眼を上げると頭の上のベッドの背にはいつものように、いろいろな色のタオルと、真白な下着の滝が掛かっている。カナリア色を含んだ薔薇色の濃淡の左側から順に、稀薄(フラジル)な水色、ミルクの入った青竹色、淡黄地に緑の花のあるもの、橙黄(オレンジ)の大型タオル、濃紅色の線の入った白地、同じく下着である。テーブルの方へ寝返り、首を捩じった魔利の眼が、タオルの滝の上を越して硝子戸へ行った時、魔利は思わず半身を起した

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Ⅱ 紅い空の朝から…‥

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 眼を醒(さ)ました牟礼魔利(むれマリア)は一寸(ちょっと)の間、自分は何処にいるのだろうというような顔で、暈(ぼんや)りした視線をうろつかせた。
写真森茉莉(=マリア=)
 なんだか妙に明るい。

 先刻から妙に明るいのも道理、硝子窓一面の空が、魚の血を流したように紅く、黒い大きな柿の葉と、太い枝とを不気味に浮かび上がらせて、生々しい生命のように染まっていたのである。八年と十カ月の埃(ほこり)が附着した硝子窓のせいだけでなく、光は鈍く、重いが、魔利を狂喜させる、美しい色である。

――魔利は自分の心のすぐそばにあるような気がする一聯(いちれん)の色を愛している。たとえばこの空のような、鈍く透き通った紅(あか)である。又はオリーブ色、薄れた黄金(きん)「茶碗や皿の縁(へり)の剝げかかった黄金色なぞが、魔利は大好きである」黄薔薇色、薄黄を含んだ空の色、そういう不明瞭な色である。魔利の心のというものが全くのところ不明瞭なものだからである。映画の中で、アメリカの森林地帯にある町の雑貨店が映って、そこに濃いオリーブ色と、熟したぐみのような紅をアクセントに、それらの色調が浮かび上がったとする。すると魔利は心の中に小さな叫びを上げ、そうして新しく生まれたような二つの眼を画面に吸い付けのだ。魔利は綺麗なものを探している。

新鮮なもの、自分だけ、自分一個人の美の観念(大した美ではなかろうが)に合ったもの、又はそれを追い越す耀くもの、を見つける時、魔利の二つの眼は、今生まれたばかりの赤子の眼よりも生々とした潤いを漲(みなぎ)らせて、その対象に当てられる。魔利が「生きている」と思う時間、それはその時だけである。

舞台の、紅らんだ光の中に佇(たたず)み、又躍動する、パラオのハムレットの足。興奮を中に包んだ跳梁(ちょうりょう)。骸骨のような額の下の白く光る眼、パリの映画役者の或るものの、恋の残虐にみちた眼差し、おどけた、それでいて無類にいきな表情、魔利の感覚に歩調を合わせている、彼等の美への観念。

周囲(はた)の眼を盲目にしているひそかな恋の秘密を微笑(わら)い、フランスの名誉のうしろにある、フランスの淫蕩(いんとう)。しかもそれは精神の中に止められている。彼等ボオドレエルの従弟達。不敵で、節度のある、悪の華の中の若者。

  ルイ十四世の豪華。嗅(かぎ煙草をつまみ、鼻に持って行き、胸の辺りを払う軽い手つき、ルイ十六世の幽閉されたバスチイユの塔、シャトオ・ディフの石の外郭をめぐる夜の海、モンテ・クリストの物語。それらのものの堆積をうしろに持つパリの役者たち。

磨滅した石畳の上を生き生きと遊泳している彼等。あらゆる種類の花々をおもわせる女優たち。裸の胸を白い花の造花が蔽(おお)い、イチジクの代りの、黒の華やかな天鷲絨(ヴエルウル)のリボンが下腹部をわずかに隠して、腰の上で花の形に結ばれているバルドオの裸は、前世紀の、優雅な、腰の持ち上がった上にリボンの飾りのある礼装を想起させると同時に、たしかに繋がっている女と花との、深い関聯(かんれん)を魔利に感じさせる。大体パリの人間たちが、魔利の眼を、生きる歓びの中に導いてくれるようである。

 まだ一つ、魔利の魂(魂なんぞが魔利にあったかしらん。だが全く無いというのも気の毒だろう)を強く惹きつける黒人の芸人たちがあるが、もうこれ位で割愛しておこう。退屈な文章を我慢して読んでいるかも知れない人々の為に。それに第一、いつからか本文を外れたようだ。どっちが本文なのだ、なぞと言わずに読んでもらいたいのである。――

 イタリアの宗教裁判で、僧の体を鋸引(のこぎりび)きした血の汁が、水盤に流れて、紅く染まった紅の色である。ビニョレがナルボンヌの寺で、泉水の底にいる青い蛙(かえる)に向けて斧を打ちおろした時の、蛙の色である。日本の革命の色なら、もっと俗な紅の筈である。

  ――何故なら、日本の赤は白地に赤くの赤であり、啼(な)いて血を吐く不如帰(ホトトギス)の赤であり、上等のところで、からくれないに水潜るの、赤であって、ひどく穏やで生ぬるい。神の大きさと、悪魔の大きさ、つまり善のおおきさと悪の重さを包蔵しているヨーロッパのとは根本から違うのである。

  広告の紙の紅、なのだ。情緒としてそれを見る詩人の眼にだけ美しい、飴細工の鶏のとさかの紅、紙風船の紅である。深沢七郎の頭の中に、又は映画の中で魔利が見た、戦場の血や、囲炉裏の火の紅、馬の死体、それ程の生々しさ、暗い紅ささえも、そこにはない筈である。

 そこやかしこに置いてある空瓶の、硝子の色や、陶器の光。紅や黒がある錠剤の、てんとう虫の一つ一つにある光。花。それらを視、タオルや洗濯物の滝を見て、何が嬉しいのか、為(え)体のしれない笑いをもらしている魔利は、今朝、黒い柿の木の模様を浮き上がらせた紅い空に博(う)たれて、殆ど狂気じみた状態にまで、なった。空の紅はいよいよ照り、埃に曇った硝子をも難なく通り越して、魔利の枕の辺りに流れこみ、タオルや下着の上にあけぼののような色を、染め出した。

 魔利は小さく声を出して言い、完全に醒めた眼をみはった。
 夢のような何十年かを生きてきた魔利が、そこに眼を遣り、魔利の精神の中に立ち入らぬことには不可解な、満足の笑いを浮べて来た部屋の中の舞台装置も、この頃では、魔利の好きな色や、透明、情緒の集大成をなして来ていて、多分そう永くはない魔利の未来の中で、有終の美をなし遂げようとしているかのように見えたが、その誘(いざな)うようなもろもろの色や影の中で、怠情に溺れ、陶酔に耽(ふけ)ろうとする魔利を呼び起しはっとしたような顔になって何かをやり始めなくてはならぬようにさせるものが、この頃になって出来てきた。

 最近の魔利には、小説を書かなくてはならないという、重苦しいノルマが課せられているのである。もともと無理な話である。魔利は小説を書こうと思ったことが無く、小説というものがどんなものかも、分かっていない。小説の細切れ、つまり短い感想のようなものは書きたいと思っていて、昔から書いていた。だが小説となると別のものである。随筆集を出している内に、随筆と小説の間の子のようなものが出来たので、セリフを別行にして、小説らしく拵(こしら)えて随筆集の中に混ぜて出した。ところがその小説のようなものが、私小説になっているという批評を貰ったかと思うと、突如として小説の注文が来たのである。

 その時魔利の状態は乞食の一歩手前に来ていたので、その日から、生きなくてはならないという切実な問題を背負って、鉛筆を握りしめ、書けないものを無理して書いた。鉛筆を強く握ったのは、強く握ったら書けるだろうと思ったからである。怖かったが、書けなかろうが、怖かろうが、書くより他に米やパンを購入する道はないのである。

 ずいぶん悪い評を貰ったが、こっちは引っ込んではいられないので、ますます書いた。長くて、拙(つたな)い、世界一に詰らない小説である。その当時は素晴しく書いたつもりだったので、批評を読んで落胆した。

 魔利には自分の中に書きたいものがあって、その書きたいものが、長い間、わけの分からない文章のかたまりの中に嵌(はま)りこんでしまっていた。その書きたいものは、詰まらないものだったが、それがぎちぎちした、わけの分からない魂の中に行方不明になっているのは、残念だった。「小説」ということになっていて、小説の載る欄には載っているが、小説でもなく、そうかと言って随筆にしては長すぎる文章の中に、魔利の書きたいものは見失われそうに、なっていた。

甍(いらか)平四郎の前に坐っていた時、魔利はこころみに、言ってみた。「『曇った硝子』はどうでございましょか」と。どうもございますも、ませんも、てんから人の前に出せた代物ではないのである。それを「どうでございましょうか」というものだから、甍平四郎は答えた。昭和三十三年の六月から三年ごしの師弟、でもないが、そんな間柄になっていたから平四郎も答えたのであろうが、返答に困ることを訊かれたものである。平四郎は正直で、親切な人間である。平四郎は答えた。

「中に入(はい)って行こうとする人が入れるように、鍵をかけないで、入りにくくないようにした方がいいね」
 魔利は感に堪えて、言った。
「実は私にも読んでみると入れないのでございます」
 その期間が延々、二年続いた。このごろになって、その自分の中にあるものが、こんがらかった糸の一端がほぐれ出したとでもいうように、出て来て、「これは小説である」と、言うことになった。本人の魔利は勿論自惚れの少い方ではないから、「小説である」と、大いに認めた。

どうやったら小説が書けるか。どうやったら見たこともない人間を出してきて、歩いたり、止まったり、させることが出来るのだろうか、と、魔利は長い間思っていた。魔利の小説の中では、人物が腰を下ろしたり、立上ったりしたかと思うと忽(たちま)ち止まって、為体のしれない文章の魂の中に入ってしまった。どうしたら、見知らぬに人間が人を訪問したり、自動車に乗って走ったり、泣いたり笑ったりすることが出来るのだろうか。

魔利はその大問題を頭におく時、「出来ない」という答えが出るだけで、あった。それが或日、小説というものになったのは、あっという間の出来事であったてのだ。小説の三分の一までは、それまで通り、事実あったことを、例によって書いていたのだが、化けもの屋敷のような家をもっと際立たせようというので、「サイコ」の気違い青年のスチールを下敷に、精神の次男という人物を出してみた。

ところが愕くべきことは。「サイコ」の気違い青年が、いかにもそういう青年らしく、木戸をガタンと明けて入って来て、長い体を延ばし、こっちへ歩いて来た。そればかりか、ぼろ家の中をうろついたり、愛している妹を誘惑しているカザノヴァを睨みて出て来て、廊下を往復したり始めたのである。

俄(にわ)かに魔利は、元気づいた。そうしてもう一人の人物、つまりカザノヴァを出してきて、動かした。その人物は、魔利が親しくしていた人間が三人交わったもので、あった。その内に恐るべきことは又も起こって、ロオラン・テルズィエフのスチールと、木下杢太郎(もくたろう)の若い時の姿が交じった青年建築家が、登場した。

その上にニグロの青年も出て来ることになったのである。(これは「日曜日には埋葬しない」の黒人青年がモデルである)

魔利が、しめた、しめた、を心の中に連発しながら書いていると、(一つはその小説の舞台や、実在の人物が小説そのままであって、見知らぬ人物をそこに交ぜて出して行くのに、白粉(おしろい)がよく延びる肌のような役目をしていたが、魔利の幸運で、あった)そこへ十三歳と七カ月の少女で魔利の親友のミチというのが入って来た。魔利は半分昂奮状態になっていて、言った。

「お嬢さんが恋愛しているんだよ。今にニグロの兵隊がやきもちを焼いて、ジイプをぶっつけてお嬢さんを殺してしまうことにしようか」
 と、言った。ミチも昂奮して、
「そうしなさいよ、そうしなよ」
 と言ったのである。する内にニグロは深く清らかに、令嬢を恋し、カサノヴァやテルズィエフとの恋愛をみている内に昂奮し、嫉妬して、テルズィエフとの婚約を発表したクリスマスの夜、遂に令嬢とテルズィエフの乗るジイプに車もろとも打(ぶ)つかり、三人即死と相成った。そういう訳で魔利は、見知らぬ人物が出て来て、泣いたり笑ったりするばかりか、殺人事件まで起し得るという自信を得た。

 その後魔利は、今度は駄目かも知れぬ、という恐怖に脅かされながら、小説を書きつつある。魔利が小説を書く目的は何かというと、自分の中に書きたいものがあるなぞと、意味ありげに言ったが、全くのところそれは馬鹿げたものである。つまり粋な、野暮でない感覚、きれいで、凄みのある恋愛である。

現実の世界で野暮な、厚ぼったさ、野蛮さ、恋愛的なものの汚さが、魔利には見るに堪えないが、眼を開いている以上は見ない訳には行かない。そういうものを、せめて小説の中では、根こそぎ追放して、小説の中だけ、気分よく生きたい、というのが魔利の念願である。最近書いた「恋人たちの森」なぞは、下北沢に屯(たむろ)する愚連隊のあんちゃん達に捧げる為に書いたといってもいい位のものである。

――色とりどりのスウェータアを着て、三々五々、芸もなく、下北沢のガアドの下に突っ立ち、人が通るとなんとなく凄み、聴こえよがしに、「やばい」とか「さつ」だとか言っている、昭和三十六年度の日本の東京の愚連隊の兄ちゃん達よ。この小説に出てくる、ぐれかけた美少年と、パリの貴族と日本人の女との間の子の美少年とが交すようなセリフが言えたら、言ってごらん。この二人の男がやっているような、恋愛の味を深める為の戯れ。カンのいい一種の言葉のフットボールがもしやれたら、やってごらん。そういうものがわからないので、不良面はして貰いたくないのだ。不良というものはね、困った人間である代りには普通の人間には逆立ちしてもなれないように粋で、恋愛なぞの場面でいかすのではなくてはてんで意味がないんだよ。つまり君たちは、存在理由(レジン・デエトル)がないんだ。

 魔利はそう言いながら、その小説を、彼等尊むべき愚連隊の兄ちゃん達に、捧げたかったのだ。その為だけに、魔利は書く。魔利は元来「作家」なんて偉いものではない。人生の深刻な問題も、なんとなく暈(ぼや)けた頭に映るばかり。硝子の壜やコップに似て、ぼやけている魔利の頭である。だがどうかすると、硝子のくもりのある綺麗さのようなものが、出て来はしないだろうか? それだけが細い、たのみの綱で、あった。

 さて、「小説」になって来たというものの、一つの新しい小説を書き始めるまでの苦しみは大変で、その度に、鉛筆を握りしめて書いた最初の時に、逆戻りであるから、生きることを諦めない限り、魔利に課されたノルマは永遠のものなである。

 新しい小説を書こうとするとき、魔利は宇宙の混沌の中に、放り出される。有史以来の景色である。地球や月なぞのもろもろの星と、それを浮かべている空間とが、鶏の卵の出来かけのように、混沌としたものだった頃、(本当にそうだったかどうか、魔利はよく知らないが、これは女学校の教師の説である)そういう寂しい世界に、放りだされるのである。そういう恐しい世界の中で、魔利は水に落ちた猫のように手足をのろのろ動かすのだ。

 魔利はどこに摑(つか)まろうとする。どこにも摑まるところがない。どこやらに光は見えていて、真紅(あか)いシャツの美少年が、曲がりくねった広い階段を下りて来ながら、階段の下にいる子供の方へ、眩しそうな眼をチラッと向けたり、そう思うと、晴れた日には白の薄絹、曇った日には炎が首をとり巻いて燃えているような薄紅いネッカチイフを巻、黒の皮の外套(がいとう)を着ている美少年が、オルリイ飛行場に下りて、タクシイに飛び乗り、夕暮れのクリッシイの叢園(そうえん)のある邸の、茨(いばら)の絡んだ石塀の潜戸を潜って姿を消したり、するのだが、その光のようなものも、その多くは褐色の色褪せた羽に変じた、メエテルリンクの偽りの鳥に過ぎない。纏(まと)まった小説の形の中に、嵌り込むこともなくて、それらは消え去って、しまう。

 その過重なノルマを魔利に持ってくるのは、編集者の訪問、又は電話である。電話にしろ、来訪にしろ、魔利は編集者の来襲を、恐れている。殆ど一人よりない編集者だが、その編集者が恐しいのは魔利が小説を書けない為に恐ろしいのであって、その人間自身は恐ろしくもなんともない、唯の一人の編集者であるに、過ぎない。

 小説がどうやら出来上って、締切り日が近くなり、追い込みになると、――追い込みがきいて呆れるが――タオルが夢のように下り、硝子や陶器が燦々(きらきら)し、去年の夏の、露草とアスパラガス、薔薇、小百合の葉、なぞの枯れた花束の下に、ボッチチェリの春の女神が三人、腕を絡め合って立っている、魔利の歓びの部屋も、硝子も陶器も光を失い、小テーブルの上は埃とパン屑でざらつき、大皿や深皿、小皿、紅茶茶碗なぞが蕎麦屋の丼の塔と違って大小不規則な、危なっかしい芸当で重なり、

硝子壜や枯れた花や、それらの器物の間は紙くずで埋まり、本物の蕎麦屋の丼と、新聞紙の上の猫の鰹節を入れたエビオスの大雚(おおかん)、緑色の土管のような紙屑入れ、薬罎、砂糖入れ、ピイマンとトマトと玉葱を満載した大盆の載っている米入りの大バケツ、そこを飛び歩くことの出来るものは、それぞれのものの配置、液体の流れ出るもの、踏めば潰れるもの、

足に引っかけば転ぶもの等の、各々のものの性質を知悉(しつ)している魔利と、天才的の躓かない黒猫のジャポだけである。ベッドの上にはパンの包みと原稿紙と、鎌倉ハムの捩じ明けた罎、鉛筆の削り屑のこぼれたもので散らかり、夢の色も、綺麗な皿とコップの載った台も、混乱の中にその美しい影を没してしまう。 

去年の夏の花束は、化けの皮の剝げた老女のようにぼやぼやとして煌々たる電灯の光の中に醜骸を晒しているのである。その真中にどういうわけか洗面器に水を満々と張ったのがあるが、それは顔を洗おうと思って沸かしたのが冷めたのだが、そこへ遊びに来た子供がベッドから落ちてズボンの尻をびしょ濡れにする。子供の母親は部屋の中に池があるとは思わないからびっくり仰天してズボンを取替え、洗って干すのである。

 魔利の鳥はそれらの中に埋まり、羽をバタバタさせ、空っぽの胃袋の中からなにかの文章の魂を吐こうとして、苦悶(くもん)する。マスコミの作家が見たら愕くだろうが、一つの小説を五十日かかって書くのが魔利にとってはこういう騒ぎになるのである。マスコミの人々。それは書物机の上に電話のある人々である。TVとラジオと、いろいろの会合との間を縫って、三つも四つも小説を書いている人々である。

中には頭の方からだが、尻尾からだよく解からないが、どこからか半分すると、どこかの部分の鱗から点々と、マスコミ人の鱗に変わって行くのだろうというような気が、魔利にはするのである。マスコミの人々が魔利のこんな騒ぎを見ると、或人は吹き出し、或人は憫笑(びんしょう)し、或人は白い眼でチラリと見る。或少数の人々は、魔利の方に眼も向けずに、各々の仕事をやり、或は酒を飲み、飛行機に片足を乗り掛け、或はTVの俥に乗ろうとしていたりするのである。

この最後の人々が、仕事を持つ人として、現代マスコミの文学者として、本物である。さてその騒ぎの中で、原稿料の皮算用という余分の仕事がそれに加わる。絶えず金の少ないことを哀しんでいる魔利は、予測のほぼ立った枚数によって原稿を計算し、そこから一割を引くという、算術をする。世上矢洲志(せがみやすし)や埴輪不三夫(はにわふみお)とはそこひらが違うのである。

 それと同じ時間に、大森馬込の甍(いらか)平四郎の書斎兼客間は明るい緑の光に包まれている。その書斎が魔利の頭に浮かび上がってくる。深々と葉の重なり合った柏の木を中心に、あらゆる庭木、夫人の墓、石の人形、石の塔、いろいろな形の石、金魚鉢、あやめいの葉、紫苑(しおん)、門から縁側までの敷石なぞが、朝の光の中に鎮まっていて、障子の間の硝子窓から緑の光が流れこんでいる。机の上は澄んでいて、原稿紙が白く、光っている。

火鉢の上の鉄瓶の湯はまだぬるい。電気ストーブが金色に光っている。その机と、火鉢や茶道具と、後の黒い飾り棚との間の小さな四角い空間が、甍平四郎の居場所である。みるとそこには平四郎は居なくて、黒い鳥がうずくまっている。羽が光って、くちばしが鋭く、眼は細く半眼に開いている。黒光りのする羽は時折羽ずくろいをするように風にして、一寸ばさつくこともあるが、静かである。

時々黒い咽喉(のど)の奥が鳴り、文章が吐き出される。それがゆっくりと続いて、三枚の原稿が出来上る。それで終わりである。濡れ羽の鳥はさっと人間の姿に還る。もう鉄瓶の湯は松風の音を立てている。甍平四郎は真面目な目付きで鉄瓶の湯ざましに注ぎ、次に土瓶に茶を入れ、しばらく待って湯を注ぐ。原稿紙はきっちりと三枚重なって、庭の緑を映して光っている。茶を飲んで、眼を硝子の向うや、障子の高みなぞに遊ばせている内に平四郎の頭に俗塵(ぞくじん)が舞い込む。

 街で見た女の腕、脚。これから行くお伝地獄の試写や、映画の後で「リイベ」に寄ろうか、それとも、鳳安公司にしようか。其処へ林檎(リンゴ)を一つ持って行こうか。野菜サラダを詰めさせようか、なぞという楽しみ、等々が、浮かんでいる。

 原稿紙に書いてある文章には、俗な事が書いてあるように見える。だがそれは俗なものを平四郎の目で見たものである。平四郎の精神から出たものである。ミミズの生活と、人間の生活とを比べるのはおかしいが、面白い生活であるということにおいてこの二つの生活は並べられるものなのである。

――断るまでもなく、ミミズの方が魔利である――
 唯、平四郎の生活の面白さは内部に濃いものが充満していて、外面はむしろ、何もないようなのだが、魔利の生活の方は表面に脂が浮いていて、中身は水っぽい、という点に、差がある。平四郎が俗なものを眼に入れると、その一つ一つの俗なものは、平四郎の腹の中に入って文学の羽を生やし、どことなく色あいも、変わってくる。

 平四郎がふと立ち上がり、兵児帯(へこおび)の上のところが一寸袋になっている、書生っぽい立ち姿で障子を明け、帯のうしろに両手を差し込み、何かの異様なものを紙の上に吐き出したあとの、「仕済ましたり」、という、幾らか面妖(めんよう)な色を顔の上に漂わし、顎をひょいとすくうように上げて、娘の杏子

――平四郎の最後の恋人である。娘の杏子は、支那美人のような、濃艶な顔をして、平四郎の秘書役と、女の多い一家の統率との疲れで、まだ睡っている――

の睡っている離れの方に眼を遣る頃、魔利はのろのろと、西洋乞食のベッドを下りる。薬罎や、クラッカアの罎につまずきそうになったりしながら、子供の時から中気に罹っているような、のろい動作で土間に下りる。

 甍(いらか)平四郎の来訪以来拭いたことのない扉の上に、二つに折れてぶら下がり、或は下の隙間に差し込まれている四つ折りの新聞を抜き出す。新聞を拾い上げると同時に、電気洗濯機の新型、味噌、小丸煎餅、かりん糖の安売り、三千四百円の婦人オーヴァア、等の広告が、あらゆる不快な色とデザインとによって印刷された、ペラペラと鳴り、或るものは木の板かと思うように角の痛い感触を持っている紙の滝が、四つの新聞紙の間々から滑り落ちるこの広告の滝が流れ落ちるのは毎度のことだが、その度に魔利の怒りは新鮮で、少しの衰えもないのには困ったものである。

そんな風だから、絶えず怒っている勘定になる。だが、歓びの方はそれ以上で、こっちの方は気違いじみているので、差引き歓びの上に比重がかかっていて、しかも馬鹿げたことで歓ぶので、魔利の人生は歓びの人生ということが出来る。どこかに躁狂(そうくるう)の人生の匂いもある。歓ぶと魔利は、お調子に乗って子供のようになる。自分も内心不快に思うのだが、心持がふわふわに浮き上ってしまって、どう抑えようもない。

 魔利は阿保のように、人々に向かって歓びを語る。今書いているこの文章なぞはさしずめ、魔利のお調子に乗った会話の変形である。文章も馬鹿らしいが、会話となるとそれが輪をかけていて、顔は間が抜けているし、笑うといよいよ間が抜けてくるから、覗いていられたものでも、聴いていられたものでもない。魔利に好意を持っている人間と、魔利によって雀の涙ほどの何かの利益をえることになっている人間だけが、満面の笑いでその会話に応える。ふつうの人間は呆れて、この間の伸びた顔は一体どうしたものだろうと、他人事ながら、どうかしてどこかで捻子(ねじ)で止められないものだろうかと、いう顔で、魔利を眺める。
森茉莉
 馬鹿でもない魔利はそれに気づいて不快になって黙る、相手も困る、その後はもう何を言っても不協和音である。

 馬鹿げた怒りと馬鹿げた歓びは潜り潜りにくるが、或る日の怒りは朝の新聞から、起こった。新聞の一つに魔利の小説の評が出ていたのである。文芸時評のころに魔利の顔が、他の二人の女の作家の顔と一緒に縦に並んでいる。魔利の小説がベストスリイになったのかと思ってよく見ると、そうではなくて、小説というものの悪い例として選ばれているのである。

どうして悪いのかというと、要するに魔利も他の二人の作家も、女の作家というものは、宇宙の中で自分一人のような心持で、なんの疑いもなしに書いているから強い、という趣旨である。男の作家の評が例に出ていて、そういうところがないから、男の作家の方が弱い、というのである。強いのと弱いのとでは強い方が一寸見にはいいようだが、どうもその反対の意味を指しているのだということが、文章の中に感ぜられるのである。

実際のところはよく解からない、というような解らなさである。ただ大体の雰囲気として、女の作家の小説を作る頭が未(いま)だしである、ということのようであるように、感ぜられる。未だし未だしだが、それだけではなくて、子供らしくて可愛らしいというニュアンスを含んでいる。そこで女の作家としては何となく面白くない。批評の対象は魔利の「曇った硝子」という朦朧(もうろう)小説である。朦朧小説であるが一年かかって、一生懸命に書いたものである。

魔利が何よりも評して貰いたかった夢のようなものについては、「作家の夢に付き合わせられただけである」という言葉で片付けられている。「付き合わせられた」という表現がされているところを見ると、上等の夢とは認めなかったのだが、それではその夢のどこが下らないのか、甘すぎるとか、説明的すぎるとか、魔利自身を認めざるを得ない欠点を、言って貰いたいのである。折角描いた夢である。怒ってくると、同じ評論家によって褒められた言葉までがいやになって来た。

 その批評を読んだ時には天にも昇る心持で、高村松夫という批評家を救世主のように思い、敬愛おく能(あた)わざる心持で、あった。釈迦牟尼(しゃかむに)のような頭髪と、可愛らしい笑い顔も、ひどく気に入ったのである。そうして何でもものが直ぐに消えて無くなる自分の部屋であることに気づくと、魔利はすぐ立ち上がって北沢駅南口の売店にゆき、そこのねえちゃんにも褒められたことを喋り、同じ新聞を二枚購入した。

ベッドの上に拡げてみると、どの新聞にも、同じ頁の同じ場所に、まったく同じ活字が、鮮やかに印刷されている。魔利は一つの新聞を明ける度に、眼を新聞紙のその場所に吸い付けた。そうして、思った。この分で行くと、日本全国のこの新聞に、――フランスやイタリアのには出ていないだろうが――この通りに印刷されている勘定である。喜ばしき限りである。と。

そうして魔利の魂は改めて天外に飛んだので、あった。そこで魔利の、高村松夫を敬愛する心は、その日の新聞を読むまで、継続していたのである。
――作者註。この感想は、去る昭和三十五年の九月現在のものである。現在の心境に照らしてみるとこの憤慨は大分おかしい。「曇った硝子」は魔利の夢が、文章の魂の中に行方不明になっているので、この怒りの半分はもっともであるが、半分は的が外れていることを残念ながら認めざるを得ないのである。――

 二三日経って別の新聞を明けてみると、今度は別の悪口が書いてある。その時も、もう一人の不幸な女の作家とこみで、その作家も、魔利も、小説というものを思い違えているのではないか、という言葉でやっつけられている。この評の方はよく解ったが、魔利がこの小説の初めにも書いたように、魔利の小説は、分らずに、やみくもに書いているので、間違える所まで行っていない。

けれども分からないのは分からないなりに、ある夢に向かって進んでいるのである。これ位ならもっと解からぬように書いて貰いたかったと、魔利は思った。何しろ朦朧小説であるから、無理な話かも知れないが、魔利はそう思ったのである。解からない文章で書かれていることは、悪く言われる場合、とてもいいことなのだと、魔利はやっと気づいた。

 この批評を書いた、頭髪を七分三分に分けた、笑って写っている時以外には、一寸恐ろしい顔をした批評家を、魔利は碌(ろく)なことを言ってくれないのに拘わらず、余り嫌がっていない。彼は吉良野敬という名である。親切な中学の教師のような風貌をした彼は、真面目な男らしく、又文学を愛しているらしい。

又魔利自身がそういう地位についた場合、例外ではあるまいと、この頃なんとなく、そういう空気を自分の中にも微(かす)かにだが感ずることがあるので、彼が、殆ど五六人しかいない、要所に用いられる批評家として文壇に君臨していることによって、権威者としての自覚というようなものを無意識に持っていて、人が可憐(かれん)な心で当てにしていて、

新聞を明けるや否や批評欄に眼を凝らすと、一日分の文章の四分の三位を自分の健康状態や心理状態を述べることに費やしていることも、格別いやに思わないし、他の教授を兼ねている人々に比べても、偉い文学者に比べて尚更、収入も少ないのだろう、なぞと、魔利らしくないことを考えて、怒るにも怒れないようなことを書かれても、どういう訳か不愉快になることがない。

 ――作者註。これも三十六年現在としては、魔利は、或る人の話で、吉良野敬という人も某大学の教授をしていることを知ったので、吉良野敬が貧乏であろうという推測は失礼に当ることが、解った――

 だが、それはそれとして、怒りはやっぱり怒りなのである。高村松夫の方は魔利が人生の中で、離婚という失敗をした時、その事件の圏内の人間と、職業上の繋がりだけではなくて、どうやら心理の上にも関係をもっているらしく思われる人間であるので、高村松夫という四字を見ても、その写真を見ても、去年の五月の批評を見るまでは、

 ――その批評は全部褒めた批評だったが、書き始めのところは素晴らしく、よくは解からなかったが、夢にも言って貰えるとは考えていなかった、言葉であったのである――

 その顔や名前の上に、朦朧として立ち上がるものがあって、どっちかというと、吉良野敬の方が贔屓(ひいき)だったのである。贔屓だなぞとは片腹痛いと、吉良野敬は思うだろうが、こっちは、片腹が痛いどころではないのである。生命の問題である。ところが今や平等である。平等にきらいな人間に、なった。ただ同慶に耐えないのは、彼等にとって魔利の怒りというものが、全く不発の爆弾であることである。

いくら怒りを発したところで、高村松夫や、吉良野敬の耳にこの怒りが届くわけでもないし、届いたところで又、彼等の心臓に影響を与える力を持っているわけでもない。所謂田作(いわゆるごまめ)の歯ぎしりである。ということである。だからこの怒りは、チョコレートでも嘗めて鎮めるのが得策である。

 銀紙を剥いて、チョコレートを舌にのせると、瞬間、日本の大正製菓、或は新高(にいたか)製菓の大鍋で煮詰めた、どこかいい匂いのし過ぎるような味のあるチョコレートの魂の中から、争われない、熱帯地方のCacaoの実の香いの片鱗が、魔利の舌の上にひろがる。その瞬間、大抵の怒りは熱のある舌の上の雪の結晶のように、雲散霧消する。これは魔利の持つ、一つの幸福である。

この頃は幾分工面よくなったので、イングランド製にして昇級した。一層利き目のある鎮静剤を持っているわけである。チョコレートを購入するのは魔利の日課であるが、二十丁程ある北沢駅北口のマアケットに、百円のイングランド製を一日一個ずつ買いに行くのが、舶来ものを売る商人の注意を引いた。

「お子さんがあるんですか」と、彼は言ったが、それにしても一つずつ毎日通ってくるのは金が無いのか、或は自分に気があるのか、という顔をした。魔利の顔は男に気があるような顔に見えるらしいのである。何故一個買うかと言うと、二個買えば二個、三個かえば三個食べてしまうからである。一日三百円の経済では、それでは副食物が買えなくなる。もっと魔利は、大根一本、葱二十円で、贅沢な食事を摂ることも出来る。

日本酒と、醬油の上等、問屋で買う上質の鰹節、八丁味噌、笹重の粒味噌、バタアを買っておくので、葱かワカメ、十円の豆腐、でもあれば、贅沢の味噌汁が出来る。それに三十円から六十円の甘塩のかますか、二十円の箱入りのワサビ漬け、海苔、春なら蕗(ふき)の薹(とう)でもあれば、下町の贅沢な老人にたべさせても文句の出ない食事を作ることが出来る。

豚と野菜、卵なぞを具にして細いうどんを炒めたものも、焦げ付き具合から味が、一流の中華料理屋のものと同じか、それ以上だから、近所のものなぞ到底たべられない。そういう腕だから、野菜と味噌汁で済ませば、上等の果物、胡桃(くるみ)、外国製チョコレート。フィリップ・モオリスも、稀にはやることが出来るのである。

栗の渋皮を残して茹で、酒と砂糖と少量の醬油で手早く煮る。それに鶏こまと白髪ねぎの赤味噌仕立てでも作れば、充分美味な秋の食事が出来る。雅叙園の、どこかの山から捕りたての狸と葱の赤味噌碗の真似である。欧外全集の完結祝いが、小波菅夫によって催された時に覚えたものの中の一つである。たとえ鯛フライがつこうと、ヒレ肉の牛鍋がつこうと、所謂主婦の料理では贅沢な料理とは言えない。見ただけで閉口である。親切な奥さんがあって、そういう主婦料理を魔利に提供してくれたことがあったが、ひどい苦労をした。

 右のような訳で、チョコレートで憂鬱を鎮めてしまおうと、魔利は高村松夫と、吉良野敬との二人にはるかこっちから敬礼をし、シャツを着替え、お気に入りのV字襟のスウェータアを着て、何処ともなく部屋を出る。

 何処ともなくと書いたのは、魔利の外出は目的なしの時が多いからである。あまり碌な空想の浮かばない魔利は、ぶらぶら歩いているうちになんとなく浮かんでくるのであるという。幸運に見舞われることもあるので、魔利は何ということもなく町をぶらつくのである。もっとも目的を持って出かける時でも、魔利の様子にはキリッとしたところがなく、顔にはいつも朦朧とした表情を浮かべているからである。

歩く足にも力がなく、サナトリウムの患者が松林をお散歩、といった体(てい)である。手に持っているものは今にも落としそうである。事実よくおっこちるが、すべて体を使うことが面倒な魔利は重要なものの他は一寸振り返っただけで歩いて行く。親切な奥さんが手早く拾って追いかけて来て渡してくれる。

葱二本、或は既に読んでしまった新聞、週刊誌の類である。魔利は自分より利口な人間が可愛いところへもって来て、一人残らず自分より利口だから、愛想よく、さも嬉しそうに笑って受け取る。時間の刻限が定まっている所に出かけと、時々歩調を弛めて呼吸を調えて走り続ける。

ロールシャハの実験をされに行った日には一時間遅刻したが、迎えに来てくれた女の子も、片貝博士(若く見えるし、直なので博士とは思わなかった)も泰然と落ち着いて、厭な顔を出さぬ為の誤魔化し笑いさえしないのを不思議に思ったが、それも実験の内で、好材料であったらしいのには、愕いた。目的を持って出かける時には大抵奇妙なことが起る。

 まず銭湯に行って入浴しようというので出かける。ふだん行っている代沢湯か北沢湯なら問題はないのだが、小谷さくら子の勧めに従って、半日そこで仕事をしたり遊んだりしている風月堂の横の湯に入れば夏は快適だというので、石鹼入れとお気に入りのタオル持参ででかけたのが運のつきである。

魔利は近所の二箇所の風呂屋の習慣で、女湯は右だとという固定観念を持っていたので、右手の下駄箱にサンダルを突っ込み、ガラリと戸を明けて、五六歩場内に入った。するとなんとなく様子が変である。脱衣場には人間がいなかったが脱衣籠がガランとしていて、硝子越しに動いている入浴中の人々が、みな黄色くて瘦せている。次の瞬間番台の上から、
「ここは違いますよ」

 という声がした。男湯だ。魔利は紅くなり、何も見えなくなって其処を飛び出した。それだけならまだよかったのである。次に一回行っての三回目、野原野枝実が入口まで送って来たが、お喋りの続きがあって盛んに喋り、
「じゃ、又ね」
 と言って風呂屋に駆け込んだ所が、習慣性で又もや右側の下駄箱に手をかけた。すると、「あっちですよ」と、邪慳(じゃけん)な女の声がした。客だか、そこの女だか、立っていたのが声を発したのである。恥辱と不快の魂が頭に擬結して、魔利は一旦女湯の下駄箱に手をかけたが、その手を引っこめ、逃げるように風呂屋を出た。魔利の特性である疑心暗鬼が最大限に膨らんだ。

風呂屋の、薄ぼんやりした田舎出らしい女たちも、二度まで男湯に入らんとした女出歯亀としての、魔利の顔は見覚えていて忘れないだろう。そうして魔利が入って行けば目から目へ暗号が伝わり、口から口に、他の女客の耳にまで魔利のことが囁かれるだろう、という考えである。その考えが魔利の顔にとり憑いた。そうして魔利は気持ちのいい、風月に滞在中の入浴を、断念した。或る日魔利は例によって、いずくともなく出かけるように見えたが、目的はあるらしくて、仔細らしくバスの停留所に立って、東横行のバスを待っている。そういう時、魔利の顔が一寸緊張している時には、甍(いらか)家行きと、決まっている。間違いなく甍家に到着するのは五回の内一回の割合である。

魔利はいつのまにかお客然と、平四郎と、丁度相客になった鶴川芳次との間に坐っている。服装は年がら年中スウェータアだが、淑(しと)やかに坐っていて、男湯の戸をガラリと明けて乱入する人のようには見えない。魔利が、夏以来一つの小説がまだ書けない、という事を平四郎に告げている。
「ふうむ。どうしたのかねえ。失礼ですが牟礼さん、それではご商売にならんでしょう」
「先生は日に三枚ですか」
「僕もかけないことはある。が、一晩寝て次の日には書くね。又書けなくっちゃ困るからね」
平四郎は語尾を一寸暈(ぼか)し、テーブルに肱(ひじ)を突いた右手に煙管を突き出し、うろんな、煙を纏わせた横顔を庭の方へ、逸らせた。その煙の中には、不用意に出て来てしまった得意さと、一種の妖怪味とがあって、瞬間魔利は、粋きにも、あろことかあるまいことか分を忘れれ、「憎らしい」と思うのである。それから魔利は鶴川芳次郎の顔を見てみた。

鶴川芳次郎という文学者を、雑誌なぞで写真を見た感想として、極普通の顔の男であると、鑑定していた。ところがやっぱり文学者である。全体に瘦せている体の上に載せた顔は、曇りの日のせいだけではなく薄黒く、黒光りのしている、江戸時代の女郎屋の格子のような甍家の戸棚を後ろに、どこかはい出たように見え、どうかした時その薄い唇は、夏の夕方縁の下からはい出て蚊を喰う蝦蟇蛙(がまかえる)が、何かの妖気を吹いているように、薄く尖って、微かに吹くような音を立てた。折しも雨は降らぬとも、その中に顎を尖らせて横を向く一羽の文学をやる鳥と、同じく蛙とを、湿り気のある薄闇の中に包み込んだのである。

魔利は不思議なものに包まれ、
(ここへ来る時、いつも道が分からなくなって迷うのは、こんな怪物たちの集まる場所だからだ。それで時には有り場所をくらませて、何処かへ消え去るのにちがいない)

と、そんな事を思いながらぼんやりとしている内に帰るしおを失い、夕飯時になるのである。やがて電灯の下に、これもどこか妖気の漂う甍杏子の顔や、唇の両端を吊り上り気味の、大きな眼が処女の体の中にある内臓物を、気だるげに浮かべ、光らせている高津ナツ子の顔なぞが並び始め、テーブルの上にはいつのまにか取り寄せた鰻、杏子の作った野菜と肉の肉汁煮、金沢産の魚のはら子、浸し物、刺身なぞが所狭しと並び、ビールの栓が、抜かれる。

甍平四郎は、知らん顔のような横顔で、別の彼用の書物机兼用の小テーブルの上に、暮らしの手帖社から来たナフキンを敷いた上に並んだ、客と同じ食物を、肱をついた手に持った長い箸で、たべ始める。時には魔利の持参したユウハイム(魔利の小説の中ではロオゼンシュタインと改名した店である)のミイトパイが、平四郎のお膳にも載っていて、
「お父様魔利の持って来てくださったミイトパイよ、それ」
「うむ」
と、平四郎は一寸迷惑そうに、一体どんな味のするものかいな、と言いたげである。
 魔利は神経の一部を、平四郎のその様子にひっかけながら、平四郎の好きな、焼き冷ましの、その為に焼き立てより更に脂っぽい鰻の味に、一寸閉口しながら、さも美味そうに、ぱくつくのである。

魔利にとって平四郎は、崇拝の人物である。その崇拝の人物が、特に美味しいものとして出したものは、いかなることがあろうとも美味でなくてはならない、美味であるべき、食物なので、あった。
 つづく Ⅲ黒猫ジュリエットの話