HEADLINE経済的見地からすると、売春婦の状況と既婚女性の状況は対照的である。「売春で身を売る女と結婚で身を売る女の唯一の違いは、契約金とけいやく期間だ」とマロは言っている(*2)。どちらにとっても性行為は勤めである。後者は一生、ただ一人の男に雇われる。前者はすべての男によって、一人の男が独占的に権威を振るのから守られる。

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第八章 売春婦と高級娼婦

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

妻と高級娼婦に大きな違いがある。正妻は既婚女性として抑圧されているが、人間としは尊重されている。この尊重が妻の抑圧を本当に妨げ始めるのだ。他方売春婦は人間の権利をもたず、女の隷属状態のあらゆる姿が彼女のなかに同時に凝縮されている。

すでに見たように(*1)、結婚と売春はそのまま対となる。
「売春制度は家族の上に落ちる暗い影となって、文明のなかまで人間の後を追っていく」とルイス・ヘンリー・モーガン[1818-81、アメリカの人類学者]は言った。男は用心して妻に貞淑を強いるが、自分は、妻に押しつける体制に甘んじない。モンテーニュは、ペルシアの王たちの知恵を称賛して、こう語った。

ペルシアの王たちは妻を饗宴に呼んだ。しかし、本当に酒の酔いが廻ってきて、逸楽の手綱がすっかり緩められそうになると、妻たちの放縦な欲望の仲間に入れるようなことはせずに私室に帰し、代わりに尊敬を払う必要のない女たちを呼び寄せるのが常だった。

宮殿の衛生を保つには排水溝が必要だ、と教会の神父たちは言った。またパーナード・マンデヴィル[1670-1733、イギリスの医師、風刺作家。『蜂の寓話』で有名]は、評判になった著書の中で「他の女を守るために、そしてもっと不快な醜い本性を予防するために、一部の女を犠牲にする必要があるのは明らかだった」と言った。

アメリカの奴隷制擁護論者が奴隷制度を支持する論拠の一つに、南部の白人は奴隷のする仕事を全くしないですむから、白人はどうしても最も民主的で上品な関係を保てる、というのがある。同様に、「売春婦」という階級が存在するからこそ、最も紳士的な敬意をこめて「淑女」に接することができるのだ。売春婦は身代わりである。

男は破廉恥な言動を彼女に投げかけて解放され、彼女など知らないと言うのだ。売春婦は、合法的身分で警察の監視下に置かれて働いていても隠れて働いていても、いずれにしろのけ者扱いされているのだ。

売春と結婚

経済的見地からすると、売春婦の状況と既婚女性の状況は対照的である。「売春で身を売る女と結婚で身を売る女の唯一の違いは、契約金とけいやく期間だ」とマロは言っている(*2)。どちらにとっても性行為は勤めである。後者は一生、ただ一人の男に雇われる。前者はすべての男によって、一人の男が独占的に権威を振るのから守られる。

どちらにしても、彼女たちが自分の肉体を与えてることで得る収益は競争によって制限される。夫は、別の妻を確保することも出来たことを心得ている。つまり「夫婦の義務」を果たすのは、恩恵ではなくて契約の履行なのだ。売春はでは、男の欲望は個のものではなく種のものであるから、どんな肉体を相手にしても欲望は満たされる。妻はまたは高級娼婦は、男に個別の影響力を及ぼさないと、その男を活用することはできない。
妻と高級娼婦に大きな違いがある。正妻は既婚女性として抑圧されているが、人間としは尊重されている。この尊重が妻の抑圧を本当に妨げ始めるのだ。他方売春婦は人間の権利をもたず、女の隷属状態のあらゆる姿が彼女のなかに同時に凝縮されている。

いったいどんな動機から女は売春に走るのかと不思議がるのは、単純というものだ。売春婦と犯罪者を同一視し、どちらも変質者だとみなしたチチェザーレ・ロンブローゾ[1835-1909、イタリアの精神医学者、法医学者]の学説は、今ではもう信じられていない。統計が示すとおり、一般的に売春婦の知能水準は平均よりやや低く、明らかに精神薄弱の者もいるかも知れない。

知能能力の高くない女は、専門化を全く要求されない仕事をとかく選ぶ。しかし売春婦の大部分は正常で、なかには非常に聡明な者もいる。彼女たちにはどんな遺伝的宿命、生理的欠陥の影響もない。実際、貧困と失業が猛威をふるう世界では、ある職業が生まれると、すぐにそれを選ぶ人々がいる。

警察、売春が存在するかぎり、警察官、売春婦がいなくならないだろう。これらの仕事は平均して他の多くの仕事より儲かるのだから。男の買い注文にかき立てられて売りの申し出があると驚くのは非常に偽善的だ。これこそ初歩的、普遍的な経済のプセスなのだ。

1857年にバラン=デュシャトレ[フランスの医師]は調査のなかで売春のすべての理由のうちで、仕事がないことと、給料が足りなくて必然的に陥る貧困ほど重大なものはない」と書いている。体制的な道徳家は、売春婦の哀れな身の上話はお人好しの客のための作り話だと応じて、せせら笑う。実際、多くの場合、売春婦は他の手段で生計を立てられることも出来ただろう。

 だが自分の選んだ手段を最悪と考えないからといって、彼女の血に悪徳の流れている証拠にはならない。むしろ、多くの女がこの仕事をそれほど悪くない仕事の一つ、といまだに思っているような社会が糾弾されるのだ。ひとは「彼女がなぜこれを選んだか」と尋ねるが、問題はむしろ「なぜあれを選ばなかったか」なのだ。とくに、「売春婦」の大部分が女中出身であることが注目された。

 このことはパラン=デュシャトレがすべての国について立証し、リリー・ブラウンがドイツについて、リケールがベルギーについて指摘している。売春婦の約五十%は最初、住み込みの家事使用人だった「女中部屋」をちらりと見るだけで、事態は説明がつく。搾取され、抑圧され、人間としてより物として扱われる雑用女中、小間使いは将来なんらかの待遇改善がなされるとは期待できない。時には家の主人の気まぐれに耐えなければならない。

 彼女は家内奴隷の状態、女中相手の主人の情事から、これ以上悪くなりようのない隷属状態、だが彼女にはまだしも幸福と思える隷属状態へとずるずる入っていくのだ。そのうえ、働く女は根無し草のことが非常に多い。パリの売春婦の八十%は地方すなわち田舎の出身者と考えられている。

女は、家族が近くにいて評判が気になれば、評判を落としそうな仕事には就かない。しかし大都会に紛れ込んで、もう社会に組み込まれなくなると、「道徳性」という抽象的な考えは何の歯止めもかけない。ブルジョア階級は性に関すること――とくに処女性――をおそるべきタブーで取り囲むが、多くの農民階級、労働階級では、そんなことはどうでも良いことのように見える。

多くの調査がこの点で一致している。相手かまわず処女を捧げる少女が大勢いるが、彼女たちは、次には、相手かまわず身を任せるのは当然のことだと思うようになる。百名の売春婦を対象に行った調査で、ピザール博士は次の事実を指摘している。十一歳で処女を失った者が一名、十二歳が二名、十三歳が二名、十四歳が六名、十五歳が七名、十六歳が二一名、十七歳が十九名、十八歳が十七名、十九歳が六名、その他は二十一歳以上である。したがって、思春期前に強姦されたものが五%いたことになる。

半数以上は愛のために身を任せたと言ったが、その他は無知のために同意したのだ。最初の誘惑者はたいてい青年だ。最も多いのは作業場の仲間、事務所の同僚、幼友だちである。その次に軍人、現場監督、召使い、学生が来る。ビザール博士の表にはその他の弁護士二名、建築家、医者、薬剤師各一名が載っている。

性の手ほどきの役割を担うのは、よく言われるように雇用主自身であることはかなり稀で、たいていはその息子か甥または友人だ。コマンジュも研究のなかで十二歳から十七歳の四十五人の少女について指摘していることが、彼女たちは知らない人に処女を奪われ、その後一度も再会していない。彼女たちは何となく同意したが快感は感じなかったという。ビザール博士はとくに次のような例をさらに詳しく取り上げている。

ボルドーのG嬢は十八歳で、修道院を出ると、罪の意識はないまま好奇心から、誘われるがまま大型馬車に乗り込み、知らないよそ者に処女を奪われている。十三歳のある女の子は、道で出会った知らない男に行くも考えもしないで身を委ね、再会することもない。

Mは十七歳のとき、しらない青年に処女を奪われた・・・・まったくの無知からされるままだった、と一字一句そのまま語った。
Rは十七歳半のとき、病気の妹のために近所の医者を迎えに行って偶然出会った。身も知らない青年に処女を奪われた。彼は、早く帰れるようにと彼女を車に連れ込み、実際はしたいことをした後、大通りに置き去りにした。
Sは十四歳のとき、妹を紹介するという口実で青年の家に連れていかれ、処女を奪われた。実はその青年に妹はなかったが梅毒があり、少女は感染した。
Kは十八歳のとき、既婚の従兄と一緒に古戦場を訪れ、昔の塹壕の中で処女を奪われた。彼女は妊娠し、家族のもとを離れなければならなかった。
Cは十七歳のとき、夏の夜の海辺で、ホテルで知り合ったばかりの青年に、二人の母親がつまらないおしゃべりをしている場所から100メートルのところで処女を奪われた。淋病に感染した。
Lは十三歳のとき、ラジオを聞いていて、叔父に処女を奪われた。早寝の叔母は部屋で静かに眠っていた。

この少女たちはされるがまま身を任せたのだが、それでも処女喪失の心的外傷(トラウマ)を受けたのは確かだと思われる。この容赦ない経験が彼女たちの将来にどのような心理的影響を及ぼしたのか知りたいものだ。しかし「売春婦」の精神分析はないし、彼女たちは自分を語るのが下手で、型通りの表現の後ろに隠れてしまうのだ。

或る者については、相手かまわず簡単に身を任せるのは、すでに書いた売春幻想で説明できる。つまり家族への恨み、芽生えはじめた性欲への恐れ、大人のふりをしたいという欲望から、売春婦の真似をする幼い少女がいる。彼女たちは派手な化粧をして男の子のもとに足しげく通い、あだっぽく、色っぽくふるまう。まだ子どもっぽくて中性的で肉欲に乏しく、火遊びをしても平気だと思っている。
ある日、ある男が彼女たちの言うことを言葉どおり実行すると、彼女たちは夢想から行為に滑り込んでいくのだ。

十四歳のある若い売春婦は「扉が壊されてしまうと、その後、扉を閉めておくのは難しい」と言っている(*3)。しかし娘が処女喪失の後すぐ客の袖を引く決心をすることは滅多にない。ある場合は最初の愛人にこだわり、同棲を続ける。「まっとうな」仕事に就く。愛人に捨てられると別の愛人に慰めを求める。もうたった一人の男のものではないのだから皆に身を任せてもよい、と考える。

時には愛人――第一の、第二の愛人――が、こうした金儲けの方法を提案するのだ。両親によって売春婦にされる少女も大勢いる。なかには、女は全員この仕事をすると決められている一族――有名なアメリカのジューク家のような家族――もある。住所不定の若い女のなかには近親者に捨てられた女の子が大勢いるが、彼女たちは物乞いから始め、物乞いから街娼婦に変わる。パラン=デュシャトレは1857年に五千名の売春婦について調べたが、貧困の影響による者が1441名、誘拐されて捨てられた者が1425名、何の手立てもなしに両親に捨てられ放り出された者が1255名だった。

現代の調査でもほぼ同じ結論が示されている。病気のためにまともな仕事ができなくなったり職を失った女が、よく売春に追いやられる。病気によって不安定だった家計の均衡が破れ、急いで新しい資金源を考え出さなければならなくなるのだ。

出産も同じだ。フランスのサン=ラザール医療刑務所にいる女の半数以上は、少なくとも一人の子どもったことがある。三人から六人の子を育てたものが多い。ピザール博士は、十四人の子を産み、博士が知った当時はその内の八人が健在だった女のことを伝えている。博士によれば、子を捨てる女はあまりいない。かえって、子を養うために未婚の母が売春婦になることがあるのだ。
彼はとくに次の例を引いている。

彼女は十九歳のとき、地方で六十歳の雇用主に処女を奪われた。当時はまだ家族と同居していたが、妊娠したので家族のもとを離れなくてはならなかった。彼女は健康な女の子を出産し、立派に育てた。出産後パリに出て乳母になり、二十九歳のときに放蕩生活を始めた。そして三十三歳から売春をしている。今は体力も気力も使い果たして、サン=ラザール刑務所に入ることを希望している。

戦時中と戦後の不況のなかで売春が増加することも知られている。
『現代』誌にその一部分が掲載された『ある娼婦の生涯(*4)』の著書は、仕事始めを次のように語っている。

私は十六歳で十三歳年上の男と結婚した。結婚したのは親の家から出るためだ。夫は子ども作ることしか考えなかった。夫は「こうすればお前は家に居なくてはならない、お前は外に出られない」と言った。私がお化粧するのを嫌がり、映画に誘ってもくれなかった。私は姑に耐えなければならなかった。

彼女は毎日家に来て、いつも馬鹿息子の肩をもった。最初の子は男の子でジャック。十四カ月後にはもう一人の男の子、ピエールを産んだ・・・・私はうんざりして看護婦養成講座に通いはじめたが、これはとても気に入った・・・・私はパリ郊外の病院の女性病棟で働き始めた。じゃじゃ馬の看護婦がいて、私は彼女からそれまで知らなかったことをいろいろ教えてもらった。

彼女が夫とセックスするのは、どちらかというと労役だったという。私は男性病棟に移ってからも、六カ月間は浮気相手は一人もいなかった。ところがある日、怖もてだけど、北アフリカ従軍兵士然とした美男子が私の部屋に入って来る・・・・彼は人生を変えよう、一緒にパリに行こう、もう私は働かないでいい、と説得する・・・・私はうまくまるめ込まれた・・・・彼と駆け落ちすることにした・・・・一ヶ月のあいだ、私は本当に幸せだった・・・・ある日、彼は身なりのよい、洒落た女を連れてきて「実は、こいつは売春してるんだ」と言った。

初め私は真に受けなかった。近所の病院に看護婦の仕事を見つけて、道で客の袖を引く気がないところを見せた。でも長くは抵抗できなかった。彼は「僕を愛してくれないんだね。男を愛していれば、男の為に働くものだ」と言った。私は泣いた。病院でも沈んでいた。ついに美容院に引きずられていった・・・・ショートタイムを始めた! 情夫は私が売春しているかどうか調べるため、また警官が私のところへ来たとき私は教えられるように、私の後をつけてきた。

この話はいくつかの点で、ひもによって街娼婦をさせられる売春婦の月並みな身の上話に一致する。ひもの役をつとめるのが夫のこともある。時には女のことも。L・フェーヴルは1931年に五一〇名の若い売春婦の調査を行なった(*5)。そのうち一人暮らしは二八四名、男友だちと同居している者が一三二名、たいていは同性愛関係にある女友だちと同居している者が九四名であることがわかった。彼は次のような手紙の抜粋を引用している(本人たちの書いたまま)。

シュザンヌ、十七歳、私はとくに売春婦たちを相手に売春しました。長いあいだ私の面倒を見てくれた女はとても嫉妬深く、だから私は・・・・通りを離れました。

アンドレ、十五歳半、親元を離れてディスコで出会った女と同居したのですが、すぐに彼女は私の男のように愛そうとしているのだと気づき、四カ月のあいだ一緒にいて、それから・・・・

ジャンヌ、十四歳。私の亡くなった大好きなパパはX・・・・という名前でした。一九二二年に戦争の後遺症のために病院で亡くなりました。母は再婚しました。
私は修了証書を取るために学校へ行き、それをもらうと、その後は裁縫を習わされました・・・・それから、稼ぎがとても少なかったので義父と喧嘩が始まりました・・・・私は通りのX・・・・夫人の家に女中にされました。二十五歳くらいに見えるお嬢さんと二人だけになって十日たつと、私は彼女がとても変わったのがわかりました。

そしてある日、彼女はまるで青年のように、私に熱い恋心を告白しました。私はためらったのですが、首になるのが恐ろしいので、結局、従いました。私はその時、いくらか学びました・・・・私は働きましたが、その後失業したので森に行かなければならなくなって、女相手に売春しました。とても気前のよいご婦人と知り合いになりました、云々。
女は売春を、単に一時的な資金稼ぎの手段と考えることがよくある。しかしその後どんなふうにはまってしまうか、繰り返し書かれてきた。力づくで、約束が違って、騙されて、等々で泥沼に引きずり込まれるといった「白人婦女売買」の例は比較的稀で、よくあることは、意に反して仕事から足が抜けなくなる場合だ。

仕事始めに必要な資金を調達したひもや娼家の女主人が彼女に対しる権利を獲得して儲けの大部分を受取り、彼女はその権利からなかなか自由になれない。「マリー=テレーズ」は、成功するまで何年ものあいだ。本当の闘いを繰り広げられた。

情夫は私のお金だけを欲しがっていることがついにわかり、私は彼から遠ざかれば少しは貯金もできるだろうと思った・・・・娼家では最初、気後れがして、とても客に近寄って「上がつて」ということがなかなかできなかった。情夫の仲間の女が私を注意深く監視していて、私のショートタイムを教えていたほどだ・・・・そして情夫は、毎晩お金を女主人に渡すように、「そうすれば盗まれないだろう・・・・」と書いて寄越すのだった。

私がドレスを買いたいと言うと、娼家の女主人は情夫が私にお金を渡すのを禁じていると言った・・・・私はできるだけ急いでこの娼家を出ることに決めた。女主人は私が出たがっているのを知ると、私にはそれまでのように検診前のタンポンをあてがわなかった(*6)ので、私は休養を命じられ、病院に入れられた・・・・私は旅費を稼ぐために娼家に戻らなければならなかった・・・・でも売春宿には四週間しかいなかった。

私は前のようにバルベスで数日働いたが、パリにとどまるにはあまりにも《情夫》を恨んでいた。ののしりあい、殴られ、一度も窓からほとんど放り出さんばかりだった・・・・田舎に行こうと思って、斡旋業者に話をつけた。その斡旋業者は情夫の知り合いあいとわかったとき、私は落ち合う約束をした場所には行かなかった。

ペロム通りの先で斡旋業者の女二人に見つかってしまい、めった打ちにされた‥・・翌日、荷物を旅行鞄に詰めてたった一人でT島に出発した。三週間後、私は娼家に嫌気がさして、医者に、検診に来たとき廃業と記してくれるように書いた・・・・私はマジャンタ大通りで情夫に見つかり、殴られた・・・・マジャンタ大通りで殴られた後、傷跡が顔に残っている。情夫にうんざりだった。そこで私はドイツに行く契約を結んだ。

文学のおかげで「情夫」像は普及した。情夫は売春婦の生活のなかで保護者の役割を演じる。身づくろいのためのお金を前貸しし、そして他の女たちとの競争や、警察――時には彼自身が警察だ――、お客から彼女を守る。無料で楽しめれば客にとってはもっけの幸いだ。

女を相手にサディズムをとかく満たしたがる客もいるのだ。マドリッドではいまから数年前、ファシストの裕福な若者たちが、寒夜に売春婦たちを河に投げ込んで遊んだ。フランスではほろ酔いの学生たちが女たちを田園に連れていき、夜、真っ裸のまま置き去りにしてくることがよくある。お金を取り立てるため、虐待を避けるため、売春婦には男が必要なのだ。男は精神的な支えにもなる。

「一人でいるとしっかり働かないし、仕事に精を出す気にもならないし、投げやりになる」という者もいる。売春婦が情夫に恋をすることもよくある。恋のためにこの仕事を選んだり、あるいはこの仕事を正当化する。この世界には、はなはだしい男尊女卑がある。この男女差のために宗教的愛が掻き立てられる、なかには熱烈な献身をする売春婦もいる。

自分の男の振るう暴力のなかに男らしさのしるしを見て、いっそう従順に従う。男のかたわらにいると嫉妬や苦悩を味わうが、恋する女の喜びもまた味わえる。

とはいえ彼女たちは、時には情夫に敵意と恨みだけをもつ。先に見たマリー=テレーズの場合のように、恐れから、また拘束されているから、情婦の支配下にいるのだ。こうなると彼女たちは、たいてい客のなかから選んだ「浮気相手」で自らを慰める。
マリー=テレーズは次のように書いている。

女はみな自分の情婦のほかに浮気相手をもっており、私も持っていた。とても美少年の船乗りだった。彼がまともにセックスしても、私は彼を相手にオルガスムスに達することはできなかったが、私たちはお互いにとても良い友達だった。彼はよく。セックスするのではなくただ話をするために私について上がって来ては、ここから出なくてはいけないとか、私の居場所はここではない、と言うのだった。

売春婦たちはまた、女を相手に自らを慰める。売春婦の多くは同性愛者だ、同性愛の情事が売春を始める発端になっている場合がよくあること、また、女友だちと同居を続けている売春婦が多いことが分かっている。アンナ・リューリングによれば、ドイツでは売春婦の二〇%が同性愛者らしい。フェーヴルは、牢獄内で若い留置人たちが情熱的な調子で猥褻(わいせつ)な手紙をやり取りし、「生涯結ばれる友」と署名していることを指摘している。

こうした手紙は、小学生たちが心に「炎」を燃やしながら書き合う手紙と同じだ。小学生はあまりものを知らず、おずおずしている。売春婦は、言葉においても行為においても、感情の最先端まで行っている。マリー=テレーズ――彼女は一人の女によって性的快楽の手ほどきを受けた――の生涯では、「女友だち」が、冷たくあしらわれる客や威張り散らすひもと比べ、どれほど特権的な役割を演じているかが見てとれる。

《情夫》が小娘を、履く靴もない哀れな下女を連れてきた。私は蚤の市で何もかも買ってやり。それから一緒に働きに出た。とても優しい子で、またそれ以上に女が好きだったので、私たちは気が合った。私は、あの看護婦から救われたことをすっかり思い出した。私たちはよく笑いさんざめき、働かないで映画に行ったりした。彼女が私たちと一緒で私は満足だった。

売春婦仲間の女友だちは、女たちのなかに閉じ込められている貞淑な女のために心優しい男友だちが演じる役割のようなものを果たしているのがわかる。彼女は遊び仲間であり、彼女との関係は自由で無償で、それゆえ必要なのかもしれない。男たちにうんざりし、嫌気がさしたり、気晴らしをしたいとき、売春婦は他の女の腕のなかに休息と快楽を求めるのだ。

いずれにしろ、すでに言及した共謀関係、つまり女たちが直接結び合わされて出来上がる共謀関係は、どんな場合よりもこういう場合にしっかり存在する。売春婦たちは人類の半数との関係が商売がらみだし、社会全体にのけ者扱いされるから、仲間同士は緊密に連帯する。

ライバルになったり、妬み合ったり、罵倒し合ったり、殴り合う事はある。しかし彼女たちは、人間の尊厳を取り戻す「反・世界」を作り上げるだめに、お互いを本当に必要としているのだ。仲間は打ち明け話をする友であり、特に選ばれた証人である。彼女は服や帽子を鑑定する。それは男を誘惑する手段なのだが、他の女たちの羨望や称賛の眼差しのなかで、それ自体が目的となって現れるのだ。

売春婦と客の関係に関しては、意見が非常に分かれており、おそらく事例はさまざまだろう。売春婦は自由な愛情表現である唇のキスを恋人のために取っておき、愛の抱擁と職業上の抱擁の差は歴然としていて比較は成り立たないと、しばしば力説される。男は虚栄心のために快楽の芝居に騙されがちだから、男の証言はあやしい。

たいていひどい肉体的疲労をともなう「荒稼ぎ」か、手っ取り早いショートタイムか、「泊まり」か、何度も訪れるなじみの客との関係かで、事態は非常に異なると言わなければならない。マリー=テレーズは、いつもは淡々と仕事をしていたが、無上の喜びとともに思い出される晩もいくらかある。彼女には「浮気相手」がいたが、仲間にも皆いた、と彼女は言う。女は気に入った客からお金を取らないことがあるし、時には、そうした客がお金に困っていれば援助を申し出ることもある。とはいえ全体的に、女は「冷静に」働く。

なかには客全体に対して少し軽蔑の混ざった冷淡さをもつだけの女たちもいる。「ああ、男ってなんて馬鹿なの!」とマリー=テレーズは書く。しかし、多くの売春婦が男に対して嫌悪のこもった恨みを感じている。とくに彼らの性的倒錯にはげんなりしている。妻や愛人にとても告白できない倒錯趣味を満足させるために娼家に来るからなのか、娼家にいるから倒錯趣味を思いつくことになるのか、マリー=テレーズは、とくにフランス人に見られると、とめどもない空想を嘆いている。

ビザール博士の治療を受けた女たちは「男はみんな多かれ少なかれ倒錯者だ」と彼に言っている。私の或る友だちはボージョン病院で、非常に聡明な若い売春婦と長い時間、話をした。彼女は初めは家事使用人だったが、熱愛するひもと同棲するようになったという。「男はみんな倒錯者よ、私の男以外は。だから私はあの人が好きなの。もしあの人が倒錯趣味が見つかったら、私、別れるわ。最初はお客さんは、必ずしもそうではなく、ふつうなの。でも二度目には、いろいろなことをやりたがるの・・・・あなたはご主人が倒錯者でないというけど、いまにわかるわ。倒錯者よ」と彼女は言った。

彼女は男たちの倒錯趣味のために彼らを嫌っていた。私の別の友だちは、一九四三年にフレーヌ
で、ある売春婦と親しくなった。その売春婦は、客の九〇%に倒錯趣味があって、約五十%は恥ずべき男色家だと言った。

彼女はあまりにも想像力を示す人が怖かった。あるドイツ人将校は、彼女に裸で花を抱えて部屋の中を歩き回るように命じ、自分は鳥の飛ぶ真似をした。礼儀正しく金離れの良い男だったが、彼女はこの男を見ると必ず逃げ出していた。「酔狂な趣味」は単なる性交よりはるかに料金が高く、しかも女はたいていあまり消耗しないのだが、マリー=テレーズは大嫌いだった。

この三人の女はとくに聡明で繊細だ。たぶん彼女たちは、自分が商売の型通りのやり方に守られなくなるや、男が一般の客ではなくなり個別性をしめすようになるや、すぐに自分が良心と移ろいやすい事由の餌食になることに気づいたのだろう。もう単なる取引の問題ではなくなるわけだ。

とはいえ、実入りがいいので、「酔狂な趣味」を専門にする売春婦たちもいる。客に対する敵意には、階級に対する恨みが入り込んでいることが多い。ヘレーネ・ドイッチはアンナという売春婦のことを詳しく語っている。彼女は金髪で子どもっぽく、きれいで、普通はとても優しいが、ある種の男たちに対して発作を起こして狂乱状態になるのだ。

彼女は労働者の家族の出である。父親は酒飲みで、母親は病気だった。この夫婦が不幸だったせいで彼女は家庭生活が大嫌いになり、仕事を続けているうちによく求婚されたが、けっして承諾しなかった。界隈の青年たちは彼女を誘惑した。彼女は仕事がとても好きだった。ところが、結核にかかり入院させられると、医者たちを相手に激しい憎悪を展開した。彼女には、「尊敬すべき」男たちがおぞましかった。

医者の礼儀正しさ、気遣いに我慢ならなかったのだ。「私たちは、こういう男たちが親切、体面、自制心の仮面をすぐに捨ててしまい、動物のように振る舞うのをよく知ってるんだから」と言った。それを除けば、彼女は精神的にまったく平衡を保っていた。里子に出した子がいると噓を言い張ってはいたが、他の嘘はつかなかった。彼女は結核で死亡した。

もう一人の、十五歳の時から出会った男の子みなに身を任せたという若い売春婦ジュリアは、弱い、貧しい男しか愛さなかった。そういう男と一緒だと、彼女は優しく親切だった。その他の男は「どんなにひどく虐待してもよい野獣」と考えていたのだ。(彼女は母性本能の欲求不満を示す、明らかなコンプレックスをもっていいた。彼女の前で母も子という言葉、またはそれと似た発音の言葉を使うと、彼女は狂乱状態におちいる。)

大部分の売春婦は精神的に自分の条件に適応している。これは彼女たちが遺伝的あるいは先天的に不道徳だということではなく、彼女たちの仕事を要求する社会に自分が組み込まれていると、正しく感じているということだ。

彼女たちは、カードに書き込みながら警官たちがするお説教がまったくのお題目であることを知っており、客たちが娼家の外でひけらかす高尚な意見などあまりこわくない。マリー=テレーズはドイツの下宿先のパン屋の女主人に説明している。

私はみな愛しているよ。お金が絡んでいる時はね、おばさん・・・・ええ、なぜって、ただで何の見返りもなく男とセックスしても同じこと、あの女は尻軽女、と思われるよ。お金を取ってもやはり尻軽女と決めつけられるよ。ずるい尻軽女と。だって男にお金を要求すると必ずすぐその後で、「こういう仕事をしているとは思わなかった」とか「男はいるのかい」とも言われるもの。

そうなの。お金を受け取ろうが受け取るまいが、私には同じことなの。おばさんは「そうね、その通りだわ」と答える。私は言う。おばさんは靴の切符を手に入れるために三十分、行列するよね、でも私は、三十分でセックスするよ。靴はもってる。代金を支払うどころか、上手に言いくるめれば、それでまたお金をもらえるよ。だから私のいうとおりでしょ。

売春婦たちの生活が耐えがたくなるのは、精神的、心理的状況のためではない、大部分の場合は嘆かわしい、その物質的な条件のためである。彼女たちはヒモ、娼家の女主人に搾取されて明日とも知れぬ生活を送っていて、彼女たちの四分の三はお金を持っていない。

軍隊の売春婦の治療にあたったピザール博士は、商売を始めて五年たつと約七五パーセントが梅毒にかかると言っている。とくに経験の浅い未成年者はすぐに感染してしまう。そのうちの二五%が淋菌性の合併症を起こして手術を受けなければならなかった。二十人に一人は結核で、六〇%はアルコール中毒が麻薬中毒になる。

四〇%が四十歳までに死亡するのだ。さらに付け加えなければならないのは、予防策を講じていても彼女たちが時には妊娠し、一般に劣悪な条件のもとで手術を受ける事になる。下級売春婦は耐え難い仕事であり、そこでは女は性的にも経済的にも抑圧され、警察の独断、医学上の屈辱的な監視、客のわがままに従わされ、ばい菌と病気、悲惨を約束され、まさに物の水準にまで貶められるのだ(*7)

下級売春婦から堂々たる高級娼婦までには数多くの段階がある。主な違いは、前者が、自分のまったくの一般性を売りものにし、その結果、競争のために悲惨な生活水準にとどめおかれるのに対し、後者は、自分の個別性を認めさせようと努め、うまくいけば高級な生涯を望める点である。ここでは、美貌や魅力、セックスアピールは必要だが、それで十分というわけではない。そう言う女は世間から高く評価連れる必要があるのだ。

彼女の価値は男の欲望を通じて明らかなることが多い。しかし、彼女が「売り出される」のは、男が世間の目に対し、彼女の値段をはっきり示したときだけだ。前世紀においては、「娼婦」が庇護者に支配力を及ぼしていることを示し、高級娼婦の身分に引き上げてくれるのは、邸宅、馬車、真珠だった。男たちが彼女のために莫大な出費を続ける限りにおいて、彼女の価値は確立しているのだ。

社会的、経済的変化のために、ブランシュ・ダンチニー[十九世紀フランスの作家ゾラの小説『ナナ』のモデルとされた高級娼婦]のような型の女は消えてしまった。そこで名声を確立させようにも、もう「ドゥミ=モンド[高級娼婦を取り巻く社交界]」はない。野心家の女は別の方法で名声を得ようとする。高級娼婦の最新の姿、それは人気スターだ。スターは夫――ハリウッドでは絶対に必要だ――や信頼できる男友だちが付き添っているが、それでもやはりフリュネやインペリア[十六世紀初頭イタリアの高級娼婦]、「黄金の兜」[十九世紀末パリの高級娼婦]に似ているのではないだろうか。彼女は男たちの夢想に《女》をもたらし、その代わり男たちは彼女に富と栄光を与える。

売春と芸術のあいだには、いつも漠然とした通り道があった。美と性的快楽が何となく結び付けられているからだ。実際には、欲望を生み出すのは《美》ではない。しかしプラトン的な恋愛論が好色の偽善的な根拠をもたらすのだ。フリュネが胸をはだけると、アレオパゴス裁判所のお歴々は純粋理念について瞑想する。

包み隠さず肉体を見せびらかすことが芸術なショーとなる。アメリカの「バーレスク[寸劇、猥褻な歌、ストリップなどを交えたショー]は、脱ぐことを大げさに騒ぎ立てる。「芸術的ヌード」の名のもとに猥褻写真を取集する老紳士たちは、「ヌードは清純だ」と主張する。娼家では「お見立て」の時間がそれだけで客寄せ芝居になっている。これが複雑になると、客は「活人画」「芸術的ポーズ」を見せられる。

特異な価値を持ちたいと願う娼婦もう消極的に肉体を見せるだけではない。特殊な才能を目指すのだ。ギリシアの「フルート奏者たち」は歌と踊りで男たちを魅了した。ベリーダンスをするウレ=ナイル[アルジェリア南部の山地]の女たち、バリオ=チノで踊り歌うスペイン女たちは、買い手の見立てに対して洗練された方法で自分を売り込んでいるだけだ。ナナ[小説『ナナ』の主人公]は「庇護者」を見つけるために舞台に上がる。

一部のミュージック・ホールは、かつて一部の演芸カフェがそうだったように、単なる売春宿である。女が自分を見せる仕事は全て、色事の目的に使われる可能性がある。たしかに、性生活が仕事を浸食するのを許さないコーラスガール、フロアーダンサー、ヌードダンサー、ホステス、ピンナップガール、ファッションモデル、歌手、女優はいる。仕事が技術や創意を前提としていればいるほど、仕事それ自体が目的としてとらえられる。

しかし、生計を立てるために公衆の面前で「自分を見せる」女は、自分の魅力をもっと性的な売りものにしたくなるのだ。逆に高級娼婦は言い訳になる仕事を欲しがる。コレットの作品[『シェリ』]に出てくるレアのように、彼女のことを「親愛なる芸術家」と呼ぶ男友だちに、「芸術家ですって? 私の恋人たちは本当に失礼なんだから」と言い返す女は稀である。

すでに述べたように、商品価値を授けるのは名声である。商売の資本になるような「名」をあげることができるようになるのは、舞台かスクリーンの上なのだ。

シンデレラはいつも《すてきな王子さま》を夢見ているわけではない。夫なり恋人が暴君になりはしまいかと恐れている。一流映画館の入り口で微笑んでいる自分自身の写真を夢見る方がよい。しかし大抵の男の「庇護者」のおかげでその目的を達する。そして男たち――夫、恋人、ファン――が彼女を彼ら自身の財産と名声に預からせてくれ、彼女の勝利を確実なものにするのだ。

「スター」が高級娼婦に似ているのは、個々の人々に、大衆に好かれる必要があるからだ。スターも高級娼婦も、社会で同じような役割を演じている。私は高級娼婦という言葉を、自分の肉体だけでなく全人格を活用すべき資本として扱っている女すべてを指すのに使っている。彼女らの態度は、作品のなかで自己を超越しながら、あらかじめ与えられた条件を乗り越え、他人のなかの自由に訴えかけて他人の未来を開く創作者の態度とは非常に違っている。

高級娼婦は世界を暴き出してみせはしないし、人間の超越になんの道も切り開きはしない(*8)。逆に、人間の超越を自分のためにせしめようとする。高級娼婦は崇拝者の支持を取り付けようとして、自分を男に捧げるといった受け身の女らしさを捨てない。こうした女らしさが彼女に魔法の力を授け、その力のおかげで男たちを自分の存在感の罠にかけ、自分の糧にすることができる。この女らしさが彼女とともに男たちを内在性に飲み込むのだ。

こうした方法によって、女はある種の独立を得るのに成功する。彼女は何人もの男に同意しながら、どの男にも決定的に属することはない。彼女の集めるお金、商品を売り出すように「売り出す」名前が、経済的自立を保証するのだ。古代ギリシアで最も自由だった女は主婦や下級売春婦ではなく、高級娼婦である。

ルネッサンス時代の高級娼婦や日本の芸者は、同時代の人々に比べ、はるかに大きな自由に恵まれていた。フランスで最も雄々しく独立しているように見える女は、おそらくニノン・ド・ランクロだろう。逆説的に、女らしさを徹底的に活用するこれらの女たちは、男の状況とほとんど同等の状況を作り出す。彼女たちは、自分を客体として男に引き渡す女という性から出発して、主体に戻るのだ。

彼女たちは男のように生計を立てるばかりでなく、ほとんど男ばかりの中で暮らす。振る舞いも話題も自由で、彼女たちは――ニノン・ド・ランクロのように――自分を類い稀な自由な精神を高めることができる。最も卓越した者は、「淑女」に退屈した芸術家、作家たちに取り巻かれる。

男の作る神話は、高級娼婦のなかに最も魅力的に結実している。つまり高級娼婦は、他のどの女よりも肉体と意識であり、偶像、霊感の泉、詩神(ミューズ)なのだ。画家、彫刻家は彼女をモデルにしたがる。彼女は詩人の夢を育む。知識人は彼女の中に、女の「直観」の宝を探究する。

偽善のなかであまり勿体ぶったりしないから、主婦より簡単に聡明になるのだ。並外れた才能に恵まれた者は、《助言者》の役割では満足しなくなる。彼女たちは他人の支持によって手に入れた価値を、自主的に発揮したいという欲求を感じる。受動的な美徳を能動的なものに変えたいと思うのだ。

主権を備えた主体として世界のなかに浮かび上がり、詩、散文を書き、絵を描き、作曲する。こうしたイタリアの高級娼婦のなかでもインペリアが有名になった。また、男を道具として使うことによって、この媒介をとおして男の任務を行使することもある。「籠姫」たちは権力のある愛人たちを通じて世界統治に参加したのだ(*9)。

このような解放は、とくに性愛の面に現れる。女は、男から奪い取るお金や献身のなかに、女の劣等感の補償を見出すことがある。お金はみそぎの役割がある。お金が男女の闘争を消滅させるのだ。商売女でない多くの女が愛人から小切手や贈り物を巻き上げるのに執着するのは、金銭欲のためだけではない。男に支払わせることは――後で見るように男を買うことも――男を道具に変えることなのだ。

それによって女は自分が道具になることから身を守る。たぶん男は、「彼女を手に入れた」と思うだろうが、このような性による所有は錯覚だ。彼女こそ、経済という、はるかに安定した領域で男を手に入れたのだ。彼女の自尊心は満足している。彼女は愛人の抱擁に身を任せることができる。外部の意志に身を任せるのではない。快楽が彼女に「押しつけ」られることはありえず、快楽はむしろ余得として現われる。金品を受け取っているのだから、彼女は「惚れている」のではない。

しかしながら、高級娼婦は不感症だと言われている。自分の心と下半身を制御できれば彼女にとって便利である。多感多情では男の支配を受ける恐れがあり、自分が搾取され、独占され、苦しめられるだろう。男がする抱擁のなかには彼女を侮辱するようなものがたくさんある――とくに仕事を始めたばかりの頃には。男の横暴に対する抵抗が不感症となって現れるのだ。

高級娼婦も主婦も、「はったり」を利かせる「こつ」をすすんで打ち明け合う。男に対するこうした軽蔑、嫌悪は、搾取するか、されるかの勝負で彼女たちが勝ったと確信できないことの証拠だ。そして実際、大部分の場合、彼女たちの運命はやはり従属なのだ。

どの男も最終的には彼女たちの主人ではない。しかし彼女たちは男から今すぐ要るものを手に入れる。高級娼婦は、もし男が彼女を望まなくなれば、一切の生活手段を失う。新人女優は、自分の未来がすべて男たちの手に握られていることを知っている。スターでさえ、男の支えがなくなれば威信は薄れる。

オーソン・ウェルズ[アメリカの映画俳優]が去った後、リタ・ヘイワース[アメリカの映画女優]はアリ・カーン[パキスタンの富豪]に出会うまで、孤児のように貧乏たらしくヨーロッパをさ迷っていた。どんな美しい女もけっして明日を確信することはできない。なぜなら、彼女の武器は魔法であり、魔法は気まぐれだからだ。彼女は「貞淑な」妻が夫に釘付けされているのとほとんど同じくらい、庇護者――夫或いは愛人――にしっかり釘付けされているのだ。

彼女はベッドの勤めを果たさなければならないばかりでなく、彼の存在、彼の会話、彼の友だち、そしてとくに彼の虚栄心の欲求に耐えなければならない。ひもが自分の女にハイヒールやサテン地のスカートを買ってやるのは投資をしているのであり、それは利子をもたらすだろう。実業家、製造業者は愛人に真珠と毛皮を贈り、彼女をしおして富と力を顕示する。女が金儲けの手段であろうと金を使う口実であろうと、それは同じ隷従なのだ。

彼女に浴びせられる贈物は鉄鎖である。それに、彼女が身につけているこれらの衣装や装飾具は、本当に彼女自身のものだろうか。男は時に、かつてサッシャ・ギトリ[1885-1957、フランスの劇作家、俳優]が上品にやってのけたように、別れ話の後、その返還を要求する。女は、自分の楽しみを諦めずに庇護者を「つないでおく」ために、策略、駆け引き、嘘、猫かぶりをしている夫婦生活を貶める。奴隷根性の真似事だけかもしれないが、真似ること自体が奴隷根性なのだ。

美しくて有名なら、今の主人がいやになったら別の主人を選ぶことができる。しかし美はきがかりの種で、壊れやすい宝物だ。高級娼婦は時が情け容赦なく価値を低下させる肉体にはほとんど頼り切っている。老いに対する闘いが最も劇的な様相をおびるのは、高級娼婦の場合である。

すばらしい威信に恵まれていれば、彼女は顔かたちの損なわれたあとも生き延びられるだろう。しかしこの評判という最も確実な財産を管理しようとすれば、彼女は世論という最も無情な横暴に従わなければならない。ハリウッドのスターたちがどんな隷属状態に陥っているかは、よく知られている。彼女たちの体はもう彼女たちのものではない。

プロデューサーが髪の色、体重、体の線、タイプを決める。頬の線を変えるために歯を抜かれる。節食、体操、試着、お化粧が毎日の労役だ。「素顔」欄には外出や情事が載る。私生活は、公的な生活のなかの一瞬にすぎなくなる。フランスではこれほどはっきりとは決まっていない。だが慎重で抜かりのない女なら、「広告」が何を要求しているのかわかる。

この要求に従おうとしないスターは、急激に凋落か、急激でなくても避けがたい凋落を見るだろう。肉体だけを引き渡す売春婦はたぶん、愛されることを商売とする女ほど縛られないだろう。技が身について、才能を認められて「出世した」女――女優、声楽家、ダンサー――は高級娼婦の条件を免れる。そうした女は本当の独立を味わうことが出来る。しかし大部分の者は一生危ういままだ。彼女たちは新たに大衆を、男たちを、休みなく誘惑しなければならないのだ。

妾はたいてい従属を内面化する。よろんに従い、世論の価値を認める。「上流社会」に敬服し、その風習を取り入れる。ブルジョア階級の規範に基づいた尊敬を得たいのだ。裕福なブルジョア階級に寄生し、その思想に賛同する。「体制的な考え方をする」のだ。かつては、そうした女は娘を喜んで修道院に入れ、年を取ると大騒ぎして回心し、自分自身、礼拝に行ったものだ。

彼女は保守派にまわる。この世界に自分の場を作り上げたのを非常に誇りに思うので、世界が変わるのを望まない。「出世する」ためにしている闘争のために、友愛や人類連帯の気持ちになれない。成功を求めてあまりにも多くの卑屈な媚びを売ってきたので、普遍的な自由を誠実に望むことができないのだ。ゾラはナナのなかに、こうした特徴を強調している。

本や芝居について、ナナはとてもはっきりとした意見をもっていた。優しく上品な作品、夢を見せてくれ、心を大きくしてくれるようなものを望んでいたのだ・・・・共和主義者にはカッとなった。体を洗いもしないあの不潔な奴らは、いったいどうしたいのというの? 私たちとは幸福でないの? 皇帝は人民のためにあらゆることをなさっているのではないの? 人民って、何と酷い下司野郎! 彼女は人民を知っていて、人民について語る資格がある。「まさか、そうでしょう、皆にとって大きな不幸になるわ、あいつらの共和制は。ああ神様! できるだけ長く皇帝をお守りください」

戦争中、高級娼婦ほど強烈な愛国心をひけらかす者はない。彼女たちは高貴な感情を装うって公爵夫人並みになろうと思うのだ。常識、紋切り型、偏見、型にはまった感情が彼女たちの公の交際の基本で、たいていは誠実さを心底まですっかり失ってしまっている。嘘と誇張のあいだ言葉は自滅する。高級娼婦の生涯は客寄せ芝居だ。

その言葉、身振りは考えを表現するためのものでなく、効果を生むためのものなのだ。彼女は庇護者に愛の芝居を打つ。そして時には自分自身に、彼女は世論に慎ましさと威信の芝居を打つ。そして最後には自分を徳の鑑、聖なる偶像と思うのだ。頑固な欺瞞が高級娼婦の内面生活を支配し、その欺瞞のせいで、取り繕った嘘が真実のように自然らしく見える。

時には彼女の生活にも自然な感情の動きがみられる。まったく愛を知らないわけではない。彼女には「浮気相手」、「のぼせ相手」がいる。時には、「恋わずらい」さえする。しかし、気まぐれ、感情、快楽にあまり重きを置きすぎる者は、すぐに「地位」を失う。

一般に、気まぐれな恋には、姦通する人妻のように慎重になる。プロデューサーと世論から身を隠す。だから彼女は「恋人」たちに自分の多くを与えることはできない。恋人は気晴らし、小休止にすぎないのだ。そのうえ彼女は一般に、本当の愛に我が身を忘れるにはあまりに成功にこだわっている。

もう一方の女に関して言えば、彼女たちが高級娼婦に官能的に愛されるということは、かなりよく起こる。自分を支配する男たちの敵となって、女友だちの腕のなかに官能的な休息と仕返しを同時に見出す。だからナナは、いとおしい女友だちサタンのかたわらにいるのだ。

積極的に自由を使うために社会で活動的な役割を演じたいと願うのと同様に、彼女は他の人間を所有するのも好きだ。若い女をすすんで養ったりするのが、いずれにしろ彼女は、彼らに対し男性的な人物になるのだ。彼女が同性愛であろと、なかろうと、すでに述べたように、彼女は女全体と複雑な関係をもつ、つまり、男に抑圧されたあらゆる女が切望する「反・世界」を作り出すために、彼女たちは、裁判官として証人として、打ち明け話をする友として共謀者として必要なのだ。

しかし女の敵対関係はここで頂点に達する。自分の一般性を売りものにする売春婦には競争相手がいる。しかし、全員のために十分な仕事があれば、彼女たちは口論を通じてさえ連帯を感じる。自分が「異彩を放つ」ことをめざす高級娼婦は、自分のような特権的な場を欲しがる者とは敵対している。この場合には、女の意地悪についてよく言われる命題が本領を発揮する。

高級娼婦の最大の不幸は、自分の独立が数限りない従属の偽りの裏返しであるばかりかりでなく。この自由自体が消極的であることだ。ラッシェル[1821-58、スイス生まれ舞台女優]のような女優やイサドラ・ダンカンのような舞踊家は、男に助けられてはいても、仕事が彼女たちを必要とし、正当化する。彼女たちは、自分で望んだ、好きな仕事の中で実質的な自由に到着するのだ。しかし大部分の女にとって技、仕事は手段でしかない。

彼女たちがその本当の計画に賭けることはないのだ。とくに映画はスターを演出家に従属させるので、スターには創造的な活動の創意、進歩が許されない。人々は彼女のあるがままを活用する。彼女の新しいものを創造するわけではないのだ。とはいってもスターになることはめったにない。いわゆる「売春」で、超越に通じる道はない。ここでもまた、内在に閉じ込められた女は倦怠につきまとわれる。ゾラはナナのなかにこの特徴を示している。

しかし贅沢のなか、この宮廷のような生活の真ん中で、ナナは死ぬほど退屈していた。夜のどんな時刻にも男がいて、化粧台の引き出しまでお金が入っていたが、彼女はもうそれでは満足できず、どこかに隙間のようなもの、穴が感じられて、それがあくびを催させた。

彼女の生活は無為のまま、同じような単調な時間を繰り返してだらだら続いていた・・・・食べさせてもらえるのは確かなので、彼女は娼婦の仕事に閉じ込められているかのように一日中なんの努力もせず、修道院のような畏怖と服従の奥でまどろみ、横になったままだった。ただ男を待って、つまらない娯楽で時間をつぶしていた。

アメリカ文学で何度となく描かれているように、この不透明な倦怠がハリウッドに重くのしかかり、到着したばかりの旅行者の息を詰まらせる。もっとも、ここでは男優やエキストラも、女たちと同じ条件の下で、彼女たちに負けず劣らずうんざりしている。フランスでも売り出しが労役の性格をおびることはよくある。

駆け出しの女優の生活を支配する庇護者は年配の男で、その友達も老人だ。つまり彼らの関心事は若い女には無縁で、彼らの会話にうんざりさせられている。寄り添って日夜を過ごす二十歳の新人女優と四十五歳の銀行家のあいだには、ブルジョア階級の結婚よりなおいっそう深い溝があるのだ。

高級娼婦が快楽、愛、自由を捧げるモレク神[カナンの地で崇拝された神、子どもが捧げられた]、それはキャリアだ。主婦の理想、それは夫と子どもとの関係を包む、静的な幸福だ。「キャリア」は時を経て広がっていくが、それでもやはり一つの名前に要約される内在的な物である。社会の梯子を段々高く上っていくにつれ、名前はポスターの上に、人の口の端々で大きくなっていく。

女は、自分の性格に応じて慎重にあるいは大胆に、自分の企てを取り仕切る。整理たんすに収める立派な布類をたたむ主婦の満足をかみしめる者もいれば、恋の陶酔を味わう者もいる。女は、つねに危うく時には崩壊することもある状況の平衡をつねに保つことに満足を見出すこともあれば、空しく天をめざすバベルの塔のような、限りない名声を樹立することもある。

他の活動に情事をからめ、本当の冒険家のように見える女たちもいる。つまりマタ・ハリ[第一次世界大戦中にドイツのスパイとして活躍]のようなスパイや秘密諜報員だ。彼女たちは一般に計画の主導権は握らず、どちらかというと男の手に握られた道具なのだ。ところで全体的に、高級娼婦の態度には冒険家の態度と似たところがある。

冒険かと同じように、たいていいわゆる冒険と手堅さの中途にいる。お金と栄光という紋切り型の価値をめざす、しかしそれを征服することに、所有することと同じくらいの価値を結びつける。そして結局、彼女の目に最高の価値と見えるもの、それは主観的な成功なのだ。

彼女もまたこの個人主義を、いくらか型にはまったニヒリズムで、しかし男には敵対し、他の女には敵を見るだけにいっそう確信をもって体験されるニヒリズムで、正当化しようとする。もし彼女が道徳的に正当化する必要を感じるほど聡明なら、幾らかかじったニーチェ主義[超人主義]を持ちだすだろう。

庶民に対する選ばれた者の権利を主張するのだ。彼女には自分の人格が、ただ存在するだけで恵みとなる宝のように見える。だから自分自身に捧げながら、共同社会に奉仕していると思い込むのだ。男に捧げられる女の人生には恋愛がつきまとう。男を活用する女は、自分に捧げる礼拝のなかで安らいでいるのだ。彼女が自分の栄光にあれほどの価値を結び付けるのは、経済的利益のためだけではない。彼女はそこにナルシシズムの開花を求めているのだ。不感症を打ち明けたり、自分の男の性欲や不器用さを臆面もなく嘲笑したりして、男の性的支配を否定する。

第九章 熟年期から老年期へ
キーワード、思春期、性への入門期、閉経期、機能障害、官能的な女、マスターベーション、