インテリと〈色気じゅくじゅく〉とが抵抗なく同居できるかどうか、考えるまでもないだろうが。
 これだから若い女(の)はあさはかだ。(ただし、いっておくと、私から見て若いのであって、その場にいたのは、四十女、五十女、であった。七十女の私など、もはや神々(こうごう)しいと呼ぶべき歳になっちゃってるわけだ)

トップ画像田辺聖子著

いい男

女が数人、群れると、盛り上がる話題に、
〈いい男って、いないネー〉
 というのである。
 そうかなあ。私は結構いると思う。で、諸嬢の議論に耳を傾けてみると、それぞれ〈いい男〉のハードルが高い、とわかった。第一、インテリでないといかん、という。しかもみてくれがよくて、〈色気がじゅくじゅく〉していないといかん、という。

 インテリと〈色気じゅくじゅく〉とが抵抗なく同居できるかどうか、考えるまでもないだろうが。
 これだから若い女(の)はあさはかだ。(ただし、いっておくと、私から見て若いのであって、その場にいたのは、四十女、五十女、であった。七十女の私など、もはや神々(こうごう)しいと呼ぶべき歳になっちゃってるわけだ)

 いや、私が見て、男にもちょくちょくいいのはいるよ。私は〈結構いる派〉だ。
 これは私のハードルが低いせいではなく、基準タイプがちがうだけである。
 私もインテリは好もしいが、それもごく、適当なところでよい。(私は居酒屋へ座って、〈酒のアテは適当にみつくろって!〉などと、とりあえず叫んだりするが、その程度でいい)べつに英語やフランス語がペラペらというのではなくてもいい。めしの種ならともかく。
〈色気じゅくじゅく〉に越したことはないが、まあ、これも普通(なみ)でいい。

 みてくれ、というものも、中年男ともなれば自分の責任になるが、これも普通(なみ)でいい。結婚式・葬式、仕出し弁当、お祝い返し、香奠(こうでん)返し、のクラスには松・竹・梅とあるが、竹クラスで上等である。たまたま男前に生まれても、せっかくのその武器の使い方に習熟しておらず、もちあつかいかねて、かえってなみの男よりもぶざま年寄りになったりしている男も多いから、それもソコソコでよい。
 それより、私の考えたのは、

 いい男とは、可愛げのある男である。

 ということだ。この〈可愛げ〉はちょっと説明が要るだろう。
 男も女に劣らず、この人生を相渉(あいわた)るということはたいへんなだが、(並べかたの順番が違うと文句をいう男性もあるべし)それでもなぜか、人に好かれる男あり。

 それらを見るところ、あまり突出した自分の主義信条、趣味嗜好(しこう)に固執しない男(ひと)のようである。それは私も好もしい。

 といって、なんでもかんでも融通して折れてしまうというのも魅力がない。男はそんなに円熟しなくてもよい。角熟(かくじゅく)でよい。男の沽券(こけん)というのがあるが、時々それを出して見せたらよい。定期券みたいなものだ。私は〈男の沽券定期券説〉である。沽券を出したり、ひっこめたりしている男は可愛げがあるというわけである。主義信条を出したり引っ込めたりするところに、人間の器量が問われるわけ。

 失敗談や弱音を正直に吐くのも可愛げのうち。
 べつに、慰めてもらおうとか、立ち直るヒントを与えてほしい、という下心で吐くのではなく、飾り気もなくダダ漏りに、
〈いやァ、もうニッチもサッチもいかへん。モロ、グリコの看板〉(大阪では、”グリコの看板”はお手上げという隠喩(いんゆ))
 などといいつつ、ニヤニヤしていたりし、ある種の男にとってのニヤニヤ笑いは、泣く代わりであろう。
 その代わりまた、いいことがあると、自分が浮かれていることを、他人に悟られて平気である。

 これは素直、というのだろうか。(朴直、とはまたすこし、違う気がする)
 といって、八面玲瓏(れいろう)というほどリッパでもない。強くて素直、というものでもない。
 要するに、すこし、〈おっちょこちょい〉度もまじっているのが〈可愛げ〉であろう。
〈それは、男をちょっと、みくびってる気味がある、ということですか〉
 と聞く男がいるが、まあ、いくぶん、その気があるかもしれません。しかしそれは、〈みくびる〉の、いちばん、いい意味において、である。

 愛情がなくてみくびるのはいけないが、〈可愛げ〉を汲み取ってのそれは、気分をよりおいしくする香辛料のようなものである。

 みくびるどころか、男の〈可愛げ〉を重んずる気持ちの中には、いささかの敬意すら含まれる。
 というのは、〈可愛げ〉というのは、意地悪から遠い、という認識がある。〈男と意地悪は出合いもので、たいていの男はみんな意地悪だよ〉という悲観派の女もいるが、環境や立場上、そういうのもいるだろうけど、男がみんなそうとはいえない。

 王朝の言葉に〈腹ぎたなし〉というのがあり、これは意地悪のことだが、腹ぎたない、というのは語感からしてぴったりで、なかなか、適切なことばだと思う。岩波の『古語辞典』によると、
「ふくむ所があって、物の考え方、受け取り方が素直でない。意地が悪い」とある。

 これは『源氏物語』にも使われており、「螢」の巻に、
「継母の腹ぎたなき昔物語も多かるを」
 などとある。源氏は一人娘の明石の姫君のために物語を集めるが、紫の上は養い親なので、そのへんを顧慮して、意地悪な継母の出てくる物語はしりぞけるのである。

 みやびやかな言葉で綴られている物語に、〈腹ぎたなし〉はいかにも印象的で強い言葉である。
 腹ぎたなくない男、というのは世のタカラモノで、珍重するに足り、愛着するに足りる。
 更にこう、つけ加えたい。

 いい男とは、可愛げあってほどのいい男である。
 ということだ。
 この「ほどのよさ」もむつかしい。行動や思案の限界や汐(しお)どき、見当をつけることであるが、これが、まことに目安く、適当(私って、このコトバ、好きだなあ)
である。
(なんと、たより甲斐ある、いい男(やつ)だろう・・・・)
 とほれぼれしてしまう。
 これも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、ほどのよさを人に押し付けると、〈仕切り足りたがり屋〉になってしまうから、浮世はむつかしい。

 若いころ、みなが集って盛り上がっていると、時分どきを見計らい、必ず、
〈それでは名残りはつきませんがそろそろ〉
 と閉会を宣する男(やつ)がいて、〈幕引き男〉というアダナを奉られていたが、若い時はそれもご愛嬌(あいきょう)、しかし中年、高年男となれば、人にいわれるまでもなく・・・・というのであらまほしい。
 それで、〈ほどのよさ〉の程度もわかろうというもの、してみると、自分の現在位置を測定するカンのよさ、ということでもあろうか。
〈・・・・そんなむつかしいのだったら、いい男って、やっぱりいませんよう〉
 と四十女がためいきついていう。
 そうかなあ。
 右の条件は、べつに特定の男をめざしているのではなく、今日びのごくふつうの、よくあう男の誰かれを思い浮かべ、思いついたことをいっているつもり、何しろ私は、いい男は〈結構いる派〉だから・・・・。
〈あ、そういえば〉
 と五十女がイキイキしていう。(大体、男の話で盛り上がるとき、女はみな、イキイキするが)
〈ほどいい・・・って言葉で思い出したけど、私、パソコンをやりかけてるんですよね、若い男(の)に教えてもらっても、ぜーんぜん、理解できないの。何しろ向こうはようく知っているから、こっちも知っているもの、と思って、どんどん先に進む。でもいっべんや二へん聞いてもわからない。仕方ないから、熟年の男の人に教わることにしたの〉
 と聞くのはべつの四十女。

〈定年の人なんだ。自分も老眼鏡かけて、ていねいに教えてくれたわよ。その教え方が、ほんとうにほどよくって、ソツがなく、要領がいいのね〉
〈なるほど〉
〈それに愛想もよく。・・・会社で長年、営業やってたとかで腰が低く・・・〉
 五十女はいっそう、イキイキする。
〈何て言うか、教え方が遠慮っぽいの。こんなことも知らんのかという感じは全くなく、かえって自分の方が恐縮する感じで〉

 それはわかりやすそうな気がする。男も浮世で生きすれてみると、博識や知恵をひけらかすのに含羞(がんしゅう)を感じて、人に教えるときは、はにかむ。この、男のはにかみも味がある。

 それはなかなか、いい男じゃないか、ということになった。
〈いい男でもしょうがない、となりのご主人だもん―でも、たのしい人なのよ〉
 わかりました。更に更に、私がつけ加えるとすれば、

 いい男とは可愛げがあって、ほどよくて、”生きていることが好(ず)き”という男である。

 年がいけばいくほど、人は〈人生やつれ〉してゆくが、やっぱりすてきなのは、いくつになっても人生を面白がっている男、であろう。
 ことさら言挙げもしないが、そして〈色気じゅくじゅく〉でもないけれど、そして、いろんなたのしみをみつけることがうまいけれど、究極のところ、
〈生きること好(ず)き〉
 という男は、いい男じゃありませんか、ということになった。
〈でも、それでも、そんな男はいそうにないなあ。肝臓いわす、糖尿の気がある、喘息もちなんて多くてさ、パチンコが唯一の趣味で、これをやると、ほどってものがなくなる――なんて男(やつ)ばっかしょ・・・・〉
 女たちは口をそろえていう。
 私は七十女の貫禄で、おごそかにいう。
〈女をつくるのは男だけど、男をつくるのも女、なのよ。いい男をつくる責任、あるわよ。がんばりなさい〉

家庭の運営

 臭いものに蓋(ふた)。それは家庭の幸福。
「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」(『家庭の幸福』)といったのは太宰治(だざいおさむ)で、このアフォリズムは人口に膾炙(かいしゃ)しているが、その意味は、人々にどんなふうに受け取れられているのだろう。太宰は家庭の幸福とはエゴのかたまりだからだ、と作品の中でいいたかったようにおぼえている。

 それにしても、他の鼻白むほどの幸福な家庭、というものが、現代にもあるのだろうか。(新婚家庭は除く)
 もう十年、もっと前になるが、結婚歴十数年、二女ありという三十歳代の主婦が、わが家庭の幸福ぶりを縷々(るる)、詳述した投稿が、新聞の女性コラムに掲載されていた。
その投稿がどんな意図で採用されたのかは不明だが、いささかは反響があったのではないかと私が想像したのは、一読して、(女だなあ)と思わせられたからだ。投稿者には、それを読んだ人の気持に対する配慮が全くない。ただあるのは、
〈見て、見て、この幸福! こんな幸福、だれも知らんの、違う?〉
 という手放しの自己陶酔と驕(おご)りで舞い上がっていたのだ。こういう文章を世間さまの目にさらす、というのは、いくらナンでも、男にはないだろうと、思った。男は上手くいかなかったことは喋るが、うまくいったことはかくす。
 それはなぜかというと、
〈武士のタシナミじゃっ!〉
 といった男(やつ)がいた。
〈うまくいっていること、うれしいことは、人に洩(も)らさず、ぐっとこらえて、内心だけで、ニタコラ、ニタコラ、しとくんじゃっ! それからまた、この人生の目的は、やら、女房(よめはん)に関する、あるいは家庭に関する考察や感懐、持論なんかも、口には出さん! 肚(はら)の中に蔵(しも)とく。それが男の一分(いちぶん)じゃっ!〉

 というのであった。
 まあ、それはともかく。
 その〈家庭の幸福手放しのろけ〉の投稿を読んでだ、一人暮らしの女は、反感と敵意をおぼえたかもしれず、家庭不和に悩む女は嫉妬(しっと)や憎悪をかきたてられたかもしれない。一般読者は、投稿者の〈われ讃(ぼ)め〉の節度のなさに辟易(へきえき)する。――という具合で、マイナスの意味でその投稿はかなり反響を呼んだと思う。その意味では紙面作成者の期待に副(そ)ったといえるかもしれない。しかし、もう一つのプラス面もあるだろう。

 太宰の「家庭の幸福は諸悪の本(もと)」というアフォリズムは、太宰ふうの逆説的表現ではなく、真理だという発見をもたらしたこと。家庭の幸福、などというものは、その家庭では芳香だが、外へ洩れると悪臭になる。よって、
「臭いものに蓋。それは家庭の幸福」
 という、私のアフォリズムは、そこからきている。
 だから、〈家庭の幸福(うまくいっていること)〉については緘黙(かんもく)する、という男の主義は、オトナの感覚であるともいえる。

 しかし、時うつさり、星かわり、いまや現代においては、女も男なみに、家庭の幸福、なんてことを言挙げしなくなった。働いている女性も多いから、男並みの発想思考となった。

 思えば、昔は単純だった。この投稿者のように、夫は愛情深く、精勤に就労し、子供は元気に育ち、結婚記念日には花を飾って手料理でたのしむ――という。絵に描いた如き家庭の幸福が、そのまま強い満足感となったろうが、いまの家庭はもっと、陰影が深くなっている。

 世の中が開明的になったのか、ススンダのか。あるいはどこか綻(ほころ)びかかっているのか。
 人々は人生で、家庭以外の〈面白いこと〉の禁断の味を、知り過ぎてしまったのである。

 幸福と面白いことは違う、ということを発見した、といってもいい。
 要するに昔の素朴な家庭観は(いまもその幻想を抱いている人もいるが)いまや変貌(へんぼう)しかかっている。
 人々は〈生きすれ〉てきた。みなたいてい、人生には、〈すれっからし〉になってしまった。
 困ったことです。
 しかし、これも生々流転の人生の相ですから、しかたないでしょう。あと戻りできない。長明さんも「逝く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というてはる。
 男も女も面白いことがこの世にあることを知ったから、家庭経営はむつかしくなってしまった。
 面白いこと、というのが家庭にあろうか。(ないではないだろうが)人間関係というものも、面白い関係、というのは、ときどき会う仲であろう。男の自我。女の自我。エゴとエゴ。舷々相摩(げんげんあいま)す緊張の航海、というところで、これは面白いだろう。

 しかし、家庭で、そんな緊張していては身が保(も)たない。
 よって、私の考えたアフォリズム、その二は――、
 面白おかしい家庭、というのはあり得ない、平和と、面白おかしいことは、両立しないから。

というものである。
 私の友人の男、〈家庭の幸福〉については緘黙(かんもく)するくせに、面白いことは聞きもしないのにぺらぺら話す。どうせ私の友人のことだから、そんな豪勢なものではなく、小っぽけな、しけたアバンチュールである。女にうまいこと、嚙(か)んでふりまわされて、いいようにあしらわれ、けっこう金も費消(つか)わされて、あえなく敗退、
〈みじめじゃあっ〉
 と自分でいって、私に聞かせたことで気がハレバレした如く、
〈いやー、慣れんことはするもんやない〉
 と述懐して、それが結論である。そうして、慣れたわが家へ帰ってゆく。彼にも帰る家があってよかった。
 そうか、〈家庭〉というものは、人が、
〈面白疲れ〉
 したときに要るのだ。人間の疲労の中には、病気、労働、ストレス、などからくるほかに、あまりに面白くうつつをぬかしているうちに、疲労が蓄積していくのもある。

 面白いのは、人間関係だけではなく、趣味もはいる。その程度が社会的許容範囲であればよいが、バクチ、漁色、飲んだくれ、浪費、変態、ワルイことはたいてい、面白いだろう。それらは家庭の幸福や平和の対極にある。

 しかし、〈面白疲れ〉したときに帰る家があればこそ、面白いことにうちこんでいられるのだ。
 その帰る家が、いつまで、あるのか。

 いま社会の水面下でひそかに憂慮されていることの一つに、主婦のパチンコ熱中症とでもいうものがあって、これはもっと先には、たいへんな社会現象になるんじゃないかしら。世の中の動静に迂遠(うえん)な私なんかが見ても、身柱元(ちりけもと)が寒くなるばかりである。

 私の友人の男の〈面白さ〉探訪などはまだご愛嬌(あいきょう)であるが、主婦の放蕩(ほうとう)にはユーモアが感じられないので、荒廃の気分が濃い。

 女は〈面白さ〉に対し、男のように伝統的免疫がないから、ハマりこむと困ったことになるようである。
〈でも、女だってハマらない人もいるし、男にもハマるのもいて、バクチ狂いは昔からいるんじゃありませんか〉
 と中年のミセスの見解。
〈私は、パチンコはやらないけど、宝くじにハマってますわ。十枚はきっと買うもの〉

 そんなスケールじゃないだろうが。
 私だってパチンコにくわしくないけれど、現代のそれは、一万円の軍資金を持っていっても、スルのあっという間だからというから。
 主婦が深みにはまったら、逃げ道がないのである。

いまはもう、家庭の平和だの、幸福だの、と言っている場合じゃなさそうだ。
 そして、面白いことと平和とは両立しない、なんていう省察も、ノンキなものだ。
 ともかく、とりあえず、さしあたり、ひとまず、なんでもいいから、まずもってやるべきは、家庭を、
〈保(も)たそうではないか〉
 ということになってしまう。
 いや、〈面白さ〉にハマって、家庭も崩壊寸前、という男や女ばかりではない、
(そういう人々は目がくらんで何も考えていないかもわからないが)ごくフツーの、男や女も、
〈家庭崩壊〉
 の危険はどんな拍子に訪れるかわからない。
〈えーっ。あたしんトコもですか〉
 と中年ミセスはびっくりする。
〈そりゃあ、困りますわ。あたし、パートしてみますけど、そのくらいじゃ食べられませんし。ウチの主人だって偉そうにいっていても一人で生活できない人なんですよ。台所へはいったことも、洗濯機を廻すことも知らず、脱いだものは脱ぎっぱなし、お姑さんの躾けが悪いんですう〉
 わかった、そこからいいから、とりあえず家庭を保たせて下さい。どうやって? アフォリズム、その三としては、ですね、

 家庭の運営、というものは、だましだまし、保たせるものである。

 なのである。不調になった体、車、諸機械、潤滑ならずる人間関係を、〈ああしィ、こうしィ〉、機嫌をとりとり、様子を見い見い、あっちにも立て、こっちを立て、あらゆる面から試み、思いつき、手をつくしてみる、綻(ほころ)びはつくろい、塗りの剝(は)げたところは塗料を吹き付け、壊れた部分は似たようなものを拾ってきて、あり合わせのチェーンでつなぎとめてそろりと動かす一メートル動けば、二メートル、という風に。それでも〈家庭〉という奴は気難しく、ふてぶてしい奴で、〈モノよりココロだあっ〉と叫ぶかもしれぬ。そういうときに、おお、そうかそうかと、これもあり合わせのココロでごまかしておけばよい。

 大切なのは、とりあえず、到達地点まで保たせることである。〈家庭〉のご機嫌をとるのを、〈だましだまし〉という。〈だましだまし〉というのは詐欺や騙(かた)りではない。
〈希望〉の謂(い)いである。
 しかし、人によっては、だましだまし保たせるにも飽いた、というときがあろう。そういうときはさっぱり撤回、解消して、また新しい家庭をつくればよい。しかし新旧を比較してみるに、〈家庭の運営〉たるや、やっぱり大なり小なり、〈だましだまし保たせる〉部分があるなあと、気付く・・・・のではあるまいか。
 人生はだましだまし 

上品・下品

 みんなで飲んでいるとき、現代で地を掃(はら)ったものは何だろうか、という話になった。つまり、ムカシの日本にあって、いまの日本にないもの、むというのだ。

 私はかねて考えたことがあったので、即座に口を出した。
〈それは人間の気品じゃないかしらん。上品・下品の差どころか、どだい、品というものが、かき消え失せてしまった気がするわよ〉
〈いやー、ほんま、ほんま〉
 というのは、前に、パソコンをいじってた五十女.
 しかし五十女であんまりナンだから、〈フィフティちゃん〉と呼んでやるべし。
〈オジンもオバンも、若いのも、もう、ひっくるめて品が悪くなった気がするよ。なんでこんなことになったんだか、常識やプライドや礼儀の、最小限さえ、けし飛んでるって手合いが多いもんね〉
〈いや、ワシはそうは思わん〉
 というのは前に、〈男の一分(いちぶん)じゃっ!〉と、いった男(やつ)。彼は〈イチブン氏〉か。
〈けっこう、現代(いま)も品のええやつはおる。あンたかて(と、フィフティちゃんを顧み)この前、何や知らん、となりのおっちゃん、ほめとったやないか〉
〈あ、あれは別〉
〈みい、あれは別、いうのんも、世間にはおるんよ〉
 じゃ、どんなのが、〈あれは別〉、なのか、つまり、品のいい人って、どんなのか、という話になる。
〈いっもにこにこ黙って飲んでいる、飲み屋に来た客(やつ)を拒まず、去る者は追わず、というおっちゃんなんか、品良(え)えのん、違(ちゃ)うか〉

 とイチブン氏は私の夫を見る。夫は病後、あんよが不自由になったので、ショートステイやデイケアにいきまくっているが、辛い今夜はいた。酒はごくちょっぴり、飲むというより、舐めている。にこにこしていたのが、みんなが自分を見たので急に怒気を発して怒鳴った。
〈こっち見るな! いっせいに見るのは下品じゃっ! 人前でホメるのも下品じゃっ! 見られるようなこと、ワシはしてへん!〉
 何を怒ることがあろう。〈心底(しんてい)はかりがたい〉奴だ。
 
〈自分で自分のことを高う評価せえへん謙遜(けんそん)、いうのは、やっぱり、品がええな〉
 と、イチブン氏はすかさずいう。
〈でも、他人(ひと)もなるほど、と思う、とか〉と私。
〈売り込み方も巧妙になっているから、自慢にとられないように、みんな上手に立ち回ってるもんね〉
 とフィフティちゃん。

〈謙遜、なんていう美徳、現代では卑下と同じレベルになってしもうているから、それを上品と認めてもらうのは難しいわね〉と私。

 上品・下品というのは、人間の内面世界の物差しなのでちょっと見たところではわからないかもしれない、ということになった。
〈そうか、そんなら今まで、男は気立て、女は顔、といわれてたけど、それもナシか。目に見えるもんしか、品定めでけんねんな〉
 とイチブン氏はいって、
〈女は顔、なんて差別やないの!〉
 とフィフティちゃんに黄色い声で嚙まれている。
〈ま、しかし、外から見て、見るからに下品な奴、いうのんは、たしかにおるからなあ〉
 とイチブン氏はいかなごの釘煮を箸先(はしさき)につまんで、グラスの冷酒をすすりつつ、
〈ワシもヒトのことはいえんけど、ブランドもん着て、いっぱし紳士風やけど、顔の表情、もののいいかた、下品を絵に描いたような奴、知ってるデ〉
〈うん、その反対に、着るもんはそのへんのありたりのもんやけど、なんか、いうにいえない上品な人もいるわね〉とフィフティちゃん。
 それで思い出した。
 以前、私はこういう、アフォリズムを作った。

 下品な人が下品な服装、行動をとるのは、これは正しい選択であって下品ではない。
 しかし下品な人が、見にそぐわない上品なものをつけているのは下品である。また、上品な人が、その上品さを自分で知っているのは下品である。反対に、下品な人が、自分の下品さに気付いていることは上品である。

〈ますます、上品・下品の区別って、むつかしいね〉フィフティちゃんは、わけぎと鳥貝のぬた(これもいかなごの釘煮同様、春らしい肴(さかな))をぱっくりと口へ抛(ほう)りこみ、焼酎のお湯割りなんぞ、すすっている。

〈聞きなさい〉と私は偉そうにいう。
〈芭蕉が『奥の細道』も、もう旅の終り、結びの地の大垣に着いた、と思いなさい・・・・〉
〈うーむ、芭蕉とくれば日本文化の”上品のシンボル、気品の親玉”。こらァ、誰持って来ても負けまんな〉とイチブン氏。
〈その大垣で、芭蕉はご当地の家老、戸田如水(じょすい)なる侍に招かれます。如水さん風雅に心ひそめる文化人で名高い芭蕉に会えたのを喜んで、日記に書きます。芭蕉は「心底はかりがたけれども、浮世を安く見なし、諂(へつら)はず奢(おご)らずる有様なり」(私がさっき、おっちやんを”心底はかりがたい”奴だ、と思ったのは、ここの個所を思い出したため)――なんて。つまり芭蕉先生は何を考えているけどわからんけど、浮世とちがう自分なりの価値判断を持っているらしい。というのね。そしておべんちゃらもいわないけど、威張りもしなかった、ってほめてきます。――へつらわず、驕らず、っていうの、すてきや、思わへん?〉

〈うん、卑下もせえへんし、威張りもせえへん、というのは、これ上品やなあ〉
 イチブン氏はうなる。
〈現代最高の上品かもしれへんねえ〉
 と、フィフティちゃんはもう何杯目かのお湯割り焼酎をつくりつついう。
〈そんな奴おったら、飽きるやろう〉
 と、夫がとつぜん口を利く。えっ。あっ。
〈お世辞いい合(お)うたり、おたがいにそれとなし自慢し合うのが人間のたのしみや、と、おっちゃん、いいたいの?〉
 私は夫の意見を補足する。
〈ごちゃごちゃしたことは、わからん。けど、そんな、スカ屁(べ)みたいな奴は、おもろないやろ、いうとんじゃ!〉
 と夫は吼(ほ)える。いや、本人はそのつもりではないかもしれないが、舌が昔ほど円転滑脱(えんてんかつだつ)ではなく、まわりきらないので、自分もまどろっこしくていらいらするらしく、ものをいうと、獅子吼(ししく)まような、もの言いになる。

〈そっか・・・・〉
 なにを思いついたんだか、深くうなずくフィフティちゃん。
〈やっぱし、品のよすぎるのも、過ぎたるは猶及ばざるが如し、かァ・・・。飽きの来ない人、って上品ばっかりでない部分もあるとか〉

〈ワシはやっぱり、酒の飲みかたに、上品・下品が出ると思うな〉
 イチブン氏は、酒の話になると、自信ありげになる。
〈もちろん、下品のトップは酒に飲まれるやつ。ぐでぐでになるのは論外。その次はワルクチいう酒〉
〈しかし、あれは面白いけどねえ〉と、これは私。

〈じゃ、ほめるのがいい酒? あたし、ほめてもらうのは、うれしい酒だけど、人をほめながらは飲めないわよ〉
 フィフティちゃんをほめるにはかなり、才気がいるだろうから、それは才子であっても上品な人とはいえないだろう。
〈いや、ほめてもあかんな。酒は、かるく扱う。元来、酒というものは重い。”酒は涙か溜息か”いうくらいや。涙や溜息は人生では重いもんの最たるもの、それに匹敵するやから、酒は重い。それをかるく、飲む。そこはかとなきことをいい合うて、そこはかとなく飲む。これが品のええ酒です〉
 それでまた私は思い出した。

 お茶の本に、お茶のときのお作法として、重いものは軽いように、軽いものは重いように持つべし、とあった気がする。(私はお茶を嗜(たしな)まないから、そのへんの機微にはうといのであるがー)
 してみると、お酒も、はじめて頂きますわ、というような佇まいで飲むのが、イチブン氏のいう”そこはか酒”であろうか。
 私は二つ目のアフォリズムを考えた。

 上品、というのは、何でも初めて出くわす、というような、慣れぬ風情で対応することである。

〈男の上品、で思いついたが、世の中にはアダナをつけられへん人、というのがある。ああいう人はやっぱり上品、とちがいますか〉
 イチブン氏の意見であるが、これは私にはそうは思えない。アダナや略称で呼べる人はそういうタイプの人なんである。つまり、愛されている、気軽く、いい意味で、泥(なず)まれやすい人だ。アラカン(昔の俳優、嵐勘十郎?)とかバンツマ(坂東妻三郎?)とか。
 で、三つめのアフォリズムとしては、

 男には三種類ある。略称で呼べる人と、呼べない人である。
 これは品のよしあしに関係ないだろう。
 そのへんから〈そこはか酒〉どころではなく、みなみな、落花狼藉(らっかろうぜき)のふぜいとなる。
 昔からのコトワザも、ひっくり返すと上品になる、ということを皆で発見する。
「血は水より薄し」
 血は水より濃い、と信じられてきたが、今や、濃い関係に紛争がおこりやすく、他人のほうが節度を以て対(むか)えるので、品がよくなる。
「老いては子に従わず」
 子が親に無残な対応をする時代だ。従わぬほうが人間の品位。
 イチブン氏は夫を顧み、
〈そういったら、長生きは上品か、下品か。おっちん、七十六いうのんは長いでっか、短いでっか〉
〈ちょうどええくらいじゃっ!〉
 と夫は吼(ほ)えたけり、皆々、これは上品な感懐であると、意見が一致した。

憎めない男

 テレビドラマはたましかみないが、ときに瞥見(べっけん)すると、(たまたまそういう場面に遭遇することが重なったのかも知れぬが)女が男を居丈高に罵(ののし)っていたり、火を噴くように反駁(はんばく)したりしているシーンが多い。あるいは男がグウの音も出ないほど声を荒げて糾問(きゅうもん)したり。

 または手のつけようもないほど、パニクりまくって泣き暴れていたり。(泣きわめく、とか、泣き叫ぶとかいうのは今までにもあった、ドラマでも現実でも。しかし”泣き暴れる”というのは近来のアクションだ)

 すべて、すること、なすこと、女だてらに(これは死語か?)オーバーになったなあ、とムカシ人間の私は思う。
 そういえば、むかしのドラマには、女が男の胸によりすがって、〈よよ〉と泣いたりする、しおらしいいシーンがあったが――と、こんなことを話すと、いまどきの若いものは、この、
〈よよ〉
 がわからないという。泣き声の擬音ですか? なんていう。そういえばこれも死語かなあ。副詞だけど、古い言葉である。私がすぐ思い出すのは、『源氏物語』「夕顔」の巻だ。物の化(け)におそわれて夕顔は死ぬ。源氏も泣き、惟光(これみつ)も泣く。「おのれもよよと泣きぬ」

 千年このかた使われてきた言葉なのに、一片の風に吹かれて散ってゆく。
 まあ、それはいい。
 オーバーアクションで暴れる台風のような女(戦後すぐの台風はアメリカさんの指図かどうか、みな女名前がついていたっけ)を見ているうち、私はあたまに閃(ひらめ)いたアフォリズムは、

 パニクりまくるのは、パニクりまくってみせる相手がいるからであり、よよと泣くのは泣いて見せる相手がいるからである。

 というものだ。一人住まいの女は一人でパニクりまくっても何しよう、誰もビックリしてくれないし、たじたじとしてくれない。あほらしくて泣き暴れてられない。ただし、一人で泣く、ということは女にはあるかもしれない。女の泣くのは人生の部分取り替え、あるいは分解掃除のようなものなので、一人で泣くのも、人生の慰めである。

 女の涙はたいてい、自己憐憫(れんびん)に味を着けており、甘く、オイシイものである。
 だが、本当に辛いときは涙は出ない。
 その代り、我が身を削ってしまう。心が抉(えぐ)りとられてゆく。・・・・といいたいが、これまた、大阪女であると、八岐大蛇(やまたのおろち)のごとく、頭は八つぐらいある。一つは涙も出ず辛がっているが、人の頭は、自己憐憫のオイシイ涙に陶酔し、一つは今夜の夜食は何にしよう、冷蔵庫の中に何があったかしら、と考え、一つは、こんなに泣くと明日、顔が腫れちゃいけない、会社でじろじろと見られるかもしれないと懸念し、一つは、ええい、いっそ気分直しに駅前の焼き鳥屋へでもいこう、まだバスはあるし・・・なんて思いをめぐらせ、かくて八岐大蛇はバランスをとりつつ、生きてゆくのである。

 パニクりまくってみせ、泣いて見せる相手のいない女の人生も、なかなかに、櫛風沐雨(しっぷうもくう)というか、艱難(かんなん)多き人生行路といえよう。

 ところで、この、パニクりまくってみせ、泣いて見せられる相手というのはどんな男であろう。当今ドラマの男はみな惰弱(だじゃく)で、女に寄り切られてオタオタとするのばかりで、適当な手を打てる能力が開発されていない。

 ドラマの男たちは荒れる女に途方にくれるだけである。たぶん、現実も、そうかもしれない。狼狽(ろうばい)してあやまったり、小さくなって嵐の通り過ぎるのをひたすら待つとか。

 女としては、ここで白黒の決着をつけろ、というのではない、とにかく、パニクりまくり、泣いていることさえ、認知してもらえばいいのである。
 たじたじとあとずさりするだけの男はダメであろう。泣いて見せる甲斐(かい)もない。

 まして窮鼠(きゅうそ)、猫を嚙むという感じで反撃に出るヤツはコンマ以下である。
 世の中には無神経がパンツを穿いているような男もおり、女がせっかく一世一代の名演を繰り広げているというのに、視線はついテレビのスポーツニュースに流れ、
(お。阪神負けたか)
 なんてフト気を取られたりしている、もうどうしようもないのもいる。
 こういうときに、ちゃんと女にたちむかい、(たちむかって、暴にむくいるに暴、というのではない)かなわぬまでも口出し、
〈いやまあ、アンタの気持はわかるけど、・・・そやけどな、ま、やっぱり、物のハズミ、時のいきおい、ちゅうもんもあってな、いやその、ナンや、つまりは、やな・・・・〉

 何をいっているがわからぬが、とにかくしゃべりまくり、首尾一貫しないながら、
〈まあ、そういうこっちゃな、いや、ほんま、オマエのいうことも、よう、わかってるねん、わからいでかいな・・・・〉

 全然、わからぬことを言い重ね、女の反撃をやんわりと封じ、(そういえばアンタから、より砕けて篭絡(ろうらく)的なオマエに変わっている)
〈ようわかってる、ちゅうのに。オマエの気持は・・・。そやそや、その通り・・・・〉
 などといいつつ、女の角(つの)を矯(た)め、牙を捥(も)ぐのである。

 こういう男でいれば、女も、パニクりまくり甲斐あり、泣く甲斐もあろうというもの、〈見せる相手〉というのは、まさしくこんな男なんである。
 私はこういう男を〈可愛げのある男〉といいたい。そこで二つ目のアフォリズム。

〈可愛い男〉とはすぐ切れるが、〈可愛げのある男〉とは、だらだら続くものである。
〈可愛い男〉と〈可愛げのある男〉とどうちがうかといわれると、これはまあ、わらび餅と桜餅のようなもの、といおうか。わらび餅はわんぐり食べられるが、桜餅は、桜の葉ごと食べる人もあり、慎重な手つきで剥(む)いて食べる人もあるが、桜の葉の塩味がまことに微妙で、あとを引く。葉を剥いて食べた人も、葉にのこるかけらに未練たらしく舌をあてたりするうち、つい、葉まで食べてしまう。要するに桜餅は、〈いわくいいがたい〉味わいがまつわりついている。

 それが、可愛げ、である。
〈可愛い男〉というのは、甘え上手だったり、ベッドボーイっぽっかったり、ワガママだったり、(男のワガママが魅力、という女もいる)中には薄情だったりする。
 薄情な美青年、というのもまた、ことさらなる味わいがあるのかもしれない。要するにその味に目くらましをかけられているうちは、
〈可愛い男〉
 なのだ。
 しかし人生の風向きは変わるからなあ。
 いつまでも、美味が美味で通らない。女の方の人生的体調にもよるが、〈舌の味が変わる〉ということもある。
 すると、今までオイシイと思っていた男が、そうでもないことに気付く。それどころか、美味だった点がおぞましくなってくる。女は思う。
〈あたしの舌、風邪気味で荒れてたんだわ〉
 かくて、〈可愛い男〉とは切れやすいのである。

〈可愛げのある男〉は、いわくいいがたい風趣で、さまざまな味にかわり、色もかわる。
〈可愛げ〉を定義するのはむつかしいが、たとえば〈憎めない〉といいかえたらどうだろう。
 していることと口先とちがう、と女は怒っても、口まめにやさしく、縷々(るる)説き伏せられると、いつのまにか、
(それもそうかいナー)
 なんて思わせられてしまう。このとき女が、説伏(せっぷく)させられた、とか、やりこめられた、泣き落としにかかった、――なんて思うようでは、男の説得力は未熟である。いつとなく、なんとなく、(それもそうかいナー)と思わせられるようでなくちゃ、いけない。

 知らず知らずのうちに、気が和(なご)んでしまう、というのではなくてはいけないのである。
 これを〈憎めない男〉というが、こういう男の前でこそ、女はパニクりまくったり、泣き暴れたりできるのである。できる、というより、やってみたくなる。
〈パニクりまく欲〉〈泣き暴れ欲〉が萌(きざ)してくるのだ。

 ああ、でも、しかし、日本の男にこんな、口まめ男がいるかしらん。『源氏物語』の光源氏が、千年のヒーローたり得たのは、あの口まめのせいである。手を変え品を変え、女をいい気持ちならせ、〈そのき〉にならせている。

 口まめで腰軽、〈尻重(しりおも)の男はだめである〉やさしいくせに、女のパニクりまくりに動じない、ふてぶてしさもかくしもっている。それを、三寸不爛(ふらん)の舌でごまかし、ごまかしの味がまことにオイシイ・・・・というもの。

 しかし軽いのは口だけであってほしい。世には渡り鳥、という男がいる。柴又の寅さんもシェーンも、木枯し紋次郎も、マイトガイの小林旭も、芭蕉宗匠も、どこからともなく、ひょいと来て、どこへともなく〈いってしまう〉
 この、〈いってしまう〉男は可愛くない。
〈いってしまう〉ことを夢見つつ、やっぱりその土地にいる男。土地を売って他国をさすらう境遇を夢見っつ、女の傍にいてくれる男。憎めないではありませんか。

(ふはーっ。またか)
 と思いつつ、現実には〈またか〉なんていわない。いまはじめて出くわしたように狼狽してみせ、困ってみせ、首尾一貫せぬ、手当たり次第の言葉を、ごにょごにょと並べてみせてくれる。・・・そうか。両方とも、そうみせているのか。でも、だらだら続いているうちに、持ち時間が終わっちゃったというのこそ、〈憎めない男〉の最大の美点かもしれない。

老いぬれば

 人間のトシなんて、主観的なものである。
 自分がトシとってみて、つくづくそう思った。
 現代ほど〈老い〉についての概念が覆された時代はない。そこで今回は、
〈現代の”老い”〉についての考察。
 右は、老いにおけるアフォリズムその一、である。
 老いという言葉と、字のイメージには、宿老とか、老熟、老練、というように尊敬的ひびきをもつものもあるが、しかしまあ、一般的概念では、老朽、老害、老獪(ろうかい)、老醜、老残、老耄(ろうもう)などと無残なイメージが多い。

 周囲がそのトシをきいて、右のイメージをその人に無意識にかぶせることでもあるし、当人みずから、〈老〉のイメージの影響を受け、加齢によってオートマチックに老境という仕切りの中へ、入らざるを得ないように思い込んでしまう。昔はそれで何とかうまく社会が機能していた。

 しかし、現代では、年歳のとりかたは実に個別的で、六十だから、七十だから、八十だから、とって一律には論じられない。六十で、すでに老耄あり、八十にして矍鑠(かくしゃく)というより血気盛んに溌剌(はつらつ)たるあり、男も女もさまざまだ。年齢は自己申告制にすべきだ。

 ひとさまのことはさておいき、自分のことをいうと、私はいま、満七十三歳をちょっと過ぎたところで、世間的にはリッパな老婆である。

 しかしどういうものか、私は生来、ノーテンキな人間で、加齢に対する自覚、自戒、などというものが、わが裡(うち)に育っていない。これでみても、私はまだオトナではない。世間には、若年を経て大人となり、そして老いても壮年の気力体力を保持し、かつ老熟の度をますます加えた、というよな、順当な手つづきを踏んで老人となったかたもいられる。しかも充実した〈老い〉を生きていられる。立派な老人というべきである。

 ところが私は若年(こども)のまま、トシだけは人並みの老婆となってしまった。あたまも人格も一向、磨かれてない。人徳を涵養(かんよう)せねば、と自覚しっつ、ついついトシばかり食って、中身はパーであるという、こういう〈老人〉もいるのである。

昔はそういう老人がいても、家族制度の中で護(まも)られて、何とか〈老生〉を完了することができた。今や、〈パー老人〉は一人で人生を切りひらいてゆかねばならない。加齢は手柄にもならず、生計(たつき)の道の手助けにもならない。参考例もない。

 しかたがないから、ともかく、がんばっている。しかしここが、神サン(大阪弁ではサマという言葉はないので)仏サンのありがたいところで、自分はべつに悲壮感もなく、何とか日々是好日、という気で生きている。

 それができる要素の第一は、私が生来、健康に恵まれていることであろう。
 それでも九十六の老母と、車椅子の夫の面倒は一人では見られないので、公的機関や、私的な関係の人々の手を借りているわけである。

 みんなの衆知を結集して、時間割りゃ日割りをつくり、時間の切り貼りをする。ハタ目にはたいへんにみえるかもしれないが、私は格別のこととは思えず、彼女らの料理の日替わりメニューをたのしみ、それぞれの特技、たとえば洗濯の上手な人に、ぬいぐるみのクリーニングを頼んだり(見違えるようになって、本犬(ほんけん)もうれしそう)力持ちの人にタンスの位置を変えてもらったりして、わが家にいろんな人の来往するのを楽しんでいる。

 仕事の合間に、このごろ私のハマっている趣味は、空になった紙箱に、綺麗な千代紙を貼ることである。葉書入れや新聞の切り抜き、メモ、来信入れなど、用途に応じて使う。このごろは木版刷りの千代紙が多種類売り出されていて愉(たの)しい。身辺の彩りが華やかになる。この間、紫の矢がすり模様の千代紙が手に入ったので、物入れ箱に貼って、老母にやたら、喜んで眼鏡や櫛(くし)を入れていた。

 ファッションも人生のたのしみの一つ。年を取るとかえってオレンジや赤が似合うもので、私の衣装ダンスにはそんな色が氾濫(はんらん)し、ステッキも色さまざまのものを蒐(あつ)めている。ステッキのおしゃれに関心をもつオールドレディがふえたので、ファッショナブルナステッキヲ扱うお店ガできたのである。

 いやはや、こうしてみると、私自身、ちっともトシをとった実感がない。その上、毎晩、いろんな人と飲み(酒量は若いころより少し減ったかなあ)、朝の目覚も快い、となると・・・・、アフォリズム、その二、としては、

 老眼鏡と杖さえあれば、老いも怖くなく、わるいものではない。
 私の環境では、介護を手伝ってくれる人々がいればこそ、ということになるが、何しろ、いろんな苦労があまりコタエない私なので、右のアフォリズムを思いついてしまうのである。
 それにはラ・ロシュフコーの辛辣な〈老い〉に対する箴言(しんげん)を、いつも(そうかナ!・・・・)と懐疑(かいぎ)しているせいもある。

「女にとって地獄とは老いである」『ラ・ロシュフコー箴言集』(MP59)――そうかナー。
「人は年を取るにつれて栄光を得るよりは失う方が多いものである。毎日が彼ら自身の一部を彼らから奪い去る」
「彼ら(田部注・老人)は何もかも見てしまった。だから何物も彼らに新しさの魅力を感じさせることはできない」そうかナー。
 いやいや、人間が「何もかも」この世を「見てしまう」ことは、ありえない。なにかしら、未知との遭遇はある。
 というのは、もう何か月も前のこと。

 私は現在のようにたくさんの人々の手を借りるまでは、できるかぎり私の手で、と思い、介護も家事も仕事もこなしていた。そうして日常万端手落ちなく、事ははこんでいると自負し、二年ほどたった。そのうちだんだん、なぜか妙に怒りっぽくなる。これは老化現象というより、年を取ると人間は狷介(けんかい)、固陋(ころう)になるのかと顧み、思いついたアフォリズムは「老いぬればキレやすし」。

 生来ノーテンキのはずの私が、些細なことで気に病んだり、内心不平を持って、唇をとんがらせたりしていた。
 日頃、頑健を誇る私は、自分の体の不調に気付かなかったのだ。それは結局、慢性的睡眠不足と疲労がたまっただけのことなのだった。いそぎ人手を確保して私の担当する仕事を軽くすると、たちまち体調は復し、私はまたもとの、ノーテンキな人間になった。人の性格は体調次第なのである。いやはや、未知との遭遇は老いてもつづく。それを発見したとき、人はびっくりして転倒(こけ)る。

 老いぬれば転倒やすし。
〈あたしなら、「老いぬれば本音を出やすし」というところね〉
 とフィフティちゃんはいう。〈体調だけやないわよ、たしかに気短になる。なるからズケズケいいになる。ズケズケ本音だからして、若いときは真綿くるんだズケズケを、年寄るとむきだしにしていうのよね。やめとこう、とおもってもつい、真綿なしの本音をいっちゃう〉
〈真綿は自分の背中に着てる〉
 とイチブン氏はひやかす。

〈ワシは(ワシと言い始めると、男も老いた証拠だ)「老いぬれば字を忘れやすい」としたいなあ。全く、よう字ィ忘れる。キカイで叩くとすぐ字が出てくるが、手ェで書いていると、ほんま、字ィ忘れて進まへん。しかし〉
 とイチブン氏はどん、と水割りウイスキーのグラスを置き、
〈字ィ忘れても、字引きを操るたのしみ、というのに開眼した。お目当ての字をさがすため、ページを調べる。まず、そこでいろんな字ィが目に飛び込んでくる。辞書というもんは字ィだらけや。思いがけない字ィ、ふだんはすっくり、忘れた字ィと再会する。双方、思わず手に手を取って感激の涙・・・・〉

 大阪ニンゲンは漫才調にすぐなるから、困りものだ。
〈ま、そんなわけで、お目当ての字のページになると、また、いろんな旧知の言葉、文章に出くわす。こういうたのしみは、キカイでポンと押して、捜す字ィがパッと出てくるのは、比べものになかん。――というわけで、トシとると字ィ忘れてもうろたえません。
「老いぬれば、うろたえず」――というのはどうやろ〉

 私は、老いたとき老眼鏡と杖さえあれば怖くない派であるが、しかし、「ラ・ロシュフコー箴言(しんげん)」より好きなのは、「老驥伏櫪(ろうきふくれき)の古い詩である。魏(ぎ)の武帝の詩に、
「老驥ハ驥(うまや)ニ伏ストキ
 志ハ千里ニ在リ
 烈士の暮年、荘心ハ己(や)マズ」
 一日に千里をゆく駿馬(しゅんめ)も、いまは老い、厩(うまや)にうずくまるのみ、しかし千里を馳(か)けることを夢みる。壮士(おとこ)は老いても雄心を失わぬ。
 老いてもノーテンキを失わぬ私、この詩にバックアップされる心地である。
〈おっちゃんはどうですか〉
 とイチブン氏が水を向けると、夫は言った。
〈ワシは「老いぬれば気にならず」じゃ〉
〈何が、気にならんのです?〉
〈五十年たったら、たいがいのことは気にならんようになる〉
〈だけど〉とフィフティちゃんは、口を挟む。
〈おっちゃん、七十すぎてるやないの、七十年たてば、でしょう?〉
〈人間、ハタチまではボーフラじゃ。人がましい顔はできません。お玉じゃくしみたいなもんじゃ。ハタチすぎたら、どうにか、人がましィになる。それまでは、”こまんじゃこ”――雑魚(ざこ)の魚(とと)まじり、というやつで大きな顔して一丁前の魚にまじられへん〉
〈ははあ、ハタチすぎてやっと大人メンバーの一員ですね〉
〈一員になって風霜五十年、もはやたいていのことは気にならぬ。老驥も壮士もあるかい〉
 おっちゃん、やけにムキになっている。
――老いぬればムキになりやすし・・・・
 というのも、できるかもしれない。
つづく 男と犬
 男は犬に似てる