太宰治はお昼から、そろそろ日が暮れて来るまで五、六時間も、「まったくつき合いのなかった」憶えの無い親友の相手をして、いろいろと彼の話を聞き、そのあいだ、ほんの一瞬たりともこの親友を愛すべき奴だとも、また偉い男だとも思うことが出来ず、私は永遠にこの男を恐怖と嫌悪の情だけで追憶するようになるだろう

 本表紙吉行淳之介編

不世出の人 阿川弘之

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 女の論理と男の論理とはちがひ、女が感情的になる時と男が激する時とは別だと考へてゐる。従って――、女の方でもさう思つてゐるかも知れないがそんなことはこちらの知ったことでなく、女といふのは実に勝手きはまる生きものだと、常々思つてゐた。それにしても、これほど、不世出の天才かと言ひたくなるほど勝手な女の人を見たことが無い。
 例へば有吉女史を仲間に入れて麻雀を打ってゐる。彼女が五万を捨てる。
「あ、それで上がり。ちょつと大きい」
途端に女史は、座布団の上で尻を振って、
「駄目よ。待ちなさい、駄目です。上がっちゃ駄目」
 と言ひ出す。

「わたし、五万を出すつもりぢゃなかつたんだから。わたしもこれ引っ込めるから、あなたも牌伏せなさい。上がっちゃ駄目だつたら、分からない人ねえ」
「そんなことを言っても、はつきり場に捨てたぢやありませんか」
「場に捨てても、これはわたしの要る五万なのよ。ほんとうにあなた、分からない人ねえ。だつてさうでしよ」
 だつてから先は。無茶苦茶な理屈がつづくのだが、要するに結論として、自分は正しくあんたが悪いといふことである。

 お尻を振られても非常に色っぽいといふ齢ではなし、こんな勝手なことを言はれて、それに服さなくてはならぬやうな理由は私の方に存在しないのだが、あと二人のメンバーは黙ってにやにやしてゐるだけで、きつと赤ん坊の時から誰にもたしなめられることなしに育った気の毒な人なんだ。

「分かったよ。上がらいよ。早くその牌引っ込めたらいいでせう。代わりのものを捨てて、つづけようぢやないか」
それからあと、こちらは仏頂面になつて負け続け、夜半別れる時、女史が仰有るには、
「阿川さん、あんまり麻雀上手ぢやないわね。もつと勉強してからいらつしやいな」

 数年前、暮れにハワイへ遊びに行ったら、有吉女史が半年前ハワイ大学講師としてホノルルに滞在中であつた。
 この話は前にも書いたことがあるが、女史は車が無く、短期間の滞在だが私はレンタカーを借りていゐる。街角で。
「ぢやあ、またホテルの方へでも電話するわ。だけどあなた、車があるなら、わたしのアパートまで送つてくれたらどう」
「送ってもいいですがね、そのケアモク街といふのをよく知らないから」
「車の中に、地図無いの?」
「地図は入っていません」
「車を借りたら、地図を入れて置くものよ」
「ああ、さうですか」
「まあいいわ。とにかく此処の道をまつすぐ走ってみて下さい。近くまで出れば、わたしも分かるのよ」
 仕方がないから、女史の娘タマオちゃん七歳、子連れを乗せて走り出す。
「あら、違ったらしい。ごめんなさい。こつちへ来たんぢゃ違ふ。ぢやあね、そこを左折して、元の信号まで帰ってみてくれる。何しろ、うちの近くに来れば分かるんだから」
「…‥」
「やつぱり違。どう行くんだつたけなあ」
「いや、僕もケアモクといふのは覚えはあるんだが、どう行くんだつたか…」
「ねえ、あなた少し地理音痴ぢやない? ――ちよつと、さういふ風にキューッと止まらないで。危ないから」

 だんだん私は不景気な気分になつて来る。
「怒らないの、怒らないの。キューッと止まらないでつて言ってるでしよ。あなた、運転下手ねえ。石原慎太郎はもつとうまいわよ」
 おまけに、七つの娘タマオちやんなるものが親によく似た子で、一緒になって、
「小父ちゃん、運転下手ねえ。キューッと止まらないで。危ないから」
 とはやし立てる、たまりかねて、
「しつけの悪いガキだ。何とか探して送って行くから黙っててくれ。気が散って、その方がよつぽど危ない」

 声を荒げたら、大口あいてウエーンと泣き出した。
「あなた、それはいくら何でも失礼ぢやない。よしよしタマオ、泣くんぢやありません。この子は生まれて以来、ガキなんて呼ばれ方したことが無いから、ひどいショックだわ。ここはアメリカですよ。レディに対して何サ。あなたこそ黙って運転しなさいよ」

 某日、此の親子と、ほかに三人、四人案内して、私の好きな浜へ出かけた。浅いところでビキニ姿の七歳と遊んでやつたら、大いにお気に召した様子だったが、そこらあたりが親とそっくりで、「もう一度」と、頭を下げて人に頼むのは嫌であるらしい。知らん顔してゐると、しきりに謎をかける。子供は早くて、半分英語になつてゐるから。
「ものを頼むなら、プリーズと言いなさい」
 と言ったら、また大口をあけて泣き出した。

 その前であつたか、有吉女史が私の家に遊びに来た。
 私は何か一作書き上げたら、これで一生、自分には書くことなぞもう無くなつたといいふ気がする。練り歯磨きを絞りつくした感じとは、確かに吉行淳之介の表現だが、誰が言ひ出したにせよ、その感じであつた。それを話すと、女史は、

「まあ、あなたほど才能無いのねえ。わたしなんか、濡れ手拭からボタボタしづくが垂れるみたいに、五年ぐらゐ先まで、書きたいことがいつぱいあるわよ」
 と言った。それから、
「ねえ、奥さん。あの人、わたしが怒らせようと思つて何かと言ふと、思った通りの怒り方をするわね。面白いつたらありやしない。代わりにやつけて上げててるんだから、奥さん、気分がせいせいするでしよ」
 家人は、学校で女史より二年ほど先輩にあたり、おまけに豚女が、偶然同じ佐和子といふ名前である。さういふことから、これで有吉佐和子流にしたしみを持ってゐて下さるのかも知れないが、あまりしたしみを持たれてお近しく願ふと、当方には色々被害がでる。
 *あがわ・ひろゆき(大正9年~)作家。「面白半分」昭和51年七月発表

 親友交歓 太宰 治
 昭和二十一年の九月のはじめに、私は、或は男の訪問を受けた。
 この事件は、ほとんどまったく、ロマンチックではないし、いつこうに、ジャアナリスチックでもないのであるが、しかし、私の胸において、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。
事件。
 しかし、やっぱり、事件といっては大げさかも知れない。私は或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩も何もなく、そうして少なくとも外見においては和気藹々裡(あいあいり)に別れたというだけの出来事なのである。それでも、私にはどうしても、ゆるがせにできぬ重大事のような気がしてならぬのである。

 とにかくそれは、見事な男であった。あっぱれな奴であった。好いところが一つもみじんもなかった。
 私は昨年罹災して、この津軽の生家に避難して来て、ほとんど毎日、神妙らしく奥の部屋に閉じこもり、時たまこの地方の何々文化会社会とか、同窓会とかいうところから講演しに来い、または、座談会に出席せよなどと言われることがあっても、「他にもっと適当な講師がたくさんいるはずです」と答えて断り、こっそりひとりで寝酒など飲んで寝る、

というやや偽隠者(にせいんじゃ)のあけくれにも似たる生活をしているだけれども、それ以前の十五年間の東京生活においては、最下等の居酒屋に出入りして最下等の酒を飲み、いわゆる最下等の人物たちと語り合っていたものであった。しかし、あの男には呆れた、とにかく、ずば抜けていやがった。

 九月のはじめ、私は昼食をすませて、母屋の常居(じょい)という部屋で、ひとりぼんやり煙草を吸っていたら、野良着姿の大きな親爺が玄関のたたきにのっそり立って、
「やあ」と言った。
 それがすなわち、問題の「親友」であったのである。
(私はこの手記において、ひとりの農夫の姿を描き、かれの嫌悪すべき性格を世人に披露し、もって階級闘争におけるいわゆる「反動勢力」に応援せんとする意図などは、まったくないのだということを、ばからしいけど、念のために言い添えておきたい。それはこの手記のおしまいまでお読みになったら、たいていの読者には自明のことで、

こんな断り書きは興醒めに違いないので、あるが、ちかごろははなはだ頭の悪い、無感覚の者が、しきりに何やら古臭いことを言って騒ぎ立て、とんでもない結論を投げてよこしたりするので、その頭の古くて悪い(いや、かえって利口なのかも知れないが)その人たちのために一言、言わでもの説明を付け加えさせていただく次第なのだ。

 どたいこの手記に現れる彼は、百姓のような姿をしているけれども、決してあの「イデオロギスト」たちの敬愛の的たる農夫ではない。彼は実に複雑な男であった。とにかく私は、あんな男は、はじめて見た。

不可解といってもいいくらいであった。私はそこに、人間の新しいタイプをさえ予感した。善い悪いという道徳的な審判を私はそれに対して試みようとしているのではなく、そのような新しいタイプの予感を、読者に提供し得たならば、それで私は満足なのである。

 彼は私と小学校の同級生であったところの平田だという。
「忘れたか」と言って、白い歯を出して笑っている。その顔には、虚ろに見覚えがあった。
「知っている。上がらないか」私はその日、彼に対してたしかに軽薄な社交家であった。
 彼は藁草履(わらぞうり)を脱いで、常居にあがった。

「久しぶりだなあ」と彼は大声で言う。「何年ぶりだ? いや、何十年ぶりだ? おい、二十何年ぶりだよ。お前がこっちに来ているということは、前から聞いていたが、なかなか俺も畑仕事が忙しくてな、遊びに来れないでいたのだよ。お前もなかなかの酒飲みになったそうじゃないか。うわっはっはっは」
 
 私は苦笑し、お茶を注いで出した。
「お前と俺と喧嘩したことを忘れたか? しょっちゅう喧嘩をしたもんだ」
「そうだったかな」
「そうだったかなじゃない。これを見ろこの手の甲に傷がある。これはお前にひっかかれた傷だ」
 私はその差し伸べられた手の甲を熱視したが、それらしい傷痕は何処にもなかった。
「お前の左の向こう脛にも、たしかに傷があるはずだ。あるだろう? たしかにある筈だよ。それは俺がお前に石をぶつけた時の傷だ。いや、よくお前とは喧嘩をしたものだ」

 しかし、私の左の向こう脛にも、そんな傷は一つもないのである。私はただあいまいに微笑して、かれの話を傾聴していた。
「ところで、お前に一つ相談があるんだがな。クラス会だ。いやか。大いに飲もうじゃないか。出席者が十人として、酒を二斗、これは俺が集める」
「いや、多くない。ひとり二升なくては面白くない」
「しかし二斗なんて酒が集まるか?」
「集まらないかも知れん。わからないが、やってみる。心配するな。しかし、いくら田舎だってこのごろは酒は安くないんだから、お前にそこは頼む」
 私は心得顔で立ち上り、奥の部屋へ行って大きな紙幣を五枚持って来て、

「それじゃ、さきにこれだけ預かって置いてくれ。あとはまた、あとで」
「待ってくれ」とその紙幣を私に押し戻し、「それは違う。きょうは俺は金を貰いに来たのではない。ただ相談に来たのだ。お前の意見を聞きに来たのだ。どうせそれあ、お前からは、千円くらい出してもらわないといけないことになるだろうが、しかし、きょうは相談かたがた、昔親友の顔を見たくて来たのだ。まあ、いいから、俺に任せ、そんな金なんか、引っ込めてくれ」

「そうか」私は、紙幣を上衣のポケットに収めた。
「酒はないのか」と突然かれは言った。

 私はさすがに、かれの顔を見直した。かれも、一瞬、具合いの悪そうな、眩しいそうな顔をしたが、しかし、つっぱった。
「お前のところには、いつでも二升や三升は、あると聞いているんだ。かかは、いないのか。かかのお酌で一ぱい飲ませろ」

 私は立ち上がり、
「よし。じゃ、こっちへ来い」
 つまらない思いがあった。
 私は彼を奥の書斎に案内した。
「散らかっているぜ」
「いや、かまわない。文学者の部屋というのは、みんなこんなものだ。俺も東京にいたころ、いろんな文学者と付き合いがあったからな」
 しかし、私にはとても信じられなかった。
「やっぱり、でも、いい部屋だな。さすがに、立派な普請だ。庭の眺めもいい。柊(ひいらぎ)があるな。柊のいわれを知っているか」
「知らない」
「知らないのか?」と得意になり、「そのいわれは、大にして世界的、小にしては家庭、またお前たちの書く材料になる」

 さっぱり言葉が、意味をなしておらぬ。足りないのではないか、とさえ思われた。しかし、そうではなかった。なかなか、ずるくて達者な一面も、あとで見せてくれたのである。
「なんだろうね、そのいわれは」
 にやりと笑って、
「こんど教える。柊のいわれ」ともったいぶる。
 私は押入れから、半分ほど入っているウィスキイの角瓶を持ち出し、
「ウイスキイだけど、かまわないか」
「いいとも。かかがいないか。お酌をさせろよ」
 永い間、東京に住み、いろんな客を迎えたけれど、私に対してこんなことを言った客は、ひとりもいなかった。
「女房は、いない」と私は噓を言った。
「そう言わずに」と彼は、私の言う事などてんで問題にせず、「ここへ呼んで来て、お酌をさせろよ。お前のお酌で一杯飲んでみたくてやって来たのだ」

 都会の女、あか抜けて愛嬌のいい女、そんなのを期待して来たのならば、彼にもお気の毒だし、女房も惨めだと思った。女房は、都会の女であるが、すこぶる野暮ったい不器量の、そうして何の御愛想もない女である。私は女房を出すのは気が重かった。

「いいじゃないか。女房のお酌だと、かえって酒がまずくなるよ。このウィスキイは」と言いながら机の上の茶呑茶碗にウイスキイを注ぎ、「昔なら三流品なんだけど、でも、メチルではないから」

 彼はぐっと一気に飲み干し、それからちょっちょっと舌打ちをして、
「まむし焼酎に似ている」と言った。
 私はさらにまた注いでやりながら、
「でも、あんまりぐいぐいやると、あとで一時に酔いが出て来て、苦しくなるよ」
「へえ? おかど違いでしょう。俺は東京でサントリーを二本あけたことだってあるのだ。このウイスキイは、そうだな、六十パーセントくらいかな? まあ、普通だ。たいして強くない」
 と言って、またぐいぐいと飲み干す。なんの風情もない。
 そうしてこんどは、彼が私に注いでくれて、それからまた彼自身の茶碗にもなみなみと一杯注いで、
「もうない」と私は上品なる社交家のごとく、心得顔に気軽そうに立ち、またもや押入れからウイスキイを一本取り出し、栓をあける。
 彼は平然と首肯して、また飲む。

 さすが私も、少し忌々しくなって来た。私には幼少のころから浪費の悪弊があり、ものを惜しむという感覚は(決して自慢にならぬことだが)普通の人に比べてやや鈍いように思っている。けれども、そのウイスキイは、謂わばわたしの秘蔵のものであったのである。昔なら三流品でも、しかし、いまではたしかに一級品に違いなかったのである。値段も多いに高いけれど、しかし、それを求める手づるが、たいへんだったのである。お金さえ出せば買えるというものではなかったのである。

私のウイスキイを、かなり前にやっと一ダース譲ってもらい、そのために破産したけれども後悔はせず、ちびちび嘗(な)めて楽しみ、お酒の好きな作家の井伏さんなんかやってきたら飲んでもらおうとかなり大事にしていたのである。しかし、だんだんなくなって、その時には、押入れに二本半しか残っていなかったのである。

 飲ませろ、と言われた時には、あいにく日本酒も何もなかったので、その残り少ない秘蔵のウイスキイを出したのであるが、しかし、こんなにがぶがふ鯨飲(げいいん)されるとはおもっていなかった。はなはだケチ臭い愚痴を言うようだが、(いや、はっきり言おう。私はこのウイスキイに関しては、ケチである。惜しいのである)さすがに、忌々しい気が起らざるを得なかったのである。

 それにまた、彼の談話たるや、すこしも私の共感をそそってはくれないのである。それは何も私が教養ある上品な人物で相手は無学な田舎親爺だからというわけではなかった。そんなことは、絶対にない。私は全然無教養な淫売婦と「人生の真実」とでもいったようなことを大真面目で語り合った経験をさえ持っている。無学な老職人に意見せられて涙を流したことである。

私は世にいう「学問」を懐疑さえしている。彼の談話たるが、少しも快くなかったのは、たしかに他の理由からである。それは何か。私はそれをここで、二、三語用いて断定するよりね。彼のその日のさまざまの言動をそのまま活写し、もっと読者の判断に委ねるほうが、作者としていわゆる健康な手段のように思われる。

 かれは「俺の東京時代は」ということを、さいしょから、しきりに言っていたが、酔うにしたがって、いよいよ頻繫にそれが連発せられて来た。

「お前ももしかし、東京では女にしくじったが」と大声で言って、にやりと笑い、「俺だって、実は、東京時代に、危ないところまでいったことがあるんだ。ほんとうだよ。じっさい、そこまでいったんだ。もう少しで、お前と同じような大しくじりをするところまでいったんだ。ほんとうだよ。じつさい、そこまでいったんだ。しかし、俺は逃げたよ。うん、逃げた。

それでも、女というものは、いったん思い込んだ男を忘れかねると見えるな。うわっはっは。今でも手紙を寄こすのだよ。うふふ。こないだも、餅を送ってよこした。女は、馬鹿なものだよ。まったく。女は惚れられようとしたら、顔でも駄目だ、金でも駄目だ、気持ちだよ、心だよ。じっさい俺も東京時代は、あばれたものだ。考えてみると、あの頃は無論お前も東京にいて、芸者を泣かせたりなんかして遊んでいたはずだが、いちども俺と逢わなかったのは不思議だな。お前は、いったいあのころは、主にどの方面で遊んでいたのだ」

 あのころとは、私には、どのころかわからない。それに私は東京において、彼の推量のごとくそんな、芸者を泣かせたりして遊んだ覚えは一度だってない。おもに屋台のヤキトリ屋で、泡盛や焼酎を飲み、管(くだ)をまいていたのである。私は東京において、彼のいわゆる「女で大しくじり」をして、それも一度や二度でない、たび重なる大しくじりばかりして、親兄弟の肩身を狭くさせたけれども、しかし、せめて、これだけは言えると思う、「ただ金のあるにまかせて、色男ぶりって、芸者を泣かせて、やにさがっていたのではない!」惨めなプロテストではあるが、これをさえ私は未だに信じてもらえない立場にいるらしいのを、彼の言葉によって知らされ、うんざりした。

 しかし、その不愉快は、あながちこの男によって、はじめて嘗(な)めさせられたものではなく、東京の文壇の批評家というもの、その他いろいろさまざま、または、友人という形になっている人物によってさえも嘗めさせられている苦汁であるから、それはもう笑って聞き流すこともできるようになっていたのであるが、もう一つ、この百姓姿の男が、何かそれを私の大いなる弱味のごとく考えているらしく、それに付け込むという気配が感ぜられて、そのような彼の心情がどうにも、あさましく、つまらないものに思われた。

 しかし、その日は、私は極めて軽薄なる社交家であった。毅然(きぜん)たるところが一つもなかった。なんといたつて、私は、ほとんど無一物の戦災者であって、妻子を引き連れ、さほど豊かでもないこの町に無理矢理割り込ませもらって、もってあやうく露命をつなぐを得ているという身の上に違いないのであるから、この町の昔から住民に対しては、いきおい、軽薄なる社交家たらざるを得なかった。

 私は母屋に行って水菓子をもらって来て彼にすすめ、
「食べないか。果物を食べると、酔いがさめて、また大いに飲めるようになるよ」

 私は彼がこの調子で、ぐいぐいウイスキイを飲み、いまに大酔いを発し、乱暴を働かないまでも、前後不覚になっては、始末に困ると思い、少し彼を落ち着かせる目的をもって、梨の皮などをむいてすすめたのである。

 しかし、彼は酔いを覚ますことは好まない様子で、その水菓子には眼もくれず、ウイスキイの茶呑茶碗にだけ手をかける。
「俺は政治はきらいだ」と突如、話題は政治に飛ぶ」われわれ百姓は、政治なんて何も知らなくていいのだ。実際の俺たちの暮しに、少しでも得になることをしてくれたら、そっちへつく。それでもいいだろう。現物を眼の前に持って来て、俺達の手に握らせたら、そっちへつく。それでいいわけではないか。

われわれ百姓には野心はないんだ。受けた恩は、きっと、それだけかえしてやる。それはもう、われわれ百姓の正直なところだ。進歩党も社会党も、どうだっていいんだ。われわれ百姓は田を作り、畑を耕していたら、それでいいのだ」

 私は、はじめ、なぜ彼が突如としてこんな妙なことを言い出したのか、わけがわからなかった。けれども、次の言葉で、真意が判明し苦笑した。
「しかし、こないだの選挙では、お前も兄貴のために運動したろう」
「いや、何も、ひとつも、しなかった。この部屋で毎日、自分の仕事をしていた」
「噓だ。いかにお前が文学者で、政治でないとしても、そこは人情だ。兄貴のために、大いにやったに違いない。俺はな、学問も何も無い百姓だが、しかし、人情というものは持っている。

俺は政治はきらいだ。野心も何もない。社会党だの進歩党だのと言ったって、おそれるところはないと思っているのだが、しかし、人情は持っている。俺はな、お前の兄貴とは、没に近づきでも何でもないが、しかし、少なくともお前は、俺と同級生でもあり、親友だろう。ここが人情だ。

俺は誰に頼まれなくても、お前の兄貴に一票いれた。われわれ百姓は、政治も何も知らなくていい。この、人情一つだけを忘れないでいれば、それでいいと思うが、どうだ」

 その一票が、ウイスキイの権利ということになるのだろうか、あまりに見え透いて、私はいよいよ興ざめるばかりであった。
 しかし、彼だって、なかなか、単純な男ではない。敏感に、ふっと何かを察するらしい。
「俺は、しかし何も、お前の兄貴の家来になりたいっていっている、というわけじゃないんだよ。そんなに、この俺を見下げ果ててもらったら困るよ。お前の家だって、先祖をただせば油売りだったんだ。

知っているか。俺は、俺の家の婆から聞いた。油一合買ってくれた人には、飴玉一つ景品としてやったんだ。それが当たった。また川向うの斎藤だって、いまこそあんな大地主で威張りかえっているけれども、三代前には、川に流れている柴を拾い、それを削って串を作り、川からとった雑魚をその串にさして焼いて、一文とか二文とかで売ってもうけたものなんだ。

また、大池さんの家なんか、路傍に桶を並べて路行く人に小便をさせて、その小便が桶一杯になると、それを百姓たちに売ってもうけたのが、いまの財産のはじまりだ。金持なんて、もとをただせば皆こんなものだ。俺の一族は、いいか、この地方では一番古い家柄ということになっているんだ。

何でも祖先は、京都の人で」と言いかけて、さすがに、照れくさそうに、ふふんと笑い、「婆の話だから、あてにならん、とにかくちゃんとした系図はあるんだ」
 私はまじめに、
「それでは、やはり、公卿の出かも知れない」と言って、彼の虚栄心を満足させてやった。
「うん、まあ、それは、はっきりわからないが、たいてい、その程度のところなのだ。俺だけはこんな、汚い身なりで毎日、田畑に出ているが、しかし、俺の兄は、お前も知っているだろう、大学を出た。大学の野球の選手で新聞にしょっちゅう名前が出ていたではないか。弟もいま、大学へいっている。俺は感じるところがあって、百姓になったが、しかし、兄でも弟でも、いまではこの俺に頭があがらん。

なにせ、東京は食料がないんで、兄は大学を出て課長をしているが、いつも俺に米を送ってよこせという手紙だ。しかし、送るのがたいへんでな。兄が自分で取りに来たら、そうしたら、俺はいくらでも背負わせてやるんだが、やっぱり東京の役所の課長ともなれば、米も背負いに来るわけにもいかんらしいな。

お前だって、いま何か不自由なものがあったら、いつでも俺の家に来い、俺はな、お前に、ただで酒飲ませてもらおうとは思ってないよ。百姓というものは、正直なもんだ。受けた恩は、かならず、きっちりとそれだけ返す。いや、もうお前のお酌では、飲まん! かかを呼んで来い。かかの酌でなければ飲まん!」

私は一種奇妙な心地がした。別に私は、そんなに彼に飲ませたいと思っていないのに。「もう俺は飲まんよ。かかを連れて来い! お前が連れて来なければ、俺が行って引っ張って来る、かかは、何処にいるんだ。寝室か? 寝る部屋か? 俺は天下の百姓だ。平田一族を知らないかあ」次第に酔って、くだらなく騒ぎ、よろよろ立ち上る。

 私は笑いながら、それをなだめて坐らせ、
「よしそんなら連れて来る。つまらねえ女だよ。いいか」
 と言って女房と子供のいる部屋へ行き、
「おい、昔の小学時代の親友が遊びに見えているから、ちょっと挨拶に出てくれ」
 と、もっともらしい顔をして言いつけた。
 私は、やはり、自分の客人を女房に侮られたくなかった。自分の所に来た客人が、それはどんな種類の客人でも、家の者たちに侮られている気配が少しでも見えると、私は、つらくてかなわないのだ。

 女房は小さいほうの子供を抱いて書斎に入って来た。
「このかたは、僕の小学校時代の親友で、平田さんというのだ。小学校時代には、しょっちゅう喧嘩して、このかたは右だかの手のむ甲に僕の引っ掻いた傷痕がまだ残っていてね、だからきょうはその復讐においでになったというわけだ」

「まあ、こわい」と女房は笑って言って、「どうぞよろしく」とていねいにお辞儀をした。
 私たち夫婦のこんな軽薄きわまる社交的な礼儀も、彼にとってはまんざらでもなかったらしく、得意満面で、
「やあ、固苦しい挨拶はごめんだ。奥さん、まあ、こっちへずっと寄ってお酌をしてください」かれもまた、抜け目のない社交家であった。陰では、かかと呼び、面と向かえば、奥さん、などと言っている。

 女房のお酌で、ぐいと飲み、
「奥さん。いまも、修治(私の幼名)に言っていたのだが、何か不自由なものがあったら、俺の家に来なさい。何でもある。芋でも野菜でも米でも、卵でも、鶏でも。馬肉はどうです。たべますか、俺は馬の皮をはぐのは名人なんだ、食べるなら、取りに来なさい、馬の脚一本背負わせてかえします。雉(きじ)はどうです、山鳥のほうが美味しいかな? 俺は鉄砲撃ちなんだ。鉄砲撃ちの平田といえば、このへんでは、知らない者はないんだ。

お好みに応じて何でも撃ってあげますよ。鴨はどうです。鴨なら、明日の朝でも田圃(たんぼ)へ出て十羽くらいすぐ落して見せる。朝めし前に、五十八羽撃ち落としたことさえあるんだ。嘘とだと思うんなら、橋のそばの鍛冶屋の笹井三郎のところへ行って聞いて見ろ。あの男は、俺のことなら何でも知っている。鉄砲撃ちの平田と言えば、この地方の若い者は、絶対服従だ。

そうだ、あしたの晩、おい文学者、俺と一緒に八幡様の宵宮(よいみや)に行ってみないか。そこへ俺が飛び込んで行って、待った! と言うのだ。ちょうど幡随院(ばんずいいん)の長兵衛というところだ。俺はもう命も何も惜しくねえ。俺が死んだって。俺には財産があるんだからな、かかや子供は困ることがない。おい、文学者。あしたの晩は、ぜひ、一緒に行こうじゃないか。俺の偉いところを見せてやる。毎日、こんな奥の部屋でまごまごしていたって、いい文学はできない。多いに経験を広くしなければいけない。

いったい、お前は、どういうものを書いているのだ。うふふふ。芸者小説か。お前は苦労を知らないから駄目だ。俺はもう、かかを三度とりかえた。あとのかかほど、可愛いもんだ。お前は、どうだ。お前だって、二人? 三人か? 奥さん、どうです、修治は、あなたを可愛がるか? 俺は、これでも東京で暮らしたことのある男でね」

 はなはだ、まずいことになって来た。私は女房に、母屋に行って何か酒の肴を貰って来なさいと、言いつけて、席を外させた。
 彼は悠然と腰から煙草入れを取り出して、そうして、その煙草入れに付属した巾着の中から、ホクチのはいっている小箱だの火打石だのを出し、カチャカチャやって煙管に火をつけようとするのだが、なかなか付かない。

「煙草は、ここにたくさんあるからこれを吸い給え。煙管は、面倒くさいだろう」
 と私が言うと、彼は私の方を見て、にやりと笑い、煙草入れしまい込み、いかにも自慢そうに、
「われわれ百姓は、こんなものを持っているのだよ。お前たちは馬鹿にするだろうが、しかし、便利なものだ。雨の降る中でも、火打石は、カチカチとやりさえすれば火が出る。こんど俺は東京らに行く時、これを持参して銀座のまんなかで、カチカチとやってやろうと思うんだだ。お前ももうすぐ東京へ帰るのだろう? 遊びに行くよ。お前の家は、東京のどこにあるんだ」
「罹災してね、どこへ行ったらいいか、まだ決まっていないよ」
「そうか、罹災したのか。はじめて聞いた。それじゃ、いろいろ特配をもらったろう。こないだ罹災者に毛布の配給があったようだが、俺にくれ」

 私はまごついた。彼の真意を解するに苦しんだ。しかし、彼は、まんざら冗談でもないらしく、しつこくそれを言う。

「くれよ。俺は、ジャンバーを作るのだ。わりにいい毛布らしいじゃないか、くれよ。どこにあるのだ。俺は帰りに持って行くぞ。これは、俺の流儀でな。ほしいものがあったら、それ持って行く! と言って、貰ってしまう。その代わり、お前が俺の所へ来たら、お前そうするとよい。俺は平気だ。何を持って行ったって、かまわないよ。俺は、そんな流儀の男だ。礼儀だの何だの。面倒くさいことは嫌いなのだ。いいか、毛布は、貰って行くぞ」

 そのたった一枚の毛布は、女房が宝物のように大事にしているものだ。いわゆる「立派な」家にいま住んでいるから、私たちには何でもあり余っているように、彼には思われているのだろうか。私たちは、不相応の大きい貝殻の中に住んでいるヤドカリのようなもので、すぽりと貝殻から抜け出ると、丸裸の哀れな虫で、夫婦と二人の子供は、特配の毛布と蚊帳(かや)をかかえて、うろうろ戸外を這い廻らなければならなくなるのだ。

 家のない家族の惨めさは、田舎の家や田畠を持っている人たちにはわかるまい。このたびの戦争で家を失った人たちの大半は、(きっとそうだと思うのだが)いつか一たびは一家心中という手段を脳裡に浮かべたに違いない。

「毛布は、よせよ」
「ケチだなあ、お前は」
 とさらにしつこく、粘ろうとした時に、女房はお膳を運んで来た。
「やあ、奥さん」と矛先は、そちらに転じて、「手数をかけるなあ。食うものなんか何も要りませんから、さあここへ来てお酌してください。修治のお酌では、もう飲む気がしない。ケチくさくて、いけない。殴ってやろうか。奥さん、俺はね、東京時代にね、ずいぶん喧嘩が強かったですよ。柔道もね、ちょっと、やりました。

いまだって、こんな、修治みたいなのは一ひねりですよ。いつでもね、修治があなたに威張ったら、俺に知らせてください。思い切りぶん殴ってやりますから。どうです、奥さん、東京にいた時も、こっちへ来てからも、修治に対して俺ほどこんな無遠慮に親しく口をきける男はなかったろう。何せ昔の喧嘩友だちだから、修治も俺には、気取ることができやしない」

 ここにおいて、彼の無遠慮も、明らかに意識的な努力であったことを知るに及んで、ますます私は味気ない思いを深くした。ウイスキイを奢らせて大あばれにあばれに来た、と馬鹿な自慢話の種にするつもりなのであろうか。

 私は、ふと、木村重成と茶坊主の話を思い出した。それからまた神崎与五郎と馬子の話も思い出した。韓信(かんしん)の股くぐりさえ思い出した。元来、私は、木村氏でも神崎氏でも、韓信の場合にしても、その忍耐心に対して感心するよりは、あのひとたちが、それぞれの無頼漢に対して抱いていた無言の底知れぬ軽蔑感を考えて、かえってイヤミなキザなものしか感じることが出来なかったのである。

よく居酒屋の口論などで、ひとりが憤激してたけり立っているのに、ひとりは余裕ありげに、にやにやして、あたりの人に、「困った酒乱さ」と言わぬばかりの色眼をつかい、そうして、その激昂の相手に対し、「いや、わるかったよ、あやまるよ、お辞儀をします」

 などと言っているのを見かけることがあるけれども、あれは、まことにイヤミなものである。卑怯だと思う。あんな態度に出られたら、悲憤の男はさらに物狂おしく暴れ廻らざるを得ないだろうと思われる。木村氏や神崎氏、または漢信などは、さすがにそんな観衆に対していやらしい色眼を使い、「悪かったよ、あやまるよ」の露骨なスタンドプレを演じることなく、堂々と、それこそ誠意おもてにあらわれる態の詫び方をしたに違いないが、しかし、それにしても、これらの美談は、私のモラルに反撥する。

 
私は、そこに忍耐心というものを感ぜられない。忍耐とは、そんな一時的な、ドラマチックなものでないような気がする。アトラスの忍耐、プロメテの忍苦、そのようなかなり永続的な姿であらわされる徳のように思われる。しかも前記三氏の場合、その三偉人はおのおの、その時、奇妙に高い優越感を抱いていたらしい節がほの見えて、あれでは茶坊主でも、馬子でも、ぶん殴りたくなるのも、もっともだと、かえってそれらの無頼漢に同情の心をさえ寄せていたのである。

ことに神崎氏の馬子など、念入りに詫び証文まで取ってみたが、いっこうに浮かぬ気持で、それから四、五日いよいよ荒(すさ)んでやけ酒をくらったであろうと思われる。そのように私は元来、あの美談の偉人の心懐には少しも感服せず、かえって無頼漢どもに対して大いなる同情と共感を抱いていたつもりであったが、しかし、いま眼前に、この珍客を迎え、従来の私の木村神崎漢信観に、重大なる訂正を施さざるを得なくなって来たようであった。

 卑怯だって何だってかまわない。荒れ馬は避くべし、というモラルに傾きかけて来たのである。忍耐だの何だの、そんな美徳について思いを潜めてする余裕はない。私は断言する。木村神崎韓信は、たしかにあのやけくその無頼の徒より弱かったのだ、圧倒せられていたのだ。勝目がなかったのだ。キリストだって、時われに利あらずと見るやも「かくして主(しゆ)は、のがれ去り給えり」ということになっているのではないか。

 のがれ去るより他はない。いまここで、この親友を怒らせ、戸障子を壊すような活劇を演じたら、これは私の家ではなし、はなはだ穏やかでないことになる。そうではなくても、子供が障子を破り、カーテンを引きちぎり、壁に落書などして、私はいつも冷や冷やしているのだ。ここは何としても、この親友のご機嫌を損じないように努めなければならぬ。あの三氏の伝説は、あれは修身教科書などで、「忍耐」だの「大勇と小勇」だのという題でもって扱われているから、われら求道の人士をこのように深く惑わすことになるのである。私がもし、あの話を修身の教科書に採用するとしたなら、題を「孤独」とするであろう。

 私は、いまこそあの三氏の、あの時の孤独感を知った、と思った。
 彼の気焔を聞きながら、私はひそかにそのような煩悶をしているうちに、突如、彼は、
「うわあっ!」というすさまじい叫び声を発した。
 ぎょっとして、彼を見ると、彼は、
「酔って来たあっ!」と喚き、さながら仁王のごとく、不動のごとく、眼を固くつむってううむと唸って、両腕を膝につっぱり、満身の力を発揮して、酔いと闘っている様子である。

 酔うはずである。ほとんど彼ひとりで、既に新しい角瓶の半分以上もやっているのだ。額には油汗がぎらぎら浮いて、それはまことに金剛あるいは阿修羅というような形容を与えるにふさわしい凄まじき姿であった。私たち夫婦はそれを見て、実に不安な視線を交わしたが、しかし、三十秒後にはけろりとなり、
「やっぱり。ウイスキイはいいな。よく酔う。奥さん、さあお酌をしてくれ。もっとこっちへ来なさいよ。俺はね、どんなに酔っても正気を失わん。きょうはお前たちのごちそうになったが、こんどは是非ともお前たちにごちそうする。俺のうちにに来いよ。しかし、俺の家には何もないぞ。鶏は飼っているが、あれは絶対につぶすわけにはいかん。ただの鶏じゃないのだ。シャモと言ってな、喧嘩をさせる鶏だ。

今年の十一月に、シャモの大試合があって、その試合に全部出場させるつもりで、ただいま訓練中なんだが、ぶざまに負けた奴だけをひねりつぶして食うつもりだ。だから十一月まで待つんだね。まあ、大根の二、三本くらいはあげますよ。鴨一羽、そのうち、とったら進呈するがね、しかし、それには条件がある。

その鴨を俺と修治と奥さんと三人で食って、その時に修治は、ウイスキイを出して、そうして、その鴨の肉をだな、不味いなんて言ったら承知しねえぞ。こんな不味いもの、なっていったら承知しねえ。俺がせっかく苦心して撃ち取った鴨だ、美味しい、と言ってもらいたい。いいか約束したぞ。美味しい! 上手い! と言うのだぞ。うわっはっはっはつは。

奥さん、百姓というものはこういうものだ。馬鹿にされたら、もう、縄きれ一本だって、くれてやるのは嫌だ。百姓とつき合うには、こつがある。いいか、奥さん。気取ってはいかん。気取っては。なあに、奥さんだって、俺のかかと同じことで、夜になれば、‥‥」

 女房は笑いながら、
「子供が奥で泣いているようですから」
 
と言って逃げてしまった。
「いかん!」と彼は怒鳴って、立ち上がり、「お前のかかは、いかん! 俺のかかは、あんなじゃないよ。俺が行って、引っ張って来る。馬鹿にするな。俺の家庭は、いい家庭なんだ。子供は六人あるが、夫婦円満だぞ。嘘だと思うなら、橋のそばの鍛冶屋の三郎のところへ行って聞いてみろ。かかの部屋はどこだ。寝室を見せろ。お前たちの寝る部屋を見せろよ」

 ああ、この人たちに大事なウイスキイを飲ませるのは、つまらんことだ!
「よせ、よせ」私も立ち上って、彼の手をとり、さすがに笑えなくなって、「あんな女を相手にするな。久しぶりじゃないか。楽しく飲もう」 
 彼は、どたりと腰を下し、
「お前たちは、夫婦仲が悪いな? 俺はそうにらんだ。へんだぞ。何かある。俺は、そうにらんだ」
 にらむもにらまぬもない。その「へん」な原因は、親友の滅茶な酔い方にあるのだ。
「面白くない。ひとつ歌でもやらかそうか」
 と彼が言ったので私は二重に、ほっとした。

 一つには、歌によってこの当面の気まずさが解消されるだろうということと、もう一つは、それは私の最後のせめてもの願いであったのだが、とにかく私はお昼から、そろそろ日が暮れて来るまで五、六時間も、この「まったくつき合いのなかった」親友の相手をして、いろいろと彼の話を聞き、そのあいだ、ほんの一瞬たりともこの親友を愛すべき奴だとも、また偉い男だとも思うことが出来ず、このまま別れては、私は永遠にこの男を恐怖と嫌悪の情だけで追憶するようになるだろうと思うと、彼の為にもこんなつまらないことはない、一つだけでいい、何か楽しくなつかしい思い出になる言動を示してくれ、どうか、わかれ際に、懐かしい声で津軽の民謡か何か歌って私を涙ぐませてくれという願望が、彼の歌をやらかそうという動議によってむらむらと胸中に湧き起って来たのである。

「それあ、いい。ぜひ一つ、たのむ」
 それは、もはや、軽薄なる社交辞令ではなかったか。私は、しんからそれ一つに期待をかけた。しか、その最後のものまで。無惨に裏切られた。

 山川草木(さんせんそうもく)うたたあ荒涼
 十里血なまあぐさあし新戦場

 しかも、後半は忘れたという。
「さ、帰るぞ、俺は。お前のかかには逃げられたし、お前の酌では酒は不味いし、そろそろ帰るぞ」
 私は引き止めなかった。
 彼は立ち上って、まじめくさり、
「クラス会は、それじゃ、仕方ない、俺が奔走してやるからな、後はよろしく頼むよ。きっと、面白いクラス会になると思うんだ。きょうは、ごちそうになったな。ウイスキイは、もらって行く」
 それは、覚悟していた。私は、四分の一くらいはいっている角瓶に、彼がまだ茶呑茶碗に飲み残してあるウイスキイを、注ぎ足してやっていると、
「おい、おい。それじゃないよ。ケチな真似をするな。新しいのがもう一本押入れの中にあるだろう」
「知っていやがる」私は戦慄し、それから、いっそ痛快になって笑った。あっぱれ、というより他にない。東京にもどこにも、これほどの男はいなかった。
 もうこれで、井伏さんが来ても誰が来ても、共にたのしむことができなくなった。私は押入れから最後の一本を取り出して、彼に手渡し、よっぽどこのウイスキイの値段を知らせてやろうかと思った。

それを言っても、彼は平然としているか、または、それじゃ気の毒だから要らないと言うか、ちょっと知りたいと思ったが、やめた。ひとにごちそうして、その値段を言うなど、やっぱりできなかった。
「煙草は?」と言ってみた。
「うむ、それも必要がだ。俺は煙草のみだからな」
 小学校時代の同級生とは言っても、私には、五、六人のほんとうの親友はあったけれども、しかし、このひとについての記憶はあまりないのだ。彼だって、そのころの私についての思い出は、その例の喧嘩したということの他には、ほとんどないのではあるまいか。しかも、たっぷり半日、親友交歓をしたのである。私には、強姦という極端な言葉さえ思い浮かんだ。

 けれども、まだこれでおしまいではなかったのである。さらに有終の美一点附加せられた。まことに痛快とも、小気味よしとも言わんかたない男であった、玄関まで彼を送って行き、いよいよ別れる時に、彼は私の耳元で烈しく、こう囁いた。
「威張るな!」
  だざい・おさむ(明治四十二年~昭和二十三年)作家
 新潮昭和二十一年十二月号発表、『太宰治全集』第八巻収録

つづく 吉行淳之介 定本・酒場の雑談
 赤い玉がポンと出る