ひょっとして自分は性格が悪いのかなぁ、歪んでいるのかなぁ、まったく考えてみない訳ではない。
 しかし太田陽子は、基本的には機嫌がいい。常にイライラしていたりはしないし、偏執的にたれかを恨んだりもしない。面と向かって悪口を言ったり、意地悪もない。

本表紙

隣の花は黒い

1 めるへん趣味

 交際期間も含めて十年近く一緒にいる夫の学(まなぶ)とも、夫の兄宅に暮らしている姑ともたまにはいい争いもするけど、まず仲良くやっている。陽子はさん意地っ張りね。お前少しうるさすぎるぞ、そういう怒られ方はあるが「性格が悪い」といわれた覚えはなかった。

 一人息子の拓人(たくと)も、親の欲目ひいき目ではなく、のびのびと明るく子供らしい子供に育っている。家庭には、何の問題も不満もない。結婚と同時に引っ越した一戸建ての家は、大きくはないが
幸福の象徴のようだ。軽い花粉症なので庭の花々には凝れないが、芝生は艶やかに美しい。

 子供を同じ幼稚園に通わせているママ仲間の中にも、勤めている職場にも、そういう「性格の悪い」のだったら何人もいる。
「あの女に比べれば、あたしたちってめぐまれているよね!」
「あの女は誰に比べてもヤバイよ。それより、陽子さんが恵まれないなんていったら、あたしらどうなるの」

 こんなふうに、誰かの悪口をいって笑いあえる親しい女友達も、あちこちにいる。陽子は、仲間内だけでも通じる「ちょっと嫌な奥さん」だのの悪口を、面白おかしく話すのが上手いのだ。
 もう一つ陽子が上手いのは、自分だけが快く思っていない相手、みんなに評判のいい人は標的にしないところだ。そんなの真似すれば、自分の方が陰口を叩かれたり、悪者にされたり、それこそ性格の悪い人にされてしまうとわかっているからだ。

 だから、みんなが「ちょっとアレどうよ」と思っている、わかりやすい人を弄(いじ)り回す。
 たとえば、幼稚園ママ仲間の美咲。確かに美人は美人なのだが、そして決して出しゃばりでも図々しくもないのだが、
「ちょっと若い恰好して街を歩いていると、スカウトされて困るの。私がモデルをやっていたのは、何年も前なのに。あ、航空会社のキャンペーンガールは、ほとんど内定に近いものをねらってたんだけど。別のミスコンテストに出たのが問題になって、別の子になっちゃったの。ほら、女優の藤嶋菜々花。私が選ばれていたら、今の菜々花はないわ」

 こういう自慢を、あくまでも伏し目がちに小さな声でさりげなく語るのだ。まあ、陽子だったら普通の主婦の中に混ぜてみれば美人だが、それこそ藤嶋菜々花といった華やかな芸能人の中に入っていれば、ひたすら地味で目立たない女でしかなくなるはずなのに。

 あくまでも美咲は大人しく控え目に自慢するので、きっちりと嫌われ者にはなっていない。微妙な浮き方をしていた。こういう女が、陽子の標的、いや、おもちゃになるのだ。積極的に美咲に近づき、
「もう、ひと目見た時からプロの美人だなぁって、感動したのよー。ねえねえ、芸能プロには所属したことはないの? あ、やっぱりあるんだぁ。その話も教えてよ」

 おだて上げ、煽って、さらに自慢話を引き出す。それをさらに陽子が面白おかしく脚色し、大げさに膨らませて、仲良しママ仲間に報告するのだ。ママ仲間は大いにウケてくれ、もっともっと美咲を煽っておもしろい話を聞き出してよとはしゃぐ。

 それから、勤めている化粧品のお得意様である、早島夫人。とにかく強烈なクレーマーで、店員の接客態度から化粧品の質、新製品の使い心地、店先のポスターの位置からダイレクトメールの宛名の書き方まで、ありとあらゆることに文句をつけまくる。

 なら来なければいいと思うのだが、彼女はクレームをつけて人に謝らせるのが生き甲斐なのだ。その化粧品店だけでなく、あちこちで同じようにやっていた。
 それでも早島夫人は、この地方では有名な会社の社長夫人であり、謝っておだてて機嫌をとっておきさえすれば、金はたくさん落としてくれる。面倒だが、ありがたいお客様には違いないのだった。

 陽子は、早島夫人に結構気に入られていた。どうにも誉めようのない容姿を、臆面もなく美人だ、素敵だ、きれいだと誉めあげ、一緒になって他の店や店員の悪口をいい、例によって煽ってさらに調子に乗せてやれるからだ。

 そうやって早島夫人から聞き出した、あくまでも他店とのトラブルを面白おかしく定員仲間に語ってやれば、やはり陽子は一目置かれるし面白がってもらえる。
 陽子も仲間たちも、美咲や早島夫人が憎くてたまらないのではない。ただ、一人を生贄にといえばおどろおどろしくも大げさだが、そんな女が一人いれば盛り上がるし、仲間内の連帯感も強くなる。
 あー、私って性格が悪いかな。だから、たまに思うのだ。たまに、だが。

 特に恵まれた生まれも育ちでもなく、容貌も経歴も何もかも平均値だが。わりと自分は勝ち組なんじゃないか。これは、陽子はたまにではなくしょっちゅう思っている。
 美咲はあたしより美人。でもあんなふうに笑い者。なんだかんだ自慢しても、結局はモデルだかタレントだかでモノにならなかったから、仕方なく主婦になったんじゃない。最初から主婦になりたかった。あたしの勝ち。

 早島夫人はあたしより金持ち。でも、あんなふうに嫌われ者。どんなに化粧して高い服着たさって、ブスとデブは隠せない。おまけにババア。あたしはまだ三十の前半、若さも張りもある。
そりゃ、すごい美人ってことはないけど、そこそこイケてる主婦で通っている。

 陽子に一つ、皮肉な意味で優れているところがあるとしたら、即座に相手と自分を比較対象して、勝ち負けをつけられるところだろう。
 容貌や若さや夫の会社の知名度など、即座に自分の勝ちとわかる部分は、即座に陽子の余裕の微笑みの栄養分となる。

 また、負けたと思う部分は、「なんとか粗探しをしてやろう」と熱心に観察して、時には探偵のような真似までして、結果本当に粗探しを成し遂げる。
 美咲が昔、ショボいダサい田舎のミスコンテストで一次予選落ちしていたとか、早島夫人の夫は、先妻の父親の保険金をほとんど詐欺で手に入れて、それで傾きかけた会社を立て直していたとか。

 もちろんこれは仲間内にしゃべる。さらに陽子は情報通―っ、と尊敬された上、
「ふふん、やっぱりあたしの方が上じゃない。あたしはミスコンテストに出たことがないってのもあるけど、そんなダサいイモ娘を選ぶコンテストで落ちるなんて屈辱は味わっていないし。パパは安月給のサラリーマンだけど、少なくとも人様のお金に手を付けるような真似はしてないし」
 結局は、「あたしの勝ち」に持っていける。

 だから陽子は、ひょっとして自分は性格が悪いのかなぁ、歪んでいるのかなぁ、と、ちらりとは考えても落ち込まないし、基本的には機嫌がよく、イライラもせず、偏執的に誰かを恨んだりもせず、面と向かって悪口を言ったり意地悪もしないで生きていけるのだ。

 ところが。そんな陽子にも、ちょっと、ううん、かなりストレスだなぁ、あれは難物だなぁ、と日々感じるようになる相手がいるのだった。
 隣に引っ越してきた夫婦の奥さんの方だ。

 ここら辺りは、中途半端な田舎で都市だ。まったく近所付き合いがないこともないし、向こう三軒両隣は親戚も同然、味噌や醤油の貸し借りも、といった濃い関係もない。
 陽子の家は一戸建てなので、集合住宅のように両隣や向いや下の住人についても気を遣う苦労はない。一区画に三軒あるのだが、外から見て右隣はひとり暮らしのお爺ちゃんで、共通の話題も何もないため、顔を合わせたら会釈する程度の仲だ。たまに来ている息子夫婦とも、そんなものだ。つまり、近所づきあいの煩わしさは無縁だった。

 ずっと左隣は空いていたため、近所づきあいといえば行きつけのスーパーや美容院や喫茶店の主人や店員だけだった。厳密には、近所づきあいともいえない。

 ところが去年の冬、左隣に引っ越してきた人がいた。子供のいない夫婦で、旦那さんの方は朝早くて夜遅いため、滅多に出会うこともない。ちらりと見ただけだが、大柄で大人しそうな、よくいえば穏やか、悪く言えば冴えない風貌の初老の男だった。やはり会釈だけの仲だから、何の問題もない。

 問題なのは、その奥さんである幾美(いくみ)の方なのだった。特に美人というのではなく、むしろ小太りの地味な顔立ちだ。年は旦那さんより一回りも若いというが、旦那さんはそれほど若くないので、陽子より五歳ほど上になる。つまり、堂々たる中年だ。

 なのに。子供のピアノの発表会、といえばいいのか。リカちゃん人形のような、といえばいいのか。レースぴらぴら、フリルひらひら、リボンごてごて、花柄にピンクに水玉模様にと、とんでもない派手な格好をしているのだ。髪の毛はくめくめに巻いて、大きなリボンのついた帽子をかぶったり、クマの顔をしたリュックサックを背負っていたりする。

 陽子と違って、あまり他人に興味がなく噂話も好きではない学も、
「なんなんだ、あの小公女かアルプスの少女かキャンディキャンディみたいなのは」
 さすがに驚いて、「今日はどんな格好していた? えっ、そりゃ見たいな」などと、わざと隣の前をゆっくりと歩いて、たばこを買いに行ったりもしていた。

 働きに出ずに、自宅で趣味半分の内職をしているという幾美は、いってみれば一日暇だ。子供もおらず、夫もあまり家にいないというので、しばらくはずっとお菓子作りと手芸に凝っていた。しょっちゅぅではないが、自分が着ている服によく似たヒラヒラの多い化粧ポーチやクッキーやらを、陽子の所にも持ってきたくれてもいた。

 幾美は服装こそ変だが、受け答えなどは普通だった。とんでもない言動もない。陽子の趣味には合わないが、手芸や料理の腕もよく、貰って困るという物でもなかった。だから、その格好は変ですよとも言わなかったし、言えなかった。

 だが、どうにも仲良しにはなれなかった。なんいっても二人には、共通の「生贄」がないのだ、ともに、悪口をいい合って盛り上がれる話題の人がいないだ。
 さらに言えば幾美は陽子にとって欲求不満の募る「生贄にしたいのにできない」相手でもあった。こんなに女、さんざん突いてもっともっと変な言動をさせて、誰か仲間と楽しみたい。しかし、幾美は言動はとことん普通なのだ。ちょっとおだてて見たり煽ったりしてみたが、愛想笑いだけでかわされてしまった。

 それでも、お菓子と手芸だけなら「ちょっと変な隣の奥さん」で済まされた。陽子が苦しむようになったのは、春先から突然に、幾美がガーデニングに目覚めてしまったことなのだった。

 ひどく重いものではないが、陽子には花粉症の気があるのだ。隣の庭いっぱいに鉢植えが並べられ、花壇が作られたのは、恐怖だった。壁には蔓(つる)バラや蔦(つた)まで這わせている。終始、目のかゆみや鼻水などに苦しめられてはいないが、何かの拍子でくしゃみが止まらなくなって苦しむというのが日に何度か必ずある。

 もちろん、幼稚園ママに愚痴ったもしたし、店の同僚にも「あのメルヘンおばはんが」と罵りもしたが、彼女らは幾美をしらないので、「うわあ、いっぺん見たみたいね」というくらいだ。
 だんだんと、幾美に対する憎しみが募っていった。が、面と向かっても苦言はいえない。陽子はもとも小心なのだ。それ故に、みんなの機嫌を取るための立ち回りが上手くなったのだし、噂や悪口を捏造するのも巧みになったのだから。

 そんな陽子の気持ちを知ってから知らずか、最近の幾美はちょっと情熱を傾けすぎるじゃないかというほど、暇さえあれば庭に出て手入れをしている。庭はますます花で溢れていき、蔓バラと蔦は家中を取り巻く勢いで伸び続けていた。

 その、何かに取り憑かれたようにスコップを動かす幾美を窓から見ただけで、ちょっと怖いかも、と陽子の怒りすら静まってしまうのだ。正確には、鎮められてしまう。
 ところが、ついに陽子も、やめてよーつ! と絶唱したくなる事態が起こった。始まりは土曜の、さわやかな朝の食卓であった。あれ、この臭いはなんだろう。学は休日出勤していて、拓人とゆっくり朝食を取ろうとした時だった。
「臭い。臭いよママ。お隣から臭ってくるんだよ」
 この臭い。まさかまさか。庭に出た陽子は、隣の庭をみて本当に悲鳴を上げた。

2 匂う花

 陽子のダイニングルームの窓からは、花でいっぱいの隣の庭がよく見える。
 それは本来美しい風景であり、楽しませて貰ってありがとう、と微笑むものであるはずだった。

 隣に越して来た幾美が、丹精込めてというよりは、取り憑かれた感すらあるほど、ガーデニングに凝っているからだ。プロの庭師かというほどの出来栄えは、この辺でも少し有名になっていて、わざわざ遠回りして見に来る人もいるほどだった。

 手入れをしている。幾美の姿を見れば、たいていの人がぎょっとした顔をすねが、姿はともかく性質は普通なので、見に来た人とも普通ににこやかに会話をしている。
 ともあれ、そう広くもない庭全体がというより、家全体がお花畑と化していた――。

 隣の花は赤い。または、隣の芝生は青い。そんな言い回しがある。他人のものは実際よりもよく見える。という意味だが。陽子にとって隣の花は赤いどころか、真っ黒にすら見えてしまう。はっきり言って、おぞましい。
 陽子は心底から、幾美など羨ましくない。自分の方が若くてきれいで夫もかっこよくて、可愛い息子もいる。幾美は、冴えないおっさんとしかいいようのない夫と二人暮らしで、お世辞にも美人とはいえない地味な顔立ちの小太り体型だ。

 なのに、小学生のピアノの発表会かリカちゃん人形のような花柄パステルカラーひらひらフリルの、異様に若いというより幼稚な格好をし、悦に入っているのだ。
 見た目に似合わず性格はそんなに変ではないが、幾美のせいで軽い花粉症がすっかり悪化した感もあり、さらに、今朝はとんでもないものを目の当たりにしてしまったことで、陽子の幾美への気持ちは最大瞬間風速時、殺意に近いものまでなった。

 さわやかな休日の朝の食卓。息子の拓人にお隣が臭いといわれ、窓から覗いてみたら。
 いつものように、やたらフリルとレースとリボンのついた格好をした幾美が、傍らにバケツを置いてお揃いのプラスチックの柄杓(ひしゃく)で、中身を花壇に撒いていた、花に肥料をやっているのだが、その肥料が問題なのだった。
「ウンチだ、ママ、あれってウンチだよね」
 
 そう。ばっちり間近でバケツの中を覗き込まなくても、風向きによってこっちに流れてくる臭い、柄杓から花壇に撒かれる世にもおどろおどろしい形状のものを見ただけで、それが普通はトイレで『大』として流すものだと知れるのだった。
「・・・・信じられないわ、あんなもの、住宅街の真ん中で撒き散らすなんて。今時、どんな田舎の僻地に行ったって、化学肥料を使っているでしょっ」

 横に拓人がいるから、教育上あまり汚い言葉で罵るのは避けたい。小学校は有名大学付属のいいところを狙っているのだ。普段の心がけがいざ面接というとき発揮される。
 だが、陽子は思わずチクショウと呻き、窓枠を握る手が震えるほどの怒りに燃えた。臭いから腹が立つ、目の前でそんなもの撒かれたから嫌い、というだけではない。

 陽子の中には、「こんな奴を思いきりサカナにして楽しめる相手がいない」というのもまた、大きな不快感、欲求不満の原因になっているのだった。
 仲間内だけの、ささやかな生贄。みんなが共通して「アレはちょっとどうよ」という標的。そんな女をいじり回しておもちゃにし、面白おかしく噂話をする。陽子にとっては、ほとんど生き甲斐だ。また、仲間内で人気者になれる秘訣だ。

 たとえば、普通の主婦にしてはマアマアという程度なのに、自分を超美人と信じて元モデルだのミス日本になりかけただのフカす、幼稚園ママ仲間の美咲。勤め先の化粧品店に三日にあけず現れる、とんでもないクレーマーの早島夫人。彼女らに近づき、さらに面白い言動を引き出して、大げさにママ仲間や店の同僚に報告して笑い合う。最高の娯楽だ。

 なのに幾美は、子供もなく勤めもしておらず、ずっと家にいて、たまに内職しているだけ。いや、庭をいじっているだけ。だから幾美の変さをおもちゃにして、分かち合える人がいないのだ。
 夫の学は、最初のうちこそ幾美の格好を面白がってくれてはいたが、すぐに飽きた。そもそも学ぶは陽子と違って噂好きできないのもあるし、会社も忙しい。隣の単なる変な奥さんなどに、そうそう構ってはいられないのだ。
「あら、おはようございまぁす」
 ほとんど殺気ともいえる、陽子の視線と気配に気づいたのか。いや、それにしてはにこやかに幾美は振り返った。傍らに、おぞましいバケツを置いたまま。
「もうじき、とってもきれいな黄バラが咲くわ。プレゼントしますね」
「そ、それはどうも。でも、あ、あのー、そのバケツの肥料って・・・・」
 あんたの臭いものから咲くバラなんていらないわ! バラも臭そうじゃない! 怒鳴りたいのをこらえて、そういってみたら。幾美は、あくまでもにこやかに答えてくれた。
「やっぱり、肥料は人糞が一番。これからは、うちのお花の肥料は全部これにするわ」

 しかし、だ。妙なところでは前向きな陽子だ。幾美を面白おかしく語り合える仲間がいないなら、無理にでも作ればいいじゃないかと、今更ながら思い立った。

 その仲間として選んだのが、ママ仲間の美咲だ。普段は噂話の標的にして陰で笑い者にしているが、陽子は決して美咲を憎んでも嫌ってもいない。「私達の面白いおもちゃ」として、ある意味とても可愛がっている。

 美咲もまた、陽子がそんな黒い下心で近づいてきているのにまるで気づかず、美人だと誉めちぎってくれるのをそのまま素直に受け取り、陽子は私の仲良しと信じている。
 何でもう少し早く、美咲を連れてこなかったか。陽子は舌打ちしたい気分だった。美咲なら一石二鳥、一挙両得というやつではないか。

 幾美を笑い合える仲間にもできるし、美咲もついでに突いて笑える昔の自慢話など聞き出せば、他のママ達に新たな報告もできる。一粒で二度美味しい、ともいえるのだ。
「ねえ、美咲さんに見せたいものがあるんだ。この後、時間があるならうち来ない?」

 もちろん、最も見せたいものは隣の変な奥さんである幾美だ。しかし、美咲を釣り上げるための、別の餌も用意していた。
 かつて美咲が独身の頃、タレント事務所に所属していたというのはさんざん聞かされていた。金さえ払えばだれでも所属できる事務所のようだが、そこにいる間に何度もテレビに出ていたと、これもしょっちゅう聞かされた。

 ところが、当時出演したものを収録したビデオはすべて実家に置いてきて、手元にはないと言い張り、頼んでも見せてくれないのだ。美咲は、こんなふうに説明していた。
「主人の親は旧家の出で、とても厳格で古風なの。芸能人やモデルにいまどき、すごい偏見を持っているんだから。私が華やかな世界の派手な女だからって、最初のうちは結婚すら反対だったのよ。もちろん、見られて困るような仕事はしていないから、許してもらえたわ。それでも芸能活動は、結婚ですべて封印したことになっているの」

 美咲は大いに勘違い女でホラ吹きの傾向はあるが嘘つきではない。まったくの作り話はしないのを陽子はわかっているから、そんなビデオがあるのは本当だろうと考えた。
 そうしてあれこれおだてて聞き出して、もう十年近く前に深夜番組として視聴率の高かった、『平成ベイビーズ』という番組に、時々出ていたのを教えてもらったのだ。陽子も、名前だけは薄っぺら記憶していた。学も、たまに見ていたという。

 もちろん、美咲はいわゆるピンのタレントとしてレギュラー出演してたのではなく、ああいう番組によくいる質より量で勝負のただ若いというだけの大勢の女の子達が交じって出ていたようだから、学はまったく美咲など覚えてはいないという。

 その番組からは、セクシーさを売り物にしたレディ・セルフという女の子のグループがデビューし、あの頃はそこそこ人気があった。とうに解散してしまい、今は全員消えているが、学のわりと仲のいい従弟がレディ・セリフのファンで、『平成ベイビーズ』をしっかり録画して保存しているのが分かったのだ。

 学に頼み込み、従弟を通してそのビデオをいくつか貸してもらった。深夜、陽子は探偵か刑事のようにそれらのビデオを調べ上げ、美咲を発見したのだ。美咲は芸名をつけず、旧性の本名をそのまま名乗っていたので、わりと簡単に探せた。

「へえ。わりと可愛いじゃない。でも、やっぱりその他大勢ね。レディ・セルフにも入れてもらえなかったんだ」
 今もまあまあ小奇麗だが、若い分だけ昔の美咲は可愛らしかった。その他大勢の女の子と一緒に、他愛ない玉入れゲームだのクイズの解答だのをやっている。もちろん、色気が売り物の深夜番組だから、みんな胸元と下着がよく見える露出度の高い服装だ。

「これは、まずい。・・・・これも、これも。・・・あ、これこれ。これがいいっ」
 美咲が、水着で熱い風呂に漬けられて悲鳴をあげているのや、今でもB級のお笑い芸人にハリセンで頭を叩かれているのや、ガラス張りの階段をミニスカートで上がっていくのを下から撮られているのなどは、すべて巻き戻して学の従弟にそのまま返却だ。

 美咲を釣りあげるために、踊らせるために選んだのは、夏らしくホラー特集だったのだろう、番組の一つのコーナー内での軽い芝居で、美咲が雪女に扮しているものだった。
 それはなぜか、美咲が準主役扱いになっていた。主役はレディ・セルフのリーダー格だった女の子だが、美咲もテロップで名前も出ているし、顔がアップになる場面もいくつかあった。今よりも丸みを帯びて幼さの残る顔は、陽子も素直に可愛いじゃんと頷けた。

 陽子は、こう企んだのだ。これを見せて誉めちぎり、おだて上げる。そうすれば美咲は例によって調子に乗って、またぺらぺらと当時の自慢を始めるだろう。また、これ以外の恥ずかしいビデオも持っているのではと陽子は警戒し、子分になってくれるか、もしくは誤魔化そう隠そうとして、さらに面白おかしい言い訳や言動をとれるのではないか。

 ひょっとして自分は性格が悪いのかなぁ、と、まったく考えて見ない訳ではない。たまに思うのだ。だが、そんな自分に惚れ惚れするのが最近の陽子なのだ。

 美咲を連れて家に戻った時、幸いにもというべきか残念ながらいうべきか、あのおぞましい「肥料」の臭いはなかった。そして、幾美の姿も庭にはなかった。
「いないみたいねぇ、ううん、残念。見たかったぁ」
 帰る道でさんざん、幾美のとんでもないファッションを誇張して教えてあったのだ。例の肥料を撒いていることも、庭で直接バケツにウンコしていた、とまで脚色してあった。美咲は笑い転げて、わぁそんな変なオバサン見たい見たいと上機嫌でやって来たのだ。
「その前に、これよこれっ、もう一つのいいもの」

 リビングに通すと、お茶の用意もそこそこに、陽子はテレビの前にしゃがみ込んだ。あのビデオをセットするのだ。アラ何かしらぁ、美咲は気取って、背後のソファに座った。
 予め、美咲が登場するシーンまで巻き戻していたので、すぐに若かりし頃の美咲がブラウン管いっぱいに映し出された。
「ダナンの従弟がね、美咲さんの大ファンだったんだって。私もこれ見て感動しちゃった。美咲さんマジ可愛いよ。活躍してたんだねぇ。この女よりずっと美人じゃん」

 可愛いよ、というのだけは嘘や作り話でなく、本心だ。陽子はそこまでは、ビデオの中の若い美咲を見ながら笑顔でいったのだが。振り返って、笑顔がわずかに固まった。
「・・・・・こんなもの、取っておく人がいるのね」

 ソファに座る美咲は、恐ろしく固まった表情だったのだ。ビデオの中の美咲は雪女の扮しているが、今現実に、目の前にいる美咲の方がずっと雪女に近かった。
「あ、あの、ダンナも見惚れてたよ。今も綺麗だけど、って」

 慌てても愛想笑いとお世辞を追加したが。美咲は身じろぎもせず、硬い表情を崩さなかった。その目はかつての自分が出ているビデオも見ておらず、陽子にもむけられていなかった。半ば開けられた窓から、隣の庭を見ているのだ、瞳に花が映った気がした。
「え、えーと、コーヒーがいいかな。紅茶がいいかな」

 急いでキッチンに回ったが。美咲の姿勢も態度も変えず、冷たく言い放った。
「どっちでもいいわ」
 悪巧みや噂話や陰口が大好きで、それらを武器に人気者になってきた陽子だ。元来は、性格が悪いといよりも小心者なのだ。思った通りに相手が反応してくれないと、軽くパニックを起こしてしまう。キッチンで、陽子はおろおろと意味なく辺りを見回した。

 その時だ、玄関のベルが鳴り、幾美の呼び声がしたのは――。

3 秘密

 他人の噂話と陰口が大好きで、仲間内で人気者になるためにはかなり悪巧みや立ち回りもできる陽子だが。当然ながらそういう人の本性は小動物というのか、目の前にいる相手の顔色に一喜一憂する小者だ。

 思った通りに美咲が喜んでくれなかった。それどころか、何やら急激に不機嫌になってしまった。・・・・それだけで、慌てふためいてしまったというのに。
 続けて、さっきまでさんざん美咲にあることないこと噂にして笑い合っていた、隣の奥さん幾美の予期せぬ訪問だ。

 逃げたいが、逃げ場がない。ええいっ、と玄関のドアを開けてみれば。
「突然ごめんなさいね。久しぶりにケーキ焼いたから、お一ついかがかしらと思って」
 いつものことながら、やたらとヒラヒラフリフリした少女趣味な服を着込んだ幾美が、にこやかに立っていた。手にした箱にも、ピンクのリボンが飾られている。

 今の陽子はそのヒラヒラフリフリした服装にも、箱のリボンにも、少しほっとした。救われた気分になった。とりあえず幾美に敵意は無く、ご機嫌なのだから。そう、背後にいる美咲と違って。
 が、しかし。問題は、別の所にあった。幾美の服には、庭に撒き散らかしているあのおぞましい自家製肥料、もっとわかりやすくいうと、ウンコの臭いこそついてなかったけれど。全身に染み付きこびりついた花粉は、陽子に激しいクシャミを模させたのだ。

 玄関先で陽子は、体を折って見悶えた。後ろのリビングにいるはずの美咲は、もちろんこっちに出てきたりはしない。
 それどころかコトリとも物音をさせず、咳払い一つせず、不気味な沈黙を守ったまま、若かりし頃の自分が出ているビデオを眺めているようだった。
 わざわざ苦労して探し当てた、美咲の自称「将来を嘱望された。ブレイク寸前だったアイドル時代」の映像。てっきり喜んで舞い上がってくれ、ぺらぺらとかつての自慢を吹いてくれるかと期待していたのに。
「あらあら、お風邪なの?」
 当然と言えば当然だが、陽子の内心の焦りも何も知らぬまま、幾美はあくまでもにこやかに、そんなのんきで鈍いことを言うのだ。
 あんたが一日中いじっているお花畑のせいよ! ウンコ撒くより悪いよ!
 怒鳴りたいのをこらえ、ようやくクシャミが一段落したところでハンカチを取り出して鼻水を拭いた、それでも陽子はしっかりと愛想笑いした。

「いえいえ。大したことはないんですよ。ケーキ、わぁー嬉しい。あ、そうだ」
 ケーキの箱を受け取っているとき突然に、素晴らしい考えが閃いた。あくまでも、その時の陽子にとってだが。
「ちょうど、お友達が来ているんです。お茶、一緒にどうですか。せっかくケーキも頂いたことだし」

 幾美をこの場に誘い込む。これは、いい。
 いったい何が原因か分からないけど、美咲も少しは斜めになった機嫌を直してくれるかもしれないではないか。ああこれが噂の、変な格好で庭いじりばかりしている隣のおばさんよねー、なのにあのファッション。大草原の小さな家じゃあるまいし、とかなんとか。

 それに。美咲がいなくなった後では、今度は幾美とも話が弾むはずだ。もちろん美咲をサカナに、ネタにしてだ。
 あの人ってば自分をすごい美人と信じてて、チョイ役でテレビに出たり、読者モデルとして雑誌に出ただけで、女優だった人気モデルだったとホラ吹いて幼稚園中の笑い者なんですよ、とかなんとか。
 幸いな事に、というべきか。当たり前だが、というべき。
「えっ、いいの? お邪魔じゃないかしら」
 陽子の悪巧みなどまるで気づかない幾美は、断るそぶりは見せなかったのだ。
「いいんですいいんです、ほらほら入って」
 ほとんど引っ張り上げるようにして、陽子は幾美を招き入れたのだった。
 リビングに連れて行くと、さすがに美咲も大人だ。あからさまな好奇心やさっきまでの不機嫌な態度などは隠して、愛想笑いで向か入れてくれた。
「あら、少し古いビデオ? この番組、ちょっと見覚えあるわ」
 さっそく幾美が、まだ流れているビデオの映像に目をやった。一瞬ひやりした陽子だが、美咲は少し気取ったふうに微笑んでくれた。ちょうど、若い頃の美咲もテレビの中で微笑んだ。

「たいしたことはないんだけど。私、芸能界にいたんですよ。これはその頃のもの。まさか陽子さんが持っているなんて思わなかったわ」
 やはり美咲は、初対面の相手にはとりあえず自慢をしたいのだろう。
「あら、もっと巻き戻して見てもいい?わあ、可愛いじゃない。最初に、ええっと、美咲さんだっけ。お顔を見たき、なんか見覚えがあるなぁと思ったの」
「恥ずかしいわ。もうずいぶんと昔なのに。今でもよく、テレビを見てましたなんて声をかけられるんですよ。・・・わあ、このケーキ美味しい。お庭の花壇も素敵ですよね」

 陽子がキッチンで急いでお茶を入れたり。もらったケーキを取り分けたり運んだりしている間に、ソファに並んで座った美咲と幾美は、意外にも話が弾んでいた。陽子は必死に、全身を耳にして目にして、二人を観察しつつ良いお友だちのふりを続けた。

 もともと美咲は、ひどく図々しいとか騒がしい女ではない。勘違いはしているが、嘘つきではない。自慢も、あくまでもさりげないのだ。

 幾美も着て衣服こそ変で、肥料にウンコを撒いたりするところもあるが。性質は穏やかだ。こんなふうに、普通に社交辞令や愛想や受け答えもできる。かというと、周りの空気を読まずに自分の話ばかりしたりもしない。

 こんなふうに、「どこかちょっとだけズレている」「徹底的に変ではないが変なところがある」
 あまりにもズレていたり変だったりすると、さすがに陽子も持て余す。そもそも陽子自身が、ちょっズレて変な女だからだ。
 もともと、本人は自分だけはしごく真っ当と信じていて、性格が悪いかなとチラリとは思っも悩んだりはしないのだが。

 ともあれ。どうにかこうにか、陽子に幾美に美咲という、本来は仲良しになるはずのない三人は談笑しつつ、そろそろお開きかなという時間を迎えた。
 子供を幼稚園まで迎えに行かなければならないと、さりげなく美咲が切り出せば、幾美はすぐに察して、ソファにから立ち上がってくれた。
「じゃあ、私はこれで。とっても楽しかったわ。よかったら美咲さん、お花差し上げるから、この後ちょっと寄られますか」
 三人そろって家を出て、ひとまず幾美の庭に立ち寄った。美咲は、季節の花を手早く花束にしてもらった。それを持ったまま、幼稚園に行くのだ。

――二人並んで歩き出しながら、さっそく幾美の話をすることにした。もちろん、いきなり悪口から始めたりはしない。陽子は美咲の顔色をうかがいつつ、
「悪い人じゃないけど、あの服装のセンスはすごいよね」
 まずは、そこから話を振ってみた。静かな住宅街の路地、隣を歩く美咲は、それには答えなかった。真っ直ぐに前を見据えたまま、再び硬い声で言ったのだ。
「あのビデオ、譲ってもらえない? 何なら、買い取ってもいいわ」
 決して、陽子の目を見ようとしない美咲。手にした小さな花束が、かすかに震えていた。赤を基調にした可憐な花束。まさに、隣の花は赤い。人の物はよく見える、という譬(たと)え。ふっと、陽子には黒い花束に見えた。

「え。あのビデオ、私の持ち物じゃないから。どうだろう。ダンナの従弟のなんだわ。なんとか話はしてみるけど・・・」
 困惑したふりをしながら、気配りをするふりをしながら、陽子は内心舌なめずりしていた。
よくわからないけど、美咲はよほどあのビデオに思い入れだが嫌悪だかがあるらしい・もうちょっと突けば、みんなに面白おかしく話せる秘密が出てくるかも。

 ついつい内心でほくそ笑んでしまい、子狡い計画をしすぎてしまったせいか、陽子はうっかり、口を滑らせてしまった。
「あれれ、美咲さん、実家にビデオあるんじゃなかった?」
 芸能活動をしていた頃のビデオを見たいと言ったら、すべて実家にあって手元にないと答えているのだ。自慢するほどでもない、どこにいるのと探すほど小さな写真がでている雑誌なのでは、頼んでもいないのに見せてくれるのに。

 それについては、主人の親は旧家の出て厳格で古風だから、芸能人やモデルに偏見を持っていて、私が華やかで派手だったというので、最初のうちは結婚すら反対だった。もちろん見られて困る仕事はしてないから、許してもらえた。それでも芸能活動は、結婚ですべて封印した、などなど、いかにもな言い訳をしていた。

「・・・ないわ。もう処分してしまって、ないの。だから欲しいの。どうしても」
 またしても、美咲の地雷だか逆鱗だかに軽く触れてしまったようだ。美咲はそれだけ言うと、さっと身を翻(ひるがえ)して先に行ってしまった。

 取り残された格好の陽子は、おろおろしたいような、小躍りしたいような、複雑な心境に陥っていた。怒らせてしまったが、楽しそうな秘密も握れそうではないか。
 これも意外なことに、回答をくれたのは幾美だった・・・・」

 息子の拓人を連れて、戻ってみれば。幾美はせっせと、花壇の手入れをしていた、その後ろ姿を盗みながら、素早く家に入った。
 まず、拓人にオヤツとして幾美の作ったケーキの残りを与えておいて、テレビを好きなアニメをやっているチャンネルにしてから、
「ママちょっと、隣のおばさんに会って来る。すぐ帰るわ」
 留守番させて、急いで玄関を出た。ケーキも出来たてが美味しいように、おもしろい噂話と悪口も、すぐに賞味したいではないか。

 幸いにも、あの自家製肥料の臭いもなくバケツもないので、思い切って陽子は庭から入り込んで声をかけてみた。クシャミは、極力こらえてだ。
「先ほどは、どうも〜。さっきのあれ、ちょっと面白い友達なんですよ。幾美さんは、本当に彼女の顔は見覚えがあったんですかぁ?」

ここでも、最初から悪口に持って行ったりしない。いかにも他愛ない世間話をするように、しゃがんだ幾美の後ろに立って話しかけた。
「うーん、そんな気がしただけなんだけど」
幾美はスコップを持ったまま手を止めず、笑顔でのんびりと答えてくれた。そんな態度にほっとして、陽子は徐々に調子を上げていく。
「どういう訳か彼女、あのビデオに不機嫌になっちゃったんですよね。昔の話をしたがるのに、あのビデオだけは嬉しくないみたい。どうしてかなぁ。せっかく可愛顔をしていたのに。私だったら恥ずかしいと言いつつ、自慢しそうなのに」

「それは仕方ないわね。美容整形についてはまだまだ、隠したい人の方が多いもの」
 幾美は陽子に背を向けたまま、あくまでも淡々と答えた。は? だから陽子は一瞬、何を言われたか分からなかった。
「びよう、せいけい?」
 そこで幾美は、初めて身体ごと振り返って陽子の目を見上げた。奇妙な服装と相まって、幾美は妖怪に見えた。そんなふうに見上げられ、陽子はぞくりと背中が涼しくなった。

「歳を重ねたからじゃない、顔の変化。陽子さんはわからなかった? 彼女、かなり顔をいじっているわ。大胆な整形じゃなく、ちょっとずついろんな所を、っていう、一番うまい方法でね。バレた、と思ったから不機嫌になっちゃったんでしょう」

 幾美の瞳は黄昏の中、妙に黒々としていた。どこにも咲かない不思議な花のように。

4 意外な過去、意外な正体

 自称、元タレント。今は陽子と同じ幼稚園に子供を通わせる、ごく普通の主婦。今も自分はすごい美人と信じている美咲は、顔の整形をしているらしい――。
 昔のビデオに映る美咲と今の美咲を比べて指摘したのは、意外なことに一緒に見ていた隣の奥さん、幾美だった。何が意外なことかというと、
「変なメルヘン庭いじりオバサンに、そんな鋭い観察眼があるなんて」
 ということだ。陽子は幾美を馬鹿まではいわないが、なんとなく鈍そうな女だと決めつけていた。
 四十も近いのに、毎日リカちゃん人形みたいなフリフリのドレスを着て、日がな庭の花いじっている人。さらに、肥料だといってウンコを撒いたりするのだから。
「え、えーっ、美咲さんって整形ですか。

 だんだんと黄昏てくる庭。花壇の前にしゃがみこんだままの幾美は、どこか妖怪じみていた。だから陽子は、立ち尽くしたままおどおどと聞き返した。

「医者にかかっているわ。上手な整形って、ちょっと化粧を変えたかな、少し痩せたかな、くらいに周りに思わせるよね。整形したって分かりにくいの」
 陽子は、こんな「おいしい話」には喰らいつかずにいられない。
 三度の飯より好き、という言い廻しはいささか古風だが、まさにそれがピッタリに、陽子は他人の噂話と悪口が大好きだった。

 それこそ、一食抜いてでも美咲の面白いネタはつかみたい。ママ仲間に披露して盛り上がり、陽子さんさすがだわと関心されたい。
「よくわかりましたね。確かに、今より丸くてぽっちゃりしてるなぁとは思ったけど、それは若かったからだとばかり・・・・」
「途中で挫折しちゃったけど。昔ね、ヘアメイクの仕事をしていたの。雑誌の撮影やテレビなんかで、いろんなタレントの顔を触ってた。だからパッとみただけで、どこをいじってるかだいたい分かるようになったみたい」
 初めて知る、幾美の意外な過去。期待以上に、幾美も「もっと何かある女」かもしれない。陽子は、はっきりと媚びる口調になった。
「だから美咲さんはビデオを喜ばなかったんだぁ。私はぜんぜん然、気づかなかったのに。すごいわぁ幾美さんって、鋭いーっ。それにヘアメイクですか。やっぱり、いつもお洒落で素敵と思っていたんですよ」

 再び、幾美は花壇に向き直った。美咲と違って幾美は、白々しいお世辞にはのってこない。背後の陽子にはでなく、花に向かって話しかけた。
「陽子さん、気を付けた方がいいかも」
「え。何をですかっ」
「整形したでしょ、なんて冗談でも口にしてはいけないわ。あの美咲さんて、ちょっと怖いものがあるから」
 幾美の声は普段どおりのおっとりしたものだったが、なぜか陽子は脅されたかのように背筋がぞくり、とした。
 どう答えようか、わずかにためらっていると。幾美は手早く切り花を小さな花束にして、振り向きざまに渡してくれた。
 美咲がここを立ち去る時に幾美が作ってやったのと同じ、赤い花束。もちろん、黒い花束に見えたりはしない。ただ、嫌なことに血の色には見えた。
「あ、あの美咲さんは、変なところがあるのは間違いないですけど。別に怖い処はないですよ」
 受け取った花束を抱いて、答えたら、幾美は立ち上がって軽く腰を曲げたまま、やれやれと自分の腰を叩いた。服が幼い分、余計にそんな動作は年寄りっぽい。また、花壇に刺さった小さなスコップが、妙に鋭利な刃物めいている。

「どんなに整形してもね、その人の醸し出す雰囲気っていうのは変わらないの。美咲さん、だっけ。彼女、若い頃から偏執的な目をしているわ。手術で目は変えられない」
「偏執的、って・・・・」
「彼女、とにかく自分に執着してる。自分にだけ愛がある。だから、そんな自分を脅かす存在は許さないでしょう」
 わかったような、わからないような。ただ、得体の知れない不気味さは伝わってきた。むしろ、美咲よりも幾美から。
 もちろん陽子は、そんな気持ちはおくびにも出さず、花束の礼を言って庭を出た。
 家に戻ってから、もう一度ビデオを巻き戻してみた。美咲の顔がアップになるころで、ストップモーションをかける。
「そう言われてみれば、微妙に今とは違うよねえ」
 しかし目つきがヤバイとかは、あまりピンとこない。
 それでも陽子は、息子の拓人を寝かしつけた後。ビデオをダンピングした。二本だ、元の方は持ち主である夫の学の従弟に返却するが、一本は美咲に渡す。もう一本はもちろん、自分が保管するためだ。
「さあて、いつみんなに見せよっかな〜」
 食卓の花瓶にさした赤い花が、わずかに開けた窓からの風に震えた。
――遅くに帰宅した学にも、ビデオを無理やり見せてやった。陽子と違って、あまり他人の噂話に興味がない学は、疲れていることもあって少し不機嫌に、
「お前も暇だなぁ」
 と言っただけだった。あーあ、いいダーリンだけど、こういう話が合わないのは少しつまんないな、と陽子は再びビデオを巻き戻して大事にしまう。
「そういえば」
 窓を閉めながら、隣の庭をちらりと眺めて呟いた。
「隣の旦那、今月に入ってからまったくみていないな」
 考えてみれば、隣のご主人はなかなかの企業にお勤めの真面目そうな人だが、奥さんの服装について何も言わないのだろうか。ガーデニングへの熱中ぶりはいいとしても、ウンコを撒いたりするのに、文句はつけないのだろうか。

「ねえねえ、隣ってご主人の方も妙な人なんじゃないかな」
 てっきり、学は後ろのソファに座っていると思い込んで、そう言いながら振り返った。学はいつのまにかいなくなっていて、風呂場で音がしていた。拓人はとうに、二階でいい子にして眠っている。
 そうしてふっと、風もないのに花瓶の赤い花が揺れて見えた。

 翌日、隣の庭のたっぷりの花粉に、立て続けにくしゃみをさせられても、それほど腹は立たなかった。陽子はわずかにだが、幾美に対して尊敬に近い気持ちを抱くようになっていたのだ。
 拓人を幼稚園に送って行った陽子は、美咲が来るのを待った。他のママ仲間に、
「ちょっとちょっと。あの人ってば、整形してたのよぉ。もうびっくり! ばっちり証拠物件もあるんだから」

 と触れ回りたいのを、ここはぐっとこらえる。
 素知らぬ顔で美咲に近づき、それとなく「少し変化した顔」についてほのめかし、もっと面白いことを言わせたいのだ。
 たとえば三十代になったから自然にまぶたの二重の幅が広くなってしまったとか、痩せて頬の肉が落ちたから鼻筋が高くなったとか。そんな「笑える言い訳」も、ママ仲間の間では大いにウケるものとなるはずだ。

 そうこうしているうちに、美咲がやってきた。偶然なのだろうが、幾美にもらった花束とそっくりな赤い花模様のついたブラウスを着ていた。門の前で待っていた陽子は、
「美咲さん、はい、これ。あなたのアイドル時代のビデオよ。ダンナの従弟がね、これを手放すのはちょっと惜しいけど、美咲さんのファンだったから喜んでプレゼントします、なんて言ってたよぉ」

 調子よく、嘘をついた。ばっちりダビングさせてもらったテープが、もう一本うちにあるなどと、絶対につけ加えられない。
「それは、どうも」
 やや強張った表情で、美咲は受け取ってくれた。赤い花模様が、揺れる。
 ついに陽子は、美咲の顔をまじまじと見つめてしまった。どんな風に整形したんだろう、というより、そんなに危ない目つきかな、と。
 そんな陽子の視線に、美咲は気づいたのか。
「なんか、顔についている?」
 無理に作った笑顔で、聞いてきた。陽子もあわてて、笑みを浮かべる。
「ううん、二十代の頃と全然変わらないんだなぁ、羨ましいって思ったの」
 そこでようやく、美咲はいつもの美咲に戻った。
「やだわ。確かに、子どもを産んでもスリーサイズは殆どあの頃と同じなんだけど。あ、お隣の奥さんによろしくね」
 ビデオを大事そうに、しかしどこか忌々しそうにバッグにしまい込んで、美咲は立ち去った。陽子もこれから勤め先の化粧品店に行かなければならないから、他のママ仲間には携帯電話のメールでお誘いを回すことにする。門扉の前に立って、簡単な文面を作った。
【我らのアイドルMちゃんについての、素晴らしいお宝発見。興味のある方は我が家にお立ち寄り下さい】
 ちなみに美咲は陰で、「アイドルM」と呼ばれていた。Mはもちろん美咲のイニシャルだ。命名したのは陽子だった。
 素早く仲良しのママ仲間の何人かに、メールを送る。こんな時の陽子は、本当に生き生きしていた。
 けれど。素晴らしいお宝に、興奮しすぎてしまったのか。陽子は、送らなくてもいい人や、いや送ってはいけない人にまでメールを送信してしまったのに、まるで気づかなかったのだ・・・・。
 幼稚園を出て歩く街角で、ちらりと赤い花をみたのは錯覚か。それとも、美咲の後ろ姿だったのか――。

 化粧品店に着く前に、もうメールの返事はいくつか入り始めていた。さっそく今日行ってもいい? いうものもある。
 浮き浮きしてきた。ああ、誰かをおもちゃにして噂話をするのは、なんて楽しいだろう。そんな噂話をする場では、私はいつも主役よ。早く美咲を肴にして、みんなでビデオを見て笑いあいたい。
 しかし、接客中にメールの返事は打てない。携帯電話はマナー・モードにしてバッグに入れ、ロッカーにしまった。さっそく店には、早島夫人が来たのだ、

 ある意味、早島夫人もアイドルだ。強烈なクレーマー、文句をつけて謝らせるのが生き甲斐の、厄介な奥さん。それでいて、ここのお得意様。結構、陽子は気に入られている。
 一緒になって他店の従業員の悪口を言ったり、他店へのいろいろな不満や文句をはいはいと聞いてやり、時にはもっと早島夫人が怒るように煽ったりしてやるからだ。

 この化粧品店の主人である五十を過ぎてもかなり美人で独身の登志子も、陽子が気に入られているのをしっているから、早島夫人が来ると陽子に接客させる。
 エステに通い詰めてもぽってり太った早島夫人は、のしのしという擬音そのままに、カウンターに近づいてきた。精一杯の愛想笑いを浮かべて挨拶した陽子に、
「太田さん。今日は買い物じゃなくて、あなたに言いたいことがあって来たのよ」
 いきなり強い調子、もっといえば喧嘩腰に近づいて来た。

 は? 実は小心者の陽子だが、あまりにもいきなりなので、しばらくぽかんとしてしまった。
 もちろん、ロッカーの中でバイブレター機能にしてある携帯電話が、激しく震え続けていることも、知りはしない――。

5 言い訳

 肥満した人の特有の、頬の肉で目が細められ、鼻が埋もれてしまった顔。早島夫人の顔はまさにそれで、その上にこってりと厚い化粧をしているため、陰では派手なオカメ
呼ばれていた。
 愛嬌があるともいえるのだが、怒った表情をすれば異様にこちらに迫ってくる圧迫感がある。店のカウンター越しにだが、ぐいっと食いつきそうな勢いで顔を寄せられ、太田陽子は思わず仰け反ってしまった。
「あ、あのあの。何でしょうかっ」
 この界隈では知らぬ者のない、超有名なクレーマー。店員に文句をつけて謝らせるのが生き甲斐の社長夫人。それでもおだてられば機嫌よくバンバン買い物をしてくれるので、厄介ではあるが大事なお得意様なのだ。

 陽子は、得意のおべんちゃら、心にもないお世辞、一緒になって他店の店員の悪口を言う事で、かなり気に入られていた。ところが今日は、陽子に対して喧嘩腰ではないか。
「ちょっと、太田さんを借りていいわねっ。大事な話があるんだから!」

 真正面から陽子を見据えたまま、陽子ではなく店長の登志子に金切り声を上げた。
「あ、はい。そのようなことでしたら」
 登志子は一瞬、たじろいだようではある。すぐに店長らしく、慇懃(いんぎん)に頷いた。五十を過ぎても色気のある美人の登志子は、陽子と違って滅多に人の悪くとは言わず、噂話もせず、ただ自分の化粧品店と仕事だけを大事にしている。以前から時々、
「陽子さん、あまり人様のことはあれこれ言わない方がいいと思うけど。それに早島さんとは、少し距離を置いた方がいいわ」

 というような、忠告はしてくれていた。その都度、態度だけは神妙にしてハイハイと、頷いていたのだが。正直、陽子はそんな登志子をあまり好きではない。というより、得意ではない。
 陽子の最大にして唯一の武器、処世術ともいえる、「ちょっとアレはどうよ、とみんなが思う人をネタにして、さらに面白くおかしく噂を楽しむ」というのが、登志子には通用しないからだ。どんなに興味深い他人の噂話や笑える悪口を教えてやっても、ふうん、あらそうなの、で済まされてしまう。

 それと、もう一つ。登志子は、ネタにもできないのだ。隣の奥さん幾美もそういえばそうだが、幾美は見た目や行動の変さを馬鹿にしたり面白がったりできる。
 登志子は品行方正、真面目で最良。若くはないが美人だ。なのに浮いた噂もなく、客や店員は勿論のこと、他の商店街の皆さんにも信頼されている。つまり登志子の悪口など言えば、陽子の方が悪者になってしまうのだ。

――元来は小心者の陽子はまだ、唾を飛ばす勢いで怒っている早島夫人が、現実のものとして迫ってこない。登志子が素早く、今は誰もいないはずの、奥の休憩室を使うように目配せしてくれた。陽子はただ、頷いて従うしかない。

 その狭い部屋には、店員の荷物や着替えを入れたロッカーと、簡単な食事などができるテーブル、椅子が四脚ある。まるで刑事の取り調べられるコソ泥のように、陽子は入り口を背にして坐らされた。デンという擬音を立てて、向かいに早川夫人が腰を下ろす。
「あなたねぇ、うちの主人が前の奥さんの父親の保険金をだまし取って、それで会社を大きくした、なんて触れ回ったそうね」
 本当にテレビドラマの刑事のように、早川夫人はバンバンと机を叩いた。その音でようやく、陽子は今起こっていることの恐ろしさを実感した。急激に体温が下がってくるのが、はっきりとわかる。

 その話には、覚えがあった。この近くの、たまに寄る書店の主人に教えてもらったのだ。そこのご主人も、よくも私の好きな作家の新刊に悪趣味で下品な宣伝のポップなんか立てたわねとか、様々な早川夫人のクレームというよりイチャモンに、うんざりした経験を持っているのだった。彼も頑固な老人で、簡単には頭を下げず、早川夫人とは仲が悪い。

 ともあれ陽子は、確かにその保険金云々の話を、さっそく商店街のいろいろな知り合いにしゃべったような気がする。さらに尾ひれをつけて、前の奥さんの父親は不審な死に方をしているらしい。早島夫人は今、ご主人にかなり高額な保険金を掛けている、とまで付け加えた気もする。

 回り回って再び陽子の耳に届く頃には、さらに話が膨らんでいて、早川夫人が外国人の殺し屋を雇った、とまでなっていた。さすがにそれはないだろう、と皮肉にも陽子が否定してやったりもしたのだが…。
「い、言った覚えはありませんっ。知りません、そんなお話」
 ようやく陽子は、うわずった声をあげた。即座に、怒鳴り返される。
「嘘おっしゃい、私は何人かに『太田さんがしゃべっている』というふうに聞いたわ」
 その何人かって、誰と誰ですか。は、聞き返せない。下手にその人名前を出して反論したりしたら、早島夫人のことだから、じゃその人をここに連れて来るわっ! となって、本当に連れて来るだろう。こんな処で、あの書店のご主人と早島夫人と三人で睨み合ったり、二重にも三重にもややこしくなるのは避けたい。

 とりあえず、知らぬ存ぜぬで通すのだ。これまでにも陽子は、噂にした当人に面と向かって問いただされたりしたことがあった。そのたびに、同じ切り抜け方をした。
 とにかく、とぼけ続ける。知らない知らないと言い続ける。それでも追及されたら、誰かのせいにする。その誰か言うのは、大雑把に二種類ある。まずは、おしゃべりで有名、陽子以上の噂好き、もしくはちょっとみんなに嫌われている、あの人ならやりかねない、というふうに、罪を擦り付けやすい人物。

 もしくは、怒って乗り込んでやってきた人にとって、その人には頭が上がらない、もしくは尊敬している。好きだ、または利害関係がある、等々。つまり怒りにくい相手だ。
 いつもはオカメなのに、今日般若になっている早島夫人の顔をアップで眺めながら、必死に陽子の頭を巡らせた。そっ。そうだ、あの人、あの人がいいっ。

「実は、その話は『ロッティー』のマスターに聞いたんです。マスターも、誰かに聞いたそうですが。あっ、もちろんマスターは『ひどいデマだよね。馬鹿馬鹿しい』とおっしゃってました! はいはいっ、私も大きくうなずいて、『本当にひどいデマですね。お話にならない。でも信じる人がいるといけないから、そんな噂は違う、みんなに言っておきます』と答えましたっ。それがどこかで誤解されたんですよっ」

一息に、陽子は言い切った。陽子は我ながら頭がいいっ、とも、ひょっとして私って悪党かも、とも思う。なぜなら一瞬にして、早島夫人が般若から元のオカメに戻ったからだ。
「まあ・・・なんてことかしら。『ロッティー』の彼が、そんな」

 早川夫人ほどではないが、この商店街にある喫茶店『ロッティー』のマスターもまた、ちょっとした有名人だった。本人はいたって穏やかな、ごく普通の優しい人柄なのだが、俳優といっても通るほどの長身の美男なのだ。

 滝内さんでなく滝内くんと呼ばれている彼は、もう四十を過ぎているが顔も体も若々しく、彼を目当てに通う女性客は多い。というより、そのような客が大半だ。しかし彼はなぜか一度も結婚したことがない上に、今現在もまるで女の噂がない。たくさんの女が言い寄ったが、すべて上手にあっさりとかわされてしまったとのことだ。
 そして早川夫人も、その一人なのだった。

 陽子は必死に、自分はあなたをかばう話をしたのに、どこかで間違って悪口のようになってしまった、ということと、滝内くんも心配していたと訴えた。
 その合間合間に、早川夫人が喜びそうな大仰なお世辞、共通の知人の噂や悪口を挟むのも忘れない。たちまち、ヒステリーでうるさいが単純でもある早川夫人は機嫌を直して、
「わかったわ。まあ。あなたも誤解される言動は慎んでね。ところで新しい口紅、出たのね。いい景品付いてる? あらそう。なら、頂こうかしら」

 鼻歌を歌いながら、店に戻って行った。登志子はほっとした表情でそんな早川夫人を迎えたが、やや眉をひそめて、続いて出てきた陽子を見た、しかし陽子は、登志子には気を遣わない。陽子は登志子を、馬鹿にしているとも信用しているともいえる。
「ただのいい人だから。私とは関係ない人だから、仲良くも悪くもならない」
 と、夫の学などには言ってあった。敵にも味方にもならない人に、用はない。

 そうこうしているうちに、休憩時間になった。陽子はすばやく、ロッカーからバッグを取り出して商店街に出た。『ロッティー』に行くのだ。
 陽子は滝内くんを美男だとは思うが、あまり男としては好みじゃない。人柄はいいが、やはり登志子のように人の噂をあまり好まず、本人自身もネタにしにくいからだ。
 だが、今日は早く会って話をして置かなければならない。早川夫人の件についてだ。早川夫人が『ロッティー』に出向いて、「あなた、太田さんに私の噂をしたんですって?」な゛と滝内くんに話をする前に、予め先回りして釘を刺しておかねばならない。

「また早川夫人が変なことを言ったりするかもしれないけど、気にしないでね。ていうか、滝内くんの気を引こうとして必死なの。変な作り話までして」

 くらい、言っておこう。―『ロッティー』は、まだあまり客はいなかった。滝内くんはカウンターの中にいて、コーヒーをたてていた。カウンターの前のスツールに掛けた陽子は、いきなり早川夫人の話を出さず、当たり障りのない話から始めた。

 ちょっと話が途切れたところで、奥の棚に置いてある彼の携帯電話が鳴った。
「あ、電話じゃない。メールだ。誰かな、今頃」
 いつ早川夫人の話を切り出そうかと思案している陽子に背を向けたまま、滝内くんは携帯電話をいじっていたが。突然、あれれーっという声をあげた。
「なんだこれ。ああ、間違いメールだよ。うわあ、なんでこんなのが僕んとこに」
 振り返った滝内くんから、陽子はほとんど携帯電話を奪い取っていた。根っからの野次馬である陽子は滝内くんの表情から、「おいしそうな匂い」を素早く嗅ぎ取っていたのだ。

 滝内くんの携帯電話に表示された文章を読み、大げさではなく陽子は歓喜に震えた。ひゃっほう、などという奇声をあげ、スツールから転げ落ちるところだった。
 それは、早島夫人からだったのだ。しか、わざとらしく間違いメール。正確には、「間違いを装ったマジのメール」だ。陽子には瞬時に見抜けた。

【あなたとはもう、お別れよ、未練を持たないでちょうだい。あなたはあなたの道を行って。私は私の道を行く。もう、会いません。さようなら】
 文面をそのまま読めば、早川夫人が交際していた男と別れを告げようとしたものを、宛先を間違って滝内くんに送ってしまった、となる。だが。
「交際していた男なんか、いないよ。架空の人物、脳内カレシだよ。これは滝内くんへのアピールね。自分は男がいた、でも自分から振った。次は滝内くん私といかが? ・・・うっわー、あくどいオバハンが処女の女子学生みたいな真似するんだ」

 滝内くんは決して、こんな言葉を早川夫人に伝えたりしない。だから安心して、早川夫人を嘲笑したのだが。滝内くんは心底から、困惑した顔だ。
「えー、そんなぁ。ただの間違いでしょ。どうして、宛名を間違ってしまったよなんて、知らせてもいいのかなぁ」
「ねえっ、これ私に転送してっ。お願いお願いっ!」
 幼稚園の勘違いママ仲間、自称・超美人の美咲の、整形前ビデオよりもひょっとしたら面白く価値ある、お宝になるかも知れないではないか。

 だが、さすがにそれは滝内くんが嫌がった。携帯電話を撮り返すとやんわりと、
「間違いであるうえに、あまり人に知られたくない内容でしょ。そんなことはできないよ」
 陽子の前で、手を振った。それから滝内くんは、あれっ、と陽子の隣のスツールに置いたバックを覗き込むようにした。陽子はぷっと、頬を膨らましていたが。
「太田さんの携帯も、鳴っているよ」

 指差され、あらほんとだと、とりあえず滝内くんのゲットしたお宝メールは置いておいて、自分の携帯を取り出した。何件もメールが入っている。一番最新のを開けてみて、陽子はさっきまでのはしゃぎっぶりはどこへやら、たちまち、青ざめた。
【私の過去のビデオを皆に見せるのですね。そんな真似をしたら冗談ではなく、訴訟を起こしますよ。私は本気です。すでに弁護士に相談しています】
 それは、美咲からのものだった。間違いメールなどではない・・・・。

6 はしゃぎすぎて

 喫茶店『ロッティー』のスツールの上で、太田陽子は本当に凍り付いた。携帯電話を握る手が、見る見るうちに白くなっていく。
 無機質な文字が、こんなにも恐ろしいものに見えたことはない。『訴訟』『弁護士』といった、普段は何の関係もない単語が、間近に迫ってきている。
 美咲は本気で怒っている。さっきの早島夫人と同じくらいに――。
 カウンターの向こうには、この商店街でも有名な美男マスターの滝内くんがいて、何事ですかと心配そうに陽子の顔を覗き込んでくれているが、そんなものは何の慰めにも励ましにもなりはしない。
「私・・・美咲さんにもメールを送信しちゃったんだ…」
 自分の呟き声が、ひどく遠くから響いた。幼稚園ママ仲間の、自称・元タレント。自称・未だにスカウトが絶えない美人。その実態は、せいぜい並の上程度の勘違い女。

 そんな美咲の整形前の映像を手に入れて大はしゃぎの陽子は、他のママ仲間にも見せようとメールを送信しまくった。
 ところが勢い余ってというか、当の美咲までおくってしまっているのだった。
 陽子たちは美咲を、蔭で意地悪な笑いと共に「アイドルM」と呼んでいた。だから、「我々のアイドルMちゃんのお宝発見」と、仲良しママ仲間にメールを回したのだが。まさかまさか、当人までお届けしてしまっていたとは。

 あのビデオを頂戴、と硬い表情と声で詰め寄ってきた美咲よりも、美咲の整形をすぐに見抜いた、隣の変なガーデニングおばさんの幾美の、
「整形したでしょ、なんて冗談でも口にしてはいけないわ。あの美咲さんて、ちょっと怖いものがあるから」「どんなに整形してもね、その人の醸し出す雰囲気っていうのは変わらないの。美咲さん、だっけ。彼女、若い頃から偏執的な目をしているわ。手術で目の形は変えられても、目つきは変えられない」「彼女、とにかく自分に執着してる。自分にだけ愛がある。だから、そんな自分を脅かす存在は許さないでしょう」

 といった、不気味な忠告の方が鮮やかによみがえってきた。変なひらひらな服を着て、取り憑かれたように庭いじりばかりしている幾美も、かなり不気味な女なのだが。

 当たっていた、ではないか。まさか美咲がいきなり、訴訟だの弁護士だの言って来る女とは想像しなかった。勘違いの自慢女だが、おっとりとしていると思い込んでいたのだ。
「こういうの、一難去ってまた一難、って言うのかな・・・・」
 陽子の場合、いかなる時も自業自得、という言葉は浮かばない。

 ついさっき、小うるさいクレーマー早川夫人をどうにか上手くかわした上に、滝内くんに宛てたわざとらしい宛名間違いのナンパ・メールも知って、ご機嫌になっていたのに。自分も間違いメールを送っていたのでは、世話はない。

 しかし、まだ言い逃れの方法はあるのではないか。陽子はうっかり送ってしまった携帯メールの文面をにらみながら、冷たい汗を流した。コーヒーを、一気に飲み干して。
「だっ、大丈夫だわ。だって、どこも『美咲』とは書いていないもん。『整形』も『ビデオ』もない。『アイドルM』の『お宝』としか書いてないものッ」

 これなら、いくらでも言い逃れはできる。陽子はカップを乱暴に置いて、ひとりうなずいた。まだ、どの仲間にも「美咲の成形前ビデオ」とははっきりは言っていないし、そんな返信もしていない。さらに美咲は嫌われ者と言うほどではないが幼稚園ママからは浮いているので、直接聞けるような親しい友達はいないはずだ。

 美咲はあのビデオに執着して自意識過剰になっているから、「アイドルM」「お宝」だけでこれは自分のことだ、あのビデオだっ、とピンと来たのだろうが。決定的証拠と、絶対に言い逃れのできない状況は、まだどこにもない。

「あなたの思い込みよぉ、勘違いよぉ」で、充分に説得できる。納得させられる。携帯電話を握り締め、陽子はもう片方の手でげんこつを作った。やれるやれる、早川夫人だってうまく言い包められたじゃないの。なんてことはないわ。

 人の噂話と悪口が大好き。ほとんど生き甲斐といっていい。だから言いふらすだけではなくて、当人に責められた場合の対処法もちゃんと考え、立ちまわれる陽子なのだ。
【美咲さん何を怒っているのか、まったく見当もつかなくて困っています、私はただ、宛名を間違っただけなので】
 陽子は滝内くんにコーヒーのお代わりを注文すると、猛烈な勢いでメールを作成し始めた。もちろん、今度はきちんと美咲に宛ててだ。
【恥ずかしながら、うちの旦那が好きな人気AV女優の美川みず穂の裏ビデオを手に入れたので、同じくみず穂ファンの友達に知らせたの
((〃ノωノ)。だから『アイドルM』で『お宝』なの)】
 夫の学が、その女優を好きなのは本当だ。隠していた裏ビデオを発見した時、捨てると怒ると、泣きつかれ、捨てるのだけは勘弁してやったが。まさかそんな時に役立つとは。
【ちなみに彼は、ただの男友だち。怪しい関係ではありません(笑)】
 そんな男友だちはいないが、どうにでも誤魔化せるだろう。滝内くんはやれやれ、といった表情で、新しくコーヒーを入れてくれた。滝内くんは、なるべく他人の噂にも揉め事にも介入しないという姿勢を貫いている。そこらあたりは、化粧品店の店長である登志子に似ていた。つまり、二人ともいい人だが陽子は仲間にはしたくなかった。

【本当に、あなたが何を勘違いしているのかぜんぜん然わからないけど・・・・何か不快な思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい。それと、宛名を間違えたりしてごめんなさい】
 あなたが間違っていますと主張しながらも、ひたすら低姿勢でいるのが一番いい逃げ方だ。早川夫人にも、それが効いた。
【もちろん、美咲さんのビデオをみんなに見せようなんて思っていませんよ。第一、もう私の手許にはありませんもの】
 嘘だ。しっかりダビングしたテープが家にある。陽子は少々危ない目に遭っても、やっぱりこの性格と行動は直せない。
【でも、あのビデオの美咲さんはとても可愛いて、そんなに嫌がる理由も分からないのですが。あなたが嫌だと言うなら、もう二度と話題にはしません】
 あくまでも、整形していることにはまるで気づいていない、という態度でいなくては、気づいている。というのをちらりと出も出せば、本当に洒落にならない事態になりそうだ。
【どうぞ誤解を解いて、また遊びに来てね。お隣のメルヘンおばば(爆)も待っています。なんか、美咲さんを気に入ったみたいよ】

 こうやって、気を逸らせてからご機嫌を取っておくのも忘れない。
 完璧だわ。ほとんどうっとりしながら、陽子は文面をざっと見直して、今度は慎重に宛名を確認して送信した後、ゆっくりとコーヒーをすすった。
「ねえねえ滝内くん。さっきの早島夫人のメール、私に転送してくれない?」 あ、
 早島夫人に怖い目に遭わされたばかりなのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるとやらで、もうこんなふうにおねだりもしている。
「いゃあ、それはちょっと」
 滝内くんはあくまでもにこやかだが、きちっと断って来た。陽子はプッと軽く膨れてはみたものの、滝内くんのこの性格なら、早島夫人に「陽子さんにしつこく、あなたのメールを転送して欲しがっていた」などと言い付けたりはしないだろうと、安心もできた。

 喫茶店『ロッティー』を出た陽子は、化粧品店に戻った。店長の登志子によれば、早島夫人はあれから別に陽子については何も言ってこず、他のクレームもないという。早島夫人の方は、ひとまず安心だ。

 美咲もすぐには返事をくれなかったが、着替えて帰る前に携帯メールを確かめたら、他のママからの「行く行く」「楽しみ」といった返事と共に、
【こちらこそ、勘違いして感情的になってごめんなさい。あのメールは忘れてください、そして、削除してね。また、遊びに行かせてもらいます。お隣さんにもよろしく】

 ごく短い、素っ気ない返事がきていた。この簡単さは照れ隠しでもあり、さらに探られないための用心でもあるのだろう。
 やったぁ、陽子はひそかにニンマリ笑う。誰かの悪口を言っている時も、それを聞かされた人たちと盛り上がっている時も、楽しいけど、こういうふうに、悪巧みをして一人でニンマリしている時が、一番楽しいのかもしれない。

 みなにチョロイもんだわ。ていうか、私って立ち回りもうまいし頭もいいよね。ちょい大げさに言うと、情報操作が巧みなのよ。素敵。みんな私に操られて私の思いのままって感じ。ま、ちょっとは自分って性格悪いかなぁ、とも考えるけど、さてさて、美咲の整形前ビデオは、いつ鑑賞会を開こうかな。それと早川夫人のイタタなメールの話は、いつ披露しよう・・・・。みんな喜ぶだろうねぇ。

 続けて危機をうまく切り抜けられた上に、早島夫人のさらなる面白いネタを仕入れて。陽子はご機嫌だった。だからつい登志子向かって、例の滝内くんへ宛てた早島夫人のメールの話をしてしまったのだ。
 登志子は他人の噂話と悪口は嫌いで、絶対に乗ってこないから、陽子も登志子にこんな話をしなかったのだが。
「もう、わざとらしいったらないんですよー。そんなメールを、宛名間違いなんかしますかっていうの。しかも、美男の誉れ高き滝内くんをわざわざ選んで、ついうっかりですか。以前から、滝内くんに言い寄ってはいたんですけどね。あははっ。それに普通。男に別れを告げるのに携帯電話のメールなんか使いませんよね。でも、滝内くんもちょっと興味を持ったみたいでしたよ。あ、もちろん早島夫人とお付き合いしたい、とかじゃなくて。どんな男だったんだろうなぁ、なぁんて」

 これまた例によって、多少の作り話も付け加えて。そういえば登志子さんと滝内くんって似ているな、ふと陽子は思った。
 ともに若くないけど、きれいなままで。なのに浮いた噂がない。そして何より人の噂を好まなくて、真面目。

 実はほのかに、本当に善良で真面目を装うっているのか、未だによくわからないところもある登志子だが。
「・・・・へえ。早島さんてあんな性格なのに、滝内くんに対して妙に乙女になるのね。滝内くんにだけは、お得意のクレームもつけないのね」
 今日は珍しく、あっそうフゥン、では済まさず、ちょっと悪口めいた相づちを打ってくれたのだった。あっ、これは好感触。店長も本当は、人の悪口を言いたいんじゃないの。でも、いい人でいたくて我慢してんだ。よぉし、私がそのお楽しみを教えてあげますよっ。
 陽子は単純に、喜んだ。ただ、単純に――。

 拓人を連れて家の前まで帰ってきた陽子は、また突発的にくしゃみに襲われた。もともと、花粉症の気があったのを、隣に越して来た幾美が悪化させてくれたのだ。すでに家全体が、お花畑と化している。今更、どうしようもない。

 それに根は小心者の陽子は、面と向かって何も言えない。肥料だといってウンコを庭に撒いていても、黙っていた。
 なぜなら、幾美はどこか不気味だからだ。年甲斐もなくメルヘンな格好しているというのもあるが、それだけではない妙な鋭さや、得体の知れない何かを感じさせるからだ。
「こんばんはー。ご精が出ますねぇ」
 拓人を家に入れ、今日もくしゃみが治まってから、陽子は媚びるような声を掛けた。幾美はいつものようにひらひらとした恰好で、花壇の前にしゃがみ込んでいる。いつものことながら、黄昏の中にいる妖怪みたいだ。囲む花々まで、黒く見える。

 そんな幾美は陽子を見上げると、あらお帰りなさい、とにっこりしてくれた。だから陽子は、気軽に話しかけたのだ。
「ご主人もお花、好きなんですか。そういえばご主人て、全然お姿見ませんね。日曜なんかはいらっしゃるんですか」
 不意に、幾美の目が光った。そんな気がしたのではない。本当に光ったのだ。
「あなたね。あまり人様のことにあれこれ、首を突っ込まない方が身のためよ」
 幾美を囲む花々が真っ黒だったのは、気のせいだったとしても・・・。

7 軽い不安

 幾美は昔のビデオをちらりと見ただけで、初対面だった美咲の整形を見抜いた。また、美咲と少し喋っただけで、おとなしそうにしているけど実は結構ヤバい性質だ、というのも言い当てた。

 しかし。年甲斐もなくひらひらプリプリのメルヘンな格好をして、自分ちの庭をお花畑にしたり、肥料だといってウンコを撒いたりもしているので、陽子は内心では幾美をかなり馬鹿にしていたのだ。

 馬鹿にしながらね。最近はちょっと見直したというのは、一目置くべかなとも考えていた。それでも、軽んじていたのには違いない。だから、
「すべての人に『良き隣人』でいてほしかったら、距離を保つことよ」
 ぴしゃり、続けてそんなふうにたしなめられた時は、かなり動揺してしまった。
 すでに見慣れた人なのに、この人は誰っ、と気が遠くなりかけたし、これまた見慣れた庭の色とりどりの花々が、どれも真っ黒な異様な花の色に映った。
「す、すいません」
 しゃがんだままの幾美の後ろで棒立ちになったまま、陽子はとりあえず大げさに頭を下げた。
 どうしようどうしよう、すぐに軽いパニックだ。

 幾美は、早島夫人と違って感情を剥き出しにしない人だ。次にどんな態度を取って来るかはわからないし、こちらもどんな対処をすればいいのか、すぐにはわからない。
「あら、さっきのはきつい言い方だったわね。ごめんなさい」
 幾美は、再び花壇の方に向き直ると。と、今度はいつものおっとりとした口調になっていた。振り返ってはくれなかったが、もうきつい物言いはしなかった。
「いっ、いえ、そんな」
「主人は元気よ。仕事が忙しくて、奥さんの私でさえ滅多に会わないみたいな生活だけど。あなたたちもよろしくお伝えください、と言っていますわ」
「は、はいっ。こちらこそ、よろしくお伝えくださいっ」

 人の噂話と悪口と、セコい悪巧みが日々の生き甲斐である陽子だが。面と向かって攻撃や文句には、本当に弱い臆病者なのだ。
 今日は立て続けにクレームの鬼・早島夫人と、イッちゃっているナルシスト。美咲にあわや刑事事件、というのは大げさにしても、陽子的にはかなり絶体絶命の状況にまで追い詰められ、パニックになりかけた。
 だが、これまた陽子的にうまい立ち回りと小細工をし、危機を乗り切り抜けた。
 それだけではなく、さらに美味しい早島夫人のわざとらしい宛名間違いを装った、滝内くんへのナンパ・メールのネタまで仕入れてニンマリ、と一日を終えるはずだった。
 まさか、幾美にまで怖い瞬間を味わされるとは。
 もちろんこれも、結局はなんてこなく済んだと・・・・少なくとも、この時の陽子は安堵したのだったが――。

 陽子は学との夫婦仲は、しごく円満だ。学は人の噂や悪口にはほとんど興味はないが、妻のおしゃべりには付き合ってくれる。
「びっくりしちゃったわぁ、隣の奥さん。『あなたね。あまり人様のことをあれこれ、首を突っ込まない方が身のためよ』なぁんて脅されちゃった。単なる社交辞令で、ご主人お見かけしませんけど元気ですか、って訊ねただけなのに」

 可愛い一人息子の拓人は、すでに二階の寝室でいい子にして寝てくれている。今は、夫婦水入らずで、ビールを飲みつつ寛いでテレビ話見ているのだ。
「人って、痛いところを突かれると激烈―つ、な反応を示すじゃない。まさに、そんな感じだったわ」
 ソファに寝転がった学は、あくびをしながらも頷いてくれた。
「陽子ついうっかり、隣の奥さんの痛〜いとこ突いちゃったんじゃないの」
 学の隣に座っていた陽子は、あっと小さな声をあげて学のかを覗き込んだ。
「もしかして、隣の奥さんって旦那とうまくいっていないのかも。いくら仕事が忙しいからって、こんなに姿を見ないのは変よ」
 むくむくと本来の覗き趣味、野次馬根性、煽り体質が、洋子自身を突き破らんばかりに湧き出て来る。
 そうだそうだ、ちらっと引っ越したばかりの頃に見た隣の旦那が、もっさりと冴えないオヤジだったから、まったく興味を持てずに忘れてしまっていたが。考えてみれば、まるでその後は姿を見ていない。
「すでに別居しちゃったんじゃないかしらっ。元々あんまり仲良くは無かったけど、一戸建てを購入してからやり直そうとした。でもやっぱりうまくいかなくて、旦那は出て行ったのよぉ。うんうん、だから旦那の話は避けたいんだ」

 学に相槌を打たせる暇も与えず、陽子は一人で興奮しながら続けた。
「あんなダサいオヤジだけど、案外ちゃっかりと別の女がいたりして。あっ、もしかしたら妻には子供ができないからと、別の女に産ませたりして」

 何かが止まらなくなっている陽子は一気にビールをあおると、テーブルに音を立ててグラスを置き、再びまくし立てた。

 喫茶店『ロッティー』の美男マスター、滝内くんだ。彼は自分の文章はまったく付けず、ただ早島夫人のメールだけを転送してきくれている。その素っ気のなさも、いかにも滝内くんだった。
「滝内くんも、結構こういうの好きなんじゃない。ふふっ」
 陽子は浮き浮きしながら、そのメールをしっかり保存した。

 これはもう、美咲の整形前ビデオ以上のお宝だ。商店街の皆さんにみせてあげたら、どんなにウケるだろうか。
 あまりにも嬉しくて、滝内くんにまだ自分のメールアドレスなど教えていなかったということは、すっかり忘れている陽子だった――。

 次の日、拓人を連れて幼稚園に行けば、仲良しママ達はみな陽子に駆け寄って「楽しみにしてるわ」と耳打ちしてくれたり、ちょっと離れた所にいる美咲の方を見て、意味ありげに目配せをしてくれたりした。
 ああ、幸せ。私は人気者。それから、人様を自在に操れる情報操作の巧みな女。さあてと、お次は商店街の皆さんに会わなくちゃ。早島夫人で盛り上がろうっと。お昼には『ロッティー』にも寄らなくちゃね。

 足音も軽やかに門を出ようとしたところで、後ろから小走りでやって来た美咲に声をかけられた。美咲もまた、にこやかだった。
―早とちりして変なメールを送ってごめんなさい。恥ずかしいから、早く忘れて。もう私はいつも通りの私よ――。

 という気分なのだろう。もちろんそんな気持ちを汲み取ってやったつもりの陽子は、やんごとなき身分の女であるかのように気取った鷹揚(おうよう)な態度で、応えてやる。美咲はまるで自称アイドル時代のように、小首を傾げたあどけない笑顔で話しかけてきた。

「ところで陽子さんて、化粧品店のお勤めは毎日なの? 時間帯ってどうなの」
「一応、月曜日から金曜までだけど。拓人がいるから、フルタイムはできないのよねぇ。三時までにしてもらっているの。お店から幼稚園に直行なのよぉ」
「そう。三時ね。その後はおうちに寄らずに、ここにすぐ来るのね」
 なぜかそう念を押してから、美咲はじゃあ、と手を振って先に行ってしまった。

「なんだろ。まさかまだ、ビデオは本当に手元にないの? 私の顔が変わったことに気づいてんじゃないの? なんて疑って、探りを入れようってのかなぁ」
 胸の内だけで、呟いたが。ふりかえった
美咲の笑顔に、陽子の軽い不安は消し飛んだ。とりあえず、美咲の面倒なことは片付いた。少なくとも、陽子はそう信じていた・・・・。

 店長にも、この早島夫人のメールを見せてあげようかなぁと、こみ上げてくる笑みを抑えきれず、店に入った陽子だが。
 その笑みは、瞬時冷却された。まだ開店したばかりの店の真ん中には、一目でただ事ではない様子だと分かる、当の早島夫人が仁王立ちしていたのだ。
 そうして明らかに、陽子を待ち構えていたのだった。

 他の店員はみな、関わり合いになりたくないとばかりに早島夫人も陽子も無視して、わざとらしく棚の整理をしたり、掃除や準備に一生懸命のふりをしている。
 カウンターの向こうにいた店長だけが、いかにも心配そうに眉根を寄せた深刻な表情で、そっと手招きをしてくれてた。すでに陽子は、全身に冷たい汗をかいている。それでも、早島夫人の前を突っ切って、登志子の元にいかなければならない。

 その間に早島夫人は、いつものギャギャアと喚く態度でなく、もっと強い怒りを押し殺した雰囲気を漂わせたまま。無言で陽子を睨みつけていたが。ついに我慢しきれなくなったのだろう。
「ちょっと太田さん。携帯電話を出しなさい。今すぐによっ!」
 店中に響き渡る大声をあげ、陽子を怒鳴りつけたのだ。つーん、と耳鳴りがした。陽子は本気で、その場に屑落ちそうになる恐怖を覚えた。

8 黒い庭

「出しなさいった帯電話よ。持ってるんでしょ!?」
 店中どころか商店街中に響き渡りそうな声でも早島夫人は吠えた。もちろん。警察でもない相手に容疑者でもない人が、そう命じられてハイどうぞと、携帯電話を差し出さなければならないいわれはない。

 しかし臆病者の陽子は、電池の切れたロボットみたいにぎくしゃくと、バッグから携帯電話を出していた。これを見られたら身の破滅。うっすら予感がしたが、どうしようもない。
 他の店員達はみな、そ知らぬ顔だった。ただでさえ、何にでも文句をつけたがる小うるさくて厄介なクレーマー早島夫人だ。太田陽子個人にクレーム、いや、怒り狂っているとなれば、触らぬ神に祟りなしとばかりに、無視を決め込むのが得策というものだろう。

 わかってはいても、みんな冷たいと陽子は泣きたくなった。一緒になって早島夫人の悪口を言ったり噂をしている時は、あんなに楽しそうにしてくれるのに。
 店長の登志子もまた、すぐには助け舟を出してはくれない。カウンター越しに、言う通りにした方が言いいわ、と目配せしてくれるだけだ。

 早島夫人は店の真ん中に仁王立ちしまま、陽子から携帯電をひったくった。自分の機能が同じなのか、ほとんど戸惑わず素早く受信メールを開いていく。
 どうにかして、何とかして言い逃れ、申し開きはできないものか。陽子は必死に、頭を巡らせた。早島夫人が宛名を間違いを装うって、美男で有名な喫茶店『ロッティー』のマスター、滝内くんに送ったメール。うっかり陽子にそれを伝えた滝内くんに、「転送して」と頼んだのに、断られた。だがその夜、送ってきてくれた。

 そう、早島夫人は滝内くんを好きなのだ。ならば、滝内くんが自ら送ってくれたと言い訳するしかない。嘘ではないのだし、早島夫人も、それなら怒りを治めてくれるだろう。
 動揺の余り陽子は、どうやって早島夫人が「滝内くんから太田陽子にメールを転送されたことを知ったのか」という疑問は、すっぽりと抜けていた。滝内くんは、陽子の携帯メールのアドレスを知らなかったという事も‥‥。

 早川夫人はついに、滝内くんからの転送メールを開いたようだった。みるみるうちに、白っぽかった顔色が赤くなっていく。怒りのためだけではない。恥じらいもあるのだ。
「そっ、それは、滝内くんが送って・・・・」
 すがるように、陽子が言いかけた時だ。早島夫人は携帯電話を陽子の鼻先に突きつけると、今度は異様に落ち着いた声を出した。自分で自分を必死に抑えているようだった。
「昨夜の夜『ロッティー』に行ったのよ。そうしたら滝内くんが慌ててたの。『誰かが勝手に彼の携帯電話から、太田さんに早島さんの間違いメールを転送している』って。その時、偶然にもこの登志子さんも来ていたの。登志子さんが『残念ながら、勝手に転送したのはうちの太田さんだと思う』って言ったの。ねえ、そうよね登志子さん!?」

 早川夫人と陽子は、同時に登志子を振り返った。信じられないものを見たのは陽子だ。登志子は苦悩するように眉根を寄せ、しかししっかりと頷いたのだから!
 あんまりのことに口をあんぐり開けるしかない陽子に、登志子はそのまま言った。

「あなた『ロッティー』から帰ってきて、早島さんのメールの話をしてたでしょ。あの時なんだか、嫌な予感がしたの。滝内くんも、あなたがしつこく転送してと頼んできたと言ってたし。でも滝内くんは、あなたのメールアドレスを知らない。あなたが勝手に彼の携帯電話を使って、自分の携帯に転送したとしか考えられないのよねぇ・・・・」

 他の店員達はもはや、いささか古い表現をすれば、耳がダンボになっている。あまりにも面白い展開に、夢中で聞き身を立てていた。本来ならば陽子は、その中心にいるはずなのだ。まさかまさか、自分自身がネタ、今後は噂の的にされてしまうことになるとは!

「そっ、そんな。私じゃありません。私のメルアドだったら、ここの人みんな知っていますし、商店街もメル友はいます。店長だってご存知じゃないですかっ」

 どうにも効果がない言い訳を、死に物狂いでしたのだが・早島夫人は、かえって怖い感じの落ち着きを取り戻し、登志子に向き直った。それから、低く告げた。
「この人、解雇して、クビにしてよ。顧客の、しかもお得意様の私信を面白くおかしく利用しようとするなんて、職業倫理にもとるわ。犯罪といってもいい。聞き入れてもらえない場合は、正式に告訴にまで持って行きますからね」
 黙って頷く登志子の顔が、ひどく遠くに見えた――。

 夢見るような、といえば幸福感に包まれているはずだったが。今の陽子はヨロヨロともヘロヘロともつかない状態で、夢見るように現実感のない商店街を歩いていた。
 クビ、になってしまった。だから、いつもなら三時に終えるところを、こんな昼間に家に向かっているのだ。いつもならお迎えに直行なのだが、まだ幼稚園は終わっていない。

 息子の拓人が幼稚園に入ってから、勤め始めた化粧品店。しんどいこともあったけれどいろいろと楽しかったし、給料もそんなに良くなくても、気に入っている職場だった。それが、早島夫人によって辞めさせられてしまった。

 それこそ裁判に訴えれば不当解雇と闘えるだろうが、そんな気力も体力もない。これ以上、商店街中の噂の的にもなりたくない。
 大好きというより、ほとんど生き甲斐である、人の噂と悪口。自らがその中心人物にされるとは、しかし陽子はまだ、自分がやられてみて初めてわかる人の痛みだの、罰が当たっただのは、考えられないでいる。
「いったい犯人は誰なのよ・・・・」
 頭が痺れていても、それは声に出してつぶやいた。滝内くんが送ったのではないとしたら、誰。まるで見当がつかない。陽子の携帯のアドレスを知っていて、『ロッティー』に行って滝内くんの携帯電話に触れる人となれば、ごく身近な人に違いないのだ。

――ヨロヨロともヘロヘロともつかない夢見る状態で家に辿りついた陽子は、あまりのことに今度こそ本当に腰を抜かした。
「うっそぁ〜・・・。これはいったい、何の冗談なの・・・・」
 家の前に人だかりがあった。その中には隣のメルヘンなガーデニングおばさんこと、幾美もひらひらした格好でいる。人ばかりではない、異様に鮮やかな消防車も停まっていた。なぜなら、陽子の家の壁が真っ黒に焦げて、窓ガラスが割れてしまっているからだ。

「陽子さん、しっかりして、幸いボヤで済んだし、おうちは誰もいなかったから」
 幾美がしっかりした口調で言って、しゃがみ込む陽子の背中をさすってくれた。陽子はまだ、頭も口もうまく回らない。とりあえず、夫の学と息子の拓人は無事なんだとわかった時点で、もう良しとしなければならないのか。

 ぼっとしたまま、隣の庭を見た。隣の花は、何の損傷も消失もない。色とりどりの花々が、何事無かったように咲き乱れているだけだった。
「あなた、ここの奥さん? 旦那さんに連絡とってくれないかな。厄介なことにね、失火じゃなくて不審火の疑いがあるんだよ。そう、放火だよ」

 陽子を抱きかかえるようにして立ち上がらせてくれた幾美の背後から、制服姿の警官が現れた。不審火。放火。初老の警官の口から出た言葉は怖ろしいもののはずなのに、分厚い磨りガラス窓の向こうに或るもののように、ぼんやりとしている。

 またしても、携帯電話の出番だ。陽子は震える手で、バッグから取り出した。ところが会社にかけると、外に出ていると言われた。再びしゃがみ込んで、学の携帯電話にかけると。ところが、それも留守番電話になっていた。
「つながりません・・・」

 幾美にとも、警官にともつかない。独り言のように、陽子は呟いた。そう呟いたことは、覚えている。そこからは、記憶がすっぱりと切断されてしまった。
――気がつくと陽子は、見知らぬ部屋のソファに寝かされていた。すでに窓の外は夜で、傍らには心配そうに覗き込む、幼稚園の制服を着たままの拓人もいた。

「大丈夫? まだ休んでいいのよ。ボクも今晩はおばちゃんちでご飯食べるかなぁ」
 背後から聞こえたのは、幾美の声だ。ここは幾美の家のリビングらしい。そうしてどうやら幾美が幼稚園に連絡してくれ、拓人を迎えに行ってくれたようだ。

 お礼を言う気力もまだない陽子は、夢、いや、悪夢から醒めなければよかったのに、と顔を覆った。一瞬死にたい、とまで思った。
 見に覚えない滝内くんのメール転送、早川夫人の激しい怒り、登志子の裏切りといってもいいクビ通告、それだけでも小心な陽子を打ちのめすには、充分なのに。帰ってみれば放火によるものと思われる、ボヤ騒ぎだ。

 そんな陽子の肩を、幾美は昼間のように優しく、背後から抱きかかえるようにしてくれた。しかし、幾美の口から出た言葉は、これでもかこれでもかと陽子を打ちのめした。
「もう警察の方には言ってあるんだけど。火をつけたのは、いつだったかあなたの家に来ていた元タレントさん。美咲さん、だったけ。あの人よ。私、見ていたの」
 頭はまだ重苦しく、回転しない状態だが。美咲が陽子の帰宅時間や、店から家にはすぐ戻らないことまでを、念を押して聞いて来たのは思い出した。
「ビデオ・・・・取り戻せないなら、燃やしてしまおうと考えたのね」
 ようやく陽子は、それだけで呻く、ふと、花壇に撒いているおぞましい自家製肥料に似た異様な匂いが、台所の方から漂ってくるような気がした。まさか。疲れ果てているのに、陽子は苦笑した。台所に、そんな臭い物を追いあるはずがないじゃない、と。

 なぜかまったく学の携帯が通じないので、陽子は今晩は幾美の家に泊まらせてもらうことになった。クビになったことも衝撃だが、放火はそれを上回る。陽子は、あの焦げた家に拓人と二人でいるのは怖かった。
「遠慮しないでいいのよぉ。主人はどうせ帰ってこないし」
 幾美は甲斐甲斐しく拓人の世話をしてくれ、あれこれ励ましてくれる。さすがの陽子も、ほろりとした。幾美がこんないい人だったなんて。それに幾美は、以前から思っていたが妙に勘が鋭い所がある。美咲の危なさをも、すぐに見抜いたし。

 だから陽子はソファにぐったりしたまま、今頃は警察署にいる美咲ではなく、滝内くんのメール事件の話もした。喋っていれば、少しは気も紛れる。

 それにしても、台所が臭い。申し訳ないが、だんだん気分が悪くなってきた。拓人はご飯を食べさせてもらった後、すぐ二階に連れていかれ寝入ってしまったからいいが。
「なるほどね。なんか、その店長ってのが怪しいわ。それを利用してもともと気に食わなかったあなたを辞めさせようと企てたのよ。店長はあなたの携帯アドレス知ってるんでしょ。自由に滝内くんの携帯もさわれる彼女が、そこからあなたに転送したんじゃないの」

 幾美はリビングのテーブルに運んできた料理を、気分良くなったら食べてね、と微笑みながらも、さらりと言ってのけた。す、すごいわ。状況も忘れて、陽子は感心してしまった。もちろん証拠は何もないが、ズバリこれが真実ではないか、と思えた。

「すごいすごいっ、幾美さんて安楽椅子探偵みたい。私、幾美さんについていくわっ」
 思わず、陽子は起き上がる。そんな陽子を、ちらりと幾美は見下ろした。その眼差しには、軽蔑と哀れみが宿っていると見えたのは・・・気のせいではなかった。

「こんな時に言うのは可哀想だとも思うけど、いい機会だから言うわね。太田さん、あなたのご主人には恋人がいるみたいよ。同じ会社の独身OLさん」
 は? 陽子はおよそ数十秒間、何を言われているのかわからなかった。それから、本当に吐き気を覚えた。臭い、たまらなく、臭い。
「臭い、ごめんなさい。ちょっと窓を開けてもらいませんか」
 幾美がひらひらしたスカートを揺らして立ち上がると、窓を開けた、夜気が流れ込む。
「近所周りじゃ、かなりの噂になってたのに。肝心の陽子さんだけが知らなかったとはねぇあなた、こんなにも噂好きなのに、皮肉なものね。あら、さっきから臭いが気になるようね。あの肥料を撒いておけば、これは誤魔化せるかと期待したんだけど」

 固まる陽子の前で、幾美は冷蔵庫を開けた。悪臭を放つそれが、ちらりと視界に入る。とても久しぶりに会った・・・・旦那さんではないのか。
「細かくバラバラにして少しずつ、お庭に埋めるの。庭全体が、お墓。いつでもお花をお供えている、お墓。もちろんあなたは、言わないわね。噂には、こりごりのはずだから」
 窓から、真っ黒な花が咲き乱れているが見えた刹那、陽子は暗い深い眠りに落ちた。

つづく ひとりで奏でる恋の歌