天皇晴れ、という言葉がある。昭和天皇が行幸かるときは、不思議と晴れるのだ。地方巡幸で傘が必要だったことはめったにない。1971年(昭和46)年の外遊でも、霧で有名なロンドンに青空が広がった。
 だが、その日は冷たい雨が降っていた。

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終章 永遠の昭和

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用
 昭和50年11月21日、昭和天皇は、靖国神社を参拝した。傘をさして境内を歩き、本殿で拝礼し、戦没者に深い祈りを捧げる。しんと静まる靖国の杜(もり)に、涙のような雨の音が響いていた。

 昭和天皇が、天皇として初めて靖国神社を参拝したのは、即位礼から約半年後の昭和4年4月。以降、例大祭や臨時大祭へ香淳皇后とともに足を運び、戦前の参拝は20回を数える。
 しかし、戦後は状況が一変した。終戦3ヶ月後の20年11月に参拝したものの、翌年の例大祭に勅使を派遣しようとしたところ、連合軍最高司令官総司部(GHQ)に「不適当」とされ、占領期は勅使の派遣もできなかった。

 参拝が復活したのは、主権回復後の27年10月から。ところが、今度は国内から政教分離などの議論が起こる。44年10月の靖国神社創立百年記念大祭で前後7回の参拝を果たした後は、行きたくもいけない状況が続いていた。

 50年11月の参拝は、終戦30周年にあたり、靖国神社からの要請を受けたものだ。昭和天皇は賛否両論の議論に配慮し、私的参拝の形をとったが、それでも左派勢力からの批判は治まらなかった。
 昭和天皇実録が書く。
《この御参拝に対して、日本基督教協議会ほか6団体から宮内庁長官に参拝中止の要望書が提出され、また野党各党からは反対の声明が出された。さらには衆議院議員吉田法晴(日本社会党)から天皇の靖国神社参拝に関する質問主意書が国会に提出されるなど議議を呼んだ。なお靖国神社への御参拝は、この度が最後となった》

 戦没者の追悼には、静謐(せいひつ)な環境が欠かせない。左派勢力からの批判に加え、60年以降は中国、韓国も内政干渉的な声明を出すようになり、天皇として参拝できなくなった経緯が昭和天皇実録からもうかがえる。
 しかも、この問題はのちに、思わぬ形で議論を呼ぶことになる。

 驚異的な経済復興を遂げ、再び大国となった日本

即位して半世紀以上がたつ昭和天皇の重みもますます増していく。その一方、政治利用などの議論も起こるようになった。終章は現代に残された課題を探りつつ、昭和天皇の晩年の姿をふり仰ぐ。

 昭和53〜63年の宮内庁長官、富田朝彦が残したメモを日経新聞がスクープしたのは、平成18年7月20日である。メモには、昭和天皇の晩年(昭和63年)の発言と推察される形で、こう書かれていた。
――私は、或る時に、(靖国神社に)A級が合祀(ごうし)され、その上 松岡洋右、白鳥敏夫までもが、筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と、松平は 平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから、私はあれ以来 参拝していない、それが私の心だ――
 靖国神社に、いわゆるA級戦犯の14人が合祀されたのは、昭和53年10月である。その約12年前、厚生省(当時)がA級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付し、当時宮司だった筑波藤麿は「慎重に対処」して保留したが、53年に宮司となった松平永芳は合祀に踏み切った。永芳は、最後の宮内大臣として昭和天皇の平和意思を支えた松平慶民の長男であり、昭和天皇は「親の心子知らず」として不快感を示した――というのが、メモの内容になる。

 明治2年(1869)年に創建された靖国神社には、国家防衛に殉じた246万人余りの戦没者が祀られている。だが、メモに登場する元外相の松岡洋右と元駐伊大使の白鳥は、国家を危うくする日独伊三国同盟を強引に進めた張本人であり、戦死でも刑死でもなく病死だ。
 靖国本来の趣旨とは異なるとして、昭和天皇が合祀に不愉快抱いたのは確かだろう。

 とはいえ、この2人のために、246万余りの御霊(みたま)が眠る靖国神社に参拝しないというのは、昭和天皇の行動としては考えにくい。実は、合祀にあたり宮中側近らが懸念したのは、それが外部に漏れることだった。昭和天皇も、A級戦犯の合祀そのものより、合祀によって賛否の議論が噴出し、戦没者の追悼に必要な静謐(せいひつ)さが保てなくなったことを嘆いていのではないか。むしろメモの内容からは、昭和天皇が晩年になるのまで靖国の杜を思い、参拝を果たせなかったことへの苦悩や焦燥がうかがえる。

 ところがメモの出現により、合祀そのものが参拝中止の原因とする報道が先行する。日経新聞がスクープした平成18年7月は、その翌月に予定されたていた小泉純一郎首相(当時)の参拝が政治問題化していた時期だ。以後、メモは参拝阻止の格好の材料となり、
「政治利用」されることとなった。

 現在でも毎年8月15日になると、どの閣僚が参拝したか、「公的」か「私的」かが、大きく報道される。追悼に必要な静謐な環境への配慮は、皆無と言っていい。それを昭和天皇は、どう思うことだろう。

 日本国憲法により、政治の表舞台からは遠ざかった昭和天皇だが、官僚らの進講や閣僚らの内奏を受け、晩年になっても国内外の情報に接していた。
 昭和55年1月14日、昭和天皇は《侍従職御用掛天羽民雄(外務省情報局長)より国際情勢についての定例進講をお聴きになる。以後、この年の定例進講は、皇居あるいは那須御用邸において、月に一、二回の割合で計20回行われる。進講内容は、アフガニスタン内戦へのソビエト連邦介入問題、オリンピックモスクワ大会への日本不参加、イラン・イラク戦争などに及ぶ》

 記憶力に優れた昭和天皇の、分析力や直感力は鋭い。アフガン内戦を進講した天羽に、「ソ連は結局(アフガン)を取っしまうハラなんだろう」と話し、その意図を見抜いている。1982(昭和57)年のフォークランド紛争でも、当時の外務省情報文化局長に「(英首相)サッチャーは軍艦をだすかと尋ねる、早くから軍事衝突を予見していた。

 晩年の昭和天皇は、戦争と平和の問題に、より強い関心を抱いていたとされる。立憲君主として、開戦に至る経緯の実情、復興への道のりをつぶさに見てきただけに、この時代の誰よりも先が読めていたのだろう。

 閣僚らの内奏でも、質問という形で、昭和天皇はさまざまな示唆やアドバイスを与えている。例えば昭和45年、日本は核拡散防止条約に調印し、51年に批推したが、荒れる国会審議の奏上のたびに、陛下の『核防条約承認』の御気持ちが高まっているのが伝わってきたので、心苦しく申し訳ないと思っていた。だから、自分が衆議院議長在職中に、なんとしても成し遂げなければと心に誓った」と回想する。

 だが、昭和天皇のアドバイスも、閣僚がうっかり外部に漏らすと、思わぬ波紋を広げている呼ぶことになる。

 48年5月、田中角栄内閣の防衛庁長官、増原恵吉が参内したときのことだ。昭和天皇は言った。
「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪い所は真似せず、良い所を取り入れてしっかりやってほしい」
 増原は、よほど感激したのだろう。記者団に内奏内容を明らかにし、「(防衛関連法案の)審議を前に勇気づけられた」と話してしまった。

 うかつだ。たちまち野党から、「天皇の政治利用だ」とする猛烈な批判の声が上がり、増原は辞任に追い込まれた。騒動を知った昭和天皇は、こう嘆いていたという。
「もうはりぼてにでもならなければ」

 晩年になっても、昭和天皇の趣味は変わらない。
 昭和57年5月16日、昭和天皇は《大相撲五月場所八日目を御覧のため、午後三時四十八分御出門、蔵前国技館に行幸になる。御着後、御休所において、財団法人日本相撲協会理事長春日野清隆(元横綱栃錦)の拝謁をお受けになる。(中略)御観覧席において、春日野理事長の説明により幕内力士土俵入りから弓取り式まで御覧になる》

 戦後は、昭和天皇が初めて蔵前国技館で大相撲を観戦したのは、昭和三十年の五月場所である。戦時下と占領期には、とても観戦できる状況ではなかった。それだけに喜びは大きく、こう詠んでいる。
 久しくも 見ざりし相撲 ひとびとと
 手をたたきつつ 見るがたのしさ
 その後はほぼ年一回、五十五年から年に2回、主に五月場所と九月場所を観戦するのが恒例となった。

 随行した待医の杉村昌雄によれば、昭和天皇は国技館2階の貴賓席につくと、まず取り組表をみる。観戦中は星取表を丹念につけ、「一番一番、お身体をのり出されるようにして観戦なさる」。「小さな力士が、悪戦苦闘の末に、大きな相手を打ち負かしたりすると、ことのほか、お喜びに」―。

 応援する力士もいたようだが、それは側近にも話さない。どこかで漏れて噂になれば、その力士はむろん、相手の力士も意識し、本気の勝負がしにくくなるからだろう。

 ふだんは、テレビで相撲観戦だ。ただしスイッチをつけるのは公務が終わる午後五時の少し前から。国民が働いている間は遠慮していたという。

 相撲以外では、ニュース番組をよく見た。ほかにも自分でチャンネルを回し、さまざまな番組を見ていたようだ。
 50年10月31日に行われた公式会見で、記者が聞いた。「どのような番組を御覧になりますか」―。
 昭和天皇は答える。「放送会社の(視聴率)競争が甚だしいので、いまどういう番組を見ているかということは答えられません」−。
 ユーモアでかわし、会場は笑いに包まれた。
 なお、侍医の杉村によれば、「植物の生態やら、動物の生態やらの番組は、これはもうたいへんお好きで、よくごらんになっていらっしゃる」。
 
 一方。「お色気のシーン」はNGだったとか。「そうしたシーンが出てくると、チャンネルをすぐにお変えになってしまう」−。
 つねに国民とともにありたいと願う昭和天皇だが、性描写などが過激化していく時代の風潮には、付いていけなかったのだろう。

 昭和58年の夏、昭和天皇は、栃木。那須に広がる森を歩いている。たびたび草木に近寄り、手にとって観察する。フリソデヤナギ、ウチョウラン、ホソバノツルリンドウ…。花や葉の状態を声に出して確認し、助手の侍従らが書き留めていく。あとで昭和天皇が自ら記録の整理するためだ。

 うっそうとした森の小道を進み、見通しの良い所に出ると、青空の中に、雄大な那須岳が浮かぶ。遠くに人家や畑も見え、小鳥がさえずる。日本の自然と平和の原風景―。それを昭和天皇は、こよなく愛した。

 ほぼ毎年、夏の一時期を那須御用邸で過ごす昭和天皇が、周辺の植物調査を始めたのは昭和20年代前半からだ。植物学者の本田正次(東大名誉教授)や原寛(東大教授)にも協力し、37年間数多くの種子植物やシダ類などを記録した。「那須の植物」を、47年には「那須の植物誌」を刊行した。その後も調査を続け、60年に「那須の植物誌 続編」を刊行している。
 その序文に、昭和天皇は書く。
「那須の自然は新鮮で生き生きとしている。ここでは動物も植物もその本来の生を営むことができるような環境の中にある。私はこんな自然環境がいつまでも保たれてゆくことを願ってやまない」
 昭和天皇の生物学研究は、素人の域を越えている。専門は変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学。海の生物は葉山御用邸(神奈川県)を拠点に研究と採取を続け、多くの新種を発見した。国内では馴染みの薄い領域だが、海外での評価は高く、昭和天皇は現存する世界最古の科学学会、ロンドン王立協会の会員に選出されている。

 少年時代、昭和天皇は側近に、「植物博士になりたい」

と漏らしたことがある。国民生活が安定した晩年になって、ようやくその夢に、近づくことが出来たと言えるかもしれない。
 昭和50年代後半から60年代にかけての日本は、いわゆる安定成長期だ。政界では57年に中曾根康弘内閣が発足。レーガン大統領と「ロン」「ヤス」の愛称で呼び合うなど、日米の蜜月関係を築く。スポーツ界ではプロ野球の王貞治が現役を引退(55年)。芸能界はシブがき隊(57年歌手デビュー)や少年隊(60年同)など男性アイドルグループの活躍にわいた。一方、豊かであることが当たり前となる中で、いじめや少年非行などの問題も深刻化している。

 60年7月12日、84歳2ヶ月余の昭和天皇は、記録が明確な歴代天皇の中では、最高長寿となった。
 激動の時代を乗り越えた上での、最高寿である。
 だが、その身体に、病魔が忍び寄っていた。    
昭和62年4月21日、86歳の誕生日を前に行われた宮内記者会見との会見で、昭和天皇は言った。
「念願の沖縄訪問が実現することになれば、戦没者の霊を慰め、永年県民が味わった苦労をねぎらいたいと思います。これからは県民が力を合わせて困難を乗り越え、県の発展と県民の幸福のために努めてくれるように励ましたいと思います」

 同年10月に沖縄で開催される国民体育大会秋季大会開会式に、昭和天皇は臨席することになっていた。本土復帰から15年余り、ようやく実現する沖縄訪問に、胸を熱くしていたに違いない。
 だが、会見の8日後、体に異変が起こる。
 4月29日《内閣総理大臣をお招きになり、天皇誕生日宴会の儀を行われる。(中略)宴会の儀は滞りなく進行するも、終盤に至り御気分がすぐれなくなり、嘔吐される》
 当初は、一時的な体調不良とみられていた。侍医の診断を受け、翌日は静養したものの、5月1日からは通常通りの公務に復帰する。しかし、病魔はじわりと、天皇の体を蝕んでいた。
 7月19日《(滞在中の那須御用邸で)植物御調査よりの帰途、御車寄付近において、胸に軽度の不快を感じられ、倒れかかられる》
 8月2日《胸がつかえるような御不快に陥る。9月13日に胃部のエックス線検査を行ったところ、十二指腸にかけて通過障害がある事が分かり、同月22日、宮内庁病院でバイパス手術を受けた。術後の経過は良好だったが、切除した膵臓の組織を病理検査した結果、深刻な状態であることが判明する》

 原発部位不明の悪性腫瘍―

がんだった。
 昭和天皇には告知されなかった。しかし、沖縄訪問は中止せざるを得なかった。昭和天皇は病床で詠んだ。
 思はざる 病となりぬ 沖縄を
 たづねて果さむ つとめありしを
 10月7日に退院した昭和天皇は、健康の回復に努める。沖縄に行きたい、県民を励ましたい―という思いが、心身を支えていたのだろう。
 翌63年8月13日、那須御用邸で静養していた昭和天皇はヘリコプターで帰京し、15日の全国戦没者追悼式に臨席した。この努めだけは、何としても果たしたかったのだ。だが、真夏の公務は、弱っていた体力を一気に消耗させることになる。
 9月19日《御夕餐後、御床にてお休みのところ、午後十時前、大量の吐血をされる―》
 日本列島に、衝撃が走る。
 マスコミ各社の皇室担当者が「異変」を察知したのは、昭和63年9月19日の深夜から翌日20日の未明にかけてだ。19日午後11時すぎ、侍医長の高木顕が妻の運転する車で慌ただしく皇居に入るのを,記者は見逃さなかった。侍従長、女官長、宮内庁総務課長らも相次いで登庁する。20日午前0時ごろには輸血車が皇居の桔梗問をくぐり、同2時20分すぎには、パトカーに先導された皇太子夫妻のお車が半蔵門を走り抜けた。

 各社のデスクが社会部記者に総動員をかける。記者は宮内庁幹部らの自宅にハイヤーを飛ばし、情報をかき集めた。長官の藤森昭一をはじめ多くは「格段の連絡はない」と首を振ったが、その表情やしぐさから、記者は「異変」を探り当てていた。
 20日、新聞各紙に特大の見出しが並ぶ。
「天皇陛下 ご容体急変か」「侍従長、侍医長ら深夜に緊急招集」「吐血、重い黄だん」
「天皇陛下ご重体」と各新聞社が報じる。
 宮内庁が「異変」認め、記者会見したのは20日午前3時である。
「天皇陛下は、昨夜10時前に吐血遊ばされたので、輸血などの緊急治療を行った。(その結果)落ち着かれた状態であらされる」
 抑制された発表だが、内情は深刻だった。19日夜の吐血量は約600ccの輸血が行われ、当初は予断を許さない状況だった。

 列島に衝撃が走ったのは、言うまでもない。街角のテレビに出勤途中のサラリーマンらが群がり、多くの社寺で平癒祈願が行われた。宮内庁が22日、坂下門に一般のお見舞い記帳書を設置したところ、皇居前広場は連日長蛇の列となり、1週間で42万2千人余りが記帳した。

 大量の輸血と点滴により、危険な状態を脱したのは25日である。意識もはっきりした昭和天皇は、記帳所などの様子を聞き、病床で言った。
「皆が心配してくれてありがとう」
 だが、この言葉が伝えられても、国民の動揺はおさまらない。全国各地で秋祭りなどの行事を中止する動きが相次ぎ、自粛ムードが急速に拡大していく。一方で、それを批判する左派勢力もあり、ことに共産党は憲法の主権在民の大原則に反する」などと、激烈な批判キャンペーンを展開した。
 列島を包み込む不安と動揺―。昭和の終わりが、ゆっくりと近づいていた。
 昭和63年秋、吹上御所の2階にある昭和天皇の寝室には、野草で飾られていた。前首相の中曾根康弘が吟味して集め、届けたものである。

 昭和天皇が、侍従に言った。
「ヒカゲノカズラ(シダ植物)がそこにあるね。どこから採ってきたものだろう」
 9月19日の大量吐血から1ヶ月余り、小康状態を保っていたものの、病床からは起き上がれない。鉢植えの野草を見つめる昭和天皇は、那須の森を歩いていた頃を、思い浮かべていたかもしれない。

 旧暦の十三夜にあたる10月23日、侍従が鏡を持ち、窓外の月を映して見せた。
「見えますか」
「見えた。少し欠けているね」
 がんは通常、激しい痛みを伴うが、昭和天皇は不思議と感じなかったという。連日お見舞いに参殿される皇太子や美智子妃、肉親の皇族方にも、親しく声をかけた。だが、断続的に下血があり、徐々に体力は落ちていく。11月11日《この頃より、日中も眠られている時間が長くなる》

12月12日《御衰弱が顕著になる》
 国内では自粛ムードが続き、それを疑問視する報道や、皇室制度を批判する議論も出てきた。12月7日には長崎市長の本島等が「天皇に戦争責任はある」と発言し、市議会が紛糾する騒動も起きている。
 しかし、昭和天皇の心は、静かに平癒を祈る大多数の国民とともにあった。

 年が明けて64年1月5日、昭和天皇は夕方に意識が薄れ

6日に昏睡状態に陥った。
 7日未明容態が急変したとの報を承け、五時四十三分に皇太子・同妃をはじめ皇室御親族一同お見舞いになる。
昭和天皇は、穏やかな表情だった。枕元に皇太子が立たれ、ベッドの周りを皇族方が囲まれる。皇太子妃は、ふとんの下から昭和天皇の足をさすられていた。

 午前6時33分、聴診器を胸に当てた侍医長の高木顕が姿勢を正し、皇太子に向かって深く頭を下げる。皇太子も、無言で頭を下げられた。
 この日、激動の昭和に、静かに幕が下りた。

 ひとすじの雲が那須岳にかかり、ゆっくりと東に流れていく。山麓に延びる緑の森を、高原の夏風が穏やかに揺らす―。
 平成28年7月、記者は、那須御用邸の近くにある丘で、この原稿を書いている。眼前に広がるのは、昭和天皇がこよなく愛した、那須の自然だ。
 昭和天皇の御製(ぎょせい)のうち、最後に発表された和歌が詠まれたのも、ここ那須だった。その和歌の、喜びも悲しみも乗り越えところにある、透き通るような響きに魅せられて、執筆を続けてきた。

 死期を悟っていたかもしれない昭和天皇は、どんな心境で「ふりさけみれば」を詠んだのか―。
 先の大戦を、日本が悪だと一方的に決めつけてしまえば、昭和という時代は理解できないだろう。執筆を終えた今、以前に増して心を打つのは、先人たちへの感謝だ。昭和天皇とともに生きた世代の日本人は、実に偉大だった。世界最強国と戦ってひるまず、戦後はどん底から奇跡の復活を遂げた。その犠牲と努力の上に現在の平和があるのだと、強く思う。

 記者が引用してきた昭和天皇実録の本文(全60巻)は、崩御により皇太子(現上皇陛下)が即位し、天子となられた昭和64年1月7日を持って終わる。また、その後に行われた大喪の礼などが、附載として記されている。
 以下、その附載にそって書き足し、ペンをおくことにしたい。
 大戦の礼が行われた平成元年2月24日は、朝から氷雨が降っていた。その中を、昭和天皇の霊柩(れいきゅう)を乗せた轜車(じしゃ)が皇居前から出門する。海上自衛隊による着剣捧げ銃の敬礼。陸上自衛隊が発する21発の弔砲。新宿御苑まで約6キロの沿道は約20万6千人の国民で埋まり、すすり泣きの声が寒空を震わせた。

 同御苑での葬場殿の儀には、ブッシュ大統領やミッテラン仏大統領ら各国元首をはじめ世界164カ国の代表が参列

文霊柩の置かれた葬場殿に天皇陛下が拝礼し、御誄(おんるい=弔辞)を奏された。
「皇位に在られること六十有余年、ひたすら国民の幸福と世界の平和を祈念され、未曾有の昭和激動の時代を、国民と苦楽を共にしつつ歩まれた御姿は、永く人々の胸に生き続けることと存じます」
 霊柩は、大正天皇陵のある東京・八王子の武蔵野陵墓地に埋葬された。
 崩御すら一年余り、平成二年二月六日、皇居で昭和天皇を偲ぶ歌会が行われ、前年の歌会始で詠まれるはずだった昭和天皇の和歌が発表された。
 空晴れて ふりさけみれば 那須岳は
さやけくそびゆ 高原のうへ
(おわり) 川瀬 弘至執筆 平成28年産経新聞より引用
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