私がセックスですごい感動を得られないのも、子どもの頃の経験のせいだと思うと、従兄のしたことをぶちまけたい気分になりますよね。幸い、というのもへんですけど、従兄は会社の関係でアメリカ南部にずっと行っているので、もう何年もあったことがありません

  本表紙 林真理子著

ハルコ、主婦を𠮟る

 水を吸わせた信楽焼の器に、ひと口大の鱧が三つ置かれていた。切り身が花弁のように開かれている。
「まあ、綺麗ですね…」
 菊池いづみは簡単の声をあげた。そしてデジタルカメラで撮影していく、彼女は雑誌にレストラン情報を書くフードライターである。今日は「名古屋特集」ということで、中島ハルコと一緒にこの店にやって来たのだ。

「まずは塩で食べて頂戴」
 艶然し微笑みながら言うのは、この「花田」の経営者、花田英子である。ハルコの話によると七十五歳というのであるが、とてもその年に見えない。肌の美しい女で、パープルの眼鏡をかけていたが、それが肌の白さをひきたてていた。白いワンピースに、やはり紫色のジョーゼットの上着を羽織っていた。そして花柳界の女のようにゆっくりと扇をあおいでいるさまが色気と貫禄に溢れている。

「私は鱧の皮が大嫌いなの。だから全部皮を取らせているのよ」
「だから、こんな風にやわらかいんですね。こんなに丁寧に仕上げた鱧は初めて食べました」

 それは噓ではなかった。その前に運ばれてきた、キャビア入りの冷たい茶碗蒸しも素晴らしい美味しさだった。
「どう、ここの料理はすごいでしょう」
 例によってハルコが、わがことのように得意気に言う。
「この『花田』は、名古屋の『吉兆』って言われるのよ。名古屋財界の宴会はここですることになっているの。本当はどんな雑誌やテレビが来たって取材はお断りなんだけど、私が今回いづみさんのために、特別に頼んであげたのよ」
 その替わりちゃっかり取材についてきたくせに、といづみは思う。

「紹介してあげるから、当然私の分ももってくれるでしょう」
 と言い出したハルコのことを、
「こんな図々しいおばさんがいるんですよ」
 と編集長にグチったところ、
「いつも話しているあのおばさんだろう。面白いじゃないか。いいよ。二人分の領収書を貰ってくれれば」
 と意外な太っ腹を見せたのである。
「その替わり新幹線代とホテル代は出せませんよ」
 とハルコに念を押した。
「そこまでセコいこと言わないわよ。名古屋は仕事を見つけて行くし、実家に泊まるからいいわよ」
 とこちらも意外に鷹揚なところを見せた。
「この鰹は握りにしてみたの」
 次は見事な染付の皿に盛った鰹の握り鮨だ。
「今の季節鰹はそのまま食べたら、そんなに珍しくないでしょう。だからちょっとヅケにして握り鮨にしてみたのよ。どうかしら」

「なるほど。酢飯と合わせた方が。ずっと鰹のおいしさがわかりますね」
 いづみの言葉に、英子ママは嬉しそうに頷く。
「三日前にいきなりハルちゃんから電話がかかってきたのよ。ちょっと、ママのお店を取材させろって」
「ひどいな、ハルコさん。私には一カ月前から、私がちゃんとお店に話をつけた。だから大丈夫ってイバってたじゃないですか」
「だから大丈夫だったじゃないの」
「困りますよ。もし直前で取材拒否されたら、今度の企画はすべておじゃんですよ」
「まあ、まあ、二人とも‥‥。ハルちゃんは私の妹みたいなもんだから、イヤって言えないのよ」
「でしょう」
 ハルコのいつもの口癖が出た。

「私は会社始めた若い時から、ここのママに可愛がってもらったの。名古屋で『花暦』のママにOKと言われたら、すごいお墨付きをもらえるのよ」

「花暦」というのはも「花田」の隣のビルにある高級クラブである。こちらも英子が経営していて、「名古屋の夜の商工会議所」と呼ばれているらしい。トヨタをはじめとする地元財界の重鎮がやってくるのだ。
「ハルちゃんは若い時から違っていたのよ」
 と英子。
「ものすごく生意気でずけずけものを言う。だけど仕事で勝負する、っていう心意気を感じたわよ。この頃はちょっと違うけど、ハルちゃんの頃の女社長っていうのは色気で売る人ばっかりだったから」
「そう、そう。すごかったわよね」
 ハルコは何か思い出したようにゆっくりと頷く。
「ゴルフ行くってなるとね、私なんか前の日から練習に行って、少しでも飛ばそうとするわけだけどあの人たちは違うの。四十過ぎて超ミニはいて、ポロシャツの乳首ぽっちりさせてんの」
「乳首をですか」
「そうよお」
 ハルコは憤慨したように鼻を鳴らした。
「そんなのに喜んじゃうおじさんたちは多いの。そして手玉に取られるのよ。そう、五年に一回くらいああいう”リトマス紙女”が出てくるのよね」
「リトマス紙女…‥?」
「そう、こういう女にひっかかる男はダメ。何も分かっていない、ってはっきりわかる。そういう手合いよ。ナントカコンサルタントとか、ナントカアドバイザー、ナントカ理事‥‥。お金と力のある男の人のまわりには、こういう女がいっぱいうろついているのよね」
「ホホホ‥‥。ハルちゃんは相変わらず口が悪いわよね」
「ホントよ。今だから言わせてもらいますけどね。娼婦だか社長だかわかんない女がどれだけいたか。そういうのと一緒にされるのは口惜しかったわよオ」

「だからハルちゃんは、ここまで来たんじゃないの」
「これもね、私が英子ママを本当に尊敬しているからだわ」
「まあ、ありがとう」
「いいえ、本当なのよ。いづみさん、この人ってすごいのよ」
 ハルコは喋り出す。
「イヤな男と結婚させられそうになったから、十八歳で家出してホステスさんになったのよ。ふつうならそこでオシマイのよくある話だけど、英子ママは違うの。二十歳でお店を持って名古屋いちのクラブにした後、ビルを建てて中にレストランやジムをつくったのよ。男の力じゃないの。まあ、一人はいたらしいけど、その人は早く死んじゃって後はママひとりの力よ」

 たいていの女のことはけなすハルコが、ここまで誉めるのは珍しい。
「クラブの『花暦』もね、色気で売っている店じゃないの。若くて綺麗なホステスなんてあんまりいないんだもの」
「悪かったわね」
 英子ママは怒ったふりをする。
「みんなやめないんだから仕方ないじゃないの。チーママなんか来年還暦よ」
「私さ、正直言ってママに会うまでは、水商売の女の人なんて男の人だまくらかしてお金取って…って思っていたの。でもママを見てから考え方変わったのよ。サービス業に徹するとこういうことになるんだってびっくりしたのよ」

「まあ、まあ、こんなに誉められちゃって。シャンパンを一本おごった甲斐があったわ」
 さっき食事の前に、ママからといって。仲居がシャンパンの栓を抜いてくれたのである。
「でもね、私は一度も結婚しなかったからね。女も結婚しないと決めてかかれば、たいていのことは出来るの」

 そろそろお店に行かなくてはと英子ママは立ち上がる。
「ハルちゃん。今日はどうする? 後で寄る?」
「今日は無理。連れて行ってくれるスポンサーいないし、こんな若いコと二人で行けるわけないでしょ」

「ハルちゃんファンのおじさんが、誰かいるはずだけど」
「やっぱりやめてとく」
「わかりったわ。それじゃあ、いづみさん、あと何かわからないことがあったら、うちの店長に聞いてくださいね」

 英子ママが出ていった途端、いづみは頬を膨らませた。
「ハルコさん、なんで断わっちゃうんですかァ。私、一度でいいから高級クラブってところに行ってみたかったのに」

「あんた、酔ってんの? 『花暦』は、あんたみたいな若いのが行くところじゃないわよ。見たらビビるような人がいっぱい来ているんだから」
「大丈夫。私に企業のえらい人の顔なんかわかるはずないもの」

 などとやり合っているうち、見事な牛肉の小丼が出て食事のコースが終わった。デザートはメロンのシャーベットだ。
「やっぱり噂どうおり『花田』は美味しかったですね。これだけのレベルのお店、東京にもちょっとないですよ」

「名古屋は新幹線使えば、三十分で京都に行けるでしょう。お金ある人はすぐあっちに行ってしまう。だから名古屋はいい日本料理店が育たないって言われてたの。それを頑張ってこれだけの店にしたのよ。英子ママってやっぱりすごいわよ‥‥。ところでいづみさん、明日の昼はひつ鰻(まぶし)のお店に行くことになっているわよね」

「ええ、あそこも取材拒否のところ、ハルコさんのおかげで写真もOKになったんですよ」
 かなり嫌味を込めていづみは言った。
「あのね、悪いけど、そこにもう一人増えていいかしら。私の同級生が急に来たいって‥‥」
「それは構いませんけど、予算は二人分しかないんですよ。その人の分、ハルコさんが出してくれるなら別ですけど」

「もちろん大丈夫よ」
 ハルコは言った。
「お金持ちの奥さんだから、自分の分は自分で払わせるわよ」

 そのひつ鰻の店は老舗というのではなかった。ハルコに言わせると、昔からの不動産屋が昨年オープンしたものだという。
「お金持ちってみんなそうだけど、ちょっと自分とは違う業種を、道楽でやって見たくなるもんなのよね」
「それはわかります」

 東京でもファッションデザイナーがレストランを始めたり、パチンコ会社がヘアーサロンやエステを開いたりする。お金は贅沢にあるから、インテリアにやたらと凝るのがこういうところの特徴だ。

 その白木カウンターが美しいひつ鰻の店も、有名建築家が設計したものだという。最新の建材をつかったスタイリッシュな室内だ。
「この店はね、自分の接待にも使えるように、ひつ鰻に割烹を組み合わせているのよ。自分の友だちで使うようにしたいから、マスコミには出したくないっていう方針なの。『食べログ』だの『ぐるなび』なんて載っけられるのはまっぴらだっていうのを、私が無理やりに頼んであげたのよ」

「本当にすみませんねえ‥‥」
「それにしても暑いわね。ちょっとビールを飲んでいいかしら」
「それがね、ハルコさん、こういう取材の時の鉄則として、いちばん安いメニューを頼む。それから酒は飲まないんです」

「あら、そうなの。いいわ、じゃあ、お茶で我慢するわよ」
「そうですよ。こういう貧乏取材旅行に同行したいって言ったのはハルコさんなんですから、勝手なことはやめてくださいね」

 つき合い始めて半年余り、いづみはハルコに対してずけずけものを言うようになった。とにかく彼女に気を遣ったら大変なことになってしまう。ずるずるといろんなものを取られ、いろいろなことを課せられてしまうのである。
「それは無理」
「それは出来ません」
 とこの言葉をいづみは連発するようになった。
 ある時呆れ果ててハルコに言ったことがある。

「私は生まれてこの方、ハルコさんみたいに、人に気を遣わない人を見たことがありませんよ。車に乗る時もまっ先に乗り込む、座る時は壁際にどでーん。それから伝票はこの世に存在しないように無視する。こんなんでよく世の中を渡ってこられたなあって感心しますよ」

「そうでしょう」
 ハルコはむしろ得意そうだ。
「私が気を遣うと、みんなが余計に気を遣って大変なのよ。だから私は絶対人に気を遣わないの」
「すごい理屈ですよね」

 その時。一人の中年女性が入ってきた。セットしたての髪に、麻のスーツを着ている。手には白のクロコのバッグと、いかにも金持ちの奥さんといった雰囲気だ。
「遅くなってごめんね」
 彼女の言葉にはかすかな名古屋訛りがあった。
「紹介するわ。私の友人の菊池いづみさん、食べ物関係の仕事をしているので今日ここに連れてきてあげたのよ」
「はじめまして。菊池いづみです」
「まあ、はじめまして。私は加藤妙子と申します。ふっうの主婦をしているので名刺がないのよ。ごめんなさいね‥‥」

 ハルコよりはるかに感じがよい。
「私とタエコさんは、中学校からの金城の同級生なのよ。つまり”純金”仲間っていうわけ」
「そうなんですか‥‥。あのハルコさんって、昔はどんなだったんですか。どんな中学生だったんですか?」
「今のまんまよ」
 妙子は微笑んだ。
「ものすごく元気がよくてね。いつも先頭に立ってやるの。勉強は出来なかったけどクラスのリーダーだったわね」
「勉強できない、っていうのは余計じゃないの」
「だけどこの人調子がいいから、試験が近づくと成績のいい子にパーッと命令するの。明日までにノートを持って来いとか、ここを写させろて」
「ハルコさんらしいですね」
「それからね、時々漫画本を貸してくれるんだけど、そういう時は一人から五円お金を取ったのよね。次に新しいの買わなきゃならないからっていう名目で」
「ハルコさんらしいですね」
「ふん‥‥。ところでタエコさん、メニュー何にする? 私たちはいちばん安いセットだけど、自分の分は自腹だから好きなものを食べたら」
「あ、私もそれで」

 妙子は高そうなバッグをパチンと開け、中から黄色いハンカチを取り出した。それで額をふく。よく見ると。鼻の頭に小さな汗の粒が幾つも出ていた。
「遅れたらどうしようかって、地下鉄の階段をいっきに駆け上がってきたもんだから、もう汗をかいちゃって‥‥」
「また家を出る時ダンナに何か言われたのね」
「そうなのよ。今日は出かけるはずだったのに、私がでるとなると意地悪をするのよ。オレの昼飯はどうするんだって急に言い出して。大慌てでうどんをゆでてきたのよ」
「相変わらずよね‥‥」
 ハルコは片方の口角を上げて笑った、いかにも人を小馬鹿にした笑い方であった。
「もう収入もない亭主にこき使われてバッカみたい‥‥」
「本当にそうなのよね。私ってつくづくバッカみたいと思うわ。自分でも情けなくなっちゃう‥‥」
 さすがにハルコの幼馴染だけあって、妙子を怒ることなく素直に頷く。

――加藤妙子の身の上相談。

 私、いつもハルコさんに怒られるんです、バッカみたいって‥‥。だけどね、私たちの年頃の女に他にどんな生き方があったって言うのかしら。

 ハルコさんも私も”純金”の女です。名古屋ではそりゃあ価値があるんです。あの頃”純金”ですと、短大の時からいろいろ縁談があるのがふつうです。私もそうです。二年生の時にお見合いをして、卒業を待って結婚しました。私はちょっと年の離れた男と結婚したんですけど、その方は経済力があってしっかりしているって親が言ったんですよ。

 私はね、この頃つくづく思うんです。年を取るとみんな公平になるんだって。おかげでつまらない見栄も一切無くなって、女友だちとも清々しい関係になるんですよね。

 若い頃はそうはいきません。夫の地位や収入で自分たちをランクづけして、ほくそ笑んだり落ち込んだりするんですよ。私の夫は名大出て、トヨタの子会社に勤めていました。まあ
名古屋じゃエリートです。だけど後から医者と結婚する友人からは見下されます。トヨタの本社勤めの男と結婚した友人からは、

「部品を作る子会社じゃないの」
 なんて言われたりするのも耳に入って来ます。それ名大入れたの。早慶入れたのいろいろ言うから、三十代四十代の同窓会はぎくしゃくです。だから行かない人が出てきます。

 だけどね、五十を過ぎたら面白いんですよ。そろそろ旦那さんの行末がはっきりします。定年はまだでも、子会社行かされたり、出向する人がちらほら出て来るんです。そうすると、もうえらいえらくないも関係ない。名大や京大出ていたって、みんなしょぼいおじさんになってゆくんですよ。それに子どもも、結婚適齢期に入っていくんで、もう学校関係ない。同窓会の話題は親の介護になっていきます。

「えっ、どうしてディサービス利用しないの」
「千種区にすごいいい介護施設出来たよ」
 話題はもっぱらそっちの方に行きます。もう旦那の世話なんかどこの世界の話よ、という感じでしょうか。

 それはそれでいいんですけれどもね、問題は定年退職後の夫の話です。私はかなり年上の男と結婚したんで、早く旦那の定年がやってきました。会社を辞めた後の夫が、どれほどカサ高く厄介なものかということは、よく雑誌やテレビで言っていましたけれども、まさかこれほどまでとは思ってもみませんでした。

 うちの夫というのは、とにかくプライドがものすごく高い男なんですよ。夫婦で結婚式に参列した時など、席順にこだわる人っていますよね。うちの旦那がまさしくそうなんですね。

 夫の会社は、定年が六十五歳です。ですけれど夫の場合、六十になったら関連会社に出向ということになりました。そうしたらそれに腹を立てて、六十歳で退職してしまったんですから困ったもんです。
 最初のうち夫は、
「すぐに就職するから」
 と言っておりました。お酒に酔った時は、
「オレが辞めたらすごいぜ」
 と口を滑らせたことがあります。つまり自分の経歴だったら、ひく手あまただと言いたかったのでしょう。
 ところが一年たっても仕事は見つかりません、最初のうちは知り合いを訪ねたりしていたのですが、最後はハローワークに行くことになりました。しかし夫は余裕しゃくしゃくです。
「オレみたいなものがハローワーク行ったら、受付の人間がびっくりするだろうなァ」
 などと本気で言っているのには啞然としました。つまりハローワークは、学歴もキャリアもない人間が行くところと信じていたんです。ところが全く違っていて、自分のように高学歴の初老のおとこがいっぱいとわかり、夫はすっかりしょげてしまいました。

「当分職探しはしない」
 こう宣言して、うちにいるようになったんです。夫が四六時中うちにいる。これがどれほどのストレスをもたらすのか、分からない人はわからないでしょう。

 本当にありきたりの話で、語るのも恥ずかしいですけど、私にはたくさんの友人もいますし、茶道という趣味もあります。夫が勤めている時は、週に二回の稽古にも行けたのですが、それも叶わなくなりました。その窮屈さとストレスときたら、本に書いてある以上でした。

「オレの昼飯はどうなる」
 というのが夫の口癖なんです。
「コンビニ弁当でも買ってきなさいよ」
 とでも言えばいいんでしょうけれど、言ったら最後、どんな騒ぎになるかと思うと面倒くさくてとても言えません。
「今まで誰の稼ぎで喰ってきたんだ」
 と言われるに決まっています。

 本当にいったいどうしたらいいんでしょうか。夫が一日うちにいるんですよ。この事実の重さ。
 離婚するほど忌み嫌っているわけでもありません。だけど家にいられるつらさというのは、本当にどうしようもないんです。このままでは私は、本当にノイローゼになってしまいそうです。

「仕方ないんじゃないのオ‥‥」
 ハルコは言った。
「今までいい思いをしてきたんだからさ」
「そんなことはないわよ。家事、子育てといろいろ苦労してきたわよ」
「ふん。アンタみたいに恵まれた専業主婦の苦労なんかタカがしれてるじゃないの。本当に辛い目にあったら、とっくに離婚してるわよ」
「みんながみんな、ハルちゃんみたいに、思い立ったらすぐ離婚出来るわけじゃないわよ」

 さすがに半世紀近い友人だけあって、二人とも言いたいことを言う。最初妙子はふつうのおばさんだと思っていたが、ハルコに太刀打ち出来るのだから大したものだといづみは思った。
「今まで働きに働かせといて、定年になったら邪魔者扱いするわけよね」
「邪魔者扱いじゃないわよ。本当に邪魔なのよ」
「だったら、外に出て行ってもらう工夫をすることよね」
「いろいろやったわよ。たとえばさ…‥」

 そこでひつ鰻が運ばれてきた。染付の丼にたっぷり鰻がのっている。それだけではない。名古屋のひつ鰻は、ご飯の中にもう一層鰻が挟んであるのだ。
 素早く撮影した後、三人の女は黙々と鰻を食べ始めた。意外なことに妙子は食べるのがとても早い。ハルコに負けないぐらいだ。
「それでいったいどんなことをしたのよ」
 食べ終わり、お茶をすすりながらハルコは言った。
「たとえばボランティアをやらないかって誘ったわよ。東北だってまだ何も解決しないんだから、少しでもお役に立ったらどう?って勧めたのよ」
「カルチャーセンターで何を習うのよ」
「何だっていいのよ。エッセイ教室っていうのに申し込んであげたの。そうしたら講師がくだらないって、ぷりぷりして帰って来たのよ。なんでも女の講師のレベルが低すぎるって」

「なんかわかるような気もするけど」
「それからね、とにかく図書館へ行きなさいって言ったの。うちから歩いて七分くらいのところに、市立のいい図書館があるのよ。あそこならカフェもあるし、一日中いることだって出来るのに、やっぱりイヤだっていうの。朝から暇をもて余してる爺さんばっかりだって言うのよ。自分だって爺さんのくせにさ」

 それでもう、妙子は大きなため息をついた。
「一日中うちにいるの。それでやたらうちのことにうるさくなってしまったの。家の中が汚いとか、宅急便にどうしてもっと早く出ないのかって、一日中怒鳴ってる。私、もう耐えられないわよ」
「怒鳴らなきゃ、自分のプライド保てないじゃないの」
「えっ?」
「収入なくなってうちでゴロゴロしてる。そういう引け目があるからこそ、奥さんにガミガミやらなきゃ、精神の均衡保てないんじゃないの」

「わかったわよ。それで均衡が保てるんだったら私も我慢するわ。だけど三時間が限度よ。後は外に出ていって欲しいの。わかる?」
「全くあんたって、男のプライドってものを少しもわかっていないわねえ‥‥」
 ハルコはわざとらしく大きなため息をついた。

「定年退職した昔のエリート。少しはそれらしく扱ってあげなさいよ。まずお金を遣わせてあげるの」
「それってどういうことよ」
「図書館もそこらのふつうのおっさんが朝、新聞の取り合いをするようなところじゃ、おたくの旦那が行くはずないでしょ。名古屋だって探せば会員制の図書館があるはず。東京じゃ今、流行よ。月に三万か五万の会費払うと、静かでデラックスな空間をもらえるのよ。おたくの旦那みたいにプライドの高い男は、ふつうの人間が行けない。こういうとこじゃなきゃダメなの。プライドの高い男ほど金を使わせるの。特別扱いしてやるの。そういうこと、どうしてわからないの? どうせ退職金や年金でお金は不自由してないんでしょ」
「それりゃそうだけど‥‥。老後にも備えておきたいし‥‥」
「あんたって昔からそうよね」
 ハルコは怒鳴った。

「私が必死で働いていた時、あんたはラクチンな専業主婦とやらをしていたのよ。それは親が押し付けたものじゃない。タエちゃんが選んだもんよ。あんたさ、人は誰だって人生のオトシマエをつけなきゃいけない時が来るのよ。私みたいにひとりで生きてきた者には孤独ってやつ、あんたみたいな専業主婦には定年退職のダンナを負わなきゃいけない時が来るの。どっちも放り出せないもんだとしたら、智恵とお金を遣わなきゃね。わかる?」

「何だか、わかるような気もするけど、それにしても‥‥」
 妙子は口ごもった。
「旦那がずっといるって、しんどいことよね」
「そりゃそうよ。それがわかってたから私は一人よ。旦那っている時はいてくれて、いらない時はどっか行ってくれるスイッチが入るもんだったらいいけどね。そんなに都合よくいくもんじゃない。それならいらないって決めたのよ」
「ハルちゃんって、やっぱり強いわよねえ‥‥」
 妙子は感嘆したように言った。
「昔からちっとも変わっていないわ。ハルちゃんが二回も離婚が出来た理由がわかるわ」
「それを言うなら、二回も結婚できるでしょ」
 ハルコは怒鳴った。

ハルコ、不倫を嘆く

「秋ですよね‥‥」
 菊池いづみが、盃を飲み干すなり、ふうーっとため息をついた。
「今まで冷酒を飲んでいたけど、今日は熱燗がおいしいですもんね」
「まあ、訊いたような口叩いて‥‥」
 傍にいる中島ハルコがフンと鼻を鳴らした。こうした行為が実に似合う女である。
「別にあなたの職業にケチをつける気はないけどさ、私、三十代の人間が純米がどうの、ボルドーがどうのっていうのをきくと、イライラしちゃうわけよ」

「どうしたんですか、今日のハルコさん、荒れていますねえー」
「あら、いつもと同じよ」
「そんなことはないですよ。憎まれ口きくのも、いつもだったら口が勝手に動いてる、って感じですけど、今日は心に思うところがあってきっいことを言っていますよね」
「そうかしら」
「そうですよ。今夜はハルコさんから誘ってくれて、こんな高級割烹連れてきてくれるし‥‥」

 確かにそうだ。白金のプラチナ通りから奥まったところにある店は、看板も出ておらず隠れ家のようにひっそりしている。レストランの情報を書くライターのいづみも、この店のことは知らなかった。

「そりゃそうよ。この店はVIPがお忍びで使うところだから、マスコミに取材させないわよ。もちろんネットにも出ていないしね」
 やっといつものハルコの調子に戻した。
「これ美味しそうね‥‥いかにも秋って感じ‥‥」
 運ばれてきたデザートを前に、いづみは感嘆の声をあげる。それはイチジクのコンポートに、練った栗を取り合わせたものだ。コンポートからは洋酒のかおりがする。

「これ一枚写真撮ってもいいですかね」
「ダメダメ。この店はマスコミに出ないことが売りなんだから」
「雑誌には使いませんよ。私のブログに出すんです」
「同じことじゃないの。私ね、カウンターでカシャカシャ写メやってる人間見ると、水をぶっかけたくなるのよ」
「構いませんよ」
 その時、カウンターの向こうから主人が声をかけた。
「この頃、ツイッターにも時々出てるみたいですから、ハルコさん、人の口には戸が立てられませんよ」

「それって、使い方が違うような気がするけど、ま、いいか‥‥」
「すいません。それじゃあ」
 いづみはいつも持ち歩いているデジタルカメラを取り出し、濃い藍色の皿に盛られたデザートを何カットか撮影した。そしてその後、いただきます、と陶器のスプーンですくう。
「思っていた以上の美味しさですよ。栗に甘みを加えていないのが、イチジクを引き立てますね」
「そうでしょう。このデザートは、今の季節しか食べられないのよ。だからこの日を楽しみにしいたのに‥‥」
「わかった。ハルコさん、今日はデートだったんですね」
「わかる?‥‥」
「何で機嫌が悪いか、理由がわかりましたよ。今日、二人でカウンター予約してたのに彼にフラれちゃったんですね」
「フラれたわけじゃないわよ。彼に急に仕事が入ったのよ。失礼しちゃうわね」
「ふうーん」
 いづみはゆっくりと残りのイチジクを咀嚼(そしゃく)する。
「あの、前から思っていたんですけど、ハルコさんの彼氏ってどんな人なんですか」
「ふつうの人よ」
「まさかあ。ふつうの人がハルコさんとはつき合わないでしょう」
 メンタル面のことを言ったつもりであるが、そりゃそうよねとハルコは、いくらか肩をそびやかす。
「そりゃあ、私とつき合う人だからふつうのサラリーマンじゃないわね。某大企業の執行役員よ」
「いい男ですか」
「まあね」
「俳優でいうと」
「芸能人であんなタイプいるもんですか。全身がとにかく知性、って感じなのよ」
 うへっと、あやうくいづみはお茶にむせそうになった。
「結構惚れてますねえ」
「そうなのよ。こんなに長く続くとは思わなかったわ」
「だけどびっくりですよね。いつも人のこと、バサバサ切ってくハルコさんが、十年来の不倫に悩んでるとは‥‥」
「あら、悩んでないわよ」
 キッとしていづみの方を見た。
「悩むっていうのは、何かを求めて手に入らないからでしょう。私はあの人と結婚するつもりもないし、奥さんと別れてもらおうなんてこれっぽっちも思ってないし」
「そうですか」
「ただね、彼のことは私のウィークポイントであることは確かね」

 ハルコは忌々しそうにため息を漏らした。今夜の彼女は、白くふくれ織りのスーツを着ている。胸元のブローチは、葡萄の房をダイヤとプラチナで象(かたど)ったものだ。一緒に食事をしないかと急な電話がかかって来たのは、午後遅くだったので、ハルコはこのスーツを朝、デート用に着用したに違いない。こうして見ると、中年のなかなか綺麗な女である。

「他の人の事ならあれこれ忠告出来るのに、自分のこととなるとからしきダメよね。不倫なんて、私の趣味じゃないのに」
「わかります」
「本当はスパッと別れたいのよ。あの男と一緒にいたって、そんなにいいことばかりあるわけじゃないし」
「そうなんですか」
「役員っていっても、所詮はサラリーマンだから、お金がそんなにあるわけじゃないし」
「やっぱりそっちの方に来ましたか」
「デートっていってもね、向こうが連れていってくれるようなところはこんなところじゃない。庶民的な懐石よね」

「ふうーん」
「お一人様八千円コースぐらいの」
「充分じゃないですか。ふつう大ご馳走ですよ」
「あら、私はいつも金持ちのおじさんに、一人三、四万のキャッシュオンリーの和食連れていってもらうのよ。そんな庶民懐石、楽しくないに決まってるんじゃないの」
「ハルコさん、恋のためですよ。我慢しなきゃ」
「だからね、この私がお金出して、ちゃんとしたとこ行くのよ。ワリカンも大っ嫌いなこの私がよ」
「そりゃすごいことですよ。ハルコさんが男に金を出すなんて」
「でしょ? それで彼は喜んで、私が誘う一流のお店に行くのよ。だけどそこのお勘定払う時に、私はすごく辛いのよ。お金を出すのが辛いんじゃない…‥それもあるけど、人の旦那に十年間も奢らなきゃならない自分が辛いの」

「失礼ですけど、そのお相手の方ってえらい方なんでしょう、ハルコさんにそんな辛い思いをさせるぐらいなら、交際費で落とせばいいんじゃないですか」
「そこがね、あの人いいところなのよね」
 ハルコは本当にせつなそうな声を出した。

「なにしろ清廉潔白を絵に描いたような人なの。自分の女のために、交際費を使ったりはしないの」
「あの、レストランライターの経験から申し上げますと、そういう人に限って家族で行く食事、ばんばん経費で落としますね」
「まあ、何てイヤなこと言うの。人がせっかくご馳走してあげたのに」
「ごめんなさいーい。ちょっと酔っぱらっちゃっいました」
 二人がにぎやかに話していると、そこへさっきの主人がまたカウンター越しに近づいてきた。瘦せて頭を刈っている。顔が長くて、いづみはひょうたんを久しぶりに思い出した。
「ハルコさん、今日は楽しんでいただけましたか」
「星野さんよ」
 ハルコは紹介してくれた。
「こっちは菊池いづみさん。食べものライターで、いろいろレストランを紹介してるのよ。ここを書くのは十年早いけど」
「はいはい、すいませんねえ」
「こちらこそ。なにしろ常連さんばかりの店なので、取材に応じられなくて‥‥」
「でも、どうしたの。今夜は私たち以外に一組だけ。その人たちが帰っても、後から来ないわねえ‥‥」
「実は昨日まで、一週間ほど臨時休業をしていたんです。今日も開けるかどうか迷ったんですけど、ハルコさんのご予約が入っていたんで頑張りました」

「いったいどうしたのよ。体の調子が悪いの?」
「いやあ、体がどうのこうのっていうよりも、ちょっと精神的にまいっちゃうことがありきしてね」
「えー、いったいどうしたのよ。浮気がバレちゃったとか…‥。そういえばおかみさん、見かけないわね」
「実は女房に逃げられちゃったんですよ」
「やっぱり!」
「やっぱりなんて、ハルコさん、なんて失礼なことを言うんですかッ」
「いいんですよ‥‥。どう見ても不釣り合いの女房でしたからね」
「そうよね。美人でちゃきちゃきしてて。ああいう人は、食べ物屋の女将にはうってつけだったけど、星野さんの女房にしちゃどうかしら」

「ハルコさん、その言い方おかしくないですか。星野さんはこういう店をやっているんですから、その奥さんとしてはぴったりじゃないですか」
「商売に向いていても、夫婦としてどうだったかなァっていう意味よね。あの女将は、ちょっと色っぽかったわねえ。旦那がいる職場で働くにしちゃ、やり過ぎのところがあったわ。私の彼も、ぉ、あそこの女将、いいね、っていつも言ってたもの」
「ハルコさん、それってやきもちじゃないですか」
「違うわよ。いづみさんだって飲食店をまわる仕事をしていればわかるでしょう。お酒が主なところと、食べるものが主なところじゃ、女将のあり方だって違ってくるわよ。ここの女将は、どう見たってお酒を飲むところの女将よ。こんだけの料理を出すところの女将じゃないの」

「ハルコさん、おっしゃることはわかりますが、マキのことをそんな風に言われると、僕も混乱しちゃって、どうしたらいいのかわからないんですよ‥‥」
「ちょっと言い過ぎたかしらね」
「ちょっとどこじゃないですよ」

 いづみはさっきからハラハラして二人の会話を聞いている。星野の表情は次第に暗くなり、そのひょうたん顔は青味さえ帯びているのだ。
「まあ、こっちきて座りなさいよ。もうお客さんもいないことだしさ」
「はい‥‥」
 星野は奥にいた若い男に、
「そこを済ませたら、もう上がっていいぞ」
 と声を掛けた。そしてカウンターから出てハルコの隣りの席に座る。近くで見ると本当に瘦せているのがわかる。食べ物屋の主人で、痩身の者はたまにいるものであるが、これだけ細いのは珍しいかもしれない。女将に会ったことはないが、ハルコの、
「夫婦としては不釣り合い」
 という言葉が少しわかるような気がした。
「いったい、どうしたのよ」
 ハルコが顔を覗き込むようにして問う。

「まあ、ビールでも飲んだら‥‥といっても、私たちもうデザート食べちゃったからお酒残ってないの。飲みたかったら、自分で冷蔵庫から持ってきてね」
「いいえ、とてもそんな気分にはなれないんですよ」
「わかるわ。女房がお客とデキて逃げちゃったらねえ」
「どうしてわかるのですか」
「わかるわよ、それぐらい。なんかそんなことをしそうな気がしていたもの」
「本当に知らなかったんですよ‥‥」
「そりゃ、そうでしょう。亭主がいる前で、まさか浮気をするなんてふつうは考えられないもんね」
「相手はゲーム会社に勤めです。スマホでやるゲームというのが、大ヒットしてるところの専務だかですよ」
「あー、わかるわ。金はあるけどいけすかないIT野郎。今、日本中にはびこるあれね」
「ああいうところの人って、チケット簡単に手に入るんですかね。うちのマキは、Kポップの大ファンなんですよ。SMタウンのチケットあるから行かない、なんて誘ってたのを憶えてます。一年前のことですよ」
「その時行かせなきゃよかったのに」
「店もあるんだし行くな、ってもちろん止めましたよ。そうしたらものすごい目で睨まれて、SMタウンのコンサート、いったい何倍の倍率か知ってんの、と言われましたわ。アリーナのこんないい席で見られるなんて、もう二度とないのに、この私に行くなと言うわけ、とか凄まれました」

「いかに言いそうな女だもんね」
「ハルコさん、いくら自分がマキさんを気に入らなくても言い過ぎです」
「ただ私は、この店と星野に似合わないって言っているだけよ」
 いつのまにか呼び捨てである。

「でもさ、こうなったからには仕方ないわね。きっちりと出るとこ出て、貰うものは貰う。払うものは払う。そしてきっぱり別れることよね。聞くところよると、そのIT野郎はお金ありそうじゃないの。弁護士立てれば、人の結婚生活を破壊した、とか言うことで慰謝料がっぽり取れそうよね」

「でも相手の男、奥さんと子どもがいるんですよ」
「じゃあ、今、二人はどこにいるのよ」
「長期滞在者用の家具付きマンションってあるみたいですね。このあいだマキから電話があって、あんたなんか一生住めないところだって…‥」
「いちいちイヤな女房だね。もう諦めたらどうなの? それともやっぱり諦められない? そんなに惚れてるわけ?」

「いやあ、ハルコさん、この問題は切れる別れる、だけじゃないんです。もっと複雑にいろいろ絡んでいて‥‥」
「わかった。いろいろ弱みを握られてるんだ」
 ハルコは嬉しそうな大声をあげた。

「そうよねえ‥‥。こういう個人経営の店じゃ、女房がすべてを知ってるもんね。何をしたの? 脱税? それとも食材ごまかしてたの? そう言えばちょっと前にさ、ミシュランの二つ星とかの店で、女房が別れる時に、週刊誌にすべてをぶちまけたことがあったわねえ。あれにはびっくりしたわ。トリュフご飯っていうのが名物だったのに、トリュフオイルを使ってるとかさあ。この店もいろいろ細工してたのね。そのわりには美味しかったけど」

「ハルコさん、やめてくださいよ。そんなことは断じてしてません‥‥ただ‥‥」
「ただ、何よ!?」
「お金のことで、ちょっとしたことは有ったんですよ」

――割烹料理店主、星野の話。

 私は高校を卒業して、すぐにこの世界に入りました。
 最近料理業界は高学歴化していて、慶応卒なんていのもいますが、それはフレンチとかイタリアンの話ですよね。私ら日本料理をやる者は、やはり高卒が多いですね。中には時々中卒っていうのもいます。

 料理人は一般的に、わりといい学校を出ている女性に対して、憧れが強いんじゃないですかね。有名なシェフで、東大出の編集者と結婚した人もいますよ。フレンチだとその傾向が特に強くて、中卒のオーナーシェフに、英語フランス語ペラペラのマダム、っていう取り合わせも珍しくありません。

 日本料理はそういうものに比べると、ずっと地味ですが、やっぱり一流の店になると、女将さんは美人で大学出ってことになりますかね。
 マキとは前の店にいる時に知り合いました。女子大生のバイトで、仲居をしていたんですよ。着物もちゃんと自分で着て、そりゃあ可愛かったです。

 通っていた大学は聞いたことのないような女子大ですが、そこの食物科で勉強して今にフードスタイリストになりたいと言っていましたね。
 自分でもこんなことを言うのはナンですけれども、料理人好きな女というのはとても多いんですよ。白衣を着ている姿がカッコよく見えるようですし、マスコミが持ち上げてくれることもあるかもしれません。フレンチやイタリアンのシェフは実際にモテますよね。金があったりすると、銀座のホステスさんと仲良くなっちゃう人もいるみたいです。

 自分はまだ若かったですが、そこの調理場を任されていました。
 修業時代はつらいこともいっぱいありましたが、僕はこの仕事に向いているようです。料理人にとっていちばん大切なことというのは、才能があるか器用だということじゃないんです。毎日同じことを出来るか、同じことを繰り返すことに耐えられるか、っていうことですよね。僕の取り柄は愚直、ということだけなんですけど、マキの目には新鮮に映ったようです。

「星野さんの魚を見る時の目がたまらない」
 初めて一緒にお茶を飲んだ時、そう言われました。
「ものすごくこわい顔をして、じーっと魚のウロコ見つめてたりするでしょう。私もね、あんな風に見られたいと思っちゃうの」
 こんなこと言われて、僕はね、すっかり舞い上がってしまったわけです。
 しかもいいことは続くもので、ものすごく可愛がってくれているお客さまに、
「そろそろ独立してみないか」
 っていわれたんです。

 はっきりお名前を申し上げられませんが、大きな芸能プロダクションを経営している方です。ハルコさんはご存知だと思いますが、この頃ITやマスコミの方で、成功した方って飲食店を持つのが流行りですよね。有名な店で実は自分が陰のオーナーっていうのが、とても気分いいみたいですよね。

 ミシュランの三つ星をとったあの店も、本当のオーナーは、IT長者で時代の寵児と言われるあの方ですからね。レストランやうまい和食屋というのは、あの方たちの格好のおもちゃになりつつあるんです。

 でも僕らは負けていません。いつか自分で買い取る実力をつければいいんですからね。
 そういう時、スポンサーになってくれた人たちは、
「よかったね、おめでとう」
 と素直に喜んでくれます。そして適正な価格で譲ってくれるわけです。

 もちろんすべてこんなにうまく行っているわけじゃありませんよ。スポンサーとうまくいかずに、裁判沙汰になったケースもあります。
 けれども僕の場合、幸運だったのは出資してくれた方が、
「そりゃあ、自分の店が欲しいよな」
 と快く権利をこちらのものにしてくれたことです。この時銀行から借りることが出来るように、取り計らってくれたことも有難かったですね。月々のローンは大変ですけれど、まあ、お客さんもついて何とかなりそうな時に、こんな事件が起こったわけです‥‥。

「もうじれったいねえ」
 ハルコが叫んだ。
 いったいどんな弱みを握られているのよ。はっきり言いなさいよ。ここの料理はおいしいから、食材をどうのこうの、と言う訳じゃないわね。ズバリ脱税でしょう」
「そんな大袈裟な事じゃありませんよ。ただ売り上げをちゃんと申告しなかったってことですよ」
「同じようなもんじゃないの」
「とんでもない、キャッシュで払ってくれて、領収書を取らないお客の分をなかったことにする。それは多かれ少なかれどこの店でもやっていることではないですかね」

「えー、おたくは結構な料金とるじゃないの。それで領収書もらわない人がいるなんて、信じられないわ」
「結構いらっしゃいますよ。女性と二人のお客さま。カッコいいところを見せたいというのもあるでしょうが、領収書からご自分の動きを知られるのがイヤなんでしょうね」
「わかるわ‥‥その気持ち」

「五万ぐらいの食事をなさって、さっとピン札出して、領収書いらないよ、って言われると本当に嬉しいもんですよ」
「それって相当悪いことをしてるんじゃないかしらね。それで女房に脅されているわけね」
「そうなんですよ‥‥」
 星野は深いため息をついた。
「実はこの他にも、洗い場のバイトを頼んでいた、ってことにしてある出費もあるんですよ。それはすぐにやめましたけどね。だけどこの二年間のことをマキは脅してくるわけです」
「何て言って」
「籍は抜かない。だけど生活費三十万は送ってくれって。それをしてくれないと、週刊誌に売るって言うんですよ」
「それはさ、ちょっとヘンよね。ミシュランの星をとるってという有名店ならともかく、この店は知る人ぞ知るっていう店だものね。週刊誌だってかきゃしないわよ。週刊誌に売るなら勝手に売れってはっきり言ったらどうなの」

「それがマキの奴、出版社の知り合いがいるって脅してくるんですよ」
「馬鹿馬鹿しい。そんなことぐらいで書くもんですか。それにね、カケオチしたIT野郎はお金持ちなんでしょう。なんだって、一緒に逃げた女の夫に金をせびらなきゃならないのよ」
「それがですね、相手の男は今、兵糧攻めに遭っているみたいです」

「兵糧攻め?」
「奥さんの方が、銀行の口座を押さえちゃって、カードも取り上げられているみたいです。それでマキの奴は僕から金が欲しいって言うんですよ」
「何だか本当によくわかない話よね。聞いているうちに、何か腹立ってきちゃったわ」
「喋る僕の方が、ずっと腹を立てていますよ」
「あなたは夫なんだから我慢しなさいよ」

 ハルコはぴしゃりと言った。
「男と逃げた人妻がいる。その男の方は、お金はあるんだけど、今のところ奥さんにすっかり握られている。自由になる金がない。だから人妻の亭主に仕送りを頼もうなんて、あまりにもムシがよすぎる話よね」

「本当にそうですよねえ‥‥」
「星野、そんなに吞気に構えているこんなことになるのよ」
「すいません」
「謝らなくてもいいわよ。それであなたの奥さんは、どうして籍を抜かなくてもいいと言ってくるの」
「相手の奥さんはまるっきり離婚するつもりはないそうです。まあ、男がいけないですけどね。あれじゃ奥さんも頭に来ますよ。絶対どんなことがあっても別れないって言ってるそうです。子供もいますからね。そうするとうちのマキは、自分だけが損をするのはイヤだというんです。

あっちは夫婦としてまだ形だけのことでも続けているのに、自分の方が離婚してひとりになるのはイヤ‥‥。ってこれってどういう心理なんですかね。自分たちはカケオチしたくせに、亭主には籍を抜いてくれるなとは、よく言いますよね」
「ちょっと聞くけど」

ハルコが言った。
「マキさんから、どのくらいの割合いで電話がかかってくるの?」
「一週間に二回ぐらいですかね。時々酔っている時もありますね」
「わかったわ」
 ハルコが頷いた。
「あんたの女房、拗(す)ねてのよ」
「拗ねてるですって!?」
 大きな声を出したのは、星野でなくていづみの方だった。
「私はわかるのよ。拗ねてなかったら、女がしょっちゅう電話しないもの」
「だけど拗ねているって意味がわからないわ」

「私が後悔してるのに、どうしてこんなにわかってくれないのって、駄々っ子みたいに、あちこち転がってみたいのよ。なんか仕方ないネエちゃんだね。おたくのマキちゃんってば」
「後悔してる、なんて信じられませんよ」
 と星野。
「そんなしおらしい女じゃないですよ」
「しおらしくなくたって、後悔する時はするのよ」
「そうなんですかねえ‥‥」
 星野はまるで腑におちないようであった。

「IT野郎はお金があると思っていたのに、女房に握られているいい? お金持っていないIT野郎なんかね、なんの価値もないのよ」
「そうでしょうか」
「当り前じゃないの。マキさんも、しまった、と思っているはずよ。籍を抜かないでくださいって頼んできたのはそのためじゃないの」
「そうですかねえ‥‥」

 星野はティッシュペーパーで額を拭いた。しきりに汗をかいている。
「マスコミに売ってやる、とか言って、あなたに脅しをかけてる。こっち向いて欲しくて駄々をこねている子どもと同じじゃないの。だんだん読めてきたわね‥‥星野」
「はい、何でしょうか」
「あなた女房にまだ惚れてるんじゃ」
「そんな‥‥」
「はっきり言いなさいよ」
「そうです‥‥」
「だったら駄々っ子が家に帰ってくるのを待ちなさいよ。週に二回の電話が三回、四回に増えてくる頃、きっと奥さんは帰ってくるわよ」
「なんでそんなこと、ハルコさんはわかるんですか」
「女房と別れられない男に、たいていの人は失望するはずだもの。きっと帰ってくるわよ」
「ハルコさん‥‥」

 いづみは思わず尋ねた。
「ハルコさんは、女房と別れられない男と、どうしてずるずるつき合っているんですか」
「それが私のウィークポイントなのよねえ‥‥」
 ハルコは大きなため息をついた。

「理屈じゃないのよ。男と女って、別れる時が来るまでは別れられないの。私はまだその時が来ていないかも。星野もまだ別れる時じゃない。つらいだろうけど、惚れた弱みよね。ちびっとお金渡してやりなさいよ」
「いつになくハルコさん、やさしいですね」
 いづみはふと、自分の別れた不倫相手を思い出したのである。

はるこ、カリフォルニアに行く