閉経期に出会う困難は、女に老いる決心がつかないうちは長引くだろう――時には、死ぬまで続くこともある。女としての魅力以外に何も取柄がない場合、女はそれを守るために必死に闘うだろう。依然として性欲が旺盛な女の場合も、夢中になって闘うだろう。そういう場合は少なくない。

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九章 U 女の病的嫉妬

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

閉経期を迎える女は、夫に対する病的な嫉妬を育む。夫の友人や、姉妹、職業に嫉妬する。的を射ていようがいまいが、自分のあらゆる不幸の責任を恋敵のせいにする。病的な嫉妬の症例が最も多いのは五十歳から五十五歳のあいだである。

人生を共にしている同じ年頃の姉妹や友人がいると、一緒になって被害妄想をでっちあげることもある。しかし、とりわけ彼女は夫に対する病的な嫉妬を育む。夫の友人や、姉妹、職業に嫉妬する。的を射ていようがいまいが、自分のあらゆる不幸の責任を恋敵のせいにする。病的な嫉妬の症例が最も多いのは五十歳から五十五歳のあいだである。

閉経期に出会う困難は、女に老いる決心がつかないうちは長引くだろう――時には、死ぬまで続くこともある。女としての魅力以外に何も取柄がない場合、女はそれを守るために必死に闘うだろう。依然として性欲が旺盛な女の場合も、夢中になって闘うだろう。そういう場合は少なくない。

メッテルニヒ夫人[十九世紀オーストリアの宰相メッテルニヒの妻]は、女は何歳で肉欲に苦しめられなくなるのかという質問に「わからないわ。私はまだ六十五歳ですもの」と答えた。モンテーニュによれば、結婚は女にとって「ちょっとした熱さまし」しかもたらさず年齢を重ねるにつれてますます不十分な方策にすぎなくなる。

若い頃は身持ちが固くて、冷淡だったのを、熟年になって埋め合わせようとする女も多い。彼女がやっと性欲の情熱を知り始める頃には、夫はもうずっと前から彼女の無関心さに諦めをつけて、他で用を足している。時の経過と馴れのせいで妻の魅力はすっかり色褪せ、夫婦の愛の炎をかき立てる可能性はほとんど残っていない。

悔しがり、「自分の人生を生きる」決心をした女は、これまでのように遠慮せずに――それまで遠慮していたとして――恋人をつかまえる。しかし、それも恋人が捕まってくれれば、の話である。まるで男狩りだ。彼女はあらゆる手管を弄する、身を任せるようにみせて、おしつける。礼儀、友情、感謝にかこつけて、罠をはる。

彼女が若い男を狙うのは、みずみずしい肉体への好みだけではない。彼らだけが、思春期の少年がときに母親のような恋人に対して感じる損得ぬきの愛情を期待させてくれるからなのだ。彼女も方も攻撃的、支配的になっている。レア[コレットの連作小説の作中人物]を満たすのはシエリ[同上]の美貌と同様、シェリの従順さなのだ。

スタール夫人は四十歳を過ぎてからは、彼女の威光に頭の上がらない若い男を召使いに選んだ。それに、内気でうぶな男の方が捕まえやすい。誘惑や手管にまったく効き目がなくなっても、まだ悟られない女に残された手段は一つ、すなわち金で買うことである。中世の「小刀」の民間説話が語っているのは、こうした飽くことを知らない人喰い鬼のような女の運命である。

ある若い女が自分の与えた愛の印への返礼として、その都度相手の男たちに「小刀」を要求し、それを戸棚のなかにしまっておいた。ついに戸棚がいっぱいになる日がきた。ところが、その時から、愛の一夜を過ごすごとに今度は男たちの方が「小刀」を要求し始めた。戸棚はあっという間に空っぽになってしまった。小刀は全部返してしまい、別のものを買い足さなければならなくなった、というのだ

ある女たちは悪びれることなくこうした状況を直視する。自分たちの時代は過ぎたのだ。今度は彼女たちが「小刀を返す」番なのだ。お金は彼女たちにとって、娼婦の場合と逆の役を果たしているように見える。しかし、どちらの場合も、清めの役を果たしていることに変わりはない。お金は男の一個の道具にし、若い頃は傲慢に拒否していた性的な自由を女に与える。

だか、明晰であるよりもロマン・チックな女パトロンは、ともすると愛情、称賛、尊敬の幻想まで買おうとする。彼女は、与える喜びのために与えているので、相手から何も要求されるわけはないと思い込んでいる。ここでもまた若い男は格好の恋人である。なぜなら、若い男なら母親的に気前のよさを自慢できるからだ。

そしてまた、若い男にはわずかにしろ、男が自分の「援助している」女に求めるあの「神秘」が備わっている。というのも、それによって、取引の露骨さが偽装されて謎めくからである。けれども、欺瞞がいつまでも味方してくれることは滅多にない。

男女の闘いは搾取者と非搾取者の決闘に変わり、女は裏切られ、笑いものにされ、残酷な敗北を喫する危険にさらされる。用心深い女は、たとえまだ情熱の火が消え残っていても、さっさとあきらめて「武装を解く」。

女が年を取ることに同意すると、状況は一変する。それまではまだ若いつもりで、自分を醜くし変形する不可解な病いと闘うことに夢中だった。いまや彼女は別の存在、性は失ったが完成した存在、老年の女になる。これで更年期の危機は清算されたと考えられ。しかし、だからといって今後彼女にとって生きることが容易になると結論してはならないだろう。彼女の時間の宿命に対して闘うのを放棄したとき、もう一つの闘いが始まる。彼女は地上に自分の場所を確保しなければならないのだ。

秋になり、冬になり、やっと女は繋がれていた鎖から自由になる。年齢を口実にして、自分に重くのしかかる苦役を免がれる。夫のことはよく知っているから、いまさら怖くない。彼女は夫の抱擁から逃げ出す。彼のかたわらに――友情、無関心、あるいは敵意のうちに――自分の生活を整える。夫の方が先に衰えた場合は、妻が主導権を握る。

彼女はまた、あえて流行や世論を無視する。社交上の義務や、ダイエット、身だしなみからも逃れる。たとえば、シェリが再会したときのレアもそうだった。仕立て屋からも、コルセット屋からも、美容院からも解放されて、満足しきって美食に浸っているのだ。子どもたちはといえば、もう大きくなり、母親が居なくても平気である。結婚し、家から離れていく。

義務から解放された女はやっと自由を見つける。不幸なのは、女の歴史を検討するなかで指摘しておいたのと同じことが、個々の女の生涯において繰り返されるということだ。すなわち、女はこの自由を、もうそれを使う術がなくなってから発見するのである。こうした繰り返しは偶然ではない。家父長制社会はあらわる役割に義務の様相を与えた。女は、役割能力をすっかり失ったときに、はじめて隷属の状態を逃れる。五十歳頃、彼女は自分がたっぷり実力をもち、経験豊かであると感じる。

これはちょうど男がいちばん高い身分、いちばん重要なポストに到着する年齢である。ところが女の方は、お役御免というわけだ。女は献身することばかり教えられたのに、もう誰も彼女の献身を必要としていない。役に立たなくなり、不当に扱われ、彼女はこれからさき自分に残っている長い希望のない年月を眺めて、つぶやく。
「誰も私なんか必要じゃないんだわ」

彼女はすぐにはあきらめきれない。時には悲嘆のあまり夫にしがみつき、それまで以上にやむに已まれず、夫がうんざりするほど世話をやく。しかし、結婚生活のマンネリ化はいまさらどうしようもない。彼女はずっと以前から自分が夫にとって不必要だということを知っているか、あるいは、自分の存在を正当化してくれる夫が大切な人であるとはもう思えないからである。

夫との共同生活を維持していくことは、孤独に自分自身を見つめるのと同様、どうなるあてもない仕事である。そこで彼女は期待をこめて子どもにすがりつく。子どもにとって、人生の勝負はこれからである。世界が、未来が、彼らには開かれている。彼女は子どもの後にくっついてそこに飛び込もうとする。
つづく 九章 X 息子の中に恋人を見るとき
キーワード、男たちに復讐、彼は彼女の解放者、空想や幻想がいつも現実の行為への隠れた欲望、