現代の国際法の通念からすれば他国の「自由処分」など許されるはずもないが、骨肉相食む帝国主義の時代にあっては併合以外に選択肢はなかった。韓国併合は清露はもとより、日英同盟下の英国、桂・タフト協定下の米国によって幾重もの国際的な承認を得ており、併合を妨げるものは何もなかった

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明治日本にとっての朝鮮

 明治維新が成ったのは帝国主義時代の真っただ中である。弱者に安住の地を与えられることのない時代にあって日本が主権国家として生き延びるには、朝鮮の帰趨(きすう)を巡って日清・日露の2つの戦争に勝ち抜かねばならなかった。
日清戦争とは、朝鮮が清国を宗主とし自らをその属領とする「清韓宗属関係」を切断し、朝鮮を清国の支配圏から引き剥がすための戦争であった。

日清講和条約によって日本は清国に、朝鮮が「完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認」させたのである(第1条)

 日清戦争とは

満州を南下して朝鮮を脅かすロシアに挑んだ戦争である。ポーツマス講和会議に臨む小村寿太郎に対して首相桂太郎が与えた訓令の第一は「韓国ヲ全然我自由処分ニ委スルコトヲ露国ニ約諾セシルムルコト」であった。

 明治日本にとって朝鮮は、いかなる犠牲を払ってでも第3国に優越的支配を許すことのできない生命線であり、幾多の経緯をたどって明治43年の韓国併合に至った。併合は第2次大戦における日本の敗北までの36年間に及んだ。

 現代の国際法の通念からすれば他国の「自由処分」など許されるはずもないが、骨肉相食む帝国主義の時代にあっては併合以外に選択肢はなかった。
韓国併合は清露はもとより、日英同盟下の英国、桂・タフト協定下の米国によって幾重もの国際的な承認を得ており、併合を妨げるものは何もなかった。桂・タフト協定とは、米国のフィリピン領有と日本の韓国における優越的支配権とを相互に認め合った協定である。

 併合によって韓国の経済社会の近代化の幕を開いた。もっとも、このことは結果論であって併合の正当性を証するものではない。重要なことは韓国人の誰もが語りたがらない次の事実がある。

 常套句である「歴史清算」

 併合により日本に頼るしか韓国の近代化はありえないと考える
李容九(イヨンア)、宋秉o(ソンピョンジュン)など指導者とする「一進会」の存在であり、韓国紙監府の資料によれば参加者は14万人に及ぶ往時の韓国最大の社会集団であった。
 自立の気概なき李朝末期の朝鮮にあって近代化の唯一の道は、外国の影響圏に入るより他なしとみなす集団が一大勢力となったのである。朝鮮近代史学の泰斗グレゴリー・ヘンダーソンは、一進会を「自民族に対して行われた反民族大衆運動」だと皮肉な表現を用い、これを世界の政治史においては稀(まれ)なる事例だとして高い評価を与えている。

 今年は1965年の「日韓基本条約」から50年である。51年に始まり条約締結に至る超長期の国交正常化交渉は難渋をきわめたが、最終的には朴正煕大統領の英断により、日本が韓国に3億ドルの無償援助資金と2億ドルの低利借款を供与することをもって韓国の日本に対する請求権の問題の一切が「完全かつ最終的に解決する」とされた。

 当時の韓国の国家予算は3億5千万ドルであつた。日本統治時代の物的・制度的・人的インフラにこの厖大な資金が加って、「漢江の軌跡」が展開された。韓国は重化学工業部門とハイテク部門を擁する新興産業国家として急進し、ついには先進国の一員として登場したのである。

 その一方で、慰安婦問題を中心に猛烈など反日運動が始まり、元慰安婦の対日請求権を韓国政府が放棄することは違憲だとする憲法裁判の判決まで出された。

その他にも、日本統治時代の対日協力者子孫の財産没収を求める法案の国会成立、日本企業の元徴用工への賠償金支払いを命じる最高裁判所判決などが相次いだ。「歴史の政治化」というべきか。韓国の反日は国家の制度の中に組み込まれようとしている。「歴史清算」は大統領の常套句でもある。

 反日は永続的なものなのか

 韓国においては、時代が新しくなるほど遠い過去の記録より鮮明に甦(よみがえ)りつつある。日本統治時代に発展基盤を整え、日韓基本条約を経て近代化の資金を日本から手にし大いなる発展を遂げたという「過去」は、いかにも居心地が悪い。

「歴史清算」により日本の「悪」を糾弾し、もって今日を築いたのは韓国自身の手による以外の何ものでないという国民意識を形成しなければ、自らの正当性を訴えることができないという深層心理なのであろう。

 何より大韓民国の建国が、民族独立闘争とは無縁のものであった。第2次大戦で日本が敗北したことにより、3年間の米軍による軍政期を経て転がり込んだ独立なのである。誇るに足る建国の物語はここにはない。一人前の国家になったればこそ、自国の胡乱(うろん)な成り立ちが耐え難いという感覚を憤出させているのである。

 北朝鮮の成立に建国の正統性を求める「従北派」が韓国内で大きな勢力を張りつつあるのも、そのゆえんである。韓国の反日は永続的なものなのかと、私は慨嘆する。
 写真拓殖大学総長 渡辺利夫
米オークランド大学教授の日本研究学者ジェーン・ヤマサキ氏は近書「第2次大戦への日本の謝罪」は、戦後の日本の異様なほどの回数、謝罪したとして、他の諸国は対外的な国家謝罪は自国の立場の国際的な低下、自国民の自国への誇りの傷つけ、もう自己を弁護できない自国の先人への不公正などの理由により、しないのだと報告していた。

日本の国家謝罪を外交手段とみるならば完全な失敗だとして「首相レベルで中韓両国などに何度も謝罪を述べたが、関係は改善されず、国際的にも日本が本当には反省していないという指摘が消えていない」と論じるとともに、「謝罪が成果をあげるには受け手がそれを受け入れることが不可欠だが、中韓両国は歴史問題での日本との和解の意図はない」と結んでいた。

米大手紙ウォールストリート・ジャーナル13日付は、同紙コラムニストで中国やアジア専門家のアンドリュー・ブラウン氏の「日本とつて謝罪表明は難しい技だ』と題する論文を掲載した。

同氏は安部首相が70年談話で日本の戦時行動を全面的に謝罪して、中韓両国との関係改善や東アジアの和解を図るべきという声が米国でもあがっているが、「安部首相がなにを述べても中韓両国を満足させない」という見解を引用した。

「とくに中国は日本からどんな謝罪の表明であっても、不満を述べ続ける」というリンド氏の予測が強調された。
リンド氏はここ数年、米国大手紙誌への寄稿で日本の「謝罪の危険」を説き、以下のようにも述べた。

「日本の戦時の行為の対外的な謝罪は非生産的であり、やめるべきだ。謝罪は国内的な分裂をもたらす」「日本は戦後の民主主義確立、経済繁栄、平和的努力などを対外的に強調すべきだ」中国共産党が自らの統治の正当性を支えるために国内の反日感情を煽ってきたことは周知の事実だ。

安部首相の戦後70年談話は謝罪の表明を含むべきか。オバマ米政権は国務省報道官の言明などでその表明を望む意向をちらつかせる。だが同じ米側でも民間の識者の間では、日本のこれ以上の謝罪表明は不毛であり、中韓両国との関係改善や和解には寄与しない、との意見も目立ってきた。
さあ安部首相はこうした見解をどう受け取るか。
古森義久

誤解・思い込み…・特異な韓国

先にインドネシアで「バンドン会議60周年記念」の国際会議が開かれ安倍首相が演説した。バンドン会議は第二次世界大戦後に独立したアジア・アフリカ諸国が反植民地主義や民族自決、世界平和などを掲げ1955年に開催した。インドネシアのスカルノ大統領、インドのネール首相、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となり後の非同盟運動のきっかけとなった。

日本は60年前の会議に招かれた縁があり今回、安倍首相が出席したか、韓国人にはこれが理解できなかったらしい。「日本は侵略国で韓国を支配した植民地主義の国だったはずなのに」というわけだ。

知り合いの韓国マスコミのOBも首をかしげたので「いや、東南アジアや中東、アフリカ諸国には、日本はアジアが欧州の植民地支配から解放されるきっかけを作ったと評価する声があるからだ」と説明したところ驚いた表情で「そんなはずはないだろう」という。「日本はアジアを侵略、占領した」というので「いや日本による占領は数年間で、アジア諸国にとっては欧州諸国による長期の植民地支配から解放されたことのほうがはるかに重要だったからだ」と重ねて説明したが最後まで認めようとしなかった。

知識人に属する韓国人でもこの程度などで、多くの韓国人は「日本は今もアジアの国から恨まれている」と誤解し思い込んでいる。韓国が「アジア」というときは、イコール韓国と中国ということでほかの国は視野に入っていないのだ。
いつもジコチュウで視野が狭いため、バンドン会議60周年会議で安倍首相の演説に過去の歴史にたいし反省だけあって謝罪が入っていないと批判したのは、参加もしていない韓国だけだった。

先に日本の外務省が戦後日本の対外協力の実績を紹介した映像の広報資料を発表したときも、韓国だけがデタラメだといって非難している。とくに韓国のことを取り上げあげたわけでもないのに映像の一部に韓国の製鉄所や地下鉄、ダムなどの写真が入っているのを見て韓国だけが反発した。

さすがに政府は何も言わなかったが、マスコミは準国営のKBSテレビや最大手の朝鮮日報が先頭に立って「韓国の経済発展は日本のおかげとはとんでもない!」「妄言だ!」と意地になって日本を非難した。
アジアの他の国は何も言っていない。しかも実際は韓国が経済・技術援助をはじめ最も日本の影響を受けて発展したことは国際的には常識なのだ。

韓国政府が日本との国交正常化(1965年)の際に、過去の支配に対する補償として受け取った対日請求権資金5億ドルだって、韓国の経済発展の基礎になったことは韓国政府発行の『請求権資金白書』(76年発刊)に詳述されている。国交正常化50周年の今年、記念事業としてこの白書を日韓双方で復刻出版してはどうか。

これほどに左様に韓国はアジアでもきわめて特異な国なのだ。18日にはインドのモディ首相が韓国を訪問するが、朴クネ大統領はモディ首相と歴史談義をしてみてはどうだろう。インドは100年近く英国に植民地支配されたが「おたくの謝罪・反省・補償要求はどうなっていますか?」と聞いてみればいい。今、世界で韓国だけが歴史にこだわった外交をしていることが分かるだろう。

187人の「米国の研究者」とは!!
米国の日本研究者とは一体なんなのか。日本の国のあり方や国民の心の持ち方を高所から指示する役割を自任する人たちなのか。
5月上旬に出された米国の日本研究者ら「187人の声明」を読んで感じる疑問である。

この一文は「日本の歴史家を支持する声明」とされていたが、「日本の歴史家」が誰かは不明、日本政府や国民への一方的な説教めいた内容だった。声明は日本の民主主義や政治的寛容など自明の現実をことさら称賛しながらも、慰安婦問題などを取り上げて「過去の過ちの偏見なき清算」をせよ、と叱責する。安倍首相に対しては「過去に日本が他国に与えた苦痛を直視することを促す」と指示する。

英語と日本語の両方で出た同声明は原語の「促すurge」という言葉を日本語版では「期待する」などと薄めているが、核心は自分たちの思考の日本側への押しつけである。この点では連合国軍総司令部(GHQ)もどきの思想警察までを連想させる。

だが発信者とされる187人には「米国の研究者」とは異なるような人物も多い。安倍政権非難の活動に熱心な日本在住のアイルランド人記者や性転換者の権利主張の運動に専念する在米の日本人活動家、作家、映画監督らも名を連ねる。中国系、韓国系そして日本と、アジア系の名も40ほどに達する。

そんな多様性も米国学界の特徴かもしれないが、同声明が米国全体からみれば極端な政治傾向の人物たちの主導で発せられた点も銘記すべきである。

声明作成の中心となったコネティカット大学教授のアレクシス・ダデン氏は日本の尖閣や竹島の領有主権主張を膨張主義と非難し、安倍首相を「軍国主義者」とか「裸の王様」とののしってきた。
マサチューセッツ工科大学名誉教授のジョン・ダワー氏は日本の天皇制を批判し、日米同盟の強化も危険だと断じてきた。コロンビア大学教授のキャロル・グラック氏は朝日新聞が過ちだと認めた慰安婦問題記事の筆者の植村隆氏の米国での弁解宣伝を全面支援している。

要するにこれら「米国の日本研究者」たちは米国の多数派の対日認識を含む政治傾向や歴代政権の日本への政策や態度よりもはるかに左の端に立つ過激派なのである。

だが今回の声明の実質部分で最も注視すべきは、これら米側研究者たちが慰安婦問題での年来の虚構の主張をほぼ全面的に撤回した点だった、「日本軍の組織的な強制連行による20万人女性の性的奴隷化」という年来の糾弾用語がみな消えてしまったのだ。

同声明は日本軍の慰安婦の関与の度合いは諸見解があるとして、「強制連行」という言葉は使っていない。慰安婦の人数も諸説あるとして、「20万人」という数字も記していない。「性奴隷」との言葉も出てこないのだ。

声明は慰安婦について具体的な事実よりも女性たちが自己の意思に反する行為をさせられたという「広い文脈を」をみろともいう。このへんは朝日新聞のすり替えと酷似している。やはり日本側からの事実の指摘がついに効果をあげ始めたといえよう。
=ワシントン駐在客員特派員=古森義久

語られないあの戦いの「理想」

外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。
「17/8/05」これは、ジャカルタの独立記念塔に収められたインドネシア独立宣誓書の日付である。
05年とは、日本紀元(皇紀)2605年のことだ。昭和20年、西暦1945年である。宣誓書に署名したのは独立運動のリーダーで、インドネシア共和国の初代大統領と副大統領になったスカルノとハッタの二人だ。

日本が大東亜戦争に敗れた翌年、スカルノら建国準備委員会はジャカルタ在勤の海軍武官、前田精(ただし)海軍少尉の公邸に集まり、インドネシア人だけで17日未明までかけて宣誓書を起草した。前田は後に、インドネシア共和国建国功労賞を授与された。スカルノらが、強制されていないのに、敗戦直後の日本の紀元を独立宣誓書に用いた意味は重い。

西暦は植民地支配への反発から避けたたようで、辛亥革命後の中華民国暦のように建国を元年にすることもできたが、そうしなかったのである。
大東亜戦争で日本は、インドネシアを350年もの間、植民地支配してきたオランダを駆逐し、軍政を敷いた。愚民化政策をとったオランダとの違いは、日本が官史育成学校、医科大学、師範学校、商業学校など、国作りに必要な教育を推進したことだ。

特に、祖国(郷土)防衛義勇軍(略称PETA)をつくり、3万8千人ものインドネシアの青年に訓練を施した意義は大きかった。
彼らが、植民地支配に戻ってきたオランダ軍や援軍となったイギリス軍との間で、独立戦争を戦う中心となった。
80万人犠牲を払って独立を勝ち取ったのである。

日本に引き揚げず、インドネシア独立戦争に身を投じた日本軍将兵は1千人から2千人もいたとされる。相当数が戦死し、ジャカルタ郊外のカリバタ国立英雄墓地に葬られた人もいる。

インドネシアでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議に出席した安部晋三首相は先月22日、カリバタ英雄墓地に葬られた残留日本兵の墓前に献花した。

第1回バンドン会議(1955年)では、日本代表団は、アジア独立を掲げて戦ったことを感謝され、歓迎された経緯がある。
今回のバンドン会議での演説で、阿部首相は第1回会議の逸話にも、日本がアジア独立を掲げて大東亜戦争を戦ったことが有色人種の国々の独立につながったことにも触れていない。
そこには日本流の謙虚さがあるし、当時は敵国で今は盟邦となっているアメリカや友好関係にある西洋諸国への外交上の配慮がある。

首相がカリバタ英雄墓地に詣でたことは、日本人がアジア独立に貢献したことを、言葉でなく行動で伝える機会だったが、日本ではほとんど報じられなかった。
いつの時代でも戦争は避けるべき悲劇だ。それでも、日本が国を挙げて戦った戦争に、当時の日本人がどんな理想や意義を見出していたのか、外交場裏では語れなくても、後進の私たちは覚えておきたい。それがバランスのとれた歴史観につながる。
産経新聞 論説委員
 つづく 慰安婦資料めぐり中国に抗議