がる直前、突然疎遠になってしまったのだろうという疑問が湧いた。仲違いしたわけでもなかったはずだ。ほんのこの間の事に感じられるのに、何故かユカとの関係が薄れた理由に関して私は漠然とした記憶しか持っていなかった。私とユカが中心になって、そこに一人か二人気の合う子が入り込む形で夜な夜な遊び呆け。クラブもカラオケもナンパも、いつもユカと一緒だった。

あんな関係性の中では、何の理由もなく距離を取る方が難しいだろう。いつも行っていた渋谷や新宿の風景を思い出していく内に、うっと言葉が詰まるようなむかつきを胸に感じた。ああ、あれやらなきゃ、と近日中にやらなければ何だったのかぽっかりと記憶から抜け落ちてしまい、憂鬱な気持ちだけがぽっんと取り残されてしまった時のように、理由の解からない嫌悪感が胃の中に蠢いているようだった。私は意識的に十年前の記憶を手繰るのを止めた。

 保育園に通い始めたら、またユカに会うだろうか。嫌悪感の中に、好奇心が湧いた。もう十年近く連絡を取っていなかったユカが、自分とほぼ同じ時期に子どもを産み、家庭を持ったのだと思うと、一方的な好意が生まれた。ユカが子どもを躾つけているところなど想像も出来ない。一体どんな育児をしているのだろう。でもそこまで考えたところで、ああ私は十年前にコアラのマーチを差し出されたあの時も、こういう好奇心でもって彼女と仲良くなり、最終的には「嫌な女だった」という結論に至ったのだと思い出した。

私に気づかないふりして背を向けたユカの姿を思い出したら、ユカなんてどうでもいいという気になった。かつて同じ場所と時間を共有していた彼女が、知らぬ間に作家になったという事、自分が密室育児で燻っている時、彼女は相変わらずの格好で保育園に子どもを預けて仕事をしていて、充実した生活を送っているであろうこと、自分がそういうあれこれに嫉妬に近い苛立ちを抱き、中学高校の頃に持っていた少女特有の底意地の悪さを再燃させているのに気づいてぞっとした。

 何はともあれ私は一弥をドリーズに入園させ、自分の時間を手に入れるのだ。一人の人間として生きられる空間を手に入れるのだ。それが手に入った後の事なんて、今はもうどうでもいい。

 ふわっ、あーっ、一弥の頼りない泣き声が聞こえた瞬間、頭上に手を伸ばしてデジタルの時計を光らせた。AM03:12.最近、また夜泣きが増え始めたている。脳みそが揺れているような吐き気を伴った眠気が、授乳をしなければならないという気持ちが奪っていく。とんとんと胸元を叩いても一弥に再び寝付く様子はなく、次第に声を張り上げていく。

諦めて半身を起こして一弥を抱き上げると、その場でトップスをぐっと引き下げ乳首を含ませた。浩太は隣でびくともせず穏やかな寝息をたてている。再び訪れた静寂の中に、私は不意に下半身に手応えを感じた。寝ぼけたまま何だろうと思ったけれど、次第にそれは確信に変わっていった。十分もしないうちに、一弥が乳首を口に含んだまま眠りについてしまう。静かに下ろして布団をかけた。暗闇の中に、しんとしたダイニングキッチンを通ってトイレに入り下着を下ろす。ピンクの下着には、とろっとした血がついていた。産後初めての生理だった。

一瞬不正出血ではないかと思ったけど、腹痛は妊娠前のそれとまったく同じだった。一弥の離乳が進み、母乳の分泌が減ったせいだろうか、私はまた、妊娠前の身体に戻りつつあるのだ。生理のない状態をむしろ楽くだくらいに思っていた私は、別に浩太のせいではないと知りながらも、さっきのセックスが引き金となって生理がはじまったような気になって、理不尽な憤懣をトイレ内で漂わせつつ戸棚から埃をかぶったナップキンの袋を取り出した。
つづく  第二章 五月子編
小説にキーワード 子宮筋腫、堕胎、子宮内膜症、彼と不倫、不倫への最悪感