女の子は母親にもっと全面的に委ねられる。母親の要求は多くなる。それで、母と娘の関係ははるかに葛藤を含んだ性格をおびる。母親は娘に選ばれたカーストの一員の価値を認めない。彼女は娘に自分の分身を求める。

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六章 W 娘の価値を認めなく自分の分身を求める

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳
娘に自分と自分自身との関係のあいまいさを投影する。このもう一人の自分(アルテル・エゴ)の他者性がはっきり現れると、母親は裏切られたと感じる。すでに述べたように、葛藤が激しいかたちをとるのは母と娘のあいだでのことである。

自分の人生に十分に満足していて、娘に自分の生まれ変わりを見たいと思ったり、少なくとも男の子でないとがっかりしたりせずに娘を受け入れる女たちもいる。彼女たちは自分がかつてもった、またはもてなかった可能性を子どもに与えたいと思い、子どもに幸福な青春時代を準備してやるだろう。コレットは感情の安定した寛大な母親たちの一人の肖像を描いた。シドは娘を自由にさせて可愛がっていた。何も要求せずに娘の望みは何でも叶えた。

というのも、彼女は自分の喜びは自分自身の心から引き出せるからである。母親と娘という分身に献身し、そこに自分を認め、自分を越えることで、ついには娘のなかに完全に自己を疎外してしまうということもある。彼女は自分を諦める。唯一の関心は子どもの幸福である。彼女は世間の他の人々に対して厳しい利己主義者にさえなるだろう。彼女を脅かす危険は熱愛する娘に煩わしがられるようになることだ。

たとえば、セヴィニェ夫人[1626-96、フランスの書簡作家]がセグリニャン夫人[セヴィニェ夫人の娘]にとってそうなってしまったように。娘は不機嫌になっておしつけがましい献身と縁を切ろうとする。しかし、しばしば、彼女はそれに失敗する。あまりに「親鳥が抱えるかえり雛」であるために、彼女は自分の責任に対して一生幼稚で消極的なままである。

だがとくに、ある種のマゾヒスト的な母性のかたちは若い娘に深刻な影響を与えるおそれがある。ある女たちは自分の女らしさを絶対的な呪いと感じる。それで、娘はもう一人の犠牲者を見出すという苦い喜びをもって、彼女たちは娘を望んだり受け入れたりするのである。

しかし同時に、娘を産んでしまったことで罪悪感を抱く。娘をとおして彼女たちが自分に対して感じる悔恨、憐れみは果てしない不安に変わる。彼女たちは子どもから一歩も離れられなくなる。彼女たちは15年間、20年間にもわたって娘と同じベッドに寝ているだろう。幼い娘はこの情熱の炎によって完全に意欲を喪失させられることになる。

大部分の女は女の条件を要求すると同時にそれを嫌悪する。彼女たちは恨みを抱きながらも女の条件を生きる。自分の性に対して感じる嫌悪から彼女たちは娘に男性的教育を与えようとする。自分の性に寛大であることは稀であるからだ。娘を産んだことに苛立ちながら、母親は「おまえも女になるんだろうね」という意味のはっきりしない呪いの言葉をもって娘を受け入れる。

彼女は自分の分身と見なす娘を優れた人間にすることで自分の劣等生を補いたいと思う。一方で自分が苦しんだ欠陥を娘にも押し付けようとする。ある時は、子どもに自分の運命をそのまま押し付けようとする。「私にとってとても良かった事は、おまえにも良いのだ。そうやって育てられたし、おまえも私と同じような運命を辿るだろう」と言って。反対に、ある時は、娘が自分の二の舞になることを頑として禁じる。彼女は自分の経験が役に立ってほしいと思うのだ。

これは一つの反撃の仕方である。身持ちのよくない女は娘を修道院に入れる。無知な女は娘に教育を受けさせる。『窒息』では、母親が娘にうちに自分の若い頃の過ちの憎むべき結果を見て、必死に言う。

わかって頂戴。おまえはわたしと同じことがおきたら、わたしの子とは認めないよ。わたしは、わたしは何も知らなかったんだ。罪! 漠然としてるけど、罪なんだよ! 男がお前に声をかけても、行ってはいけない。自分の道を行くんだよ。振り返るんじゃない。わかるかい。おまえに警告しておいたはずだ。そんなことがあってはいけないと。もしそんなことになったら、わたしは金輪際憐れむことなどしない。落ちぶれるがいい。

すでに見たように、マゼッティ夫人は自分が犯した失敗を娘にさせまいとして、かえって娘を失敗へと追いやってしまった。シュテーケルは娘に対する「母親の憎しみ」の複雑な事例を次のように語っている。

私の知っているある母親は四番目の娘が生まれたあと、娘を、この魅力的でかわいい被造物を受け入れることができなかった・・・・彼女は娘が夫の欠点をことごとく引き継いでいると非難した・・・・子どもが生まれたのは彼女が他の男に言い寄られたときだった。その男は詩人で彼女は情熱的に愛していた。彼女はゲーテの『親和力』におけるように子どもが愛する男の面影をもってほしいと願ったが、生まれた子どもは父親にそっくりだった。

そのうえ、熱狂、やさしさ、信仰心、官能などの面で、子どもが自分の生き写しであることに気づいた。彼女は強く、不屈で、厳しく、貞淑で、精力的でありたかった。それで、子どものうちにみられた夫より自分自身の姿にずっと大きな嫌悪を感じたのである。

少女が成長した時、本当の葛藤が生まれる。少女は母親に対して自律性を主張したいと思っていた。母親の目からすれば、それこそ我慢のならない恩知らずな行為である。母親は自分から離れようとするこの娘の意志を「挫こう」と頑張る。自分の分身が一人の他者になるのは受け入られない。女に対して男が味わう喜び、つまり自分が絶対的に優位であると感じること、女はこの感覚を自分の子ども、とくに娘に対してしか経験できない。

彼女はこの特権、権威を諦めなければならないとしたら、裏切られたと感じるだろう。情熱的な母親であれ冷たい母親であれ、子どもの自立は彼女の希望の挫折である。彼女は二重に嫉妬する。娘を奪った世界に対して。そして、世界の一部を獲得し、彼女からそれを盗んだ娘に対して、この嫉妬心はまず娘と父親との関係に向けられる。

時として、母親は夫の気持ちを家庭につなぎとめるために子どもを利用する。失敗するとくやしがるが、この駆け引きがうまくいくと、逆に、たちまち子どもじみた劣等感を蘇らせる。そして、かつて母親に対してしたのと同じように、娘に苛立ちを覚え、ふてくされる。理解されず見捨てられたように思うのである。

娘たちをとても愛してくれる外国人と結婚したフランス女性が、ある日怒って言った。「よそ者と暮らすなんてもううんざり !」。父親お気に入りの長女がとくに母親の迫害の的になってしまった。母親は骨折り損の仕事をさせて彼女を苦しめ、年齢以上のまじめさを要求する。娘はライバルとなるので、一人前の大人扱いされる。娘の方もまた「人生は小説のようなものじゃないし、すべてはバラ色っていうわけでもない。したいことが何でもできるわけでもないし、この世は楽しいばかりでもな・・・・」ということを学ぶだろう。

母親は単に「教えてやるため」といったわけもなく娘に平手打ちをくわせる。彼女は先ず自分が女主人なのだと娘に示してやりたいのだ。なぜなら、彼女は最もいらつくのは、十一、十二歳の子どもに対して優位に立てるものをまったくもっていないことだからである。これぐらいの子どもになると、完全に家事をこなせるようになる。

それは「小さな女」である。娘は活発さ、好奇心、明晰さすらもち、それらが大人の女に対して多くの点で娘を優位に立たせるのだ。母親は女の世界にしっかりと君臨していたい。自分が取り替えのきかない唯一の存在でいたい。ところが、若い助手は母親の役割をまったくの一般性にしてしまったのだ。

母親は、自分が二日間家を留守にしたあと、家が乱雑になっているのを発見すると、娘をきつく叱る。しかし、家族の生活が彼女が居なくなっても完全にやっていけることが明らかになると、激しい不安に襲われる。娘が自分の本当の分身、彼女自身の代用品になるのは認められないのだ。

けれども、娘がはっきりと他者として自分を主張するのはもっと耐え難い。彼女は娘の女友だちを徹底的に憎む。娘が家族の圧迫に抵抗するために彼女たちに助けを求め、彼女たちが「娘をけしかけた」からだ。彼女は娘の友だちを非難し、ちょくちょく会うことを禁じる。または「悪い影響」を口実に会うことを完全に禁じてしまう。

自分の影響以外はすべて悪い影響なのである。彼女はとくに娘の愛情が向けられる自分と同年代の女たち――教師や、娘の仲間の母親――に対して敵意を感じる。母親はそう言う感情はばかげたもの、または不健全なものだというのだ。子どもの上機嫌、無分別、いたずら、笑いすら、母親が激しく苛立たせるに十分なこともある。

彼女は男の子がそうしても平気で大目に見る。男の子は男の特権を利用する。当たり前だ。母親はずっと前に負け戦いは諦めてしまっているのだ。しかしなぜ。このもう一人の女が自分には許されていない特典を享受するのだろうか。

謹厳さの罠に閉じ込められた母親は、うんざりする家庭から娘を引き離す用事や楽しみのすべてを羨ましく思う。このような娘の脱出は母親が献身してきた価値をことごとく否定するものだ。子どもが成長するほどに、いっそう恨みは母親の心を蝕んでいく。

年ごとに母親は衰退へと追いやられる。年々、若々しい体は自分が主張し花開いていく。この娘の前に開かれた未来、母親はそれが自分からくすねとられてしまったように思う。だからこそ、娘が初潮を迎えた時、一部の女たちは苛立つのである。これからはいまいましいが女であるということで、娘に恨みを抱くのだ。

年長の女の運命である反復と習慣性に対して、この新参の女にはいまなお無限に開かれた可能性が差し出される。そうした可能性を母親は羨みそして憎む。それをものにできなかった母親は娘の可能性を狭め、潰そうとする。娘を家に閉じ込めて監視し支配するのだ。わざわざみっともない服装をさせたりもする。娘の楽しみはことごとく取り上げ、若い娘が化粧しようものなら、怒り狂う。

人生に対するすべての恨みから母親は新しい未来に向かって突進していく若い人生に逆らうのである。彼女は若い娘を憎み、その自主的な行動をばかにし、娘をいびる。しばしばおおっぴらな争いが母と娘のあいだで起きる。当然のことながら若い方が勝つ。時が彼女に味方するからだ。だが、彼女の勝利には罪の味わいがある。母親の態度は娘のうちに反抗と後悔とを同時に生じさせる。ただ母親という存在がかかわっているだけで娘は罪人になってしまう。すでに見たようにこうした感情が娘の将来そのものを大きく狭めてしまうこともある。

母親は最終的には仕方なく自分の敗北を受け入れる。娘が大人になると、母と娘のあいだには多かれ少なかれ揺れ動きながらの友情が復活する。といっても、一方は幻滅し裏切られたという思いをずっと抱きつづけ。他方はしばしば自分が呪われているように感じる。

ここで、年配になった女と大きくなった子どもとのあいだに維持される関係に戻ろう。当然のことだが、子どもたちが母親の人生に大きな場所を占めるのは最初の二十年間である。これまでの記述の中から、一般に受け入れられている二つの偏見の危険な間違いがはっきり浮かび上がってきた。

第一は、いずれにせよ母親であることは女の欲求を満たすに十分であるというものだ。これは全く真実ではない。満足できず苛立っていて不幸な母親たちはたくさんいる。12回以上も出産したソフィア・トルストイの例は興味深い。
つづく 六章 X ソフィア・トルストイのマゾヒスト的安らぎ
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