死んでいいというべきではないか、死ぬべき時は必ずある。すべてのものには限度があるのだ。そこで交代、消滅、忘れ去れる義務、なども発生し、結果として若い生命が伸びる。

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 【広告】人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
 結婚は単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人間であり、夫婦が親子関係に近い関係になるといずれ崩壊する場合が少ない。結婚は愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容し飽きがこないよう新たな刺激と興奮の連鎖によるオーガズムが得られるのが望ましい。

曽野綾子の透明な歳月の光

利己的な年寄りが増えた

このごろ、私のような不作法者でなければ、絶対に口にしないことを、若い世代が考えている場面に時々遭遇する。
 テレビでドクターヘリというものの活躍を見た翌日だったが、知人の50代の女性で、介護の仕事をやっている人が、90代で、ドクターヘリを要請した病人がいた話をしてくれた。
 もちろん私にはその時の状況がよく分からなかったのだが、周囲は内心、こうした利己的とも思える行為に、違和感を抱いたのである。

 私もこの年になれば、ドクターヘリはもちろん、できるだけ救急車のお世話になるまい、と心に決めている。言うまでもなく、若い世代が使うべき社会構造と健康保険を使わないためだ。
 トリアージと呼ばれるものが世間では常識とされるはるか以前から、私はその言葉を知っていのだが、恐らくアフリカで教えられた知識だろう。トリアージとは、「傷痍(しょうい)兵、被災者などの負傷程度による治療優先順位の決定方式」のことで、それによって生存者数を最大にすることを目的とする、とされている。その場合、軽傷者の搬送も重症者より後回しにされるし、生存の見込みのない重症者の治療は時には拒否される。

「残酷じゃありませんか」という人もいるが、人間の本能の中にも、そうした順位付けは組み込まれている。地震の時、たいていの母親は、幼子を自分の体の下において、落ちてくる梁(はり)や瓦(かわら)から守ろうとする。その結果自分が傷ついても死んでも、覚悟の上だ。しかし最近は、何が何でも生き延びようとする利己的な年寄りが増えてきた。

 人間は平等だから、年寄りでも若者と同じような医療を要求する権利があると考える。できればそうだが、できなければ生きる機会や権利を若者に譲って当然だ。
 それでも私は、寿命だけは生きるだろう。ありがたいことに、日本人は金のある無しで、まったく医療から見捨てられることもない。ある年になったら人間は死ぬのだ、という教育を、日本は改めるべきなのだ。

 医療の手段がさらに進み、日本が国家としてもっと豊かになれば、年寄りが今よりはるかに高齢になるまで死なないで済むような発想が安易に浸透しているように見える。そんな点でも、日本の教育は手ぬかりなのだ。外国では教会が学校に代わって、死の意味を子供に植えつけている。

 死んでいいというべきではないか、死ぬべき時は必ずある。すべてのものには限度があるのだ。そこで交代、消滅、忘れ去れる義務、なども発生し、結果として若い生命が伸びる。
 ドクターヘリをはじめとする、非常に高価な医療手段に対しては、法的に利用者の年齢制限を設けたらいい。ほんとうは利用者自らが「自分が受けてもいい権利を自ら放棄する自由」を明確な意思のもとに行使する判断や勇気が望ましいのだが、こうしたことは若い世代は言い出せないらしいので、私が言っておくことにした。(その あやこ)2016年1月 産経新聞

曽野綾子の 透明な歳月の光 677

悪の存在を伏せる教育の愚

ヒトラーの『我が闘争』が今度、新たな注釈入りで発売された。それについて、ドイツの世論は二分しているようだ。あれは悪そのもの美化だから伏せておくべきだという考え方と、何であれ歴史の一つの姿だったのだから、それを学ぶべきだという考え方で、私は後者に賛成だ。

 とは言っても恥ずかしいことに、私は『わが闘争』とマルクスの『資本論』は、どう我慢しても読み通せなかった。だから確定的なことをいう言う資格はないのだが、私は一般的に、学ぶのは、善や美からでもあり、同時に悪や醜からでもる、と思っているからだ。

 数日前のテレビの番組で、客が忘れていた財布を飲み屋の若い従業員が見つけ、その中のポイントのついたカードを抜いて使ったケースが紹介されていた。それが防犯カメラに写っていて、彼は窃盗罪で捕まった。ポイントくらい、とその若い従業員は思ったかもしれない。子供なら思いそうな浅慮である。それでも盗みは盗みだという厳しい教育を、親か先生が一度でもしていれば、こんな前科はつかなかっただろう。

 悪は善と同じように、真っ向から突き付け、見せて、学ばせなければならない。戦後の日本は、子供に理想と善だけを教え、悪とは何かを教える機会をほとんどなくしてしまった。しかし悪、醜、残酷さ、無関心さなどを見せられることによって、私たちは人間的な心を育てる。光は闇の存在によって認識されるものなのだ。ことに今回の出版は注釈つきだというから、翻訳されれば私も読めるかも知れない。私はしばしば本文より注釈の部分だけ読んで時間をつぶしてしまう癖がある。

 もし言論の自由を言うなら、どんな考え方も公表すべきなのに、最近の日本の新聞も、少しでも軽薄な道徳や人道に反する記事は刺し止めろ、筆者に反省とおわびをさせろ、と世論に簡単に動かされる。署名原稿というものは責任がはっきりしているのだから、読者はそれを読んで筆者を批判する自由がある。以後その人の書いたものは読まないとか、選挙でその人やその人の党は支持しないと決める自由である。

 もっともかつて朝日新聞を代表とする3大全国紙と、大手通信社のうちの1社は、文革以後の中国に関して、私たち作家の書く内容を中国に成り代わって検閲した。なぜ彼らが、あれほど中国のいう事なら唯々諾々と従ったのか、今もって理解しがたいが、思想弾圧したがる傾向は今でも残っている。

 当時今よりさらにひどい恐慌政治を敷いていた中国のことを、一言でも批判的に書こうとしようものなら、これらの新聞社はその原稿を書き直すようわれわれに命じ、書き手がそれに応じなければ以後その作家には書かせなかった。

 人の世には常に美点と欠点があり私はその双方から学んでいた。反面教師という力は有効だった。その中で、中国におべっかを使う波に乗らず大新聞の卑怯(ひきょう)さと闘ったのは、産経新聞と時事通信社、ならびにかなり多数の雑誌社系の週刊誌であったことは忘れられない。2016/01/13日 

 ■676
「一億総括躍社会」という総理のうたい文句が、嘲笑や避難の的になっているが、私は実に実感のある言葉だと思っている。
 総理は体裁よく発言されたが、実は高齢者が引退してのんびり暮らすなどということができる時代はもう終わったということなのだ。今の私は夫の看護人をやっているのでそう解釈している。
 人間、一人で死ぬことは別に気の毒でもないし、死ねれば楽なのだが、社会にとっても個人にとっても問題なのは人間がなかなか死ねないことなのである。高齢な病人が、一人で暮らす時期が長く続くこともあるという覚悟が要る。

 その時期、問題になるのは食べることでなく、排泄(はいせつ)をどう解決するかということに尽きる。食事は一種の「給餌(きゅうじ)」だから、時間を限って誰かが寝たきり老人の枕元に運ぶ体制を作れば、さして困難なことではない。しかし排泄は「時間と所かまわず」の面がある。定時に見回れば、それで解決する問題でないのである。

 一人で死ねるという人は、自分の行動が不自由になった時、汚物まみれで臭気を放ちながら生きていく覚悟ができているのだろうか。わが家の高齢者は、まだ一人でトイレに行けるからいいのだが、転んで手が不自由になっているから、食事の時よく服を汚す。しかし自分で洗濯物を洗う力はない。

 私は病人のいる家庭の第一の目標を、清潔においている。衣服はボロでもいいが、体も衣類もたえず清潔で、家の中に臭気などしないことが大切だ。しかし一人で老い、病む場合、この状態を保つことはほとんど至難の業だ。

 私は幸い性格がいい加減なせいか、どうしたら手抜きをしながらその目的を達せられるか、ということに情熱を燃やし、家中を整理して新しい生活態勢を作った。思い切り雑物を捨てた家の中には意外な空間ができ、行動の不自由な人が楽に歩けるようになった。

一番広い居間兼食堂だった部屋を病室に変え、そこは人を通さない気楽な空間にした。寝具も洗えるものばかりにし、布団ごと気楽に洗っているから病人臭も残らない。しかも台所に近いから、家中の雑音や家族の声も聞こえる。なにより自分の家で、食べなれたもの食べ、好きな本を身近において、周りで家族の勝手なことを言っているのが聞こえている日常性が大切だと思っている。
 共同生活する親友は、健康で楽しい時代なら共有するが、無限に続く汚物の処理までしてくれるのかどうか疑問だ。それができるのは現実的に家族しかいない。

 足りないのは老人ホームなどの建物ではないのだ。人手である。これはいかなる政府も解決できない深刻な問題だ。だから日本人は、高齢者でも健康な限り最期まで、より不健康な人のためにどこかで働け、ということだろう。
 子供を育てることと、老人を人間らしく見送ることは、何の事業よりも「神が喜ぶ」大切な仕事のように私は感じている。
「総括躍社会」とはそういうことに違いない。
 2016/01/06日 産経新聞

曽野綾子の 透明な歳月の光 ■675

「陰影なき大人」ばかりの日本

平成27年を振り返って、大まかに言えば日本人にとって穏やかな年だった。鬼怒川の決壊の後の水害のような部分的被害には見舞われたが、国家的といえるほどの大規模な災害は新たに発生しなかった。

 それなのに、私は心理的にはどこか疲れている。年齢のせいだとも思えるが、日本人の精神が変わっているように感じているからである。相変わらずテレビは食べ物の話と、ひな壇に人を並べて「うわぁ」とか「へぇー」とかいう声を聞かせる番組でことは済むと思っているようだし、ハロウィンとかクリスマスとか、キリスト教徒でなければ関係ない祭日を単なる遊びの機会として捉えている軽薄な日本人もめだつようになった。

「たわいないことだから、いいじゃないの」と言う人いるが、私は良くないと思っている。こうした心の問題には、慎重に行動することが、その人の思想となり、責任ある振る舞いだといえるということを、教師とは親かが厳しく教えれば、こうはならないはずである。だから半面で、まっとうなイスラム教徒に対する理解もなく温かい態度も取れず、ヘイトスピーチに流れたりする。

 愛とか、平和とか、人権とかいうことを口にしたい時も、昔は自分がどれだけそうしたものを命にかけて守れるだろうか。と思うと忸怩(じくじ)たるものがあって、あまり軽々には口にできなかった。いつも言っていることだが、平和は、スローガンやデモやチャリティー・イベントでは守れない。百円。千円程度を寄付することでも駄目だ。平和は、生涯かけて、命か、全財産を差し出すくらいの決意を持った人だけが、そのために働いているということができる。しかし平成27年には、言葉だけが洪水のように溢れて、私はそれに溺れそうになってしまったのだ。

 昔の日本人の行動や表現には、羞恥(しゅうち)や含みなどという微妙な要素があったから、平和などと言う「ご大層な言葉」はめったに使わなかったのだ。
 平和を願わない人は珍しい。暮れにアメリカのパットン(戦車隊)将軍の伝記的映画をテレビで見たが、この人はとにかく前線(戦争)を愛した。日本人から見たらとんだ「戦争野郎」なのだが、経営者としてみたら、決断の素早い正確さという点で、類(たぐい)まれな素質と才能を持っていた。だからこの伝記的映画もできたのだろう。

 アメリカの多くの人も、日本のわれわれと同じような戦争嫌いだろうと思うが、一方でこうした人物を分析的に取り上げることで、社会のものの考え方に陰影を残しているところがいい。
 成熟した大人は、分裂した現実に耐え、普通は対立した陰の心理を感じて生きている。しかし日本人には、ひたすらまっすぐ正論を掲げてその道を行けば、必ずゴールに達することができる。と信じている「善意の大人」群が実に多い。そうした人々の発信を聞いていると、その手の幸運も、現世で決して皆無とはいえないだけに、私は黙って疲れていたのである。
2015/12/30日 産経新聞

曽野綾子の 透明な歳月の光 ■674
2つの出会い マニュアルが阻む「人間の会話」
やっと美容院に行って、髪の手入れをしてもらった。
人中に行く時、顔より髪がきれいな方が大切だと思うのだが、私は大体一日延ばしにして生きている。
 カラーリングをしたあとシャンプー台で髪を洗ってもらっていると、シャンプー・ガールが私に、「今日はもうおうちでもシャンプーをしないでください。色が落ちますから」と言った。
 一言一言の日本語はわかるのだが、全体の意味がつかめなかった。「あなたは、今シャンプーをしてくだっているでしょう ? 」
「これは特別のシャンプーだからいいんです」
「あなたは私が、今日ここでセットしていただいて帰ってから、また髪を洗うと思う ? もう夕方の5時近くなのよ」
 高い金を払って、とはさすがに言わなかった。若い娘の顔は見えないが、彼女は言った。
「お店でそう言うように言われているのです」
「でもあなたが、自分で考えておかしいと思うことなら、教えられた時、理屈がよくわかるように質問してみたら ? 」

 内容を全く考えないでマニュアル通りオウムのように繰り返す人は、実は危険な存在なのだ。
 それから数日後のことである。私は家の近くの静かな歩道で、むこうから楽しげに並んで歩いてくる、中年の父らしい人と、12,13歳の娘を見た。父は肩幅の広いがっしりとした体格で、ひさしぶりに父と並んで「おでかけ」できるチャンスができて娘は嬉しくたまらないらしく、ほとんど前方を見ないで、父の顔だけを見ながらとびはねるようにして歩いている。

 とっさに、この歩道の幅では、2人とすれ違うのには無理がある、と私は思った。それで私は自然に10bほど手前で車道に降りた。そこは一方通行の道で、入っても車もほとんどいなかったし、万が一きたら車道にいる私にすぐ見える安全な道だった。
 私は老齢であるし、足のけがの後で、身のこなしも歩き方も軽快とはいえない。しかしそれとなく車道に降りる行動に、まだ危険を覚えるほどでなかった。数秒で、私はその父娘とすれ違ったが、私たちの間には2,3bの距離があったので、私たちは見知らぬ通行人として遠ざかることが可能だった。しかしその中年の父はかすかに私に向かって目礼をした、ように見えた。

 美容院の会話と、無言ですれ違いざまに感謝を伝えた(ように見えた)父と私との意志の疎通の間には、雲泥の差である。
 シャンプー台の上の会話は言葉はあれど意味をなしていず、一方歩道のすれ違いは、両者の間に一言の言葉もなかったが人間としての意思の伝達があった。

 父は、娘との貴重な会話の時間が守られたことをほんの少し評価してくれたのであろう。そして私も私なりに、84歳になっても、まだ素早く人の心が読め、数秒後に起きる事態を予測できて、数秒だけ人に譲る運動機能も残している自分を、喜んでいたのである。 2015/12/23日 産経新聞

曽野綾子の 透明な歳月の光 ■673 日本の暗い未来
今年の私の、極めて私的な変化は、夫の介護人になったことである。夫は6月に転倒し、軽い認知症的症状が出始めた。
すぐに退院させたが、幸いにもまだ穏やかな程度で、自分のお皿を流しに運んだり、私の分のご飯をよそってくれたりする。
時々痛烈に社会を皮肉ることも瞬発的に言う。

 しかし私は家族を、病院にせよ老人ホームにせよ、施設に預ける気を失った。それらの場所では日々の生活が保証されているから、ぼけが進んで当たり前なのである。
 それで私自身が、家で介護人なった。できるだけ手抜きをし、病人と言えども、自分のことは自分でするという気持ちを持たないと「生きていけないものです」とイヤミを言う。

お金があるからとか、施設に入るコネがあるとかで個人的便利を得ても、これだけ増え続ける老齢人口を、政府が公的な場所で全員面倒を看られるわけがない。当節「平和」を口にする人は、デモに行く時間に、まず自分の身近な人たち、親、兄弟、隣人、友人などの面倒を見ることだ。

 奉仕のことをギリシャ語では「ディァコニア」と言うのだが、「ディア」は何々を通して、という接頭語で、「コニア」は塵、あくた、汚物、というような意味らしい。昔一人の神父が、「だから奉仕というのは、排泄物の世話をすることだけです」とはっきり言われたことがある。老人ホームに行ってコーラスを聞かせたり、フラダンスを踊って見せたりするのが奉仕だと言っている人もいるが、それは自分が見せたいからで、奉仕ではないというのだ。

 日本は容易ならぬ状態に追い込まれている。老人の面倒を見る人手がなくなっているのだ。足りないのは金でも物でもない、人手なのである。だから東南アジアから労働移民を入れるという手も昔は考えられたが、将来はほとんど当てにできない。まだ若い世代は、老後必ず一人で生きてみせる、などと言うが、私のように実母、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)と3人の老後を自宅で見て、自宅で臨終を見送った経緯を知っている者には、甘い考えとしか思えない。
 しかし老人問題と同じほど、今年の日本にとって公的に暗いニュースだったのは、日本の企業が、道義心を失ったことである。どこかの国のように、偽者を作って売るというような国民性が、繁栄につながるはずはない。

 日本人は政治的手腕もあまりなく、商才もさしてない。しかし愚直なまでに、純粋に手を抜かない正直な製品を作る職人的矜持を持った国民だということになっていた。
 それなのに、粉飾決算を何年も見逃し、建物の強度をごまかし、血液製剤まで信用できないものにした。はっきり言うと彼らは、日本人の未来を大きく傷つけたという意味で「国賊」と言うべきだ。

 そういう会社はつぶすべきだと私は考える。それによって運命を狂わされる従業員は気の毒だが、彼らもまた現場の事情を知りながら、告発もせずにいたという道義的責任を負わねばならないだろう。 2015/12/16日 産経新聞

小さな親切、大きなお世話 作家(曽野綾子)
マスコミの一部は、今でも日本は格差がひどい国だと言い、それをうのみにした女性たちも「日本は貧富の差かひどいからねえ」と言っている。日本がそんなに格差のひどい国だと思う人は、すぐに「いい国」へ移住してほしい。それを止めるものは何もないからだ。日本は自由な国なのである。

今の日本は世界一、格差の少ない、食べられない人のいない国である。たいていの国はこじきがいて犬を暖房代わりに飼っている。飼うといっても、犬は自分で餌を拾って食べるのだ。貧困な人の定義ははっきりしていて、今日一日食べるものがない人のことをいうのだが、日本はもしそういう人の存在がわかったら、行政が即刻その苦境を救う豊かな国だ。

 しかし最近の日本人は、ひどい精神状態だ、と久しぶりに帰国した人は言う。魂の自立と自律を失っている。夜の電車に乗れば、服装も眼鏡も上等なものを身につけた男が泥酔して眠りこけ、女性の酔っぱらいはミニスカートがずれ上がり足の付け根まで丸見えなので、「風呂敷でもかけてあげたい」そうだ。

 何よりも、人の精神をいじけたものにしているのは、立派な学歴を持った人でも「自分を持っている」とは言えないことらしい。彼らは他人と世間の評判を最大の目標にして生き、ことに人権や平等を守るヒューマニストだという評判がほしい。だからSNSの世界と一日中付き合うことに、全神経をかけている。生まれてから一度もその世界とふれたことのない私の暮らし方がいいとは決して言わないが、私でも十分健やかで豊かな人の心と、必要以上の質と量の知識にふれて来られた。

 個人情報の秘密を守る。女性に対するいやがらせは許さない、いじめをなくす制度を作る。などは当然のことだが、マスコミ自身が個人情報を暴くことをもって仕事とし、セクハラはいけないという女性が、ちょっとした人間的言動もすぐさま告発の対象にするという非常識を犯す。自撮りのヌードをSNSに載せた小学生もいた。

 いじめはその行為をする人間の魅力をそぐ行為だが、どんなに制度を作っても、人の世からいじめはなくならない。教育はそれにうまく対抗できる力を、個人に与えるためにあるのだ。
 アメリカではトランプ氏が、「イスラム教徒の入国禁止を口にしたことに、各国首脳までが批判の声をあげている。「わかりきったことに手を挙げて点数稼ぎなどするな」という感じだ。私たちはすべての人から、もちろんイスラム教徒からも、知恵を習った。一方、トランプ氏といえども思ったことを言う自由がある。それに反対ならトランプ氏を選挙で大統領にしないよう働く手が残っている。

 世界中が民主主義の原則を忘れて、人道主義の評判ばかり欲しがる病気に感染している。
 人道主義というものは、そのために、長時間の労働か、多額の私財か、時には命まで差し出す覚悟を持つことだという。それなしに口先だけで人道主義を唱える薄汚さは、すぐにばれるものだ。
(その あやこ)
2015/12/13日 産経新聞

 透明な歳月の光 ■672 夫のひげ根むしり

「自立生活」こそ最高の健康法

私は毎朝、食事が終わると、昼と夜のおかずを決める。冷凍の食材をとかす必要がある場合が多いからなのだが、昼には我が家では小型の「従業員食堂」みたいに秘書もいっしょに食事するし、夜は夫と2人の少人数で、あまり手をかけたくないからである。 しかし私は昔から、どうしても家で作ったご飯を食べなければおいしくない、という先入観を持っていた。たまにコンビニの食べものの便利さに感動もしているが、やはり基本はわが家で作ったおかずである。ぶり大根など煮ると、たまたま仕事で来られた方にも、お菓子代わりに出している。ほんとは、お菓子を買いに行くのが面倒になってきたからである。

 最近私は朝ご飯の後で、すぐに野菜の始末をすることにした。お昼にもやしと豚肉の炒めものを作ろうと決めたら、朝飯の後でもやしのひげ根を夫にも手伝わせて取るのである。
 夫は90歳近くになるまで、もやしのひげ根など取ったことがなかったろう。ひげ根については、友人たちの間でも賛否両論があり、私は面倒くさいからそのまま炒める、という口だったが、週末だけわが家に手伝いに来てくれる92歳の婦人は、ひげ根は取ると取らないのとでは、味に雲泥の差がつくという。

 夫を巻き込んだのは、私の悪巧みである。私は常々、「人は体の動く限り、毎日、お爺(じい)さんは山へ芝刈りに、お婆(ばあ)さんは川に洗濯に行かねばなりません」と脅していた。

運動能力を維持するためと、前歴が何であろうと― 大学教授であろうと、社長であろうと、大臣であろうと― 生きるための仕事は一人の人としてする、という慎ましさを失うと、魅力的な人間性まで喪(そ)失する、と思っているからだ。それと世間には、最近、認知症になりたくなければ、指先を動かせ、字を書け、というようなことが信じられ始めてきたからである。料理もその点、総合的判断と重層的配慮が必要な作業だという点で、最高の認知症予防法だということになってきた。

 もやしのひげ根でも、インゲンまめの筋でも、2人で取るとなぜか半分以下の時間でできる。3人で取れば、4分の1くらいの時間で作業は終わってしまう。家族で同じ作業をほんの数分間する、その間にくだらない会話をする、ということの効果は実に大きい。老人からは孤立感を取り除き、自分も生活に一人前に参加しているという自足感を与える。

そして自称「手抜き料理人の名人」である私にしてみると、野菜の始末さえできていれば、料理
そのものはほんとうに簡単なものである。 昔、引退したらゆっくり遊んで暮らすのがいい、と言われた時代があったけれど、私の実感ではとんでもない話だ。「お客様扱い」が基本の老人ホームの生活、病院の入院、すべて高齢者を急速に認知症にさせる要素だと私は思っている。要は自分で自立した生活をできるだけ続けることが、人間の暮らしの基本であり、健康法なのだ。
2015/12/09日産経新聞

 透明な歳月の光 ■668
 引っかかる言葉「優しさを求める」のは無理
ある日、私の頭の中に「優しさを求める」という言葉が残っていた。
 多分その朝読んだ印刷物の中のどこかにその言葉があったのだろうが、それを再び捜し出すことは不可能に近い。私の家は仕事柄、毎日たくさんの本や雑誌が送られてくる。それらのすべてに目を通すことはとうてい不可能なのだが、それでも私は本や雑誌を作る人達の苦労を知っているから、処分する時も胸が痛む。

 一番悲惨なのは、ついさっき、ほんの1時間前に、読んだ文章を再び探し出せないことがある時だ。すばらしいことを書いてあったので、そこを何としても正確に引用して世間の人にもっと多く読んでもらいたいのに、どの雑誌だったかどうしても思い出せないことがある。しかたなく著書の事務所に電話して、秘書さんにわけを話して掲載誌を教えてもらうこともあった。

 言葉は宝石とそっくりだ。小さくても輝いている。そしてなくしたら、なかなか捜し出せない。
 もっとも言葉の輝きは、宝石と違ってきれいなばかりではない。時にはぐさりと心を射抜く厳しい矢のような激しさを持っていることもある。今日私の心に残った「優しさを求める」という言葉は今朝方読んだ何かの印刷物の中か、テレビの画面に出ていた人が話していた言葉だったのだろうが、もう出所を確かめることは不可能だ。「老人は世間に優しさを求めている」というような使い方をしていた。

 しかし考えてみると、優しさもまた、要求したら得られないものの典型である。「あの人を愛してほしい」という求愛の感情と一緒で、「私を愛してください」と要求したら、まず相手はうんざりして逃げ出す。

 世の中には、追い求めたら逃げていき、求めない時だけ与えられるという皮肉なものが、意外と多い。優しさも同じだ。
 優しくしてほしかったら、自分が優しくする他はない。あるいは、周囲の状況や他人の優しさに敏感に気づき、感謝のできる人間になる他はない。現代の日本には、実に細かいところで優しさが用意されている部分がたくさんある一方、日本人が他国人より優しくない冷たい部分もある。

 旧約聖書のレビ記19−9〜10は、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈りつくしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどうも畑に落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」と命じている。
 麦の穂もぶどうも、わざととり残し、置き忘れたようにしておくから、貧しい人たちが遠慮せずに取れる。求めなくとも与えられるもっとも秘(ひそ)やかな優しさの姿である。

透明な歳月の光 ■666大仏次郎『帰郷』

「命がある」こと自体への感謝

先日古本を探して大仏(おさらぎ)次郎氏の『帰郷』を買った。この作品は昭和23年、毎日新聞に連載されたものだという。毎朝心を躍らせて読みふけったその作品の姿を、私は改めて確認したかったのだ。
『帰郷』は敗戦による日本の崩壊を戦後の時点から描いたものである。男女一人ずつの主人公たちは、それぞれの複雑な事情から、戦時中の軍国主義的日本に反逆し、国を捨てた裏切り者であった。その二人が、戦後、個人的な運命の返遷をまともに受ける覚悟で日本に戻ってくる運命を描いている。空襲も免れ、変わらぬしっとりとした日本の歴史を保ち続けた京都などの自然が、彼らの「帰国」の思いを助ける。

私が新聞小説をこれほど毎日心待ちにして読んだことはない。
その中にこういう会話がある。
「兵隊の苦労をして来たんですから、戦争に対しては無論、今も腹を立てていますが、(中略)そういう日本人は、思ったより僕は多いような気がするんです。同じ日本人に対する怒り、特に、その崩れ方に対する腹立ちは、やはり、ありますね。(中略)僕は学徒で出て勉強を中絶してしまったので、戦争で、ひどく馬鹿な目に遭ったことは間違いないですけれど…・そうかといって兵隊の生活は人がよく云うように全部無意味だったと考えていません。

利己的な考え方と云うのか、また自分が否応(いやおう)なく、そういう経歴を踏んで来たのが全く無駄だったとは考え度(た)くないせいか、僕個人については、苦しかったが、何か為になったところもあると考えているんです。死を絶えず意識している生活なんて、頼まれても出来ないことで、それを潜(くぐ)って来たのが無意味だったと考えたら、可笑(おか)しいじゃないでしょうか」

「非常にエゴイスティックな考え方かも知れませんが、僕には命があるのがたまらなく嬉(うれ)しいんだ。それから、戦地で今日は死か明日は死ぬかと思いながら極端に暮らして来ただけに、生きている限り、自分のいのちは大切だと思うし、強制も命令もされないで生きるいのちなのだから死ぬ時が来るまで自分の思うとおりに生きて見たいって欲望ですね」

「今でも夜、寝ようとして床の上に転がって電燈(でんとう)を消すと、現在の幸福だけ算(かぞ)えて、ひとりで楽しくなって来るんです。自分は内地に帰っているんだぞ、蒲団(ふとん)の上で寝ているんだぞ。この家には屋根があるから雨が降っても起きる心配がないぞ」
 今の日本の若者たちの中には、今日命があることを感謝する謙虚さもない。動物のように雨の中で濡れずに蒲団に寝られることを幸福と感じる能力もない。生涯の使い方に関する基本的な喜びもない。
何よりも貧しくなったのは、大人のくせに、ものごとの結果を最低二面以上の相反する複雑な視点から見る勇気も能力も衰え、教育もその訓練をしないことである。私がこの小説を毎朝待ちこがれて読み始めたのは16歳の時だった。
2015年10月28日 産経新聞より

小さな親切、大きなお世話 作家 曽野綾子

 電車に乗って前の席を眺めると、どこか異様な風景だった。一列7人掛けの座席に座った全員がスマホをいじっているのである。もちろんその中には、一刻を争うような経済活動をしている人もいたのだろうけど、とにかく私には不気味に感じられたのである。
私の若い時代、電車の中は本を読む場所であった。つまり一種の勉学の時間であった。本を読むということは、人間を創(つく)る基本的行為であって、それをしなければひとかどの人間になれなくて当然と思われていた。読書は、家柄、学歴などと一切関係なく、自分を向上させる機会である。昔は今ほど本を手にできる機会も多くはなかったが、それでも読書という行為は深く尊重されていたから、古本で買ったり、貸してくれる人に本を借りたりして知識を蓄えた。

しかし今の人達は恐ろしく勉強しない。なくてもいいような噂話的な雑事を知ることに貴重な時間を使っている。プロとして通用するような知識はスマホでは得られない場合が多い。

偶然かもしれないが、ドイツでも日本でもそれぞれに、製品への信頼を、基本から揺るがすような事件が発覚した。日本人のフォルクスワーゲンに対する信仰は一挙に崩れたが、それは一つの会社に対する信用がなくなったということではなく、ドイツ国家といえども信用はできないという教訓になった。もっともすべての安全というものは簡単に「信用しない」という精神の姿勢から始まるのだが。

ほとんど時を同じくして、日本人が長年培ってきた国家的信用も揺らいだ。安全基準に合致しない建築資材が使われたり、基礎のくい打ちの基準を守らなかったり、収支決算をごまかしたりする会社まで現れた。
彼らは、日本国家に対する背信行為をしたともいえる。

 私は時々アフリカの田舎に行き、カトリックの神父がやっている小さな学校で、子供達に話をしろとなどと言われる。村には電気もなく、従ってラジオ・テレビもなく、学校に世界地図もないのだから、子供達には日本がどこになるのかも知らない。

 そこで私は3分か5分で終わるような話をする。日本は以前、決して豊かな国だったのではないこと、農産物はあっても、地下資源は乏しいこと、アメリカと戦争をして、徹底的に爆撃で家を焼かれたこと。しかしその中から、国民皆が一生懸命に働いたので、今はテレビやオートバイを買えるようになった、というような話だ、その国では自動車より高利貸の男が乗る日本製のオートバイの方が、子供達の憧れの的だ。そして英語は堪能ではない私は、最後に3つの標語で締めくくることにしていた。これが私があなたたちに贈る言葉です、ということだ。
「よく、勉強しなさい。
 勤勉に、働きなさい。
 いつも、正直でありなさい。
 それだけで、あなたたちの国も必ず日本のようになれます」
 この根本の3要素が今3つとも失われつつある。日本人は深刻な危機を感じなければならない事態に立ち至っているのではないか。(その あやこ)

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■665
「お友達内閣」考 人を見る眼を持った上なら歓迎
 このごろ、日本人が長生きなってきたせいか、「年を取ることはいいこと」という内容の本が増えてきた。世の中には、完全にいい、というだけのものはないし、すべてが悪いということもないから、年を取るといいことも皆無でないけれど、私はやはり老齢はいいことではない、と考えている。重いものは持てない。速足で歩けない。すぐに疲れる。

 たった一つ確実にいいことを挙げれば、長生きした分たくさんの人に会えて、今でも相手の強烈な個性に対する深い尊敬の上に成り立ったたくさんの友情が続いていることだ。これは私の財産で、だから私の老後は寂しくない。

 安倍内閣について、よくマスコミは悪意を持って「お友達内閣」と書く。才能のない、怠け者の編集者や新聞記者ほど出来合いのキャッチフレーズを使いたがるものだが、私は初めから、「お友達内閣」がどうして悪いのだろう、と思っていた。その人の才能や性格を知っているからこそ、いっしょに仕事をしてもらえるのである。
 役者のオーディションなら、その役をうまく演じられさえすればいい。採用したタレントが、性的に放埓(ほうらつ)でも浪費家でも、演出家は「知ったことでない」のである。
 しかし総理は、閣僚になる人の隠れた才能を見抜いていなくてはならない。いざという時の攻め方と耐え方、私生活上の清廉潔白さ、表現力の豊かさなどの上で、何より賢さや徳の有無も問題になってくる。それを知らずに閣僚に任命することはできない。だからお友達内閣であっても少しも悪いことではない。

 もっともアフリカなどの途上国の中には、いわゆるネポティズム(身内びいき)としか言いようのない極端な権勢の使い方があるようだ。私の聞いた一番極端な話は、首相だか大統領だかが「泥棒」を稼業とする部族の出で、閣僚もすべてその一族が占めている。たった一つ経済大臣だけはそれでは事実上やっていけないので、他部族(つまり泥棒を職業としない部族)の人を任命した、と聞かされたことがある。こういう桁(けた)外れのネポティズムとお友達内閣とは全く次元の違う話だ。

 総理に必要なのは、ただ単に知り合いというのではなく、人を見る眼を持った上での、たくさんの人材とお友達であることだ。その人達の意見を聞いたうえで、彼らの意見にのまれない強さが要る。015年10月21日 産経新聞

 最近のマスコミに力がなくなった証拠は、人に対しても事件に対しても、善悪混合の状態を過不足なく書けないことだ。安倍総理を褒めた話はめったに読むことができない。そんな「悪い総理」を総裁にいただく政党を、日本人の過半数の人が支持したことになり、それは国民に対する侮辱だとも言える。悪口を書いていればそれで十分批判的でいられるように思う浅はかな傾向は、書き手に力がない証拠である。

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■663
日本人のノーベル賞受賞は、いつもなら遠い地点で輝く星を仰ぐようなものだったが、今回だけは私は、その端っこの光景を見たことがあるような楽しい気分になっていた。1997年から私は何度もアフリカの奥地へ、貧困の実態に触れる調査旅行をし、大村智博士が微生物から開発されたという薬が、アフリカの田舎で生きている実情を見ていたのである。

当時私が働いていた日本財団は、91年以来ヘレン・ケラー・インターナショナルを通じて、熱帯寄生虫の一つ、オンコセルカ症の予防薬イベルメクチンを、全世界の汚染地帯に配る資金を供給していた。ただしこのイベルメクチンは、ミクロフィラリア(幼虫)にしか効かないので、成虫が体内に存在する10年以上にわたって年に一度は飲み続けなければならない、と言われていた。財団は大村博士の発明の現地実行部隊だった。

もともとアフリカの多くの地方には、通称「川の盲目(リバー・ブラインドネス)」と呼ばれる病気がある私は聞かされていた。
そして98年に私が日本のマスコミや中央省庁の人たちとブルキナファソの田舎を訪ね目的は、イベルメクチンがヘレン・ケラー・インターナショナルによって配られている実態の確認のためであった。

誰にとっても視力を失うことは大きな不幸だが、アフリカでは、日本人にはない苦労がさらに一つ加わる。子供まで働かねばならない貧困家庭が多い中で、もし一家の働き手の父の目が見えなくなると、荒れ地の畑作業も、数匹の山羊(やぎ)や羊を野原に連れ出すこともできなくなる。貧しい家族は働けない父を抱えてさらに貧しくなる。

 われわれから見ると、年に一度、予防薬を飲めば防げるというのは簡単ことに思える。しかし年に一度という習慣が、決してたやすくない土地でもある。電気がないと、テレビもラジオも新聞もないから今日が何日だかよくわからない。だから1年が経過するという概念も、決して誰もが持てる簡単な認識ではなくなる。ブルキナファソで訪れた僻地(へきち)は、以前は川に面していた。しかし村民の3分の1が盲人になってしまったので、数キロ奥に移転せざるを得なかった。貧しい村が移転するということは、大変なことだったことだろう。

 アフリカの村長さんは非常に社会的地位が高く、私は初対面の時謹んで握手していたが、やがて男と女が手を触れあうような淫らなことはいけないという考え方もあると知り、イギリスのカーテシーと似た、右足を軽く引いてお辞儀をするあいさつに換えていた。ところがその移転した村の村長の前で、女王陛下にするようなお辞儀をしても、彼は表情一つ変えない。するとヘレン・ケラー・インターナショナルの人が小声で「彼も見えないので、ここは握手した方がいいですよ」と教えてくれた。

 病が村全体と村民を冒していた光景だった。日本だったら、「1村崩壊」と新聞が騒ぎ立てる状態だった。(次週に続く)
015年10月7日

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■661

「安保国会」に思う・多数決は民主主義の原則

最近の若い高学生くらいの年の人と話していると、「民主主義」なるものの定義を習ってこなかったのか、と思うことがある。
私は13歳で終戦を迎え、そこで今までの観念と全く違う民主主義なるものの「移植」を学習しなければならなかった。

民主主義は、英語でデモクラシーといい、女性にも選挙権が与えられるようになり、「公正な選挙によって51%の人が賛成した方針でものごとを定めていくことだよ」というふうに習った。
でもその後がおかしくて「『デモクラシー』という英語は、誰にとっても『でも暮らしいい』と言うことなんだよ」と教えてくれた人がいて、私はこの人情的解釈がすっかり気に入ってしまった。
しかし最近の若者の中には、民主主義というのは、全員の意見が一致することだ、と思っている人がいる。民主主義は51%の人が賛成したら、残りの49%は泣くことなのだというと、びっくりしたような顔をする。だから後年、ユダヤの知恵の中に、100%の人が賛成したら、その意見には危険が潜むと見て使わない、という知恵があることを教えられて、皆、目が覚める思いがしたのである。

100%が賛成するようなことの背景には、どこかに「麻薬的」と言っていい思想統一があるか、何らかの影の力が強力に影響しているからだ、とみるらしい。
しかし49%は、ただ泣いていていればいいということではない。次の選挙で自分たちが正しいのだ、ということを知らしめる機会を十分に与えられ、少数派といえども不利にならないように、人間的な配慮がなされることが民主主義社会である。

もっとも民主主義を施行しようとしても、あまり有効でない社会も現実にはあるらしく、近年、アフリカで私は「この国には、よい専制者(グッド・ディクテーター)が要る」と言う人にも会った。日本では専制者という言葉と、「良い」という形容詞が相いれることはない。しかし政治は人間のためのものだから、あらゆる形が可能性として存続していいのだろう、とやっと納得した。この頃の大新聞はわざと曲解してヘイトスピーチをあおることが好きだから、はっきり言っておくが、私は「良い専制者」なるものを支持しない。

今回の安保法案が参院の特別委員会で可決されたことに関する意見を、テレビで道行く人に聞いていたが、私も大体同じようなものだった。一部の日本人のように、武装しなければ平和が続くと思うのは全くの甘い考え方で、敵はいつでもどこでもいて、おそらく国会の審議にかけられていたら手遅れになるほどの速さと意外さで、隙があれば侵入してきて、民族の自主権を脅かすだろう。ここ数日の間に、たった一人の金がないペルー人が立て続けに6人も殺したかもしれない事件も起きているのだ。
民主主義の支持者は、49%の泣く人たちが、次回の選挙でその答えを出すことで信をおく。
産経新聞015年9月23日


小さな親切、大きなお世話 (曽野綾子)
 このごろ若い世代と会話をしていて時々、ひどく疲れることがある。もちろん第一の理由はこちらが年を取ったからなのだが、若いときから私がそれとなく敬遠していた考え方のパターンをする人が、増えたからなのである。

 若いときから私は、「オール・オア・ナッシング」という思考の形態が苦手だった。先生や警察官は正しいものだ。とか、新聞記者は必ず十分な取材をして正確な記事を書く、というような言葉を聞くと、多くの場合多分そうだろうが、しかしどんな職業集団にも、必ず黒い羊がはいるものだ、と反射的に思った。

 ここのところ、何人かのジャーナリストのインタビューを受けたが、私が「いつも例外や想定外があるんです」と言うと全く理解しないか、そんな考え方は認められない、と言う姿勢を示す場合が何度かあった。
 私かなり若いときから、完全な善人も、100%の悪人もいないと思っている。善人の中にも悪をなす要素があり、悪の中にも教育的な部分もある。
 その一例が戦争である。私は戦時中の東京空襲で火に追われ逃げ、グラマン戦闘機に機銃で掃射され、13歳で工場労働にも動員された。どれもいいことではないが、こうした経験を経て、以来私の戦争観は固定した。庶民が、せめて明日まで生きていられるだろう、と思える社会を作ることが平和なのだ。

 結果的に私は戦争からも多くを学んだ。だから戦争をしてもいい、と言うのではない。シリアの内戦の様子などを見るたびに、それまでどうやら平和に暮らしていたごく普通の家族が、多分やっと手に入れたであろう家や車を破壊される暴力に激しい怒りを感じる。だから戦争は98%愚かな悪いものだ。しかし残り2%は、なかなか教育的なものであり続けている。

 私は、今の若者たちが持っていないサバイバルの力や才覚を、戦争からと、その後の度々訪れた貧しい途上国で培われた。
 しかし私がたった2%くらい(このパーセント感覚は実にいい加減なものだが)は、戦争体験にも教育的な面もある、と言うと、たいていのジャーナリストは全くわからないという形で私を非難する目で見る。

 小説家などという仕事は、絶対多数ならぬ絶対少数の立場を正視する任務も負うと思っているのだが、最近のジャーナリストは戦争前と同じくらい激しい個人的な言葉狩りをすることで、競って自分は人権・人道主義者だと示したいらしい。その手段として、他人を道義的に裁くことで、事実上、言論弾圧も辞さなくなった。だからたいていの人は恐ろしくなって、おきれいごとしか口にしなくなる。そして悪から学ぶという成熟した学習の姿勢を失う。
 昔は悪から学べる強さが大人の証だった。悪から学ばない人は善からもあまり学ばない。悪の存在意義を認めないと、善の働きも感じられないだろう。
 ここ数日、洪水が日本中を荒らしている。被害に遭われた人の復興を助け、災害から学ぶことが日本の未来を創る。
 105年9月13日 産経新聞 (その あやこ) 


曽野綾子の 透明な歳月の光  ■658
 今日は9月2日で、辛うじて間に合うかもしれない。新聞に、毎年子供が最も多く自殺するのは、8月31日から9月2日かけだという記事が出ていたからである。過去42年間、全国で300人以上がこの3日間に自殺した。宿題ができていないのが心理的圧迫になっているのか、いじめに遭うのがいやなのか、簡単には論じられないが、学校なんか長い人生からみたら大したことではないのに、と思う。

 私は、生来性格の不真面目な夫と結婚した。彼の小、中学校の時の暮らしを聞くとも全くでたらめだ、毎年夏休みの宿題は8月29日までやったことはない。どうせ先生は細かいところまで読まないんだから、答えが間違っていても気がつきゃしない、とタカをくくっている。

「一番困るのは、日記でしょう」と言うと、それだってズルをするコツがあるのだという。たった3日で30日分を書くには、日付を続けて書かない。8月2日の分を書いたら次に17日分を書き、10分休んでから24日分を書く、正確なできごとを記すときもあるが、大体はでたらめだ。
「叔母さんが西瓜(スイカ)を持ってきてくれた」とか「隣のうちの鶏を追いかけて遊んだ」とかいう手の、ウソのばれない話しがいい。
「だけど天気はそうはいかないでしょう」と律義な? 私が言うと、天気だけは写させてもらう友達と、休みの初めに特別契約をしておくのだという。それに1日や2日間違っていたって、先生は決して気づかない。
 人(世間と親)が、自分が秀才で誠実で、将来偉くなると信じていると思うから、学校が圧迫になる。学校は一種の遊園地だと思えば、どうにでもやりくりして時間を過ごせる。それでも嫌だったら、学校には行かなくていい。

 老年まで生きた人のほとんどが、人生の幸福は学校のランクや成績の優劣とは無関係だということを知っている。それよりも人があまりしない勉強や道楽を生涯し続けた方がいい。友達がスマホに使う時間に、なんでもいいけど別のことをし続ければ、かなり世の中の役に立つ。

 私は学問的な頭は皆無なのだが、時々変なことを知っていると思うことがある。先日もグリーンランドで暮らす日本人の記録をテレビで見ていたら、そりを引く犬について、画面出てこないことでもかなり詳しく知っていた。昔アラスカにオーロラを見に行っていた時、アイディタロッドと呼ばれる長距離の苛酷な犬ぞりレースの本などを読みふけっていたおかげである。

 アラスカの2月は零下20度。近代的なホテルの部屋でも、寒さは壁を通して伝わってくる。ボーイさんに「もっと暖炉にくべる薪を持ってきてください」と頼んだら、生木の薪をどさっと運び込んだ。「こんな生木で燃えるの?」と聞くと、こういう寒地の木は水分を含んでいないという。水気があると木自身が凍るからだ。私は用心して寝袋を持ってきていたので、ベッドの上に広げ、中に使い捨てカイロを入れて天国の思いで寝た。
 少なくとも、私は学校を出てからの方が多くを学んだ。だから宿題なんか、どうでもいい。
 015年9月2日 オピニオン 


曽野綾子の 透明な歳月の光  ■656
 単なる回顧は戦争回避に無力
 ようやく戦後70年の記念日が過ぎた、マスコミは連日、スポーツか過去の戦争の記録を振り返り、私はほとほと疲れた。実はどちらも「戦い」の話なのだから。
 普通私の日常は、誰とも別に戦いはしない。じっと座って読んだり書いたり考えたり、片付けたり料理をしたりしている。私は肉体的に力がなく怠惰なのだろう。人間の思索という行為が一番好きなのだ。思索だけでは食べていけないこともよく知っているが、過去の愚かな戦争の行為を振り返ってみても、ほとんど戦争を回避するという行為には繋がらないことが多そうだとも思う。
 
 もちろん新聞も週刊誌もテレビも、私の知らない戦争の部分をたくさん教えてくれた。しかし私は8月15日までに心理的にもくたくたになった。早くこの期間が終わればいいのに、と思ったのは、人の生き死に深く心を留めてみていると、ほんとうに体の底から疲れるからだ。しかも追体験というものは無礼なものという気もする。

 この期間中にテレビ局から打ち合わせに来た人と喋ってた時はもっと疲れた。その人は何とかして何かにつけて私に憲法9条について喋らせようとしたからである。しかし私は、夫婦喧嘩を収束する時にも、税金を払う時にも、憲法9条など思い出したこともない。

 私を対人的に、穏やかな関係、できれば温かい思いやりのある方向、に導いているのは、聖書の言う「愛」だけである。相手の幸福を願う、横暴な人に耐える、何度言ってもわからない人をそれでも支え続ける、などという行為は、聖書の対人関係の鍵とて習ったのである。もっとも私はしばしばそれを守れないのだが・・・。神はどこにおられるか、というと、今私の目の前いる人の中にいらっしゃる、という。だからいじめもできない。いじめてやろうと思う相手の中には、かみさまがいらっしゃるのだから、それをしたら、神さまをいじめることになる。ちょっとひるむわけだ。

 戦後の時、13歳だった私はずっと自分の言葉で戦争がなぜいけないか。戦争は一人一人のささやかな希望を打ち砕くからだ。生き続けたい思う青年が結核で死んだ。恋人と結婚直前の青年が、共に住む日をついに現世で迎えられなかった。どちらも、誰にも許されているささやかな人生なのに、それがかなわなかったら、私は今でも胸が痛む、だから早く8月15日が終わらないかと思う卑怯者になる。

 この期間のマスコミに、徹底して欠けていた視点があつた。戦争には必ず敵がいるという現実だ。敵なしの戦いはなく、敵はいつでもどこにでもいるということだ。私は今までに途上国を中心に120カ国近くを旅してきたが、無事に帰ってこられたのは、運がよかったのと、絶えず知らない人や組織に対して、用心と敬意を払っていたからでもあるだろう。敵のいない時代も場もない。その敵にどう対処するかを教えない心情的平和など、まず力を持たないのである。015年8月19日産経新聞 朝刊

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■655
 今年は戦後70年というので、戦争をしのぶ企画がことのほか多くて、私は心理的に少し疲れた。
 世間は、原爆や空襲や引き揚げの体験を語り継ぐ(私のような)年代が次第に少なくなるのを恐れているようである。しかし私は、
初めからあのような体験を語り継ぐのはむりだと思っている。
 人間の本性の中に、恐らく人類が生存する限り続く本質的な残酷さや闘争本能を、本気で若い世代や子供たちに教えたかったら、平和の尊さを語ったり、平和を祈るコンサートをしたりする前に、いい方法はある。それは戦いについて回った単純な体験を、若い世代にさせることだ。

 戦争の時、多くの兵士や国民は、さまざまな目的のためにとにかく歩いた。攻撃目標を達成するためであり、危険から逃れるためであった。彼らは、思い兵器や家財道具を背負って、とにかく何キロ、何十`もの道を歩いた。ザック、ザックとそれこそ一足一足に苦悩を踏みしめて、しかし他に選択の余地がなかったから歩いた。

 同じことを、子供たちにも若者たちにも、体験させることだ。当時は水の確保さえできなかったし、ましてや「糧食」を持っている兵士や避難民は少なかったから、こうした戦争の追体験には、1日くらい全く食べ物なしで行進させたらいいのだ。当時、世界中、舗装道路などというものはごく少なかった。歩きにくい土や砂利の凸凹道を、暑さ寒さと飢えと戦いながら重い荷物を運べば、私たちの世代が死に絶えた後でも、戦いの追体験はできる。

 子供だけでなく、大人の理性で、戦争について回る貧困や食料の不足を知らせたかったら、18歳を過ぎたらアフリカへ送ることだ。観光客目当てのサファリと呼ばれる「野生動物見物」など一切せずに、最貧国と言われる土地の田舎を見せれば、私たちがどれほど恵まれた国家形態によって守られているかが骨身にしみてわかる。

 さらに人間の残酷さを思い知りたかったら、ルワンダの内戦の跡に連れて行けばいい。私がルワンダに行ったのは、内戦から3年後の1997年だったが、100日間に、100万人近くが虐殺されたというフツ族とツチ族の抗争の跡は生々しく残されていた。殺された人たちの遺骨は集められて、半地下式の墓の、押し入れの棚のような場所に並べられていたが、その入り口のカバーをめくった時に立ち上がった強烈な死臭を、私はまだ忘れられない。

それでも私は、殺された人々と「会う」ために地下に入った。このただならぬ臭気は、死者たちの語る言葉であった。人は死んでもまだ語ることがある。

 ルワンダに日本の若者たちを連れて行って、この臭気語を語り続ける死者たちと対面させればいい。そうすれば簡単に「自分は生まれながらの平和主義者だ」などという軽薄な信念も少しは揺らぐだろう。しかし多くの日本人は、アフリカそのものにさえ、マラリアや気候を恐れて行かない。そして、言葉だけで平和主義者となる。

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■644
「戦前と似てきた」論の奇妙・流行表現を受け売りする危うさ 
最近、週刊誌、新聞、テレビなどで、安倍政権批判と結びつけて「最近の日本には、戦前の日本と似た空気を感じる」という表現を度々聞くようになった。

 戦前戦中の日本を、13歳まで知っていた私には、あまり思い当たることがない。昔の日本は、ある意味では健全で貧しく質素で、封建的空気があったから、今の自由な日本は私にとっては全く違う世界だ、ただし当時は、「満州における日本の権益をシナの勢力から守るため」という一種の「国民的目的」は掲げられていたから、元気はあったような気もする。しかしいずれにせよ13歳の娘っ子の記憶などあてにならない。

 つい最近も同じような言葉で、「戦前と似てきた」という72歳の読者の投稿を読んだ。私は自分が83歳にもなる癖して、人間が70歳を過ぎると、かなりの年と思い込む癖がある。

 しかしその日ばかりは、私は少し冷静だった。今年83歳の私が、終戦の時13歳で、軍需工場に動員された「女工」の最年少組だった。当時の日本は、13歳の未成年さえ動員しなければ、終末的戦争に対応できなかったほど追い詰められていたのである。

 しかし、いかに体験からものを言っているように見えるこの72歳は、終戦時2歳だ、開戦前や日本のいやな空気を知っているというからには、それから少なくとも4,5年前を大人として生きていなければならない、そんな年にはこの方はまだ生まれていなかったはずだ。

 現在の安倍政権を批判するのは自由だ。しかし人の眼や言葉を借りてものを言うものではない。こういえ批判には、必ず「流行」表現ができるのである。
 もう何十年もの前のことになるが、日中平和条約が締結される前も、中国は日本にいろいろな形で圧力をかけてきた。日本の産経以外の新聞社やマスコミ、知識人の多くもそれに全く抵抗しなかった。なかには「アゴアシ」つきで招待された中国に何カ月も滞在し、ほめもしなかったが、中国について一切批判しなかった文学者もいた。

 当時中国に行った人たちの多くが好んで使った表現がある。中国にはハエがいない。犯罪もない。毛沢東主席のおかげで、人民は一人残らず幸せに暮らしている。
 何億もの人民が、全員幸せだなどということがあろうはずがないが、日本人は政府の役人から、農協職員、教育者までが、「中国では、子供たちの眼が輝いていた」と報告書に書くのがお決まりだった。

 自分の見聞きしたことだけで文章は書くべきだ、最近の流行りの安倍政権批判を「戦前の空気と似てきた」という言い方で書ける人は、開戦の昭和16年には、最低15歳になっていて当然だろう。それでも戦前のいやな空気を意識したのは10歳を過ぎたばかりということになるから、早熟な秀才だけにできたことになる。

 流行りの表現でものを言うのは、ほんとうは恐ろしいことなのである。新聞の読者も、世論もそういう形で見守る義務がある。

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■648

 推測で他者の「内面」なるものを書く愚

 私は文章を書き始めてこれで60年あまりになるが、昔から今まで一貫して避けてきたことがある。人の心を推測して書くことだ。
 最近ことに気になることは天皇陛下のお言葉を「推測」し俯瞰(ふかん)するマスコミやオンピニオンリーダーがいることだ。陛下のお言葉は実に思いから、めいめいが、自分なりに考えるべきものだろう。
 私は若い時から、噂話が嫌いだった。後で確かめるとたいてい正反対のデタラメというおもしろさはあったが、それは他人の家の中に泥足で入るような無礼と通じる。それで私は誰のことも書かなくなった。亡くなっても、おめでたいことであっても、人物評はも、何も書かない。他人のことを平気で書く人とは、それとなく遠ざかり接触の機会を持たなかった。

 ほんとうは私のことを言ったぐらいどうでもいいのだ。しかし陛下や、他の重責のある人の言葉を、実はああいう意味合いだった、と言うことは、社会に害毒を流す。

 一人の人物像はたとえ家族でも本当は描ききれない。ましてや国語力もあまりなく、テレビゲーム相手に育った記者世代は、人間の真意を見抜く眼力もないから、複雑な人物像など書くのは無理だ。同時に発信側にも責任がある場合も大いにある。ことに私など「書き屋」であっても話す専門家ではないから、多分正確に整理して物事を伝えられていないのだろう。

 私は、ある本の中でびっくりするような事実に出会った。私は40歳くらいの時から、偶然が重なって、海外で働くカトリックの修道女たちの活動を支援するNGOで40年以上働いた。名も知らない方たちから、喜びにつけ悲しみにつけ、貴重なお金を贈られた。

 やがて私は自主的に定年制を決めた。運営委員は最初から完全な無給で、会合費用も私の家で出していたが、長年助けてくれた仲間も80歳になればアタマがぼけるかもしれない。お金を扱う仕事からは手を引こう、というわけだ。15年前から後継者の養成を始め、予定通り代表の移転は行われた。

 最近驚いたには、私が私の後継者に総理夫人の安倍昭恵さんを推していたという話である。私はそれと正反対の「遺書」を若い世代に希望として出していた。

 総理夫人は私の学校の後輩で、早くから社会的な視野のある方だった。私がイスラエルなどの聖地へ旅行する企画を23年間続けていた頃、昭恵さんはボランティアに来てくださった。ご主人が総理になる前で、若々しい方なので、何も知らない同行者から「あなた、大学生?」と聞かれたりした。その後、アフリカやカンボジアのへきちにご一緒した。個人的には私は昭恵さんの性格が好きだ。しかし政治家の一族を、お金を扱う組織の代表にしてはいけない。そんなことをすれば、寄付のお金が政治に流れたのではないかと疑う寄付者も出てくるかもしれないし、それは政治家側にもご迷惑をかけ、私たちの仕事もしにくくなる。昭恵さんを代表者にすることだけはいけない、と私は後継者に言い残した記憶がある。

 推測で他者の「内面」なるものを書くものではない。その人自身の書いたものだけが資料である。

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■651
 どうでもいいことなのだけれど、時々日本人の世間の受け止め方が自分とは違うな、と思うことが多くなった。
 先日来、「明治日本の産業革命遺産」として残ったいくつかの建物が「世界遺産」として登録されるかどうかが決まる前後の騒ぎを、もちろん私はマスコミを通して知るほかになかったのだが、何をそんなに騒ぐのだろう、という感じであった。「軍艦島」として知られる長崎県の端島炭鉱など、私も行ってみたかったが、いまだにその機会がない。この分では、見ないままにそのまま終わりそうな気もするが、私はそれほど残念ではない。人間は必ず思いを残して死ぬものだ、と思っているからだ。

 「世界遺産」に指定されることどういうメリットがあるのかも、私は知らないままだ。どれだけ維持費が出るのか出ないのか、観光客がどれだけ増えて、地元にはどれほどくらいのお金が落ちるのか、は知りたいのだが、きっと私の新聞の読み方がずさんだったのだ。

 この問題では、日本が登録を申請した23の施設のうち、7か所が第2次世界大戦中に朝鮮人を強制労働させて作ったものだということで、韓国が強力に登録を反対し、報道もその話しばかりだった。世界遺産とか歴史的建造物などは、たいていその実現や出現の背景に、負の遺産を持つ。時の王や為政者が、国民や人民のことなど考えず金を使って、後々まで観光名所と残るような贅沢(ぜいたく)な宮殿や寺院を造った例はいくらでもある。

 最近の若者たちは、感動を分かち合うのが好きで、世界遺産委員会の決定の瞬間を見るために、「パブリックビューイング」なるものがあちこちで企画されていたというのである。

 人にその価値を保証してもらわなくても、いいものはいいのである。応援したい人はもちろんすればいいが、常に他者と一緒に感動しようという姿勢が、私には少し気味が悪い。私はいじったことがないが、ネット族が「いいね!」というサインを送られると、それがたちどころに数万、数十万、数百万の味方を得た気分になるのと同じだろう。大切なのは、自分の心の中で物事の経緯を受け止め、一人で判断することである。しかし今はすべてのことの背景に、大衆の認可を得ているという実感か保証が欲しいらしい。

 朝からのテレビでは、ここ数日の暑さに触れて「そもそもこんな気温はなかったんだよ」とコメントテーターが言っていた。
 あってもなくても、その土地の人は、現実に対応して生きてきたのだ。ペルシャ湾岸のあの暑さは日本人の意識の世界にはない。気温が40度ちょっとでも、湿度が70%も80%もあるのだから汗をかいて体温を調節することはできない。そのような過酷(かこく)な土地に、冷房もない時代から、人間は生きてきたのだ。人は人。自分は自分だ。違って当然だ。運命は一人で決定し受け止めるのが原則だ。静かに沈黙のうちに…。
 015/07/16日 産経新聞

小さな親切、大きなお世話
 作家 曽野綾子
「年を取って耳が遠くなると、世界が静かになっていいものよ」という言い方をした人がいて、私はその抑制の利きた表現に打たれたことがあった。普通耳が遠くなると、他人や世間が話していることが聞こえず、自分は会話の外におきざりにされているようで、怒る人も多いのに、その人は静かであった。
 しかし総じてこの頃は、テレビも新聞の表現も、大げさでやかましいものが多い。人をやっつけるのも実証的ではなくて、感情的な決めつけ方をする。

 私たちは修業時代に、よく「花は美しい、と書いたらだめだ」と言われた。それは説明であって、相手に結果を強いることになるからである。描写を尽くして、その結果多分その花は美しいのだろう、と読者に思わせるのが描写なのだ。つまり答えを当人に出させるのが、ほんとうの表現だというのである。
 しかしこの頃のテレビや新聞の多くの論調は、答えを相手に押しつける。この人は右翼、とか、総理は間違っている。という結論を押しつけるのである。新聞やテレビは、個人が気楽に出版したり、電波枠を獲得したりできないものだから、厳しい自制が要る。判断するのは、国民であって、新聞社やテレビ局のすることではない。

 マスコミという媒体の使命は、国民の判断の資料になる事実を豊富に提供することである。
 おかしくもない話にたいして、出演者が自分で笑って見せるのも答えを強いることだろう。「笑い声は売り物にならないんだよ」と誰かが教える人はいないのだろうか。天気を予想するのもいいことだが、傘を持って行けの、気温が下がるから羽織るものがあったほうがいい、などというのは、大人に対する配慮ではない。
 離壇式の段に、何人もの出演者が並んで、笑ったり、同調の声を出したりする役を何というのか私は知らないが、こうした「衆を恃(たの)む」態度は、番組制作者の自信のなさの表れである。テレビの画面に映る色彩の多さに私は時々疲れて、つい日本のテレビを敬遠して外国製の番組を見る。

ある人は赤が好きで、別の人は紫、他の人は黄色を好む。だから色はありったけ全部使っておけば無難という判断なのだろうが、そこでは美的感覚がないことがあらわになる。
 スリラーでは、俳優が叫び声を出すドラマは駄作に決まっている。外国のよくできたドラマは、出演者が叫ばず、おおげさな演技もせず、静かに人生の暗部に導く。ドラマほど、脚本家や演出者の、人生に対する成熟度の違いが出るものはない。

 災害ニュースは、一度見たら覚えるのに、なおも土砂災害、強風波浪に注意せよ、という「警告」を、耳にタコができるほどくり返す。こうなるともう、放送内容の希薄さをごまかしているとしか思えない。日本人は字が読めるのだから、時々視覚障害者のための音声をいれるほかは、徹底して現地の状況を流すのがニュースというものだ。日本はもう少し静かに抑制して己を語る国になってほしい。
 015年7月26日 日曜日 産経新聞

曽野綾子の 透明な歳月の光  ■654
「立ち聞き」に思う 記者の常識は世間の非常識か
 先日、自民党の党内有志の企画として催された「公開されていない勉強会での百田尚樹氏の講演内容」を、立ち聞きしていた新聞記者が、大々的にその内容を記事にした、という。
 もうだいぶ昔のことだが、私も新聞記者の堂々たる立ち聞きの姿を目撃したことがある。昭和59年から始まった臨時教育審議会の時であった。

 この会議は、総理府(当時)の地下にある会議室で行われていて、委員の自由な討議の空気を阻害しないために、非公開とされていたものであった。それでも新聞記者たちは、廊下と会議室の間のドアの、シャッター付の細い部分に、数人が頭を並べ、耳を押し当てて立ち聞きをしていた。

 私は母から「立ち聞きなんかしちゃいけません」と教えられ育った。人間、悪いことと知っていてもすることはよくある。そういう時には、いささか辺りを憚(はばか)るものだ。でも記者たちには堂々と立ち聞きする伝統があったようだった。わずかな隙間を求めて、お団子のように頭を縦に並べていた姿には、びっくりしたのである。

 新聞記者という人種が、世間とは全く違う感覚を持っていると思われる場面には何回か遭遇した。
 カンボジアで自衛隊の工兵部隊がPKOとして出動していた時、私も現場に入ることになった。私は当時土木の勉強会をしていたので、工兵隊は何をしにカンボジア行っているのかを子細に知りたかったのである。指定の期日にプノンペンからソ連製のヘリに乗ったのは、すべて日本の新聞記者やテレビ局の人たちであった。ここでもお互いの身分は大体分かっているのに、名刺を出して挨拶しようとした人は皆無で、皆、お互いを無視していた。

 その数日後、元旦の式に居合わせた記者たちの中には、国歌が歌われている時も、起立しない人がいた。国歌斉唱時にも起立しないのは、外国では問題になる行為だろう。それが反権力、自由の精神の表れのように思う記者が今でもいるのだろうが、私は自衛隊員であろうがなかろうが、一人の父か夫か息子かが、無事に何十年かを勤続したことを無条件で祝福したかったから、起立して拍手した。

 それほど自衛隊が嫌なら、社命に反してでも取材などしに来なければいいのである。自分の仕事に相手を利用だけして、礼儀も尽くさないのは美しくない。
 またある時、私は東京の小さなビルの上にある会議室に行くことになった。小型のエレベーターに乗り合わせたほんの5,6人の人は、すべて同じ目的で同じ階に行くマスコミ関係者らしいということはすぐにわかった。私は狭い空間の中で、誰ともなく小声で「おはようございます」と言ったが、挨拶を返す人は一人もいなかった。
 よく子供には、一番先に毎朝のご挨拶をすることを教える。しかし新聞記者の世界では通用しない常識であったようである。
私はまた、いい勉強をしたのである。
 015年8月5日 産経新聞

菅義偉官房長官は4日の記者会見で、 朝日記者の富永格特別編集委員がツイッターに、ナチス支援者が安倍晋三政権の支持者であるとする内容をツイッターに書き込んだ問題に関し「日本の主要メディアの責任にある人が、事実と異なる内容を英語によって発信することは、海外において日本に対するあらぬ誤解を招きかねない。事実に基づいて発信することが大事だ」と述べた。
 これに関連し、自民党は4日、朝日新聞東京本社に抗議するとともに、「釈明は全く不十分」として富永氏のツイッターでの訂正と謝罪、朝日新聞ホームページでも英語とフランス語による訂正と謝罪を掲載するよう文書で申し入れた。
 015年8月5日 産経新聞