過去と未来の対立は、新来者の妊娠によって加速される。「子どもの誕生は、両親の死である」。この真実は、この時、その残酷な力を全開する。息子のうちに生き延びようと願っていた母親は、息子から死を宣告されたことを理解する。生命を与えたのは彼女なのに、生命は彼女なしに続いて行くのだ。彼女はもう「母」なるものではない。鎖の一つの環にすぎない。

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九章 Ⅵ 息子の嫁との確執し。実の娘との対立する母親の真理と行動

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 通常も祖母になった女は敵意を克服する。時には赤かんぼうに、あくまでも自分の息子だけの子を見ようとして、専制的に愛することがある。しかし、普通は、若い母やその母親が赤ん坊を取りもどす。父方の祖母は嫉妬し、心配そうな振りの下に恨みを秘めたあいまいな愛情を赤ん坊にたいして抱く。

 息子が否定しても、彼女はそのしるしを見つけ出す。そして今度は、息子が何か不満を言う。嫁を監視し、批判し、嫁の新しいやり方に対して、新入者の存在そのものを断罪する過去や慣習をいちいち対立させる。どの女もそれぞれ、愛する者の幸福を自分に合わせて解釈する。

 妻は夫に、彼を通じて彼女が世界を支配できるようなおとこであってほしいと願う。母親は息子を引き止めておきたいがために、彼を幼時に連れ戻そうとする。夫が金持ちなったり、偉くなるのを待っている若妻の計画に、母親は息子の不変の本質という法則を対立させる。彼はひ弱であり、過労にならないようにしなければならない、といのだ。

過去と未来の対立は、新来者の妊娠によって加速される。「子どもの誕生は、両親の死である」。この真実は、この時、その残酷な力を全開する。息子のうちに生き延びようと願っていた母親は、息子から死を宣告されたことを理解する。生命を与えたのは彼女なのに、生命は彼女なしに続いて行くのだ。彼女はもう「母」なるものではない。鎖の一つの環にすぎない。

彼女は永遠不変の偶像の天空から墜落する。彼女はもう、有限で時代遅れ一個人にすぎない。
症例を見ると、憎悪が高じて神経症になったり、犯罪を犯したりするのはこうした時である。
ルフェーヴル夫人が、長いあいだ嫌っていた嫁を殺す決心をしたのも、嫁の妊娠が告知されたときであった(*2)

 通常も祖母になった女は敵意を克服する。時には赤かんぼうに、あくまでも自分の息子だけの子を見ようとして、専制的に愛することがある。しかし、普通は、若い母やその母親が赤ん坊を取りもどす。父方の祖母は嫉妬し、心配そうな振りの下に恨みを秘めたあいまいな愛情を赤ん坊にたいして抱く。

 長女に対する母親の態度は、非常に両面的である。というのも、息子には神を求めるが、娘には分身を見るからである。「分身」と曖昧な人物であり、ポー[十九世紀アメリカの作家]の短編小説や、『ドリアン・グレーの肖像』[十九世紀イギリスの作家ワイルドの小説]の物語などにあるように、その原型をなす人物を殺してしまう。

 こうして、娘は大人になるにつれて、母親に死を宣告する。しかし一方で、娘は母親が生き延びることを可能にもする。母親の態度は、子供の成長のうちに破滅の約束を見るか、再生の約束を見るかによって非常に違ってくる。

 多くの母親は敵意のために硬化する。彼女は自分が生命を与えた恩知らずな女に取って代わられることに承知できない。何度も強調しておいたように、色っぽい女ほどみずみずしい思春期の少女に嫉妬する。自分のわざとらしい技巧がばれるからである。女はみんなライバルだと思って嫌がって来た女は、自分の娘までもライバルとして憎むことになるだろう。

 彼女は娘を遠ざけたり、軟禁したり、チャンスを奪う工夫を巡らしたりもする。同様に、模範的な比類のない「妻」であり「母」であることを誇りにしていた女も、自分の地位を奪われることを頑として拒否する。彼女は、娘がまだ子どもにすぎないと言い張り、娘の企てを幼稚な遊びに過ぎないと考える。

 娘は結婚するには若すぎるし、子どもを産むにはひ弱すぎる。娘が夫や、家庭、子どもを持ちたいと頑張っても、それは本心からではないということになる。飽きもせず、娘を批判し、からかい、不幸を予言するのだ。もしできるものなら、娘を永遠に幼児のままにしておきたい。それが出来ないとなると、娘がその資格もないのに主張している大人の生活をダメにしようとする。

 すでに述べたように、しばしば彼女は成功する。この不吉な影響のせいで、多くの若い女が妊娠しなかったり、流産したりする。子どもが生まれても、授乳したり、育てたり、家政を管理したりできないのだ。そうした娘たちには結婚生活の能力がないことになる。

 不幸になり、独りぽっちになり、彼女たちは母親という支配者の腕の中に避難所を見出す。娘たちが抵抗する場合は、永遠の争いが母娘を対立させるだろう。裏切られた母親は、娘の生意気な独立によって引き起こされる怒りをたいてい婿の方に向ける。

 自分の娘と同化することに夢中の母親も、暴君であることには変わりはない。彼女の望みは、成熟した経験持って、再び青春をやり直すことである。こうして彼女は、自分の過去から逃れることで、過去を救おうとするのである。彼女は自分にはもてなかった理想の夫像に一致する婿を選ぶだろう。色っぽっく、愛情豊かな母親は、ともすれば心のどこか秘密の場所でその婿が結婚するのは自分の方なのだと想像する。彼女は、娘をとおして、富や成功や名誉といった昔の自分の願望を満足させるだろう。

 自分の娘を色恋や、映画、演劇の道へと熱心に「後押しする」女がいるこれはこれまでにもしばしば描かれてきた。そういう女は、娘たちを監視するという口実で、娘の人生を横取りする。そのあげく、娘に言い寄る男たちを自分のベッドに引き入れる女の話を聞いたこともある。

 けれども、娘が母親のこうした保護をいつまでも我慢している例は稀である。夫や誠実なパトロンを見つけた日から、娘は反抗する。最初は娘の夫を大切にしていた母親が、このときから彼を憎むようになる。彼女は人間の忘恩を嘆き、犠牲者の振りをする。

 今度は彼女が敵役になる番である。こうした失望を味わうのを予感して、子どもたちが大人になってくると、無関心を装って身構える女も多い。しかし、そうすると彼女は子どもからほとんど喜びを得ることが出来ない。

 母親が子どもたちに対して横暴な支配者にならず、また子どもたちに虐待されることもなく、彼らの人生から自分を豊かにしてくれるものを見出すためには、稀なことだが、寛大さと無頓着さを兼ね備えていなければならない。

 祖母の孫への感情は娘に対する感情の延長である。娘への敵意を孫に向けることも多い。多くの女が、誘惑されて身籠った娘に、無理に中絶させたり、子どもを諦めさせたり、闇に葬らせたりするのは、単に世間体のためばかりではない。彼女たちは娘に母親になることを禁じるのが嬉しいのである。彼女たちは特権を自分だけのものにしておきたいと懸命になる。

 正式に結婚して母親になった娘にも、ともすれば子どもを流すようにとか、母乳をやらないようにとか、子どもを手放すようにとか忠告する。自分自身もこの小さな闖入者を無関心な態度で黙殺するだろう。そうでなければ、絶えず子どもを𠮟りつけ、罰し、さらには虐待するだろう。

 逆に娘と自分と一体化している母親は、娘よりも熱心に子どもを迎い入れることが多い。娘の方は小さな未知の存在の出現に当惑するが、祖母はそうした存在に見覚えがある。時間を超えて二十年さかのぼり、出産した若い頃の自分に戻るのだ。

 もうずいぶん前から自分の子どもには期待できなくなっていた所有と支配の喜びのすべてが彼女に戻って来る。閉経時にあきらめた母親になることという欲望が奇跡的に充足される。自分こそがほんとうの母親だ。彼女は権威をもって赤ん坊の世話を引き受け、子どもを任せてもらえた場合には、夢中になって子育てに献身するだろう。

 だが彼女にとって不幸なことに、若い母親も自分の権利にしがみつく、祖母には、かつて彼女のそばで年長の女たちがしていたような補助的な役割しか許してもらえない。彼女は地位を奪われたような気がする。それに、娘の夫の母親のことも考慮に入れなければならない。

 当然、彼女は嫉妬を感じる。悔しさの余り、初めに孫に対して抱いていた自然な愛情が損なわれることも多い。祖母によく見かけられる不安は、彼女の感情の二面性を表している。赤ん坊が彼女のものであるかぎりはとても可愛がるが、赤ん坊はまた彼女とって小さな他人でもあり、この他人に対しては敵意を感じる。

 この反感を恥じる気持ちもある。だが、祖母たちは孫を完全に所有することはあきらめても、暖かい愛情をいだいているかぎり、彼らの生活において守護神としての特権的な役割を演じることができる。権利もない代わり責任もないので、純粋に寛大な愛情をそそぐ。孫を通してナルシスト的な夢を見ることもない。

 孫に何かを要求したり、自分がその頃にはいないはずの未来のために孫を犠牲にしたりもしない。彼女にとって大切なものは、現在、偶然に、気まぐれにそこにいる肉と骨をそえた小さな存在なのである。彼女は孫の教育者ではないし、抽象的な正義や法を具現することもない。そこから、時に祖母と親を対立させる争いが生じるのである。

 女が子どもを持たなかったり、子孫に関心を示さない場合もある。子どもや孫との自然的な繋がりがないかわりに、それに似た関係を人為的に作り出そうとする場合もある。若者に対して母親のような愛情を示すのである。そうした愛情がプラトニックなものにとどまるか否かはともかく、彼女が自分のお気に入りの若者を「息子かはともかく、彼女が自分のお気に入りの若者を「息子のように」愛していると言うとき、それを単に偽善だとは言えない。

 母親の感情が恋愛的なのである。ヴァラン夫人のような女たちは、若い男を寛大に、物心ともに援助し、育てるのが嬉しいのだ。彼女たちは自分を乗り越えていく存在の源、必要条件、基盤でありたいと思う。彼女たちは母親の役を引き受け、自分が愛するの若者のうちに、愛人としてよりも母親としての自分を見出そうとするのだ。

 母性的な女は娘の代わりになる存在を求めることも多い。この場合もまた、彼女たちの関係は程度の差はあれ性的なかたちをおびている。しかし、その関係が精神的なものであれ肉体的なものであれ、彼女たちが自分のお気に入りの娘のうちに求めているのは、奇跡的に若返った自分自身なのだ。

 彼女たちが女優や、舞踊家、声楽家の場合、教育者になって、生徒たちを養成する。教養のある女性の場合は――コロンビエの静かな生活のシャリエール夫人のように――心酔者たちに自分の考えを教え込む。信心深い女性は、宗教的な娘たちを周りに集めるし、娼婦の場合は、娼家の主人になる。後輩の育成にこれほどの情熱を示すのは、けっして純粋な好意からだけではない。

 彼女たちは娘たちを通してもう一度生まれ変わりたいと熱烈に求めているのだ。彼女たちの暴君的な寛大さは、血のつながりのある母と娘のあいだに生じるのとほとんど同じ争いを生じさせる。同様に、孫の代わりになる存在を求めることもありうる。大叔母や代母[赤子の洗礼のときに立ち会う、霊的な母]は、祖母と同じような役割を喜んで引き受ける。

 しかし、いずれにしても、女が子孫のなかに――それが自然的な子孫にしろ、選んだ子孫にしろ――下り坂の自分の人生を正当化するものを見出だすことはほとんどない。若者の企てを自分のものにするのはたいてい失敗に終わるからである。そうした企てをあくまでも自分のものしようと頑張っても、闘争と悲劇のうちに消耗し、結局は失望し打ちのめされることになるか、あきらめて、控えめな協力をすることにとどまるかである。

 後者の方が一般的である。年を取った母親祖母は、支配したい気持ちを抑え、恨みを惜し隠して、子どもたちが与えてくれるものだけで満足する。しかし、その場合、子どもたちからたいした助力は期待できない。砂漠のような未来を前にして、彼女たちは孤独と後悔と退屈にとりつかれたままどうしようもないのである。

 ここで私たちは、年老いた女の嘆かわしい悲劇に直面する。彼女は自分が無用であることを知っているのだ。ブルジョア階級の女はしばしば、生涯を通して、どうやって時間をつぶすか、というばかげた問題を解決しなければならない。しかし、子どもが大きくなり、夫が出世し。少なくとも安定した地位につくと、毎日はますます死ぬほど退屈になる。

 「婦人の手芸」は、こうした恐ろしい無為を誤魔化すために発明された。両手は刺繡をしたり、編み物をしたり、動いているが、本当の仕事とは言えない。なぜなら、作られた品物に目的がないからだ。その品物にはほとんど重要性がなく、何に使うのかしばしば頭痛の種になる。友だちや慈善団体にプレゼントして厄介払いしたり、暖炉やテーブルを占領したりする。

 それはまた、その無償性に実存の純粋な喜びを見出すといった遊びでもない。精神は空っぽのままであるから、せいぜい言い訳に過ぎないと言ったところである。それはパスカルが述べている通りの、愚かな気晴らしなのだ。縫い針や編み針で、女は悲しくも日々の虚無を綴るのである。水彩画、音楽、読書も、まったく同じ役割しか果たさない。手持ち無沙汰な女は、そうしたことに熱中して世界に対する手がかりを拡大しようと努めるかわりに、ただ退屈しのぎをしているにすぎない。

 未来を切り開かない活動は、ふたたび内在の虚しさに陥る。有閑マダムは、本を読み始めては投げ出し、ピアノの蓋を開いては閉じる、また刺繡にもどり、あくびをし、受話器を持ちあげる。実際、彼女がいちばん救いを求めるのは、社交生活である。外出したり、訪問したり――ダロウェイ夫人のように――お客を招くことに非常な重要性を与える。

 結婚式や葬式には必ず参列する。もはや自分自身の生活はないので、他人の存在を糧にして生きる。小粋だった女がただのお喋り小母さんになり、まわりを観察しては意見を言う。批評や忠告をまわりにふりまいて、自分では何もしない埋め合わせをするのだ。誰も頼みもしないのに、自分の経験を役立たせようとする。

 もしも資力があれば、サロンを開こうとする。そうすることで、他人の企てや成功を自分のものにしようとするのである。デュ・デファン夫人[一六九七-一七八〇、フランスで文芸サロンを主宰、百科全書派など有名な文士を集める]やヴェルデュラン夫人[ブルースイの『失われた時を求めて』作中人物]が、自分の元に集まる人々をどんなに独裁的に支配したかは知られている。人の集まる中心地、十字路、扇動者になること、一つの「雰囲気」を創り出すこと、これはいでに行動の代用品である。

 他にも、世界の動きに働きかけるもっとも直接的な方法がある。フランスにもいくつか「慈善団体」や「協会」があるが、アメリカにはとくに、女たちがクラブに集まって、そこでブリッジをしたり、文学賞を授与したり、社会の改良のために考えたりする。ヨーロッパでもアメリカでも、こうした組織の殆どを特徴づけているのは、組織そのものがその存在理由になっていることである。

 組織が追及していると称する目的は、ただの口実にすぎないのだ。事態はまったくカフカの寓話(*3)と同じように進行する。そこまでは誰もバベルの塔を建設するつもりはない。その空想の建設地のまわりには巨大な集落が建設され、その統治や拡大、内部対立の清算のために力が使い尽くされる。

 こうして、慈善団体の上流夫人たちも時間の大部分を組織することに費やすのである。執行部の選出、会則についての議論、仲間どうしの口論、他の競合する協会との勢力争いといった具合である。自分たちの貧乏人、自分たちの病人、自分たちの負傷者、自分たちの孤児を奪われてはならない。

 彼女たちは、彼らを隣の教会に譲るくらいなら、死んでいくままにした方がましだと思う。不正や悪弊がなくなり、彼女たちの献身が無用になるような政体はけっして望まない。

 彼女たちは戦争や飢餓をも祝福する。そうしたものは彼女たちの目には、防寒帽や小包は兵士や飢えた人のためにあるのではなく、兵士や飢えた人の方が、編み物や包みを受け取るためにとくに作られたものと見えるのである。

 とはいうものの、こうした団体のいくつかは積極的な成果をあげている。アメリカ合衆国では、尊敬すべき「マム」の影響力は絶大である。この影響力は彼女たちが送っている寄生的な生活から生まれる余暇によるものであり、この影響力が悪い結果をもたらすのもそのためである。

 フィリップ・ウィリーは、アメリカのマムについてこう語っている。「彼女たちは、医学、芸術、科学、宗教、健康、衛生・・・・といったものについて何も知らず、こうした無数に存在する組織のメンバーとして自分が何をしているかに関心を示すことはほとんどない。それが何かをしているかに関心を示すことはほとんどない。それが何かでありさえすれば十分なのである」。

 彼女たちの努力は、一貫した建設的な計画に組み込まれておらず、客観的な目的をめざしていない。それは彼女たちの趣味や偏見を高圧的に押しつけ、自分たちの利益を守ることだけを目指している。たとえば文化的な領域で、彼女たちが、重要な役割を演じている。最も多く本を買うのは彼女たちが、彼女たちはその本を根気仕事でもするように読むのである。

 文学は、投企(プロジェ)に身を投じている個人に働きかけ、そうした個人がより広い地平に向かって自分を乗り越えていくのを助けるとき、その意味と威厳をおびるのであり、文学は人間の超越の運動と一体化しなければならない。ところが女は、内在にとどまり、書物や芸術作品をまる呑みして、その値打ちを台無しにしてしまう。

 絵画はただの装飾品に、音楽はメロディーの繰り返しに、小説は鉤針(かぎばり)編みの背もたれカバーと同じ空虚夢想になる。ベストセラーの堕落の責任はアメリカ女性である。そうした本は単に気に入られようとするだけでなく、現実逃避の病にかかった有閑マダムの気に入られようとするからである。彼女たちの活動について、フィリップ・ウィリーは次のように断定している。

 有閑マダムたちは政治家たちを震え上がらせ、卑屈に泣きごとをならべるところまで追いやる。そしてまた、牧師たちを恐怖に陥れる。銀行の頭取を当惑させ、学校長をやり込める。マムたちは次々と組織を増やすが、その本当の目的は、身近な人達を彼女たちの利己的な欲望に卑屈に従わせることである・・・・彼女たちは町から、できれば州からも、若い売春婦たちを追放する・・・・

彼女たちは、バスの路線が労働者のためよりも自分たちに便利なもの成るように手を回す・・・・慈善のための派手な催物やパーティーをしては、翌日の朝、その実行委員たちの二日酔いを介抱するためにビールを買ってくるように収益金を門番に手渡すのである。・・・・女たちのクラブは、マムたちが他人の問題に首を突っ込むための数え切れない機会を提供している。

 この攻撃的な風刺には多くの真実が含まれている。政治にしろ、経済にしろ、どんな分野でも専門家ではない老婦人たちは、社会に働きかける具体的な手がかりをもっていない。彼女たちは行動を引き起こす問題を知らないし、建設的な計画を企てる力もない。彼女たちの道徳はカントの至上命令と同様に抽象的かつ形式的である。

 前進のために道を探る代わりに、してはいけないという禁止ばかり口にして、新しい状況を積極的に創り出す努力をしない、悪を撲滅するために、現にあるものを攻撃するだけなのだ。彼女たちがいつも何かに反対するために結束する理由はここにある。アルコール反対、売春反対、ポルノ反対、という訳である。

 アメリカにおける禁酒法の失敗や、フランスではマルト・リシャールが通過させた法律の失敗が証明しているように、単に反対するための努力は不成功に終わる事がわかっていない。女が寄生的な存在であるかぎり、より良い世界の建設に有効に参加することはできない。

 しはいえ、何かの企てすべてを注ぎ込み、ほんとうに行動的な女になる場合もある。そいう女たちは単に時間潰しに働くのではなく、めざす目的をもっている。自主的な生産者となり、ここで考察してきたような寄生的な人種からは脱出する。しかしこうした転換は稀である。

大半の女たちは、私的な活動にしろ公的な活動にしろ、到達するべき結果を目指しておらず。時間潰しの手段を求めているだけである。どんな仕事も趣味の域を出ないかぎり空虚であり、女たちの多くがそのために苦しんでいる。彼女たちはすでに終了した人生を前にして、まだ人生の始まっていない思春期の若者と同じ戸惑いを感じるのである。

彼らは何も関心を持てず、まわりは砂漠のように空虚である。何をするにしても、「こんなことをして何になるんだ」とつぶやく。だが、思春期の若者場合は好むと好まざるとにかかわらず、男としての生活にひきこまれ、それが責任や、目的、価値を明らかにしてくれる。彼は世界のなかに投げ込まれ、取るべき態度を決める、世界に係わっていく。

老いた女はたとえ未来にむけて新たに再出発するように勧められても、「もう遅すぎます」と悲しく答えるしかない。しかしそれは、これから先、時間が限られているからではない。女は引退するのが早すぎるくらいなのだから。そうではなくて、彼女は情熱、信頼、希望、怒りといったものが欠けていて、自分のまわりに新しい目的を発見することができないのだ。

彼女はずっとその運命であった惰性のなかに逃避する。反復を一つの体系にして、偏執的に家事に没頭したり、信仰にますます深くのめり込んで、シャリエール夫人のように頑なに禁欲主義のなかに閉じこもる。干からびて、冷淡で、利己的になる。

ふつう老年の女が平穏さを見出すのは、人生も終わりになって、闘う事をあきらめ、死の接近が未来に対する苦悩を取り去ってくれるときである。夫はたいてい彼女より年上なので、彼女は夫の衰えを口には出さない喜びで見守る。それは彼女の復讐である。夫が先に死ぬと、彼女は快活に喪に服す。年を取ってから伴侶に先立たれた場合、男の方が余計にうちひしがれるということは、たびたび指摘されてきた。

それは夫の方が妻よりも結婚生活から利益を受けているから、とくに晩年にはそうだからである。その頃には、世界は家庭の範囲内に集中し、現在の日々はもはや未来に向かって溢れ出ることはないからである。日常の単調なリズムを保ち、日常を支配するのは妻の方だ。

男は公的な職務を失うと、まったく役に立たないが、妻は少なくとも家庭の指揮権を握っている。妻は夫にとって必要であるが、夫の方は単なる邪魔者にすぎない。妻は自分たちの自主性から誇りを引き出す。やっと自分の目で世界を見るようになり、一生ずっと騙され、誤魔化されてきたことに気づくのである。

とくに、「経験のある」女にはどん男にももてないような男についての知識がある。というのも、女は男の公的な顔だけでなく、男が同僚のいないところでうっかり見せる日常茶飯の顔もみているからである。女は又、女同士でしか見せない自然な女の姿を知っている。舞台裏をしっているのだ。

しかし、経験によって嘘や誤魔化しは見破られても、そうした経験だけでは真実を発見することはできない。老年の女の知恵は、興味をひくこともあれ辛辣なものであれ、いずれにしても消極的なものである。それは異議であり、非難であり、拒否であり、従って不毛である。

思考においても行動においても、寄生的な女に得られる最高度の自由は、禁欲的な挑戦か、懐疑的な皮肉である。女は一生どの時期においても、役に立つと同時に自立していることはできないのである。
つづく 第十章 女の状況と性格
キーワード、女の条件、女の経済的、社会的、歴史的な条件づけ、従属者、真実の感覚、偶像、奴隷制度擁護論者、フェミニズム運動、