明治生まれの人間の父吉田茂は国家のことが常に念頭にあつて又その仕事をする役人でもあった。父にその仕事は既になくて天下国家は父の眼にはただ壊滅に向ふものに映り、その見方に狂ひがなかったことは我々も知る通りである。
本表紙 吉行淳之介編

交遊録・吉田茂 吉田健一

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 父に就いて本式の伝記のやうなものは別として以後もう書かないと前に公表したことがある。その趣旨は今でも変わってゐない。併しこれは交遊録であってここで扱ってゐる人達の伝記ではないまでもそれに資することも心掛けて書いてゐるのであり、この前に拒否したのは少なくともその頃のとき好に投じて何かと父に就いて書き散らかすことであったので父も生涯に親しくしていた人達の一人であるから当然この交遊録に入れなければならない。併しそれが親しくなった順序で最後に来るのに就いては先ずその辺のことを説明することから始める必要がある。

こつちが生まれた時に父は任地にあつて父と顔を合わせる前に牧野さんを知ることになつた。この状態がいつまでも続いた訳ではないが、その上で父との間に出来たのがあり来たりの親と子の関係だつた。この頃はその関係に就いて恐ろしく窺ったのでもなければ論者の思考力の不足が目立つ類のことが説かれてゐる過(あやま)つてこれに耳を貸せば親であり子であることが人間の一生の不幸であるといふ錯覚に陥り兼ねない。

併しその種の説は思考力の不足の他に先ず例外なしに所謂(いわゆる)、為にする所があつてのものであることも自明であつて少なくとも子の立場からすれば親は空気も同様にあつてもないやうなものであり、それがこの点も空気と変わらずもしなければ困るものだといふことまで子の方は多くの場合思ひ至ることがない。又その状態が一生続くこともあつて何とかの断絶と言った類のことは殊(こと)の外にお話にならない親子のことを取り上げて勿論振った注釈を付けたものと思へば足りる。

 併し父との場合は二人とも或る程度の成長を見てから一時は寧(むし)ろ意識して遠ざかつて行ったといふ経緯があってこれは人間の中では女よりも男にとつての仕事といふこと、それも二人のうちでは父の仕事と関係がある。これを一口に言へば父はその一生の大半に亙(わた)って不遇の境地にあつた。

それは必ずしも初めからではなかったかも知れなくて曾(そう)て父から聞いた話ではその在学中にどういふ職業を選ぶかに就いて考へて世間を見渡した所上役に頭を下げずにすむのは役人だけであるらしいので役人になったといふことだった。

今日では想像し難い話であるが父が外務省に入った明治三十年代の日本ではさうだつやうで独立不羈と言った精神がその頃の官界で尊ばれてゐたことは他の人達の例でも解かる。併しその次に来た大正の時代が何か奇妙なものであったことに就いては河上さんの所で既に触れた。

又その明治から大正への変化は微妙なものだったに違ひなくても例へば明治型の役人が大正に入って喜ばれなくなったことは容易に想像出来て父も大正を通してその立場をどうにか守り続けて外務次官まで行ったのであっても昭和の初期にその位置から転じてイタリイ駐箚(ちゅうさつ)を命じてられたのは表向きは昇格であって実質的に左遷であることは実質的にと断るまでもない位誰にも解かってゐた。

 その任地にある間に満州事変が起こったのはさうふことが重なるものであるといふことよりも時代がさういふ風になつたことを示す。この事変から大東亜戦争の終結に至る一連の出来事が歴史の上から見るならばあるべくして起こったものであることは横光さんの所で書いた。併し当事者の立場からすれば話が違った性質のものになつてこの昭和十代の一時期のやうに政治、外交、或いは一般に政治と呼ばれてゐるものが乱雑に、或いは無節操に行われたのは少なくとも明治以後それまでの日本の歴史になかつたことである。

その後に便乗と呼ばれることになつたものが人間の行動で目立つことになつたのもこの時期でその限りではこれが戦後の日本を前触れするものだったとも言へる。一体に歴史が転換期にある際にはかうした事態が生じやすい。
これらそれまでの条件に基いて培われて来た常識、見識が局面の収拾に役に立たたなくなる為でそれでも収拾は試みられることが混乱に拍車を掛けて転換と認められて常識が再び働く余地を与へられるまでそれが続く。

又もしそれが明治維新のやうな大変動であるならばそれが起こったことがこれらを推進する精神の持主達の存在を示して悲劇はあつても混乱は免れるが昭和の転換期は明治維新の線上にあつてその一つの帰結だつた。

 そして父は当事者の位置から外されてその時期を送った。かうした際にそれまでの見識が役に立たなくなると書いたが別の言い方をすればどういふ見識も転換がその通りに転換なのか、それとも単なる逸脱なのかの区別も付かない間は行動の面でも用をなさなくて暫くは静観の態度に出ることを強いられることになり、珠に満州事変が始まる辺りからの日本の情勢では何かが起らうとしてゐることに当たりを付けるだけで充分な連中が表面に出る以外には人の動きが止まった形だつた。

これに就いては機に敏感に応じるが我々日本民族の性格の一つであることを理由にでもする他ない。その頃に松岡洋右といふ人が満州事変の処理に就いて国際聯盟の会議に政府代表で派遣されてゐて派手に活躍し、さういふ或る日牧野さんの所に行くとまだ在職してゐた牧野さんが役所から帰って来て最悪の事態と言ったのを覚えてゐる。そのうちに松岡洋右のやうなのも出る幕でなくなつた。

 父の不遇を示す一例に昭和十一年にニ・ニ六事件といふものが起こり、これも我が国民の一つの性格である或る微妙な平衡の感覚からそれまで横暴を極めてゐた所謂、軍部がこの一挙で全く国民の信望を失ひ、それから暫くの間はこの軍部を抑へることも一応は見込みがあることに思はれた。

この事件の処理に新しい内閣が出来ることになつてイタリイから帰つて以来といふもの浪人してゐた父が入閣することに決まったのもその現れだったが軍部はその場合は新内閣に陸軍大臣を送らなといふその頃から用ゐ始めた手段で父の入閣を阻止し、その埋め合わせといふやうな意味で父は駐英大使に任じられた。

曾ては駐英大使といふのが外務大臣にも増して外交官にとつての名誉ある地位だった。併し当時は既に米英がどうとかしたといふ時代であつて一般の眼から見れば父はひどい所に行かされることになたのであり、そのやうに父の任命が発表それた際に事実人には言はれたこともある。この新内閣の首班は父と同期の広田弘毅だった。

 これが昭和の初めにイタリイに暫くゐた時から終戦までの間に父に与えられた唯一の職で二、三年して英国から帰って来ると父は又ももとの浪人生活に入った。その十何年かに亙(わた)る時期の父といふものをこれを書いてゐて思ひ出した。それは父が経済的にも窮迫してゐた時期だったに違ひない。

併し明治の役人といふのはこれは二葉亭四迷の場合でも解かるやうに所謂(いわゆる)、天下国家のことが常に念頭にあつて又その仕事をする役人でもあった。父にその仕事は既になくて天下国家は父の眼にはただ壊滅に向ふものに映り、その見方に狂ひがなかったことは我々も知る通りである。

まだ牧野さんにはその能力を十二分に発揮した記憶があつた。併し奉天総領事とか駐伊大使とかで仕事の面での生涯を終へることはまだ五十代の半ばを過ぎたばかりの父には堪へ難かつたに違ひない。それも天下泰平の時代に役所勤めにも飽きて引退するのならば別であるが父には許し難いことがその周囲で行われてゐて父はそれを傍観する立場に置かれた。

 尤(もっと)もこれは必ずしも傍観するばかりだったとも言へない。父が終戦まで、ここで憂国の士を語らつてと書く積もりでゐたのであるが戦後の日本でこの憂国といふことがどのように荒唐無稽の意味に用ゐられてゐるかを思ってこの言葉が使ひたくなくなつた。それなら同好の士とでも言って置くか。

父が終戦まで同好の士を語らって何かと画策してゐたことも事実であるが、それが凡(すべ)て裏目に出て非合法に投獄されて何ケ月か後に釈放されたのが終戦の数日前だつた筈である。併しそれまで画策することで暇が潰せた訳でもなかった。

父は外務省から送って来る文書の裏を使って習字をし、漢籍を読み、又東京クラブに出掛けて行って他の会員と玉を突き、夜はよく新橋辺りで飲んでゐたらしい。尤も今日でも政治家が何かと画策するのが某料亭に会合してといふ風になって新聞に出る。ただ父の行動に注意してゐたのは当時は軍部だけだったかも知れなくてそれ程に父は一般には無用の人間になつてゐた。それとも所謂、国賊だつたのか。

 その頃の父には何か目も当てられない感じがするものがあった。それが初めに書いた男にとっての仕事といふものである。何か男にとっては仕事をするのが成長するのに必要な事であるやうでその方面での自分といふものを確認する所まで行かない間は成長が完了せず、その機会を奪われれば成長が阻止される。

ここで考へていいのは父の場合に所謂、立身出世することが仕事をするのと同義語であり、それが自分の選んだ職業が役人だったのであるから避けられないことだったといふことである。牧野さんはその頃の父と同じ年輩の時に既に各国駐在の公使、外務大臣を歴任してパリ講和会議の全権の一人に選ばれてゐた。父は外務省からも引退してゐた。

これは長い間特命といふ要するに屈辱的な立場に置かれてゐて自分から定年になる前に退官したのである。もう一つ思ひ出すのは家に誰かすら貰った黄と黒の奇妙な斑のグレイハウンド犬がゐて父が毎朝これを連れて散歩に出掛けてゐたことである。その途中で父がどんなことを考へてゐたか想像したくもない。

 それでこつちの話になる。丁度その十何年間かがこの交遊録で書いて来た人たちの多くに最初に会つて付き合い始めた期間に当たる。その面では恵まれてゐたと言ふ他にないが、この人達が凡てそれぞれの分野で既に仕事をしてゐたことも前に書いた通りでこつちは仕事と呼べる程のものをまだ何もしていなかった。

ここで天下国家のことと文章の仕事の比較といふやうなことが意味をなさないことに就いて多く言ふ必要はない。さう仕事といふものに種類がある訳でもなくて一人の人間が自分の仕事を選んだものが仕事である。そして父がその仕事からはぐれてゐたたのが大正から昭和に向かって日本がその歴史の上で或る転換期にあった為であるのに対してこつちに仕事らしい仕事が出来ずにゐたのはもつと簡単に文章といふものがいつの時代にも幾つかの蹉跌(さてつ=意味つまずくこと=しくじること)があつてからでなければ自分のものにならない性質のものであるからだつた。

併し理由はどうだらうというと二人の人間が同じ家にゐて思ひ思ひにその志を得ないでゐたことになり、それが諦めるといふやうなことを許すものでなかったから顔を合わせるのも苦痛だった。今思ひ出して見てもこれがこつちの一生のうちで最も暗い時代だった気がする。

 終戦になつてこつちらが海軍から除隊になつて大磯の家に戻って来た時父も陸軍の衛戍(えいじゅ)監獄から出されたばかりだつた。尤(もっと)も監獄で出来た腫れものが治ったばかりといふことだつたから釈放されてから少しは日数がたつてゐたかも知れない。その小さな家中を探しても白葡萄酒一本しかなくてこれを冷やす方法もなく二人で飲んだやうに覚えている。それはいい月夜の晩だった。

その時のことを思ふと妙な感じがして父は自分の時代はもう終わったと言って又実際にその積もりでゐるらしかった。それはこつちが何が終わったのでもなくてただ何もない感じでゐたのとさう違ったものでもなかつたことが想像される。

その家にそれから幾日かゐてこつちは家族の疎開地に行き、そこにゐる間に父が入閣することになつたと記憶してゐる。その辺りの前後が余り確かではないが入閣がいつのことだつたのでも働き盛りの時に仕事ができるどういふ地位からも遠ざけられてゐて暫く外務大臣に就任したのが敗戦国の日本であることからしても父が不幸な人間であることは間違いないと思つたのは覚えてゐる。

 そのことに就いては後で更に述べなければならない。兎に角父が入閣し、更に何度か組閣する時代になつて父との行き来がそれまでよりも頻繫になつた訳ではなかった。その理由は全く日本的なもの、或は何かの意味で無駄でないかも知れない。これが戦後のことも考へられるのは戦後の日本で内閣総理大臣といふものの権限がそれまでと比べて法外に強大なものになつたからであつてそれに当人が馴れてその影響を受けないやうになるまでに時間が掛ることを父からも聞いたことがある。

併しさうでなくても何故か日本では要職にあるものの廻りに人が集る傾向があつてこれがその下にゐるものを飛び越えて直接に色々と請願する為であることはこれは日本では説明する必要がない。そのことをこつちが戦後になつて知ったのがそれまで要職にあるものと行き来がなかつたからでないならばこれはやはり昔の日本の要職にあるものの境遇が違ってゐたことになる。

 初めのうちはこつちも官邸まで出掛けて行って安物のながらウィスキイがあるのを重宝なことに思つてゐた。併しそのうちにこつちも請願の対象になることを知って考へなければならなくなつた。この時期のやうに誰か解からない人間が馴れ馴れしくされたことはない。

恐らく要職にあるものと行き来してゐる人間の顔触れは直ぐに調べが付くものと思はれる。又その為の網は細かく張り廻らされてゐて請願を避けるには父の所に行くのを止めさせる他なかつた。それ以外に連絡を取る方法は幾らでもあつて可哀想にそこまでは請願組、利権漁り組の眼が届かなかつたらしい。

兎に角それで父の在職中の、六、七年間は殆ど顔を合せずにゐて便利なことに父の動静は特別な工作をしなくても新聞その他で細かなことまで解かった。ただ一度だけ講和条約の調印式にサンフランシスコに出掛ける前の晩に家族と一緒に会ひに行ったことがあつてその時父が蒼白な顔だけが残した骸骨のやうになつてゐたのに驚いた。

 それで父が不幸な人間だったといふことを考へ直す必要が生じる。父が戦前にしたことと言へば志那に在任中に満州の経営に或る程度の貢献をした位なものでその為の関東軍との交渉も後に所謂(いわゆる)、軍部を本式に相手取っての画策の小手調べに過ぎなかったと見られてその画策は父の負けで終つた。

併し歴史を見てゐると政治家には二つの型があってどういふ政治家もその何れかに属するものであるやうに思はれる。これを大雑把に説明して一つは世が治ってゐる時代の政治家、もう一つが乱世の時代の政治家であり、その何れのほうが優ってゐるといふのでなくてこれは分類の上でのさういふ二つの型でどの時代にもその時代の政治家が必要になる。

もし明治維新を例に取るならば西郷隆盛は乱世型の政治家、大久保利通がもう一方の治世型であって英国で治世型の政治家が何人でも挙げられる中にチャアチルは典型的な乱世型であり、その両次の世界大戦中の功績とこの両大戦の間に来た時期にチャアチルが全く無為だったこと、又第二次世界大戦が終わって直ぐに政権の交替があったことでも解かる。

それと同じ意味で父は明らかに乱世型の政治家だつた。これは父をチャアチル、或はド・ゴオルその他と比較してゐるのではなくてその何れもが同じ型に属すると言ってゐるのであり、かういふ逸材の業績となれば政治も文章の仕事と変わらず優劣を定めるのが目的で比較することが意味を失う。

 そのことから父がその生涯の大半、或は少なくとも前半に亙(わた)つて時を得なかった理由も解かる。何と言っても大正から昭和の初期に掛けての時代は明治維新がその初期の目的を達して動乱の影が遠ざかった状態にあつたものでももしこれがそのまま続いたならば父は旨く行って無事に年期を勤め上げて一老外交官でその生涯を終わる程度のことに満足しなければならなかったと考えられる。

それならば実際の父が不幸な人間だつたと見ることは許されなくなつて乱世型の政治の大才を抱えていた人間に乱世が廻って来た。先づ国の存亡が問われる以上の乱世といふものはなくてその際に父が在職してゐなかったならば日本がどうなってゐたかは日本の所謂、知識人が喜びさうな問題である。

その在職中に父に対して行われた一般の輿論と呼ばれてゐるものの内容は願慮する必要がないもので生憎まだ明治以降の日本に政治を左右するに足りる興論といふものは存在せず、その代わりをしてゐるものが大久保利通や原敬の場合のやうに父を殺すに至らなかったのはせめてものことだつた。或はそこにも父の運が強かったと見る材料がある。

併し乱世型の政治家だつたから父もチャアチルの宿命を免れなかつた。日本が当時の言葉で言えば独立してから暫くの間は父は自分にまだ残ってゐる仕事があると思つてゐたやうである。ここで政治評論家風の語調にならなくても今日の日本が直面してゐる問題のうち父が自分で処理する積もりでゐたものが幾つかあつたことは確かであるが情勢がそれを許さなかった。

そのことに父がいつ気づいたかといふやうなことは考へるだけ無駄である。併し治世、乱世と言っても政治の要諦そのものに変わりおる訳でなくて父は政治家であり、それまでと違って自分が仕事をする時代が去ったことをやがて知ったことに疑ひの余地はない。その時代といふうやうなことよりも自分の仕事が終わったことを知るといふうことが大切である。

ある種の人間は死ぬまで仕事をする積もりでゐて死に顔が真っ黒に見えるまで描き続けたバルザック、或は百歳になれば少しは絵らしく絵が書けるだらうと思っていた北斎の例を考へるならばこのことの良し悪しは我々の判断が及ぶことでなくなる。

併し死ぬまで仕事をすることに我々が頷けるにはその仕事が全く生活の一部をなすに至り、
それが例えば昼間の光が夕闇に変わるのに気づくことを少しも防げないまでに精神に馴致されるのでなければならない。

 父と暫く親しくなったのがその引退後だつたのは父自身の状況と並行して何故かそれと殆ど同時にこつちも自分の仕事に見切りを付けることを知った為だつた。それが文章の仕事でも二、三十年これをやつていれば自分がする積もりでゐたことは大概なし遂げるもので或る意味では人間はそれを感じる為に仕事をし続けてくるかも知れない。

その瞬間からもしそれまでの仕事が書くことだったのならば時は原稿の枚数の多寡でなくてただ刻々とたって行く。それを原稿の枚数で計ること自体が人間の自然な呼吸とでも言う他ないものからすれば無理なことなのでその呪縛を解かれて精神も伸び伸びする。

従ってそれからの方が書く仕事でも仕事らしいものが出来るのかも知れないがそのやうなことにまで構ってはゐられない。万一もし我々の仕事が死後にまで残るやうなことがあるならばこれはその死後に他のものが詮索することである。

 兎に角父と付き合うことを妨げるものは既に何もなかつた。それには父が引退したといふことともつと直接に関係がある理由もあつたので利権漁りや請願は主に現に要職にあるものに対して行はれる。尤も父の場合は最後まで実質的には引退することがなかつたとも言へるのでこれが劇務に携わってゐたものに引退してから起り勝ちな老衰を防いだとも見られるが、その為に請願その他に就て父に対して仲介の労を取る事の引き受け手は既に幾らもゐてこちつはその難を免れた。

さういふ口利きの連中を父は適当にあしらつてゐたに違ひない。それが集まってゐる中に入って行くのは愉快でなかつたが父は何と言っても暇な身であってさういふ忠勤組とこつちが内心称してゐたものを外して父と会ふのは電話一本で出来ることだつた。かうして父とどの位会ったただらうか。

それでも不思議に思ひ出すのはこつちがまだ仕事といふやうなことが頭にない子供で父は総領事、或はどこかの日本大使館の何等書記官かで一応は順調にその仕事を進めてゐた頃のことである。

本当に子供にとつて親は空気のやうなのだらうか。これは一般論としてはさうと考へられるが世界地理をこつちに具体的に教へようといふので任地を離れてどこか他所の国に旅行する毎にこつちにそこの絵葉書を送ってくれたりしてゐた父との間にはもつとどういふのか温いものがあつた気がする。

併しそれは後で知った晩年の父と比べられるものでなかつた。今でも先ず頭に浮かぶのは一頭の巨大な豚であるが引退してからの父はサンフランシスコ条約当時の骸骨と違って全く豚といふ他ない太り方をした。これはもともと太る質だつたのに違ひなくてその中年の頃には確かに太り気味だった一時期もある。

それが先づ戦争中の監獄、次に戦後の劇務で再び太る暇が何年かの間なかつたものと見られてその劇務で思ひ出したのはいつのことだつたか父が在職中にどうしても会ふ必要がある用事が出来てそのことを言つてやつた所が或る日の午前三時といふ返事だつたことで、その時刻に行って見ると机に向かって書き物ををしてゐた父が書くのを止めてこつちの用を聞いてくれた。さういふことがなくなり、又自分が止めた後も日本が寧ろ望むべき方向に進んでゐるので安心した父が持ち前の体質を現して太り出したのは頷けることである。その太り方も尋常のものでなくて父が家に食事をしに来る時は父の為に特別の椅子を食堂に用意した。

 乱世型の政治家が乱世を望むのではない。殊に父にして見れば戦争で負けた日本がこれから先どうなるか解らない時期の事態の処理に当たっひこれが功を奏し、或は天が自分を取った政策に幸して日本が繫栄に向ふ兆候が既に現れ始めてゐる時に文句を言ふことはなくて大磯の二階の居間からの眺めはそのままのものに父の眼に映つたに違いない。

我々が行くとさういふ顔をして父が奥から現れた。前に篠田一士さんに就てその健啖家であることに触れたが父も大食ひだつた。併しその点で父は気の毒でもあつたので母がゐたならばと思ふことが時々あつた。
その母は既にゐなくて父の料理番はどこかの料理屋が世話するのだから品数が多くても要するに宴会料理を幾分か家庭的にしたもので大磯に行くのは食べるのが楽しみではなかつた。併しいつも父が家に来る時には辻留の雛さんに出向いて貰ってご馳走して辻留の料理を一品も余さず食べたのは外国人の友達を除いては家の客になつたもの中で父ひとりである。

いつださか父が飯の代りにうどんで食事をしたいと言ったのでその次に来た時に雛さんに手打ちうどんを作って貰って出した所が雛さんが持ってきた分を全部平らげた。
 父はその頃まで恐しく丈夫に見えた。又事実さうだつたのに違ひなくてさうして何も不自由することがない父を見ているとご馳走しなくても話ででももてなしたくなつた。その頃の父が人に与へた感じをどう説明したものかよく解からない。兎に角自分がしたいことを皆してしまつた人間といふのはいいものである。その安らぎは人にも伝わるものでももし動かし難いといふことがさういふ場合にも言へるものならば父にはその意味で動かし難いものがあつた。

又それがあつて既に隠す必要がない地金が出るといふこともあり、それが父では凡さ洗練された人間、結局は江戸つ子肌と呼ぶのが一番当たってゐることになるものだつた。又これは理由がないことではない。その死後に至って方々で名乗りを上げる所が出て来て父は越前の人間だったり土佐の人間だったりすることになつた。

一体にわがくにの県人意識といふやうなものからすればこれは想像出来ることなのだらうが越前といふのは吉田の初代、つまりこちにとつては吉田の祖父が脱藩して廃嫡になる以前に属してゐた藩であり、土佐はその祖父が吉田姓に改名して父を養子に貰った父の実家の竹内家が土佐の出であることから来てゐる。何れも吉田のものの出身地と正式には言へないもので父は生まれて直ぐに吉田家に引き取られてから祖父の実家である佐藤家の小梅の家で育った。この佐藤家は佐藤一斎の末裔であるからその家の寮が向島にあつたのも理解出来る。又従って祖母は本ものの江戸っ子だつた。

 江戸っ子といふ観念自体がどうといふこともないものであることに就いては石川淳さんの所で既に書いた。併し石川さんに就いても解かる通りその観念には江戸の文明となればこれが曾て実在して又現にある文明である意味でそれがある所にそれを認める他になくなる。

それが文明であるから洗練を指して洗練は羞恥、怠情、猜疑、酔狂、純真といやうな面をもち、それが粋で思ひ出したのであるが昔まだ母がゐた頃ヨオロッパで客をannoncerするといふことをする習慣のことで話をしたことがあつた。これは客間の入り口に係のものが立ってゐて客が到着する毎にその名前を聞いてから大声で何々卿とか何々夫人とかいふ風に既に来てゐるものに対して披露するのである。

それで母に自分も何々卿と披露される身分になつて見たいと言った所が母はこれを一笑に付してさういふことを考えるのは愚の骨頂であり、その何々卿の後でただの吉田さんといふことで入って行く方がどんなに粋かと言つた。その話を大磯の二階で父と飲んでゐる時にした際の父の顔付きを今でも覚えてゐる。

 父が九十になつた年の正月に家のもの発ちと出掛けて行くと父が余り得意になつていそのことを言ふので九十、九十とばかりおつしやると冷やかした。それにしても牧野さんの場合と同様に父も後二、三年はその元気な様子のままで生きてゐられた筈だといふ気がする。牧野さんは八十九歳で死んだ。父は前の年に心筋梗塞といふのをやつてその治療に当たって武見博士のお話では今の医学では兎に角回復して後一年の寿命は保証出来るがその一年目が注意を要するといふことだつた。

父はその九十になつた年にその通りに発作があつてから一年目に死んだのであるからその正月は回復してから間もない頃といふことになる。併しその心筋梗塞といふのが余計だった気がするので少し甘やかしすぎると思ふ位廻りのものが父のことに気を配ってゐた時に何故さういふ発作を起こすことになつたか不思議である。これは激昂したりした際に心臓が呈する症状である。併し九十近くなつて怒り心頭に発するといふやうな激情に見舞われるのも父が丈夫だった証拠かも知れない。

 そして人間が死んでからもし何かがどうかしてゐたならばと考へるのは愚痴に過ぎない。それよりもこれは必ずしも愚痴でなくて残念に思ふのはもつと父をこつちの他の友達に引き合わせて置けなかったことである。これは出来ないことでもなかつたのであるが同じ考えへのものが大勢ゐたやうでさうなればその中にこつちの友達を引っ張つて割り込んで行くことは粋の観念が許さない。

それで父が家に来た時といふことも頭にあつて何れはと思つてゐるうちにその心筋梗塞のことがあつて家に来た貰ふことを断念しなければなくなつた。父は若い人間に興味を持ってその息が掛かってゐる範囲では例へば任官したばかりの外交官といふやうなものをよく集めてゐたらしい。併しこれは言はば込みで行はれることでこの交遊録で書いて来たやうな人達ならば父は会って喜んだ筈であり、その中で河上さんとは事実前から親交があった。併し河上さんも割り込むのが嫌いな方で晩年の父はその廻りに蝟(い=意=はりねずみ)集する人間の為に確かに損をしてゐた。これを大磯参りと呼んだのが大磯詣でだったのか、どつちにして下らないことを考えたものである。

併しさうした制約がなくて例へば雛さんと観世さんとか、或は篠田さんでも丸谷さんでも又出来ればその全部が集ってゐる所に父が顔を出すといふやうなことがあつたなら父は喜んだだらうと思ふ。その時に舵を取る事をお願いするのはやはり河上さんであることになつだらうか。

しかしその席に石川さんでも福原さんでもその他誰でもここで書いて来た人達ならば出て来てゐて父が味気ない思ひをしたといふことは考へられない。父は座談の名手で又人の話を聞くのが好きだつた。その相手が石川さんだつならば父は随分喜したに違ひない。その昔、父が在職中で世情騒然、父か不人気の絶頂にあつた時に河上さんが官邸に父を訪ねて行って一緒に飲みながら大丈夫、大丈夫、共産党からは私がお前を守ってやると言って父の頭を撫でた所が父は相好を崩したさうである。

父が政治家だったのはそれが日本、或は明治以後の日本でだつた限りでは不幸なことだつた。それは会わなければならない人間が多過ぎて人間らしい付き合いが出来ないからで政治家でもその種の人間であることよりも肩書の方が先に来る類と顔を合わせてゐるだけで気がすむ質ならば自分も自分の肩書を押し立てて満足していられるのだろうが父は文明の人間だつた。

こつちが父の、これは父にとつて人間にも通用することだつたので一つだけ今ここで終る交遊録に就て言へることはここに出て来る皆木口がいい家のやうな人達ばかりだといふこである。こつちのことは知らない。
*よしだ・けんいち(明治45年~昭和52年)評論家 新潮社刊『交遊録』昭和49年収録、原題「吉田茂」

つづく 不世出の人 阿川弘之