離婚を夫婦の循環的な相互作用から考えてみることが大切です。夫婦は、もともと原家族(「夫(妻)にとって結婚そのものが自分の両親との三角関係を脱するための手段で、両親から離れるための合法的方策になっていることがあります。ただ、それが片方の親との密着度がつよかったり、両親に反対された結婚だったりすると、両親との関係を強引に遮断することがあります

トップ画像

離婚への分かれ道

1〇夫婦カップル関係をめぐる循環プロセスモデル

結婚の継続に踏みとどまるためにも、離婚を決断するためにも、離婚後の人生の再構築のためにも、そして、離婚・夫婦問題に介入する専門家も含めて、さまざまな要因が絡みあって離婚に至ることをしっかりわきまえている必要があります。逆に、一つのスローガン的な言い分を前面に押し出しての離婚は、そのような「現実」を覆い隠してしまいがちでその後の新たな再出発への適応に苦しむことになる可能性が高まります。
 以上のような背景からわかるように、離婚を夫婦の循環的な相互作用から考えてみることが大切です。夫婦は、もともと原家族(「夫(妻)にとって結婚そのものが自分の両親との三角関係を脱するための手段で、両親から離れるための合法的方策になっていることがあります。ただ、それが片方の親との密着度がつよかったり、両親に反対された結婚だったりすると、両親との関係を強引に遮断することがあります。たとえば、無意識に母親に依存し情緒的なニーズを満たしていた夫(妻)が母親との関係を遮断した結果、失った親の代わりを配偶者に求めたりする場合です。

恋愛と思われていた関係は無意識の親子関係の再現になっていたり、夫(妻)と父母の三角関係に配偶者が引き込まれたりすることになります。嫁姑の問題などその一例です。そのなかで身に着けたもので、知性システムと感情システムの分化度合いをいいます」)出目の人たちは気質や性格も、価値観も違うからです。

夫婦二人の間に種々のすれ違いや軋轢が生じることは必然です。それを前提としたうえで、離婚の方向に進むのか、関係修復の方向に行くのかを考えられるモデルを参考にすることがよいだろうと思います。

 ここでは、夫婦関係をめぐる循環プロセスモデルをみてみましょう。夫婦関係に生じるプロセスは、a相手との相補的一体感によって自己が拡大したような体験をするような良好な関係期である「拡大・保証」期⇒ b相互に裏切られたように感じて関係から引きこもりがちになる「縮小・背信」期⇒ cそれを乗り越え、関係が修復されていく「純愛」期⇒ d再び「拡大・保証」期に戻る循環の連続と捉えられています。これにヒントを得て、離婚に至る夫婦とそうでない夫婦の違いについて考えてみます。

 どんな夫婦でも円滑で良好な関係(a)がずっと続くわけではなく、夫婦間のすれ違いや葛藤に苦しんだり、問題が起きたりする時期(b)が訪れますが、二人の間の自助作用でそれが修復され(c)、再び関係良好な時期(d)に至るということを瞬間的に繰り返します。

従って、長続きする夫婦というのは、「縮小・背信」期であるbの時期が耐えがたいほど深刻になることはなく、二人の間で自発的にその修復がなされ、その循環を繰り返すごとに、つまり年を経るにつれ、その揺れ幅が穏やかになっていゆくというプロセスがあると言えるでしょう。

 逆に、離婚に至ってしまう夫婦は、「縮小・背信」が耐え難いほど深刻であるか、当初はそれほど深刻なものではなかったとしても、その後の修復が不十分で、それが繰り返されていくたびに、互いへの嫌悪感や不信感が積もり積もってゆき、あるとき限界を超えてしまう、ということになります。

2〇夫婦のコミュニケーションの悪循環

 さて、「縮小・背信」がひどく比較的短期間に深刻な状況に陥ってしまうというのは、何か明確なきっかけがある場合が多いので、まずは、一般的によくある、結婚当初はすれ違いや葛藤に深刻でなかったのに次第に耐え難くなっていった場合を考えてみましょう。

この場合、典型的なのは、夫婦間の日常のやりとりが、どこかで歯車が狂いだして、小さな傷が回復する前に別の傷が生じたり、あるいは、瘡蓋(かさぶた)を無理に剥ぎ取ってしまったとして拗ねてしまい、自力では関係修復が困難になってしまっているケースです。

協議離婚ケースや夫婦カウンセリングに来談するカップルの多くが、この問題を抱えています。以下、この悪環境的な関係のこじれのからくりをさまざまな臨床実践のケースから、探ってみましょう。

(1) 結婚生活への期待と蜜月期

すべてのカップルは結婚を意識する前後から、結婚生活や配偶者に対して、それぞれがさまざまな期待や欲求を抱きます。心理的情緒的安定や経済的に安定、性的欲求の充足、子どもをもちたいという欲求などです。とくに、現代は経済的なニーズは相対的に薄れ、情緒的心理的な「癒し」に対するニーズが強くなっています。

その期待や欲求は、それぞれがはっきりと意識して相手に期待し求めていて分かりやすいレベルのものもあれば、本人が心の内に抱えてはいるものの、恥や不安などでなかなかはっきりとは口にできないレベルのもの、さらには、自分でも気づいていない願望やコンプレックスなどに深くかかわっており、本人にも意識できないレベルの欲求など、さまざまな水準があります。

たとえば、結婚相手に「甘えたい」とか「依存したい」などという欲求は、ほとんどの人がもつ欲求ですが、これを相手に直接求めてゆくには躊躇があり、なかなかはっきりとは口にできなかったり、あるいは本人にも意識さえもできなかったりする欲求の最たるものかもしれません。

とにかく、その後の男女の関わり合いは、当事者に意識されているにせよ、そうではないにせよ、それらの期待や欲求に濃く色づけられることになります。

新婚前後は、互いに相手からの好意をつかんで濃密な関係を築こうとする動因が働きます。つまり、相手にとって魅力的な自分であろうと、そんな自分を提示しようという思いが強くなるのが普通ですから、相手の期待や欲求に沿おうとするコミュニケーションややりとりが多くなります。

たとえば、「男性は仕事、女性は家」という性役割分業観に反対の女性さえも、家事を大切にする女性像を提示する傾向が強くなったりします。総じて、相手と自分の違いなどを意に介すことなく、相手の「あばた」も「えくぼ」に見える、いわゆる「蜜月期」を過ごします。

配偶者選択においては自分が育った原家族の影響を強く受けます。たとえば、原家族で満たされなかった愛情やケアなどを、結婚により埋め合わせようとする期待や欲求が強いカップルはその一例ですが、相手の問題や欠点をことさら見ないようになり、二人だけの閉鎖的な世界へと突き進んでしまうことがあります。

また、それが深刻であるかは別として、自分の何らかの外傷体験の癒し体験の癒しの為に相手を必要としているということもあったりします。たとえば、虐めの被害の体験ゆえ自尊心が深く傷ついたり、社会への怖さを抱いたりする人が、配偶者との関係のみに自分の「居場所」や「安心感」を感じられたりするなどです。

この「蜜月期」の二人の緊密性は、情緒的心理的な絆というニーズを強く満たしてくれますので、その後の長い結婚生活を支える大きな原動力になることは間違いありません。この時期の、互いの性的欲求に基づくエロス的一体感はその最たるものです。互いの、あるいはどちらかのコンプレックスや生理的身体的事情、特定の思想などになり、当初からセックスレスであったり、性的交流が非常に少ない夫婦がときにありますが、これはその後に起こるさまざまな夫婦間の葛藤を乗り切るうえで、当初からハンデを負っていることになります。

また、早い時期にどちらかの婚(約)外性的関係があった場合なども、夫婦のエロス的一体感にヒビが入り、その後複雑な影響を及ぼしますので、同様に大きなハンデです。その他、若年層の「できちゃった婚」、不本意な結婚、そもそも愛情に乏しい結婚なども、「蜜月期」の不充実さから、離婚のリスクは高まります。

極端な例では、結婚式や新婚旅行直後に、一方が実家に引きこもったりするケースもありますが、このような場合、前途はかなり厳しいものです。

(2)親密さのパラドクス

 どんな夫婦においてもこの蜜月期は長くは続かず、次第に互いの素顔や考え方の違いが明らかになってきます。そして、今までは比較的満たされていた欲求や期待が叶わなくなることが増えていきます。それは、二人にとってのストレス体験ですが、加えてそこに家族関係の移行や変化である「家族ライフサイクル」上のストレスが重なっていきます。

たとえば、第一子が生まれた夫婦の七割近くは、結婚生活に不満を覚えるようになるというデータがあります。子どもが産まれると、子育ての負担や生活形態の変化などから、夫婦それぞれの相手への期待や欲求が急激に高まるにもかかわらず、逆に満たされにくい状況にもなります。

したがって、夫婦は互いに協力してゆこうとする姿勢をもちながらも、一方で、相手に頼れなかったり、甘えられなかったりする事態を自分なりに受け止めるという必要性に迫られます。つまり、夫婦は、自分を犠牲にすることなく自分らしさを大切にしたうえで、しかも、相手を自分のいいように変えようとか説得しようなどという過大な要求を抱かずに、互いに相手のありようを認めあえるという「親密性」を築かなくてはならないのです。

これは、「親密さのパラドクス」とも呼ばれ、相矛盾する作業ですから決して簡単なことではなく、夫妻それぞれの「心の成熟性」や「自立性」が試されることになります。

(3)相手に情緒的ケアを期待するタイミングのズレ

 この「親密性」は、なにも結婚後間もない時期や子どもの出生の時期にかぎらず、結婚生活のすべての時期、すべての局面で試されることです。さらに難しいのは、夫婦の片方だけが、このような意味での自立的、相互尊重的な「親密性」を築くことを意識してうまくいくとはかぎらず、逆に、他方がさみしさや見捨てられ感や裏切られ感などを抱いてしまい、関係がむしろ拗れてしまうことがあったりします。

 できるならば、夫婦双方がこの意識を同じ時期にもてればいいのでしょうが、なかなかそうはならないものです。夫婦のおのおのが相手に頼りたい、ケアされたいと思う時期やその程度、逆に相手から自立的に過ごしたいと思う時期やその程度は、一致しないことが普通だからです。

妻が子育てに苦しいときに夫が仕事に専念していたり、夫が元気のないときに妻が大事なキャリアアップのチャンスであったり、親の介護や子どもの問題が起こったときに、他方が別のことでまったく余裕がなくなったりなどと、それぞれが相手からの情緒的ケアを必要とするときと、自分自身のためにエネルギーを使いたいタイミングとがうまく嚙み合わないのです。

人生上、身近な誰かに頼りたい、甘えたいと思うような状況は、幾度となく訪れますが、その想いやSOSが相手から汲み取られなかったり、関心がなかったり、無視されてしまったりすることがしばしばあるのです。

そんなことが何度か繰り返されると、私たちは相手を責めてしまったり、追い込んでしまったり、逆に甘えたい気持ちを抑え込んで、相手をことさらに無視したり、会話が一切なくなったり、まったく相手に頼らなくなったりしがちです。また、その反動として、仕事やボランティアにのめり込むようになったり、子どもと密着して過保護になったり、受験やPTA活動に専心したり、実家の親を味方に引き入れたり、ときには異性関係に走ったりもします。

このような、夫婦二者関係の拗れに対し第三者を巻き込んで心の安定を図ろうとする「三角関係」は、家族関係不全の典型とされています。いずれにしても、そもそも相手に甘えたい、ケアされたいという思いが拗れていった結果であり、またそれに伴う自分の淋しさや苦しみへの対処行動でもあるのですが、当初の思惑とは逆に二人の溝はどんどん深まっていっています。これこそが、多くの離婚ケースで起きているコミュニケーションの悪循環です。

つまり、離婚の危機は、根っから悪気あるとか、もとから性格が合わないというよりも、タイミングの悪さとか、巡り合わせの悪さの拗れであることが多いのです。

(4)コミュニケーションの悪循環から深刻な不和へ

 とくにわが国の夫婦や家族は、情緒的一体感を重視し、自分と相手の個別性や分離が重要なことを認識しないきらいがあります。そして相手との「つながり」や一体感のなかで、甘えを許し合う雰囲気が個の存在に優先していることが特徴です。

そこで、相手に素直に甘えられないときに、拗ねる、僻む、捻くれる、恨むなどの心理になりやすくそれが拗れてしまうと、相手に対する怒りや憤り、人格否定、頑なな意地、恨みなどに繋がりがちです。

 そうなると、それまで見逃がせていた互いの違いへの耐性が低くなり、日常の何でもないやりとりや、相手のやること為すことすべてに、敵意や疑いや嫌悪感を抱くようになってしまい、日常会話はしばしに否定や嫌味やあてこすりや反発が忍び寄ってきます。

たとえば、ちょっとした頼み事を相手から嫌がらせと受け取ったり、会話の聞き逃しを故意の無視と腹を立てたり、仕事上のストレスもすべて配偶者によるストレスと思ってしまったり、しまいには、箸の上げ下ろしの仕方まで気に入らなくなったりなど、枚挙に暇がありません。

当然、相手もそれに反応しますから、嫌味や責め口調の応酬になったり、逆に関係から引きこもろうとしたり、それをまた執拗に追い詰めたりなどと雪だるま式に関係が悪化してゆきます。この点、長年にわたって夫婦関係の研究を行ってきたJ・ガットマンは、わずか五分足らずの問題解決場面の夫婦のコミュニケーションを観察するだけで、九割以上のカップルの将来の離婚を予測できると述べています。

具体的には、相手のある行動に対する不満を相手の人格への中傷に結び付けてしまうような「相手への非難(中傷)」、相手のことを皮肉くってばかにしたり、相手の話をことさら無視したりさげすんだりする「侮辱(無視)」、自分の責任を逃れて言い訳ばかりを繰り返す「自己弁護」、相手と向き合ったり顔を合わせたりすることを避けてしまう「逃避」などのやり取りが顕著に見られ、生理的反応や苛立ちや興奮などのボディーランゲージもその指標になるといいます。

 そのような悪循環コミュニケーションのなかでは、過去の出来事も否定的な記憶に置き換えられ、やむなく結婚したのだとか、これまで相手の親の対応にひどく傷つけられてきたとか、不快な思い出ばかりがクローズアップされてしまいます。

 さらに、かつて自分が本当に困ったとき、まったく助けてもらえなかった、自分ひとりだけで耐えてきたという「恨み」が根雪のように残ります。そして、立場が逆転して相手が苦境に陥ったときに、無視したりやり込めたりしてその恨みを晴らそうとしたりします。

この「自分が苦しんでいるときに相手が助けてくれなかった」という想いは、離婚を決断する決定的理由になることが多いようです。パートナーどちらかの「危機」に対して虚心に助け合える夫婦には、まず離婚はありません。

 時に、夫婦のどちらかから少しは自分が譲ろうとか、相手の言い分を斟酌(しんしゃく)しようなどといった関係改善に向けた試みやサイン(関係修復に向けての働きかけ)が出されることがしばしばあるのですが、これもタイミングが悪いと、逆に自分の正当性を主張したり、やり込めたりする標的にされてしまい、いっそう対立や無力感が深刻になってしまうこともしばしば起こります。このような拗れた関係になってしまうと、もう自助努力による修復はほとんど不可能になります。
 つづく (5)離婚危機からの分かれ道