女と年齢

本表紙 内館牧子 著

女と年齢

年を取るというのは、女にとってあまり嬉しくないことだ。
時々、女性誌などで二十代の女たちが、
「早く四十代になりたいですゥ。すてきな四十代っていいじゃないですかァ」
 などとほざいているが、それは自分が四十代になる日が信じられないからだ。四十代になんかなりっこないと、わけもなく思っているからだ。わたしだって今、
「早く七十代になりたいわ。おしゃれな銀髪の七十代になるの。今よりもっと自由に生きられる気がするんです」
 などと言うのは簡単だ。自分が七十代になるなんて考えられないからだ。
「早く年を取りたい」という言葉の裏には、若い人間の嫌らしい優越感が見え隠れするものである。

 私が今まで出会った唯一人の例外は、大関時代の貴乃花である。彼はバッシングや中傷やらの最中にあり、私との対談の席で思わずもらした。
「早く六十歳になりたいです」
 これを聞いた時、六十歳になれば何もかも遠い昔の思い出として笑い飛ばせるからだろいと私は思った。そして、二十代前半の男にここまで言わせるほど、世間は彼に冷たく厳しいのだと胸が傷んだ。これほどの思いで言わない限り、「早く年を取りたい」というセリフは薄っぺらで傲慢だ。

 女が年齢を重ねていく上で、いいことがたったひとつだけある。それは若さと美しさだけで勝負してきた女の多くが、気づくと消えていることである。これは痛快だ。

 若さと美しさは重要だが、長持ちしない。コラーゲンを注入しようが、シワをリフトアップしようが、若くは見えるようになっても、本当に若くはないのだ。周囲は本当に若いわけではないことを知っているのだ。それはとてつもなく恥ずかしいことではない。

 それならいっそ、若さと美しさがなくなった後にも消えないように、自分に磨きをかけておくべきだろう。七十代になった時に、私は消えていたくないもんなァ。

気持ちの悪いオバサン

 ある時、数人集まった会合があった。その中に五十代の女性高校教師が一人いた。私は初対面であったが、数分もせぬうちに心の中で、
「この人はまともに話の出来る相手ではないな・・・・」
 と辟易していた。同席していた全員が呆れ果ていたことは間違いない。
 とにかく彼女の言葉使いのひどさはお話にならない。それも五十代である。
「なんちゆーか、ほらァー、よく言うじゃないですかァ。やっぱ、女は可愛いつーかァ、愛嬌がある方が得だっつかー。あッ、こんなことマジで言っちゃヤバイか。ごめん。男女平等の世の中で、やっぱ、マジーよなァ。ほんなら言い直すけどォ、やっぱ、考えちゃっうかーァ、うちらの時代とは違ってても、女の子はやっぱ男に好かれたいっつーかァ、あるんじゃないですか。それをォ、なんだかんだ言っても通用しないみたいな。本能つーとオーバーだけどォ、そこんとこ押さえておかないとォ、教師つーもんはやっぱ生徒から嫌われっちゆーかァ」

 私はうんざりしていた。立派な中年の女である。それも教育者である。この中学生のような言葉使いを恥ずかしいと思わないのだろうか。さらに困ったことに、彼女は何かと言うとボディタッチをしてくるのである。たとえば、
「えーッ、わかってくれたんだァ。嬉しい! マコ、感激!」

 と言って、誰彼かまずに抱きつく。「マコ」は仮名であるが、彼女は自分のことをそんなふうに名前を呼んでいた。私は「マコ」に何回抱きつかれ、何回手を握られ、何回しなだれかかられたか分からない。むろん、お酒など一滴も入っていない。その上、突然奇声を発して言う。

「イヤーン、わかんなァい。教えてよォ」
「ヤダァ! 意地悪ウ! アタシってバカなんだから、ちゃんと話してくんなきゃイヤッ」
 彼女に閉口しながら、私はこの教師に子供を預ける親の気持ちを考えていた。こんな女が担任ではたまったものではない。自分の息子にしなだれかかって、「イヤーン、バカ」と言う教師を、私が親ならリコール運動を起こすだろう。
 やがて、会がお開きになる頃、彼女は私に言った。
「アタシって、こんな性格だし、すっごい開けっ広げでしょ、だから生徒の方でものすごく心を開いてくれるの。たぶん、生徒が自分たちと同じ仲間として私を見てくれているんだと思う。言葉も自分たちと同じだから違和感がないみたい」

 そう言った時の彼女の目は真剣であった。なぜか言葉も普通で、ゾッとするような「ちゅーかー」だの「じゃないですか」だの「やっぱ」だのは使っていない。その時、私は初めて気が付いたのである。若者言葉もボディタッチも、そして自分を「バカだから」ということも、すべて彼女の計算の上に成り立っていることに。

 彼女はおそらく、生徒たちとの距離を縮めるために、心を砕いてきたのだろう。試行錯誤の末に、彼女は「高校生と限りなく近い位置に立つ」ということを選択したのだろうと思う。それがあの言葉に使いになり、自分をバカだと連呼することで親近感を持たせ、ボディタッチによる仲間意識を図ったに相違あるまい。私は彼女が妙にいい人と思えていた。

 しかし、彼女の計算はおそらく大きく外れている。これはあくまでも私のカンであるが、高校生たちはそんな教師に本気で心を開くとは思えない。中学の低学年くらいまでなら、彼女の計算は当たる事もあるかもしれない。しかし、それ以上の年齢になると、
「気持ちの悪いオバサン」として陰でせせら笑われるのがオチではなかろうか。

 私には子供もいないし、教育現場のことはまったくわからない。ただ、私の書いたテレビドラマの視聴者や、小説などの読者から非常に多くの手紙をいただく。中学生や高校生からの手紙も大変多く、それらを読むと彼らの思考の深さと虚無感に驚かされる。虚無感を持つということ自体が知性である。彼らは若者言葉でじゃれ合いながらも、心の真ん中に暗い穴を抱えているような気がしてならない。とすれば、この女性教師のように「表層的な手練手管で同じ位置に立とうとする」ということは、実に浅はかな媚と言わざるを得ない。彼らは心を開いてはくれまい。開くふりをするだけに過ぎないのではあるまいか。

 私は中学高学年以上の若者が、教師に限らず大人に心を開くのは、唯一「この人はすげえ」と思わせられる時のみだと思う。それには圧倒的な知識と果敢な行動で凌駕するしかない。

 昔、女友達のA子が不倫の恋をしていた。
 相手の男は五十代で、年上妻との間に子供は無かった。それだけにA子にしてみれば、離婚もしやすいだろうと確信していた。そして、
「結婚できる日までずっと待つ」
 というのが口癖だった。
 そんなある日、A子は涙一つこぼさず、私と女友達二人の前で言った。
「彼とは別れるわ。待っていても無駄」
 聞けば、彼が妻と歩いているところを見たのだという。
「あんな素敵な妻と離婚するわけがないわ」
 と、彼女は断言した。
 が、私達にしてみればわけがわからない。チラッと見ただけで、何がどう素敵なのが見抜けるものだろうか。すると、A子は言った。
「雨が降ってたの。妻は髪を小さなシニョンにしてね、男物の黒い傘をさして、真っ赤な口紅で笑ってた。強くて女っぽくて、何だかパリの大人みたいだった」

 私達は「パリの大人の女」という一言に、妙に納得した。わけもなく勝てない気がした。
 あの夜、私は自分の花柄やブランド物の傘を捨てたくなったものだ。女友達二人もそう言っていた。

ランニングシャツ
 ある夏、浅草寺の境内で男友達と持ち合わせた。先に着いた私が木陰で涼んでいると、突然、声がした。
「いいもの見せてやろうか」
 小学校一、二年生かと思われる少年が、自慢気に大きなカマキリを突き出している。
「今、俺が一人で捕まえたんだ」
 ちょうどその時、男友達がやって来た。彼はカマキリを見るや、大きな声を上げた。
「すげえなァ。一人で捕まえたのか。やったなァ。こんな大きなカマキリ、ちょっとないよ」
 少年は胸を張って歩き去った。細い肩と薄い胸に、小さなランニングシャツがよく似合っていた。
 子供が身に着けると似合うのに、大人が身に着けると似合わないものがある。
 その最たるものが、ランニングシャツだ。ワイシャツの上からランニングシャツが透けて見える大人は、どんなにいい男もオジサンに見えてくる。
 その逆に、子供が身に着けると似合わないものがある。
 高価すぎる品物を持つ十代、二十代の女を見ると、私はランニングを着たオジサンと同じだと思い、笑える。

風鈴

 ある夏、女友達から江戸風鈴をもらった。彼女はその風鈴を私に差し出しながら、残念そうに言った。
「昨日買って室内の窓に掛けたら、ご近所から苦情が来たの。うるさいって」
 風鈴の音などたかが知れているし、夕方には窓を閉めるので音は漏れない。当然ながら、彼女は苦情が来るとは思いもしなかった。

 以前、別の女友達のマンションでは、玄関前の草がすべて刈り取られた。虫の音がうるさいと苦情があったからだ。また、スズメの声がうるさいからと、殺虫剤をしみこませた米粒を撒いた人も私は知っている。
 風鈴も虫の音もスズメも、偶然とはいえ苦情の主がすべて四十代の女であることが、ふと気になった。
 人によってはどんな音でもカンにさわる。しかし、それにしてもあまりに苛立ちすぎてはいまいか。
「風鈴に風が言葉を教えてる」
 毎日新聞に載っていた女子高生の句である。こんなみずみずしさに触れると、心というものは年齢とともにゴワゴワするのか・・・・と、反省させられる。

スカーフ

 もしも「オバサン指数」というものがあるならば、スカーフは最大のバロメーターになる。私はそう信じて疑わない。
 オバサンはスカーフの使い方が下手である。
 スカーフというものは非常に危険なアクセサリーだ。うまく使えばこれほど「いい女」を演出する道具もないが、下手に使えばこれほど「オバサン」をアピールするものもない。両刃の剣である。

 とんでもない色柄のセーターに、色神検査のごとく賑やかなスカーフを蝶結びにしていたり、洋服のテイストとまったく相容れないスカーフを肩やら首やらにぶら下げているのは、たいていがオバサンだ。

 雑誌で見たモデルのように、テレビで見た女優のように、スカーフを使ってみようとするお洒落心は絶対に必要だが、素材から結び方から自分の体型までを、十分に熟考してから使うことが最重要だと思う。
 自由に気ままに使えばいいという意見もあろうが、それによってオバサンに見えては損というものだ。

カーテン
 ある晩、女友だちと二人と食事をしていると、何かの話からA子がB子に一枚の紙を渡した。
「ちょっと心理テストをやるわ。心に浮かんだものを、この紙に絵を描いてみて」
 すると。B子はカーテンを描いた。その絵を見たA子は言った。
「今、精神不安定ね。動揺しているわね」

 突然B子は泣き出した。夫が若い女と同棲し、半年も帰ってこないのだと言う。そんなB子に、A子はズバット言い放った。
「ダンナの浮気は当然よ。B子、昔は『香水をつけない女は、香りのない花と同じ』とか言って、今じゃ香水どころか、体も気持ちもゆるみすぎだもん」
 きつい一言だがその通りだった。
 それから間もなく、B子の夫は家族とともに海外勤務になり、若い女と必然的に別れた。
 B子は「確かにゆるんでいたわ」とA子に礼を言って日本を後にしたと言う。
 A子は大笑いしながら、私に打ち明けた。
「あの心理テスト、口から出まかせ。カーテンは揺れるから『動揺してるわね』って言っただけなのよ」
 口から出まかせが、B子を生き直らさせた。

スニーカー
 会社勤めをしていた頃、私は休日ともなると朝から国技館に行き、大相撲を見ていた。
 いつでも三階の一番安い席で、確か千円だった。椅子は固い木のベンチである。
 その頃、いつも必ず出会う老夫婦がいた。
 二人は弁当箱に煮物や漬け物を詰めて持参し、ワンカップ酒を飲む。夫は固いベンチに胡坐をかき、妻は正座し、二人で弁当箱をつつきながら、一日を過ごす。
 ある時、二人が脱いだ靴を何気なく見た。
 真新しい、真っ白なスニーカーだった。
 薄暗い床に並んだ大小の二足は、寄り添って咲いている夕顔のようだった。
 決して裕福そうでもなく、贅沢に生きてきたようにも見えなかったが、
「この二人は人生の勝者だ」と、あの時ほど思い知らされたことはない。
 隅田川の風に吹かれながら、並んで家路をたどる夕顔は、百万語の言葉よりも夫婦のよさを語っている気がする。

バケーション・ノイローゼ

 この夏(一九九八年)、取材のため、ポルトガルとスペインに出かけてきた。
 日本からフランクフルト経由で、まずリスボンに入ったのだが、日本では考えられないような光景を幾度も目にした。

 それは町の大衆的なレストランで、大家族が揃って夕食のテーブルを囲んでいる姿である。たいていは三世代であったが、時には四世代家族も見かけた。

 彼らはごく気楽なTシャツやサンダル履きで来ており、何か特別なイベントで集まっている様子ではない。すでに二十年間もポルトガルに住んでいる日本人ガイドは言う。
「これはごく一般的な姿です。ポルトガルでは日常的にこうやって、大家族で食卓を囲みます。たいていは家で夕食をとりますが、週末や夏休みなどはレストランにみんなで繰り出すんですよ。こうして家族全員で囲む食卓こそが、何よりも楽しいことをポルトガル人はよく知っていますから」

 私は遊びたい盛りの十代や二十代前半の男の子までが、家族で囲む食卓を楽しんでいるとは何と奇特な国民だろうと、すっかり感心してしまった。
 ところが、見ているうちに、十代や二十代の男の子は全然楽しくないことに気づいた。「大家族のテーブル」はアチコチで目にしたのだが、若い彼らは明らかに義務をこなしている様子であったり、白けたような表情で黙々と食べていたり、幼い妹に何かを取り分けてやりながら一言二言話しかけたりである。

 その反対に喋りまくっているのが、祖父母である。これほどのテーブルでもまったく同じで、特にお祖母さんの喋りプリには驚く。私にはポルトガル語は理解できないが、おそらく昔話か説教だろう。こんな食卓が十代、二十代の男の子たちにとって楽しいわけがなく、私は彼らの仏頂面を見ながら、それは自然なことだと思っていた。

 この「大家族のテーブル」は、その後、スペインでもよく見かけた。大都市バルセロナでは少なかったが、グラナダやセビリアでは本当に多かった、むろん、いつでも若い男の子がつまらなそうというわけではない。

 マドリード在住二十四年の日本人ガイドにそう言うと、彼は面白い話をしてくれた。
「スペインでは六月になると、精神科医が急に忙しくてなるんです。患者がドッとふえるんですが、彼らは『バケーション・ノイローゼ』です。来るべき夏休みが憂鬱で、六月のうちから耐えられなくなるんですね」

 スペインでも核家族が進み、特にバルセロナやマドリードなどの大都会ではその傾向が著しいらしい。そんな中で、ごく一般的には一ヶ月のバケーションをとり、家族そろって別荘で過ごしたり、コンドミニアムを借りたりするのだという。

「一ヶ月間も顔を突き合わせるんですから、夫にとっても妻にとっても、大きな子供にとっても、楽な事じゃないんです。その上、祖父母も一緒になれば、これは六月のうちから精神科の門を叩きたくなりますよ」

 経済的にゆとりのない家庭では、一カ月間も別荘に行くことはないが、その代わりに週末はみんな揃って外食をするケースが多いのだという。
「ポルトガルにしてもスペインにしても、内館牧子さんが見た男の子たちは、週末の『大家族のテーブル』が憂鬱だったんでしょう。夏休みくらい義務をこなそうと覚悟はしているものの、つい顔に出ちゃったんだろうな」

 ガイド氏本人も、一カ月のバケーションが終わる日は本当に嬉しいという。
「すごい解放感で、ホッとしますよ」
 これは笑った。解放感を得るためのバケーションであるはずが、終わると解放感を得るのだ。
 それにしても、人は年齢を重ねるごとに「自分で自分をお守りする」という精神力を持たねばならないと痛感する。老人をないがしろにしていいという意味ではないし、家族を否定しているわけでは決してない。むしろ、日本の十代、二十代などはもう少し老人や家族との時間を作るべきだと思う。

 ただ、これからの老人は「平時には 家族をアテにしない」というくらいの気概を持っていいのではないか。そういう気概が見えれば、若い家族たちは義務ではなく、逆に素直に寄り添ってくれるように思えてならない。

 レストランからの帰り道、ガイド氏が言った。
「日本のように二泊三泊くらいのバケーションが、ふと羨ましくなることもありますよ」
 そう、二泊三泊くらいで仏頂面をするならば、それは若い人間の横暴というものである。

遅咲き人生

 その夜、広島の厳島は雷鳴轟く大嵐であった。豪雨と暴風の闇に稲妻が走り、天を突くような波が砕け散る。その嵐の中で、毛利元就(もとなり)は叫んだ。
「出陣じやーッ!」
 時は一五五五年(弘治)九月三十日。元就(もとなり)の人生における最大の戦、「厳島の合戦」である。この時、元就は五十九歳。敵の陶晴賢(すえはるかた)は三十五歳。軍記物によると毛利軍に勝ち目はない。その上、この嵐である。毛利の重臣らが出陣をためらったのも無理はない。が、元就は敢然と言い放った。
「人生において暴風雨は好機!」
 元就と現代の男達を比べた時、私は愕然としたのである。今、五十九歳と言えば定年前後の年齢である。私はかつて、その年齢の男達にインタビューしたことがある。
「定年後、どんな暮らしをなさりたいですか?」
 多くの男たちが異口同音に答えた。
「女房とのんびり、温泉巡りをしたいですね」
 片や「暴風雨は好機!」と言って出陣し、片や人生八十年の五十九歳.

 女房と温泉に行くことは大切だ。だが、そういう言葉を公にすると男の色香が霧散する。そこはちょっと我慢したいところだ。女房への感謝や愛情は、女房にだけ伝わればいいではないか。
「定年までやってこられたのは、君のお蔭だ。これからは温泉巡りをしょうな、今ままでありがとう」
 女房だけ、こう言えば済む話だ、公にする必要はない。
 元就は奇襲戦法で、勝ち目のない合戦に大勝した。まさに暴風雨をうまく利用した奇襲であった。そしてこの後、元就は七十五歳で死ぬまで攻め続け、中国地方の覇者になる。

 私はこのエピソードを思うたびに、五十九歳という年齢はこれから何でもできる年齢と再認識させられる。守りの姿勢に入る年齢ではなく、これから攻めに転ずることのできる年齢だ。まして、現在は人生八十年の時代である。

「女房と温泉」だの「孫と遊ぶ」だのを公にせず、「暴風雨こそ好機!」と、新しいすべてに出陣する気概こそが、男の色香というものであろう。むろん、女もそうである。
 つづく U 女と仕事