男は犬に似てる。場所ふさぎでカサ高いわりに、甘エタで、かまってやらないと淋しがってシャックリをする。このシャックリは精神的なシャックリである。体調の違和感を訴えてみたり、これ見よがしに不興を見せびらかす

トップ画像田辺聖子著

男と犬

 私は前章で〈男〉についてたびたび書いている。(「いい男」、「憎めない男」)それは関心度の高さを示すことでもあるが、いちめん、気が変るから、ということもある。
 人間は(ということより、私は、というべき)七十を過ぎるとよく気が変わる。〈七十すぎれば熱さ忘れる〉――前にいったことは忘れ、全く違う事をいったり、書いたりする。本書は〈私のアフォリズム〉のつもりであるが、本当は、〈今日のアフォリズム〉にすべきかもしれない。
 さて、今日思いついた〈男〉についてのアフォリズムは右の通りである。その内の、
〈場所ふさぎでカサ高い〉
 であるが、男というものは戸外ならともかく、家の内へ置くと、どうしてああもカサ高いのであろう。私は昔、中型犬を飼っていたが、これが庭の隅につながれて、――といってもずいぶん長い鎖で、彼はかなり自在な行動を許されていたが――遊んだり自堕落に寝そべったりしている。私が通っても薄目をあけて横着に尻尾の先だけちょっと振ってみせ、それで仁義を切っているつもりでいる。カサ高い、というコトバの意味をつくづく思い知らされる。

 それでも老いていないから、元気のありあまっている時は、私の姿が目の隅に入ると、勇気りんりんと胴体を撓(しな)わせ、前肢をこすり合わせる感じで、
〈おッ散歩か? 遊ぶのか? ケンカか? ようし、久しぶりにやろうやないけ、かかって来くされ!〉
 という感じで跳ね、吠えたける。私はいう、
〈あたしゃ今日はいそがしいのっ。あんたなんか、相手にしてられないんだから。オーラ、オーラ、のいたのいた〉
 と手を押しのけてゆきすぎると、
〈くそう、売られた喧嘩(けんか)は買えやっ、おんどれ!〉
 とばかり夢中で吠えて、地団駄ふんでいる――という手のかかるヤツ。人生的に場所ふさぎだ、とつくづく思った。ほんとに賢い犬なら、私が忙しそうだとわかると、つつましく控えて、前肢をつくね、いじらしく、
(お仕事、ご苦労さまです)
 といわんばかりにほほえむ。――(まさか)
 まあ、まして男にそれを求めるのは無理か。
 だから、〈男持ち〉の〈女仕事師〉は、仕事も心ゆくまでできない。ときどきかまってやらないと淋しがる、というのは、ここをいう。

 しかく、男というものを飼育するのは手間がかかる。
 その上に、だ。〈今日、思いついた究極のアフォリズム〉の一つはこうである。

 男はかよわい生きものである。
 現在、六十代から九十代くらいまでの元気なオールドレディたちが寄って、何となく昔ばなしになると、回顧人生にさまざまヴァリエーションはあるものの、みちびき出される結論は必ず一致してただ一つ。
〈男はアカンなあ・・・・〉
 の大合唱。老嬢、老夫人、みな口を揃えて、男は弱い、という。身心ともに刃こぼれしやすい。弱きもの、その名は男、という。

 私も含めて、だが、その年代は終戦直後の国家崩壊に遭遇している。天が地に、地が天にひっくり返った時代。政府は瓦解(がかい)し、軍隊は壊滅する。前途の再建はまだ五里霧中で、町は一望の焦土、食料はどこにもない。誇りたかい大和民族は、いまや、亡国の民同然、飢えてさまようのである。

 何を信じ、何にすがって生きればいいのかわからない。社会の基盤が丸ごと、ぶっ毀(こわ)れてしまったのだ。当時の柳誌「番傘」に、
「日本中空腹だったよく倒(こ)けた」(岸本水府)という川柳があるが、日本の男たちは転倒(こけ)てまま、起き上がれなんだのも多かったのである。

 私の父もその一人であった。終戦の年の昭和二十年の十二月に、病死している。その年の六月一日の大阪大空襲で家を焼かれ、近郊都市の小家に仮住まいしていたが、病患は胃癌であったものの、家と資産を失って、商売の方図も立たず悲観したのだろう。子供は三人ともまだ〈学校いき〉で、これからもの要りの年頃であった。

 父はまだ四十四歳の若さだったが、ひとまわり体が小さくなり、昭和二十年の秋口にはもう寝付いてしまった。いま九十六の老母はいう、
〈これはもう、お父さん頼りにでけへん、ト、抛(ほ)っといたら親子五人飢え死にゃ。私は満員の列車にのりこんでお芋の買い出しにいきましたがな。なりふり構うもてられへん〉

 八十いくつの元気な老婦人もいう、そうそう、満員列車いうても、現代(いま)の通勤電車の混雑どころやない、屋根の上へ乗る人、連結機にまたがる人、殺人列車だっせ、顔、三角にひょこ歪(いが)んだまま、乗っていきまんね。

 また一人、同年輩の、老いてかえって溌剌(はつらっ)、ぴちぴち、なる老女のいうに、そうやってやっとこさ、手に入れた食料を、駅へ着いたところで一斉取締り、買出しはヤミといわれて違法行為、ちゅうことで、お巡りがとりあげまんね、あほらし、そんなことされたら一家乾干(ひぼ)しや、お上いうのんは血も涙もないのんか、あほんだら、とワタエは腹立って、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の駅のホームから、うまいこと線路へ飛び下りて逃げましたがな、何が何でもお父ちゃんと子供ら、食べささんならん、思て、その一心や。主人だっか? 復員してくれたんはエエけど、フラフラの栄養失調で帰ってきて、役にも何にもたちまへんねん‥‥

 そうそ、ウチのかて(とまた別のがいう)、兵隊に取られなんだくせに、戦争すんだら蒲団(ふとん)にもぐりこんでふさぎきって。そのわりに、御飯だけよう食べまんねん。ウチがしっかりせな、思ても、もう闇市で売るもん尽きたよって、闇市のカレー屋の手伝いして、わずかなお金と、残りもんもろて帰ったり。雑炊屋で働いたり、肉まん屋で働いたり。お父さんは腑抜けのまま、カストリ屋台へ入り浸って、阿保かいな、と腹立ちましたデ。よその畠の大根でもカボチャでも盗んできてくれたらマシやのに、――なんて思いましたわいな。

 そして一同うちそろい、
〈あのとき、わたしらがけんめいに働いて一家支えたよって生き延び、子供も大きイすること、できたんや、男はアカン、男は弱い〉と声を揃える。みな元々〈良(え)え衆(し)〉のご寮人(りよん)さんだったり、中流以上の奥さんだった人である。

 そういう強い女たちが、終戦後、ややもすると虚脱や自暴自棄、荒廃に落ちこもうとする日本を支えたのは事実である。私は以前、この時代のことを指して、
〈この時期、主婦のしっかりしている家庭だけが生き延びられた。いや日本の主婦でしっかりしていない主婦なんか、このときいなかった〉
 と書いたことがあるが、その認識はいまも変わらない。(いうことの変わりやすい私であるが)

 私の家の場合、結局、父は年末に死に、母の苦闘はその後、数十年続いたわけであるが、なんと母はそればかりでなく、父の年齢の倍以上も生き延び、年来の旧友たちを集めて、
――男はアカン、男はんは弱い。
 と気焔(きえん)をあげているのである。

 戦後の女性解放は、占領軍アメリカの昌道によるだけではない、終戦時の女たちの奮闘が、女に自負と自信を与えたのであろう。
 しかしわれわれは母たちの時代から少しのちになるので、それほど直截(ちょくせつ)的に、一刀両断風に、
〈男はアカン。男はんは弱い〉
 といえないのである。
 父が倒れてから、看病は私の仕事になった。学校は九月に再開され、幸い私の学園は罹災(りさい)を免れたが、交通機関の復活はおくれているので、通学の難儀といったら、ない。やっと帰宅すると母は働きにいって留守、勉強のかたわら、私は父を看て、貧しい食材をやりくりして夕食の支度をする。十七歳である。

 父を往診して下さる近くのお医者さんも、戦地から復員した軍医さんだった。頑丈な体つき、寡黙な先生はまだ四十を少しばかり出られた年頃ではなかったろうか、私が台所にいると、父が弱々しそうな声で訴えているのが聞こえた。

〈子供がまだ”学校いき”でおまんすよってな、もうちょっと、生きててやりとう、おまんのやが・・・・〉
 父は大阪商人らしく、柔媚(じゅうび)な大阪弁を操る人であった。父が元気なときには、それは父を品よく、やさしくみせたが、病床のそれはあまりにも憐(あわ)れっぽく、何だかお芝居じみて聞え、若い私は共感も同情も持てず、意味なく反撥してしまった。年若いということは無残、無慈悲なものである。母がいつも父に向かって、〈ほんまに弱いな〉と嘆いており、父は〈なろ、思うてなかった病気、ちゃうがな〉とひょわく反抗していたが、それがあたまにあって、奮闘している母に心を寄せていたのかもしれない。

 しんし両親の問答や、父と医師(せんせい)との会話をいまだに記憶しているのは、心の底で父をいたましく哀れにも思い、いとおしく感じていたからなのであろう。

 人間は大体、親とよく似た人生コースを辿ることが多いが、(離婚した両親を見て、自分は決して離婚すまい、と思っていたのに、離婚した、と述懐する知人かいる)私もまた、病夫を抱えて奮闘人生を送る事になった。

 しかし、母のように一刀両断にいえない、というのは、もの書きの省察力なんかではなく、時代の流れ、である。
 今日びの女はすでに、半分、男性化しており、一人で世に立ってゆく辛さも男なみに思い知らされている。発想のすじ道も力も、男とさしてちがいはなくなりつつある。その眼で男を見たとき、〈男はアカン〉と一方的に断罪できない。されば、〈男はかよわい生きものである〉と少し、斟酌(しんしゃく)し、かつ、隴化(ろうか)せるアフォリズムにならざるを得ない。

 ここまできて自身、よくわかった、それは〈男〉への愛情がそういわせるのだ。私は男が好きなんである。八十婆さん九十婆さんの本音もたぶんそうなのであろう。

ふたごころ

 嘘というものはまあ、よっぽど致命的な、犯罪とよべるほどのものはおいて、たいてい少々しは普通に世に行われる。珠に商行為では自然の営為で、商売というもの、これなくして成立しない。

〈よう出てます。これは若いかたがお好みのタイプです。奥さんはお若いから、さすがに若々しいのがお似合いですなあ〉
 とか、
〈いまが絶好のお買いどきです。この先、あがることはあっても、さがることはありませんよ。いい汐どきですよ〉
 などという。私なんかであると、いついつまでにと期限を切られた仕事、あ、大丈夫ですよ、ハイハイ、といってできたためしがなく、〈いや、それがですねえ、実は〉と責任を他に転嫁(てんか)するのに汲々(きゅうきゅう)としたりして、嘘の上塗りになる。

 これらはわが利益のための嘘でエゴの結果であるが、もちろん、見栄っぱりから噓をつくことも多い。しかしこれはあとのお手当てがたいへんだ。ついた嘘を覚えていなければいけない。

 それとは別に、善意の嘘というのも世に多く行われ、命、旦夕(たんせき)に迫りながら、意識はたしか、という厄介な病人なんかに対しては、〈今朝は顔色がよろしいですよ〉などと元気づける。真実はここでは問う所でなく、思いやりの〈嘘〉が真実になる。病人のほうもまた、気休めのお愛想、と感じていても、何となく明るくなり、頬がぽっと赤らんだりする。――

 そうやって世に経(ふ)る歳月を重ねるにつれ、人は嘘まみれになってゆく。善意の嘘もエゴの嘘も、見栄っぱりの嘘も〈ごちゃまぜ〉の状態で、ウソで固めた人間商売、
〈京(みやこ)は人を賤(いや)しゅうす〉
 ――には違いないが、これも人生の潤滑油で、人の世の清疎繁簡(せいそはんかん)の複雑さ、とても人生マニュアルなんかで一括できるものではない。

 ところで嘘の中でも男と女の間の嘘は微妙だ。
 何となればこのときの嘘は潤滑油が時には起爆剤に変質して、発火したりするから。
 しかし世の夫と妻のあいだでは、終始、小さい嘘は渦巻いているようである。川柳では、
「一時間ぐらいで夫婦嘘がばれ」(蔵多李渓『類題別 続番傘川柳一万句集』)
 というおかしいのもある。一時間でばれてしまうケチな安モンの、手軽な嘘など、つかなきゃいいじゃないか。たちまち、むざんにばれてとっちめられている。もちろん、夫がとっちめられるのである。

「妻にいう嘘言いやすしばれやすし」(森紫苑荘『類題別 続番傘川柳一万句集』)
 こういう階段だと、〈嘘〉も夫婦仲のビタミン剤みたいで、生活のアクセント、季節のころも更え的というか、年中行事的というか、日々のくらしに弾力を与えてくれるかもしれない。

 しかし人生何が起こるか、一寸先は闇である。それは、日常的アクセントとして流してしまえない大きな秘密を抱え込んだとき。
 男は小さい嘘をつくが、大きい嘘はつかない。大きな嘘のときは、ただ沈黙あるのみだから。そこでアフォリズムその一、としては、
 男は嘘をつけない代り、黙っていられるという特徴がある。男は隠し事の大家だが、それは正直という特性と背馳(はいち)しない。

 金銭トラブルなら手の打ちようもあろうが、愛や恋、情のからむ秘密は、解決しようのないことが多い。本来的に身分不相応の秘事である。

 男は寡黙になってしまう。慎重に話題をえらぶ。妻を刺激しないことに全力を傾注し、秘密を守り通そうとする。そういうとき、妻は愛が冷めた、とか、心が冷えた、という男もあろうが、そこまでいかない、というのが大方の事情ではないだろうか。家庭は家庭として、もう一方は一方として。

 日本語は多彩で、変化に富み、いろいろ便利な言葉もある。こういうときはたとえば、
〈ふたごころ〉
 などというのはどうだろうか。源実朝(さねとも)に、「山は裂け 海は浅(あ)せなむ 世なりとも 君にふたごころ わがあらやも」という有名な歌もあるが、実朝のこの〈君〉は妻や愛人ではなくて後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)である。実朝は〈ふたごころ〉なき忠実を上皇誓う。君臣の仲である。

 しかし市井(しせい)の住人としては、往々、〈ふたごころ〉を持って生きざるを得ないときもある。〈ふたごころ〉あって、ナニ悪かろう、と居直らねばしようがないときがある。どっちにしても、〈まごころ〉を持つ。多少の量のちがい、質の差はあるが、〈まごころ〉二つで、〈ふたごころ〉。これは、黙って隠さなくてはいけないし、何しろ女というものは、全部か無かの選択を迫るものだから。
 女の嘘はどうであろう。アフォリズムその二、としては、

 女の嘘が巧いが、そのくせ、隠し事を黙っていられないという矛盾した特性がある。そうしてその正直は、女の場合、美徳にならないところに特徴がある。
 すでに嘘はフトついてしまった。〈車は急に止まらない〉のと同じく、〈嘘もいったん口から出ると止まらない〉のである。
 
 隠し事も同じで、これは女にとって、〈人にいうためにある〉という感じ。持ち重りするから、人にしゃべって軽くしよう。なんていうタチのものではなく、しゃべりたくてうずうずするのが、〈女の隠し事〉である。
 正直だから、何でも喋ってしまう、というのとは違う気がする。

〈いやその、嘘と隠し事とどう違うんですか〉という人がある。じっくりした中年男である。私は考え、
〈隠し事は、嘘より、もっと”弱み”という部分が大きいものでしょう〉
 と答えた。嘘は、ついたことを忘れてしまうかもしれないが、隠し事は夢の間も忘れてしまえない。

〈ふたごころ〉というのは、負担の大きいものなのである。どうしても処世の姿勢としては、”弱み”をかばう体で、身は二つ折になる。人生の戦場で、そんな恰好でいては、奮迅(ふんじん)の働きができない。しかし考えようによっては、この”弱み”があればこそ、人間に深い趣が添い、器量が大きくなる気がする。

〈ふたごころ〉は、男を大きくする。・・・・・
〈いやー、くわばらくわばら、そんなこと、ようしませんワ〉
 とその中年紳士は舌を震わせ、
〈やっぱり、ぼくらみたいな、気ィの小さいあかんたれは、そんな太っ腹な人生は送れませんナ。器量が大きくならんでもよろしい〉
 と恐ろしそうにいう。〈あかんたれ〉大阪弁で意気地なし、というような意味である。

 そうかもしれない。〈隠し事〉というのは〈何食わぬ顔〉ができないといけないのだが、ここまでくると、ほとんど犯罪の匂いが強くなってしまう。

〈女なら、そんなことはまして、できまへんやろ〉
 と彼はいう。たしかにそう、いかし、女でもそういう人生を生きることがある。
 それは男の〈ふたごころ〉の一方に立たされた女。妻と愛人と並べると、愛人のほうは、男並みに隠し事の大家になる。
 “弱み”は男なみの器量を女に与える。
 また、さまざまの苦悩も、女を鍛える。迷い、焦り、いらだち、疑い、嫉妬・・・。
(どこの誰が、こんなに”しんどい”恋をするのだろう・・・・)と思いながら、そんな苦界(くかい)から足が抜けない。
 いやあ、〈ふたごころ〉の対象にされた〈もう一方〉の側も、たいへんな人生を引き受けてしまったことになる。
 しかも、〈ふたごころ〉はほころびやすい。嘘をつく巧みな女は、相手の嘘にも敏感という、男にとっては思わぬ伏兵がある。
 私は以前、ある小説でこんなことを書いた。
「問い詰めて、とことん聞き出すのは妻。
 見て見ぬふりをして、問いただしたく思うことが口まで出かけても、むりにのみこむのが恋人。
 証拠をつきつけて、ぎゅうといわせるのが妻。
 証拠を自分で握りつぶして、信じまいとするのが恋人」

 妻の攻めかたは搦手(からめて)なんかからこない。必ず大手から、正義の旗印を幟(のぼり)にして陣羽織の衿元にさし、大槍をりゅうりゅうとしごいて男を攻めたてるであろう。
 しかし、ここで、人生ちょっといいこともあるというのは、女というものは、嘘だと思っていても、嘘に酔わされるのが好きなのである。

 男はあくまでもシラを切って、言いくるめてくれるのがうれしい。いつまにか人生を脱ぎ槍をおき、武装解除して、心もうちとけ、
〈阿保な心配、させんといて〉
 などといいながら、内心、
(こんな、ジャガ芋に石ぶっつけたような男が、女にもてるハズないやんか。そやけど、うちのパパほんまにもてるのんかしら。フフフ。昔、ミヤコ蝶々さんが、物干しに三日吊るしといても、カラスもスズメもつつかんような男でも魅力ないというてはったけど、ほんまやわ)

 などと、まんざらでなく思ったりしている。
 ――さて、もう一方の愛人のほうは、スリルある恋を満喫する一方で、絶えず、自分の存在位置を確認し続けている。
 そう、〈ふたごころ〉のもう一方の女は、かぎりなく男的になり、〈隠し事〉の大家になるのである。
 私の友人に、〈女はどんなに男を愛しても貸した金のことはあたまにこびりついている〉という女がいたが、〈隠し事〉というより本音である。これも昔、ある横領事件で世を騒がせた若い娘、司直の手に捉えられてから述懐していた。

〈最初こそ、ターミナルの地下のレストランでしたけど、あとは”つけめん大王”のラーメンばかりでした。大金をあの男に貢がせられたけど、二人で贅沢したってわけじゃないんです〉

 私はとても可哀想に思った。彼女は恋のあいだじゅう、そんな”本音”を隠し持っていたのだ。そこで、アフォリズムその三。

 本音というのは真率(しんそつ)だけに、下賤なことが多い。

ほんものの恋

 立秋の声をきくと、ちょっとぐらいは、きびしい暑さも緩んだ気がする。しかし昼間の炎暑(えんしょ)のほてりはなお去らず、夕方になっても気疎(けうと)い熱気がたちこめて窓もあけられない。
 こんな夕方はクーラーを利かせて、冷たい日本酒にスダチを搾り入れたのを飲むにかぎる。

 フィフティちゃんは、勝手を知ったる私の家の食器棚から金箔入り小壜(こびん)を取り出し、冷酒にひとひらふたひら、泛(うか)べてご満悦である。切子細工の脚付きグラスのそれをかかげ、
〈金箔美人になれますように〉
 なんていいつつ飲む。
〈黄金(きん)なんて体にエエのんですか〉
 と夫(おちゃん)に聞くイチブン氏。
〈知らん〉
 と無残にいいすてるおっちゃん。
〈おっちゃん、ドクターと違いまんのか〉
〈それは浮世におったときの身すぎ世すぎじゃっ。いまはもう、そんな色気はないわい!〉
 身すぎ世すぎは色気でするものか、という話になった。しかし考えてみると、せっせと日々のパンのために働くのも、ある種の色気なくてはかなわぬような気もしてくる。ずいぶん広範囲な意味で使われるのが〈色気〉もしくは〈イロ〉である。

 商売に於いては、値段の交渉に〈もう少し、イロをつけて下さいよ〉と婉曲(えんきょく)に暗示したりする。条件さえ折り合えば商談成立、と示唆されて、〈向こうさん、色気出しとりまっセ〉などと売り手は手をこすり合わせて勇み立ったりしている。

 生命力というか、気魄(きがい)、というか、意気込みというか、精気、気焔(きえん)――そんなものがエーテルのごとく、対する相手に感じられる、それが色気であろう、ということになった。

 しかしおっちゃんは
〈そんな、ごじゃごじゃしたんは知らん、ワシのいう色気は、もっと簡単な、単純色気じゃっ。ナニが好きなヤツのことじゃっ〉
 という。近来、彼は口マメに詳述(しょうじゅつ)しないからわかりにくいが、ははあ、〈好色〉のことですか。好色、イコール生命力、と?
〈そや。そういうヤッは元気じゃっ〉
 わかった。私も一つの啓示を得た。
 そこで私の、今夜の、まず第一番に浮かんだアフォリズムは、こうである。

 好色な人は男も女も、人生、たのしそうに生きている。

 こう、ぶちあげると、あとは百家争鳴(そうめい)になった。イチブン氏はいそぎ、口を出す。
〈われわれ熟年にとって、やっぱり究極の憧れは、好色や色ごと、というより、恋やなあ。一世一代のラストの恋をして、この世をおさらばしたい、せつない望みがあるなあ〉

〈恋と色ごとと違うんですか〉
 と挑発的に鼻で嗤(わら)うのはフィフティちゃん。
〈そらそうですよ。色ごとは何や、レンタルっぽいけど、恋は買い取り制、という感じですがな〉
 イチブン氏には、いままでの人生から”恋”についての定義ができあがっているようであった。
〈若いときは、この二つを一緒くたにしてる。”巷には、巷の恋がみちて、われはこよなく、ロダンを愛す”という、誰のうたや知らんけど昔、読んだことがあります。若いときは””巷の恋”でも腹が膨れる。しかしもう、この年になってみると、量はいらんから、質でいきたい、と思う。ほんのぽっちりでもエエ、おいしい、ほんものの恋は味わいたい、と思いまンな〉

〈いままで、全くなかったように聞こえますね、ほんものの恋愛経験が〉
 と私は皮肉っぽくいってやった。
〈いや、そのとき、そのときではほんものの恋や、と思っていたんでしょうな。しかし歳を重ねると望みが高うなってくる。ついでに機会も遠ざかる。叶わぬ夢がいよいよ慕わしくなる――という寸法。どないしたら、エエのんでしゃろ。オトナの恋は難しいもなでんな〉

 私を顧みていわないで下さい。
〈けど、一世一代のラストの恋、なんて大げさに構えるから、いけないんじゃないかしら〉
 と、これはフィフティちゃん。

〈そう身構えてたら機会はどんどん少なくなるわ。中年の、ってか、オトナの恋は、当意即妙(とういそくみょう)でエエのん、ちがう?〉
 いい年のオトナ同士の会話の妙は、漢字や熟語がぽんぽん出ても、話が通じることだ。(若い人たちだと、これが英語や当世のスラグに代わるのだけど。若い人たちのために、フィフティちゃんのいう”当意即妙”を解説すると、その場その場にいたのは、応じて、すぐ、適切な言葉や態度を択(えら)べる能力のことである)
 これでみるとフィフティちゃんはかなり、オトナの恋の連達者なのかもしれない。
〈いや、しかし〉とイチブン氏は、今夜の酒の肴の一つ、芋茎(ずいき)と薄揚の煮たのに箸をのばしながら、
〈もう、このトシでは昔みたいに当たって砕けろというわけにもいかん。というて、代わりのテクも持ち合わせとらん〉
〈テクより真情、でしょう〉
 私はあらたについだ冷酒に新しいスダチを搾りこみながらいった。私のグラスは薄緑色のリキュールグラスで、清酒に適う。
〈そこがオトナの貫禄やないの、おのずから若いときと違って、迫力がありますよ、オトナの底ぢから、っていうか。それでいって下さい〉

 私はけしかけるようにいい、イチブン氏のグラスに冷酒をつぐ。
〈いや、その、こっちも、頭は禿げたり、白髪になったり、だいたい、男は禿げるか白髪か、どっちやけど、ぼくのは両方やから助からん〉
 とイチブン氏はぐっとグラスをあけ、
〈まあ、そういうトシのオトナの男が、ですな、好もしいと思う女性にモノをいうとかる。年甲斐もなくしろもどろもになってしもうたり、する。これがせつない〉
〈おンやあ、それじゃ、現在、そういうお目あてがいるわけ?〉
 といろめきたつフィフティちゃん。
〈いや、そういうわけやあらへんが、もしそうなると仮定して、きっと、しどろもどろになるやろうと・・・・〉
〈いいじゃありませんか、しどろもどろで何、悪かろうというところよ。それこそ魅力やわ〉
 と私も力づけてあげる。

〈だいたい、人前でしゃべるときにあんまり流暢(りゅうちょう)なのは関心できないわよ。しどろもどろのほうが好意をもたれるわよ〉
 それで思い出した、こんな川柳がある。

「あいさつのしどろもどろを愛すべし」(岩井三窓『川柳燦燦(さんさん)』)
――世の中で貴重なのは、真情であって、その表現方法の不備は問うところではない。むしろそのほうが粋である。
 よって、二つ目のアフォリズムができた。

 スピーチ・講演、また、恋の告白につき、上手すぎる人はイモである。

 もちろん真情もよくそなわり、表現も洗練され、という達人もこの世にいられる。私のいうのは、真情より表現のテクがうわまわり、かつ、それに自己陶酔している人のことである。

〈そうよン、それに、ラストであれ、何であれ、恋愛なんて期末決算とちがうわよン〉
 というのはフィフティちゃん。
〈ちゃんと整理して収支をキッチリしないといけない、なんてもんじゃないの。うやむや、ナアナアで書類を折りたたんで、ポケットへ入れときゃいいの、さあ、これからくどきますよ、なんていう人はいないんですからね、モゴモゴ、うやむや、ナアナアでエエのん、違う?〉

 イチブン氏は〈てへへへ・・・・〉と笑うのみ、何だ、照れているのか、やっぱり〈オトナの恋〉に身を灼(や)いてるのかしら、わるくないけど、〈そんなんと違う〉と必死に、彼は手をふって否定するのもおかしい。

〈あたしの貧しい経験でいうと〉とフィフティちゃんは、恋愛問題、ことに〈オトナの恋〉については任せなさい、という感じで、鷹揚(おうよう)にいう。
〈中年以上の恋愛、というの、ハタ目に悟られない、まわりに知られないようにするところに、苦労があるのよね〉
〈若い人だって、そんなことはあるかもしれない〉と私。
〈うん、だけど、若い人は縫物の糸の端に結び玉をつくってないようなもんで、あとは野となれ山となれ、って感じで、アフターケアはほったらかしのことが多い。でも中高年の恋は、あとあとのことも見通さないといけないから、やみくもに手を出せないし・・・・という、ふかい、おもんぱかりもあるのよ、それはわかるけど、そこんとこ、ちょっとはじいて、ちゃらんぽらんにみせて、実は、――という、何ってたっけ、姿をくらますことを・・・・〉

〈韜晦(とうかい)?〉と私。またもわれら世代の通弊(つうへい)である。文語文や難しい漢字好きの悪弊(あくへい)が出る。
〈そ、そ。韜晦して恋をたのしむのではなくちゃ〉
〈うーん、しかしまあ、ある特定の対象をエエなあ、好もしいなあ、と思うだけでも、まあ、人生豊かになる気ィもするし、なあ・・・・〉とイチブン氏は考え込む。
〈おやおや、ずいぶん純情ねえ、じゃ、手も握ったこともないんですか〉
〈現実の話やおまへん、いうとるやろが〉
 とイチブン氏がむきになったので、かえって現実っぽく聞かれた。早速、できたアフォリズム二つ。

 愛する、ということこそ人生の主役であって、そこへくると愛されるってほうは、人生の脇役にすぎない。
 究極の恋は手も握らない関係に尽きる。

 それを披露するといままで黙っていたおっちゃんがいった。
〈何が究極じゃ。男と女の究極は、二人で漫才やって楽しんで、そんで二人で寝る、これに尽きるんじゃっ〉
 これはうやむや、ナアナアでなく、はっきりしてる、ということで、また飲み直しになる。

血の冷え

 私は前に、「家庭の運営」というテーマに関するアフォリズムを書いたが、今回は、家族、親戚、身内について考えたいと思う。

 というのも、最近、結婚式や葬式、幾度か出席する機会があり、さまざまな感慨を強いられたからである。
 結婚式は親族のそれもあり、他人のにも招かれたが、いずれも(当然のことながら)一同、和気藹々(あいあい)であった。親族同士はたいてい、噂するときは地名で呼んだりしている。

〈豊中の爺さん、えらい年をとりはりましたナー。きつい人やったけど、好々爺(こうこうや)にならはって〉
〈ほんま、ほんま〉と好意的に。――〈ええトシのとりかた、してはる〉みな、うなずく。

〈池田の御婆ちゃんはまたまた、いつまでもお若うてきれいやな〉
〈若作りが似合いはります〉
〈残んの色香、というのは、ああいう風なをいうんやろな〉というのは、一族から、箕面(みのお)のお爺ちゃんと呼ばれている長老。膝を乗り出して、内緒話っぽく、
〈なんせ、若いときから艶名(えんめい)をうたわれたお人やってな〉
〈箕面のお爺ちゃん、そんな難しい言葉使いはったかて、ワシら若い者にわかれしまへんがな〉
〈わからんようにいうてんのじゃ〉

 親和感に満ちた笑い声があがるのも、祝宴らしい華やぎである。豊中も池田、箕面も大阪近郊の地名である。久しぶりに逢う古い親類、見違えるほど成長した若者たち、人々は歳月の流れをみとり、感動する。その頂点に、花婿・花嫁がいる。

 この一組の新郎新婦を生むために一族があった、というような昂揚(こうよう)感に一同は包まれ、晴れ晴れと酔う。過去のいささかの紛糾(いざこざ)もみな流されてしまい、むつみ合い、心を一つにして祝福する。

 これが葬式であるとどうか。
 しめやかなうちに、和やかに、といきたものであるが、往々にして葬式で荒れることが多いのはなぜであろうか。
「泣き泣きもよいほうをとる形見分け」
 という川柳があるが、御棺を前にして早くも遺産相続で揉(も)めたというのはよく聞くところである。

 お骨あげして帰ったばかりというのに、精進料理の席で、オマエが苦労させたから娘は早死にしたと、婿に食って掛かる嫁の親もいる。かねておさえつけていた憤懣(ふんまん)が、ひとこと、ふたことの応酬のうちに、たまらず噴き上がったのであろう。

 焼香の順番に文句をいう親類もいる。
 私の体験したのでは、〈ばらずし〉を盛るのに、皿に盛ったと怒り出した老人がいた。それは仕出し屋から取ったのではなく、家族や近所の主婦たちが手分けして作ったものである。家じゅうの食器を動員し、御飯茶碗にも什器にも盛った、ただし、おも立った来賓、老人、大人の男たちには、皿盛りした。関西の家庭ではばらずしは縁高の平皿に盛り、錦糸卵や三つ葉、海苔、紅しょうがなどを、見た目にも美しく飾ることになっている。見るからに食欲をそそるもので、これは平皿に盛るからこそ映えたつ飾りである。

 しかるにその爺さんはその風習に疎(うと)かったのか、
〈ワシは犬か。皿なんかに盛りくさって〉
 とゴテたのであった。
 さきの結婚式の連中も、人付けまちがうと、〈豊中のお爺ちゃん、あんた今でこそおとなしならはったけど、昔はこんなこと、いいはった。えげつなかった〉

 などといい出すのが、葬式というものである。死者のことをもち出して、
〈豊中のお爺ちゃんに、こんなこといわれた、いうて○○は泣いとりましたデ〉
 などと昔のことをむしかえす。あげくのはては、
〈さすがに昔、モク拾いして闇市で売っただけの根性はある〉
 などと大昔の所業まで曝(あば)いてしまう。好々爺の爺さんも負けていず、地金が出るであろう。
〈そういうお前の親爺は闇のブローカーやって、ひと財産作ったのは結構やけど、悪銭身に付かず、最後は逼塞(ひっそく)したやないか〉

 モク拾いというのは、終戦後の物資欠乏のとき、人の吸い捨てた煙草を拾い、ほぐして巻きなおし、ばら売りする商売のことである。これも煙草にかつえる人の需要に応じた商いだ。物資のまわらぬ混乱の戦後はブローカーも暗躍した。

〈池田のお婆ちゃん〉は下宿させていた大学生との艶聞をすっぱぬかれ、これまた大騒動となり、仲裁しようと出てきた箕面の長老は、
〈うるさいわい、年寄りの出る幕ちがう、引っ込め、死にぞこないめ〉などと罵倒(ばとう)されるかもしれず、いやもう、葬式の席での揉め事は大なり小なり、避けられぬものらしい。人間の習性は祝福でまとまるより、不平不満、怨恨(えんこん)でばらけるほうにかたむきやすいとみえる。

 よって私の考えたアフォリズムは、
 結婚式はすべて水に流させるものであり、葬式は水に流したことをまた、蒸し返させるものである。

 私などは古い昔、「兄弟(けいてい) 牆(かき)に鬩(せめ)ぐとも」外では共に侮りをふせぐ、などと教わったものだが、今日びはエゴの衝突で、兄弟姉妹でせめぐのである。
 血は水より濃い、といわれたが、昨今ではどうだろうか。よって、私のアフォリズム、その二。

 血は水より薄し。

 あるいはこれを解説してアフォリズムになおすと、
 親子だからといって気が合うとは限らない。
 伯父(叔父)さんだからといって意見してくれるとは限らない。
 ということになる。気の合わない肉親は他人より始末が悪い。家庭内暴力などの問題児に、もはや現代の両親で、どのくらいの割合の人が対応できるであろうか。どうしたらいいんですかねえ・・・とつぶやきつつ、仕方ない、目の前の仕事へ逃げてしまいたい。

〈ぼくは会社がある〉
 と蒼惶(そうこう)として出勤してしまう。
 妻も勤めていればおなじようなものであろう。
 実際、どこから手を付けていいか分からない、という親が多いと思う。生まれつきの気質も生育環境も違う若者(ただし研究者、あるいはしかるべき相談機関の当事者によれば、共通の問題点はあるといい、対応策のマニュアルも示唆してくれるかもしれないが)、一件で成功した方法が全ての問題にあてはめて機械的に成功するとは思えない。

 さま変わりしたわが子に、血の冷えを痛感する親は多いようであろう。血の濃さを信ずることは、もうできない。
 すべての原因が親にあるといわれ、今までの人生と向き合うことを否応なく強いられる。
 ごくフツーの(と本人は信じているし、周囲もそう、査定する)、市民、フツーの家庭と思って暮らして来た身の、あれがいけなかった、このときこう対処していれば・・・・などと、したりげに指摘されても、
(どうも、なあ・・・・)
 と深い混乱を与えられるばかりである。子育てがこんなに困難で、惑乱にみちたものと、前似て誰かが耳打ちしてくれれば、また、考えようもあったものを――と思う。しかし、それは時代である。産んだ時ときは、まだそんな問題は社会的水面に浮上していなかったのだ。(水面下ではあったものの)
 時代のせいだから、政府がもっと支援してくれるべき、と親たちは思い、今は年齢的に〈一、抜け〉になっているわれわれも思う。

 この問題から逃げたい親たちは、
(だれか、来て、息子・娘に、よう、言い聞かせてくれませんか)
 と必死に念じているであろう。世に〈言い聞かせ屋〉があるとすれば、お金を払って傭(やと)いたい、と思うであろう。
 これを責任逃れ、とばかり責めることはできないと思う。だれにもそんな器量は与えられていず、〈本物の、親の愛があれば・・・・〉などと単純にはいえない。
 昔はどうだったろう。
 血の熱さ、血の濃さを証明するように、身内がご意見番になる。指導のベテランであり、対応策を考えてくれる相談機関であった。

 昔の〈伯父さん〉〈叔父さん〉はそんな地位にいた。子は父親に反撥しても伯父さん叔父さんには、いささかの遠慮もある。
 ところが伯(叔)父は、甥(おい)だからといって手心をしない。父親より居丈高(いたけだか)に意見する。若者も、父親は殴れても伯父さん叔父さんは殴りにくい。それを見越して伯父さん叔父さんも容赦なく𠮟りつける。

「盃(さかずき)出して伯父を静める」(『俳諧 武玉川』)
 というのも、それであろう。意見をいううち、怒り出す伯父さん。周りはハラハラして、〈ま、ま、お一つ・・・・〉と急いで盃を出して伯父の激昂を静めるというあんばい。

「伯父貴からちょっと来やれはいやな気味」(『排風 柳多留』)
 ちょっと来い、と伯父さんに呼びつけられたのは、また意見でもされるんだろう、いやー、かなわねえなあ・・・・、という句。
 これなども、昔の庶民らの血の熱さを感じさせるもの、甥は伯父のご意見に閉口している。しかくその時代はやり易かった。・・・・・

 そう、〈意見〉なのである。血族同士を他人と思わず、非があれば意見して正道へ引き戻そうとした。意見は真と自分の信ずる所の表明であり、それを他に及ぼそうとする強烈な働きかけである。ただの忠告と違う。未開蒙昧(もうまい)の漂民を王化に浴さしめようという開拓者の情熱にも似ている。ワシのいうことはまちごうとらん、という烈々たる信念がある。父親から伝わりにくく、かえって岡目八目(おかめはちもく)の伯・叔父さんあたりが述べやすいもの。

 現代では烈々たる信念は地を掃(はら)ってしまった。伯・叔父さんたちはわが家のことですら守りかねる。〈意見〉する者はいなくなった。

――血は、かくて、水より薄くなった。薄明の塵(ちの)の世を、血にも頼れぬ淋しい魂が、おぼつかなげに浮遊している。

ほな

 私はいまあるところに『俳諧(はいかい) 武玉川(むたまがわ)』についてかいているが、ここには寸鉄、人を刺すという警抜な句がたくさんある。七七の句にいいのが多い。
(たとえば、思い出すままに並べてみせてくれる。みると、
「背中から寄る人の光陰」
 人の年齢は背中からくる、というのだ。
「子の手を曳(ひ)いて姿崩れる」
 美人も子持ちの内儀となってはカタなしである。無論、そうでない女もいるが。
「悋気(りんき)の飯(めし)を暗闇で食う」
 こいつは凄い。この嫉妬のすさまじさに比べたら、六条御息所(みやすどころ)の生霊(いきりょう)なんぞそばへも寄れない、というところだろう)

 私は〈負けん気〉の挑みどころを触発されて、〈むたま〉に張り合う、寸鉄殺人というべき警句箴言(しんげん)を考えてみた。だがやっぱり、下手の考え休むに似たり、〈むたま〉に張り合うには当方の器量不足は免れがたい。

 しかしながら私は、長年、恋愛小説を書いてきた。これは私が恋愛経験豊富なため、と思ってくださる向きがあると嬉しいのだが。(誰もそんなこと思てへんワイ、いう声が諸々方々から湧き起こるであろうが)実は陰の声の通り、そうなんである。

 経験乏しいがため、異常に想像力が逞しくなるのである。私は男や女のタイプに関する知識量も在庫豊富と申せない。恋のさまざまな相(すがた)に関する見聞も同様、貧弱である。そこは諸兄諸姉(みなさん)のご憫察(びんさつ)の通り。ただしかし、そのために、かえって妄想を逞しくし、脳漿(のうしょう)を搾って考える、ということがある。

 私は恋愛小説のさまざまを長・短編いくつも書き散らしながら考えた。
 そとで究極の恋愛小説のテクを発見した、と思った。(というのは、考えは年齢によって刻々、かわるだろうから)
 いまの時点では、恋のはじまりより、恋のラストに留意すべき、ということである。

 はじまりは、大切そうで、実はそれほどでもない。『源氏物語』の、光源氏と藤壺の道ならぬ恋も、はじまりは明白に書かれていない。突如として二人のラブシーンがあらわれ、しかもこれは二度目の逢瀬(おうせ)であると暗示されている。「あさましかりしをおぼしいづるだに・・・・」「若紫」最初の出逢いは自分の意志ではなかったけれど、と宮は思う。

 この恋は藤壺の落飾で終る。つきまとう源氏をあきらめさせるにはそれしかない。源氏は唐突に告げられた宮の決心に自失する。とりすがって怨みたいところだが、父帝崩御一周忌の法要の席、人目がある。公的な進退を要求される公人の立場として、取り乱せない。

 源氏のおしかくした悲傷に読者も心をゆすぶられ、ここに二人の邪恋は、美しい悲恋に昇華する。

 これで見てわかるように、恋愛小説は終わり方、別れ方にウェイトがかかる。
私の小説でも昔の読者は(小説全盛時代だったから)みな熱心・純粋で、〈剛と乃里子(のりこ)はどうなりますか〉だの、〈レオとモリは結婚しますか?〉なんていう手紙がたくさんきた。だからある点、恋愛小説は推理小説に似ている。真犯人は〈別れかた〉〈恋の終わり方〉である。
『武玉川』には及ばぬけれど、恋の終わりのアフォリズムを蒐(あつ)めるとすれば、こうもあろうか。

 一緒に笑うことが恋のはじまりなら、弁解(いいわけ)は、恋の終わりの暗示である。

 いいわけは、隠し事を暗示する。尤(もっと)も恋にはある分量のかくしごとは必要である。それは恋を一層おいしくする香辛料のようなもの、相手を愛する気持ちエゴはないから。

 しかしいったん利害の陰のさすエゴが生まれると、恋は腐臭をたてはじめる。
 恋を美味しく味付けするはずの〈隠し事を〉は、ワルの匂いのする犯罪になってしまう。弁解は嘘のはじまり。嘘や弁解を見ぬいていながら、まだ〈恋〉がたゆとうている人は、気づかないふりをする。

 そして自分の、(恋ゆえに)鋭い洞察力を自分で悲しむ。
 その心の底には、
(もしかして・・・・私の思い違いかも?・・・・)
 というはかない一縷(いちる)の望みがある。しかしそれさえも自分で(はかない希望)と悟るのは、これも恋の与える明察力のせいである。このへんで理性し恋がせめぎ合う。

(現実をみろ)
 と理性は示唆する。相手の、心変わりというのではないが。人は、二タ股、三股、に関心が向く動物で、つねに変化し、推移する。神変不可思議な男の心、女の心である。変わらないほうはやきもきしつつ、状態の変化だけを敏感に感じ取っている。

 何がちがう、何か、前のようではなくなった。人間は皮膚感覚の生きものである。動物のように毛で掩(おお)われていないから、全身で感知してしまう。ひょっとして、
(別れることになることになるかしら?)

――その言葉が脳裡に閃いたときから”別れ”ははじまる。
 考えついただけでもう〈アカン〉のである。
 よって私の”別れ”に寄するアフォリズムその二。

 別れ、という言葉を心で思いついたこと自体、決定的である。
 というものだ。いったん心に棲(す)みつくと、その言葉はなかなか、出ていかない。
 別れかたも、しかし、いろいろあり。罵り憎み合って別れるといのは、双方、同じ度合いであると緊張感がよく拮抗(きっこう)して、あとくされないが、どっちかが未練を持っているとむつかしい。

 まして、双方、未練があるときには、どうしたらよかろうか。そんな、新派の舞台みたいなこと、現代、あるはずもないだろうというながれ。現代だって〈真砂(まさご)町の先生〉はいるのですよ。

 それは〈女の仕事〉である。憎からぬ男が商売替えするとか、遠方へ赴任するとかで、離れないといけない。女は仕事を持ち、おいそれとついていけない。(ついていきたいのは山々であるが、世の”軍律”はきびしい)

 まあ、世の中には長距離ものとせず恋を貫かれるかたもあろうが、仕事と男と両天秤(りょうてんびん)にかけて双方、うまく手に入れるというのも器量が要る。いつか縁が切れ・・・・ということになった男や女も多い。

 そんな運命になった女に聞いてみると、
〈長距離恋愛は、カネがかかってねえ・・・・〉
 といっていた。
〈それはいいけど、時間の都合がつかなくなった〉
 人間はトシとるほど、忙しくなるらしい。(げんに私のような、ぐうたら物書きでもそうだ)そして彼女の恋は、いつか、人魂のシッポ風にしゅうっ――と尾を引いて消え、いちばん最後に逢ったときの彼の終りの挨拶は、
〈また、電話するワ〉
 であったよし。
 これは別れの言葉としてはかなり、いいところをゆくのではあるまいか。ケンカもせず、会社に放火してでも会いにゆきたいという、八百屋お七のように無垢でいちずの恋でもないとしたら、〈また、電話するワ〉がオトナにふさわしい別れというものであろう。
 よって別れのアフォリズムその三、としては、

〈また電話するワ〉というのは最高の別れのメッセージである。
 人は、人との別れのとき、いつどこでまた会っていいように、良好な関係のまま別れないといけない。広い世間のこと、自分が世話にならなくても、自分の知己友人の輪のどこに人脈がつながるか、しれはしない。そこが世間の面白いところで怖いところ。

 さてしかし、だ。
 そういう外的条件のおかげで別れたのではなくても、いつかは愛は褪(あ)せ、熱も冷め、絆はほどける。
 そしてこの、恋の絆というヤツ、これが実にほどけやすいしろものであるのだ。
 これをいつまでも強く結びつけておこうとすると、とてつもないエネルギーと情熱、それにさまざまのテクや智恵を必要とする。

 しかしそうやって結びつけた絆でも、ほどけるときはいつか、ほどけてくる。そういうときに、別れのステートメントとして、
〈また電話する〉
 では、まだ脂っこい。
 よって私の考えた別れのセリフ、これは別れだけではない、人生すべてのものに対しての心構えともいうべきアフォリズム。

 人生でいちばんいい言葉は、
〈ほな〉
 である。
 この〈ホナ〉は大阪弁なので少し説明が要る。接続詞で〈ほんなら〉――それなら、ということ。じゃあネ、などという語感か。〈それなら〉が〈そんなら〉になり、そこから〈ほんなら〉になり、ついに極端に短縮して〈ほな〉になった。デパートの地下階をデパチカというが如し。

 そんならさいなら、の意味を込め、その奥に〈では運命のままにお別れいたしますが、これは私の本意ではごさいません。しかし、こと、ここに立ち至った以上、悪あがきして運命の流れをむりに堰(せ)き止めても
詮(せん)ないこと、昔のたのしい思い出を胸に秘め、一生、忘れはしますまい。あなたさまも新しい未来に希望を持たれ、さらなる面白い人生に出会われますよう、お祈りします。たのしい時間(とき)を仰山(ぎょうさん)もろうてありがとうさん・・・〉

 これが煮詰まって出てくるのが、
〈ほな〉
 である。人は逝くときも、〈ほな〉と人生に別れを告げて逝くのがよろしく、原稿の引き際も〈ほな〉で切り上る。

 結婚は外交

 夜、私とフィフティ嬢が飲んでいると、イチブン氏から電話があり、ちょっと顔出しても
〈よろしおまっか〉
 諾すや否や、即、玄関でピンポンと鳴った。門の前でケータイをかけたようだ。こういうとき、ケイタイは可愛くない。私はいう。
〈やっぱり、電話があって待つことしばし、まだ来(け)えへんのか、なにしてんねんやろ、ハハア、手土産に何ぞ買おうというので、駅前のコンビニで物色してはるんかいな・・・・と・・・・〉
〈手ぶらで来てすまへん〉
〈いやいや、そう思わせてやっと・・・・というのが、あらまほしい電話と人間の関係、ということを、私はいいたいのですよ、べつに手みあげを催促してるんじゃありませんけど〉

 私はお酒を頂いているときは常にご機嫌であるゆえ、メンバーが揃えばいい気分である。

〈それなら、よかった、いや、会社の連中と飲むことがあったんやけど、二次会までつきあう気イせえへんし、というて、このまま家へまっすぐ・・・という気にもならず、ハテ、こういうときには、と考えて思い浮かぶのは、このウチやがな〉

 なるほど、イチブン氏は少し頬を染めて、やや出来上がりかけである。
〈どうして二次会へいかなかったの?〉とフィフティちゃんは、かいがいしく、イチブン氏にウイスキーの水割りをつくってすすめてやる。
〈一次会ならともかく、二次会までは面白ない、という奴ばっかり、でしてん〉
 イチブン氏は上衣をとり、ネクタイをゆるめている。
 それはあるかもしれない。
 一次会で面白い人と、二次会で面白い人、人間には二種類ある。私はもとよりサラリーマンの生態に疎く、イチブン氏の職場の佇まいも、知る由もないが。
 一次会をタテマエとすれば二次会はホンネの吐きっくらべになるかもしれず、そのときに面白いかつまらないかに分れる。
〈そうそう、つまり、おたくでの二次会は会社の連中とことかわり、ことほどさように面白い、ということですワ〉
 とイチブン氏はすっかりくつろいでぐっとグラスをかたむけ、舌軽にヨイショする。いつも舌軽にお愛想が出ればいいのだが、日本の男は(といって私は外国の男もよく知っているわけではないが)酔いが廻らないとお愛想を舌軽気軽にいわない。

アルコールの濃度次第では、スラスラシャーシャーと、おべんちゃらやお愛想、お上手、お世辞に殺し文句が出るようである。(もちろん、酔うほどに却(かえ)って)人のワルクチや非難がなめらかに出てくるという難儀なものもいるが)日本男ょ愛想よくさせようとすれば、いつも酔っ払わせないといけない、ということになる。

〈二次会はともかく、まっすぐ家に帰れないってなんで?〉フィフティちゃん。
〈いえね、おたくを咎め立てしているんじゃないのよ。あたし、ヒトリもんだからして、そのへんのツボというか、呼吸っていうか、なんで男は用が済むと、すぐ家へ帰らないのか、そこんとこがよくわからないから、後学のため、聞こうと思って〉
〈そんな難しいこと、わかりませんよ〉とイチブン氏は機嫌よく、〈ただただ、まっすぐ家へ、帰りとうないだけ、ですワ〉
――浄瑠璃(じょうるり)にも、〈女房のふところには鬼が住むか蛇が住むか・・・・〉という文句があるけど・・・・。
〈帰りたくないような家庭なら、なんで持つの?〉
 フィフティちゃんは無邪気に聞く。冷やかしているのではなく、真実追求に燃えているため、というのがよくわかるが、
〈家庭?誰の家庭のことなんか、いうてまへんデ! 家と家庭は違います!〉とイチブン氏は吠える。すでに一杯目のグラスは空き、自分でいそがしくつぐ。
〈家庭、いうたらハナシが堅(かと)うなります。女房(よめはん)、子供、年寄り、みな入って来まっしゃないか。神聖、侵すべからずというもんになる。そんなややこしいもんと違う、タダの家やがな〉

〈よくわかんないけど〉
〈”家”は、自分が知らん間にァに持っとった、という感じの者もの。”家庭”は、これは自覚するもん。いつも”家庭”持っとる身、とわが身に言い聞かせとかな、あかんもん〉
〈へーえ〉
〈ようくわが身に言い聞かせとく。でないと、すぐ束縛を抜け出したがるかになあ〉
〈誰が〉
〈自分が、や。よく自覚させとく。そういう、堅苦しーい、気のおもーい、くらーい、うっとうしーい、もんなん〉
 イチブン氏の舌は、ないようにするところに、にかかわらず、かるがるとよく動く。
 よって私の考えたアフォリズム、その一。

“家”は時に帰りたくなければ、気ままにしてもよいが、”家庭”は、常に帰るべきところである。――男にとっては。
〈だからむつかしいんですね、”家庭経営”というは〉
 と私はいった。そんなむつかしいものなら、やーめた、と今どきの若い者はいいそうである。

〈そうかなあ。家庭というのは夫と妻、夫婦で何とかやっていくもんでしょう。男だけが辛抱努力しているように聞こえるけど〉
 フィフティちゃんは〈家庭〉の中へどうかして女を押し込みたいようであった。

 イチブン氏の言によれば、女は”家庭経営”の素材の一つにすぎず、運営者ではないように聞こえるが、彼女としは、共同出資者と主張したいらしい。
〈それはそうやけど、男から見ると、妻は女と違う。妻は”家庭”の一部やなあ〉
〈そんなこと、ありですかっ〉
 とフィフティちゃんが声を励ましていうので、私はいそいでいった。

〈まあ、家庭へ入れば、男も夫になるから同じでしょう〉
〈あ、そうそう、その通り〉とイチブン氏は助かった、とばかりにうなずく。
〈じゃ、”家庭”といのは、よっぽど変則的な機構なんですね。人間を変質させてしまうんですねッ。それなのに、なんで誰も彼も結婚したがるのかしら〉フィフティちゃんは自分は、したがらぬようにいう。

〈いや、ま、ほんまにそう思うときもある。そういわれれば、たしかにそう〉
 イチブン氏は、おとなしくいう。その言い方には、けなげな理性が酔いに巻き込まれず、必死に踏みとどまっているという努力が仄(ほの)かに感じられる。それは私には次の如きアフォリズムその二を思いつかせるのである。

 女に勝ってはいけない。収拾つけようと思えば。
〈たしかに、女房と円満に、思うたら、毎日、ないチエ絞らんならん。こんな苦労してる位やったら、ぼくでも一国の外務大臣、つとまる、思うときもありまっせ〉
 イチブン氏の述懐により、アフォリズムその三、としては、

結婚は外交である。つまり駆け引きと謀略に尽きる。
〈ふつうー。そうまでいわれて結婚する子、あるかしら。あたし、もう、やめようかなあ。結婚って、やすらぎ、くつろぎ、のびやか、ゆとり、平安、なんてイメージじゃないですか・・・・〉
〈斎場の名ァやあらへんで〉
 とイチブン氏は茶々を入れる。
〈たまにゆったり、ぐったり、と家でくつろごうと思うときに限って、女房(よめはん)は大掃除したがる。ぼくの居らんときにしてほしい、と思うが、前々からきわめてあったことで、そのために、新しいタンスだか戸棚だか、配達してもらう手はずなっている、という。そんなこと聞いてないっ、というと、先週の日曜日にいうた、とこうなる〉

〈はー〉
〈前のタンスや戸棚はどうした、というと、人にやったとか、へちまとか。まだ使えたんちがうか、というと、「戸がしまらなくなってたんですよッ」と。ウチの嫁はん、気に入らんときは、ていねい語になるからヤバい〉
〈なるほど〉
〈新しい家具が入ると、家内中がそわそわ喜んでいるが、しかしぼくは慣れんから困るんですワ〉
〈それは、そう〉
〈しかし帰るたび、位置がかわってる〉
〈ハハア〉
〈こっちはそれに耐えて必死に順応していくだけ〉
 要するに、これをアフォリズムにすれば、その四、

 家庭運営能力というのは、順応力のことである。
〈うーん。それが、夫婦円満のコツですかあ?〉
 フィフティちゃんがなげやりにいうへ―、
〈コツといえるかどうか、夫婦、というより、家庭円満のコツは”見て見ぬフリ”に尽きるなあ・・・・〉
 イチブン氏のしみじみした述懐。
〈さびしいこと、いわないで下さい。だって、いやしくも男と女が共棲(ともす)みしてるんじゃないですか。たとい、男が夫に化け、女が妻に変じても、ですねえ、やっぱり、男と女でしょ、色気が少しぐらい、あってもいいじゃないですか。ソコハカとなく、という程度でもいいですよ。・・・・・そんなのが欲しいなあ。家庭運営だの、結婚は外交だの、冷たい現実をつきつけないでよ。夢がほしいじゃないですか〉フィフティちゃんは少し酔ったらしい。
〈ねえ、おっちゃん、そうじゃないですか〉
 今まで黙って酒をすすっていた夫は、はじめて口を開き、
〈そや。男と女やから、色気もっと楽しんで過ごさな、いかん〉
〈でしょっ!?〉
〈うん。色気をもって楽しく過ごすには、夫婦を早く卒業して、無二の親友になったら、ええねん〉
つづく 恋と友情
 断金の契り、刎頸(ふんけい)の交わり、という言葉がある