子どもへの虐待[虐待する母親はほとんどつねに、満足していない女だということである。性的には、不感症か欲望が満たされていないかである]
子どもを前にして、女は独りぼっちである。与えるのに引き換えにどのような見返りも期待できない。与える必要があるかどうかを判断するのは彼女自身である

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六章 V 子供への虐待

本表紙第二の性 U体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

この無私無欲の賞賛に値し、男たちは飽くことなくそれを褒め称える。けれども、《母性》の信仰がすべての母親は模範的であると宣言したとき、欺瞞が始まった。

なぜなら、母親の献身は完全に本来的にものとして生きられることもあるからである。だが実際にそうなるのは稀だ。普通は、母親であることはナルシズム、愛他主義、夢、誠実、欺瞞、献身、冷笑的態度が奇妙なかたちで妥協したものなのだ。

私たちの慣習によって子どもがさらされる最大の危険は、自分では何もできない子どもが委ねられる母親が、ほとんどつねに、満足していない女だということである。性的には、不感症か欲望が満たされていないかである。
社会的には、男に対して劣等感を持っている。そうした女には世界や未来に係わる手掛かりがない。

彼女は子どもをとおしてこうした欲求不満をすべて埋め合わせようとする。女の状況が女の自己実現を困難にしているのはどのような点か、欲望、反抗、主張、要求を女がどれくらい内部に重く抱え込んでいるかが分かれば、ひとは子どもが無防備のまま女に委ねられていることにたじろぐだろう。

女が自分の人形を可愛がったり虐めたりしていたときのように、この行動は象徴的である。しかし、これらの象徴は子どもにとっては厳しい現実である。我が子を鞭でうつ母親は子どもを叩いているだけではない。ある意味では彼女が叩いているのは子どもではない。彼女は男に、世界に、自分自身に仕返しをしているのである。と言っても、叩かれているのはたしかに子どもである。

マルセル・ムルージ[1922-、フランスの作家、歌手、俳優、作曲家]は『エンリコ』のなかでこの痛ましい確執を浮かび上がらせた。エンリコは母親が気が狂ったように叩いているのは自分ではないことをよく知っている。この錯乱状態からわれに返って、彼女は後悔と優しさを取り戻して泣きじゃくる。エンリコには母親を恨むきもちはまったくない、けれども、彼の顔は叩かれていることで醜くなっていた。

同じように、ヴィオレット・ルデュックの『窒息』で描かれた母親は娘に怒りをぶつけることで、自分を捨てた誘惑者、自分辱めた征服した人生に復習する。母性にこのような残酷な側面があることは常にわかっていたことである。しかし、人々は欺瞞的な慎み深さから、継母という典型を作り出すことで、「悪い母親」という概念をぼかししてしまった。

亡くなった「よい母親」の子どもを苦しめるのは継母なのである。事実、セギュール夫人が描いたのは、模範的なフルールヴィル夫人と好一対のフィチーニ夫人という母親である。ジュール・ルナール[1864-1910、フランスの作家]の『にんじん』以来、こうした母親に対する非難の声が高まった。たとえば、『エンリコ』、『窒息』、S・ド・テルヴァーニュの『母の憎しみ』、エルヴェ・バサン[1911-、フランスの作家。家族や社会への反抗を独特の文体で描く]の『蝮(まむし)の手に』など。これらの小説に描かれたタイプが多少例外的であるとすれば、それは女たちの大多数が倫理観と良識から自然な衝動を抑えているからである。

そうした衝動は喧嘩、平手打ち、怒り、侮辱、罰などをとおして瞬間的に現れる。はっきりとサディズムの傾向がある母親と並んで、とくに気まぐれな母親が多い。彼女たちを魅了するのは支配である。乳児は玩具なのだ。それが男の子なら、平気で彼の性器を楽しむ。女の子なら人形がわりにする。子どもがもっと大きくなると、彼女たちは幼い奴隷を盲目的に従わせようとする。

虚栄心が強いので、芸をよく仕込んだ動物のように子どもを見せびらかす。独占的で嫉妬深いから、世間の人々から子どもを隔離する。またしばしば、女の子どもをとおして一個の想像上の存在を作り上げ、その存在が感謝の念をもって彼女をすばらしい母親と認めてくれ、そしてそこに彼女は自分自身の姿を認めたいからである。

コルネリア[前189頃―110頃。夫ダラックスの死後、息子の教育に献身、古代ローマの理想の母親像とされる]が、息子たちを示して「これが私の喜びです」と誇らしく言ったとき、彼女は後世に最も悪い例を残してしまった。あまりに多くの母親がいつかこのような自慢をやってみたいととう希望の中で生きている。この目的のために彼女たちはためらうことなく生身の小さな個人を犠牲にする。

この不確かで偶然の存在はそのままでは彼女たちを満たしてはくれないからだ。子どもを夫のようにしようとしたり、または反対に、そうはしまいとする。あるいは父親、母親、敬愛されている祖先の生まれ変わりにしようとする。威信あるモデルを手本にするのだ。

リリー・ブラウンに心から敬服していたあるドイツの女性社会主義者の話をH・ドイッチュが書いている。名高いアジテーター・ブラウンは若くして亡くなった天才的息子がいた。当の女性社会主義者はブラウンをまねて、無理やり息子を未来の天才として扱いつづけ、その結果息子は強盗になってしまった。こうした硬直的な横暴さは子どもを損なってしまい、母親を失望させる。H・ドイッチュは他の顕著な例、あるイタリア女性の例をあげている。ドイッチュはその女性のことを何年かにわたって追跡調査したのである。

夫、子どもを堕落させる女

マゼッティ夫人は子沢山で、いつもそのなかの誰かとうまく行かないと訴えていた。彼女は助けを求めていたが、助けるのは難しいことだった。彼女は誰よりも優れていると、とくに夫や子どもより偉いと思っていたからである。家庭の外では彼女はとても慎重に、そしてかなり尊大にふるまっていたが、家の中では逆に、非常に激高しやすく激しい喧嘩をしていた。

彼女は貧しく教養のない階層の出でつねに「上昇」したいと思っていた。彼女は夜学に通った。十六歳で性的に惹きつけられた男と結婚し、母親にならなかったならば、おそらく野心を満足させることが出来であろう。彼女はそのまま夜学の勉強などを続けて自分の階層を抜け出そうとした。

夫は優れた熟練工だったが、妻の攻撃的で優越的な態度に対する反動からアルコール中毒になってしまった。彼が何度も妻を妊娠させたのは、多分それに対する仕返しだった。夫と別居し、自分の境遇に見切りをつけたあと、彼女は子どもたちをその父親と同じように扱い始めた。

小さい頃は、子どもたちは彼女を満足させた。彼らはよく勉強し成績もよかった。しかし、長女のルイーズが十六歳になると、自分の二の舞になるのではないかと不安になった。それでとても厳格にしたのだが、そのあげくが復讐心からルイーズは私生児を生んだ。

品行方正を口やかましく要求して彼らをうんざりさせる母親に反抗して、子どもたち全員、父親がとったと同じような態度をとるようになった。彼女は一度に一人の子どもにしか優しく接することができず、その子にすべての望みを賭けた。そうやってはお気に入りの子を理由もなく変えた。

子どもたちは怒り嫉妬した。娘たちは次々と男たちと付き合い始め、梅毒にかかり、私生児を家に連れてきた。息子たちは泥棒になった。彼らをこのようにしてしまったのは、自分の理想の為にあれこれ要求したからだということをこの母親はわかろうとしなかった。

この教育する者としての頑固さと前に述べた気まぐれなサディズムはしばしば混じり合っている。母親は自分が怒るのは子どもを「教育」したいためだというのを口実にするが、逆に、その試みが失敗すると激しい憎しみが生まれる。

よく見受けられるもう一つの態度、そして同じくらい子どもに有害な態度は、マゾヒスト的献身である。心の空虚を埋めるために、子どもたちの奴隷となる母親たちもいる。彼女たちは子どもが自分から離れていくのに耐えられない。異常なほどの不安を際限なくふくらませる。

彼女たちはあらゆる喜び、自分自身の人生を断念する。そうすることで、犠牲者の姿を装うことができる。そして、こうした自己犠牲を理由に子どもに完全な自立を認めない権利を手にするのである。このような断念と支配への専制的意志はたやすく両立する。嘆きの母は、自分の苦しみを武器に変え、それをサディスト的に使う。母親が諦めるのを見て、子どもたちは自責の感情が生まれ、それが子どもを一生重くのしかかってくる。

断念の場面は攻撃的場面よりずっと有害である。子どもは動揺し困惑し、どのように身を守ればよいか分からない。あるときは叩き、ある時は泣く、そのようにして子どもを悪者にするのである。母親の最大の言い訳は、幼い頃から約束されてきた彼女自身の幸福な自己実現を子どもがとても果たさせてくれそうもないからというものだ。

自分は犠牲者だという欺瞞、それを子どもが愚かにも示してしまうから子どもを攻撃するのである。むかし、自分のお人形は好きなように扱った。姉妹や女友だちのために赤ん坊の世話を手伝う時には、なんの責任もなかった。でも自分の子どもがいる今、社会、夫、母親、彼女自身の自尊心が、この小さな未知の生命についてあたかも彼女の作品であるかのような説明を彼女に求める。

特に夫は子どもの欠点に対して、お料理の失敗や妻のだらしのなさに対すると同じように腹を立てる。夫の抽象的な要求は多くの場合母と子の関係に重くのしかかる。自立した女は――孤独、ゆとり、または家庭でもつ権威のおかげで――、夫の支配的意志を押し付けられ仕方なくそれに服従する一方で子どもを自分に服従させるといった女たより、はるかに公平でいられるだろう。

なぜなら、動物のようにわけのわからない、落ち着きもない存在、自然の力のようにどこに向かうかわからない、だが人間である存在を、あらかじめ決められた枠のなかに閉じ込めるのは非常に難しいことだから、イヌの調教と同じように子どもをおとなしくさせるように調教することはできないし、大人の言葉で子どもを納得させることもできない。

子どもは言葉に対してはしゃくりあげて泣いたりひきつけをおこしたりする動物的行動で応じて、このあいまいさを巧みに利用する。たしかに、このような問題には興味津々たるものがある。母親に余裕があれば、彼女は子どもの教育者であることを楽しむことが出来る。

公園に静かに置かれた赤ん坊は、お腹の中にいたときと同じように、まだ一つの口実となる。子どもぽっさが抜けない母親は子どもと一緒に幼稚な遊びを面白がり、いたずら、言葉、熱中、忘れ去った時間の喜びをよみがえらせる。しかし、洗濯、料理、他の子どもへの授乳、買物、接客、とくに夫の世話をしているときには、子どもは煩わしい、くたくたに疲れる存在でしかない。

彼女には子どもを「教育」するゆとりはない。まず、子どもが何かを傷つけないようにしなければならない。壊したり殴ったり汚したり、子どもは物にとっても子ども自身にとっても危険である。動き、叫び、しゃべり、騒がしい。子どもは自分のために生きている。子どもの生活は親の生活を邪魔する。

親の利害と子どもの利害は一致しない。そこから悲劇的事態が生じる。子どもに四六時中煩らされる親は子どもに絶えず犠牲を押しつける。だが子どもの方にはその理由がわからない。親は、自分たちが平穏でいるため、また子どもの将来のためだといって子どもを犠牲にする。子どもが反抗するのは当然だ。母親が説明しようとしても子どもは納得できない。

母親は子どもの意識に入り込むことは不可能だ。子どもの夢、趣味、妄想、欲望は不透明な一つの世界を形作っている。母親は外から手探りで一人の人間を規制することしかできないし、子どもはそうした抽象的規制を不条理な暴力のように感じる。子どもが大きくなっても、互いに理解できない状態は続く。子どもは関心、価値の世界に入っていくが、母親はそこから排除されてしまっているからだ。

それでも、子どもはたいてい母親を馬鹿にするようになる。とくに男の子の場合、男としての特権に誇りを持っていて、女の指示など意に介さない。宿題をやるように言っても、その問題を解くことやラテン語の文章を翻訳することは彼女にはできないだろう。

息子に「ついていく」ことができないのだ。母親はこの骨の折れる仕事に時には涙がでるほど苛立つが、夫がその大変さをわかる事は稀だ。意思の疎通はとれなくとも人間である一個の存在を指導すること、相手に反抗することでしか自分を定義できず自己主張できない一つの未知な自由に介入することの難しさを。

子どもが男の子か女の子かによって違ってくる。男の子は「大変」であるにもかかわらず、母親は一般的には男の子の方とうまくやっていける。女は男が与える威信や男が具体的にもつ特権のせいで、多くの女たちは息子を欲しがる。「男を産むことは何と素晴らしいこと!」と彼女たちは言う。すでに見たように女たちは「英雄」を産みたいと夢見てきた。

この「英雄」は当然男である。息子はやがて長に、指導者に、軍人に、創始者になるだろう。彼は自分の意志を地上で実現するだろう。母親は息子の不巧の名声に寄与することになる。自分が建てたのではない家、探検したのではない国々、読んだことのない本、それらを息子が与えてくれる。息子をとおして彼女は世界を所有するだろう。

だが息子を所有するという条件でだ。そこから、母親の態度に矛盾が生じる。フロイトは母と息子の関係は両面感情(アンビヴアレンツ)が最も少ない関係と見なしている。しかし実際は、恋愛や結婚と同じく母親になることであっても、女は男性的超越に対して曖昧な態度をとる。

夫婦生活つまり愛情生活から男に敵意を持つようになった場合、子どもの姿をした男を支配することは女に満足をもたらすことになる。彼女は傲慢な思い上がりをもつ性器を皮肉な親しさをもって扱う、時には、お利口にしないとそんなものとっちゃうわよといって子どもを脅す。

もっと控え目で穏やかな女が息子を将来の英雄として尊重する場合でも、本当に自分のものにするために、息子をその内在的現実にとどめておこうとする。だから、夫を子どもとして扱うのと同じように、女は子どもを赤ん坊として扱うのである。

女は息子を去勢したいのだと信じるあまりに合理的で単純すぎる。女の夢はもっと矛盾している。女は息子が無限でありながら自分の掌中にあってほしい、全世界を支配しながら自分の前にひざまずいてほしいとおもっているのだから。彼女は神経質で、抑制的で、寛大で、内気で、出不精になるように仕向ける。

スポーツや仲間の付き合いを禁じる。息子が自分に自信をもてないようにする。息子を彼女自身のものにして所有していたいためだ。しかし同時に、息子が自慢できるような冒険家、勝者、天才にならなければ幻滅する。こういう母親の影響が有害だという事は――モンテルランが断言し、モーリヤックが『ジェニトリクス』で物語っているように――明白である。

男の子にとって幸運なことに、彼はこの影響力から容易に逃れることができる。慣習や社会がそうするように励ましてくれるからだ。母親自身も、男と闘うのは不利だということを知っているので、すぐにあきらめる。嘆きの母を演じたり、未来の勝者の一人を産んだ誇りをかみしめることで自分を慰める。

つづく 六章 W 娘の価値を認めなく自分の分身を求める
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