ある若妻は妊娠したと思い、とても幸せだった。だが、旅行に出て夫と離れていたとき、束の間の浮気をしてしまった。彼女は母親になるという満足感に満ちあふれ、他のことはすべて、たいしたことはないように思えて、そんなことになったのだ。

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第六章 Ⅱ 束の間の浮気

キーワード 浮気、妊娠、マゾヒズム的、快楽、つわり、過食症、食欲不振、拒食症、流産・異食癖、H・ドイッチュ、分娩、ソフィア・トルストイ、
本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

 束の間の浮気

ある若妻は妊娠したと思い、とても幸せだった。だが、旅行に出て夫と離れていたとき、束の間の浮気をしてしまった。彼女は母親になるという満足感に満ちあふれ、他のことはすべて、たいしたことはないように思えて、そんなことになったのだ。

 彼女は実は受胎の日付が間違っていたことを知った。それは旅行に出ていた時期だったのだ。息子が生まれたとき、急に彼女は夫の子なのか一時の恋人の子なのか不安になった。彼女は欲しがっていた子どもに対する気持ちが分からなくなった。苦しみ、つらい気持ちで、彼女は精神分析医に助けを求める。そして、夫をその赤ん坊の父親だと思う決心をしたときはじめて子どもに関心を持てるようになった。

 妻が夫を愛しているとき、妻は夫がどう感じるかによって自分の気持ちを決めることが多い。妊娠や出産を夫が誇らしく思っているか面倒に思っているかによって、彼女もそれを喜んで迎えたり嫌だと思ったりする。

 時には二人の関係や結婚の絆を強めるために子供を欲しがることもあり、母親が子どもに抱く愛情は、その計画の成功あるいは失敗に左右される。妻が夫に敵意を感じるときは、状況はまた違ってくる。父親の子供に対する所有権を拒否して、わが子にすべてを打ち込むこともあるし、逆に、嫌な子どもだと思って憎むこともある。

 前にシュテーケルの著書から、結婚初夜のことを引用したH・N夫人は、たちまち妊娠したが、あの恐ろしい乱暴な性の手ほどきによってできた娘を一生嫌っていたという。同じように、ソフィア・トルストイの『日記』のなかにも、初めての妊娠に夫の矛盾した気持ちが反映しているのがわかる。

 「この状態の肉体的にも精神的にも耐え難い。肉体的にはいつも具合が悪いし、精神的には、ひどい倦怠。空虚、不安を感じている。そしてリオヴァ[レフの愛称]にとって、私はいないも同然・・・・妊娠している私には彼にどんな喜びも与えられない。

 こうした状態で彼女が見出す唯一の快楽はマゾヒズム的なものである。おそらく夫婦関係がうまくいっていないことが彼女に自己懲罰という小児的な欲求をもたらしたのだ。

 昨日からすっかり具合が悪くて、流産するのではないかと心配している。お腹の痛みは快感さえ感じさせる。子どもの頃、何か馬鹿なことをしでかしたとき、ママは許してくれたけれど、私は自分を許すことはできなかった、あれに似た感じ。私は自分をつねったり、痛みが我慢できなくなるまで手を強くぶったりしたものだった。けれど、それをじっと耐えて、大きな快感を味わった! 

・・・・子どもが生まれたら、またあのことが始まるのだわ。いやだいやだ! なにもかもうんざりする。時がたつのが憂鬱になる。なにもかも陰気。ああ! もしリオヴァが! ・・・」

《胎児》は女の体の一部

ところで、妊娠はとりわけ、女のうちで自分と自分のあいだで演じられるドラマである。女は妊娠で自分が豊かになったように感じると同時に自分が損なわれたように感じる。胎児は女の体の一部であり、また、胎児によって所有されている。胎児は未来全体を要約している。そして、胎児を自分の胎内に育む女は、自分を世界のように広大だと感じる。

 しかし、まさにこの豊かさが女を茫然自失させ、女は自分がもはや何者でもないでもないという印象をもつのだ。新たな存在がそれ自身の存在を主張し、彼女自身の存在を正当化しようとする。彼女はそれを誇らしげに思う。けれども、彼女はまた、自分が得体の知れない力に弄あそばれ、ふりまわされ、犯されているように感じる。

妊娠した女に特異なことは、彼女の肉体が自らを超越しようとするときに内在として捉えられることである。彼女の肉体は吐き気や不快感を感じ、自分の内に閉じこもる。彼女の肉体は、自分のためだけに存在するのを辞める時に、これまでになかったほどかさばってくる。

ものを作る人や行動する人の超越には主体性が宿っている。しかし、未来の母親においては主体と客体の対立がなくなる。彼女は自分の体をふくらませているこの子どもと共に、境界のあいまいなカップルをなし、生命のなかに包み込まれている。自然の罠に捕らえられた女は、植物であり動物であり、膠質(コロイド)の貯蔵庫であり、孵化器であり、卵である。彼女は、自分自身の肉体しかもたない子どもたちを脅えさせ、若者たちに冷笑される。

なぜなら、彼女は人間でありながら、つまり意識、自由でありながら、生命の受動的な道具となっているからだ。生命は、通常は、存在の一つの条件にすぎないが、妊娠すると、創造的なものに見える。しかし、それは偶然性と事実性のなかに実現される奇妙な創造である。妊娠と授乳に大きな喜びを感じて、それをいつまでも続けていたいと思う女たちがいる。

彼女たちは、赤ん坊が離乳すると、満たされない気持ちになる。こうした女たちは、母親というより「産卵鶏」であり、自分の肉体のために自分の自由を放棄する可能性を懸命に求めている。彼女たちは、自分の身体が受動的で多産であることによって自分の実存が証明されるように思われる。

肉体は、まったく活性のないものであるかぎり、低いレベルの超越でさえも具現できない。それは怠惰であり、倦怠である。しかし、新しい生命が芽ばえるとき、肉体は株になり泉になり花になる。肉体は自分を乗り越える。それは充実した現存であると同時に、未来に向かう運動である。かつて女が離乳のときに味わった別離のつらさが償われる。

彼女はふたたび生命の流れに浸り、全体のなかに再統合され、果てしなく連なる世代の鎖のひと目として、他の肉体に対して、他の肉体によって存在する肉体となる。男の腕のなかで求め、与えられるとすぐに拒否された融合を、母親は、自分の重い腹の中に子どもの存在を感じるとき、あるいは、自分の胸に子どもを抱きしめるときに実現する。

母親は一つの主体に従属する客体ではない。また、自由であるがゆえに不安な主体でもない。母親は生命というこの渾然とした現実なのだ。彼女の身体は、彼女自身のものである子どものものだから、ついに彼女自身のものになる。社会は母親が子どもを所有することを認め、そのうえ、それに神聖な性格をおびさせている。

この前まで性愛の対象物であった胸を、母親はおおっぴらに見せびらかすことができる。それは生命の源泉である。宗教画にさえも、胸をあらわにした聖母が息子イエスに人類を赦してくれるように嘆願している様子が描かれている。母親は、自分の身体と社会的威信のなかに疎外されて、自分がそれ自体としての存在、一つの完成した価値であるという心休まる錯覚を抱くのだ。

けれどもそれは錯覚にすぎない。なぜなら母親は本当に子どもをつくるわけではないのだから。子どもが母親のうちにできるのだ。母親の肉体は子どもの肉体を生み出すだけである。彼女には、実存者自身が築くべきものである実存を代わりに築くことはできない。自由から発する創造は、対象の価値を定め、必然性を与える。

一方子どもは母親の胎内でまだ存在理由を持たず、わけもなく増殖するものでしかない。それは単なる事実に過ぎず、その偶然性は死の偶然性と同じものである。母親は子どもというものを欲しいと思う自分自身の理由をもつことはできる。しかし、これから生まれようとしているこの他者にその存在理由を与えることはできない。母親は一般的な身体としての子どもを産むのであって、個別的な実存としての子供を産むのではない。コレット・オドリーの女主人公が次のように言うのは、彼女がこのことを理解しているからだ。

「子どもが私の人生に意味を与えることができると思ったことはなかった。子どもの存在が私のなかに芽ばえ、私は何が起ころうと、たとえそのために死ななければならないとしても、事を早めることができず、予定日まできちんと育てなければならなかった。

そして彼が、私から生まれ出てそこにいた。このように子どもは、私が自分の人生で成すことが出来たかもしれない作品に似ていたけれども、結局はそうではなかった(*9)」

ある意味で、受肉[神がキリストとして、人間となって現れること]の神秘は一人ひとりの女のうちに繰り返される。生まれる子どもはすべて、人間の姿をとった神である。子どもはこの世に生まれて来なかったら、意識と自由として自分を実現することはできないだろう。母親はこの神秘に手を貸すけれど、それを心配しない。

個の存在は彼女の胎内で形作られるが、その究極の真理は彼女の力の範囲を越えている。母親が抱く二つの矛盾した幻想はこうしたあいまいさの表れである。

すべての母親は、自分の子供が英雄になるだろうと考える。このように彼女は一つの意識であり自由である存在を生み出すのだと考えて、感嘆する。しかし同時に障害児や奇形児を生みはしないと恐れている。なぜなら彼女は肉体のおぞましい偶然性を知っており、自分に宿るこの胎児はただの肉体に過ぎないからだ。どちらか一方の神話が優位を占める場合もあるが、たいていの母親は両方のあいだで揺れている。

また、もう一つの曖昧さにも敏感である。種という大きなサイクルに捕らえられた母親は、時間と死に抗して生を主張する。こうして彼女は不死を約束される。しかし同時に、「子どもの誕生は親たちの死である」というヘーゲルの言葉の現実性を自分の肉体において実感する。

妊娠

 ヘーゲルはまた、親にとって子どもは、「彼らの愛から生まれ、彼らの外にこぼれ出た対自在性であり」、逆に、子どもは、「源泉からの分離によって、そうすることで源泉が枯れることになる分離によって」対自在性を獲得する、と言っている。この自己超越はまた女にとって死の予兆である。女が出産を想像する時に感じる恐怖はこの現実を反映している。女は自分の生命を失うのを恐れているのだ。

妊娠の意味はこのように両犠牲であるから、女の態度が矛盾しているのも当然である。だいいち、その意味は胎児の発達段階に応じて変化する。まず強調しておかなければならないのは、初期の過程では子どもはまだ想像上の存在でしかない。母親はこの小さな個体が数ヶ月後には誕生するのを夢見て、揺籠や産着の用意に精出すにしても、具体的には自分の中で起こっている器官現象をぼんやりと感じているにすぎない。

《生命》と《繁殖》について説教する人の中には、女は感じたかいらくの性質で自分が男によって母親になったことを知る、と神秘的に主張する者もいる。これは破棄するべき神話の一つだ。女が妊娠という出来事をはっきり直観することはない。不確かな兆候から結論を引き出すだけである。

月経が止まり、脂肪がついて、乳房が重たくなり痛くなる。めまいや吐き気をおぼえる。時にはただの病気だと思っていて、医者に言われて初めてわかる。こうした女は、自分の身体がこの身体を超越するという目的をもつものを受け入れたことを知る。

つわりの重さは精神的な原因から! 変調は激化する

自分の肉体から生まれるが、自分の肉体とは異なる小さな肉塊が、日に日に女のお腹で太っていく。女は神秘的な法則を押しつける種の餌食である。そして一般に、この疎外は彼女を恐れさせ、その恐れはつわりとなって現れる。このつわりは、一つには、その時期に生じる胃の分泌の変調によって起こるのであるが、他の哺乳類の雌には見られないこの反応が重大なものになるのは、精神的な原因からである。

この反応は、人間の雌において種と個の抗争がおびる深刻な性質を示している(*10)。女が非常に子供を欲しがっている場合でも、いざ子供を産まなければならなくなると、女の身体はまず反抗する。シュテーケルは『不安の神経症状』のなかで、妊婦のつわりつねに子どもに対する何らかの拒否を示していると断言している。

そして、子どもを――自分でもしばしば、何故か分からないまま――敵意をもって迎えるときは、胃の変調は激化する。
「精神分析学は、嘔吐が妊娠や胎児に対する敵意の表現である場合には、心理的な原因でつわりの症状が激化することがあると教えている」とH・ドイッチュは言っている。さらに彼女は、「妊娠のつわりの心理的な意味は、しばしば、妊娠もうそうからくる若い娘のヒステリー性の吐き気と全く同じである(*11)」と言っている。

どちらの場合にも、口から妊娠するという昔からの考え、小児的な女にとって妊娠は、昔と同じように、消化器官の病気と同一視される。H・ドイッチュが引用しているある患者は、自ら吐いたものに胎児の断片が含まれていないか心配して調べていたという。この患者は、こうした強迫観念がばかばかしいことを知っていたとH・ドイッチュは言っている。

過食症、食欲不振、拒食症はどれも同じように、胎児を保存したい気持ちと破棄したい気持ちの間の動揺を示している。私が知っているある若い女性は、ひどい吐き気と頑固な便秘に苦しんでいたが、ある日、彼女自身が私に「同時に胎児を捨ててしまおうとしたり、そのまま置いておこうと努力したりしている感じがするわ」と言った。これはまさに彼女の欲望を明確に表明するものである。アルテュス博士は次のような例(*12)をあげている。要約すると、

T夫人は、強度の吐き気を伴う重い妊娠障害の症状があった・・・・かなり不安な状況で、妊娠中絶を行うことも考えられるほどだった・・・・彼女はがっかりしていた・・・・簡単な精神分析の結果、次のことが分かった。T夫人は、彼女の感情生活で大きな役割を演じていた寄宿学校時代の旧友で最初の妊娠のせいで亡くなった女性と自分を、無意識のうちに同一視していたのだった。この原因が明らかになると、症状は好転した。二週間後、まだときどき吐き気はあったものの、もう危険な症状はまったくなくなった。

流産・異食癖

便秘、下痢、嘔吐はどれもつねに欲望と不安が混ざりあって現れたものである。それが高じて流産することもある。ほとんどはすべての自然流産は、精神的原因からきている。こうした体の不調は、女がそれを重要視して「自分の身をいたわり」すぎるとよけいにひどくなる。

とくに、妊婦の例の「異食癖」は小児的起源をもち、大切に秘められていた強迫観念の表れである。この脅迫罪は、食物で妊娠するという昔からの考えのせいで、いつも食物に関係している。自分の体の異変を感じた女は、精神衰弱の場合によくあるように、この異常感を何らかの欲望で表し、時にはその欲望でがんじがらめになってしまう。その上、かつてヒステリーの文化があったように、異食癖の「文化」が伝統的にでき上がっている。

女は異食癖が現れるのを期待し、待ち構え、でっち上げようとする。私がきいた例では、妊娠した若いある未婚の女は猛烈にホウレンソウが欲しくなって、急いで市場に買いに走り、茹でている間も待ちきれずに地団太踏んでいたという。この女はこうした自分の孤独の不安を表現していたのだ。

自分が頼りにできないことがわかったので、いらいらして、欲望をいそいで満足させようとしたのだ。ダブランテス公爵夫人[1784-1838]は『回想録』のなかで、異食癖が女の周囲の人たちによって有無をいわせず暗示される様子を非常に面白く描いている。彼女は妊娠中にあまりにもまわりから心遣いされたことを嘆いている。

こうした配慮や思いやりは、妊娠初期につきものの不快感や吐き気や神経症などの無数の苦痛を募らせるのです。私はそれを経験しました・・・・ある日、母のところで食事をしていたときに、彼女は始めたのです・・・・「まあ、大変!」と突然、彼女はフォークを置いて、茫然とした様子で私を見ながら言いました。「まあ! なんてことでしょう。おまえの食べたいものを聞くのを忘れていたわ」

「とくにないわ」と私は答えました。
「とくに欲しいものがないですって! そんなこと聞いたことがないわ! おまえ、わかってないのよ。よく注意していないからよ。私からかお姑(かあ)さまに話しておきましょう」

それから二人の母の間で相談がはじまり、夫のジュノはジュノで、私をけむじゃらのイノシシみたいな顔の子を産むのではないかと恐れて、毎朝、「ロール、何か食べた物はないかね?」と尋ねる始末でした。ヴェルサイユから訪ねてきた夫の姉までこの質問のコーラスに加わりました・・・・異食癖を満足させなかったために、変な顔に生まれついた人を彼女は随分たくさん見たという・・・・おしまいには私も恐くなってきました・・・・私は頭のなかで何が一番好きかを考えいみたけれども、全然思い浮かびません。とうとうある日、パイナップルのキャンデーをなめていて、パイナップルならきっと美味しいに違いないと思いました・・・・一度パイナップルが欲しいのだと確信すると、すぐに欲しくてたまらなくなりました。

それからその欲望は、コルスレが「いまはシーズンじゃない」と言ったとき、さらに激しくなりました。おお! そのとき私は、その欲望を満足させるか死ぬかという状態にさせるあの狂乱にも似た苦痛を体験しました。

(ジュノはいろいろ手を尽くして、とうとうボノパルト夫人のおかげでパイナップルを入手した。ダブランテス公爵夫人は喜んで受け取ったが、医者に朝になってから食べるようにと言われたので、匂いをかいだり、さわったりしながら一夜を過ごした。ところが、やっとジュノが切って出すと)

私はお皿を押しやったのです。「だって・・・・どうしたのかしら、私パイナップルを食べられないの」。彼はそのいまいましい皿の上に私の鼻を近づけました。すると、私がパイナップルを食べられないことを断定することが起きてしまいました。パイナップルを片づけるだけではだめで、窓を開けたり、部屋に香水をまいたり、たった一瞬で私にとって我慢のならないものになったあの匂いをほんの少しも残さないようにするために大変でした。この出来事でいちばん奇妙なのは、それ以来、私はよほど無理しないとパイナップルを食べられなくなったことです。

最も病的な現象を示すのは、あまり世話をやかれすぎたり、あるいは、自分で気を付けてすぎたりする女である。妊娠の試練を最もやすやすと通りすぎるのは、かたや、子どもをよく産むという自分の役割に没頭している貫禄ある女であり、かたや、自分の体に起こっていることに気をとられず、そうした変化を楽々と乗り越える覚悟のできている男性的な女である。たとえばスタール夫人は、妊娠をまるで会話を操るのと同じようにてきぱき片づけたものだ。

妊娠・胎児

母親と胎児の関係は変化する。胎児は互いに適応し、両者のあいだの生物学的交換は母親にもとの安定を取り戻させる。彼女はもう種に取り憑かれているとは感じない。彼女の方こそ、自分の腹のなかの果実を所有しているのだ。妊娠の最初の数ヶ月、彼女はどこにでもいるただの女に過ぎなかったし、自分のなかで進行している密かな作業のせいで、彼女の体力は弱っている。

やがて、彼女ははっきりと母になり、彼女の衰弱は彼女の栄光と表裏一体をなす。彼女が苦しんできた体の不自由は、一段と強まり、一つの口実になる。こうして多くの女は妊娠においてすばらしい平和を見出す。自分が正当化されたと感じるのだ。女は自分を注意深く見守り、自分の体の変化に気を付けていたい気持ちがつねにあったが、社会的な礼儀から、あえて自分への関心を抑えてきた。

ところがいまや、そうする権利があるのだ。彼女が自分の満足のためにすることはすべて、子どものためにすることになるのだ。誰もが彼女にあくせく努力するように求めはしない。自分と子ども以外のことは、もう何も心配する必要がない。彼女が大切に育んでいる将来の夢は、現在に意味を与えてくれる。

彼女はただ生きていればいい。休暇を楽しんでいればいいのだ。彼女の存在の理由はそこに、お腹の中に、ある。そして、完璧なまでに満ち足りた気分にしてくれる。「それは、冬の間いつも火のついているストーブのようなもの。そこに、自分だけのためにあり、自分の意のままになるもの。それもまた、夏のあいだ絶え間なく流れている冷たいシャワーのようなもの。それは、きちんとそこにある」と、

H・ドイッチュに引用されているある女は語っている。すっかり満たされて、女はまた、自分が「(妊娠しており)人の関心を引く存在」だと感じる満足感をおぼえる。

それは、彼女が少女の頃からの最も根強い願望であったのだ。妻として、女は夫への依存に苦しんでいた。いまや彼女はもう性的な対象でない。奴隷でもない。その代わりに、彼女は種を体現している。彼女は生命を、永遠を約束するものである。まわりの人たちは彼女に敬意を払い、彼女の気まぐれさえも神聖なものになる。

前に見たように、これが彼女に「異食癖」を思いつかせるのである。「妊娠は女に、普通ならばかげていると見える行為を正当化してくれる」と、H・ドイッチュは言っている。自分なかにもう一人、他の人間が存在することによって正当性を与えられ、女はついに自分自身である喜びを十分に味わうのだ。

コレットは『宵の明星』に、自分の妊娠時のことを次のように書いている。

子を孕んだ雌のうっとりするような幸せが、ひそかに、ゆっくりと私のなかに満ちてきた。私はもう不安とも不幸しも関係なかった。陶酔? のどをごろごろならす猫のような満足? この守護されている感じを科学的にしろ俗な言葉でにしろ何と名づければよいだろう。今でも覚えているくらいだから、ともかくこの守護に満たされていたのだ・・・・

いままで一度も言わなかったこと、つまりこの場合には、私が私の果実[子ども]を準備しながら味
わったこの誇らしい自信というか、平凡なぜいたくのことを黙っているのはあきあきする・・・・毎晩私は、私の人生の良き時の一つに別れを告げた。失われた時を懐かしく思うだろうという事はわかっていた。

しかし、何もかも歓喜、陶酔、のどをごろごろならす猫のような満足に浸されて、私は、増える体重と自分が形作りつつある生命のかすかな呼び声のもたらす穏やかな動物性と無頓着さに身を任せていたのだった。

六ヶ月、七か月・・・・。最初のイチゴ、最初のバラ。この妊娠は、いつまでも続く祝日という以外に何と名づけようがあろう。分娩の苦しみは忘れるが、他と比べようのないこの長い祝日は忘れない。すべてよく覚えている。とりわけ、時間かまわず眠くなり、子どもの頃のように地面や草の上や温まった土の上で寝たいという欲求にとらえられたことを思い出す。これが私の唯一の「欲望」、健康な欲望である。

予定日近くになると、私は盗んだ卵をひきずるネズミのようだった。自分の体をもてあまし、横になるのもいやなほど疲れていることもあった。体の重さ、疲れ、それでも長い祝日は中断されなかった。みんなが私を妊婦のための特権と配慮のみこしに乗せて運んでくれたのだ。

こうした幸せな妊娠を、友人の一人が「男の妊娠」と名づけたと、コレットは書いている。そして実際コレットは、妊娠という状態に、それだけに関りきりにならないから、勇敢に耐える事のできる女の典型であるように見える。彼女は妊娠中も作家の仕事を続けていた。
「子どもが私の方が先よと知らせたので、万年筆のキャップをしめました」
他の女たちはますます不活発になり、自分の新しい重要性をいつまでもかみしめている。少しでもきっかけを与えると、彼女たちは喜んで男の神話を受け入れる。知性の明晰さと《生命》の多産な闇を、明瞭な意識と内面性の神秘を、豊かな自由と巨大な事実性としてそこにある彼女の腹の重みを対比させるのだ。

未来の母は自分の腐植土、耕地、源泉、根と感じる。彼女がまどろむとき、その眠りは世界がたぎり発酵する混沌の眠りである。なかには自分にかかわることが少なく、自分の内で成長する生命の宝に心を奪われる女もいる。
セシル・ソヴァージュが詩篇「芽ばえの魂」で表現しているのはそうした喜びである。

夜明けが平野のものであるかのように、おまえは私のもの私の生命はおまえが包む暖かい羊毛
おまえの寒そうに縮んでいた手足はそのなかでひそやかに伸びていく
もっと先には

おお、私がおそるおそる愛撫する真綿にくるまれたおまえ
私の花に結ばれた小さな芽ばえの魂よ
私の心の一片でおまえの心をつくろう
おお、綿のように柔らかな私の果実、小さなぬれた口よ

また、夫に宛てた手紙では、

おかしいのよ、なんだか自分が小さな惑星の形成を手伝っているような。もろくて壊れそうな球体をそっと丸めているような気がするの。こんなに身近に生命を感じたことはなかったわ。こんなにはっきり、精気と活力に満ちた大地を姉妹みたいに感じたことはなかったわ。

大地の歩私の足はまるで生きもの上を歩いているような気がします。私はフルートや目を覚ましたミツバチや露で満ち溢れた日を思うのです。なぜって、ほらまたあの子が私の中で踏ん張ったり動いたりしているから。

この芽ばえの魂がどんなに私の心に春の瑞々しさと若さを与えてくれているか、あなたにわかってもらえたら。そして、それはピエロの子どもっぽい魂で、彼の目のような二つの大きな無限の目を私は存在の闇のなかでつくっているのだと考えてみてください。

逆に、徹底的なコケティッシュで、基本的に自分を性愛の対象と考えていて、自分の肉体の美しさを愛している女の場合は、体の形が変わって、醜くなり、欲望をそそる事が出来なくなるのを苦にする。こうした女たちにとって妊娠は祝日でもなければ充実でもない。それは自我の縮小のように思われる。

なかでも、イサドラ・ダンカンの『わが生涯』には次のように書かれている。

いままでは子どもの存在が感じられるようになった。・・・・大理石のようにきれいだった私の身体はゆるみ、くずれ、変形していく・・・・海辺を歩きながら、ときどき私はありあまるほどの活力、精力を感じ、この小さな存在は私のもの、私だけのものになるのだと思ったものだった。けれども、また別の日には・・・・自分が罠にかかった哀れな動物のような気がするのだった‥‥希望と絶望に交互にとらわれながら、私はよく若い頃の長旅、気まぐれな散策、芸術の発見のことなどを考えたものだった。

そうしたものすべては霧のなかに消えてしまった古い劇の除幕にすぎず、結局はどんな百姓女にも手の届く傑作、子どもの誕生を待つことしかないのだった・・・・私はあらゆる種類の不安にとらわれ始めた。女はみんな子どもをもつものだから、と自分に言い聞かせたが無駄だった。それはただの自然なことだったのに、私は怖かった。

何が怖いというのか。たしかに死が怖いわけでも、もちろん苦痛が怖いわけでもなかった。自分でも知らない何かに対するそれまで味わったことのない恐れだった。私の美しい身体は、驚いている綿にお構いなくますます変形していった。泉の妖精のような私の野心や名声はどこに行ったのか。

我にもあらず、私はよく自分がみじめで敗北者であるように感じた。人生と、この巨人との戦いは初めから勝負にならなかった。けれどもそんなとき、生まれてくる子どものことを考えると、私の悲しみはすっかり消え去るのだった。闇のなかでの、耐え難い時機の時間、母になるという栄誉のために私たちは何と高価な犠牲を払う事か。

妊娠の末期の段階

妊娠の末期の段階になると、母と子の分離が開始される。女たちは、それぞれに子どもの最初の動きを感じる。世界の扉をたたくあの足の蹴り、世界と自分を隔て、閉じ込めている腹の壁をたたくあの足の蹴りを。ある女は、自律した生命の存在を知らせるこの合図を感嘆の思いで迎える。

別の女は、自分が他の人間を入れる容器になっていると思って嫌悪を感じる。ふたたび、胎児と母体の結合が乱れてくる。子宮が下がり、女は圧迫感や、緊張感、呼吸の困難を覚える。今度は、漠然とした種にとりつかられているのではなく、生まれ出ようとするこの子に捕らわれているのだ。

それまで子どもは単なるイメージ、希望に過ぎなかったが、いまでは存在の重みをもっている。その実在感が新たな問題を生む。すべて過度期は不安である。分娩は特別に恐ろしいものに見える。予定日が近づくと、彼女のあらゆる小児的な恐怖がふたたび息を吹き返す。

何かの罪悪感から母親に呪われていると思い込むと、彼女は自分がもうじき死ぬのだとか、あるいは子どもが死ぬだろうと信じたりする。トルストイは『戦争と平和』のなかでリーザーという人物をとおして、分娩に死の宣告を見る小児的な女の一人を描いた。そして実際に彼女は死ぬ。

どんな出産になるかは場合によってかなり違ってくるだろう。母親は自分の大切な一部である肉の宝このままお腹に入れておきたいと思う一方、邪魔者を厄介払いしてしまいたいと思う。自分の夢についてはこの手に抱きたいと思うが、それが現実化するのに伴って生じる責任には不安をおぼえる。

どちらかの思いがもう一方に勝つこともあるけれど、たいていはどちらともつかない分裂した気持ちだ。またほとんどは、苦しい試練に臨むときになっても、気持ちがスッキリ定まっているわけではない。自分やまわりの人々――母親はとか夫――に自分が誰の助けもなしにこの試練を乗り越えられるところを証明したいと思う。

だが他方では、自分に与えられた苦痛のせいで世界や人生や近親者を恨み、抗議のために消極的態度をとったりする。自主的な女たち――円熟した女や男性的な女――は出産の直前や最中に積極的役割を果たそうと努める。非常に子どもっぽい女たちは助産婦や母親に完全に任せっきりだ。声をあげないのを誇りにする女たちもいる。どんな指示も受け付けない女たちもいる。

全体的には、この重大な場面で女たちは一般的には世界に対する、個別的には自分の母性に対する根本的態度を示していると言える。たとえば、彼女たちは毅然としたり、あきらめていたり、要求が多かったり、威張ったり、反抗的だったり、無気力だったり、緊張したり・・・・といった態度を示す。

こうした心理的傾向は出産の長さと難しさに相当の影響を与える(出産が純粋に体質的要因に左右されるのはもちろんであるが)。重要なのは、正常な場合でも――一部の家畜の雌のように――女は自然に与えた役割を果たすための手助けを必要とすることだ。粗野な風習をもつ農婦や恥じている未婚の母たちは自力で出産する。

だがほとんどの場合、彼女たちの孤独は子どもの死や母親に不治の病をもたらす。女は自分の女としての運命を果たし終えるときまだ依存状態でいるのだ。このことはまた人間という種においては自然と人為的かがけっして明確に分けられないことを証明している。自然のままでは、個としての女の利益と種の利益との対立は深刻になるので、多くの場合母親が死ぬか、さもなければ子どもが死ぬという事態を招く。

かつて頻繫におこっていた事故を大幅に減少させた――あるいはほとんどなくした――のは、医学つまり外科学の人為的な医療処置である。いまや無痛分娩法が、聖書の確信「汝、苦痛のうちに産むべし」を否定しようとしている。アメリカではこの分娩法が一般的に用いられているが、フランスでは、1949年3月に政令によって、この方法が義務づけられたばかりである(*13)

 無痛分娩法が女に免除してくれる苦痛とは正確にはどんな苦痛なのか、それは知るのは難しい。分娩は24時間以上かかることもあれば、二、三時間ですむこともあるので、どんな一般化もできない。ある女たちにとっては受難のようなものである。イサドラ・ダンカンの場合がそうだ。彼女はひどい不安のなかで妊娠を体験していた。そしておそらく心理的抵抗が分娩の痛みをいっそうひどくしたのだ。
彼女は次のように書いている。

スペインの宗教裁判所についてあれこれ言われているが、子どもを産んだ経験のある女ならどんな女も裁判所など恐れるに足りないはずだ。比べてみればそんなのはたやすいことだ。絶え間なく休むことなく容赦なく、目に見えない残酷なこの霊は私の首根っこを押さえ、骨と神経をずたずたにした。

それほどの苦しみもすぐに忘れてしまうものだと人は言う。それに対する私の答えはただ一つ、私の叫び、呻き声をもう一度聞こうと思えば目を閉じるだけで十分だということ。

性的快楽を見出す女たち

反対に、これを比較的簡単に耐えられる試練だとみなす女たちもいる。少数ながら性的快楽を見出す女たちもいる。ある女性は次のように書いている。

私はたいへん性的に敏感な人間なので、出産そのものが私たちにとっては性行為なのです。私についてくれたのはとても美しい「婦人」でした。彼女が入浴させ、洗浄してくれました。それだけで十分、神経がぞくぞくし、すごく興奮しました(*14)

分娩のあいだ創造的力を発揮しているように感じたと言っている女たちもいる。実際彼女たちは積極的に生産的労働を果たしたのである。逆に、多くの女たちは自分を受動的なもの、拷問にかけられ苦しむ道具のように感じていた。

赤ん坊が生まれて、母親が最初にもつ感想もまたさまざまである。ある女たちは自分の体にいま感じている空虚さに苦しむ。宝物が盗まれてしまったような感じなのだ。

わたしは言葉をもたない巣箱
ミツバチは空に飛び立っていった
もう餌をもっていくこともない
わたしの皿からおまえの弱い体まで
わたしは閉じられた家
いまがたひとりの死者が運び出されていったばかりの

このようにセシル・ソヴァージュは書いている。そしてさらに、

おまえはもうわたしのものではない。おまえの頭はすでに彼方の地のことを考えている

また、

かれは生まれた、わたしは幼いいいとし子を失ったのだ。
たったいま彼は生まれてしまった。わたしは独り、わたしは感じる、
わたしのなかで血の空虚がおののくのを・・・・

しかし一方で、非常に若い母親には感嘆するほどの好奇心がある。自分のなかで生き物が形成され、自分の外に出ていくのに立会い、それを手に抱くというのはなんとしてもふしぎな奇跡なのだ。だが、新しい存在を地上に押し出すという驚くべき出来事のなかで、母親は正確にはどのような貢献をしているのだろうか。

彼女にはわからない。母親がいなくなれば子どもは存在しないだろう。にもかかわらず、子どもは母親から離れていく。子どもが自分から切り離されて、外に出て行くのを見るのは思いもよらない悲しみである。ほとんどつねに失望感がともなう。女は自分の手と同じくらい確かなものとして赤ん坊を自分のものと感じたい。けれど、赤ん坊が感じていることは赤ん坊本人のなかに閉じ込められている。

赤ん坊は不透明で不可解で別個のものだ。母親は赤ん坊のことを知っているわけではないので、それだと確認することさえできない。母親は赤ん坊とともに妊娠を生きているのではない。この小さな未知のものと共有する過去は全く持っていない。

とはいえ彼女はこの未知のものが自分にとってすぐに親しい存在になると考えていた。しかしそうではなかった。それは新参者だ。そして、彼女は自分が赤ん坊を迎える際のそっけなさに呆然とする。妊娠中にあれやこれや夢想している時、赤ん坊は一つの観念的イメージであり、無限であった。母親は観念のなかで未来の母親を演じていた。

いまや、それはまったくちっぽけな有限の個人で、要求の多い、か弱い、偶然のそんざいとして、ほんとうにそこにいる。ついに赤ん坊がそこにいる、たしかに現実にいる、という喜びは、赤ん坊がそのようなものでしかないという後悔となる。

授乳

若い母親の多くが分離を経て親密な動物的関係を子どもに再び見出すのは授乳を通してである。それは妊娠の疲労よりもしんどい疲労である。しかしこの授乳によって、母親は妊娠した女がゆっくり楽しむ「休息」、安らぎ、充足の状態を続ける事が出来るのだ。
コレット・オードリーは小説の主人公の一人について書いている。

赤ん坊がお乳を吸っているとき、ただそれだけがするべきことだった。それが何時間か続くこともある。あとのことをあれこれ考えたりはしなかった。お腹がいっぱいになったミツバチのように赤ん坊が乳首を離すのを待つしかない(*15)

しかし、授乳できない女たちもいる。彼女の場合、最初の数時間の茫然とするような冷淡さがそのままかなり続くので、子どもとのあいだに具体的関係がもてなかったのである。とくにコレットの場合がそうだった。彼女は娘に授乳できなかった。彼女は初めて母親としてもった感情をいつものように素直に描いている(*16)

それから、外からではなく我が家にやって来た一人の新参者をじっと見つめた・・・・私は十分な愛情をもってじっと見つめていたのだろうか。そうだという言う勇気はない。たしかに私はいつものように――まだそれが習性となっていたのだが――感嘆していた。数々の奇跡の場合であるような赤ん坊に驚愕していた。

バラ色の小海老の膨らんだ鱗に似た透明なその爪、大地に触れることもなく私たちの所にやって来たその足の裏。地上の光景と夢想する青い目の間に置かれた頬のうえにかかるまつ毛の羽毛のような軽さ。小さな性器はほとんど割れ目のないアーモンド、二枚貝、正確には閉じられた二枚貝、そして触れ合う唇と唇。

けれども、娘に捧げた細やかな賛辞に私は名を与えなかったし、それを愛情とは感じなかった。私は待ちわびていた・・・・私の命がこれほど長く待っていた光景から私は子に魅せられた母親たちの注意深さや競争意識を引き出せなかった。とすれば、いつ、第二のもっと難しい侵害をする合図が私の所に来るのだろうか。

いろいろな注意、束の間の嫉妬の高まり、みせかけの用心や本物の用心、私がささやかな債権者となっている一つの生命を意のままにできるという高慢さ、他の人間に謙虚さを教えるという少々欺瞞的な意識、こうしたことすべてがついには私を普通の母親に変えてしまうのを受け入れなければならなかった。

それでも、私の心がはじめて平静を取り戻せたのは、その魅惑的な唇から理解できる言葉が発せられるようになってから、いろいろわかってきて悪戯や愛情表現さえもできるようになって、赤ちゃん人形から一人の娘に、一人の娘から私の娘! になったからであった。

新しい責任に恐れをなす母親たちも数多くいる。妊娠中、彼女たちは自分の肉体のなすがままにしていればよかった。率先してやるべきことはどんなことでも要求されなかった。ところがいまや、彼女に対して権利をもつ一人の人格が目の前にいる。病院にいるあいだは彼女たちはまだ楽しく吞気で、子どもを熱心に可愛がるが、家に帰るや子どもを重荷のように見なし始める。授乳してもなんの喜びもない。

反対に、彼女たちは乳房の形を悪くするのをひどく恐れるようになる。乳腺が痛いと思うのは恨みからである。子どもの口が乳房を傷つける。子どもが人の力、生命、幸福を吸い込んでしまうように思われる。もう自分の一部ではないにもかかわらず、子どもがしんどい義務を押しつけてくる。子どもは専制君主だ。彼女は自分の肉体、自由、自我そのものを脅かすこの小さな見知らぬ個人を敵意をもって眺める。

他にも多くの要因がかかわっている。出産した女の、自分の母親との関係は相変わらず重要である。H・ドイッチュは自分の母親が会いに来るたびにお乳が出なくなってしまった若い母親の例をあげている。彼女はしばしば他に助けを求めているのだが、他の女が赤ん坊の世話をやくのに嫉妬し、赤ん坊に対して不機嫌になる。

子どもの父親との関係、父親自身が抱いている感情もまた大きな影響を与える。経済的理由、感情的理由の全体から、子どもが重荷、束縛とみなされたり、あるいは解放、喜び、安心とみなされたりする。敵意がはっきりした憎しみとなり、それが極端な無視や虐待となって現れる場合もある。

ほとんどの場合、母親は自分の義務を自覚し、そうした憎しみと闘う。彼女は後悔を感じ、その結果苦しむようになり、妊娠期の不安を長く引きずることになる。どの精神分析家も認めているように、自分の子どもを傷つけるのではないかという強迫観念の中で生きている母親、つまり恐ろしい事故を想像する母親は、抑えようと努めながらも子どもに敵意を感じてしまうのである。

いずれにしろ、注目すべきことは、そして母子の関係と他の人間関係とを区別するものは、初めてのうち子ども自身はこの関係とを区別するものは、初めのうち子ども自身はこの笑顔、片言は母親がそれに与える意味以外の意味をもたない。

母親に子どもが魅力的なもの、かけがえのものに思われたり、あるいは面倒なもの、どうでもよいもの、我慢のならないものに思われたりするのは、子ども自身とはかかわりなく、母親次第のことなのである。だから、不感症の女、性的に満たされない女、鬱状態の女が、自分自身から抜け出したいと思って、子どもが、一緒にいて相手をしてくれる人、熱中するもの、刺激になるものになってくれると期待しても、つねに期待を完全に裏切られることになる。

思春期、性の入門、結婚を「通過」することと同じように、妊娠・出産を「通過」することは、外的出来事が自分の人生を一新し、そして正当化してくれると期待する人々にあっては、陰鬱な失望を引き起こすのである。ソフィア・トルストイに見られるのはこうした感情である。彼女はこのように書いている。

この九ヶ月は私の人生で最悪だった。十ヶ月目については何も言わない方がましだ。

彼女は日記に型通りの喜びを書きとめようと空しい努力をする。私たちに強い印象を与えるのは、彼女の悲み、責任に対する不安である。

「すべてが終わった。産み終わったのだ。相応の苦しみも経験した。私は回復し、生活の中に少しずつ戻っていく、子どもに対し、また、とくに夫に対して絶えず不安と心配を抱きながら、何かが私の中で壊れてしまった。何かが私にずっと苦しむことになるだろうと言う。それは、私の家族に対して義務をきちんと果たせないのではないかという不安なのだと思う。

私はありのままの自分でいることをやめた。なぜなら、私は子どもたちに対する女のこのありふれた感情に不安を抱き、夫を愛しすぎることに恐れを感じるから。
人は夫と子どもを愛することは美徳だという。時には、この考えが私の苦しみを和らげてくれる・・・・母親の感情というのはなんと強いことか、母であることはなんと私には自然なことにおもわれることか。それがリヴァの子どもだから。だから、私はこの子を愛するのだ」

しかし、彼女が夫に対してこれほどの愛情をひけらかすのは夫を愛していないからに他ならないということがわかる。こうした反感は、女の嫌悪感を催させる抱擁のなかで孕まれた子どもに影響を及ぼす。

K・マンスフィールドは、夫を深く愛していながらその愛撫をいやいやながら受ける若い母親の戸惑いを描いている。この母親は子どもたちに対して優しさと空虚感を覚えている。憂鬱になりながら彼女は、その空しい感じを完全な無関心と解釈する。リンダは、庭で末っ子をそばに寛がせながら、夫スタンレーのことを考える。

今は、彼女はスタンレーと結婚していた。しかも彼を愛していた。みんなが知っているスタンレーではなく、日頃のスタンレーでもない、毎晩お祈りの為にひざまずく内気で神経質で純真なスタンレーを。けれども。不幸だったのは・・・・ほんとうにたまにしか自分のスタンレーを見られなかったことだ。さっと日の光が輝いたり平穏な瞬間があったが、残りの時間は、いつ火が燃え上がってもおかしくはない家で、毎日遭遇している船で、暮らしているようなものだった。

そして、危険の只中にいるのはいつもスタンレーだ。彼女は彼を救い介抱し落ち着かせ話を聞くことにすべての時間を費やしていた。あとの時間は子どもをもつのは女の運命で誰でもやることだと言うのはご立派なことだが、それは真実ではない。たとえば彼女が、それは間違っていることを証明できるだろう。

何回かの妊娠によって、彼女はくたくたになり、身体は弱り、気力が衰えてしまった。最も堪えがたいことは子どもたちを愛せないことだった。誤魔化してもだめだった・・・・いや、それはあたかも冷たい風が恐ろしい度毎に吹いて彼女を凍らせてしまったかのようであった。もう子どもたちに与える温かさは残っていなかった。

赤ちゃんを愛せない

この幼い男の子に、ああ、なんてこと! 神様のお恵みで、この子は彼女の母親。ベリル、この子を欲しいと思う人の者だ。彼女は彼を腕に抱いたことはまったくないといいっていいほどなかった。子どもは、彼女の足元に横たわっていても、彼女にはほとんど無関心だった。彼女は見おろした・・・・子どもの笑顔には何かとても奇妙なもの、思いがけないものがあった。

 今度はリンダが微笑んだ。しかし、彼女は我に返り。子どもに冷たく言った。「私は赤ちゃんが愛せないの――おまえだって、赤ちゃんを愛せないでしょ」。子どもはそれを信じる事ができなかった。「お母さんはぼくを愛してくれないの?」。彼は愚かにも母親に腕をさしだした。リンダは草の上に転んだ。

「なぜずっと笑っているの?」。彼女は厳しい口調で言った。「私の考えていることを知ったら、笑ってなんかいられないだろうに・・・・」。リンダはこの小さな被造物が自分に寄せる信頼に大きな衝撃を受けた。ああ、いけない、真摯でなければ。

彼女が感じたのはそういうことではなかった。それとは全く違う何か、もっと新しい何か、もっと・・・・涙が目のなかでゆらゆらした。 彼女はやさしくささやいた。「こんにちは、私の小さな子ども・・・・」

これらの例は母性「本能」というものが存在しないことを示すに十分である。この言葉はいかなる場合にも人類には適用されない。母親の態度は彼女が置かれた状況全体によって、そして彼女がそれをどのように引き受けるかによって決まる。これまで見てきたように、母親の態度はきわめて多様である。

とはいって、環境が明日に母親に不利となっていなければ、彼女が子どものなかに自分を豊かにしてくれるものを見出すのは確かである。

それは彼女自身の存在の現実性に対する一つの返答のようだった・・・・子どもを通してまず初めに彼女はあらゆることに、そして自分自身に手がかりを得たのだ。

このようにC・オードリーは若い母親について書いている。彼女は他の母親には次のような言葉を語らせている。

「わたしの腕のなかにいる赤ん坊は、世界にこれ以上重いものがあるかしらというように、もう限界と言えるほどずっしりと重かった。沈黙と夜のなかで彼はわたしを地中に埋めた。一挙に、彼はわたしの肩に世界の重荷を背負わせてしまった。たしかにそれで私が子どもを欲しいと思った理由だった。わたしひとりではあまりにも軽すぎたのだ」。

母親であるといより「産卵鶏」のような女たちもいる。彼女たちは、子どもが乳離れするやあるいは生まれたばかりでも、子どもに関心を失い、次の妊娠をしたいとそればかり考える。反対に、多くの女たちは子どもがもたらすものは別離そのものだと感じている。子どもは分離できない自分の一部ではなくなり、世界のごく小さな一部となる。

ひそかに体に取り憑いている存在なのだ。分娩による鬱状態のあと、セシル・ソヴァージュは子どもを所有できるという母親の喜びを綴っている。

「これまでおまえは、わたしの小さな恋人
ママの大きなベッドのうえで
わたしは接吻し、抱きしめて、
おまえのすばらしい未来に思いを巡らすことができるのだ
こんにちは、わたしのかわいい彫像
血、喜び、裸の肉体でできた
わたしの小さな分身、わたしのときめき・・・・」

男の性器がもつ価値

女は幸いにも子どもにペニスの等価物を見出すのだと繰り返し言われてきた。これはまったく不正確である。事実は、成人の男はもう自分のペニスをすばらしい玩具とみなしていないのだ。なぜなら、男の性器がもつ価値、それは性的欲望をそそる対象がもつ価値なのだ。同じように、大人の女が男を羨ましく思うのは、男がものにする獲物についてであって、獲物を自分の物にするための道具についてではない。子どもは、男の抱擁によっては満たされないこの攻撃的官能性を満たしてくれる。

というのは、子どもは女が男にもたらす愛人と同じ種類のものであるからだ。女にとって男はこうした愛人ではないのだ。もちろん、まったく完全に同じ等価物というものはないのだ。あらゆる関係には独自性があるからだ。母親は子どものうちに――恋する男が恋人の女のうちに見出すのと同じように――官能の充足に見出す。そして、それが見出されるのは降伏の状態ではなく支配の状態においてである。

母親は子どものなかに男が女に求めるものを捕らえるのである。自然であり意識である一人の他者、自分の獲物であり分身である他者を。この他者は自然全体を具現している。C・オードリーの小説の主人公は、彼女が何を子どものなかに見出したかを私たちに語ってくれる。

肌はわたしの指のためにあり、それはすべての子猫たち、あらゆる花々の約束を守っていた・・・・

子どもの肉体は、女が幼い頃には母親の肉体を通して、もっと大きくなってから世界のいたるところで手にしたいと願った。そのような柔らかさ、心地よい弾力性をもっている。子どもは植物であり、動物だ。その目には雨や川、空や海の青さがある。その爪はサンゴのようで、髪の毛は絹のような植生である。

子どもは生きた人形、鳥、子猫、私の花、私の真珠、私の雛、私の子羊・・・・母親はほとんど恋する男のような言葉をささやく。

そして同じく所有形容詞をやたらと用いる。愛撫、接吻など男と同じ独り占めの方法を使う。嫌がるのに子どもを抱きしめる。腕の温かさで、ベッドの温もりで子どもを包み込む。時には、この関係ははっきりした性的特徴をおびる。すでに引用したが、シュテーケルが集めた告白のなかにこれを読み取る事が出来る。

私は息子にお乳をやっていましたが、息子は大きくならないし、二人とも痩せたので、なんの喜びも感じませんでした。授乳は私にとっては何か性的なものでした。お乳を与えながら、恥ずかしいという感じがありました。ぴったり寄せてくる温かい小さな体を感じるとなんともいえない興奮を味わいました。可愛い手が触れてくるときは、ぞくぞくしました・・・・私は全身全霊をかけて息子を愛し、息子と私は四六時中といっていいほど一緒でした。

ベッドに私を見つけるや、そのとき息子は二歳でしたが、ベッドの方に這ってきて、私の上に乗ろうとしました。彼はその小さな手で私の乳房をなで、指を使って降りようとしました。それが私には快感で、息子をどけるのに苦労するほどでした。私はしばしば息子のペニスと戯れたいという誘惑と闘わなければなりませんでした。

子どもが大きくなると、母親であることは新しい様相をおびる。生まれて最初のころ子どもは「標準語な赤ちゃん人形」というだけで、一般性のうちにしか存在していない。子どもは少しずつ個性を示すようになる。そうなると、支配欲が強い女や非常に官能的な女は子どもに対する熱が冷めてくる。

反対にこの時期になって、コレットのような女たちは子どもに関心を持ち始める。母親と子どもの関係はしだいに複雑になってくる。母親にとって子どもは分身で、時には彼女は子どものうちに完全に自己疎外しようとする。しかし子どもは自律した主体である。だから反抗するし扱いにくい。

いまここにいる子どもが現実の子どもだが、想像上では将来の青年であり大人である。子どもは豊かさ、宝であると同時に重荷、専制君主だ。母親が子どもに見出すことができる喜びは無私無欲の喜びである。母親は仕え与え幸福を作り出すことに喜びを感じなければならない。そのような母親をC・オードリーは描いている。

それで、彼は本に書いてあるような幸福な子ども時代を送った。けれど、絵葉書のバラとほんもののバラが違うように、彼の子ども時代は本に書かれた以上のものだった。そして、彼の幸福は、私が与えて育てたお乳と同じように、私から出たものであった。

恋する女のように、必要とされていると感じて母親は有頂天になる。あれこれ要求をとおして彼女の必要性が証明され、彼女はそれに応える。しかし、母親の愛を困難なもの、そして偉大なものにしているのは、そこに相互性がないことである。彼女が相手にしているのは男、英雄、半袖ではなく、偶然存在するか弱い肉体に包まれた片言をしゃべる小さな意識である。子どもはいかなる価値ももっていないし、価値を与える事も出来ない。

つづく 六章 Ⅲ 子供への虐待
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