キャバレーの女の子と夕方トリス・バーであいびきして、一緒に酒を飲むということをしばしば試みた。つまり酒代だけで、サービス料不要の状況である。トリス・バーを出て、ソバ屋で女の子に鍋焼きうどんなどご馳走してもらって、悦に入る

 本表紙 吉行淳之介編

吉行淳之介 定本・酒場の雑談

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赤い玉がポンと出る

 女の方は無限である。生きている限り大丈夫である。なにが大丈夫で、なにが無限か、わざわざ言わなくていいだろう。その受身の構造上、大丈夫にできているわけだし、性欲自体が生きている限り存在しているらしい。

 有名な話だが、大岡越前守が裁判の参考上、そこのことを知りたくて、自分の母親に訊ねてみた。つまり、女はいつまで性欲があるのでございましょうか、と老母に質問したわけだ。
 すると、老母は、黙って俯いて、火鉢の灰を掻き均していた。そこで越前守は、
「ははあ、これは灰になるまで、ということであるな」
 と、察した、という。
 女の方それでいいとして、男の方はどうであろうか。男は性欲だけはあっても駄目なので、その点厄介である。はたしてどうなると駄目になるのか、一生のうち発射可能回数は決まっているものなのか。

 機会あるごとに、いろいろの人物に質問してみたが、諸説ふんぷんとして定め難い。
 医博村松博雄の意見では、「それは一万回、つまり万コだけ可能である」という。彼が子供のとき、お父さんからそう教わった、というのだから、いささか心細い。

柳家三亀松師匠は「四斗樽一杯の分量をしぼり切ると、おわりになる」という。
 このように、定量がきまっているという意見がある一方、「若い頃使えば使うほど、歳とってから長保ちする」という説もある。

 ところで、私の意見といえば、まず定量説に賛成である。そして、いつ終りがくるか、といえばこれは個人差があって、本人自身にもわからない、という考えである。

 ある日突然、出るはずの液体が出なくて、その代りに、シューッと白い煙が吹き出してくる。
 シューッ、シューッ、としばらく煙が出ていて、やがて、ポンというコルク栓が抜けたような音とともに、赤い玉がポロリと出てくる。その玉には「オワリ」という文字が刻印されていて、それでその機械は打ち止め終了、ということになる。

「赤い玉が、ポン、と出たら、これはがっかりするだろうなあ」
 と私が言うと、聞き手は、
「ウヒウヒウヒ」
 と複雑な笑い方をする。自分はまだまだ大丈夫、とおもっているものの、もしかして明日あたりポンと赤い玉が出ないとは限らない、という不安も混えた複雑な笑いである。
『赤い玉がポン』
 という説を流布しているうちに、この説から浦島伝説を解釈しようという人物が出てきたのには一驚した。若松孝二監督がその人物で、長部日出雄が私に伝えてくれた。
 そもそも浦島太郎の物語は、解釈に苦しむ話である。亀を助けて、その亀に乗って竜宮城へ行く。そこで大歓迎を受ける。そこまでは分かる。
 帰るときに、乙姫様が玉手箱をくれる。
「けっして、開けてはなりませんよ」
 と言われれば、開けて見たくなるのは人情である。つまり、浦島太郎が玉手箱を開けるということは、予定されたことである。そして、箱を開くと、白い煙がパッと出て、白髪のじじいになってしまう。残酷な話である。

 浦島太郎は、ペニスを突っ立てて竜宮城へ乗り込んで行く。亀の背中乗って、というところは、若松流ではそう解釈する。
 鯛や平目が舞い踊り、乙姫様がにっこりして、浦島太郎はやりまくった、一生の分量を使い果たす寸前までやった。もしも、娑婆(しゃば)でたったら、とっくに赤い玉が出ているくらいにやったのだが、竜宮城では赤い玉がなど出さすような、なさけない待遇はしない。
「しかし娑婆へ帰っても、もうあなたはおやりになれませんのよ。もう使い果してしまったのよ、それで悔いはありませんわね」
 という意味を遠回し悟らすための道具が、玉手箱なのである。
 蓋を開く。白い煙が、シューッと出て、ポンと赤い玉が出る。
 あれは、タマデ箱(玉手箱)というのが、正しい名称なのである。

 赤い玉が出てしまったら、どうなる。
 これも個人差があって、大きく二つのタイプに分かれるようだ。

 永井荷風の日記を読んでいると、ある時期から荷風が写真撮影に熱心になりはじめることが分かる。シロクロ写真の撮影で、そのために知り合いの夫婦者をモデルにしている。
 この時期に、荷風は赤い玉が出た、と私は見ている。

 三亀松師匠も、五十歳くらいで四斗樽一杯しぼり切ってしまったそうで、以来、写真の盗み撮りに凝った時期がある。と話してくれた。その写真を見せてもらったが、上野の墓地に潜り込んでくるアベックの盗み撮りで、女はモンペをずらし、男は角帽を被ったままという、貴重な戦後風俗の資料である。

 こういう、覗き見型になるのが一つのタイプで、もう一つは道学者風の説教型になるタイプである。遊び好きだった筈の人物が、なにやら説教スタイルになったとしたら、これは赤い玉が出たと考えてよろしい。

 さて、ここに第三のタイプと言うのがあるらしい。わざわざヨボヨボしてみせて、女の子から労わってもらって喜ぶ、というスタイルで、これはなかなか愛嬌(あいきょう)がある。

 誰も見ていないと、なかなか健脚で、どんどん歩いてくる。バーの入口をくぐると、突然ヨボヨボしはじめる。女の子に抱きかかえられるようにして、席に着く。
「おじいちゃん、お元気でね」
 などと言われながら、手の甲を撫でてもらうのである。
(昭和四十二年九月) 146ページ写真

モモ膝三年シリ八年
 どんな人間でもかならずホーズをつくる。という意味のことある外国人の詩人が言ったが、その言葉は真実に近いようだ。
「あの男にはポーズがない、気取りがない」
 という場合にも、仔細に検討すれば「気取りのないようにみせるという気取りがある」「八方破れのポーズ」と言う方が正確であることが殆どである。そして、それは正常な神経をもった人間としては当然のことで、むしろポーズの作り方を研究することを考えたほうがいい。

 酒場に行って飲んでいると、各人各様の気取り方が見られて、面白い。
 ゴルフのバッグを肩にして、ゆったりした足取りで入って来る。カウンターに品よく座り、
「スカッチ・ウオーター」
 と本場風の発音で、注文する。
 上品なばかりが能ではないことも心得ていて、緩急自在、その店第一の美人を捉まえて、
「おい、おけい」
 とか乱暴に呼び捨ててみる。
 なかなか凝った気取り方だが、やはり手の内が見え透いていて、ふっと笑いたくなってくる。とくに、その美人のおけい嬢について当方が限りなく知っているような場合は、滑稽なような痛ましいような心持になってくる。

 かと思うと、矢鱈にワイセツな単語を、大きな声で連呼しているのもいる。これは、自分の下品なことを宣伝しているのとは、もちろん違う。

「自分は品よく耳澄ましているような、下品な人間ではない。耳澄ましたフンイキはぶち破るにかぎる。どうだ、おれを見よ、なかなかイカスであろう」
 と、持ってまわった気取り方である。しかし、この気取り方も、底がみえて、苦笑を誘う。

「その気持ちは分かるが、ま、おしずかに」
 と、肩を叩いてやりたい心持ちである。
 と書いてくると、まるで私がはるか高みから、愚なる群衆を見下ろしているようであるが、なになに、それらはみな一度は私自身がかって試みたポーズに近いのである。

 まったく、酒場においてのわれとわが身の気取り方を思い起こしてみると、おもわず「キャッと叫んでロクロ首」になることが多い。
 そこで、私自身の酒場体験を書き記し、おおかたご参考に供しよう。
 旧制高校の頃から、酒場に足を踏み入れはじめたので、もう二十年になる。厳密にいえば、八歳のとき叔父に連れられて安カフェーに入ったことがある。

 様子が分からぬながら、官能的な雰囲気は十分身にこたえた。狭いフロアでは、男女抱き合ってダンスをしている。香水のにおいを発散させている女給に、「ぼっちゃん、バナナ食べない」と言われ、異様な身震いを覚えた記憶がある。

 さて、通いはじめは、その八歳の頃の状況と大差はない。薄暗い部屋の中に、髪の毛の長い、よい匂いのする女性がたくさんいるだけで、満足し、緊張した。酒場に歩み込んでゆく足取りが、緊張しぎこちなくなっているのに気付いて、困惑を感じる。さりげない足取りをつくろうとおもえばおもうほど、いけない。まったく、こだわらぬ足取りになるまでには、長い年月がかかった。

「小股が切れ上る」というのは、言うまでもなく、すらりとして粋で同時にキビキビした女性の風情を指していう言葉だが、その語源に次の説がある。すなわち、花柳界の女性が、最初は女性らしく品よく色っぽく歩こうとして、意識して内股でなよなよと歩く。

そいう間は、まだ本ものではなくて、足の運びにこだわらず、すっすっと足が出るようになり、しかも色気と品を兼ね備えた歩き方ができるようになったとき、「小股の切れ上った」と称する、という説である。

酒場に踏み込むときの足取りが定まるのは、いわば男性として「小股が切れ上った」といえるだろう。そうなったら、ようやく酒場通いも一人前である。

 通いはじめのころは、戦争末期の物資欠乏時代で、いろいろ勉強させてもらった。たとえば、何気なく奥を覗いてみたところ、ふだんは品よく愛想のよい若い女将が、一升瓶の酒に水を入れて振り回している姿が眼に映ってしまったりした。その髪ふりみだし眼を据えて一升瓶を振り回している様子から、私はあらためて、「生きてゆくことのきびしさ」とか「女のおそろしさ」を感じ取ったのである。

 酒場にゆき、女の子の傍に座っているだけでうれしい時期が過ぎると、シュトラム・ウント・ドラング、疾風怒濤の時代がくる。思い出しても、「キャッとロクロ首」になること甚だ多い時期である。つまり、酒場の品のよい雰囲気に、無性に腹が立ってくる時期がある。ワイセツな単語を連呼することもやったし、いろいろのことをやった。恥じ多き時代である。

 恥をかきながら酒場通いをしているうちに、しだいに酒場の裏面というものが分かって来る。ウイスキー一本から、ハイボールが二十四杯ほど取れる、などという単純なことから、もっと微妙な点まで分かってくる。

 分かりはじめの頃は危険な時期で、分かっていることを下手に仄(ほの)めかしたりすると、ヒンシュクされること確実である。そこを適当に抑制しなくてはならない。
 ただ、分かりはじめた頃は、分かるというところに面白味があるので、酒場通いに熱心になるが、分かってしまうと今度は退屈してくる。傍に女性が座ってくれることにも感激が乏しくなり、そのあげくには、
「サービスしているのは、こっちじゃないか、金返せ」
 と腹が立ってくる。
 この時期には、キャバレーの女の子と夕方トリス・バーであいびきして、一緒に酒を飲むということをしばしば試みた。つまり酒代だけで、サービス料不要の状況である。トリス・バーを出て、ソバ屋で女の子に鍋焼きうどんなどご馳走してもらって、悦に入る。嫌味といえばいえるが、丁度私は作家としての習作時代に当っていて金もあまり持ち合せていなかったから、ま、許されてもよい。
 ソバ屋を出て、彼女はキャバレーに送ってゆく。送っていけば、そのまま客となってその店に入ってしまう事が多いので、結局高価につくのだが、サービス料なしでトリス・バーで酒を飲む、というところが嬉しいのである。

 この時期を過ぎると、また酒場に足が向き始める。
 友人と落ち合って、
「どうしよう、バーへでも行くか」
「バーといったって、どこか面白いところがあるかな」
「バー縞馬へでも行くか」
「縞馬か、入ってから出るときまでの感じが、いまここで分かってしまうなあ。しかし、ま、行ってみるか」
「ともかく行こう」
「行きましょう、しかし、バーなんて、どこが面白いのかね。ばかばかしいなあ」
 などと言いながら、行きつけの酒場へ入ってゆく。なんとなく、雰囲気が懐かしくて、入ってゆくわけだ。
 このように、きわめて消極的な心持で行くのだから。カウンターに座ってぼんやり座って酒を飲み、傍の女の子に興味も起こらない。

 しかし、そのまま放っておくの失礼のような気分なので、めんどうくさそうに彼女のお尻をつるりと掌で撫でてみる。
 その女性にたいしてサービスのつもりで撫でるのだが、こういう退屈した殆ど無関心の手つきで撫でるのが、相手にとって最もスマートな感触を与えるのである。
『桃栗三年柿八年』
 という諺があるが、
『モモ膝三年シリ八年』
 というのを私が作ってみた。
 酒場の女の子の腿や膝を嫌味でなく撫でられるようになるまでには、酒場通いを三年する必要がある。お尻となると、八年かかる。という意味である。そして、それは単に、撫で方の熟練によるばかりではない、心と軀との微妙な関係によるものであることは、いま述べたとおりだ。

 皮肉なもので、こういう退屈無関心の時期が、一番バーの女性にモテるのである。なんとなく立ち振る舞がおうようで、女性にたいしてガツガツしておらず、きわめて紳士的男性的人間的雰囲気が、身の回りから漂い出すためらしい。

 しかし、そう悟って、意識的になってしまうと、もうダメである。まったく、人生というものは、難しい。
 自慢話を一つさせてもらうと、そういう時期に、はじめて酒場へ行った。一階が満室で二階へ行くことになり、そのついでに手近なところの女性のお尻をすうっと撫でて、階段を上がった。間もなく、一人の女性が上がってきて。
「さっき、あたしのお尻を撫でたのは、どの方」
 と言う。怒っているわけじゃない。撫で方が技、神に入っていたので、わざわざどういう人物か確かめにきた、と言う。

 酒場については免許皆伝のように、さんざん自慢したところ、酷い目に遭った。やはり、あまり自慢するものではない。
 ある夜、不意に酒が飲みたくなったので、一人で某クラブへ行った。入り口まで行って「これはいかん」とおもった。
 ユカタ祭、とかいうやつをそのクラブが催している期間中なのだ。ときどき、キャバレーの客で「パリ祭とわが日本とどういう関係があるんだ、愚劣である」と文明時評をしている人物がいるが、あれは野暮というものだ。キャバレーとしては、関係のないのはわかっているが、なにかにつけてナントカ祭りをやり、金をしぼり取ろうとしているわけなので、文句を言うくらいなら行かなければよい。

 ナントカ祭りの期間中は、ざわざわしていて閉口なので帰ろうかとおもったが、つい入ってしまった。
 いつもは落ち着いているそのクラブが、はたしてざわざわしている。
 テーブルにきた女の子が、
「ね、シャンパンを取って」
 と言った。
 断っておくが、この女性は私が指名したのだが、私的関係は全く無い。
「シャンパンは厭だな、大げさでいけない。ユカタ祭りは、ほかの形で付き合おう」
 と私が言ったが、彼女は勝手にボーイを呼んで、註文してしまった。私の態度に断乎としたところが無かったのがいけなかった。
 間もなく、ボーイがピカピカ光る小バケツにシャンパン瓶を入れて棒げ持ってきた。ポーンと音がして、栓が抜かれる。この音でかなりの金額を取られるのだが、金のことは我慢できる。
 一人でテーブルに座って、女の子と対い合ってシャンパンを飲んでいるのでは、どうみても野暮な成金である。
「おや、あいつと、あの子とデキていたのか」
 といった視線も集まってくるような気がしてきた。
 他の女性は、気を利かせたつもりなのか、一人も来てくれない。シャンパンの大きな瓶をかかえて差し向かいではたまらぬ、と浮足立った。
 ところが、こういうときには念には念が入るもので、私が帰る気配になると、その女性がこう言った。
「勿体ないわ、シャンパンが残りそうね。あたしがこのままお家へ持って帰るわ」
「冗談じゃない。このままにしておきたまえ」
 私は強い語調で言ったのだが、彼女は聞き入れない。
「ボーイさん」
 と叫び、
「さっき抜いたコルクの栓を持ってきて。蓋をして持って帰るの」
 と言いつけた。
 私は、気を静めて立ち上がり戸外へ出ると、倉皇(そうこう)として夜の闇のなかに溶け込んだ。
 (昭和三十六年六月)

フォー・レター・ワーズ
 酒場で飲んでいると、
「オ××コ」
 と、女性の重大な箇所の名称を俗語で発音する声が、聞こえてくる。しばしば聞こえてくる。と言うことはできないにしても、珍しい体験とは言えない。そして、その発音のされ具合はさまざまだが、「ウイスキー」とか「水」とかいう単語と同じ口調で口から出てゆく場合は、稀である。先年、柳家三亀松氏と一緒に飲んだとき、師匠の口から連発されるその猥語の具合は、その稀な場合に当て嵌まった。こうなると、卑猥な感じはなく、むしろ清潔であるが、十年や二十年の修行では、なかなかその境地に達することはできない。

 私も時折その言葉を酒場で口に出すことがあり、一旦口にすると連発することになるのもしばしばであるが、私の場合その単語を口にするときは一種の決意を必要とする。
 取り澄ましたものとか、いわゆる良風美俗とかいうものにたいする破壊的な気分が、酒のために露になったときに、その単語を口から出したくなる。

 私自身当惑するくらい、その単語が口から出た時期が昨年にあった。そもそもキッカケは、酒を飲んでいるとき、ふとあることを思いついたのである。
「白ワイシャツにネクタイをきちんと締めて、できるだけ紳士風になって、横須賀の一等車に乗るとする。翻訳本でも読んでいる令嬢を探してですな、おもむろに近寄ると慇懃(いんぎん)に会釈して、小声で言う。
『ちょっと、伺いますが』
『何でしょうか』
『私とオ××コしませんか』
 と言ったらどういうことになると思う」

 と、酒場の女性に相談してみたのが、話の発端である。相談相手の彼女は、ヒンシュクするよりも、まず笑い出したところを見ると、なかなかセンスがある。笑ってから、真面目な顔になって、考えてくれた。
「そうねえ、案外、それで話がまとまることがあるんじゃないかしら。バカなこと考えるものねえ」
 その夜は、話はそこまでである。その場に居合わせた友人の某君と次の夜一杯飲んでいると彼が思いだしたように言う。
「この前の件だがね、知り合いに横須賀の一等車に乗る令嬢がいてね、そのひとに訊ねてみたら、やはりうまくまとまるかもしれないと言っていた」

 傍のホステスが、「なんのお話」と訊ねてきたので、待っていました、と例の会話を再演してみる。この際「オ××コ」という単語は、なるべく無色透明な口調で発音しなくては効果が少ない。ホステスが、文化程度の高いホステスほど、よく笑う。曖昧な笑顔になったり、顔をしかめたりする女は、脳味噌が上等ではないと判断を下してよい。

 さて、そのときのホステスは、打てばひびくように笑った。
 私は某君にすすめてみた。
「君、ひとつ実行してみたらどうだ」
「しかし、もしもその令嬢が、おまわりさーんと叫び出して、電車が非常停止する。パトカーが、うううーうとサイレンを鳴らしてやってくる。その車に乗せられて、警察に連れていかれてだな、警官に詰問される。なんてそんなことを言ったのか、と詰問されたとき、どう答えたらいいだろう」

 そこで、いろいろ答弁について、二人で考えてみたが、
「結局、あのう、つい魔がさして…‥、というよりはほかにはないだろうなあ」
 ということになった。

 次の酒場にゆくと、話は長くなって「魔がさしまして」のところまでになる。この話のオチは、前の部分のオチよりも、難解な点がある。打てばひびくように笑う女性は、相当に優秀な人物と考えてよい。

 警察で、なぜそんなことを言ったか、ということについての自分の心情を述べようとしても通用するわけがない。結局良風美俗の次元においての答弁として「つい魔がさしまして」と言ってしまうより仕方なくなる。という可笑しさである。

 もっとも、友人の弁護士と一緒に酒場にいるとき、その話に異論が出た。警察に連れていかれることはない、言葉だけでは罪を構成しない、というのが彼の意見である。
 ワイセツ物陳列罪といのはあるが、ワイセツ語発音罪というのは、ない、ただし‥‥、と彼は注意を与えた。
「オ××コしませんか」
と言い、相手が憤然として横を向いたとき、
「ね、ね、しましょうよ、しましょうよ」
 と執拗に食い下がったときには、「つきまとった罪」ということになる、というのである。ところで、その弁護士の意見は、話を修正する役目を果たさず、話はますます長くなる。
「つい魔がさしまして。ところが、弁護士に念のために問い合わせて確かめると‥‥」
 話に尾鰭(おひれ)がついてくる。
 この話は、話すたびに長くなる性質を持っていて、推理作家のT女史の意見によると、そういう際には、女性としては、
「オ××コしませんか」
「は、オ××コでございますか」
 と、当たり前の言葉のように問い返すのがよい、という。なるほど、そう言われると、
「いえ、なに、その、パピプペポ」
 となってしまいそうである。
 あるいは、公園のベンチなどで夢中で英語の単語を暗記している高校生に近寄って、「あの、オ××コしません!」と初々しい令嬢に言ったとする。顔を上げて相手をみた高校生は、「こんな女の人が、こんなことを言うはずがない。きっと受験勉強をしすぎて、頭がオカしくなったにちがいない」と、ノイローゼに陥るに違いない‥‥。その意見を出したのが、れっきとした令嬢なのだから、驚く.

 このように、いろいろの人物の知恵が加わって、話が固まっていって決定版が出来上がる。落語にもそういう形のものが多いし、シェークスピアの劇もそういう経緯で出来上ったという説もある。

 しかし、この話には、まだ決定版がない。「横須賀事件というの、知っているか」という前置きで、行くさきざきの酒場で一席うかがっていた。そのうちに、横須賀の鶴見大事故が起こったので、禁演にしてしまった。
 (昭和三十九年五月)


酒場をめぐるいろいろな話  聞き手・山本容郎
――銀座の文壇バー「眉」も店を閉めましたし、なにか一区切りの感じがします。
 昔、銀座の酒場は土曜日も営業をやっていたけれど、一週間に四回は出かけていね。その頃、どう時間を作って、飲んでいたかは思い出せない。昭和三十年代はずっとそうだったね。そして、昭和四十年頃か、四十歳ちょっと前の頃になって‥‥。
 ――昭和三十九年に四十歳になる…‥。

 その頃、川上徹太郎さんと吉田健一さんは週に一度、金曜日に銀座の「はち巻岡田」で会って、ここからスタートして、その日だけは徹底的に飲む。あとの日は飲まないという話を聞いた。そう出来たら、いいだろうなと思った、いろいろと、お金の面で(笑)。が、週に一度ではとても我慢出来なかった。
 いまは、その河上さんのマネも出来ないね。週に一回、飲むのも出来ない。
――すると、気分転換は麻雀だけになった。

 指先を使って、頭を使うのは、いちばん健康にいいそうだ(笑)。去年も週に一回、酷い時は、三回やったね。毎年、暮れになると、麻雀の一年を振り返る。すると、勝ち負けナシの年が多かった。トントンなるのが理想だけれど、去年、一昨年は、かなりマイナス、今年も、病気したりしていたら、やはりマイナスだな(笑)。

 仲間では、福地泡介とか黒鉄ヒロシなんか強いね。年齢が二十歳ほど若いというプラスもあるがね。その他のメンバーは、近藤啓太郎、阿川弘之、芦田伸介、佐野洋、結城昌治、生島治郎、園山俊二、我孫子素雄、井上陽水、北山竜などだ。ただ、プロとはやらない。彼らは勝つ麻雀、こっちは遊ぶ麻マージャン。

――昔は、麻雀がすんでから銀座へ出た。
 昼はごろから麻雀。暗くなると、酒場を廻っていた。今は絶対に無理だね。
――十年ぐらい前になるかな、仕事、お酒、病気、ご婦人、賭事はまとめて面倒を見られたけど、今はひとつずつだと言っていましたね。

 飲む、打つ、買う、仕事、病気だ。五つのうち、一日に一つきりしか出来なくなったと言った憶えはある。昭和三十年代中は、どうやって時間を使っていたのかね。

――文壇バーの話をしてください。
 新宿は、「和」、「とと」。
――「和」「とと」の前だから、昭和三十三年前。「ゴードン」は銀座にも店を出した。
 今度あらためて思い出してみると、新藤涼子が第一詩集「薔薇歌」を出したのは、昭和三十七年なんだね。その翌年「とと」を閉めて、しばらくパリに行った。
――つまり、「とと」という店をやっていたのは、たった五年間なんですね。

 え、そうなるか。十年は「とと」に通ったと思っていたよ(笑)。ところで、文壇バーの話に戻ると、銀座は、「エスポワール」、「おそめ」「ラモール」「らどんな」「葡萄屋」は日航ホテルの横の地下にあった。「姫」は地下一階だけだった。「眉」も、小さな店で、いまと同じビルの二階にあった。

 いつだったか、「エスポワール」に、時間が余ってしまったのだろうね、六時頃入った。だれも客はいなかった。そんな時間に、本来は行っちゃいかんのですよ。まだ、女の子は化粧をしたり、何かと支度をしている時間ですからね。席についたら、女の子、十二人全員に囲まれちゃった。もう、こちらも、その頃、十何年か飲んでいたから驚かないで、おっとり構えていた。あれは初心者じゃ無理だな。
「まあ、なんと飲んでくれよ」
 と言ったけどね(笑)。
 向こうも心得ていて、ビールなど飲んでいた。三十分ぐらいして池島信平(当時の文芸春秋社長)さんが入って来た。「池島さん、半分、引き取って下さい」と、むこうに六人行ってもらった。
「参りましたね。えらいことなりましたなあ。早く誰か来ませんかねえ」
 と、池島さんと言い合っていると、七時半ごろ大きな会社の部長ぐらいの人が三人入って来たので、やっと外に出られた。勿論、この勘定は別々。外に出て、「一軒飲みに行こう」と言われて、あとは奢ってもらった(笑)。

 昭和四十年代の終わりだったなあ、その勘定がどうなるかと、心配していたら、九千円の請求がきた。あの状態の勘定としたらタダ同然ですね。
 そこには、酒場と客の一対一の阿吽(あうん)の呼吸というものがあったわけだ。
――いまは、それがなくなりましたね。酒場が個人のママではなく、企業の代理ママだから、阿吽の呼吸がやりにくいこともある。

 下馬評をあてにハシゴ酒
――銀座で、初めて飲んだのはいつですか。
 戦前ですよ。静岡高校(旧制)の試験に合格して、四月から静岡に行くという前のこと、昭和十七だったか。十歳ぐらい年上の東京の叔父に、並木通りの「南蛮」というクラブに連れられて行ってもらった。その店は、いまもある筈だがね。二時間ほど騒いでいたかな。今、銀座は高くなったけれど、その時の勘定は、叔父の一ヶ月分の月給ぐらいであった、暴力バーじゃないんだけど。なんとか叔父が工面したけれど。

「南蛮」のすぐ前に、女優の滝田静江が「静江」というスタンドバーをやっていて、学生は入っちゃいけないのだが、ぼくは時々もぐり込んでいた。ここはスタンドバーだからそれほど高くなくて、自分で払えた。
 あの高い店は、叔父と一回だけ行ったきりだった。

――昭和二十八年ですか、小島功さんと二人で銀座とハシゴ酒する話は‥‥(この年。『モダン日本』をやめて、春から夏にかけて、千葉、佐原の病院で療養生活)

 その頃、『モダン日本』の編集者をしていたんだけど、実業之日本社の斜め前に「独立漫画派」事務所があった。会社が近いせいもあって、その漫画の連中とは付き合う機会が多かった。二十八年の一月のことだが、芥川賞の下馬評では「今回は、君に決まった」というわけだ。いま考えると、いかに下馬評が当てにならないかと言う証拠みたいな話なんだ。こちらは、そんな事情をよく知らないしね。

 丁度、時計は落としたばかりだが、間もなく時計ももらえるからいい。賞金は五万円だからと、小島功に、「ちょっと飲もうじゃないか」と声をかけた。二人で、三原橋の「庄助」という、一杯飲み屋へ行った。あとの店は覚えていないけど、新宿まで足を伸ばして飲んだ。「とれすでん」とか「プロイセン」へ行ったのだろう。

 ところが落選した。あれには笑っちゃったな。受賞は五味康祐と松本清張だった。当時は、ジャーナリストもチェックしないし、受賞しても、何もなかった。ただ、自分個人にとっては大変重い賞だったが‥‥。

 ぼくはバーや飲み屋の勘定が気になるタチで、これまで一銭の借りもない。
 ああ、思いだした。たしか、昭和三十年頃に、並木通りの三笠会館の前辺りの「ファンタジア」というクラブから五千何百円の勘定書がきた。それが、ぼくは気になって仕方なかった。旅先の大阪から書留で、その勘定を送った覚えがある。

 一銭の借りもない、というのは、カタを置くんだよ。たとえば、「庄助」では時計を置く。もっとも、それを売っても、飲み代にはとてもとどかないのを、店の方でも知っている(笑)、信頼の問題ね。信頼関係を裏切っちゃいかんと、四苦八苦して払うわけだ。
 飲み代と麻雀のマケは、絶対に払うというのが鉄則にしている。

――『田中冬二全集』の月報に思い出を書いていましたね。
 田中冬二は戦争中から愛読していた詩人で、銀行員だからその支店を廻っているうちにああいう日本的な詩が出来たんだろうね。その田中さんは定年になって、社運が傾きはじめた昭和二十四年の末に、不幸なことに『モダン日本』に重役として参加された(笑)。『モダン日本』の社長は、作家の牧野信一の弟の牧野信二だった。

 戦前有名だった香西織江という女性が「グレース」というスタンドバーに勤めていた。ある夜、社長と「グレース」で飲んでいると、彼女が、「牧野社長さんも、いい編集長をもって幸せですね」なんて言ってね。いい編集長って俺のことなんだけど、倒産を眼の前にして、そんなことを言われても仕様がない(笑)。「グレース」のツケもずいぶんたまっていてね。

 こちらは二十代だから、彼女はずいぶん年上に見えたが、社長が帰ったあとで、天ぷらそばを奢ってもらったりしたけれど、たまった借金が気になって仕方ないわけだ。
 社長に、「田中さんの手土産で、ここの勘定を払いましょう」というと、「今、そんなことを言うもんじゃない」と言われてね(笑)。田中さんは、勤めていた銀行からの何十万円かの融資を手土産に『モダン日本』に入って来ると牧野社長から聞いていたんだ。

――吉行さんが、静高の頃、田中冬二の詩集を買って読んだのを知らなかった。
 あの頃は、もう本屋へ行っても新刊本がほとんどなかった。そういうとき、「現代詩人?書」といったシリーズを見つけて、全部読みましたね。この?書で印象に残っているのは、田中冬二と津村信夫。

――あの時代、酒場から請求書なんて来たんですか。
「グレース」も社長がらみのツケだったんだけれど、天ぷら屋にもだいぶたまっていたね。
 天ぷら屋の小僧が自転車に乗ってツケを取りにくるんだ。こちらが一向に払わないものだから、ものすごく怒るわけね。僕はもっぱらその撃退係で、「まあ、そう怒るなよ。そのうちまとめて払ってやるから」といって、小僧を追い返す。

 その日、帰りがけに、その天ぷら屋へ行って、また、ツケで飲むわけだ(笑)。向こうは、勿論、とてもイヤな顔をするけれど、もう根負けしちゃんだね。
 そこも全部払ったよ。あれは、田中さんの融資の金だったんだろうね(笑)。

――その頃、同伴出勤なんてありましたか。
 そんな立場じゃなかった(笑)。それに同伴出勤なんてなかったんじゃないか、覚えていないな。あれは昭和三十年代に入ってからだろう。あのシステムは、女性が三十分刻みに遅刻料を払い、八時過ぎたらその日の給料がゼロになる。それで八時までに客と一緒に店へ出れば遅刻料をとられない。
 遅刻させる場合、事情は分かっている(笑)。
 僕は、相手の女性に遅刻料を払って、店へは入らない。ドアーのところで、さよならして別のバーへ飲みに行く。

――あの時代は、いい女が酒場にいました。
 今でもいると思うよ。ただし、こちらがいないと決めてかかっている節がある。
 今、文壇バーというと、「数奇屋橋」か。あとは分家(わけ)ね。ぼくは、昔から分家には一切行ったことがない。
 どのくらい飲むかって。僕は、昔からハシゴ酒で、四軒ぐらい動かないと気が済まない。


愉しみは広く分け与えて
――六本木の不思議な店につれってもらったことがあった。吉行さんは研究熱心だったんですね。
 コールガールの斡旋業者がいた。これが刑務所に半年入っていた。出てきたと電話がかかってきて、「ごくろうさま」というわけで、お茶でも飲もうと逢ったわけだ。出所祝いに一人紹介しろよ、ということになった。それで電話をかけて、連れて来た。バーのマダムだという。その彼女の店が、六本木の店だった。

――遠藤周作さんの対談のまとめをやったことがありましたね。ある月のゲストにMさんというコールガールの斡旋業者を呼んだんです。すると、六本木の、「サンセット」という名前がでちゃった。遠藤さんはびっくりしていました。

 そのMだよ。僕は、遠藤に言わなかった。「愉しみは広く分け与える方がいい」主義でね、随分、いろいろな友人をつれていった。あの頃は元気だった。あの店は、ずいぶんと皆さんに喜ばれたなあ(笑)。
 あの時代は、行く先々で珍談綺話があったなあ。
――作家同士で、女性を争うなんてことはありましたか。
 さあ、ほかの人は知らない。僕は手が速いからそれはない。争う前にカタが付いていたものね(笑)。
 随分、飲んだね。あの頃は水割り(ウイスキーの)だった。昭和五十年近くまで強かった。ビールのトマトジュース割を飲むようになった頃から、衰えが見えてきた。
 静高のころも強かった。三十過ぎるまで、一升酒飲んでも、吐いたことは一度もなかった。
 悪い酒も飲みましたよ。焼酎なんていい方で、カストリ、薬用アルコールまで飲んだ。
 悪い酒のころは戦後、間もなくだけど、戦国時代だったのですね。酔っぱらって、家の近くの国電市ヶ谷駅の線路にかかる陸橋の欄干の上を渡ったこともある、と言われるけど、こっちは全然、覚えていないよ(笑)。まったく、ヤケクソで生きて、イノチガケで飲んでいた。

 山口洋子さんの『百人の男』という本に書いてあったことだけれど、渾名(あだな)のはなしは本当ですか。

 マコトという女が付けた「へんモテ」ね。目鼻立ちの整ったマコトのような女には興味をもたなくて、ヘンな女にモテるという意味なんだろう。マコトのことを「君はいい女だな」って言ったら「やめて」って怒るんだ。あんなたにいい女って言われると、酷い女っていうことになるから、死にたくなるから、やめてくれって言われた憶えがある。そのマコトが自殺してしまってね‥‥この話をつづけて二時間はたっぷりかかるから、止めよう(笑)。

――「姫」でもう一つの忘れられない話がある‥‥。
 指の入る話だろう。あれは、山口洋子との対談のときに話題にしたんだが、補足しないと意味が通じない。
「姫」でたまたま横に座った女がいて、その女の腰を抱えているうちに、スカートのうしろから手を入れたくなった。あの頃は、まだパンストはなかったけれど、ガーターとかコルセットとか、いろいろの障害物があった。途中でちょっと努力した気持ちが残っていたな。五、六人で四角に座って飲んでいたんだが、気がついたら、指が入っていた(笑)。あとで考えてみると、女が協力してくれて腰を浮かしたフシがあるね。一流バーのシャンデリアの下で、そんなことが行われることに、女も面白いと思ったかも知れないなあ。

 その子が泣き出しちゃった。そして、「なぜ、泣いたかわかる」と、僕に言うんだ、その席にいた五、六人は、だれも気が付かなくて、なぜ女が泣いているのかわからない。
 僕は、その時返事をしなかったけれど、いくつかの要素を考えてみた。まず、侮辱されたという気持ちがあるだろうね、それから有り得ないことが起きたというショック。あと、選ばれた恍惚感というのはなかったかね(笑)。

 入った指、中指だね。憶えている。
 その子とは、事前、事後ともに関係がなかった。事前にあれば、当たり前の話だろう。ただ、偶然、隣に座った女なんだ。
 野坂昭如などは、「ホラ話に違いない」といったけれど、実話なんだよ。

――吉行さんは、女より、店につく客だったと思う。気に入ると集中的に通っている。
 そうだね。「とと」、「ゴードン」、「エスポワール」、「眉」。

――「ゴードン」での話だったけど、女を送っていったら、「まあ、お茶でもどうぞ」と言われて部屋に入り、炬燵に入ったら、どてらのお兄さんがお茶を運んできた。クリカラモンモンのお兄さんが‥‥。

 あれは僕じゃない、野坂昭如がやられたことで、ヤクザがらみの話だよ。いい女には、ヤクザがついていたな。僕が好きになるのも、不思議にヤクザがついていた(笑)。ヤクザの女房とか彼女は、自分が止めてくれる場合と男をけしかける場合と二種類ある。僕はいっぺんもやられたことがない。そこは、人間性の問題だね(笑)。

 僕の場合は、男と男の切れ目に潜り込むことが多かった。だから、パトロンのいる女と遊ぶということはなかった。
 それに、あらためて口説いたことはないね。酒場で何時間か、飲んでいるだろう。女は横にいる。そこで、まあ、べつに申し込むわけじゃないが、話がついてしまうんだね。

――さっきの山口洋子さんとの対談で、「いい女ほど早く死ぬ」と喋っていましたが。
「姫」にはいい女が何人もいて、マコトを入れて、五人ぐらい死んだかなあ。
 ホシミ、ナッオカ、マコト‥‥「姫」でも特別いい女だったね。

高見順のすごい顔
――時代は遡って、戦後の混乱期のいわゆる出世頭は、やはり、静岡県は清水のホテルの女将になった子ですかね。

 新宿の「どれすでん」の須磨ちゃんね。気のいい子で、背の高い美人だった。だが、僕にはどうしても美人とは見えなかったんだ(笑)。店が終わってハモニカ横丁で飲んでいて、二丁目(新宿の赤線)に売っちゃおうか、なんて話になって‥‥。赤線を女連れで歩くのは大変難しいことで、そこで働いている女性を侮辱することになる。

無事に歩けたんだが、「これを買わないか」って言うと、「ダメ」と返事が返ってくる。「お前。売れないよな」(笑)。とか言って、「それじゃ、親子丼、食って帰ろう」って(笑)。色恋抜きの間柄だった。清水の有名な旅館の嫁に入ってお女将さんになった。月日が経って、電話がかかってきたこともあったけどね。

 そのときから二十五年ほどたって、村松友視にその旅館を紹介した。清水ミナトといえば、村松の縄張りだからね。彼は何度かそこに泊って、歓待されたと言っていた。その須磨ちゃんは一昨年亡くなったけど。

――昭和三十一年に吉行さんの『悪い夏』という短篇集を出したことがあった。十返肇さんと偶然逢った。
 十返さんがいた。印税の半分を家に置いて、あとは飲んでしまおうとことになった。「窓」へ行ったけど、あの店はずば抜けて高かったね。「バッカヌ」の十倍はしたね。

――柴田錬三郎さんの通っていた店で、階下にグランドピアノが置いてあった。その翌日に、風月堂の事件があった。

 いろいろな事件がありますね。「窓」に可愛い子がいて‥‥、傍にいて懐いたんで、お茶でも飲もうじゃないか、と翌日風月堂で逢うことになった。その頃の風月堂は、まだ武蔵野館の裏の方にあった。中二階で待っている、結婚式の帰りみたいな着物で、つまり大盛装して入って来た。それが似合っていない。

 中二階の階段を登って来る。店の客の眼が、その子に集中している感じでね。だんだん近づいてくる。いや、弱ったなと思って、「どうしたんだ」と聞いたんだ。俺の狼狽した顔に気付いたのか、「お友達の結婚式の帰りなの」と言うんだ。あとで考えてみれば、デートをするんで盛装してきたわけだから、いじらしい話なんだよ、

 この子を連れて歩くのはたまらないと思ったね。いま振り返ってみれば、あれを扱えないのは、僕が未熟だったわけです。そういう、ユニークな子が、新宿には多かった。みんな、つつましかった。昔の女給の感じが残っていて、人生に失敗して…‥こちらも作家だから、まあ世間からはみ出している方だね。

 相寄る魂みたいなもんで、友だちみたいなつき合いあっていたな(笑)。
 僕が四十くらいの時にあるバーの女性に聞いた話で、強く印象に残っていることがある。それは、六十歳以上の客にはどこかでボケてるところがあると思って、そのつもりで会話をすると言うんだ。今はこちらが、その年齢になっているね(笑)。

――高見順さんとは親しいおつきあいがあったんでしょう。
 高見さんは好きな人だったけど、感性のかたちが似ているので、こちらが遠慮したところがある。『文学界』の連載の仕事を同じ時期に持っていたことがあって、二人とも山の上ホテルに泊まって、仕事をしていたんだけど、声を掛けなかった。

 時折、高見さんの方から、浅草へ韓国料理を喰いに行こうなんて、室内電話がかかってきた。
 新宿の「五十鈴」での夜は、鮮明に憶えている。「五十鈴」で飲んでいると、高見さんがぶらりと入って来た。
「生命の樹」を書いている時で、凄惨な感じがしたので、誉めるつもりで、
「すごい顔をしていますね」
 と言ったんだけど。
 あれで高見さんは傷ついたのではなかったか、と今でも気になっている。

贋物阿佐ヶ谷に出る
――安岡章太郎さん十返さんの衝突は「バッカス」でした。安岡さんは「海辺の光景」で、その場面を使っているけれど。
 あの店は、カウンターの内側の片隅に会計の女の子が座っているんだ。カウンターの方が高くてね、レジの子は頭がやっと出ていた。
 
 安岡が十返さんのことで腹を立てて、グラスでバーンとやったんだ。それが粉々になってレジの子の頭に被さるように散っていった。安岡はさっと飛び出していった。レジの女の子をみたら怪我はないので、僕は安岡を追いかけて行った。「あとは俺が片付けて置くから帰れ」といってね、まあ、そんな仲裁役が多かった(笑)。

――仲裁役か。調停役か、十返さんの「おそめ」の女性問題も、そうだったし、柴田錬三郎さんの女性の一件も‥‥。

 柴田さんのなじみの女性が自殺した。「柴錬が来ないと通夜はやらない」と向こうかが言って来たんで、怖くて仕方ないから一緒について来てくれ、と柴田さんから電話がかかって来たんだ。つまり、付き添いですね。

 通夜に行くと親戚縁者が、この男も同罪だといった眼で睨むんですよ。こちらは何もしてないのに(笑)。
 その子とは友達づきあいで、池袋の方に住んでいたので、送っていったこともあった。ある日、お茶でもどうぞ、というので上がって飲んでいると、帰りのタクシーが、もう料金済で待っているんだよ。後で考えると、あれは柴錬の手配だった。そんな関係で、お通夜に付き合わされたわけだ。

 僕の女性の付き合いは、白か黒、友情かセックスか、丁か半かなんだ(笑)。それに僕は他人の男女関係にうとくて、柴錬が関係あるなんて気づいていなかった。
 ――古い飲み友達というと、近藤啓太郎さん。
 なんかウマが合うんだな。タイプが違うということもある。それに一つには、近藤はデリケートなところがあるでしょう。それにしても、近藤の話をしたら、まず五時間は抱腹絶倒だな。
――近藤さんの贋者が出たことがあったけど、吉行さんにはありましたか。
 贋者、ありますよ。最近も、「たいへんなことがおこりました、すぐに会わなくちゃなりません」と電話がかかってきた。どうも妊娠したらしい。話しているうちに、違うとわかって、わっと泣き出した。

 その贋者は阿佐ヶ谷だった。二十五年ほど前からときどき出るけど、どうも阿佐ヶ谷が多い。僕の贋者は阿佐ヶ谷近辺に出るんだ(笑)。
 (昭和六十年一月)
つづく 酒房「とと」回想・作家たちの酩酊夜話   新藤涼子