男は分業に基づく組織的連帯の絆によって、生産者、市民として集団に結びついている。夫婦は一個の社会的人格であり、この人格は、夫婦が属する家族、階級、環境、人種によって定められ、機械的な連帯の絆によって社会的に似たような状況にある集団に結びついている。トップ画像

第七章 社交生活

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 家族は閉じた共同体ではない。その境界を越えて他の社会的単位と交流している。家庭は夫婦が引きこもる「内部」であるだけでなく、夫婦の生活水準、財産、趣味の表現でもある。つまり、家庭は他人の目にはっきりと示さなければならないのだ。この社交生活をとりしきるのは主に女である。

男は分業に基づく組織的連帯の絆によって、生産者、市民として集団に結びついている。夫婦は一個の社会的人格であり、この人格は、夫婦が属する家族、階級、環境、人種によって定められ、機械的な連帯の絆によって社会的に似たような状況にある集団に結びついている。

この人格をもっとも純粋に具現することが出来るのは妻である。夫の職業上の人間関係はその社会的価値の表明と一致しないことがよくある。一方、どんな仕事にも費用とされない女は仲間との交際にとどまることができるのだ。そのうえ、妻は「訪問」や「接待」で、こうした実際には無用な関係を確保する暇をもっている。

そしてもちろん、こうした関係が重要なのは、社会序列のなかで自分の地位を保つのに汲々としているタイプの人々、つまり、他人の人々より自分たちの方が優れていると思っている人々の場合だけであるが。妻は、自分の内面、自分の姿そのもの――それに囲まれている夫や子どもの目にはよく見えないもの――まで夢中になってさらけ出して見せる。「表わす」という妻の社交的義務は自分を見せる快楽と混同されることになるのだ。

まず、彼女は自分自身を見せなければならない。家で仕事に精を出しているときは、単に衣服を身につけているだけだ。外出や来客のために、彼女は「着飾る」。お洒落には二重の性格がある。女の社会的威信(生活水準、財産、属している環境)を示すためのものであると同時に、女のナルシズムを具現化する。

お洒落は制服であり、飾りなのだ。何をすることもないと悩んでいる女は、お洒落によって、自分の存在を表現しているように思う。化粧して、着飾ることは一種の労働であり、それによって、女は自分の人格を自分のものにすることができる。家事によって自分の家庭を自分のものにするのと同じように。そうすると、女は自分自身で自我を選択し、再創造したように思うのだ。慣習に促されて、女は、こうして自分のイメージのなかに自己を疎外してしまう。

男の衣服は、男の体と同じように、その超越を表示しなければならず、視線を引きとめてはならないのだ七章(*1)。男とっては、優雅も美も、自分を対象物にすることではない。また普通、男は自分の外見を自分の存在の反映とは見なさない。反対に、女は、社会そのものによって、性愛の対象になることを要求される。

女が流行りに従うのは、自律した個として自分を表すためではなく、反対に、自分を超越から切り離して、男の欲望の餌食として差し出すためである。ひとは女の投企(プロジェ)を助けようとするどころか、反対に、妨害しようとする。スカートはパンタロンより不便であり、ハイヒールは歩行を妨げる。最も優雅なのは、最も非現実的なドレスやパンプス、最も傷みやすい帽子やストッキングだ。

衣装が体を偽装しようが、変装しようが、変形しようが、体にぴったり合っていようが、とにかく、衣装は身体を目差しに委ねるのである。というわけで、自分を眺めてもらいたいと思う幼い少女にとっては、お洒落は魅惑的な遊びである。

さらに成長すると、子どもの自律性が、透けるようなモスリンやエナメルの靴に反抗する。思春期になると、自分を誇示したいという気持ちに分裂する。性的な対象という使命を受け入れてしまうと、女は喜んで身を飾るようになる。

すでに述べたように(*2)、女は身を飾ることによって、欠かすことのできない人工的装いを自然に与えながらも自然に似るのである。女は男にとって花や宝石になる。自分自身のためにそうなるのだ。水のゆらめき、毛皮の暖かみのある柔らかさを男に与える前に、女はそれらを自分のものとする。

小さな置物や絨毯、クッションや花束に対するよりもいっそう親し気に、羽根飾りや真珠、金糸・銀糸の絹織物や絹地を手に入れ、自分の肉体に混ぜ合わせる。こうした品々の玉虫色に光り輝くさまや柔らかな感触が女の宿命である性愛の世界の不快さを埋め合わせてくる。女の性的快楽が不十分であればあるほど、こうしたものにますます惹きつけられるのだ。

女性同性愛者の多くが男装しているのは、男を模倣したり社会に挑戦するためばかりではない。彼女たちはビロードやサテンの愛撫を必要としてはいない。彼女たちは女の体にそうした受動的な性質を感じ取れるのだから(*3)。男の粗野な抱擁に身を任せる女は――たとえそれを楽しんでいるにせよ、快楽なしに応じている場合はよりいっそう――自分自身の体以外にどんな官能の餌食も抱きしめることができない。香水をふりかけて自分の体を花に変え、首につけたダイヤモンドの輝きが肌の輝きと混同される。

こうしたものを所有しようと、彼女は世界のあらゆる富に同一化する。官能の宝庫を渇望するだけでなく、感傷的で、理想的な価値を渇望することもある。ある宝石は思い出の品であり、ある宝石はシンボルである。自分を花束や鳥籠にしてしまう女たちがいる。自分を美術館にしてしまう女たち、像形文字にしてしまう女たちがいる。
ジョルジェット・ルブランは『回想』のなかで青春の日々を回顧して、こう述べている。

私はいつも絵画から抜け出してきたような服装をしていました。ヴァン・アイクやルーベンスの寓意画やメムリンクの聖母マリアの格好で散歩しました。司祭服が何かから取った古い銀の飾り紐がついたアメジスト色のビロードのドレスで、冬のある日、ブリュッセルの通りを横切っている自分の姿が今も目に浮かびます。

長い裾を気にするなんて軽蔑すべきことだと思って、裾を引きずって歩いたので、私はていねいに歩道を掃いていのでした。黄色の毛皮の修道女風の帽子がブロンドの髪を縁取っていましたが、最も奇抜だったのは額の真ん中にフェロニエール[16世紀に流行した前頭部を飾る宝石入りの鎖状の冠]で留めたダイヤモンドでした。どうしてこんな格好をしたのでしょう? 

そうすることが単に楽しかったからですし、そうすることで、いっさいの慣習の外で自分が生きているような気がしていました。私が通り過ぎるのを見てひとが笑えば笑うほど、私はおかしな工夫をさらに加えていきました。格好をしたのでしょう変えるなんて恥ずかしくてできないでしょう。

皆がそれを嘲っていたのですから。そんなことは卑しい降伏だと思ったことでしょう・・・・家ではまた別でした。ゴッツオーリやフラ・アンジェラコの天使たち、バーン・ジョーズやワトーのような絵画が私のモデルでした。私はいつも空色や曙色の服を着ておりました。ゆったりしたドレスが私のまわりにいくつもの長い裾を広げておりました。

森羅万像をこのように魔術的に自分のものにするすばらしい例が見出されるのは精神病院である。貴重な品々や象徴への愛に抑えのきかない女は自分自身の姿を忘れて突飛な服装をしてしまうことがある。たとえば、幼い女の子なら誰でも、おしゃれは自分を妖精や王妃や花に変えてくれる変装だと思っている。花飾りやリボンを付けただけで、自分が美しくなったような気がする。彼女はこうした素晴らしい魔法の装飾品と同一化しているのだから。

布地の色合いに魅せられると、素朴な若い娘は自分の顔色が悪く見えることに気づかない。こうした大胆な悪趣味は、自分自身の姿を気にかけるよりも外の世界に魅力を感じている大人の芸術家や知識人にも見受けられる。彼女たちは、古代織物や昔の宝石に夢中になって、うっとりとして支那や中世のイメージを思い描くが、自分の鏡はちらっと見たり、先入観をもって見るのである。

年配の女が嬉々として奇妙な格好をしているのに驚かされることがある。冠やレース飾りや派手なドレスやバロック風のネックレスは、残念ながら、彼女たちの老けた顔を目立たせるだけだ。よくあることだが、彼女たちは誘惑することを諦めてしまい、子どもの頃のように、おしゃれはふたたび無償の遊びである。反対に、エレガントな女は官能や美の快楽を文字通りに求めることができるが、この快楽を自分のイメージと調和させなければならない。

ドレスの色が彼女の顔色を引き立て、服のカットが体の線を強調したり、矯正したりすることになる。彼女がうっとりと愛するのは着飾った自分自身であって、彼女を着飾る品々ではない。

お洒落は単に着飾ることではない。それは、すでに述べたように、女の社会的状況・地位を表現する。ひたすら性愛の対象物としての役割を果たす売春婦だけがこの唯一の装のもとで、それとわかるはずである。かつてはサフラン色の髪や毛やドレスに散らした花々によって、今日ではハイヒールや体にぴったりとしたサテン地、濃いメイクやきつい香水によって、その職業が知れる。

他の女は「淫売のような」服装をするのを非難される。素人女のエロチックな力は社会生活に統合されていて、穏当なかたちでしか現れてはならないのだ。しかし、品位ある装いとは、羞恥心から厳しく抑制された身なりをすることではないということを強調しておかなければならない。

あまりにもあからさまに男の欲望をそそる女は品が悪いのだが、それをはねつけるように見える女も好ましくない。男のようになりたがっているのはレスビアンだと世間は思う。奇をてらうのは変人、対象物という役割を拒否して社会に挑戦するのはアナーキストというわけだ。目立ちたくないと思うなら、女らしさを保たなければならないのである。露出趣味と羞恥心のあいだの妥協を取り決めるのは慣習である。

「淑女」が隠されなければならないのは、ある時代には胸であり、他の時代にはくるぶしである。ある時には、若い娘は求婚者を引きつけるために魅力を強調する権利があるが、既婚の女はいっさいのおしゃれをあきらめる。多くの農民文化ではそうなっている。ある時は、若い娘は控えめなカットの、淡い色合いのぼんやりとした服装をさせられるのに、年配の女はピッタリとしたドレス、重い服地や豊かな色彩、挑発的なカットが許されている。黒は十六歳の体には派手に見える。この年齢では黒を着ないのが決まりだからだ(*4)

こうした規制にはもちろん従わなければならない。だが、とにかく、どんなに厳格な環境でも、女の性的特徴は強調されるのであろう。たとえば、牧師の妻は髪にウエーヴをかけ、薄化粧して控えめに流行を追い、肉体的魅力を気にかけることによって、自分が女という役割を受け入れていることを示すのである。こうした、社交生活へのエロチシズムの統合は、「イヴニング・ドレス」の場合、とりわけ明らかである。パーティーが催されること、つまり、贅沢と浪費がおこなわれることを意味するために、こうしたドレスは高価で傷みやすいものでなければならない。

できるだけ窮屈にする。スカートは丈が長く、幅は広すぎか狭すぎるかで、歩きにくい。宝石や壁飾り、スパンコール、花飾り、羽根飾り、ヘアーピースで、女は肉体の人形に変わる。この肉体そのものが誇示される。花が無償で咲くように、女は肩や背や胸を見せびらかす。乱痴気騒ぎの時以外は男は女を欲しがるそぶりをしてはならない。男に許されているのは見つめることとダンスで抱くことだ。

だが男は、かくもやさしい秘宝をとりそろえた世界の王であることにうっとりすることができる。男から男へと、祝宴はここではポトラッチ[饗宴や贈物によって互いの威信を競い合う北米インディアンの慣習]の様相をおびる。それぞれの男が他の男に、自分の財産であるこの肉体の幻影を贈物にするのである。イヴニング・ドレスの女は仮装しているのである。すべての男の快楽と自分の所有者の誇りのために。

おしゃれにはこうした社会的な意味作用があるので、女は服の着方で社会に対する態度を表すことができる。既存の秩序に従っていれば、穏やかで上品な人になる。多くのニュアンスが可能だ。自分の選択しだいで、弱々しくもなれば、子どもっぽくもなる。神秘的にも、無邪気にも、禁欲的にも、陽気にも、落ち着いた風にも、ちょっと大胆にも、控えめにもなることがある。あるいは、反対に、独創的な格好をして、さまざまな慣習に対する拒否を表明する。

 イーディス・ウォートンの『無邪気な時代』

多くの小説において、「自由奔放な」女が、性的対象物としての特徴、つまり隷属を強調する大胆な身なりで人目を引こうとしているのが目立つ。だから、イーディス・ウォートンの『無邪気な時代』では、波瀾に満ちた過去を持ち、大胆な心をもつ離婚した若い女は、まず、端正なデコルテ姿で登場する。彼女が順応主義を軽蔑していることを明白に映し出す。

だから、若い娘は面白がって大人の女の格好をするのだし、年配の女は幼い少女の格好をし、高級娼婦は上流階級の女の格好を、上流階級の女は妖婦(ウ゛ァンフ゛)の格好をするのである。それぞれの女が自分自身に応じた服装をする場合も、そこにはやはり遊びである。

コルセット、ブラジャー、毛染め、メイクが体と顔を変えて見せるだけではない。まったく垢抜けない女でも、ひとたび「着飾る」と、それと気づかれないのだ。女は絵画や彫像のように、舞台のように、舞台の役者のように、類比物(アナロゴン)[心的イメージを生む媒介として役立つ、類似の具体的対象物]であり、これをとおして、演じられる人物像ではあるが存在していない。欠如した主体が暗示されるのである。小説の主人公のような、肖像画や胸像のような、非現実的な必然的で完璧な対象物との混同が女を得意にさせる。彼女はそこに自分を疎外しようと努め、こうして、自分で不動で正当であると思い込もうとするのである。

同様に、マリー・パシュキルツェフの『日記』では、ページから頁へと、飽きることなく、自分をさまざまな姿に描いているのが見られる。彼女は自分のどんなドレスの描写も省かない。新しいおしゃれをするたびに、自分が別人になったと思い込み、自分を新たに熱愛するのである。

私はママの大きなショールを取り、頭を出す部分に切り込みを入れて、ショールの両端を縫い合わせた。クラッシックな襞となって垂れ下がるこのショールは私にオリエント風で聖書風の不思議な雰囲気を与えてくれる。

ランェリェールさんの店に行く。カロリーヌが三時間でドレスを作ってくれる。このドレスをまとうと、まるで雲に包まれたかのよだ。イギリス・クレープ地の服で、彼女が私に着せてくれると、私はほっそりとして優雅で背が高くなる。
調和のとれた襞がよった暖かいウールのドレスに包まれて、まるでルフェーヴルの挿絵。彼は純粋なドレープに包まれた、こうしたしなやかで若々しい体を描くのがとてもうまい。

こうしたリフレインが日々繰り返される。「私は黒のドレスでとてもすてきだった・・・・グレーを着て、私はとてもすてき・・・・私は白でとてもすてきだった」
ノアイュ夫人――彼女も身なりをとても重要視していた――は、『回想録』のなかで、ドレスが失敗した時の悲劇を暗澹たる気分で思い出しているのだ。

私は鮮やかな色彩、その大胆なコントラストが好きだった。一着のドレスはある風景のように、運命をともなった一つの発端のように、冒険の約束のように思われた。自信なげな手で作られたドレスを着る時には、欠点に気づき、必ず堪らない気持ちになるのだった。

多くの女にとっておしゃれがこれほど重要であるのは、それが女の世界と自分自身の自我を同時に幻想として与えてくれるからである。『人絹を着た娘む(*5)』というドイツの小説は貧しい娘がキタリスの毛皮のコートに抱いた情熱を語っている。彼女はその愛撫するような感触の暖かさ、毛皮の優しい肌触りを官能的に愛している。

彼女が愛しむのは、高価な毛皮のもとで変貌した自分自身なのだ。彼女はかつて一度も抱きしめたことがないこの世の美とかつて一度も自分のものであったことのない輝かしい運命をついに所有するのである。

フックに欠けられたコートがふと目に入った。とても柔らかくて、ふわっとして、とても心地よく、渋くておとなしいグレーの毛皮。私はそれに接吻したくにった。それほど、気に入っていた。毛皮が、慰めや万聖節、天のような完全な安らぎの雰囲気をかもしだしていた。本物のキタリスだった。そっとレインコートを脱いで、キタリスの毛皮に手を通した。この毛皮は、それが気に入っている私の肌には、まるでダイヤモンドのようだった。好きなものは手に入れたらもう返したりはしない。

内側は、手刺繡をした純絹のモロッコ・クレープの裏地。コートは私を包んで、私よりも上手にフーベルトの心に話しかけていた・・・・この毛皮を着て、私はとてもエレガントだ。私を愛することで私を洗練された女にしてくれる稀な男の人――この毛皮はまるでこうした稀な男のようだ。このコートが私を欲しいと思い、私もそれを欲しいと思う。私たちはお互いを所有する。

女は対象物なのだから、おしゃれの仕方が女そのものの価値を変えるということは理解できる。絹のストッキングや手袋や帽子を女があれほど重要視するのはくだらないことではない。自分の地位を保つことはやむにやまれぬ義務なのだ。アメリカでは、働いている女の予算のかなりの部分が化粧品や衣服に費やされている。フランスでは、この負担はもっと少ない。とはいえ、女は「見かけがよい」ほど、尊重される。職を見つける必要があればあるほど、身なりのよさがよけいに役立つ。エレガンスは武器、看板、尊敬をもたらすもの、推薦状なのだ。

エレガンスは一つの拘束である。そこから得られる価値には金がかかる。あまりにも金がかかるので、デパートで、上流の奥様や女優が香水や絹のストッキングや下着を盗んでいるのを監視人が捕まえることもある。多くの女が売春をしたり、「援助してもらう」のはよい身なりをするためである。おしゃれには金が必要だ。

身なりを整えるには時間と手間がいる。これは一つの仕事であり、時には積極的な喜びの源となる。この領域でも、「隠れた宝の発見」、駆け引き、たくらみ、策略、創意工夫がある。これがうまいと、女は職業デザイナーになることさえできる。展示会の日に――とくにバーゲン・セール――熱狂的な出来事だ。

新調のドレスはそれだけで祝祭なのだ。メイクやヘアー・スタイルはまがいの芸術作品である。今日、女は、以前にまして、スポーツや体操、水浴やマッサージ、ダイエット、によって体の形を整える喜びを知っている(*6)。自分で体重、スタイル、肌の色を決める。現代の審美観は女が活動的な性質を女性美に取り入れることを許している。女は鍛えた筋肉をもつ権利を得ているし、脂肪がつくことを拒否している。

身体文化においては、女は主体として自己主張しているのだ。そこには、女にとって、偶然的な肉体に関する一種の開放がある。だが、この開放は従属へと簡単に戻ってしまう。ハリウッドのスターは自然に打ち勝つが、プロデューサーの手でふたたび受動的な対象物となる。

女が正当にも満足を覚えることのできるこうした勝利と並んで、おしゃれには――家事の手間と同様に――時間に対する闘いが含まれている。女の体もまた時の流れが蝕む対象物なのだから。コレット・オードリーはこの闘いを描いた。家で主婦がほこりを相手に繰り広げる闘いと対照的な闘いである(*7)。

もうそれは若い頃の引き締まった肉体ではなかった。腕や腿にそって、筋肉の形が脂肪の層やすこし緩んだ皮膚の下に透けて見えていた。不安になって、彼女はふたたび時間割を一変させてみる。一日は三十分の体操で始まり、晩は、ベットに入る前に十五分のマッサージだ。彼女は医学書やモード雑誌を開いて、ウェストサイズに気を配り始めた。フルーツ・ジュースをこしらえ、時々下剤を飲み、皿はゴム手袋をして洗った。彼女の二つの気掛りは結局一つになった。

十分に体を若返らせ、十分に家を磨けば、いつか、一種の静止期、一種の死点に達する・・・・世界は老化や消耗の外に停止し、その歩みを中断するだろう・・・・プールで、彼女はスタイルを改善しようと、今では本当のレッスンを受けていたし、美容雑誌は、無限に新しくなる美容法で彼女に息もつかせなかった。

ジンジャー・ロジャース[アメリカの映画女優]は打ち明ける。「毎朝百回ブラシをかけるのよ。正確に二分半かかる。それで、私は絹のような髪ってわけ」。いかにして足首を細くするか。毎日、三十回続けて、かかとをつけずに爪先立をしましょう。このエクササイズは一分しかかかりません。一日のうちの一分がなんというのでしょう。別の時には、爪をオイルに浸すこととか、レモン入りの練粉で両手をパックすること、あるいは、つぶしたイチゴで頬をパックすることであった。

ここでもまた、習慣性が美容や服の手入れを決まりきった苦役にしてしまう。どんな生き物の生成にもつきものである衰退への恐怖のために、不感症や欲求不満の女の中には、生そのものを恐れる者もいる。彼女たちは、他の女たちが家具やジャムを保存するように、自分を現状のままに保存しようと努めるのだ。この否定的な頑固さのために、彼女たちは自分自身の生存の敵となり、他人に敵対的になる。

おいしい食事は体の線を壊す。ワインは顔色を悪くする。笑い過ぎると顔の皺が増える。陽の光は肌を荒らす。休息は動きを鈍くする。仕事は体力を消耗させる。キスは頬をほてらさせる。セックスは目に隈をつくる。愛撫は乳房の形を崩す。抱擁は肉体を衰えさせる。妊娠と出産、育児は顔や体を醜くする。周知のとおり、いかに多くの若い母親が、パーティー・ドレスに驚愕している子どもを、怒って押しやることか。「触っちゃだめ。濡れた手をして、私が汚れるじゃないの」。

コケットな女も、夫や恋人の性急な要求に、同じような肘鉄砲をくわせる。家具を覆いで包んでしまうように、彼女は男たちや世界や時間から逃れたいのだろう。だが、いくらこのように気を付けても、白髪にはなるし、カラスの足跡は目立ってくる。この運命が避けられないことを女は若い頃から知っているのだ。だから、いくら慎重にしても、女は災難の犠牲者だ。

一滴のワインがドレスにかかる。タバコが焼け焦げを作る。すると、サロンで気取って微笑んでいた贅沢で陽気な姿も消え失せてしまう。家庭の主婦の真面目で厳しい表情になる。そこで初めてわかるのだ。女のおしゃれは、瞬間を十分に輝かせるための儚い無償の華やぎ、花束や花火ではないことが。それは財産、資本、投資なのだ。それには元手がかかっている。それが台無しにされるのは取り返しのつかない災害である。

しみ、かぎ裂き、仕立ての失敗したドレス、性格の悪いパーマネントは、ロースト肉を焦がすとか、花瓶を壊すよりもさらに深刻な事態となる。ロケットな女はモノのなかに自己を疎外しただけでなく、自分のモノであって欲しかったのだから。彼女は、急に、世の中で自分の危機に瀕したように感じるのだ。仕立屋やデザインナーとの関係、彼女の苛立ちや要求には、彼女の真剣な気持ちと不安感がほのみえる。

仕立てがうまくいけば、夢に描いた人物になれる。だが、古臭いできそこないの格好では、自分が失墜したような気になるのだ。

ドレス次第でした。私の気分も態度も表情も・・・・(と、マリー・パシュキルツェフは書いている。さらに続けて)、真っ裸で歩くか、それとも、自分の体つき、趣味、性格に合わせた服装をしなければなりません。この条件に適っていないと、自分がぎこちなくつまらなく思えて、恥じ入ってしまいます。気分や気持ちはどうでしょう? 格好が悪いと思っていると、うんざりして、いやな気分になって、身の置き所がなくなってしまいます。

多くの女は、たとえ自分が注目されるはずがなくても、まずい格好で行くくらいなら、パーティーには出かけない。

しかし、なかには「私はただ自分のために着るの」と言い切る女もいるが、すでに見たように、ナルシズムのなかにさえ、他人の視線が含まれている。コケットな女が誰も見ていないのに頑固にそのまま信条を守っているのは、ほとんど精神病院の中だけだ。普通は、見てくれる人を求めている。

 ソフィア・トルストイは、結婚してから十年後、次のように書いている。

私は人に好かれたい。美しいと言ってもらいたい。
リオヴァチカに見てもらいたい、聞いてほしい・・・・美しいことがなんの役に立つの? 私のかわいいペーチャは、ばあやのニャーニャをまるで美女を愛するように愛している。リオヴォチカはひどく醜い顔に慣れてしまったようだ・・・・私は髪をカールにしたい。誰も巻き毛に気づかなくても、それでもやはり、巻き毛はステキ。誰かに見てもらう必要なんてあるだろうか? リボンや紐飾りは気に入った。新しい革のベルトが欲しい。こんなことを書いてしまうと、私は泣きたくなる・・・・

夫はこうした役割を果たすのが非常にへただ。ここでもまた夫の要求は二重である。妻があまりに魅力的だと夫は嫉妬する。しかし、どんな夫にも多かれ少なかれカンタ゛ウレス王[前七-六世紀頃、小アジアに栄えたリュディアの王。妻の王妃の容色を自慢し、臣下にその裸体を盗み見させるが、それに気づいた王妃の命令に従った当の臣下の手で暗殺される]のようなところがある。

妻が自分の名誉であってほしい。優雅で、きれいで、少なくとも「いい女」であってほしいのだ。さもなければ、不機嫌に、ユビュ親父[ジャリ喜劇『ユビュ王』(1896)の主人公]のセリフを借りて、妻に言う。「今日のおまえはみっともないなあ! うちにお客さんでも来るのかい?」。

すでに見たように、結婚においては性的な価値と社会的な価値と両立しがたい、この矛盾がここに反映されているのだ。性的魅力を見せつけるような妻は夫の目には下品に見える。よその女が大胆な格好していると心惹かれるくせに、自分の妻がやると文句を言う。文句を言っているうちに欲望はすっかり萎えてしまう。

妻が無難な服装をしていると、夫はそれでよいと言うが、その態度は冷やかである。妻が魅力的には見えないと、それをあいまいに非難するのだ。このため、夫は自分自身のために妻を眺めることはほとんどない。「ひとは妻を吟味するのである。自分の視座を他人に委ねているのだから、夫は正しく見通すことができない。妻にとってみれば、自分がすると夫がけなすような服装や振る舞いを他の女がしていて、それに夫が感心しているのを見るほど苛立たしいことはない。

そのうえ、自然に、妻の近くにいることが多いので、夫は妻を見ていない。夫には妻はいつも同じ顔だ。新しい服装にもヘアー・スタイルの変化にも気づかない。妻を愛している夫や恋人でさえ、女のおしゃれに無関心ということがよくある。彼らが裸のままの彼女を熱烈に愛しているなら、とてもよく似合う服装も、仮装でしかない。

彼女がみすぼらしい身なりでやつれていても、素晴らしい服装の時と同じように愛するだろう。もう彼が愛していないのなら、どんなに彼の気に入りそうな服でも将来の見込みはない。おしゃれは征服の道具にはなるが、防御の武器にはなり得ない。おしゃれの技術は蜃気楼を創造することであり、視線に想像上の対象物を差し出すことだ。

毎日のように顔を合わせ、抱き合っていれば、どんな蜃気楼でも消え失せる。夫婦の感情も性愛も現実の場に立っている。女が着飾るのは自分が愛する男の為ではない。ドロシー・パーカーはある中編小説で(*8)、休暇で戻ってくる夫を首を長くして待っている若い妻が、夫を出迎えるために、オシャレをしようと決心するところを描いている。

彼女は新しいドレスを買った。黒だ。彼は黒が好きだったから。シンプルな服だ。彼はシンブルが好きだった。値段が高すぎたが、彼女はそれを気にしようとはしなかった・・・・
「・・・・私の服、気に入った?」
「もちろんさ!」と、彼は言った。「それを着た君はいっだってすてきだよ」
 彼女はまるで木片になったかのようだった。
「このドレスはね」と、彼女は軽蔑するようなはっきりとした口調で言った。「新品なの。今まで一度も着たことがないわ。あなたの気を引こうと思って、今日のためにわざわざ買ったのよ」
「ごめん、ごめん」と、彼は言った。「あっ! たしかに、他の服とはちがう。すばらしい。黒を着た君はいつだってすてきだ」
「こんな時には」と、彼女は言った。「黒を着る理由が他にあったらいいのに」

女が服を着るのは他の女の嫉妬をかき立てるためであるとよく言われてきたことだ。たしかに、この嫉妬は着こなしが上手くいったことの華々しいしるしである。しかし、それだけが目的ではない。羨望の、称賛の目がどれだけ集まるかによって、女は自分の美しさや身だしなみの良さや趣味、つまり、自分自身というものが絶対的に肯定されることを求めているのだ。

女は自分を見せるために服を着る。自分を存在させるために自分を見せる。そうすることによって、苦しい依存関係に従属してしまう。家庭の主婦の献身は、たとえそれが認められなくとも有用である。コケティッシュな女の努力は、誰かの意識に刻みつけられなければ無駄になる。そうした女は自分自身の決定的な評価を求めているのだ。

この絶対への要求が彼女の探求を非常に消耗させる。一言でもけなされると、その帽子は美しくない。一言お世辞を言われると舞い上がってしまうが、少しでも否定されると傷付いてしまう。そして、絶対というものは際限のない一連の出現によってしか姿を現さないのだから、彼女が完全勝利を得る事は決して少なくないだろう。

だから、コケットな女はあんなにも傷付きやすいのだ。また、きれいでちゃほゃされているような女のなかにも、自分は美しくもなければ、身だしなみもよくない、自分の知らない審判者の最高の称賛がまさに欠けていると悲しく信じ込んでいる者がいるのだ。彼女は実現不可能な即自をめざしている。自分自身がエレガントの法則を体現していて、成功、失敗については自分決定を下すのだから、誰からも欠点をつかまれることのないというすばらしくコケティッシュな女は稀である。

彼女は自分の支配が続くかぎり、自分を模範的な成功とみなすこともできる。不幸なのは、この成功がなんの役にも立たず、誰のためにもならないことだ。

おしゃれといえばすぐに連想するのが外出やパーティーである。しかも、これこそ、おしゃれの本来の目的だ。女はサロンからサロンへと新しいスーツを見せて回ったり、他の女を招いて、自分が「家の中のこと」を切り盛りするのを見てもらう。とくに儀礼的な場合は、夫が「訪問」について行くこともある。しかし、ほとんどの場合、夫が働いている最中に、妻は「社交の義務」を果たす。こうした集まりにのしかかる逃れがたい倦怠は、非常にたびたび描かれてきた。この倦怠の原因は、「社交的な儀礼」で集まった女にはお互い伝え合うものが何もないことにある。

弁護士の妻を医師の妻に結び付ける共通の関心は何もないし、医者のデュポン博士の妻の間だってそうだ。子どものつまらない過ちや家庭の苦労を口にするのは、一般的な会話では不作法だ。だから、天候とか流行りの新刊小説の話をしたり、夫から聞きかじった当たり障りのない考えをいくつか述べる事になる。
「奥様のお客日」の習慣はだんだん消えつつある。だが、さまざまなかたちで、「訪問」の苦役はフランスに生き残っている。アメリカ人はともかく雑誌をブリッジに代えてしまうが、これも、このゲームが好きな女でなければありがたくもない。
つづく 七章 Ⅲ 社交生活
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