昔の親は六十代で死んだけど、今の親は八十代、ヘタをすれば九十代まで生きる。だからややこしいことになっているの。いい、人っていうのは、親の面倒を見るために生まれてきたんじゃないのよ。自分の人生を生きるために生まれてきたのよ

 本表紙 林真理子著

ハルコ、夢について語る

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「いづみさーん、こっちよ、こっちよ、こっち」
 そんなに大きな声を出さなくてもわかる。帝国ホテル一階のランデブーラウンジは、その古風な名前どおり待ち合わせ場所として使われているが、立ち上がって手を振る者など見たことない。

 今日の中島ハルコは、茶色のツイードのスーツを着て、パールのネックレスをしている。真ん中にはダイヤが入っていていかにも高そうだ。言動に注意すれば、どう見ても上品で金持ちの奥さんに見えるのにと菊池いづみは思った。
「紹介するわ。こちらがお話しした紫風堂の三島さんよ」
「はじめまして。私、菊池いづみと申します‥‥」
 名刺交換する。三島の名刺には写真が入っていて、それは皿に盛られた白いういろうである。
「創業大正元年。ういろうと共に百年。紫風堂」
 というキャッチフレーズと共に「代表取締役社長 三島明宏」とあった。四十半ばぐらいだろうか。いかにもお菓子屋の社長らしくよく太っていて、髪も短くしているので、ますます丸顔に見える。眼鏡の奥の目も丸く柔和で、いかにも人がよさそうだ。
「あっちゃんはね、紫風堂の四代目なのよ。私はあっちゃんのこと、大学生の頃から知ってだけどね」
「へえー、ご親戚か何かですか」
「やーねー、何言ってんのよ」
 ハルコはいかにも楽しそうに笑った。
「前に話したじゃないの。私の最初の結婚相手は印刷会社の社長だったって。紫風堂さんはその頃の大お得意さんだったわけよ。それであっちゃんの若い頃から知っているのよ。ねえ、そうでしょ」
 いささか押しつけがましく親しさを強調されたが、三島は嬉しそうにええと答える。
「よく憶えていますよ。うちの年に一度の運動会、ハルコさんは必ず来てくれましたよね。紫風堂運動会名物、パン食い競争じゃなくてういろう食い競争に、ハルコさん張り切っていつも一番でしたねえ。白いスラックスで走る姿がカッコよくて、私ら若い男の社員は全員、大声援を送ったもんですよねぇ」
 懐かしそう語り出す。
「だからハルコさんが離婚した時は、びっくりでしたよ。あんなに綺麗で素敵なおくさんと、どうして別れるのかって」
「でしょう。まあ、私もあの時はちょっと悩んでたのよ。このまま社長夫人で生きるか、ちゃんと仕事をするかでね」
「でも太田社長ときに、今でも会ってるってさっき聞いて、私はちょっとびっくりしましたよ」
 太田社長というのは、どうやらハルコの最初の結婚相手で、名古屋の社長らしいといづみは見当をつける。
「会うっていたって、年に一度ぐらいよ、そりゃあ、いくら年月たったって、あっちは私の事忘れられないでしょうけれどね。そもそもあのちっぽけな印刷会社をあれだけの会社にしてやったのは私なんだし」
「本当に太田社長のとこ、大変な発展ですね。このあいだも岡崎に新しい工場建てられて」
「まあ、それもあって太田は、私にアドバイスして欲しい、とか言っていろいろ相談してくるんだけど、そんなことより、私にまだ未練たっぷりなのよ」
 こういうことをハルコは平然と言ってのけるのだ。

「このあいだも、しつこく私のことを忘れられない、なんて言うんだからね、あんたにはあの女房がお似合いよ、って突っぱねてやったのよ」
「おお、こわ」
「そりゃ、そうでしょ。あの女房って本当に嫉妬深くていやになっちゃうのよ。私がね、電話すると、そりゃあ不機嫌になるのよね。私が元気でやっているの? って聞いても、ええ、まあ…‥ときちゃうのよ。あの愛想も礼儀もない態度は、まったく呆れちゃうわよね」

 いづみはその太田という男の妻に心から同情した。夫の前の妻、しかもとびっきり図々しくて無神経な女が電話をかけてきたら、たまったものではないだろう。
「それでも太田は、まだおたくの仕事をさせてもらってるんでしょう」
「ええ、ICチップで大成功しても、まだうちみたいな小さいところの包装紙やパッケージを、ちゃんと丁寧に作ってくれています」

「そうよ、私が言っちゃったのよ。いくら会社が大きくなっても、紫風堂さんのような昔のお得意を忘れてはならないって」
「本当にありがたいことです」
 二人の会話を聞くうちに、いづみはいらいらしてきた。あたかも前夫の会社を操っているように話すハルコの言葉を、三島が少しも疑うことなく、しかも下手に出ているからである。ハルコから最初に電話をもらってから、紫風堂について調べたところ、ういろうの老舗として名古屋でもベスト3に入る。そこの社長が、どうしてここまで卑屈になるのだろうか。

「だけどね、あっちゃん。私がいつも言ってるでしょ。ういろ売っても明日はないって」
「それはよくわかっています」
「おたくが四年前に売り出したチューインガムういろ。アイデアはよかったけど売り上げはイマイチじゃない。だいたいういろう食べる人はね。贈答用に使う爺さん、婆さんなのよね。だからチューインガムの形にしたって、そう喜びやしないわよ」
「そうは言っても‥‥」
「他のお菓子もね、バッとない。いづみさん、名古屋はお茶が盛んだから、お菓子のレベルがもの凄く高いのよ。名古屋の生菓子なんて京都にも負けないくらいすよ」
「はい、そのくらいは知っています」
 フードライターとして、名古屋のスィーツ特集をしたことがある。
「だからね、私は、あっちゃんに言ってやったのよ。東京支店でういろう売るのを止めて、ひつ鰻(まぶし)の専門店にしなさいって」
「ひつ鰻ですか‥‥」
 名古屋名物のひつ鰻は、ご飯の間にもう一枚鰻が入っている。そのままでも美味しいが、二杯目はお茶漬けにして、ワサビやネギや海苔をたっぷり入れて食べると二度楽しむことが出来る。

「そうよ、先代からね、銀座の六丁目の小さいういろうの店出してきたのよ。そうたいして売れていないんだから、思い切ってひつ鰻の店に変えなさいって私はいって、それでいづみさんにいろいろ手伝ってもらおうと思っているのよ」
「はい…‥」
「ちょっとあっちゃん」
 社長の方に向き直った。
「この菊池いづみさんはね、有名な雑誌の記事や評論を書いている一流のジャーナリストなのよ。このあいだは『この店に行かなきゃ損をする』っていう本を書いたけど、これがベストセラーになって、東京のグルメたちのバイブルになっているのよ、あなたさ、名古屋の田舎者だから知らないだろうけど、どこのレストランに行っても、菊池いづみって言ったら大変なのよ。ちょっと取材に寄るとね、先生が来たって、シェフが緊張でまっ青になるぐらいなの。こういう人におたくの仕事をしてもらえるなんてすごいことなのよ、わかる?」

 いづみは啞然とする。ハルコのはったりと高圧的な態度に声も出ない。
「いいえ、私は、それほどの者では‥…」
 と、いつものいづみなら言っただろうが、ハルコの迫力に押されて、いつのまにか静かに頷いているのがやっとなのだ。
「ええ、私も菊池先生のご本は、ハルコさんから送ってもらって読ませてもらいました」
 いつのまにか、いづみは”先生”になっていた。
「すっごいでしょ。東京の名店がずらりと出ているでしょ。あなたの店も、いづみさんにプロデュースしてもらって、いつかこういう本に書いてもらえるように頑張りなさいよ」
「ええ、そうですね」
 三島はかしこまって答える。
「社長って、こんなにちょろいもんなの‥‥」
 いづみはほとほと呆れてしまった。そういえば誰かが言っていたっけ。
「社長と名がつく男たちはたいていMである」
 と。ふだん社員たちに威張っている男たちは、ごくまれに強気に出てくる女性が現れるとたいてい言いなりになってしまう。他人に服従することの快感を知ってしまうのだ。しかしこんなことが出来る女はめったにいない。テクニックなどではなく、生まれつきの大胆不敵さと厚かましさなのだ。どうやら中島ハルコはこうした女の一人らしいのだが、この才能は男たちに目つぶしもくらわせるようだ。

いづみから見て、ハルコはどう見ても中レベルである。綺麗とか可愛い、と言っても、おばさんとしては、とか、五十過ぎにしては、という”ただし”がつく。色気というものを多少放出さているかもしれないが、図々しさで全く相殺されている。それなのに、この三島という社長は、なぜかハルコの言いなりなのである。ハルコに憧れていたようなことさえ口にするではないか。

「もしかしたら、過去に何かがあったのだろうか。大学生の彼が、人妻だったハルコと‥‥」
 つい勘ぐってしまうほどだ。
 しかし突然、三島がこう発言する。
「ハルコさん、ひつ鰻の店なんですが、ちょっと考えさせてもらえませんか」
「えっ、何ですって」
「女房に相談したんですよね。そうしたらちょっと待った方がいいんじゃないですかっていうことになって」
「ちょっとオ、女房のキヨウコさんのことでしょう」
「そうですよ。他に誰かいるんですか」
「あの人に相談したって仕方ないじゃないの。言っちゃナンだけど、あの人、ふつうの奥さんよねぇ。おたくの会社で受付をしていたあの人と結婚する時、私はおたくのお父さんに相談されて反対したわよ。あっちゃんは、もっとしっかりした人がいいんじゃないかって。それでさ、顔だけで選んだのよね。まあ、あの人も可愛いだけの普通の人よね」

 驚いた。人の妻のことをこれほどまでにずけずけと言ってのけるとき。こんなことが許されるんだろうか。しかし三島は腹を立てた様子もない。きついなアと言いながら、顔は穏やかなままだ。
「キョウコのやつ、ハルコさんのこと好きで尊敬しているみたいですよ」
「そりゃそうでしょうよ。私みたいな女は滅多にいるわけないもの。その私がここまで親身になってあげているのに、あのキヨウコさんが何で反対するのよ」
「その、ういろう以外のことをやるのが不安なんです」
「だからね、あんたら夫婦はダメなのよ」
 ハルコは大きなため息をついた。
「先代の時はバブルもあって、ういろうも売れたかもしれない。だけどこんなご時勢で、ういろう食べる年寄りなんてどんどん減ってんのよ。新しいことにうって出なきゃダメなのよ。それがどうしてわかんないのかしらね。おたく百年前に出来たって威張ってるけど、百年前と同じもんを今の人が有難がって食べるわけがないでしょ。ういろう捨てろなんて言うつもりはないけれど、店の看板として残すものは残して、新しいことしなきゃおたくは生き残れないわよ。私ね、本当はたっぷりコンサルタント料貰いたいところだけど、昔、おたくの運動会で走ったよしみで、タダでこんだけ相談に乗ってあげているんじゃないの」
「そんなに怒らないでくださいよ」
「怒ってやしないわよ。あなたの臆病さが情けないだけ」
「まあ、ハルコさん、僕の話を聞いてくださいよ。臆病にもなりますよ」

――三島明宏の悩み。

 ハルコさん、会うたびにうちのキヨウコの悪口を言うけれども、優しくていい女房なんですよ。ご存知のとおり、親父は癌で長患いの末に亡くなりましたが、病院に通ってよく親父の看病をしてれました。お袋も僕も、キヨウコには本当に感謝してるんですよ。

 結婚したのは僕が二十四歳の時です。大学を出てすぐ、会社の受付をしていたキヨウコに一目惚れしたんですよ。キヨウコは二十歳でした。そして結婚した次の年には息子が生まれるんですが、あの頃は父親も元気で、そりゃあ孫に甘いジジイになりました。お袋と競争で可愛がるんです。そのせいだっていうわけじゃありませんが、隆行はまあ、少々気が弱くて甘ったれの子どもになりました。子どもの頃はよく泣かされて帰ってきましたし、中学校の時はちょっと登校拒否になりかけたこともありました。

 しかし高校へ行ってからはよく勉強もしましたし友だちも増えて、こちらとしてはほっとしていました。まあ、言ってみれば紫風堂の五代目ですから、こちらも期待をしていますし、そういう風にも育ててきました。ところが今年になってから、僕は絶対菓子屋なんかにはならない。他にやりたいことがあるんだ。こんなういろう屋なんか、絵里にやらせればいい、って言い出したんですよ。絵里というのは、息子の年子の妹です。ハルコさんは、隆行の時はお祝いをくれたけど、娘が生まれた時は知らん顔だったので、記憶にもないと思いますがね。

 もちろん私たち夫婦は息子を説得し、叱りました。やりたいことは何だと聞いたら、ハルコさん、びっくりするじゃありませんか。ギタリストになりたいって言うんです。そうなんですよ。死んだ父親が、ねだられるままに十五だか十六の誕生日に高いギターを買ってやったのがすべての始まりなんですよね。

 しかしお墓の中にいる人を、怨んだって仕方ありません。私は言ってやりましたよ。お前、ギターなんてやって食べられるはずないだろう。お前はいざとなったら、家に帰ってくるつもりなんだろうが、商売はそんなに甘いものじゃない。お前が五代目を継がなければ、絵里にやらせるつもりだ。そうすればお前の帰ってくる場所なんかないんだ。

東京で野垂れ死にしたって、お父さんは絶対に知らんと、きついことをさんざん言ったんですが、全く聞く耳を持たないんですよ。そしてもっと驚くことには、自分の覚悟をみせてやるって、大学もさっさと辞めたんですよ。もうこれには女房も寝込んじゃいまったよ。そうして私に言うんですよ。パパ、肝心の息子がこんな風で、どうして新分野の仕事なんか出来る? 

東京に打って出るなんてこと出来る? 私たちがこんなに頑張ってきたのも、隆行が立派な五代目になってくれるっていう思いがあったからでしょう。それがなくなった今は、もう東京進出なんて夢はやめましょう‥‥。って、まあ、こういう次第なんですよ。

「ふんーん」
 ハルコはいかにもつまらなそうに唇を尖らせた。三島夫妻への同情など微塵もない。ただ自分の思いが台無しになったことへの不満なのだ。
「私が最後に会った時は、幼稚園くらいだったけど、もうそんな生意気なことを言う年になったのね」
「そうなんですよ」
「まあ、あんたち、子どもの育て方間違えたわねえ」
「そうなんですよ」
「それで大学辞めたって、いったいどこの大学なのよ」
「名古屋大学です」
「メイダイ!」
 ハルコは大きな声をあげた。
「せっかく入ったメイダイを辞めたって言うのっ?」
「そうなんです。経済学部です」
「あのね、いづみさん」
 ハルコは鼻の穴をふくらませながら解説する。
「名古屋の人間にとって、メイダイに入るっていうことは大変なことなのよ。男の子がいるうちは、とにかくメイダイに入れることを目標にするのよ。東京の早稲田や慶応に受かったってね、名古屋の人間は『メイダイにすりゃあ、いいのに』としか思わない。東大へ行って初めて、あれ、頭がいいんだねえーってもんよ。ちょっとあっちゃん、これは大変なことじゃないの。名古屋産業大学や愛知学院大学やめるとはわけが違うんだから」

「そうなんですよ‥‥」
「私はね、この頃の親っていたいどうなってるんだろうっていういつも思っているのよ。子どもを思い切り甘やかして、お前にはお前の人生があるとか、好きな道を見つけろとか、安いドラマのセリフみたいなことばかり言い続けるから、子どもはつけあがるのよね。自分の可能性は果てしなくあるなんて、とんでもないことを考えちゃうのよ。

可能性なんてね、最初から広く用意されているわけじゃないのよ。努力してさ、少しずつ拡げていくものなのに、今どきのアホな子どもは、滑走路みたいなもんが自分の前にどーんと伸びてるって信じているんだから、全くどうしようもないわね」

「だけどハルコさん‥‥」
 思わずいづみは口を挟んだ。
「三島さんところの息子さん、自分の夢を貫こうとして立派じゃないですか。この頃、だらだらぼんやり生きている若者ばっかりですから、私はたいしたもんだと思いますよ」
「そりゃあ、夢を持つのは悪いことじゃないけど、ギタリストというのが気にくわないわね」
「えっ、どうしてですか」
「中途半端な芸能人っていう感じがするじゃないの。俳優やタレントと違って、自分はアーティストだぜ。だから志望動機がそこらの芸能人より高尚だぜーっていう感じが嫌よね」

「それって、なんかすごい偏見じゃないですかね」
「そんなことないわよ。そもそもね、こうして浮ついた夢にはね、他の堅実な夢よりも、ずっとおおきなリスクがつきまとうのよ、ねえ、あっちゃん、おたくの息子には、こういうリスクを背負うだけの根性や才能があるわけ」
「そこなんですよ、ハルコさん」
 三島は顔をしかめた。
「根性の方は、大学を辞めて心意気見せたくらいですからまあまああると思います。うちの財産‥‥って言ってもちっぽけなもんですが、いっさいあてにしないって言っていますから」
「まあ、そうは言っても、あっちゃんが亡くなればどうなるか分からないわよ。娘ともめないように、遺言状はちゃんと書いとくことね。はい、それで?」
「才能の方なんですけどね、本人は自分は凄い、人から誉められる、って自信を持ってるんですけど、僕にはギターのことなんかまるでわからないですよ」

「それりゃそうでしょ。カラオケ行っても尾崎豊あんだけ調子はずれに歌う人に、ロックがわかるわけないもんね」
「まあ、そうなんですよ。悲しいことにまわりを見渡しても、音楽に詳しい人なんか誰もいないんですよ。それでお願いなんですけど、ハルコさんは東京でとても顔が広いじゃないですか。

誰か専門家を紹介してくれませんかね。その人に一度、息子のギターを聞いて貰いたいんですよ。本当に才能があるかどうか知りたいんです。そうしたら息子も諦めるかも知れないし、もしかしたら、ことによったら、自分たちも応援しないでもないんですけど」

「まあ、図々しいわねッ」
 ハルコは今までの自分の言動をすべて忘れたかのように叫んだ。
「そういう親ってサイテーだと思っていたけど、あっちゃんもそういう一人だったのね。ちょっと、あんた間違っているわよ」
「すいません‥‥」

 可哀想に三島はすっかり怯えてしまい、頭を何度も下げる。どうやら完璧にMの境地に陥っているのだと、いづみはつくづく感じ入ってしまった。

「今私が、浮ついた夢にはリスクがともなうって言ったばかりじゃない。おたくの息子はそれを背負わなきゃいけないの、一生ね。ついでに才能って言うけど、そんなの誰にもわからないでしょ。才能があるかって成功するとは限らない、なんていうこと、真理中の真理じゃないの。

あんたも経営者のハシクレならわかるでしょう。才能なんてね、成功した人の”後付け”なんだから。それなのにさ、あっちゃんたら、才能があるかどうか、今のうちに見極めようなんて、なんてバカなのかしら。たとえ才能がない、って言われたって、頭に血が上がっているおたくのバカ息子が納得するわけないでしょうよ」

「ハルコさん、バカ息子って言うのはちょっと‥‥」
 思わずいづみは口を挟んでしまった。
「だってね、さっきから話を聞くとね、どうしたってバカ息子でしょ。メイダイ辞めてギタリストになりたいなんて、どう考えても無茶よね。だいたいね、あっちゃんとキヨウコさんの夫婦に天才が生まれるはずないでしょ。そう考えたら、メイダイ辞める時に親は体張って阻止しなきゃいけなかったのよ。まあ、仕方ないわ。乗り掛かった舟だわ。息子と一回会ってあげてもいいわよ」

「本当ですか。ありがとうございます。嬉しいです」
 いづみはほとほと感心してしまった。ハルコはいろいろ高飛車に出る。すると相手はますます低い場所に下がっていくのだから。

「それで息子はいつ東京に出て来るの」
「実はもう東京にいて、バイトしながら専門学校に通っています」
「ほらね、天才とか何とか言っても、最初は学校に入るんでしょ。いちから学ぶんでしょ。レベルがわかるわね」

 ハルコは勝ち誇ったように言ったが、三島は最後まで聞かず、失礼、と言ってラウンジを出てしまった。そしてケイタイを握りしめ、嬉しそうに帰ってきた。
「ハルコさん、今すぐ池袋のアパートを出て来るそうですから、ちょっと会ってやってくれませんか。今、僕にしてくれたみたいな𠮟咤激励を息子にもしてほしいんですけど‥‥あの菊池先生もぜひご一緒に。マスコミの世界のことを教えてほしいんです」

「忙しいけど仕方ないわねえ。まあ、少しだけなら時間を作ってあげるわ」
 よく言うよといづみは思った。仕事のことでういろう屋の社長と会わせるが、その後たぶん食事ということになるだろう。どこか美味しいところへ行き、社長に奢らせようと電話で言ったのはどこの誰だろうか。

「じゃ、あっちやん、いつまでもここにいるわけいかないから、次のお店考えて頂戴。私は地下の”吉兆”でいいわよ。おたくの息子には十年早い店だけどまあいいわ。仕方ないわね」
 まるで自分がご馳走するような口ぶりであった。

 なぜだかわからないが、ハルコは「お祝いだから」と、シャンパンを抜かせ、吉兆のいちばん高いコースを注文した。
「あなたもこういう時に、一流の味を食べなさいよ。今、取材費が出なくて大変なんでしょ」
 などと言うのでいづみははらはらしたが、幸いなことに三島はちょうどケイタイが鳴り、店の外に出て行った。
「今、隆行はホテルに着いたそうです。ここの店にすぐ来ます」
「あっ、そう。じゃあ、席をもう一つ作ってもらいましょうかね」
 ハルコは左耳の横でぱんぱんと手を打った。仲居を呼ぶためである。いづみはポカーンと見つめる。男性が料亭などで行う動作をする女に初めて出会った。ハルコは実に慣れた様子であった。

「ちょっとオ、もう一人増えるからここに席をつくって頂戴。えーと、隆行って、二十歳過ぎてたわね」
「今年成人式でした」
「じゃ、OKね。グラスをもう一つね」
「あっ、僕、お酒は飲みません」
 その声に、ハルコといづみは顔を上げた。仲居に案内されてそこに若い男の子が立っていた。脚の長さにいづみは目を奪われ、そして視線を上にやる。美形であった。今どきの男の子らしく実に小さい顔をしていて、その中に配置よく切れ長な綺麗な目と、きかん気の強そうな曲線のある唇があった。
「まあ、隆行ちゃん、久しぶりね」
 幼い頃会ったきりだというのに、ハルコは狎れ狎れしく話しかけるる
「私のこと、憶えているかしら」
「いやあ‥‥」
「お祖父ちゃんの代からお世話になっている女社長さんだ。それから料理評論家の菊池先生」
「まあ、まあ、そんなこと言うと、おじけづいちゃうわよね。隆行ちゃん、さあ、お座りなさいよ。お酒がダメだったら何にする?」
「ジンジャエールがいいっす」
「ダメよ」
 ところがハルコはきっぱりと言った。
「甘いものを呑んだら、料理がまずくなるわよ。食べ物屋の息子なら、そのくらいのこと知っておかなきゃ」
「あの、親父から聞いたと思うんですけど、僕、家を継ぐ気、まるっきりないんですよね」
「知っているわよ。ギタリストになるんですってね。えーと、じゃあ飲み物はふつうのお茶にしなさい」
「わかりました」
 その間、ハルコはにこにこと隆行を眺めている。お酒が廻ったのかと思ったがそうではない。何かをとても喜んでいる様子であった。
「隆行ちゃんって、本当にイケメンね。お母さまに似てよかったわねえ。キヨウコさんは若い時、かなりの美人だったから。それでね、おたくのお父さんが一目惚れして結婚したのよ。知っていた?」
「知らないっす」
 若い男は面白くなさそうに茶をすすった。
 若く美しい男の不機嫌な様子は、なんとさまになることであろうといづみは目が離せない。モデルになってもいいぐらい綺麗な男の子。このコの唇の形って、なんてセクシーなんだろう…‥。
「隆行ちゃん、ギタリストになるんでしょ。頑張りなさい」
 ハルコの言葉に、三島といづみは、えっと声をあげた。
「ハルコさん、さっきと話が違うんじゃないですか」
三島に向かって、ハルコはにっこりと微笑む。
「隆行ちゃんを見たら考えが変わったの。このコがあんたに似ていたら、ギタリストになる夢なんか捨てて、真面目にういろう屋を継げ、って言ったわよ。だけどこんなイケメンなら大丈夫」
「芸能人になれるってことですね」
「あっちゃん、違うわよ。この顔なら絶対に食いぱぐれることはないわ。きっと誰か女が隆行ちゃんを食べさせてくれる。絶対に路頭に迷うことはない。私は安心したわ。二十年後、隆行ちゃんは奥さんが経営するスナックで、ひき語りしているかもしれない。たぶんそうなるわ。

だけとそれも隆行ちゃんの選んだ人生よね。それでもいいじゃないの。その時はあっちゃん、店の資金をちょっとくらい出してあげなさいね。さあ、これなら大丈夫。明日から頑張ってギタリストをめざすのよ。私も応援してあげるわ」

はるこ、縁談を頼まれる

 新幹線で名古屋に着いたのは、五時半過ぎであった。そこからタクシーに乗る。
「車で十二分、三分」
 と言われていたとおりだった。六時十分前に、車はその店の前で止まった。「桂」という小さな表札がなかったら気がつかなかったかもしれない。やや金のかかった二階家という風情がある。
「ここが伝説のあの店ね‥‥」
 女はスマホを取り出し、まず表札、そして格子戸をパシャパシャ撮り出す。
「真央さん、早くしてよ」
 菊池いづみは思わず声を荒げた。
「私たち、ぎりぎりよ。六時を一分でも過ぎたら、どんな目に遭わされるか‥‥」
「あの、ハルコっておばさんによね‥‥」
「そうなの。この店で食べるために、どんだけ恩を着せられたか。さあ、行きましょう。
 格子戸を開けると、食べ物屋独得の喧騒と温かい空気がむっときた。見た目は仕舞屋(しもたや)であったが、一歩中にいるとそこは名古屋でいちばん流行りの店であった。

「皆さん、もうお待ちですよ」
 着物姿の仲居が、靴を脱いだ二人を先導してくれる。といっても、二人が歩いたのはわずか三メートルほど、玄関のすぐ隣りが座敷であった。十二畳ほどの座敷にはテーブルが四つ置かれ、そこにぎっしりと人が座っていた。

「いづみさん、遅いじゃないの」
 床の間を背負ったハルコが大きな声をあげた。
「私、何度も言ったでしょ。ここ、一人でも遅れたら何も始まらないのよ」
「まあ、まあ、五分前。滑り込みラーフですよ」
 ハルコの隣にいるのは、このあいだ紹介してもらったばかりの、ういろう屋の社長三島である。
「ごめんなさい。もっと早い新幹線の乗れると思っていたんですけど」
「ああ、いいから、座って、座って」

 ハルコは自分のテーブルの前を指さした。二人分の箸やコップが用意されている。
 いづみは連れの女を、自分の隣りに座らせた。
「あの、ハルコさん、三島さん、紹介させてください。佐伯出版の高田真央さんです」
「えー、佐伯出版なんて聞いたことないわね」
 名刺を値踏みしてハルコは言った。
「料理業界の本を出している老舗ですよ。『板前ライフ』とか『厨房展望』とか。真央さんはそこの編集者で、私もよくお仕事させてもらってるんですよ」
「おたくの『甘味新報』、うちも愛読させていただいています」

 三島が愛想よく合の手を入れたが、ハルコにはあまり効き目がなかった。
「それじゃ、あなたさ、今日は本当によかったわね。この『桂』には滅多な事じゃ来れないものね。取材なんかいっさいさせない店だし、まず予約が取れないものね」
 いづみには最近わかったことがある。初対面の相手に、ハルコはまず恩着せがましく高飛車に出るのである。それからもうひとつ‥‥いづみはテーブルの下で真央の膝をつついた。教えた通りにやれと合図したのだ。

 相手の言動に驚いたり、むっとしないこと、ひたすら持ち上げること。そうすれば人のいい一面がぽっと出て来る時もある。あくまでもかすかに”ぽっ”とであるが。
「そうですよね。本当に今日はありがとうございます。名古屋財界にも顔が広い中島さんだからこそ、この席を取って下さったんですよね。編集部の皆からも驚かれたり、羨ましがられたりして大変でした。あの『桂』の席をどうやって取ったんだ。よっぽどすごいツテがあったんだろうって」

「でしょう。冬にこの『桂』であんこう鍋を食べるのはふつうの人はちょっと出来ないわよね。なにしろ、常連が来年の席を予約して帰るから、入り込む隙がないのよ。でもね、ここにいる三島さんが、今日の座席をおさえているっていうから、私は無理に入れてもらったのよ。いづみさんは食べ物関係の仕事をしているんだから絶対一度は食べてなきゃね。そしてついでだから、一人誰か誘いなさい、って私が、言ったの」

「それが私なんです。本当にありがとうございます」
 そう言っている間に襖が開き、女将とぼしき中年の女性が顔を出した。ショートカットに黒無地の結城がよく似合っている。
「皆さんお揃いですから、そろそろ始めさせていただきます」
 後ろに、炭火を持った二人の仲居が立っている。それぞれのテーブルに置かれた七輪に火を入れていく。やがてあんこうの身と野菜が運ばれてきた。女将と仲居がそれぞれの席に着いて、鍋の段取りをしてくれる仕組みだ。最初見事な伊勢海老が鍋に投入されたが、これはあくまでも出し汁をとるためのものらしい。関東ではたいてい味噌味であるが、ここの鍋は醬油味で、アン肝をレンゲで溶きながら口に入れていく。今摘んできたばかりのようなセリもみずみずしく、

「あんこう鍋がこんなに美味しいものだなんて、初めて知りましたよ」
 いづみは大きなため息をついた。
「噂以上ね。このあんこう、いまさばいたばっかりの色をしている。この身のぷりぷりしていることといったらすごいわ。出し汁が素晴らしい!」

 真央はプロらしく、スマホで何枚も撮影している。が、目の前にいるハルコは口角を下げて不満顔である。スマホが嫌いなのかと思ったらそうではない。
「ちょっとオ、隣りのテーブルの若いの、また日本酒頼んでいるわよツ。あんこうは精がつきすぎるから、お酒は控えめにって、さっき女将さんが言ったばかりじゃないの。それにあんなにお酒飲んで‥‥。これじゃ、あんまり飲まない人たちがワリ合わないじゃないの」

 どうやら割り勘なのが不満らしい。今日の宴について、いづみは予めこう聞かされていた。
「ほら、このあいだ会った三島のあっちゃんが、『桂』を予約しといてくれたのよ。あそこで食べるって大変なことなのよ。だけど、あそこはいい商売してるわよね。だってね、座敷は二つしかなくて貸し切りなのよ。十五人いる所と、七人いる所と二つ。誰かが幹事になって、それだけの人数を集めて、いっせいにスタートさせるわけよ。

遅刻やドタキャンなんて絶対に許されない。幹事は責任を持って人を集めて、それからお金を集めて支払いをするってわけなの。あっちゃんは毎年、二月の十四日、バレンタインの日に予約してるんですって。私が頼んで、なんとか三人分の席を作ってくれたわ。だから現金をちゃんと持ってきて頂戴。カードはきかないわよ」

 というわけで、この日集まったのは、三島の友人、知人たちなのだが、若い人たちが多いテーブルは酒がどんどん進んでいく。ハルコはそれが忌々しくてたまらないらしい。

「あら、今度はビールを頼んだわ。今度はプレミアムよ」
 たまりかねた三島が言った。
「三人はせっかく東京から来てくれたんだから、このテーブルの分は僕が持ちますよ」
「それを早く言ってくれればいいのに」
 ハルコはたちまち機嫌がよくなり、
「ちょっと、こっちにも熱燗一本ね」
 と仲居に命じた。
 鍋のものをひととおり食べ終わった頃、三島がもう一度乾杯を、と促した。
「今日のバレンタインにあぶれた皆に!」
 皆は大きな声で笑ったが、
「本当ね。モテない連中ばっかりなのね」
 というハルコの声は座敷に響いた。誰かのフォローがないと、おばさんの毒舌となってしまうところがハルコの危ういところだ。
「そうなんです。モテない女が二人東京からやってきました」
 わずかの間の付き合いであるが、こういう反射神経をいつの間にかいづみは身につけていた。
「三島さん、私も真央さんも独身なんです。どなたかいい方いらっしゃいませんかね」
「おい、おい、こっち向いて」
 三島は隣りのテーブルの男たちに声を掛けた。二十代のしゃれた格好した男たちだ。
「これ、名古屋のJC(青年会議所)の有力メンバー。好きなの持っていっていいよ」
 男たちは一応「よろしく」と頭を下げたが、
「三島さん、残念なことに、僕たちはみんな既婚者なんですよ」
「そろそろ別れそうなのいないの。あなたなんか、奥さんとかいかにもうまくいっていなさそうだけど」
 ハルコがまたつまらぬことを口にする。彼女のこういうずけずけしたもの言いは、年寄りには面白がられるそうであるが、三十代の男たちは、曖昧な笑いを浮かべながら静かに引いて行くだけであった。三島が立ち上がりかけた。

「えーと、いづみさんと真央さん、あっちのテーブルは、お医者さんのグループだよ‥‥。まずいな‥‥、みんな奥さん連れてきてるな」
「そんなに気を遣わなくても結構ですよ」
 真央が穏やかに制した。
「もう少し自力で頑張ってみますから」
「自力で頑張るって‥‥、あなた幾つかなの」
 とハルコが問う。
「三十七になりました」
「まあ、結構いっているわね」
「そうなんです」
「そんなブスってわけでもないのに、どうして四十近くまで独り身なの。あなたもやっぱり不倫が長引いていたクチなのかしら」
 ハルコのキャラクターのあらましは伝えているというものの、真央はまだ彼女に慣れていない。いづみは友人のために再び防御にまわる。
「いえ、真央さんって東大出ているんです。ですから男の人に敬遠されちゃって」
「へえー、東大ねえ!」
 ハルコは東大ぐらいで驚かないぞ、という表情をつくったがそれはあまりうまくいかなかった。
「こんなふつうのヒトが、何気に東大出てるのねえ」
 本音を漏らした、しかしすぐに態勢を立て直し。
「だけど今どき、東大出てなんてそんなに珍しくないでしょ。私の知り合いのお嬢さんたちも何人も東大出てるけど、みんなちゃんと結婚しているわよ」
「まあ、そういう人もいっぱいいます。私も結婚できない理由を別に東大のせいにするつもりはないんですが‥‥」

――高田真央の身の上相談

 東大行く女って、お父さんもお兄ちゃんも東大出ていて、あそこに進むの当然っていうタイプが多いんですよ。いいとこのお嬢さんです。私はそういうんじゃなくて、地方から頑張って上京したきたんです。佐賀の中学で、高校じゃずっとトップで、そりゃあ親は自慢です。うちの父親は商業高校出て、地元のスーパーに勤めていたんですけど、
「うちの娘は東大をめざします」
 ってあちこちで言いふらすもんで、もう後に引けなくなった。っていう感じですからね。うちの兄もわりと勉強出来て、こっちは、
「九大めざしてます」
 って言いふらしていたんですけど、うまくいかなくて佐賀大に行きました。そんなわけで私にものすごい期待がかかったんです。そりゃあ勉強しましたよ。平均四時間の睡眠で頑張って、髪も抜けたくらいです。そして現役で東大の文Ⅲに入ったんですけどね、入学したらショックでしたよ。

 私が必死で勉強して入学してきた東大に、タレントみたいに可愛い女の子がいっぱいいるんじゃないですか。おしゃれしであたり前に英語が喋られて、海外なんかしょっちゅう行ってて、ピアノがうまくってスポーツ得意で‥‥っていう、なんていうかもう信じられないような人たちですよ。本当に私と同じように十八歳なの? どこかでダブルの人生やってんじゃないかと思うような人たちでした。地方から東大入ってくると、男でも女でもみんなこのコンプレックスに陥る人が多いみたいですね。

 まあ、それなりに恋愛もしましたけど、結婚の気配もなく卒業となりました。東大生の女は、学生の時にしっかり捕まえておかないとあとは本当につらくなりますよね。私、よくわかりました。

 就職にしても東大生っていうと、思いのまま、ってイメージあるらしいけどそんなことはありません。文系の東大生の女は、マスコミに進むことが多いんですけど、ここは競争率がいちばん高いところです。私は出版社志望でしたけど大手はどこも落ちました。文芸春秋は最終面接で落ち、講談社は二次にも引っ掛かりませんでしたよ。集英社は同級生が内定を取ったんで相当口惜しかったですよね。そしてなんとか就職出来たのが、料理専門の出版社っていうわけです。

はっきり言って料理なんかそんなに興味を持っていたわけでもないですが、仕事となれば一生懸命やります。産地に行って勉強したり、食材を研究したりするうち、まあ仕事も面白くなってきます。いづみさんにお仕事をお願いして、人気のレストランを訪ねる連載も二人でやってきました。

 ですけど、この頃よくわかったんですけど、私は決してバリキャリアじゃないんです。結婚しなくてもいいから、仕事一筋に頑張りたい、っていうタイプでもないんです。この頃無性に結婚したくてたまらないんですよ。ですけど、こういう仕事をしていると、結婚からは遠ざかっていきます。土日もありませんし、校了前は徹夜もしょっちゅうです。サラリーマンの人とは時間帯が合わないんです。

 それにこういうことを言うのはイヤらしいんですけど、合コンや飲み会に誘われてますよね、自分から言ったことはないですけど、誰かが必ず言うんです。
「この人、東大出てんだよ」
 って。そうすると、男の人がさっと引いていくのがわかるんです。みんな、へえーっ、とかすごいですね、とか言うんですけど、もうその時に口調が違うんですよ。早稲田とか慶応の人は素直に驚くんですけど、厄介なのが一橋とか東工大出てる人ですかね。微妙に冷ややかになっていくんですよ‥‥。もちろん私が結婚できないのが東大出てるからって言うつもりはないんです。ですけどしづらくなっているのは本当なんですよ‥‥。

「あなたの気持ち、わかるよ」
 なんていうことだろう。ハルコが極めて親身な様子で大きく頷いたのである。
「この国の男って、本当に器が小さいっていうか、何ていうかねえ。未だに自分より上の女は遠ざけちゃうのよ。私だってそうよ。最初はおっ、いい女がいるなアって近づいてくる男もね、私のバックグランドを知ると敬遠しちゃうのよね」
 よっぽどすごいバックグランドらしい。
 
「真央さんっていったわね。あなたに合う男はあなたより上の男じゃなきゃダメ。男はね、女にちょっとでもコンプレックス持つと、どんどんいじけちゃうのよ」
「そうかもしれませんね‥‥」
「そうよオ。男の劣等感っていうのはいじましいわよオ。私なんか何度もそれでやられたかわからないんだから。私はね、背の低い男と、学校出ていない男とは付き合わないことにしてるの、コンプレックスがいい方に回るといいんだけど、たいていはそうじゃないもの」
「凄いこと言いますね‥‥」

 真央はビールのコップを手に呆然としている。どうやらハルコに圧倒され、彼女のペースに引き込まれつつあるといづみは感じた。
「真央さん、ハルコさんに紹介してもらうといいよ」
 酔いがまわって、自分もあんこうのような顔になった三島がのんびりと言う。
「ハルコさんは、すごいエリートいっぱい知っているんだから」
「そうねえ‥‥」
 ハルコはもったいぶって視線を上に泳がす。そうしながらも、箸はあんこうの大きな切り身をしっかり捉えていた。

「そりゃ私は、経産省や財務省の若い人たちいっぱい知っているわよ。だけどね、あの人たちも三十後半になるとたいていは結婚してるしねえー」
「お願いしますよ、ハルコさん」
 いづみは頭を下げた。ハルコがどこまで調子に乗るのか、はたして本当に実力があるのか知ってみたい気がしたのだ。

 はたしてハルコの舌はどんどん滑らかになっていく。
「マスコミの方が話は合うっていうのなら、朝日しか日経はどう。NHKは給料安いけど、喰いっぱぐれはないわね。テレビ局も私は知り合い多いのよ。フジの専務もよく知っているし、TBSの常務とはゴルフ仲間なのよ」
「ハルコさんって、すごいですね‥‥」
 いづみがいつもする合の手を、今日は真央が発する。
「凄いことはないけど‥‥」
 照れるとおもいきや、
「まあ、どの業界も必ず私のファンがいるのよね」
 ハルコはおごそかに言い放った。
「それじゃあ、なおのことお願いしますよ」
 いづみは何やら楽しくなってくる。世の中にこれほど自分を肯定する人間がいることの驚き。ここまできたらもはや勘違いとは言えないのではないだろうか。そして自分たちふつうの人間は、こういう非凡な人にせいぜい便乗させてもらえばいいのだ。

「ハルコさんの凄い人脈で、なんとか真央さんにいい人紹介してあげてくださいよ。私のまわりを見ても、優秀な頭脳を持っている女の子が、ちっとも子どもを産みません。まごまごしていると、この国、今にがんがん子どもを産むヤンキーに乗っ取られると思いますよ。ハルコさん、日本の未来のめによろしくお願いしますよ」

「そうねえ。それについちゃ私もいろいろ考えるのよ―。真央さん、あなたいったいどういうのが好みなの、背が高くなきゃダメとか、イケメンでなきゃダメとか、これは譲れない、っていうものを言いなさいよ」
「まあ‥‥、誠実でやさしい人なら‥‥」
「ダメダメ。そういう曖昧な一般論言っているうちは、あなた結婚できないわよ。もうその年になったからには、具体的な条件をはっきり言わなきゃ。先方にも伝えなきゃならないし」
「ひとつ言えば、専門の何かを持っている人だけど、傲慢じゃなくて、ごく当たり前の価値観を持っている人‥‥」
「こりゃ、難しいわ」
 ハルコは大げさにため息をついた。
「私のみたところ、東大卒業している男の八割は性格が悪いわね」
「本当なんですか」
 いづみはどうも信じられない。
「たいてい変わっているわよ。特に医学部を出てる東大出てふつうじゃない。官庁や大企業に勤めている東大出は、もうプライドのカタマリよね。それなのに自分は気さくで個性的で、東大らしくないと思い込んでいるから始末が悪いわねえ。後の二割くらいに性格がよくて見た目もなかなかっていうのがいるけど・・・・」

「じゃ、真央さんにそういうのを紹介してあげてくださいよ」
「何、言ってんだか」
 ハルコはレンゲをすする。それはさっき仲居に命じ、自分にだけたっぷりアン肝を入れたものであった。

「東大出で性格がいい。そんなもんはとっくに誰かのものになってるわよ。さっき真央さんも言ってたじゃない。そういう”出物”は、在学中に同級生か後輩の女にツバつけられてるんだって」
「そうです」
「真央さん、こうなったら私が相手を探してあげるけど、あなたはその八割の中からましなものを選びなさい。もしかすると『残りものに福』があるかもしれないわよ。多少難があっても大丈夫。あなたには仕事があるんだもの。うちで顔を合わす時間だって少ないんだし。それに別れたってどういうことないでしょ。子供が出来れば万々歳よね。子連れで出戻りっていうのが、今はいちばんの親孝行なんだから」

「そうでしょうか‥‥」
―そうよオ。私が言うんだから間違いないわよ。いい遺伝子もらって子どもを産めばそれでいいじゃないの。どうせあなた、一回結婚すりゃ気が済むんでしょ」
「いいえ、私は結婚したからには添い遂げたいと思っています」
「まあ、結婚前の女みんなそんなことを言うけどね、離婚したって、誰も何も言わない。私なんか二回したけれどまるっきり平気よ。今はやりの貧困シングルマザーになりそうな女だったら、私こんなことは言わないわよ。だけどあなたは東大出てるマスコミの女。

会社はちょっとしょぼそうだけで、給料はふつうの女よりずっといいはずよ。めったに合うことのできない私と会って、こうして一緒にご飯食べている。それだけであなたはすごい幸運とチャンスをつかんだのよ。いづみさんに感謝しなさいよ。わかった!?」

「はい、よろしくお願いいたします」
 ごく自然に真央は頭を垂れているのである。

「それでハルコさんのお見合い大作戦はどうなの」
 昼下がり、帝国ホテルのランデブーラウンジである。ハルコはここが好きでいつもここを指定してくる。コーヒーの値段は高いが、ゆったりとした雰囲気でいくらでも粘れるというのがその理由だ。真央はここで二回ほど見合いをしたと言う。

「一人はNHKのプロデューサーで、一人は三菱商事の社員だったわ」
「あら、いいじゃないの」
「それがね、どっちも困ってんのよ。どうして自分がここに来たのかわからないって…‥。とにかくハルコさんがしつこくてしつこくて、とりあえずここに来た、っていう感じなの」
「えー、ハルコさん、お見合いって話してないの」
「とにかく会わせたい人がいるから、何時にここに来いってハルコさんが言ったらしい。あの人はいつも自分勝手で強引だから二人とも最後には笑っていたけどね」

「ひどいわね。何がすごい人脈よ」
「だけどあのおばさん、三十代、四十代の男を子分にするってなかなかのもんよ。私は感心しちゃったわ。今まであの人の言いなりになるのは、半分呆けかかったおじいさんだけだと思っていたから」
「あっ、ハルコさんが来たわ」
 向こうからグレイのスーツを着たハルコがやって来た。ここで待ち合わせた後、三人で食事をしようということになっているのだ。よく使う場所だから、ここの従業員とも顔なじみらしい。黒服の男が、ハルコと何やら言葉を交わしているが、その様子が本当に楽しそうだ。あのおばさん、いったいどういう魅力があるのだろうかといづみは考える。
「あら、もう二人はいるのね。お待たせしたかしら」
「いいえ、久しぶりだったんで、私たちは早めに来て話してたんです」
「あ、そうなの」
「ハルコは優雅な仕草でソファに座った。お茶をやっているだけあって、こういう動作はなかなかのものだ。しかしメニュー見て、
「今日はコーヒーは飲みたくないし‥‥。だけど水だけっていうわけにはいかないわね」
 ひとり呟く。
「ハルコさん、それなら紅茶にすればいいじゃないんですか」
 いづみが言うと、
「ドトールコーヒーとかだったら、知らん顔も出来るんだけど、帝国ホテルだったらそうもいかないしね。仕方ないわ。紅茶にする」

 やがてロングスカートのウェイトレスが、うやうやしくポットと茶碗を運んでくると、蓋に手をやって、あちっと叫んだ。
「それでね、真央さんのお見合いだけど、なかなかうまくいかないのよ」
「今、聞いたんだけど、相手の男の人、無理やり連れてこられたみたいだって‥‥」
「そんなことはないわよ。照れ隠しにそう言っているのよ。そういうところが東大の限界よね」
 ハルコは全く意に介さない。
「私はこのテで、四回お見合いを成功させたわよ。人には一目惚れっていうのがあるんだから、それが出来なかったというのは、真央さんの責任ね」
「すいません」
「そして私はピンときたのよ。真央さん、好きな人がいるんじゃない」
「えつ」
 真央は息を呑み、そしてたちまち顔が真赤になった。
「図星でしょ」
「すいません‥‥」
「だけど相手は結婚できない男。やっぱりあなたも不倫してるの」
「いえ、相手は十年以上前に離婚しています」
「だったらいいじゃないの」
「でも、二人の子持ちだし‥‥。オーナーシェフだけど高校中退なんですよ」
「何ていう店なの?」
 フードライターという職業柄、いづみは聞かずにはいられない。
「フルール・ド・リス」
「もうじき星を取るっていう噂の店だわ」
「あら、いいじゃないの。いったい何がいけないの」
 ハルコの問いに、真央はそれが‥‥と言葉を濁した。
「子どもは高校生と大学生ですからもう手が離れるんですけど、彼が高校中退って言うのが‥‥」
「東大出てる自分とは釣り合わないというわけね」
「まあ、親がそう言って大反対なんです」
「商業高校出の親が何言ってんだか」
「ハルコさん、それって差別発言ですよ」
 思わずいづみはたしなめる。
「真央さんが速くそう言ってくれれば、私も無駄な時間は遣わなかったのに‥‥」
「すいません」
「あなた、こうなったらもうその男と結婚しなさい。子連れのバッイチ。どうせセックスがうまかったんでしょう。セックスが!」
「ハルコさん、こんなとこで声が大きいです」
 いづみはハラハラしてあたりを見渡す。幸いなことに隣りは白人のテーブルであった。
「真央さん、あなたもどうせ、都会出身の本物のエリート東大生になれるわけないのよ。庶民出のたまたま東大。そして二流のマスコミ‥‥」
「ハルコさんったら」
「だったらあなたのそのコンプレックス、うまく落とし込みなさいね。あなたの劣等感とプライドをコントロールしてくれるのは、東大出の男じゃない。腕一本でやってきた男だけよ。私が言うんだから間違いないわよ」
「そうかもしれません」
「そうかも知れません」
「そうかもしれません、じゃなくてそうなのよ」
「そうですね」
「じゃ、三人でこれからその店へ行きましょう。私がじっくり相手を見てあげるわ」
「ハルコさん、人気の店ですよ。無理ですよね、ねえ真央さん?」
「恋人の頼みなら何とか席をつくってくれるでしょ。今日は私、ご馳走になってもいいわよね。お見合いの時のお茶代やもろもろ、ぜーぶ私が払ったんだから」
 ハルコはそれが当然と言わんばかりに、伝票を全く無視して立ち上がった。

つづく はるこ、愛人を𠮟る