京近郊の蘆溝橋で日中両軍が衝突したときの報告を受けた首相、近衛文麿の第一声は「まさか、陸軍の計画的行動ではなかろうな」だったという。満州事変の二の舞を恐れたのだろう。
だが、事件はまったく偶発的だった。発端となった7日の実弾発砲について日中双方の見解は異なるが、日本軍の夜間練習中、訓練用の空砲に驚いた中国軍の兵士が実弾数発を撃ち、集合ラッパにまた驚いて十数発を撃ったというのが真相ではないか。

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浮気・不倫はとても自己愛的な行動である。自分の快感を追い求め自身の心と体の在り様を知り、何を欲しているのか、何処をどうして欲しいのかをパートナーに互い伝えあって実践できれば満足し合えるようになる

第8章 泥沼の日中戦争

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用
近衛文麿内閣の発足から1ヵ月余り、それは、錯誤と偶然が重なって発火した。1937(昭和12)年7月7日、中国・北京の南西15㌔、永定河にかかる全長267㍍の蘆溝橋が、事件の舞台である。
この橋の北側の荒れ地で、日本の支那駐屯歩兵第1連隊3大隊第8中隊が夜間演習を行っていた。月はなく、星明りで橋の輪郭がかすかに浮かぶ暗夜である。午後10時半に前半の演習が終わり、中隊長の清水節郎が「集合」の伝令を仮設敵の陣地に送ったとき、その方向から軽機関銃の射撃音が聞こえた。
訓練用の空砲だ。清水は、仮設敵が伝令を誤射したのだろうと思ったが、その直後、別の方向から数発の銃声がした。
今度は実弾だ。危険を感じた清水が部下に集合ラッパを吹かせたところ、再び十数発の銃声が響き、頭上で弾丸がヒュンヒュンと風を切った。
部隊を集めて点呼をとると、初年兵が1人いない。実弾が飛んできたのは、中国軍の塹壕(ざんごう)がある永定河の堤防付近からで、中国軍に銃撃されたか、捕虜にされた恐れもある。清水は伝令を駐屯地に走らせ、大隊長の一木清直に急報した。

一木は勇猛果敢で知られる部隊長だ。大隊主力に出動を命じ、自ら現場に急行した。行方不明の初年兵は道に迷っていただけで20分後に帰隊したが、その報告を受けても一木は警戒態勢を緩めなかった。
一木から連絡を受けたのは。第1連隊長の牟田口兼也である。のちに無謀なインパール作戦を強行したことで知られる牟田口は、勇猛というより蛮勇に近い。当初は交渉により不法発砲の責任を追及するつもりだったが、8日午前3時25分、再び中国側から発砲を受けたとの急報を受け、一木に攻撃を許可した。

午前5時、大隊命令が下り、第3大隊主力が中国陣地に向かって前進を開始する。だが、交渉役として現場に到着した連隊付中佐の盛田徹が、直前で攻撃を制止した。やむなく一木は部隊に食事休憩を与え、改めて攻撃の了解を得ようとした。
 そのときだ。第3大隊に向かって中国軍が一斉射撃し、大隊側も応戦、なし崩し的に戦闘が始まった。
時に午前5時30分、蘆溝橋事件である。
 この紛争は、現地軍同士の交渉でいったんは停戦協定が成立する。だが、近衛内閣の拙劣な対応により、泥沼の日中戦争の導火線となってしまうのだ。
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昭和12年7月、北京近郊の蘆溝橋で日中両軍が衝突したときの報告を受けた首相、近衛文麿の第一声は「まさか、陸軍の計画的行動ではなかろうな」だったという。満州事変の二の舞を恐れたのだろう。
だが、事件はまったく偶発的だった。発端となった7日の実弾発砲について日中双方の見解は異なるが、日本軍の夜間練習中、訓練用の空砲に驚いた中国軍の兵士が実弾数発を撃ち、集合ラッパにまた驚いて十数発を撃ったというのが真相ではないか。
両軍部隊が過剰反応する素地はあった。発砲前日の6日、中国第29軍第110旅長の何基澧が現場の将兵に、「もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃しよ」と命じていたからだ。
何基澧は、日本と蒋介石政権の共倒れを画策する中国共産党の影響を受けていたとされる。
一方、日本側で攻撃許可を出した連隊長の牟田口兼也も、前年に両軍兵士がトラブルになったとき、妥協的な措置をとったため、「皇軍の威信が傷ついた」と悔やんでおり、今度は断固として措置を取る決心していた。
もっとも、より上級の支那駐屯軍司令部は不拡大方針で動いていた。中国側との交渉に奔走したのは北平(北京)特務機関長、松井太久郎だ。両軍部隊の戦闘が断続的に続く中、松井は11日夜、停戦協定の調印にこぎ着ける。松井は言った。
「刀を抜いても血を見ずして鞘に収めることが出来れば上乗、動員して戦争せずにすめば結構だ。此の協定を締結した為に害を将来に残すことは絶対にない」
停戦協定が守られていれば、歴史は変わったかもしれない。しかし、現地の足を東京が引っ張った。
内閣書記官の風見章のもとに、陸相の杉山元から電話があったのは協定調印の前日、10日午後9時ごろである。
「現地の兵力が、あまりに手薄である。これでは、その後の経過から見て、安心できない。したがって、ある程度の派兵の必要がある」
支那駐屯軍の兵力は約5800人、対する中国第29軍は約9万5000人。戦闘が本格化すれば駐屯軍はもちろん在住邦人の生命が危ない。杉山は、「(11日の閣議で)至急派兵を決定したい」と訴えた。
風見は驚いた。杉山は9日の閣議でも同じ理由で動員派兵を提案し、海相の米内光政らに反対されて撤回したばかりである。かわりに不拡大方針の堅持を確認し、それは陸軍も認めているはずだ。 だが、このとき陸軍内部では、深刻な路線対立が起きていたのである。 

昭和12年7月7日に蘆溝橋事件が起きた

蘆溝橋事件が起きたとき、参謀本部を主導していたのは作戦部長の石原莞爾である。一方を受けた石原は、作戦課員に訓示した。
「支那と戦端を開くときは長期持久に陥り、日本は泥沼に足を突っ込んだ如く身動きが出来なくなる。戦争は避けなければならぬ」 当時の石原はソ連の動向を危惧していた。陸軍の戦時総兵力は陸上30個師団、航空45個中隊で、ソ連軍に比べ著しく劣っている。対抗するには日本・中国・満州が連携しなければならず、中国と戦争するなどもってのほかと考えていたのである。石原はまた、「今日の支那は昔の支那ではない。(中略)挙国一致の強い力を発揮することができる」ともみていた。
だが、こうした考えは陸軍では少数派だ。多くは中国など一撃を加えれば屈服すると思い込み、拡大論に傾いた。其の筆頭が、石原の直属の部下の作戦課長、武藤章である。石原の訓示を渋面で聞いた武藤は、石原が部屋から出て行くと電話に飛びつき、拡大派の仲間を呼び出し言った。
「面白くなったね、ウン、大へん面白い。大いにやらにゃいかん」*=井本熊男著「支那事変作戦日誌」88~89㌻引用

 以後、参謀本部は路線対立で大混乱する。石原が現地の支那駐屯軍司令部に不拡大方針を電話で指示すると、直後に拡大派の将校が同軍参謀に電話をかけ、強気で行けとハッパをかけるありさまだ。それでも9日までは不拡大方針が通っていたが、10日の参謀本部首脳会議で武藤らが3個師団動員案を提起し、風向きが変わった。ほかの部課長らが賛同したため、石原も渋々ながら同意してしまうのだ。
動員派兵すれば中国を刺激し、かえって事態は悪化するだろう。石原に従う少数の不拡散派将校は11日早朝、外務省東亜局に連絡し、内々に申し入れた。
「今日の閣議で陸相が3個師団動員案を提起する。そいつを外相の反対で葬ってほしい」。
混乱の極みである。東亜局長の石射猪太郎はあきれつつ、外相の広田弘樹に「動員案を食い止めていただきたい。中国側を刺激することは絶対禁物です」と進言した。

ところが、広田は閣議であっさり了承してしまう。陸相が「今すぐの派兵じゃなく万一の時に対する備えである」と説明したのをうのみにしたからだ。首相時代、さんざん陸軍に煮え湯を飲まされてきた広田は、すっかり無気力になっていた。
11日、近衛文麿内閣は内地の3個師団を含む派兵方針を表明する。はたして中国側の態度は硬化した。折しもこの日、現地で停戦協定が調印されたが、それがご破算になってしまうのだ。

蘆溝橋事件の報告を、昭和天皇は滞在先の葉山御用邸(神奈川県葉山町)で受けた。それにより8日前、昭和天皇は内大臣の湯浅倉平を呼び、日中関係の改善のため《先手を打って我が国より支那の希望を容れること、また、北支対策につき御前会議を開いて方針を決定することを御提案》になったと、昭和天皇実録に記されている。

昭和天皇は、日中関係が険悪化したままではいずれ取り返しのつかない事態になると、危惧していたのだろう。不幸にしてそれは、現実のものとなった。
日中両軍の衝突を受けて、昭和天皇は予定を切り上げて皇居にもどり、以後は唯一の趣味としていた生物学御研究所での研究も取りやめ、連日公務に励んだ。

7月14日には待従武官長から現地の支那駐屯軍司令官に、「陛下には今回の北支事変に関し其の拡大を特に御軫念(ごしんねん)」と記した書簡が届き、軍司令官に絶対不拡散の決意を固めさせている。 だが、近衛文麿内閣が11日に表明した派兵方針により、現地解決の芽はすでに摘み取られていた。日本の不拡散方針を欺瞞(ぎまん)とみた蒋介石は13日、第29軍の軍長に「平和解決は不可能、日本との単独交渉に応じるな」と打電し、17日には「断じて一歩も譲歩しない」との声明を発表。それより前に現地の両軍が調印した停戦協定をひっくり返した。近衛内閣と陸軍は、武力行使の姿勢を示せば中国は引くはずだと楽観していたが、まるで逆効果だったのだ。

満州事変時の奉天総領事代理だった森島守人(のちの外務省東亜局長)は述懐する。

「満州事変は出先の関東軍が、中央の不拡散方針を裏切って、(中略)中央を引きずったものであったが、華北事変はこれと正反対に、中央政府が現地の不拡大と局地解決の努力を否認した、政略的出兵に出て、かえって事態を拡大した」
なぜ、首相の近衛は陸軍の動員派兵要求をあっさり了承したのか。しかも近衛は7月11日の夜、わざわざ各界の有力者を首相官邸に集め、派兵方針への協力を自ら積極的に呼びかけている。このときの近衛について、派兵に断固反対だった当時の外務省東亜局長、石射猪太郎がこう振り返る。
「事件がある毎に、政府はいつも後手にまわり、軍部に引き摺(ず)られるのが今までの例だ。いっそ政府自身先手に出る方が、かえって軍をたじろがせ、事件解決上効果的だという首相側近の考えから、まず大風呂敷を広げて気勢を示したのだと言われた。冗談じゃない。野獣に生肉を投じたのだ」
策士策に溺れる―。当てが外れた政府と陸軍は、ますます迷走してしまう。

蘆溝橋事件の解決に向けて、昭和12年7月11日に派兵方針を表明した首相の近衛文麿は其の後、体調を悪化させて寝込んでしまった。派兵表明がかえって解決を遠のかせたことへの、気落ちもあったのだろう。
病床で近衛は、悲壮な決意を固める。不拡大派の参謀本部作戦部長、石原莞爾の進言を受け、自ら南京に乗り込み蒋介石と会談しようとするのだ。近衛は内閣書記官長の風見章に言った。
「私は元来体が弱いので、生きて何時まで奉公できるか判らぬ、今私が南京に飛び蒋介石と直接交渉するのが良いというなら、一命を賭けて直ぐにでも行こう。今こうして病床にあるが、看護婦を一人伴って行けばよい」

ところがこの案に、陸相の杉山元が反対した。やむなく近衛は、外相の広田弘樹を南京に向かわせようとしたが、広田は「さあ、そういうことをやってみても…・」と後ろ向きである。近衛が蒋介石のもとに送ろうとした特使すら、憲兵隊にスパイとみなされ神戸で拘束されてしまった。迷走に次ぐ迷走で、関係機関の統制がまるでとれていなかったのだ。

この間、陸軍内部も揺れに揺れた。参謀本部では不拡大派の石原と拡大派の武藤章(作戦課長)が連日激しい言い争い、「君がやめるか、私がやめるかどっちかだ」という石原の怒声が響いた。
停戦合意に向けた現地の努力もあり、しばらく延長されていた派兵方針だが、振り上げた拳の下ろしどころが見つからない政府は7月20日、ついに内地の3個師団動員を閣議決定する。これに憤慨した外務省東亜局長の石射猪太郎らが外相の広田弘樹に辞表をたたきつける騒動まで起きた。外務省も一枚岩ではなかったのである。

ますます混乱する政府と軍部。だが、「ここで陛下の思し召しが働いた」と、石射が書く。
「二十九日の晩、お召によって伺候した近衛首相に対し、もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか、との御言葉があったというのだ。これが陸軍に伝えられて利いたものと見え、三十一日柴山(兼四郎)軍務課長が来訪し、停戦を中国側から言い出させる工夫はあるまいかと相談を掛けてきた」*=「外交官の一生」27㌻から引用。外務省は以後、在華日本紡績同業会の船津辰一郎を交渉役として全面的国交調整を図る「船津工作」に乗り出すが、上海で起きた海軍中尉殺害事件(大山事件)により頓挫した=*

昭和天皇実録によると、天皇の要望で近衛が参内し、《軍事行動取り止め如何につき御下問》があったのは29日でなく30日である。混乱を見かねて、自ら不拡大の舵を支えようとしたのだろう。
 石射が述懐するように、この「お思し召し」をきっかけに、ようやく政府と軍部の足並みがそろうかに見えた。しかしその頃、通州(北京市通州区)で起きた残虐な事件が、日本を泥沼へと引きずり込む。

蘆溝橋事件を導火線とする日中戦争をめぐり、日本の加害行為がマスコミに取り上げられる事はあっても、その逆はほとんどない。しかし、1937(昭和12年)年7月29日に通州(北京市通州区)で起きた虐殺事件は、泥沼と化した日中戦争の実相を理解するうえでも、忘れてはならないだろう。
その日、同盟通信特派員の安藤利男は通州の日本人旅館「近水楼」にいた。前日からラジオでは、「さかんに支那軍の全面戦争を放送していた」という。現実の戦況は、中国軍が仕掛けては日本軍に反撃され、撤退をすることを繰り返していたのだが、戦意を高めるために虚報を流していたのである。
激しい銃声で飛び起きたのは、午前4時だった。電話に飛びついたが、回線は切られていた。銃声が次第に近づいてくる。多数の暴徒が日本人住居の1軒1軒に押し入り、大虐殺を始めたのだ。安藤はほかの宿泊客らとともに2階の屋根裏に隠れた。
安藤は、惨劇の瞬間は見ていない。ただ、「銃声に交じって身の毛もよだつ叫喚悲鳴」を聞いただけだ。脱出する前、旅館の女中たちの惨殺死体を目にしたが、「そのむごたらしい有り様は今となってこれ以上書くのは忍びない」と手記に残している。
*=安藤利男著「通州の日本人大虐殺」文芸春秋が昭和30年8月臨時増刊号収録より。屋根裏に隠れていた安藤はやがて保安隊にみつかり、処刑場へと引き連れられたが、途中で脱出して無事生還した=*

 通州は、1935年に自治権を獲得した冀東(きとう)防共自治政府が統治していた。

事件を起こしたのは、治安維持を担当する自治政府の保安部隊約2000人である。保安隊は日本軍と協力関係にあったが、一部は中国軍ら通じており、中国軍勝利を伝えるラジオ放送にあおられて反乱を起こしたとされる。*=中村粲(あきら)著「大東亜戦争の道」、東亜同文会編「続対支回顧録<上>より通州事件の2日前に関東軍の誤爆で保安隊員数人が死亡する事件があり、それが反乱の原因となったとする説もある。保安隊は事件後、逃走して中国軍に合流しようとしたが、途中で日本軍の急襲を受けて降伏した=*

保安隊は7月29日未明、不意打ちに日本軍守備隊を攻撃して殲滅(せんめつ)すると、日本人居留民や朝鮮半島出身者を見つけ次第拷問し、惨殺した。のちの東京裁判で目撃者らが証言したところによると、女性は全員強姦され、一部は局部をえぐりとられていた。男性の遺体は首に縄をつけて引き回された跡があり、目をくりぬかれたものもあった。子供も例外でなく、手の指を切断されたり、鼻には針金を通されたりもしていた。虐殺の犠牲になったのは、幼児や妊婦を含む日本人居留民104人、朝鮮半島出身者108人に上る。
*=香月清司記「支那事変回想録記」、「大東亜戦争の道」より。保安隊や犠牲者の数は諸説ある=*

事件が日中戦争に及ぼした影響は計り知れない。現地の状況が徐々に明らかになると、新聞各紙は連日「鬼畜も及ばぬ残虐」(7月31日の東京日日新聞号外)、「幼児を大地に叩きつく」(8月4日の読売新聞)、「恨み深し ! 通州暴虐の全貌」(同日の東京朝日新聞夕刊)― などと報じ、国民は激高した。
以後、日本国内では、暴戻(ぼうれい)な中国をこらしめようという「暴支膺懲(ようちょう)」が国民的スローガンとなり、陸軍の紛争拡大派を支持する声が一気に広まるのである。

蘆溝橋事件をめぐり、日本の政府と軍部が混乱の極みにあったことは既に書いた。一方、中国側はどうだったか、意外にも、中国共産党は事件勃発後、敏速かつ計画的に動いたようだ。
1937(昭和12)年7月7日に日中両軍が衝突した翌日、毛沢東が蒋介石に打電した。
「蒋委員長の高覧を仰ぐ、日本侵略者は蘆溝橋を侵攻し、その武力による華北奪取という既定の段取りを実行に移した。(中略・願わくば)全国総動員を実行して、北平(北京)・天津を防衛し、華北を防衛して失地を回復されんことを」*=日本国際問題中国部会編「中国共産党史料集」8巻437㌻から引用=*

即時開戦を呼びかける内容だ。中国共産党はこのほか、中国全土の新聞社などに向けた檄文(げきぶん)を打電。まるで蘆溝橋事件が起きるのを、予期していたかのような手回しの良さである。
 共産党は、上海で工作活動をしていた周恩来を蒋介石のもとに送り、国共合作による徹底抗戦を強く求めた。同時に、停戦合意の動きを巧妙に妨害する。日中両軍が対峙(たいじ)している現場で毎晩のように謎の銃声が響き、これを合図に戦闘が起きるため日中双方で調べたところ、共産党の指令で学生らが爆竹を鳴らしていたケースもあった*=上村伸一著「日本外交史20巻 日華事変<下>」より、共産党関係者が両軍陣地に銃弾を撃ち込んだとする説もある=*
蔣介石写真
 蔣介石             毛沢東

 蒋介石は共産党との連携に乗り気ではなかったが、戦況が不利になるにつれ、交渉に前向きになった。

すると共産党は態度を変え、人事問題などで要求をエスカレートさせていく。毛沢東は8月1日、周恩来にこう打電した。
「今の蒋は私たちよりも焦っている」
*=鄒燦著「蘆溝橋事件とその後の中国共産党」(中国現代史研究会「現代中国研究」32号収録)より引用。

蘆溝橋事件で蒋介石は、共産党の術中に落ちたといえなくもない。
その頃、日本では昭和天皇が、何とか近衛文麿内閣の不拡大方針を支えようとしていた。8月5日には近衛に《迅速な和平交渉の開始を御希望になり、戦況有利な我が軍より提議すべき旨を仰せ》になったと、昭和天皇実録に記されている。
だが、通州の虐殺事件に激高した国民の戦争熱を抑えるのは容易ではない。政府は15日、「支那軍ノ暴戻(ぼうれい)ヲ膺懲(ようちょう)シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為 今ヤ断平タル措置ヲトルノ己ムナキニ至レリ」という、いわゆる「暴支膺懲声明」を発表。*=防衛研修所戦史室著「戦史叢書(そうしょ) 支那事変陸軍作戦<1>(朝雲新聞社)263㌻から引用。昭和天皇も《このようになっては外交による収拾は難しいとの御言葉》を待従武官に漏らすようになった*=昭和天皇実録24巻108㌻に記されている=*

日本が振り上げた拳を下ろさないように、中国も戦況不利のまま停戦するわけにはいかない。共産党にあおられた蒋介石は、自らに有利な場所で日本軍に一矢報いようと決意する。蒋介石が決戦の地に選んだのは、上海だった。

 「今こそ対日戦争に踏み切るべきだ」

 蒋介石が抱えるドイツ軍事顧問団長、ファルケンハウゼンがこう進言したのは、早くも蘆溝橋事件が起きる1年前、1936(昭和11)年の春頃といわれる
*=阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)より=*
 同じ頃、ナチス・ドイツは日本と防共協定を結んだが、ドイツ国防軍は日露戦争でロシアと組んで以来、伝統的に日本を仮想敵国とみなしていた。
*=田嶋信雄著「ナチズム極東戦略」(講談社)より=*
第一次世界戦で山東省のドイツの租借地を奪われてからはその傾向が強く、国民党政府に顧問団をおくって軍事力の強化に努めていたのだ。

蒋介石は、ファルケンハウゼンの進言を直ぐに入れることはなかったが、将来の決戦に備え、上海近郊の非武装地帯にトーチカ群など堅固な陣地を構築した。いざというとき、ここを拠点に上海駐屯の日本海軍を撃滅し、救援に駆けつける日本陸軍も撃破するという、ドイツ仕込みの作戦である。蘆溝橋事件後、北京周辺での戦況が不利になった蒋介石は、いよいよこの作戦を実行するときだと判断したようだ。
直接のきっかけは、上海で37年8月9日に起きた大山事件である。その日、上海海軍特別陸戦隊第1中隊長の大山勇夫と1等水兵の斎藤興蔵が車で陸戦隊本部に移動中、中国保安部に銃撃され、2人とも死亡した。大山の遺体には無数の機関銃弾があったほか、銃剣などで凌辱されたあとがあり、頭部は2つに割れ、顔面の半分が潰されていたという。
*=中村あきら著「大東亜戦争への道」(輾転社)より=*

中国側は、最初に大山が保安隊員を射殺したので銃撃したと偽り、日本側がさらなる紛争防止のため保安隊の撤退を求めても、かえって保安隊を進出させ、12日以降は完全武装の正規兵を続々と派遣。上海は、たちまち一触即発の状態となった。
上海地域の在留邦人を保護するのは、海軍第3艦隊の担当だ。それより前、日本政府は揚子江沿岸の邦人の引き上げを決定。上海在住の婦女子2万人を帰国させたが、まだ1万人が租界に残っている。
中国軍が乱入すれば、通州のような残虐事件が再び起きることだろう。
12日夜、上海確保の大海令(軍令部総長が天皇の裁可を受け、指揮官に対して発する命令)が発せられた。
「第三艦隊司令長官ハ現任務ノ外 上海ヲ確保シ同方面ニ於ケル帝国臣民ヲ保護スベシ」*=「中国方面海軍作戦<1>」315㌻
 このとき、上海周辺に集結した中国軍は第87,88,36師団で、背後には第15、118師団などがひかえ、総兵力は15万人に達した。
対する海軍陸戦隊は5千人弱。初年兵にいたるまで、全員が死を覚悟したに違いない。
戦端を開いたのは中国軍だ。時に13日午後4時54分。海軍陸戦隊の壮絶な防衛戦が始まった。

昭和12年8月13日、上海―。戦いの火ぶたは、日暮れに近い午後4時54分に切られた

日本人街のある虹口地区の北、八字橋付近に埋設された地雷が爆発したのを合図に、中国軍第88師の部隊約2000人が攻め込んできたのだ。上海海軍特別陸戦隊司令官、大川内伝七の命令が飛ぶ。
「全軍戦闘配置につけ」
鼓膜に突き刺さる銃声、砲声―。息もできないほどの硝煙、爆煙―。敵の第88師はドイツ軍事顧問団の訓練を受け、ドイツ製の武器を手にした精鋭中の精鋭だ。「一挙ニ海軍陸戦隊ヲ潰滅(かいめつ)セントスル作戦指導振リハ洵(まこと)ニ猛烈執拗ニシテ我ヲシテ応接ニ遑(いとま)ナカラシメ、我ガ租界第一線ノ如キモ再三ノ危殆(きたい)ニ陥リタリ」と、軍令部編集の「大東亜戦争海軍戦史」が書く。この日の八字橋付近の激戦は5時間以上にわたり、陸戦隊は午後11時、ようやく敵を撃退した。

翌14日午前3時、新たな中国軍が北部の陸戦隊陣地を襲う。左翼の小隊が包囲され、陣地を突破されそうになったが、駆けつけた増援部隊が奮戦、死力を尽くして守り通した。
北部地区を突破できない中国軍は、攻撃の重点を共同租界の東部に移す。とくに17日午前8時からの攻撃は熾烈(しれつ)を極め、一部が租界内に侵入し、東部地区の陸戦隊は窮地に陥った。激戦16時間。戦況不利と見た中隊長の菊田三郎が敵部隊の真っただ中に切り込む。「中隊長を死なすな」と下士官兵が続く。壮絶な白兵戦だ、手榴(しゅりゅう)弾が飛び交い、被我(ひが)の肉片が散った。何とか中国軍を押し戻したが、菊田は戦死した。

東京では、戦端が開かれた13日に陸軍部隊の派兵を急遽(きゅうきょ)決定したが、どんなに急いでも上海に上陸するのは23日以降だ。現地で最高指揮権をもつ第3艦隊司令官長、長谷川清が軍令部に打電する。
「本十六日ノ激戦ニ依リ陸戦隊ハ可成リノ損害ヲ蒙リタリ。士気ハ依然旺盛ニシテ死力ヲ尽シテ戦線ノ維持ニ努メアルモ敵ノ兵力集中情況ニ鑑ミ、(中略)後六日間ノ維持ハ極メテ困難ナリ…」*=「大東亜戦争海軍史 本紀巻1」から引用

 陸戦隊を救ったのは、鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊だ。鹿屋空は台湾の台北基地から、木更津空は長崎の大村基地から、当時は世界でも異例の渡洋爆撃を敢行。悪天候などで多くの犠牲を出しながらも南京などの飛行場爆撃に成功し、制空権を握った。
 在留邦人が不眠不休で陸戦隊を支援したことも忘れてはなるまい。男は土嚢(どのう)づくりを、最後まで残った婦女800人は炊き出しなどに従事した。
 23日未明、待ちに待った陸軍の救援部隊が上海の外港、呉淞に上陸した。陸戦隊は上海を守り切ったのだ。陸軍部隊は大苦戦を強いられる。

昭和12年7月の蘆溝橋事件を導火線とする日中戦争は、8月の第2次上海事変で発火した。両軍が激突した2日後の8月15日、蒋介石は中国全土に総動員を発令。自ら陸海空軍の総司令に就任し、戦時体制を整えた。同じ日、近衛文麿内閣はいわゆる「暴支膺懲(ようちょう)声明」を発表。宣戦布告こそしなかったものの、「今ヤ断乎タル措置ヲトルノ己ムナキニイタレリ」と決意を示す。*=防衛研修所戦史著「戦史叢書(そうしょ) 支那事変陸軍作戦<1>」(朝雲新聞社)より。政府は昭和12年9月2日、それまで「北支事変」と限定的にとらえていた日中間の紛争を「支那事変」と改称した=*

それからちょうど8年後、20年8月15日まで、泥沼の戦争が続くのである。
昭和天皇は憂えた。8月18日、軍令部総長に《事変の支那全土への拡大を危惧され、事態の早期収拾のため、北支又は上海のいずれか一方に作戦の主力を注いで打撃を与えた上、(中略)和平条件を提出することの可否につき御下問になる。また、政府にも事変の早期収拾の要を伝達すべき旨を御下命》になったと、昭和天皇実録24巻114㌻に記されている。

香淳皇后も心を痛めた。

8月17日《予て皇后は、今回の北支事変により、軍人・軍属にして傷痍を受けた者、失眼又は、四肢切断の者に対し、繃帯(ほうたい)・義眼。義肢を下賜される旨の御沙汰を下され、炎暑中連日繃帯巻きの作業に勤しまれる》天皇実録24巻113㌻に記されている。
宮中の願いは、戦争回避にあったのだ。
海軍陸戦隊の危機を受け、14日の緊急閣議で動員が決まった上海派遣軍の軍司令官を務めるのは、元軍事参議官の松井石根(いわね)だ、すでに現役を退いていたが、陸軍きっての中国通である。出征にあたり、17日に参内した松井は昭和天皇に誓った。
「密接にわが海軍と協同し、所在のわが官憲、特に列国外交団ならびに列国軍との連携を密にし、すみやかに上海付近の治安を回復することを期します」 *=「戦史叢書(そうしょ) 大本営陸軍部<1>」(朝雲新聞社)より

23日未明、上海郊外に上陸した派遣軍は直ちに橋頭堡(きょうとうほ)を確保し、前進を開始した。だが、待ち構える中国軍の防御は堅く、戦死傷者が続出。松井は大苦戦を強いられる。
派遣軍の進撃を阻んだのは、上海近郊に縦横に広がる水路と、それを巧妙に利用して築かれた中国軍陣地だ。ドイツ軍事顧問団の指導を受け、無数のトーチカ群などに立てこもる精鋭部隊が日本軍将兵を狙い撃ちにする。さらに生水を飲んだ兵士からコレラが蔓延(まんえん)し、戦力を著しく弱めた。
上陸から2か月余り、11月に入っても上海の在留邦人と海軍陸戦隊を救出することができない。
松井の日記に、「焦燥ノ念ニ禁セス」「攻撃思フ様ニ進捗(しんちょく)セス」の文字が並んだ。

上海派遣軍司令官、松井石根に与えられた兵力は、四国の第11師団と名古屋の第3師団を基幹とする、計2万人余りだ。約15万人に及ぶ中国軍を相手にするには、あまりに不十分といえるだろう。
兵力を出し渋ったのは、参謀本部作戦部長の石原莞爾(かんじ)である。全面戦争を恐れた石原は上海に派兵することすら反対した。派遣軍の苦戦を受け、さらに3個師団を増派するが、やってはいけない兵力の逐次投入といえる。不拡大方針を貫けなかった石原は上海戦の最中、昭和12年9月27日に関東軍参謀副長に左遷され、そこでも参謀長の東条英機と衝突して罷免。昭和陸軍史の表舞台から姿を消した。

中国軍をみくびっていたという側面もある。それまで、北京周辺の中国第29軍は威勢よく先制攻撃するものの、日本軍に反撃されるとすぐに退却した。だが、ドイツ軍事顧問団の指導と訓練をうけた第88師をはじめとする上海周辺の中国軍は、日本軍が攻め込んでも容易に崩れず、何度も何度も反撃してきた。
上海近郊に縦横に広がる水路が、両軍将校の鮮血でみるみる赤く染まる。
共同租界の東方、公大飛行場を奪取しようとした第18連隊の支隊は、猛烈な反撃を受けて4人の中隊長のうち3人が戦死。支隊長の飯田七郎も銃弾を受け、軍刀を引き抜いたまま絶命した。

第6連隊は上陸後、20日間で連隊全体の3割に達する戦死538人、戦傷583人の犠牲を出しながら、1日平均わずか100㍍しか前進できなかった。
9月5日に上陸した第34連隊の輜重(しちょう)兵が日記に書く。「砲弾、小銃弾は前後左右、ところ嫌わず落ちたり、この分にては、とうてい一週間は命亡きものと覚悟す」
9月15日に戦死した第12連隊の中隊長が部下に言い残す。「いまの支那兵は匪賊とは違う。強い。お前らは死ぬなよ、最後まで死ぬなよ」*=阿羅健一著「日中戦争はドイツが仕組んだ」(小学館)より=

中国軍は兵力を続々と投入し、75万人の大兵力となった。以後、11月上旬まで続く上海戦で日本軍の損害は戦死9115人、戦傷3万1257人、計4万372人に達する。
*=防衛研修所戦史室著」「戦史 叢書(そうしょ)支那事変陸軍戦<1>」(朝雲新聞社)より=
これは、日清戦争における日本軍の戦死・戦傷・病死計1万7282人の2倍以上だ。まれにみる苦戦といえよう。
戦況を変えたのは、石原のいなくなった参謀本部が決断した第10軍(3個師団余)の投入である。11月5日、第10軍が上海南方の金山衛に上陸し、上海の空に「日軍百万上陸」のアドバルーンが揚がると、中国軍が乱れ、一斉に退却し始めたのだ。*=早坂隆著「松井石根と南京事件の真実」(文芸春秋)より、「百万上陸」は実際の10倍以上に誇張された宣伝だが、中国将兵に動揺を与え、その効果は大きかったとされる=* 

 11月9日、ついに日本軍は上海を完全に制圧した。だが、戦争は終わらず、南京への道に続くのである。
「崩れるような敗退で、数日間で精鋭を喪失(そうしつ)し、軍規も大きく乱れた。もし敵が大場を占領した際に、計画的に撤退したら、数十万の大軍が総崩れとなることは避けられたはずだ」

1937(昭和12)年11月5日、日本の第10軍が上海南方に上陸し、それまで奮闘していた中国軍が一斉に退却した時のことを、中国側の将軍の一人がこう振り返る。
上海で日本軍を食い止め、長期戦に持ち込んで外国の介入を招こうとした蒋介石の戦略は、崩壊したといえるだろう。上海の後方には堅固な防御陣地があり、そこを拠点に持久戦を続けることができたが、退却に転じた中国軍将兵の制御はきかず、あっさり放棄して逃走した。蒋介石は日記に、「前後を忘れて、段取りなしに、雪崩を打って敗走するなんて、悲しい極まりだ」とつづっている *=揚天石著「1937、中国軍対日作戦の第1年」(波多野澄雄ら編「日中戦争の国際共同研究2 日中戦争の軍事的展開」<慶應義塾大学出版会>収録)から引用=*。

 一方、自軍の制御が利かなかったのは、日本側も同じだ。石原莞爾が去った陸軍では参謀次長の多田駿が不拡大の中心となり、戦闘を上海周辺にとどめようとしたが、ほぼ無傷で上陸した第10軍は独断で南京への迫撃を開始。陸軍中央が定めた上海と南京の中間にある政令線を勝手に越えてしまった。軍司令部の柳川平助は、首都南京を一気に攻略して蒋介石の戦意を挫こうとしたのである*=早坂隆著「松井石根と南京事件の真実」(文芸春秋)より。

 第10軍は中支那方面軍に編入され、上海派遣軍の松井石根が方面軍司令官となった

しかし、松井も多田も手綱を引けなかった。 日本軍の進撃に、中国側はパニック状態に陥った。蒋介石は11月13日、重慶への遍都を決断したものの、そう簡単には南京を明け渡したくない。固守か放棄か―。中国軍の意見は割れた。 軍幹部の大半は、守りにくい南京を固守することに反対だった。これに対し上将の唐生智が「死守すべきだ」と主張する。蒋は唐を南京衛戉(えいじゅ)司令官に任命し、3か月以上は守り通すように指示した。11月19日の事とされる。*=「1937、中国軍対日作戦の第1年」より。なお、重慶への遍都が正式決定するのは11月17日である=*

 迫撃戦に移った日本軍が、急速に南京に迫る。早くも12月8日には南京城外に達し、9日には総攻撃態勢を整えた。その直前、蒋は唐に首都防衛の指揮を託し、7日に南京を脱出する。このとき、南京を守る中国軍は約7万人。司令官の唐は、日本軍の降伏勧告を拒否し、絶対死守の姿勢を示した。
 ところが、いざ攻防戦がはじまると驚くべきことが起きる。激戦中の12日夜、唐は突如として全軍撤退を命じ、幕僚を連れていち早く逃げ出してしまうのだ。司令官自らの敵前逃亡ともいえる行為が、現在まで論争の続く大問題を引き起こす。
南京市外図
中国4大古都のひとつ、南京―。その歴史は古く、紀元前8世紀~同5世紀の春秋時代にさかのぼる。由緒ある街並みは、明の時代に築かれた全長約34キロもの城壁に囲まれ、北西に雄大な揚子江が流れている。
1937(昭和12)年12月7日、この世界最大級の城塞都市を攻めるにあたり、中支那方面軍司令官の松井石根(いわね)は厳命した。
「皇軍カ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ(中略)正々堂々将来ノ規範タルヘキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」
「掠奪(りゃくだつ)行為ヲナシ又不注意ト雖(いえども) 火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス 軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵、補助憲兵ヲ入城セシメ不法行為ヲ摘発セシム」 *=防衛研修戦史室著「戦史叢書(そうしょ) 支那事変陸軍作戦<1>(朝雲新聞社)427~428㌻から引用=*
日本軍
日本軍は9日、上空から降伏勧告のビラを散布、解答期間を過ぎても返答がなかったことから、10日午後、総攻撃を開始する。無数の砲弾が城壁を突き刺さり、轟音(ごうおん)が南京全市を揺るがした。 守る中国軍は文字通り「必死」だ。敵前逃亡を防ぐために督戦隊も配備された。勝手に退却する兵士を射殺する特別部隊である。トーチカの床や機関銃に足を鎖で繋がれた兵士もおり、その機関銃が、城門に近づく日本軍将校をなぎ倒す。
同日、第9師団(金沢)の決死隊が東南の光華門に突入。一番乗りの日章旗を掲げたが、猛攻撃に遭ってくぎづけになった。11日、第16師団(京都)が東の中山門を見下ろす高地を占領するも逆襲され、手榴(しゅりゅ)弾が尽きて石まで投げ合った。12日、第6師団(熊本)などが南の中華門に突撃し、激戦の末ついに攻略した。
入城写真
中国軍のトップ、南京衛戉(えいじゅ)司令官の唐生智が突如として全軍撤退を命じたのは、いよいよ城内での市街戦が始まろうかというとき、12日の夜である。
「各隊各個に包囲を突破し、脱出せよ」唐は、その命令が行き届かないうちに幕僚を連れて南京城から脱出し、ひそかに揚子江を渡った。

司令官が逃げた―。それを知った中国軍将兵の混乱は計り知れない

たちまち前線陣地は放棄され、算を乱して逃走する。揚子江に近い挹江(ゆうこう)門に殺到した将兵を、撤退命令を知らない督戦隊が猛射した。それでも将兵が狭い門に群がったため、多数の圧死者が出たとされる。また、数千人以上が軍服を脱ぎ捨て、在留欧米人が設定した安全区に潜り込んだ。
一方、予想外の事態に日本軍も狼狽(ろうばい)した。南京が陥落した13日以降、投降兵が続々と出現したからだ。陸軍中央も各軍上層部も、統制を失った捕虜が大量に出ることを想定していなかった。その結果、捕虜の処置は現場部隊に丸投げされ、悲劇を生むことになる。
司令官自らの敵前逃亡で中国軍が総崩れとなり、南京が陥落した1937(昭和12)年12月13日の翌日、南京城の北方、幕府山の砲台を占領した第103旅団長の山田栴二(せんじ)は驚いた。大量の中国軍将兵らが白旗を掲げて投降してきたからだ。その数、およそ1万4000人。山田は日記に書く。
「斯ク多クテハ殺スモ生カスモ困ツタモノナリ」
山田の部隊は約2200人。投降兵らはその6倍以上だ。上級司令部に連絡すると「皆殺セトノコトナリ」である。山田はますます困惑した。
山田だけではない。南京城外の戦闘地域では13日以降、各地で投降兵が続々と現れ、部隊長を悩ませた。攪乱目的の偽装投降兵が紛れ込んでいる恐れもあり、処置を誤まれば自軍が危機に陥る。陸軍中央や中支那方面軍からの指示はなく、投降兵の処置は事実上、現場指揮官の裁量に委ねられた。

別の地域で第66連隊は、投降した1600人余りを処断(銃殺)した。第38連隊は、約7200人を収容所に入れた。第45連隊は、約5500人を武装解除の上、全員解放した。*=防衛研修所戦史室著「戦争叢書(そうしょ) 支那事変陸軍作戦<1>(朝雲新聞社)より。山田の処置や死者数などについては諸説ある=*

山田はどうしたか ―。公刊戦史によれば、「皆殺セ」の指示には従わなかったようだ。まず非戦闘員とみられる約6000人を収容所に入れた。だが、収容所の火災で半数が逃亡する。やむなく山田は残り約4000人を揚子江の対岸に逃がそうとしたが、移動中に投降兵らがパニック状態となり、危険を感じた日本兵が機関銃を乱射、約1000人が死亡し、残りは逃亡した。

いわゆる「南京大虐殺」論争は、こうした投降兵らを捕虜とみなせば、銃殺は戦時国際法違反だからだ。

*=虐殺の存在肯定派は投降兵らを捕虜とみなし、否定派、当時は戦闘中であり投降受け入れを拒否できるので、捕虜ではないとしている=*

南京城内では、軍服を脱ぎ捨てて安全区に潜り込んだ更衣兵の摘発が問題となった。治安を早急に回復したい日本軍は、青壮年の男を次々に連行、更衣兵とみなせば銃殺した。その鑑別方法は⓵靴擦れがあるか ②面タコがあるか ③目付きが鋭いか ―など相当いいかげんで、一般市民が多数犠牲になった可能性は否めない。

南京が陥落後に処断された中国軍将兵らの数は、約1万6000人に上るとされる。*=「南京戦史」より。処断数については諸説ある。なお、更衣兵の処断は合法だが、裁判など厳正な識別を行わない処断は違法であるとの説も有力である=*

悲劇の責任は、日中両軍の首脳にあったといえるだろう。陥落直前まで中国軍は勇敢に戦っていた。南京衛戉(えいじゅ)司令官 の唐生智が最後まで軍を統率していれば、無秩序な敗残兵や更衣兵を出さずに済んだはずだ。
一方で中支那方面司令官の松井石根は、一般市民の保護を厳命しながら、投降兵らの処置については方針を示さず、現場を混乱させた。松井と日本軍にはこのあと、まるで身に覚えのない疑惑が降りかかる。

「(日本の)兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、(南京の)全市内を歩き回り、殺人、強姦、略奪(りゃくだつ)、放火を行った。そこには、なんの規律もなかつた。(中略)多数の婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の1ヵ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した」
昭和23年11月に言い渡された東京裁判の判決で、いわゆる「南京大虐殺」はこう断罪された。日本兵により「殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万人以上」と認定している*=毎日新聞社発行「東京裁判判決」260~261㌻から引用。

被告席に座る元中支那方面軍司令官、松井石根(いわね)は仰天したことだろう。
 結論から言えば、この判決はでっち上げと言える。12年12月の南京攻略時、松井が「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」と厳命したのは既に書いた通りだ。一般市民のいる安全区内に日本兵が立ち入ることは厳しく制限され、許可がなければ部隊長でも入れなかった*=東中野修道著「再現 南京戦」(草思社)より=*

なお、南京安全区国際委員会の委員長だったジョン・ラーベは12月17日の日記に、「昨晩は千人も暴行されたという。(中略)いまや耳にするのは強姦につぐ強姦」と書く。だが、日本兵には夜間外出禁止令が出ており、その時間帯に安全区にいたのは統制を失った中国軍の敗残兵、もしくは更衣兵だ。
 ラーベは「局部に竹をつっこまれた女の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる」とも書く*=ジョン・ラーベ著「南京の真実」(講談社)139~254㌻から引用=*

同年7月の通州事件で中国人保安隊は同様の残虐行為をしたが、日本人にはとてもまねのできない行為だろう。

 ラーベは、一般市民への虐殺現場を一件も見ていない。ほかの在留欧米人も、南京で取材する多数の日本人記者も、誰も見ていない。すべて中国人からの伝聞である。もっとも、日本軍の不法行為が皆無だったともいえない。すでに書いたように、更衣兵の摘発と処刑には数々の問題もあった。それが在留欧米人の目に「虐殺」と映ったのも事実だろう。

 いずれによせ、南京占領後に伝聞と誇張に基づく「大虐殺」が独り歩きし、ニューヨーク・タイムズをはじめ海外紙が書き立てたことで、軍司令官の松井は窮地に立たされた。外務省と陸軍中央は軍紀が乱れていると判断し、松井は13年2月に職務を解任される。
 松井は、無念の唇をかんだことであろう。陸軍きっての日中親善論者であったことは疑いない。在任中、口を酸っぱくして軍紀の厳正をとなえ、中国人を見下すような風潮を戒めていた*=中支那方面軍の参謀副官だった武藤章は松井について「心底からの日支親善論者であった。作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重された」と書き残している。=*

何よりやり切れないのは、南京占領で終わると思っていた戦争が、終わらなかったことだ。その責任は松井にではなく、首相の近衛文麿にあった。

第2次上海事変で日中両軍が激突した昭和12年8月以降、首相の近衛文麿は不拡大の意志を持ちながら、中国側との交渉の糸口さえつかめないでいた。
統師権があるため陸海軍の作戦に全く関与できず、その内容も知らされていなかったからだ。華北でも戦火が拡大し、陸軍はズルズルと派兵を繰り返した。近衛は手記に、「(派兵しても)その兵が何処に行くのか、その後一体どうするのかは、少しも政府には判らぬ始末」だったと書き残している。政府がこんな状態では、交渉のしようがないだろう。

戦争状態を終結させるには、政府と軍部の意志疎通が欠かせない、そこで近衛が考えたのは、大本営の設置である。大本営は戦時に設置される天皇直属の最高統師機関だ。正式な構成員は参謀本部と軍司令部の首脳たちだが、かつて伊藤博文が首相の立場で列席した前例がある。近衛は、大本営を設置した上で自ら構成員に加わろうとした。

第2次上海事変が終わりに近づいた頃、内閣書記官長の風見章が陸海軍の意向をただしてみた。海相の米内光政は、「陸軍がいいというなら、海軍は賛成しようじゃないか」と言った。陸相の杉山元は、「ウム・・そりゃよかろう」だった。ところが数日後、杉山が「陸軍のほうには異議がないのだが、海軍が反対しているのでは困る」と言い出した。驚いた風見が米内にただすと、「冗談じゃない、陸軍の方が反対しているんだ」と言う
*=風見章著「近衛内閣」(日本出版共同)より=*

この非常時に、またしても混乱である。大本営の設置は、立ち消えになりかけた。
そのとき、風見に知恵をつけたのは同盟通信社社長の岩永裕吉である。
「陸海軍とも、近衛に辞められたら困ると思っている。辞める辞めると言って、ひとつ、おどしてやれ」
はたして、その効果はてきめんだった。風見がそれとなく、首相が辞めそうだとマスコミなどに流したところ、陸海軍が折れ、「首相を大本営の構成員にするのは統師上許されないが、内閣と大本営の連絡会議をつくるから、それでがまんしてほしい」と、妥協案を持ち出してきたのである*=風見章著「近衛内閣」(日本出版共同)より=*

当時は日中双方とも宣戦布告をしておらず、本来なら大本営は設置できない。しかし昭和天皇は12年11月17日、従来の戦時大本営条例を廃止し、大本営政府連絡会議の設置を裁可した。この連絡会議のもとで進められたのが、駐華ドイツ大使、オスカー・トラウトマンを仲介とするトラウトマン和平工作だ。ところが近衛は、この工作をめぐり大失敗を犯してしまう。

日中戦争の初期、ドイツは微妙な位置にいた。日本と防共協定を結ぶ一方で、中国とは経済提携を強め、軍事顧問団を送り込んでいる

いわば二重外交だが、双方に顔が利いたといえるだろう。
駐日ドイツ大使のディルクセンと、外相の広田弘樹が会談したのは昭和12年11月2日、上海が陥落する直前である。広田は、「ドイツが中国に和平を促すなら歓迎する」とした上で、和平条件として ⓵内蒙古に自治政府を設立する ②華北は一定の条件のもと中国に行政権を委ねる ③上海の非武装地帯の拡大 ④排日政策の中止 ⑤共同防共政策の推進― などを示した。
ディルクセンは、直ちにドイツ本国に報告した。
「これらの条件は極めて穏健なものであり、その受諾は、南京(蒋介石政権)にとって面子(メンツ)を失うことなしに可能であるから、これらの条件を受諾するように南京に圧力を行使することが賢明である」

ドイツ本国からの指示を受け、中国側の説得に当たったのは駐華大使のトラウトマンだ。親中派のトラウトマンは、中国に一定影響力を持っている。だが、蒋介石は11月5日、和平協定を一蹴した。「日本側が現状を蘆溝橋事件前に戻す用意がない限り、いかなる要求も受け入れられない」 *=三宅正樹著「トラウトマン工作の性格と史料」(日本国際政治学会「日中戦争と国際的対応」収録)より

このとき蒋介石は、国際連盟の主導で始まった九カ国条約会議(日米英仏中など九カ国が第一次世界大戦後、中国の門戸開放・機会均等・主権尊重などを定めた条約、日中戦争を受け、1937年11月にベルギーのブリュッセルで締結国が会議を開いたが、成果を出せずに事実上無効化した)に期待していた。会議で日本の軍事行動が条約違反とされ、日本に対する経済制裁などを引き出すことができれば、情勢は一変するだろう。しかし、会議は実質的成果を上げるこができず、11月15日に閉会してしまう。

蒋介石は頭を抱えた。和平交渉を拒んでいるうちに上海が陥落し、南京も風前の灯火である。

12月2日、蒋介石は軍幹部を招集し、日本の和平条件を示して意見を聞いた。
最高幹部の一人、白崇禧が言う。「これだけの条件だとすれば、なんのために戦争しているのか」
徐永昌もうなずく。「ただこれだけの条件ならば、これに応ずるべし」
同日、蒋介石はトラウトマンに会い、「ドイツの仲介を受け入れる用意がある」と伝えた。
あとは日本側の決断が必要だ。だが、ここで近衛文麿内閣が第一の失敗を犯す。12月13日に南京が陥落したことを受け、和平条件を一気に引き上げてしまうのだ。華北の特殊地域化を要求したり、賠償請求を追加したりと、中国の面子を潰すような内容である。
12月23日、新たな条件を伝えられた駐日大使のディルクセンは、外相の広田に言った。「これらの条件を中国政府が受諾することは、ありえないだろう」 *=「トラウトマン工作の性格と史料」より。

駐華ドイツ大使らによるトラウトマン工作で、近衛文麿内閣が和平交渉の条件を引き上げる背景には、加熱した国民世論がある。昭和12年8月の第2次上海事変以来、日本軍の戦死傷者は10万人以上に上り、巨額の戦費がつぎ込まれていた。12月の南京陥落で国民が戦勝気分に酔う中、賠償請求などを追加しないわけにはいかないと考えたのだ。

とはいえ、中国側に譲歩の余地のない条件を出しても意味がない。12月14日に新たな条件が決められたとき、内閣書記官の風見章が関係閣僚に、「この条件で和平の見込みがあるだろうか」と聞いてみた。
米内光政海相「和平成立の公算はゼロだと思う」
広田弘樹外相「まあ、三、四割は見込みがありはせぬか」
杉山元陸相「四、五割は大丈夫だろう。いや五、六割は見込みがある」*=風見章著「近衛内閣」(日本出版共同)より

はたして中国は、トラウトマンから新条件を示されて沈黙した。日本側は翌年1月6日を期限とし、回答を待ったが、うんともすんとも言ってこない。ただ、何もしなかったわけではなかった。実はこの時、中国は新条件をソ連に内通し、アドバイスを受けていたのだ。スターリンは12月31日、こう打電した。
「盧溝橋事件以前の状態に戻すという条件でなければ応じるべきでない。仲介したドイツの意図は日本を休ませることにあり、日本は休戦してもすぐにそれを反故(ほご)にする」
蒋介石は、戦争継続に傾いたようだ。一方、親日派の汪兆銘らは和平を主張した。汪の自叙伝によれば、最高国防会議で協議した結果、「トラウトマン大使の和平提議を受諾することに決定した」という*=安藤徳器編訳「汪精衛(兆銘)自叙伝」”大日本雄弁会講談社)181㌻から引用。

蒋介石が同意したかどうかは不明だが、少なくとも中国内部の意見は割れていたといえるだろう。もしも日本側が粘り強く交渉を続けていたら、妥協点を見いだせた可能性もある。
しかし、近衛は粘らなかった。このまま蒋介石政権が和平を求めてこないなら、親日的な新政権の成立を助長し、それと交渉して戦争を終わらせようとしたのである。
近衛内閣はこの方針を、御前会議で確定させようとする。新たな要求が加えられたとはいえ、和平条件は全般的に中国の主張を認めていた。それを天皇お墨付きの、不動の国家方針にしたかったのだ。
重要な国家方針を御前会議で決めることは、かねて昭和天皇も望んでいたことだ。13年1月11日、昭和になって初の御前会議が開かれた。

昭和13年11月(午後二時、(昭和天皇は)御学問所において開催の支那事変処理に関する御前会議に臨まれる、《中略・御前会議には首相、外相、蔵相、内相、陸海両相、両総長、両次長、枢密院議長が出席し)支那事変処理根本方針を審議・可決する。ここに、国民政府の対応如何によっては事変解決を同政府に期待せず、新興支那政権の成立を助長するとした根本政策が決定する》*=「昭和天皇実録」25巻7㌻から引用=*

この根本方針は、「満州国及び支那と提携して東洋平和の枢軸(すうじく)を形成しこれを核心として世界の平和に貢献する」ことを真っ先に掲げていた。中国に対し、⓵満州国の承認 ②排日・反満政策の放棄 ③華北に共存共栄を実現する機構の設立 ④防共政策の確立 ⑤所要の賠償―などを求めたが、⓵以外は妥協の余地がある。 ③も中国の主権を認め、 ⑤の賠償額も設定せず、譲歩の余地を残しておいた *=「広田弘樹」(葦書房)より=*
 交渉次第で、和平成立の可能性はまだあったといえるだろう。
 御前会議で昭和天皇は発言しなかった。前日に首相の近衛文麿が《御発言のないことを願う旨の言上》をしたからだ。昭和天皇は、和平に向けた近衛の決意を信じるしかなかった。
 ところが、近衛は御前会議後、致命的な判断ミスを犯す。1月14日に中国がドイツを通じ、「日本側の条件は漠然としているので具体的に明示してほしい」と紹介してきたとき、誠意がみられないとして、蒋介石政権の交渉打ち切りを閣議決定してしまうのだ。驚いたのは、参謀次長の多田駿である。多田も、蒋介石政権の対応次第では「期待せず…」と決めた御前会議に出席したが、その3日後に交渉を打ち切るとは思ってもみなかった。陸軍の戦争遂行能力は限界点を超えており、当面の戦争相手である蒋介石と、可能な限り平和努力を続けなければならない *=参謀本部は日中戦争が始まる前、中国に展開できる兵力は最大で11個師団と考えていたが、すでに限界を上回る13個師団を投入しており、13年1月時点で日本に残る常設師団は北海道の第7師団と近衛師団しかなかった=*

 翌15日の大本営政府連絡会議で、多田は懸命に交渉継続を訴えた。それを外相の広田弘樹が突き放す。「中国側に和平解決の誠意がないことは明です。参謀次長は外務大臣を信用できませんか」海相の米内光政も多田に冷たかった。

 翌16日、近衛は声明を発表した。

《「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手(相手)トセス、帝国ト真ニ提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ、是ト両国国交ヲ調整シテ更生新支那ノ建設ニ協力セントス」》
 事実上の国交断絶といえよう。近衛はこの声明で、戦争相手との交渉窓口を自ら閉ざしてしまったのだ。
 
「この声明は、識者に指摘されるまでもなく、非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」
 昭和13年1月16日に発表した、「帝国政府は以後国民政府を相手(対手)にとせず」とする声明(第1次近衛声明)について、首相の近衛文麿は手記にこう書いている。「相手せず」より厳しい。戦争相手である蒋介石政権との、絶交宣言ともいえる声明で、和平の道は遠のいた。

 近衛は昭和天皇に、「最初は左程(さほど)強い意味はなかりしも議会の関係に於いて非常に堅苦しいきものとなれる」と弁明している。
 昭和天皇の苦悩と落胆も大きかった。心労からか風邪をこじらせ、2月上旬には寝込んでしまっている。謁見した外相の広田弘毅が、「いかにも憔悴しておられる。まことに見上げるのもお気の毒なやろうな御様子であった」と漏らしたほどだ」
  待従の岡部長章も述懐する。
「(日中戦争が長引いて)陛下はお考え込みになる場合が多くなりました。片方のお靴には拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式のものをお用いなるといこともあり、(中略)お悩みのご心中が拝察されるのでした」

 閣僚や軍上層部も、昭和天皇の健康を憂慮した
 2月15日《御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁(え)を賜(たま)う。その際、閣員の総意として御静養のため葉山御用邸へ行幸を願う旨の奏上を受けられる。(中略)午後2時3分、軍司令部総長博恭(ひろやす)王に謁を賜い、同様の奏上を受けられる》
 昭和天皇の心を占めているのは、参謀長に言った。
「自分がこの際僅かな病気で転地するやうなことがあつては、第一線にゐる将士に対してどういふ影響があるか、大丈夫か」
 参謀長が即座に答える。
「無論大丈夫でございます。玉体にお障りになるようなことがあれば、なほのこと士気に関しますから・・・・」
 2月19日、昭和天皇は香淳皇后とともに神奈川の葉山御用邸に行幸し、3月5日まで滞在した。その間、久々に生物学の研究に取り組んだが、泥沼化した戦争の不安が頭から離れることはなかっただろう。
 一方、帝国議会ではその頃、近衛内閣が提出した国家総動員法案をめぐり、激論が巻き起こっていた。

「この声明は、識者に指摘されるまでもなく、非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」
 昭和13年1月16日に発表した、「帝国政府は以後国民政府を相手(対手)とせず」とする声明を(第一次近衛声明)について、首相の近衛文麿は手記にこう書いている。
「相手とせず」との表現は、その5日前に御前会議で決めた「期待せず」との表現は、その5日前に御前会議で決めた「期待せず」より厳しい。戦争相手ある蔣介石政権との、絶交宣言とも言える声明で、和平の道は遠のいた。

 近衛は昭和天皇に、「最初は左程強い意味はなかりしも議会の関係に於いて非常に堅苦しきものとなれる」と弁明している。
 昭和天皇の苦悩と落胆も大きかった。心労からか風邪をこじらせ、2月上旬には寝込んでしまっている。
 謁見した外相の広田弘毅(こうき)が、「いかにも憔悴(しょうすい)しておられる。まこと見上げるのもお気の毒なやうな御様子であった」と漏らしたほどだ。
 侍従の岡部長章も述懐する。
「(日中戦争が長引いて)陛下はお考え込みになる場合が多くなりました。片方の御靴に拍車が光っていて陸軍装であるのに、他方は海軍式のものをお用いになるということがあり、(中略)お悩みのご心中が拝察されるのでした」
 閣僚や軍上層部も、昭和天皇の健康を憂慮した。

 2月15日《御学問所において内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。その際、閣員の総意として御静養のため葉山御用邸へ行革を願う旨の奏上を受けられる》
 16日《御学問所において、参謀総長載仁(ことひと)親王に謁を賜い、御静養のため葉山御用邸へ行革を願う奏上を受けられる。(中略)午後二時三分、軍司令部総長博恭(ひろやす)王に謁を賜い、同様奏上を受けられる》

 昭和天皇の心を占めているのは、戦地にいる将兵の苦境だ。静養を勧められて、参謀総長に言った。
「自分がこの際僅かな病気で転地するやうなことがあつては、第一線にゐる将士に対してどういふ影響があるか、大丈夫か」
 参謀総長が即座に答える。
「無論大丈夫でございます。玉体にお障りになるやうなことがあれば、なほのこと士気に関しますから」
 2月19日、昭和天皇は香淳皇后とともに神奈川の葉山御用邸に行革啓し、3月5日まで滞在した。その間、久々に生物学の研究に取り組んだが、泥沼化した戦争への不安が頭から離れることはなかっただろう。
 一方帝国議会でその頃、近衛内閣が提出した国家総動員法案をめぐり、激論が巻き起こっていた。

国家総動員法―。

 戦時(事変を含む)において、政府が広範な人的、物的資源を統制し、運用することを認める法律だ。
 第4条「政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得」
 第8条「政府ハ(中略)物資ノ生産、修理、配給、譲渡其ノ処分、使用、消費、所持及移動ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」
 大日本帝国憲法が保障する国民の権利を大幅に制限する、超法規的な内容といえよう。のちに企画院総裁を務める星野直樹が、こう語っている。

「この法律で何と何が統制できるかと考えるよりも、この法律で統制できないものがあるなら、それをさがした方がはるかに早いだろう。
 近衛文麿内閣が帝国議会に法案を出したのは、昭和13年2月である。これには立憲民友党はもちろん、親軍的される立憲政友会からも批判が続出した。

 3月2日の衆院特別委員会、政友会の槇原悦二郎が近衛を追求する。
「国民の為に国防が存するのだ、国防の為に国民は犠牲にされるのではない」
 近衛は言った。

「国防も国家の為に存するであります。国民も国家の為に存する」

 一方、法案に賛成したのは、以外にも左派の社会大衆党だ。日中戦争で急速に右傾化した社大党は、法案可決に尻込みする政・民両党を攻撃した。
 3月16日の衆院本会議。社大党の西尾末広が近衛を激励する。
「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、或はスターリンの如く、大胆に日本に進むべき道を進むべきであります」
 はしゃぎ過ぎである。政・民両党は「スターリンの如く」を問題にし、懲罰委員会にかけて西尾を議員除名とした。これもやり過ぎだろう。

 賛否の激論で議会が混乱する中、近衛内閣は、解散もちらつかせて政・民両党を揺さぶり、法案を可決、成立させる。
 昭和天皇は、複雑な思いだったのではないか。何事も隠さず奏上する近衛を、昭和天皇は信頼していた。
 しかし、憲法の精神を順守する昭和天皇が、ファッショに近い国家総動員法に賛同していたとは思えない。
 その頃の昭和天皇実録には、議会情勢を伝えるラジオ放送に深夜まで聞き入っていた様子も記されている。
 同法により、社会全体の戦時色が一段と強まったことは言うまでもない。

「相手にせず」声明で戦争相手との交渉窓口を閉ざし、国家総動員法成立し、戦争色を強めてしまった首相の近衛文麿は、しきりに辞意を口にするようになった。
 国民に人気があっても陸軍の手綱は引けず。むしろいいように操られていると、感じていたからだ。

 国家総動員法が公布された昭和13年4月1日、政務報告で参内した近衛は、昭和天皇にこぼした。
「自分のやうな者はほとんどマネキンガールみたやうなもので、何も知らされないで引っ張っていかれるんでございますから、どうも困ったもんで、まことに申し訳ない次第でございます」
 昭和天皇は言った。
「(国民や陸軍に)尊崇されゐる近衛から陸軍に向かってよく注意を与えてやつたら、陸軍は近衛の言葉に従ふんではないか」
 昭和天皇の励ましを受け、近衛が考えたのは内閣改造、すなわち外相と陸相の更送(こうてつ)である。
「相手にせず」声明を軌道修正したい近衛にとって、外相の広田弘毅の更送は不可避といえるだろう。何事も消極的な姿勢が目立つ広田は当時、外務省の部下からも信頼されていなかった。
5月26日、広田は辞任し、後任には陸軍ににらみを利かせられる、元陸軍の宇垣一成が就任する。
その際、宇垣は近衛に言った。「声明を反故(ほご)にするかもしれないがよろしいか」
近藤は答えた。「万事任せます」
もう一人、近衛が辞めさせたかったのは陸相の杉山元だ。内閣書記官の風見章によると、杉山は悪い人間ではないが、「陸軍の不拡大方針が、どしどし崩れていくのを、約束と違うのではないかとせめたててみても、(杉山は)ああ、そうなっちゃったネなどと、他人事のように答えて、けろりんかんとして」いるようなことがあった。=風見章著「近衛内閣」から引用=。そんな杉山に、何度煮え湯を飲まされたことか。

近衛が後任に望んだのは、満州事変時の関東陸軍高級参謀、板垣征四朗である。問題は、陸相人事への介入を拒む陸軍を、どう説得するかだ。近衛は、昭和天皇にすがった。
昭和天皇は、内閣改造が成功しなければ近衛が辞職するとみている。近衛の求めに応じて調整に乗り出し、参謀総長に意向を伝えた。
参謀総長「板垣でなければ近衛は辞めるでせうか」
昭和天皇「十中の八九までさうだろう」
6月3日、陸相は交代し、内閣改造は成功した。
だが、この新体制のもとで、陸軍が最も恐れていた事態が起こる。満州の国境で、ソ連が軍事行動を開始したのだ。

朝鮮半島の北境、豆満江の河口から20キロ余り上流に、標高150メートルの丘陵がある。朝鮮、満州、ソ連の国境が近接する地点で、その名を張鼓峯という。
ソ連兵が張鼓峯の頂上に現れ、満州領の西側斜面に突如として陣地を築き始めたのは、1938(昭和13年)年7月9日のことだ。張鼓峯周辺の国境警備は朝鮮軍が担当している。日本の駐ソ大使館はソ連に抗議し、撤兵を要求した。

一触即発となった日ソ両軍――

改造間もない近衛文麿内閣は動揺した。日中戦争の泥沼にはまりながら、対ソ戦を始める余裕はない。7月20日に関係閣僚が協議し、新陸相の板垣征四郎は現地軍の増強を主張したが、新外相の宇垣一成が首を横に振った。
「防衛の強化は必要だろうが、現地に集結した部隊が越境して攻撃に出る場合は、事前に閣議の承認を得てもらわねば困る。今は支那事変の最中だ。張鼓峯は外交的に片付けた方がよくないか」
宇垣と板垣とでは、貫禄が山ほども違う。板垣は渋々うなずいた。
「そういうことにしましょう」
事前承認の同意を得た宇垣は参内し、事態を憂慮する昭和天皇に協議内容を奏上した。昭和天皇、「外交交渉に努力するように」と述べたという。

ところがその後に、参謀総長が参内して提出した書類には、「備考」として、現地軍の運用は「参謀総長に御委任相成候」などと書かれていた。陸軍は、閣僚協議と異なる内容を、そっと書類の片隅に付け足していたのだ。

昭和天皇は見逃さなかった。昭和天皇実録によると、書類を手許にとどめて裁可せず、侍従武官長を通じて陸相の板垣に、「この件に関する拝謁は無益である」と伝えた。
《しかるに、陸軍大臣板垣征四郎よりの強いての拝謁願いにより、(中略)御学問所において陸軍大臣に謁を賜う。関係閣僚との相談につき御下問になり、委細協議した旨の奏答、及び速やかなる実力行使の必要な所以につき奏上を受けられる。これに対して、語気を強められ、満州事変・支那事変勃発時の陸軍の態度につき御言及の上、命令に依らずして一兵たりとも動かさないよう訓諭される》

昭和天皇が激怒したのは、武力行使について板垣が「外相も海相も賛同しました」と、事実と異なることを言ったからだ。このときの陸軍の対応を巡り、宇垣は日記に「見様によりては一種のペテン」と書いている。そのペテンを昭和天皇に見破られ、板垣は真っ青になった。
「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
昭和13年7月に突如勃発した張鼓峯事件・日ソの全面衝突を危惧する昭和天皇は、陸相の板垣征四郎を語気強く叱責した。武力行使の適否をめぐり、関係閣僚の協議と矛盾する内容を言上したからだ。

ほうほうの体で退出した板垣が、うなだれて言う。
「とても再び陛下のお顔を見上げることはできない。ぜひ辞めたい」
板垣の失態に、仰天したのは首相の近衛文麿だ。すでに近衛は板垣の能力を見限っていたが、ここで辞められたら内閣が瓦解(がかい)する。近衛は7月21日に参内し、板垣の続投を求めて昭和天皇にすがった。

昭和天皇も、強く言い過ぎたと思ったのだろう。かつて田中義一内閣を問責して総辞職につながった、苦い経験もある。
昭和天皇は翌22日《侍従長百武三郎に対し、陸軍大臣への訓諭は陸軍全体あるいは陸軍大臣個人に対する不信任の意図ではなく、信任すればこその訓諭である旨の御言葉を述べられ、その旨を侍従武官長を通じて陸軍大臣に伝達するよう命じられる》

昭和天皇の意向により、板垣は辞意を撤回した。同時に、衝突回避の方針は不動のものとなる。
一方、張鼓峯に進出したソ連軍は容赦しなかった。7月29日、ソ連軍の一部が満州領内にさらに深く侵入、朝鮮軍第19師団が撃退すると、戦車や爆撃機を続々と投入し、猛攻撃を仕掛けてきたのだ。

第19師団は張鼓峯の頂上を奪還したものの、ソ連領には入らず、専守防衛に徹する。衝突回避の方針により、日本側からは一台の戦車も、1機の航空機も援護も現れない。それでも第19師団の将兵は圧倒的兵力のソ連軍を撃退し続けた。

8月10日、外交交渉によってようやく停戦協定が成立する。

全面衝突は回避されたのだ。昭和天皇は、専守防衛を貫いた第19師団の将兵を激賞した。

15日参謀総長を呼んで勅語(ちょくご)を与えた。
《「今回ノ張鼓峯事件ニ於我カ将兵カ困難ナル状況ノ下ニ寡兵(かへい=意・少ない兵)之ニ当リ自重隠忍克(よ)ク其任務ヲ完ウセルハ満足ニ思フ 尚死傷者ニ対シ哀矜ノ情ニ勝ヘス 此旨将兵ニ申シ伝ヘヨ》
張鼓峯事件でソ連軍は、3712人の死傷者を出した。日本側死傷者(1440人)の2.5倍もの損害だ。ソ連は、圧倒的兵力でも崩せなかった日本の軍隊の実力に、仰天したことだろう。

以後、ソ連は日本の軍事的圧力を弱めようと、さまざまな工作活動を展開する。ソ連のスパイ網は、すでに近衛政権の中枢にも及んでいた。

大阪朝日新聞上海特派員の尾崎秀実(ほつみ)が、ソ連共産党中央委員会所属のドイツ人スパイ、リヒャルト・ゾルゲに会ったのは1930年(昭和5年)5月、満州事変が起きる1年半ほど前だ。場所は上海の中華料理店「冠生園」。ゾルゲが言った。
「日本の新聞記者として、集められる限りの内部情報を教えてほしい」
尾崎は共産主義の信奉者だ。進んでゾルゲ諜報団に加わり、「オットー」の暗号名を与えられた。昭和7年に帰国した尾崎は、東京朝日新聞政治部に転属。上海から東京に拠点を移したゾルゲの右腕となり、諜報活動を本格化させる。新聞記者の肩書を生かし、中国問題の専門家として政界有力者に接近した尾崎は、西園寺家の公一や朝日出身の風見章、そして近衛文麿の懐に潜り込んだ。

12月6月に近衛内閣が発足すると、朝日を退社して内閣嘱託となり、近衛のブレーンになる。日本の内部機密は、ソ連に筒抜けになったといえるだろう。

中国共産党の秘密政治顧問でもあった尾崎は、近衛内閣の機密情報をゾルゲに流すだけでなく、日本と蔣介石政権の共倒れを画策する。12年7月の盧溝橋事件後、尾崎は次々と雑誌論文を寄稿した。
「戦に感傷は禁物である。目前日本国民が与えられてゐる唯一の道は戦に勝つといふことだけである。その他に絶対に行く道はないといふことは間違ひのないことである。『前進! 前進!』その声は絶えず叫び続けられねばなるまい」

尾崎は、和平の動きを警戒した。和平条件に含まれる共同防共政策により、中国共産党が打撃を受けることを恐れていたのだ。近衛のブレーンである尾崎の主張は、日中戦争を泥沼にした「相手せず」声明にも影響を及ぼしたとされる。

また、尾崎が関わった近衛側近の政策研究団体「昭和研究会」にも共産主義志向の知識層が多数集まり、戦時色の強い政策を生み出していく。日中戦争の初期、ドイツ外務省はモスクワ発の情報から、ソ連が日本の軍事的圧力を弱めるため「あらゆる方法で紛争を駆り立てている」と綿密に分析し、日中戦争はソ連を利するだけだと日本に警告していた。これに対し日本は、国内で展開するソ連の工作活動すら、極めて認識が甘かったと言わざるを得ない。

尾崎が治安維持法違反などの容疑で特別高等警察に逮捕され、ゾルゲ諜報団の暗躍が明らかになるのは16年10月以降である。
それまでに日本は、日中戦争から足を抜け出せていないばかりか、破滅の日米開戦へと導かれていくのだ。

日中戦争が始まって以来、中国に利権を持つアメリカの対日感情が悪化したのは言うまでもない。日中が本格衝突した第2次上海事変勃発後の1937(昭和12)年10月5日、米大統領のフランクリン・ルーズベルトがシカゴで演説した。
「不幸にも世界が無秩序という疫病が広がっているようである。身体を蝕む広がり出した場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている。

ルーズベルトは、軍事色を強める日本、ドイツ、イタリアを「伝染病患者」にたとえ、「アメリカは戦争を憎む。

アメリカは平和を望む。それ故、アメリカは平和を追求する試みに積極的に参画する」と、何らかの介入を示唆した。これが内外に波紋を呼んだ、「隔離演説」である。

アメリカは当時、甚大な犠牲を強いられた第一次世界大戦への介入を失敗と捉え、孤立主義をとっていた。不況にあえぐ国内問題の解決を優先し、欧州で独伊の脅威が高まっても介入を避けていた。しかし、「隔離演説」以降、徐々に風向きが変わり始める。

昭和天皇は憂慮した。日本は当時、アメリカから石油のほぼ6割を輸入し、生糸や綿製品を輸出して外貨を稼ぐなど、対米貿易に依存していた。もしもアメリカが禁輸に踏み切れば日本は干しあがってしまうだろう。アメリカが孤立主義を棄てないうちに日中戦争を終結させるしか道はない。

だが、日中戦争が始まって一年が過ぎても、近衛内閣は混乱と迷走を重ねていた。
昭和13年6月以降、外務省では宇垣一成が陣頭指揮をとり、蔣介石政権の孔祥熈(こうしょき=財政部長)を窓口とする和平交渉に乗り出したが、陸軍次官の東条英機らが反対した。陸軍では、参謀本部軍務課長の影佐禎昭を中心に、蔣政権ナンバー2の汪兆銘を担ぎ出そうと工作を進めており、互いに足を引っ張る形になっていたのだ。

政府方針が一本化しないまま、宇垣は9月29日、外相就任4カ月で近衛に辞表を差し出した。これを受けて近衛も「首相を辞めたい」と言い出し、厚相の木戸幸一や元元老私設秘書の原田熊雄らが大慌てで留意に努める騒動もあった。

内閣にはびこる疑心暗鬼と縄張り争い。まさにドタバタである。先の大戦後、日中戦争は日本の侵略行為と論じられることが多いが、実際には、こうした混乱により泥沼から抜け出せなかったといえよう。

そうしてもう一つ、内閣を混乱のふちに落とした問題があった。米英の圧力から逃れようと、全体主義の独伊と軍事同盟を結ぶ動きが、俄然強まってくるのだ。

日中戦争が勃発する1年前の1936(昭和11年)夏、ナチス・ドイツは「四ヵ年計画」を策定し、ドイツ軍は四ヵ年のうちに出動能力を獲得しなければならない。ドイツ経済は四ヵ年のうちに戦争遂行能力を獲得しなければならない」と掲げた。その中でアドルフ・ヒトラーが、日本についてこう記している。

「そもそもドイツとイタリア以外では、ただ日本のみが(ボボルシェビズムという)世界的危険に対抗している国家とみなしうる。
一方でヒトラーは、1925年出版の「わが闘争」の中で日本文化を軽視し、「(アーリア文化の影響が及ばなくなれば日本の)現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちていくだろう」とも記している。

ヒトラーは日本を、自らの軍事的野望を実現するための、都合のいいパートナーとしてしか見ていなかったといえるだろう。
日中戦争の初期、ドイツ国防軍が蔣介石政権に肩入れし、支援していたことはすでに書いた。しかしヒトラーの側近、リッべントロップが1938年2月に外相となると、ドイツ外交は急速に日本支援に傾く。リッべントロップは中国への武器輸出を禁止し、軍事顧問団を引き揚げた。

ヒトラーとリッべントロップの狙いは、近く予想される英仏との戦いに日本を巻き込むことだ

同年7月、リッべントロップは駐独大使館付武官の大島浩に、日独伊の三国軍事同盟を提案した。
「日本が同意すれば、(軍事同盟を)イタリアに押し付ける自信はある」
日独伊の枢軸強化は、ソ連を牽制して封じ込めるのに役立つだろう。陸軍は、同盟に前のめりになった。
だが、英米との摩擦を恐れる海軍と外務省が反対し、対ソ戦に限定した軍事援助案に修正しようとする。英仏を対象とするリッべントロップの提案を呑むかどうか、近衛内閣は、又しても閣内不一致の状態に陥った。

この間にも、日中戦争は拡大の一途をたどる。日本軍は5月に徐州(現中国江蘇省徐州市)を占領。8月には30万人の大兵力をつぎ込んだ武漢作戦を発動し、10月21日に要衝の広東(現広東広州市)を、同月27日に蔣介石政権が拠点を置く漢口(現湖北北省武漢市)を含む武漢三鎮を完全に攻略した(中国軍は同月17日に撤退)。

戦争を終わらせたい近衛内閣は、ここが平和交渉のターニングポイントとみたようだ。11月3日、第2次近衛声明を発表し、先の「相手せず」声明を修正する。しかし‥‥。
「今や、陛下の御稜威(みいつ)に依り帝国陸海軍は、克(よ)く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を勘定したり、(中略)帝国の希求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、(中略)固より国民政府とこれも従来の指導政策を一擲(いってき)し、その人的構成を改替とて更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」

昭和13年11月3日、首相の近衛文麿が内外に向けて発表した「東亜新秩序建設の声明」(第2次近衛声明)の一節だ。この声明で近衛は、「国民政府を相手にせず」とした同年1月の声明(第1次近衛声明)を修正し、蔣介石政権との交渉窓口を開こうとした。

一方で近衛は、陸軍が進める汪兆銘工作にも期待を寄せた。蔣政権ナンバー2の汪を担ぎ出して親日的な新政権を樹立させるという、一種の謀略である。むろん蔣の反発は必至で、相反した工作といえよう。
昭和天皇は、汪兆銘工作には全く懐疑的だった。12月10日、内大臣に言った。
「謀略などといふものは当てになるものぢやあない。大体できないのが原則で、できるのが不思議なくらゐだ」

12月18日、汪は蔣と決別して重慶を脱出。それに呼応して近衛は22日、「相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げん」とする声明(第3次近衛声明)を発表した。だが、中国側で汪兆銘工に従う有力者はおらず、昭和天皇の予測通りの結果に終わる。

近衛の「辞めたい」病が、再び激しくなった。
戦争の真つ最中だ。首相が辞めれば政府の混乱ぶりを国内外に晒すことになる。陸相の板垣征四郎は「いま近衛に辞められては断じて困る」と猛反発したが、それまで何度も近衛の辞意に振り回されてきた閣僚や重臣らは、匙を投げたくなった。

近衛の盟友、厚相の木戸幸一が元老私設秘書の原田熊雄に言う。「(近衛が)多少真剣味を欠いてをるやうなら、やつぱり代つた方がよい‥‥」
元老の西園寺公望(きんもち)も投げやりになる。「近衛が総理になつてから、何を政治してをつたんだか、自分にもちつとも判らない」

国家の非常時だ。本人にやる気がなければ、難局は乗り切れない。12月末、参謀総長と陸相が相次いで参内し、「どこまでも近衛内閣をおとめ戴きたい」とすがったとき、昭和天皇は静かに首を振った。
「どうもそれはとても難しからろ」
14年1月4日、近衛は多くの将兵を戦地に残したまま、内閣総辞職を奏上した。
首相が辞職すれば重責から逃れられる。しかし天皇は辞職できない。昭和天皇の思いは、戦地の将兵とともにあった。

混乱を重ねた近衛文麿内閣が、戦争を終結できずに総辞職する直前、元老の西園寺公望は嘆息した。
「陛下に対してまことにお気の毒である。あれだけ陛下は判つた方であられるだけ、まことに御同情に堪えない」

昭和12年7月の盧溝橋事件以来、昭和天皇が戦局の悪化を憂えて、唯一の趣味としていた生物学御研究所での研究を自粛して公務に励んでいたことはすでに書いた。それから1年後、13年7月の昭和天皇の様子を、宮中関係者はこう記している。

「休日とても、寛々(ゆるゆる)御憩ひの事もなし、連日連夜、御軍装を脱がせ給ふ御暇もなく、万機御親裁、殊に戦況に付ては、時を選ばず御聴取あらせらる」ヾ
昭和天皇実録の記述からも、昭和天皇がつねに戦地の将兵を気づかい、国民生活の窮状に心を痛めていた様子が随所にうかがえる。

13年7月12日《去年二十二日に大蔵大臣より経済事情等に関する奏上を御聴衆の後、ガソリンを始め種々の節約につき注意を払われ、さらに御自身の御食事についても省略に及ばれる》
同月26日《支那事変下の兵士の労苦、一般臣民の苦難への思し召しから避暑等は希望されない旨を仰せになる》
昭和天皇は10月3日、首相の近衛を呼び、軍人援護に関する勅語(ちょくご)を与えた。
《「(戦局の拡大で)或ハ戦ニ死シ 或ハ戦ニ傷キ或ハ疫痢ニ斃(たお)ルヽモノ亦少カラス 是レ朕カ夙夜(しゅくや)惻ダツ禁スル能ハサル所ナリ 宣シク力ヲ軍人援護ノ事ニ効シ 遺憾ナカシムヘシ」》
一方、戦局が悪化する中でも、皇太子(現上皇陛下)をはじめ皇男女子順調に成長されていた。

11月27日《皇太子参内につき、皇后と共に御対面になる。内庭において皇太子が自転車を乗り回す様子を御覧の後、御昼餐を御会食になる》
新たな命も誕生した。
14年3月2日《この日朝より皇后に御産の兆しがあり、(中略)・午後》四時三十五分、皇后は内親王を御分娩、天皇は入江(相政)より皇后は内親王共に御健勝の旨を奏上を受けられる》
昭和天皇は、誕生した第5皇女子を貴子と名付け、清宮(すがのみや)の称号をおくった。

同年1月5日、総辞職した近衛内閣の路線を引き継ぐ形で、枢秘院議長の平沼騏一郎が組閣した。この内閣のもとで大問題となるのは、英米と対立かる日独伊三国の軍事同盟である。それが国家破滅につながるとみた昭和天皇は、時代の流れに敢然と立ち向かおうとする。
 つづく 第9章 欧州の戦雲と三国同盟