女は男の下半身とセックスするわけじゃないの。男の全体とセックスするのよ。頭も心も込みでね。頭も心もよくてセックスが上手い。なんて男はめったにいるものじゃない。だったらどこかでこっちも我慢して、イッたふりしたりして楽しませてやればいいの。そしてこっちも楽しむの
 本表紙 林真理子著

はるこ、母娘を割り切る

 岩盤浴の石の上に、菊池いづみとハルコは寝そべっている。
 バスタオルを巻いてこうして横たわっていると、汗がたらたら流れていくのであるがそれが何とも快い。

 この岩盤浴の店は完全予約制である。八畳ほどの部屋に岩盤が敷き詰められ、他に清潔な脱衣場とシャワールームが付いているのだ。
 ハルコの会社は、ネットで美容院やエステ、ネイルサロンを紹介する。いろいろ特典をつけているのであるが、CMを流す大手に押され気味だという。そのために本業以外に、いろいろな経営に乗り出したのだ。エグゼクティブのための出張トレーナーは、ハルコの強引な売り込みと人脈で大当たりしたようであるが、その余勢を駆ってハルコは岩盤浴の店を買い取ったのである。

 一時期は大流行していた岩盤浴であるが、このところ人気は下り気味だ。ハルコに言わせると、
「衛生問題がどうのこうのと騒がれたけど、それよりも瘦せないとわかったからじゃないの。そうなると人の心はパッと離れてくから。とにかく今の美容業界、瘦せなけりゃダメなのよ。瘦せるもんなら、どんなに高くって行く」

 そして経営不振の岩盤浴を買い取ったハルコは、別のことを考えた。カップル用の完全個室としたのである。中に広く清潔な脱衣場とシャワー室をつくり、用がない限り従業員も入ってこない。

「これってラブホテルじゃないですかね‥‥」
 いづみは思わず声に出して言ってしまった。最近改装した岩盤浴サロンがとても評判がいいので、ちょっと試してみない?とハルコに誘われてここにやってきたのである。
「そういえば、このあいだヘンなもんが落ちてたって言うけど‥‥」
「ほら、やっぱりラブホテル替わりに使っていたんじゃないですか」
「ちょっとオ、人聞きの悪いこと言わないでよ」

 ハルコは軽く睨む。化粧を落としているので眉がない顔には、それなりに老いが滲み出ているが、バスタオルを巻いた胸のあたりは艶々となめかしく、五十二歳のハルコに恋人がいるというのも頷けるのである。

「おかしな噂立ったら困るじゃないのオ。うちはあくまでもちゃんとした岩盤浴サロンよ。だけどね、個室にする時にうんと料金高くしたわけ」
「えー、どうしてですか」
「だってね、貧乏人に使われると困るじゃないの。ラブホテルに行く金がないカップルがそれ替わりに使うじゃなくてね、お金もあっておしゃれなカップルが、面白がって来てくれるようにしたわけよ。そりゃね、裸の男女が寝っ転がってんだから。ムラムラしちゃうのは仕方ないわよね。だけどね。同じムラムラでも、お金を払っている人たちだとそう薄汚くならないでしょ。うちはね、一回一回綺麗に洗うのが売りなのよ」

「なるほどねえ」
 いづみは再び目を閉じる。じわじわと体のしんまで温かくなり。汗が体のあちこちに吹き出るのがわかる。
「私ね、つらいこととか、嫌なことがあるとあの日のハルコさんの話を思い出すんですよ」
「あの日って‥‥」
「あの大震災の日ですよ」
「ああ、あのことね」
 ことなげに言った。
 あの日ハルコは、仕事の打合わせのためにタクシーで渋谷へ向かっている最中だった。最初はボンネットに誰か乗って、揺らしているのかと思ったという。しかし電信柱どころか高いビルまでがゆらゆらと揺れている。
「こりゃあ、お客さん、地震ですよ、それもかなり大きい…‥」
 運転手の声は震えている。
「そうみたいね」
「お客さん、悪いけどここで降りてくれませんか。ちょっと大変な事が起こったみたいで」
「何言ってんのよ」 
 ハルコは怒鳴った。
「あなた、プロの運転手なんでしょ。だったらちゃんと目的地まで連れていきなさいよ」
 しぶしぶ運転手はそのまま走り、ハルコを駅に近いビルに降ろしたが、その時はまだ大渋滞は始まってなかったという。
 そうして辿り着いたビルであったが、電気はついていたもののエレベーターは停まっていた。
「全くどうなっているのよ」
 ハルコはぶつぶつ文句を言いながら六階まで上がったが、訪れた会社は書類が棚から落ち大混乱の最中だ。社員も避難をさせ始めていて打合せどころではなかった。

 申し訳ない、と担当者から頭を下げられて送り出されたハルコであったが、問題はそれからだ。ビルに入っていたわずか三十分の間に街の風景はまるで違ったものになっていたのである。まず空車のタクシーが一台もなくなった。ビルで働いていた人たちが一階に降りてきたから、舗道は人で溢れていた。

 自宅に帰るためにハルコは、タクシーを捕まえようとしたがすぐに無駄なことだとわかった。すると向こうからゆっくりと走ってくる「小熊急便」のトラックがあった。彼女は遮るように前に立った。
「危ないじゃないですか」
 運転手が大きな声を出した。あたり前だ。
「ねえ、この車どこへ行くの」
「どこって‥‥三宿の営業所に帰るんですけど」
「よかったわ。ちょっと乗せていってよ」
「‥‥‥」
 若い運転手はしげしげとハルコの顔をみつめた。
「おばさん、冗談はやめてくれよ」
 という言葉をぐっと飲み込んでいたに違いない。
「うちの会社の規則で、助手席に社員以外の者を乗せてはいけないことになっています」
「だって、こんな非常時なのよ」
「とにかく規則は規則ですから」
 トラックは緩いスピードで走り去ってしまった。が、そこで諦めるようなハルコではない。ケイタイを取り出して繋がらないことが分かると、近くのビルの中に入った。そこには公衆電話があったからだそして小熊急便の秘書課を呼び出す。
「ちょっと副社長のクラタさん呼んで頂戴、ビュー・コンシルェジュの中島ハルコと言えばすぐに出るはずだから‥‥」
「そして四十分後に、小熊急便のトラックがやってきたんですよね」
「そうよ、そして助手席に乗っけてもらって、六時間かけて下馬のうちに帰ったわけ」
「本当にすごいですよね!」
 いづみは深いため息をついた。
「私、この話を皆にするけど、ほとんどの人が呆然としますよ」
「そうかしらね、私はただ家に帰りたかっただけなんだけど」

「あの日、東北から遠く離れた東京でも、みんな不安と恐怖で沈んでたんです。私は神田の出版社から歩いてうちに帰りました。五時間かかりました。なんかつらくてつらくて、この先どうなるかと考えると涙が出て仕方なかったんです。おそらくハルコさんは、あの日東京中でいちばん図々しくて非常識な行動をとったんですね」
「あら、その言い方酷いわ。喧嘩売ってんの」
「いえ、最初は呆れてびっくりしました。だけどみんな不安で不安でどうしようもない時に、あれだけすごい常識外れの行動をとる人がいたんだって‥‥。なんか感心しちゃうんですよね。もう常識なんて吹っ飛んで、自分のことだけ考えられるのってすごいですよ。あの、ハルコさん、質問していいですか」

「いづみさん、いつだって私に質問してるじゃないの」
「あの、ハルコさんのお母さんっていったいどんな人ですか」
「どうしてそんな質問するのよ」
「いやあ、ハルコさんみたいな性格、いったいどんな風にしてつくられるのかと、ちょっと知りたくなったんですよ」
「そう…‥うちの母親ねえ…‥私にそっくりな性格よ」
「やっぱり」
「やっぱりとは何よ。まあ、二人ともそっくりな性格だからすごく仲が悪いわけよ」
「わかります」
 今日は決しておざなりでない相づちが打てた。
「私もね、もっと名古屋に行ってやりたいと思うんだけど、合えば必ずケンカになっちゃうの。世の中にこれだけ自分勝手で我が儘な女がいるのかって」
「ハルコさん、わかっているじゃないですか」
「それでね。私はもう行かないことにしたのよ」
「でもハルコさん、お兄さんいるんですよね」
「そうなのよ。あんな性格だから同居は無理だって兄も思っていたんだけど、まあ近くに住んであれこれ面倒を見てくれていたのよ」だけどね、兄のお嫁さんともどうにもならなくなってね。もう親子の縁切ってほしい。そうでなかったら離婚するって」
「わあー、大変」
「しかもね、持病のリュウマチが悪化して杖の生活よ」
「えー、お母さまおいくつなんですか」
「私は二十五歳の時の子どもだから、今七十七よ。本当に気が強くて我が儘な婆さんでね。気の合わない大嫌いな嫁の世話になるくらいなら、野垂れ死にした方がずっとまし。て言ってんのよ」
「ふうーん」
「会ったことないハルコの母であるが、たやすく想像出来そうだ。
「と言ってもね、うちの母は父親の残したものがちょっとあるのよ。それでね、兄と私が話し合って相続放棄をしたわけ。そしてね、うちの母親は家を売って全部で一億のお金を手にしたわけよ」
「一億円ですか。すごいですね」
「でね、名古屋でいちばん高い介護付き施設に入ったわけ。ここは入所の時に三千万かかったのよ。毎月三十万いるんだけど、とにかくめちゃくちゃな女だから、施設の人たちともうまくいかないわけ。それでね、昔からうちにいたお手伝いさんを通わせてるわけよ。

うちは家族がまるっきり行かないから、彼女があれこれ面倒を見てくれるの。その人のパートのお給料が二十万円」
「凄いですね」

「なんだかんだで年に七百万かかるんだけど、あと十年だけ生きるって言うの。ちょうど計算が合うように使い切って死ぬから好きなようにやらせてくれって。それでね、私もこの頃は没交渉にしてるのよ」
「だけどハルコさん、親子ってそんな風に割り切れるもんですかね」
「親子だからこそ割り切らなきゃいけないんじゃないの」

 ハルコはミネラルウォーターをぐいと飲みながら言った。
「私は子どもがいないから特にそう思うのかもしれないけどね。この頃親に引きずられる人を見るといらいらしちゃうのよ。どうして大の大人があんなに親に自分の人生踏み荒らされちゃうのかってね」
「ハルコさん‥‥」
 いづみはばっと起き上がった。
「ハルコさん、また人生相談よろしくお願いします」

いもの帝国ホテルのランデブーラウンジである。いづみと共にいるのは、中年というにはまだ早い年齢であるが、いささか野暮ったい服装と体型がやや老けて見える感じの女である。
「上原美樹と申します」
「美樹さんは私の呑み仲間なんです」
「私といづみさん、近くに住んでいて、いきつけのスナックが同じなんですよ」
「そこはね、ちょっとユニークなママがやってるんですよ。といってもハルコさんほどじゃないけど、そこでね、定期的にワイン会をやるようになって。美樹さんと親しくなったんです」
「私、お酒が大好きで、特にワインには目がないんですよ」
「ふうーん、そんなおしゃれな趣味があるようには見えないけど」
 ハルコは無遠慮に美樹を眺める。
「ちょっとオ、ハルコさん‥‥」

――上原美樹の話。

 いいんです。そうですよね、私なんかがワイン好き、なんて言うと笑っちゃいますよね。でもこの十年、お酒を飲むことで救われました。特にいづみさんとワインを飲みながら、ああだこうだ言うのは本当に楽しいんです。私は一回何か始める凝る方なんで、すごく勉強してソムリエの資格をとったんです。といっても今更転職するわけにもいきません。

 その名刺にも書いてあるとおり私は小さな財団の秘書をしております。まわりは天下りしてきた叔父さんばかりの職場ですが居心地もよく、給料も悪くありません。
 女子大を出た年はもう就職難が始まっておりましたので本当に大変でした。父親のコネで入れた職場ですので、私もきちんと勤めてきたつもりです。

 就職と同じようにうちの両親は、私の結婚にもそれはそれ心を配ってくれました。うちの父はその頃、ある企業の上の方にいましたので、縁談にも不自由はなく、幾つも話は持ち込まれたのです。私としては高望みをしたつもりはないのですが、なんとなく縁がなくてこの歳まで独りでやってきました。

 しかし、ふた月前のことですが四十歳になり、ふと考えたんです。このまま一人で死んでいくのかなと。私は恋愛めいたことがなく、学生時代にしばらくおつき合いしていた人がいたぐらいです。このまま結婚もせず、子どもも持たずに生きていくのはあまりにも淋しいかなと。職場でもそういう女の人は何人かいます。干からびて。温泉とたまの海外旅行が何よりも楽しみのおばさんグループを見て、
「まだ間に合うんじゃないか」
 って突然思ったんです。
 だけど今の私に、男の人と知り合うチャンスなどありません。ワイン会で出会うのは妻子ある人ばかりです。私は不倫は嫌いですし、今更する年齢的余裕もありません。
 そして私は自分に言い聞かせました。
「愚図愚図しているうちに時間が経っていくだけで、お前はもう四十、そしてすぐ五十歳になっていくんだぞ」
 と…‥。

 私にどうしてそんな勇気があったのかわかりませんが、結婚相談所に行ったんです。ああいうところはびっくりするくらい料金が高いのですが、迷うことなく貯金を崩して入会しました、そして一人の男性を紹介されたんです。丸山さんと言って四十七歳の人です。メーカーに勤める方です。奥さんと十年前に離婚して、ひとり娘さんはあちらに引き取られたそうですが、今度結婚をしたそうです。その結婚披露宴に招かれてとても嬉しかったそうで、ひとつの決心をしたそうです。

「これでひとつ責任を果たした、これからは自分の人生を生きてみよう」
 って。つまり彼と私は同じ頃に同じことを考えて、あの会に入会したんです。

 高校しか出ていませんし、エリートという人ではありません。ただとても優しく誠実な人なんです。会って話していると、あっという間に時間が経つんです。毎晩お休みのメールをくれ、会って四回目にプロポーズされました。本当に私は嬉しくてすぐにOKしたんですけども、驚いたのはうちの両親です。

 だってつい先日まで、
「あなたが結婚してくれなければ、死んでも死にきれない」
「帰ってきても構わないから、一度は嫁いで頂戴」
 としつこく言っていた母親までが、私の結婚に大反対なんです。そして、
「結婚相談所に入ってまで結婚したかったのか」
 と涙ながらに言うんですよ。
「恋愛でどうしても、って言うのならまだ話はわかる。お金を出してまでインチキ結婚相談所へ行き、そこでヘンな男に引っかかるとはどういうことか」
 とえらい剣幕なんです。

 私の行った結婚相談所は有名なちゃんとしたところですし、丸山さんもヘンな人ではありません。それなのにこのところ、
「そんなことまでして男が欲しいか」
 と色キチガイのようなことを言われ、つくづくイヤになってしまいました。
 しかも私のきょうだいがあまり味方になってくれないんです。私には兄と妹いるんですが、二人ともとうに結婚して子どもがいます。私だけ家に残って両親と暮らしているんです。

 妹だけは味方になってくれると思っていたのですが、
「お父さんとお母さんの気持ちもわかる。裏切られたと考えてるんじゃないの」
 などとわけのわからないことを申します。いったい私はどうしたらいいのか、本当にこれほど悩んだことは初めてなんですよ‥‥。

「あなたは逃げ遅れたのね」
 ハルコはおもむろに言った。
「逃げ遅れるってどういうことですか」
「そうよ。他のきょうだいはさっさと自立っていう逃げをしたのよ」
「そんな‥‥」
 美樹はむっとした顔になる。
「あのね、親っていうのは娘が三十五歳くらいまでは必死で結婚させようとするのよ。でもそれも親のエゴイズムよね、自分の娘が嫁(い)き遅れた、っていわれたくないの。だけど娘が三十五過ぎるとある程度諦めも出てくる。そして自分の体も弱ってくる、するとね、一人ぐらい家に残して面倒をみてもらうのもいいかなって思い始めるのよね」
「うちの親はそんな人たちじゃありません」

「おたくの親じゃなくて、世間の親がそうだと言っているの」
 ハルコはぴしゃりと言った。こういう時の彼女は気迫が満ちていて、この人が道で通せんぼをすれば、どんな車でも停まるだろうといづみは思った。

「それをね、察しのいい子どもはわかっているのよ。だからおたくのお兄さんも、妹さんもさっさと家を出たんじゃないの」
「‥‥‥」
「おたくのご両親は幾つなの」
「父親が六十八。母は六十六です」
「まだ六十代じゃないの」
 ハルコが呆れたように言った。
「それなのにどうして子どもにすがろうとするのかしら。あのね、親っていうのはほっぽり出せば、ちゃんと自分たちでやるものなの、今は社会保障だってちゃんとしている。もうちょっとすればヘルパーさんだってつけてくれる。六十代ならどう考えたって、二人で、ふつうに暮らしていける年代じゃないの。それなのにどうしてあなたはためらうのよ」
「だって、自分の親ですからね、ほっとくことは出来ません」

「ほっとくんじゃないの。あなたは逃げなきゃいけないの。そもそもこの世の中の悪いことの半分は、親が原因で起こってんだから」
「えーつ?」
 いづみと美樹が同時に声をあげた。
「そうよ。昔の親は六十代で死んだけど、今の親は八十代、ヘタをすれば九十代まで生きる。だからややこしいことになっているの。いい、人っていうのは、親の面倒を見るために生まれてきたんじゃないのよ。自分の人生を生きるために生まれてきたのよ」
「ハルコさん、いいこと言いますよね」
「そうでしょ」
 ハルコは得意になった時の口癖が出た。
「今話を聞いてるとたいしたことはなさそうな相手だけど、美樹さんはとにかく男を見つけたんでしょ。どうよ、男は親よりずっといいでしょ」
 美樹は恥ずかしそうに頷いた。

「あったり前よね。男は優しいしセックスだってしてくれる。親が抱っこしてくれてやさしくしてくれた記憶は、男が抱いてくれるうちは忘れるものなの。親のことを有り難い、懐かしいって思う気持ちは、男が抱いてくれなくなってやっとわくものよ。だからこその時に親が生きていてくれれば、やさしくしてあげればいいじゃないの。わかった? 美樹さん、あなたはとにかく親から逃げること。そして自分の幸せを見つけることを考えなきゃいけないのよ」
「わかりました‥‥」
 美樹は深く頷いた。

 二人は銀座六丁目のダイニングバーにいる。この店は女性が好きなピザやサラダといった料理がおいしく、酒の種類も豊富でとても人気があるところだ。いづみは何度か店に行ったが席が空いていない。並ぶのも嫌なのでそのまま帰ってきてしまった。

「へえー、ハルコさんはもうここに来てるんですね。ハルコさんでも並ぶんだからよほどおいしいんですね」
「あー私、並ぶの大嫌いだから。そんなことしたこと一度もないわよ」
 ハルコは素早くケイタイを取り出し、誰かを呼び出した。
「もしもい、キムラ、いまおたくの店にいるのよ。えっ、銀座のあのおたくの店よ。え、名前がわからない? えーと‥‥」
「まりもクラブですよ」
「まりもクラブよ。あんたさ、いくら本業じゃないからって、自分の出した店の名前ぐらいちゃんと憶えときなさいよッ。わかった?」
 なんかハルコはケイタイに向かって叱り始めたのだ。
「そうしたらどうよ、まだ五時半だっていうのに行列が出来てんの。そう、三、四人だけどね、私はあなたが知ってるとおりすごく忙しいんだから席を作ってくれない。そうよ‥‥。二人。窓際なんて言わないからすぐに作って。わかった?」

 彼女がケイタイを切って一分もしないうちに店長が飛び出してきた。
「中島様、お待たせして申し訳ごさいませんでした。いまキムラから電話がありまして‥‥」

 通されたところは個室で、なんとすぐにシャンパンが出てきた。
「ご迷惑をおかけしたおわびに」
 ということであった。
「ハルコさんって、いつもこういうことをしてるんですね」
「まあね」
「こういうことばかりしていれば、そりゃあ女王様にもなりますよね」
「まあ、今のうちだけよ。私がまだ若くてイケているから、社長連中がちゃほやしてくれてるからね」
「そういうことを、何のてらいなく言うのがハルコさんのすごいところですよ」
 いづみはシャンパンを口にした。まあまあの味であった。

「キムラっていうのは、ITの会社やっている社長よ、今儲かり過ぎて困るから、飲食店やたらと買いまくってるの。だけどね、自分の店の名前も忘れるなんてまずいわよね。今度がつんと言ってやらなきゃ」

「あの、私、この頃よく思うんですけど、どうして世の中の力を持っている人って、ハルコさんの言うことを聞くんですかね。そのキムラとかいう社長といい、小熊急便の副社長といい、私は不思議でたまりませんよ」
「私だってわからないわよ」
 ハルコはシャンパンを口にし、
「まあまあね‥‥」
 といづみと全く同じ感想を漏らした。
「ただ男はね、強い女が好きなのよ。ダメ元でとにかく強く要求する。するとね、たいていのことは叶うし、こうしてシャンパンが出て来るのよ」
「まあ、誰にもできる技じゃありませんけどね」
「あたり前よ」
 二人はやがて運ばれてきた白身魚のカルパッチョを食べ始めた。
「でも美樹さん、ちゃんと両親から逃げられたんでしょうかね」
「無理なんじゃないの」
「えーつ」
「あの人のもっさりした感じっていうのはね、一朝一夕になるもんじゃないのよ。親に長いこと捕らえられた娘の典型的な格好をしてるわね」
「そうでしょうか」
「あの野暮ったさっていうのは、もう逃げられないみたいね。まあ、相手の男のよっぽど強く出たらわからないけど、五分五分っていうところかしら」
「でもいい人みたいだし」
「だけど結婚相談所で知り合った高卒の男よ」
「ハルコさん、それって差別じゃないですか」
「いいじゃないの、あなたと二人しかいないんだから」
「そりゃそうですけど、ハルコさんあまりにもズバリ言うから、私は胸がドキドキしちゃいますよ」
「あの美樹さんは、きっと男がもの足りなく思う時がやってくるはず。優しくて誠実な男なんかいくらでもいるもの。他にいろんなものを持っている男が優しくて誠実だから値打ちがあるのよ。何にも持っていない男が優しくて誠実なのはあたり前じゃないの。でもあの美樹さんが、親から逃げるきっかけになってくれればそれだけでもいいじゃないの」

「そうですよね。私だってハルコさんと出会って人生が変わりましたもん」
「あら、そう」
「そうですよ。パリでハルコさんと出会わなかったら、彼とずるずるまだ続いていたと思います」
「それで新しい男は出来たの」
「まだですよ‥‥。なんか後遺症はまだ残っていて」

「あなたももう若くないんだから頑張らなきゃダメよ。美樹さんにしてもまだ子どもの一人や二人産めるでしょう。女はね、ずるずるだらだら毎日を送ってちゃ本当にダメよ。どっかでギアを変えなきゃね、男だってそうだけどね、まあ女の方がギアは変えやすいわけよね。男を変えやすいわよね。男を変えるだけで人生が変わるんだから」

「本当にそうかもしれませんね…‥ところでハルコさん、最近恋愛どうですか」
「まあねえ…‥」
 ハルコは浮かない顔をした。
「あっちもトシだし。もう汐どきかなあと思う事もあるわ」
「ハルコさんにしたら淋しいお言葉」
「さっき美樹さんに言ったじゃない。男に抱かれなくなると親のことが恋しくなるって。この頃ねえ、母親のことをちらりと考えたりするから、これはまずいなあって考えるわけよ」
「そうですか。それはふつうの感情だと思いますけど」
「うちのいやな母親だけど、本当にいやな婆さんに徹してくれて、私は逃げやすくしてくれたってふと思う時もあるけど。まあ、私たち母子にそんなセンチメンタリズムは似合わないわね‥‥」
 が、すぐにいつものハルコに戻った。
「ちょっとオ、白ワインでも頼もうか、キムラがやっている店、どうせたいしたものは置いてないと思うけどさ。多分キムラは私に払わせないわよ。そうよ、いつもお世話してあげているもの」

ハルコ、セックスについて語る

 一杯だけにしておけばよかったと、いづみは後悔している。
 イタリアレストランから、ワインバーへと場所を移したのであるが、酒を飲みながら女二人で語ること言えば、恋の惚気(のろけ)か愚痴に決まっている。それもどちらかがやたら喋ることになっているのだ。

 大学時代の同級生である大江玲奈は、一度離婚している。その後、恋の苦悩と喜びがどっと来たのだそうだ。
「私つくづくわかったんだけど、バツイチ女のモテ方ってハンパじゃないのよね」
 少々呂律(ろれつ)が怪しくなった声で言う。
「仕事先の人から、会社の後輩まで声をかけてくるのよ。バツイチ女って、よっぽどゆるいって思われてんじゃないかしら」

 玲奈は決して美人ではないが、垂れ気味の目と小さな唇とが不思議な魅力を醸し出していて、男子学生にとても人気があった。卒業後は旅行会社に就職して、そこで知り合った男性と結婚した。披露宴にも出席したいづみは、三年とたたないうちに別れたと聞いて驚いたものだ。いちゃついているところをさんざん見せつけられていたからである。別れた理由を、

「やっぱり結婚に向いていないことが分かったから」
 と玲奈は言う。
「随分上から目線ね。そういうセリフって、女優が言うもんだと思ってた」
 いづみがからかうと、
「だってさー、つき合っている時はよかったんだけど、一緒に暮らすと、イビキはうるさいし、大きいのした後のトイレが臭い。とてもやつてられないと思っちゃった」
 今つき合っているのは、七歳年下の男だという。
「若いコはいいわよ。ニオイが綺麗だし‥‥」
 何か思い出したのか、うっすら笑う。
「何よ、イヤらしいわね。エロい笑い浮かべちゃって」
「何言ってんのよ。いづみだってさ、年上のオヤジとつき合って、いろんなことを教わっているでしょ」
「彼とは別れたわよ」
「へえー、知らなかった。だってさ、昨年会った時にはさんざん愚痴ってたじゃん。別れようと思うのに上手くいかないって愚痴られてさあ。私さ、不倫って本当にめんどうくさいなアってつくづく感じたわね」

「ちょっと玲奈、あなた声が大きいわよ」
 隣りのカップルがちらっとこちらを見た。三十代の女が二人、露骨な会話をかわして、といった風に睨まれた。こんなことは慣れているが‥‥。
 その時、いづみのスマホが小さく震え出した。表示を見る。中島ハルコからだった。
「ちょっと失礼」
 スツールから降り、店の扉を押した。雑居ビルの廊下に立つ、スマホはまだ鳴り続けている。画面には12:20という文字が写っている。
「ハルコさん、どうしたんですか。こんな時間に」
「ちょっとオ、すぐうちに来てよ!」
 電話の向こうから、ただならぬハルコの声がした。
「いったいどうしたんですか」
「今、今‥‥うちに帰って来たのよ。そうしたら‥‥」
 ここでしゃっくりのような音が出た。
「空き巣に入られたのよッ! ひっく」

 初めて足を踏み入れたハルコのマンションは、予想以上の豪華さであった。広いリビングルームには、趣味のいいダイニングテーブルや飾り棚が置かれ、その上にはさりげなく骨董品とおぼしき壺や茶碗が飾られていた。
 が、入った空き巣はそういう物には目もくれず<、ハルコの宝石類を狙ったのだ。
「家に帰って来た時に、何か変だなアと思ってたんですよ」
 ハルコは刑事に語っている。
「電気をつけたとたん、いつもと違うって思ったんです。そして着換えようと寝室に入ったら、鏡の上や引き出しがぐちゃぐちゃになっていたんです」
 興奮していつもより早口になっている。

「でもこんなちゃんとしたマンションですよ。まさか空き巣が入るなんて思いますか」
「犯人はここから侵入したんですよ」
 坊主頭の刑事は、リビングルームの隅にある小さな窓を指さした。あかり取りのための小さな窓は、半分開いている。
「こんな小さなところから入ったんですか!」
 大きな声をあげたのは玲奈である。真夜中のことだったので、いづみは彼女についてきてもらっていたのだ。

「頭さえ入れれば、やつらはどんなところからでも入って来ますが‥‥それでは中島さん、調書をとらせてもらっていいですか」
「はい」
「取られたものわかりますか。だいたいの値段を教えてください」
「えーと、パールのネックスレスが百二十万円、サファイヤのネックレスが八百四十万円、ルビーのネックレスが四百八十万円‥‥それからダイヤの指輪が二つで、ひとつは7百万円、もう一つは二百万円ちょっと‥‥」
 ハルコは宝石の値段をすべて憶えていた。
「それじゃあ、総額は七千二百万円ってことですかねぇ」
「すっごい!」
 思わずいづみは声をあげた。
「ハルコさんって、ものすごくたくさんの宝石を持ってたんですね」
「過去形で言わないで頂戴」
 ハルコは忌々しそうに言った。
「私、びっくりしたわよ。模造のパールやおしゃれなアクセサリーがいっぱいあったのに、空き巣は本物の宝石だけをちゃんと選んで持って行ったのよ」
「そりゃあ、プロの仕業だからですよ」
 刑事が言う。
「このあたり最近外国人の窃盗団が出没しているんですよ。先日も近くのマンションで被害がありましたよ」
「それで戻ってきたんですか」
「いやあ、彼らは盗んだものはばらばらにして、すぐに海外へ持ち出すんですよ」
「えっ、じゃ、私のサファイヤのネックレス、ばらばらにされちゃうんですか」
「そりゃあわかりませんけど、そうなる可能性は高いっていうことですね」
「ひどいわ‥‥クイッ」
「ハルコは何か言いかけたが、まだ酔いが抜けないのかかすかなしゃっくりをする。
「大家がいけないのよ」
 突然叫んだ。
「セキュリティを入れるのをケチるからこういうことになるんだわ。ねえ、刑事さん、こういう場合は賠償金を貰えますよね。だってそうでしょ。大家がちゃんとしていないから空き巣に入られたんですから」
「まあ、そういうことは、私たちは関知していませんので」
 と調書を書き終えた刑事は、警官と共に早々と帰ってしまった。
「ハルコさん、私たちもそろそろ帰りますよ。もういいですよね」
「そうねえ‥‥。もうしてもらうこともないし」
「最初から私たちがすることは何もなかったんです」
 これは嫌味というものだ。
「そりゃそうだけど、やっぱり心細かったからいてくれてよかったわ。ありがとう」
 ハルコにしては殊勝なことを言う。
「だったらお茶の一杯も飲ましてくださいよ。私たち喉がカラカラ」
「そうね。お茶ぐらい淹れるわよ」
 ハルコは紅茶を淹れてくれたうえに、ヨックモックの菓子を皿に入れて出してくれた。茶碗はウェッジウッドの品のいいものだ。ハルコの趣味はいたって穏やかなものであるが、言動はまるで違っていた。

「何だかまだぼっとしているわよ。これが現実でなきゃと思うわよね」
「ハルコさん、そんなにガッカリしないで。きっと宝石類は出てきますよ」
「そんなことはないって。あの刑事も言っていたでしょ。ああ、口惜しい‥‥。ひとつずつ買って大切にしていたものばかりよ。ダイヤは前の亭主に買ってもらったものだし‥‥」
「そりゃあ、口惜しいですよね」
「真珠のネックレスはね、私が会社をつくった時の記念で買ったもんよね。ほら、会社のえらいさんとつき合うとやたらと葬式が多くなるから、いいものを買おうと思って銀座のミキモトで買ったのよね…」
「ミキモトなら、なおさら口惜しいですよね」

「そうなのよ。宝石は女の歴史よ。ひとつひとつに大切な思い出が詰まってるもんなのよ。それがあの大家のせいで‥‥。そうよ、このくらいのマンションならセコムに入るのがふつうなのに、それをケチってたばかりにこんなことになるのよ」

 ハルコのあまりの落ち込みぶりがいづみには可笑しい。いつもどんなことがあっても動じぬ女であるが、宝石を盗られたことでこれほどこたえているのだ。やはりケチな女はものに固執するのだと、いづみはなんだか笑いがこみ上げてくる。口調が明るくならないように、つとめて低い声で慰めることにした。

「ハルコさん、日本の警察を信じましょう。きっと戻ってきますよ」
「ふん、日本の警察ぐらい当てにできないものはないわね。私が前にひったくりに遭った時も、おざなりの捜査だったもの」
「えー、ハルコさん、ひったくりに遭ったんですか。いつのことですか」
「五年前のことよ。うちに帰る途中でハンドバッグひったくられたのよ。その時、こんな真夜中におばさん一人で歩いている方が悪い、みたいなことを言われてね。カーッとなって警察署長に電話してやったわよ」
「えー、警察署長にですか」
「そうよ、国会議員の知り合いにあらかじめ電話させといたけどね」
「いつも権力を使う。うーん、ハルコさんらしいですね」
「あったり前よ。そのくらいのことしなきゃ組織なんか動かないのよ」
「でもそのくらいの元気があったら、ハルコさん、宝石なんかもっといっぱい買えますよ。盗られたものよりもっとすごいものをいくらでも買えますってば。だから盗られたものは、くよくよしないですっぱり諦めましょうよ」

「何言ってんのよ。今言ったばっかりでしょう。宝石は女の歴史なのよ。買ってくれた男や、買った自分の思い出も入ってるの。それにこの不景気、昔みたいに買えるわけないでしょ」
「だけどね‥‥」
 次の言葉に困っていたいづみは、こんなことを口走ってしまった。
「さっき刑事さんは、外国人のプロかもしれない言ってたじゃないですか。ハルコさん、もし、家に帰った時に誰かがいて、ナンカされたらどうしますか? 取り返しのつかないことになっていたはずですよ」
「何言ってんのよツ」
 ハルコはバッと顔を上げた。
「強姦なんて十五分か二十分。目をつぶってりゃ済むことじゃないの。だけど宝石は一生なのよ。盗られたら一生ないのよッ」
 余りのことに、いづみはしばらく声が出せない。
「ハルコさん、それ、本気で言ってんですか」
「もちろんよ!」
 しゃっくりは止まり不貞腐され気味にしているハルコは、それなりに色香があり、五十代でも襲われるかもしれない可能性を漂わせていたが、
「そんなこと、本気で言う女の人って信じられない」
「そうかしらね。少なくともここに一人いるけど」
「そんなの、本気で怖いめに遭ったことがないからですよ」
」もう、うるさい。私、本気でそう思っているから仕方ないじゃないのッ」
「あの、中島さん、ちょっといいですか‥‥」
 今まで黙って二人のやりとりを聞いていた玲奈が初めて口を開いた。

「私、小学校の時に年上の従兄にいろいろされたんですよ。そのことの意味がわかるのは、十六歳の初体験の時なんですけどね。そうか、そういうことかって思うようになって。それからですねえ、私ってちょっと他の人とは違うなあって思うようになったんですよ。

よくよく本を読んでいると、『めくるめく快感』ってあるんじゃないですか。私、どういうことかよくわからないんですよ。気が遠くなってバラ色の光の中を漂っている‥‥なんて聞かされたら、本当にそんなことがあるんだろうかって‥‥。

私の場合、もちろん感じるし気持ちはいいんですけどね、男の人が入ってくると、まあ、こんなもんかなあって思いながらあれこれ演技しちゃうんですよ。こんなに一生懸命やってくれている相手に悪いなあと思うと頑張る自分もいたりして…‥。

私がセックスですごい感動を得られないのも、子どもの頃の経験のせいだと思うと、従兄のしたことをぶちまけたい気分になりますよね。幸い、というのもへんですけど、従兄は会社の関係でアメリカ南部にずっと行っているので、もう何年もあったことがありません。だけど葬式か何かで会ったら、私、ブチキレそうな気がして怖いんですよ。私がこんな風に男の人と続かないのも、あの男のせいかなアと思ったりもして」

「へえー、そうだったんだ」
 いつも男をとっかえひっかえしている理由はこれだったのだと、いづみは傷ましい気持ちになってくる。

「中島さん、私ってこれから先も、ずうっとめくるめく快感っていうものもなく、女の歓びっていうものを知らずに生きていくんでしょうか」
 そこにはいつもの玲奈の姿はなく、化粧が落ちかけ、うち沈んだもうそれほど若くない女がいた。

「よく男に溺れて、会社の金を使い込んだり、犯罪をやる女がいるんじゃないですか。あれだけ男に夢中になるっていうのにも、憧れちゃうんですよね。それだけすごくどろどろのセックスがあったんだろう。私って、一生そういうのとは縁がないんだと思うと何か哀しくって…」
「仕方ないじゃないの」
「えっ?」
「ウソ?」
「そんなこと仕方ないじゃないの。セックスでそんなに感じないんで‥‥そんなの個人的なこと、私はあなたじゃないんだもの。それに私だって、そんなにセックス好きじゃないもの」
「えーっ?」
 今度は二人で同時に声をあげた。
「私、前からハルコさんって、いったいどんな風にセックスしてるんだろうって、とても興味がありました。だけどまさか不感症だとは」
「ちょっと、いったい誰が不感症って言ったのよ」
「ええーだっていま、そんなに好きじゃないって」
「そうよ。だってめんどうくさいじゃないの」
 ことなげに言う。
「このあいだ何かのアンケートを見たけど、半数以上の女が、その最中イッたふりをするんだってよ。だから玲奈さんだっけ? そんなの気にしなくていいのよ」
「すごいですね。ハルコさんって、それでよく二回も結婚できましたね」

「そうなのよ。どっちの夫もしつこくて本当に困ったわよ。私はね、寝る前に紅茶飲みながらテレビ見たり、雑誌眺めてたいのにそれを許してくれないのよ。もう疲れているし、次の日の仕事にも差し支えるから、取り決めを交わしたの。セックスは週末だけ、金曜と土曜の夜だけって」

「へえーっ」
 二人の女はまた同時に声をあげた。
「だけどね、二度目の結婚の時は、私はもう仕事をしていたから、疲れてたまんないわよ。金曜日の夜なんかひとりでぐっすり寝たいわよ。それなのに夫は怒るわけ。約束が違うぞ、お前は噓つきだって」

「だから二度目の旦那さん、他の女と浮気しちゃったんですよね」
 いづみの問いかけにハルコは知らん顔している。この件については、あまり触れてほしくないらしい。
「それで、ハルコさん、今の彼とうまくいってるんですか」
「そりゃあ…‥、まあね。私だってそれなりに感じているわ」
「だけどエクスタシーはない」
「まあ、そんなもんは適当にやっていればいいのよ。だけどね、そもそも私は、あっちがあんまり好きじゃなくてよかったと思っているもの」

「えーつ、何でですか!?」
いづみと玲奈は、先ほどから双子児のように同じ言葉を発してしまう。
「私がね、こんなにおじさんたちに人気があるのも、私はあれがあまり好きじゃないからなのよ」
「えー、そうなんですか」
 これは玲奈だけが発した。
「そうよ。エラいおじさんたちっていうのはね、おぼこい女が大好きなのよ。仕事が出来ておぼこかったら、もうたまらないわよ。ほら、なんとか細胞がインチキかどうかって騒がれていた、あの若い女の医者さん、あのおぼこさがたまらないって、私の周りの男たちはみんな言っているわよ。でもねこれは難しいわよ。私の歳でやったらね、カマトトのおばさんになってしまう。演技のおぼこさっていうのはね、見抜かれちゃうから」

「そんなものなんですかね―」
 これはいづみがつぶやいた。いつもハルコには驚かされる。
「そんなはずはないでしょ」
 とツッコミを入れたくなのであるが、あまりにもきっぱり言い切るので、それが正しいことのように思えてしまうのである。

「そりゃそうよ。お酒の席でね、私がちょっと『ウソー、そんなことするのオ』とか『そんなわけないでしょ』とか言った時の、おじさんの張り切り方、一度見せてあげたいわよねえ。六十、七十のオヤジたちが、いっせいに指南役にかわって。もう嬉しそうなこと、嬉しそうなこと。

「ハルコさんは、男と女のこと、少しもわかっていないな。イッたことあるのか」
 とか、
『もうちょっと修行しなきゃなあ』
 なんて言いながら、ウンチクを語り出すわけよ。そりゃあ、えげつない下ネタを言うオヤジもいるんだけど、そんなのに顔を赤らめたりするのはまだ若いわよね。そんな女はそこらにたくさんいるから、えらいおじさんたちはちっとも楽しくないのよ。そうかといって、ホステスさんや芸者さんみたいに軽くいなす、というのも新鮮味がないわよねえ。私みたいに、地位も名前のある女が‥‥」

 ここで玲奈は驚いていづみの顔を見る。まだ中島ハルコに慣れていないのだ。
「びっくりしたり、『そんなこと出来るわけないでしょ』とか憮然とするから、おじさんたちはそりゃあ喜ぶわけよ。まあ、それより何より、私があっちを好きだったら、今の私の立場はなかったわね。こんな上にいくこともなかったし、尊敬される女経営者にもなれなかったんじゃないの」
 玲奈はもう表情を変えなかった。
「あのね、私たちの世界ってとても狭いのよ。私がもしおじさんの誰かとナンカとなったらたちまち噂になったわよね。ほら、自分がよくCMに出てくる、安売りチェーン店社長のおばさんいるでしょ」
「ああ、あの人ですね」
 でっぷりと太った体躯とは別に、やたら小顔なのは、整形手術で顎を削っているからだとももっぱらの噂だ。
「どこよりも安い。本当に安い。私が保証します」
 とにっこり笑って軽く頭を下げるCMが、深夜の番組によく流れているが、
「あの九州訛りがたまらない」
 ともちろん冗談でネットでとりあげられることもある。

「あの女社長でも誘惑する男はいっぱいいて、あっち好きだって有名なのよ。いつだったかしら。私が会員制のジムから帰る時、途中でエレベーターが開いたのよ。この階も会員制のホテルになっていて、財界の人たちがお忍びで使うんで有名なところよ。私、目を凝っちゃった。髪が乱れて、目がトロンとなって、いかにもたった今してきました、って感じのあの女社長が乗り込んでくるじゃないの。私を見て困っちゃってさ、
「あーら、中島社長、お久しぶり」
 って声をかけて、よせばいいのに、
『今、ここでちょっととマッサージ受けてきました』
 なんて言い訳するわけ。笑っちゃうわよね。いったい何のマッサージだって、私は言いたくなっちゃったわね。そこへいくと私は、おかしな噂ひとつたてられたことないわよ。
私はまあ若い時からそりゃモテたけど、本当にきちんとしてたもの。よくおじさんたちにハイヤーで送ってもらうでしょう。そうすると九十%の割合いで手を握ってくるわけ。そういうとき私は、
『何ですか』って必ず聞くわけ。こういうとき、五十パーセントのおじさんが、
『いや、手相を見てあげようと思って』
 としどろもどろ。すると私は両手を差し出して、
『じゃー見てくださいよ。お願いします』
 と言うの。ここでおじさんは引くわね。
 そうこうしているうちに、うちのマンションの前に着く。するとおじさんは七十パーセントの確率でこう言うわね。
『ちょっとトイレ貸してくれないかな』
 私は冷たく言ってやる。
『そこらへんでしてくださいよ』
 もう運転手さんなんかたまりかねてくつくつと笑ってるわ。だけどね、こういうのって必ずいい評判をつくるのよ。
『ハルコさんにはまいっちゃうよ』
『僕もだよ』
 ってことで、私の人気はますます高まってきたわけよ。ただでさえ私みたいな目立つ女は、やれ誰それの愛人だとか、つき合ってるって必ずわかるもの。そして私はね、ああいうことがそんなに好きじゃなくて本当に良かったと思うの。こういうことってお芝居で出来ることでもない。私があっちが好きで、お酒飲んだらつい‥‥って女だったら、こんな風に仕事はできなかったと思うのよ。いい、玲奈さん。仕事が出来て美人で、だけど夜は淫乱、なんていうのは男たちの幻想なのよ。その幻想にあなたまでがふりまわされることはないのよ」

「そうでしょう」
「当り前よ。仕事をしている女は、夜はぐっすり眠りたいものよ。まあ、たまには恋人としてもいいか、って思う程度であっち方面は充分じゃないの。あれが好きじゃなければ、男に縛られることもない。そして罠に落ちることもない。サラ金地獄に落ちたり、愛人に自分の子どもを虐待されて死なせちゃう女っていうのは、たいていセックス好きで好きでたまらないのよ。まるで麻薬のようにしがみついていくからよ。玲奈さんはこういうバカな女の一人になりたいわけ?」

「いや、そういう極端な例を出されても困るんですけど…‥」
 玲奈は口ごもる。
「あの、私はふつうにセックスの楽しさをもっと知りたいんですよ。私ってもしかすると、ものすごくその才能があるかもしれない。そういう男の人と巡り会って、自分の新しい面を見てみたいっていう気持ちをどうしても捨てきれないんです」

「はい、はい…‥。いつもの自分探しってやつですね」
 ハルコはめんどうくさそうに脚を組んだ。
「まあ、まだ若い人だからとことんやってみるのもいいかもね。でも最近の若い男は、あっち方面の能力が劣ってるから、プロに頼まなきゃダメよ」
「えー、プロですか」
「そりゃ、そうでしょう。あなたの性感帯やら性的能力っていうのを開発してもらいにいくでしょ。だたらプロがいちばん。男だって必要な時はプロに頼むんだから、女だって同じことをしなさいよ」

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「そうですかね‥‥」
「”弾丸ヨシキ”って知ってる?」
「誰ですか」
「AVの帝王って言われた人よ。前に有名な企業の社長が、『ハルコさんはきっと一度もイッたことがないに違いない。だったらこの男を紹介してやる』とか言って会わせてくれたの。面白半分でご飯を食べたら、かなり本気で口説いてきたわ。彼にかかると貞淑な人妻が、気がおかしくなったみたいになったんですって。夢中になられると困るから、セックスは三回までって決めてるけど、あなただったら十回までいいよって言われたけど、もちろんお断りしたわ。でもケイタイは知っているから、いつでも連絡してあげる」

「ハルコさん、この人ですか」
 いづみがスマホを差し出した。そこには黒光りする筋肉を見せる、上半身裸の画像があった。

「この人が、弾丸ヨシキっていうんですか」
「そうよ、すごくわよ。そうそう、前に下半身を写した画像送ってきてくれたけど見る?」
「私、やっぱりいいです」
「そうでしょ。女は男の下半身とセックスするわけじゃないの。男の全体とセックスするのよ。頭も心も込みでね。頭も心もよくてセックスが上手い。なんて男はめったにいるものじゃない。だったらどこかでこっちも我慢して、イッたふりしたりして楽しませてやればいいの。そしてこっちも楽しむの。

あら、もう夜が明けてきたわ。あなたたちのおかげで、今日のショックを少し忘れることが出来たかもしれない‥‥。だけど今日から宝石のない生活が始まると思うと‥‥。別のものを狙ってもらった方がよかったかもしれないって思うわねえ‥‥」

つづく ハルコ、主婦を𠮟る