若い娘ならほとんど誰にでも同性愛の傾向がある。夫の抱擁が稚拙である場合が多いため、こうした傾向はなくならない。そこから、女が同性のもとで知るこうした官能的悦楽が生じるのであり、こうした悦楽にあたるものは、正常な男性には見当たらない。
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七章 W 女同性愛者の官能的悦楽

本表紙
第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
 お互いに話しはしないが、それぞれが、他のひとのために鳥の巣のようなものをこしらえてやる。彼女たちの間で起こることのすべてが真実だ。

こうしたたわいない温かな親密さは男との交際のまじめくさった、ものものしさよりも貴重だと思う女もいる。ナルシストの女は、娘時代のように、相手の女に二重の特権を見出す。相手の女の注意深く競うような目に映った、自分のカットのよいドレスや洗練されたインテリアにみずからほれぼれとすることもある。結婚してからも、心を許した女友だちは自分のおしゃれの証人である。女友だちがいつまでも、望ましい欲望の対象にみえることがある。

すでに述べたように、若い娘ならほとんど誰にでも同性愛の傾向がある。夫の抱擁が稚拙である場合が多いため、こうした傾向はなくならない。そこから、女が同性のもとで知るこうした官能的悦楽が生じるのであり、こうした悦楽にあたるものは、正常な男性には見当たらない。

女同士では、官能的な愛着は高揚した感傷に昇華されることもあれば、とりとめのない愛撫やはっきりとした愛撫となって現れることもある。彼女たちの抱擁は暇つぶしの遊びに過ぎないこともある――ハーレムの女たちの場合がそうで、彼女たちの主な気掛かりは時間をつぶすことなのだ。あるいは、こうした抱擁がきわめて重大になることもある。

しかし、女同士の親しさが真の友情にまで高まることは稀である。女同士は男同士より素直に連帯感を感じるが、この連帯のなかで女が自己を超越するのは、それぞれの女が他の一人に向かってのことではない。女は一緒になって男の世界の方を向き、その世界の諸価値をそれぞれの女が自分のものにしようと望む。女の人間関係は、各自の個別性に基づいてつくられているのではなく、女と言う一般性のなかでじかに生きられているのだ。

だから、敵対的な要素がすぐに入り込む。ナターシャは自分の赤ん坊のおむつを家の女たちの目にさらすことができるので彼女たちを大切にしているが、それでも、彼女たちに嫉妬を感じてしまう。ピエール[ナターシャの夫]の目には、それぞれの女が女というものを体現しているかも知れないからだ。女同士の相互理解はお互いに同一視し合うことから生じるが、だからこそ、女は自分の女友だちを疑ってかかるのである。

女主人は女中とかなり親しい関係をもっているが、男は――同性愛者ででもなければ――自分の従僕や運転手とけっしてこうした関係にはならない。女主人と女中は打ち明け話をしあい、時には、共犯関係になる。だが、二人のあいだには敵意に満ちた対抗意識もある。

女主人は仕事の遂行を肩代わりしてもらっていながら、その責任と功績は自分のものにしたいと思いたいのだ。「私がいないと、何もかもダメ」。女主人は女中の落度を厳しく見つけ出そうとする。女中が上手く仕事をこなし過ぎると、女主人は、自分はかけがえのないと感じる誇りを持てなくなる。同様に、子どもたちの面倒をみている養育係、家庭教師、乳母、子守り女や、仕事を手伝ってくれる親戚の女や女友だちには、彼女はいつも必ず苛立ちを感じる。

その口実として「私の意志」を尊重してくれない、「私の考え」を無視するなどと言うのである。実を言えば、彼女は意志も独自の考えも持っていない。彼女を苛立たせるのは、反対に、自分がしたのとまったく同じやり方で他の女が自分の職務を果たしてしまう事なのだ。これこそが、家庭生活をうんざりさせる、家族や使用人とのあらゆるいざこざの主な原因の一つとなっている。

女は自分独自の価値をひとに認めさせる手段が何もなければないほど、やっきになって女王さま然としたがるのだ。しかし、女が他の女を敵視するのは、とくに媚態と恋愛の領域である。若い娘のこの対抗意識についてはすでに指摘したが、それが一生続くこともよくある。

すでに見てきたように、エレガントな女や社交好きな女の理想は絶対評価である。こうした女は自分の頭のまわりに後光を感じることがけっしてないことに悩んでいる。他の女の頭のまわりにかすかな輝きを認めることも、彼女の酷く不愉快だ。他の女が集めている支持票はすべて自分から盗んだものなのだ。唯一のものではない絶対とはいったい何なのだろうか。

 誠実に恋する女なら、一つの心の中で賛美されるだけで満足する。女友だちの表面的な成功など羨んだりはしない。だか、そういう女でも、自分の恋愛そのものにおいて危険を感じているである。事実、最も仲のよい女友だちに裏切られる女というテーマは文学の常套であるだけではない。

 略奪愛

 二人の仲がよければよいほど、二人の共存は危ぶまれる。打ち明け話も聞かされる方の女はしだいに恋をしている女の目を通して見、その心、その肉体で感じるようになる。彼女はその恋人に惹きつけられ、女友だちを誘惑しているその男に魅せられる。彼女は、信義ということがあるから、自分の感情に流されはしないと思っているが、自分はどうでもよい役を演じているだけだということに苛立ってもいる。

 やがて彼女は、女友だちの恋人に身を任せてもよい、身をささげてもよいという気になってくる。多くの女は、用心深いので、恋人ができるとすぐ「親友」を避ける。この両面感情(アンビヴアレンツ)のせいで、女たちは相互の友情に安らぐことはほとんどできないのだ。男の影がいつも二人に重くのしかかる。

 男のことを話していない時でさえ、彼女たちにはサン=ジョン・ペルス[1887-1973、フランスの詩人]の次の詩句があてはまる。

 太陽は名ざされずとも、われわれのあいだに厳としてあり。

 女たちは一緒になって男に復讐したり、罠を仕掛けたり、呪ったり、侮辱したりするが、男は待望している。閨房(けいぼう)でじっとしているかぎり、女たちは、偶然性のなかに、沈着と倦怠のなかに浸っている。この地獄の辺境(リンポ)は母の胸の暖かさを幾分とどめてきたとはいえ、そこはやはり地獄の辺境である。まもなくそこから浮かび上がるという期待がなければ、女は喜んでそこに執着したりはしない。

 同様に、女が浴室の湿気のなかで喜んでいるというのも、これから輝かしい客間に入っていくと想像すればこそである。女同士は牢獄の友である。助け合って、自分のたちの牢獄に耐え、逃亡の準備さえするが、解放者は男の世界からやってくるだろう。

 大多数の女にとって、この男の世界は結婚後もその輝かしさを失わない。威光を失うのは夫だけだ。妻は夫の中の純粋な男の本質が低下したことに気づく。それでもやはり、男は宇宙の真理、至上の権威、驚愕、驚異、冒険、主人、眼差し、獲物、快楽、救いである。男はやはり、超越性を体現し、あらゆる問いの答えなのだ。どんなに貞淑な妻でこうした男はまったくあきらめて、つまらない一人の人間との活気のない差し向かいのうちに閉じこもることは決して承知しはない。

 子どもの頃のように指導者がいて欲しいという、やむにやまれぬ気持ちが残っている。夫がこの役割を果たすのに失敗すれば、妻は別の男の方を向く。父親、兄弟、おじ、親戚の男、幼友達が昔からの威光を保っていることもある。

 妻はこうした男たちに頼ることになる。職業上、女の相談相手や指導者になるように定められた二種類の男がいる。司祭と医者だ。前者は無料で相談に乗ってくれるという大きな利点がある。告解所で、彼らは気やすく女の信者のおしゃべりを聴いてあげる。「ごりごりの信者」や「新人に凝り固まった人」からはできるだけ逃げてしまうが、従順な信者を教えの道に導くことは彼らの義務だし、そうした女たちが社会的、政治的に重要になればなるほど、また、教会が彼女たちを利用しようとすればするほど、それは差し迫った義務となる。

 「霊的指導者[聴罪司祭]は告解をする女に自分の政治的意見を示唆して、その投票を左右する。また、司祭が夫婦生活に干渉するのを見て、腹を立てた夫も多い。司祭が閨房[寝室]のことまで取り決める。子どもの教育に口出しする。夫に対する彼女の行動の全体におよぶ忠告する。男の神を見てきた女は、神の地上の代理人であるこの男の足元にうっとりとひざまずく。医者は謝礼を要求するという意味で、司祭より守られているし、あまりにつつしみのない女の患者には門を閉ざすこともできる。

 だが、彼らは一層確かな、一層執拗な追跡にさらされる。色情狂の女が追いかける男の四分の三は医者だ。一人の男のまえで体を露出することは、多くの女にとって大きな露出症的快感を意味している。
 シュテーケルは次のように述べている。

 気に入った医者に診察してもらう時にだけ満足感を見出すという女を何人か知っている。とくにオールドミスのなかには、なんでもない子宮出血やなんらかの障害のために「ていねいに」診察してもらおうと医者にやってくる患者が多い。癌や(トイレでの)感染の恐怖に苦しみ、それを口実に診察を受けにくる者もいる。

 シュテーケルはまた、次の二つの例もあげている。

 独身のB・V。四十三歳で裕福。彼女は、月に一度、月経の後に医者に出かけて行っては、具合が悪いような気がするのでていねいに診てほしいと言う。毎月医者を変え、毎回同じ芝居をする。医者は彼女に服を脱いで診察台か長椅子に寝るようにいう。彼女はそうしない。恥ずかしい、そんなことはできない、それは自然に反する! と言う。

 オルガスムス

 いろいろとなだめすかされて、やっと脱ぐ。自分は処女なので傷つけないでほしいと言う。医者は彼女に肛門指診をするからといって安心させる。医者の検診が始まると、しばしばオルガスムスが起きる。肛門指診のあいだ、オルガスムスは繰り返され、強くなる。彼女はいつも偽名で現われ、すぐに支払いをする・・・・彼女は医者に強姦されたくて、そうしたのだと認めている・・・・

 L・M夫人。三十八歳で既婚。彼女は夫に対して完全に不感症だと私に言う。彼女は精神分析を受けてくる。分析を二回すませただけで、もう、愛人がいると告白する。しかし、彼が彼女をオルガスムスに到達させることができないでいる。彼女がオルガスムスを感じたのは、産婦人科に診てもらった時だけだった。

 (彼女の父親は産婦人科の医者だった!) 二、三回の分析を受けるごとに、必ず彼女は医者に行って検診を受ける必要に駆られた。時々、彼女は治療を求めたが、これは最も幸せな時期だった。先日、産婦人科医がいわゆる子宮の位置矯正のためのマッサージをした。マッサージをするたびに数回のオルガスムスが起きた。彼女は、こうした検診が大好きになったのは最初の感触が生まれて初めてのオルガスムスを引き起こしたからだと説明している・・・・

 女は自分をさらけ出して見せた相手の男は自分の体の魅力や心の美しさに強く印象付けられたと想像しやすい。だから。病理学的なケースでは、自分が司祭や医者に愛されていると信じ込んでしまう。彼女が正常であっても、彼と自分のあいだには微妙な関係が存在するような気がしてくる。うやうやしく服従して悦にいる。そこに、自分の人生を受け入れるのに役立つ安心感を見出すこともある。

 しかし、自分の生活を道徳的な権威で支えることに満足しない女たちもいる。こうした女は、この生活の只中で、ロマネスクな興奮も求める。夫をだましたり、別れたりした場合は、生身の男を怖がっている若い娘と同じような手立てを講じる。想像上の情熱に身を任せるのだ。
 シュテーケルがそうした例をいくつか挙げている(*11)

 既婚女性。たいへん礼儀正しく、上流階級。苛立ちと抑鬱状態を訴えている。彼女は或る晩、オペラ座でテノール歌手に激しく恋をしていることに気づいたという。彼の歌声を聴いて、すっかり興奮している。彼女はこの歌手の熱烈なファンになった。公演には必ずでかけ、ブロマイドを買い、彼のことを夢に見た。「感謝いたしております。知らざる女より」という献辞を添えてバラの花束を送ることさえあった。

 手紙を書く決心をする(署名は同じく「知らざる女」)。しかし、距離は保っていた。この歌手と実際に知り合いになるチャンスに恵まれる。すぐに、自分は行かないだろうと思う。彼女は彼とじかに会いたいと思っていなかった。彼女には彼がそばにいることは必要ではなかった。熱狂的に愛し、それと同時に貞淑な妻のままでいることで、彼女は幸福だったのである。

 ある貴婦人は、ウィーンのたいへん有名な俳優、カインッを崇拝しきっている。自分の家に、この大芸術家のポートレートを数え切れないほど飾ったカインッ室を作っていた。その一角にはカインッの本棚があった。収集できたあらゆるもの、つまり、この人物を語る書籍やパンフレットや雑誌がていねいに保存されていた。

 カインッの初演や五十周年などの公演プログラムもある。この大芸術家がサインした写真が聖櫃(せいひつ)であった。偶像が亡くなると、彼女は一年間喪に服し、カインッについての講演聴いてまわるために長い旅行を企てた。カインッ崇拝が彼女のエロチシズムや官能に免疫を与えていたのである。

 ルドルフ・パレンチノ[1895-1926、アメリカの映画俳優]の死がどんなに涙をもって迎えられたかが思い起こされる。人妻も若い娘も映画のヒーローを崇拝する。彼女たちが自慰をする時や夫婦の抱擁で幻想を呼び起こすときに連想するのは、彼らのイメージであったりする。こうした幻想が祖父や兄弟、学校の先生などの姿となって、なんらかの幼児期の記憶を甦がえさせることも多い。

 しかし、女のまわりには、生身の男たちもいる。性的に満たされていようと、不感症であろうと。欲求不満であろうと――完璧で絶対的な排他的な愛という稀なケースを除くと――女にとっては、彼らの人気の的になることが一番の価値である。

 夫のあまりにも日常的な眼差しでは、彼女のイメージはもはや生き生きとしてこない。彼女が必要としているのは、相変わらず神秘に満ちた目が彼女自身を一つの神秘として発見してくれることだ。打ち明け話を聞いてもらい、色褪せた写真をよみがえらせるためには、また、口元のあのえくぼ、彼女だけのあのまつげのまばたきを存在させるためには、彼女の前に至高の意識が必要だ。
つづく 七章 X 女の不貞・不倫・姦通
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