女の生涯――女が相変わらず雌の機能に閉じ込められているために――男よりもずっとその生理的運命に左右される。女の生理的運命の曲線はよりギクシャクしており、非連続的である。

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U 女と仕事

本表紙 内館牧子著

 女と仕事

 私は結婚したことがないし、子供もいない。
 こういう人生を送ろうとは、若い頃には考えたこともなかった。私は二十三、四歳で結婚し、専業主婦となって子育てをするつもりでいた。一生の仕事を持とうか、結婚しても仕事を続けようとか、そんなことは思ったこともない。

 それが十三年半にも及ぶOL生活の中で、少しずつ変化していった。結婚しないと決めたわけではない。私は寿退社していくOL仲間よりも、いい仕事に転職していく人たちを羨み、嫉んでいる自分に気づき始めたのである。

 やがて、三十代に入った私は、ハッキリと思っていた。
「自分に合った仕事に就きたい。私が一番欲しいのは仕事なんだわ。結婚は五十歳でも六十歳でもできる。でも、仕事の基盤は三十代でないと作れないかもしれない」

 それから約十年後、私は四十歳でテレビドラマの脚本家として遅いデビューを果たした。私の中で仕事は「背骨」になっている。

そして、不思議なことに最も欲しかった「仕事」を手にした今、平凡な妻や母になれなかったことに対し、ひとつまみの後悔もない。これは信じてもらえないと思うが、本当に何らの後悔もない。これから結婚しようとも思わない。

 結婚、子供、仕事、あらゆるものを手に入れる人生も素敵だが、たったひとつだけシンプルに生きるのも素敵だと、私は自分の半生を振り返りながら思っている。
 中には、
「仕事だけの人生じゃ淋しい」
 
と言う人もいようが、仕事だけの人生なんてあり得ない。仕事は私の背骨であるが、二十四時間仕事しているわけではない。当然、プライベートな時間や関係がある。
 結婚も、子供も、仕事も・・・・と望んでもうまくいかない時、ふと発想を変えて見たらどうだろう。結婚だけとか、仕事だけとかをまず手にしようと努力してみたらどうだろう。それは案外、肩の力を抜けさせてくれるものである。

 そして、多くのものを手にしている友人を羨ましがらないことだ。おそらく、彼女たちはそれらを簡単に手にしたかのように言うかもしれぬ。しかし、それはあり得ない。多くのものを手にし、かつ、それを維持するためには、努力や代償を払うのは当然だ。表立っては示さないにしろ、裏におけるストレスは予測がつく。決して羨ましいことばかりであるまい。

仕事帰りのコーヒー

 ある夕方、仕事の帰りに一人で喫茶店に入った。くたびれているのだから真っ直ぐに帰ればいいものを、くたびれているからこそ真っ直ぐに帰りたくないという気持ちになっていた。
 店内にいるや驚いた。一人でコーヒーを飲んでいる女の何と多いこと。特に窓側の席はすべて女一人であった。たばこを手にぼんやりと外を眺めていたり、本を読んだり、手帳を拡げたりしながら、女たちが夕刻のコーヒータイムを過ごしている。おそらく、会社帰りの一杯のコーヒーなのだろう。

 私はひとつだけ空いている席に座り、つくづく働く女は男に似てきたと思った。
 男たちが仕事帰りに酒を飲みに行くのは、何も酒そのものを欲しているばかりではあるまい。家庭という所に帰る前に、ワンクッションが必要なのではないか。それは仕事の話を肴に何人かで飲む場合もあれ、一人で癒されるような気がするのだ。
「家庭こそが癒しの場でしょうよ」
 と言う人もあろうが、家庭では癒されない種類の疲れを、現代人は持っているように思えてならない。

 女たちは、男における酒場と同じように、一人きりのコーヒータイムを欲し始めた。子供が自分の帰りを待っているとわかっていても、親が夕食を作って待っているとわかっていても、一人きりでコーヒーを飲むというワンクッションで癒される。

 店内の女たちと同じように、私もぼんやりと音楽を聴きながらコーヒーを飲んだ。そして、端から見れば、こんな女たちは物悲しく映るかもしれないなと思った。社会の中で場を獲得することに引き換えに、自分自身で癒さねばならない何かを引き受けざるを得ないことが、ちょっぴり切なかった。

 たぶん、女たちの多くは、一昔前とは比べようもなく、男の気持ちと悲哀を理解しているのではないか。それを不幸とは思わないが、健康的なこととも思えない。
 思えば、塾帰りの子供たちのファストフードの店に立ち寄ってから帰宅するのも同じことかもしれない。
 やがて子供が、「パパの気持ち、よくわかるよ」などと言い始めたら、これは不健康の極みである。

大和撫子
 毎日、深夜三時過ぎまでギリシャで開催されている「世界陸上」(九七年)のテレビ中継にかじりつきながら、私は面白いことに気づいていた。実況アナウンサーが耳に引っかかる言葉を繰り返し使うのである。
「大和撫子、いよいよ登場です!」
「大和撫子三人娘、揃って予選を通過しましたッ」
 女子一万メートルをはじめとして、何度も「大和撫子」と言う。これが妙に耳に引っかかる。
 私はこの言葉に対して、女性蔑視だなどとトンチンカンな事を叫んでいるのでは断じてない。そうではなくて、日本ではほとんど使われなくなったこの言葉を、海外に行ったら突然繰り返して使う男性アナウンサーの心理にとても興味を持ったのである。

 おそらく彼は、日本で日常的に「大和撫子」という言葉を使ってはいまい。むしろ忘れている言葉だろうと思う。それが海外の、いわば戦場ともいえる競技場に身を置く女たちを見るや、突然甦ってきたというのは何となく面白い。耳に引っかかるのは私自身も忘れていた言葉だからだ。

 この時、私はふと思ったのである。彼は脚の長い黒人や、逞しい白人の中に埋もれている小さな日本人選手を目にした瞬間、「守りたい」という思いにかられ、とっさに「大和撫子」という言葉が口からついて出たのではないかと。そして、日本にいる時は考えもしない「女を守りたい」という気分が無意識のうちに心地よく、繰り返し「大和撫子」という言葉を使ったのではないかと。むろん、これは私の勝手な解釈ではある。

 しかし、昨今「弱くなった」と言われている日本の男達が、やはり本能的に「弱きものを守りたい」と思っている部分を見た気がして、悪くは無かった。

 しかしながら「大和撫子」という言葉は、二つの意味でまったくそぐわなかった。ひとつはギリシャの風土に合わない。乾いて澄みきった青空と石灰色の町に、この言葉は浮く。私はかつて、タヒチの海辺で鳥羽一郎の『兄弟船』を口ずさみ、あまりそぐわなさに我ながら恥ずかしくなったことを思い出した。

 そしてもう一つは、大和撫子たちが外国人を尻目に、軽やかに金メダルやら銅メダルを獲得し、守る必要などなかったことである。
 そう、「大和魂」の方が似合うたかもしれぬ。

仕事が趣味

 NHKの大河ドラマ『毛利元就(もとなり)』を書き始めてからというもの、必ずといっていいほど言われている言葉がある。
「体は大丈夫? 体には気をつけて」
「体、壊さないで」
 これらは「今日はいい天気だねえ」というのと同じ程度の、軽い「挨拶」だと分かっているのだが、会う人ごとに言われ続けると、正直なところうんざりしてくる。というのも、もし私が寝込むことでもあれば、何と言われるか想像がつくからである。
「無理しすぎたんだ。働き過ぎさ」
「神様に与えられた休養だと思ってゆっくり休むことよ」
 で、もし私が死んだりしたら、これはもう定番のセリフが並ぶだろう。
「何かに追い立てられるように仕事をしていたっけ。淋しい女でした」
「仕事以外の楽しみとゆとりを持つべきだったです・・・・」
「彼女は無言のSOSを送っていたはずなのに、気づかなかった私自身が悔しくてなりません」
 ヤレヤレ・・・・である。この際、カミングアウトするが、私は仕事がたぶん最大の趣味である。仕事が好きで、仕事が面白い。他人に強制されているわけではない。好きなのだ。趣味なのだから、思う存分やらせていただく。他人の気遣いは無用だ。

 いつも不思議に思うのだが、たとえば「大自然の中でボーッとするのが趣味」と言う人には拍手が送られ、「仕事が趣味」という人には哀れみの目が向けられるのはなぜだろう。同じ趣味なのだから、これは差別だ!?

 もうひとつ、役者が「舞台の上で死にたい」と言ったり、野球選手が「グランドで死ねたら本望です」と言ったりすると讃えられるのに、会社員が「社員食堂で残業飯を食べながら死にたい」と言えば笑われるに決まっている。どちらも仕事という意味では同じなのだから、これも差別だ!?

 こういう差別がまかり通り、かつ、この差別には誰も反論しないため、「仕事が趣味」の人たちはカミングアウトする勇気が持てぬのも道理。彼らは人間失格に等しいご時勢なのだから。

 仕事が趣味な人は、かなりの数で隠れていると私は思っている。そういう人たちは、この際何でもいいから仕事以外の趣味を一つだけ持ち、アピールすることだ。「仕事だけ」と言う人は哀れまれるが、ひとつでも別の世界を示すと世間はうるさくない。これも生きる知恵である。


派手な服を着る女
 ある日、某俳優さんと雑誌で対談することになった。
 私は「三月号」だという事を考え、ピンクのスーツを選び、いつもより少し白っぽく化粧をしようと思った。そうすることで、春らしい柔らかさが出るかと思ったのである。

 化粧を済ませてから、ピンクのスーツを着た。鏡を見ると、春らしいと言えば春らしいが、何だかやたら派手なオバサンに仕上がっている。すぐに別の服に着替えようと思いながら、もう一度まじまじと鏡を見た。

 というのも、どうもこのスーツ姿は誰かに似ている気がしたのである。
「誰だろう・・・・。白っぽい厚化粧に派手な色を着る女・・・。誰だろう・・・・」
 突然わかった。
 女性国会議員である。特定の個人ではなく、イメージとして浮かぶ女性国会議員である。
 私は女性国会議員をナマで見たことがないのだが、テレビや雑誌で拝見する限り、「どこに行けばこんな服が売っているんだろう」と思うほどの色、柄を着る人がいる。その上、ハレーションを起こしそうな白塗りの厚化粧。誤解なきよう申し上げておくが、これは決して個人を指して言っているのではない。

私達一般人の場合でも、男の人が多い席にいる時は、明るい色を着て行こうかと思う事が多々ある。男と同じグレーや茶より、ピンクや黄色で彩りを添えようかと、ふと思う。それは決して「媚び」というほどものではなく、サービス精神である。それと、「女もいますよ」というアピールも多少はある。その心理は、政府要人を取り囲む番記者にも見ることが出来る。女性記者はまず間違いなく鮮やかな色を着て、アピールしている。

 私はこういう心理は当然だと思う。そこには「男女の差異」をうまく使おうという計算が見える。男女差別は困るが、男女差異を認めることはお互いの関係に艶を与えるというのが、私の持論である。

 ただ、国会議員ともなれば話は違う。男には着せられない色や化粧よりも、男にできない仕事ぶりで、その差異を見せるべきだ。仕事よりも彩りばかりが目立つ人の場合は、別のオシゴトについていただきたい。

社名変更

 かつて月刊誌でカシオ計算機の樫尾和雄社長と対談させていただいたことがある。
 その時私はおこがましくも口走っていた。
「私、『カシオ計算機』という社名、すごくいいと思います。もちろん、『CASIO』という商標が世界中に通っていますけど、社名は厳然と『カシオ計算機』っていうところに、志を感じます」
 樫尾社長は驚かれ、それから本当に嬉しそうにおっしゃった。
「そういっていただくとホッとします。今更『計算機』なんて古いという声も多いんですよ。変える気はありませんけどね」

 私は「社名」の変更に妙に関心があるのだが、この際だから実名を出して書く。
「日本冷蔵」が「ニチレイ」になった。これは親しみやすいが、軽くなった。
「東亜国内航空」が「日本エアシステム」になった時はのけ反った。
「東亜」という語は悪しき時代の匂いがあるし、国際線も加わったので、変更したい気持ちはわかる。が、私の周辺でもかなり多くの人が、
「日本エアシステムって、空調設備の会社かと思ったわ」
 と言っていた。

「福武書店」が「ベネッセコーポレーション」になった時は、世も末だと思った。このセンスは一体、何んなんだ。誰が決めたんだろう。「福武書店」という名の持つ品格と重厚さは霧散した。
 私は「資生堂美容学校」の理事だが、理事会で校名変更について話し合ったことがある。
「美容学校」というのはあまりにも古いのではないかという声もあったらしく、いくつかの名前が候補に上がっていた。
「資生堂ビューティ・アカデミー」「アカデミー。シセイドー」「資生堂ビュティ・スクール」などなどであったが、あっという間に満場一致で、従来の名前で行こうと決まった。

 もしも、「アカデミア・シセイドー」などになりそうなら、私は体を張ってでも阻止する気でいただけに、ホッとした。

 財界とは無縁のところいる私は、社名変更の深い理由はわからない。
 だがあくまでも門外漢の一般人としての所感だが、変更後の名前を見ると、多くは「明るく」「軽く」「おしゃれ」になっている。それによって名前が浸透し、収益が上ったということも確かにあるのだろう。
 が、つまりは「トレンド」ということである。「トレンド」は怖い。「トレンド」は時代とともにどんどん変化する。

「寿屋」が非常にうまく「サントリー」として浸透した例もあるが、あの時代とは違う。少なくとも今は、もはや横文字はトレンドではあるまい。
 移ろうトレンドを追うより、「カシオ計算機」のように、名前に初期の志を示す方がずっとずっとすがすがしい。
 もしも「角川書店」が「コーナーリバー・コーポレーション」と社名変更したら、私は本を出して頂くことを辞退するだろう。

志の尺度

 テレビドラマを書く上で、一番難しいことは「志の尺度」の設定である。
 それは乱暴に言ってしまえば、
「何があろうと、何を言われようと、脚本家としてこれ以上のことは譲れない。ここまでしか譲れない」
 という尺度である。
 これは脚本家のみならず、出演者とスタッフ全員がそれぞれの立場を持っている。いかに人気の出そうなドラマでも、「僕の志に反しますので」と出演を拒否する俳優さんも少なくない。「志」は気概であり、良心である。ひとつの例として、視聴率をとるために「ここまでなら譲れる」という尺度も、当然設定する必要が出て来る。
 よく「視聴率など気にせずに、良心的ないいドラマを作るべきだ」という声を聞く。それはまさしく正論であるが、私個人は視聴率を一切無視していいとは思っていない。大衆的な媒体であるテレビというものを考えた時、それはついて回って当然だ。視聴率に捕らわれたくないと思うなら、他の媒体を選ぶべきだろう。テレビ番組を商品として考えるなら、やはり売れない商品ばかり作り続けるわけにはいかない。それがどんなに高品質の商品であったとしてもである。

 となると、ここに「志の尺度」の問題が出てくる。売るためのノウハウと、創作者としての良心と志。それがせめぎ合う。
 志の尺度を低くしすぎては「媚び」になる。「迎合」になる。高くしすぎては難解になることもあるし、地味になりすぎてソッポを向かれることもある。

 私はNHK朝の連続テレビ小説『ひらり』を書いた時、ふと耳にした一言があった。
「ここぞという時に、主要人物を一人死なせるといいんです。ドカーンと視聴率が上がりますよ」
 どうせ書くなら「ドカーン」がいい。私は全百五十一回の九十回あたりで、相撲部屋の梅若親方に死んでいただこうと決めた。梅若親方は主要人物の一人であり、伊東四朗さんが演じてくださっていた。あの温もりとペーソスに溢れた伊藤さんが演じておられるだけに、梅若親方が死ねば「ドカーン」どころか、日本中の涙をしぼるだろう、私は誰にも口外せず、密かに梅若親方の死を進めていた。

 しかし、『ひらり』は回を追うごとに全国からの手紙がふえ続け、その多くに書いてある。
「こんなに明るいドラマは嬉しいです。朝から本当に心が弾みます」
 毎日毎日、NHKを通じてドカーン、ドカーンと束になった手紙が私の元に届く。どれもこれも『ひらり』の明るさを喜んでいる。それでも私は梅若親方を死なせる気でいた。
 がある日、大病院の医師から手紙が来た。

「『ひらり』の開始時刻になると、あっちの病室、こっちの病室から患者が飛び出してきて、ロビーの大きなテレビの前に集まります。動けない老人までが車椅子を動かすようになり、みんなで大笑いしながらテレビを見ます。こんなに朝から笑いがある日々は、今までは考えられませんでした。『ひらり』に感謝してペンを取りました」

 私は梅若親方を死なせるのを辞めた。たとえ視聴率なんてドカーンといかなくても、全国で「笑える朝」を送った方がいい。そう気づいた時、私は「志の尺度」を低く持っていた自分を恥じた。

 そして、『ひらり』は誰一人死ななくても、四十パーセントを超える視聴率をとり続けた。私は視聴者の志というものを甘く見すぎていた自分をも恥じたものである。

「本を忘るるものは、すべて空なり」
 NHKの大河ドラマ『毛利元就』の脚本を書くために読んだ資料の中で見つけ、自分への戒めにしている言葉です。「本」とは、本業のこと。本業以外のことにうつつをぬかしていると、結局は全てがダメになってしまうということを言っています。

 元就は三人の息子や孫たちにそうした趣旨の手紙を送り、「武将として必要なことだけをやれ」と徹底して教え込んでいました。茶の湯、和歌、蹴鞠(けまり)、能などといった趣味、芸事は一切要らないとまで言い切っています。

 しかし、元就は実は和歌や学問などに通じた文化人でもありました。でも、武将としての本文を忘れずにいたからこそ、いわば小企業だった「毛利家」を一代で大企業にまで成長させることが出来たのです。

 その点を心得ていなかったため、自滅した武将もいます。大内義隆は、芸能文化に力を入れすぎるあまり、家臣に殺され、お家が潰されました。
 人はある地位を手に入れると安心し、楽しいことや楽なやり方に流れてしまうものです。元就はそれに気づいていたからこそ、自分の子孫にそんな過ちを犯させたくなかったのです。

 私の本業とする脚本執筆業は、ゼロから物語を作り上げる孤独な仕事です。いっそ依頼されるままに、テレビ出演や講演など、短時間に効率よくギャラが得られる仕事を中心にして、楽に稼ごうという誘惑にかられることがあります。

 テレビ出演や講演は、脚本を書く上での気分転換になりますし、本業にプラスになることも少なくありません。しかし同時に、気を付けないとそっちが主になってしまう危険性があるんです。

 自分にキチッと歯止めをかけようと考えた時に、この言葉に出会いました。本業以外から声がかかるのも、私が脚本を書き続けているからこそ。「それを忘れたらすべてを失ってしまう」と改めて自分に言い聞かせました。

 サイドビジネスがいけないとは思いませんが、本業にプラスになるようにし、さらに「ここまで」という尺度を自分の中にしっかり持っていなければならない、という事だと思います。

安楽の夢

 会社勤めをしていた頃、広報誌の出張校正のために、月に二日ほど印刷所に詰めていた。そこは下町の印刷所街で、紙屋や版下屋、それに小さな町工場が路地裏にひしめいた。

 印刷機械の音と活版インクの匂いがあふれる路地裏で、よく子供たちがゴム飛びやかくれんぼをして遊んでいた。校正室には冷房もなく、窓を開けると子供たちの声と一緒に、よく虫が入って来た。
 あれから二十年たった今、友人は言う。
「すっかり変ったわよ。工場はどこもコンピューターだし、路地もかなり潰されたわ」
 私は二度と足を踏み入れる気はない。あの美しい昭和の日々は、今にして思えば安楽の夢だった。

つづく V 女と男