娘の助けを当てにするか息子の助けを当てにするかで、彼女の態度は違っている。女が普通、最も熱心な希望を託すのは息子の方である。かつて彼女が地平線のかなたに、その男のすばらしい出現をいまかいまかと待ちわびていた男、その男が過去の奥底からついに彼女の元にやってくる。赤ん坊の産声を聞いた時から、彼女は夫が与えてくれなかった宝物をこの子が惜しみなく与えてくれる日のくるのを待っていたのだ。

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九章 X 息子の中に恋人を見るとき

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

息子と母親の関係にはふつう、いわゆるエロチシズムはほとんど見られない。しかし、やはりそれは男女関係である。彼女は女としての深いところで、息子のうちに支配的な男を見て尊敬する。彼女は恋する女と同じ情熱で、息子の手に我が身を委ねる。

年を取ってから子どもを産む機会に恵まれた女は、自分が幸運だと思う。というのも、他の女が祖母になる時期に彼女はまだ若い母親でいられるからだ。けれども、一般には四十歳と五十歳のあいだで、母親が子どもが大人に変わっていくのを見る。子どもが彼女から逃れていく時期になって、彼女の方は子どもとおして生き延びようと必死になるのである。

娘の助けを当てにするか息子の助けを当てにするかで、彼女の態度は違っている。女が普通、最も熱心な希望を託すのは息子の方である。かつて彼女が地平線のかなたに、その男のすばらしい出現をいまかいまかと待ちわびていた男、その男が過去の奥底からついに彼女の元にやってくる。赤ん坊の産声を聞いた時から、彼女は夫が与えてくれなかった宝物をこの子が惜しみなく与えてくれる日のくるのを待っていたのだ。

その間には、ぶったり、下剤をかけたりしたけれど、そんなことはもう忘れてしまった。彼女のお腹のなかにいたときから、この子はすでに世界と女の運命を支配する半神の一人だったのだ。いまこそ、この子は彼女を母親としての栄光において認めてくれるだろう。彼女を夫の優位からまもり、彼女の恋人だった男、あるいは恋人にできなかった男たちに復讐してくれるだろう。

 彼は彼女の解放者、救い主になるだろう。彼女は息子を前にしてまるで、《すてきな王子さま》を待ちわびている若い娘になったように、気をひき、気取ってみせる。彼女の優雅でまだ魅力的な姿で息子と並んで散歩しながら、彼の「お姉さん」に見えるだろうと思う。もし息子が――アメリカ映画の主人公の真似をして――母親をからかったり、敬意は保ちながらふざけて叱りつけたりすると、嬉しくてうっとりしてしまう。

 自分のお腹を痛めた子どもの男としての優位を卑屈な誇りをもって認めるのだ。こうした感情をどの程度まで近親相姦と言えるだろうか。彼女の息子の腕に寄りかかっている自分を想像して楽しむとき、「お姉さん」という言葉がいかがわしい幻想を慎ましやかに表現していることは確かである。

 彼女が眠っているとき、自分を監視していないとき、時には空想が度を越すこともある。けれども、前に言ったように、空想や幻想がいつも現実の行為への隠れた欲望を表しているとはかぎらない。たいていのは場合、空想や幻想をいだくだけで十分なのであり、欲望は成就される。

 こうした欲望は想像上の満足しか求めていないのだ。母親が冗談に、いずれにしろ漠然と息子の中に恋人を見るとき、それはまさしく冗談なのである。息子と母親の関係にはふつう、いわゆるエロチシズムはほとんど見られない。しかし、やはりそれは男女関係である。彼女は女としての深いところで、息子のうちに支配的な男を見て尊敬する。彼女は恋する女と同じ情熱で、息子の手に我が身を委ねる。

 そして、この贈り物と引き換えに、神の右の座[選ばれた人々の座]にまで高められることを期待する。恋する女はみの昇天を達成するために恋人の自由意思を訴える。彼女は上手く行かない危険も潔く受け入れる。そのかわり、いろいろと気をもんで要求する。母親は、子ども産んだというだけで、神聖な権利を獲得したものと思っている。息子が彼女のなかに自分の姿を認めるのを待たずに、彼女は自分の創造物、自分の財産と見なす。彼女は恋する女ほど要求しない。

 なぜなら、彼女は安心て自己欺瞞に浸っているからだ。彼女は一個の肉体をつくったことで、一個の存在を自分のものにする。息子の行為、作品、才能を自分のものにするのだ。自分の作った果物を称賛することで、我が身を雲の高みにまで持ち上げるのである。

 代理人によって生きるのは、かりそめの方策にすぎない。事が望み通りに運ばない可能性もある。息子がただの役立たずや、ごろつき、落ちこぼれ、期待外れ、恩知らずにすぎない場合も多いのだ。母親は息子に対して、こんな英雄になってほしいという自分の考えをもっている。

 自分の子供の人格を尊重し、失敗も含めて子どもの自由を認め、あらゆる世界への参加につきものの危険を子どもとともに引き受ける、そういった母親ほど珍しいものはない。よく出会うのは、自分の息子を喜んで名誉の死に追いやり、過大な称賛を受けているあのスパルタの母たちの母親たちである。

 息子と地上でしなければならないのは、母親が尊重する価値を彼にも共通の利益として手に入れ、母親の存在を正当化することである。母親は、神である我が子の計画が自分の理想と一致し、それが確実に成功することを要求する。どんな女も英雄や天才を産みたいと思う。しかし、英雄や天才の母親はみな、最初は、子どもに胸の潰れるような思いをさせられたと喚き立てる。

 というのも、母親が我がもの顔に夢見る勝利の品を、男はたいていの場合、母親に逆らって手に入れるからである。息子がそれを足下に投げつけてきても、母親はそうと見分けもつかないのだ。たとえ原則的には息子の企てに賛成していても、母親は恋する女を苦しめるのと同じ矛盾に引き裂かれる。

 男は自分の生命に――そして母親の生命に――意味を与えるためには、目的に向かって生命を超越(「意味」)しなければならない。目的に到着するために健康を犠牲ににし、危険を冒さざるをえない。だが彼は、ただ生きているという事実を超えたところに目的を設定するとき、母親が彼に贈ったものの価値に疑問を抱く。母親はそれに憤慨する。

 彼女が産みだしたこの肉体が男によって最高の富でないとしたら、彼女は支配者として彼に君臨できなくなってしまう。彼には彼女が苦しみながら完成したこの作品を破壊する権利はない。「疲れるよ。病気になるよ。困る事になるよ」と彼女は何度も彼に言う。しかし彼女にも、生きているだけでは十分でないのはわかっている。

 そうでなければ、産んでも無駄になるだろう。自分の子どもが怠け者や卑怯者であるとき、いちばん腹を立てるのは母親なのだ。彼女には心の休まるときがない。息子が戦場に赴くとき、彼女は彼が生きて、だが、勲章を持って帰ってほしいと願う。仕事においても「出世」してほしいが、過労にならないかとびくびくする。息子が何をしても、母親はいつも心配して、息子のものであり彼女の思うようにはできない物語の展開を、手をこまねいて眺めている。

 彼女は息子が道を間違えないか、成功しなのではないか、成功するにはしても病気になりはしないか、と恐れる。たとえ母親が息子を信頼していても、年齢や性の違いは彼らのあいだに真の協力関係を樹立しない。彼女は息子の仕事のことは知らないし、協力を求められることもない。

 母親はとてつもなく思い上がって息子を自慢していなが、いつも満たされないのはこのためである。彼女は過去にまで目をやり、単に一つの肉体を生み出しただけでなく絶対に不可欠な存在を築いたのだと思う事で自分が正当化されたち感じる。しかし、それだけでは現在は満たされない。日々の生活を満たすためには、役に立つ活動を続けなればならない。

 彼女は自分の神にとって自分がなくてはならないものだと感じたがるが、献身というまやかしは、この場合、あまりにも残酷に暴かれる。というのも、やがて嫁が彼女の役目を奪ってしまうだろうから。息子を「奪う」よその女に対して母親が感じる敵意については、これまでもしばしば述べた。

 母親は出産という偶然的事実性を神聖な神秘にまで高めた。彼女は人間の決定の方が重みを持つことを認めるのを拒否する。彼女の目には、価値は既成のものであって、自然や過去に由来するのだ。彼女は自由な世界への参加の価値を認めない。息子の生命は彼女のお蔭であり、昨日まで知りもしなかったあの女が彼にとって何だというのか。

 これまで存在していなかった繋がりが存在するのかのようにあの女が彼に思いこませたのは、何か魔法の力によるのだ。あの女は蔭で策を弄する、打算的で、危険な女だ。母親は欺瞞が暴かれるのをいらいらしながら待つ。苦痛を和らげる手を持ち、性悪女から受けた傷の手当をしてやる昔話の母親に励まされて、彼女は息子の顔に不幸のしるしが現れるのを待ち構える。
つづく 九章 Y 息子の嫁との確執し。実の娘との対立する母親の真理と行動
キーワード、思春期の少女に嫉妬、嫉妬、母性的な女、無償性に実存の純粋な喜びを見出す、有閑マダム、偏執的に家事に没頭、