1941(昭和16)年6月22日、かつて日本を混乱させた独ソ不可侵条約が突如破られ、またも日本を混乱の谷に突き落とした。ドイツの大軍が、なだれを打ってソ連に侵攻したのだ。動員された兵力はおよそ300万人。約2700機のドイツ軍機と約3500両の戦車がモスクワなどに向けて走り出す

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第10章 開戦前夜

本表紙ふりさけてみれば 川瀬弘至 平成28年版産経新聞引用

独ソ不可侵条約が突如破られ、またも日本を混乱の谷に突き落とした。

ドイツの大軍が、なだれを打ってソ連に侵攻したのだ。動員された兵力はおよそ300万人。約2700機のドイツ軍機と約3500両の戦車がモスクワなどに向けて走り出す。不意を突かれたソ連軍は総崩れとなった。

 ヒトラーが対ソ戦を決意したのは、日独伊三国同盟が締結される2ヶ月前の40年7月とされる。その日の秘密会議で、ヒトラーは言った。
「英国の希望はロシアとアメリカである。(中略)ロシアが倒されると、英国の最後の望みも消滅するであろう。その暁にはドイツはヨーロッパとバルカンの支配者になれる」

 なかなか屈しないイギリスを孤立無援とするため、潜在的な支援国のソ連を殲滅(せんめつ)する、もう一方のアメリカは日本が牽制(けんせい)してもらおう―というのが、ヒトラーの魂胆だった。三国同盟の締結時に日本とソ連との橋渡しを口約束しながら、腹の底では真逆の陰謀を画策していたのだ。

 ドイツは、独ソ戦の開始を日本に事前通告しなかった。先見の明があれば、これを背信行為とみなして三国同盟を空文化し、日米交渉を一気に前進させることもできただろう。しかし、外相の松岡洋右には、そんな考えは微塵もなかったようだ。

 独ソ戦勃発の6月22日、急ぎ参内した松岡の様子を、昭和天皇実録が書く。
《御学問所において外務大臣松岡洋右に謁(えつ)を賜(たま)う。外相より、独ソ両国が開戦した今日、我が国もドイツと協力してソ聯邦に対して即時開戦すべきこと、よって南方進出は一時手控える必要があるも、早晩戦わなければならず、いずれソ英米三国と同時に戦わなければならない旨の奏上を受けられる》

 松岡はこのとき、首相の近衛文麿とも相談せず、対ソ戦の方針を独断で奏上した。昭和天皇は、近衛と協議するように命じて松岡を下がらせ、内大臣の木戸幸一を呼んだ。
《(昭和天皇は)内大臣に対し、外相の対策は北方、南方いずれも積極的に進出する結果となるため、政府・統師部の意見は一致するや否や、また国力に鑑みて妥当であるや否や等につき御憂慮の御言葉を述べられる》

 一方、昭和天皇の意向を知る近衛は、この機会に国策の重大転換を図ろうとする。
「平沼騏一郎内閣当時、蘇(そ)連を対象とする三国同盟の議を進めながら、突如其相手蘇連と不可侵条約を結びたがることが、独逸(ドイツ)の我国に対する第一回の裏切り行為とすれば、蘇連を味方にすべく約束し、此約束を前提として三国同盟を結んでおきながら、我国の勧告を無視して蘇連と開戦せるは、第2回の裏切り行為といふべきである」

 1941(昭和16)年6月22日の独ソ開戦に対し、首相の近衛文麿はこう書き残している。
 日独伊三国同盟の前提が崩れた以上、これを無効化してアメリカと交渉を進め、中国に和平を勧告してもらうしか道はない。近衛はそう考え、内閣書記官長の富田健治に三国同盟破棄の根拠を書かせて陸・海・外相と内大臣に提示した。

 内大臣の木戸幸一は賛成した。
 外相の松岡洋右は反対し、この際ソ連を攻撃しようと言い出した。
陸海軍上層部も反対で、むしろ南部仏印に進駐すべきだと主張した。
 以後、6月25日から連日開かれた大本営政府連絡懇談会では、松岡の北進論と陸海軍の南進論とが対立。激しい議論の応酬となる。両者とも、ドイツの快進撃に目がくらみ、ドイツの圧勝を前提として国策を立てようとしたのだ。近衛の同盟破棄論は、まったく問題にされなかった。

 激論の末、「自存自衛ノ基礎ヲ確立スル為南方進出ノ歩ヲ進メ」るとして、南進論に軍配が上がる。近衛は、松岡が主張する対ソ戦を回避するため、当時は開戦の危険が少ないとみられた南進論を承知したのだろう。「目的達成ノ為英米戦ヲ辞セス」との文言も盛り込められたが、虚勢を張っただけで、本気で英米を敵に回そうとは思っていなかった。

 この方針は「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」と名付けられ、7月2日の御前会議で確定する。
 だが、南部仏印への進駐は結果的に、英米との亀裂を修復不能にしてしまう。近衛にも陸海軍にも、急速に高まる開戦の足音が聞こえていなかったのだ。
 昭和天皇には聞こえていた。

7月7日《(南部仏印進駐について昭和天皇は参謀総長に)英国の対抗行為の有無、及び無血進駐の見通しにつき御下問になる。

和進駐は保証できないものの、大きな支障はなく進駐できると考える旨の奉答を受けられる》
 危うい楽観論だ。昭和天皇の懸念に対する、この見通しの甘さが、日本を破滅へと追い込んでいく。

 外相の松岡洋右がへそ曲げ、日米諒解(りょうかい)案を大幅に修正したことはすでに書いた松岡修正案に対し、米国国務長官のハルが米政府の回答を提示したのは昭和16年6月21日、独ソ戦開始の前日である。日独伊三国同盟について、従来以上に無力化を強調する内容だった。

 そのタイミングからみて、アメリカは独ソ開戦を正確に予測していたのだろう。松岡の外交方針は、日独伊ソの4国で英米の2国に対抗するというものだが、そのバランスが崩れた今こそ、松岡方針を転換させる好機と判断したようだ。ハルは日本側の余地を残しつつ、暗に松岡の更迭を促すオーラル・ステートメント(口述書)を発した。

「不幸ニシテ政府ノ有力ナル地位ニ在ル日本ノ指導者中ニハ 国家社会主義ノ独逸(ドイツ)及其ノ征服政策ノ指導ヲ要望スル進路ニ対シ 抜キ差シナラサル誓約ヲ与へ居ルモノアル‥‥」「斯カル態度ヲ維持シ 且公然ト日本ノ世論ヲ上述ノ方向ニ動カサル限り (中略・日米交渉の成果に)幻滅ヲ感セシムコトナルニ非スヤ…」

 松岡が激怒したのは言うまでもない。7月12日の大本営政府連絡懇談会。松岡は傲然(ごうぜん)と言った。
「米人は弱者には横暴の性質あり、このステートメントは帝国を弱国、属国扱いにしておる」「我輩はステートメントを拒否することと対米交渉はこれ以上継続できないことをここに提議する」

 感情剝き出しの、突然の交渉打ち切り宣言。首相の近衛文麿は頭を抱えた。陸海両相らが交渉継続を強く主張したため、松岡は渋々同意するが、翌日は病気と称して引きこもり、米政府の回答への対策を検討しようとしない。軍上層部や内閣書記官らが脅したりなだめたりしながら、ようやく対案がまとまったのは14日のこと。しかし、松岡はそれを駐米大使に訓電する前に、ステートメント拒否の訓電を出すべきだと言い張り、近衛らが反対したにもかかわらず独断で発出してしまった。

 近衛は、ついに匙を投げる。翌15日に参内し、閣内不一致で総辞職の意向を奏上したのだ。
「松岡だけを辞めさせるわけにはゆかぬか」
 18日、第2次近衛内閣は総辞職したものの、再び近衛に大命降下があり、松岡を除外する形で第3次近衛内閣が発足する。ここに、ようやく日米交渉を本格化させる態勢ができたのだ。

 首相の近衛文麿が提案した日米首脳会談をめぐり、アメリカからの回答を待つ間にも、内外の情勢は急速に開戦へと傾いた。アメリカが石油の全面禁輸に踏み切ることで、それまで開戦に反対だった海軍までもが態度を変えてしまうのだ。昭和16年7月30日に参内した軍令部総長の永野修身が、昭和天皇に言った。

「できる限り戦争を回避したいのですが、石油の貯蔵量は2年分のみたで今後ジリ貧に陥るため、むしろこの際、打って出るほかありません」
 昭和天皇は憂慮した。翌日、内大臣の木戸幸一に
《かくては捨て鉢の戦をするほかならず、誠に危険であるとの感想》を述べたと、昭和天皇実録に記されている。
 陸軍も「開戦やむなし」だ。昭和天皇が30日、「南部仏印進駐により、やはり経済圧迫を受ける事になったではないか」と指摘すると、参謀総長の杉山元は「当然予期したことで驚くに当たりません」と開き直った。昭和天皇は、《予期しながら事前に奏上なきことを𠮟責された》。

 開戦か、交渉継続か―

決断を迫られた政府は9月5日、「帝国国策遂行要領」を閣議決定する。
1、 自存自衛のため対米戦争を辞せざる決意の下、「概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完
整ス」2、戦争準備と並行して米英に対し、「外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム」3、10月上旬頃までに要求貫徹のめどが立たなければ、「直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」―という内容だ。

 その奏上を受けた昭和天皇は、《本要領は第一項に対米戦争の決意、第二項に外交手段を尽くすとあるため、戦争が主、外交が従であるが如き感ありとして、その順序を改めるようお求めになる》。

 昭和天皇は、立憲君主の立場に縛られつつも、開戦の流れを懸命に食い止めようとしたのだ。以下、戦争の勝算について参謀総長の杉山元にただしたときの様子を、昭和天皇実録が書く。
《参謀総長より陸海軍において研究の結果、南方作戦は約五箇月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来したとされ、支那事変当初、陸相として即戦即決と述べたにもかかわらず、未だに事変は継続している点を御指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠如何と論難され、強き御言葉を以て参謀総長を御𠮟責になる》

 ついに昭和天皇は、前例のない行動に出る。国策確定する御前会議で、初めて口を開くのだ。
 昭和16年9月6日の御前会議は、戦前の昭和史における、クライマックスといえるだろう。日米開戦か交渉継続か、国家の運命がここで決まる―。

 午前10時、皇居東一ノ間に昭和天皇が入室し、玉座につく。首相の近衛文麿が深く頭を下げ、開会を宣言した。議題は、前日に閣議決定された「帝国国策遂行要領」。第1項で戦争準備、第2項で外交交渉について記されている。陸海両総長や外相らが原案を説明したのを受け、枢秘院議長の原嘉道が言った。
「本案文を一瞥(いちべつ)通覧すると、戦争が主で外交が従であるかの如く見えるが‥‥」
 原の発言は、昭和天皇の意をくんだものだ。しかし陸海両総長は発言せず、海相の及川古志郎が「案文中の第1項と第2項との間に軽重はなく、できる限り外交交渉を行う」と返答。原案が可決された。

慣例上、天皇が御前会議で発言することはない。しかし、この日は違った。
《会議のまさに終了せんとする時、天皇より御発言あり。天皇は、事重大につき、両統師部長に質問すると述べられ、先刻枢秘院議長が懇々と述べたことに対して両統師部長は一言も答弁なかしが如何、極めて重大な事項にもかかわらず、統師部長より意思の表示がないことを遺憾に思うと仰せられる》
 
 そして、昭和天皇は懐から1枚の紙を取り出す。しんと静まる室内に、和歌を詠みあげる玉音が響いた。
 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
 なと波風の たちさわくらむ
 日露戦争の開始直前に明治天皇がつくった、平和を祈る御製(ぎょくせい)である。立憲君主として、政府と統師部の一致した決定を覆すことができない昭和天皇は、開戦回避の意思を、この和歌に込めたのだ。

 誰もが頭を垂れ、「死のような沈黙が襲ってきた」と、陪席した内閣書記官の富田健治が書き残している。やがて、その沈黙を破り、軍令部総長の永野修身が立ち上がった。
「お咎(とが)めは恐懼(きょうく)に堪えません。海相の答弁が政府と統師部を代表したものと思い、発言しませんでしたが、外交を主とする趣旨にかわりはありません」
 参謀総長の杉山元も、直立不動で言う。
「軍司令部総長と全然同じでございます」
 午前11時55分、御前会議は終わった。可決された原案の第1項と第2項の順序はそのままだが、昭和天皇の前例のない発言により、第2項の「外交ノ手段ヲ尽シ…」が、太字になったと言えよう。
 事実、陸軍の空気は変わった。御前会議から庁舎に戻った陸相の東条英機が、大声を震わせる。
 「聖慮(せいりょ)は平和にあらせられるゾ」
 昭和16年9月6日の御前会議で、昭和天皇が異例の発言に及んだ効果は大きかった。帰庁した陸相の東条英機が「聖慮は平和だ」と声を励ましたのに続き、軍務局長の武藤章も部下を集めて言う。
「戦争などとんでもない、おれが今から(速記記録を)読んできかせる。これは何でもかでも
外交で妥協せよとの仰せだ、外交をやらにゃいかん」
 だが、陸軍の空気を変え、時代の流れを止めることができたのは、1カ月ほどだった。その頃、駐米大使の野村吉三郎から伝えられる米政府首脳の態度が、日に日に硬化していたからだ。

 9月3日、米大統領のルーズベルトは野村に、日米首脳会談について事実上拒否する回答を手交。

10月2日、米国国務長官のハルは野村に。仏印と中国からの全面撤兵を求める覚書を手渡した。

 もはやアメリカに、何を提案しても拒絶される状況である。政府内からは「米国の罠にかかったのだ」とする声が強まり、陸軍内の大勢も交渉成立の見込みはないとして、再び開戦に大きく傾いた。
 いつもの近衛なら、とうに匙を投げていただろう。なおも踏みとどまったのは、御前会議の様子が頭から離れなかったからではないか。近衛は、中国からの全面撤兵を決意し、10月12日、自身の50歳の誕生日に陸・海。外相らを集めて協議した。

 及川古志郎海相「今や和戦いずれかに決すべき関頭に来た。その決定は総理に一任したい」
 近衛「今日ここで決すべしというなら、自分は交渉継続ということに決する」
 東条「その結論は早すぎる。見込みのない交渉を継続して戦機を逸したら一大事だ。外相は見込みがあると考えるのか」

 豊田貞次郎外相「条件次第だ。駐兵問題で陸軍が一歩も譲らないなら見込みはない」
 東条「駐兵問題だけなら譲れない」
 近衛は翌日以降、東条を懸命に説得する。しかし、東条はてこでも動きそうになかった。

 ネックとなったのは、御前会議で決定した「帝国国策遂行要領」だ。10月上旬までに日米交渉のめどが立たなければ「直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」と明記されており、その期限がすでに来ている。

 東条は、企画院総裁の鈴木禎一に言った。
「御前会議の決定を覆すなら、輔弼(ほひつ)の責任を果たさなかった閣僚も陸海両総長も全部辞職し、もう一度案を練り直す以外にない」
 原則論としては、東条は間違っていない。鈴木から東条の伝言を聞いた近衛は10月16日、昭和天皇に全閣僚の辞表を棒呈した。

 日米首脳会談の希望を打ち砕かれ、退陣を余儀なくされた首相の近衛文麿だが、問題は、後継首班を誰にするかだ。辞表を棒呈する昭和16年10月16日の朝、近衛は内大臣の木戸幸一に電話で相談し、皇族の東久邇宮稔彦王はどうかと持ちかけた。

 だが木戸幸一はにべもなく拒絶する。
「宮殿下の問題は、到底行われ難い」
 同日午後、今度は陸相の東条英機が木戸を訪ねてきた。そもそも東久邇宮稔彦王を担ぎ出す案は、東条が近衛に言い出したことだ。あくまで交渉継続というなら、期限を「10月上旬」と定めた御前会議の決定を白紙に戻さなければならない―というのが、東条の言い分だ。

 しかし、木戸は承知しない。東条は、「然らば日本は一体どうなるのだ」と嘆息したという。木戸が反対したのは、開戦の危機が目前に迫る中、皇族に重大な責任を負わせることを危惧したからからだ。内大臣としては、当然の対応だろう。一方で木戸は、首相や陸相の東条英機等の提案をはねつけた以上、自ら後継首相を選ばなければならないとも考えたようだ。

 総辞職を受け、17日に皇居西溜ノ間で開かれた重臣会議。木戸が推したのは、交渉継続を最後まで反対した東条である。木戸は言った。
「今日の陸軍を抑えなければ結局戦争になるのであるが、その陸軍を抑え得るものは東条以外なく、そしてその東条に戦争回避の勅命があれば、東条も日米交渉を再考するであろう」

 木戸は、皇族内閣を推す東条の様子から、東条が必ずしも海戦派ではなく、御前会議の決定に囚われていると思ったのだろう。東条は原則を重んじる男だ。そして何より、勅命には絶対に従う。

 重臣会議で東条推薦が決まり、木戸から奏上を受けた昭和天皇は言った。「所謂(いわゆる)虎穴に入らずんば虎児を得ずと云ふことだね」
 同日午後、参内した東条に昭和天皇は組閣を命じ、続いて参内した海相の及川古志郎とともに、陸海軍が協力して難局を打開するよう指示した。

 恐懼(きょうく)して退出する東条らを、木戸が呼び止める。
《「只今、陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察致しますが、尚、国策の大本営を決定せられますに就ては、九月六日の御前会議の決定にとらはるヽ処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召であります。命に依り其旨申し上置きます」》

 のちに「白紙還元の御諚(ごじょう)」として知られる、日米交渉の期限を白紙にする勅命だ。
 東条は身を震わせ、深く頭を下げた。
 昭和16年10月17日に参内した陸相の東条英機は、まさか自分に大命降下があるとは思っていなかった。陸軍省事務局でも、昭和天皇の「お召し」は中国からの撤兵に同意しないことへの「御叱り」だろうと思い、駐兵の必要性を記した上奏文を用意したほどだ。

 もともと、上奏文を読んだ東条は、「天子様に理屈を述べるでない」とはねつけた。昭和天皇に対する東条の、忠節ぶりがうかがえよう。
 東条を首相に推薦した内大臣の木戸幸一も、この忠節にかけたようだ。のちに「彼(東条)は陛下のおっしゃる事なら、一番真正直に服従していたから」と語っている。

 はたして東条は、大命降下と同時に受けた「白紙還元の御諚(ごじょう)」に従い、それまで陸軍を代表して唱えていた主戦論を捨てる。外相には日独伊三国同盟に反対した気骨の外交官、東郷茂徳を起用。10月23日から大本営政府連絡会議を連日開き、撤兵問題などで妥協した日米交渉の「甲案」をまとめた。組閣から半月足らず、10月30日のことだ。

 一方で、物資の輸入途絶でジリ貧となり、戦わずして負けることを恐れる軍部の開戦熱も高まっていた。東条は、11月1日の連絡会議で3つの案を提示する。
第1案 戦争を極力避け、臥薪嘗胆す
第2案 開戦を直ちに決意し、これに集中す
第3案 開戦決意の下に外交施策を続行す
第1案は、軍令部総長の永野修身が「最下策」として真っ先に拒絶した。参謀総長の杉山元は第2案を主張し、第3案をとる外相の東郷と激しく議論した。
東条英機東条英機

 東条の腹は、和戦併記の第3案である

ただし、いつまでも交渉はできない。天候などの関係から、冬でもなれば太平洋上での作戦が不可能になるからだ。
 会議は1日午前から2日未明まで続き、第3案をもとに、新たな「帝国国策遂行要領」が決まる。
一、 武力発動ノ時期ヲ一二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完製ス
二、 対米交渉ハ一二月一日午前零時迄ニ成功セハ武力発動ヲ中止ス

この方針は、11月5日の御前会議で確定する。軍部の主張に配慮した格好だが、東条も東郷も日米交渉を捨てたわけではなかった。前駐独大使の来栖三郎を特派大使として派遣し、駐米大使の野村吉三郎を補佐させるとともに、米政府が甲案を否定した場合に備え、より妥協的な乙案も用意。二段構えの交渉で妥協にこぎ着けようとしたのだ。

だが、11月26日に米国国務長官のハルから提示された覚書が、あらゆる日本の和平努力を打ち砕く。それは、事実上の最後通告とも言えるものだった。後醍醐天皇に忠誠を尽くした楠木正成の境遇に自らを重ね合わせ、討つ死に覚悟で駐米大使を引き受けた野村吉三郎の、”湊川の戦い”ならぬワシントンの交渉―。その結果は、あまりに無残だった。

1941(昭和16年)11月7日、野村は米国との会談し、外務省が訓電した日米交渉の「甲案」ち「乙案」のうち、甲案を提示。「日本の内政上許す限りの最大の譲歩」と理解を求めた。これに対してハルは、抽象的な平和原則を述べるにとどめた。

12日、ハルは野村に、甲案には何も触れず、平和政策実行の誓約を求めるなどした2通の文書を手交。15日には、列国共同で中国の経済開発を行うなどとする
日本の政策と相入れない新提案を持ち出した上、日独伊三国同盟の死文化を再三強調した。

17日、野村を補佐する特派大使の来栖三郎が着任。会談に参加するが、ハルは来栖を「初対面から噓つきだと感じた」だけだった。
18日、米政府が開戦に傾いているとみた野村は決心し、乙案を提示する前に、乙案よりさらに妥協した暫定協定の私案を示す。しかし、ハルは取り合わず、東京からも野村の独断を批判それ、20日、野村は改めて乙案を手交した。

だが、アメリカは最初から、日本に1ミリも譲歩する気はなかったようだ。25日、大統領のルーズベルトはホワイトハウスにハル、スチムソン(陸軍長官)、ノックス(海軍長官)、マーシャル(参謀総長、スターク(海軍作戦部長)の5人を招集。そこで協議されたのは、スチムソンが日記に書いたように、「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に、日本をいかにして誘導して行くべきかということであった」

26日、ハルは野村と来栖に米政府の回答、いわゆる「ハルノート」を手交する。日本に対し、1、中国と仏印からの全面的無条件撤兵2、満洲国政府および汪兆銘政権の否認3、日独伊三国同盟の実質的廃棄―を求めるという、激烈過酷な内容だ。

野村の闘いは終わった―。交渉努力の一切を無視し、日本に一方的な敗北を迫るハルノートは、事実上の最後通牒(つうちょう)とみていい。先の大戦後、東京裁判で判事を務めたパールは、判決文にこう書いている。
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒(ハルノート)を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国にたいして戈(ほこ)をとって起き上がったであろう…」

歴代内閣の和平努力にもかかわらず、日米開戦は避けられなかった。東条英機内閣が発足する1年前、1940年秋の米大統領選で「自国の青少年を外国の戦争には送らない」と公約し、三選したルーズベルトは、いつの時点で戦争を決意したのか―。

諸説あるが、1941年夏の独ソ開戦が大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろう。それより前、日独伊ソの4国が連携を強めることはアメリカにとって脅威だった。しかし、独ソ開戦でその脅威は解消した。日本に譲歩する必要はなくなったのだ。7月の閣議でルーズベルトは、石油の禁輸は「戦争を意味する」と自ら述べながら、日本が南部仏印に進駐すると、米海軍作戦部長の反対を押し切って8月、石油の全面禁輸に踏み切った。

当時もアメリカは日本政府の暗号電報を解読していた

「マジック」の名で知られる、極秘の傍受情報だ。8月上旬の米英首脳会談で、ルーズベルトはがチャーチルに「三ヶ月間ぐらい彼ら(日本)をあやしておける」と話したことはすでに書いたが、アメリカは日本の手の内を読みながら、自国の戦争準備が整うまで日本を「あやして」おけたのである。

11月26日、駐米大使の野村吉三郎に「ハルノート」を手交した米国務長官のハルは翌日、陸軍長官のスチムソンに「私はもう交渉から手を引いたから、問題は君とノックス(海軍長官)の手に移った」と語ってこの時点でアメリカは、臨戦態勢に入ったともいえるだろう。

一方で、日本側の交渉手法にも問題はあった。ハルは4月の段階で1、あらゆる国家の領土保全2、内政不干渉3、通商上の機会均等4、太平洋での現状維持―の4原則を示していたが、それを野村がすぐには外務省に伝えなかったため、日米双方に誤解が生じ、疑心暗鬼に陥ってしまった。

もっとも、日本が4原則をのめば事実上の敗北に近い結果となったに違いない。当時の米国務省顧問、ハーバート・ファイスによれば、この4原則で米国務省は、「日本に何でも好きなものを太平洋から引き出せるだろうと判断」していたからだ。
ハルの要求を受け入れれば日本はどうなるか―。ファイスは言う。
「人口過剰な島々からなる狭い地域で、はげしく忍耐強い労働によって乏しい生活手段を稼ぎながら平和に暮らすチャンスを与えられるだけであり、平和的で秩序ある国々の仲間に戻り、その末席を許されるうえに何のプレミアムも残念賞もない」
日本は、自存自衛のために、戦わざるをえなかったのである。

日米交渉を打ち切る「ハルノート」手交される直前の昭和16年11月26日朝、択捉島の単冠湾(ひとかっぶわん)に集結した、連合艦隊機動部隊が錨を上げた。空母赤城に座乗する第1航空艦隊司令長官、南雲忠一が率いるのは空母6隻をはじめ戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など計33隻。目指すはハワイ、真珠湾である。

真珠湾には太平洋艦隊の主力が在泊している。これを開戦劈頭(へきとう)の奇襲攻撃でやっつけてしまえと考えたのは、日米開戦に反対だった連合艦隊司令長官、山本五十六だ。失敗すれば虎の子の空母の大半を失う。海軍上層部の多くは危険すぎると反対したが、山本は自説を押し通した。正攻法の艦隊決戦では、万に一つも勝てないと考えたからだ。

もっとも、出撃の時点で開戦とは決まっていない。日米交渉が妥協すれば、作戦を中止して直ちに帰還するよう、山本は厳命していた。
一方、戦争回避の思いを捨てきれない昭和天皇は11月29日、宮中に首相経験者を集めて懇談形式の重臣会議を開き、意見を聴いた。
「大変難しい時代になったね」
そういって発言を促す昭和天皇に、重臣の多くは「ヂリ貧を避けんとしてドカ貧にならない様に…」(米内光政)などと非戦を示唆したが、ハルノートを突き付けられた以上、政府と統師部は一致した「開戦あるのみ」だ。

30日には寛仁親王が参内し、《敗戦の恐れある戦争の取り止めにつき提案》を受ける。だが、立憲君主として、政府と統師部の決定を覆すことはできなかった。
12月1日、戦前最後の御前会議で、開戦がけっていする。会議の終盤、首相の東条英機が厳かに言った。

《「今や皇国は降替の関頭に立っており、開戦と決定すれば、一同共に政戦一致施策を周密なし、挙国一体必勝を確信し、全力を傾斜して速やかに戦争目的を完遂と、誓って聖慮(せいりょ)を安んじ奉らん」》
昭和天皇は、一言も発しなかった。

その日以降、東条は秘書官らと、昭和天皇を気遣う会話を繰り返したという。7日未明には、首相官邸の別館寝室から東条の泣き声が漏れるのを、隣室にいた妻のかつ子がのぞくと、東条は一人、正座して肩を震わせていた。昭和天皇の期待に応えられなかった、慚愧(ざんき)の涙だろうか。

翌日未明、日本時間8日午前1時半、ハワイ沖に達した機動部隊の空母から、183機の攻撃機、爆撃機が、真珠湾に向けて飛び立った。

つづく 第11章 太平洋の死闘

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