二・二六事件―。昭和維新断行を求める陸軍の青年将校らが、彼らのいう「君側の奸(かん)」を誅殺(ちゅうさつ)するため、決起したのだ。
 夜明け前、20人余の青年将校に率いられた歩兵第1連隊第11中隊、機関銃隊、歩兵第3連隊第1、第3、第6、第7、第10中隊、近衛歩兵第3連隊第7中隊の下士官兵1400人余が、雪明りの中を整然と行進する、ほかに野戦重砲兵7連隊なども加わった。

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第7章 二・二六事件 

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用

その日、昭和11年2月26日、帝都に積もった雪は、無数の軍靴に踏み砕かれた。

 二・二六事件―。昭和維新断行を求める陸軍の青年将校らが、彼らのいう「君側の奸(かん)」を誅殺(ちゅうさつ)するため、決起したのだ。
 夜明け前、20人余の青年将校に率いられた歩兵第1連隊第11中隊、機関銃隊、歩兵第3連隊第1、第3、第6、第7、第10中隊、近衛歩兵第3連隊第7中隊の下士官兵1400人余が、雪明りの中を整然と行進する、ほかに野戦重砲兵7連隊なども加わった。

 首相官邸を包囲したのは、栗原安秀中尉が指揮する歩兵第1連隊の291人だ。完全武装の下士官兵は通用門、非常門、裏門の3方から敷地内に侵入、警備の巡査詰め所を制圧すると、一部が官邸の日本間入り口を破壊して中に入り込んだ。
 一方、異変に気付いた首相私設秘書、松尾伝蔵の行動も素早かった。陸軍予備役大佐でもある松尾は官邸内を走り回って各部屋の電灯を消し、岡田啓介首相を浴場にかくまった。官邸内にいた護衛の警官4人も拳銃を抜き、応戦態勢をとった。

 暗闇の中を、侵入した兵士が手探りで進んでくる。警官が発砲し、兵士は機関銃を乱射。激しい銃撃戦となり、大広間のシャンデリアが砕け散った。
 だが、多勢に無勢だ。警官は1人倒れ、また1人倒れる。浴場にひそむ岡田も、間もなく発見されてしまうだろう。
 松尾は、岡田と風貌がよく似ている。兵士の足音が近づく中で、自身の使命と運命とを、悟ったのかもしれない。松尾は浴場をはなれ、中庭に出た。
 「誰かいるぞ!」兵士が叫ぶ。
 「撃て!」と将校の声。未明の雪空に銃声が散った。
 襲撃の指揮をとる栗原は、松尾の遺体を寝室に運ばせ、官邸内にあった岡田の写真と見比べて言った。
 「首相だ。間違いない」
 集まってきた兵士らも、口々に「これだ、これだ」
と歓声を上げる。その声は、浴場に隠れていた岡田の耳にも届いた(*=池田俊彦ら編「二・二六事件裁判記録」引用
 同じ頃、内大臣私邸や待従長官官邸でも、惨劇が始まっていた。

昭和11年2月26日未明、赤坂離宮の西隣にある、斎藤実内大臣私邸―。坂井直(なお)中尉に率いられた歩兵第3連隊の下士官兵ら210人が、雪明りの中で小銃に実弾を込める。
午前5時、突撃隊が正面から侵入。一部は敷地内の巡査詰め所にいた護衛の警官らに銃剣を突きつけ、一部は私邸の雨戸を壊して中に入り込んだ。
数人の将兵が二階に上がり、寝室のふすまを押し開ける。中には斎藤の妻、春子がおり、両手をひろげて立ちふさがった。
 「待ってください! 待ってください!」
 だが、将兵は待たなかった。部屋の奥から斎藤が近づいてくるのを見ると、「国賊!」と叫んで発砲。斎藤は一言も発せず、よろけるように倒れた。
その体に、春子が覆いかぶさった。
「殺すのなら私を殺してください!」
目標は斎藤ただ一人だ。将兵は、春子の下に拳銃を差し込み、たてつづけに発砲。軽機関銃をあびせて斎藤を蜂の巣にした。
「私も殺してください!」
春子の絶叫が邸内に響いた

同じ頃、東京・麹町の鈴木貫太郎待従長官邸―。安藤輝三大尉が指揮する歩兵第三連隊の204人が包囲態勢をとり、表門と裏門から侵入する。電燈の消えた官邸内は真っ暗で、兵士らは銃剣をかまえながら、鈴木の姿を探し求めた。
やがて、一階の10畳間に鈴木の妻、孝(たか)がいるのを下士官が見つけ、その奥の8畳間にいた鈴木を十数人が取り囲んだ。
待従長発見の連絡を受けて安藤が駆けつけたとき、鈴木は胸部など4発の銃弾を受け、倒れていた。安藤は、そばにいた孝に両膝をついて頭を下げた。
「われわれは鈴木閣下と信念を異にするため、やむを得ず今回の行動に出ましたが、鈴木閣下の犠牲が国家永久安泰の礎石となられるように祈ります」
そして軍刀を抜き、まだ息のある鈴木の首にあてて
「とどめをさせさせていただきます」と言うと、孝が口を開いた。
「もうこれ以上のことは、しなくてもよろしいでしょう」
毅然とした言葉に、安藤は軍刀を鞘におさめた。
孝は、昭和天皇の保母を務めたほどの人物だ。「その態度は驚くほど冷静であった」と、襲撃に加わった兵士が後に書き残している。部隊が官邸から立ち去ると、孝は直ちに止血措置をとり、鈴木は一命を取り留めた。
その頃、蔵相などの私邸では…・

夜明けの前の帝都に、雪が降っている。ビルも路地も白一色に染まり、しんと静まっている。
昭和11年2月26日午前5時、東京・赤坂表町の高橋是清蔵相私邸―。 周囲の静寂を、近衛歩兵第3連隊の下士官兵137人が破る。中橋元明中尉を先頭に突撃隊20人余りが内玄関を破壊し、邸内になだれ込んだ。
 高橋は、2階の寝室にいた。それまでの人生を何度も転んでは起き上がり、日本経済も起き上がらせてきた「ダルマ」の高橋だが、このときは、階下かに殺気だった将兵の声が響いても、布団から起き上がろうとしなかった。
 中橋ら将兵が寝室に乗り込んで来たとき、高橋は、薄目を開けてあおむけに寝ていた。中橋が「天誅(てんちをう)!」と叫び、布団をはねのけたが、高橋は寝たままである。その腹部に向けて数発の銃弾が撃ち込まれ、軍刀が振り下ろされた。
 のちに中橋は、軍法会議でこう語っている。
「高橋蔵相は遂に即死しましたが私が初めて天誅と叫んでも高橋蔵相は布団の中で従容(しょうよう)として薄く目を開き黙って居りました」
 それからおよそ1時間後、東京・杉並の渡辺錠太郎陸軍教育総監邸―。 歩兵第3連隊の将兵約30人が軍用トラックで乗り付け、包囲態勢をとった。
 すでに夜は明けている。指揮を執る安田優(ゆたか)少尉を先頭に数人が敷地内に入り、玄関を破壊しようとしたところ、中から拳銃の発砲を受けて3人が負傷した。
 現役将官の渡辺は、射撃の名手でもある。従容として死を迎えた高橋とは異なり、果敢に応戦した。
 安田らは玄関からの侵入を諦め、裏口に回って邸内に入り込んだ。すると、ある部屋のふすまの前で渡辺の妻、鈴子が立ちふさがり、「それが日本の軍隊のやり方ですか」と大声をだした。
 「閣下の軍隊ではありません。陛下の軍隊です」
 そう言って安田は鈴子を押しのけ、ふすまを開けた。はたしてそこに、渡辺がいた。
 途端に、無数の銃声が響く。渡辺は布団をたてに伏射し、安田らは軽機関銃を乱射した。多勢に無勢だ。やがて動かなくなった渡辺に、将校の一人がとどめの軍刀を斬り込んだ。
 その一部始終を、渡辺の晩年にできた9歳の娘、和子が見ていた。のちにこう書いている。
「父の死は、誠に潔いものでした。今思えば、父をたった一人で死なせることなく、その最期を見とることが出来て私は幸せでした」
 和子は成人後にシスターとなり、現在はノートルダム清心学園の理事長を務めている。

昭和11年2月26日の夜明け前に、前内大臣牧野伸顕が投宿する神奈川県河原町の旅館「伊藤屋」別館―。その門前は、河野寿大尉が率いる8人の襲撃班によってひそかに監視されていた。
 暗がりの中、河野がマッチをすって腕時計を確認する。午前5時、行動開始だ。襲撃班は勝手口に走り、引き戸をたたいた。
「電報、電報」
 護衛の警官が細めに引き戸を開け、慌てて閉めようとしたが、河野は強引に押し入り、拳銃を突き付けた。
「牧野の寝室に案内せよ」
 やむなく警官は、奥の方へとゆっくり歩きだす。その後ろを、拳銃や軽機関銃を構えた河野らが追う。狭い廊下は軍靴で軋み、不気味な音をたてた。
 突き当りを曲がったときだ。警官がいきなり振り向いた。その手に拳銃が握られている。鋭い発射音が1発、2発―。河野も反射的に発砲して警官を押し倒したものの、自分を含め2人が重傷を負った。
 失敗だ。河野は襲撃班に抱きかかえられて屋外に出ると、寝室のあたりに向けて機関銃を乱射し、火を放った。牧野が逃れて出てきたところを、射殺しようとしたのである。
 やがて女中らの一群が庭に出て、裏山へと逃れようとした。その中に、女物の羽織を頭から被った者がいた。襲撃班の一人が「待て」と叫んで発砲する。弾はそれ。付き添いの看護婦の腕にあたった。 「女子共にけがをさせてはいかん」
 河野は、唇をかんで発砲をおさえた。負傷した胸の痛みに耐えながら、その目は、女中らにまぎれて逃げる羽織を、むなしく追うしかなかった。
 その頃、帝都では野中四朗大尉が指揮する歩兵第3連隊の約450人が警視庁を包囲していた。数丁の機関銃、十数丁の軽機関銃、数百丁の小銃で重装備された精鋭部隊だ。警視庁に応戦する力はなかった。このほか栗原安秀中尉ら一部将兵は独断で、当初の計画にはなかった東京朝日新聞を襲撃。社員に拳銃を突き付けて退去させた上、2階の印刷工場に侵入して活字ケースを床にぶちまけた。
 政府首脳や宮中側近らが襲撃され、雪の帝都を凍りつかせた二・二六事件―。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が死亡し、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。日の出までに首相官邸、陸相官邸、警視庁などが決起部隊に占拠され、首都機能は完全にマヒした。
 昭和天皇が惨劇を知ったのは、同日午前6時20分である。
未曽有の非常事態に、天皇は敢然と立ち向かう。

二・二六事件 の勃発から45分後、昭和11年2月26日午前5時45分《当番侍従甘露寺受長(かんろじおさなが)は、当番高等官宮内事務官高橋敏雄より、侍従長官邸が軍隊に襲われ侍従長鈴木貫太郎が重傷を負った旨の連絡を、続いて、内大臣私邸が襲撃されて内大臣斎藤実が即死した旨の連絡を受ける。六時ごろ、甘露寺は皇后宮女官長竹屋志計子を通じ、<昭和天皇に>お目覚めを願う旨を言上する。(中略)六時二十分、御起床になり、甘露寺より事件の報告を受けられる》
昭和天皇は危機に強い。御召し自動車が狙撃された大正12年の虎ノ門事件でも、儀仗(ぎじょう)行列に手榴弾を投てきされた昭和7年の桜田門事件でも、ほとんど動じなかったことはすでに書いたとおりだ。
東京朝日新聞の記者だった高宮太平によれば、甘露寺から事件の報告を受けたとき、天皇は静かに聞きながら、こんなやりとりを交わしたという。
「まだ他に襲撃された者はないか」
「唯今の所ではこれ以上の情報はありませんが、他にも被害者があるかも知れませぬ。何れ各方面に問合はせて、また奏上致します」
「さうしてくれ、自分はすぐ支度して、表の方に出るから」(*=高宮太平著「天皇陛下」209頁から引用

午前7時10分《侍従武官長本庄繁に謁を賜い、事件発生につき恐懼(きょうく)に堪えない旨の言上を受けられる。これに対し、事件の早期終息を似て禍を転じて福となすべき旨の御言葉を述べられる。(中略)以後、頻繁に武官長をお召しになり、事件の成り行きを御下問になり、事件鎮圧の督促を行われる》
午後7時20分《侍従次長広幡忠隆をお召しになる。以後、度々侍従長官をお召しになり、この日の侍従次長の拝謁は六回に及ぶ》
午前11時13分《陸軍大臣川島義之に謁を賜い、事件の情況につき奏上をうけられる。(中略)事件発生につき恐懼(きょうく)に堪えない旨の言上を受けられ、これに対し速やかな鎮定を命じられる》(*=昭和天皇実録=23巻25~26頁引用)

 決起した青年将校の心情はどうあれ、彼らの言う天皇の軍隊を、天皇の意志に反して勝手に動かし、天皇の股肱(ここう)を殺害するようなことは決して許されない。昭和3年の張作霖爆殺事件以降、将校らの軍紀違反を厳正処分せず、あいまいにしてきたことが今回の事件を招いたこともいえるだろう。昭和天皇はこのとき、断固たる姿勢でのぞむ決意でいたようだ。
一方、陸軍上層部はその頃、何ら決断も出来ず、混乱の極みにいた。決起将校に迫られ、その行動を容認するような動きさえも出てくるのだ。

「内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)して、稜戚(みいつ)を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(せんじょ)するに非ずんば皇謨(こうぼ)を一空せん。(中略)茲(ここ)に同優同志機を一にして蹶起(けっき)し奸賊を誅戮して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を謁(つく)し、以て神州赤子の微衷を献ぜんとす」(*=池田俊彦ら編「二・二六事件裁判記録」決起趣意書から引用)

 昭和11年の二・二六事件で青年将校が掲げた、決起主意書の一部だ。皇道派に影響を受けた青年将校は、「国体破壊」の具体例として統師権干犯問題と天皇機関説問題を挙げ、そのいずれかに関わった政府首脳や宮中側近を「誅滅」し、陸軍中央から統制派を一掃して「御維新」を断行しようとした。
 一方、未曽有の非常事態に陸軍上層部は狼狽(ろうばい)し、断固とした処置をとることができなかった。前年8月の永田鉄山惨殺事件で統制派の求心力が低下しており、バラバラの状態だったのだ。
 事件当日の朝、決起将校のリーダー格で元陸軍大尉の村中孝次ら3人が川島義之陸相に面会を強要。決起趣意書を読み上げ、
⓵決起の趣旨を天皇に奏上すること ②部隊を攻撃しないこと
③統制派幹部らの即時逮捕もしくは罷免―などを迫った。
 「君たちの要望は、自分としてやれる事もあれば、やれぬ事もある。勅許を得なければならぬ事は、自分には何とも言えぬ」(*=磯部浅一著「二・二六事件青年将校の獄中記」より)。

 そう言って川島は、村中らをなだめようとしたが、あいまいな対応により、かえって問題をこじらせたといえるだろう。のちの軍法会議で村中は「陸相は私共の行動が悪いと云はれず私共の精神を認められた様でありました」と語っている。
 午前8時半過ぎ、皇道派重鎮の前教育総監、真崎甚三郎が陸相官邸に姿をみせると、情勢は決起側に有利に傾きはじめる。
 真崎は、決起将校らに言った。
 「とうとうやったか、お前達の心はヨオックわかっとる、ヨオックわかっとる」
(*=磯部浅一著「二・二六事件青年将校の獄中記」より)

 以後、事態収拾に向けた陸軍の方針を、決起には同情的な皇道派系の意見がリードするようになる。
 午前1時過ぎに参内した川島に、昭和天皇が速やかな鎮定を命じたことはすでに書いた。しかし、優柔不断な川島は、昭和天皇の意向を徹底させることができなかった。
 午後1時過ぎ、宮中で非公式の軍事参議官会議が開催。ここでも、鼻息が荒かったのは皇道派の陸軍長老で、その主導のもとに、事態の収拾策が協議された。
 午後3時20分、川島は皇道派の意見におされ、のちに問題となる。「陸軍大臣告示」を出す。
 この告示で、決起の趣旨を認めてしまうのだ。

「蹶起(けっき)ノ趣旨ハ天聴ニ達シアリ 諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ヨリ出タルモノト認ム 国体ノ真姿顕現ニ就テハ我々モ亦恐懼(きょうく)ニ堪ヘサルモノアリ…」
 昭和11年2月26日午後3時半、二・二六事件の決起将校らに読み上げられた、陸軍大臣告示だ。
 それより前、宮中で開かれた非公式の軍事参議官会議で、元陸相の荒木貞夫や前教育総監の真崎甚三郎ら皇道派トップが「刻下の急務は一発の弾も撃たずに事を収めることだ」とまくし立てていた。決起将校らの主張を認めさせて帰順させよというのだ。陸軍大臣告示は、この方針に沿って発せられた。
 たが、決起将校らは自らの行動そのものを義挙と認めるよう、強硬に要求する。夕方以降、将校らに配布されたガリ版印刷の陸軍大臣告示には、「諸子ノ真意ハ~モノト認ム」が「諸子ノ行動ハ~モノト認ム」(真意から行動)へと変わっていた。
 ここに、政府首脳や宮中側近を襲撃し、9人を殺害(殉職警官を含む)した反乱部隊は、表面的とはいえ「義軍」扱いされ、決起将校らは喝采した。陸軍の方針は、断固とした処置をのぞむ昭和天皇の意向から離れてしまったといえるだろう。
 一方、海軍出身の岡田啓介首相、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎待従長を襲撃された海軍司令部は激高した。同日午前、軍司令部第1課長の福留繁が軍令部総長の伏見宮博恭(ひろやす)王に進言する。 「陸軍では同情的な態度で説得一方で処置する考えのようでありますが、この不祥事件は明らかに反乱でありまして、断固討伐の肚(はら)で臨むべきものと思います」(*=福留繁著「二・二六事件と海軍」引用)。

 当時、陸軍の首都集結兵力は3個師団だが、海軍は最大で3個師団半の兵力を動員できる。第1次上海事変などで市街戦の経験もあり、福留には、海軍だけでも決起部隊を鎮圧できる自信があった。 以後、昭和天皇の裁可を得て海軍横須賀鎮守府の先遣部隊が東京に急行。第一艦隊も東京湾に集結し、各艦の砲門を決起部隊に向けた。
 陸軍のあいまいな対応などに、昭和天皇が不快感を募らせたことは言うまでもない。同日午後7時55分、生死不明の岡田首相にかわって首相代理となった後藤文夫内相に謁見を許し、全閣僚の辞表を受け取った昭和天皇は、《後刻待従武官長本庄繁に対し、同一文面である点を御指摘になり御不審の念を漏らされる≫と、昭和天皇実録に記されている。
 一方、私設秘書の身代わりにより難を逃れ、決起部隊が占拠する首相官邸に隠れていた岡田はどうなったか―。

首相秘書官の迫水久常に、岡田啓介首相の「遺体検分」の許可が下りたのは、二・二六事件の発生から4時間後、昭和11年2月26日午前9時ごろである。
 すでに迫水は、決起将校の一人から「国家のために首相のお命を頂戴いたしました」と告げられていた。岡田は迫水の岳父だ。
無念と悲しみに打ちひしがれながら、同僚の福田耕秘書官とともに官邸に入った。
 だが、寝室に安置されていた遺体の、頭までかぶせられていた布団を持ち上げたとき、迫水は息をのみ、福田と顔を見合わせた。私設秘書の松尾伝蔵の遺体だったからだ。
 決起将校らは勘違いしている、首相は生きているかもしれない―。そう思った迫水は、わざとハンカチで目頭をおさえながら寝室を出ると、待ち構えていた将校に言った。
 「(遺体は首相に)間違いはありません」
 将校をあざむいた迫水と福田だが、問題は首相がどこにいるか、無事かどうかだ。官邸内は決起部隊が占拠しており、探し回るわけにはいかない。そういえば使用人たちはどこへ行ったのだろうかと、迫水は将校に尋ねてみた。
 「女中がいたはずですが、どうなっていますか」
 「女中さんならあちらの部屋におります」
 将校に案内された部屋に入ると、2人の女中が、異様に緊張した様子で座っていた。怖かっただろう。迫水は、やさしく声をかけた。
「けがはなかったかね」
 「はい、おけがはございませんでした」
 意外な言葉遣いに、迫水ははっとした。改めて見れば、女中は部屋の押入れを守るように正座している。事件発生後、官邸内の使用人たちには帰宅の許可が出ていたが、女中は首相を押し入れにかくまい、自らの役目を果たしていたのだ(*=岡田啓介著より引用) 事件に狼狽(ろばい)した陸軍首脳などより、よほど覚悟があったと云えよう。
 首相生存の知らせは、迫水から宮内大臣へ、宮内大臣からは昭和天皇へと内々に伝えられた。

 昭和天皇は言った。
 「よかった。岡田を一刻も早く安全なところに移すように」
 こうして、首相の脱出作戦が始まった。迫水と福田は陸曹秘書らに「せめて友人親類の弔問を許してほしい」と頼み込み、首相と年恰好が似ている弔問者10人集めると、翌日27日、弔問者紛れ込ませて首相官邸の外に出した。同日午後1時27分だったという。
 その頃、帝都は厳戒令がしかれ、情勢はさらに緊迫化していた。

昭和11年2月27日午前0時《(昭和天皇は)厳戒令に関する勅令に御署名になる》

午前1時13分《参謀総長代理の参謀次長杉山元に謁を賜い、厳戒司令部の編制及び厳戒司令官の指揮部隊に関する件につき上奏を受けられる。その際、徹底的な鎮圧を望まれる旨、並びに厳戒令の悪用を禁じる旨の御言葉を述べられる》
午前7時20分《待従武官長本庄繁をお召しになる。(中略)この日、天皇は武官長に対し、自らが最も信頼する老臣を殺傷することは真綿にて我が首を絞めるに等しい行為である旨の御言葉を漏らされる。また、御自ら暴徒鎮定に当たる御意志をしばしば示される》

二・二六事件の発生に狼狽した陸軍首脳が決起部隊の行動を認めるような大臣告示を出し、決起将校に有利な情勢が生まれていたことはすでに書いた。だが、一夜明けて27日になると、断固とした処置を望む天皇の意向が徐々に伝わり、情勢は一変する。
厳密に言えば、このときの天皇は立憲君主の枠から逸脱していたかもしれない。天皇は、輔弼(ほひつ)する閣僚らの助言に基づいて行動するのが、大日本帝国憲法下における慣例だからだ。
しかし、当時は最高輔弼者の首相が職務を果たせない状態だった上、陸相の対応も決起将校らに流され、的確な措置をとれないことは明らかだった。そこで昭和天皇は、自ら事態収拾の先頭に立とうと決意したのだろう。
午前8時45分、昭和天皇は「三宅坂付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ姿勢ヲ徹シ各所属部隊ノ隷下ニ復帰セシムベシ」とする奉勅命令を裁可した。決起部隊は原隊に帰れという、天皇の直接命令であり、従わなければ逆賊として討伐されることを意味する。昭和天皇はのちに当時を振り返り、こう語っている。

「討伐命令は厳戒令とも関連があるので軍系統限りでは出せない、政府との諒解(りょうかい)が必要であるが、当時岡田啓介首相の所在が不明なのと且又陸軍省の態度が手緩かったので、私から厳命を下した訳である。私は田中内閣の苦い経験があるので、事をなすには必ず輔弼の者の進言に俟ち又その進言に逆はぬ事にしたが、この時と終戦の時との二回丈けは積極的に自分の考を実行させた」
奉勅命令をいつ発動するかは、参謀本部の判断に任された。

陸軍上層部は説得により帰順させる方針を捨てきれず、その発動を遅らせようとしたが、昭和天皇の揺るぎない姿勢に、陸軍内部でも討伐やむなしの声が強まっていく。その舵を取ったのは、かつて満州事変を主導した石原莞爾(かんじ)だった。

参謀本部の石原莞爾からも町尻(量基)武官を通じ討伐命令を出して戴き度いと云って来た、一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、満州事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであつた」
先の大戦後、昭和天皇が二・二六事件を振り返って側近らに語った言葉だ。
参謀本部作戦課長だった石原が事件発生の一報を受けたのは、昭和11年2月26日の早朝である。すぐに決起部隊が所属する歩兵第1、第3連隊の連隊長に電話し、「軍旗を奉じて出てこい」と指示した。

天皇の分身とされる軍旗は絶対の存在である。多くの下士官兵は命令で動いているだけなので、軍旗の下に集まれと連隊長が号令すれば必ず集まる。それをまとめて連隊に引きあげれば「残るは将校だけだから、間もなく鎮圧できる」と考えたのだ。しかし、連隊長はそれを実行しなかった。

参謀本部に駆けつけた石原は、門前で兵士に機関銃を構えさせた決起将校らに呼び止められた。
「大佐殿、今日はこのままお帰りください」
「何をいうか! この石原を殺したかったら、直接自分の手で殺せ、兵隊の手をかりて人殺しするとは、卑怯千万な奴だ」
石原は統制派でないが、思想と行動力を危険視され、決起将校らの殺害リストに入っていた。だが、このときは気迫におされ、誰も引き金を引けなかった。
以後、石原は参謀本部の部課長会議などで即時討伐を主張。27日午前3時に厳戒令が公布されると、厳戒令司令部参謀に就任し、攻撃準備に着手する。
28日午前3時、決起将校に同情的な歩兵第1連隊長らが厳戒令司令部を訪れ、従わなければ逆賊となる奉勅命令の発動延期を申し入れた。それを聞いた石原は、「命令受領者集まれ」と言って部屋を出ると、各隊の連絡員に向かって決然と指示した。

「軍は、本廿八(28)正午を期して、総攻撃を開始し、反乱軍を全滅せんとす」

続けて、討伐延期を訴えていた連隊長らに言う。
「勅使命令は下ったのですぞ、御覧の通り、部隊の集結は終わり、攻撃準備は完了した。(中略)降参すればよし、然らざれば、殲滅(せんめつ)する旨を、ハッキリと御伝え下さい。大事な軍使の役目です。さア行ってください」
午前5時8分、決起部隊を原隊に帰順させる奉勅命令が発動。陸軍がとるべき道は決した。
だが、なおも討伐をしぶる一部将校らが、決起将校を自決させるから見届け役の勅使を賜りたいと求めてきた。ここで昭和天皇の怒りが爆発する。

1400人余りの部隊を率いて政府首脳や宮中側近を襲撃し、陸相官邸などがある三宅坂(東京・永田町)一帯を占拠した20人余りの決起将校は、時間の経過とともに、焦燥と疲労の色を濃くしていた。
事件発生の日、昭和11年11月26日の情勢は決起側に有利だった。だが、27日に厳戒令がしかれると風向きが変わり、討伐を求める声が陸軍内で強まっていく。決起将校は、皇道派の前教育総監、真崎甚三郎に面会して事態収拾を一任するも、真崎は昭和天皇の意向を知り、決起に同情的な発言を次第にトーンダウンさせていった。

28日に勅使命令が下達されると、決起側はいよいよ窮地に立たされる。各方面からの説得工作もあり、将校は全員自決して下士官兵を原隊に復帰させるという帰順論が大勢を占めるようになった。 そんなとき、待従武官長の本庄繁のもとに、陸相の川島義之と軍事調査部長の山下奉文(ともゆき)が訪れた。28日午後1時ごろのことだ。山下が言った
「決起将校に自決させ、下士官以下は原隊に帰します。ついては勅使を賜り、自決の光栄を与えてほしい。これ以外に解決の手段はありません」

自決に勅使が立ち会うことは、決起の趣旨などの一部を天皇が認めることを意味する。本条は「斯ルコトハ恐ラク不可能ナルベシ」と思いつつ、拝謁を求めて伝奏した。
はたして昭和天皇は激怒した。そもそも張作霖爆殺事件以来、クーデター未遂の三月事件、十月事件と相次ぐ軍紀違反に陸軍上層部が断固とした処置をとらず、過激将校らの心情を認めうやむやにしてきたことが、今回の重大事態を招いたのではないか。
昭和天皇は「未ダ嘗(かつ)テ拝セザル御気色ニテ」叱責した。その様子を、本庄は日記こう書いている。
「陛下ニハ、非常ナル御不満ニテ、自殺スルナラバ勝手ニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使杯、以テノ外ナリト仰セラレ、(中略)直チニ鎮定スベク厳達セヨト厳命ヲ蒙ル」
 事件発生以来、政府も軍部も混乱する中で、昭和天皇は微塵もぶれなかった。この姿勢がなければ、日本の現代史にクーデター未遂の政権樹立という汚点が刻まれたかもしれない。本庄は「返ス言葉モナク却下セシガ、御叱責ヲ蒙リナガラ、厳然タル御態度ハ却テ難有ク、又条理ノ御正シキニ寧ロ深ク感激ス」と書き残している。
 一方、決起将校は自決の帰順論にいったんは傾きながら、28日午後に態度をひるがえし、決戦する姿勢をあらわした。
 翌29日、二・二六事件は最終局面に突入する。

昭和11年2月29日午前、東京・日比谷の飛行会館屋上に、「勅命下る 軍旗に手向ふな」のアドバルーンが上がった。
 決起部隊が占拠している東京・永田町の三宅坂一帯には、上空からビラもまかれる。
「下士官ニ告グ 一、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ 二、抵抗スルモノハ全部逆賊デアルカラ射殺スル 三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ 厳戒司令部」
決起部隊1400人余りの大部分を占める下士官兵は、青年将校の命令で動いているだけだ。26日未明に非常招集で起こされ、襲撃場所に向かう途中で決起趣意書を読み聞かされたものの、その意味をほとんど理解してなかった。それなのに突然、逆賊とされ、下士官は激しく動揺した。
この時代、逆賊の汚名を着ることは死ぬことより重い。親類縁者にも累が及ぶ。投降を促すラジオ放送もはじまり、下士官の動揺に拍車をかけた。

「兵に告ぐ。勅使が発せられたのである。お前たちは上官の命令に正しいものと信じて、絶対服従をして、心誠活動して来たのであろうが、既に天皇陛下の御命令によってお前たちには皆原隊に復帰せよと仰せられたのである。この上お前たちが飽くまでも抵抗したならば、それは勅使に反することとなり、逆賊とならなければならない。(中略) 速やかに現在の位置を棄てて帰って来い」 繰り返されるラジオ放送。回りを取り囲む重武装の鎮圧軍。下士官の動揺を見て、青年将校もついに抵抗を断念する。

午前9時半以降、投降する部隊が相次ぎ、午後2時までに大半の部隊は原隊に帰順した。

決起部隊司令部のある東京・赤坂の山王ホテルでは、安藤輝三大尉が率いる歩兵第3連隊第6中隊が最後まで徹底抗戦の構えを崩さなかったが、直属の上官や同僚、ほかの決起将校らの説得を受け、銃をおいた。安藤が下士官を集めて訓示する。
「皆よく闘ってくれた。戦いは勝ったのだ。最後まで頑張ったのは第六中隊だけだった。中隊長は心からお礼を申し上げる。
皆はこれから満州に行くがしっかりやってもらいたい」

 その後、全員で号泣しながら中隊長をうたっている途中で、安藤は自身のあご下に拳銃をあて、引き金をひいた。午後3時ごろだった。
 ここに、発生から4日間にわたる二・二六事件は終息した。この間、昭和天皇は断固とした処置を命じながら、下士官に犠牲者が出る事態をのぞまなかったのは言うまでもない。無事解決したことに、深く安堵したことだろう。

 昭和11年の二・二六事件で、昭和天皇は連日、「御格子(就寝)マデ軍服ヲトカセラレズ、又御慰ミ(趣味など)ニ属スル事ハ、一切御中止遊バセラレ」たと、待従武官長の本庄繁が書き残している。 昭和天皇は、さらに事態が悪化すればいつでも前面に立つ覚悟でいたのだろう。
 鎮圧までの間、内大臣ら側近を失った昭和天皇を支えたのは2人の弟、雍人(やすひと)親王と宣仁親王だ。宣仁親王は翌27日に任地の青森県弘前から駆けつけ、昭和天皇のそばについた。
 同日、昭和天皇は《皇后と共に御奥において、雍人親王・宣仁親王と御対面になる。ついでお揃いにて御夕餐を御会食になる》。
会話の内容は明らかでないが、2人の存在そのものが励みになったに違いない。
 閑院宮戴仁(ことひと)親王(参謀総長)や伏見博恭(ひろやす)王(軍令部総長)をはじめ皇族も団結して昭和天皇を支えた。

当時、宮内大臣の湯浅倉平が元老私設秘書の原田熊雄に、こう話している。
「(終息に向け)皇族方が非常に真剣に一致協力されたことについては、自分も非常に感激しておる。中にも、平素黙々として何も言はれない梨本宮(守正王・元帥陸軍大将)の如き方が、陛下に対して泣かんばかりに、『実に軍の長老として申し訳ない(中略)』と言って陛下にお詫び申し上げておられる御様子を拝して、なんともお気の毒に堪へなかった。(中略)かれこれ思ひ合わせると、今度程皇族方が一致協力されたことは、今まで嘗(かつ)てない」*=原田熊雄「西園寺公と政局」5巻11~12ページ引用

 昭和7年の春ごろ、政治のあり方などをめぐり昭和天皇と雍人(やすひと)親王が「激論」を交わしたことは既に書いた。ほかにも平時には、皇族の間で意見が衝突することもなくはない。だが、国家の非常時には天皇を中心に結束する。先の大戦でも、昭和天皇は皇族の一致協力のもと終戦の聖断を下している。
 昭和天皇の日常がふだん通りに戻るのは、3月中旬以降だ。
 3月11日《待従・待従武官等を御相手に乗馬をされる。なお、2月26日の事件以降、これが初めての御運動となる》

日本を震撼(しんかん)させた二・二六事件の背景は複雑だ。当時の陸軍急進派は民間右翼とのつながりが深く、佐官クラス以上の将校、将官は大川周明の、尉官クラスの青年将校は北一輝や西田税(みつぎ)の思想的影響を受けていた。いずれも暴力革命を容認し、目指すは武装クーデターによる国家改造である。特権階級の閣僚、重臣らを倒さない限り、疲弊する農村をはじめ国家を救えないと彼らは考えた。その発想は、むしろ共産主義勢力に近いといえよう。

不穏な動きがくすぶるなか、青年将校のリーダー格だった陸軍大尉の村中孝次と一等主計の磯部浅一が昭和9年11月、クーデターを企てたとして逮捕され、やがて免官となった(士官学校事件)。村中らはそれを統制派の陰謀とみなし、陸軍上層部を公然と批判するようになる。
村中ら青年将校は、皇道派に共感していた。10年7月に皇道派重鎮の真崎甚三郎が更迭されたことと、8月に統制派筆頭の永田鉄山が惨殺されたことに、彼らは強烈な刺激を受ける。直接行動を決意するのはその後、同年12月から翌月にかけてだ。
陸軍上層部は、急進派の多い第1師団を満州に派遣しようとしたが、逆効果だったといえる。焦燥した村中らは決起を急ぎ、2月21日に満州派遣が公表された5日後、帝都の雪を重臣らの鮮血で染めた。

未曾有の事態に陸軍首脳が狼狽(ろうばい)し、当初は決起将校らの暴挙が“義挙”扱いされる雰囲気もあったが、昭和天皇の揺るぎない姿勢により、反乱軍として鎮圧されたことは既に書いた通りだ。
決起将校のうち、牧野伸顕前内大臣を襲撃した河野寿と、リーダー格のひとりだった野中四朗は自決したが、村中らは軍法会議で決起の趣旨を明らかにする道を選んだ。その理由を磯部は、「当局者の『死ぬ、死んでしまへ』といった残酷な態度に反感を抱き、自決を思いとどまった」と書き残している。
7月5日、非公開の特設軍法会議は反乱罪で17人に死刑、5人に無期禁固刑を宣告。村中、磯部らは拳銃刑に処された。
国民よ国をおもひて狂となり
痴となるほどに国を愛せよ
磯部の辞世である。
二・二六事件が、その後の歴史に及ぼした影響は計り知れない。陸軍は、内に対しは急進派を徹底排除して粛軍をはかるとともに、外に向けては第二の暴発をちらつかせて政治への関与を強めた。
その兆候は、早くも後継内閣の組閣時からみられ、昭和天皇を悩ませることとなる。

二・二六事件で岡田啓介内閣が総辞職したことを受け、元老の西園寺公望(きんもち)が静岡県興津町(現静岡市)から上京したのは昭和11年3月2日、事件鎮圧から2日後である。西園寺は昭和天皇の下問に奉答するため、6日まで宮内省内に寝泊まりし、後継首相の人選に当たった。
事件の後始末を担う後継首相の課題は、言うまでもなく粛軍だ。昭和天皇の意向を知る皇族も、元老私設秘書の原田熊雄にこう話している。
雍人(やすひと)親王「どうしてもこの際粛軍をやらなければならないけれども、それにはやはり実力のある相当な人物を後継内閣の首班にしなければ駄目だらう。(中略)総理は軍人でない方が或はよくはないか」
閑院宮戴仁(ことひと)親王(参謀総長)「今まであまりに臭いものに蓋をしろ主義で来たのが今日爆発した原因をなして来てゐるのであって、今度はどうしても思いきつて軍を奇麗にしなければならない」
だが、軍部を抑えられる「相当な人物」となると簡単には見つからない。一部に枢密院議長の平沼麒一郎を推す声もあったが、西園寺はそれを拒み、人選は難航した。
西園寺が白羽の矢を立てたのは、有力華族の近衛文麿である。当時44歳ながら貴族院議長を務め、国民も軍部にも受けがいい。
4日、西園寺は近衛を呼んで言った。
「貴下を奏請しようと思うが、受けろ」
「自分は(健康が悪化していて) とても身体が3カ月と持ちません」
「身体の問題じゃない。こういう際だから多少のことは思い切って受けるのが当然だ」
近衛は困惑したが、西園寺は参内し、半ば強引に近衛を推薦する。同日午後4時、昭和天皇は近衛を呼び、「ぜひとも」の言葉をつけて組閣を命じた。
ところが近衛は、いったん別室に退いて西園寺と協議した後、昭和天皇に再び拝謁して頭を下げた。
「時局重大の時、文麿の健康はとても大任を果たす自信がございません」
近衛が組閣を拝辞した表向きの理由は胸部の疾患だが、国政をまとめ上げる自信がなかったのだろう。待従武官長の本庄繁がこう書き残している。
「近衛公爵は其後、昵懇(じっこん)なる某大将に対し、自分の首相を拝辞したるは、健康の事、固より大なる理由なるも、一に元老が案外時局を認識しあらざること、又一には、陸海軍両相の地位が、現下最も重要なるに拘わらず、現在其人を見出し得ざることが、重大原因なりと語れり…・」
頼みの近衛にも断られ、西園寺は頭を抱えた。
宮内大臣の湯浅倉平が内大臣府秘書官長の木戸幸一に、こうささやいた。
「広田(弘毅)外相はどうだろう」
広田は対中国融和政策を推進した外交官で、軍部と渡り合った実績もある。木戸から話を聞いた西園寺は、「それも一案だなア」とうなずいた。
5日《(昭和天皇は)午後三時二十三分、御学問所において公爵西園寺公望に謁を賜い、後継内閣の首班として外務大臣広田弘毅を推挙する旨の奏上を受けられる。同五十二分、(中略)お召しにより参内の広田弘毅に謁を賜い、組閣を命じられる》

大命を受けた広田は果敢だった。ただちに閣僚人事に着手し、外相に吉田茂、海相に永田修身、陸相に寺内寿一を内定したほか、東京朝日新聞副社長の下村宏を拓相に登用。立憲政友会と立憲民政党からも2人ずつ入閣を求め、6日中に組閣できる見通しをつけた。  だが、ここで陸軍から猛烈な横やりが入る。「吉田は牧野(伸顕元内大臣)の女婿だからいかん」「朝日新聞は自由主義的だから下村もいかん」と閣僚の顔触れを批判し、「組閣方針に同調し難い」と、寺内が入閣辞退を申し入れてきたのだ」

昭和天皇は、陸軍の横やりを優慮した。

7日《武官長をお召しになり、陸軍の真意が広田内閣の絶対排斥にあるか否かを取り調べるよう御指示になる。(中略)翌八日朝、武官長に対し、新聞が報じるところの軍部要求の強硬な様子につき御下問になる》
昭和天皇は、国内経済などに悪影響を及ばさないよう、一刻も早い組閣を望んでいたのである。
陸軍がへそを曲げたままではやりにくい。広田は閣僚人事を練り直し、吉田や下村らを名簿から外した。しかし、8日午後に陸軍から「政友会と民政党からの入閣を1人ずつにしてほしい」と言われ、天を仰いでさじを投げた。
9日未明、広田の側近が寺内に告げた。
「組閣遂にならず、軍部、組閣を阻止するということを明日の新聞に発表いたしますが、どうか御承知願います」
寺内は慌てた。昭和天皇が激怒する光景が、目に浮かんだことだろう。広田のもとに特使を送って再協議し、組閣を了承した。午前2時すぎだったという。
9日夜、広田は参内し、昭和天皇に閣僚名簿を提出した。だが、陸軍の手綱を引くには、広田は力不足だったようだ。内閣発足後も陸軍に押され、パンドラの箱を開けてしまうのだ。

陸軍の横やりにより、難産の末に発足した広田弘毅内閣だが、その使命が二・二六事件後の「粛軍」にあることには変わりはない。 発足から1カ月後の昭和11年4月下旬、陸軍は「粛軍」のためとして、軍部大臣現役武官制の復活を提案した。「軍人の思想が混迷する中、命令権をもつ現役将官でなければ陸相は勤まらない」などというのが、復活の理由である。
陸海両相は現役将官に限るとした軍部大臣現役武官制は明治33年、ときの山県有明内閣が軍部の政治的発言権を確保するために導入した制度だ。軍部の支持がなければ陸相、海相の候補者は得られず、内閣を組織できなくなる。その弊害は大きく、それを復活すれば、軍部の政治関与はますます強まるだろう。
だが、広田は深く考えなかったようだ。陸軍から「予備役となった皇道派の将官が陸曹になれば再び重大事件が起こるかもしれない」と脅され、あっさり了承してしまう。閣議でもほとんど議論にならず、昭和11年5月18日、陸海両相の管制が改革され、現役武官制が復活した。
以後、軍部の政治関与に歯止めが利かなくなる。
もう一つ、広田内閣が取り組んだ政策で、禍根を残したものがある。日独防共協定だ。
ソ連の脅威に対抗するため、陸軍主導でドイツとの秘密交渉が始まったのは前年の春頃とされる。外務省欧米局長の東郷重徳が「ナチズムの宣伝の具に利用されるだけだ」などと反対し、いったんは棚上げされたものの、中国大使の有田八郎が外相に起用されたことで風向きは変わった。
反ソ傾向の強い有田は日独提携の必要性を認め、反対していた東郷も、⓵ソ連を過度に刺激して戦争を誘発しない ②列国に不要な不安を抱かせない ③日独協議と並行して日英協議も行う―などの条件をつけて本格交渉に乗り出していく。
吉田茂の外相起用が陸軍に潰されなければ、ありえない選択肢だっただろう。

11月25日、共産主義的破壊活動に対する相互通報・防衛協議などを定めた防共協定が日独間で調印された。ソ連からの「挑発によらざる攻撃」を受けた場合の秘密付属協定も結ばれたが、列国に配慮し、半ば骨抜きにされた内容だった。
それでも列国の反発は予想以上に大きく、成立寸前だった日ソ漁業条約改定の調印をソ連が拒否したほか、日英協議にも失敗してしまう。
日独防共協定はやがて、日独伊三国同盟へとつながり「日本を破滅の戦争へと導いていくのである。

広田弘毅内閣は、得意としていた対中外交でも不運だった。中国で1936(昭和11)年12月に起きた西安事件が、関係改善の道を閉ざしてしまうのだ。
中国は当時、国共内戦の最終局面を迎えていた。蒋介石の国民党軍は34年10月、毛沢東らの中国共産党が支配する瑞金(現江西省瑞金市)を攻略。共産党軍は戦いながら西へ北へと逃れ、36年10月に延安(陝西(せんせい)省延安市)にたどり着く、長征または西遷の名で知られる、あてのない退却行軍。移動距離は1万2500㌔に及び、当初30万人の兵力が4万人足らずに激減したともいわれる。*=岡本隆三著(中国革命征史)より。兵力の数は諸説ある=

長征を殲滅(せんめつ)の好機と見た蒋介石は、満州事変で失脚した張学良を討伐副司令官に任命し、総攻撃を命じた。だが、張の軍隊はまともに戦おうとしない。このため蒋は36年12月上旬、討伐軍の司令部のある西安(陝西省西安)に乗り込み、張の軍隊を激しく叱責した。
事件が起きたのは、その2日後である。
12月12日早朝、蒋の宿泊舎を、張の軍隊が襲撃した。蒋は裏山に逃れたものの、やがて捕らえられ、張の拠点に連行される。張は、直立不動で言った。
「是非とも委員長(蒋は当時、国民政府軍事委員長)にお聞きいただきことがあります」
「私をまだ委員長と呼ぶのか。上官と認めるなら、命令に従って南京か洛陽に送り返せ。さもなければ、即座に射殺しろ」
激怒する蒋を2週間にわたり監禁し、張が懇請したのは、⓵内戦の停止 ②政治犯の釈放 ③孫文の遺嘱の尊守 ④救国会議の即時開催―など8項目の要求だった。これは、共産党の主張に近い。実はこの時、張は共産党と内通していたのだ。蒋は一切の要求を拒絶した。

説得に失敗した張は共産党に救援を求める。延安からやってきたのは、ナンバー2の周恩来だ。周は、蒋救出のため西安入りした妻の宋美齢らに接近。続いて蒋と会見し、内戦停止などの言質を得たとされる。蔣介石は12月25日。解放されて南京に帰還した。
西安事件は、多くの謎に包まれている。確実に言えることは、事件後に国民党が共産党への軍事行動を事実上放棄し、壊滅寸前だった共産党が息を吹き返したことだ。同時に、広田内閣の対中交渉は完全に暗礁に乗り上げた。
毛沢東は、「抗日民族統一戦線」の樹立を求めていた。その狙いは、日本軍と国民党軍を戦わせ、共倒れさせることだったとされる。西安事件により、のちの日中戦争は不可避になったといえるだろう。
だが、広田をはじめ当時の日本人は、その重大性にほとんど気づかなかった。

二・二六事件後、昭和天皇を支える環境も大きく変わった。

 何より、内大臣の斎藤実を失ったことは大きい。昭和10年12月に牧野伸顕が辞職した後、後任に斎藤を望んだのは昭和天皇である。斎藤は穏健な国際派だ。朝鮮総督だった頃、武断政治を文治政治に改め、融和に努めた、当時の一般的評価として、イギリスの植民地研究家、アレン・アイルランドがこう書いている。
「彼は(朝鮮で)卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていた」 *=アレン・アイルランド著「THE NEW KOREA 朝鮮が劇的に豊かになった時代」151ページから引用。

 海外に知己も多く、駐日アメリカ大使のグループとは昵懇(じっこん)の間柄だ。斎藤の良識と手腕は、牧野の穴を埋めるに十分だっただろう。信頼する股肱(ここう)を殺害されことに、昭和天皇は「真綿で我が首を絞めるに等しい行為」と激しく憤っている。後任の内大臣には、宮内大臣の湯浅倉平が就任した。

 待従武官長の本庄繁も、女婿の山口一太郎陸軍大尉が 二・二六事件に関与して起訴されたため、道義的責任を感じて11年3月23日に辞職した。
 満州事変時の関東軍司令官だった本庄に対し、昭和天皇は必ずしも最初から全幅の信頼を置いていたわけではない。しかし、その誠実な人柄と献身的な仕事ぶりに、日に日に信頼を深めていたようだ。元老私設秘書の原田熊雄によれば、本庄が折に触れて陸軍上層部に昭和天皇の君徳を伝えたので、「陸軍省や参謀本部の幹部どころの連中が、しきりに陛下の御聡明な点を話し合ふ」ようになってきたという。
 辞職の際、昭和天皇は《御常用の文鎮を御手ずから本庄に下賜される》。後任には陸軍中将の宇佐美美興屋が就任した。

  二・二六事件で重傷を負った待従長の鈴木貫太郎も11月20日、高齢などを理由に辞職した。鈴木は側近中の側近だ。昭和天皇は長年の苦労をいたわり、《御手ずから御硯(すずり)箱を下賜される》。後任は海軍大将の百武三郎である。

 一方、二・二六事件後は国民生活も悪化した。殺害された蔵相の高橋是清は軍事予算の抑制に努めていたが、インフレを招いた。過激右翼などのテロにおびえ、言論の自由も侵害されていく。軍部の権力増大で次第に圧迫される社会状況―。そんな中、帝国議会の重鎮が最後の意地をみせる。

 現在の国会議事堂が落成したのは昭和11年11月、二・二六事件の鎮圧からおよそ8ヶ月後である。

北側に貴族議員(参議院)、南側に衆議院を配置した左右対称形で、65㍍余りの中央塔は当時日本一の高さを誇り、「白亜の殿堂」と称賛された。
 この、落成間もない議事堂で初めて収集それ、広田弘樹内閣を倒壊させたのが第70回帝国議会だ。年明け後の12年1月21日、立憲政友会の浜田国松が、衆議院会議の質問に立った。
 「軍部の人々は大体において、わが国政治の推進力は我らにあり、乃公出(だいこうい)でずんば蒼生(そうせい)を如何せんという概を持っておられる。(中略)この独裁思想、軍部の推進的思想というものが、すべて近年の政治の動揺のもとになっている…」
 陸相の寺内寿一が、渋い顔で答弁した。
 「お言葉の中に、軍人に対していささか侮辱されるような感じを受けるものがありますが…・」
 浜田「いやしくも国民代表者の私が、国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩(けんか)を吹っ掛けられては後へは退けません。私のどの言辞が軍を侮辱しましたか、事実を挙げなさい」
 寺内「速記録をよく御覧下さいまし」
 浜田は闘志をたぎらせ、気迫を込めて言った。
 「あなたも国家の公職者であるが、不徳未熟、衆議院議員浜田国松も、陛下の下における公職者である。(中略)速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君、割腹せよ」
 前衆議院議長の浜田は当時68歳。議員歴33年の長老だ。弁舌を武器にする本会議場にあっては、寺内がかなう相手ではない。狼狽(ろうばい)した寺内は、「よく速記録を御覧下さいまして、御願い致します」とはぐらかすしかなかった。*=翌日の官報号外より。浜田の質問に議場は騒然となり、親軍派の議員からヤジも飛んだが、浜田を支持する拍手の方が多かったという=

 議会史に残る「腹切り問答」である。メンツを潰された寺内は首相の広田に臨時閣議の開催を求め、即時解散を訴えた。
 こんなことで解散するわけにはいかない。広田は、議会を2日間停会させることにしたが、寺内はかたくなで、解散しないなら辞職すると言い出した。
 一向に改まらない陸軍の横暴―。広田は、もはやこれまでと思ったことだろう。1月23日に全閣僚の辞表をまとめ、昭和天皇に奉呈した。
 混乱はなおも続く。次期首相として前朝鮮総督(予備役陸軍大将)の宇垣一成に大命降下したが、広田内閣が復活させた軍部大臣現役武官制により、組閣が“流産”してしまうのだ。

静岡県伊豆長岡町(現伊豆の国市)の別荘に滞在していた前朝鮮総督、宇垣一成のもとに宮中から電話があったのは、広田弘樹内閣が総辞職を表明した翌日、昭和12年1月24日の夜だ。
「陛下のお召です。ただちに参内して下さい」
時計の針はすでに午後8時半を回っていた。宇垣は、「もう東京まで行く汽車がありません。横浜までならありますが、0時過ぎの到着なので明朝早く参内します」といって受話器を置いたが、30分もたたないうちに再び電話が鳴った。
「陛下は、いくら遅くなっても構わない、待っていると仰せです」 宇垣は急いで身支度を整え、汽車に飛び乗った。
横浜から車に乗り継ぎ、参内したのは25日午前1時40分だ。昭和天皇は言った。
「卿に内閣の組閣を命ず。しかし、不穏なる情勢も一部にあると聞く。その点につき成算はあるか」
宇垣は深く頭を下げた。「情勢複雑でございますゆえ、数日のご猶予を御願い申し上げます」
次期首相に宇垣を推薦したのは、元老の西園寺公望(きんもち)だ。宇垣は大正末期、加藤高明内閣の陸相として4個師団廃止など軍縮を断行した実績がある。西園寺は、宇垣なら軍部を抑えられると思ったのだろう。
政財界も宇垣に期待した。元老私設秘書の原田熊雄によれば、宇垣への大命降下に「各政党財閥、ほとんどの国民は挙って非常な賛同であり、非常な好人気であつた」という。
だが、昭和天皇が組閣の成算を危ぶんだように、宇垣内閣を快く思わない勢力があった。陸軍である。
宇垣排撃の急先鋒に立ったのかは、参謀本部作戦部長代理の石原莞爾(かんじ)だ。表向きは「宇垣は三月事件に関係しており、粛軍を進めるのにふさわしくない」だが、本音は「宇垣が首相になれば陸軍の政策要求が通らない」だった。石原は上層部らを説得して回り、陸軍は組閣阻止でまとまった。
教育総監の杉山元が宇垣に忠告する。「ご辞退を願わねばなりません。どうも部内がまとまらない」。陸相の寺内寿一も言う。「陸相の候補者を3人立てましたが、みんなに断られました」
現役将官の陸相候補者を得られなければ、内閣を組織できない。軍部大臣現役武官制があるからだ、窮地に立たされた宇垣は、陸軍に逆らえない聖域、昭和天皇にすがろうとする。

広田弘樹内閣の総辞職により組閣の大命をうけた前朝鮮総督、宇垣一成は予備役の陸軍大将である。もしも広田内閣が軍部大臣現役武官制を復活させていなければ、困難とはいえ、自ら陸相を兼務して組閣することもできただろう。
昭和12年1月25日未明の大命降下から2日後、陸軍から現役将官の陸相候補者を得られなかった宇垣は、参内して内大臣の湯浅倉平に言った。
「組閣の大命を陸軍の二、三の者が阻止するという悪例を残しては断じてならない。陛下からお言葉を下されますよう、取り次いでいただきたい」

このとき宇垣は、事態打開策として ⓵陸相不在のまま首相が陸相の「事務管理」となる ②昭和天皇が現役将官に優諚を与えて陸相に就任させる ③予備役将官を現役に復活させる―の3案を示した。 だが、湯浅は及び腰で、取り次ごうとしなかった。
「そんな無理をなさることはあるまい。あなたにはまだ再起を願わねばならぬこともあるから」*=“優諚”とは、天子のありがたい言葉のこと。

湯浅は、昭和天皇に累が及ぶことを懸念したのだろう。あるいは、側近が襲撃された二・二六事件が頭をよぎったのかもしれない。
一方、昭和天皇はどう考えたか。湯浅から事情を聴たあと、待従武官に《宇垣内閣が不成立の場合、陸軍はいよいよ増長すべしの見通しとともに、一方で優諚を以て宇垣に組閣させた場合、その後は穏やかには収まらざるべしとのお考えを示され》たと、昭和天皇実録に記されている。

1月29日《(昭和天皇は宇垣から)万策尽きたため、大命を拝辞する旨の奏上を受けられる。これに対し、他日奉公の機会を期し自重すべき旨の御言葉を賜う》
宇垣にかかわり組閣したのは、元陸相の林銑十郎だ、林内閣の誕生は、宇垣排撃の急先鋒(せんぽう)だった作戦部長代理の石原莞爾が望んでいたことである。しかし、林はあまりにも政治音痴だった。
林は議会と政党を軽視し、3月に予算案を通過させると、抜き打ち的に解散した。いわゆる「食い逃げ解散」である。この横暴に政党はむしろ奮起し、林内閣との対決姿勢を示す立憲民政党が4月30日の総選挙で圧勝。合わせて全議席の75%を占めた。宇垣内閣の“流産”以来、国民は陸軍への不満を強めており、露骨な政治関与に断然、ノーを突き付けたのだ。
二大政党が終結して倒閣に動けば、内閣はひとたまりもない。林は5月31日、閣僚の辞表をまとめて昭和天皇に提出した。在任わずか4ヵ月だった。
さて、次期首相に誰にするか―。挙国一致の切り札として登場するのは、政財界にも軍部にも人気の高い貴族院議長、近衛文麿だ。

 二・二六事件以降、時局収拾の切り札として、貴族院議長の近衛文麿を首相に推す声は日に日に強まっていた。だが、近衛はその気はなく、健康不安を理由に断り続けていた。
 昭和12年4月末の総選挙から1ヵ月後、政権維持の見通しを失った首相の林銑十郎が近衛に電話をかけ、「自分は辞職するから後任を引き受けてほしい」と要請したときも、近衛は「健康が許さないし、未熟でとてもできない」と拒絶した。林はやむなく、陸相の杉山元を後任に推す意向を漏らしたが、それを知った元老の西園寺公望は顔をしかめた。2代続けての“陸軍宰相”では、とても国家がまとまらない。

 西園寺は私設秘書の原田熊雄に言った。
「はなはだ気の毒であるけれども、結局どうしても近衛よりほかに適任者がいないと思ふ
 近衛、このとき45歳。元老はじめ各界各層からのラブコールである。 昭和10年代の政治家で、近衛ほど後世の評価が分かれる人物は少ないだろう。「悲劇の貴公子」とも、「無責任なポピュリスト」とも評されている。
 才子であることは疑いない。五摂家(関白を独占した公家の頂点に立つ家柄で、近衛・九条・二条・一条・鷹司―の五家)筆頭の名門、近衛公爵家に生まれ、旧制一高から東京帝大哲学科に進んだ後、京都帝大法科に転学。哲学者の西田幾多郎や経済学者の川上肇らに学んだ。25歳で貴族院議員となり、2年後には雑誌論文「英米本位の平和主義を排す」を発表すると、以後、たびたび新聞や雑誌に論文を寄稿し、注目を集めるようになる。

 ただ、近衛には八方美人的な側面があった。大正デモクラシー華やかなりし頃は、議会政治と責任内閣の発展を力説して統制権の独立を問題視していたが、満州事変が起きると陸軍中枢に接近。軍部の政治進出を許容するような言動が目立ちはじめる。
近衛がのちに「ポピュリスト」と批判されるのも、こうした迎合性が伺えるからだろう。
 とはいえ、政府と議会、そして軍部が対立を深める中、「近衛ならば」の期待は大きかった。

 6月4日、近衛内閣が発足する。外相に元首相の広田弘樹を起用し、陸相の杉山と海相の米内光政を留任させ、政党からも2人を入閣させた堂々の布陣だ。昭和天皇は、深く安堵(あんど)したことだろう。
 国民もこぞって歓迎した。東京朝日新聞は「白面の青年宰相、わが内閣史上画時代的」と書き、杉山は「陸軍挙げて近衛公を支持する」と言い、中国からも祝報が寄せられた。
 だが、この内閣の下で日中両軍が衝突し、日本は泥沼の戦争へとはまり込んでいくのである。
第7章では、揺るぎない姿勢で二・二六事件を終息に導いた昭和天皇の姿をみた。しかし、その後も陸軍の政治介入は強まる一方だ。第8章では、日中戦争の勃発に昭和天皇がどう対処したかをふり仰ぐ。

 つづく 第8章 泥沼の日中戦争