結婚当初から性的関係にカップルの個性が反映されることもありうる。あるいはまた、ゆっくり順を追って性の修得がなされる場合もある。さらに、初夜からすでに夫婦が互いに幸運な肉体的魅力を見出していることもある。結婚は、今でもよく肉体につきものとなっている罪の観念を取り除くことで、女が楽に身を任せられるようにする。
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第二部 女が生きる状況

本表紙 第二の性 体験 ボーヴォワール著

第五章 Ⅰ結婚した女

社会が伝統的に女に勧める運命は結婚である。今日でも女の大部分は、結婚しているか、かつて結婚していたか、これから結婚するつもりでいるかのどれかである。

 独身の女は、本人が結婚という制度に不信感を抱いていようが、反発していようが、無関心であろうが、必ず結婚と関連して定義づけられる。したがって、この研究はまさに結婚を分析し続けていかなければならない。

 女の地位が経済面で発展するにつれて結婚制度も大きく変わりつつある。結婚は自律した二人の個人が自由に合意する結合になったのだ。夫婦の契約は個人にかかわる相互的なものである。不倫は当事者双方にとって契約の破棄通告であり、どちらの側も同じ条件で離婚することができる。

 女はもはや生殖の役割だけに閉じ込められることはない。生殖の役割は自然が女に命ずる義務という性格をほとんど失い、女が自分の意志で引き受ける任務というかたちをとっている(*1)。そしてそれは生産労働と同一視されている。というのも、多くの場合、国や雇用主が出産休暇中の賃金を母親に支払わなければならないからである。

 ソ連では数年のあいだ、結婚は夫婦の自由意志のみに基づく個人間の契約だと考えられていた。今日それは、国家が夫婦双方に課する義務となっているようだ。世界では将来いずれの傾向が優位を占めるかは、社会の全体的な構造によってきまるだろう。

 いずれにしろ、男による保護はなくなりつつある。とはいえ、私たちの生きている時代は、フェミニズムの観点から見れば、まだ過度期である。生産活動に参加しているのは一部の女だけであり、そうした女たちは旧態依然として構造や価値観が残っている社会に属しているのだ。現代の結婚も、そこに温存されている過去を手掛かりとしなければ理解できない。

 結婚はつねに、男の場合では根本的に異なる様相を示して来た。男女はお互いに異性を必要とするのに、この必要性が両性間に相互性をもたらすことは決してなかった。女たちは、男のカーストと対等に取引や契約を交わすような一つのカーストを形成したことが全くない。

 社会的に見れば、男は自律的で完全な一個の人間である。男にはまず生産者と見なされ、その存在は彼が集団に提供する労働によって正当化される。一方、女が閉じ込められている生殖と家事の役割がなぜ女に男と対等の尊厳を保証しなかったのはすでに見た(*2)

男は女を必要とする。未開民族の一部では、妻のない男が一人で生計を立てられず、一種ののけ者となることもあるし、農耕社会の農民にとって女手は不可欠である。また大半の男にとって、一定の雑役を伴侶に肩代わりさせることは好都合である。

それに個々の男は安定した性生活を望み、子孫を欲しがり、社会もまた個人に対して社会の存続に貢献するように求める。しかし、男は女にじかに呼びかけているわけではない。男社会が、その成員の男たちそれぞれが夫や父親になれるようにしているのだ。

父親や兄弟が支配する家族集団に奴隷または隷属として組み込まれている女は、結婚の形でつねにある男集団から別の男集団に贈与されてきた。最初、氏族や父系氏族は女をほとんど品物同然に自由に処分している。女は二つの集団が互いに承諾する贈与品の一部なのだ。

こうした女の地位は、結婚が変化(*3)の過程で契約形態をとるようになってからも、根本的に変わることはなかった。持参金を与えられたり遺産を相続するようになると女は市民になったように見えるが、持参金や遺産は女をいつそう家族に縛り付ける。長い間、結婚契約に署名するのは妻と夫ではなく新婦の父親と新郎であった。

当時は経済的に自立できたのは寡婦のみであった(*4)。若い娘の選択の自由はつねに厳しく制限されていた。独身身分は、宗教的な性格を帯びる場合は例外として、女は寄食者やのけ者の身分に格下げするものであった。結婚は女の唯一の生計手段であり、自分の存在を社会的に正当化する唯一の手段なのである。結婚は二重の意味で女に押し付けられる。

まず、女は社会に子どもを与えなければならない。しかし――スパルタのように、またナチス体制下でもいくぶんそうだあったように――国家が直接、女の後見役となり、女に母親であることだけを求めるというケースは稀である。

父親の生殖者としての役割もしらずにいる文明でさえ、女が夫の保護下に置かれているよう要求している。次に、女はさらに男の性的要求を満たし、家庭の面倒を見る役割をあてがわれる。社会が女に課す任務は、夫への勤めと見なされる。したがって、夫は妻にさまざまな贈物や寡婦資産を与える義務があり、妻を扶養する義務を負う。社会は夫を介して、社会に対する女の貢献に報いるわけである。

 妻が自分の義務を果たすことで獲得する権利は、男が従うべき責務となって現われる

男は好き勝手に夫婦関係を解消することはできない。離縁・離婚は公権力の決定によってのみ可能であり、男が金銭保証の義務を負う場合もある。この慣習はボケンラネフ[ギリシア名はボッコリス。エジプト第二四王朝の王、在位前720-715]治下のエジプトで濫用されるようになったが、今日でもアメリカ合衆国において「扶助料」[別居中または離婚後、夫から妻に与えられる手当]というかたちで続いている。

 一夫一妻は多かれ少なかれつねに公然と許されてきた。男は、奴隷女、妾、内縁の妻、愛人、娼婦などをベッドに連れ込んでもよいが、正妻のいくつかの特権は尊重しなければならない。正妻は、虐待されたり権利を侵されたりしたと感じれば、程度の差はあれ具体的に保証されている手段に訴えて実家に戻り、自分の方から別居や離婚を獲得できる。

 したがって、夫婦の双方にとって、結婚は責務であると同時に特典でもある。だが妻と夫の状況は釣り合いが取れていない。結婚は若い娘が社会集団に組み込まれる唯一の手段であり「売れ残った」娘は社会的に落ちこぼれになる。だからこそ母親たちはいつもあれほど血眼になって娘を片付けようとするのだ。

 19世紀のブルジョア階級においては、本人への相談などないも同然だった。娘は、予めてはずの整えられた「見合い」でたまたま出てくる求婚者に提供されたのである。ゾラはこの慣習を『ごった煮』の中で描いている。

 「失敗、失敗よ」ジョスラン夫人は椅子の上の身を投げ出しながら言った。ジョスラン氏は「ああ」と言っただけ。と、鋭い声が「それにしても、わかってらっしゃらないのね、本当に。今度もお流れになりました。これで四度目ですわ!」

 ジョスラン夫人は娘の方に歩み寄り、続けた。「聞いているの? どうして、またしてもしくじったのよ!」
 ベルトはおいでなさったと思い、呟いた。「よくわからないのよ、ママ」。母親は続ける。「課長補佐、三十前で前途洋々。毎月お給料が入って来て、堅実そのもの。何も問題はないのに・・・・また何か馬鹿なことをやったのね、前の時みたいに?」

 「絶対にしてないわ、ママ」
 「二人で踊りながら、小さなサロンの方に行ったじゃないの」
 ベルトはどぎまぎした。「そうなんだけど・・・・でも二人きりになったとき、あの人嫌らしいことをしようとしたの。こんなふうに抱きついてきてキスしたのよ。それで怖くなって、戸棚に押し付けたの」

 母親は怒り狂ってさえぎった。「戸棚に押し付けた! ああ、何てことを。押し付けたなんて!」
 「でもママ、あの人、私に抱きついたのよ」
 「それがどうしたの。あの人はあなたに抱きついた・・・・たかがそんなこと! こんな馬鹿娘は寄宿舎に入れろってね! いったい何を教わったのよ! ドアの後ろのキスが何だというんです! そんなこと、よくも親に言えたもんだわ! しかも男を戸棚に押しつけて、何べんも結婚しそこなうってわけよ!」

 母親はもったぶった態度になり、続けた。
「もうおしまいね、いやになる。あなたは馬鹿ですよ・・・・あなたは財産がないんだから、別の手で男を捕まえるしかないでしょう。愛想よくして、優しい目で、手だって握らせておいて、子どもじみた真似をされても気づかないふりをして許してやる。要するに夫を釣り上げるのよ。それにしても腹が立つわ、この娘はその気になれば結構うまくやれるのに」。ジョスラン夫人は続けた。

「さあ、涙を拭いて。今あなたに言い寄ろうとしている男だと思ってママを見るのよ。いいわね、扇子を落として、その人が拾い、あなたの指に触れるようにするの・・・・こちこちになっていないで、体をもっとしなやかに。男は板なんか好かないものです。何よりも、少しばかり厚かましいことをされても、うぶな真似はしないこと。度を越す男はのぼせ上っているんだからねえ」

 客間の時計が二時を告げた。この長い夜更かしに興奮し、すぐさま娘を片付けたいとの熱望に駆り立てられた母親は、娘を厚紙の人形みたいにいじくりまわしながら、我を忘れて本音をはっきり口にし出していた。娘の方はぐったり気乗り薄で、なすがままにされていたが、心は重く、恐れと恥とで喉に詰まらせていた・・・・

 このように、若い娘は完全に受け身になっている。若い娘は両親によって結婚させられ、嫁にやられる。若い男は結婚し、妻をめとる。若い男が結婚を求めるのは、自分の実在の拡大であり確認であって、実在する権利そのものではない。結婚とは彼らが自由に引き受ける一つの負担なのである。

 したがって彼らは、ギリシアや中世の風刺作家がそうしたように、結婚の利点と難点について考えて見る事が出来る。彼らにとって結婚は一つの生活様式であり、運命ではない。彼らには独身の孤独を選ぶ自由があり、晩婚も非婚もゆるされる。

 女は結婚すると世界の小さな一区画を領地としてあてがわれる。

法律上の保護が妻を夫の気まぐれから守る。だが女は男の家来になるのだ。経済的に共同体の長は男であり、それゆえ社会から見れば男が共同体を代表している。

 女は男の姓を名乗る。女は男の宗教に加入し、男の階級、男の階層に組み込まれる。女は男の家に帰属し、男の「伴侶」になる。女は男の仕事が男に命じる場所についていく。夫婦の住む場所は、何よりももまず夫が仕事をする場所に応じて決まる。女は多かれ少なかれ急激に自分の過去から断ち切られ夫の世界に付け加えられる。

 女は男に自分の人格を与えてしまう。結婚前は処女でなければならず、結婚後には厳格な貞操の義務を負う。妻は法律が独身女に認めている権利を一部失ってしまう。
 ローマ法王は、女を娘として夫の手に委ねていた。19世紀初頭にボナルド[1754-1840、フランスの政治学者]は、妻と夫の関係は子どもと母親の関係に等しいと宣言した。

 フランスの民法は1942年の法律まで、妻に夫への服従を命じていた。法律と慣習はいまだに、夫に多大な権限を与えている。この権限は夫婦の共同生活における男の地位そのものからもたらされる。というのも、生産者とは男であり、家族の利益を超えて社会の利益に向かうのも男であり、社会集団の未来の建設に協力して社会に一つの未来を切り開くのも男だからである。

超越 (用語解説)を体現するのも男である。女は種の保存と家庭の維持に、すなわち内在に運命づけられている(*5)。実際は、人間的実存はすべて超越であると同時に内在である。人間的実存は、自己を乗り越えるために自己を維持しなければならず。未来に向けて飛躍するために過去を統合しなければならず、他人と交流しつつ自己の内部で自己を確認しなければならない。この二つの契機は、生身の人間のあらゆる活動に含まれている。

 男にとって、結婚はまさに、この二つの契機の好ましい総合を可能にするものである。男は職業や政治活動で変化や進歩を体験し、時間と全世界に自己が拡散するのを体験する。そして、こうした漂泊に飽きると、家庭を築き、身を固め、現実世界に錨をおろす。夜、家庭に戻ると、そこでは妻が、家財道具や子どもや記憶にためこんだ過去を注意深く管理しているのである。

 しかし妻の方には、まったく同じような一般性に埋もれて生活を維持し保全する以外には仕事がない。妻は種を不変のまま存続させ、日々の決まったリズムと、門戸を閉ざした家の永続を保証するだけである。妻は未来へも世界へも直接の手がかりを与えられていない。妻は夫を介してしか、集団に向けて自己を乗り越えることはない。

 結婚はいまだに、こうした伝統的な形態を大部分保っている。そして結婚はまず、若い男よりも若い女の方に無理強いされる。相変わらず女には結婚以外のいかなる将来も示されない社会階層が多い。農民にとって独身女はのけ者であり、父親、兄弟、義理の兄弟の召使いにとどまる。

 女が都会に出て行くことはほとんど不可能である。結婚によって女は一人の男に隷属させられ、一家の主婦となる。一部のブルジョア階級ではいまだに、娘が自活できないようにしておく。そうした娘は父親の家で居候として無気力に暮らすか、他人の家で何らかの二次的な地位を受け入れるしかないのだ。

 女がもっと解放されている場合でさえ、経済的特権は男たちが握っているために、女は職業よりも結婚を選ばざるをえない。女は、自分よりも地位が高く、自分よりももっと早くもっと上まで「出世する」と思える夫を探すことだろう。

 今も昔も、性行為は女が男になすべき勤めとされている。夫は快楽を自分のものにし、対価を支払う義務を負う。女の身体は買われる品物である。女にとって自分の身体は活用できる資本なのだ。時には女は夫に持参金をもたらす。たいてい、女は一定の家事労働を行うことを引き受ける。家事を取り仕切り、子どもを育てるのである。

 いずれにしろ妻は扶養される権利をもち、伝統的なモラルもまたそれを熱心に勧める。女向けの職業はしばしばやり甲斐のない低賃金労働であるだけに、女がこうした安易さに誘惑されるのは当然である。結婚は他の多くのキャリアよりもはるかに有利なのだ。慣習は独身の女の性的開放も困難にしている。

 フランスではいかなる法律も女に自由恋愛を禁じていないのに、今日に至るまで女の不倫は犯罪であった。ところが、女は愛人をもたなければ、まず結婚しなければならなかった。厳しくしつけられたブルジョアの娘たちは、今でも「自由になるために」結婚する者が多い。

 アメリカ女性の大多数は性的自由を獲得した。だが彼女たちの経験は、マリノフスキー[1884-1942、ポーランド出身の人類学者]が記述している未開民族の若者たちの経験に似ている。彼らは「独身者の家」で些細な快楽を味わうが、彼らは結婚するのを期待されており、結婚して初めて完全に大人として認められるのだ。

 一人暮らしの女は、フランス以上にアメリカでは、たとえ自活していても社会的には不完全な存在である。彼女が一個の人格として完全な尊厳とすべての権利を獲得するためには、指に結婚指輪が必要なのである。とくに母親であることは、結婚した女の場合にしか尊敬されない。未婚の母は依然として顰蹙(ひんしゅく)の的であり、その子どもは母親の重いハンディキャップとなる。こうしたすべての理由によって、アメリカでもヨーロッパでも若い娘の多くは将来の計画を尋ねられると、今日も昔と同じ答えをする。「結婚したいと思います」と。

 一方、若い男で結婚を根源的プロジェと見なす者は誰もいない。彼に大人の威厳を与えるのは経済的成功である。この成功が結婚がらみの場合もある――とりわけ農民にとって――が、結婚とは相いれない場合もある。昔に比べて不安定で不確実な現代生活の諸条件のせいで、若い男にとって結婚の負担は非常に重くなっている。

 逆に結婚の利点は減った。というのも、若い男は容易に自分を扶養できるし、ふつう、性的満足も得られるからである。もちろん、結婚すれば物質的には便利だし(「レストランよりも自宅での方がましなものが食べられる」)、手軽に官能の満足も得られ(「結婚すれば家に売春宿があるようなものだ」)、個人は孤独から解放されて家庭や子どもを与えられ、時間と空間のなかに落ち着くことができる。

 それは生活の最終的な完成である。それでも全体として見れば、結婚を申し込む男は申し込む女を待つ女よりも少ない。父親は娘を与えるというよりも厄介払いするのである。結婚相手を探す若い娘は男の呼びかけに応えるのではない。男を挑発するのである。

 見合い結婚はなくなっていない。保守的なブルジョア階級全体がそれを永続させているのだ。ナポレオンの墓所[アンヴァリッド記念館]の周辺、オペラ座、ダンスパーティー、海岸、午後のお茶会などで、新調のドレスとセットしたての髪の結婚志願者がおずおずと優雅な容姿や慎み深い会話を見世物にするのである。

 両親はうるさくけしかける。「あなたのお見合いにはもう十分お金をかけたのだからね。いい加減で決めなさい。次は妹の番ですよ」。気の毒な結婚志願者は薹(とう)が立つにつれてチャンスも減ることを知っている。求婚者は多くない。娘には、雌羊の群れと交換されるベドウィン族[アラブ系遊牧民]の娘なみの選択の自由しか認められない。コレット(*6)も言っている。「財産も仕事もなく兄弟の世話になっている若い娘は、黙って運を受け入れ、神様を否認するしかない!」

 これほどあからさまではないが、若い男女は社交生活において母親の警戒怠りない監視下で知り合う事が出来る。もう少し解放された娘たちは、外出を増やし、大学へ通い、男と知り合う機会のある職業に就く。

 クレール・ルブレ夫人は1945年から1947年にかけて、ベルギーのブルジョア階級を対象に結婚の選択に関するアンケート調査を実施した(*7)。著書はインタヴュー方式を用いている。質問と回答をいくつか引用してみよう。

 問・・・・見合い結婚は多いでしょうか?
 答‥‥もはや存在しない(51%)、ごく稀でせいぜい1%(16%)、結婚全体の1~3%(28%)、結婚全体の5~10%(5%)
 質問された人たちは、見合い結婚は、1945年以前には多かったが、ほとんどなくなったと指摘し
ている。とはいえ、「打算、恋人がいない、内気、年齢、申し分ない結婚を望む等が、いくつかの見合い結婚の動機となっている」。見合い結婚はしばしば司祭が仲立ちとなっている。また時には文通によって結婚する若い女もいる。「彼女たちは自己紹介文を綴り、それが専門誌に番号をつけて載せられる。

 この専門誌は自己紹介文が載った人全員に送られる。たとえば200名の女とほぼ同数の男の結婚志願者が出て来る。男たちもまた自己紹介している。すべての人が掲載内容を通じて自由に相手を選び、手紙を書くことができるのである」

問・・・最近10年間に若い男女はどのような状況で結婚相手を見つけたでしようか?
答・・・社交界の集まり(48%)、勉強や仕事の場が同じだった(22%)、私的な集まり・ウ゛ァカンスの滞在地(30%)
 全員の意見が次の点で一致している。「幼馴染どうしの結婚は非常に稀である。結婚は予想外の出来事から生まれる」
 問・・・・結婚相手の選択において、金銭はきわめて重要でしょうか?
 答・・・・金銭のための結婚は全体のうち30%(48%)、同50%(35%)、同70%(17%)

 問・・・・両親は娘の結婚を渇望しているでしょうか?
 答・・・・渇望している(58%)渇望するほどではないがやはり望んでいる(24%)、娘を手放したくないと思っていてる(18%)

問・・・・若い娘は結婚を渇望しているでしょうか?
答・・・・渇望している(36%)、渇望するほどではないが望んでいる(38%)、つまらない結婚をするより   も独身のほうが良いと思っている(26%)

「娘たちは若者を手に入れようと競い、かたづくために誰とでもいいからとにかく結婚する。すべての女が結婚することを望み、その目的達成のための努力を惜しまない。若い娘にとって男に追い回されないのは屈辱である。この屈辱を逃れるために、相手かまわず結婚してしまう場合がよくある。

 そして彼女たちはこれほど急いでかたづきたがるのは、結婚した方が自由になれるからなのだ」。この点に関して、ほとんどすべての証言が一致している。

問・・・・娘の方が若い男よりも結婚に積極的でしようか?
答・・・・娘が男に愛の告白をし、結婚を申し込む(43%)、娘の方が男より結婚に積極的(43%)娘の方が控えめ(14%)

 ここでもまたほぼ全員が一致している。すなわち率先して結婚に持ち込もうとするのは、普通は娘の方なのである。「娘は、生きていくのに必要なものが自分にないことを知っている。生きて行けるだけのものを得るためにどうやって働いてよいのかわからないので、結婚を頼みの綱とするのだ。

娘たちは愛を告白し、若い男に自分を売り込む。恐るべき娘たちである! 彼女たちは、結婚するためにあらゆる手段を尽くす・・・・まさしく女が男を追いかけるのである。云々」

フランスに関しては同種の資料はない。しかしフランスでもベルギーでもブルジョア階級の状況は似たようなものであるから、おそらく同様の結果が出るだろう。
「見合い」結婚はつねに他のどの国よりもフランスで多かったし、男女が知り会うための夜会に会員が集まる例の「グリーン・トリミング・クラブ」も相変わらず盛況である。そして結婚通知は、多くの新聞の欄を長々と占めている。

アメリカも同様フランスでも、母親、年長者、女性週刊誌が、ハエ取り紙がハエを捕らえるように夫を「捕らえる」テクニックを若い娘に臆面もなく教えてくれる。それはかなりの手練手管を要する「釣り」であり、「狩り」である。

曰く、狙いは高すぎても低すぎてもいけない、夢に陥ることなく現実的であれ、色っぽさと慎ましさを兼ね備えよ、求めすぎたり遠慮しすぎたりしないこと・・・・若い男は「結婚してもらいたがっている」女を警戒する。

ベルギーのある若者は述べている(*8)。「男にとって、女に追いかけられていると感じたり、ひっかけられたと気づくことほど不愉快なことはない」。男たちは懸命になって罠の裏をかこうとする。大抵の場合、娘が真の選択をできるのは、自分には結婚しない自由もあると思える場合だけだろう。

娘は普通、熱望よりも打算、嫌悪、諦めで決心する

「求婚者がまずまずの条件(階層、健康、職業)なら、娘は男を愛していなくても結婚する。条件はずれがいくつかあっても、申し込みを承諾する冷静さを保つ」

だが、若い娘は結婚を望むと同時に恐れてもいることが多い。結婚は男よりも女にとってより大きな利益を意味し、それだからこそ女の方がより貪欲に結婚を望むのである。しかしまた、女は男より大きな犠牲を払わねばならない。

とりわけ結婚によって容赦なく自分の過去と断絶させられる。すでに見たように、父親の家を出ると思うと激しい不安に陥る娘は多い。実家を去る日が近づくと、この不安はさらにひどくなる。そして神経症が頻出するのもこの時期である。神経症は、これから引き受ける新たな責任に怯える若い男にも見られるが、若い女の方が圧倒的に多い。それは、すでに述べた理由がこの時期になるといずれも一層深刻化するからである。

神経症の諸症状を示している
ここではシュテーケルから借用した例を一つあげるにとどめよう。シュテーケルの患者のなかに、神経症の諸症状を示している良家の娘がいた。

初診の時、彼女は嘔吐に悩まされ、毎晩モルヒネを飲用し、怒りの発作を繰り返し、入浴を拒み、ベッドで食事をして自室に閉じこもりきりだった。彼女は婚約していて、婚約者を熱烈に愛していると主張した。そして身を任せたことをシュテーケルに告白した・・・・だがいかなる快感も感じなかったと後になって言っている。また彼とのキスは思い出すだに胸がむかつくとも述べ、これこそ彼女の嘔吐の原因だったのだ。

彼女が身を任せたのは、実は、自分を十分愛してくれないように思われる母親を罰するためだったことが分かった。彼女は子どもの頃、弟か妹が出来るのを恐れて、夜になると密かに両親の様子を見張っていた。彼女は母親を熱愛していた。「そして今や結婚しなければならず、実家を出て両親の寝室から去らなければならないなんて、そんなことはできない」。

彼女は肥満し、両手を引っ搔いて傷つけ、頭もおかしくなり、病気になって、婚約者をあらゆる手段で侮辱しようとした。医者の手当で治ったが、彼女は母親にこの結婚やめさせてくれるように必死になって頼んだ。「彼女は子どものままでいるために、いつまでも家にとどまっていたかったのだ」。母親は娘の結婚に固執した。式の一週間前、彼女はベッドで死んでいるのを発見された。ピストルで自殺したのだ。

別の症例では、娘は長患いに固執している。そしてこんな状態では「大好きな」人と結婚できないと絶望する。だが真相は、その男と結婚を逃れるために病気になるのであり、婚約を破棄しなければその精神は安定しない。あるいはまた、娘がすでに忘れられない性体験を重ねていることから結婚への恐怖が生じることもある。処女でないことが露見しはしないかとりわけ恐れる。

しかし、大抵の場合、よその男の支配に屈すると考えると耐え難い気がするのは、父親や母親や妹への熱烈な愛情、一般的には実家への愛着のせいである。また、結婚しないという訳にはいかないから、まわりが圧力をかけるから、結婚のみが唯一の分別ある解決策だから、妻や母として普通の生活がしたいから等の理由で結婚する決意をする娘も、大半は心の底ではひそかに執拗に抵抗している。
そして、それによって結婚生活の好調なスタートが困難になって新生活に幸福な安定を見出せなくなることもある。

したがって一般的に、結婚が決められるのは愛ゆえにではない。「夫とは愛する男のいわば代用品でしかなく、愛する男その人ではない」とフロイトは言った。この分裂は少しも偶然ではない。それは結婚制度の本質的な性格に由来するものだからである。

結婚とは男と女の経済的・性的な結合を集団の利益にむけて乗り越えることであり、男女の個人的幸福を確立することではないのだ。

家父長制の下では、両親の権限で選ばれた婚約者どうしは結婚式当日まで互いの顔さえも知らないということがあったし、イスラム教徒のあいだでは現在でもそうした場合がある。社会的側面が重視されている一つの人生の企てを、感情や官能の気まぐれの上に築くなどということは問題外なのだ。モンテーニュは言う。

この分別ある契約においては、欲望はそれほど陽気なものではなく、陰気でもっと鈍いものである。恋愛は恋愛以外の場に引きとどめられることを嫌い、結婚のごとく他の名目で成立し持続する関係とは無気力な関わりしかもたない。

結婚においては婚戚関係や財産が容姿の美しさと同等またはそれ以上に尊重されるが、それも当然である。何と言おうと、人は自分のために結婚するのではない。自分のためとそれ以上に、子孫のため家族のために結婚するものである。(『エセー』第三巻第五章)

男が女を「自分のものにする」のだから、それに結婚志願の女が多い時はとくに、男の方により選択の可能性がある。だが、性行為は女に強いられる勤めと見なされ、女に与えられる諸々の利益はこの勤めの上に成立するのだから、女が自分自身の好みを顧みないのも当然である。

結婚は男が自由に勝手なことをすることから女を守るためのものである。だが自由がなければ愛も個性もないのだから、男に終生保護されるためには女は個人的な愛を断念しなければならない。

私は敬虔な家庭の母親が娘たちに次のように諭すのを聞いたことがある。
「恋愛は粗野な感情で男の人達の為にあるのですから、淑女は知らなくても良いのです」。これはヘーゲルが『精神現象学』(第二巻25頁)で述べている説を素朴な形で言い換えたものに他ならない。

しかしながら、母親や妻としての関係にも個別性はあるが、一部は快楽に属する自然のものとしての個別性であり、また一部はこの関係のなかにそれ自身の消滅を見つめるだけの否定的なものとしての個別性である。まさしくこのために、これまた部分的に、この個別性は偶然的なのであり、つねに別の個別性に取って代わられる可能性がある。

性愛の支配する家庭というものにおいて問題になるのはこの夫ではなく夫一般であり、子ども一般である。女のこうした関係を根拠づけているのは感性ではなく普遍的なものなのだ。女が男のそれぞれの倫理生活の違いは、まさしく、女が個別性による区別のなかで、また快楽のなかで、直接的に普遍的なままで、欲望の個別性とは無縁でいるという点である。

逆に男にあたっては、個別性と普遍性の両側面は互いに切り離され、男は市民として自意識的な力と普遍性とを保有しているので、欲望の権利をこうして自らに買い、かつ同時にこの欲望から自分の自由を守るのである。

したがって、そうした女の関係に個別性が混じっていても、その論理的性格は純粋ではない。だがこの倫理的性格がそうしたものであるかぎり、個別性はどうでも良いのであって、女が自己を他者のうちにこの自己として認識することはないのである。

つまり、女には自分の選んだ夫との関係を個別的なもののとして築く必要などまったくなく、女の役割を一般的なものとして果たせばよいというわけではないのだ。女は個としてではなく種としてのみ快楽を味わうべきだと言うのだ。ここからは女の性生活について二つの基本的な結果が出てくる。

まず、女には結婚以外にいかなる性行為の権利もない。夫婦にとって肉体関係は制度化されていて、欲望と快楽は社会的利害に向けて乗り越えられる。だが男は、労働者や市民として普遍的なものへ向けて自己を超越するので、結婚前や結婚外で偶然の快楽を味わうことができる。

いずれにしろ、男にとって救いの道はいろいろあるのだ。それに対して、女が本質的に雌として定義されている世界では、女は雌として完全に正当化されなければならない。第二に、すでに見たように、一般的なものと個別的なものの関係が男と女では生物学的に異なる。

男は夫及び生殖者としての種の任務を果たしながら、確実に快楽を得る(*9)。逆に女にあっては実にしばしば、生殖機能と性的快楽が分離する。その結果、結婚は性生活に倫理的威厳を与えると称しつつ、実は女の性生活を抹殺しようとしているのである。

こうした女の性的欲求不満は、男たちによって意図的に是認されてきた。すでに見たが、男たちは楽天的な自然主義に依拠して、女の苦痛を平然と認める。それは女の定めなのだ。女に対する聖書の呪いが男たちのこうした安直な考えを助長する。妊娠の苦しみ――あっと言う間の不確かな快楽と引き換えに女に押し付けられるあの重い対価――は多くの冗談の種にすらなってきた。

「五分の楽しみ、苦痛九か月・・・・出るより入るがずっと簡単」。この対比はしばしば男たちを楽しませてきた。ここにはサディズムの考えがからんでいる。多くの男は女の悲惨を楽しみ、それを軽減してやろうとする考えに反発するのだ(*10)

したがって、男がパートナーに性的満足を得ることを平然と拒絶してきたのもよくわかる。女がみずから快楽を求めることや女にも欲望の本能があることを認めないのは、男にとって得策にすら思われていたのだ(*11)。
モンテーニュはみごとに臆面もなく言っている。

したがって、尊く神聖なこの婚戚関係に、恋愛の放縦さにつきものの強引な度外れの行為を導入しようとするのは、一種の近親相姦である。アリストテレスが言うように、「愛撫で刺激しすぎて妻が、快楽のあまり我を忘れてしまったりしないよう、妻には慎重かつ厳粛に触れる」べきである。私が知る結婚で早々と破綻したり動揺したりしているのは、美貌や愛欲に引きずられたものばかりである。

結婚にはもっと堅固で安定した土台が必要であり、慎重に行動しなければならない。あの派手な歓喜など何の価値もない・・・・よき結婚というものがあるとすれば、それは恋愛とは相いれず、別の条件を要する。(『エセー』第三巻第五章)モンテーニュはまたこうも言っている。

妻との情交で得る快楽もそこに節度がないなら許されない。節度なく楽しみすぎるならば、不倫行為と同様に理性を失うことになる。目新しい興奮のせいでわれわれが愛戯で陥りがちな恥知らずの度外れな行為は、不作法なだけでなく、妻にとって有害である。女が破廉恥を知りたければ、せめて別の方法でやるがよい。

差し込み文書
天下の夫族が生存競争の過酷さに負けて、ほとんど不能に近づきつつあるとき、妻族ばかり、セックスの机上の論にウンチクをかたむけられては、ますます夫の方は萎縮してしまうだろう。世の夫族に、せめて妻とのベッドでくらい自信をもたせるためには、妻たちはもっとセックスに淡白であらねばならない。と、瀬戸内寂聴さんが説いていらっしゃいますが、

セックスの本質《オガィズム》を友人知人から聞いた、雑誌、本など、或いは自ら浮気・不倫で知ってしまったらオガィズムによって引き起こされた肉体的、精神的解放感の心地よさをいまさら手放すことは死ぬことより辛いと感じる人も少なくない。

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結婚とは神聖で敬虔な結びつきである

女はいつも私たち男の欲求によって十分に目覚めさせられる・・・・結婚とは神聖で敬虔な結びつきである。したがって、結婚から引き出される快楽は、慎み深く真面目でいくぶん巌かでもなければならない。ともかく慎重で良心的な快楽であるべきだ。(同、第一巻第三十章)

実際、夫というものは個人として選ばれたのではないのだから、夫が妻の官能の歓びを目覚めさせたら、妻の官能を男一般に対して目覚めさせることになる。つまり、夫は妻が別の男の腕のなかに快楽を求めるように仕向けることになる。

これもモンテーニュの言葉だが、妻を愛撫しすぎるのは「籠の中に糞をして後で頭にかぶる」ようなものなのだ。ただしモンテーニュは、男は用心して妻を報われない状態に置いていると正直に認めている。

彼女たちに非はまったくない。男が女に無断にそれらの規則をつくったのだから、女たちとわれわれ男のあいだに策略やいさかいが起こるのも当然である。われわれは次の点で女の扱いに分別を欠いている。女の方が男よりも情事に巧みで熱心だとわかると・・・・われわれは極刑をもって脅しながら厳しく彼女たちに禁欲を女特有の徳として押し付けてきた・・・・われわれは女が健全、頑健で体調もよく栄養状態良好であると、同時に、貞潔であるよう望んでいる。

つまり、熱いと同時に冷たいものであってほしいのだ。というのも、われわれが女を燃え立たせないようにする義務を負うと言われている結婚は、慣習上、女を冷ますことなどほとんどないからである。

プルードン[1809-65、フランスの社会主義思想家]はもっと大胆だ。恋愛と結婚を切り離すことは、彼によれば「正義」と一致する。

恋愛は正義のなかにかき消されるべきである‥‥あらゆる愛欲の関係は、婚約者のものであれ夫婦の物であれば望ましいものではなく、家庭に対する尊敬、勤労欲、社会的義務の実践にとって有害である・・・・(ひとたび愛の努めが果たされたら)・・・・ちょうど乳を擬結させた後そこから固まった部分だけ取り出す羊飼いのように、私たちは愛を取り除くべきである。

しかしながら、19世紀のあいだにブルジョアの考え方が少し変わった。結婚を熱心に養護し支え始めたのである。また一方で、個人主義の発展により、女の要求を無条件に抑圧することもできなくなっていた。サン=シモン[1760-1825、フランスの社会改革思想家]、フーリエ[1772-1837、フランスの社会改革思想家]、ジョルジュ・サンドそしてすべてのロマン主義作家たちは、熱心に恋愛の権利を要求してきた。その時まで当たり前のように排除されてきた個人的な感情を、結婚と結び付けることが問題になってきた。

そしてこの時伝統的な打算による結婚から奇しくも生まれる「夫婦愛」といううさんくさい観念が考え出されたのである。

バルザックは保守的なブルジョア階級の考え方を、その矛盾した様相の下に描いている。彼は、原則として結婚と恋愛は互いに無関係であると認めている。だが、尊重すべき結婚制度と、女がモノ扱いにされる単なる取引を同一視する気はさらさらない。それで、『結婚の生理学』の面食らうような支離滅裂に辿り着く。そこには、次のようなことが書かれている。

結婚は、政治的、民事的、道徳的に、法、契約、制度とみなされうる・・・・したがって、それは一般の尊敬の対象であるべきだ。社会は、夫婦の問題にかかわるこうした最高権威的な事項しか念頭になかった。

大部分の男は、結婚について生殖や子どもの所有しか念頭にない。しかし、幸福は生殖にも財産にも子どもにもない。「産めよ増やせよ」は恋愛を意味しない。二週間毎日連続して肉体関係を持った娘に対して、法と正義の名において愛を求めるのは、あらかじめ幸福か不幸に予定づけられた大方の者に相応しい非常識である。

ここまではヘーゲルの説と同じくらい明瞭で、誤解の余地はない。だがバルザックはまったく唐突に話しを転じる。

恋愛は欲求と感情の一致であり、結婚の幸福は夫婦二人の魂の完全な和合から生じる。したがって、男は幸福になるためには、いくつかの信義と思いやりの規則に努めて従う義務がある。欲求を認める社会の法の恩恵に浴したからには、感情を花開かせる自然の秘められた法に従わなければならないのだ。

愛されることに幸福を見出すなら、自分も誠実に愛さねばならない。真の情熱になびかないものはない。しかし、情熱的であることは、つねに欲望することである。妻をつねに欲望することはできるのだろうか?
――できる。

続いてバルザックは結婚について博識を開陳する。だがすぐさま目につくのは、夫にとって問題は愛されることではなく妻に裏切られないことなのだという点である。夫は、ただ自分の名誉を守りたいばかりに、ためらわず、知力を鈍らせる規律を妻に押し付け、あらゆる教養を与えないようにし、妻を愚鈍化するのだ。

これでも愛だろうか。支離滅裂で不明瞭なこの考え方に一つの意味を見出そうとするなら、男は男なら誰もがもつ欲求を癒す相手として一人の女を選ぶ権利があり、この性欲の一般性が男の誠実の保証だと言ことらしい。それから男は何らかの秘訣を用いて、妻の愛を目覚めさせるのだ。

だが自分の財産の為に子孫のために結婚するというであれば、男は本当に恋していることになるだろうか。そして、恋しているのではないなら、それは相手の情熱を駆り立てるに十分なほど強い情熱だと言えるだろうか。それにバルザックは、相思相愛でない恋愛など、抗しがたい魅惑であるどころか、逆に煩わしく不快極まりないものであることを本当に知らなかったのだろうか。

彼の欺瞞は書簡体の問題小説[特定の思想的主張を掲げた小説]『ふたりの若妻の手記』にはっきり見て取れる。ルイーズ・ド・ショーリュウは、結婚を支えるのは恋愛だと主張する。そして情熱のあまり最初の夫を殺してしまう。次いで、二番目の夫への嫉妬に狂って死ぬのである。

ルネ・ド・レストラードは感情を犠牲にして理性を取るだが母性の喜びによって十分に報いられ、安定した幸福を築くのである。まず、どんな呪いが――作者自身の意志でないとすれば――恋するルイーズに、その望みの母性を得させてやらないのか理解に苦しむ。恋愛はけっして妊娠を防げるものではないからだ。

一方ルネには、夫の抱擁を喜んで受け入れるために、スタンダールが憎悪していた「貞淑な女たち」に特有の「偽善」が必要だったらしい。バルザックは、初夜を次のように描いている。

あなたの表現にしたがって、私たちが夫と呼んでいる獣は消え去りました、とルネは女友だちに書いている。曰く言い難い甘美な夜に、私が見たのは一人の愛人です。彼の言葉は私の魂に達し、その腕に抱かれていると何とも言えない喜びを感じます・・・・私の心には好奇心が目覚めました・・・・でも、わかってちょうだい。最も誠実な愛に必要なものも、ある意味でこうした瞬間の名誉である予期せぬ出来事も、何一つ欠けてはいなかったのよ。

私たちの想像力がこの行為に求める神秘的な美しさ、言い訳にもなる衝動、無理強いの同意、長い間想像するだけで現実に身を委ねるまで私たちの魂を虜にする最高の快楽、こうした魅力がすべてそこには、心を奪うようなかたちですっかりあったの。

この素晴らしい奇跡もそうたびたび繰り返されたわけではなかったらしい。後の手紙で、ルネは何度か泣いている。「かつて私は人間でした。でも今では物です」。そしてボナルドを読んで「夫婦愛」の夜から立ち直ろうとしている。

しかし私たちが知りたいのは、女の最難関の通過儀礼に際し、夫はいかなる秘術を用いてそれほど魅惑的な存在に変身できたのかということである。バルザックが、『結婚の生理学』で示している秘訣は、「結婚を決して強姦から始めてはならない」といった簡単なもの、あるいは「快楽のニュアンスを巧みに捉え、発展させて、それにあらしいスタイルを与えること。独創的な表現こそ夫の才能である」といった漠然としたものである。

さらにすぐさま付け加えて、「愛し合っていない二人のあいだでは、この才能は猥褻(ワイセツ)となる」と言う。ところで、ネルはまさしくルイを愛していないのだ。それにバルザックが描くルイのような男のどこをどう押せばこの「才能」が出て来るというのだろうか。実のところ、バルザックは問題をはぐらかして平気でいる。偏りのない感情など存在しないということ、愛の欠如、無理強い、退屈は、優しい友情よりも、恨み、苛立ち、敵意を生みやすいということを無視しているのだ。

彼も『谷間の百合』ではもっと誠実で、不幸なモルソフ夫人の運命にも教訓じみたところがかなり少なくなっているように見える。

結婚と恋愛の融和は至難の業なので、それに成功するには神の介入が必要となる。これは、キルケゴールが紆余曲折の末に達した結論であった。彼は好んで結婚の逆説を告発する。

結婚とはなんと奇妙な発明だろう! それをさらに奇妙なものにしているのは、結婚が自然に生じる歩みとして通っていることだ。しかしこれほど決定的な歩みはない・・・したがって、これほど決定的な行為を自然に生じるようなかたちでやらなければならない、ということなのだ(*12)。

難しいのはこういうことである。愛情や恋心は自然に生じるものであるが、結婚は決意であるということだ。しかも、恋心が、結婚または結婚しようという決意によって掻き立てられなければならない。つまり、最も自然に生じるものが、同時に、最も自由に決意されたものでなければならないことになり、また、その自然さがあまりにも不可解であるがゆえに神のなせる技と見なされざるを得ないようなものが、熟考を経たうえで生じるもの、それも、一つの決意に帰着するほど徹底した熟考を経たうえで生じるものでなければならないことになる。

そのうえ、一方が他方に続いて来るようではいけない。決意が後ろからこっそりついて来るのではなく、すべてが同時に起こらなければならない。両方が一緒にあって大詰めの瞬間を迎えなければならないのである(*13)。

つまり、愛することは結婚することではないし、愛がどうやって義務になりうるのか理解することは難しいということである。だがキルケゴールは、逆説にたじろがない。結婚についての彼の試論全体がこの謎を解き明かすために書かれている。彼はこう言っている。

確かに、「熟考は自然に生じる気持ちを殺すものである。熟考すると恋心は諦めなければならないと言うのが本当だったら、結婚などなくなるはずである」。しかし、「決意とは熟考を通じて得られ、完全に頭の中で体験される新しい一つの自然な気持ちであり、まさに恋心と同じく自然に生じるものである。決意は論理的な既知事項に基づいて人生を宗教的に解釈し、恋心を守ってやらなければならないのである」。

こうしたわけで、「夫というもの、真の夫というものは、それ自体が奇跡なのだ! ・・・・人生の厳粛な力が自分と愛する女に向けられているというのに、恋愛の快楽を保持することができるとは!」。

女はと言えば、理性は女の持ち分ではないから「熟考」もない。したがって「女は恋愛の直接性から宗教の直接性へと移る」。もっとはっきり言えば、この説の意味するところは、恋する男は感情と義務の一致を保証してくれるはずの神への信仰表明によって結婚を決意するが、女は恋する否や結婚を望むということである。

私は、もっと素朴に「秘蹟よるひと目惚れ」を信じていたカトリックの老夫婦を知っている。彼女は、夫婦は祭壇で決定的な「はい」を口にするとき、自分たちの心が燃え上がるのを感じるものだと断言していた。
キルケゴールも、先立って「恋心」がなければならないが、それが一生つづくと約束されるのは、やはり奇跡によると認めている。

だがフランスの19世紀末の小説家や劇作家は秘蹟の力をそれほど信じなくなり、むしろ人間の力で夫婦の幸福を保証しようとした。彼らはバルザックよりも大胆に、性愛を合法的な肉体関係に同化させる可能性を想定する。
ジョルジュ・ボルト=リシュ[1847-1930、フランスの劇作家]は『恋する女』で、性愛と家庭生活は両立不可能なものだと主張している。妻の激情にうんざりした夫は、もっと穏やかな愛人に心の安らぎを求めるものだ。と。しかしボール・エルヴュー[1857-1915、フランスの劇作家]の教唆により、「性愛」は夫婦間の義務であることが規範化される。マルセル・ブレヴォー[1862-1941、フランスの作家]は、若い夫に妻を愛人として扱わねばならぬと説き、それとなく淫らな言葉で夫婦の快楽に言及している。

アンナ・レリペルスタン[1876-1953、フランスの劇作家]は合法的な肉体関係を描く劇作家となった。彼の作品においては、道徳意識を欠き嘘つきで多情で手癖も意地も悪い妻に対して、夫は分別ある寛大な人間として現れる

恋の手管を知っている精力的な愛人像も見て取れる。姦通小説への反発から、結婚を礼賛する現実離れした作品が大量に出現した。

コレットでさえこの道徳熱の高まりに屈して、『淫らなおぼこ娘』では、身を誤って処女を失った若妻のスキャンダラスな諸経験を描いた後、彼女に夫の腕の中で官能の歓びを体験させることにしている。

同様に、マルタン・モーリス氏は、少しばかり評判になった本で、若妻を熟練した愛人のベッドにしばらく侵入させてから夫のベッドに連れ戻す。夫が妻の体験を十二分に活用するのである。また、結婚制度を尊重すると同時に個人主義者でもある今日のアメリカ男性も、理由もやり方も異なるが、やはり、性欲を結婚に同化させる努力を重ねている。

夫婦互いに満足し合う方法を教えて、とりわけ夫に対していかにして妻との幸福な和合を実現するかを教える結婚生活の入門書が毎年大量に刊行される。精神分析家と医師が「夫婦問題カウンセラー」の役を演じている。妻もまた快楽の権利をもち、夫は妻に快楽を得させる諸々のテクニックを知るべきだとされているのだ。だが、すでに見たように、性的にうまく行くかどうかは単なる技術の問題ではない。

若い夫が、『夫なら誰でも知っておくべきこと』『夫婦が幸福になる秘訣』『不安なしの愛』といった手引き書を何冊も暗記したところで、そのために新妻から愛される保証はないのだ。妻が反応するのは、心理的状況全体に対してである。そして、伝統的な結婚は、女の官能の目覚めと開花に最も好都合な状況を造り出しているとはとても言えない。

 かつて母系制の共同体では、新妻が処女であることは要求されなかった。それどころか、さまざまな神秘的理由により、普通は結婚前に処女でなくなっているべきものとされていた。フランスの地方には、こうした古代の自由がまだ残っているところがある。

 そういうところでは若い娘は結婚前の純潔を要求されない。そして時には、「身を誤った」娘、さらには未婚の母の方が、他の娘よりずっと簡単に夫を見つける。また女の解放を受け入れている社会階層では、若い娘は男と同じ性的自由を認められている。しかし家父長制の道徳では、婚約した娘は処女のまま夫に引き渡されることが絶対に必要とされる。

 夫は妻がよその男の種を宿していないことを確信したがるのである。自分のものにするこの肉体を完全かつ独占的に所有したがるのである(*14)。処女であることは道徳的、宗教的、神秘的価値をおび、この価値はいまだに非常に一般的に是認されている。

 フランスのいくつかの地方では、新郎の友人たちが笑い興じ高唱しながら初夜の部屋の前に陣取り、夫が血のしみのついたシーツを誇らしげに見せるまで待つ。または、両親が翌朝そのようなシーツを近所の連中に見せびらかしたりする(*15)。これほど露骨なかたちではないが、「初夜」の慣習はワイセツ文学の一分野を出現させたのも偶然ではない。

 社会的なものと動物的なものとが分離するのにともない、必然的にワイセツが生じるのだ。ヒューマニズムのモラルによれば、どんな生の体験にも人間的な意味があり、自由が宿っているはずである。真にモラルにかなった生活では、欲望と快楽が自由に引き受けられる。

 あるいは少なくとも性欲と快楽が自由に引き受けられる。あるいは少なくとも性欲の只中で自由を取り戻そうとする悲壮な闘いがなされる。だがこうしたことは、恋愛や欲望のなかで相手を個別的なものとして認識する場合にのみ可能なのだ。性欲が個人によって確保されるべきものではなくなって、神や社会が性欲を正当化しようとするとなると、二人のパートナーの関係は獣の関係でしかなくなる。

 保守的な年配女たちが肉体的な行為について嫌悪感を込めて語るのはもっともである。彼女たちたちはこうした行為を糞尿排泄機能にまで貶めてきたのだ。それだからまた、婚礼の宴会でも淫らな笑いがあれほど聞こえるのである。

 盛大な儀式と、露骨な現実である動物的機能が重ね合わさるところに、ワイセツな逆説が生じる。結婚はこの逆説の普遍的で抽象的な意味を明らかにする。一人の男と一人の女が万人の目の前で象徴的な儀式にのっとって結び付けられる。

 しかしベッドの秘め事では、具体的、個別的な個人どうしが向き合い、すべての人がその交合から目をそらす。友人に連れられて新婚の部屋を見に行ったとき、恐ろしい動揺に襲われた。

 新婚の二人の部屋・・・・安綿布の帳(とばり)の下の狭く高いベッド、羽が詰め込まれ、鷲鳥の綿毛の入った二つの枕でふくれたベッド、このベッドが汗や香や家畜の息やソースの湯気でいっぱいのこの一日の行き着くところなのね・・・・まもなく二人はここにやって来るだろう。

 考えたこともなかったわ。二人はこの深いベッドに沈み込む・・・・母さんの大胆であけすけな話と動物たちの生態がほんのちょっぴり教えてくれたあのぼんやりした絡み合いを、二人はするのかしら。そしてそれから? あたしは、この部屋と、考えてもみなかったこのベッドが恐い(*16)。

 少女は一族の祝宴の華々しさと密室の大きなベッドの獣じみた謎とのコントラストを感じて、子どもながら悲嘆に暮れたのだ。東洋、古代ギリシア・ローマ等の、女を個別化しない文明にあっては、結婚の滑稽で卑猥な側面はほとんど現れない。

 それらの地域では、動物的な機能が社会的儀式と同じくらい一般的なものとして現われる。しかし現代の西洋では、男も女も個人として捉えられていて、婚礼の招待客は、儀礼やスピーチや花で包み隠された行為をまったく個人的な経験としてまもなく完遂するのがこの男とこの女であるというので、薄ら笑いをするのである。

 たしかに、壮麗な葬儀と墓の下の腐敗とのあいだにも、不吉なコントラストはある。だが、死者は埋葬してしまえば蘇ることはない。それにひきかえ若妻は、市長の三色綬や協会のパイプオルガンが約束した現実の経験が個別的で偶然的なものであることを発見して、すさまじい驚きを感じるのだ。

 結婚初夜に泣いて母親の家に逃げ帰る若妻は、軽喜劇でしか見られないわけではない。精神医学書にはこの種の話が溢れているし、私が直接聞いたケースもいくつかある。それは、あまりにも育ちが良すぎてまったく性教育を受けたことがなかったために、性愛を突然発見してショックを受けた若い娘たちだった。

 19世紀のことだが、アダン夫人は、口にキスされたら、その男と結婚する義務があると思い込んでいたという。性交はそこで終わるものと信じていたからだった。もっと最近では、シュテーケルがある若妻について語っている。「新婚旅行中に夫から処女を奪われた時、若妻は夫を気違いだと思い込み、精神病者とかかわるのを恐れて一言も口を利かなかった」(*17)

 若い娘が無知のあまり女の同性愛者と結婚し、男と寝ているのではないことに気づかず長い間その偽りの夫と暮らし続けてたということさえあった。

 結婚式の日、夜帰宅して妻を井戸に沈めてごらんなさい。妻は仰天するだろう。彼女は何となく不安な思いをしていただけだったのに‥‥
 彼女は考える。やれやれ、そうすると、これが結婚だったわけ。だから本当のことがあれほど秘密にされていたのだ。こんな厄介事に嵌められたなんて。
 だが、妻は腹を立てているので何も言わない。だから、長々と何度も繰り返して妻を井戸に沈めても、まったく近所のひんしゅくを買わずにいられる。

 これは『初夜』という題のアンリ・ミショー[1899-1984、ベルギー出身の詩人、画家]の詩の(*18)断片だが、状況をかなり正確に説明している。今日では、若い娘の多くはもっと事情に通じている。それでも、同意となると具体性を欠いたままだ。

 彼女たちの破瓜は相変わらずレイプのような性格のものである。「結婚外でよりも結婚生活において犯されるレイプの方が確実に多い」と、ハヴェロック・エリスは言っている。ノイゲバウエルは著書『助産法月報』[1889年、第9巻]で、性交の際にペニスが女性を傷つけた事例を150以上集めている。その原因は、夫の粗暴、酩酊、無理な体位、生殖器官の不釣り合いなどだった。

 ハヴェロック・エリスの報告によれば、イギリスである女性が中流階級の知的な既婚女性6名に初夜の反応を尋ねた。性交は全員にとって突然訪れたショックであった。6名のうち2名は全く何も知らなかった。残りの4名は知っているつもりだったが、それでも精神的に傷つけられた。アドラーもまた、破瓜の精神的な重要性を強調している。

 男がすべての権利を獲得するこの最初の機会は、しばしば全生涯を決定してしまう。経験を欠き興奮しすぎた夫は、そのとき妻の不感症の種をまく可能性があるし、夫の不手際や粗暴を繰り返し受けると不感症が恒常的な知覚麻痺に変化する可能性もある。

 この種の不幸な性の入門の多くの事例は、前章ですでに見た。ここではさらに、シュテーケルが報告している症例を一つ上げてみよう。

 非常に慎み深く育てられたH・N夫人は、初夜のことを考えただけで震えて来るのだった

 さらにまた、結婚がまだ決定的な性格を保っているため、女には、この行為が自分の全将来を約束するように思われるからである。彼女は初体験のとき、自分が絶対的にさらけ出されたように感じる。自分が永久に捧げられたこの男は、彼女の目にはすべての《男》を体現するものだが、この男の方も初めてその顔を彼女にさらけ出すのだが、この男は彼女の一生の伴侶なのだから、初めて見るその顔はとてつもなく重要性をもつ。

 とはいえ、男の方も自分にのしかかる指令に不安なのである。男には男の困難やコンプレックスがあり、それによって億病になったり不器用になったり、逆に乱暴になったりする。結婚の厳粛さのせいで、初夜に不能となる男も多い。ジャネは『強迫観念と精神衰弱』で次のように述べている。

 夫婦の営みをまっとうすることができなくて屈辱感と絶望感に苛まれて自らの運命を恥じている若い夫達が周りに見当たらないものがいるだろうか。私たちは去年、実に奇妙な悲喜劇的場面に出くわした。

 怒り狂った舅が、しおらしく観念した娘婿をサルベトリエール病院に引っ張ってきたのである。舅は離婚請求ができるような医学的証明書を要求した。気の毒な婿が言うには、かつては正常だったのに、結婚してからというもの、気づまりと羞恥心で不能になってしまったそうである。

 情熱が激しすぎると処女を恐がせるし、遠慮しずると屈辱を感じさせる。身勝手にも女には苦痛を与えておいて自分だけ快楽を味わった男を、女は永久に恨む。だがまた、自分が無視しているような男や(*19)、結婚初夜に処女を奪おうとしなかったり、やっては見たがしくじったりした男にも多くの場合いつまでも恨みを抱く。

 ヘレーネ・ドイッチの指摘によれば(*20)、臆病なのか、それとも不器用なのか、奇形を理由に外科手術で自分の妻を破瓜してくれるように医者に頼む夫もいるそうだ。一般に、その理由は根拠がない。ペニスをふつうに挿入できなかった夫を妻はいつまでも恨み軽蔑し続けるとドイッチュは言っている。フロイトの観察(*21)によれば、夫の不能が妻に心的外傷を与えることもある。

 ある女性の患者には、一つの部屋から別の部屋へ走っていく癖があった。そちらの部屋の中央にはテーブルがあって、彼女は決まったやり方でテーブルクロスを広げ。ベルで女中をテーブルのそばに呼びつけては引き下げさせるのだった・・・・彼女はこの強迫観念を説明しようとした時、このテーブルクロスには醜いししみがあり、自分はしみが女中に一目瞭然となるように毎回それを広げたのだということを思い出した・・・・

 すべては夫が男の機能を果たせなかった新婚初夜の再現だったのだ。夫は何度も自分の部屋から彼女の部屋に駆けつけては、新たにやってみようとした。ベッドを整える女中に恥じて、出血があったと信じ込ませるために、夫は赤インクをシーツにたらした。

「初夜」は性体験を一つの試練に変えてしまい、夫婦のそれぞれが自分には克服できないのではないかと不安に陥る。夫も妻も自分自身の問題に手一杯で、相手を寛大に思いやる余裕などないのである。初夜が性体験におごそかさをもたらし、そのせいで性体験は恐ろしげなものになる。

 したがって、初夜が原因で妻が永久に不感症になってしまう場合も多いのも当然である。夫の方の難問は、「あまりにも扇情的に妻を愛撫する」なら、妻は憤慨したり侮辱を感じたりするかもしれない、ということである。この心配はとりわけアメリカの夫たち、とくに、大学教育を受けた高学歴のカップルの夫たちを委縮させてしまうようだとキンゼー報告は指摘している。

 というのも、妻は自意識が強くなればなるほど自己を抑制するからである。しかし、それだからと言って夫が妻に「馴れ馴れしくしない」なら、妻の性を目覚めそこなう。このジレンマを作るのは妻の両義的な態度である。若い女は快楽を求めると同時に拒む。また、相手に遠慮深さを求めていながら、それに苦しむのである。

 ごく稀な幸運に恵まれない限り、夫は漁色家か野暮天だと思われるしかないだろう。したがって、「夫婦の義務」が妻にとっておぞましい労役でしかない場合が多いのも意外なことではない。
 ディドロ(*22)は言う。

 不快な主人への服従は女にとって拷問である

私は、貞淑な妻に夫が近寄ると嫌悪のあまり震えるのを見たことがある。彼女は、浴槽に全身浸かってもあの義務の穢(けが)れから清められることは決してないと思っている。この種の嫌悪感をわれわれ男たちはほとんど知らない。

我々の生殖器官は、もっと寛容である。絶頂の快感を経験しないで死ぬ女は何人もいる。この興奮がつかの間の癲癇(てんかん)のようなものであることを認めるに吝(やぶさ)かでないが、それは、女にとって稀なものであるのに対し、われわれ男にとっては求めれば必ず到達できるものなのだ。

熱愛する男の腕の中でさえ、女は至上の幸福をとり逃す。だが、われわれは、嫌悪をもようおさせる尻軽女のそばにいても、こうした興奮を見出す。男ほど感覚を支配できない女にとって、報いは遅くしかも確実とは言えない。女の期待は何度も裏切られるのである。

実際、快楽も、性的なときめきさえもまったく体験しないまま、母になり祖母になる女が多くいる。女たちは、医者に証明書をもらったり他の口実を設けて、「義務の戯れ」を逃れようとする。キンゼー報告の教えるところによれば、アメリカでは大勢の妻たちが「自分の性交の回数はすでに十分多いと思うと言明し、夫がこれほど頻繫に性交渉をしたがらないように願っている。もっと性交をしたいと思っている女性はごくわずかである」。とはいえ、

すでに見た通り、女の官能は開発の余地がほとんど無限にある。この矛盾は、結婚が女の官能を規制すると称して、実はそれを圧殺していることを実によく示している。
『テレーズ・デスケルー』でモーリヤックは、「分別をもって結婚した若妻が、結婚というもの、とりわけ夫婦の義務というものに対してどのように反応したかを描いている。

おそらく彼女は結婚に、支配や所有よりも避難所を求めていのだろうか、彼女を結婚へとせき立てたのは、一種の恐怖ではなかったのだろうか。幼い頃から現実感覚があり、切り盛りのうまい子どもだった彼女は、あわてて自分の地位を捕らえ、決定的な居場所も見出した。

自分でもなにもよくわからない危険に対して安心したかったのである。婚約期間ほど彼女が分別ある様子をしていたことはない。彼女は家族の団結の中にはまり込み、「身を固めて」秩序のなかに入っていった。危険を脱したのだ。

蒸し暑い婚礼当日、サン=クレールの狭苦しい教会では女たちのおしゃべりが足踏みリードオルガンのぜいぜいという音を覆い消し、香水が、祭壇で焚かれるお香よりも強く匂っていた。その日のテレーズ・デスケルーは、もうだめだと感じた。夢遊病者のように檻の中に入っていき、扉が閉まる重々しい音を聞いたとき、哀れな子どもは突然目が覚めたのである。

何一つ変わったものはない。だがその時以来、もはや一人で破滅することすらできないと感じられた。一つの家族の奥深いところで、彼女はくすぶりつづけるだろう。ちょうど枝の下でちろちろ燃える陰険な火のように・・・・

・・・・半ば田舎風で半ばブルジョア風のこの婚礼の夜、娘たちの鮮やかなドレスが目を引くグループが、新婚カップルの車を徐行させて喝采を送った・・・・そのあとの夜のことを思い出してテレーズ・デスケルーは呟く。「おぞましかった」。続けて「いや・・・・それほどでもないけど」。イタリアの湖水を巡るハネムーン中、彼女は非常に苦しんだのか。いや、そんなことはない。

彼女はうっかり本心を覗かせないというゲームを演じていた・・・・テレーズは体にさまざまなふりをさせることができ、それに苦い喜びを味わっていた。一人の男が彼女を無理やり入り込ませたあの未知の驚異の世界、あそこにおそらく彼女にとっても幸福と呼べるものがあったのだろうと想像はできたが、それはどんな幸福だったのだろう?

私たちは雨に覆われた風景を前にしたとき、それが晴れの時にどんなふうだったか心の中に描くが、テレーズはそんなふうに快楽というものを発見したのである。ベルナール、あの放心した眼差しの男・・・・なんてだまされやすい男! ベルナールは自分の快楽に閉じこもっていて、かわいい若豚のよう。「私が飼桶の前で幸福の余り鼻を鳴らす様子を格子越しに見るとなんともおかしいあの若豚のよう。

「私が飼桶だった」。テレーズは考える・・・・彼はどこで覚えたのかしら、肉欲にかかわるすべてのことに等級をつけ、紳士の愛撫と変態の愛撫を区別するなんて。
何のためらいもなく・・・・
・・・・かわいそうなベルナール、他の人よりとくに悪いわけでもないのに! でも欲望のせいで、近づいてくる彼が似ても似つかぬ獣に変わってしまう。「私は死んだふりをしていた。ちょっとでも動けば、あの気違い、あの癇癪持ちが私を絞め殺してしまうかのように」

「泣いてしまうほど興奮させられたのに短すぎたのです」

次はもっと赤裸々な証言である。シュテーケルが集めた告白だが、夫婦生活に関するくだりを引用してみよう。登場するのは、洗練された教養豊かな環境で育てられた28歳の女性である。

婚約中、私は幸せでした。なんというか、目立たないところにいると感じていたのが、突然注目される存在になったのですから。周囲に甘やかされ、婚約者からちやほやされて、こうしたことは全て初めての経験でした・・・・私はキスに(婚約者はこれ以外の愛撫を絶対にやってみようとしませんでした)燃え上がり、結婚式の日がまてないくらいだったのです・・・・式の日の朝は興奮しすぎて肌着がびっしょり汗でびしょ濡れになったほどでした。

自分があれほど望んできた未知のことを遂に知るんだわという考えだけでした。男の人は女の膣におしっこをするに違いないなどと幼稚なことを思い描いていのですから・・・・私たちの部屋で夫が席を外そうかと尋ねたとき、すでに少し失望させられました。でも彼の前では本当に恥ずかしいかったので、そうしてくれるよう頼みました。

服を脱がされるシーンは想像の中では重要な役を演じていたのですが。私はベッドに入ると、彼はすっかりどぎまぎして戻ってきました。後で、私の様子に怖気づいたのだと白状しましたけど。私は輝くばかりの若さそのもので、期待に満ちていたそうです。彼は服を脱ぐとすぐに灯りを消しました。

そして私に抱きついてただちにものにしようとしたのです。私は本当に怖くなって、私に触わらないでと頼みました。彼から遠く離れたかったのです。前戯も愛撫もなくいきなりやろうとしましたので、ぞっとしたのです。私は彼を粗暴だと思い、後になってしばしばその事をとがめました。実は粗暴ではなく、どうしようもなく不器用で感受性が欠けていたのです。

その夜は何をやっても無駄でした。私は心から悲しくなり始めた、自分の愚かしさを恥じて、責任は自分にあり私の体は無様なのだと思いました・・・・最後にはキスで我慢することにしました。10日後に彼はやっと私の処女を奪うことが出来ましたが、性交は数秒しかもたず、私には軽い痛みのほかには何も感じられませんでした。

全くの期待外れです! 後になって、性交中に少しばかり歓びを感じるようになりましたけれど、性交はうまくいっても骨がおれるもので、目的を達するために夫は相変わらず苦労していました・・・・私はプラハの義兄の一人部屋で、自分が彼のベッドに寝ていたことを知り、彼の刺激を想像してみました。私が初めてオルガスムスを感じ心から幸せになれたのは、その部屋なのです。最初の数週間、夫は毎晩私とセックスしました。

 私はその時もオルガスムスに達したのですが、満足できませんでした。泣いてしまうほど興奮させられたのに短すぎたのです・・・・二度の出産の後・・・・だんだん性交に満足できなくなりました。オルガスムスに達するのは稀で、夫はいつも私より先に達してしまうのです。私は毎回不安でした。(彼はどれくらいもつかしら?)私を中途半端な状態にしたまま彼が満足すると、私は彼を恨みました。

 時には性交中に、従兄弟や出産の時の医者を思い浮かべました。夫は指で私を興奮させようとしました・・・・興奮はしましたが、同時にそんなやり方は恥ずべき異常なやり方だと思い、快感は全く感じませんでした・・・・結婚生活のあいだずっと、夫はけっして私の体を愛撫してくれなかったのです。ある日、夫は、私とはもう何もしないと言いました・・・・彼は私の裸を見たことがありません。私たちは寝間着を着たままでしたし、夫は夜にしか性交をしなかったからです。

 実際は非常に官能的なこの女は、後に愛人の腕の中で完全な幸福を得た。
 婚約期間はまさしく、若い娘が斬新的に性の手ほどきを受けるために設けられている。だがたいてい、婚約者たちは慣習により極度の貞潔を強いられる。この期間中に処女である娘が未来の夫を「知る」場合でも、この状況は若妻の状況とさほど違わない。娘が身を任せるのは愛の誓いがすでに結婚と同じくらい決定的に思えるからにすぎず、初体験はテストのようなものなのだ。娘はひとたび身を任せると、妊娠して完全に縛られることにならなくても、婚約を取り消すことはめったにない。

 初体験につきものの難題は、愛情や欲望によってパートナー双方が完全に同意に至るのであれば、容易に克服される。互いに自由であることを認めあっている恋人同士が喜びを与え合い味わうならば、肉体的愛はその喜びから力と尊厳を得る。そうした場合、恋人たちのどんな行為も下劣なものではない。

 どちらにしても、どんな行為も課せられたものではなく、無私無欲に望まれたものだから。だが結婚は身体をその一般性において捉えれるように定めて、身体に道具としての性格、したがって価値を下げる性格を付与する。夫はしばしば、自分が義務を果たすのだと考えて萎縮してしまい、妻は自分に対して権利を行使する者に委ねられ感じて恥じるのです。

 もちろん、結婚当初から性的関係にカップルの個性が反映されることもありうる。あるいはまた、ゆっくり順を追って性の修得がなされる場合もある。さらに、初夜からすでに夫婦が互いに幸運な肉体的魅力を見出していることもある。結婚は、今でもよく肉体につきものとなっている罪の観念を取り除くことで、女が楽に身を任せられるようにする。

 安定した習慣的な共同生活は、性の成熟に格好な肉体の親密な関係を生じさせるのだ。結婚当初の数年間は、満足している妻たちがいる。驚くべきことに、彼女たちはそのことで夫に感謝の念を抱きつづけ、夫がそれ以後犯す過ちをすべて許してしまうのである。

「不幸な夫婦生活を清算できない女たちは、必ずかつて夫から性的満足させられたことがある」とシュテーケルは言っている。とはいえ、自分の性愛の運命は主としてパートナーの個性次第で決まるというのに、若い娘が、生涯にわたり、性的に接触したことのない一人の男としか寝ないことを誓うというのは、やはりとてもない危険を冒すことである。

 これはレオン・ブルム[1872-1950、フランスの政治家、作家]が『結婚論』で告発した逆説であるが、彼の言うことは正しい。
 財産・地位のためにする結婚にも愛が生まれるチャンスは大いにあるなどと主張するのは偽善だ。実利的、社会的、道徳的な利害で結ばれた夫婦に、一生ずっと快楽を与え合うよう求めるのは、不条理そのものである。とはいえ、こうした打算的な結婚の支持者たちの方も、恋愛結婚は必ずしも夫婦の幸福を保証する者ではないことを容易に示すことができる。

 というのも、まず、若い娘が多くの場合知っているは観念的恋愛であるが、それが娘に性愛の心構えをさせるとは限らないからである。娘が子どもじみた、あるいは若者らしい固定観念を投影するプラトニックな恋愛、夢想、情熱は、日常生活の試練に耐えるようにも、長続きするようにもできていない。娘とその婚約者のあいだに誠実で激しい性的な愛着が存在するにしても、それは一つの人生という企てを築く堅固な土台とはならないのだ。
 コレットは書い(*23)ている。

 愛の果てしない砂漠の中で、肉欲は、熱いがごくちっぽけな場を占めているにすぎないのに、最初は激しく燃え上がるあまり、他のものは見えない。この不安定な火元の周りにあるのは、未知なるもの、危険である。束の間の抱擁や、場合によっては長い夜から目覚めると、互いに間近なところで互いのための生活を始めなければならないのだ。

 そのうえ、性愛が結婚前から存在していたり新婚早々に芽生えた場合でも、それが長続きすることは滅多にない。相思相愛のカップルの性的欲求には自分たちの独自性が包み込まれているのだから、たしかに性愛には忠誠が必要不可欠である。

 二人はこの独自性が外的な経験によって否定されるのを拒み、互いに相手にとって唯一無二の存在でありたいと望む。しかしこの忠誠は自発的なものであるかぎりにおいてしか意味をなさない。それに性愛の魔力は自然にさっさと消え去るものだ。驚くべきことは、性愛が、その実存が無限の超越である存在を、愛し合う二人のどちらにも、即座に、肉体的な存在の姿で委ねることである。

 それに、この存在はおそらく、所有することはできないだろうが、少なくとも特別な、衝撃的なやり方で感銘を与えられる。しかしカップルのあいだに敵意や嫌悪や無関心が生じて、二人が互いに感銘を与え合いたいと思わなくなると、性愛の魅力は消えてしまう。

 そしてまた性愛の魅力は、尊敬や友情においても同じくらい確実に死に絶えてしまう。というのも、世界及び自分たちに共通の企てを通して自己超越の活動に共に参加している二人の人間は、肉体的な交わりは必要なかったからである。しかも、このような二人の人間にとっては、肉体の結合は意味を失った以上、嫌悪の対象となる。

 モンテーニュが使った近親相姦という言葉は意味深長である。性愛とは《他者》に向かう運動であり、これが性愛の大きな特徴である。しかし、カップルの内部で夫婦は互いに《同一者》となる。夫婦の間では、いかなる交換も贈与も征服も不可能になる。したがって夫婦が恋人でありつづけるのは見苦しいことが多い。

 夫婦にとって性行為は各人が自分を乗り越える主体どうしの経験でなくなり、一緒にする自慰行為のようなものであることを彼らは気づいている。夫婦は互いに相手を自分の欲求充足に必要な道具とみなしているのだが、普段それは二人の間の礼節に包み隠されている。しかしラガーシュ博士が『嫉妬の性質と形態』で報告している所見にも見られるように、この礼節が守られないとなると、ただちに隠れている事実が派手にさらけ出される。

 たとえば、妻はペニスを自分専用の快楽の保管庫のようなものと見なして、ちょうど戸棚の缶詰のようにこれを大事にしまっておく。夫が他の女にそれを与えると、彼女の分がなくなる。したがって、貴重な精液を夫が浪費していないかどうか、疑い深く夫のパンツを調べるのである。

 マルセル・ジュアンドー[18881979、フランスの作家]は、『夫の記録』で、「正妻が諸君の恥ずべき行為の証拠をつかむために毎日行う寝巻や睡眠の検閲」を指摘している。夫は夫で、妻の考えも聞かずに妻の体の上で自分の性欲を満たすのである。

 いずれにせよ、こうした粗暴な欲求充足では、人間の性欲を十分満足させることができない。それゆえ、最も合法的に認められている抱擁にさえ、悪徳の後味が残るのだ。妻が扇情的な空想の助けを借りることはよくある。

 シュテーケルは25歳の妻の例を引き合いに出しているが、彼女は「年上の強い男が有無を言わさず強引に自分を捕まえているのだと想像すると、夫とでも軽いオルガスムスを感じることができる」。彼女は、強姦され、ぶたれていると想像するのだ。夫もまた同じような夢を胸に秘めている。

 妻の肉体の上で彼が所有するのは、ミュージックホールで見たダンサーの太腿であり、写真で見とれたピンナップ・ガールの乳房であり、記憶でありイメージである。または、妻が誰かに欲望され所有され強姦されたと想像するが、これは失われた他者性を妻に取り戻させる手段なのだ。「結婚は、グロテスクな置き換えと倒錯、演技に凝る役者を産み出し、化像と現実の境界そのものを壊しかねない二人のパートナーのあいだで喜劇が演じられる」とシュテーケルは言う。

 極端な場合には、明確な性的倒錯が表に出る。夫が覗きをやる、妻の魅力を少し取り戻すために、彼は妻が愛人と寝ているのを見たり知ったりする必要があるのだ。または、妻が意識と自由を持っていることが明らかになって彼の所有するのが確かに一人の人間だと分かるように、妻に拒絶させようとわざとサディスティックに振る舞う。逆に妻には、夫とは別の支配者や暴君を夫の中に呼び起こそうとマゾヒスト的な振る舞いが現れる。

 私はカトリックの寄宿学校育ちで実に信心深い上流夫人と知り合いになったが、彼女は、昼間は高飛車で居丈高だが、夜になると夫に自分を鞭でぶってくれるように熱心にせがみ、夫は嫌々ながらもそうしてやっていたという。結婚においては性的倒錯も計画的で醒めた様相、深刻な様相をおび、その為にこの上なく痛ましい窮余の策になってしまう。

 実のところ、性愛を絶対的な目標や単なる手段として扱うことはできないだろう。性愛が実存を正当化することはあり得ないだろう。しかし、性愛が別のものによって正当化されることもあり得ないのである。つまりは性愛は、人間の一生を通じて、二次的だが自律的な役を演じるべきであろう。何よりもまず、それは自由であるべきなのだ。


 それにまた、ブルジョアの楽天主義が若妻に約束するのは、愛ではない。若妻の目にちらつかせられる理想とは、幸福という理想、すなわち内在性と反復の中での平穏な安定という理想である。繁栄と平安の時期にはしばしば、こうした理想はブルジョア階級全体の、とりわけ不動産所有者たちの理想であった。

 彼らは、未来と世界の征服を目指すのではなく、過去を平穏に保存すること、現状維持をめざしたのである。野心も情熱もない金ビカの凡庸、どこへ通ずることもなく際限なく繰り返される日々、存在理由を探し求めることなく少しずつ死の方へ滑っていく人生、こういうものが、たとえば『幸福のソネット』の作者が褒めそやしているものなのだ。

 エピクロス[古代ギリシアの哲学者]とゼノン[古代ギリシアの哲学者]から吹き込まれたこうした偽の英知は、今日では信用されなくなった。世界を今あるがままに保ち反復させることは、望ましくもなければ可能でもないように思われる。男の使命は行動である。男は生産し、闘い、創作し、進歩し、世界全体と無限の未来に向けて自己を乗り越えていかなければならない・

 しかし、伝統的な結婚では、女に男と共に自己を超越するように勧めはしない。逆に女を内在性に閉じ込める。従って女は、過去の延長である現在にいて、未来に何も恐れを抱かずにすむ安定した人生を築くこと、つまり、まさしく幸福を築くことより他に引き受けることのできるものは何一つないのだ。

 妻が愛の代わりに、夫婦愛と呼ばれる優しく恭しい感情を夫に感じることになる。女は、管理を任される家庭の中に世界を閉じ込めることになる。女は未来を通して人類を永続させていく。ところが、どんな実存者も、自らの超越を断念することは決してできない。超越を断念とどれほど言い張っても、それは不可能である。

 かつてブルジョアの男は、既成の秩序を保つこと、また自分の繁栄によって美徳を示すことで、自分は、神、祖国、制度、文明等に奉仕しているのだと考えていた。幸福であることは、男としての役割を果たすことであった。女にとってまた、調和のとれた家庭生活は目的に向けて乗り越えられるべきものである。

 女の個別性と世界とのあいだの仲介役を務めるのは男であり、女の偶然的な事実性に人間としての価値を脅えさせるのも男である。男は、企て行動し闘う力を妻から引き出して、妻を正当化する。妻は自分の実存を夫の手に託しさえすればよく、夫が妻にその実存の意味を与えてくれるだろう。

 これは妻が謙虚に自己放棄することを前提としている。だが妻はそれで報いられる。なぜなら、男の力で導かれ護られて、根源的な遺棄を脱することができるだろうからだ。つまり妻である女は偶然を脱して必然になるのだ。

自分の巣箱の女王蜂である女は、心安らかに自分の領地の中心で自分自身の中に埋没しながら、夫を介して世界と無限の時間を貫いて運んでいかれ、妻、母親、主婦として、生きる力と人生の意味とを同時に結婚を見出す。私たちはこの理想が現実にはどのように現われて見なければならない。

理想的な幸福は、つねに家の中で具現化する。掘っ立て小屋かお屋敷かを問わず、家は恒常性と分離独立を体現しているのだ。家族が独立した一つの基本単位を作るのも、世代の移り変わりを越えた家族のアイデンティティが見られるのも、家の中においてである。

過去は、家具や祖先の肖像画のかたちで保存されていて、確かな未来を余示している。庭では食用野菜に四季の規則正しい循環が現れる。毎年、同じ花で飾られる同じ春が巡って来ると、いつもと変わらぬ夏、そして例年通りの果物をもたらす秋がやって来ることが保証される。

時空は無限に向かって逃れ去ることなく、穏やかに循環する。土地所有に立脚したあらゆる文明には、いえの詩情や美徳を讃える文学が満ち溢れている。そのものずばり『家』と題されたアンリ・ボルドー[1870-1963、フランスの作家]の小説では、家はブルジョアのあらゆる価値を端的に表している。すなわち、過去への忠実、忍耐、節約、先々への備え、家族愛、母国愛、等々である。

 家の礼賛者は女であることが多い。というのも、家族集団の幸福を守るのは女の役割だからである。その役割とは、古代ローマの「女主人」がその館の広間に君臨していた時代と同様、「一家の女主人」であることなのだ。

 今日、家は家父長制時代の栄華を失った、大多数の男にとって家は単なる住居になって過去の諸世代の思い出に威圧されたり、将来の日々を縛りつけたりするものではなくなった。だが女は尚まだ自分の「室内」に、真の家が持っていた意味と価値とを与えようと努めている。

つづく 第五章Ⅱ 不感症や欲求不満の女