マスコミ報道のヒステリックさがおさまり、それにひきつれて、明日にでも「戦争がはじまる」という雰囲気が消えつつある。国会前に著名人がやってきて叫んだり、パフォーマンスを行う光景も、ぱったりと消え、労働組合や全学連など幟(のぼり)が林立する中、「戦争法案」「憲法違反」「絶対、廃案」・・・・を叫んでいた国会周辺の喧騒(けんそう)が、すっかり収まったのである。

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高校生でもわかる新安保法制

 新聞に喝!

ようやく「落ちつき」を取り戻した感がある。
安保法制議論のことだ。

マスコミ報道のヒステリックさがおさまり、それにひきつれて、明日にでも「戦争がはじまる」という雰囲気が消えつつある。国会前に著名人がやってきて叫んだり、パフォーマンスを行う光景も、ぱったりと消え、労働組合や全学連など幟(のぼり)が林立する中、「戦争法案」「憲法違反」「絶対、廃案」・・・・を叫んでいた国会周辺の喧騒(けんそう)が、すっかり収まったのである。

それを煽(あお)りに煽った一部のメディアにも、落ちつきが見られ始めた。毎朝の新聞紙面で、そのことを感じる向きは少なくないだろう。私はこれで、やっと「冷静な議論」ができるのではないかと期待している。法が成立してからしか、落ち着いた議論ができないのは、間違いなくこの国の不幸である。

しかし、核ミサイルの脅威が増す北朝鮮や、尖閣を「核心的利益」と表現し、「必要ならば武力で領土を守る準備はできている」とまで広言する中国から、どう「命」と「領土」を守るのか、そして、国際社会の現実を踏まえた「自衛権の行使」の線引きをどこにするのか、という極めて大切な問題について、感情論でなく、冷静な議論が行われることに期待する。

 観念的な報道で大衆を煽り、そういう落ちついた議論の”壁”になった新聞には、大いに反省を促したいと思う。
さて、落ちつきを取り戻した新聞は、さっそく興味深い「差」を見せてくれた。9月30日付紙面で、文部科学省と総務省が公表した高校生向けの「副教材」に関する報道だ。
選挙権年齢が18歳以上に引き下げられ、来年の参議院選挙にも実施されることに対応し、両省は、<個人的な主義主張を述べることは避け、中立かつ公正な立場で生徒を指導することが求められる>という極めて常識的な副教材をつくった。さすがにどの新聞も客観的報道で対応したが、唯一、朝日だけが牙を剥(む)いた。

<「中立とは」教員困惑>

<「現場が萎縮する」「時の政権が中立の基準になる」>
そんな見出しを掲げて、時の政権が中立の基準になる懸念があると指摘し、安保法制反対運動で注目を集めた「SEALDs」を例に出し、<彼らはいま自分の足で立とうとしているのだ。若い世代が現実の問題に出あい、考え、対話しながら答えを探っていく、学校や地域はそれを支えたい。そこから新しい政治のかたちが育つはずだ>
と、主張した。政治的な中立性を求められる教育現場の話から、自分の主義主張に近い政治運動に踏み込む若者への支援の礼賛“らいさん”へと、記事は向かうのである。
新聞に公平中立など求めるつもりもない。しかし、少なくとも、朝日の「角度」のつけ方が、どこか世間の常識から乖離”かいり”
してしまっているのではないか、と心配になる。
 015年10月4日産経新聞 土曜日朝刊
ノンフィクション作家 門田 隆将

戦後70年に思う

安保法制論議で甦る「曲学阿世」
原爆の遺物をみせたり、戦火の犠牲者にインタビューして戦争の悲惨さを語らせる。先日、テレビでコメンテーターが「この語り部たちが戦火を防ぎ、平和を永続させてくれる」というのはあぜんとした。
 私も昭和20年5月25日、東京で大規模な空襲に遭って、妹の手を引きながら、猛火の中を逃げ回った。両親とははぐれて一家はちりぢりとなった。明朝、焼け跡に集まれたのは奇跡だったが、父は顔面を焼いて重症だった。だが私は戦争を語ることのみや、あるいは武装しないことによって平和が保たれるとは思わない。

「平和と全面講和」の虚構

 国会で憲法学者が与党推薦も含めて「集団的自衛権の行使は憲法に抵触する」と語ったというので、安倍晋三首相の支持率が急速に下がった。この様をみながら、私が高校生だったころの吉田茂首相を思い出した。
 当時は米軍占領下で、占領が終われば、各国と講和条約を結んで独立することになる。吉田首相は「米国と単独講和条約を結ぶ」と表明していた。一方で「社会主義のほうがよい国がつくれる」との考え方も多く、学者たちは「中ソとの講和」をしたかったのだが、それでは米国を敵視することになる。そこで米中ソなど全員との「全面講和」を主張した。
 吉田首相の単独講和論に対して、学者の総代ともいえる南原繁東大総長は「全面講和」は国民の何人もが欲するところ。これを論ずるは政治学者の責務である」と食らいついた。昭和25年3月の東大卒業式でも「平和と全面講和」を説いた。
 これに怒った吉田首相は「南原総長などが政治家の領域に立ちいって、かれこれいうことは、曲学阿世の徒にほかならない」と批判した。曲学阿世とは史記に出てくる言葉で、時代におもねる学者のことだ。
 

 訓子詁学に陥った一部の憲法学者

現在、日本は中国の脅威に直面している。中国は米国の太平洋を半分ずつ管理しようとか、米中だけの「新型大国関係」をつくろうと言っているが、半分ずつに分けられたら日本はどちらの側に入るのか、学者の多くが集団的自衛権行使に反対しているのは、かつての「全面講和」論に通底しているのではないか。
 吉田首相は単独講和に踏み切ったが、日本は米国の保護国のような立場だった。これに先立って朝鮮戦争が勃発する。戦力ではないといいながらも警察予備隊を創設せざるを得なかった。岸信介首相は保護国の地位から脱するため、日米安保条約を改定する。
 しかし、創設された自衛隊は所詮、警察体系の行動原理しか与えられない。これを安倍首相は第一次内閣で防衛庁から防衛省に昇格させ、防衛に有効な姿にする目的で安保法制を整備とようという。

 憲法に書いていなくてもどの国も自衛権を持つ。日本の場合の歯止めは9条2項の「国の交戦権は、これを認めない」である。殴られなければ殴ってはいけない。殴られたら防衛することはできる。その防衛のために集団的自衛権がある。日本では長い間、集団的自衛権について「権利はあるが、行使はできない」と解釈してきた。権利があって行使ができない“定義“はどこの国の辞書に載っているのか。
 国連憲章は集団的自衛権を認めている。新安保法制は敵からの攻撃により、「自国の存立を危うくする」なら、必要最小限の武力の行使を集団的自衛権の下で行ってもよいとする。
 一部の憲法学者たちは「訓詁(くんこ)学」をしているがごとくである。訓詁とは漢字の意味を確かめる学者の遊びに陥って、文章をわきまえないことをいう。

 中国の脅威の現実を語れ

 憲法学者に問う。現憲法では「国会は国権の最高機関」だと定めている(41条)。その国会が選んだ首班が内閣を組閣し、指揮をとる。内閣法制局などは行政機関の一部であって、ここに憲法解釈の最高権威を持たせることはあり得ない。
 武器がなければ、戦争は起こらないという信仰は捨てた方がよい。攻める側に「手痛い反撃を食らうかもしれない」と思わせるに勝る抑止力はない。英国のチェンバレン首相は「ヒトラーは戦争をするつもりはない」と相手の意図を見損ない、軍備増強を怠ったため、ヒトラーの増長を招いた。

 日本が米国との戦争に踏み切ったのは、官僚内閣制の大失敗だった。内閣の実権を軍部に取られて戦争回避策がことごとく潰された。現代はその時代とは基本的に異なる。議会で選ばれた首相が自衛隊の最高指揮官だ。軍事についてもっとも国民は理解すべきだ。
 安保法制を理解させようと安倍首相は家屋の火事のたとえ話をしているが、適切でない。中国が軍事費を毎年拡大し脅威が増す一方で、米国が軍事費を減らししている現実を語ったほうが良い。
 評論家 屋山(ややま)太郎 015年8月7日 産経新聞

高校生でも分かる新安保法制

 先日千葉で講演した際、ある読者から伺った話。「来年の参院選で投票するかもしれない高校生の娘から、新安保法制がなぜ必要なのかと聞かれ困っている」。なるほど、確かに説明は難しい。
 各国の安保法制は通常「ネガリスト」、すなわち「やってはいけないことを列挙し、それ以外は適切にやるべし」という構造になっている。ところが、日本では「ポジリスト」、つまり「やれることだけ列挙し、それ以外は禁止する」作りだ。よりシームレスにしようとしまえばこの「ポジリスト」を一層拡大する必要がある。国会答弁が難しくなるのは当然なのだが、これでは高校生に理解できない。お父さんが娘にわかり易く説明するにはどうするのか。

 例えば、法案の必要性に関する筆者の説明はこうだ。冷戦時代の安定期が終わり、過去20年間に東アジアの国際情勢が激変した。1945年以来初めて物理的圧力すら感じ始めた。戦争を起させないためには抑止力の強化がどうしても必要だ。云々(うんぬん)。
 「日曜討論」ならこれでよい。だが、この説明は高校生には分からない。彼らは朝鮮戦争どころかベトナム戦争すら知らないのだ。筆者なら高校生の娘にこう説明する。
 ●ある日突然誰かが君に嫌がらせを始めるとしよう。君には身に覚えのない話だが、相手はストーカーまがい。当然お父さんが、場合によってはお巡りさんが、物理的力を使ってでも君を守る。君に手を出すことが損だと相手に理解させる必要があるからだ。

では、なぜ今かって?
 それは君が傷ついてからではもう手遅れだからだ。国際関係も同じ。悲しいことだが、世界には今も抑止が困難な悪意が存在する。その悪意からの攻撃を回避するには一定の備えと実力が不可欠。今までは空想的平和主義でも良かったが、これからはより現実的な平和主義が必要だ。
 次は集団的自衛権限定行使の是非に関する筆者の説明である。集団的自衛権は国連憲章上加盟国の権利であり、日本国憲法の枠内でも最小限の行使は可能だ。同盟国を守る意思を示すことで同盟の絆が強まり、抑止力も高まる、云々、これに対し、高校生の娘への説明はこうだ。
 ●もしあのストーカーが君だけでなく、君の親友にも嫌がらせを始めたらどうする? 
 お父さんなら可能な限り彼女も守ろうとするだろう。相手は親友の次に君の所にもやってくる可能性が高いからだ。
 新安保法制議論をややこしくしているのが違憲論争である。政府与党は最高裁のいわゆる砂川判決を根拠に新法制は合憲と主張するのだが、これも高校生には分からない。ではどう説明すべきか。
 ●学校で勉強したと思うけど、日本は三権分立の民主国家だ。立法府が作る法律を行政府は執行するが、それが憲法や法律に反するか否かの最終判断は最高裁の仕事だ。例えば、米国最高裁は最近同性婚を合憲と判断した。でも、この判断は従来の男女婚という倫理の延長上にはない。民主国家でこんな判断変更が認められるのは最高裁だけ。憲法学者や官僚にすぎない内閣法制局長にそんな権限はないのだ。
 国会では自衛隊員のリスクが高まるとの議論もあった。自衛隊はリスクを取るプロフェッショナルであり、そのために必要な訓練を行い、装備と情報を持って仕事をする専門集団だが、筆者なら高校生の娘にこう説明するだろう。
 ●巨大火災が発生したら、消防隊員に「これまでより危険だから、出動するな」と言か。逆だろう? 火事が拡大した今こそ消火が必要であり、そのためにプロは日頃から実力を養っておくべきことではないのか。
 娘との対話は続くが、紙面が尽きてしまった。今からでも遅くはない。政府与党は丁寧な説明を続けてほしい。
 立命館大学客員教授 キヤノングローバル戦略研究所主幹  =宮家邦彦=
 つづく ポツダム体制下での現行憲法