男と女というのは、実は結婚した時から飽きる方向にしか向かって行かない。いくら好きだからと言って、年中すき焼き食わされたら、誰だって飽きます。夫婦関係を永遠に繋ぎとめておくために、多種多様な戦術を利用する。そうした戦術の大きな基盤の一つとなるのは、配偶者がもともとどんな欲求を抱いていたかという点だろう。

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 配偶者の欲求を満たす、そして例えば愛情とセックスによって繋ぎとめられるのが理想だが、大概の男女はオーガィズムの奥義をほとんど知っていないという実情がある。オーガィズム定義サイトから知ることができる。
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はるこ、カリフォルニアに行く

本表紙 林真理子著
 ロサンゼルス独特の低い山々が急に迫ってきた。ハイウェイを降りて右に曲がりしばらく行くと「ザ・クリスタル」というプレートのかかった大きな門が見える。ゲートの前で二人の係官が車をチェックしている。

「これがゲーテッドコミュニティ、というやつよね!」
 助手席に座っているハルコが叫んだ。
「金持ちが塀を囲って住んでいるとこ」
「まあ、セキュリティはカリフォルニアいちでしょうね」
 レクサスを運転している岡田英行が得意さを隠すために”淡々”を装いながら説明をし始める。
「このところビバリーヒルズも物騒になりましたからね。こちらに越してくるスターもいるんですよ。ここはすべての面で安全ですからね」

 ゲートの女性にカードを見せるとバーが上がった。いよいよロサンゼルスが誇る超高級コミュニティに入っていくのだ。ゆるやかな丘陵は緑をたっぷり残している。どこも千坪単位の豪邸だ。塀のあるところもないところもあるが、円柱のあるコロニアル様式というところは共通していた。

「すごいうちばかりねえ‥‥」
 ハルコはため息をついた。
「こりやあ、確かにビバリーヒルズよりもすごいかもしれない」
「この中じゃ、僕がいちばん貧乏だと思いますよ」

 岡田はヨーロッパのような白い邸を指さした。庭の真ん中に噴水があり、溢れ出る水に、カリフォルニアの太陽が反射している。
「ここはインドの富豪が住んでいるけど、このあいだは子どもの誕生日パーティーをやって、本物の象がやってきましたよ」
「ふうん、インド人がねえ」
「ご存知のとおり、彼らは急に台頭してきましたからね。あ、ここは中国人の愛人ストリートって言っています」

 先ほどの城館よりも、小ぶりの邸が続いていた。
「中国人の金持ちが投資目的で買って、しばらくは愛人を住まわせているんです。彼女たちも心細いのか、同じような女たちの近くに家を建ててもらうようですね」

 そうこうしているうちに車は坂をゆっくり上がり、一軒の邸の前でとまった。やはりコロニアル風の邸宅だ。白バラを這わせた低い鉄柵が品がよい。
「ここが僕の家です。まあ入ってください」
 扉が開いて、一人の女が現れた。

「まあ、ゆうこちゃん、元気でやってるの」
 ハルコが狎れ狎れしく声をかけた。意外なことに、ハルコは男友達の妻とたいてい仲がいいのである。
「ハルコさん、お久しぶりです」
 二人は外国風に軽くハグした。ユウコと呼ばれた岡田の妻は、彼と同じくらいの年齢、五十代のはじめといづみは見た。
「紹介するわ。こっちは私の友だちのいづみさん。フードライターをしていて、カリフォルニアの食について取材したいって言うから私が連れてきてあげたのよ」

 よく言うよ、といづみは思った。ロサンゼルスの日本人経営者の会で講演をする。航空チケットさえ自分で調達すれば後は面倒見るからと、半ば強引に連れてこられたのである。ていのいい秘書代わりであった。

「ハルコさん、まずはうちの中を見てくださいよ」
 岡田はついに”淡々”をやめたようである。ハルコといづみを、二階へと誘った。それは優雅な彫刻を施した螺旋階段であった。
「まあ、『風と共に去りぬ』みたいじゃないの」
「これはヨーロッパの古い木を買ってきてつくりましたよ」

 二階にあがると五つの寝室、岡田の書斎があった。書斎には日本の歴史の本がぎっしりと置かれていた。
「おっ、徳川家康! あんたみたいな叩き上げの経営者のアイドルよね。このあいだも『天下ずし』の社長がテレビで、家康どーのこーのって言っていたわよ」
「ハルコさんにはまいっちゃうよなア」

 これまた岡田は、たいていの男がする反応をする。ハルコにずけずけものを言われるたびに目尻を下げるのである。
「ハルコさん、この浴室を見てください。日本の職人を連れてきてヒノキの日本風呂にしました。それからこのサウナは広いでしょう。五人は充分入れますよ」

 ふんふんと見学しているハルコは、大きなため息をついた。
「英ちゃん、あんた出世したわねえ!」
 照れて笑う彼は、会った時驚いたほどの大男である。今も鍛えているらしく、腕にも隆々とした筋肉がついている。岡田は焼肉チェーン店を経営していると聞いた。「牛ハチ」は、日本では全く聞かない名前であるが、全米で五十六店舗。ロスだけで二十四店舗あるという。
「この人はね、私の最初の夫の従兄なのよ」
 階下でシャンパンを飲みながらハルコが説明する。
「夫のうちはね、男はみんな名古屋大っていうエリートだったんだけど、この人だけは中京大学でレスリングやっている変わり者で、だからすごく気が合ったの」

「あの頃、うちの方じゃ評判でしたよ。ものすごく変わってる嫁さんが来たって。あれじゃ長く続くまいて、うちの親も言っていましたけどあたりましたね」
「何言ってのよ。私のおかげであの家は今でも会社続いてんじゃないの」
「そう、そう。僕は、ハルコさんは大したもんだと思いましたよ。もう左前になりかけていたイトコの会社を、これからは印刷だけじゃ必ず潰れる。ICチップやれつて、けしかけたんですからね」

「そうよオ。私はあそこからがっぽり株を貰ってもいいと思っているのよ」
「だから僕がレスリングでこっちに来て、このままアメリカに住みたいって思った時もずっと相談してたんです」
 岡田はいづみに対してではなく、自分に言い聞かせているかのようだ。
「起業したいて言っていた時、外食産業にしろ、ってアドバイスしてくれたのもハルコさんでしたよね」
「そうよ。あんたみたいにまず体が動く、っていうタイプは、食べ物屋がいちばんよ。私はね、この人に”第二のロッキー青山”になりなさい、って言ったの」
「ロッキー青山って誰ですか」

「まあ、この頃の若い子は‥‥。まあ、若くもないけど、ロッキー青山も知らないの」
「アメリカで大成功した人ですよ。ベニハナという鉄板焼きの店が大当たりしたんです」
「あ、それならハワイに行った時に見たことがあります」
「あの人もね、レスリングの選手だったのよ。アスリートって根性あるからね。英ちゃんもちゃんとやるはず、と思ってたの。まあ、私の人の見る目って、あの頃からすごかったんだけど」

 岡田のサクセスストリーリーは、いつのまにかハルコの自慢話になっていくようだ。
「英ちゃんが、お鮨をやると言った時、私はやめろ、って止めたのよね。お鮨の職人してたらともかく、魚の良しあしを今から勉強するには、あんた年を取り過ぎてるからって」
「そうなんです。それが良かったと思いますよ」

 ハルコよりひとつふたつ年上だと思うが、なぜか岡田は彼女に対して敬語を使う。
「僕は鮨や天ぷらにしなくて、本当によかったと思いますね、今、確かに和食ブームですけど、鮨や天ぷらを食べる時、アメリカ人にはどこか珍しいものを食べてる、ちょっと無理してるって意識があると思うんですよ。ですけど焼肉は違います。彼らがいつも食べてる大好きなバーベキューなんです。だから僕はうちの焼肉を『インドア・バーベキュー』として売り出しましたよ。その代わりタレにはすごく工夫して、それが良かったんでしょうねえ‥‥」

「英ちゃん、アンタ、本当に大人になったわねえ」
 ハルコはシャンパンをたて続けに飲み、小さなしゃっくりをした。
「不渡り出しそうになってさ、泣いて電話かけてきたときもあったわよねえ。そしてハルコさん、アメリカに来てくれ、オレと一緒にいてくれよ、なんて言っちゃって‥‥」
「ハルコさんたら!」
 傍にいるユウコの手前、いづみはハルコを押しとどめた。

「いいわよ。ユウコさんだって知っている事なんだからさ。私もね、アメリカ行ってもいいかなアーってちらりと考えた時もあったんだけど、離婚したばっかりでしょ。そしてすぐ夫の従兄とナンカあっちゃ、どういう評判を立てられるか分からないじゃないの」
「へえー、ハルコさんでも評判を気にすることがあるんですか」

「あたり前でしょ」
「ハルコさんみたいに、好き放題、やりたい放題の人が‥‥。信じられませんよ」
「まあ、まあ‥‥」
 岡田が二人の間に入った。といっても本気で止める風はまるでない。久しぶりに日本の女の他愛ないお喋りを楽しんでいる風に見えた。

「辛い時にハルコさんに励まされたのは本当ですよ。ユウコとの結婚もね、ハルコさんに頑張れ、好きな女の一人くらいかっさらえ、って言われて頑張っちゃったようなもんだもの」
「かっさらえって‥‥」
「私、岡田よりも五つ年上で、二人の子持ちでした。しかも結婚してたんですよ」
ユウコがにっこり微笑んだ。色白の小ぢんまりとした顔立ちで、岡田よりも五つ年上と年下ということは六十近くになるだろうが、とてもそのようには見えない。アメリカ人の女がよくやっているリフティングの整形手術を受けた形跡もないが、目立つシワやほうれい線もなかった。

「岡田さんって、もしかすると人妻マニア…‥」
 いづみはうっかり口を滑らそうになり、慌てて言い直した。
「それってすごく勇気がいることですよ」
「まあ、それについちゃ映画みたいなこともあってね」
「あなた、やめなさいよ」
「いいじゃないか。ハルコさんにもあの頃はちゃんと話せなかったけど、こいつの前の亭主っていうのが、DVの白人でまあとんでもない野郎だったんですよ。最後は拳銃向けて脅かすわけさ。まあ、いろんなことがあったよな。オレがレスリングやってなかったら、とっくに殺されチャッテタカナァと思った時もあったしさ」

「英ちゃんはえらいわよ」
 ハルコはまだしゃっくりをしながら続ける。
「ユウコさんの二人の子供をちゃんと育ててさ。自分の子供はいなかったけど、二人の子供を本当の子供のように可愛がったのよ」

 ハルコの視線先には、棚に飾られたたくさんの写真があった。二人のスーツを着た青年が写っている。ハーフ独特の美しい顔立ちだ。
「イケメンですね!」
 近づいていづみは、しげしげと写真を眺めた。スーツの写真の他に、卒業時のガウンを着ている写真も大きくひき伸ばされていた。

「二人ともめちゃハンサム。日本に来たらすぐにモデルかタレントになれるんじゃないかしら」
「残念だけど、二人ともスタンフォード大学とUSC大学を卒業して就職してるんだ」
「すごいですね」
 USCは知らないが、スタンフォードといえばアメリカを代表する名門大学ではないか。
「英ちゃんはうまくやったわよ。自分は中京大学だけど、子供はさ、しっかり勉強させたんだから。ところがユウコさん、そろそろランチにしない? 私、お腹が空いちゃったわ。それからさ、英ちゃん、シャンパンはやめてワインにして。カリフォルニアワインはピンキリだけど、もちろんピンにしてよね。スクリーミイングイーグルなんてことは言わないけど、オーパスワンくらいは抜いてよね」

「はいねはい、わかりましたよ。ハルコさんは、とにかく高いもんが好きだから」
「当り前じゃないの。人に金を遣うのは、いちばんわかりやすい誠意なのよ」
「それじゃハルコさん、私はまるで誠意がないですね。いつも安いものをご馳走してくれるか、あとはワリカンだもん」
「いづみさん、あんたちょっと酔ってんじゃないの」
 ハルコはじろりと睨んだ。

 ハルコの講演会は、日系ホテルの一室で行われた。岡田が副会長を務める日本人経営者の会のメンバーが、三十人ほど集まった。ハルコ程度の知名度でしかも海外で人が集まるのだろうかと心配していたいづみは胸をなでおろす。
「誰も来なかったらどうしようかと思いましたよ」
「何言ってのよ」
 とハルコはふんと笑った。
「英ちゃんが、日本でいま注目を浴びる美人経営者ってことで、私を招いてくれたのよ。そもそも私のポジティブな生き方は、こっちの人たちの心をうつに違いないんだから」

 そして講演が始まり、いづみは会員に交じって聞いた。意外なことにハルコの話は面白かった。もちろん自慢話がほとんどなのであるが、中に今の日本の現状も盛り込んでいく。
「今の日本の若者に覇気がないというのは、おそらく皆さんが想像している以上だとおもいます。

よく知られていることですが、お金を欲しがらない、車欲しがらない。女の子と付き合いたくもない。ものを買いたくない。この欲望の欠落が、今の日本の衰退を招いていると思いますよ。日本は、私ら五十代が頑張っているから、まだ何とかもっていますけどね、私たちがリタイアしたらいったいどうなるんだろうと空恐ろしくなりますよ」

 何人かが頷いた。
「いちばん残念なことは、今の日本の若者たちは海外へ行こうとしません。留学する学生の数がものすごく減少していることはご存知だと思います。今、アメリカの名門大学では日本人は数えるほどで、中国、韓国の留学生たちとは比べものにならないと言われていますね。だけどご安心してください。最近日本の私立高校では、東大よりもアメリカの一流大学を目標にするカリキュラムがとられているところもあるんです」

 その中のひとつは、私が理事をしているんですよ、とハルコは胸を張った。
「また従来のインターナショナルスクールとは別に、すべて英語で授業を行なう全寮制の学校も幾つか出来ているんです。私は何年後か、ここの卒業生がアメリカの一流大学へ進み、そして世界を舞台にグローバルに活躍してくれるものと信じています」

 パチパチとおざなりではないけど、そう熱烈というほどでもない、まあごくふつうの拍手が起こった。
 そしてその後懇親パーティーとなった。ホテルの中の「権八」に席がしつらえられた。ビュッフェパーティーではなく、着席式のものだとなると、内容は日本式になってくる。
「まあまあ、”ハルコ先生”お疲れさまでした」

 幹事の坂上という食品貿易会社社長が、ビールを注いでくれる。
「いやあ、貴重なお話、ありがとうございました」
「喜んでいただけたら嬉しいです」
 ハルコは気を配っている。
「いまネットビジネスというものが飽和状態になり、ご自分の事業も苦戦をしていると、素直なお話、本当に勉強になりましたよ」
「そりゃ、そうですよ。これだけライバルが増えますとねぇ」

 ハルコはネットで美容院やネイルサロンを予約出来る会社を経営しているのであるが、最近はテレビCMをがんがん流す大手にやられ気味だとこぼしている。その代わり自分でサロンを経営することを考え付いた。セレブ向けの「出張トレーナー」はかなり好調で、こちらはとても伸びていると自慢していた。

「ネットビジネスというのは、大きいものが小さいものをどんどん飲み込んでいきますよ。私たちが生き延びる道は、コンテンツをつくり出すことと確信を持ちました」
 そのコンテンツがどういうものかかおお聞きしたいと、女性の会員の一人が話しかける。元デルタ航空のCAをしていて、今はアメリカ人の夫と不動産業をしているという派手な美人だ。

「やっぱり美容と教育かしら」
 ハルコは答える。
「どんなに不景気になっても、女性の美容に遣うお金は減ることはありません。私は近い将来、化粧品のネット販売を考えています。もちろん、今、馬に食わせるほどたくさんの…‥」
 ハルコはここで少し下品な言い方をした。

「化粧品が通販で売られていますけれど、はっきり勝ち組と負け組と分かれているんです。この勝ち組を分析すれば、おのずから結果は出て来ると思うんですよ。まずスペシャルな効果があるということ。今、美肌に効くとか、きめが細かくなる、ということだけでは、女性は新しい化粧品に手を出しません。ずばりほうれい線を消す。頬を二ミリひき上げるとか、具体的なことをいわなきゃいけないんですよ。

私はね、まずはリスクを少なくするため、どこか小規模の化粧品会社で、ひとつのラインを借りて製造することを考えています。化粧品の開発なんてものは、素人の私でもどうとでもなります。要はつくってくれる工場を探せばいいんですから」

 横で聞いているうちに、いづみはすっかり呆れてしまった。ハルコのはったりにだ。今まで彼女の口から化粧品うんぬん、などという話は聞いたことがない。
「どんなコンテンツなのか」

 と聞かれて、口から出まかせいっているのだろうと察しがつく。ハルコという女は、「知らない」とか「やれない」という言葉が大嫌いなのだ。有名人の名前が出て「知らない」とか「会ったことがない」と答える時の彼女の口惜しそうな顔といったらなかった。
その反対に「知ってるわよ」の時にハルコの顔は喜びで輝く。そして「よぉく知っているわよ」と、その答えはリフレインされるのである。が、その「よぉく知っている」人がほめられことはめったにない。たいていの場合、

「どうしょうもない女好きよ」
「仕事が出来なくて評判の悪いCEO」
 という評価が下されるのである。
 ハルコのはったりはさらに続く。

「私は今後の日本の最大のコンテンツは、教育だと思っているんですよ。もう、狭い日本で東大や早慶あたりを目指している時代じゃないんですよ。ハーバード、エール、スタンフォード、プリンストンといったアメリカの名門校を目指して日本の子どもはたちは頑張らなきゃいけないんです」

 そのためにもと、ハルコはもったいぶった調子で続ける。
「学校法人と提携して、高校からすべて英語の授業を行なうべく、いろんな専門家の意見を聴いている最中です。おそらく誰も考えなかったような、国際人を育てるグローバルな学校を作れると思っていますよ」

 これまた大きく出たもんだと、いづみは笑いだしたくなるのを必死に抑えた。子どもを持たないハルコは、子どもに関心を持たない。それどころかあまり好意的ではなかった。新幹線のグリーン車で泣き出す子どもがいると大きく舌打ちをする。

「全く何のためにグリーン車代払っているかわかりゃしないわ。静かに眠るための料金じゃないの。子どもがチビな頃はグリーン車なんか連れてこないでほしいわよ。全く、世の中には嫌煙権っていのがあるんだから、嫌ガキ権っていうのも法律でつくってほしいわよね。『他の方の健康を損なう怖れがあります。連れ出しには注意しましょう』とか」

「ハルコさん、そんなこと言うと怒られますよ。日本はこれから少子化に向かってるんだから、子どもは大切にしなきゃ」

「いづみさん、あなた、そんなこと本気で言ってんの? 子どもを持っていない女が、そんなことを言うとキレイゴトに聞こえるわよ。子どもが泣きわめいてんのに、平気でスマホいじっている母親に、ちゃんとした子育て出来るわけないんじゃないの。あの女たちが育てたチビたちが、将来大人になっていくかと思うと、私は少子化何が悪い、っていう気分になっちゃうのよね。

将来私たちが年寄りになって、自分で稼いだ金使い切って死んでくわよ。だから子ども大切にしろとか、言わないでほしいわねっ」

 このあいだも新幹線の中で、あたり構わずにこんなことを大声で言っていたハルコが、将来の日本の子どもたちうんぬんを、本気で考えているわけがないではないか。坂上が問う。
「ハルコ先生、本当に日本の学生はグローバル化を目指すべきなんですかね」
「当たり前でしょう。そんなことは自然の世の中の流れじゃありませんか」

「でもね、こっちの大学を出たってやっぱり就職口はありません。だからこの頃、ロスの子どもたちは日本に行きたがる傾向があるんですよ」
「何ですって。アメリカの子どもたちが日本に行きたがるなんて‥‥」
「でも本当にそうなんです」

――坂上秀樹の話。

 私は今年で六十になります。私の年代というのは、狭い日本からアメリカに出てひと旗あげようっていう世代ですからね。岡田さんは大学出てからこっちに来ましたが、その上の僕らの世代だと、ほとんどが高卒です。中には中卒もいます。そしてみんな苦労しながらなんとか地位をつくりました。そして落ち着いた今、みんなが頭を抱えるのが子どもの教育なんです。アメリカというところは、日本と比べものにならないくらいの学歴社会です。だってハーバード卒と、ちんけな州立大卒だと同じ会社に入ってもまる給料が違います。

ですからみんないい大学を目指して頑張るんですが、東部の名門へ進むなんて、もう夢物語ですよ。こちらにはUSC、南カリフォルニア大学という名門大学があります。各学校で一番から五番に入るぐらいの子どもが行くところとです。東部のアイビーリーグへ行くのは。このへんのトップをさらに突き抜けた子です。

ですからUSCでもすごいことなんですけどね。このUSCを出たってこの頃は就職口がないんですよ。ええ、うちのバイトのコもUSCですが、まあたいした仕事についていませんね。

 そして今の女房との子どもはハイスクールに通っているんですが、この頃日本の大学に行きたいってしきりに言うんですよ。ええ、二番めの妻は日本人ですから、彼は純粋な日本人ですね。冬休みのたびに東京の女房の里へ行くんですが、あんな楽しいところはないって。そりゃそうでしょう。子どもの遊ぶところがいっぱいあるんですからね。

それよりも就職のことが大きいと思うんですよ。この頃日本の大学でも九月入学のところが増えました。帰国女子枠ですと、日本ではかなり有名校に入れるんですよ。そこの学校を出て日本で就職した方が、ずっと有利じゃないかってみんな思い始めたんですよ。

高校からK大付属ニューヨーク校に入る子もこの頃増えていますね。書類審査だけで入れて卒業すればそのまま日本のK大に入れるんで、親は喜んでいるんですが、私はどこか腑に落ちないんですよ。

アメリカで暮らしたい、アメリカ人になりたいと思って渡米した自分たちが、子どもたちを今度は日本に行かそうとしている。こういうのってどうなんでしょうかねえ。ハルコ先生は、日本の子供たちをアメリカの大学に行かせるために頑張ってるらしいですけど、ロスの日本人たちは反対のことを始めようとしているんですよね‥‥。

「そんなことでいいわけないじゃないですか」
 ハルコは怒鳴った。
「なんてもったいないことをするんですか。アメリカで育った子どもを、日本に戻すなんて」
「もったいないですかね‥‥」
「そりゃあそうよ。勉強したいことがあるならともかく、単にブランド欲しさに帰国女子枠で入学させるなんて。坂上さんたちは、そういう日本の学歴社会に背を向けてこちらにやって来たフロンティアじゃありませんか。それなのにどうして自分の子どもたちには全く反対のことをさせるんでしょうかね。だいたいね、日本の社会はあなたたちが思っているほど優しくはありません」

「そうでしようか」
「一流大学大学卒の肩書きがあって、それで英語ペラペラならどこでも就職出来ると思っているでしょうけれどね、日本は一部のベンチャーを除いて協調性を何よりも大切にするんですよ」
 講演会の余韻なのか、ハルコのもの言いは講演調である。
「私たちより下の世代は、やたら留学が流行った世代です。多くの人が名もない三流の大学でも、アメリカということだけで有難がって行きましたよ。だけど帰ってきても就職口がない。勤め先でも嫌われる。それで留学ブームは去ったのですけど、当たり前でしょ。留学してきた人間は、もう日本のサイズに合わなくなってるんですよ。やたらディベートがうまくて自己主張が強い人間。こういうのは日本の社会でいちばん嫌われます」

「ハルコさんたら‥‥」いづみは止めようとしたが遅かった。
「あれから三十年。日本の社会は少しも進歩していませんよ。情けないくらいです。それどころかますます弱体化していて、みなさんもご存知のとおり、アメリカで一丁やったろか、なんて若者は年々減るばかりなんです。日本の大学の授業はつまらないし、だいいち日本の大学生は全く勉強しません。

だから世界の競争からも取り残されるんです。そんなところへどうして皆さんの子どもたちを入れるんですか。単にブランド欲しさに、日本でしか通用しないブランドのために。皆さんの子どもたちはおそらく日本の企業に嫌われますよ。

目立つ人、主張する人間を日本人は嫌います。私が嫌われるからわかるんです。一部の人からは徹底的にね。でもそんなところ、こちらから願い下げです。みなさんの子どもは、アメリカで生まれ育つという貴重な体験をしているのですよ。アメリカがダメでも世界のどこにでも羽ばたけるんです。それなのにどうしてあの窮屈な島国に戻るのかしら。どうかフロンティアの誇りを持って、皆さんのDNAを継ぐお子さんの進路について考えてください。やがてお子さんたちは、世界から日本を支える立場になる人たちなんですから、その芽を摘まないようにしてください。もっと大きな行く末を考えてください」

 やがて拍手が起こった。先ほどの講演の時よりもずっと心がこもったものであった。
「よくあんなにペラペラ言えましたね」
 いづみが囁くと、
「まあ、人の子どものことなんどうとでも言えるわよ、だけどね、私、本気で学校問題やろうかしらね。世界で日本人がこんなに気弱になっているなんて。なんか私、燃えてきちゃったわね」
 ハルコはしきりに頷くのであった。
初出◎「オール読物」2013年〜2014年七月号、2014年11月号
 2015年5月30日発行 中島ハルコの恋愛相談室 著者林真理子
恋愛サーキュレーション図書室の著書