満州に溥儀をトップとする新国家をつくり、中国と分離する構想は、参謀本部第一部長の健川美次らが提案したことだ。満州領有の絵を描いた関東軍作戦主任参謀の石原莞爾は当初、溥儀の担ぎ出しは時代錯誤として反対したが、最終的に同意する

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用

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ふりさけてみれば                   第5章 満州事変と国際孤立

二・二六事件後、昭和天皇を支える環境も大きく変わった。

何より、内大臣の斎藤実を失ったことは大きい。昭和10年12月に牧野伸顕が辞職した後、後任に斎藤を望んだのは昭和天皇である斎藤は穏健な国際派だ。朝鮮総督だった頃、武断政治を文治政治に改め、融和に努めた、当時の一般的評価として、イギリスの植民地研究家、アレン・アイルランドがこう書いている。

「彼は(朝鮮で)卓越した改革を成し遂げた。教育の問題においては、実に惜しみなく人々の教養に対する意欲に力を貸し、政治的野心については、無益に独立を望む気持ちを助長するものは如何なるものにも断固反対する一方、熱心に地方自治を促進し、日本人と朝鮮人の関係に友好と協力の精神をしみ込ませようとしていた」 *=アレン・アイルランド著「THE NEW KOREA 朝鮮が劇的に豊かになった時代」151ページから引用。
ふりさけみれば  
この題字は昭和天皇が昭和64年度の歌会始に用意されたもであり、自らは詠むができなかった句である。

  清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀(宣統帝)が暮らしている天津日本租界の仮寓(かぐう)に、関東軍の奉天特務機関長、土肥原賢二が訪れたのは、1931(昭和6)年11月初めの夜である。
 「関東軍は誠心誠意、満州人民が自己の新国家を建設するのを援助します。陛下におかれましては、すみやかに祖先発祥の地に帰り、親しく新国家の指導にあたられますよう、お願い申し上げます」
溥儀画=溥儀
 1911〜12年の辛亥革命で退位した溥儀は、24年には北京の紫禁城から追放され、北京に近い日本租界で日本の庇護(ひご)をうけながら、皇帝復活の非を夢見ていた。土肥原の申し出に、溥儀の胸は高鳴ったことだろう。
 「その新国家、どのような国家になるのですか」
 「独立自主の国で、宣統帝がすべてを決定する国家であります」
 「私が知りたいのは、その国家が共和制か、それとも帝政か、ということです」
 「それは。満州へ行かれれば解決しましょう」
 「帝政なら行きますが、違うなら行きません」
 土肥原は、温厚な微笑みを崩さずに言った。
 「帝国です。それは問題ありません」
 溥儀は、満足の笑みを浮かべた。
 「行きましょう」【土肥原が溥儀を訪ねた際のやりとりは、愛新覚羅溥儀著「わが半生〈上〉」(筑波書房)より】
 満州に溥儀をトップとする新国家をつくり、中国と分離する構想は、参謀本部第一部長の健川美次らが提案したことだ。満州領有の絵を描いた関東軍作戦主任参謀の石原莞爾は当初、溥儀の担ぎ出しは時代錯誤として反対したが、最終的に同意する(*2)。その際、石原が考えたのは、日・満・蒙・漢・韓の五民族協和による王道楽土で、日本からも中国からも干渉されない完全独立の国家モデルだった(*3)。 一方、幣原喜重郎をトップとする日本の外交当局は溥儀の担ぎ出しを警戒した。満州に新国家がつくられれば、石原の理想はどうあれ各国は日本のかいらい国家とみなすだろう。国際連盟を舞台とする交渉は完全に行き詰まり、国際的に孤立するのは必至である。

 のちに土肥原が語ったところでは、外務省は当時、溥儀を天津日本租界から出さないようにし、もしも出たら、「殺しても構わない」とする意見まであったという。(*4)
 土肥原と会った数日後、溥儀は関東軍の手引きでひそかに天津を脱出し、満州に入った。翌年3月1日には満州国建国宣言が発表され、溥儀は国家元首の執政に就任。その2年後に皇帝に即位する。
 満州事変は、ついに後戻りできないところまできてしまったのだ。
 ▼*2=阿部博行著〈上〉」(法政大学出版局)より ▼*3=角田順編「石原莞爾資料」(原書房)より ▼*4=土肥原が昭和18年12月に語った「土肥原大将談」】

昭和6年9月22日の新聞各紙に、特大の見出しが躍った。

 「軍司令官の独断に基き 朝鮮軍愈(いよい)よ満州出動」
 (読売新聞)
 「支那側の暴慢に憤激し 皇軍積極行動に決す」
 (大阪毎日新聞)
 「出動の朝鮮軍 奉天に到着す 一部はさらに前進」
 (大阪朝日新聞)
 天皇の裁可を受けずに軍を管轄外に動かすのは、天皇の統師権をないがしろにするものだ。18日に奉天(ほうてん)の柳条湖で起きた日中衝突以降、朝鮮軍司令官の林銑十郎は、謀略派の参謀らが求める独断出兵を躊躇(ちゅうちょ)していたが、とうとう引きずられてしまったのである。
地図
 陸軍中央も引きずられた。19日に出兵中止を昭和天皇に奏上したばかりの参謀総長と陸相は一時辞職も考えたが、新聞各紙が陸相の非を責めず、国民の多くが独断出兵を支持したため、「出てつた以上、仕方がない」と開き直ったのだ(*1).
 風前のともしびとなる不拡大方針―。政府と宮中は頭を抱えた。当時の陸軍について、侍従武官長の奈良武次はこう書き残している。
 「陸軍大臣も参謀総長も軍司令官も威厳がなく、中堅層殊に出先軍隊の不軍紀下剋上行為を制止し能はざる状態にあるを認め 遺憾至極将来恐るべきを感ず」(*2)
 それより前、奈良は紛争拡大を懸念する宮中幹部に
「陸軍中央も相当強力に関東軍の行動抑制しているので心配はないだろう」と考えていた。
 しかし、その情勢判断は間違っていた。奈良は続けて書く。
「予の不明出先軍隊意外の専断は陛下に対し奉(たてまつ)り誠に申訳なし」「軍部の高級者が威厳なく若手に引摺られ居る状況なるを(中略)痛嘆す」(*3)
政府は結局、22日の閣議で朝鮮軍混成旅団の越境出兵に伴う経費支出を承認。首相の若槻礼次郎が急ぎ参内し、独断出兵に賛成しないものの事後承諾したことを、苦渋の思いで奏上した(*4)
一方、関東軍の怒涛(どとう)の進撃に、なすすべもなく押されていた中国側だが、紛争拡大の様相を見て、国際連盟に理事会招集を要求した。
 満州での軍事行動に、国際社会が厳しい目をむけていたことは言うまでもない。朝鮮軍の独断出兵は、日本の立場をさらに悪化させたといえるだろう。若槻政権が推進し、昭和天皇を支持する国際協調路線は、最大のピンチを迎えようとしていた。
 ここで、外相の幣原喜重郎が驚異的な粘り腰をみせる。
注*1=6年9月22日の読売新聞より。当時の新聞によれば、柳条湖事件を好機として満州問題を解決せよとする声は一般国民のほか財団からも上がっており、各地で開かれた在郷軍人会主催の演説会はどこも満員だったという。
*2=奈良武次記「侍従武官長奈良武次日記・回願録」4巻161頁から引用
*3=同4巻162、163頁から引用
*4=宮内庁編集「昭和天皇実録」18巻より
 (産経国際書会)

満州事変が勃発した昭和6年9月、張学良が率いる満州の中国軍は22万、対する関東軍は1万あまりで、20倍以上の兵力差があった。もしも中国軍が徹底抗戦に動いたら、関東軍といえども容易に進撃できなかっただろう。
 だが、当時北京にいた張学良は、抵抗するなと指示を出した。
「私はあの時、日本軍があそこまでやるとは予想だにしていませんでした、絶対あり得ないと思ったのです。私は日本のこの軍事行動によって、我々を挑発しようとしているのだと思いました。ですから、命令を出して抵抗させなかったのです」
 晩年の張学良がNHK取材班に語った言葉ある。
 なぜ、日本軍は「あそこまで」やったのか。先の大戦後は「侵略」の言葉とともに語られることが多いが、ことはそう単純でない。
 満州の張学良政権と南京の蒋介石政権が、極端な排日政策を採っていたことは既に書いた。満州事変当時、アメリカの上海副領事だったラルフ・タウンゼントは、中国の排日政策は国内の不満を外に向けさせるためであると指摘した上で、こう書いている。
「確かに、条約、協定、議定書などに従えば、日本が満州を占領したのは悪い。しかしながら、見方を変えれば日本が正しかったとも言える。いくら条約を結んでも、日本の権益を不安に曝す中国人の妨害工作・破壊活動は止まらない。こういうことが何年も続いた。(中略)中国にいる数千の米英人は、日本人と同じ苦悩を味わっているから、気持ちがよくわかる。大半は内心、日本を応援したと思う」
 政府の不拡大方針に反して暴走する関東軍を、当時の国民世論は熱狂的に支持した。中国の不法行為に断固たる措置をとらない外相、幣原喜重郎の方針にフラストレーションがたまっていたからである。
 関東軍の暴走を止めようとした奉天総領事代理の森島守人ですら、のちにこう書いている。
「幣原外相がワシントン会議後の国際的風潮を理解し、かつこれが実現に渾身(こんしん)の勇を揮(ふる)った点において、第一人者たることは何人も否定し得ないが、(中略)あまりにも内政に無関心で、また性格上あまりにも形式的論理にとらわれ過ぎていた。満州に対する、幣原外交の挫折は、要するに内交における失敗の結果で、当時世上には春秋の筆法をもってせば、幣原が柳条湖を惹起(じゃつき)したのだと酷評した者すらあった」
 満州事変の処理に失敗し、国民からの支持を失った幣原は、内閣総辞職とともに下野した、昭和6年12月の事である。

昭和6年12月12日、若槻礼次郎内閣の総辞職をうけ、組閣の大命を受けたのは野党第一党の立憲政友会総裁、犬養毅である。
元老の西園寺公望(きんもち)が参内し、犬養を次期首相に推薦したとき、昭和天皇はこう言った。
「後継内閣の首班になる者に対しては、特に懇に西園寺から注意してもらひたい。即(すなわ)ち今日のやうな軍部の不統制、並に横暴、―要するに軍部が国政、外交に立ち入って、かくの如きまでに押し通すといふことは、国家のために頗(すこぶ)る憂慮すべき事態である。自分は頗る深優に堪へない。この自分の心配をこころして、お前ら充分犬養に含ましておいてくれ」(*1)
政友会は親軍的な色彩が強い。昭和天皇は、軍部の暴走による国際関係の険悪化を危ぶんだのだろう。
犬養は、この思いを重く受け止めたようだ、組閣から約半月後、犬養から満州情勢について奉上を受けた昭和天皇は、≪待従長鈴木貫太郎に対し、犬養首相について、局にあれば在野の時分とは自ずから改まり幣原喜重郎前外相と別に変らないとご満足の意≫を示したと、昭和天皇実録に記されている。
だが、犬養をもってしても、関東軍の手綱は引けなかった。関東軍は年明けの7年1月3日、張学良が拠点としようとしていた錦州(現中国遼寧州錦州市)を占領し、国際社会の、ことに米国の憤慨を買った。
衝撃的な事件が追い打ちをかける。
1月8日、陸軍士官兵式を終えて皇居に戻る昭和天皇の儀仗(ぎじょう)行列に、沿道から手榴(しゅりゅう)弾が投げ込まれた。昭和天皇の御料車から約30b離れたところで炸裂(さくれつ)。天皇は無事だったが、行列の近衛兵1人、馬2頭を傷つけた。のちに桜田門事件と呼ばれる。白昼のテロリズムだ。犬養は色を失い、閣僚の辞表をまとめて即日提出した。
一方、昭和天皇は冷静だった。
≪還幸後、侍従長鈴木貫太郎より(中略)爆弾を投擲(とうてき)したのは朝鮮人であることをお聞きになる。その際、満州問題に対する御懸念より、種々政務に関して御下問になり、(中略)内大臣牧野伸顕に対しても満州問題を憂慮する旨を述べられる≫
昭和天皇は自身の安全を気にするより、国家の安全が気になっていたのだ。
犬養内閣の辞表は、昭和天皇の意向により取り下げられ、≪内外時局非常の際につき留任すべき旨の御言葉≫が下された。
この日、侍従次長の河井弥八は日記に書いた。
「陛下の御態度は御沈着を極め、還幸後も右顛末(てんまつ)に付ては御下問なく、却(あえ)て米国の通牒(つうちょう)如何を問はせ給(たま)ひしことなど、感激に堪えず」

【米国の通牒】とは、スティムソン米国務長官が満州事変をめぐって戦線不拡大を要求したこと。
注 *1=原田熊雄述「西園寺公と政局」(岩波書店)2巻160頁かに引用
 (産経国際書会)

満州事変をめぐり、昭和天皇を悩ませた問題がもう一つある。

昭和7年1月18日《御学問所において陸軍大臣荒木貞夫に謁(えつ)を賜(たま)い、満州事変に対する国民の同情、並びに満州出征軍への国民の後援の熾烈(しれつ)な情況につき奏上を受けられる》
事変の不拡大を願う昭和天皇は、軍部を熾烈に支持する世論を、どう思ったことだろう。
国民の熱狂をあおったのは、新聞報道である。
統師権干班問題に揺れた昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の頃、新聞各紙は浜口雄幸内閣の軍縮方針を支持し、軍部の横暴に批判的だった。しかし、満州事変が勃発すると論調が一変する。
大阪朝日新聞は6年10月12日の重役会議で「現在の軍部、軍事行動に対して絶対擁護、批判を下さず極力これを支持すべきこと」を決定。
東京日日新聞は同月の社説で「強硬あるのみ―対支折衝の基調」(1日)、「進退を決せよ―無力な現内閣」(9日)「最終的対支抗議―国民の声なり」(10日)―と書き立て、政府の不拡大方針を痛烈に批判した(*1)
7年1〜3月、満州事変が上海に飛び火し、日中両軍が激しく衝突すると(第一次上海事変)、東西大手2紙の論調に拍車がかかる。「進撃」「爆撃 !」「突撃 !」の見出しを踊らせ、国民の熱狂をさらにあおった(*2)
政府は、国際社会が注視する上海での軍事行動を最小限に抑えたかった。だが、新聞と世論を味方につけた陸軍の要求に抗しきれず、2月23日、2個師団の増派を決定する。
その軍司令官となる白川義則が出征前に参内したとき、昭和天皇は言った。
「3月3日の国際連盟総会までに何とか停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られた。お前ならば守ってくれるであろうと思っている」(*3)
白川は、昭和天皇の目に深い憂慮が浮かぶのを見たことだろう。3月1日に上陸して中国軍を撃退すると、追撃戦を求めるのをおさえ、3日に戦闘中止を宣言した。
歴史はときに残酷だ。昭和天皇の意向を守った白川だが、4月29日、上海で行われた天長節式典で朝鮮半島の活動家が投げた爆弾に吹き飛ばされ、約1カ月後に絶命する。
昭和天皇は白川の忠義をいつまでも忘れなかった。翌春の一周忌を前に、和歌を詠んで遺族に送った。
をとめらの ひなつる日に いくさば とゝめしさを
おもひてにけり 
「昭和天皇実録」20巻より
注 (*1)=前板俊之著「太平洋戦争と新聞」
  (*2)=慶応義塾大学法学部政治学科玉井清研究会編「第一次上海事変と日本のマスメディア」より
  (*3)=寺崎秀成、マリコ・テラサキ・ミラー編著「昭和天皇独白録」(文芸春秋))36nから引用
 昭和六年秋から七年春にかけて、日本国内には、憲政を揺るがすテロリズムの嵐が吹き荒れた。
 まずは陸軍、急進派将校らによる十月事件だ。
 陸軍中枢が関与したクーデター未遂事件(三月事変)を起こし秘密結社「桜会」のメンバーらは6年10月、満州事変に呼応した軍事クーデターを再び計画、歩兵10個中隊などを動員して全閣僚を襲撃するとともに、警視庁などを占拠し、陸軍中将の荒木貞夫を首班とする軍事政権を樹立しようとしたが、直前に計画が漏れ、10月17日に首謀者12人が憲兵隊に検束された。
 未遂に終わったものの、この事件が政党内閣に与えた影響は大きかった。高まる政党批判に憔悴した閣僚の一部が立憲政友会と立憲民政党の大連立を画策。閣内不一致で若槻礼次郎内閣が総辞職する主因になる。
 不穏な動きは、右翼活動家にも伝染した、彼らが標的にしたのは財界人らである。
 6年秋以降、井上準之助の金解禁政策が近く崩壊するとみた三井、三菱、住友など財閥系銀行はドルの思惑買いに走り、昭和恐慌で一般国民が苦しむ中、巨額の利益を上げた。これに憤激した右翼団体「血盟団」の構成員が、7年2月9日に井上を射殺、3月5日には三井合名会社理事長の団琢磨を射殺する。
 血盟団の暗殺リストには、政財界の要人のほか元老の西園寺公望(きんもち)、内大臣の牧野伸顕ら宮中側近も含まれていた。昭和天皇は、憲政を踏みにじるテロリズムを深く嘆いたことだろう。
 軍部の急進将校や右翼活動家らが目指したのは、昭和天皇を中心にする全体主義国家だ。しかし、彼らは昭和天皇がどんな気持ちでいるのかを、考えようとはしなかった。
 十月事件のあったころ、満州事変を起こした関東軍の内部では、こんな戯言(ざれごと)まで流れていたという。
「陸軍大臣が御裁可を仰ぐために参内したところ、三時間待たされた、どうしてそんなに待たされたかと思ってきいたところが、陛下は内大臣、侍従長を相手に麻雀をしておられた」
 現実の昭和天皇は、軍部などの暴走による憲政の崩壊を憂慮し、一時不眠状態にあった。西園寺は7年2月こう語っている。
「陛下は、陸軍の跋扈(ばっこ)について頗(すこぶ)る御心配で、実は夜もろくろくお休みになれないらしく、11時頃侍従を侍従長の家に遺(つか)はされて、『すぐに来てくれ』というふやうなお言葉もあつたとか、まことに畏(おそ)れ入ったはなしである・・・」(*)原田熊雄述「西園寺公と政局」2巻232頁から引用。
そして、5月15日、憲政の常道にピリオドを打つ重大事件がおきる。

昭和7年5月15日、日曜日の首相官邸は、訪問客の予定もなく、ふだんより警備がてうすだった。
 午後5時25分頃、一台のタクシーが猛スピードで表門を走り抜け、官邸表玄関に横付けした。中から5人の海軍将校らが降り、官邸内に入り込んだ。
 将校らは、中にいた警備の警察官に拳銃を突き付けて言った。
「首相の居場所を言え」
 警察官が断ると、将校の1人が発砲。裏門から侵入した4人の士官候補生らとともに、首相の姿を求めて官邸内を探し回った、
 このとき、首相の犬養毅は食堂にいた。

「総理、大変です。暴漢が乱入しました。早くお逃げください」

「そいつたちに会おう。会って話せばわかる」
そこへ、将校らが乗り込んで来た。犬養を見るなり1人が拳銃の引き金を引いたが、不発だった。
「まあ待て、撃つのは何時でもできる。あっちへ行って話を聞こう」
 犬養は明治23年の第一回衆議院選以来、連続18回当選を重ねきた言論の府の最重鎮だ。新聞記者としての経験もあり、言論の力を信じていた。将校らを客間に案内する姿はいつもと変わらなかったと、目撃者が話している。
 だが、狂信的な将校らにとって、犬養の落ち着きはかえって逆効果だったようだ。
 客間に座った犬養が、「靴ぐらい脱いだらどうか」と気さくに言ったとき、将校が叫んだ。
「撃て !」
 休日の官邸に、2発の銃声が響きわたった。
 将校らが去り、古参の女中らが客間に駆け込んだ時、犬養は顔から血を流していたものの、意識はまだはっきりしていた。
「いまの若い者をもう一度呼んで来い。話して聞かせてやる」犬養ならではの、渾身(こんしん)の気迫であろう。
同日午後11時25分頃、76歳の老宰相は、息子で政治家の健(たける)から「お父さん、後は安心してください」と声をかけられて、静かに息を引き取った。
【*=五・一五事件の経緯と犬養首相らの発言は、原秀男ら編「検察秘録五・一五事件T〜V〈匂坂資料1〜3〉」この日、実行犯として関与したのは海軍士官10人、陸軍士官候補生11人、右翼団体に率いられた農民決死隊などで、首相官邸のほか内大臣官邸、警視庁、政友会本部、三菱銀行などを襲撃した。帝都を混乱させ、軍事政権樹立に結び付けるのが目的だった】
 のちの二・一六事件と並び、戦前の「軍服テロリズム」を象徴するとされる五・一五事件―。それが日本の政治形態に及ぼした悪影響は計り知れない。
 憲政の神様と言われた犬養の死とともに、立憲政友会と立憲民政党の2大会派が交互に組閣する憲政の常道も、死んでしまうのである。【*=尾崎行雄を憲政の神様とすることも多い】

 昭和7年5月15日の五・一五事件は、発生から1時間ほどで昭和天皇の耳に達した。

 15日午後《六時三十分過ぎ、急遽(きゅうきょ)参内の侍従長鈴木貫太郎に謁(えつ)を賜(たま)い、内閣総理大臣犬養毅が首相官邸において遭難した旨の内閣書記官よりの電話連絡につき、奏上を受けられる》【*=宮内庁編集「昭和天皇実録」19巻75頁から引用】
 事件を起こした海軍将校らは首相のほか、内大臣の牧野伸顕をも標的にした。将校らは牧野を、「袞竜(こんりょう)の袖に隠れた権勢を振ひつつある特権階級の代表」と見なしていたのだ
【*=堀真清著「五・一五事件の海軍将校たち」早稲田政治経済学雑誌333号収録より】。
ただ、外から官邸内に手榴(しゅりゅう)弾を投げつけられただけで、牧野は無事だった。
 翌16日《内大臣の牧野伸顕に謁(えつ)を賜(たま)い、御機嫌伺いを受けられる。昨日の事件に関し、牧野の無事を悦ぶ旨の御詞あり》
 海軍将校らは、なぜ首相暗殺という重大テロを起こしたのか。背景の一つに、農村問題がある。
 6年から7年にかけ、昭和恐慌の煽りを受けた農村は貧困のどん底にあった、五・一五事件からほぼ半月後、6月2日の東京朝日新聞が書く。
「農産物価の激落、租税公課の重課、背負ひ切れぬ借金、深刻化して行く農業恐慌の重圧に没落の途を急ぐ―それが直視されたる我農村の現実の姿だ」
 昭和天皇も、農村問題に心を痛めた。この頃、農家の生活状況や救済策などを首相や農相に繰り返し質問する様子が、昭和天皇実録に記されている。
 一方、軍隊には農村出身の下士官兵が多い、五・一五事件を起こしたのは海軍中尉や陸軍士官候補生ら尉官クラスで、下士官兵と身近に接している。彼らは、農村などの窮状を救うため「隋落せる政党、財閥、特権階級の形成に居る醜悪なる現在の政治権力を破壊し、建国精神に基づいた政治の行われる皇国日本」を、暴力によってでも作ろうとした。
「建国精神に基づいた政治と云うふのは、天皇の御意図が其儘(そのまま)国家統治の上に反映し、(中略)君民一体の政治を行ふと云うことであります」と、内大臣襲撃に関わった陸軍士官候補生が軍法会議の予備尋問で語っている【*=原秀男ら編「検察秘録五・一五事件T〈匂坂資料T〉収録の「坂元兼一に対する予備訊問調書写」引用」
 実際の昭和天皇の意図は憲政と平和を重んじることだが、彼らは、内大臣ら側近が天皇の目を「曇らせている」と邪推した。
 純真であればあるほど、現実の政治に憤慨し、過剰な思想を抱きやすい。一般社会から離れて集団生活を送る軍隊内ではその傾向が強く、当時、天皇親政による国家改造を望む声が少なくなかった。
 その中には、昭和天皇の弟、雍仁(やすひと)親王も含まれていた。

 五・一五事件の3日後、昭和7年5月18日《午後4時、皇后と共に奥内謁見所にお出ましになり、翌十九日習志野に出発の昭和天皇の弟、雍仁(やすひと)親王と御対面になる。引き続き御談話になり、雍仁親王は五時十五分退出する。親王の退出後、直ちに侍従長鈴木貫太郎に謁(えつ)を賜(たま)う》(*=昭和天皇実録十九巻七十八頁引用)
 翌年に侍従長武官長となる本条繁によると、このとき、昭和天皇と雍仁親王は「激論」を交わしたという。本条の日記に、こう書かれている。
「秩父宮( 雍仁親王)殿下参内、陛下に御対談遊ばされ。切(しき)りに陛下の御親政の必要を説かれ、要すれば憲法の停止も亦止むを得ずと激せられ、陛下との間に相当激論あらせられし・・・・」
 雍仁親王は大正九年十月に陸軍士官学校に入学して以来、長く軍務についていた。昭和六年十一月の陸軍大学卒業時には、恩賜の軍刀を与えたらどうかと教官陣が話し合うほど、成績優秀だったと伝えられる。当時は歩兵第三連隊六中隊長で、部下の兵士らと身近に接し、同年代の将校らとの交流も多かった。彼らの全体主義的発想に影響を受けることもあっただろう。「陛下の御親政」や「憲法停止」の言葉の中に、それがうかがえる。
 昭和天皇は雍仁親王と11歳まで生活をともにし、何をするかも一緒だった。弟思いの兄と、兄思いの弟は、一つの菓子分け合い、戦争ごっこでも決して敵味方に分かれなかった。
 それから20年。意見が合わなくなってしまったことに、昭和天皇はどんな気持ちでいただろう。
 雍仁親王は第一位の皇位継承資格者だ。集団生活で思考が固定化されやすい連隊勤務に長期間とどめておくことを、昭和天皇は憂慮した。
 5月28日《侍従長武官奈良武次をお召しになり、暫時御相談になる。青年将校の言動が過激なため、雍仁親王を他所に転補する必要なきや、陸軍大臣荒木貞夫にも協議するように仰せられる》(*=「昭和天皇実録」19巻85頁から引用
 宮中側近も、雍仁親王の環境を心配したようだ。6月21日には有力華族の近衛文麿、元老私設秘書の原田熊雄、宮内大臣の一木喜徳郎、内大臣府秘書官長の木戸幸一が集まり、「秩父宮の最近の時局に対する御考が稍々(やや)もすれば軍国的になれる点等につき意見を交換」したと、木戸が日記に書いている。
 内外の情勢が悪化し。皇族の間すら全体主義的な風潮が入り込む中で、昭和天皇は憲法に基づく政治を保持しようとする。
 暗殺された犬養毅の後継首相を推薦するのは元老、西園寺公望(きんもち)の役目だ。その際、昭和天皇は3つの希望を伝えた。

 満州事変をめぐり、国際連盟理事会の派遣を決めたのは昭和六(1931)年12月である。

 イギリス元インド副総督のリットンを団長とし、フランス植民地軍総監のクローデル、元駐独イタリア大使のアルドロバンディ、元ドイツ領東アフリカ総督のシュネー、米元大統領副官のマッコク―の5人で構成。団長の名を冠し、リットン調査団と呼ばれた一行は7年2月29日、横浜港に到着した。【*=ハインリッヒ・シュネー著「『満州国』見聞記―リットン調査団紀行記」より
 調査団の派遣には日本政府も同意している。一行を迎えた国内世論はおおむね好意的だった。
 昭和天皇も調査団を歓迎した。
 同年3月3日《午後零時三十分、皇后と共に豊明殿においてリットン一行のため午餐を催され、雍仁(やすひと)親王・同妃勢津子、鳩彦(やすひこ)王・同妃允(のぶ)子内親王と御会食になり、外務大臣芳沢謙吉ほか十八名に御陪食を仰せ付けられる。おわって、牡丹の間において珈琲を供される》【*=昭和天皇実録19巻39頁引用】
 調査団の一員、シュネーはこう書き残している。
「東京滞在の最終日、われわれは天皇からカモ猟のお招きを受けた。聞くところによると、これは皇室がわれわれに深い好意をよせているしるしであった」
 だが、好意を持たなかった勢力もある。関東軍だ。満州独立を画策する関東軍は、調査団の派遣を知ると水面下での工作を活発化させ、調査団が日本に滞在していた3月1日、満州国の建国宣言が発表される。関東軍は、調査団が満州入りする前に既成事実をつくろうとしたのだ。
 当時の首相、犬養毅は国際社会の反発を恐れ、満州国を当面は承認しない方針をとった。犬養暗殺後に首相になった斎藤実もこの方針を引き継いだが、承認を求める声は日増しに強まっていく。
 関東軍は政府に対し、満州国の即時承認を要求。政権奪取のため軍部に取り入ろうとした立憲政友会と立憲民政党も、満州国承認決議案を衆院本会議に共同提出し、6月14日に全開一致で可決された。
 国民の多くも満州国の建国を熱狂的に支持している。斎藤内閣の不承認方針は、大きく揺らいだ。
 満州などの視察を終え、7月に再来日したリットン調査団は、雰囲気が一変していることに驚いたことだろう。シュネーが見聞記に書く。
「私としては、日本の対外政策が、あまりにも国内政局の動きや、国民世論によって左右されすぎているとの印象をうけた」【満州国見聞記148頁引用】
 9月15日、斎藤内閣はついに満州国を承認する。
 その約半年後、リットン調査団が作成した報告書が公表され、日本国内に激高の嵐が吹き荒れる。

 斎藤実内閣が満州国を承認した昭和七年(1932)年9月15日《夕刻、満州国承認祝賀のため、在郷軍人・青年団・女学校生徒その他約四万人の旗行列が宮城二重橋前広場において万歳を三唱する。【*=昭和天皇実録19巻127頁引用】
 昭和天皇は、国際社会が反発する満州国を承認したことで日本が孤立し、国民が戦争の危機にさらされることを優(うれ)えている。皇居前に響く万歳の声を、どんな気持ちで聞いたことだろう。
 満州事変について、リットン調査団の報告書が日本に通達されたのは10月1日のことだ。その内容は、現在から見れば決して日本に不利なものではない。だが、すでに満州国を承認してしまった以上、政府が妥協できる余地は極めて限られていた。
 報告書では、満州事変における日本軍の行動を「正当な自衛手段と認めることができない」と否定する一方、満州には「世界の他の地域に類例をみないような多くの特殊事情がある」として、日本側の権益を大幅に認めていた。
 また、中国側の「ボイコット(排日活動)」を不法行為として、満州に自治政府を設立すること、主権は中国にあるものの、複数の外国人顧問を併用し、その多数を日本人が占めるべきだと提案した【*=渡辺昇一編「リットン報告書」】
 中国に「名」を与える代わりに、日本に「実」を取らせる内容とも言えるだろう。
 昭和天皇は、外交交渉に望みをつないだ。
 10月3日《内大臣牧野伸顕をお召しになる。いわゆるリットン報告書が(中略・国際)聯盟に提出された以上、如何ともし難きため、聯盟の問題なれば、なるべく円満に解決するように希望する旨を外相に伝えたこと等を内大臣に語られる》【*=昭和天皇実録19巻136頁引用
 政府も、何とか外交交渉の糸口を探ろうとした。しかし、加熱した新聞報道がその足を引っ張った。
 元老私設秘書の原田熊雄によれば、外務省はリットン報告書の発表に際し、「できるだけ穏便な態度を以って臨む」という方針で、新聞各社に「決して号外は出さないやうに」と申し入れたが、「『東京日日』『大阪毎日』は号外を発行し、しかも相当に報告書の内容をこき下してゐた」という。
「『朝日新聞』の如(ごと)きは、閣議でも閣僚達がその(リットン報告書の)内容について頗(すこぶ)る憤慨したといふやうな意味を大きな活字で発表してゐたので、総理に電話をかけて事実の実否をただしたところ、『いや、全然ない。あれは新聞が勝手に書いたのであつて、あゝいふうことはちつともなかつた』との返事だった」【*=原田熊雄述「西園寺公望と政局」2巻378〜78頁引用。
 新聞報道にあおられ、国際連盟批判に傾く国内世論―。
それでも、昭和天皇はあきらめなかった。元凶である軍部の暴走を、自ら抑えようとするのだ。
 リットン報告書の公表から三か月後、昭和8年は、重く戦雲が垂れ込める中で明けた。
 万里の長城の東端、山海関(現中国河北省奏皇島市)で1月2日、日中両軍が衝突し、3日に日本軍が山海関を占領する事件が発生したのだ。
 その翌日、侍従武官が山海関の拡大防止策を報告したとき、昭和天皇は言った。
《軍部は中央の訓令を守るか否か、事件が北支に波及拡大することはなきかを御下問になり、満州事変に対する国際聯盟の決定を目前にして、過度に積極的な行動を起こし、支那側の術中に陥ることなからしむべき旨を述べられる》
(*=宮内庁編集「昭和天皇実録」20巻3頁引用)

 昭和天皇が憂慮したのは、熱河作戦の発動である。

 満州国は建国宣言で、山海関のある熱河省(現河北省)を領土の一部と主張していた。しかし、中国側は同省に軍隊を送り込み、それを排除しようと関東軍は熱河作戦を策定、山海関事件を機に、同省で軍事行動を起こす動きが強まったのだ。
 当時、国際聯盟ではリットン報告書に基づき、日本への勧告内容をめぐって緊迫した交渉が続けられていた。熱河作戦が発動されれば、国際協調の致命傷になりかねない。昭和天皇は、内大臣を呼んで言った。
「御前会議を開いたらどうだろう」
 立憲君主として、天皇がみだりに政府や軍部の決定に関することは許されない。しかし、御前会議で聖断を下せば、それは大日本帝国憲法下でも許容される。絶対的な命令になる。
【御前会議は天皇隣席の下、元老、主要閣僚、軍部首脳らが国家の最高意思決定する会議、法制上の明文規定はないが、明治27年の日清戦争開戦時に開催して以来、天皇が発言できる唯一の公式会議として慣例上認められていた】
 だが、元老の西園寺公望(きんもち)らは、昭和天皇が直接命令を下すことに否定的だった。陸軍の中堅将校らが素直に従うかどうか、確信が持てなかったからである。もし命令に反する事態が起これば、昭和天皇の威信に傷がつき、国家が崩壊しかねない。
 それでも昭和天皇はあきらめなかった。いよいよ熱河作戦が発動されようというとき、侍従武官長の奈良武次を呼んだ。
《統師最高命令によって作戦発動を中止することが可能か否かを(奈良に)御下問になる》【昭和天皇実録20巻19頁引用】
 奈良も、西園寺と同様、国家の最後の砦でもいえる昭和天皇の威信に傷がつくことを何より恐れている。首を縦に振るわけにはいかなかった。
 2月23日。熱河作戦が発動。関東軍は満州国と連携し、たちまち熱河省内の要衝を攻略した。
 ジュネーブに本部を置く国際聯盟で。リットン報告書の採択などを審議する総会が開かれるのはその翌日、2月24日のことである。

 1933(昭和8)年2月24日、ジュネーブで開かれた国際聯盟総会。リットン報告書などの採決に当たり、日本の首席全権として最終演説に臨んだのは、昭和天皇が後に強い不満を漏らす松岡洋右である。
 元外交官の松岡は、英語でケンカできるといわれほど語学力に優れ、演説もうまかった。「満蒙は日本の生命線」という、当時の流行語を生みだしたのも松岡だ。
 主席全権に任命されたのは、リットン報告書が公表された9日後の前年10月11日。その英語力を買われての起用だが、結果的に、最悪の人選だったと言える。松岡は自己顕示欲が強く、まとまりかけていたものを途中でぶち壊すような一面もあった【*=西園寺公望(きんもち)は「松岡といふ人はパラドックスに陥り易い人」と危ぶんでいた】
 もっとも、松岡は当時、交渉をぶち壊すつもりは毛頭なかった。主席全権を任命されるとき、元老の西園寺にこう言ったという。
「今度はもう、できるだけ穏やかに事をまとめて帰るように努めます」
 12月8日、ジュネーブに乗り込んだ松岡は、国際連盟総会で早速ぶった。
「諸君 ! 日本は将に十字架に懸けられやうとしてゐるのだ、然(しか)し我々は信ずる。確(かた)く確く信ずる。僅かに数年ならずして、世界の興論は変るであらう。而してナザレのイエスが遂に世界に理解された如(ごと)く、我々も亦、世界に依って理解されるであらう」【*=三輪公忠著「松岡洋右」103頁引用
 キリスト教信者の多い欧米諸国民には、決して「穏やか」とはいえない内容であろう。
 問題の人物はほかにもいた。トップの外相、内田康哉その人である。内田は就任間もない7年8月、衆院本会議で「国を焦土と化しても(満州問題で)一歩も譲らない」と強硬論を吐き、議会を唖然とさせた。国家が孤立するかどうかの瀬戸際に立たされながら、当時の外務省は、一枚岩ではなかったのだ。
 松岡は、脱退をちらつかせながら聯盟当局に譲歩を迫ったが、効果があったとは言い難い。聯盟がリットン報告書を採決することが確実になった8年2月17日、松岡は外務省に打電した。
「事茲ニ至リタル以上何等遅疑スル処ナク断然脱退ノ処置ヲ執ルニ非スンハ徒ニ外間ノ嘲笑ヲ招クヘキト確信ス・・・」【*=内山正熊著「満州事変と国際連盟脱退」(日本国際政治学会編「満州事変」〈有斐閣〉収録)引用】
 そして迎えた2月24日、リットン報告書などの採決の結果は、賛成42か国、反対1か国(日本)、棄権1か国(タイ)―。惨敗である。
 この結果に松岡は、聯盟総会の閉会宣言を待たずに堂々と退場した。松岡流のパフォーマンスだろう。最後の最後まで「穏やか」ではなかった。
 3月27日、日本は正式に国際連盟脱退を表明する。

 「国際平和ノ確立ハ 朕常ニ之ヲ冀求(ききゆう)シテ止マス是ヲ以テ平和各般ノ企図ハ 向後亦協力シテ渝(かわ)ルナシ
 今ヤ聯盟ト手ヲ分チ 帝国ノ所信ニ是レ従フト雖(いうども)
固(もと)ヨリ東亜ニ編シテ友邦ノ誼(よしみ)ヲ疎(おろそ)カニスルモノニアラス 愈(いよいよ)信ヲ国際ニ篤クシ 大儀ヲ宇内(うだい)ニ顕揚スルハ凧夜(しゅくや)朕カ念トスル所ナリ」【*=宮内庁編集「昭和天皇実録」20巻40頁引用】
 昭和8年3月27日、国際聯盟を脱退するにあたり発せられた、詔書の一部である。詔書案は政府が起草するが、昭和天皇は、世界の平和を念じていることと、「友邦ノ諠ヲ疎カニスルモノニアラス」との文言を入れるように、強く求めた【*=昭和天皇実録】20巻40頁引用】
そこに、聯盟を脱退してもなお、国際協調の精神を保持しようとする真情がうかがえる。
 日本はなぜ、孤立する道を選んだのか―。
 満州事変から国際連盟脱退まで、先の大戦につながる孤立の序曲を奏でたのは陸軍だが、伴奏したのはマスコミといえよう、当時、大半の新聞論調は、聯盟批判の大合唱だった。中でも東京日日新聞は、1年前から早くも「連盟脱退すべし」の社説を繰り返し掲載し、世論をあおった。16年に刊行された社史がうたう。
「何人といへども日日新聞の努力貢献を看過することは出来ない。(中略)堂々と連盟脱退論を公にした。この事は当時においては言論界の急先鋒(せんぽう)としてその勇断を、その後においては先覚的見識を謳はれたものである」【*=東京日日新聞社「東日七十年史」(非売品)240〜41頁引用

 同紙以外の各紙社説も、国際聯盟の姿勢を痛烈に批判し、8年になると急速に「脱退論」に傾いていく。
「救ひ難き聯盟 決断以外にもはや途なし」(2月11日の読売新聞)、「わが代表は引き揚げよ 聯盟は我が誠意を解する能はず」(同日の大阪朝日新聞)
 各紙は、強硬論を吐く陸軍の主張にも、連日大きく紙面を割いた。脱退回避を模索する政府は頭を抱え、2月1日の閣議では、蔵相の高橋是清と陸相の荒木貞夫とが、こんな議論を交わしている。
 高橋「近来、日本の外交はまるで陸軍が引きずっているような形で、新聞なども二言目にはすぐ脱退だのなんの騒ぎ立てるし、外交に関してすぐ陸軍が声明したりするが、一体なぜあんなことをするのか」
 荒木「陸軍が宣伝するのじゃない。新聞が勝手に書くのだからやむを得ない」
 高橋「新聞社が勝手に書くのなら、なぜ取り締まらないのか、知らん顔して書かせておくのはけしからん」【*=原田熊蔵著「西園寺公望と政局」3巻引用】

8年4月27日、国際聯盟総会を退場した日本全権の松岡洋右が帰国するのを、各紙は「凱旋将軍」扱いで賞賛した【時事新報は「脱退は誰でも出来る。脱退しないのが外交」との論陣を張り、各紙が唱える脱退論に最後まで反対した】
 昭和天皇は、どんな気持ちでいたことだろう。

 国際聯盟からの脱退は決まったが、平和の努力を怠るわけにはいかない。そのころ、昭和天皇が憂慮したのは、脱退前に発動した熱河作戦の行方だった。
 すでに書いたように。日本軍は昭和8年2月、満州国軍と連携し、満州国が領土と主張する熱河省(現中国河北省など)の要衝を次々と攻略した。一方、満州事変で奉天を追われた張学良は、熱河省を反撃の拠点にしようと軍隊を送り込み、それを蒋介石が支援、各地で激戦となった。
 この戦闘をめぐる中国側の事情は複雑だ。蒋介石は、熱河省での軍事行動で各国の同情を引くとともに、いまだ中央の威令が届かない地方軍閥を日本軍と戦わせ、その勢力を弱めようとしていた。雑軍整理と呼ばれる、蒋の常套手段である【*=昭和8年3月31日、4月9日の東京朝日新聞より】

蒋の思惑通り、張学良軍は敗退し、張は軍の役職を辞任。張作霖時代から奉天軍閥は解体した。

ところが、地方軍閥の弱体化により共産ゲリラ勢力が拡大し、かえって蒋は窮地に陥ってしまう。
 ちょうどその頃、昭和天皇は3月22日に侍従長武官奈良武次を呼んで言った。
「日本の対支政策は支那への同情援助を欠き、共匪(共産ゲリラ)を助けるに等しい。対支方針を寛大にして国民党政府の共匪対策を容易にしてはどうか。参謀本部の意向を尋ねてみよ【*=「侍従長武官奈良武次日記・回願録」4巻引用】

 昭和天皇は、日中間の紛争を早期に解決するためにも、蒋介石の国民党政府が弱体化して中国が混乱することを望まなかった。むしろ蒋を助けることで、関係改善の一助にしたかったのである。
 奈良が回願録に書く
「予は陛下の御意見は大局を達観せるものにて極て適当なるものと考ひ恐れながら御聡明に敬服す、当時日本人多くの意見が之に逆行するは遺憾なり」
 熱河作戦などが進行中の8年2〜5月、昭和天皇実録には、日本軍が万里の長城を越えて深く中国国内に進出しないよう、昭和天皇が繰り返し注意する様子が記されている。その頃には現地の関東軍にも昭和天皇の意向が行き渡り、政府を慌てさせるような事態は少なくなった。

 5月31日《侍従武官石田保秀より、この日午前に塘沽(現天津市)において日支停戦協定が調印されことにつき奏上を受けられる。(中略)この協定により満州国の国礎が確立する》
 ここに、1931(昭和6)年9月の柳条湖事件にはじまる満州事変は終結した。わずかの期間だが、日中間に平和が訪れたのである。そはて、皇室にも、全国民が待ち望んだ大きな喜びが訪れようとしていた。
つづく 第6章 万歳とファッショ 一