更年期のキーワードは「ときめき」です。
閉経による卵巣からのホルモン分泌が減少することで性交痛を引き起こし、セックスレスになる人も多く性生活が崩壊する場合があったり、或いは更年期障害・不定愁訴によるうつ状態の人もいる。これらの症状を和らげ改善する方法を真剣に考えてみたい

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Ⅲ 女と男

本表紙 内館牧子 著

 女と男

 恋人と別れると、その精神的ショックは大変なものなのだが、どこかで楽になっている自分に気づくことがある。
 男は、いれば振り回される。
 私がフジテレビ系で『都合のいい女』を書いた時、「どこからこんなタイトルを思いついたんですか」と随分質問された。
 このドラマを書いたきっかけ、そしてタイトルは、実は私自身のことである。
 その頃つきあっていたAは、本当に傍若無人なヤツだった。
 真冬の明け方四時くらいに電話が鳴る。何事かと思って跳び起きるとAである。
「眠れなくてサ」
 そして二時間もつまらない話に付き合わされる。それでもやっぱり私は惚れていたのだろう。凍るような部屋のヒーターを入れ、眠気と寒さの中でその話につきあう。すると、電話を切る時、Aは笑った。

「俺だったら、こんな時間に電話をかけられたら怒るよ。冗談じゃないよ」
 ムッとしたが、私はやっぱり怒れなかった。Aには優しくて思いやりのある面も沢山あったのだ。
 その或る夜、私が自宅でドラマスタッフと打ち合わせをしている時、Aから電話が来た。
「今、海外出張から帰って来て、○○町の寿司屋にいるんだけど、出て来いよ。一人でメシ食うのイヤだしサ」
 私はすぐにでも行きたかったが、打ち合わせはあと一時間はかかる。そう言うとAは、
「何とか早めに切り上げてよ。一時間以内に絶対来て。絶対だよ」
 と言う。私は必死になって打ち合わせを三十分で終えた。恋は強しである。スタッフを帰して急いで着換え、メイクし、
「今から出るわ。早かったでしょ」
と寿司屋に電話を入れた。するとAは言った。
「来なくていい。俺、見たいテレビ思い出したから帰る。じゃ」
 着換え、化粧した私は脱力感に襲われた。今回の寿司屋ばかりではなく、これまでの数々が一気に思い出された。その時、ふと思ったのだ。
「私は『都合のいい女』なんだ…。眠れない夜のために、一人で食事したくない時の為に…。派遣社員みたいなものね」

 私はあの夜を境に、Aを切った。切ると決めると私は絶対に揺れないタチである。行きつ戻りつの腐れ縁などというものは一切ない。スパッと切って、二度と会わない。むろん、電話もしない。かかってきても感じよく対応するだけだ。相手に切られた時も同じ。追わない。迫ったところで元には戻れっこないのだから、別の恋をした方がいい。

 Aは私の変化にいささかうろたえ、何かとアプローチしてきたが、私は応じなかった。この恋に関し、私はやるべきことはすべてやったという達成感があり、未練はカケラもなかった。
 別れた後、あり余るほどの時間がすべて自分のものになり、いかに自分が男に振り回されていたかと苦笑するほどだった。
 
 だが、一人になって、あり余る時間を有効に使っているかと言うと、そうでもなかった。Aに振り回されていた時よりも仕事がはかどるというものでもない。何か新しいことを始めたというわけでもない。
「これなら振り回されている方がよかったか」
 と思ったりもした。
 たぶん、男と女の関係はこんなものかもしれぬ。二人でいると一人もいいなと思い、一人になると二人もよかったなと思う。
 そんなバカなことを繰り返せるなら、それも幸せだ。

プロフェッショナル
 大相撲で幕内優勝した力士が、自分の子供を膝に乗せて報道陣のフラッシュを浴びるようになったのはいつ頃からだろう。片腕に天皇杯、片腕に子供という写真は、このころ当然のことになっている。

 これを「微笑ましい」言う人も多い。私の周囲にもいる。ただ私は「これって何か勘違いじゃないかなァ」と思っている。
 プロスポーツ選手というものは、圧倒的なエリートだと思う。相撲であれサッカーであれ、ボクシングやゴルフであれ、どんなスポーツでもプロ選手はとてつもないエリートである。誰もがなれるものではないのだ。なれなかった多くの人たちが、彼らに夢を託し、胸を高鳴らせる。彼らが闘う姿に、私達は日常を忘れてのめり込むのである。だからこそ、プロスポーツ選手というのは、「常に崖っぷちで一人で戦っている」という虚像を見せ続けることが大切だと思う。それがプロフェッショナルという事であろうと思う。

 つまり、安らぐ家庭の匂いをあからさまにすると、彼らの日常が見えてしまい、崖っぷちの雰囲気が消え、興ざめする。無論、反論もあろう。プロスポーツ選手である前に人間であり、人の親であり、それらを自然体でオープンにすることこそ、人間らしいではないかという声は多いだろう。

 が、プロスポーツ選手は人間の限界に挑んでいるわけであり、練習の厳しさも技術もナミの人間とは違う。決して自然体でなし得る仕事ではない。だからこそ、一般人は自分たちの日常を忘れてのめり込み、破格の年俸を取っている選手たちを許せてしまうのではないか。年棒には虚像代が含まれているのだと私は思っている。それが突然、自然体になってほほえましさなんぞをオープンにされては鼻白むものがある。

 昭和十四年一月場所で、横綱双葉山は安藝ノ海の外掛けに敗れた、記録は六十九でストップした。この日、彼は知人に電報を打っている。
「我、いまだ木鶏(もっけい)たりえず」
 つまり、「自分はまだ木彫りの鶏のような無我の境地に達していないから負けた」という自我である。人間が木鶏を目指すこと自体、自然体ではない。
 プロスポーツ選手はかくあるべきと思う。何でも「自然体」がもてはやされる現代にあって、虚像を死守すべきと思う私は勘違いしているのだろうか。

小錦八十吉の美学

 大相撲の小錦八十吉は、最後の最後まで私達にいろいろなことを考えさせてくれた。
 私は一九八二年(昭和五十七)七月、小錦の初土俵を名古屋で見ている。クリクリした目の十八歳の少年はひときわ大きく、愛嬌があった。あれから十五年四か月がたち、ついに引退した小錦八十吉は、私達日本人に実に多くのことを考えさせてくれた力士であると思う。

 それはすべてが「東西の精神文化」の差異に根差していると、私は思っている。小錦八十吉はサレバ・アティサノエという名前のアメリカ人であり、彼の体はアメリカの精神文化が流れていることは当然である。日本に帰化したとは言え、その血も骨も、そしてそれを支える心も、アメリカが作ったものである。

 これは小錦だけではなく、アルゼンチンの星誕期や星安出寿も、モンゴルの旭鷲山や旭天鵬や、すべての外国人力士に言えることだ。彼らを作ったのは日本ではなく、彼らの祖国である。私は外国人力士が見せてくれる精神文化の差異というものに、非常に大きな価値を見ている。日本人には考えられない言動や思考にまず驚き、そして理解し、やがて、
「そうか、あの国ではこういう考え方をするんだね。日本人とは違うけど、こんな考え方も面白いね」

 となれば、これは日本人を豊かにする。外国や外国人への思いが広がる。今は簡単に外国旅行できる時代であるが、体を張って闘う外国人たちは、旅行では触れることのできない精神文化を見せてくれているのだ。それにはまずは驚き、やがて理解するところまでいくことが、まさに「真の国際化」であると、私は考えている。

 かつて、ある女性国際学者が、
「外国人力士が優勝したら、その国の国歌をも流すべきであり、それこそが真の国際化というものであろう」
 と新聞にコメントしていたが、チャチャラおかしい。軽薄極まりなく、笑止千万である。日本人が外国人力士によって外国を理解し、いとおしみ、そして外国人力士は日本の精神文化に驚き、やがて理解する。そして、それを外国である自国に伝え、いとおしむ。それこそが、相撲界における真の国際化の基本であり、外国国歌をも流すなどという薄っぺらなことではない。

 外国人力士がふえてきた今、日本人の一番の問題点は、彼らが外国人だということを忘れてしまう事である。

 むろん、小錦や旭鷲山が外国人だということは十分にわかっているのだが、とっさの時には忘れている。そして、
「日本人ならそうは言わない」
 と言って怒る。バッシングする。繰り返しになるが、彼らの血も肉も骨も、そして心も外国が作ったものなのだ。怒り、叩くより前に、まず面白がって理解しようとする気持ちをなぜ持てないのか。
 私はかつて、小錦が、
「相撲は喧嘩だ」
 と発言した時、仰天した。そして次の瞬間、感動していた。ここまでストレートに言い放つ姿勢が痛快だった。日本人力士なら言えない、そして、言えないことを私は支持する。
 が、アメリカ人の小錦は言った。言ったことを私は支持する。

 ところが、この一言は世間のバッシングを浴びる事になった。言うならば、
「神聖な国技は喧嘩ではない。小錦はそんな気持ちで相撲を取っていたのか。許せぬ」
 ということである。これに対して、小錦の周辺からどういう反論があるだろうかと期待していたのだが、反論らしい反論は出なかったと記憶している。「相撲は喧嘩だ」となぜ思ったのか知りたくて、私は新聞や雑誌をかなり読んだつもりであるが、周辺の代理弁解は実にありきたりなものであった。

「小錦は日本語がまだうまくないので、喧嘩としか言えなかったのだ」
「実は『相撲はルールのある喧嘩だ』と言ったのに、『ルールのある』という部分をカットされてしまったのだ」

 小錦の発言に格式を重んじる相撲協会を怒らせたが、怒る方が間違っている。本来ならば、小錦を守る立場に立つべきだ。こんなことに怒っていたのでは、「外国国歌も流せ」いう女性国際学者のレベルとなんら変わらない。真の国際化への思いと外国人力士への愛情があるならば、協会は怒るより公式コメントを発表すべきであった。もしも、協会が、
「ハワイの大自然の中で、海や魚や太陽と格闘してきた少年にとっては、強く大きなものと格闘することはすべて、命を張った喧嘩なのです。命を張って闘い続けてきた自然児の小錦を理解してください。彼の言う『喧嘩』とは立ち回りとか暴力という事ではなく、決闘であり、格闘なのです。大自然の小島で生まれ育った少年の豊かさを、どうぞ面白いと思って見守って下さい」

 と言えば、小錦は救われたか。そして、そのコメントによって日本人は、自分たちとは違う自然児の面白さを認識したはずだ。認識できないほど日本人はバカではない。ただ、とっさの時に、彼が外国人であることを忘れてしまうだけなのである。

 旭鷲山にしてもそうだ。彼のすばしっこさや、ジュウオウジャーな動きはモンゴル相撲の影響が大きい。それをつい、
「あんなセコい動きで勝つなんて、あまりにも相撲に品がない」
 となる。そういう意見が広がり始めると、人気沸騰していたというのに、旭鷲山への声援が少しずつ減ってくる。大草原を馬で走り回るジンギスカンの末裔とも言えるモンゴル人の、その激しさと執念を面白がればいいではないか。品格や様式美を大切にする日本文化とは異質の、激しい執念や何としても勝ちを狙う意識も見事な精神文化なのだ。

「相撲は喧嘩だ」発言より前の八四年(昭和五十九)九月、小錦は早々と日本中を啞然とさせてくれた。
 この九月場所は蔵前国技館における最後の場所である。初土俵からわずか二年前頭六枚目まで登ってきた小錦は、十二勝二敗で千秋楽を迎えた。千秋楽の対戦相手は張出大関の琴風。もし勝てば初優勝の可能性が出てくる。一敗でトップを走っていた前頭十二枚目の多賀竜の相手は大関朝潮、もしも多賀竜が敗れる事があれば、優勝決定戦に持ち込みこめるわけである。
 土俵に上がった琴風に、館内から、
「琴風、国技を守ってくれ~」
 という声が飛んだことを、九月二十四日付のスポーツニッポン紙は書いている。
 こんな中で、小錦は大関を相手に二分十七秒の死闘を繰り広げ、ついにすくい投げで倒された。この瞬間、多賀竜の平幕優勝が決まったわけである。

 日本中が啞然としたのは、東支度部屋に戻った小錦は、すでに悔し涙で頬はビショビショであったことだ。スポーツニッポン紙は、
「人目をはばかることなく泣きじゃくる小錦」
 と書き、号泣している写真を掲載している。
 この泣きじゃくる姿はテレビではじめてとするマスコミで取り上げられ、日本人は改めて「外国人がいる」ということを思い知らされた。

 従来、優勝して嬉し涙を拭う力士はいても、「悔しい。情けない」と言って声をあげて泣く姿は誰も見たことがなかった。そこには、当然ながら日本人の美意識がある。それは角界という伝統の世界では特に強いのだが、「感情の抑制」である。勝った時の嬉しさも、負けた時の悔しさも、表情に出すのは美しくないという意識である。多弁を嫌うのも同じ意識である。私は九四年(平成六)に、大関貴ノ花と『週刊ポスト』誌上で対談しているが、彼はこう言い切っている。
「だって僕と闘って負けた人がいるわけですよ。負けた相手がいなければ上がれないんですからね。その人の恩を返すという意味でもペラペラ喋るものではないと。これは師匠に教えられました。ですから、何を言われようと愛想よくはできないです」

 こういう美意識を、私個人は非常に評価するし、好む。こういう意識は、貴ノ花が生まれるずっと前から、日本人の、特に角界の中では強かった。まして、体の不調をこぼしたり、重圧を吐露したりなどは言語道断。火の粉をかぶっても熱くない顔をしていろという、江戸前の粋にも通ずる。
 が、スポーツニッポン紙によると、小錦は泣きじゃくりながら、次のようにこぼしいてる。

「硬くなって…昨夜は三時まで眠れなかった…。もうチャンスはないよ‥‥」
 私達は、この時、確かに外国人を感じたのだ。悔しければ泣き、心情をストレートに吐露する男に、「ああ、こういう表現をする男もいるのだ」と。

 そして、九二年(平成四)春場所後、小錦はアメリカのマスコミに向かい、
「横綱昇進ができないのは人種差別があるからだ」

 という意味の発言をし、政界にも波紋を及ぼす問題になった。これは九一年(平成三)九州場所で十三勝二敗で優勝し、翌場所も十二勝をあげ、三月の春場所も十三勝で、三場所通算三十八勝をマークしているのに、横綱昇進が見送られたことから出た言葉である。

 これもアメリカ人記者たちを前に、気を許して本音がストレートに出たのだろうと思う。が、これは小錦の方が日本の流儀を理解していない。特に角界では、ある基準をもとにスパット物事を決めるとは限らない。三十八勝というのは過去の昇進者と比較しても十二分に横綱昇進の基準をクリアしているが、他にも「品格」だとか「精神面」だとか「二場所連続優勝に準ずる成績」だとかの、非常に計算しにくいポイントが加味されて決定に至る。後に大関貴ノ花が、同じように横綱昇進を見送られたことがあった。小錦のやり方でやるなら、貴乃花は、

「横綱昇進ができないのは、みんな、二子部屋に対してひがんでいるからだ」
 と言い放ったであろうが、彼は一言もコメントせず、後に誰も文句のつけようのない成績を叩き付け、横綱になった。

 確かに、この曖昧な、理不尽とも思える流儀を外国人に理解せよという方が理不尽かもしれぬ。日本人にだって理解できないのだ。私は決して、小錦の大ファンとは言い難いが、あの時の彼の感情のほとばしりは理解できる。辛かっただろうと思う。ごめんね、と言いたくなる。
 こうして十五年四か月がたち、九七年十一月場所を迎えた。実は私は初日があく前からヒヤヒヤしていた。
 というのは、マスコミがあまりにも「小錦、負け越せば引退か」と騒ぎたてたからである。マスコミが騒ぐのは全然かまわないのだが、それに乗った小錦が「引退」という言葉を自ら口にするのではないかと、非常に心配していた。角界では「引退」という言葉を口にした時点で、土俵に上がれなくなる。これは角界の伝統であり、やはり、美意識である。「引退」という言葉を口にするような力士と対戦するのでは、相手力士に礼を失するというわけだ。

 彼は「勝ち越そうが負け越そうが、千秋楽まで相撲を取る」と言っていることをマスコミは伝えていたが、私はこの言葉はギリギリの線だなと思っていた。引退も肯定もしていないが否定もしていない気がして、私は幾度も心の中で言ったものだ。

「小錦、引退という言葉を言っちゃダメよ。その場でおしまいよ」
 そして十一月二十一日、十三日目についに負け越しが決まった。翌二十二日の朝刊はすべて一面扱いで「小錦引退」である。それでもファンは千秋楽まで取るものと思い込んでいたはずだ。私も思っていた。

 それだけに突然、翌十四日目に引退を表明して不戦負になった時は茫然とした。新聞によると、千秋楽の土俵を見せるためにハワイから親を呼んでいるというし、途中で引退ということは考えられなかったのである。

 真相は、翌十四日目の午前十時に高砂親方が、「引退」という二文字を口にしたせいである。その時点で、千秋楽まで土俵に上がろうとしていた小錦の思いは、教会に突っ放された。
 境川理事長は語っている。
「死に体の者を土俵に上げるわけにはいきません」
 そして、理事長はこうも言っている。
「咲くの花なら散るのも花だ」
 この二つの言葉を私は美しいと思う。日本古来の厳しさとストイシズム、そしてまさに「散りぎわ千金」の美意識である。
 が、小錦の生き方によって、それとは対極にある美意識を教えられたことも事実である。たとえ、元大関の名に恥じるような相撲内容であっても、自分が納得するまでは引退せず、相撲人生をまっとうする姿勢も、見事に美しい散り方だと知った。

 千秋楽まで取ることは叶わなかった小錦は、私達に改めて日本の美意識を確認させてくれたとも言える。
 そして、彼が土俵を去った今、私たちはどれほど彼を愛していたかに気づかされている。

散りぎわ 小錦八十吉

 日本には「散りぎわの美学」がある。いかに美しく見事に引くかが、人格を表すと言っても過言ではない。

 特に相撲界においては顕著で、まして横綱や大関にまでのぼりつめた力士は鮮やかすぎるほどの引き際を見せる事が少なくない。それはまさに咲きながら散る桜である。
 たとえば、昭和四十三年大阪場所の横綱佐田の山。五日目まで三敗しただけで引退している。その前場所は十三勝二敗で優勝しているのに、である。昭和四十四年名古屋場所では五日目に横綱柏戸が、「これ以上土俵を務めるのは横綱の名誉を汚すことになる」
 という象徴的な言葉とともに引退。そして平成三年五月場所では横綱千代の富士が、十八歳九ヶ月の新鋭貴花田に敗れたことをきっかけに、四日目で散った。

 私は小錦を初土俵から見ているが、彼は「咲きながら散る桜」とは対極の「天寿をまっとうする美学」を持っていたと思う。どちらがいいとか悪いとかの問題ではなく、それは従来の日本人にはなかなか持ちえない美学があった。大関までのぼり、横綱を目前にした男が平幕に落ちても全力で相撲を取り切る。それが星に繋がらなくとも、もはや治しようのないところまで体が壊れていても、咲いているうちは散るものか! という気迫があった。

 私は小錦の生き方によって初めて、サラリと散らないダンディズムを見た気がする。天寿を全うすることも、見事な散り際だと思い知らされた気がした。
 おそらく、元大関霧島は小錦がいなければ天寿を全うする道を選ばなかったのではあるまいか。かつて、女性の国際学者が「外国人が優勝したら外国国歌も流すべきであり、それが真の国際化だ」などとバカなコメントをしていたが、真の国際化は小錦のように異なった精神文化を我々に示してくれることだろう。
 小錦八十吉、よく日本に来てくれたね。ありがとう。私達はあなたが好きだった。

男の深さ 羽生善治

 初めて羽生さんと会ったのは、雑誌の対談の席であった。
 私はその間、ずっと思っていた。
「こいつ、何だか凄いヤツだな」
 将棋の成績の凄さではない。寝癖の髪で平然と現れる凄さでもないし、理路整然と話すことでもない。何だかわからないのだが、何だか凄いのである。
 この「何だか」はずっとわからず、私は、
「つまり、それが天才ってことよね」
 と思い、自分を納得させていた。
 ところが、その後もどうも不思議でならぬことが起こる。つまり、何故に茶髪のギャルたちに、羽生善治が追っかけられるのか。アイドルタレントではないし、いわば「今」という時代に逆らっているような「将棋界」である。つまり地味な世界の男である。

 確かに羽生さんは端正なハンサムボーイであるが、追っかけギャルまでが出現するのはなぜだろう。彼女たちは私と同じように、「何だか」の凄さを感じているとしか思えない。その「何だか」が何なのか、私は再び気になり始めていた。「天才」で片づけるわけにはいかないような気がしてならなかった。

 それからしばらたったある日、作詞家の荒木とよひささんと、羽生さんの話になった。荒木さんは言った。
「彼は無駄なことはコンピューターで処理かるけれど、最後はやっぱり指が指す、ということを知っていますよ。瞬間、指がいくんですね」

それを聞いた時、私は「アッ」と思った。羽生善治から放たれる凄さの「何だか」が、初めて分かったと思った。
 彼は「内なるアナログ」を感じさせるのだ。彼はアナログがデジタルよりも「深い」ということを知っている。おそらく、そうだ。そこから出てくる雰囲気に、人々は惚れる。血をたぎらせる。凄いと思わされる。
 私との対談の席で、彼は言っている。
「いつも思っていることなんですけど、将棋というのは、覚えてレベルが上がっていけばいくほど面白いんです。私ももっと強くなることができれば、もっと面白いと思うんですよね。あの時はこう思っていたけど、実はこうだったのかということがわかる時があるんですよ、ハッと。今思えば、何でこんなところで迷ったのかというのが。目から鱗が落ちちゃうときがあるんです。そういう楽しみがありますね」

 これは絶対にデジタル一方の人間が吐ける言葉ではない。デジタルには「強さ」はあるが、「深さ」はない。
 羽生善治の凄さは、「強さ」ではなく「深さ」なのだ。
 彼から発する深さの匂いに、誰もがいい気持ちになる。嬉しくなる。強いだけのサイボーグなら、誰が惚れるものか。血をたぎらせるものか。

 そして私は、今時のギャルたちが、たとえ無意識にであれ、「深さの男」に魅力を感じていることに、「世の中、捨てたものじゃないなァ」いい気持ちになる。嬉しくなる。

此岸(しがん)と彼岸を兼ね備えた存在 少年隊

 アイドルグループ界は、浮き沈みが激しい。爆発的な人気を誇っていた少年や少女が、ふと気づくと消えている。さらに怖いことに、消えたことに気づかない場合さえある。
 そんな苛酷な世界で、『少年隊』は何ら変わることなく存在している。それも単に「生き長らえている」のではない。圧倒的な観客を動員し、トップを守り続けている。
 
 今回のミュージカル”5 night’s’”(九八年)も、全日程が完売であり、青山劇場は二階席の奥まで超満員。立ち見席もまったく手に入らず、諦めきれないファンが劇場周辺から立ち去ろうとしない。デビューから十三年を数えてもなお、この状態をキープしているアイドルグループは希有である。

 メンバーの錦織一清、東山紀之、植草克秀は三人ともすでに三十路に入っており、実年齢からすれば「少年」ではないし、「アイドル」という呼び名も似つかわしくない。

 しかし、私は”5 night’s’”を見ながら、面白いことに気づいていた。それは、三人がグループとしてではなく、個々にドラマ出演などすると、そこにいるのは「大人の男」である。現実のこの世の男、つまり此岸の男である。

 ところが、三人がグループの舞台に立つと、突然、年齢をはじめとする現実世界のすべてを飛び越え、この世離れした存在であることを見せつけられる。『少年隊』という名前に何の違和感もない。この時、彼らはまさしく彼岸の男たちである。

 この此岸と彼岸の双方を備えていることこそが、彼らの実力である。
 今回の舞台は彼岸の部分で存分に楽しめる。パイオニアに扮した彼らが宙吊りになり、黒いマントをひるがえしながら客席を縦横無尽に飛ぶ。その姿の美しさといったら息を飲むばかりだ。

 ファンと一緒に年齢を重ねていく此岸の三人は幸せだし、『少年隊』によって彼岸にトリップできるファンも幸せだ。
『少年隊』はバンパイアのように、きっと五百年も六百年も、この真夏のミュージカルを続けるだろう。そんなことを思わせるいい舞台であった。

艶のある男 赤坂晃

 NHKの連続ドラマ小説『私の青空』で初めて赤坂晃と一緒に仕事をした。
 こんなにも艶のある男だったのかと、正直なところ目を疑った。彼の役どころは財閥の御曹司で、そして天才ボクサーというものである。ある意味では「鼻持ちならない男」だ。が、赤坂晃は底に潜む屈折や、ハングリーではないことへの劣等感までも表現した。
その静謐(せいひつ)な芝居を見ながら、私は艶を感じていた。それは「セクシー」などという軽い言葉では表せられない種類の、紛れもなく「艶」だった。

 後日、ボクシング指導の角海老宝石ジムのトレーナーが、私に言った。
「赤坂、ヤツは天性のリズムを持っている。プロボクサーにもなれるヤツだよ」
 天性のリズムと、自ら醸した艶。赤坂晃は俳優として、今、強力な武器を持つ。

幸せということ 島田正吾「一人芝居」に寄せて
 私は長谷川伸という作家に特別な思い入れがある。誰も信じてくれないが、私は長谷川の全集をOL時代にすべて読んでいる。私自身のことである。淋しい時代であり、通勤電車の中でも昼休みのベンチでも、長谷川の紡ぎ出す徒世人にどれほど夢を見たことか。

 長谷川伸に興味を持ったのは、彼が十二歳の時に「九州土木の横浜出張所の小僧になり、横浜船渠(せんきょう)で貧しく哀れな雑用をやっていた」という内容の一文を目にしたからである。
 「横浜船渠」という会社は、私が勤務していた三菱重工業横浜造船所の前身である。吉川英治が横浜船渠の現場作業員であったことは有名だが、長谷川伸も私と同じ会社に通っていたのだと知るや、他人とは思えなくなったのだから相当なお調子者である。

 それまで何の関心もなかった長谷川の作品を、とにかく読んで見た。最初に読んだのが『蝙蝠安(こうもりやす)』これが面白くて面白くて、以後、私は片っ端から読みまくった。長谷川の作品は、それまでに私が愛読していた文学とはまったく違う匂いがあり、二十代の私にとっては実にヴィヴィッドな感動があった。

『沓掛(くつかけ)時次郎』は私の最も好きな作品のひとつである。ここには長谷川の好む「男のありよう」「女のありよう」が明確に投入されていると私は思っている。

 乱暴を承知で一口に言ってしまうと、長谷川の好む男は「生き方の下手な男」である。時次郎もイライラするほど下手だ。しかし、そういう男だけが持ちえる色香と愁いを、長谷川は愛し、彼らにエールを送っているように思えてならない。

 そして、長谷川の好む女は、これも一口で言ってしまうと、「生きる事にひたむきな女」である。登場する女たちすべて、決してものごとをハスに見ない。受け入れて許して、懸命に生きる。時次郎に関わるおきぬも、安宿の女主人おろくもしかりである。

 考えてみれば、私利私欲で成り立っているような浮世で、こんな男や女が生き抜くのは楽な事ではない。これは平成の世でも全く同じである。しかし、『沓掛時次郎』に限らず、長谷川作品の登場人物は誰を見てもみんな、「うまれてきてよかった」と思いながら生きているように感じられる。苦しみ、悲しみながら、「生きているって悪くないよな。人生って悪くないよな」という匂いがある。

 島田正吾は時次郎にどこか似ている。おきぬにも似ている。長谷川の好む男女に重なるところがある。日本のみならず、欧米でも最高の評価を受ける名優は、ひたむきに今も「新國劇」の流れを守る。たった一人で沢田正二郎の息吹を伝え続ける。これほどの名優ならば、一人で頑張らずとももっとうまい生き方があろうに‥‥と思う人は少なくあるまい。

 が、島田は私にこう語ったことがある。
「いつでも辰巳が心の中にいる。僕は一人じゃないんだよ。辰巳と二人なんだ、いつだって」
 何と幸せな人生であろうと思った瞬間、ふと長谷川の真意が見えた気がした。生き方が下手な人こそ、実は最も幸せな人ではないのかと。登場人物の誰にも「人生っていいね」という匂いが漂うのは、真っ正面から生に取り組んだ彼らに、神は必ず幸せを贈っているからだと思う。
 島田正吾、今度も辰巳と二人の、一人芝居の幕が開く。

闘牛

 スペインの闘牛について、立原正秋は『風景と慰謝』(中公文庫)の中で次のように書いている。
「私は、人間が牛と闘うのを考えていたのである。しかし現実には、たくさんの人間がよってたかって一頭の牛を殺戮する遊戯にすぎなかった」

 この一部分だけを抜粋するのは危険なので書き添えておくと、立原は闘牛士の芸のすばらしさにも触れているし、闘牛という形式美の国技はスペイン人の感性が生み出したものだろうということも書いている。決して単純に闘牛を否定したり、また動物愛護論をぶっているわけではない。

 私はこの八月(九八年)、初めてスペインのバルセロナで闘牛を見た。見る前から、私は闘牛が好きに決まっているという確信があった。私は男が体を張って闘う格闘技はすべからず好きなのである。

 そして、見た。これが日本人の嗜好に合うかどうかは非常に難しいところがある。「格闘技」という意味では私の嗜好ではない。
 ただ、まったくぜい肉のついていない若き闘牛士が、布切れ一枚で牛を追い込んでいく姿は、まさに至芸である。夕方になっても四十度を下がらない青空の下、観客の「オーレ!」「オーレ!」という声が熱狂する。重量五百キロを超す牛をヒラリヒラリとかわしながら、剣を突き立てる若き闘牛士は「牛若丸」そのものである。

 ただ、客席で改めて思ったのは『風景と慰籍』にあった「たくさんの人間がよってたかって」という一文である。私もその感は否めなかった。

 まず三人の闘牛士が牛をあしらう。彼らは危なくなるとサッと安全柵の中に逃げ込む。三人がかりで牛をさんざん走らせたところで、二人のピカドールが馬に乗って出てくる。
ピカドールは馬上から長槍で牛を突く。「二回以上突くこと」という決まりがあるという。次に、三人のバンデリリェロが登場し、短いモリのようなものを二本ずつ牛に突き刺す。

 闘牛士が一対一で闘うのだが、すでに牛は血みどろである。わざと牛を猛らせるために、ピカドールやバンデリリェロが出てくるとのことだが、何だか闘牛士が出て来る前に、牛は半分殺されているに等しい気がした。
 闘牛士は一人で仕留められないとわかると、すぐに副闘牛士が出て来る。人命を考えることは当然のことではある。
 スペインという情熱的な国にはても合う格闘技だが、日本人の好む潔さからは少々遠い。

東京

 東京を愛している。
 メチャクチャ愛している。
 こんなに魅力的な都市はそうそうない。
 旅は大好きだが、帰るべき東京があるからこそ、好きだ。
 ある夜、遊びに来た女友だちに、私は真剣に言った。
「私ね、悩んじゃうことがあるの」
 女友達は私の作ったサラダを頬張り、ワインをゴクゴクと飲みながら訊いた。

「大河ドラマの『毛利元就』、行き詰って書けないの?」
「うううん。私、東京を離れたくないわけよ。でもね。小林旭さんが好きなわけ、私」
「アータの言っていること、全然ワケわかんない。何の関係があるの?」
「だから、もしもよ、小林旭さんが私に『俺とさすらいの旅に出ないか』と言ったら、どうしようかと思って」
「は?」
「だって、彼はやっぱりさすらいが似合う男だし、何か名もない港町とかに流れそうじゃないの。私は東京を離れたくないし、そう言われたらどうしようと悩んじゃう」
 女友達はバカにしきった目で断言した。

「そんなこと、一生待っても言われないから悩まなくていいわよ。バカ」
 残念ながら、その通りだ。だが、この悩み方は、その土地をいかに愛しているかを測る尺度になる。こんな簡単かつ明瞭な尺度は無いではないか。その上、経費も掛からず、誰でも使える尺度だ。

 好きな人の顔を思い浮かべて、
「彼がプロポーズしてくれたら、大好きなこの街を離れられるかしら」
 と考えればいいだけのことである。その結果、「離れられない」と答えが出れば、その人にとっては彼よりその街の方が重い。愛しているという事だ。

 私は誰からもプロポーズされないが、どうも誰の顔を思い浮かべても、東京を離れたくない。東京に代えられない。
 NHKの朝の連続ドラマ『ひらり』は、私から東京に宛てたラブレターであった。原稿用紙にして八千枚にものぼるラブレターであるから、半端な愛し方ではないのである。

 なぜ、こんなに東京が好きかと聞かれると答えに詰まる。小学生の頃からこの方、東京が私に何をしてくれたわけでない。ただ、東京という都市がいとおしくてならぬ。
 それはおそらく、東京が脆弱だからだと思う。確かに日本の首都として君臨しているし、文化の発信地でもある。不夜城のごとき盛り場、人口の多さ、便利さ、どれをとっても東京は世界のTOKYOだ。

 だが、東京は絶対に脆い。それは震災の時に地盤が脆いとか、橋脚やビルが崩れるとか、そういう脆さではない。むろん、それもあるが、私は東京という街に、何だか突っ張った男がふと見せる弱さのようなものを感じてしまうのである。そこがいとおしい。

 だいたい、私は体育会系の男に弱くて、彼らのどこが好きかと言って、ストイックに突っ張っているのにポキンと折れたりするからだ。負けた試合で堂々と胸を張りながら、人目のないロッカールームで泣いたりするからいい。ちょっとした精神動揺で、ガタガタになったりするのもいとおしい。

 すべとは言わぬが、体育会系の男たちは普通の男より脆いところがある。「俺は強いんだ。すごいんだ」と威嚇しながらも、弱弱しい目をすることがある。メトロポリス東京には、それと共通するものがあるような気がしてならない。

 かつて、私は短い期間だがパリで暮らしたことがある。その時、朝な夕なに見るエッフェル塔に打ちのめされた。その美しさ、気高さ、強さは揺るぎない自信を感じさせた。周辺や公園やセーヌ河の景観も、エッフェル塔の重厚さを際立たせるように包み込んでいる。
 私はいつでも嘆いていた。

「東京は情けない。東京タワーは比べるのも恥ずかしいほどダサいわ‥‥」
 そして東京に帰った夜、成田から都心に向かうリムジンの中から東京タワーを見た。それはスモッグに汚れた夕空に、必死で立っているように見えた。足元に広がる繫華街は、節操のない極彩色のネオンを点滅させている。

 それはエッフェル塔界隈とは比べようもないほど、猥雑な景観であった。エッフェル塔の半分の重量だという東京タワーは、猥雑なネオン街や車の洪水の中で懸命に突っ張り、それは妙に弱さを感じさせた。東京という街がふと見せた弱気な目に、私は間違いなくいとおしさを覚えていたと思う。
 東京からは一生、離れられまい。
「もしも、旭さんとさすらいの旅に出る時は、東京の住まいは残したままにしておくわ」
 これが考えた末の結論である。

呼び出しの声

 寛吉という呼び出しが好きだった。スッキリとして贅肉のない体つきで、骨っぽい男らしさを感じさせる風貌をしていた。彼は、
「トザイ、トザーイッ」
 という時、二度目の「トザーイッ」の「イッ」切って突き放すように短く言う。それが実に粋で、私は寛吉の声を聞くのが大相撲の楽しみの一つでもあった。
 寛吉はすでに定年退職しているが、その前に定年を迎えた三郎とは好対照の呼び出しであった。

 三郎は相撲甚句の名手であり、あの艶やかな声、豊かな伸びはまさに優美そのもの。彼の声は着物で例えるなら、京好みのはんなりした雰囲気があったと思う。それは雅びな友禅の柔らかさであり、色香が匂い立っていた。

 一方の寛吉は着物に例えるなら、江戸好みの粋な縦縞。彼の声は凛として潔く、何よりも気っ風がよかった。
 現在の立呼び出しの兼三も、どちらかと言うと寛吉タイプの粋な雰囲気があるように思う。
 実は私は、ずっと以前から呼び出しの質の低下が気になっている。むろん、京好みであれ江戸好みであれ、美声の持ち主も多い。長八のように美声とは言い難いが、独特のカン高さが個性的な人もいる。まだ若い琴二の声はたっぷりと豊かで、三郎タイプの京好みだ。

 が、客として苦言を呈することを許されるなら、「問題あり」の人も少なくはない。おそらく、そう感じているのは私だけではないと思う。
 一番の問題は、音程を正確に取れないところにある。これは声の質以前の大問題である。
たとえば、
「ひがァし、わかのはな、にィし、とちのうみ」
 と呼びあげるとする。本来は「ひがし」の「ひが」で音程が上がり、艶やかに伸びながらのぼりつめていく。「にィし」も同じで、「イ」にふんだんに表情をつけながら、音程は上がっていく。ところが、この音程がとれない。力士名は呼び出しによって個性的な音程や伸ばし方があろうが、「ひがァし、にィし」
基本の基本である。

 音程が取れない人の多くは、すべてフラット音階が下がっている。上がる所で上がれない、半音フラットであっても聞き苦しいのに、二音も三音も下がっているケースがある。これはつまり、ドミソの音階で言うなら、ソの音を出さなければならない時に、不協のレを出しているということだ。これでは京好みも江戸好みもあったものじゃない。
 基本の基本を協会はどう考えているのだろう。

 呼び出しの仕事がハードなことは百も承知である。ふれ太鼓や櫓(やぐら)太鼓を叩き、柝(き)を入れ、懸賞の垂れ幕を持って土俵を回る。その他にも土俵回りの用事をすべてこなすのはもとより、土俵を作るのも呼び出しの仕事である。本場所の土俵の手入れもあるし、理事や審判部や記者クラブの秘書のような仕事もあろうし、その忙しさは並大抵ではあるまい。

 が、しかし、やはり客を酔わせるという意味では、白扇をサツと開き、呼びあげる仕事こそが第一義であろう。

 私は九四年に、呼び出しの名前が番付に載る事になった時、快哉(かいさい)を叫んだ。裏方の仕事が多いにしろ、呼び出しはやはりスターであるべきだと思い続けていたからである。

 客が大相撲の何に酔うかと言えば、非日常性に酔うところが大きいと私は思っている。力士の鍛えぬかれた体、髷、行司の装束、呼び出しの粋な匂い、これらはすべて日常生活にはあり得ないものだ。相撲内容の素晴らしさに酔う事は当然だが、その他にも大相撲だけが持っている非日常性に触れるときめきは大きいものがある。学生相撲にはスポーツとしての面白さはあっても、陶酔やときめきを感じにくいことからも、よくわかると思う。

 こう考えると、当然ながら呼び出しの力は大きい。客を真っ先に非日常世界にいざなうのは呼び出しなのである。その呼び出しが、音程も確かにとれないとあっては客はしらけてる。

 やはり怠りない訓練をすべきであろう。今も訓練はしているであろうが、さらに訓練を重ねるしかあるまい。あるいはいっそ、昔のように「土俵を作る呼び出し」と「土俵上で呼びあげる呼び出し」に分類してもいい。
 古くは小鉄、そして三郎、寛吉のような名呼び出しの層を厚くすることは、必ずや相撲人気をも呼び出すはずだ。

もっと敬意を

 貴乃花をめぐる一連の「整体師による洗脳報道」に、私は大相撲ファンとして心配している。それは貴乃花という不世出の大器を、潰したくないという思いだけである。
 私は貴乃花の熱烈なファンではない。ないが、彼は日本の宝だと思う。サッカーの中田や野球の野茂と同じに、いわば国民の「共有財産」なのである。貴乃花にしても中田や野茂にしても、好き嫌いは当然あるし、彼らの言動やプレーを批判することも当然あっていい。だが、天才という国民の共有財産に対し、好き嫌いを超えて敬意を払う姿勢も当然あるべきものだ。

 今回の事件に関し、報道する側もファンの側も、貴乃花への愛情が足りないと実感している。今場所、彼は実に単純に「ヒール」して扱われてしまった。耐えしのびつつも明るい若乃花が、貴乃花の分まで応援の嵐の中にいる。国民の共有財産を、ここまで単純に安っぽいヒールとして扱うことに、何の抵抗もないのだろうか。「事件」が面白ければそれでいいのか。

 九四年五月、私は『週刊ポスト』で大関時代の貴ノ花と対談している。弱冠二十一歳の大関は、非常に頭のいい、礼儀正しい青年であった。その彼が、ポツンと漏らした。
「早く六十歳になりたいです」

 これを聞いた時、彼がいかに大きな重圧やバッシングから来る苦しみと闘っているかを知った。六十歳になれば楽になれると考えた二十一歳の心の深淵を、私たちは改めて考えねばなるまい。
 貴ノ花が元に戻る方法はたったひとつ、愛情と敬意を込めた万雷の拍手と応援であろう。

神に選ばれた人

 世に名前の知られたスポーツ選手という人たちは、エリート中のエリートである。私はいつでも言っている。
「東大法学部から大蔵省に入るなんか、スポーツでトップを極める人に比べれば、簡単なものだと思うわ」

 アマであれプロであれ、スポーツで名を成す人たちは、神に選ばれた人たちである。神からの「天賦の才」がものを言う。努力だけではどうにもならない。

 比べて、東大法学部から大蔵省なんぞというものは、努力でどうにかなるだろう。きっとそうだ。少なくとも「神に選ばれた」というほどの人たちではない。

 その証拠に、霞が関あたりで石を投げれば、東大――大蔵省にはいくらでも当たる。東大――通産省にも、東大――外務省にもゴロゴロ当たる。珍しくも何ともない。

 が、両国で石を投げてみるがいい。横綱にゴロゴロ当たるものか。大関に当たるものか。東京ドーム近くで石を投げて松井秀喜に当たるはずもなく、国立競技場近くで中田英寿に当たるわけがない。

 神に選ばれた人たちというのは、ゴロゴロとはいないのである。だからこそ、私たちは彼らに夢を見る。逆に言えば、彼らはプロであれアマであれ、夢を売る立場にいる。

 この「夢を見る」とか「夢を売る」という言葉は、あまりにも手軽に乱用されすぎてしまったために、今では耳元をかすめるだけの力しか持たない。しかし、これはよく考えると実に重い言葉である。

 私たちがスポーツ選手に「夢を見る」というのは、どこかで自分自身に重ね合わせ、彼らから活力や気合や可能性をもらうことに等しい。つまり、彼らによって、私たちは蘇るのだ。息を吹き返すのだ。

 たとえば若乃花。彼は力士生命に関する大けがをし、引退さえ囁かれた。大形化する力士の中にあって、あの小さな体というだけでも苦しいのに、そこに大ケガをしたのであるから、誰しも「引退」の二文字を思って当然である。が、彼は敢然と苦境をはねのけ、横綱に昇進した。

 私たちはそこに夢を見る。つぶやく。
「おれも今は苦しいけど、投げやりにさえならなけりゃ、必ず日は昇るよな」
 そしてカズ。土壇場でワールドカップ出場を逸したスーパースターの苦衷(くちゅう)に、私たちは自分を重ねる。マスコミが「世代交代論」を書き立てれば掻き立てるほど、今後のカズに夢を見る。つぶやく。

「立ち上がれよ。カズ。世の中には、昨日今日出てきたガキの手に負えない事ってあるんだよ。あらゆる仕事すべてが、年齢とは関係ないサムシングで成り立ってるんだ。
もう一度立ち上がって、そのサムシングを叩き付けてくれよ。な! な!」

 そしてジャイアント馬場。還暦を迎えてもなお、リングにあがり続ける姿に、私たちは驚嘆する。今も盛りの三沢光晴や小橋建太と互角に戦うことなど、もとより期待はしてはいない。しかし、彼があでやかなガウン姿で登場するだけで、周囲の空気の色が変わってしまう。会社員ならば定年を迎える年齢の男が、その雰囲気で若いレスラーを黙らせてしまう姿に、私たちは夢を見る。そして呟く。

「若いうちはいい仕事をやっておけば、いくつになっても堂々としていられるのよね。若い人は、自分のできないことを成し遂げた人に対しては、きちんと敬意を払うものなのね」

 むろん「夢を見る」ということは、こんなメンタルなことばかりではない。とてつもない記録樹立に単純に熱くなり、ゴボウ抜きのランナーにスカッとし、すい星のような新人に胸が高鳴る。それらすべて夢を見ることである。神から選ばれなかった自分にはなし得ないことなのだ。

 これらを考えてみた時、選手たちは夢の売り手としての意識を、さらに強固に持つ必要があるように思う。特にプロ選手には必要不可欠ではないのか。それは決してマスコミに愛想よくせよとか、ファンサービスを心掛けよということではない。

 私は「崖っぷち、たった一人で闘っている」という雰囲気を見せることは、最重要な要因のひとつだと思っている。
 昨今の風潮として、選手の家族が表に出過ぎるように思う。選手自身も「感謝」と称して家族を表に出し過ぎているきらいはないだろうか。

 家族は神から選ばれた人ではなく、一般人である。神から選ばれた人が一般人に支えられていることに、微笑ましさを感じる場合ももちろんあるが、それも程度問題ではないだろうか。

 私は家族への感謝は、基本的には家庭内で伝えるべきものだと思っている。家族が出てくると同時に、その選手から色香もオーラも消え、若くても好々爺(こうこうや)に見えてしまうのは残念でならない。

 こんな意見は時代錯誤だとお叱りを受けると思うが、神から選ばれた人間に、私たちは「人並み外れた」部分を見ている。それが夢の源だ。そこには勝敗を超えた憧憬(しょうけい)がある。
 人並みのことをやるのは、第一線を退いてからにして欲しい。
つづく Ⅳ 女とセックス