興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男性の多くを招集で奪われ、老人や女性,子どもら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。

うたかたの宝石箱 =満州文化物語=

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紙一重の差だった。生死を分けたのは…・。

「助かった者たちの苦悩」

 時事通信解説委員長、日銀副総裁を務めた藤原作弥(78)はソ連軍(当時)が満州に侵攻してきた昭和20年夏、興安街の国民学校(小学校)3年だった。
 葛根廟(かっこんびょう)事件で、同じ学校に通っていた約270人の児童の多数が亡くなっていたことを知ったのは戦後40年近くが過ぎた40代半ばになってからである。

 「本当に驚きました。私のクラスメートの多くが、ソ連軍によって銃殺刑のように殺されたなんて。爆弾で集団自決したり、親子で殺し合ったり、青酸カリをあおって亡くなった人もいる。8歳だった自分だって、そこに入っていたかもしれない。残留孤児になっていた可能性もあった。そんなことも知らずにおめおめと…」

 ソ連軍が3方面国境を越えたのは8月9日、興安街には13日に、そして、葛根廟事件は14日に起きている。藤原の父親は興安街にあった満州国軍の軍官学校の教官(文官)だった。危うく難を逃れたのは軍関係者として、いち早くソ連侵攻の情報を知り、
10日午後発の列車で興安街を離れることができたからだ。

「自分たちだけが助かった」

その後ろめたさがトラウマになって藤原に重くのし掛かった。犠牲者のほとんどは、藤原一家が住んでいた同じ「東半分地域」の住民だったのである。
興安街には、満州北西部に位置する興安総省の総省公署(役所)が置かれていた。ソ連の侵攻に備えた避難計画を含む「興蒙(こうもう)対策」は総省公署が中心になって作成済みだったが、守ってくれるはずの関東軍(日本軍)は侵入時期を読み誤った上、早々と南へ後退を決めてしまう。共同作戦を行う、満州国軍も助けてはくれない。モンゴル系の将兵はソ連侵攻を知ると、反乱を起こしたり、逃亡したりしたからである。

国際善隣協会常務理事の岡部滋(しげる)75は当時4歳。総省公署の幹部(参事官)だった父親の理(ただし)昭和62年、77歳で死去は混乱の中でモンゴル人の総省長や日本トップの参与官家族を逃す任務を命じられる。
夫がいなくなった岡部の母は、5人の幼子を抱えて自分たちで逃げなければならない。幸いにも後の列車に乗ることができ、夫とも9月になって新京(現中国。長春)で再会したが、母や1歳になっていない末娘は後に病気になってしまう。そして、父も助かった者の苦悩を味わうことになる。

「(4歳だった)私に当時の記憶はほとんどありません。だが、4つ上だった兄や父は戦後、満州のことは一切話さなかった。母は母で、放っておかれた恨み言を父にぶつけていましたが…。父は、満州関係の就職の口を断り、集まりにも出なかった。役所の幹部としての責任を感じていたのだと思いますね」

◇ 関東軍は後退伝えず

関東軍は後退を総省公署幹部にさえ伝えなかった。役所や民間企業、自営業者、さらには近郊の開拓団農民の間でも情報の時間差が生まれ、わずかな遅れが運命を変えてゆく。
葛根廟(かっこんびょう)事件で犠牲になった約1千人のほとん
どは、興安街の東半分の住民で、自営業者や会社員などが多かった。「情報」の入手やトラック・馬車の調達にハンディがあったために、出発が遅れ(11日夜)、移動手段を奪われたために徒歩で逃げるしかない。

 さらに避難計画を変更して葛根廟へ向かったのは、そこで列車を捕まえるためであり、葛根廟にいた日本人ラマ僧らの支援を期待していたからだった。ところが、連絡は錯綜(さくそう)し、わずか1時間前にラマ僧らは葛根廟を離れてしまう。そこへソ連軍の戦車軍団が牙を剥いて襲いかかったのだ。

 さらに悲惨だったのは開拓団の農民(約27万人)であろう。多くが、ソ連国境に近い僻地(へきち)にいた上、情報の伝達も遅れた。“見捨てられた”に等しい人々は自力で逃げるしかなく、ソ連軍や匪賊(ひぞく)に襲われ、あるいは伝染病や集団自決などで約8万人もの人たちが命を落としたのである。

 興安街の近郊5キロにあった「東京荏原(えばら)開拓団」は終戦前の“根こそぎ動員”で成人男性の多くを招集で奪われ、老人や女性,子どもら主体の約800人で逃げる途中に匪賊に襲撃され、大半が死亡した。やはり近郊にあった満州国立農事試験場興安支場の集団では、逃避行中に追い詰められ、幼子約20人を自ら射殺する悲劇も起きている。

 同じ興安街や近郊から逃避しながら、8月中に日本へたどり着けた人がいた一方で、藤原一家のように興安街からは逃げ出せたものの、国境の街に長く閉じ込められた者、シベリアへ抑留されたり、親を亡くして残留孤児になったりした者、そして命を奪われた、おびただしい数の人たち…・。

 ◇のみ込んだ言葉

葛根廟事件の悲劇を知った後、藤原は取材で、まだ存命だった関東軍の元参謀に会う。
 元参謀は「(住民らを置き去りにして関東軍や軍家族は先に逃げた、といった)批判は甘んじて受ける。ただ、軍人は命令に従うしかない」とだけ話した。後退は大本営の方針であり、軍の機密を軽々に伝えることはできなかった。さらには、主力を南方に取られ、もはや戦う力がなかったのだ。と言いたかったかも知れない。

 「それにしても酷いじゃないかっ」。藤原はのどまで出かかった言葉をのみ込んだ。“助かった者の後ろめたさ”が、どうしても消えなかったのだ。
 戦後、藤原は慰霊のために現地を度々訪問し、自分がその立場になっていたかもしれない残留孤児の来日の際にはボランティアを務めている。日銀総裁を打診されたとき「任にあらず」と感じつつ重責を引き受けたのも「生かされた身。お国のためにご奉公をしなければならない」との思いからだった。

 葛根廟事件に代表されるように関東軍の後退は、結果として数え切れない一般住民の悲劇を生んだ。
 だが、すべての部隊がそうだったわけではない。独自の判断で「奇跡の脱出」と呼ばれる在留邦人の救出を成功させた部隊があった。それは次回に書く。
 =敬称略、産経新聞(文化部編集委員 喜多由浩)
 【広告】人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
 結婚は単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人間であり、夫婦が親子関係に近い関係になるといずれ崩壊する場合が少ない。結婚は愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容し飽きがこないよう新たな刺激と興奮の連鎖によるオーガズムが得られるのが望ましい。

うたかたの宝石箱 =満州文化物語= I

◆世界遺産にふさわしい 《葛根廟事件の地獄》

日本人として決して忘れてはならない歴史の事実がある。例えば、先の大戦でソ連(当時)がわが国に対してやったことだ。
昭和20年(1945)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して旧満州、千島・樺太へと侵攻してきたソ連軍は、日本の民間人にたいして殺戮(さつりく)、略奪(りゃくだつ)、レイプの非道極まりない行為を容赦なく繰り返した。

領土的野心を剥きだしにしたソ連軍は8月15日以降もひとり戦闘行為をやめない。ポツダム宣言に背き約60万人の日本人をシベリアに連れ去り、酷寒の地でろくな食事も与えず、重労働を強制し、約6万人を死に至らしめた。人権への配慮などかけらもない所業


「世界遺産」として、人類の記憶にとどめておくのに、これほどふさわしいものはないではないか。
それだけでない。8月22日、樺太から北海道への避難民を満載した小笠原丸など3隻が留萌沖で国籍を秘した潜水艦攻撃を受け、約1700人が犠牲になった。ほとかどが女性や子供、お年寄り、日本の船は民間船であることを明示していた。魚雷攻撃で冷たい海に投げ出され、波間に漂う人達を、あざ笑うように機銃掃射でとどめを刺したのである。

◆何度も死を覚悟 《葛根廟(かっこんびょう)事件の地獄》

満州の北西部を貫く大興安嶺の山脈と広大な草原。満州国時代、モンゴル(蒙古)人が多いこの地域に、興安総省が設けられ、総省公所(役所)がおかれたのが、「興安街(こうあんがい)」(現中国・内モンゴル自治区ウランホト)であった。
終戦時の在留邦人は約4000人(周辺地域を含む)。8月14日、このうち約1千人の民間人が興安の南東約40キロのラマ寺院、葛根廟(かっこんびょう)近くでソ連軍の戦車十数両に蹂躙(じゅうりん)されて虐殺、あるいは絶望しての自決によって亡くなった。助かったのはわずか百数十人。親を殺された30人余りは残留孤児となった。「葛根廟(かっこんびょう)事件」である。

大島満吉(79)はそこで生き地獄を見た。何度「死」を覚悟したか分からない。当時、国民学校(小学校)4年生。両親と兄、弟、妹の6人家族で、興安街から徒歩で南へ向かって非難する途中だった。
14日正午近く、真夏のギラギラとした日差しが照り付けていたのを覚えている。「戦車だつ !」。避難民の隊列の先頭付近にいた満吉は、後方から叫び声を聞く。くもの子散らすように逃げ出した避難民の後ろから、轟音を(ごおん)を響かせて追いかけてくるソ連軍の戦車群が見えた。

「キャー、逃げろ !」ドカーン、ドカーン…・日本人の悲鳴をかき消すように戦車砲が炸裂(さくれつ)する。地鳴りのような無限軌道の音、ダダダッ…・・機銃や自動小銃の発射音が鳴りやまない。母らと一緒に近くの壕(ごう)自然にできた大きな亀裂の中へ飛び込んだ満吉は銃を持った人影を見た。
「日本兵が助けに来てくれたのかと思ったら、ソ連兵だったのです。私の背中のすぐ後ろで、日本人に向けていきなりダダダッと自動小銃を発射しました。ギャーという悲鳴、ブスブスッと銃弾が体に食い込む音…・あっという間に30人ぐらいが殺されました。

◆悲しき最後の晩餐

終戦間際、満州では南方へ転進していた関東軍の兵力を穴埋めするために、一般の多くの成人男子が「根こそぎ動員」で軍隊に招集されていた。葛根廟事件に遭遇したのはほとんどが、女性や子供、お年寄りである。武器はわずかな成人男子が小銃など持っていただけ。その“弱者集団”を戦車が虫ケラのように踏みつぶし、砲や自動小銃で撃ち殺したのだ。

絶望した避難民は、青酸カリをあおつたり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぐ。壕の中には母親と満吉、6歳の弟と2歳の妹…。覚悟を決めた母親は妹の首にいきなり刀を突き立てた。

「ごめんね、母もすぐに逝くからね」。鮮血があふれ、妹は声も出さずに死んでいった。泣きながら小さな顔に頬ずりして、手を合わせた母の姿が忘れられない。
国民学校の校長先生の子どもたちがいた。両親はすでに亡い。1つ年上の長女から声を掛けられた。
「『最後の晩餐(ばんさん)』をしましょう、って。荷物の中にあったそうめんや角砂糖を出してきて一緒に食べました。味なんかしなかった。ああこの世の別れなんだ。『死にたくない』って思いましたけれど…・」

満吉の前に十数人の列ができていた。日本刀を持った在郷軍人に刺し殺してもらうのを順番に待っているのだ。
そのとき、離ればなれになっていた父親と1つ上の兄が突然、壕に姿を見せる。「お前たち、生きていたのか ! 随分、捜したんだぞ。さあ立て、こんなところで死ぬことはない」。父親の大声が響いた。
だが、母は動こうとしない。「あたしは行けないよ。(娘が死んだ)ここに一緒に残るんだ」。父親は母の体を引きずるようにして無理やり立たせた。「終わったことは仕方がない。さあ逃げるんだっ―」

◆生涯消えない記憶

大島一家は、葛根廟から新京(現・中国長春)へと逃れ、妹を除く家族5人が奇跡的に助かった。
だが、極限の状況の中で自分の子を手に掛けねばならなかった母の悲しみは生涯消えることはない。戦後、満吉は9回、現地を再訪したが、生前の母は決してその地を訪れようとしなかった。

「最後の晩餐」をともにした校長先生の長女はその後、病死。4人兄弟のうち、1人だけが、残留孤児となって来日を果たしている。国民学校270人の児童のうち、実に約200人が亡くなった。
同じ興安街の住人、同じ国民学校の児童でありながら、1日遅れ、いやわずか1時間の差で彼らの生死を分けてしまう。

あまりにも残酷な運命を戦後遅くなって知った人もいる。葛根廟事件は、助かった者にも「重い十字架」を背負わせた。それは次回書く。
産経新聞=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)
2015/11/6日

うたかたの宝石箱 =満州文化物語=
◆芥川賞作家と自死した後輩
 《大連の五月は…・こんなに素晴らしいものであったのかと、幼少時代や少年時代には意識しなかったその美しさに、彼はほとんど驚いていた》
 前回、旧制旅順高のくだりで紹介した作家で詩人の清岡卓行(平成18年、83歳で死去)。芥川賞受賞作家『アカシヤの大連』
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(昭和44年下期)には外国からの祖借地を故郷とする矛盾に苦悩しつつも、大連への迸(ほとばし)る郷愁が綴(つづ)られている。

 清岡は大正11(1922)年、日本統治時代の大連に生まれた。父親は満鉄技師。大連一中(旧制)から昭和15年(1940)年に新設された旅順高(旧制・関東州)の一回生として入学するも、わずか3カ月で退学、フランス文学を本格的にやりたくて一高(旧・東京)を受け直す。旧制高校でフランス語を第一外国語とする「文丙(ぶんへい)」

クラスがあった学校は一高など、わずかしかなかった。
 一高から東京帝大仏文科に進んだ清岡は昭和20年春、10万人が一晩で犠牲になった東京大空襲の直後、戦争から逃れるようにして大連へ舞い戻っている。日本近海の制海権は既に米軍に奪われつつあり、危険を賭(と)しての帰郷だったが、大連は拍子抜けするほど戦争の影がなく、食料や酒も豊富な「別天地」。
清岡は実家で昼ごろ起き、散歩や読書、レコード鑑賞三昧の暮らしを送る。

 ◆僕にはもう故郷がない

 終戦の清岡の帰郷には同行者がいた。大連一中― 一高を通じた後輩、原口統三である。満州の奉天(現中国・瀋陽)や大連で少年時代を過ごした原口も、この満州の地に、強い想いを抱き続けていた。
 原口は終戦直前になってひとり東京へ戻る。そして、敗戦を経た昭和21年秋、原口は制服のポケットに石を詰め込み、伊豆の海岸で入水自殺してしまう。
まだ、19歳だった。
 原口の遺稿『二十歳のエチュード』にこんなくだりがある。
《故郷はない。それなのに、僕は己の故郷以外の土地に住めない人間なのだ》

 故郷の先輩であり、同じフランス文学を志(こころざ)す徒として、原口は強い絆(きずな)で結ばれていた清岡は後に『海の瞳<原口統三を求めて>』でこう書いた。
《原口統三の場合、<風土のふるさと(*大連)>は、敗戦によって完全に失われ、しかも、祖国(*日本)の風土にはまだなじむことができていなかった。<言語のふるさと(*日本語という精神)>だけが、自分と密接な関係にあった》
つまり、(租借地という)危うくて満ちた土台の上に愛すべき故郷は存在していたのだ、と。

 だが、これは戦争の後付けの匂いがしないでもない。「満州は日本が中国から奪い取ったものだ」などと言うひとがいるが、戦前・戦中の大連の日本人はそんな意識は毛頭なかったであろう。少なくとも中国人の大多数を占める漢民族にとって満州は、異民族(清をつくつた女真族など)の住む土地でしかなかった。
 大連も、不凍港を欲しがるロシアが19世紀末に目をつけるまでは「青泥窪」(チンニーワ)と呼ばれた寒村にすぎず、日露戦争に勝った日本がそれを引き継いで本格的な都市作りをした「日本人の街」であったからだ。中国人(漢民族)は主として山東省などから後からなだれ込んできたのである。

 ◆敗戦後も残った清岡

 原口の自殺は、今から69年前、昭和21年10月25日深夜から26日未明にかけてのことである。一高生の畏敬(いけい)を集めた“早熟の天才”の自死は同級生にも衝撃を与えた。
 理科の学生だったノーベル物理学賞受賞者。小柴昌俊(89)は東京・上井草球場の応援スタンドにいたという。鮮明な記憶が残っているのは、戦後再開された初の一高―三高(京都)の野球戦と友人の自殺が重なり合ったからである。
 一方で清岡は、かわいがった後輩の死を知るすべもなかった。
大連からの日本人引き揚げが始まるのはこの年(昭和21年)12月からだ。清岡は終戦を挟んで当地で結婚。大連に残りたがった母親らに引きずられるように昭和23年夏まで大連に残ることになる。
 戦後、大連会の会長を務めた園田信行(88)は終戦後の大連の街で清岡と偶然知り合っている。
 「(大連の中心地に近い)西広場に毎日散歩に来る男(清岡)がいて、映画や文字の話をするようになった。(年下の)僕が弟子入りした形かな。清岡さんが東大仏文科の学生とは知らなかったけどね」

 引き上げ後、婦人誌の編集部に入った園田は、清岡さんが芥川賞を受賞したとき、この大連時代の縁で清岡の独占インタビューに成功している。「清岡さんはマスコミ嫌いでね、僕が塀を乗り越えて家へ入っていったら、清岡さんは『なんだお前か』とイヤな顔をしながらインタビューに応じてくれましたよ」。園田は受賞前に亡くなった清岡の愛妻との純愛秘話を書く。大連時代、夫妻の結婚式に立ち会った園田ならではの記事であった。

 敗戦後、大連の日本人の立場は激変した。進駐してきたソ連(当時)軍の統治下、中国の国民党・共産党の主権争いが続き、日本人は「被支配民族」の地位に落とされてしまった。食料も家も満足になく、軍人、警察、官史らはシベリアへ抑留され、ソ連兵による暴力、強奪、レイプの恐怖に脅える毎日が続く。

 こうした中で大連の日本人社会は急速に左傾化してゆく。昭和21年1月にはソ連から認められた唯一の日本人合法組織として「日本人労働組合」が誕生、事実上の日本人会の役割を担う。後の清岡の文章から大連の激変を面白がっているようにさえ見えた。
 《そのときの大連は、日本人たちにとって、いくつかの民族が交差する。ある意味でロマンチックな生活の場であった…・もし、同胞の困窮者への十分な対策などがあったら…・二度と味わえない、面白い体験であると言ってもよかっただろう》(『アカシヤの大連』から)
 戦前・戦中の大連とは異質で奇怪な文化が生まれつつあった。
 015年10月9日
産経新聞=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

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蘇る恐怖の記憶 動けない母娘をメッタ刺しに

 ◆最後の旧制「旅高」
 昭和25(1950)年に廃止された旧制高校は全部で35校しかない。入学できたのは同世代の約1%、総定員が帝国大学のそれとほぼ同じだから、旧制高校に入った時点で、”帝国大学へのチケット”を事実上保証されるエリートだ。

 一高から八高までのナンバースクールから始まり、静岡、松本。大阪など地名を冠した学校、さらには成蹊、甲南などの私立高ら内地(日本)に33校。外地に作られたのは、旅順高(関東州)と台北高(台湾)だけである。

 旅順高は昭和15(1940)年、最後の官立高等学校、外地では2番目として、日露戦争の激戦の地であり、軍港と学術都市の性格を併せ持つ旅順に開校した。通称は「旅高」。ここへ満州。関東州各地から秀才が集まってくる。

 1回生には、寮歌(逍遙)『北帰行』の作者でTBS常務を務めた宇田博や「アカシアの大連」で芥川賞をとった作家、詩人の清岡拓行がいた。宇田は父親が奉天農大の学長で新京にあった満州健国大学予科を経ての入学、清岡は大連一中(旧性)の出身だが、2人はともに旅順高を中途退学して一高(東京)から東大へと進んでいる。
 旅順高が存在したのは、たった6年弱(6回生)でしかない。内地の高校が昭和25年3月まで命脈を保ったのに対して、外地の学校は終戦後しばらくして閉鎖を余儀なくされたからだ。
 ◆恐怖で動くこともできず
 藤田康夫(91)下左=濱口さん右は旧制の撫順(ぶじゅん)高の3回生として入学している。京都帝国大学工学部土木工学科に進み、戦後は河川工学が専門の技術官僚として要職を歴任した。もし日本の敗戦がなければ、満鉄の幹部技術者になった可能性もあっただろう。
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 父親の正一(昭和19年50歳で死去)は満鉄が経営する撫順炭鉱(礦)に勤めていた。自宅では、日露戦争の英雄、東郷平八郎から名前を採った東郷採炭所の社宅、昭和7(1932)年、日本政府が満州国を承認した日を狙って抗日ゲリラ・匪賊の大軍が炭鉱を襲った「楊柏堡(ヤンパイブ)事件」(9月15~16日)が起きたときは撫順(ぶじゅん)・永安小学校の2年生。父親の友七郎が、楊柏堡の診療所の責任者を務めいた濱口光惠(91)=写真=とは、幼稚園、小学校の同級生である。
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 東郷は楊柏堡(ヤンパイブ)事件で激しい戦闘が行われた場所である。銃や槍、太刀、油に火を放って襲撃してくる抗日ゲリラに、炭鉱職員の在郷軍人らでつくる防備隊や自警団は懸命に防戦した。藤田の父親も長男の康夫に「お母さんを頼むぞ」と声をかけて職場に向かう。母と姉と、康夫が残された。

「『ワーワー』と勝ちどきを上げる匪賊の大声が窓越しに聞こえてきた。とっさに母と姉が部屋の畳を窓に立てかけて、防御態勢を取ったのを覚えている。私は恐怖のあまり、腰が抜けてしまったようにずっと動けなかった」

 激戦は早暁まで続く、日本人は民間人5人が死亡。逃げ遅れた姑を嫁が背負って逃げる際に誤って工事中の溝に転落、動けない母娘に2人に匪賊が槍で容赦なくメッタ突きにし、姑が亡くなる(嫁は負傷)という残忍なケースもあった。自警団写真
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 一方、抗日ゲリラ・匪賊側にも死者はでる。「翌朝、社宅の庭に(ゲリラの)死体が横たわっていたのを見た、腰にぶら下げたブリキ缶に油をぬらしたウエスがあり、『あれで放火するつもりだったんだ』と思うと、改めて恐ろしさが蘇ってきた」

 ◆平頂山の負傷者も治療
 福島県の学校法人「東稜学園」理事長を務めた小原満男(90)は、最も奥にある老虎台の社宅にいた。ゲリラ・匪賊はそこへも迫ってくる。消費組合に勤める父親は夜中、銃声に気付くと、防戦のために飛び出していった。
「家に残されたのは母と2人の兄。自宅の地下に掘った場所に隠れていた。夜中にそっと外に出てみると、死体が折り重なっているのが見えたことが忘れられない」

 藤田、濱口、小原も当時、小学生だったが、記憶は驚くほど鮮明だ、それだけ恐ろしく、生々しい体験だったのであろう。惨殺された夫の死体を目の前にして、錯乱状態になった妻の姿もあった。濱口は「一生忘れられない。父が『気をたしかに持って。あなた(妻)しか(夫)確認できないんですよ』と懸命に支えていたそうです」

 翌9月16日、反撃に出た関東軍の独立守備隊は「ゲリラらに通じていた」として平頂山集落の住民ら多数を殺害する(平頂山事件)。だが、濱口の記憶にあるのは、父親が診療所で。満人と呼んでいた集落住民のケガの治療にあたっていた姿である。

 ◆語られ続ける「反日」

 戦後、平頂山事件だけが虚実取り交ぜた反日プロバガンダとして語られ続けている(しかも、日本人の手によってだ)のに、きっかけとなった日本人殺害事件楊柏堡(ヤンパイブ)事件は、今もほとんど知られていないことは前回、(下記記載)書いたとおり。
 しかも戦犯裁判で平頂山事件とは無関係とされる撫順炭鉱の元炭鉱長ら7人が死刑になった。その名誉も回復されていない上、炭鉱労働者に苛酷な労働を強いた挙げ句、無数の死体を穴に捨てたという「万人抗」や「コレラ防疫惨殺事件」など事実無根の話まで拡散され続けている。
 これでは約40年にわたって営々と撫順炭鉱を築き上げた日本人はたまらない。
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写真=撫順炭鉱=
たとえ「作り話」でも、いったん報道されてしまうと、別のメディアに次々と引用され続けられてしまう。
「(事件を体験した)私たちが声を上げて、『真実』を次代へ伝えないといけないですよ」
 80年以上の時を経て、おぞましい記憶の封印を解いた濱口や藤田の想いはまさしくそこにあった。 015年9月25日
産経新聞=隔週掲載、敬称略(文化部編集委員 喜多由浩)

うたかたの宝石箱 =満州文化物語=

撫順炭鉱を襲撃した楊柏堡(ヤンパイブ)事件の真相

 ◇満鉄が作った未来都市

 「世界一の露天掘り」と謳(うた)われた撫順(ぶじゅん)炭鉱(礦)は、日露戦争(1904~05年)の勝利で採掘権を得た日本によって本格的な開発が始まった。良質の撫順炭の埋蔵量は約10億トン、ピーク時(昭和12年)の年間出炭量は約1千万トン。頁岩(けつがん)油、金属、セメントなども生産する一大化学コンビナートであり、経営する満鉄(南満州鉄道)にとって鉄道事業と並ぶ収益の2本柱だった。

 満鉄はこの地に、当時の内地(日本)から見れば”夢のような未来都市”を築いてゆく、都市計画で整備された市街地には広い幹線道路が通り、学校、病院、公園、公会堂、野球場、プール、冬はスケート場ができた。

 社宅街は瀟洒(しょうしゃ)なレンガ造り、炊事はガス、トイレは水洗でタイル張り、電話はダイヤル式の自動電話、特筆すべきなのは画期的なスチーム(蒸気)による「地域暖房」だ。ボイラーから各戸にパイプを張り巡らし、外気が零下10度、20度にもなる真冬でも室内はポカポカ。熱い風呂はいつでも使用可能・・・。東京や大阪の大都市でもこうした生活が一般化するのは、高度成長期以降のことだろう。

 まだ初期の1909(明治42)年に渡満した夏目漱石が『満韓ところどころ』に撫順の街を見て驚きを書き溜めている。
 <洒落た家がほとんど一軒ごとに趣を異にして十軒十色とも云うべき風に変化しているのは驚いた、その中には教会がある。劇場がある、病院がある、学校がある。抗員の邸宅は無論あったが、いずれも東京の山の手へでも持って来て眺めたいものばかり・・・・>

 ◇汚名だけ着せられて

 この近代的な炭都が抗日ゲリラの「標的」となった。今から83年前の昭和7「1932」年9月15日夜から16日未明にかけて未曾有の大事件が起きた。その6か月前に建国された満州国を日本国が承認した日に合わせて「反満抗日」を叫ぶゲリラ、匪賊(ひぞく)らの大軍が撫順炭鉱を襲撃、施設に火を放ち、日本人5人が惨殺された、いわゆる「楊柏堡(ヤンパイブ)事件」である。
 殺されたのは同炭鉱楊柏堡採炭所長ら探鉱職員4人と家族1人の民間人ばかり、炭鉱施設社宅街も大きな被害を受け、一部採炭所操業停止に追い込まれた。

 撫順を守る関東軍の独立守備隊は翌16日、反撃に出る。抗日ゲリラに通じていた、とされる平頂山(へいちょうざん)集落の住民らを殺害した。これがいまなお”反日プロパガンダ”に使われ続けている「平頂山事件」である。
 戦後、平頂山事件を”悪名高い事件”として一般の日本人に知らしめたのは1970年代初めに朝日新聞の本多勝一記者が書いたルポであろう。中国は現場に記念館を造って日本軍の”残虐ぶり”を訴え、生き残りである住民は、日本政府を相手取った賠償請求訴訟を起こした。

 だが、虚実取り混ぜて仰々しく喧伝(けんでん)されてきた平頂山事件に比べて、きっかけになった抗日ゲリラ部隊による撫順炭鉱を襲撃、日本人殺害事件、楊柏堡(ヤンパイブ)事件についてはほとんど語られたことがない。
 これでは公平さを著しく欠くだけでなく、平頂山事件の全容をつかむこともできない。特に先に襲撃を受けた「楊柏堡事件」の被害者や家族にとっては平頂山事件の汚名だけを着せられたまま釈明の機会さえ満足に与えられなかった。

 ◇殺戮、放火、破壊・・・・

 濱口光惠(91)の父、友七郎(昭和35年、69歳で死去)は楊柏堡(ヤンパイブ)事件当時、撫順炭鉱の楊柏堡採炭所にあった診療所の責任者を務めていた(撫順医院看護手)。
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 その夜、光惠は「中秋の名月がきれいに出ていた」と記憶している。採炭所内のクラブで厄年を迎えた男たちの“厄払い”の宴席が開かれていた。やがて夜も更け、各戸に流れて2次会を楽しんでいたころに異変が起きた。
 「皆さん、これは実弾の音ではありませんか・・・。すぐに家に帰ってください」

 友七郎がゲリラの襲撃を知らせる味方の小銃の発砲音に気付く、各戸に張り巡らされたパイプをガンガンと打ち鳴らす「警報」が慌ただしく続いた。もう間違いない。

 そのとき、銃を携帯していたのは友七郎だけ、ほろ酔い加減の男たちは防戦のため、武器を取りに走り、光惠は母親と一緒に避難所である坑道内へと向かう。
「 『ヤー、ヤー』という大声、襲撃を知らせるのろし…外へ出るとあたりは騒然としていました。私たちは、エレベーターやトロッコを乗り継いで、地下深い安全棟の休憩室まで必死で逃げた。残してきた父のことが心配でなりませんでした」

 翌9月16日付、満州日報号外はこう報じている。
<深夜の炭都はたちまちにして物凄(ものすご)い戦闘の巷と化し、炭鉱事務所、社宅は焼き払われた。死傷者多数…泣き叫ぶ男女の様はまさにこの世の修羅場>銃、槍(やり)太刀で武装した抗日ゲリラや匪賊は、殺戮、放火、破壊の限りを尽くす。

 光惠がいた楊柏堡の社宅には80家族、約300人が住んでいた。間一髪で坑道に逃げ込んだが、あと一歩避難が遅れていたら、全滅の危険性があったという。
 翌日、診療所の責任者だった友七郎は犠牲になった炭鉱職員や家族の検視を行っている。
 「非常に惨(むご)い状態で、耳や鼻をそぎ落され、目までくりぬかれていた…顔が分からず、ご本人と特定するのが難しかったと聞きました」
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 撫順の日本人に、やり切れないもいが残った。抗日ゲリラに通じていた、とされる地元住民の多くは炭鉱で働く労働者である。これまで彼らと家族の暮らしを支えてきたのは炭鉱の日本人ではなかったのか、それなのに…・。
 事件の証言者は光惠だけでない。それは次回に書く。
=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩 
015年9月11 産経新聞

うたかたの宝石箱 =満州文化物語= 12
 伝統を守った関東軍部隊 在留邦人奇跡の脱出行
 駐留軍(日本軍)司令部や日本と関係が深い蒙古連合自治政府があった張家(ちょうか)口。そこへ集結していた約4万人の慰留民。(在留邦人)を救うために、駐蒙軍司令長官の根本博中将(昭和41年、74歳で死去)がソ連軍(当時)の武装解除要求をはねつけ、昭和20年8が15日以降も闘い続けた話はよく知られている。

 慰留民は、根本らの懸命の抗戦を「盾」に、まだ友軍「北支軍」がいた北京方面へ脱出する。避難者の中には民俗学者の梅棹(うめさお)忠夫(平成22年、90歳で死去)や少年だった画家、作家の池田満寿夫(同年9年、63歳で死去)らがいた。

 8月9日に満州へ侵攻したソ連軍は、慰留民に対して非道な行為を繰り返し、軍人や警察官、官史らは後にことごとくシベリアへ送られ、抑留されてしまう。もし、根本が正直に武装解除要求に従い、停戦に応じていれば、同様の悲劇が待っていたかもしれない。  今回書くのは、その話ではない。
駐蒙軍の隣、満州国熱河省・興隆にあった関東軍第108師団歩兵第240連隊(通称・満州881部隊)第1大隊(下道部隊)による「奇跡の脱出」行のことだ。

「慰留民を置き去りにしてさっさと後退した」と非難を浴びた関東軍にも勇猛果敢に戦い、民間人の救出に死力を尽くした部隊は少なからずあった。
20年8月31日、ソ連軍と中国共産党軍(八路軍)に挟まれ、豪雨のために孤立していた下道部隊は窮余の策で北京へと向かう。この決断が慰留民約270人の命を救うことになる。

▼慰留民を置いていけない

 8月末、興隆の第1大隊を率いる下道重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は苦悩していた。
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本来、下道部隊が向かうべき連隊本部がある承徳までは約80`。だが、数日来の豪雨で道路や通信手段が寸断され、合流したり、支持を仰ごうにも連絡がつかない。
 承徳にはすでにソ連軍が入ったという。偵察に出していた兵は攻撃に遭い、負傷して戻ってきていた。さらに、大きな問題もあった。興隆にはまだ会社員や自営業者、公務員らと家族約270人の居留民が残っている。ここにもソ連軍が来るのは時間の問題であろう。
 「置いてはいけない」。

下道はソ連侵攻後に連隊長が行った訓示を思い出していた。881部隊は関東軍のルーツである独立守備隊の魂を受け継ぐ部隊であり、本来の任務である「慰留民保護に全力を尽くせ」という内容だった。
 日露戦争に勝利し、関東州(大連、旅順など)や東清鉄道や駅周辺の土地(鉄道付属地)の権利を獲得した日本は満州経営に乗り出す。

 そして、鉄道線と租借地に住む慰留民(日本人)を守るために発足したのが関東軍の前身である。
 それは、関東軍固有の独立守備隊と内地から2年交代で来る駐箚(ちゅうさつ)師団で構成され、881部隊は第9独立守備隊(承徳)の系譜を引く。「関東軍発祥の精神を忘れるな」というのは、そういうことだ。
 「こうなったら慰留民を連れて北京へ(西へ)向かうしかありません」。部下の幹部将校らは死中に活を求めるべく、連隊がある承徳とは反対方向、約120`離れた北京へ抜けることを進言した。

 簡単な道ではない。大隊には終戦で崩壊した満州国軍の日系将校も加わり、軍人が約750人。慰留民と合わせ約1千人の大所帯で年寄りや女性、子供が多く、妊婦もいる。数倍、数十倍の八路軍が待ち構えている危険地帯を隊の前後を武装した軍人が守りながら道なき道を行き、万里の長城を越えるのだ。

 下道はついに決断する。8月31日夜、軍民一体しなった「苦難の脱出行」が始まった。

▼満州に憧れた15歳の少年
戦後、新潟県議を務めた清田三吉(90)は下道部隊で糧秣(かてうまつ)を担当する一等兵であった。清田は“宝石箱”を夢見て満州に渡った少年のひとりである。16年4月、地元・新潟の農林学校を出て、新京の興農合作会社(農協のような組織)へ入る。まだ15歳だった。
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清田三吉さん
「当時は、日本中が『満州へ満州へ』という雰囲気だった。私も満州のでっかい夕日や大地に憧れてね。そこで農業をやってみたい、『満州の土と化さん』という情熱と志に燃えていましたね」。
四平省の農村などに約3年半。19年11月、現地招集で入隊し、1年足らずでソ連の満州侵攻に遭遇したのである。
約1千人の隊列の先頭付近に清田はいた。

「難路が続き、トラックや馬車、ロバなども途中で放棄するしかない。日中は猛烈な暑さになり、日射病のために何人かの幼児が息を引き取った。八路軍との散発的な銃撃戦は依然続いており、裏道を探していくので1日10キロぐらいしか進めなかった」

そして、最大の危機がやってくる。隊列は万里の長城を越し、清朝の歴代皇帝陵近くに差し掛っていた。ソ連軍追撃の危機からようやく逃れられた、という安心感から、2日間の休息をとっていた直後の9月4日、八路軍の軍師が来て、部隊の武装解除を要求したのである。

軍師は、武器を引き渡せば、北京までの安全は保障するという。だが、大隊長の下道は毅然と相手の要求を一蹴した。「武装解除はできない。どうしても通さないというなら、一戦交えることも辞さない」 大きな賭けだった。清田はいう。 

「下道大隊長は八路軍から何万元もの懸賞金を掛けられていたほどの人物。兵隊の数では劣っていても武器(火力)では負けなかったのでしょうね」
凛とした下道の態度に八路軍の軍師はそのまま引き下がったが、一行が出発した直後に攻撃を仕掛けてくる。部隊の2人が銃撃を浴び、戦死を遂げるが、それ以上の追撃はなかった。

9月9日、一行は川の対岸に北支軍が待つ三河へ到着する。
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そこで下道部隊と別行動となった慰留民は12日、無事に北京の日本人女学校校舎へ入ることができた。10日あまりの「奇跡の脱出」行。犠牲者は最小限にとどまった。
下道の決断が慰留民の運命を「天と地」ほど変えたと分かるのは後になってからである。次回、それを書きたい。
=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩 
015年9月11 産経新聞

うたかたの宝石箱 =満州文化物語= 13
昭和20年8月から9月にかけ、約270人の居留民(在邦人)を連れて、満州国・興隆(こうりゅう)から北京へ「奇跡の脱出」行を成功させた関東軍・満州881部隊第1大隊長の下道(げどう)重幸大尉(昭和53年、78歳で死去)は自分の家族を別の場所に残したままだった。

長男の下道重治(78)=戦後、姓の読みを「したみち」に改名=は12年、父の任地であった満州北部のハイラルで生まれている。終戦時には、母と妹と3人で、興隆から約80`離れた連隊本部がある承徳(しょうとく)の官舎にいた。
「(興隆にいた)父はたまに帰ってくるだけで、めったに顔を見なかった。軍人らしく寡黙な人でね。現代風の父子関係とは、まるで違っていました」

20年8月9日にソ連軍(当時)が満州へ侵攻、14日に当番兵が重治らの官舎へ来て、「すぐに荷物をまとめる」よう伝えた。真夏なのに重治は着られるだけ服を重ね着して軍家族ら100人と一緒に列車に乗り奉天駅のホームで若い兵隊が涙を流しているのを見て日本の敗戦を知った。

重治らは一転、南下するが、満州国と朝鮮の国境の街・安東(現中国・丹東)で足止めされてしまう。結局、安東で1年余りを過ごし、日本へ引き揚げてきたのは21年10月である。

◆引き揚げに大きな差

「父の消息はまったくなかった。八路軍(中国共産党軍)から懸賞金を掛けられていたような人で、『もう死んでいるだろう』と諦めていたんです」
ところが、その父親が家族より早く、祖国の土を踏んでいたのだから運命は分からない。

「奇跡の脱出」行を終えた下道部隊は9月9日、三河で約270人の慰留民と別れ、武器を持ったまま北支軍(日本軍)から北京城の警備を命じられる。八路軍と対立する中国国民党軍(重慶軍)の主力が北京に到着するまで代わりに警備を依頼されたのだ。
アメリカの支援を受けた国民党軍の主力が北上し、北京へ着いたのが11月。“守備交代”し、ようやく下道らが武装解除となったのが12月である。

満州に比べて北支からの居留民引き揚げがスムーズに進んだのは、こうして日本軍の武装解除が遅れたためと言っていい。中国内の居留民は日本軍の武器に守られて比較的安全に移動することが出来たからだ。

“お役御免”となった下道部隊の約730人はその年(昭和20年)12月17日、長崎・佐世保に引き揚げる。復員式を行い、隊長の下道は妻の実家がある札幌へ向かう。日本着は満州で苦労を重ねた家族よりも1年近く早かったのだ。

◆平穏だった北京の生活

一方、下道部隊に命を助けられた居留民はどんな道をたどったのか。

 水野喜久夫(79)=写真=は当時、興隆の国民学校(小学校)の3年生。父親は興隆の税関長で、脱出行では、母親と幼い妹も一緒だった。
「(脱出行では)河を渡るのに兵隊さんに肩車してもらったり、最初は遠足気分でしたね。ところが突然、銃声が聞こえて、最後尾の兵隊さんが銃で撃たれたのを覚えています」

 無事、北京へ着いて居留民は20年9月12日に北京の日本人女学校に収容される。水野一家はその後、日系企業の社宅に移った。食事は十分ではないが、配給があり、父親は店番の仕事を見つける。学齢期の児童のためには「青空教室」も開かれたという。
「(北京の)日本人の生活は平穏でしたね。父の仕事で得たお金で、お正月を迎えたときにピーナツを買って食べたことを覚えています。危険な目に遭ったことは一度もなかった」
 水野一家を含めて興隆から脱出した約270人の居留民は昭和21年2月下旬、長崎・佐世保へ引き揚げた。この間、伝染病で約10人の幼児らが命を失う悲劇があり、不自由な生活や略奪などの被害などが、なかったわけではない。

 だが、軍人、警察官、官史などが悉(ことごと)くシベリヤへ抑留され、ソ連軍による民間人への暴虐な行為が続出した満州に比べれば、はるかに状況は良かった。
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 満州からの日本人の集団引き揚げは、北支からのそれがほぼ終わった昭和21年半ばからやっと始まり、ソ連支配下の大連はさらに遅れて21年暮れからスタート。約6万人が死亡し、地獄のような苦難に耐えたシベリア抑留者が祖国の土を踏むのはもっと後である。この間、理不尽な殺戮などによっておびただしい日本人の命が奪われていったのだ。

◆民間人も抑留の犠牲に

881部隊の連隊本部があり、下道部隊が当初向かおうとした承徳も「明暗」を分けた。
下道の家族が奉天へ去った後、ソ連軍が入ったのは8月19日、承徳にはまだ約3千人の居留民が残されていた。日本軍は、ソ連軍との交渉で居留民の「奉天への脱出「を条件に武装解除に応じる。 居留民がトラックで承徳を出た後、ソ連軍は日本軍の拘束を始めた。そして、共同作戦を取っていたモンゴル軍(外蒙軍)への“恩賞”としてモンゴルの首都・ウランバートル近くの収容所などへ抑留させることを認める。

さらには、予定していた人数に足らないことを理由に、一般の民間人までも一緒に抑留してしまう。モンゴル抑留者の総数は1万3千人。残された女性や子供は引き揚げまで満州で苦労を重ねることになった。
下道の長男、重治がいう。「父の部隊(下道部隊)もあのとき、(連隊本部がある)承徳へ戻る決断をしていたら同じ運命をたどっていたでしょう。本当にタッチの差でした」

下道部隊の戦友会は昭和50年代に発足、その後、居留民や家族らが加わり、現在は有志らによって毎年開かれている。
水野が言う。「子供だった私がいろんな事実を知ったのは戦後だいぶたってからでした。(下道部隊には)本当に感謝するほかない。われわれは特別だったんですね」
=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩 
015年12月19 産経新聞

うたかたの宝石箱 =満州文化物語= 14
◆終戦後も闘い続けた17歳の少尉
今から70年前の昭和21年(1946) 年4月。終戦から約8か月が過ぎた旧満州国の首都、新京(現中国・長春)で、17歳の「少尉」西川順芳(のぶよし)87歳=写真=は「新たな戦争」の最前線に立たされていた。

前年の夏、日ソ中立条約を一方的に破って満州へ侵攻してきたソ連軍(当時)は

約60万人の日本人をシベリアへ抑留。日本人が築き上げた財産・設備を奪うだけ奪った後、21年4月に新京から撤退してゆく。

「跡目」を争ったのは中国国民党軍(重慶軍)と共産党軍(八路軍)である。当時の中国を代表しソ連とも条約を結んだのは国民党だ。ところが“裏でつながっている”のは八路軍のほう。しかも、重慶軍の主力はまだ南方にあり、戦うにも兵力が足りない。

そこで、西川に声が掛かった。元満州国陸軍軍官学校(士官学校)7期生。昭和19年12月、16歳になったばかりの西川は神奈川県・湘南中学(旧制)から4修(*旧制中学は本来5年間だが、4年でも上級学校の受験資格があった)で新京の軍官学校へ入り、大望を抱いて満州の大地を踏む。

ところが、わずか8ヵ月で終戦。五族(日、満、漢、鮮、蒙)で構成される軍官学校生徒は反乱や逃亡が相次ぎ、17,18歳の約360人の日系(日本人)生徒のほとんどはシベリアへ抑留されてしまう。
満州に縁者がいた西川ら約40人は軍官学校幹部からシベリア行きの前に「離脱」を認められたものの、新京から出られない。知人宅に身を寄せ一冬越したところへ満系(中国人)の軍官学校同期生が突然、訪ねて来たのである。

◆今さらヨソの戦争に

「お前、7期の西川だろう。一緒に来いっ―」
 西川に重慶から来た国民党の中国人将校のふりをして、小隊を率い、八路軍と戦え、というのだ。
 21年4月、新京の周辺はすでに八路軍が包囲していた。兵力の足りない重慶軍は旧満州軍の元将兵も動員して対抗しようというのである。だが、西川には同期とはいえ、その満系の生徒とは一面識もない。しかも、戦争が終わって既に半年以上たっているのだ。「今さらヨソの戦争になんて加わりたくなかった。だが、元軍人である私が断れば密告されて、どんな目に遭うか…。従うしかない。後は条件闘争だった」

 支度金は1千元(お米半年分)、階級は少尉、60人の部下をつけること…・。重慶軍側は西川の条件をのみ、西川は小隊長格として重慶軍の軍服を着る。軍には、同じように参加した軍官学校の日系の先輩や同期が何人もいた。
 西川が言う。「参加した日本人それぞれ、断れなかったことや支度金に惹かれたこと以外にも理由はいくつかあるでしょう。満州国軍の元同僚(満系)に「義」を感じて参加した。あるいは、その戦いに『日本再興』の夢を見ている人がいたかもしれません。

 ◆最初の冬を越せず

 同じころ、やはり10代の若者であった軍官学校の同期生(7期)の多くはシベリアの収容所、最年少級の抑留者として「地獄」を味わっていた。
 零下40度、50度にも下がる酷悪の地。家畜のエサ並みのひどい食事で重労働に就かされる。事故や栄養失調、劣悪な環境で伝染病が蔓延(まんえん)し、「最初の冬(昭和20〜21年の冬)」を越せずに、次々と同期生の若い命が失われていった。

 軍官学校7期生、小池禮三(れいぞう)88歳は新京でソ連軍によって武装解除され、20年10月、チタ州ブカチャーチャの炭鉱にある収容所へ送られた。18歳。長野・諏訪中学校(同)の出身。同じ所には約250人の同期生が収容されている。

「(満州国軍へ入るとき)一人息子だからオヤジが反対してね。でもあの時(19年12月の入校時)は内地より満州の方が安全だと思われていたんですよ。終戦後、武装解除された列車に乗せられてた後も、てっきり内地に帰してくれるもんだと…・シベリアなど夢にも思わなかった」

 前年の冬に旧制中学などを出て満洲に来たばかりの7期生の体はまだ子供並みのといっていい。さすがにソ連側も石炭を掘る仕事は無理とみたのか、小池ら7期生はほった石炭を有蓋貨車に積み込む仕事を担当させられる。それとてとてもつらい重労働だ。最初の犠牲者が出たのは20年の大晦日。積み込む作業中に足を滑らせた同期生が石炭に埋まるようにして死んでいた。
 ◆母を想い逝った友
 それは「悲劇」の序章にすぎない。その冬、シラミを介在した発疹チフスが大流行する。大人になり切っていない幼い体、粗末な食事に劣悪な環境。高熱を発し、下痢は止まらない。7期生の若者は治療も薬も満足に与えられないまま、バタバタと倒れてゆく。

 「重症者は(別の場所の)野戦病院へ送られたり、収容所内の病棟へ入れられたが、患者が多すぎてほとんどは、ただ寝ているだけ。下痢が止まらなくて便は垂れ流し、高熱が脳症を誘発し、気がおかしくなった者が続出しました。それはもう悲惨な状況でしてね」 
 小池には水戸出身の同期の最期が忘れられない。病床を見舞った小池に彼は、やせ細った体、消え入るような声で問うてきた。「東はどっちだ ? 体を向けてくれないか」
 彼は、口の中で一言だけつぶやいた。
 「おかあさん…・」
 翌朝、小池が再び見舞うと若者はもう冷たくなっていた。同じ18歳。水戸弁が印象的な男だった。どれほど故郷へかえりたかったろうに・・・。
 プカチャーチャの収容所では約250人の同期生のうち実に80人以上の若者たちが亡くなっている。
 一方、新京の最前線にいる西川は連れてこられた「部下」を見て驚く。彼等もまた10代の日本人の若者だったのである。さらには、敵として戦う八路軍の中にも日本人がいた。その話を次回書く。=敬称略、隔週掲載 (文化部編集委員 喜多由浩 
015年12月31日 産経新聞