広い家の中は、多くの硝子戸に囲まれた、どこか空洞な部屋の集団に、なっていた。六つになった英二の弾く、ポツン、ポツンと離れ離れなピアノの音が、その一つ一つに孤愁の色を纏(まと)ってはね上り、部屋の空間で、消えた。灰色の水槽の一部屋に、厭(あ)きた魚の顔をした魔利がいる

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青い栗

【広告3】男と女というのは、実は結婚した時から飽きる方向にしか向かって行かない。いくら好きだからと言って、年中すき焼き食わされたら、誰だって飽きます。夫婦関係を永遠に繋ぎとめておくために、多種多様な戦術を利用する。そうした戦術の大きな基盤の一つとなるのは、配偶者がもともとどんな欲求を抱いていたかという点だろう。配偶者の欲求を満たす、そして例えば愛情とセックスによって繋ぎとめられるのが理想だが、大概の男女はオーガィズムの奥義をほとんど知っていないという実情がある。オーガィズム定義サイトから知ることができる。
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夫の秋治が、帝大の図書館の仕事でアメリカのニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなぞを廻る旅に出たのが四月半ばだった。
浅野秋治の一家が朝日村という、金持ちの家ばかりで一廓をなした住宅地に越した翌年で、その頃は魔利(マリア)と秋治との間の愛情生活が悪くなりかけてたか、かけないかの、かねあいのところである。

例えば魚の煮おきなら、鼻を魚の皮へつけてみてようよう微(かす)かに匂いが感ぜられる、といった程度のところである。蒼白(あおじろ)く、秀でた額の眉根が高い、鋭い眼と皮肉な微笑(わら)いとをもつ秋治の、長い竿のような瘦せた体は、一年ほど前までは憂愁の恋人として、魔利の眼の前を動いていたのだが、今や憂愁が度を越し、憂鬱となっていて、それが魔利を暗くする傾向が、生まれはじめていた。

 だが、愛情問題とは別に、家庭というものにひどく倦怠感をもっている魔利である。その魔利の気分は、朝日村の家全体を支配して、用事という用事を遅れさせ、或はどかへ脱落させ、家庭というものの運営をガタピシにさせていた。なんともいえない、だらけた気分というか、倦怠の霧のようなものが家の中に漲(みなぎ)っていて、それが索莫とした空間を家の中に拵(こしら)えて、いた。魔利は家庭をやらないので、家の中はどこか砂っぽく、用事は止まりかけた機械のように止まっては又のろのろと、動いている。

芝生はまだらに剝(は)げて、ちびた筆のようになり、その上を白い、長いキャピの毛がフワリフワリとさ迷っている。そういう状態は又一層魔利の倦怠を引き出してくるので、家のだらけた空気と、魔利の家庭への嫌厭(けんえん)とは互いに相呼応して、響きあい、お互いを落莫たる淵(ふち)の中にひきこんで行くように、みえた。

 広い家の中は、多くの硝子戸に囲まれた、どこか空洞な部屋の集団に、なっていた。六つになった英二の弾く、ポツン、ポツンと離れ離れなピアノの音が、その一つ一つに孤愁の色を纏(まと)ってはね上り、部屋の空間で、消えた。灰色の水槽の一部屋に、厭(あ)きた魚の顔をした魔利がいて、その魔利の気分が、この硝子に囲まれた家の中にいる人間や、犬の頭にまで伝染しているので、家政婦の高井花も、英二も、四つになった慶二も、三人の女中たちも、どこか気だるそうにして、動いていた。

白い、毛の長い洋犬のキャピの、退屈しつくして狂い廻っている影は、硝子窓にぼんやりと映っている。まだらに剝げた芝生の上に、白く長い毛の塊りが解(ほど)けかかったような形で跳ね飛んでいる。

まばらな五六本の楓(かえで)の木と、剝げた芝生とが灰白色の石の塀に囲まれているだけだだっ広い庭は、誘拐魔が子供と隠れている家の庭だと教えられても、誰でも信じられるような、索莫とした様相をおびている。

 庭だけではない。秋治の新居のこの家は、家の外側は全部灰白色の石材で囲まれていて、どこからどこまで四角く直線で、出来ている。製薬会社の寮か、罪人の収容所か、というような殺風景な建物である。赤坂にある本邸の方は、明治時代の大工に任せたので、西洋館は紅い煉瓦で囲まれ、内部も家具も、すべて古いヨーロッパ式に出来ていて、どこかに黒船のハリスの邸宅の面影があったが、修作には西洋建築の智識がなく、今度も大工に任せ切りである。

そこへもって来て秋治が何一つ意見を出さないので、その頃のいわゆる新建築で、ただ灰色で真四角なだけである。秋治と魔利との、悪くなりかけていた愛情生活は、二人がこの石の家に入ってからテンポを速めた気配があり、魔利の母親の圭子も(牢屋のようだねえ)と言い、来ても落ち着かないようにして、早く帰った。

前に居た目白の借家はいわゆる赤い屋根の西洋館で、大正中期の、白秋の童話が子供のいる家を明るくし、彩っていた時代の家だったが、秋治と魔利との、最初から細く白い愛情生活の火が消える前の薄赤い炎をあげたのも、その目白の家で、あった。

 外側の灰白色なこの家は、内部は暗い褐色に塗られ、床は二階の日本間二間と、廊下の魔利の居間とをどけてはすべて緑色のリノリウムが張られていて、その上を歩く人々の皮の上履ききの音が、歯医者の廊下のような、冷酷な音を、立てた。

 冬になると、秋治の義兄の安西洋三という、丸の内に事務所を持っている暖房器具を扱う会社をやっている男が、幾分試運転の意味で無理やり持ち込んだボイラアで、石炭を湯水のように焚(た)き、廊下から階上の各部屋、廊下、便所に至るまでスチームが通る仕掛けになっていたが、具合の悪い日が多く、一朝火が消えてしまうとすべてのスチームの管は氷のように冷えて、貧民窟(ひんみんくつ)の家より温度が低下した。

日一日と陰鬱さを増して行くように見える秋治が、大嶋の普段着の瘦せた肩と肱とを尖らせ、左手は懐手で、蒼い顔の片面を石炭の炎の光で赤く染めながら、むやみやたらに石炭を放り込むと、帝国ホテルの冷蔵庫ほどもある白い輝いたボイラアの口の中で、赤い炎が地獄の業火の如くに燃え上がるのである。秋治以外の人間には燃せなかったので、家はいつも森閑として冷え切っていた。

 学校から帰って来る英二は、母親の魔利とそっくり同じぼんやりした眼で辺りを見廻すと、ランドセルを投げ出し、寝転んで漫画の本なぞを見始める。昼食の菓子パンの残りの一個が、ランドセルの蓋と教科書との間にひしゃげたのを取り出して、魔利に呉れることもあるが、渡す方も受け取る方も、ぱっとしない表情である。

猛禽(もうきん)のような眼をらんらんと光らせている高井花の、艶のいい、紅く引き締まった顔と体とから、母親にはない生活の活気のようなものを見出すらしい英二は、高井花が籠を下げ、白い割烹着の丸くこんもりとした肩を怒らせ、垂るんだポケットに蝦蟇(がま)口を突っ込みながら「英二さま」と言うと。幾らか元気のある様子で起き上がり、黒い靴下の細い足で花のあとへ従って行った。

食堂の安楽椅子に腰掛け、庭―下りる石段の上に置いてある睡(ねむ)り草の鉢の上に、焦点のない眼を合わせている魔利の眼が、それを不愉快そうに見送るが、その眼は又睡り草の上に、返るのである。

 ブレジデント・ジャクソンという船で、秋治がいよいよ発ってしまう、ロマンティックな魔利はいささかの活気を盛り返し、手紙を拡げて、居間の窓を眺めた。曇った硝子窓には栗の大木の幹が、幾らかの苔に青んで、映っている。魔利が注文して郊外の植木屋から運ばせた、たった一つの情緒のある庭木である。

窓からは見えないが、繁った葉の間々には薄緑色の長い花房が、濃い、息苦しい匂いを辺りに吐いている。木の根元の、キャピの白い毛と、長虫のような、白ぼけて青い栗の花とが混ざり合って、ところはげの芝生に散らばっている光景はぞっとするが、魔利の心眼はもっぱら薄青い煙の尾と、濃い匂いと、葉の間々に群らせている栗の梢(こずえ)に、向けられるのである。

 (パパが帰ってくるのが十月だと思うと、尖った毬(いが)を被った青い小さな栗の実が、三つ四つと固く塊って実(な)っていて、それが緑の匂いのするような、秋の栗の木が見えます。‥‥)そういう書き出しの便箋無慮十数枚の魔利の手紙は、やがてやっぱりブレジデント・ウィルソンか、パタアソンかなにかの船の便で、ニューヨークの大使館に、着いた。

秋治と同行した、おでこの四角い宮田という図書館の属託の男が、行く先々からホテルなり大学なりの所書きを寄越してくれるので、そこに向けて頻々(ひんびん)と魔利の手紙が海を渡るのである。秋治の方も幾分か陰鬱が薄らぐらしく、五六年前のヨーロッパからの手紙には比すべくもないが、いくらか愛情のある夫らしい片鱗を現した手紙を寄越して、魔利の手紙病に拍車をかけた。

外出嫌いというよりも、とくに魔利の外出を嫌う秋治と、長い間暮らしたために魔利は、秋治のいない留守でも、家の中に体が張り付いた感覚があるので、映画も銀座もなく、魔利の夢はもっぱら手紙の文章の中に滲出(しんしゅつ)した。

 その頃魔利は秋治に頼んで、ミュッセの《恋を弄ぶ勿(なか)れ》を訳し、それを鷹能(たかのう)という秋治の先輩に見てもらうことをしていた。だが偉大な浪漫(ロマン)派のミュッセの戯曲も、魔利の夢としては甘さが不足していた。偉大なミュッセも昔の人間であるから、どこかまだるっこくて、魔利の父親の欧外の文章のようである。

 そういう、だらけ切った生活が、或晩一つの出来事によって目が醒めたようになり、魔利のいる灰色の家は一時、いくらかの活気を呈したのである。
 それは九月に入った三日目の、ひどい嵐の日で、魔利の母親の圭子と妹の百合(ユリア)が来ていた。栗の木の窓のある部屋で、魔利は役者の舞台写真や、素顔の写真なぞの入った箱を持ち出して、遅くまで遊んだ。魔利は当事、沢村源之助の切られたお富、またかのお関、なぞの写真を居間に飾って尊敬していた。黒縮緬(ちりめん)の着物に白博多のひっかけ帯、着物の裾をめくって白縮緬の腰巻を現した写真である。秋治はそれを厭(いや)がり、圭子が来ると、
「僕は鼠とりで殺されるかも知れませんよ」
 なぞと、言った。圭子は笑って、
「秋治さんは少し本気で言っているねえ」
 と、魔利に言うのである。
 十時が過ぎて、圭子たちは帰り仕度をした。圭子は女中の母親のように、台所口から出入りするのが好きで、その日も秋治や魔利、英二なぞの汚れた衣類の、洗い張りに出すのを引き受けたので、大きな風呂敷包みを持って出て行った。その為に近所や出入りの商人なぞの間で(浅野さんの奥さんの実家(おさと)の奥さんは、大きな風呂敷包みを持って夜裏口から出ていく)なぞと陰口が、囁かれていた。

「風が強いから気を付けよ」
 圭子が振り返って、言った。魔利はぼんやり、もとの部屋に引き返したが、部屋に入ろうとして、一瞬敷居際に、立ち辣(すく)んだ。開けてあったその窓の縁に、艶のある禿(は)げた頭が薄い櫛形(くしがた)にみえていたのが、すっと引っ込んだのである。魔利は途中に女中部屋のある、もと来た廊下へ引き返したが、背中に冷たいものが走っていて、食堂を出たところにある電話室に入ることが出来ない。

女中部屋の入り口に立った魔利が禿げ頭のことを言うと、三人の女中は同時にのろのろと、立ち上がった。りえという背の低い賢いのが、強張った顔を力むようにして、言った。
「落ちつかなくっちゃあ…‥」

 太った大きい方の一人が後を向き、押入れを開けにかかった。
「無くなったものがあったら買ってあげるから、直ぐ私と二階へお出」
 魔利は自分でも知らぬ間に、覚えたセリフのように、言った。三人は従順に魔利の後をついて階段を上り、魔利夫婦の寝室に入って、魔利が鍵を掛けた。英二も、慶三も睡っている。しばらくすると寝室の真下の秋治の書斎で、かさこそと、何か物色するらしい物音がした。
「金盥(かねたらい)を叩きましょうか、奥様」

「何もしない方がいいのよ。その内冬雄さんが帰るから」
 魔利が言った。
 朝日村の住宅地というのは、若槻(わかつき)首相の家なぞも混ざっている大邸宅ばかりが、定規で計ったように白い道路を挟んで整然と並んでいる、どれも同じ灰白色の家の集団である。何を鳴らしたからといって、しかも夜夜中、犬の子一匹出て来てくれるというような場所ではない。これが林町の実家ででもあるなら、すじ向うの団子屋の、土色の顔をした親爺そっくりの息子、正面の床屋のアサスズメ、この男はマージャンの流行り出したころ、「この頃麻雀(マージャン)ってのが流行ってますね」と言ったので、それ以来魔利たちの間ではアサスズメと呼ばれいる男で、細く小柄で色が白いが、病気がありそうにはなく、男一人前の力はありそうな男である。

それから隣りの酒屋の若旦那、及び二人の中僧、右隣りの道具屋の主人。床屋の隣りの判子屋の主人だけは、二六時中背中を丸くして坐り詰めで、元気が夥しく欠けているので頼りにならないが、これだけの男たちの中から、少なくとも二人や三人は駆けつけて呉れる可能性があるのだ。魔利はそう思って、この冷ややかな灰白色の家々の集団が現している、特殊階級の持つ気分というものを、呪った。

 少間(しばらく)して今度は寝室の窓の外に微かな気配がした。四人の女が息を詰めて見守っていると、窓の下の枠を二三度滑る手の音がし、窓硝子をかする手の影が映って、その儘(まま)静かに、なった。四十分もした頃、廊下に足音がして冬雄の声がし、扉が鳴った。冬雄というのは秋治の弟で、秋治の留守中、用心の為に夜だけ宿りに来ていた慶応の学生だが、その頃の三田通りの遊び人で、いくら夜の番人頼まれたのにしても、毎晩来るのが遅すぎた。

冬雄の声を聴くと魔利よりも三人の女中たちの方がみるみる元気になって、我先にと廊下へ出た。冬雄は金縁眼鏡の中から、いつもの白眼勝ちな上目使いで、女たちを見て、言った。
「裏から入ると電気が点けっ放しで誰もいねんだろ。変だと思ったから摑まれねように上着を脱いで入って来たんだ。もういやあしねえ。何か盗られているか見て見ろよ。魔利姐さんじゃあ何が無くなったか分からねえじゃないかな」

 そんなことよりも、留守番の帰りが遅いのが第一に困るのだ。魔利は内心怒りながら、思った。結局臆病で賢い泥棒だったらしく、箪笥の上にあった魔利の財布から現金だけ抜いて行っただけで、手提金庫にも手をつけていなかった。

 翌朝。駒込署から刑事らしい男と、巡査が二人来たが、被害が少ないので彼等は身を入れて調べて呉れようとはしない。魔利は留守中にもう一度来ることを怖れて、それを言ったが、刑事らしい男は笑って答えもしないのである。魔利は寝室の窓のことがあるので、痴漢の傾向を持った泥棒だと見当をつけていて、内心ひどく怖れた。

魔利は一人で家の内外を見て廻って、寝室の窓に枝を延ばしている楓の横木についた、泥の跡を発見したり、居間の窓の下でマッチの軸木を見付け出したが、刑事たちは何一つ発見しようともせずに、引き上げて行った。魔利から話を聴いたら舅(しゅうと)の修作が大工を伴れて来て、寝室の窓全部にがっちりした太い鉄の棒を嵌めさせたので、ただでさえ灰白色の、四角いだけの家は、いよいよ狂人の住家か、罪人の収容所か、というような凄みのある表情を、おびて来たのである。

 魔利は、二階の窓に鉄格子の嵌った家の中で、相変らず恋文のような手紙を秋治に書いては、その他の時間はぼんやりと、食堂の安楽椅子に腰かけ、永遠のように続く家庭というものの歯車に、辛くも引っ掛かっている肥った魚のように、もの憂い息を、吐いていた。魔利の吐く息は丸い、大小の水泡になって。倦怠の漲(みなぎ)る空間を登り、灰色の水槽の天井に突かえては辺りに不満のつぶやきのように、微かに鳴り、破れては飛び散った。

 日に一度は夕飯刻(どき)というものが来て、女中の一人が顔を出す。
「奥様、晩のお菜(かず)は何にいたしましょう」
 そう言って女中はかしこまって魔利の顔を、見詰める。魔利はぼんやりした眼に、幾らかの光を出して女中を見返り、だらけ切った頭から二つ三つの料理の名をひき出し、それぞれの料理の下拵えを、女中に命ずるので、あった。

あとがき
 この「贅沢貧乏」には、雑誌「新潮」に載せた「贅沢貧乏」(昭和三十五年六月號)と、「紅い空の朝から‥‥」(昭和三十七年一月號)と、「黒猫ジュリエットの話」(昭和三十八年二月號)それに今度、高橋書店から原稿を依頼されたので、その雑誌に書いた、「マリアはマリア」を入れてある。
『青い栗』は、昭和三十六年六月號の雑誌『心』に載せたもの。今のマリア以前のマリアが偶然描かれたもので、一寸、『贅沢貧乏』の前日章のやうなので、この本に入れた。
 19630
森茉莉森 茉莉(もり まり、1903年(明治36年)1月7日 - 1987年(昭和62年)6月6日)は、日本の小説家、エッセイスト。翻訳も行っている。 東京市本郷区駒込千駄木町出身。文豪森鷗外と、その2人目の妻志げの長女である。幻想的で優雅な世界を表現することに優れており、主な著作には『父の帽子』『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』などがある。また、独特の感性と耽美的な文体を持つエッセイストとして、晩年まで活躍した。
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