冬だというのに、薄い襦袢(じゅばん)だけ着た女が庭の松にくくりつけられている。手ぬぐいで猿轡(さるぐつわ)をされた女は、両手両足を麻縄で木に縛りつけられ、ぐったりと動かない。振り乱した髪から、襦袢から、水が滴っている。男たちがぶっかけた水だ。襦袢はところどころ破れ片乳があらわになっている。もう死んでいるかもしれない

曾根崎心中

本表紙曾根崎心中  角田光代

 鳥の声がする。やがてしなくなる。入れかわるように、あたりの茶屋戸を開け放つのが聞こえてくる。開け放された戸の奥からは、女たちが階段を上がり下りする音が聞こえてくる。泊まりの客に干物か何か用意しているのだろう。やがて障子の向こうの、濃紺だった空が白みはじめ、天井の木目が浮かび上がるように見えてくる。今日はくるだろうかと、布団に横たわった初は木目を目でなぞって考える。今日はあの人、くるだろうか。考えているうち、ようやく眠くなってくる。ひと晩じゅう、うつらうつらしながらも天井を眺めていた初は、ようやく瞼をとじる。

 眠りに落ちる前に、瞬間、初はある光景を思い出す。それを追い払うように強く目をつぶるが、いよいよはっきり見えてしまう。
 ここ堂島新地にくる前に、初は島原にいた。幼いころ、見知らぬ男に最初に連れていかれたのが島原だった。到着してまだ日が経たないころに見た光景だ。

 冬だというのに、薄い襦袢(じゅばん)だけ着た女が庭の松にくくりつけられている。手ぬぐいで猿轡(さるぐつわ)をされた女は、両手両足を麻縄で木に縛りつけられ、ぐったりと動かない。振り乱した髪から、襦袢から、水が滴っている。男たちがぶっかけた水だ。襦袢はところどころ破れ片乳があらわになっている。もう死んでいるかもしれないのに、遣り手と若い者たちは、まだ竹べらで女を叩いている。白い肌からときどき血がほとばしった。

 島原へきて日の浅かった初はそのあまりのむごさに全身が痺れようになった。恐ろしいのに目が離せなかった。
 ここから逃げようとしたのだと、初は遣り手に教えられた。その女は、窓から出て屋根から屋根へ飛び移って脱出し、大門を出たところで捕まったらしい。あんたも下手なことを考えんときや、ああいう目に逢うんやさかいと遣り手に念を押された。

 今まで二度、折檻(せっかん)は見たことがある。新地にきてからも、ほかの茶屋で女が梁につるされ罰せられているのを見たことがある。見せしめのためにわざと外から見えるようにやるのだ。けれど、島原で見たものほど凄惨(せいさん)で非道な折檻はあれ以来見ていない。

 もしかして覚え違っているのかもしれないと、あまりの恐ろしさに初は幾度も思った。初めて見た折檻だから、よりひどいように見えたのだ。本当は血も水もなかったかもしれない。けれど覚えちがいにしては、その光景はあまりにもくっきり鮮やかで、初の思い描きうる残酷さを上回っている。

 島原では自分も大変な目に遭ったというのに、そのときのことはあまり思い出すことはなく、折檻の光景だけはいつも前触れなくあらわれては初を震え上がらせる。思い出したくもないのに、消えてくれないのだ。初は今日もそれが遠ざかるまで目をつぶり、ちいさく頭をふる。何か別のことを考える。あの人の大きな乾いた手や、すべらかな背中を思い描く。そうしているうち、やがて眠気が初をすっぽり包み込む。

 次に目を開ければもう賑やかだ。このあたりの店はちまちまとひっついていて、戸を開け放てば隣の店ばかりか三軒先の音まで聞こえる。掃除をする音、女たちのおしゃべり、それぞれの店に預けられている幼い少女たちが往来ではしゃぐ声。そこに、往来をいく八百屋の威勢のいいだみ声もまざる。大根いかが。茄子いかが。芋や、芋や。初は起き上がり、階下に向かう。ここ、天満屋(てんまや)で働く女は初のほかに二人、つやと小菊。あとは。まだ十を出たばかりのかめが見習いをしている。先に起きていたつやと小菊と、おはようさんと言い合って、戸口からおもてを見やる。かめはどこにいったのか、姿はない。

 朝方眠りに落ちたばかりの初はまだぼんやりとしながらにぎやかな通りを眺める。夢を見たようだ。どんな夢だったろう。思い出せない。でも、目覚めたときなんとなくいい気持ちだったから、あの人が出て来たのかもしれない。だったら思い出さなくては、目を閉じて夢をたぐりよせようとする初の耳に、小菊とつやの話し声が容赦なく入ってきては引きずり戻す。

 あの田舎侍はねちこうてかなわんわ。ねちこいのはまだよろし、居眠りしとったらええんやさかい。はは、あてのとこの野暮天ゆうたら、ええか、ええかええのんかって、声張りくさって、肝心のまらの張りはこーんなん。きゃはははは。

「さ、風呂いこ、風呂」さんざん笑うと小菊は素早く立って奥の風呂にいく。
「お初ちゃん、お先」つやに肩を叩かれ、初はぼんやり振り返る。
「ほんまにお初ちゃんは朝が苦手なんやねえ、ゆうべの客は宵のうちに帰りはったんやろ」

 うふふ、と初は笑う。明けの鐘まで眠れなかったなどとは言わない。
 ひとり風呂にいってきた初は、先に風呂をすませた二人と並んで化粧をはじめる。かめは三人の後ろに座ってその様子をじっと見ている。この並びにある、松や、河内屋、丸屋といった店みせから、化粧を終えた女たちが顔を出してはおはようさんと声をかけ、遠慮なく上がり込んでおしゃべりに興じはじめる。部屋はきらびやかににぎやかなにぎやかさでいっぱいになる。

 なあ、若松屋の駒はんて知ったはる? 斬りつけられたってそこらで噂やがな。ええ? お馴染みはんに? おとろしやろ、田畑まで売って入れ揚げたのにつれのうされて、刃物持って待ち伏せたんやて。ええ年してからに遊び方知らはらなんだ。しょーむない男でんな。せやけど殺せんかったんでっしゃろ。出来やせんて。そこはそら惚れた女やもん。

 女たちが数人集まると、ほかからもやってくる。いつも天満屋というわけでもない、向かいの筒屋のこともあれば三軒先の松やのこともある。女たちが数人寄れば、閑をもてあました女たちがさらに集う。

 あーあ、ねえあんた、ちょっと用立ててくれへん、今日じゅうに払いすまさんとぜんぶ質に持ってくて脅かされてしもて。あほなこと言うて、あてが持っているはずおまへんがな。質に持っていかれたかてしゃあないわいな。身揚がりばっかしてるさかい。

 あて昨日はおかみにこってりしぼられたんだす。おかみ、あてにはしじゅうやかましいこと言うてからに、愛想まいたかて客がつくかいな、お初ちゃんなんかあ―んなぶすっとしてはって、ちゃんとお客がとぎれへんやないの。あはは、あんたとお初ちゃんとはタマもちごたら了見かて大違いいや、図々しいにもほどがあるで。

 いつものように煙管(きせる)の煙と白粉(おしろい)の匂いのなか、紅を塗られた口から口へ、噂話と愚痴が飛び交う。
 そうゆうたら、京で心中騒ぎが起きましたらしいで。
 たま緒が言うと、てんで勝手に話していた女たちは、ぱっとそちらに目を向ける。
「だれぞに聞いたん」
「客だす、ゆんべの職人さん。えらい噂やゆうて」
「-ええ。そんで、どないなりはったん」
「いや、恥知らずな真似してからに、あてやったら舌嚙み切ってでも死ぬるわ」
「そんなもん、口で言うたかてできやんわ」
「せやかていちぺんは死のうとしたんでっせ、死ぬつもりやったら舌嚙むくらい、なんてことあらしまへん。それにどっちにしたって死罪やないの」
「なんで死ぬことになったん、身請けかいな?」
「そらそうやがな、せやけど、約束した間夫(まぶ)は身請けなんかできん甲斐性なし」
「甲斐性がないて、たまちゃんが聞いた話 でおますやろ」
「あてかて客に聞いただけやもん、河内屋さんも町で耳にしはったって」
「ね、あんた、もし間夫に死のう言われたら、どないする」
「あてそんな人おらしまへん。それにあてはどない惚れ抜いた男でも死にとうはない。あほらし。お姐さんは?」
「死ぬのはかまへんけど、熱いやら痛いやらはこらえがきかんわ」
「お初ちゃんはどないだす、最前からぼーっとしはって」

 肘で小突かれ、初は鏡から顔を上げる。「そやねえ」もしあの人が、死のう言うたら。
「せやけど、いっしょに死んだらほんまにいっしょにあの世にいけるんやろか。もし途中ではぐれてしもたら、一年にいっぺんでも、生きて会うほうがよろしおすがな」
「それやったら牽牛(けんぎゅう)と織り姫や」
「あんたら、おしゃべりはその辺でしまいや、そろそろ帰り。そや、仲屋さんがきたさかい、要り用があるもんはいっといで」天満屋のおかみが顔をしかめて部屋に入ってくると、みんながぱっと立ち上がる。
「あ、うち紅白粉切れているんやった」
「あても見るだけ見てみよかいな」
「うちはかーぇろっと」
 他の店の女たちはみな出てゆく、それを見送り初は煙管に火をつける。
 無口な花屋が入って来て、女たちと目を合わせないようひっそりと花瓶に花を生けている。
「あんた、明日は夜明け前に出かけるんやさかい、はよ起きなあかんよ」
 おかみに声をかけられ、初は笑顔を見せる。
「なんだす、明日はお出かけでっか?」つやが訊き、
「お客はんが観音さまめぐりに連れてってくれはるやて」初は答えた。
「いや、よろしおすなあ」
「お客はんてだれ、加島屋さん? 大黒屋さん? どこぞのお大尽?」
 初はにんまり笑ってだれかは答えず、「お土産に草餅買うてくるわ」とだけ、言った。

 広袖の友禅、柄は立葵(たちあおい)、帯は背で吉弥(きちや)結び。爪も着物に合わせて爪紅で染め、髪は兵庫髷(ひょうごまげ)に鼈甲の櫛二枚。初は迎えに来た加島屋とともに、おかみとかめ、妓夫(ぎゆう)の長太を引き連れ、天満屋を出る。まだ夜は明けていず、空は暗く静まり返っている。

 新地から続く橋を渡るとき、もしやと初は思いつくねもしや、観音さまめぐりの最中、あの人に会えるかもしれない。でも、会ったら声をかけられるだろうか。こんな長いこと御無沙汰で、もしかして心変わりしているかもしれないあの人、徳兵衛に。

 橋の向こうに駕籠屋が待っている。加島屋が手配してくれたものだろうが、初はそれを見てがっかりする。籠に乗ってしまったら、もし徳兵衛とすれ違っても気づかないかもしれない。

 川にかかる橋を渡れば、そこは別世界だ。新地の外に出るのははじめてではないけれど、初はいつだって橋を渡るときどきどきする。たったの数十歩で橋を渡り終えるのに、こちら側はにぎやかさが違う、においが違う、陽射しが違う、初のよく知る新地ではどことなく濁っているそれら、いっさいがっさいがさらさらとのびやかで、雑多なのに清らかで、愉快なものに思えるのだった。ちいさなちいさな子どもの泣くかしましい声からも、

 まずは太融寺。今日のことが決まってから、幾度も地図を見て、もうぜんぶ、頭に入っている。歩き出す初に、
「ぜんぶははなから無理やで、疲れたらそこでやめて酒でも飲もと、加島屋さんが」おかみが後ろから声をかけるが、
「あきまへん、ぜんぶまわらんとご利益がかないさかい」
 初は言って、小走りに先を急いだ。
 観音さまは極楽からこの世にあらわれて、わたしたちをすくってくださるのだと、初は子飼いとして天満屋にきたばかりのころ、おかみさんから聞いた。ここ大阪には三十三所、観音さんを祀った札所がある。それをみんなおがんでまわれば、罪が消えるのだそうだ。けれど今、お寺の境内に向かう初は、自身の罪など思いつきもしない。罪が消えるのではない、願いをかなえてくれるのだ。そして初が願うのは、ただひとつのこと。
「ずいぶん熱心に祈っとるやないか、そないにおぬしは罪深いおなごちゆうことかいな」

 ぐずぐすとついてきた加島屋は、いつのまにか祈るのを初の後ろに立っている。初の背をさすってにやにやと笑う。初はちらりと客を見て、口の端を持ちあげて笑い、「だんさん、今日はおおきに。さ、急がんとまわりきれまへんよて次に参りまひょ」と、さっさと客の元を離れて長福寺に向かう。東の空がゆっくり白みはじめる。

 神明宮には鏡が祀られているという。心の良し悪しを見透かす鏡だと初は聞いたことがある。だから手を合わせるとき、ほんの少し緊張する。自分の心が善いのか悪いのか、わからないから緊張する。かめも隣で、緊張した面持ちでちいさな手を合わせている。
 さ、次いこか。

 祈りを終えた初は、かめの手を取って歩き出す。めざすは法住寺。
 まだ夜も明けきれないのに、すでにお詣りをしている人がいる。初より少し年上くらいの女は、商家の娘だろうか。熱心に祈っている。好きな人とうまくいきますようにと祈っているに違いない。だってほかに、あんなに熱心に祈るどんなことがある? 初はなんだか悔しくなって、女の隣で女より長く祈る。目を開けたとき、隣の女の姿はなく、勝った、と勝手に思い、得意な気持ちで法界寺に向かう。

 このお寺さんは、恋の祈禱には嫉妬すると初は聞いたことがあった。そろそろと本堂に足を踏み入れ、賽銭箱の前に立ち、両手を合わせてこうべを垂れて、恋のことなどおくびにも出さないよう気をつけて、家族の健康を祈る。嫉妬され、邪魔立てされたらたまらない。祈り終わると急ぎ足で出入り口に向かい、敷居をまたぐとき急に不安になって、こっそりすばやく恋を祈る。そのための観音めぐり、ここだけそれを祈らないわけにはいかない。

 さてその次は、少し離れて大鏡寺。着物の肩口に咲いた花を、本物の花とまちがえて、ひらひらと蝶が追いかけて来て、止まる。まるで蝶の紋のように見えた。
「あ、蝶」かめが言い、しっ、と初は目で制する。数回羽を動かして飛んでいくのを目で追って、長泉寺に初は足を踏み入れる。

「待ちなはれ」
 おかみに呼び止められる。𠮟られるだろうかと初はこわごわ振り向くと、
「あんた、も少し加島屋さんに気を遣いなはれ。連れ出してくれたんやから」初は方頬だけで笑って、ちいさくお辞儀をするとおかみに背を向け善導寺へとすたすた向かう。

ふん。
今日の客は南紀の硯(すずり)屋で、二年前に初の馴染みになった。商用があるたびに通って来るが、どうも身請けの話を主人夫婦に持ち掛けているらしい。主人もおかみもそうはっきりと初に言わないが、加島屋をどう思うか訊いてきたり、どれほど裕福かをわざとらしく話して聞かせたりする。女房を三年前に亡くしたという。年は二十も上だろう。

善導寺のお次は栗東寺。
 どんなに裕福だって冗談じゃない、というのが初の気持ちである。冗談じゃない、あんな田舎もの。そもそもはじめてやって来た日に誓いを迫った図々しさ、紋日(もんび)はまず姿を見せず、今日みたいな大盤振る舞いは年に一度のくせに、何がいくらかかったとくどくどと言い募る。酒の飲み方も汚くて、おかみや若い者に絡んだのも一度や二度の話じゃない。

 いやいや、今はそんなことは考えまいと初は首を振る。せつかくの観音さま詣り、初は立ち止まって指を折る。まだ九カ所。でも、天満のお寺はぜんぶまわった。ようやく初はかめとともに駕籠に乗る。

 日がそこここをくまなく照らしはじめる。少し汗ばむが、朝の陽射しはさらさらと気持ちいい。鼻の下の汗をぬぐう。駕籠が淀川に架かる天神橋を渡る。ようやく道行く人々の姿がある。時間が急に動き出したかのようににぎやかになる。水茶屋の前で口上を読み上げるものがいる、四つ辻にむしろを敷いて、塗り枕や茶道具、手毬や櫛、ごたごた並べて売っているものがいる、臼を置き杵で餅をついて売るものがいる。珠遊の看板、あま酒の行燈(あんどん)、うどんそばと染め抜いた暖簾。なんでもかんでも、よりどって十九文、ハイよりどって十九文。物売りの声をかめが早速うたうよにし真似している。

 玉造稲荷に足を踏み入れる。
 稲荷といえば闇夜の夏祭りが有名である。仏さまだってわたしたちを救うために迷うことがあると、初は聞いたことがある。だってわたしたちが闇に迷うのは当たり前、まだ十九の初もそんなことを考える。

 高台にある興徳寺までくると、視界を遮るものがなくなって、空が急に広くなる。西へと向かって港を出ていく帆船も見える。白くゆらめく浪の上を、かもめが追い越ししながら数羽飛んでいる。さらに慶伝寺までくるともっと見晴らしがよくなる。初とかめは途中で駕籠を下り競うようにして坂を上がる。上がりきって、二人とも、肩をちいさく上下させる。

 彼方、海がけぶって空と交わる淡い線に目を凝らして、恋のために死ねるなら、わたしはどうなってもいいと唐突に初は胸がいっぱいになった。死んでもいいほどの恋があるなんて、去年までの初は知らなかったのだ。遊女は、恋なんてしないんだろうと思っていた。そんなふうに思っていた自分は、なんて子どもだったんだろうと今、初は笑いたくなる。歳は十八だったけれど、この子となんにも変わらないくらいの子どもだったと、やっぱり隣で息を切らして眼下の景色に見入るかめは初を見る。

「姐さん、すごいね」
「うん、すごい」
「あの舟に乗ることがあるかいな」
「どうやろね」
「あの向こうには何があるんかいな」
「さあ、なんやろね」
「いってみたわあ」
 かめは子どもらしい声でぽつりと言う。あのずっと向こうに、ここよりはうんといいものがあると初は今まで思っていた。でも今はちがう。ここよりほかに、いいところなんかない。だってあのずっと向こうに、あの人はいないもの。
「いけたらええね」

 実際に向こう側を見る事のできる遊女なんて、いるはずがない。遠くの国に身請けされれば舟には乗るだろうけれど、でも、それよりもっとずっと先なんて、いけるはずがない。まして自分の行きたいところなんか。でもそれを初はかめには言わない。この子はまだ知らないのだから、自分の運命も、それから、ここのほうがずっといいと思えるなにもかも。

 そこからさらに、遍明院、このところ顔を見ないあの人が、どうか無事でいますように。
 上寺町の長安寺。
 心変わりなんてけっしてしていませんように。
 そうして誓安寺。
 どうか、どうか、一日でも早く、あの人がきてくれますように。
 客のことも駕籠のことも忘れてしまえるのがいい、歩き始めた初を、おかみが呼び止める。
「初、待ちなはれ。そない急ぐんやない。加島屋さんはもう少し先で待ってはるさかい、駕籠に乗りなはれ」
 初は振り返り、
「ちーと歩きたいわ、おかあさんたちは駕籠使うたらよろしい」
 そう言ってすたすたと歩き出す。駕籠に乗らないとなると、急がなければ一日でとても回り切れない。自分の内だけでのきめごとだが、一日でまわり終えなければ意味がないと初は思っている。一日でまわり終えれば、きっと願いがかなえてもらえる。

 やっぱり外を歩くのがうれしいのか、かめも駕籠には乗らず小走りについてくる、さっきより陽は少し高くなって、道のずっと先がゆらゆら揺れている。そんなこともおもしろい。

 日射しは強く、見上げる空は雲ひとつない。地面に目を落とせば、黒々とした影が伸びている。初はその黒い影をじっと見すえ、やおら、右手を挙げる。左手を挙げる。着物の袖がふわりとふくらむ。右に飛ぶ。左にはねる。影はいっしょになって動く。こめかみから汗がしたたり落ちるが、かめも影を動かすことに夢中で、気づかない。ふふふ、初のまねをして、かめもぴょんと跳ねでいる。初はかめの後ろに立つ。すると二つの影は重なり合ってひとりのようにしか見えない。ふふふ。初とかめは声を合わせて笑う。ぱっと離れる。自分の影だけ、ぴったりと寄り添ってついてくる。

 これはわたしの影じゃなくて、こことはちがう世界で暮らす、もうひとりのわたしかもしれない。もうひとりのわたしは、けんめいにわたしのまねをしているけれど、ふとした拍子に、わたしより先に動いてしまうんじゃないか。そんなことを思って初は目をこらしている。自分より一瞬先に動くかもしれない影の隅々に。
 
こんなふうに影遊びをとたことが、はるか昔にあったと思い出し、初は動きを止めて未知の先を見やる。その先に過去があるかのように細めた目に映るのは、しかし陽炎で歪んだ景色だけである。

 兄や妹と、素足で飛び回り、影を踏んでは笑っていたような気がする。でも、子どもの頃にそんな時間はあったろうか。せわしなく働きながらつかの間見た、夢ではなかろうか。それにしては、裸足の足の裏の感触や、逃げ回る弟の影のはしこさが生々しく思い出される。けれど、彼らの顔は思い出せない。あのとき暮らしていた家の細部も。

 それでいいのだ、と初は思う。帰ることは二度とないのだから、それでいいのだ。それにみんなきっと元気だろう。

 初は着物の乱れをなおし、あごを上げ、気どったなりで歩き出す。
 もう少し、もう少しだ。足の痛みも忘れて初は歩く。上がり坂はしゃなりしゃなりと背をそらし、下り坂はちょこちょこ小股で。上がり下がりの坂がやけに多い谷町筋で、おもてをあるき慣れないせいか、着物の裾がやけに乱れているのに気づいた初は、あわててそろえ、ついでに帯のゆるみも直しながら、なお歩く。十六番地は藤の棚と呼ばれている若勝院。
 
 今日は客がいるから無理だ、でも、明日きっときてくれますように。
 十七番のお寺は重願寺。
 あの人がきたら朝までいてくれますように。
 あと何ヵ所あるんだろうと数えながら本誓寺で伏し拝む。
 帰るときには次のときを約束していってくれますように、
 それから菩堤寺。
 いつか、そう遠くないいつか、帰らなくてもいいような日が、やってきますように。

 橋の向こう、ずっと先に、夕立の雲がある。初は目を細めた。
「姐さん、あそこは雨かいな」初の隣に立って、かめが遠くを見やって言った。
「あんたは利口やな。濡れるのはかなわんけど、たいそうきれいやわ」初はその、天女の衣のような、蝉の羽根みたいな薄い雲を見つめる。
「こっち晴てんのに」
「じき雲はあてらの頭にも雨をふらしにやってきはる」
 突然暑さを思い出し、初は袂(たもと)から出した手ぬぐいで、玉のように額にはりつく汗を拭き、かめの額も拭いてやる。
「もう暑うてかなんわ。なあお初、もうこのへんでやめようや」駕籠から上半身を出し、ぐったりした顔で客は言う。
「だんさん、あては今日の日をずっとたのしみにしてましたんやで。ゆんべも夜が明けんうちから三十三ヵ所まわる算段つけたんだっせ」
「お初、口が過ぎるで」厳しい声を出すおかみは客を制して、
「わかったわかった」着物の袖で額をぬぐってうなずいている。「ほたらな、わしらはひと休みして物まねにでもいってるさかい、のんびりまわってきたらええ」
「よろしいんだっか」おかみと初が声を合わせると、
「こないたのしみにしてたんさかい、かわいそうやないか」やさしい性分なのか、初に気に入られたいのか、客は言う。
「あいすんまへん。お初、お言葉に甘えていってき。ええとこで切り上げて、生玉神社のそばの水茶屋で待っときなはれ」

 おかみは言い、初は飛び上がってよろこびたいのをぐっとこらえる。店の長太が付き添うことで話が決まり、かめを従えて、初は振り向かず歩き出した。これで心置きなくもの思いにふけることができる。
「そのかわり、今日はしまいまでつきおうてもらうで。落ち合うたら朝まで、腰抜かすまで飲ませたる。いや、酒で腰を抜かす前に、おまえをじっくり参らせたるわい」
 客はそう言って盛大に笑った。

 初は愛想笑いで応えて天王寺は六時堂に向かう。二十一番目は七千巻以上のお経が納めてあるという経堂。金堂と聞けば初が思い浮かべるのはコンコンという鐘の音。あの人が帰る時刻を無情にも知らせる、あのかなしい音。

 朝になっても帰らなくてもよくて、昼も夜もいっしょにいられるときが、どうかやってきますように。
 それから講堂、そして万灯院には蠟燭に火がついて、ものがなしげに揺れている。

 新清水寺でしばらく休憩。逢坂の清水を両手にすくって口に含む。水の冷たさに人心地つき、空を仰ぐと、一陣の風が初の右袖から左袖へと抜けるように通る。道端に座って、談笑しながら煙管をふかす男たちを初はちらりと見る。煙管の煙はたちのぼり、空へと吸い込まれるように消え、ふと、初は自分の未来を思う。自分と、恋しい人との未来。

 我に返ればもう日が傾き始めている。さっきあんなに遠かった夕立雲も、ずいぶん近い。歩き出すと雲はついてくる。雨が降ってきたら時雨の松の下で雨宿りをすればいい。松のある下寺町に初は急ぐ。歩き疲れたかめを、長太はおんぶして初を追う。

 歩きはじめよりずっと信心深い気持ちになって心光寺に参り、悟らぬ人さえ大いに悟るという大覚寺を経て、金台寺から大蓮寺と急ぐ。

 ようやく三十番の三津寺である。さすがに初も疲れを感じはじめた。けれどあと三つ。ぜんぶまわり終えれば、観音さまはきっと願いを聞いてくださる。

 白髪町は大福院。そうだった、草餅買っていくんだった。帰りに客にねだればいいか。
「姐さん、今なんぼ」
 長太に背負われたかめが訊く。
「今三十一.あともうじきや。あんたもちゃんとお祈りするんやで。こんなことできるん、滅多にないんやさかい」

 あい。かめは小さく頷くけれど、こんな小さいんだもの、きっとつまらないお願いばかりしてしまうんだろう。腹いっぱい食べられますようにとか、朋輩(なかま)に意地悪されませんようにとか、きれいなおべべがもらえますようにとか。

 疲れた足を引きずって、初は博労町へ向かう。その町の名を聞くたび、初は獏という動物を思う。もちろん見たことはないから、思い浮かべることしかできない。白と黒の獣で、夢を食べるのだという。夢なんてかたちにないものが食べてしまえるんなら、もしや、恋も食べてしまうんじゃなかろうか。おお、おそろしい。食べられてたまるものか。

 博労町には稲荷社がある。ああ、あとひとつ、観音さま、わたしのたったひとつの願い、ちゃんと聞いてくださったか。わたしの恋を守っておくれ。あの人とどうか添い遂げさせておくれ。

 最後の新御霊神社は、津村。これで最後。初はとくべつかたく手を合わせる。
 添い遂げて、そうしてどっちかが先に死ぬのはいや。ともに白髪になって、そうしていっしょに死ぬときまでいっしょにいられますように。
「これでしまいや」

 長太の背にいるかめに声をかけるが、かめは猫のようにまるまって寝息をたてている。初は長太と顔を合わせて笑った。
「ほな、生玉はん戻ろうかいな」
「あーあ、疲れて脚が痛うなった。長太はん、先にいって酒の相手しといてんか、酔い潰しといてえな」
「そうでんな」
 長太はうなずくが、先にいく気配はない。長太について初はとぼとぼと歩く辺りをきょろきょろ見回すが、だんだん行燈に火が灯る町なかに、あの人の姿は見当たらない。ときどき背格好の似たのがいるけれど、前にまわって顔をたしかめずとも、人違いであると初はわかる。背がいっしょでもあんなに田舎じみた格好はしない。体つきが似ているが、あんなに背を丸めて歩いたりしない。見間違えるもんか。でも、ああ、いない、いない。うどん屋。蕎麦屋、味噌屋ら煙管屋、印刻屋。いとしい人の姿を探しながらも、初の目は、見慣れない行燈や看板につい引き寄せられる。

 観音さんは三十三にそのお姿を変えて、恋を導き愛を教えるのだと、初は新地にきたばかりのころ、天満屋にいた姐さん、島に教わった。

 今のいのちは一度きりやと、恋愛をしてはじめて知るんやと島は言っていた。一度きりなんやから、ちゃんとお祈りせなあかん。一度っきりなんやから、願いは今、叶えてもらわんとあかん。あれはわたしに教えたのではなくて、自分自身に言い聞かせていたのだなあと今、初は思う。

 何か悪いことがあれば、前世の報いやと人は言い、来世に幸せになれるよう、つつましく暮らせと人は言う。けれどほんまにそうやろうか。おまえ、前の世のことなんて、覚えているか? 覚えてへんやろ。今のいのちは今のいのち、ひとつきり、それやったら、前だの次だの考えんと、心のぜんぶで観音さまにお祈りして、心のぜんぶでだれかを好きになったらええ、観音さまは、恋を悟りへの架け橋としているんやさかい、恋することはちいっとも悪いことやない。だれぞを好きになってはじめて、あてらは真剣に祈るゆうことをやるんやで。

 島はひとりごとのように言っていた。恋なんて知らなかった初は、島の言葉の意味がわからなかったし、そののち、彼女が病にかかり故郷に帰ることになったときも、馬鹿なお姐さんだと思った。あんなに賢くて、あんなにやさしくて、あんなに人気があったのに、恋なんてしたばっかりに、人生を棒にふったんだ。それがそのときの、初に考えられるせいぜいのことだった。そう、子どもだったのだ。だってまだ、十をいくつか過ぎたばかりだった。新地に連れてこられたばかりだった。

 観音さまは、恋を悟りへの架け橋にして、わたしたちを彼岸に渡らせ救ってくれる。姐さんの言っていたことが、今の初にはよくわかる。

 加島屋とおかみ、駕籠の衆たちは、生玉神社にほど近い茶屋にはまだ着いていなかった。入り口近くの座敷に腰掛けて初は茶を頼む。すっかり眠っていたかめは目をこすりながらも起きて、初の煙管の用意をしている。初は、かめのぶんと二つ、饅頭を頼んだ。かめから煙管を受け取り、運ばれてきたお茶を飲んで、初は何気なく出入り口のすだれに目を向けた。ア、ちいさく声が漏れる。

 おなじ背丈でも他の人と違うのは、着物でも背筋でもない、光だと初は気づく。光に包まれるようにして、おもてを行き過ぎようとする徳兵衛の姿がある。初は脚の疲れも忘れてぱっと立ち上がり、転がるようにして水茶屋の外に出た。

 徳さま、徳さまと、そうしようと思わずとも声が出る。
 呼ばれて振り向き、初をその目にとらえた徳兵衛も、やはり光をみつめるごとく目を細め、その口元に笑みがこぼれる。しばらく視線を絡ませ合ったのち、徳兵衛は思い出したように、
「米吉、悪いけど、寺町の久本寺さんと長久寺さん、へてから上町から屋敷方をまわって、先に戻っといてんか。わてはすぐに帰るて旦那に言うといてくれ。安土町の紺屋によって集金するのも忘れんようににな。道頓堀に寄り道なんかするんやないで」

丁稚(でっち)だろう、わきにいる醬油樽を背負ったいっそう若い男に言い含め、彼が頷き背を向けて、そのまま角を曲がるのを見送ってから徳兵衛は初に近づく。

「お初やないか。どないした。なんでこんなところにおるんや」
 初と徳兵衛はたがいに見つめ合ったまま、野点傘(のだてかさ)に隠れるようにおもての床机(しょうぎ)に腰掛ける。編笠を脱ごうとする徳兵衛を、初はあわてて止めた。

「あかん、そのままでかまへん。今日は、馴染みの客が観音さまめぐりに出してくれたんや、今、物まねにいってるさかい。馴染みゆうても枠がわからん、いけ好かん田舎おやじでな、朝まで酒につきあえとえらい大盤振る舞いやけど、しぶちんのくせして、たまに羽目を外すのが、また欲どうしい・・・・・ま、それはそれとして、いっくるかわからんやない、こんなところを見られたら厄介やさかい、とりあえずそれは被ったままでいなはれ」

 徳兵衛は言われるまま、編笠を深くかぶり直す。初は編笠をのぞきこむようにして、徳兵衛の目をじっと見据えた。
「それより、なあ、このごろ音沙汰なしだすな。どないなってるんかわからんさかい。こっちから文をつけるわけにもいきゃせんし。座頭の大市がおまえさんの友だちに聞いたところではふるさとに用があって帰ったって、それがほんまかどうか、あてにはわかるはずもなし。なあ徳さま、ずいぶんひどいしうちやおまへんか? あてがどうなってもええゆうことでっか。このまま病気になったら、あんたのせい。噓と思うんなら、ほれ、自分でたしかめてみたらよろし」

 膝に置かれた徳兵衛の手を初は素早く握って、自分の懐にそっと入れた。とたん、泣きそうになる。ああ、なんと大きなあたたかい手。ずっと触れたかた手。このまま時間が止まってしまえばいい。
 徳兵衛。
 初は笠に隠れた男の顔を、上目遣いに見つめる。ああ何て美しい男。澄んだやさしげな目、通った鼻筋。何度見てもそう思う。徳兵衛はいつも、初はきれいだ、初みたいにきれいな女を見たこともないと言うけれど、わたしなんて、徳兵衛と比べたらどうってことはないと初は思う。ただ着飾っているだけのもの。ああ本当に、きれいな生きもの。そのきれいなものがじっとこちらに目を注いでいると思うと、それだけでもう初は体の芯が痺れたようになる。

 叔父の経営する醤油問屋、平野屋で働く徳兵衛は、今年二十五歳になる。丁稚として勤めはじめたのが十二のときで、去年、手代(てだい)になった。

 徳兵衛に初がはじめて会ったのは、一年ほど前のことである。ずっと前から友だちという九平次(くへいじ)という男の案内で新地にきたのだ。天満屋やほかの店みせが並ぶこまこましい通りを、どこか緊張した面持ちで歩く徳兵衛を、初は今でも思い出すことができる。

 女を見定めることに慣れていないのだろう、ちらりと目を上げてはさっと逸らす。何気なくその様子を見ていた初と、ちらりとこちらに顔を向けた徳兵衛の目が合った。徳兵衛はさっと目を逸らしたあと、また、おずおずと初を見た。

 しばらくそのまま見つめ合った。うつくしいとそのとき思ったわけではない、触れたいと思ったのでもない、なのに初は目が離せなくなった。知っている、と思った。この人を知っている。どこで会ったか? 前にきたことがあるか、それとも新地の外で会ったのか。

 久平次に促されるようにして徳兵衛はようやく目を逸らし、ゆるゆると歩きはじめたが、それからしばらくしてひとりで戻ってきた。そうしておかみに招き入れられて徳兵衛はやってきた。

 酒、塩貝や花鰹、蜆(しじみ)の吸い物など用意する初を、徳兵衛はじっと見ていた。もう一度目が合って、あ、知っている顔だが知らない人だ、会ったことはない人だと気づいたとき、初は、長く細い爪で背中をすっと引っ掻かれた気がした。まだ見習いの頃、島が酔っぱらってはふざけてよくやったように。

 見つめ合ったまま、見えない力に引かれるように二人は近づき、そうして抱き合った。触れられるところがいちいち熱くなった。激しいのに、やわらかく包み込まれるようなその熱を、初はそれまで感じたことがなく、その熱に身を任せていると何も考えられなくなった。いつも初は行燈を消し、着物をすべて脱ぐことはけっしてしないが、あやうく明かりをつけたまま、すべて脱ぎ捨ててしまいそうになった。

 明け方帰っていった男は、もう二度とこないのではないかと初は考え、そうすると胸が痛むほどどきどきした。徳兵衛という名も、平野屋という勤める店の名も、噓なのではないか。そう思うと指先がちいさく震えた。その日の夜はねむれなかった。侍客のいびきを聞きながらうとうとまどろみ、ふとあの熱い感じて目を開ける。そんなことの繰り返しで、空が白むころには頭がぼうっと重かった、そんな自分がいったいどうしてしまったのか、初にはわからなかった。初はそれまで恋をしたことがなかった。

 四日ののちに徳兵衛はまたやってきた。今度会えたらこれを訊こう、あれを話そうと初は算段していたのだが、いざ顔を合わせて見ると、何も言うことが思い浮かばない。目を合わせるのも容易ではない。そろそろと目を上げて、相手がよそを見ていれば見つめ、目が合えばぱっと逸らした。目で鬼ごっこをしているのがおかしくて、やがて二人とも、合わせたように笑い出して、茶の用意をしにきたかめがびっくりしてちいさく飛び上がり、また、笑った。

 三回目までは間が空いた。もうこないのではないかと初は気が気ではなかった。見つめ合い、抱き合い、くすくす笑い合うばかりで、ろくな話をしていなかったから、初は徳兵衛が手代になったばかりということも知らず、遊郭で太夫や天神は揚げられないが、このあたりなら好きなときにこられるほどには大尽なのだろうと思っていた。

 ひと月も空いたのが、初には季節がひとめぐりしたかにも感じられた。ようやく徳兵衛があらわれたときはうれしいのに、抱き合っていたら泣けてきた。この日にようやくそろそろ様子を見るように、自分たちのことを話すようになった。抱き合い、交じり合って果て、眠るのが惜しくて抱き合ったまま話し、また相手の体に手を這わす。

 このときようやく、手代になったお祝いに仲のいい男がここに連れてきてくれたこと、叔父の店で働いていることなどを徳兵衛は話し、だから身が裂かれるほどここにきたくても用立てできない、こともあるのだと、恥ずかしいそうに打ち明けた。それを聞いてから、二度に一度は自腹を切って身揚がりにした。そうできるように、徳兵衛がこない日ははりきって客をとった。いつでも見揚がりができるほど稼がなくてはならないのだった。他の男に抱かれ、体中うに舌で這わされ、まらを口に含みながら、これで会える、もうじき会えると初はかたく目を閉じて思うのだった。

 徳兵衛がくるといつだって慌ただしく抱き合い、交わり、そうして交わり終えると疲れているのに眠るのが惜しくて、額をつけて夜明けまで話して、話して、飽きなかった。

 はじめて初を見たとき、氷をひとかけ、背中に入れられたような気がしたと徳兵衛は打ち明けた。それなのに、顔が火照った。そんなふうなことははじめてだったと、その腕に初を抱きながら言うのだった。だから初も打ち明けた。わたしは細い爪で背中を引っ掻かれたように思ったと。運命というものは、そんなふうな合図で到来を告げるのだと初は思った。

 それから徳兵衛は、交わったあとで、物心ついてからのことをさかのぼって話すようになった。覚えているすべてのこと。泣いたこと。悔しかったこと。辛かったこと。笑ったこと。怒ったこと。きれいだと思ったこと。汚いと思ったこと。初も同じように覚えているすべてを語った。笑ったことより泣いたことの方が多いのが似ていた。きれいだと思った事より汚いと思ったことのほうが多いのが似ていた。けれどかなしくなかった。同じことがうれしいほうが、勝った。

 覚えていることのすべてを話し終えると、また、はじめから繰り返して話した。初は今までは、生まれた時からずっと徳兵衛といっしょにいたような気がしている。

 血のつながらない母親が満足に食事を与えず、幼い徳兵衛が空腹を抱えているとき、飴玉を分けてやったように思えたし、十二で親戚の平野屋に引き取られたとき、びくびくと歩くちいさな体を抱きしめて、もうなんにもこわくないよと言ってあげた気にもなった。

 きっと徳兵衛もそうだろう。弟や妹たちと裸足で遊んでいるとき、わたしと手をつないでいた気持ちになったろう、見知らぬ男がわたしたちを連れにやってきたとき、幼いわたしを抱きしめて耳元でだいじょうぶだとささやいた記憶を持っているだろう。

 初はおかみと島以外、だれにも話したことない秘密も話した。徳兵衛はその話を聞いて、泣いた。さぞや怖かったろう、驚いたろうと言って初を抱き、背を撫でながら泣いた。

 幾晩でも語っていられた。朝がきて、離れなければならないのが身を切るほどかなしかった。つぎはいつ会えるか、初は毎回、今生の別れをするような気になるのだった。

 きっと徳兵衛もおなじ気持ちだったのだろう、夫婦になろうと言い出した。それを聞いたときは飛び上がりたいほどうれしくて、いや実際初は飛び上がって徳兵衛に抱きついたのだが、そんな約束が初から不安やかなしみをとりのぞくことはなかった。

 夫婦になるその日まで、やっぱり徳兵衛は朝には帰ってゆくのだし、つぎにいつ会えるかはわからない。しかも、やつてきたばかりのころは、酒も弱く、どことなく垢抜けなかったというのに、もともと容姿がいいのにくわえ、最近ではすっかり酒を飲む姿も粋に決まって、女たちから徳さま徳さまとずいぶんな人気ぶりである。

あれだけ美しいだもの、当たり前だと初は思うが、それはそれで気が気ではない。もちろん徳兵衛はそんなふうに騒がれたって浮ついたりはけっしてしない、至ってまじめな男である。銀(かね)ができれば一目散に初のもとにやってきて、今でも会ったときと変わらぬ熱情で初を抱き、額をつけて朝まで話し、夫婦になる日のことを夢見るような目をして語る。

 会っていれば、だから安心だけれど、徳兵衛が帰ってしまうととたんに不安になり、悲しくなる。ほかの客に抱かれながら徳兵衛を思い浮かべるが、会えない日が一日、二日、三日とたつにつれ、客に重ねる徳兵衛の姿はどんどん淡くなっていく。そうすると不安と悲しみは疑心に変わる。愛していると言うの、初だけだと言う、離れられないと言う、夫婦になろうと言う。かなわぬのならつぎの生で結ばれようと言う、客はみんな床ではそう言う。
妻のいるのも、ほかの店にも馴染みがいるのも、みんな言う。徳兵衛がそうじゃないと、どうして言える? ひと晩じゅうかたく抱き合って言葉を尽くして語り合い、明け方ここを出ていった徳兵衛が、新地の外では何をしているかなど、想像することすらできないのだと初は思う。

「徳さま、なんぞ言うとくなはれ。もしかして徳さまは、あてのことなんかもうどうなってもかまわんて思ってはりますのか」

 徳兵衛の手を、その膝に戻しながら初は言った。
「そないなわけあるかいな」
 徳兵衛は戻された手で初の手を強く握り返し、早口で言い返す。
「お初、おまえに話さんなあかん思うていたんやが、話したところで心配かけるだけやさかい、なかなかいえずじまいでな、らちあかん難儀なことがあって・・・・けどおまえにもかかわりのあること、いずれは話さんないかんかったのに。すまなんだな」
「なんのこと、あてにもかかわりあることって」

 思い詰めたような徳兵衛の表情を見て、初は胸がざわつく。徳兵衛は初の手を握ったまま、声を落とし、話しはじめた。
「大市が言うてたことは噓やない。どうしても銀(かね)が入り用になって、京に行ったり家に帰ったりしたんや。そらもう、今こうして生きておまえの手を握っているのが信じられへんくらい、いろんなことがあってな」
「家って」
「そや、あっちの家や」
 と徳兵衛が言うのは、叔父の醤油問屋にひきとられるまで徳兵衛が育った家だ。
 徳兵衛の母親は、徳兵衛が生まれてすぐに亡くなっている。乳のみ子を抱えて困っている父親のところに隣村から嫁いできた女があり、義母となったこの女は立て続けに子を三人産んだ。が、徳兵衛が五つになってすぐ、父は病で亡くなって、徳兵衛は血のつながらない母に育てられることになった。

 父の生きているあいだはそう露骨でもなかったが、父がいなくなってみると義母はあからさまに自分の子と徳兵衛の扱いを変えた。母と子らが笑いながら食事をしている声を聞きながら、いつも外で働いていたと、初は徳兵衛から聞いたことがある。みんな食べ終えてから、残り物で飢えをしのいでいたのだそうだ。

 その上継母は、徳兵衛が十二になると、家に置いておくのもいやになったのか、亡夫の弟に話をつけて、徳兵衛は叔父の営む醤油問屋に丁稚として引き取られることになったのである。徳兵衛としてはそれはありがたいことではあった。
平野屋では食事が出たし、布団も与えられた。徳兵衛の働きぶりを叔父夫婦に褒めてくれた。継母のいる家にもう二度と帰ることはないだろうと、初は徳兵衛から幾度も聞いている。

 その家に帰るほどのいろんなこととは、何ごとか。初は徳兵衛をせかすことをせず、彼が話し出すのをじっと待った。そうしてつらそうに顔をゆがめていた徳兵衛は、ぽつりぽつりと、このところのできごとを語った。

ひきとって育ててもらった恩があるし、誉められれば心からうれしくて、徳兵衛はまじめに懸命に丁稚奉公した。叔父と、妻である内儀は、そんな徳兵衛に目をかけるようになり、昨年あたりからしきりに、内儀の姪御を娶らないかと徳兵衛に持ち掛けていた。しかも二貫の持参金をつけると言う。江戸に出すつもりの店を任せようと考えているとまで言う。

 徳兵衛にすれば、すでに初と結婚の約束をしている。破格の持参金で目がくらむような柔な約束ではない。徳兵衛は叔父たちの話にのるつもりはなかったが、はっきり否と断るのも気が引けて、なんだかんだと遠まわしに断り続けているうちに日がたち、じれた叔父夫婦は、その話を徳兵衛でなく継母に持ちかけた。継母とはいえ十二まで育てた母が説得すれば、徳兵衛も考えを改めると思ったらしい。叔父夫婦は、その継母が徳兵衛にどんな仕打ちをしてきたのか、まったく知らないのだった。

 二貫の大金を継母が断るはずがない。彼女はちゃっかりそれを懐に入れた、縁談を快諾した。もちろんそんなことを徳兵衛は知る由もない。そこへきて、叔父は祝言はいつにするかという話を持ちかけてきた。徳兵衛には寝耳に水である。かっと頭に血が上った。立場も恩も忘れ、叔父にくってかかってしまった。

 当の本人には何も知らせんと、母親に銀をつかませるやなんて、だましたも同然やないですか。そもそもこっちは縁談に諾の返事もしてまへん。結婚といえば一生のこと、それを自分の知らんところでそんな風に決められてしまうとはいったい何ごと。大金といっしょにお嬢様をいただいて、一生機嫌をとりながら暮らすやなんてこの徳兵衛にはできるはずがありません。何がどうあっても、たとえ父上が生き返って懇願したとしても、この縁談、おことわりすることにしていると、いたしますと、徳兵衛にしてはめずらしく、語気荒く言い募ったのである。

 当然ながら、そこでハイさようでございますかと叔父が引っ込むはずがない。血は繋がっていないとはいえ、妻の姪御をコケにされたも同然である。叔父は徳兵衛をさらに上まわる勢いで怒り出した。しかも、新地のことまで引き合いに出して。

 叔父曰く、おまえがそない依怙地になって結婚が嫌やゆうんは、新地であそびくさってるからやろ。おまえが天満屋の初とかいう女に骨抜きにされてのは町中に知れ渡ってるんやぞ、どこぞの馬の骨ともわからん遊女ごときに騙されるがわからんか。そこまで言う阿保にはもう姪はやらん。ここからでていってもらう。いや、ここからじゃすまぬ、金輪際大阪の地は踏ません。ただし銀は返してもらうで。四月七日までに銀を揃えてもってこい。その日までに店の勘定もまとめとくんや、へてから出ていって、もう二度とこの地に足を踏み入れくさるな。

 徳兵衛は叔父のまねをしているのかものすごい形相で一気に言うと、がくりと背を丸めてうなだれる。

 最初ははらはらして聞いていた初だが、次第に苛々を募らせた。
 そちらのお家事情なんて知ったことか、遊女ごときと呼ばれたってその通りだもの致し方ない。けど、何をのうのうと話しているのだ、この男は。どうするつもりなのか。大阪を捨ててわたしを選ぶのか、それとも二貫と姪御を引き受けるのか、そこのとろを早くお話よ。

 思ったことは考えるより先に口から出てしまう初だが、その言葉はぐっと飲み込む。なぜなら目の前の愛おしい男が、目に涙を浮かべているからだ。

 徳兵衛は、六つも年かさだというのにすぐ、泣く、初は姐さんが新地を出るときだって泣かなかったというのに。いや、もっと幼いころ、知らない男に連れられていかれるときだって、泣かなかった。泣いたって何もならないと、あの歳で知っていた。

 けれど、だから初は徳兵衛を好きなのだとも、思う。自分にはこんなにきれいな心は、ない。何かをまっすぐに信じているから、二十五にもなって徳兵衛は泣けるのだ。わたしには、こんなにきれいな涙は流せない。

 初は徳兵衛に手を取られたまま、自分より大きなその背中を抱きしめたいのをこらえる。自分の手を包むひとまわり大きな手の平をじっと見つめる。こんな大きな手の平を持っているのに、わたしが守ってやらないと、この男は立っていることもできないのにちがいない。昨日まで、徳兵衛の心変わりを疑っていた初は、現金にもそんなふうに思えている。

「ほなら、いったいどないしはるおつもりだす。あんたのその姪御さんと所帯を持つおつもりでっか」
 初は、子どもに言い聞かせるようにやさしい声で先を促す。
「まさか」あわてて首をふる徳兵衛の右目から、涙が一滴頬を転がり落ちる。
 徳兵衛は怒り狂う叔父から一歩も引くことなく、「かしこまった」と返事をした。つまり、大阪を出ることを選んだのである。

 しかしとにもかくにも、銀(かね)である。徳兵衛はその後のことは考えないようにして、肩で息をしてふるさとへ戻り、継母に銀を返すようにとにじり寄った。が、もう遣うてしもて一銭もあれへんと継母はしれっと答える。二貫やで。そんな大金、どないしたらそないすぐになくなるんやとにじり寄ってもらちがあかない。やむなく徳兵衛は京の五条にある問屋にいって銀の工面を頼んだが、当然ながら断られ、さんざん悩んでもう一度ふるさとへ戻り、村の人たちに頭を下げて協力を乞い、継母を説得してもらって、なんとか二貫を取り戻したのである。

「そないことがあったなんて、なんにも言うてくれんさかい、ちっとも知らなんだ」
 初はため息まじりに言い、めまぐるしく考える。何をどうするのがいちばんいいのか。とにかく銀は戻ってきた。が、問題は。

「銀は戻ってきた。けどなお初は、ここを出ていかなあかんのやったら、もうおまえに会えんかもしれん。二度とこの地を踏めんのなら、会いに来ることもかなわん」

 初は徳兵衛の大きな手から自分の手をすっと抜き、やわらかく彼の手を包みなおす。そうだ、問題は、それだ。
「大阪をだされるとはゆうても、何も罪を犯して遠くに流されるわけやなし。きっと何かええ方法がおます。きっと何か」初は必死に考えるが、けれどいい案が浮かばない。「もし、もし会えんなんてことなったら、そのときは覚悟を決めるつもり。ねえ徳さま、あてらの約束はこの世かぎりのものでっしゃろか?」

 そうじゃない。夫婦の契りは二世続く。そう信じて旅立つものだ、だからいつもいるのである。
「死出の山や三途の川なら、あてらを引き離そうとする人などどこもおらへん」
「そやな、お初」

 涙で光る目で、徳兵衛は初をみる。初はそれに頷いてみせながら、頭では、何かいい手立てはないかと考え続ける。
「とにかく、お銀をかえしてもろたんなら一刻も早よう返したほうがよろしおす。重々詫びて、姪御さんと結婚はできしまへんが、行き違いがそもそもあったことを説明したら、平野屋さんかてあんたの血を分けた叔父さん、そうむげにはできんはずやおまへんか」

 初はあいかわらずちいさな子どもに言い聞かせるような口調で言うが、徳兵衛はふと目を逸らし、
「それが、銀は今、あらへんのや」などと言い出す。
「え、継母から返してもろたて、今さっき」初はわけがわからない。

 驚いたことに、徳兵衛の話はまだ終わっていなかったのである。
 継母から銀を取り返して戻ってきた徳兵衛は、町でばったり油屋九平次と出くわした。先月二十八日のことである。

 あの九平次か。
 九平次なら初もよく知っている。新地に徳兵衛を連れて来たあの男。徳兵衛が、きょうだいのように思っている男だ。この町にきてはじめてできた友だちだと徳兵衛は初に話したことがある。

 年の近い男とそれまで親しくしたことのなかった徳兵衛は、最初はどう接していいのかまるでわからなかったという。それでも会ったばかりのころ、話しかければ自分のような丁稚にもあれこれと答えてくれた。油屋の主人の息子で、いつも堂々としている九平次を、徳兵衛は兄のように慕っていた。

きょうだいってこんなふうなんやろうなと思たんや、と徳兵衛は初に話していた。父も母もおなじで、喧嘩もせずいっしょに大きくなったきょうだいというのは、自分と九平次だと徳兵衛は言って憚(はば)らない。

 その九平次が、見るからに困り果てている。どうしたかと訊いても、答えない。水茶屋に誘い、しつこく聞き出すと、なんでも銀(かね)に困っているという。何に入り用なのか、いくら入り用なのか訊いてもしかし答えない。ただ、来月三日には銀が入るのだが、銀を揃えなければならい期限が今日なのだと、悔しげに言う。見れば、九平次は右手に包帯を巻いている。

 徳兵衛は考えた。自分よりよほど派手な遊び好きな九平次のこと、賭け事で借金をこさえたか、あるいはどこかの茶屋にツケをためすぎたか。右手を痛めているということは、喧嘩でもして怪我したんだろうか。まさか馴染みと指切りでもし合ったのか。銀が入り用なのは馴染みの遊女なんだろうか。

しかし何があったのか訊いても、この九平次がそんな自分の恥になるようなことを打ち明けるはずがないことは徳兵衛がよく知っている。ともかくこれほど困っている様子なのだから、ただの借金ではあるまい。

 三日なら銀が入る、という銀がどこから入るのか徳兵衛には知る由もないが、三日と言い切るからには入るあてがたしかにあるのだろう。自分のほうは、懐の二貫を七日までに返せと言われている。そんなら五日ほどのこと、この銀を貸してやってもいいのじゃないか。
「で、貸してなさったんか」

 初は思わず身を乗り出す。徳兵衛はますます背を丸めて縮こまる。
 相手は十二のときから知っている九平次なのである。借りた銀を返さないような男ではない、出鱈目を言うような男ではないことは、大阪広しといえど自分がいちばんよく知っている。
「貸した」
 徳兵衛はしぼりだすように答えた。
 二貫をそのまま九平次に渡すと、手形を書くと九平次は言い出した。そんなもの、友だちなんだから要らないと徳兵衛は言うのに、いやそれではこちらの気がすまないと譲らない。とはいえ右手を怪我しているのだから、結局徳兵衛が代わりに手形を書いた。それに九平次は律儀にも判をついた。

 なのにどうしたことか、約束の三日を過ぎても九平次から何も言ってこない。五日、心配になった徳兵衛は九平次をたずねたが、得意先回りで留守だと告げられた。今日は今日で、自分が清算のためにこうして出歩いていたから、九平次が平野屋へきたのかどうかもわからない。
「明日は約束の七日やおまへんか」思わず初は声を上げる。

「いや、わての留守に九平次が平野屋にきているはずや。もしきてへんのやったら、晩にでも九平次のところにいく。あいつにかぎって、おかしなことをするはずはない。忙しゅうて返しにこられへんかっただけやろうて」

 でも、と言いかけ、初は騒々しくなった出入り口に顔を向けると。噂をすればなんとやら、今話していた九平次の姿がそこにある。仲間数人で酒でも飲んできたのか、意味なく笑い出したり、鼻歌に手拍子をしたりの上機嫌である。
「おい、九平次」
 立ち上がり、彼らに近づく徳兵衛を初は見守る。
「おまえ、三日に返すて言うた銀を返しもせんで、こんなふうに酔っぱらろうて浮かれているのはどないな了見や、早よう二貫を返さんかい」
 くってかかるような勢いの徳兵衛を、九平次は眉間にしわを寄せてじっと見つめ、
「あん?」と訊き返した。「なんのこと言うとるんや?」
 徳兵衛の耳の縁がすっと赤く染まるのを、初は見る。

「なんのこと、はないやろ。おまえ、先月二十八日にわてに会ったやないか、会って、銀を無心したやないか、三日に返す、必ず返すと誓ったはず、今日は何日や、おい、今日は」
「きゃんきゃんほたえなや、かなわんな」九平次は面倒そうにかぶりをふって、酔いの残る薄目で徳兵衛を睥睨(へいげい)するように見返す。「なに藪から棒に言いがかりをつけかる、わいがいつおまえに銀なんて借りたんや?」

「なんやて、忘れたとは言わさんぞ。今にも泣き出しそうにすがりついてきたんはおまえやないか、銀を揃えないかん期限なんやて、おまえそう言うて」

 胸元につかみかかりそうになった徳兵衛を、九平次はひらりと交わし、にやにや笑いで徳兵衛を見やる数人の仲間とともに、茶屋に入って来た。
「ああ、こないにケチつけられたら、せっかく伊勢講でたのしゅう飲んできたんが台無しやないか。わいらはな、上塩町で飲んできたその帰りなんや、最前までええ心持ちで飲んでいたのに、酔いまで醒めてもうたやないか。けったくそ悪い。おーい、酒、つけてくれや、鰻かなんか、焼いたって」

 奥に向かって呼びかけた九平次は、そこに座っている初を見つけた、店先での二人のやりとりを見ていた初は、気丈に九平次を睨み付け。九平次と目が合っても決して逸らそうとしない。
「こらめずらしい、はっちやん。元気かいな? お隣、よろしい?」
 九平次に調子よく話しかけられ、
「盗人が。気安う声をかけな」

 初は九平次にしか聞こえないよう、小声でつぶやいた。九平次は一瞬表情を変えるが、すぐまたにやにや笑いに戻り、ねめつけるように初の全身に視線を這わす。茶屋の女が酒を持って来て、九平次たちの席を作る。彼らがざわざわ座ろうとするところへ、
「おい、どうゆうつもりなんや」
 耳の縁のみならず顔中を赤くした徳兵衛が、追いかけて来て声を荒らげた。
「出鱈目言う男やないて信じているさかい、だいじな銀を貸したんや。おまえ、これを見てもまだとぼけるつもりか」

 わめき散らしながら徳兵衛が懐から出したのは、借用手形である。
 九平次とその仲間たち、酒を運んできた店の人、店の前を通りかかった数人までも足を止め、その様子に眺め入る。初は手形を目を凝らした。九平次の名が書いてあり、判が押してあるが、離れたところでも見える。それを見て初はほっとする。九平次があまり動じないものだから、もしかして徳兵衛の思い間違いだったのではないかと、一瞬疑ってしまったのだった。九平次は徳兵衛をじっとりにらみつけたまま手を伸ばして手形を受け取り、顔を近づけてまじまじと見、そして笑い出す。その場にいた全員が、笑う九平次を見る。
「徳ちゃん、こすいまねするんやったら、もっと上手いことやりなはれ。これ、お前の字やないか。二貫、三日までにお返ししますて、おまえさんが書いてはるんとちゃいまっか」

 初は驚いて手形と徳兵衛を交互に見る。初の読める字がほんの少ししかない。当然どれが誰の字か判別することはできない。九平次が言っているのはいったいどういうことなのか。

 そこへ、初を観音めぐりに連れ出した客が、おかみたちを引き連れて帰ってきた。その場を支配する緊張感にまったく気づかず、
「お初ちゃん、待たせてすまなんだなあ、さあ、おたのしみはこれからや、まだまだ飲みたりんさかい、早よいこ」

 すでにどこで飲んできたのだろう、鼻の頭を赤くして初に近づく。初はそれをきっとにらみつけ、手で制する。客はとろんとした目を初の見ている先に向ける。そこには肩で息をしている徳兵衛がいる。

「人をなぶるんもええ加減にせえ、あのとき、おまえは右手を怪我してて、今はないが包帯までしてたやないか、それでかかわりにわてが書いたや、そんな、たった十日ほどの前のこと、間違うはずもないやろうが」
「こらまた、えらい調子のええこと吐(ぬ)かしよる。あのな、わいは先月二十八、財布をなくしたんや、あれ、いつやったかいな」九平次は仲間のひとりに問う。
「二十五日ですわ」と、隣に座る男がすぐに答えた。

「そやそや、二十五日わい財布を落としてましてん。そのなかには印判も入っていましたんや。たいせつなものでっさかい、方々探してんけど、知れなんだんで、お役所に届け出さんと、昔の印判を拾うて、悪さするヤツがおらんともかぎらんさかいな」

 そう言って、意味深な視線で九平次はなめ上げるように徳兵衛を見やった。腑抜けたように突っ立って二人のやり取りを見ていた通りがかりの人たちも、つられて徳兵衛を見る。

「な・・・・」言いかけた徳兵衛を遮って、九平次は続ける。
「なんやったらお役所いきまっか? わてが出した届け、確認したほうがよろしますん? そしたら、徳ちゃん、偽判よりもおっきな罪になるのが道理、拾うた判でこないな証文まで勝手にこさえて銀取ろうととは、引廻しの上、獄門より重い刑やで。いやいや、わいかて、大事な友だちがそない目に遭うのはたまらんわいな。日頃のよしみに大目に見たるさかい、こないなまね、二度としてけつかるやないで。へ、貸してもいない銀とれるもんならとってみんかい」

 九平次は手形を思いきり丸め、徳兵衛の顔にぶつけると、数秒徳兵衛を見据えるようににらみつけ、ふはは、と笑い出した。その笑いに背を押されたように、徳兵衛は九平次に殴りかかるが、多勢に無勢である。あっという間に徳兵衛は九平次の仲間に取り囲まれ、殴られ、蹴られ、罵倒される。

「ちょっとちょっと、お初ちゃんと、危ない危ない、とばっちり受けたらかなわんさかい、ささ、もう去(い)の」

 客はあわてて初の手首をつかみ、立ち上がらせる。さわるんじゃないとばかり、初はその手を振り払うが、
「初、ええ加減なし。喧嘩なんか見てたかてええことおまへん。帰るで」
 おかみに小声で叱られ、不承不承立ち上がる。

 片手を客に、片手をおかみにとられ、茶屋をあとにしながら、初は幾度も振り返る。土埃の舞うなか、ぐったりと抵抗をやめ、子どものように頭を抱えて丸くなる徳兵衛の姿がちいさく見える。なんにもしない相手を殴るのは卑怯だろうと、怒鳴り声がのど元まで出るのを初は必死にこらえる。ここででしゃばって徳兵衛に恥をかかせることになると、初は知っている。そういう馬鹿げたことを男が大事にすることを知っている。


 居酒屋の座敷で、加島屋が舟を漕いでからもうずいぶんになる。たしかに居酒屋で里芋煮や酢たこなどをつまんで飲むのは、初にはめずらしい。かめにもめずらしいにちがいない。いつもは眠たくてまぶたが落ちかける時間なのに、あちこちきょろきょろ眺めたり、ご不浄に立ったりと、はしゃいだ気分がにじみ出ている。並んだ皿はもうとうに空いていて、銚子に残った酒を駕籠の衆がたに注ぎ合って飲んでいる。

 新地の外で飲むことなど滅多にない初は、いつもだったらかめのようにはしゃいで、飲み過ぎたかもしれないけど、今日はただただ鼻白み、早く帰りたくてたまらない。もしや徳兵衛が、ふらりとあらわれるのではないか、暖簾の向こうを歩いて行くのではないかと目を逸らさずにいるが、あんな喧嘩のあとで町をぶらついたりするだろうか。

「ねえ、加島屋さん寝てしもうたし、もう帰りまひょ」初は吸いたくもない煙管を口につけて、おかみさんに言ってみる。
「難儀なこと言いな。この人ここに置いて帰るゆうんかいな」
「ほんなら、起こして・・・・」言いかけて、口をつぐむ。起こして天満屋に連れて行くなんて、まっぴらごめんだ。今日じゃなければ、気が乗らなかろうがなんだろうがそうしただろう。だってそれが生業なのだ。でも今日は、今日だけは嫌だった。徳兵衛がどうなったのか心配しながら、ほかの男に抱かれるなんて。
「起こして、連れて帰るか。朝までおってくれたら、あんたかて余計もらえるで」

 初の気持ちを読んだかのようにおかみが言う。
「起こさんでよろしいわ。しみったれの田舎大尽やさかいこんな店にしたんやないか。ここやったら借り切ったとしても、うちよりはるかに安かろうて算段。けちくさい男」

「初、滅多なこと口にするんやないで。加島屋さんあんたがめずらしがるやろう思て、わざわざこうして外にお席を作ってくれたんやないか」

 初は肩をすくめて見せて、煙管を火鉢の端に打ち付ける。初もうすう気づいている。加島屋は天満屋主人に身請け話をもちかけている。おかみも、ご主人も、滅多にないいい話だと思っているに違いない。けちな加島屋だが、田舎ものらし遣うときはばーと遣う、さぞや身請け金ははりこんでくるのだろうし、そればかりではない、人のいいおかみさんは女たちの母親のような気持ちなっている。あれこれ口うるさく言っていても、それぞれにとっていちばんいい落ち着き先をきちんと考えているのを、天満屋の女たちはみな知っている。

 加島屋なら少しばかり歳をとっているが、いや歳をとっているからこそ、商売は堅実で滅多なことでは失敗しなかろうし、若い女を娶ればよそで遊ぶこともしなくなる、南紀なんて引っ込んでしまえば華やかな暮らしは望めないが、初にとっては穏やかで静かな暮らしこそが幸せのはずだと、そこまで考えてくれているのに違いない。

 けれど今のところ、初はおかみや主人からはっきり話を切り出されたわけではない。二人ともにおわせているだけだ。あるできごとが起こったのち、二人は身請け話を女たちに話すとき、ほかの店ではあり得ないだろうほど慎重になった。

 ごうごうといびきをかきはじめた加島屋が、体をぶるっとふるわせて薄目を開け、口元のよだれをぬぐって初に焦点を合わせる。だらしなく顔がゆがむ。
「初ちゃーん、そやった、飲んでたんやった、なあ、将棋でもさしっこするか、それとも囲碁がええか、もう酒がないな、たのんでやにいちゃん。銀はあるんやさかい、さあさあ」

 駕籠の衆が酒を頼みに席を立つ。あらたに三人連れの客が入って来て、少し離れたところに腰掛け、大声を上げて注文している。駕籠の衆が運んできた酒を、初は満面の笑みで加島屋についだ。とにかく酔わせて眠らせよう。
 初も加島屋の酒をお猪口で受け、舐める程度に口をつける。

「それでおまえ、あんなに歩き倒して、いったい何を観音さんにお祈りしたんや。すてきな馴染みができますように、か。まいにち鰻食べられますように、か」さっきまで寝ていた加島屋は、苦いような息を吐きながら大声で笑い、初の太ももを着物上からまさぐるように撫でる。初は愛想笑いをしながら、ふと、徳兵衛の名が聞こえたような気がして、耳をすます。

 すでにどこかで飲んできたらしいさっきの客たちが、声高に話しているのだった。聞こえたのは、徳兵衛の名ではなかった。が、彼らが話しているのは徳兵衛のことだと初にはすぐわかった。
「丁稚やろ、どこぞの醬油問屋の」
「いや手代らしい、新地の女にずいぶん入れあげてしもうた話や」
「あーあー、ようあるようようある。けど新手やな、店の銀を横領するのは聞いたことあるけど、偽判とはよう考えたもんや」
「どこがいな。子どもだましいな手やないか」
「しかもすぐにばれてしもて」

 笑い声が響く。初はねっとり太ももを行き来する分厚い手を包んで押し戻し、ほとんど酒の減っていない加島屋のお猪口にこぼすほど酒をつぎ足す。
「往来でとっつかまえられてどつかれよった、その、どこぞの丁稚、どうなったか知らへんか?」客の一人が、料理を運んできた店の者に訊いている。

「さあ、さっきのお客さんの話やと、くたばってしもたて聞きましたけど」
 初は身のすくむ思いがする。今すぐ店のものに駆け寄って、のど元締め上げてどこでそんな話を聞いたのかと問い詰めてやりたい。

「なあ初ちゃん、初ちゃんて。ぜんぜん盃が空いとらんやないか、若いんやさかい、ほら、ぐっと空けんかい」
 促されるまま初はお猪口を空ける。「あんたがたも、ま、ま」加島屋は駕籠の衆たちにも酒をついでまわっている。かめが新しい煙管の用意をして初に渡す。目が合うと、何かを感じとったのか、かめは心配そうな目で初を見ていた。

「はいな、きょうは飲み明かすんでっしゃろ、加島屋さんもまだやわいな、あてなかよりぜんぜん強いくせしてからに」
 初は銚子を奪い取るようにして、また、加島屋のお猪口を満たす。太ももを撫でまわされないよう、初はあぐらをかいた加島屋のももや脚の付け根をまさぐった。客たちの話に耳をすませたまま。
「せやけど、くたばるまで荒くたいまねするゆうのもえげつないわな」
「自業自得、あこぎなまねさらした罰」
「新地の女ゆうんはそなにええもんなんかいな」
「いや、そのどこぞの丁稚やら手代やらは女に馴れてへかっただけや。筆下ろしてもろて、手練手管にひっかかって、かーっといかれてしもた」

「阿保やな、偽判やなんて」
「せやかい、真面目男を阿保にするのが新地の女のこわさなり」
 なんだおまえら、棒手振か、どこぞの大工か。どちらにして新地ですら女を買える銀のない連中ばかりが、何を吐かしている。徳さまは偽判なんかしていない、悪いのはあの九平次だ、九平次に嵌められただけなんだ。それに、あれしきのことで徳さまがくたばるはずがないじゃないか。初は立ち上がり叫びたいのをこらえて、奥歯をぎりぎり嚙みしめる。気がつけば、脚を撫でられている加島屋は、また半目になって口元からよだれを垂らさんばかりである。

 初は片手で持った猪口をのぞきこむ。透明の酒がしずかに震えている。
 くたばるはずがない。だとしたら、徳さまは今いったいどこにいるんだろう。初は考える。もう戻るところもないだろうに。逃げているのか、それとも、親方の元に戻って土下座をしているだろうか。

「まあ、なんぼこわがったかて、わしらが好きに買えるようなもんでもないし」
「酔っぱろうて、かかで我慢してたらええこっちゃ」
 笑い声が響く。初はちらりと男たちを見やる。初たち一行はまるで気づかず、酒を酌み交わし、料理をつまんでいる。市井の暮らし。初は思う。これが市井の暮らし。

 これから先、私たちはどうなるんだろうとはじめて初は、自分たちの将来が変わってしまったことに思いに至る。自分と徳兵衛の。

 どのくらい時間がかかるかわからないけれど、徳兵衛が銀をためて身請けをしてくれるまで待つものだとばかり初は思っていた。そして新地の橋を渡って、二人でつつましく暮らしていくのだと。けれどもそれは、きっともう叶わないことなのだ。持参金は返せない、しかも、内儀の顔に泥を塗って帰れるはずがない。いや頭を下げて心から謝れば、もしかして叔父さんは許してくれるかもしれない、仮にも血がつながった人たちなのだ。けれどきっと徳兵衛は、持参金の二貫の銀を返すか、返せずに働いて貯めるかするだろう。どちらにしても身請けは無理だ。

 そんならわたしが加島屋の身請けを受けたらどうだろう。身請け金を吊り上げて、私の取り分をそっくりそのまま徳兵衛にあげる。

 あげてどうなる? 徳兵衛がこっそり南紀まで迎えにきてくれるのを待つ? 二貫の銀を返した徳兵衛は、はたしてわたしを思い出してくれるだろうか? 容姿がよくて粋な徳兵衛が、南紀にわざわざ女を迎えにくるだろうか? もっと若くてうつくしい女を、徳兵衛ならばかんたんに手に入れてしまうのではないか。それならなんのためにわたしは身請け金を・・・・。めまぐるしく初は考えるが、いっこうにいい考えが浮かばない。

 気がつけば、かめも隅で座って壁に寄りかかり、口を開けて眠っている。駕籠の衆と長太は無言で酒を飲み続け、おかみは退屈そうに加島屋を見たり、ほかの客たちを眺めまわしたりしている。目が合うと、おかみは口をへの字にして眉毛を上げる。
「じつはさっきの生玉はんでの喧嘩な、徳さまと油屋の九平次でしたんや」
 初はこらえきれずに小声でおかみに打ち明ける・
「徳さま、なんで九平次にだまされたらしゆうて・・・」
 おかみはじっと初をのぞきこむ。三十過ぎだと言われているけれど、みんな蔭ではそんなの噓だ、もっといっているはずだと言っている。そのくらいおかみは老けて見えるのだ。

「せやけどそれを証明する手立てがのうて・・・・どないしたらええんやろか」
 ゴヒュ、とうたた寝をする加島屋がいびきをたてる。初はちらりとそちらを見やって、起き出さないのを見届けて、
「このままやったら重罪になるって九平次が・・・・」
「恋なんかするもんやない」
 射るように初を見据えていたおかみは、表情一つ変えずにささやくように言った。
「おまえは遊女や。早くも身請けの話が出てるし、この身請けが流れてももっとええお客が付くに決まっとる。銀も甲斐性もない若造との恋やなんてつまらんもんで値打ちを下げなさんな。あんたが憎うて言うてるんやない。わたしは元はおまえとおんなじ身の上やったから言うてんねんで」

 初は着物に隠されたおかみの腕のあたりに目を走らせる。おかみはけっして人前で服を脱がない。夏の暑い盛りでも水浴びをしない。入れ墨を焼き消したあとがあるという噂の真偽は知らない。けれど、湯浴みや行水をみなといっしょではなくひとりでするのを初に許しているのは、その噂が本当だからかもしれないと初は思うことがある。肌を見せたくない気持ちをわかってくれるからではないかと。
「つまらんもんやろうか」
「つまらんもんや。一年たったら笑い話。十年たったら、覚えていないわ」
 一年.十年.初は、おかみの言葉を繰り返す。

 元遊女だったというおかみの身の上はいろいろ噂されているけど、入れ墨と同様、本当かどうかはわからない。恋なんかつまらんと思うに至ったおかみに何があったのか、初は知りたくてたまらないが、訊いたってきっと教えてくれまい。あそこで暮らす女たちはみんなそうだ。本当のことは言わない。

 一年.十年.
 もう一度繰り返してみて初は、ぞっとする。
 こんなにも好きで、観音さまにそればかり祈って歩いた暑い日を、一年ののち、本当に笑っているかもしれない。十年ののち、本当に忘れているかもしれない。一年、十年のちに、自分が何をしているのか初には思い浮かべることができないのに、けれどそれはやけにくっきりと鮮やかに浮かぶ。今日の日のことを笑っている自分。今日の日の事など忘れている自分。そうしながら、ほかの男に平気で抱かれている自分の姿。

 いやだ。そんなのはいやだ。一年後にいきたくない。十年後にいきたくない。徳さまが好きだというこの気持ちを、色褪せずになくさずにとっておくことはできないのか。

 気づけば先の客たちも帰って、居酒屋にいるのは初たちだけである。おかみは駕籠の衆に合図をすると、いびきをかいてよだれを垂らす加島屋をそっと揺らした。
「加島屋さん、もう仕舞いでっせ、初は帰らんなあかんさかい。起きとくんなはれ」

 明け方、天満屋に泊まった加島屋は鐘の音を聞くより先に帰っていった。
見送りに出た初は空を見上げ。。頭の上は染め抜いたような紺色だが、下のほうは白んできている。初は淡い闇に目を凝らす。もしやどこかに徳兵衛がいるのではないか。自分がこうして出てくるのをどこかに隠れてじっと待っているのではないか。そこに徳兵衛がいればこんなに暗くても見つけられる自信が初にはある。だって徳兵衛は光をまとっているのだ。

 けれどどこもかしこも静まり返って、人の気配もない。
 それにしても、徳兵衛はあのあとどこにいったのか。今はどこにいるのだろう。
 もしや、刃物を持って九平次のところに乗り込んだりしていないだろうか。そこまで考えて、初はおかしくなる。あの徳さまにかぎって、そんなことができるはずがない。

 騙されて二貫もの大金を取られても、仕返しすらできないのが徳兵衛だ。手代になったばかりのころ、はじめてついた客に支払いを踏み倒されて、親方である叔父さんにこっぴどく𠮟られたと言って、徳兵衛は泣いたことを初は思い出す。ちいさな子どものように初に抱かれて泣いたのだ。なんて゜あんな奴を信じたのか、悔しいと。

 徳兵衛は、実の親に先立たれ、血のつながらない女にいじめ抜かれて生きてきた。そんな徳兵衛が、どうしてこうも人を信じやすく、どうしてこうも子どもみたいなのか。肝煎りに連れられてここにきて、父や母が言い聞かせたように、きれいなべべを着るだけではない、おいしいマンマを食べられるだけではない、自分はこの身を売られたのだと気づいたときから、初は人を信じることをやめた。たった十からそこらのときだ。なのに徳兵衛ときたら、わたしと似たような道筋をたどって大人になったのに、いともたやすく人を信じて、人に助けを乞うて、人の思惑に泣く。

 たぶん反対なんだろう。叔父夫婦にひきとられ、その夫婦がごはんを食べさせてくれるばかりではない、仕事をくれて、目をかけてくれることを知ったとき、わたしとはまったく反対のことを徳兵衛は決めたのにちがいない。信じよう。まわりのすべての人を信じよう。継母がつぶしも曲げもできなかったまっすぐな心で、そう決めたのだろう。そう決めなければ、生きていかれなかったのだろう。

 おなかがすけば誰かがご飯をくれる。困っていればだれかがきっと助けてくれる。道に迷えばだれかがただしい通りに連れ出してくれ、銀がなければだれかが貸してくれ、怪我をすればだれかが手当をしてくれる。そう信じると徳兵衛は決めたのだ。そんなはずがないことをよくわかっているわたしが、だから守ってやらなければならない。徳兵衛の作り出した、そのあたたかくてやわらかい世の中が、壊れないよう、ひび割れないよう。

 今までずっと初はそう思っていた。だけれども今、どうやって教えてあげたらいい。叔父夫婦は徳兵衛を許さないだろうし、九平次は徳兵衛をまんまと騙したのだ。罪を犯した徳兵衛にきっともうだれも見向きもしない、助けてあげることもできないと、どうやって教えてあげたらいい。わたしたちにももう進む道なんかないことを。

 馬鹿な徳兵衛。いったいどこにいる、馬鹿な徳兵衛。
 空の紺はゆっくり淡くなってわく。蒸し暑い。徳兵衛はあらわれない。死ぬってどういうことだろう。初は夜とも朝ともつかない空を見上げてふいに思う。死ぬってこんな感じのことかな。だれもいない静けさのなかに、たったひとり立っているような、それは怖ろしいことであろうか。爪を剥ぐより肌を彫るより、指を切るより折檻を受けるより痛いことだろうか。好きな人に会えないよりも、先行きのない恋よりも、つらいことだろうか。のわあんと、どこかから猫の間延びした鳴き声が聞こえてくる。わたしのいとしい徳兵衛は、今ごろどこぞで猫みたいに傷ついた体を丸めているのだろうか。

 初が天満屋にきたのは、徳兵衛が丁稚に入ったのと同じ、十二のときだ。それまでは島原の遊郭にいた。八つのとき、知らない男に連れられて島原にいき、それまでの名を一度、捨てた。それから新地にやってきて今一度、名は変わった、初、というのはそのときにつけられたら名だ。それより前の名前を、近頃の初は忘れてしまいそうになる。誰もその名で呼ぶ人がいないから。

 どうして島原にから新地にいくことになったのか。新地にきてから初は薄ぼんやりと理解した。
 初が子飼いとして入った天満屋は、島原の店よりだいぶ小さく、抱えている女も二、三人と少ないうえに、太夫も天神もいなかった。

 つまり、自分は安くなったのだと初は理解した。おそらく、太ももの火傷のせいで。
 島原に入った初は、青柳という名の天神の禿(かむろ)になった。初でも見とれるくらいうつくしい女で、しゃべったり笑ったりすることが少ないから、ときどき人形みたいに見えた。

 禿として青柳について季節がひとまわりしたころだろうか、囲炉裏につるしていた鍔(つば)薬缶を青柳がとろうとして、手をすべらせた。熱された薬缶はそばに正座していた初の腿に落ちた。あまりの痛みに声も出なかった。気を失ったのだろう、それからあとのことは初は覚えていない。気がついたら物置に寝かされて、医師と遣り手が何か話していた。

 とくに右太ももの内股が赤くただ、薬を塗るのも飛び上がるほど痛かった。それでも三日後には元どおりに働かなければならなかった。青柳はあいかわらずの無表情で、人形のように美しかった。薬缶のことも初の火傷のこともいっさい触れず、駕籠屋を呼んでこい、箪笥を磨けとそれまでどおりに初をこき使った。

 薬缶を落としたのはわざとだろうかと思うこともあった。けれどそのつど初は、そんなはずはないと思い返した。だってそんなことをする理由も、される理由も思い当たらない。

 痛みはじょじょにひいていった。けれど赤くただれた、気味の悪いあとが残った。引き攣(つ)れたようなそこだけ赤黒い皮膚は、得体の知れない虫みたいに見えることもあったし、怪物が開けた口のなかみたいに思えることもあった、幼い初が見ても、正視できないようなまがまがしさがあった。

 そうしてしばらくのちに、初は新地に連れてこられたのだった。
 このやけどのせいで自分が安くなったのだと理解しても、しかし初は、故意にではないにせよ火傷を負わせた青柳を恨んだりはしなかった。島原に比べたら、天満屋は初には格段に居心地がよかったからである。

 島原では、軽口を交わす女たちなどいなかった。親しい女同士は物陰でひそひそ話し、けれど翌日には、それぞれべつの女と、互いの悪口を言っていた。ときどき客をとったとらないの派手な喧嘩があった。それぞれべつの女に仕える禿(かむろ)たちも、女たちを真似て陰気で、持ち物はしょっちゅう無くなったし、ちょっとでもぐずぐずしていれば、自分のぶんの食事はだれかが食べてしまっていた。

菓子を分けてもらう事もなければ、ぜったいに口を聞いてくれない年上の少女もいた。ひどいともつらいとも思わなかった。どこでもそうなのだろう、自分はこういうところで生きていくのだろうと思っていたから、初は、新地にきて心底驚いた。

 天満屋にいる三人の女も、長屋のように密集した店みせの女たちも、自分のように子飼されている少女も、せかせかがつがつしていなかった。あわてなくても自分の食事はきちんとあったし、飴玉も大福餅も、客にもらえば姐さんがたは気前よく分けてくれた。

 何よりここの女たちは、しょっちゅうそれぞれの店に行き来しては集まって、無駄口を叩き、よく笑う。客のまねしては笑い、だれかの失敗談を暴露しては笑い、下の話をしては笑い転げている。

 初はよくかわいがってくれたのは、島という女だった。
 島は、気まぐれなところもあるがそれでもやっぱり、やさしい女だった。このあたりでは飛び抜けてうつくしくて気立てがよい島に、客のいないときなど滅多になかったけれど、まれにそういう夜があると島は初を抱きしめて眠った。島のやわらかさ、香の奥の汗ばんだにおい、餅のような肌、母親とだってそんなふうに眠った記憶のない初は、うっとりと夢見心地だった。

 眠るのがもったいなくて必死に目を開けているのだが、島の息も温かさもやわらかさも、まるでそういう薬味みたいに直ぐに初を眠らせてしまうのだった。

 太ももの火傷を、おかみとほかに見たのは島しかいなかった。島の行水を手伝っているとき、浴衣からのぞいた傷を島は見逃さなかった。島原で何があったのかを聞くと、
「そりゃあんた、やられたんや」島は言った。「その女、あんたに太夫を取られると思うたんやろな」

 初は驚いた。自分が太夫になれるなどとは思わなかったから。そんなはずはないと言っても、
「お人好しやな、初は」と島は笑うのだった。
 けれど、太夫になるより、ここで島と眠るほうがずっといいと、そのときの初は口には出さずに思った。

 島はまた、初にいろんなことを教えた。客の顔など見るな、話など聞くなと島は十二の初に言った。客を人として見てはならぬ、と言うのである。実際島は、どんな上客でも常連でも、まともに顔も見ず、煙管を吸っていい加減な返事をして、ときには初の頬を引っ張ったり足の裏でくすぐったりして客を無視するのだった。島がとくに嫌うのは、田舎もの。生まれ故郷のことではなくて、立ち振る舞い銀払いで島は田舎ものと決めつけた。いつまでもぐずぐず飲んでいる男、酒に飲まれる男、遊女の言葉を本気にする男を島はハナから馬鹿にして、なかでも銀(かね)払いの悪い男が最たる田舎ものだと初に言い、そういう輩の座敷ではあからさまに彼らを見下し無視するのだった。

 それでも客は切れずに毎回島に会いにやって来る。島が口も利かない「ど田舎もの」も田舎面下げて間を開けずにやってくる。つれないほうが男はよろこぶのだと、島は初に言うのだった。本当のことはだれにも言ってはいけないとも初は言われたし、銀勘定だってできるようにならないといけないと、そろばんも教えてくれた。

 せやけど、いちばんだいじなは、新地から出ることやと、島はいつもくり返していた。出られるんなら手段はなんでもかまわんさかい。

 好きない男に身請けされても出られる方がええの? と島に訊いたのは、初ではない、河内屋の子飼だったやよいだ。初と同い年のやよいは初よりずっとませていた。

 あほ。男なんて好きになるもんと違う、と島は答えた。好きにならんだら、好きやないもない。あてを新地から連れ出してくれるんなら、亀かて蝮(まむし)かてあては好きになる。連れ出してくれたあとでうーんと好きになるわいな。

 まだ客をとっていなかった初は、島原よりずっと居心地がいいこの家で、ずっと暮らしていてもいいと幼い思いを抱いていたから、島がなぜそんなにここを出ていきたがっているのかはわからなかった。島が出ていったら、もう島と抱き合って眠ることができない。そのことのほうがずっと心配だった。

 ほな、姐さんの嫌いなど田舎ものでも、身請けされるならよろこんで受ける?
 初も、やよいをまねて訊いてみた。島は煙管からのぼる細い煙の行方を目で追って、「ど田舎ものでもいっしょにど田舎で暮らすんは、あても勘弁やわ」そう言って天井を仰いで高笑いした。それを聞いて初は安心し、どうか姐さんにはど田舎もの他から身請け話しかきませんようにと真剣に祈ったりした。

 その島が、まるでちがうことをいい出したのは、初が天満屋にきて一年がたったころだった。
 ねえお初、と初の髪を指で梳きながら島はうっとりと言った。ねえお初あんた、生まれてきてよかったと思うこと、あるか。まだないやろうねえ。そしてククク、と笑う。

 自分は姐さんと眠るときそう思うと答えると、島は呆れた顔をした。気の毒に、そんなことやない。もっともっと、もっとしあわせなことが、世の中にはあるんやで。この新地にかて、ある。そう言って今度は涙ぐむ。

 観音さまのことを言うようになったのも、このころだ。
 何か悪いことがあれば、前世の報いやと人は言う。来世に幸せになれるよう、つつましく暮らせと人は言う。せやけどほんまにそうやろか。あんた、前の世のことなんて、覚えているか? 覚えてへんやろ。今のいのちは今のいのち、ひとりきり。それやったら、前から次やら考えんと、思いきり好きなことをせな嘘やないか。観音さまは、恋を悟りへの架け橋にしてはるんやさかい、恋をすることはちっとも悪いことやない。

 初に言い含めるように、幾度もそんなことを言った。
 恋を悟りへの架け橋にしはるって、どういうこと? 初は訊いた。
 恋してはじめて知るゆうことや。今のいのちはひとつだけ。せやさかいそのいのちのぜんぶで、観音さまにお祈りすること、おすがりすることを、だれかに恋してはじめて知ることがてきるんや、あてらみたいなもんは。

 けど、恋なんてせんほうがええんとちがうの。初はおそるおそる訊いた。
 島はしゃがみ込んで真正面から初を見据え、恋のない人生なんか、そのへんの犬にくれてやるわ、と言うのだった。

 そやかて姐さん、姐さんが言うたんやないか、男なんて・・・・。
 島は初をぎゅっと抱きしめて、その頬に歯をたてないように嚙みついて笑う。

 男なんて好きになるんやない、そう言うてたあては、あんたと変わらへんくらいおぼこやったんやねえ。
 そして顔をはなし、またじっと初を見つめて真顔でささやいた。
 あんたにもいつかきっとわかる日が来るよう、姐さんが祈ってやるさかいな。

 そしてじっと初の目をのぞき込んで、囁くように付け加えた。
 もしあんたに恋とは何か分かる日がきたら、そのとき、わからせてくれたその男にだけ、あんたの傷、あの傷をみせてるんや。その男はな、きっとあんたの傷をきれいやと言ってくれる。それまで、ほかの男には見せたらあかんよ。

 ああ
姐さんは本当にきれいだと思ったことを、初は今でも覚えている。島は最初に会ったときから美しかったが、何か、内側から強烈な光が発するように初には見えた。太ももの火傷を誰にも見せるなんてとんでもないと初は正直思ったが、あまりの島の美しさに気圧されるように、幾度も小刻みにうなずいて見せた。

 実際、島はそれから観音さまめぐりをするようになった、客が、芝居や花見に連れ出してくれるとき、ねだって札所もまわるのだ。そころの初にとって、お寺など退屈なだけだった。だから島にはついていかず、おかみや駕籠の衆といっしょに茶屋で島を待っていることが多かった。戻ってきた島に、何を祈ったのかと訊くと、しゃべったらかなわんようになるやと初の耳に甘い息を吹きかけた。

 そんなふうに上機嫌だったのはほんのしばらくの間だけだった。その後、島は以前にもまして気分屋になった。買い物を頼んだのに間違ったもの買ってきたと扇子で初を叩いたり、突然口をきいてくれなくなったりした。お座敷にいるのに急に泣き出したり、食事中にけたたましく笑い出したりした。姐さんは頭がおかしくなってしまったのではないかと、初はこっそり思った。姐さん、頭がおかしくなって国に返されたら、わたしどうしよう。初はやよいにだけ胸の内を打ち明けた。

 間夫ができたんや、と教えてくれたのは河内屋のさがだ。間夫が愛人の意であることを初はすでに知っていた。

 間夫ができたんや、と教えてくれたのは河内屋のさがだ。間夫が愛人の意であることは初はすでに知っていた。起請文(きしょうもん)を交わしたのに、相手のことが信じらへんのや。当たり前やわな、ここを出たら、男なんぞ何をしてるかわかったもんやない。
 
 どの男が間夫なのか、しかし初にはわからなかった。島から悩みを逐一聞かされているらしいさがは、今度座敷のあるときにこっそり教えてやると初に言った。そうして目配せで教えてもらった相手というのは、呉服屋の若旦那である。特別な自分の姐さんが恋するような男に、初には見えなかった。ほかの客と変わりのない、助平にしか見えないのだった。

 ときどき初は、島原で見たあの光景を思い出した。半裸で木にくくりつけられた女だ。水をかけられ、血をにじませて、死んだようにぐったりしていた女。いつか島があんな目に遭うのではないかと思うと、じっと座っていられないような気になった。

 さして島は、起請文だけでは足りず、生爪まで剝がした。爪のない指を見たとき、初は悲鳴を上げた。
 姐さん、爪がない、爪どうしたん。おろおろと訊くと、島はにやりと笑い、剝がした、自分で、と言った。

 天満屋にきて、聞いたことがあるから、知ってはいた。起請文で愛を誓、それで足りず髪を切って愛を誓い、それで足りず爪を剝がして愛を誓い、それでも足りず指を切って愛を誓い、それで足りず入れ墨をして愛を誓う、そういうことがあると知っていた。けれど、ずっと昔のことだろうと思っていた。

実際、髪を丸坊主にしたり、指を切り落としたりする女などもういないとおかみは言っていた。髪にしろ指にしろ、ちょっと切って愛を誓い、みせるだけだ、そうやって相手の気を引いておくんだと。

 でも今、目の前に生爪を剥がした女がいる。恋とはなんておそろしいものかと初は心底思った。観音さまに助けてもらわなくてもいい、わかる日なんてこなくていい。

 爪を剥がしたことがおかみさんにばれたのだろう、そり以降、島には監視がついた。爪で終わればいいが、入れ墨をされたら商売にさわるし、その先にいかない保証はないということらしい。その先、というのがなんであるのか幼い初は姐さんたちの会話からなんとなく理解した。愛する人といっしょに来世に向かって旅立つことだ。

 来世はない、今の命は一度きりと言っていた姐さんなのだから、そんなことはすまいと思いはするが、けれど、笑ったり泣いたり怒ったり、気が違ってしまったような島を見ていると、初もさすがに不安になった。相変わらず光を放つように美しい姐さんは、本当に、どこか遠くにいってしまいそうだった。

 そのころを思い出すたび、初はいつも泣きたい気分になるが、しかし一方で、島は天晴れな女だと感心もする。初は、いつもいっしょにいたのにもかかわらず、相手が誰だか気づかなかったのだ。おかみも、そのころ天満屋にいたお玉姐さんも、にぎやかにおしゃべり興じていた河内屋や丸屋の女たちも、島から話を聞いてたさが以外のだれも、生爪騒動があるまで相手が誰だか分らなかったに違いない。

島は、自分を失うほど恋しているのに、それをおくびにも出さなかった。間夫以外の他の男も愛しているふりができたのだ。だからこそ、爪を剝がす必要があったのだろう。相手だけは、その恋が本物だとなんとしても信じてもらわねばならなかったのだから。

 島は、天満屋を逃げ出すことはしなかったし、ひそかに案じられていたように心中もしなかったが、身請けされることも、年季をあけることもなかった。

 翌年、病にかかり、国に帰ることになったのである。悪い病を客からうつされたという人もいたし、間夫に捨てられた心労が元だという人もいた。本当のことは、初とさがを含む。ほんの一部の人しか知らない。

 島は子を孕んだのである。それが間夫の子なのかどうか、それはさがにも初にもわからない。もしかしたら違うかもしれない。もし間夫の子であれば、乳すらやれないとわかっていても、島はなんとしても産んだのではないかと、今になって、初は思う。

 子を堕ろし、何がいけなかったのか、島は寝ついた。みるみるうちに瘦せて、立ち上がることもできない。島か放っていた光はじょじょに、じょじょに弱々しくなった。窓のない狭苦しい部屋に寝かされていた島は、主人とおかみが相談した結果、国に帰されることになった。若いものたちが瘦せ衰えた島を背負って出ていく日のことを、初は死ぬまで忘れることはないだろうと思っている。

皐月(さつき)の晴れ上がった日で、空はすこんと高く、雲ひとつなく青かった。島自身の希望で、おぶわれた島にはすっぽりと布がかぶせられたいた。その異様な姿は、皐月の晴天といかにも不釣り合いだった。

「あんたは好きな人と結ばれるんやで」と、すずしい日なのに汗をびっしょりかいた島は、枯れ枝のような腕で初の髪に触れた。とにかくここを出るんだと言っていた姐さんは、その言葉通り新地をようやく出ていくのに、病のせいだけでなく、うれしそうには見えなかった。

 病の床についてから、間夫は一度も島を訪ねてこなかった。噂では、桔梗屋に通いはじめているらしかった。そこの女に今は夢中だという。

 故郷に帰る、この先おそらく一生会うことのない島に、自分を抱いて眠ってくれたただひとりの女に、初は訊きたかった。

 姐さん、生まれてきてよかった? 姐さん、恋のない人生なんか、やっぱし犬にくれてやりますか。姐さん。
 訊けなかった。かって島が放っていた強烈な光は、すっかり消えていた。

 晴天の下、布ごと島を背負った男の背中だけが、黒い空洞のように初には見えた。泣いているつもりだった。けれど涙は出なかった。空洞を背負った男の姿が橋の向こうに見えなくなると、初は走って天満屋に戻った。泣いたって姐さんは帰ってこない。泣いたってしかたがない。泣いたって、天満屋に戻り、肩で息をしながら空を見上げた。橋のこちら側の、すすけたようなちいさな空を、初は睨みつけるようにみつめた。

 島がいなくなってしばらしてから、小春という女があたらしく天満屋に入った。島よりいくらか年上に見えた。小春は島と違い、いっさい感情をおもてに出さず、女たちとのおしゃべりにも興じなかった。島は客の前で不機嫌を隠さなかったし、小馬鹿にしているようなところがあったが、小春は表情のない顔ながらていねいに接した。客と口を利かないこともなく、退屈な客を相手にしているとき、これみよがしに初をからかったりすることもない。
けれど初には、なぜか小春の方がこわかった。小生意気だけれど基本的には気立てのよかった島よりずっと根深く客を見下し、静かに呪いすらしているように、初には思えるのだった。

 小春は初に島のように何かを教えてくれることがなかった。だから初はできるかぎり小春を見続けた。客あしらい、化粧のしかた、ふだんの仕草、寝間までのぞいた。

 軽口をきくこともなく、表情もない小春が何を考えているのかわからず、初は親しみを覚えることができなかったが、それでも小春は初を邪険に扱うことはなかった。寝間を覗かれていることに気づいていたのかもしれないが、何も言いはしなかった。

 そして十五になる年の正月あけ、初がはじめて客をとることになったとき、小春は主人たちと相談し、自分の馴染みに話を持ちかけてくれた。初のはじめての相手は、小春の馴染みである米問屋のご隠居である。

 小春に身請け話が持ち上がったのは、そのすぐあとだ。糸物屋の三代目が相手である。けれど小春が橋を渡ることはなかった。身請け話を受けたしばらくのちに、松の木に首をくくって死んでいるのをよその店の番頭が見つけた。

 内股に間夫の名の入れ墨があったと噂が流れたが、初は信じなかった。客と寝るのも着替えも盗み見ていたが、小春の入れ墨などみたこともないし、だれが相手なのかもてんでわからない。それに小春は島みたいに恋だのなんだのひと言だって言ったことはなかった。終始表情のない顔だった。どの客に対してもそうだった。島も相手がだれだかわからせるようなことはしなかったけれど、それだって、黙っていられずさがには打ち明けた。
入れ墨は誰の名だったのか、それは誰も知らないのだから、やっぱり噂なのだと初は今でも思っている。誰にも悟られず、秘め続けることのできる恋などあるはずがないと思っている。

 ではなぜ死んだのか、初は考えてもわからない。身請けがいやだったのなら、断ればよかったではないか。それだってじきに年季は明けたのだ。橋の向こうに出ていくのが怖かったのだろうか? まさか。だれしも、外にいくことしか考えていないというのに、小春は最後まで、初にとってわからない女だった。こわくもないし、悲しくもなかったのは、小春の亡骸を見なかったからでもあるが、最後まで小春の感情の読めない顔しか知らなかったからだ。

 客をとるようになって、初は、昔、島が言っていたことを胸の内でくり返した。恋をする前の島の言葉だ。男を人として見てはならぬ。それはただしかった。恋をした島はやっぱり間違っていたと初は思うようになった。男なんて、好きになるようなものじゃない。橋を渡って新地の外にいくための布石でしかないじゃないか。

 ここを出るんだ、とにかくここを出るんだという島の言葉を、客をとるようになってようやく初は理解したのだった。

 客をとらずにすんだ幼いころは、豆腐屋にいってこい、掃除をしろとこき使われてばかりで、ときには失敗をしでかしておかみからきつく𠮟られたりもしたけれど、よその店の娘たちと飴玉をしゃぶりながら笑い合ったり、ときには島に抱かれて眠って、冬には火鉢があり、食事だってきちんと用意してもらえるのだから、ここにいたっていいじゃないかと初は思っていた。

けれどいざ客を取るようになってみれば、当然ながら楽なことばかりなはずがない。ねちっこい男、ひとり勝手な男。くさい男うるさい男、変わった趣味のある男、休ませてくれない男、だるくても調子が悪くても休めば身揚がりだし、こちらからまだ客を選べる立場ではない。ここにいるかぎり、ずっとこの毎日が続く。年季が明けるのなんて、いったいどのくらい先のことかと思うと気が遠くなる。

 島と約束した通り、初は太ももの火傷のあとは誰にも見せなかった。脚を開くときは必ず灯りを落とし、着物をすべて脱ぐことはなかった。
 けれどそのうち、誰かには見られるだろうと初はひっそりと思った。この傷を男たちは気持ち悪いと言うだろう。この傷を見て萎える男もいるだろう。天満屋の初は気味の悪い傷があると、そのうち評判になるだろうか。そうなったらどうなるんだろうと、にわかに不安になる。

島原からここに連れられてたように、今度は風呂屋に連れていかれるのか。

 今は若さがある。美しいと客は言う。若くて美しい女を男たちはちゃほやするし、その女の言うことも聞いてくれる。行燈を消してほしいと言えばそうしてくれる。下だけ襦袢を脱がずとも、そのことに気持ちを昂らせる男もいる。でも、若さもうつくしさもじきに失われる。婆が何を恥じらっていやがると着物を剝がれる日もくるのじゃないか。いや、傷が噂になる前に病を得ることも考えられる。

 初は今まで幾人も見てきた。天満屋でも、そのほかでも。客に悪い病気をうつされたり、流行病にかかったり、島のように堕胎が元で重い病気にかかったり。近頃聞いてぞっとしたのは、夏風邪をこじらせた女が、薬も食事も与えられなかったせいで死んだという噂である。その女は、客つきもあんまりよくなかったのだろう。あれこれ銀(かね)をかけて世話するのももったいないと、主人たちは放っておいたに違いない。ただの風邪で死ぬこともある、それが自分の生きる世界らしいと初はあきらめたように思う。

 だから、出るのだ。ここを、ともかく、出る。望みはそれだけ。島の言っていたように、亀だって蝮だって好きになる。

 ここを出た暮らしがどんなふうなんだろうか、初は想像することができない。でもきっと、すがすがしいことなんだろう。たまに客が連れ出してくれたとき、頭の上に広がる。橋の向こうのすこーんとした青空みたいなものなんだろう。たった一歩なのに、橋の向こうとこちらでは、空の高さも青さも違うように初には見えるのだった。

 初が十七になったとき、かめという少女が子飼として天満屋にやってきた。年は十、有馬から新地に連れてこられた娘で、記憶にある自分よりはだいぶぼんやりしたのんびり屋だが、島に可愛がられた初は、自分がされたのとおなじようにかめに接する。ときには抱いて眠ってやるし、菓子は分け、算盤もきびしく教える。

 そうしてあるとき、呼ばれた座敷に上がるとも見覚えのある客がいた、白髪が増えて、だいぶ腹回りがだぶついているが、それは紛れもない、島が恋した呉服屋だった。あのときの娘がえらい別嬪さんになったもんやと、呉服屋は舐め回すように初を見た。

 泣くだろうか、わめくだろうか、それとも、うんとも、うんとコケにしてやるか、傷つけてやるか。自分がこの男にたいしてどんなことをし出すかもわからず、床に入るまで初はどきどきしていた。自分が非力な遊女とは思えなかった。この男を、言葉でも仕草でも、どんなふうにでも痛めつけることが今ならばできそうな気もした。

 そうして男の愛撫を受けながら、初は思い出した。あれほど恋に焦がれながら、相手がだれだかついぞわからせなかった姐さんの、その根性、その手練、その心意気を。

 いつにまして、初は大胆に振る舞った。声を上げ、のけぞり、胸をはり出し、腰を動かし、そうしながら、自分の体にむしゃぶりつく老体を、天井よりずっと上から醒めた目で眺めていた。これがわたしの復讐だと、初は抱かれながら眺めながら、思った。これは復讐。あんたはきっとわたしに夢中になる。わたしなしではいられなくなる。またきっと、わたしを買いにくるんだろう。いっとき島に入れあげたように、その後べつの女に走ったように、こんな老いてもなお、あんたはわたしに狂うだろう。

でもね、わたしはあんたなんか心を寄せない。いくだって抱かれてやる。いくらだってあえいでやる。いくらだって欲しがってみせてやる。でも、わたしはいつだってこうして、醒めた目で見下ろしているよ。体のように心を開くことはないよ。

 考えてみれば、しかしすべてが復讐なのかもしれなかった。抱かれ、本気で愛してしまったと目を見つめ、ぬしさましかいないと泣いて見せる、そうしながら、魂はずっと高いところでその様子を笑うでもなく嘆くでもなくただ見ている。だまし、騙されている。あるいはそんなふりをしている男女をじっと見下ろしている自分は、すべての男に復讐しているのかもしれないと初はときどき思うのだった。自分を抱いて眠ってくれた、姐さんのかわりに。

 男は、恋したり愛したりする対象ではなかった。十七で、初はすでに老いて乾いていた。

 その一年後、徳兵衛に出会うまで。
 恋とはなんだろうと、初は徳兵衛に会って以来ずっと考えている。考えても、しかしわからない。ただ、思い出す。おまえにもきっと分かる日がくる。わかる日がくるように、姐さんが祈ってやるさかいな。そう言った姐さんの言葉を、声を、顔を、甘い吐息を思い出す。

 初が徳兵衛に太ももの火傷を見せたのは、徳兵衛が二度目にやってきたときだ。あの目を合わせては逸らして笑っていた夜。

 酒を一杯ずつ飲み、徳兵衛が何にもしようとしないので、初は彼に近づきその唇をなめた。するとそれまでまじまじしていた様子とはまったく裏腹に、徳兵衛は力強く初を抱きしめ、口のなかに生暖かい舌を押し入れてきた。柔らかいそれを舌で迎い入れたとき、初は体がいっぺんに抜けるのを感じた。へなへなと倒れる初を抱えこむようにして徳兵衛も倒れ、また吸いつくように初のくちびるを舌でまさぐるのだった。

 ようやく徳兵衛がくちびるを離したとき、仰向けになった初は間近にある顔をじっと見つめた。そのときにはすでに、この男がいない世のなかは生きる価値なんかないと、そんな気持ちになっていた。だれだろう、まったく知らないのに、ずっと知っていたような気がするこの男はだれだろう。この世のなかを、生きる価値のある場所に一瞬にして変えたこの男は、だれだろう。

 いやそんなはずはない。何かの思い過ごしだ。ただの男だ。好きになるはずはない。ただの男。初は自分に言い聞かせるようにしながら上体を起こそうとして、びっくりした。力がまるで入らないのである。なんていうことだ、この男の接吻で、腰を抜かしたらしい。

 初は驚いたのと、情けないのとで、男を見つめたまま、笑い出した。仰向けの初を組み敷く格好の徳兵衛も、困ったように合わせて笑う。笑いながら、気づいた初は泣いていた。自分が何を思っているのか、わからなかった。おかしいのか、かなしいのか、驚いたのか、うれしいのか。笑い、泣き、徳兵衛の首に両手をまわした。徳兵衛は初に覆い被さり、またしても強くかき抱く。

 あわただしく、せかされるようにたがいの体をまさぐりながら、初は、姐さんの言っていたいちいちを、奇妙に映った行動のいちいちを、理解した。そうしてもうひとつ、あのとき発せなかった問いの、その答えをも初は得た、言えなかった問いに答える姐さんの声をが、徳兵衛に抱かれる初の耳にはっきり届いた。

 当たり前や、あてはあの男に会うために生まれてきたんや。恋のない人生なんて、犬にでもくれたるわ。

 痩せさらえばえ、汗だくだくの姐さんの姿が初の目によみがえる。そう答える姐さんから、あの、失われたはずの光がふたたびはじける。

 ああ、ああ、姐さん。徳兵衛の腕の中で初は叫び出したい衝動に駆られる。姐さん、祈ってくれはったんやね。きたで、あてにもわかるときが、やっときた。

 今まで老いて乾いていたのではなかった。反対だ。乾きすぎていて、発芽すらしていなかった。徳兵衛は乾いた地をうるおし、そして初は、みごとに若々しい芽を空に向けて開いたのだった。

 いつもは消す行燈を、初は消さなかった。けっして脱がない襦袢をこの日は脱ぎ捨てて脚を開いた。太ももの火傷に気づくと、徳兵衛は指先でやさしく傷を撫で、姐さんの言ったとおり、きれいやとうっとりささやいて、身をかがめて傷を舐めた。猫が自分の体をひとしきり舐めるように、一心不乱に。その心地よさに初は驚いた。気が遠のいてしまいそうなほどだった。

 翌朝、帰っていく徳兵衛の背を初はじっと見送った。徳兵衛も、振り返り振り返りして遠ざかる。近いうちにきっとくると徳兵衛は約束したものの、まるで自分の半分が引きちぎられていくようだった。そのくらい苦しくかなしいのに、夕べのことを思い出すと笑みがこぼれた。そうして笑んだそのすぐあとに、恐怖で顔が強張る。もし徳兵衛が、姐さんの呉服屋のようにほかの女に心を移したたらどうしよう。今日、明日、明後日、べつの店に足を運んだらどうしよう。けれどその次には、昨夜の熱が体の芯からわきあがり、初はうっとりとうるんだ目で白んだ空を見つめる。哀しくもないのに涙が出る。ぬれた頬に、初はびっくりして触れる。最後に泣いたのはいつだろう。自分の目から涙が出るなんて、思いもしなかった。それはおかしくて、また、笑う。

 その日から、すべてがちがって見えた。太陽も、空も、新地の町も、着物も、川も、橋も、おはじきも、雨も、毬も、自分の顔も。目に映るものすべて、何ひとつ、よぶんなものはなかった。

 これが恋か。初は思った。これが、恋か、ほほえみながら、泣きながら、高笑いしながら、物思いにふけながら、不安に顔をゆがめながら、嫉妬に胸を焦がしながら、記憶に指先まで浸りながら、幾度も幾度も、思った。これが、これが、恋。


 生玉神社で派手な喧嘩があったという噂は、明くる日にはもう堂島新地にも届いていた。近所の女たちも物売りも、往来や店先に集まっては見聞きしたことを夢中で言い合っている。

「あの徳さまが、何やらわからんけど悪どいことをして、えらいぶたれはったんやて」
「え、うちが聞いたんは、ようけいの人に踏まれてくたばりはったて」
「そんな、踏まれてくたばるわけないやないか、徳さまは人をだました罪で島流しやてあて聞いたで」
「ちゃうちゃう、人をだましたやのうて、偽判したそうでっせ、これはさっきの客に聞いたさかい、たしかな話」
「偽判ならえらいこっちゃがな、島流しどころやおまへんで」
「せやさかいそれでしばられて、さっき息絶えたんやって」

 日が沈むまで誰彼から真偽のほどもわからぬ話ばかり聞かされて、初は食事もせずに部屋に閉じこもっていた。むろん食欲もなかった。

 日が暮れて下に降りていっても、客の入っていない近所の店の女たちが座敷に集まって、つやや小菊とまだ飽きもせず徳兵衛のことを話している。聞きたくなくても耳に入ってくる。部屋に戻りたいが、真相を知りたくもある。もう捕まった。もう死んだ。いやちがう、逃亡している。しかしいくら聞いても、どれが真相なのかわかりようもない。

 気を鎮めるために煙管を吸って黙っていた初だが、次第に涙が出てくる。女たちは、そんな初に気づかず、あの徳さまが、人は見かけによらんわなあと、まだ騒ぎを続けている。初に近寄ったかめが、驚いて動きを止める。初が泣いている姿を見たことがなかったのだ。

 音もなく涙を流し鼻水をすすりあげていた初だが、こらえきれず、天を仰いだ子どものように泣き出してして、ようやく女たちが口をつぐんで初をみる。

 かめだけではない、だれも彼も初が泣くのははじめて見る。慕っていた姐さんが田舎に送られるときだって、唇をひき結んで泣かなかった初なのだ。何か言ってやりたいが、しかし、みんな聞いているのは悪い話ばかりで、何をどう言って慰めていいのかわからず、ただおろおろと顔を見合わせる。

「初ちゃん、飲もう、今日はお客、入ってないんやろ、ねえ、飲もう」
 幼いころから仲のいいやよいが言い、それを皮切りにみんなそろそろと彼女に寄って、
「徳さまはええ男やけど、まだ手代やったし、そないにお金持ちってわけやなかったがな」
「姐さん、そうでっせ、徳さまだけが男やおまへんて」
「罪を犯した男やなんて、忘れたほうがよろし」

 口々になぐさめてかかるが、初の耳には届かない。
「そういや、あんたも気づいているやろ、正式に話を持ってきまっせ。あんたはいややいやや、徳さまといっしょになるんやてごてているけどな、あの男に身請け代なんて用意できませんてあてはずれーっというやないか。年季明けを待つしかないんやで。それかてあんた、罪を犯したら、もうどんならん。あんたの優男のことは早ように忘れて、身請け話、真剣に考えなはれ」

 と、おかみまで出てきて真顔で説得にかかる。
「あんな田舎もんと田舎に引っ込むくらいやったら、蜆(しじみ)川に飛び込んで死んでやるわー」
 初はそう叫ぶとなおのこと泣きじゃくった。そうしながら、今、自分の口にした言葉にはっとする。もし本当に、もし本当に徳兵衛と会えなくなるのなら・・・・。

 そのとき入り口に気配を感じ、初はそちらを見やる。開け放された戸の向こうは、闇に沈む天満屋の門が浮かび上がるばかりだが、ちかりと何かが光った気がして初は目を凝らす。やはり、そうだ。門に隠れるようにして、人影が佇んでいる。姿かたちがはっきり見えずとも、初はそれがだれかすぐに確信する。初は着物の袖で涙をぬぐうと、まわりをすばやく確認する。広間のおかみはせわしなく立ち働き、上り口に腰掛けた料理人と女たちは、初からとうに興味を移し、またもや噂話に花を咲かせている。

 そうやがな、あの人に行く場所なんかあるはずないやないか。あてのところ以外に。
 うち、徳さまちょっとええなて思っていたのに、こないことになるやなんて。ちょっとええて思うてたかて、人のもんやないか。人のもんやなんて、そないなもんここでは関係あらしませんがな、人は変わるんや。それにしても徳さま、魔が差しはったんかねえ、そんな、人を騙したり誤魔化したりするような人には見えへんかったけど。しかも相手は九平次やろ。仲良しやったやないの。仲良しやさかいだませたんとちゃいまっか。人は見かけによらんて、昔ッから言いまっしゃろ・・・・。

 ひっきりなしに続く女たちの声を背後に、初ははやる気持ちを抑え、わざとゆっくり門に歩く。見上げれば群青色の空に星が出ている。天満屋のあるこの堂島新地は、夜、蜆川の向こうから見ると、雨の夜でも星が瞬いているように見えると言ったのは誰だったか。
「初」
 門口までくると、愛しい男の、今にも消え入りそうな声がする。見れば、門に隠れる徳兵衛の着物は汚れ、ところどころ破け、破れた編笠から顔をのぞくと口には切り傷、目の上は腫れあがっている。九平次のやつ、いったいどれだけ痛めつけたのかと、さっきまで泣いていたのも忘れて初は怒りに身を震わせる。

「徳さま。いったいどないなったかと、もう心配で心配で胸がふさがる思いでしたんやで。今までどこにいてはりましてん」

 初は編笠に顔を入れ、そう言うとまた涙があふれてくる。
「初、昨日見聞きしたとおり、わてはどうやら嵌められた。もう何を言うたかて信じてもらえん。けど初、おまえだけは信じてくれるやろ、わてほんまに」

「徳さま、もうなんも言わんでよろし。おまえさまがただしいことはお天道さまがごぞんじやのうてもあてがちゃんと知っているさかい」
「初、どうしたらええのか、昨日ひと晩考えながら町をさまよってたんや、けど、もうどうにもならん。わてはな、初」

 おさえた声で徳兵衛が言うより先に、奥から声がかかり、初ははっと編笠から身を引いた。
「ちょっと、お初、昨日の今日で物騒やさかい、表に出んで、早よう入り」
「おかみさんのいうとおりでっせ姐さん。姐さんまで巻き添えを食らうかもしれまへんで」

 女たちも口々に言う。
 初は徳兵衛の目をじっとのぞきこむ。どうにもならんと知りつつ、どうにかしてもらえると信じて、あてのところにきたんやないか、ええよ徳さま、あてがきっとどうにかしたる。
「徳さま、悪いようにはせんさかい」

 打ち掛の裾をひらりと開き、徳兵衛をつつむようにして、隠す。そうしてそろそろと門をくぐり、徳兵衛を縁の下に導くようにして、上り口に腰を掛け、置いてある煙管に手を伸ばす。ちいさく震える右手を左手で押さえ、火をつけ、吸い込む。打ち掛けの下で脚をそっと動かすと、徳兵衛のあたたかい大きな手が、だいじょうぶと応えるように脛を撫で、ちいさな初の足を包む。

 門の向こうが急に騒がしくなった。女たちはおしゃべりをやめてそちらに顔を向ける。初も、何気ない動作で煙管をふかしながら、ちらりとそちらを見やると、やって来たのは、九平次と、昨日伊勢講で飲んでいたという仲間たちで、昨日はいなかった太鼓持ちまで加わっている。  

「やあやあやあ、皆の衆お久しぶりでんな。なんや辛気くさいなあ。なんでこんなに閑古鳥鳴いてるんや? 天満屋だけないやろ? 松やも河内屋も客がこんのか、いっつもこうなんか? わいが客になったろか?」

 今日もまたすでに飲んできたのか、調子よく言いながら九平次はずけずけと上がりこんでくる。みんなぽかんと口を開け、九平次がまるで絵巻物から飛び出してでもきたかのように見つめているが、
「ああ、おこしやす、お酒でもつけまひょか、今すぐタバコ盆お持ちしますさかい」

 我に返ったようにおかみが言うのを聞くと、女たちもあわてて居住まいを正し笑顔を作って口々に挨拶をする。

「酒はいらん、もうたんと飲んださかい。いやな、何しに来たかて酒を飲みに来たんとちゃうんや。ここんちはたしか徳兵衛の馴染みなはず」

 初と離れた上り口に腰掛けて、ちらりと初を見やってから九平次は広間に目を移す。
「あの男、昨日あのまま逃げくさって、平野屋にも帰ってへん。平野屋の旦那はん、えらいお怒りや。そらそうやわな。せっかく引き取って大事にしてきたもんが罪人になってしもたんやさかい。そんでやな、ちらりと探させてみたんやけど、どこにもおらしまへんのや、徳ちゃん、情けない、いくとこのうなって女のところに逃げこむしかできん男や、あれは、ここにきて、あることないこと言うんやないかと思てな。それとも、もう、きよった?」

 九平次ははねめつけてるように女たちを見る。おかみも料理人も、女たちもみな無言で首を横に振る。
「あ、そうか。あんたら、噂ばっかしでまだよう知らんかもしれへんが、徳兵衛のやつ、このお初のええ男やけど、わいの落とした印判をどこぞで拾うたんをええことに、二貫、二貫やで? 二貫もの大金をわいに貸したゆう偽手形をこさえて、わいが印判ないのに気づかんやろうとタカをくくったんやろけど、わかるわいな。そやのに昨日、わてが借りた銀(かね)を返さんと吐かすさかい。きつう灸をすえたったんや。けどまあ、今日明日にも捕まえるやろうし、あいつもう、おしまいやわ。友だちや思うて仲ようしたったのに、恩を仇で返すやなんてな。もう世間に顔向けもできんやろし、野江か飛田で刑に処せられることになるんやろうなあ」

 女たちはみな、神妙に九平次の話を聞いている。手の震えが激しくなり、やむなく初は煙管を煙草盆に置き、静かに呼吸を整える。そうしないと、今にも叫び出しそうだった。

「まだきてへんようやが、きっとあいつ、ここに顔出しよるで。情けない男やさかい。そんでまことしやかに嘘つくやろうが、姐さんがた、本気にしたらあきまへんで。寄せるのもやめといたほうがよろしおま。あんたがたもお仲間やて思われて、罰せられでもしたらたまらんがな」

 初は、震えているのは自分の足を包む徳兵衛の手だ、と気づく。落ち着け、今、怒りと悔しさにまかせて出てはならぬと、初は両脚で、懸命に徳兵衛をおさえる。

 九平次がそんなふうに言って聞かせても、徳兵衛は天満屋にとって客である。主人夫婦は手のひらを返したように九平次に相槌を打つこともできず、困ったようにおろおろと、
「お酒はよろしいのなら、何かお吸い物でも・・・・」
「お茶でもご用意しまひょか・・・・」
 弱弱しい声を掛けるが、九平次は無視して鼻くそをほじっている。初はひと息ゆっくり息を吸うと、
「九平次はん」
 震えぬよう、かすれるぬよう、慎重に声を出した。
「九平次はん、べらべら喋ってみっともないやないか。仮にも友だちやったんですやろ。あてはな、あの人とは長いさかいよう知っています。
徳さまは悪いことのできる人やない。そんふうに得意に言うてると、どっちがよからぬ企みをしたのか疑ぐられるさかい、よさはったほうが身のためでっせ」
 九平次は鼻に突っ込んだ指を引き抜くと、馬鹿にするようにそれまじまじと見、ぴんとはねつけ、だらしなく歩いて初の隣にぴったりとよりそって座った。足元に徳兵衛がいるのがばれるのではないかと、初は気が気ではないが、ここで黙っていては女が廃るとばかり、口を開く。

「あの人は悪いやつに騙されましたんや。そんなんだれでもがわかってはります。ただ証拠がないばかりにええように言われて、きっともうどうすることもできん。残る道はただひとつ」

 そこで初は言葉を切って、打ち掛けの下の脚に感覚を集中させる。
 徳兵衛のあたたかい、乾いた手のひらが、初の右足をそっとつかみ、自分の喉笛にあてて、すっと引くのをたしかに初は感じる。

 わかってくれた!
 わたしたちはただひとつ残された未来がなんであるのか、初、わかったと、たしかに今、徳さまはわたしに伝えたのだ。
 いっしょに死のう。打ち掛けの下で徳兵衛はそうささやいている。そうする覚悟がある、と。
 そうや、それしかないはず、徳さま、

 自分でも驚くほどすんなりと、初はそれを受け入れた。いっしょに死のう。徳兵衛の、言葉ではないその一言を胸の内で転がすと。なぜだろう、安堵すらする。そうなればもう離れることはない、会えずに不安に思うことはない。ほかに心を移したのではないかと疑うことも、もうしなくていいのだ。それにぜんぶ片が付く。徳兵衛がほかの女と夫婦になることもない、わたしが田舎ものに嫁ぐこともない。二貫の銀(かね)を作らなくてもいい、年季がいくら残っいるか毎晩のように勘定しなくてもいい、年の瀬の払いを、必死になって馴染み客に無心しなくてももういいのだ。そうか、そうすりゃぜんぶまるくおさまるんじゃないか。

 急に肚が据わる。どれだけ九平次が体を密着させても、もう怖くない。もし今二階から飛び降りたら、そのまま飛んでしまうのではないかと思うくらい、身が軽い。そうか、死ぬってこういうことか。ちっとも怖くない。初は笑い出したいのをこらえて、言う。

「そうか、そうですな。いつまで生きてたっておんなじこと。おんなじことに苦しめられるわいな。ならばいっそのこと、みずから死んで恥を洗い流したらぇぇ・・・ねぇ、おまえさま、そう思わぬか」

 それを聞いた九平次はぎょっとして初を見る。初は恍惚とした表情で九平次を見返した。九平次はひるむのが、初にはわかる。
「な、何が死んで、や。あいつが死ぬわけないやないか。そんな勇気あるかいな」
 虚勢をはるように言うと、九平次はまじまじと初を見、余裕を取り戻してにやりと笑った。
「お初ちゃん、心配すな。万が一あいつが死んだときは、あいつのかわりにこのわてがたーんと可愛がったるさかい。わかってるわかってる、おまえかてわいに惚れるてるんは、ちゃーんとわかってるがな」

 そう言って高笑いする九平次を、初は目を細めて見つめ、唾を吐きかけたいのをぐっとこらえて煙管で煙を吹きかける。ちょうど煙はうまい具合に輪になって、九平次の顔をくりぬくように流れていく。

「のぼせんのもたいがいにしなはれ、だれがおまえさんなんかに惚れるかいな。かましまへん、思うのはあんたはんの勝手やさかい。あんたがあてとねんごろになってくれはるて? ほんならあんたを道ずれにするけど、それでもよろしおすな。徳さまが死ぬるんならあてかていっしょや。あの人と離れて、どないして生きろゆうんかいな。あの人が死ぬ覚悟やいうなら、あてかてそのおんなじ覚悟があるんや」

 打ち掛けの下で、徳兵衛が自分の脚を抱きしめるのを初は感じる。ちいさな子どもが人形を抱きしめるようにしっかり両腕で包み、そして脛に顔を押し当ててくる。初は、自分の脛を熱い水滴が流れていくのを感じる。

徳兵衛が声を押し殺して泣いていると思うと、自分までもが泣きそうになる。けれど九平次に泣き顔なんて見せてたまるか。初は気味悪そうにこちらを見ている九平次に向かって、静かにゆっくり笑いかけた。九平次は怖気づいたように立ち上がると、
「なんや喜色の悪い。この女。ゲンくそ悪いこんな女に客とらせて、けったいな店やで。わいみたいな銀(かね)払いのええ粋な色男が気にくわんのやな。こられると迷惑ゆうこっちゃ。さよか。ほんならこっちかて用はなんかないわい。さー、あさの屋でもいって、ぱーっと銀ばらまいてあそぼ、あそぼ、こんなとこおったらこっちまで辛気くそうなってくるわ。あーもう、財布がこない重いと、まっすぐに歩くのも難儀するで」

 九平次は大声で言い散らし、仲間と太鼓持ちと連れ立って、馬鹿笑いしながら去っていった。

 急に広間はしんと静まりかえる。初は九平次の姿が見えなくなると、肩越しに広間を振り返る。女たちはぱっと初から目を逸らし、そろそろ・・・・と立ち上がり、それぞれの店に帰っていく。おかみやつや、小菊は、わざとらしく茶を入れたり、鏡をのぞいたり、髪を整えたりとせかせか動く。

「さーて」天満屋の主人が、その気まずいとを追い払うような陽気な大声を出す。

「今日はなんや客もあれやし、たまには早く閉めて、さっさと寝ようやないか。さあ、みんな部屋に帰りなはれ、ほれ」両手を大きく打ち鳴らして急き立てると、初をちらりと見やり、「初ももう寝た方がええ、早よう寝て、いやなことは忘れるのがいちばんや」と、やさしく言う。

 十二でここに来てから、主人夫婦を両親のように思っていた。やさしいばかりじゃない。厳しいし、銀に細かい。それでもやっぱり、主人は父でおかみは母だった。八つで別れた父も母も、今では顔もぼんやりとしか思い出せない。父、母、とそっと口にすれば今や浮かぶのはこの二人の顔なのだった。

羊羹を食べさせてくれたこともある、客と一緒に芝居見物にいくときに、こっそり小遣いをくれたこともある。風邪をひいたときは商売あがったりだと憎まれ口をききながらも薬をのませてくれたし、はじめての客をとったときには簪(かんざし)を贈ってくれた。

 けど、今夜が最後、もう会えん、そう思うとまたしても涙があふれてくる。
 旦那さま。おかみさん。今までおおきに。恩返し、まだまだできんままやけど、せやけどもう決めたこと。明日はもう会えやしまへん。今夜が最後、不義理して堪忍でっせ。今まで世話してもろうたこと忘れしまへん。

 初は胸の内で最後の挨拶をすると、足を動かしその場をいったん離れることを徳兵衛に告げた。徳兵衛は乾いたあたたかい唇を、そっと初の足の裏に押し当てる。初はそれを受けてから、そろそろと立ち上がってた。つやと小菊に続き、かめの手をとって、初は二階へと上がっていく。ふと途中で足を止めて振り返り、人の気配の残る広間を見やる。

「姐さん、どないしはったん?」かめに訊かれ、
「なんでもないわいな」初は言って、ゆっくりと階段を上がる。
 恋について夢中で話していたのは、いつのことだったろう。階段を上がり、おやすみとつやたちと言い合いながら、初は思い出そうとする。

 ねえ、運命ってあるんやろうか? 運命の人っていはるんやろうか?
 だれかがそんなことを言い出したのだ。冬の日で、めずらしく雪が積もり、客足が途絶えて閑だった。やっぱり隣からも向かいからも閑をもてあました女たちが集まって、火鉢を囲んで好き勝手言い合っていたのだった。やよいや小鈴、それから今は風呂屋にいってしまった紅緒ちゃんもいた。お玉さんもいた。

 幼いころから、寄ると触るとみんなおしゃべりに夢中になった。けんかになることもあったけれど話が弾むこともあった。話していれば借金のことも忘れられると言っていたのは紅緒ちゃんだったか。そうしてしょっちゅう、益体もないことをぺちゃくちゃと話すのだった。金持ちの醜男の田舎ものに身請けされると、貧乏の男前の粋なのを間夫にして身揚がりを続けるのとどっちがいいか。美濃屋の汁粉と土佐屋のではどちらがおいしいか。売ト者(うらないしゃ)は当たるか否か。どこの売ト者が当たるか。もしたったひとりで一貫持って町へ行けるとしたら、まず真っ先にどこへいくか。そんなことをわいわいとただ、言い合う。結論なんか出ない。けれどそうして話しているあいだは、叱られたことも、醜い火傷のことも、先行きへの不安にも、初にはたいしたことに思えなくなるのだった。

 あれとこれとどちらがいいか。こうするのとああなるのとは、どちらがましか。そうやって話をしていると、まるで自分がなんでもかんでも決めることができるように思えた。今汁粉を食べにいけると決めればそうできる。赤い着物を作ろうと思えばすぐできる。明日ここを出て行こうと思えば出ていける。そんなふうに思うことができるのだった。

 運命の人はいるよ、と言ったのは、年かさのお玉さん。わたしは知っているんだよという口ぶりで言うものだから、みんな、からかうようにあれこれ訊いた。

 なんでわかるんでっか?
 ひとりにひとりいはるん?
 かならず会えるもんだすか?
 会えたときはどないしててわかるもんなん?
 運命の人は運命なんやさかい、かならず結ばれるゆうことでっか?
 その時はまだ恋を知らなかった初は、運命で結ばれた人がいるてまるきり信じられなかった。だって、ならばなんでみんなこんなところに閉じ込められているんだ。運命の人はいると自信たっぷりに言うお玉姐さんまで、なんで。

 運命の人いうはな、お玉さんは煙管をくわえると話し始めて、みんな興味津々の顔つきで彼女ににじり寄って耳を澄ませた。信じていない初もそうした。

 運命の人ゆうんは前世でも縁のあった人なんや、とお玉姐さんは得意げに言った。
 なんでも、姐さんによると、わたしたちはずうっともう何世も生きては死んでをくり返していて、それはそういう魂の修行をしているからで、いつか修行が終われば浄土という仏さまの世界に入る。わたしたちが今もここにいるというのは、まだまだ魂の修行が足りないということで、だから、わたしたちは前の世も、その前の世も、こうやって苦しみながら生きていた。そのなかでも、かたく愛し合った人というのはいて、そういう人とはかならず今世で会える。それが苦しみの修行をするわたしたちに与えられた、たったひとつの慈愛だということだった。さらに姐さんは言った。前から知っている人やさかい、今世で一目見ればきっとわかる。相手かていっしょや。

なんの言葉やら交わさんでも、二人はすぐに愛し合うようになる。いったん愛し合うたら、もう相手のことを嫌いになることもないし、憎むこともない、只々、渦にのみこまれるように、愛することしかできやせんの。そう言ってお玉姐さんはねっとりと笑い、鼻から長く細い煙を出した。

 そう聞いて初が思い出すのは、やはり島のことだった。それなら島とあの男は、運命で結ばれた二人だったのか。でも、あの男は姐さんが病にかかるや、ほかの女に入れあげたじゃないか。とすると・・・・
「運命の人まちがえるゆうことも、あんの」

初は訊いた。
「ああ、おまっせ」
 お玉姐さんは流し目で初を見て、言った。「まちがいなんかなんぼかておます。せやかいあてらの商売が成り立つんや」
「姐さんの言わはること、ちっともわからへん」小鈴が口をとがらせ、
「あっちに運命の人やと勘違いしてもろて、通うてもらうゆうことやがな」
 紅緒ちゃんが火鉢にあたりながら言い、
「せやけど、あてらがまちごうてしもたら、どないすんの」やよいが不安そうにつぶやいた。
「心配おまへん、まちごうたときはすぐにわかる。その恋がうまくいかなんだら、すぐわかるんや。あてらが不安になる恋、苛々する恋、信じらへんのや。恋、会えん恋、すれ違う恋、ぜえんぶ、間違いなんや。運命の人やったら何ごともすんなりいくもんやで」

 女たちはふと黙って宙を見つめた。すんなりうまいく、ということを、自分と同様だれも思い描くことができないのだろうと、初は思った。
「それでもうまくいかんこともあるわいな。何ごともすんなりいった恋やのに、添い遂げられん恋かておます。そういうときはな・・・・」

 お玉姐さんが声をひそめると、女たちはわらわらと、冬の子猫みたいにひっつき合って姐さんのそばににじり寄り、耳を澄ませた。

「そういうときは、また来世で二人は会うんや。くりかえしくりかえし、いつか添い遂げられるまで」
 だれかが、はあーッ、とため息をついた。あのとき、本当の意味ではだれもわかっていなかった。恋も、愛も、運命も、今世も、添い遂げることがどういうことなのかも。

 あのとき運命の恋を説いたお玉姐さんは、その二年後、京の職人に身請けされてここを出た。お玉姐さんは島とおなじく、自分の恋の相手がだれだか、他人に悟らせるようなことは決してしなかったから、本当のところはわからないのだが、それでも初は思っている。お玉姐さんを身請けしたのは運命の男ではなかった、と。身請けが決まったある日の夜、お玉姐さんが独り言のようにつぶやくのを初は聞いたことがある。

「浄土にいくのがしあわせなんて、あては思わんへん」とお玉姐さんは言った。「この苦しい世に生まれてきたら、なんべんも会えるんや、運命の人に。蛇になろうが、蟻になろが、かならずや会うはずなんや」と。

 お玉姐さんは、たぶん今、遠い空の下、ただ死ぬことだけを夢見て生きている。死んで、また生まれ変わって運命の人と会えることを夢見て、旦那となった男にきっと抱かれている。

 お玉姐さんは、わたしたちは何度も生まれ変わると言った。島姐さんは、今世は一度きりと言った。

 いったいどっちが本当だろう。いや、どちらでも、おんなじことではないかしら。
 女たちのかしましい話し声はゆっくりと遠ざかり、今、初の目には、だれもいない、静まり返った広間に映る。病を得た女、身請けされた女、ほかの色町へいった女、ふるさとへ帰った女、ひっそりとここで死んでいった女、その後の自分の運命など知らず、ただただ陽気に女同士はしゃで話していた幾多の女たちの姿が、幻のように透け、そうして声とともに、すうっと薄闇にのみこまれるように消えていく。

 そうしてわても、今宵、そんな女たちとおんなじように、ここから消えていく。
 ふ、と短いため息をひとつつき、初も階段を上がりきり、自分の部屋の襖を開けた。
 布団に横たわり、暗闇に浮かび上がる天井を見上げ、初は考える。わたしたちがくりかえし生まれるということと、この世が一度きり、ということについて。

 どっちも同じだと思うのは、どっちだって徳兵衛に出会い、徳兵衛を愛するようになるだろうとわかるからである。もし次に、わたしが鳥に生まれたら徳兵衛もきっと鳥だろう。猫だったら徳兵衛も猫。いや、わたしが鼠で、徳兵衛が熊だったとしても、わたしが蜘蛛で、徳兵衛が花だったしても、わたしはすぐさま相手を見つけて愛し合う。

 生まれ変わるなんてことはなく、もしこのいのちが一度きりだったら。それでもかまわない。そのいのち、徳兵衛とともに終わらせるまでだ。
 夜は、徳兵衛を縁の下に隠したまま、天井を見つめる初を包み込んだまま、音もなく静かにふけてゆく。

【広告1】人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
 夫婦になれたことを単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人種であり、夫婦の有り様が親子関係に近い親密性が深まった場合、いずれ崩壊する場合が少くなくない。夫婦とは愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容していくが特にセックスそのものに飽きがこないよう新たな工夫を創造することで刺激と興奮の連鎖によって別物のに近いと感じられるようなオーガズムが得られるのが望ましい。
=ソフトノーブル通販=

 あちこちの部屋から薄いいびきが聞こえる、八つ。
 まんじりともせず天井を見つめていた初は、ゆっくりと起き上がり、着物を脱ぐ。箪笥から白無垢を取り出して着て、その上に、目立たないよう黒小袖を羽織る。

 階段の下では下女が寝ている。運が悪ければ不寝番(ねずのばん)も広間にいるかもしれない。下女たちを起こさないように、不寝番と顔を合わせないように、徳兵衛とともに外に出なければならない。もし二人で逃げたのが見つかって、捕まってしまえば、罪人となる。徳兵衛とともに罰せられるなら初はそれだって受け入れるが、おそらくそうなれば、二度と会うことはかなわないだろう。ぜったいに見つかってはならないのである。

 初はまず、箒(ほうき)の先に扇子をくくりつける。それを片手にそっと部屋を出、階段の途中にある吊り行燈の火を消そうと、腕をのばす。はたはたと扇子を振って、幾度目かで無事火は消えるが、足を踏み外し、初は階段数段を転げ落ちた。

 おい、なんだ、なんの音だ、と、奥から主人の声がする。初はあわてて起き上がり、暗闇のなか、手探りで進む。

「なんや、行燈が消えているやないか、おい、火や、火をつけんかいな」主人の声が響き、寝ていた下女が起き出す物音に続いて、

「あいすいません、ただいま」寝ぼけたような声がする。
早く、早く、早く。灯りがついたら見つかってしまう。
 さっきまで座っていた場所まで這うように進んだ初の両手が、おなじようにさまよう乾いた大きな手に触れる。思わず漏れそうになる声をのみこみ、初はその手を強く握る。その手も初の小さな手を強く握り返す。
「どないした、火はまだか」
「あいただいま」

 大声で返したのち、下女は火打箱、火打箱とつぶやいている。彼女も自分たちとおなじように、手探りで歩いているのがわかる。その手に触れられたら、一巻の終わり、初は全身に神経を集中させて、そろそろと、徳兵衛を先導するように門口へと急いだ。

 掛金は無事外せたものの、戸車を引くとききしんだ音が出る。いま音をたててはまずいと、初も徳兵衛も息をひそめる。と、そのとき、火打箱を見つけたらしい下女が、火打石を打つ音が聞こえてきた。

 カチ、カチ、カチ、その音に合わせて、初は戸をそろそろと開ける。カチ、の音にほんの少し。カチ、の音に合わせて少し。火よ、まだつくな。戸が開くまでけっしてつくな。カチ、カチ、カチ。まだだ、まだつくな。カチ、カチ、カチ。そうしてようやく、人ひとり通り抜けられるくらい戸は開く。初は徳兵衛を押し出すようにし、それから自分も戸の隙間を転げるように出た。

 外に出ると、初と徳兵衛は、互いの手を今一度しっかりと握り合い、闇に目を凝らし、互いの目をじっと見つめる。ああ、これで死ねる。どちらからともなく、しがみつくように抱き合って、体を離すやいなや、手をつないだまま二人は走り出した。

 目に映るもの、ぜんぶ最後だと初は思う。振り返れば明かりが消えた天満屋。新地の店みせ。ところどころ明かりがついて、三味線の音が聞こえてくる。走れば過ぎていく光景は、まるでうしろに流れて消えていくようだ。見上げれば星が瞬いている。星も最後、夜も最後。

 走る初の耳に、ときを知らせる鐘が響く、この鐘も最後。あの世はここよりずっといい、何しろ二人でずっといられるのだと、鐘の音がなぐさめるように初には聞こえる。

 近江屋の二階に明かりが灯っている。客と遊女が寄り添う影が、窓に映っている。初は立ち止まりそれを見上げた。何を話しているんだろう。今年はどんな心中があったと噂しているんだろうか。斬りつけられた京の遊女の話でもしているのかもしれない。

 きっと明日には、だれもかれもがそんなふうにわたしたちのことを話すんだろう。
 聞いた? 天満屋の遊女と醬油屋の手代が心中したそうな。なんでも醬油屋がえらい罪を犯して、逃げたらしいわ。遊女は身請け先がいやでたまらなんだやて。ちゃうちゃう、二人で偽の印判をこしらえて、大金を巻き上げようとしたのがばれて、二進も三進もいかようになったんやて。話に尾ひれがついて、いったいなんと言われるんだろう。なんだっていい。話せばいい。

私の名を口にするときは、徳さまの名もいっしょだろうし、徳さまの名が出るときには、わたしの名もでるだろう。人の口の上ですら、わたしたとは離れることがないのだ。

 十年先、五十先、百年先、茶屋はやっぱりあるんだろうか。そこで客をとる女たちも、運命の恋があるかどうかとかしましく話したり、するんだろうか。願わくばそのときもわたしと徳さまの名前がその女たちの口にのぼればいい。わたしたちはこの先ずっと永遠に、噂に閉じ込められるのだ。二人きりで。

 徳兵衛の汗ばむ手で立ち止まった初の手を取り、せかすように引く。二人はまた、走り出す。
 やがて橋が見えて来る。あの橋を渡れば新地の外だ。
 初は徳兵衛に手を引かれて走りながら、振り返る。茶屋の灯りが、漂うように闇に浮かんでいる。ぜんぶ、最後。

 あの橋を渡ったときのことが、あふれるように思い出される。
 十二だった。いっしょに暮らしていた父も母も、弟たち妹たちの顔も、ほとんど思い出せなくなっていた。島原の暮らしで学んだのは、何も欲しがらないということだ。何も欲しがらなければどんなところでも窮屈でもないし、ひどいところでもない。眠るのには屋根があるばかりか、布団もある。冬には火鉢があって、夏には水をはった盥(たらい)がある。それにごはん。ごはんがちゃんと食べられる。島原でそうだったんだから、ここでもきっとおんなじだろう。それだけでいい。それだけで充分だと初は思っていた。

 笑ったり、夢中で話したり、運命に思いを馳せたり、いいにおいのする姐さんに抱きしめられたりいっしょに眠ってもらったり、そんなことがあるなんて、思いもしなかった。しかもここ新地では新地の外に出ることが許されているのだった。そうしょっちゅうではなかったけれど、昼間の町を、島に付き従って初は幾度も歩いた。春には花見に出かけ、野がけもあった。まったく銀(かね)がかかってしかたがないとだれも彼もが言っていたし、その日のために新調する着物やかんざしの代金で、また店に借金が増えることだって初はわかっていたけど、それでもやっぱり、橋を渡ることができるのはうれしかった。

 そういう日々がごく普通のものとなったとき、初はときどきこわくなった、分不相応なものを手にして、何かとんでもない馬鹿でかい仕返しがくるのではないか。次第に忘れていく父や母や弟たちが、あの貧しいちいさな村で、食べることができず、やせ衰えて病に伏せっているのではないか。

 やがて客をとるようになって、橋を渡った外の世界で暮らすことを焦がれるようになったが、初はどこかで安心もしていた。嫌なことがあればあるだけ、おまんまを食べて布団で眠って立派な着物を着ていても許されるように思うのだった。村の父母もおさないきょうだいも、腹を空かせることもなく病に伏せることもなく、みんなくっついて笑っているだろうと思えるのだった。

 ときどきあの女のことが突然思い浮かんだ。光景として、はたと浮かぶのである。折檻されていた女。あの女がどうなったのか、島原にきたばかりだった初は知らない。追い出されたかもしれない。死んだのかもしれない。

 橋を渡ってここから出たいという思いは、その光景にいつもかき消された。あんな危険を承知してまで逃げることはない。ここで好きでもない男たちの相手をして年季明けを待てばいい。どこぞの金持ちが身請けしてくれるのを待てばいい。そうだ、何も欲しがらなければここはそんなにつらいところではない。花見、芝居見物、女たちのおしゃべり。おもしろいことを数え上げては、初は自分にそう思い込ませようとした。

 そうしてそんないっさいを、徳兵衛はひっり返したのだった。
 女たちは笑う。火鉢にあたる。おしゃべりをする。湯浴みをする。花見をする。集めて後生大事にしていた数少ないおもしろいことが、いっぺんに色あせた。なんとつまらないことかとも。

 そうして好きを知ってしまえば、好きでない男に抱かれるのは信じがたくたえがたいことだった。

 初は男たちが果てるまでのあいだ。目をかたくつむり、想像した。徳兵衛と橋を走って渡る自分の姿。汁粉を食べて芝居を見、柳の木の下で抱き合う姿。ひとつ屋根の下でご飯を食べ抱き合って眠るさま。朝になっても帰らなくてよく、見送らなくてもよく、ずっといっしょにいて、ともに働く。旅にも出よう、お伊勢さんにいこう。温泉に入ろう、徳兵衛のためにご飯を炊こう、魚を焼こう、着物を洗おう。船にも乗って、村にも帰って、それから、それから・・・・想像はいつも途中でとぎれた。初には外の暮らしを思い浮かべることができなかった。

好き合ったもの同士はどこにいくんだろう。夫婦ものはなにをするんだろう。朝、別れないでいっしょにいて、それで何をするんだろう。そこから先を思い浮かべることができず、薄目を開くと顔の前には徳兵衛ではない恍惚とした男の顔がある。そんなとき初は叫び出したくなった。
折檻された女は、島と同様、恋をしていたのだとやっとわかった。そしておそらく、ひっそりと何も言わず死んだ小春も。

 知らなければよかったことだった。けれど知らないまま年老いて死んでいたらと思うと、ぞっとすることでもあった。恋とは。

 蜆川に架かる橋近くまでやってきて、徳兵衛は急に立ち止まり、その背にぶつかるように初も止まって徳兵衛をみあげる。徳兵衛の見やる橋のたもとに、男が二人立ち話をしている。何ものかはわからない。朝を待たずに帰る客か、それともどこぞの店の不寝番が油を売っているのか。顔を伏せて出て行けば、そう不審がられることもないだろう。けれど昨日の今日で、ここいら一帯に名も事情も知られてしまった徳兵衛を、どちらかが見知っていたら。あるいは、九平次が差し向けた見張り番だとしたら、疑い出すとキリがない。

 徳兵衛もおなじことを思っているだろう、不安げに自分を見上げる初に気づくと、初の羽織っている打ち掛けを脱がせ、初を包み込むようにしてすっぽりとかぶり、灯りの消えた建物の陰にゆっくりと動く。初もついていく。物陰から息を殺して男たちを見つめる。用事がありそうでもないのに、二人はいつまでもその場に突っ立って話している。

 いつまでも動かないところを見ると、本当に見張りかもしれない。この橋だけじゃなく、桜橋にも汐津橋にも見張りがいるのではなかろうか。九平次がそこまでするとも思えないが、昨日の今日、初はもう何も信じることができない。そのくらいのことを平気でやってのける男かもしれない。

 だとしたら、わたしたちはここを出ることができないのか。みすみす引き離されるのを待つしかないのか。初は不安と恐怖のあまり叫び出しそうになるのを、徳兵衛にしがみついてなんとかこらえる。

 ふと、話していた二人が顔を上げて同じ方向に目を向ける。いぶかしむような顔つきでどこぞを見ていた二人は顔を見合わせ。もう一度おなじほうに目を向けるが、次第に目が見開いていくのが、夜の暗さに慣れた目にはわかった。

 何ごとかと、打ち掛けからそっと顔を出して二人の目の先を追った初は、アッとちいさく叫びそうになった。二人の異変に気づいてやはりそちらを向いた徳兵衛が、息をのむ音もすぐ近くで聞こえた。

 ひとだまだった。
 まるで行燈の明かりのように淡い色のひとだまが、明かりの消えたところも、ついたところもある新地のあちらこちら、ひとつや二つじゃない、数えきれないくらい、いくつも漂っている。大きいのもある、ちいさいのもある。

 姐さん、か、つぶやきがもれ、自分の洩らしたその呟きに初は気づいてびっくりする。
 そうや、姐さん。姐さんたち。いや、数多くの女たち。
 男たちは顔を合わせ、狐につままれたような顔で漂う光に誘われるようにその場を離れる。捕まえようとしているのか、正体を検分しようとしているのか、二人とも、宙に手をかざしてうろうろと歩いている。
 ぽかんと光を見ている徳兵衛の脇腹を初はつついた。
 いまや。
 徳兵衛はその合図に気づき、背を丸めて初を換え込むようにして、走りだす。しっかり手をつなぎ、幾度も夢見たその通りに、蜆川に架かる橋を駆ける。橋の下をひょいと見れば、暗い川面に空の星が映っている。織り姫と牽牛を永遠に隔てる、天の川だ。その川を徳兵衛と初は越えていく。年に一度、織り姫と牽牛が会える日には、かささぎが橋となって天の川を渡らせるという。年に一度会えると決まっているなら残りの日は耐え忍んで暮らすだろう。でもそれすらもかなわない。かなわないから今、わたしたちはかささぎの橋を渡るのだと思いながら、初は梅田橋を駆け抜ける。

 姐さん。新地で暮らし、男たちに抱かれ、運命の人を夢に見て、かなわぬ恋に泣き、空を見上げ、橋の向こうに思いを馳せ、愛する人と添い遂げることができますようにと祈り、祈りながらちがう男に迎えられ、祈りながら年老いて、祈りながら病に伏し、祈りながら身を売り続け、祈りながら死んでいった、数多くの女たちが、今、そのやせ衰えた枯れ木のような腕でわたしたちの背を押している。初は、自分たちの背を押し、手を引く、弱弱しく骨張った。無数の手の温もりをはっきりと感じる。

 早よいきなはれ。好きな男と早ようにお逃げ、離れんように、はぐれんように、しっかりと手を握って。その恋が消えんうちに、早く、早く、早く。

 橋を渡り終えた徳兵衛と初は、振り向くことなくそのまま夢中で走った行く。

 すっかり眠り、闇に沈んだ町を抜け、ようやく徳兵衛と初は走るのをやめて、歩き出す。すぐ近くに徳兵衛の荒い息が聞こえる、初もそれに合わせるように肩を動かし息をする。

 少し前を歩く徳兵衛が、曾根崎の森に向かって歩いていることが、言葉は交わさなくても初にはわかる。そこではるか遠くに向けて、ともに旅立つのだ。

 徳兵衛が振り向く。目が合い、ちいさく微笑み合う。
 ものごころついたときからずっとひとりだったと、いつか寝間で語った徳兵衛の声を、初は思い出す。父親のことばをぼんやりと覚えている、大きな手、背中、太い笑い声。でも顔が思い浮かばないと徳兵衛は言った。だから覚えているものはぜんぶ夢かもしれないと言った。

 さみしい、つらいと思ったことはなかった。さみしくないときもつらくないときもなかったから。さみしいと思う人は、つらいと思う人は、しあわせなんだと、だから思う。つらくないときを知っていることなんだから。

 わてはな、初。おまえに会うて、知ってしまったんや。さみしいゆことも、つらいゆうことも。それからこわいゆうことも。またひとりぼっちになってしもうたら。そう思うと、初、おまえやさかい言うが、わてはこわいんや。紺屋の坊は泣き虫でな、おばけがこわい、虫がこわいとゆうては泣いて。それでわてに、大人になったらこわいものはのうなるかと真剣に訊くんや、もちろんのうなると答えたが、なあお初、そやないな、大人になるとこわいもんは増える。心底怖いことが増えよる。わてはおまえを失うことがほんまにこわい。おまえを失のうたらわては生涯ひとりぼっちや。

 腕の中でそうつぶやく徳兵衛を、初は強く抱きしめたものだった。図体はこんなにも大きいのに、そうして抱きしめていると、さみしいことを知らないほどさみしい子どもを抱いているような気持ちになった。

「徳さま」初は斜め前を歩く男に呼びかける。「ほんまにええんやね」振り返った横顔に訊いた。

「お初。ようない言うたかて、わてらにもう帰るところなんてないやないか」
 徳兵衛はそう言って、しずかに笑った。

 その笑顔を見て、初は何かのどに小骨がひっかかったような気持ちになる。そんなに大きな骨ではない、ごくりと唾をのみ込めば、もしかしていっしょに呑み込んでしまえるような小さな細い、かすかな骨。

 ほんとうのところはどうだったんだろう。九平次は徳兵衛の銀を巻き上げたんだろうか。けれどいったい何に必要なだったのか。徳兵衛が大金を持っているとどこかで聞いて、さっと奪って、もう遣ってしまったのだろうか。右手を怪我していると見せかけて、徳兵衛に手形を書かせることまで、九平次は画策したのか。でも、判子は? なくしたという判子は、どうしたんだろう。

 もしや、初は、自分の見下ろす徳兵衛を見つめ返し、ふと、目を逸らす。
 もしや。嘘をついているのが九平次ではなく、徳兵衛だということは本当にないだろうか。

 平野屋の主人が、継母にお銀を渡したのは本当だろう、徳兵衛がそれを返してもらうために家に戻っていたことも。でも、近所の人たちの説得で継母は本当に二貫もの大金を返したのだろうか。徳兵衛をまるで人扱いとなかったような継母が? 
それに、近所の人たちは、十二の年に出て行ったきり一度も帰ってこなかった徳兵衛の頼みを、おいそれときいて、継母を説得してくれたのだろうか? 初はめまぐるしく考える。

 本当は、継母から銀を返してもらえず。なんとか銀を作る方法を考えた・・・・九平次の判子をこっそり盗み、手形を作り、返せとにじり寄った・・・・たったひとつのしくじりは、九平次が判子がないことに気づくなど徳兵衛が思いもしなかったこと・・・でも九平次は気づいてしまい、その日のうちに届けを出した・・・もし、ことのなりゆきがそういうことだったとしたら・・・。

 くるおしく恋しいこの男のことを、じつは、何ひとつ知らないのではないかと初はふいに思う。その思いつきは、初を、崖の先に立っているような気分にさせる。背中のどこにほくろがあるか、どんな寝息をたてるか、どんなふうに笑うのばかりではない、どんなふうに泣くのかだって知っている、子どものころのあれだって自分のことのように思い出せる、でも、本当には、何ひとつ知らないのではないか。

 九平次が噓をついていて、徳兵衛が本当のことを言っていると、どうして言い切れるだろう。もしかしたら徳兵衛は、平気でそういうことのできる男かもしれないじゃないか。

 そうだったとしたら・・・・。
「徳さま」
 初はもう一度、かすれた声で呼びかける。じっと初を見ていた徳兵衛は、背をかがめ、初の声をよく聞き取ろうとするよかのように顔を近づける。徳兵衛の背後には、曾根崎の森が鬱蒼と広がっている。
 そうだったとしたら・・・・、でも、なんだというのだろう?

 徳兵衛が噓をついていたとしたら、徳兵衛が九平次を騙そうとしていたら、偽判よりもさらに重い罪を犯すような男だったとしたら。
 初は手を伸ばし、徳兵衛の手の平を包むように握る。
 それだとしたって、私はこの人とともに旅立つことを選ぶだろう。
「そうやった。徳さま、あてらに帰るところなんてあらしまへん」
 初は言い、そうして徳兵衛の手を握ったまま、走りだす。
 向こうには、まるで黒いかたまりのように森がそびえている。街の灯りがどんどん背後に流されていくのが、見えなくともわかる。過去も、欲も、涙も、未来も、嘘も真も、灯りとともに遠ざかる。なんて体が軽いんだろう。走っても走ってもまだ、走ることができる。初と徳兵衛は、たがいを見つめることなく、ただひたすら前を向き、握った手を離さずに走り続けた。

 早く、早く、早くしないと追いつかれる。
 ゆく先はぼんやりと光が灯る。それはふわふわと漂いながら、ひとつ、二つと増え続ける。さっきのひとだまだとすぐわかる。姐さんたちが、連れていってくれようとしている。恋を叶えることのできなかった女たちが、いくつものかなえられなかった恋が、こっちだよと呼んでいる。

 こっちや。こっちこっち。早く、早く。離さんで、はぐれんで。
 揺れながら導くように森の奥へとひとだまは進む。徳兵衛の目にもそれが見えているか、初は訊いてたしかめたりしない。あたりはしんと静まり返って、二人の土を踏む音と、荒い息遣いしか聞こえなくなる。

 島は病を得て帰り、老いた両親やきょうだいに疎まれながら死んでいったろう。
 首をくくった小春は、来世で恋した男にもう一度会えますようにと願いながら死んでいったろう。

 身請けされたお玉は、死ぬ日を待ち焦がれながら夜なべ仕事をしているだろう。
 湯女になった紅緒は、今も好きでもない男のまらをくわえているだろう。休む間もなく次の男を迎え入れてるだろう。

 こっちや、もっと奥深く。もっと奥にお入り。早く、早く、早く、早く。離すんやない、はぐれるんやない。
 天満屋には開かずの間がある。ずっと昔、ひとりの遊女が客にその部屋で殺されたらしい。辺り一面に飛び散った血が、拭いても拭いても落ちず、それで開かずの間になったと初は聞いた。

 若松屋のおかみは小指が短い。遊女だったころに心中立をしたからだともっぱらの噂だ。けれど相手の男は女房持ちで、かおみに指切りだけさせて、結局おかみを捨てたのだと言われてい。

 天満屋のおかみだって噂話はついてまわる。腕に入れ墨を焼き消したあとがあって、それは間夫の名を消したのだと言われているが、だれも見たことはない。初もない。そもそもおかみは人前でぜったいに脱がない。

 新地のなかにはそんな話ばかりだ。どこぞのだれが逃げようとして連れ戻された。どこぞのだれが指切りをしたのに捨てられた。だれが尼になった。だが風呂屋にいった。だれだれが寝込んだ。だれがこっそり子を産んだ。だれがこっそり子を堕ろした。だれが死んだ。

 こっちや。早く、早く。もっと奥。もっとずっと奥。そう。そう。そう。そう。もっと深く。
「徳さま」思わず初ののどから声が漏れる。
「初」間髪入れず徳兵衛が応える。

 漂っていたひとだまが、ひとつ二つ、ゆっくり消えていく。初は足を止め、それらにつられて徳兵衛も止まる。荒い息をしながら、まったく音のしない森の奥、暗闇に目を凝らすようにして、徳兵衛と初は互いの顔を両手でまさぐる。
「ああ、だれもおらんようになった。二人きりになれましたな」初は言い、しっかりと徳兵衛の手を握って歩き出す。
「死んだらとうさんやおかあさんに会えるやろか」ぼんやりとした声で、徳兵衛が言う。
「会えるわいな。会ったらどないしはります」
「会ったら、そやな、初をまず紹介するわ」照れたように言うので、初は笑ってしまう。
「それから」
「それからごちそうを食べるんや。初と、とうさんかあさんと、みんなで」
 まるで子どもに戻ってしまったかのように、濁りのない笑顔で徳兵衛は言う。
「あんたはええな、あてのとうさんかあさんもまだ生きてるさかい、死んだらもう、会えん。心中のこと知らされて、きっと泣きはる、あては親不孝もんや」

「初、少し先にあの世にいくだけや、向こうで待っとったらきっと会える」
「ねえ徳さま、来世で会うとき、どなしたらわかるやろか」
「どないせんでもわかる、あ、お初やとわかるに決まってる」
「せやけど、もしわからなんだら。何か決めごとしまひょ」
「ほな耳をこう、いらう」
「耳がかゆいんかて思うだけかも」
「鼻の頭をいらう」
「それかて、鼻がかゆんかしらて」

 初と徳兵衛は笑い出す。笑いが止まらなくなる。暗い森の下に笑い声が響き、鳥が飛び立つ音がする。生い茂る木々の向こうに星が見える、初の目に、星々はにじんで溶け出すようだ。
「だいじょうぶや。すぐわかる。きっとわかる」徳兵衛が言い、初はうなずく。
「すぐわかったら、そしたら、こうして、そっと言う。ね、徳さま」初は手を伸ばし、人差し指で徳兵衛のくちびるをなぞる。
「わかった。わかったとゆう、こうして」徳兵衛も、初のまねをして初のくちびるをなぞる。気が遠くなるような快感が、初の背を貫き、思わず初は声を漏らす。そのまま抱き合いたいのを初はこらえ、
「もう平気。あてらは次に会うてもすぐわかる。さあ、早よいこ」

 初の手をとって歩き出した徳兵衛が、ふと、足を止めた。
「初、見てみ。松と棕櫚(しゆろ)が絡まり合うてる」
 徳兵衛の指さすほうに目をこらすと、たしかに抱き合うように絡まり合ってた二本の木が、闇にいっそう濃く浮かび上がって見える。二本の木は、種類が違うのに互いに離すまいと抱き合っているかのようだ。初と徳兵衛は顔を見合わせ、ひとつうなずく。

 初は、結んでいた浅黄染めの抱え帯をほどき、袂から出した剃刀を入れる。すすす、と静かに帯が裂かれていくのを、徳兵衛は息を殺して見守っている。ほどけた帯で、初は自分の腹と徳兵衛の腹を、木に括り付けるようにして幾重にも巻きつける。早く。早く、早く、
「さあ、徳さま、早よう、早よう、早ようにいかせて」
 剃刀を受け取る徳兵衛の手は、震えている。
「さあ、徳さま、早ようお頼み申します」
 そう震えていては、深く切り込むことはできないのではないのではないか。不安になった初は両手で徳兵衛の手を包み、強い力でそれを自分の喉笛にあてる。
「さあ、徳さま、いきまひょ、いっしょにいこ」
「ああ、初、すぐにいく、わてもすぐにいくさかい」

 たがいの瞳に自分の姿をみつけるくらいに見つめ合う。徳兵衛の
震える手には力が入らない、初はぐっと徳兵衛を見据えると、握った両手を思いきり自分ののどに突き立てた。

 ああ、熱い、燃えるように熱い。初は目をかっと見開く。そこにいとしい男の顔があるのをたしかめる。両手でその目に触れ、鼻筋に触れ、くちびるに触れる。ああ、なんてきれいなんだろう。なんてうつくしいんだろう。初の触れた眼も、鼻筋も、くちびるも、みなぬるぬると赤く染まる。きれいな男。徳兵衛の目に、自分の姿が映っているのに初は気づく。自分の顔も、徳兵衛とおなじように赤く染まっている。きれいだと徳兵衛が言った顔だ。こんなにきれいな人は見たこともないと言われた顔。ほんとうだ、ほんとうにわたしもきれいだ、徳兵衛とおなじくらいきれいだ、ねえ徳さま、目を開いてしっかり見て、わたしを見て、わたしと、わたしの目に映っる徳さまをみて。きれいなわたしたちがこの世で最後に見る景色だよ。

 遠くで、子どもが泣くようなまっすぐな声が聞こえる。子どもじゃない、徳さまが泣いている。泣かないで、目を閉じないで、さあ徳さま、いっしょにいこう。

 やがてあたりは静まり返る。初の目にはもう何も映っらない。何も聞こえない。森に潜んでいた鳥たちが、いっせいに羽ばたいていった。
 曾根崎心中
二〇一二年一月一日 初版 角田 光代

 恋愛サーキュレーション図書室の著書