ソフィア・トルストイは結婚してすぐ、自分は夫を愛していないと気づき絶望の叫び、倦怠・悲しみ、無関心の告白には、情熱的な愛の抗議が入り混じっている。彼女はいつも自分の傍らに愛しい夫がいてほしいと思っている。夫が離れていくと、すぐに彼女は嫉妬に苦しめられる。

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第五章 Ⅳ ソフィア・トルストイ

本表紙 第二の性 体験 ボーヴォワール著
 ソフィア・トルストイの日記の数節と、以下に引用する部分から、彼女が、結婚してすぐ、自分は夫を愛していないと気づいたことが明らかにわかる。夫の肉体関係は彼女に嫌悪を催させるのであった。彼女は夫との過去をなじり、夫を年寄りで退屈だと思い、夫の考えには反感しか覚えていない。

 もっとも、夫の方も、寝床では貧婪で粗暴だが、彼女は無視して、冷酷に扱っていたようだ。一方、ソフィアの絶望の叫び、倦怠・悲しみ。無関心の告白には、情熱的な愛の抗議が入り混じっている。彼女はいつも自分の傍らに愛しい夫がいてほしいと思っている。夫が離れていくと、すぐに彼女は嫉妬に苦しめられる。
 彼女はこう書いている。

 1863年1月11日――私の嫉妬深さは生まれつきの病気だ。たぶん、それは、私が彼を愛していて、彼のことだけを愛していて、彼と一緒でなければ、彼によってでなければ、幸せでないというところからきているのだろう。

 1863年10月15日――彼が私を通じてだけ夢見たり考えたりしてほしいし、私のことだけを愛してほしい。私もこれが好き、あれだけ好きと思った途端に、私はすぐさま、それを打ち消して、私はリオヴォチカの他には好きなものは何もないのだと感じる。けれども、彼が自分の仕事が好きなのと同じように、私も絶対に他のものを好きにならなければいけないのだろう・・・・でも、彼が居ないと、こんなにひどい不安を感じる。彼と離れずにいたという気持ちが日に日につのってくるのを感じる・・・・

 1863年10月17日――私には彼のことをよく理解することができないように感じる。だからこそ私は、こんなに嫉妬深く彼のことを探っているのだ・・・・

 1868年7月31日――彼の日記を読みかえすと、なんておかしいことか。なんて矛盾していることか。まるで私が不幸な女みたいだ。私たちより仲のいい幸せな夫婦なんているだろうか。私の愛は大きくなっていくばかりだ。私はいつも彼のことを、相変わらず不安な、情熱的な、嫉妬深い、詩的な愛情で愛している。彼の冷静さと自信が時折、私を苛立たせる。

 1876年9月16日――私は彼の日記で愛が問題になっている箇所をむさぶるように探し求め、それが見つかると、すぐに嫉妬にさいなまれる。私はリォヴォチカが出発してしまったのを恨めしく思っている。私は眠らず、ほとんど食べず、涙をこらえたり、さもなければひそかに泣いている。毎日、夕方になると少し熱が出て、悪寒がする・・・・こんなに愛してしまったことで罰を受けているのだろうか。

 これらの章句全体を通じて、真実の愛の欠如を、道徳的な、あるいは「詩的な」昴揚によって補おうとする空しい努力が感じ取れる。こうした彼女の心の空虚を、過大な要求、不安、嫉妬が表しているのだ。病的な嫉妬の多くは、こうした条件のもとでつのっていく。嫉妬は女が架空の恋敵を考え出すことで表出する不満感を間接的なかたちで表している。夫の傍ではけっして満足感を味わえない女は、夫が彼女を裏切っていると想像することで、いわば自分の失望を正当化するのである。

 道徳性、偽善、傲慢、内気さなどによって女が自分の嘘に固執することが非常に多い。「愛しい夫に対する嫌悪が一生涯はっきりと自覚されないということがよくある。それは、憂鬱とか他の名で呼ばれている」と、シャルドヌ(*39)は言っている。

しかし、名付けられていなくても、反感が実際に感じられていることに変わりない。反感は、若い妻が夫の支配を拒もうとする努力によって、多少なりとも激しいかたちで表される。蜜月と、たいていそれに続く動揺の時期の後、若い妻は自分の自律性を取り戻そうと試みる。これは容易な企てではない。夫はたいてい妻より年上で、ともかく男性的な威信を備えているし、法律上、「家長」であるということで、夫は道徳的、社会的な優越性を保持しているのである。

 たいてい、夫はまた、知的な優越性も――ともかく、見かけの上では――そなえている。夫は教養の面で、少なくとも職業教育の面で妻に優越している。夫は青年期から社会の問題に関心を抱いている。これは自分自身にかかわる問題なのだ。夫は法律の知識も少しあり、政治問題にも通じているし、政党や労働組合や、諸々の団体に属している。労働者、市民である夫の考えは、行動とかかわりを持っている。誤魔化しのきかない現実を実際に体験している。

 つまり、普通の男は推論の技術、事実や経験への興味、ある程度の判断力を備えているのだ。まさに、こうしたものが、まだ大半の若い娘には欠けている。彼女たちは、読書をしたり、講演を聴いたり、趣味で芸事を習ったことはあっても、多かれ少なかれ成り行きまかせで積み重ねられてた彼女たちの知識は教養とはならない。

 彼女たちがうまく推論できないのは、頭脳的な欠陥のせいではない。つまり、彼女たちは実生活で推論する必要に迫られたことがないせいなのだ。彼女たちにとっては、思考は道具よりもむしろ遊びである。たとえ聡明で、感受性が豊かで、誠実であっても、彼女たちは、知的な技術に欠けているせいで、自分の意見を論証し、その結果を引き出すことが出来ない。それだからこそ、夫が――たとえ、よほど凡庸な夫でも――容易に彼女より有利な立場に立つのである。

夫は、たとえ自分が間違っていても、自分が正しいと証明するすべて知っている。男の手に握られると、論理はしばしば暴力になる。シャルドンヌは『祝婚歌』のなかで、こうした陰険なかたちをとった抑圧を巧みに描き出している。

ベルトより年上で、教養も知識もまさっているアルベールは、妻の意見が自分と合わないと、こうした優越性を笠に着て妻の意見に一切価値を認めないとかる。彼は自分が正しいのだということを倦(う○意=あきることなく)むことなく妻に証明してみせる。妻の方は意固地になって、夫の理屈に内容があるとは一切みとめまいとする。

夫は自分の考えに固執するだけのことだ。こうして、二人のあいだで重大な誤解が深まっていく。夫は、妻がうまく説明して見せる事は出来ないが、妻のうちに深く根付いている感情、反応を理解しようと努めない。妻は、夫が彼女に浴びせかける衒学的な論理のかげに何か生き生きしたものがあるかもしれないということがわからない。夫はついに無知に苛立って――もっとも、けっして妻はそれを彼に隠していたわけではないが――、挑戦的に、天文学の質問を妻につきつけることまでする。

とはいえ夫は、自ら講義の采配をふるい、妻に自分が簡単に思いのままにできる聴衆だと思って得意になっているのだ。自分の知的な欠陥のせいで必ずたちまち負けてしまう闘いのなかで、若い妻には沈黙なり涙なり暴力の他には対抗手段がない。

あのひきつったような、甲高い声を聞いていると、ベルトは殴られたみたいに頭がかすんでしまって、もう考える事は出来なかった。そしてアルベールは相変わらず、横柄な唸り声で彼女を包み込んで、彼女をぼうっとさせ、彼女を傷つけ、その侮辱された心を動揺させようとしていた・・・・

 彼女は訳の解らない議論のがさつさに困惑し、打ちのめされていた。そして、この不正な権力から逃れようと、叫んだ。「ほっといてちょうだい!」。彼女には、この言葉では弱すぎるように思われた。彼女は化粧台の上のクリスタル製の子瓶に目をやり、突然、その函をアルベールに投げつけた。

 女も時には闘おうと試みる。しかし、たいていは『人形の家』[ノルウェーの劇作家イプセン(1828-1906)の戯曲]のノラ(*40)のように、男が自分の代わりに考えてくれるのを仕方なしに承知する。男がカップルの意識になるというわけだ。臆病さ、不器用さ、怠惰から、女は一般的、抽象的な問題すべてについての共通見解を作り上げる役を男に任せてしまう。

 聡明で、教養があり、自立しているが15年にわたって、自分より優れていると思う夫に敬服していたというある女の人は、夫の死後、自分の信念や行動について自分自身で決定を下さなければなくなって、どんなに動揺を感じた事かと、私に話したことがある。

 いまだに彼女は、どんな場合にも、夫ならどう考え、どう決めただろうと推察しようとしているのだ。夫は一般に、こうした指導者・首長の役に満足を覚える(*41)。同輩との関係の難しさや、目上の者への服従を経験した日の晩には、夫は自分を絶対的な優越者と感じたがり、揺るぎない真理を惜しみなく授けたがる(*42)。

 彼は昼間の出来事を説明し、相手より自分より自分の方が正しいと認め、妻のなかに彼自身を確証する分身を見出して幸せに思う。彼は新聞記者や政治ニュースを解説し、わざと妻に大声で朗読してやる。文化と妻との関係そのものが自律的なものにならないようにするために。自分の権威を拡張するために、彼は女の無能さをひどく誇張する。

 妻はこの従属的な役割を多かれ少なかれ従順に受け入れる。

妻たちが、夫の不在を心から寂しがっていながらも、この機会に、自分自身のなかに思いもよらない可能性を発見して、どれほど呆然とした喜びを感じるものかは、よく知られている。彼女たちは、助けなしに、問題をとりしきり、子どもを育て、決定を下し、管理する。だが、夫が帰ってきたために自分がふたたび無能と定められると、彼女たちは辛い思いをする。

 結婚は男の気儘な支配的態度を助長する。支配欲は誰にでもあるし、誰にとっても最も抑えがたいものである。子どもは母親にゆだねること、妻を夫にゆだねること、それは地上に専制を培うことだ。たいてい夫は、賛同されること、称賛されること、助長すること、指導することだけでは満足できない。

 夫は命令を下し、君主の役を演じる。彼は、妻に自分の権威をつきつけることによって、幼い頃からこれまでの人生で集積した恨みのすべて、その存在自体が自分を苦しめ、傷つける男たちの間にあって日常的に集積した恨みのすべてを家庭で解消するのだ。彼は暴力、権力、非妥協性を身振りで表わす。

 厳しい一声で命令を下したり、さもなければ、喚いたり、テーブルを叩いたりする。こうした芝居は妻にとっては日常茶判事である。夫は自分の権利を確信しきっているので、妻がほんの少しでも自律性を保持していると、反逆されているように思う。彼は、妻が彼なしには息もできないようにしたがる。

 しかし妻は反抗する。たとえ最初は男性的威信を認めたにしても、彼女の眩惑はすぐに消える。子どもいつかは、父親も一介の人間にすぎないと気づく。妻はじきに、自分の面前にいるのは、《領主》《首長》《主君》といった崇高な人物ではなく、一人の男であると悟る。自分がなぜ彼に服従しなければならないのか、まったく納得がいかない。

 彼女の目には、実りのない、不当な義務としか映らない。時には、妻はマゾヒスト的な自己満足で服従する。彼女は犠牲者の役を演じるが、その忍従は長い無言の非難に他ならない。しかしまた時には、妻は支配者に公然と闘いを挑み、逆に彼を虐げようと努める。

 妻がたやすく自分の意志に従わせて、思うままに「教育」するのだと思い込むような男は単純である。「妻とは夫が作り上げるものだ」とバルザックは言っている。しかし彼は、その少し先の箇所では、反対のことを言っている。抽象と論理の領域では、たいてい妻は仕方なしに男の権威を受け入れる。しかし、自分にとって重要な考えや習慣に関することになると、妻はずる賢く、執拗に夫に対抗する。

 幼児期、思春期の影響は男より女の方がはるかに根深い。女の方が自分の個人的歴史にずっと深く閉じこもっているからだ。幼児期、思春期に得たものを、たいてい女はけっして手放そうとはしない。夫は、妻に政治的意見を押し付けることはできても、妻の宗教的信念を変える事は出来ないし、妻の盲信を揺るがすことはできない。

 信心に凝り固まった世間知らずの女の子と生活をともにして、自分が彼女を実際に感化するのだと思い込んでいたジャン・パロワ[フランスの小説家ロジェ・マルタン・デュ・ガールの小説『ジャン・バロワ』(1913)の主人公]が、そうしたことを確認している。

 彼は、げんなりして言っている。「田舎町の暗がりに埋没した小娘の頭脳、無知な愚かしさの主張すべて。これは洗い落しようがない」。女は、信条を教え込まれていても、道徳規範をオウムのようにしゃべりたてても、自分自身の世界観は保持している。こうした抵抗のせいで、女が自分より理知的な夫の言うことを理解できないこともある。

 あるいは逆に、こうした抵抗のお蔭で、スタンダールやイブセンの女主人公たちのように、女が男のくそ真面目な精神よりも高邁になることもある。時には女は、男への反感から――性的に失望させられたにしろ、あるいは逆に、男に支配されて、その仕返しをしたいと思ったにせよ――、わざとその男の価値観とは違う価値観に固執する。

 母親、父親、兄弟の権威や、「優れている」と思われるような男性の人物、聴罪司祭、修道女の権威を後ろ盾にして、夫を打ち負かそうとする。あるいは、積極的な反論は一切しないで、一貫して夫に反対し、夫を攻撃し、夫を傷つけるように努める。夫に劣等感を植つけようとするのだ。

 もちろん、必要な能力が備わっている女であれば、夫を眩惑し、自分の意見、信条、主義を夫に押し付け喜ぶ。精神的権威をすっかり自分で独占してしまうわけだ。
夫の精神的優越性に対抗するのが不可能な女の場合には、性的な面で報復しようとする。

 たとえば、アレヴィー[1872-1962、フランスの批判家]が伝えているミシュレ夫人[19世紀フランスの歴史家ジュール・ミシュレの妻]のように、夫を拒む。

 彼女はあらゆるところで制圧したいと思っていた。ベッドで。なぜなら、夫がそこを出て机に移動しなければならなくなるから。彼女は机を狙っていた。そして、彼女がベッドを防御する一方で、ミシュレは最初、机を防御していた。数ヶ月間、夫婦は肉体関係がなかった。ついにミシュレがベッドを占領した、まもなく、アテナイス・ミアラレが机を占領した。彼女は生まれついての文学者であり、そこが彼女にふさわしい場所であったのだ・・・・

 妻が夫の腕のなかで身をこわばらせ、彼女が不感症であるという恥辱を夫に加えることもある。

また、妻が気まぐれや媚態を見せて、夫が懇願する態度をとらなければならないようにすることもある。あるいは浮気をして、夫が嫉妬するように仕向けたり、夫を裏切ることもある。いずれにしろ、妻は夫の男らしさを侮辱するわけである。

 用心して、極端に走らないようにしている場合でも、ともかく妻は自分の尊大な冷淡さという秘密を誇らしげに心のなかに秘めている。そして、こうした秘密を日記で明かすこともあるが、女友だちに打ち明けることのほうが多い。

 結婚した女の多くは、自分では感じていないと称する快楽を感じているふりをするのに用いる「トリック」を互いに打ち明けて楽しむ。そして、自分たちに騙されている男たちの自惚れた間抜けぶりを容赦なく嘲笑う。こうした打ち明け話は、おそらく、また別の芝居である。不感症と不感症を望む気持ちの間だの境界線ははっきりしないからだ。

 いずれにせよ彼女たちは、自分は感じないのだと思い込むことで恨みを晴らしているわけである。なかには、夜も昼も勝ち誇っていたがる女たちもいる――「カマキリ」に喩えられる女たちである。そうした女は抱擁においては冷淡で、会話においては軽蔑的で、振る舞いにおいては専制的である。

 たとえば――メイベル・ドッジ[アメリカの富豪女性。ロレンスの崇拝者]の証言によれば――ロレンスに対するフリーダ[ロレンスの妻]の態度がそうだ。ロレンスの知的優越性は否定できないので、彼女は、もっぱら性的な価値だけが重要性をもつという、自分自身の世界観を彼に押し付けるのだと称していた。

 フリーダはある日メイベル・ドッジに断言した。

 彼はすべてを私から受け取らなければならないのです。私が居なければ、彼は何も感じません。何も。彼は私から自分の本を受け取っているのです(と、彼女はこれ見よがしに続けた)。誰も知りはしません。彼の本のページは全部、私が書いたものなんです。

 しかしフリーダは、ロレンスが彼女を必要としているという事を絶えず自分で確かめることを貪欲に求めている。彼が絶え間なしに彼女のことに専心しているように求めている。彼が自分からそうしないと、彼女が強いてそうさせるのだ。

 フリーダは、自分とロレンスの関係が結婚した男女のあいだにふつう形成されるような平静さのなかで展開されるようなことには決してならないようにと、心を砕いていた。彼が慣れにまどろんでいると感じると、すかさず彼に爆弾を投じるのであった。彼女は彼が彼女のことを決して忘れないようにしていた。

 絶え間ない注視を求める・・・・これが、私が彼らに会った当時、敵に対して使う武器となっていた。フリーダは彼のもっとも敏感なところを突くすべてを心得ていた・・・・昼間、彼が彼女に関心を示さないと、夜になって、彼女は彼を侮辱することになるのだった。

 結婚生活は、この二人の間では、絶えず繰り返される喧嘩の連続となっていて、そうしたなかで、どちらも折れようとはせず、ほんの小さな争いにも《男》なるものと《女》なるものの決闘のとてつもない様相がうかがえるのである。
これとは非常に異なったかたちではあるが、ジュアンドー(*43)が描き出しているエリーズの姿にも、やはり夫の価値をできるかぎり引き下げてやろうとする猛烈な支配欲が見てとれる。

 エリーズ――まずは、まわりのものをみんな、けなしてやる。そうすれば、とても安心していられる。もう相手は醜い男か、変人しかいないわけだから。
 彼女は目を覚ますと私を呼ぶ。
 ――おい、醜男(ぶおとこ)。
 これは政略だ。
 彼女は私を侮辱したいのだ。

 どれほど素直な陽気さで、彼女は私が自分自身に抱かれている幻想すべてを次々と捨てさせて楽しんでいたことか。彼女は、仰天する友人たちや啞然とする召使いたちの前で、私はこんなふうに、あんなふうに惨めなやつだと言ってのける機会は決して逃しはしなかった。

 そんなふうにして、ついに私は彼女の言うことを信じるようになった・・・・私が碑下するようにと、彼女は折りを見ては、私の作品が彼女にもたらす興味は、それが私たちにもたらす利益には及ばないということを私に感じさせようとした。

 私の思想の源泉を涸れさせたのは、まさに彼女だ。辛抱強く、ゆっくりと、執拗に私を落胆させ、順序立てて私に屈辱感を与え、確固とした、沈着な、冷酷な論理を用いて私に心ならず少しずつ自尊心を捨てるようにさせていって。

 ――要するに、あんたは職人より稼ぎが少ないのよ。ある日、彼女は床磨き職人の前で私に言った・・・・
 ・・・・彼女が私を侮辱したがるのは、自分の方が優れている、少なくとも私と同格だというところを示すためであり、こうした侮辱で私を彼女の高さに合わせるためなのだ…・私のことは、私がしていることが彼女の踏台や売り物として役立つかぎり評価しているにすぎないのだ。

 フリーダとエリーズが男に対して自分を本質的な主体として立てようとして用いている戦略は、しばしば男たちの避難を受けているものである。彼女たちは男に自己超越を認めまいとしているのである。えてして男は、女は男に対して去勢の夢を育んでいるのだと思う。実際には、女の態勢は両義的なものである。

 女は男という性を抹殺したがっているのではなく、むしろ侮辱したがっている。もっと正確に言えば、女は男のプロジェ、男の未来に損傷を負わせたいと思っているのだ。夫や男の子どもが病気になったり疲労したりして、肉体的な存在でしかなくなってしまうと、女は勝ち誇る。そうなれば仮らは、彼女が支配する家の中で、他の物と同じ物としか見えない。

 彼女は、この物を主婦としての機能をふるって扱う。割れた皿を拾い集めるのと同じように手当をしてやり、鍋を磨くのと同じように拭いてやる。野菜の皮むき器や皿洗いの水となじんだ、その天使のような手を拒むものは何もない。

 ロレンスはフリーダについて語りながら、メイベル・ドッジに言った。「あなたが病気になった時に、この女の手があなたにどんな感じを与えるか、想像できますまい。どっしりした、ドイツ風の、肉の手ですよ」。女は意識的に、この手をいっぱいの重みを加えて押しつけ、男もまた肉体的な存在にすぎないということを男に感じさせるのだ。ジュアンドーが語っているエリーズの態度ほど徹底しているものではないだろう。

 たとえば、私は新婚当時の天津シラミのことを思い出す・・・・このシラミのおかげがなければ、私は本当に彼女と親密になれはしなかった。その日、エリーズは私を素肌にして、羊の毛を刈るかのように彼女の膝にのせ、ロウソクの火で私の体の隅々まで照らして私の体を検索したのだ。

 腋の下、胸、臍(へそ)、指でつまんで太鼓の皮のようにびんと張らせた睾丸をゆっくりと調べてから、太股、爪先へと捜査箇所を拡げていき、肛門のまわりまでくまなく調べあげた。とうとう、シラミが隠れ住んでいた人房のブロンドの体毛がごみ籠に捨てられ、彼女に燃やされてしまった。そのおかげで私はシラミとその住処から解放されたが、それと同時に、もっと裸体になり、孤独の砂漠に放り出された。

 女は、男が主体性の表現される身体ではなく、受動的な肉体であってほしいと思う。女は、実存に対して生を主張し、精神的価値に対して肉体的価値を主張する。男の企てに対しては、パスカルのような諧謔(かいぎゃく(「意味」冗談・ユーモア)的な態度をとりたがる。女もまた、「男の不幸はすべて部屋にじっと落ち着いていられないところから来る」と考えるのだ。

 女は男を住居に閉じ込められておきたいと心から思う。家庭生活に利益をもたらさない活動はすべて、女に反感を抱かせる。ベルナール・パリシー[16世紀フランスの陶芸家]の妻は、これまで世間になくてもさしつかえなかった新しい釉薬(うわぐすり)を考案するために夫が家具を燃やしてしまうのに憤慨している。

 ラシーヌ夫人[17世紀フランスの劇作家ラシーヌの妻]は夫が庭のスグリの実に関心を寄せるように仕向けるが、夫の悲劇作品は読もうとない。ジュアンドーは『夫の記録』のなかで、エリーズがあくまでも彼の文藝著作を物質的利益の種としかみなさないので激怒している。

私は彼女に言う。「僕の最新作の中編小説が今朝でるよ」。別に奇をてらうつもりもなく、ただ実際にそのことしか彼女の興味を引かないからなのだが、彼女はこう答えた。「それじゃ、今月は収入が少なくても300フラン増えるわけね」


 こうした衝突が激しくなっていき、離縁を引き起こすこともある。しかし、一般的に妻は、夫の支配を拒みながらも、夫を「手放さない」でてたがる。彼女は自分の自律性を守るために夫と闘い、また、自分を依存状態に置く「状況」を保つために、夫以外の人々と闘っているのだ。こうした二つの態度を使い分けるのは難しい。

 このことは、多くの女が不安状態、ノイローゼ状態で生活を送っているわけを部分的に説明している。シュテームルは、一つの顕著な事例をあげている。

 Z・T夫人――彼女は性的快楽を得たことが一度もない――は、きわめて教養の高い男性と結婚している。しかし彼女は、夫の優越性に耐えられず、夫の専門領域を学ぶことで夫と同等になりたいと思った。それはあまりにも骨の折れることだったので、彼女は婚約してすぐに勉学を辞めてしまった。夫はとても有名で、彼を募って集まる弟子が大勢いた。

 彼女はこんなばかげた崇拝にはまり込まないようにしようと思った。夫婦生活では、彼女は最初から快感が感じられず、そのままだった。彼女は、夫が満足して彼女から離れてからオナニーをすることでしかオルガスムスに達することしかなく、そのことを夫に話した。

 夫が愛撫で彼女を興奮させようと試みるのを彼女は拒否していた・・・・まもなく彼女は、夫の仕事を愚弄し、貶(けな)すようになった。彼女は「自分は偉大な男の私生活の楽屋を知っているので、彼の所に慕い寄ってくる間抜け者たちの気持ちを理解する」ことができなかった。毎日の夫婦喧嘩では、次のような言葉が飛び出すのだった。

「あなたの下手くそな書き物で私にあなたの価値を認めさせようとしたって無理ですからね」「あなたは、自分は三文文士なんだから、私のことを自分の思いとどおりにできるんだと思っているのね」。夫はますます弟子たちの世話に熱中し、彼女は若者に囲まれて暮らしていた。

 夫が他の女に恋するようになるまでは、彼女はこのような暮らしを何年も続けていた。それまでいつも彼女は夫のささいな浮気を容認してきたし、捨てられた「哀れな、ばか女」たちの友だちになりさえした・・・・だが、今度は態度を変え、相手かまわず若い男に身を任せたが、オルガスムスは経験しなかった。彼女は夫に自分が彼を裏切ったと告白し、夫は全面的に許した。

 穏やかに別れることもできただろう・・・・彼女は離婚を拒んだ。激しい議論になり、そして和解が成立した・・・・彼女は泣きながら身を任せ、初めて強列なオルガスムスを体験した。

 夫と闘いながら、彼女はけっして夫と別れようとは考えていないことがわかる。
 つまり、「夫を捕まえる」ことは一つの技術であり、夫を「つなぎとめておく」ことは一つの技量なのだ。それには多くの駆け引きが必要とされる。ある口うるさい若い妻に、用心深い姉がこう言ったという。「気を付けなさい。マルセルに喚き散らしばかりいると、自分の地位を失う羽目になるわよ」。最も重大なものが賭けられているのだ。

 つまり、物質的、精神的な保証、自分自身の家庭、妻の尊厳、多少なりとも上出来な、恋愛や幸福の代用品といったものである。妻は、自分の性的魅力が自分の武器のうちで最も非力なものに過ぎないことをすぐさとる。そうした魅力は慣れによって消え去ってしまう。そして、口惜しいことに、世間には欲情をそそる他の女たちがいる。

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自分が魅惑的になるよう身なりの整え方

 妻は自分が魅惑的になるよう、気に入られるように仕向ける自尊心と、自分の官能の激しさで夫を喜ばせ、惹きつけようと思いに心を引き裂かれている。妻はまた、習慣の力、夫が快適な住居に感じる魅力、夫が善良な、いとしい伴侶に示す愛着、子どもへの夫の愛情を頼りにしている。

 自分の接待の仕方や身なりの整え方によって「夫に敬意を表す」こと、自分の助言、自分の影響によって夫に支配を及ぼすことに努める。そうしたことが出来ればできるほど妻は、夫の世俗的な成功なり仕事に不可欠な存在になれるのだ。

しかし何よりも、伝統全体が妻に「夫を操る」技法を伝授しているのだ。夫の弱点を見つけ出し、それをおだてあげるべし、おだてと軽蔑、服従と反抗、監視と寛容を巧妙に調合すべし、と。最後の取り合わせはとりわけ慎重を要する。夫を自由にさせ過ぎても、不自由にさせ過ぎてもいけない。あまりにも迎合的な妻は夫に逃げられてしまう。夫が他の女たちに費やす金銭、愛の情熱は夫が妻から横領したものである。妻は、情婦が夫に大いに権力をふるっていて離婚させられるかもしれない、少なくとも夫の生活において最上位を占めるかも知れないという危機にさらされる。

 とはいえ、妻が夫に情事をいっさい禁じれば、夫を監視し、喧嘩を吹っかけ、厳しい要求を突きつける事で夫を苛立たせれば、妻は夫にひどく反感を抱かせてしまうかもしれない。ようするに、臨機応変に「譲歩する」すべを心得ることが大切なのだ。夫が「浮気」しているときには目をつぶるようにする。

 しかし、それ以外のときは、目を見開いていなければならない・とくに、妻は若い娘に用心する。若い娘が自分の「地位」を奪うのはおこがましい、と思うからだ。気がかりなライバルから夫を引き離すために、夫を旅行に連れ出し、夫の気を紛らわせようとする。必要であれば――ポンパドゥル夫人[1721-64、フランス王ルイ15世の寵姫]の例にならって――危険性がもっと少ないライバルをそそのかす。何もうまく行かいかないと、涙の発作、神経の発作、自殺の試み等々の手段に訴える。

 しかし、あまりに騒ぎたて、責めたてると、夫を家庭から追い出すことになってしまう。魅惑することが最も切実に必要になったときに、そうした女は我慢ならない女になってしまうのだ。勝負に勝ちたいと思うならば、いじらしい涙と勇壮な微笑み、脅しと媚態をうまく混ぜ合わすことだ。

 策略を巡らす、無言のうちに憎み脅える、男の虚栄心と弱点に賭ける、男の裏をかき、男を騙し、操ることに慣れる、こうしたことは実は嘆かわしい技巧だ。女の立派な口実になるのは、女は自分自身のすべてを結婚に賭けるよう強いられるということである。女には職業もなく、技能もなく、人脈もなく、姓すらも自分自身のものでなくなる。女は夫の「伴侶」にすぎないのだ。夫に捨てられたならば、たいていは、自分の中にも外にも何の助けも見つからない。

A・ド・モンジーやモンテルランのようにソフィア・トルストイを非難するのは簡単なことだ。しかし、もし彼女が結婚生活の偽善を拒んだとしたら、彼女はいったいどこに行ったのだろうか。どんな運命が彼女を待ち受けていただろうか。たしかに、彼女はひどい意地悪女であったらしい。しかし、彼女に専制君主を愛し、隷従を祝福すべきだったと言えるだろうか。

夫婦のあいだに信義と友情が存在するためには、夫婦が二人とも互いに自由であり、具体的に平等であるということは必要不可欠な条件となる。男だけが経済的自立性をもち、男が――法律と慣習のおかげで――男であることで授けられる特権を保持しているかぎり、たいてい男が専制君主の姿をとり、そのせいで女が反抗や策略を促されるのは当然である。

結婚生活の悲劇やあさましさを否定しようと思う者は誰もいない。しかし、結婚擁護論者が主張するには、夫婦の紛争は個人の不誠実さから来るのであって、制度から来るのではないという。とりわけトルストイは『戦争と平和』終章で理想的な夫婦を描いている。ピエールとナターシャの夫婦である。ナターシャはお洒落で空想好きな娘だった。結婚してからの彼女はまわりの人たちを驚かす。彼女が化粧、社交界、すべての娯楽をあきらめて、ひたすら夫と子どもたちに貢献するようになったからだ。彼女はまさしく主婦の典型になったのだ。

 彼女は、かつて彼女の魅力となっていた、あのいつも燃え立っているような生命の焔はもうもっていない今はもう、彼女の顔と体が見えるばかりで、魂は見えなかった。美しく多産な、力強い雌が見えるだけであった。

彼女はピエールに、自分が彼に捧げている愛と同じくらい独占的な愛を求める。彼女は彼に嫉妬している。彼はいっさい外出、友人との付き合いをあきらめて、彼もまた、ひたすら家族に献身するようになる。

彼はクラブへ晩餐にでかけることも、長期の旅行をすることもできなかった。ただし、彼の仕事のために出かけるのは別であった。妻は彼の科学研究をそうした仕事の一つに数えていた。彼女は、自分では何も分からないが、彼の科学研究はきわめて重要視していたのだ。

ピエールは「妻の尻に敷かれて」いたが、その反面、

ナターシャは内輪では夫の奴隷になっていた。家全体がいわゆる夫の命令によって、つまり、ナターシャが推察に努めているピエールの欲求によって、取り仕切られていた。

 ピエールが遠方に出かけると、ナターシャは彼が帰宅したとき、いらいらしながら出迎える。彼の留守につらい思いをしたからだ。しかし、この夫婦のあいだには、みごとな相互理解が成り立っている。ほのめかしただけで、お互いの気持ちがわかるのだ。自分の子どもたち、家、愛し尊敬する夫の間で、彼女はほとんど混じり気なしの幸福を味わっている。

 この牧歌的な画像は、もっと詳しく調べてみる必要がある。ナターシャとピエールは魂と肉体のように結合している、とトルストイは言う。しかし、魂が肉体から離れたら、ただ死があるのみだ。もしピエールがナターシャを愛さなくなったら、どんなことになるのだろうか。

 ロレンスもまた、男の心変わりという節を否定している。ドン・ラモン[『翼ある蛇の登場人物]は、彼に魂をささげた原住民の娘テレサをずっと愛することだろう、と。しかし、唯一の絶対的な永遠の愛の熱狂的に称賛者の一人であるアンドレ・ブルトン[1896-1966、フランスの作家]でさえも、少なくとも現在の状況のもとでは、こうした愛が対象を間違えることもありうるということを仕方なく認めている。間違いであっても心変わりであっても、女にとっては捨てられることに変わりない。

 頑健で官能的なピエール

は他の女の肉体的に惹きつけられることもあるだろう。ナターシャは嫉妬深い。やがて夫婦仲がとげとげしくなっていく。ピエールがナターシャを捨てるとすれば、ナターシャの生活は破滅するだろう。ピエールが噓をついて、恨みを抱きながらナターシャに耐えるとすれば、ピエールの生活は台無しになる。

 2人が妥協して中途半端な生き方をするならば、2人とも不幸になるだろう。ナターシャには少なくとも子どもがいるではないかと反論する人もいるだろう。しかし子どもは、夫が頂点の一つとなっている、安定した形態のなかにあってこそ、喜びの源泉となるのである。見捨てられた、嫉妬深い妻にとって、子どもはやっかいな重荷となる。トルストイはピエールの思想に対するナターシャの盲目的な献身を讃えている。

 しかし、女に盲目的な献身を求めているもう一人の男ロレンスは、ピエールとナターシャのことを愚弄している。つまり、男というものは、他の男たちの見方をすれば、粘土の偶像になることはあっても、本物の神になることはありえないのだ。男を崇拝することで、ひとは男を救うのではなく、男の命を奪う事になってしまう。いったいどうしてだろうか、男たちの主張は互いに異論を唱えあっている。

 もう権威はものを言わなくなっているのだ。女が判断し、批判をする必要がある。女は単なる従順な同伴者ではいられなくなるだろう。そのうえ、女が少しの自由意志もなしで受け入れるような規範な価値観を女に押し付けるのは、女を堕落させることがある。女が夫と同じ考えをもつにしても、それは女の自主的な判断を通じてのみできることである。
 自分に無縁なものについては、賛成も反対もできっこない。女は自分自身の存在理由を他人から借用することはできない。

 ピエール=ナターシャの神話を最も根本的に非難する根拠となるもの、それはレフ=ソフィアという夫婦である。ソフィアは夫に嫌悪感をいだき、彼のことを「うんざりさせる人」と思っている。彼は近隣の農婦みんなと関係して彼女を裏切り、彼女は嫉妬し、うんざりする。

 彼女は度重なる妊娠の期間中ノイローゼ状態で過ごし、子どもたちも彼女の心の空虚、生活の空虚を満たしはしない。彼女にとって家庭は不毛の砂漠であり、彼にとっては地獄である。そして、ヒステリックな老女が夜露に濡れた森に半裸で横たわり、追い詰められて家出した老人が一生涯の「結合」を否定するという結末になるのだ。

 たしかに、トルストイの場合は例外的である。「うまくいっている」家庭、つまり夫婦が妥協にこぎつけたという家庭は数多くある。こうした夫婦は互いにそれほど傷つけあうこともなく、噓をつき合うこともなしに、寄り添って暮らしている。しかし、夫婦がめったに免れることのできない宿命的な不運が一つある。倦怠である。

 夫が妻を自分の模倣者にするのに成功した場合、あるいは各自が自分の世界に閉じこもっている場合、数ヶ月後、数年後には、夫婦は互いに伝え合うものが何もなくなってしまう。夫婦とは、その成員が各自の自律性を失いながらも各自の孤独から解放されはしないといった共同体である。

 夫婦は互いに相手と動的、躍動的な関係を保つのではなく、静的に互いを同一化してしまう。だからこそ、精神的な領域でも、性愛の場面でも、互いに与え合うもの、交換し合うものが何にもないのだ。ドロシー・パーカーは、その最も優れた中編小説の一つ『気の毒に』のなかで、多くの結婚生活の悲話を縮図的にまとめている。夕方、ウェルトン氏が帰宅する。

 ウェルトン夫人は夫のベルの音に戸を開けた。
 ――あらまあ! と陽気に言った。
 彼らは生き生きした様子で笑顔を交わした。
――ただいま! ずっと家にいたのかい! と彼が言った。

 彼らは軽く抱擁した。彼女が、彼がコートと帽子を脱ぎ、ポケットから新聞を取り出し、一つを彼女に差し出すのを、慎ましく、興味深げに見守った。
 ――こんなに新聞をもってらしたのね。その一つを受け取りながら、彼女は言った。
 ――それで、君は一日何をしてたんだい? と彼が尋ねた。
 彼女はこの質問を予期していた。彼が帰ってくる前には、一日のことをこまごました出来事すべてをどうやって彼に話したものか心に描いていた・・・・でも今は、そんなことは無味乾燥な長話のように思えた。
 ――まあね、と彼はきりだした・・・・しかし彼の興味は話を始めないうちに失せてしまった。一方で彼女はクッションの毛糸の房飾りから糸を一本引き抜くのに専念していた。
 ――ああ、そんなところだったな、と彼は言った。
 ・・・・彼女はよその人と話すのがかなり得意だった。
 アーネストも仲間うちではかなりお喋りだった・・・・彼女は自分たちが結婚する前、婚約時代にどんなことを語り合っていたのか思い出そうとした。大したことは一度も話し合わなかった。しかし彼女はそんなことは心配していなかった・・・・接吻があったし、自分たちの心を占めているものが何やかやあった。しかし、七年も経てば、宵を過ごすのに接吻その他のことをあてにするわけにもいかない

 ひとは七年のうちには慣れて、

まあこんなものだとわかって、あきらめがつくと思えるかもしれない。だが、そうではない。結局は神経にこたえることになるのだ。これは、時に人々のあいだにかぶさってくることのある心地よい、暖かな沈黙の一つではない。これは、自分が何かしなければならない、自分は義務をはたしていないという気にさせる。

 ちょうど、夜会がうまく運んでいないとき、主婦が感じるようなものなのだ・・・・アーネストはぎこちなく新聞を読みだすが、半分くらいのところまで来ると、あくびをし始める。彼がそうすると、ウエルトン夫人の内部で何かが起こる。彼女はデリアに話しておかなければいけないと呟いて、急いで台所にいく。

 しばらく台所にいて、何となく鍋を覗き込んだり、洗濯物のリストを点検したりする。彼女が部屋に戻って来るところには、彼は寝支度をしている。一年のうち300回、彼らの宵はこんなふうにして過ぎていくのだった。300を7倍すると2千以上になる。
 
 こうした沈黙こそがどんな言葉よりも奥深い親密さのしるしだと言われることが時折ある。そして、たしかに誰しも、結婚生活は親密さを生み出すということを否定しようなどとは思わない。憎悪、嫉妬、怨恨を隠し切れない家族の記録すべてについてもそのとおりだ。ジュアンドーは以下のように書いて、こうした親密さと真の友愛の違いを強調している。

 エリーズは私の妻であって、おそらく、私の友人の誰一人も、私の親族の誰一人も、私自身の肢体のどれ一つも彼女ほど私と親密ではないだろ。しかし、私の最も個人的な世界のなかで彼女が占めている位置、私が彼女に与えている位置がどれほど私に近いところにあっても、彼女が私の皮膚、私の心の解きほぐせない仕組みにどれほど深く根付いていても(そして、そこにこそ私たちの不可分の結合の神秘すべて、葛藤すべてがあるのだが)、今しがた大通りを通っていく見知らぬ人であれ、人間的には彼女よりも私に無縁ではないのだ。

 彼はまた、こうも言っている。

 自分は毒にやられているが、それに慣れてしまっている、と気づく。それ以後は、自己をあきらめずに毒をあきらめることなどどうしてできよう。

 そして、さらに、

 彼女のことを考えると、私は、夫婦愛とは共感とも官能性とも友情も愛情ともいっさい関わりのないものだと感じる。それは、それ自体だけで完結していて、さまざまな感情のどれにも還元できず、それで結び付けられているカップルに応じて独自の性質、特殊な本質、独特な形態をもつのだ。

 夫婦愛(*44)を弁護する人たちは、えてして、それは愛ではないが、そのこと自体がすばらしい性格をそれに与えるのだと弁護する。なぜなら、ブルジョア階級は近年、叙事詩的様式を考案したからだ。因習は冒険のかたちをとり、貞淑は崇高な狂気のかたちをとり、倦怠は叡智となり、家庭内の憎悪は愛の最も奥深い形態なのである。

 実際は、二人の人間が憎み合いながらも相手なしにはいられないというのは、あらゆる人間関係のうちで最も真実なもの、最も感動的なものではない。それは、最も哀れなものなのだ。理想的な関係は、逆に、それぞれ完全に自足している人間同士が自分たちの愛の自由な合意によってのみ互いに繋がれているというものであろう。

 トルストイは、ナターシャとピエールの結びつきは「いわく言い難いが、それ自身の魂のそれ自体の肉体との結合のような緊密、堅固な」何かであると称賛している。この二元論的な仮設を受け入れるとすれば、肉体は魂にとってまったくの事実性でしかない。たとえば、夫婦の結合においては、それぞれが相手にとって偶然的な、あらかじめ与えられた条件の避けようもない重さをもつことになるだろう。

 選択された現存ではなく不条理な現存として、存在の必要条件、質量そのものとして、相手を引き受け、愛さなければならないということになるだろう。引き受ける。愛するという二つの語はえてして混同され、そこから、まやかしが生じる。自分が引き受けるものを、ひとは愛しはしない。ひとは身体、自分の過去、自分の現在の状況を引き受ける。

 しかし愛は他者、自分の存在とは切り離された存在、目的、未来へと向かう動きである。重荷、専制を引き受けるというやり方は、それを愛するのではなく、反抗することである。人間関係は、それが直接的なものとして課されているかぎりにおいて価値をもたない。

 たとえ親子の関係は、それが意識のなかで考察されるときにのみ価値を帯びる。夫婦の関係については、それが直接的なものに戻っていることや、配偶者がそのなかで自分たちの自由を麻痺させていることを称賛するわけにはいかない。執着、恨み、憎しみ、拘束、あきらめ、怠慢、偽善の混ざり合ったものが夫婦愛と呼ばれている。

 そして、ひとがそれを尊重すると称するのは、それが口実に使えるというだけのことなのだ。だが、友情についても肉体的な愛の場合と同じようなことが言える。友情が本来的なものであるためには、まず、それが自由なものでなければならない。

 自由とは、気まぐれという意味ではない。感情は瞬間を乗り越える世界への参加である。しかし、自分の決意を保持する、あるいは逆に破棄するといったふうにして、自分の総体的な意志と自分の個々の行動を比較対照してみるのは、もっぱら個人の権限である。感情は。、それがどんな外的な拘束にも左右されていないときに、つまり、それが不安なしに感じ取るときには自由である。

 「夫婦愛」は、それとは逆に、あらゆる精神的抑圧、あらゆる嘘へと導く。それに、まず最初に、夫婦がお互いのことを認識するのを防げる。日常的な親密さは理解も共感も生み出さない。夫は妻を尊重するあまり、妻の心理生活の紆余曲折に関心を示さない。そんなことをすれば、厄介で危険なことが明らかになるかもしれない隠れた自律性を妻に認めることになる。

 寝床で妻は本当に快感を味わっているのだろうか

夫を本当に愛しているのだろうか。こうしたことについて夫は自問しまいとする。こうした問いは彼にとってまさに不快なものに思える。彼は「淑女」を娶ったのだ。本質的に妻は貞淑で、献身的で、従順で、清純で、幸福であり、考えるべきことを考えるものだ。

 ある男の病人は友人、近親者、看護婦たちにお礼を述べたあと、6ヶ月間、病床に付き添っていた若い妻に向かってこう言った。「君には礼を言わないよ。君は自分の義務を果たしただけなんだから」。夫は妻の能力を何一つ美点とは評価しない。そうしたものは社会的に保障されていて、結婚制度そのものに組み込まれているのだ。

 夫は自分の妻がボナルドの著作の産物ではなく、生身の人間であることに気づかない。妻が自分に課せられている拘束に従うことを予め与えられた条件とみなしている。妻には克服しなければならない誘惑がある、それに屈することもあるかもしれない、いずれにしろ、妻の忍耐、貞淑、節度は苦難のすえ獲得されたものだということを夫は考慮しない。

夫は妻の夢想、幻想、追憶、妻がその日々を送る感情的風土をさらにいっそう根源的に無視する。たとえばシャルドンヌは『エヴァ』のなかで、何年間か結婚生活の日記をつけている夫を描いている。彼は妻について微妙なニュアンスで語っている。ただし、自分が見たままの妻、彼にとっての妻の姿について語っているだけであって、彼女の自由な人間の側面は決して見ていない。妻が彼を愛しておらず、彼の許を去ることを突然に知って、彼は強い衝撃を受ける。

 愚直で誠実な夫が妻の裏切りで幻滅するという話はしばしば語られてきた。たとえば、ベルンスタンの作品に出てくる夫達は、自分の人生の伴侶が盗人だったり、悪人だったり、姦婦だったりするのを発見して憤慨する。彼らは男らしい勇気で打撃を耐え凌ぐのだが、それでも作家が彼らを寛大で強い人物と見せるのに失敗していることに変わりはない。私たちには、彼らはとりわけ感受性と熱意を欠いた無神経な人間にみえるのだ。

 男は女の隠し立てを非難するが、何度となく騙されるには、よほどの甘さがなければならない。女は不道徳になるように定められている。なぜなら、道徳は女にとって非人間的な観念的存在を具現することにあるからだ。しっかりした女、すばらしい母親、淑女、等々、と。女が考え、夢み、眠り、欲望をおぼえ、自由に息をすると、たちまち女は男の理想を裏切る。だからこそ、多くの女は、夫が留守のときだけ、ようやく「自分自身でいる」ことが出来るのだ。

 逆にまた、妻も夫のことを知らない。妻は夫の素顔を見ているつもりでいる。彼女は夫をその日常的な偶然性のなかで捉えているからだ。しかし、男は先ず、世界で他の男たちに立ち混じって成すものである。男の超越の動きを理解しようとしないことは彼を歪曲することである。

「詩人と結婚して、その妻になって、まず最初に気づくこと、それは彼がトイレの鎖を引くのを忘れるということだ」(*45)とエリーズは言っている。それでは彼は詩人であることに変わりはないし、彼の作品に関心のない妻は遠くの読者よりも彼のことを知っていないのだ。こうした暗黙の了解が妻にできていないにしても、それはたいてい妻のせいではない。

彼女は夫の仕事について詳しく知ることができないし、夫に「ついていく」のに必要な経験、教養もない。妻は、夫にとって単調な日々の仕事の反復よりもずっと大切な企てを通じて夫と結びつくことに挫折する。一部の恵まれた場合には、妻が夫にとって真の伴侶になることに成功する。妻は夫の企てを検討し、夫に助言し、夫の仕事に協力する。

しかし妻は、自分がそれによって個人的な仕事を実現しているのだと思っているとすれば、錯覚を抱いていることになる。やはり夫が唯一の活動的で責任ある自由であることに変わりはないのだ。夫を助ける事に喜びを感じるためには、妻は夫を愛していなければならない。さもなければ、彼女は悔しさしか感じないだろう。自分の努力の成果を横取りされた気がするだろうから。

 男たち――女には自分は女王なのだと思い込ませるようにしながら、女を奴隷として扱うべしというバルザックの命令に忠実な男たち――は、女の及ぼす影響力の大きさをことさら大げさに語る。内心では、彼らは自分たちが噓をついているのがよくわかっているのだ。ジョルジェット・ルブランは、自分がメーテルリンク[1862-1949、ベルギーの劇作家]と一緒に書いたと自分では思っている本に二人の名前を記すようメーテルリンクに要求したとき、こうしたまやかしに騙されたのだ。

 グラッセは、この女性歌手の『回想』に付した序文で、彼女に厳しく説明している。男はみな、すぐに、自分と生活を共にした女を協力者、鼓吹者として讃えはするが、自分の仕事は自分だけのものと思っているのだ、と。それよりもっともなことだ。あらゆる活動、あらゆる仕事において、重要なのは選択と決定という契機である。

 一般に女は占師が伺いをたてるガラス玉の役割を演じる。他の女でも同じように出来ることなのだ。その証拠に、しばしば男は他の助言者の女、他の協力者の女も同じように安心して受け入れる。ソフィア・トルストイは夫の原稿を清書していた。のちに夫はこの仕事を娘の一人にまかせた。そこでソフィアは、自分が献身しても自分が不可欠な存在にはならなかったのだとわかった。女にほんとうの自律性を保証しうるのは、自律的な仕事だけなのだ(*46)

結婚生活は場合によって異なる様相をとる。しかし大半の女にとって、一日はほとんど同じように進行する。朝、夫がそさくさと妻と別れる。妻は、夫のうしろで戸が閉まる音を聞いてうれしく思う。彼女は自分が自由で、気兼ねなしに、家の女王になっていたいのだ。今度は子どもたちが学校に出かける。彼女は一日中一人きりでいることになる。揺り籠の中で騒いだり、ベビーサークルの中で遊ぶ赤ん坊は相手にはならない。

 彼女は化粧と家事に多少なりとも長い時間を費やす。女中が居れば、用事を言いつけ、おしゃべりをしながら台所を少し見まわる。女中が居なければ、市場をぶらつきに出かけ、近所の女や商人たちと物価について言葉を交わす。夫や子どもが昼食に戻っても、一緒に楽しむというわけにはいかない。食事の用事、給仕、後片付けと、やらなくてはならないことが多過ぎるのだ。

 たいていは、彼らが昼食に戻ることはない。いずれにしろ、彼女の前には手持無沙汰な長い午後がひかえている。幼い子どもたちを公園に連れて行き、子どもを見張りながら編み物や縫い物をする。あるいは、家の窓辺に座って繕い物をする。手は動いているが、頭は空っぽである。

 気がかりな事を絶えず思い浮かべる。計画を立ててみる。夢想し、退屈する。彼女の仕事は何一つ彼女自身の満足にならない。彼女の思いは、これらのシャツを着たり、これから用意する食事を食べる夫や子どもたちへと向かう。自分は彼らのためにのみ生きている。彼らはせめて自分に感謝しているのだろうか。彼女の倦怠は少しずつ苛立ちへと変わっていき、彼女は彼らの帰りを待ちわびる。

 子どもたちが学校から帰って来ると、彼女は抱きしめて、質問をする。しかし、彼らは宿題があるし、子どもどうしで遊びたいので、逃げ出す。子どもは気晴らしにはならない。それに、悪い成績とってくるし、マフラーは無くし、騒ぐし、散らかすし、喧嘩はするし。いつも多少なりともしかりつけなくてはならない。

 子どもが側にいると、母親は気が休まるよりも、むしろ疲れる。彼女は、ますますじりじりして夫の帰りを待ちわびる。何をしているんだろう。どうして、まだ帰ってこないんだろう。彼は働いて、人に会い、みんなと話していて、私のことは考えもしなかった。彼女は、自分は愚かにも彼の為に自分の青春を犠牲にしたのだと、ノイローゼ気味になって思いをめぐらせはじめる。

 妻が閉じ込められている家へと向かっている夫は、自分に何となく罪があるような気がしている。結婚したての頃は、花束とかこまごました贈り物を持って帰ったものだった。しかし、こうした儀式はほどなく意味を失う。今はもう彼は手ぶらで帰るようになり、毎日の出迎えの様子がわかっているだけに、家路を急ぎはしない。

 実際、妻はうんざりした様子を見せることで一日中待っていた憂さ晴らしをする。それによって彼女はまた、待っていた甲斐のない存在に対する失望感を封じるのだ。妻は不満を隠し持ち、夫は夫でがっくりしている。彼は職場でおもしろくなかったし、疲れている。刺激が欲しいし、休息もしたいといった矛盾した気持ちでいる。

 あまりに見慣れた妻の顔は彼を自分から救い出してはくれない。妻が彼女自身の心配事を彼にも分かち合ってほしいと思い、また、彼に気晴らしとくつろぎを期待しているのを彼は感じる。妻の存在は彼を満足させるのではなく、彼に重くのしかかってくる。彼女の傍では、ほんとうの休息は見いだせない。
子どもたちもまた、気晴らしも安息ももたらさない。

 食事と宵のひとときは何となく不機嫌な雰囲気のうちに過ぎていく。本を読んだり、ラジオを聴いたり、気の抜けないおしゃべりをしながら、それぞれ親密さの抜けたお喋りをしながら、それぞれが親密さのおかげで孤独なままでいる。しかし妻は、不安に満ちた希望――あるいは、今夜――ようやく! また!――何か起きるかしら、と自問する。彼女は、失望や苛立ち、あるいは安らぎを感じながら眠る。

 翌朝になれば、彼女は戸の閉まる音をうれしい気持ちで聞くことだろう。妻の境遇は、貧しく、仕事が多ければ多いほど、それだけ辛いものになる。暇な時間があって気晴らしできれば、明るいものになる。しかし、倦怠、期待、失望という図式が多くの場合に見受けられる。

 いくつかの逃避の道(*47)が女に示されている。しかし実際には、すべての女に許されているわけではない。とくに地方では結婚の鎖が重い。女は自分が逃れようのない状況を引き受ける手段を見つけなければならない。すでに見たように、権威で慢心して、専制的なおかみさんや意地悪女になる者もいる。

 犠牲者の役に喜びを覚えて、自分を夫と子どもの哀れな奴隷に仕立てあげ、そこにマゾヒスト的な喜びを味わう女たちもいる。若い娘についてすでに述べたようなナルシスト的な行動を続ける女たちもいる。彼女たちはどんな企てにおいても自己実現できないことを悩み、また、自分が何者にもなろうとしないのに、自分が何者でもないことに悩んでいる。

 彼女たちは自分の真価が認められないように思う。自分自身に、物悲しい崇拝を捧げる。夢想、芝居じみた振る舞い、病気、気癖、悶着に逃避する。自分の周囲に騒ぎを引き起こしたり、あるいは、想像の世界を閉じこもる。

 アミエル[1821-81、スイスの思想家]が描いた「にこやかなブーデ夫人」はこうした類の女である。田舎暮らしの単調さのなかに閉じ込められ、無神経な男である夫の傍にいて、活動の機会も恋愛の機会もない彼女は、自分の人生の虚しさと無益さを思う気持ちにさいなまれている。

 彼女は小説的な空想のなかに、身のまわり花々のなかに、おしゃれや自分の演ずる人物のなかに埋め合わせを見つけようとする。夫はこの遊びさえ邪魔する。とうとう彼女は夫を殺そうと企む。女が逃げ込む印象的行為は退廃を引き起こすこともあるし。女の強迫観念は犯罪に行き着くこともある。

 夫婦間の犯罪で、利害よりも、純粋な憎悪が動機になっているものがある。だからモーリヤックは、かつてラファルジュ夫人がしたように夫を毒殺しようとしたテレーズ・デスケルーを描いてみせているのだ。おぞましい夫に20年間耐えてきたが、ある日、長男に手伝わせて、平然と夫を扼殺したという40歳の女が最近釈放された。彼女にとっては、耐え難い状況から脱出する手段が他にはなかったのだ。

 自分の状況を明晰さ、本来性のなかで生きようと思っている女には、禁欲的な自尊心の他には救済手段が残されていないことが多い。そうした女は、あらゆるもの、あらゆる人に依存しているので、まったく内的な、したがって抽象的な自由とか知ることができない。

 彼女は既成の規範、価値観すべてを拒み、判定を下し、尋問し、それによって、結婚生活の隷属から逃れる。しかし、彼女の尊大な慎み深さと「耐えて慎め」という標語の信奉は、消極的な態度でしかない。あきらめ、冷笑的態度な使いみちが欠けている。情熱的で元気があるうちには、彼女は自分の力を役に立てようと工夫を凝らす。

 他人を助け、慰め、保護し、奉仕して、自分の仕事を増やしていく。しかし、自分を本当に必要としている役割にまったくめぐりあえないこと、自分の活動が何の目的にも捧げられていないことに悩む。しばしば、こうした女は、孤独と実りのなさに蝕まれて、ついには自己を否定し、自滅してしまう。

 このような運命の顕著な一例をシャリエール夫人が示している。彼女の生涯を語っている魅力的な本(*48)の中で、ジェフリー・スコットは彼女のことを「火の目鼻立ち、氷の額」と描写している。しかし、エルマンシュが彼女の理性ではない。結婚が、この光り輝く《ベル・ド・ゾイレン》を少しずつ殺していったのだ。彼女はあきらめることなどどうしてできよう。のが道理だと考えた。他の解決策を考え出すには超人的勇気あるいは天才が必要だったことだろう。

 彼女の稀に見る優れた資質をもってしても彼女を救うには十分ではなかったということは、歴史に見られる結婚制度の誤りの最も明白な証拠の一つである。

 才気煥発で、教養が高く、聡明で、情熱的なデュイル嬢は、ヨーロッパで感嘆の的とされていたのだ。彼女は求婚者たちをたじろがせていた。彼女は12人の求婚者を断ったが、それ以外の、たぶん、承諾される可能性がもう少しあったかもしれない求婚者たちも自分の方から身を退いてしまった。

彼女の関心を引いた唯一の男、デルマンシュ

[1722-85、オランダの軍人]も、夫にするには問題外だった。彼女はデルマンシュと12年間文通を続けた。しかし、この友情も、彼女の研究も、結局は彼女を満足させなかった。「処女と殉教者」というのは冗語法だ、と彼女は言っていた。また、ゾイレンの生活の束縛は彼女にとって耐え難いものであった。30歳で彼女は女になりたい、自由になりたいと思っていた。30歳で彼女はシャリエール氏と結婚した。

 彼女は彼の中に見てとれる「心の誠実さ」と「彼の正義感」を高く評価していた。そして最初、彼は「世界で最も優しく愛されている夫」にしようと決心した。のちにバンジャマン・コンスタンがこう語っている――「彼女は夫に自分と同じような活発さを強いようとして夫を苦しめていた」。彼女は彼の徹底した冷静さを打ち破るのに失敗した。

 誠実で陰気な夫、老衰した義父、魅力のない二人の義妹と一緒にコロンビエに閉じ込められていたシャリエール夫人は退屈しはじめた。ヌーシャテルの地方社交界はその偏狭な精神と飽満さで彼女に嫌気を起こさせるのだった。彼女は家の洗濯物を洗ったり、夜は「コメット」[カードゲームの一種]をして、暇をつぶしていた。

 一人の青年が彼女の生活をほんのわずかよぎったが、その後は以前に増して孤独になった。「倦怠を詩神に見立てて」、彼女はヌーシャテルの風習に関する四篇の小説を書いた。そして、交友の輪はますます狭まった。その作品の一つのなかで、彼女は快活で感受性の鋭い女と善良だが冷淡で鈍い男と結婚生活の長年の不幸を描いた。

 彼女には結婚生活というものを誤解と失望とささいな怨恨の連続のように見えるのだった。彼女自身が不幸なのは明らかであった。彼女は病気になり、回復し、道ずれを伴った孤独という彼女の生活に戻った。「明らかに、コロンビエの生活の日常的な繰り返しと夫の消極的で従順な優しさが、どんな活動も埋め合わせることができないような永遠の空虚を堀っていたのだ」と彼女の伝記作者は書いている。

 ちょうどその頃、パンジャマン・コンスタンが現われ、八年にわたって彼女を情熱的に虜にした。スタール夫人と彼の奪い合いをするには誇りが許さずに彼をあきらめたとき、彼女の自尊心は硬化した。彼女はある日、彼にこう書いている。「コロンビエに滞在するのは私にとっていとわしいものでしたから。ここに戻るときはいつも絶望的な気分になったものです。今はもうここを立ち去りたくないので、自分でここが我慢できるようになりました」。

 彼女はコロンビエに閉じこもり、15年間、自分の庭から出なかった。そのようにして、彼女は禁欲的な戒律を採用した。運命よりも自分自身に打ち勝つように努めよ、と。囚人である彼女は牢獄を選ぶことでしか自由を見出せなかった。

 「彼女は、アルプス山脈を受け入れていたのと同じように、シャリエール氏が彼女の傍らにいることを受け入れていた」とスコットは語っている。しかし、彼女はとても明晰だったので、こうした締めは要するに誤魔化しでしかないと言うことが分かっていた。彼女が内向的で、頑なになったので、人々は彼女は絶望のあまり脅えているのだと思っていた。

 彼女はヌーシャテルに殺到してきた亡命者に自宅を開放して、彼らを保護し、援助し、指導した。彼女は優雅で醒めた作品を書き、窮乏状態にあったドイツの哲学者ヒューバーがそれを翻訳した。彼女は若い娘のサークルに助言を与え、とくに目をかけていた娘アンリエットにはロック[1632-1704、イギリスの哲学者]に哲学を教えた。

 彼女は近隣の農民に対して救い主の役を演じるのを好んだ。ヌーシャテルの社交界をますます注意深く避けるようにして、彼女は誇らしげに自分の生活を狭めててった。彼女は「もう習慣的な仕事を作り出して、それに耐えることしかしようとしなくなった。彼女の限りなく親切な行為にさえ、なにか、ぞっとするようなものが含まれていた。そういう行為を示唆する冷静さはそれほど冷たいものだったのだ・・・・彼女のまわりの人々に空っぽの部屋のなかを通りすぎていく亡霊のような印象を与えた」(*49)。

 ごく稀な機会――たとえば訪問客のあったとき――に、生命の炎が甦った。しかし「年月は荒涼として過ぎていった。シャリエール夫妻は、まったく別の世界に隔たれていながら、並んで老いていった。そして、少なからぬ訪問客が、家から出てほっとして溜め息をつきながら、閉ざされた墓から逃れ出てきたような気がするのだった・・・・柱時計がチクタク時を刻んでいた。

シャリエール氏は、階下で、数学の研究をしていた。穀物倉からは殻竿(からさお)のリズミカルな音が上ってきていた・・・・殻竿が穀粒の生命を抜き取ってしまったのに、生活はまだ続いていた・・・・一日のほんの小さな亀裂を塞ぐしかない絶望的に縮小された、卑小な出来事からなる生活、ここが、卑小さを嫌悪していた、あのゼリードがたどり着いたところなのだ」

 シャリエール氏の生活もその妻の生活以上に楽しいものではなかったと言う人もいるだろう。だが、ともかく彼は自分の生活を選んだのだ。そしてその生活は彼の凡庸さにあったようだ。むしろ、[ベル・ド・ゾイレン]のような稀に見る資質に恵まれた男のことを想像してみるべきだ。彼がコロンビエの荒涼たる孤独のなかで燃え尽きはしなかったのは確実だ。

 彼は自分の場所を世界の中に作り、そこで、企てをし、闘い、行動し、勝利を得ただろう。どれほど多くの女たちが結婚生活に呑み込まれて、スタンダールの言葉によれば、「人類にとって損失」になったことか。結婚生活は男の価値を下げる、と言われてきた。その通りの場合は多い。しかし、ほとんどいつも、結婚生活は女を無にしてしまう。結婚擁護論者のマルセル・プレヴォーでさえ、それを認めている。

私が、その娘時代を知っていた若い女性に数ヶ月後あるいは数年後に再会して、その性格がありきたりになって、無意味な生活を送っているのに驚いたことは何回となくある。

 ソフィアが結婚して六か月後に書いたものに見つかるのは、これとほとんど同じ言葉である。

 私の生活はまさに平凡そのもの。死んでいるのと同じだ。それに引き換え、彼には充実した生活、内面的生活、才能、不朽の名がある。[1863年12月23日]

 それにより数ヶ月前には、彼女は別の嘆きを漏らしている。

 夫が自分のことを愛してくれず、いつも自分を奴隷みたいにしてしまうと考えるとき、いったいどうして女は一日中針を手に座りこんでいたり、ピアノを弾いたりして、一人きりでいることに満足していられるよう。(1863年5月9日)

 その11年後には、彼女は今日でも多くの女が同意するような言葉を記している。(1863年10月22日)

 今日、明日、月々、年々、いつも、いつも同じこと。朝私は目を覚ますが、寝床から出る勇気がない。私が体をしゃんとさせるのを、誰が手伝ってくれるというのか、何が私を待っているのだろう。そう、わかっている。料理人がやってくれる、そして次はニャーニャの番。それから、私は黙って座り、イギリス刺繡をとりあげ、それから文法と音階の練習をさせる。晩になると、またイギリス刺繡にとりかかり、そのあいだに叔母さんとピエールがいつものペイシェンス[トランプの一人遊び]をやる・・・・

 ブルードン夫人[19世紀フランスの思想家ジョゼフ・ブルードンの妻]の嘆きも、まさにこれと同じ調子のものだ。「あなたにはあなたの思想があります。それなのに、あなたが仕事をしているときや子どもたちが学校に行っているとき、私は何ひとつないのよ」と彼女は夫に言うのだった。

 最初の数年間は、妻は幻想を抱いていて、無条件に夫を敬服しようとし、全面的に夫を愛そうとし、自分は夫と子どもにとって不可欠だと感じようとすることが多い。やがて、自分の本当の気持ちが現れる。夫は自分がいなくてすむ、子どもは自分から離れていくようにできているということに気づく。彼らはいつも多かれ少なかれ恩知らずなのだ。

 家庭はもう彼女の空虚な自由から彼女を守ってはくれない。彼女はふたたび孤独で、打ち捨てられたもの、つまり主体に戻る。そして、自分の使いみちが見つからない。愛情と習慣はいまだに大きな助けになるが、救いにはなり得ない。真摯な女性作家はみな、「30歳の女」の心に巣くう、この憂鬱を指摘している。これはキャサリン・マンスフィド・ドロシー・パーカー、ヴァージニア・ウルフの女主人公たちに共通する特徴である。

 その生活の初めには、あれほど陽気に結婚と母性を称賛したセシル・ヒヴァージュは、のちには繊細な悲嘆を述べている。注目すべきことに、独身女性と既婚女性の自殺の件数を比較してみると、既婚女性の場合、20から30歳(とくに25歳から30歳)までは生きることへの嫌悪に対して強固に守られているが、その後はちがうことがわかる。

 アルブヴァックス(*50)[1877-1945、フランスの社会学者]はこう書いている。「結婚は、地方でもパリでも、とくに30歳までは女性を守るが、年齢が上がるにつれて、そうでなくなる」

 結婚の悲劇とは、結婚が女に約束する幸福を女に与えないことではない

――幸福については保証などない。それは、結婚が女を損なうことなのだ――結婚は女を反復と惰性に陥らせてしまう。女の人生の最初の20年間は驚くように豊かさに満ちている。女は月経、性体験、結婚、妊娠・出産の体験を通り抜ける。世界と自分の運命を発見する。

20歳で、家庭の主婦となり、永久に一人の男と結ばれ、子どもをかかえれば、これで女の人生は永遠に終わったようなものだ。真の行動、真の仕事は男の専有物になっている。女には、時には疲れ果てさせることはあっても、充足させることはけっしてないといった仕事しかない。女は諦めと献身を説かれてきた。

しかし、女には、「誰か二人の人間の終生の維持」に自分の身を捧げるというのは、ひどく無意味なように見える。自分を忘れるのは立派なことだが、はたして誰のためになのか、何の為になるのかを知らなければならない。そして、最悪なのは、女の献身そのものが押しつけがましいものに見えることだ。それは夫の目から見ると、専制に変わり、夫はそれから逃れようとする。

とはいえ、それを妻の唯一、最高の正当性の根拠として妻に押し付けたのは夫である。彼女は結婚することで、彼は彼女に、全面的に彼に貢献することを強いたのである。それなのに、彼は相互義務、すなわち、この贈与を受け取るということは承知しないのだ。「私は彼によって、彼の為に生きているのだから、私は同じものを私のために求める」というソフィア・トルストイの言葉はたしかに反発を買う。

しかし、トルストイは実際に、ひたすら彼のために、彼によってのみ生きるよう彼女に求めたのだ。妻を不幸になるように仕向けておいて、自分自身がその犠牲になっていると嘆くのは夫の欺瞞である。寝床で妻に同時に熱くて冷たくあってほしいと求めるのと同じように、夫は妻が全面的に自分を与えるように求めるが、ただし重みは与えてほしくないのである。

夫は妻に、彼を地上にしっかり安定させながら自由にしてほしい、日常の単調な反復を保証しながら彼を退屈させないでほしい、いつもそばにいながら邪魔しないでほしいと求める。妻を全面的に自分のものにしたいが、自分は妻のものにはなりたくない。カップルで生活しながら一人でいたい。こうした夫は、結婚当初からすでに、妻をたぶらかしているのである。

妻は生活を続けていくなかで、こうした裏切りの広がりを見定めていく。D・Hロレンスが性愛について語っていることは全体的に正しい。二人の人間の結合は、それが互いを補い合う努力であるとすれば、必ず失敗する。こうした努力は、もともと欠損を前提としているのだからだ、つまり、結婚とは二個の自律的存在の共同であるべきであって、隠遁や併合や逃避や一時的な救済であってはならないという事なのだ。

ノラ(*51)[イプセン『人形の家]は、自分が妻、母親である前に、まず一個の人格でなければならないと決意したとき、こうした理解をしたのである。夫婦を共同体、閉鎖的な単位と見なすのではなく、個人が個人として社会に統合され、そこで自力で開花できるようにするべきなのだ。そうすれば、個人は、同じように共同体に適応している別の個人と、まったく損得抜きで、関係を結ぶことが出来るようになるだろう。そして、この関係は二個の自由の相互認識のうえに成り立つことだろう。

このような均衡のとれたカップルは空想的な理想(ユートピア)ではない。現に、こうしたカップルは、時には結婚の枠内でさえ、また、たいていは枠外に存在している。激しい性的な愛で結ばれていて、友情や仕事の面では各自が自由でいるというカップルもある。また、友情で結ばれていて、各自の性的自由を妨げないというカップルもある。

もっと稀には、愛人であると同時に友人であるが、互いに排他的に生存理由を求めないという場合もある。男と女の関係においては数多くの微妙な変化が可能なのだ。友情、快楽、信頼、愛情、黙契、恋愛において、男女は互いに、人間に差し出させる喜び、富、力の豊かな源泉になることができる。

結婚制度の挫折は個人の責任ではない。それは――ボナルド、コント、トルストイの主張とは逆に――もともと歪みのある結婚制度そのもののせいなのだ。互いに選択したのではない男と女が、あらゆるやり方で、しかも生涯を通じて、互いに満足を与えるべきであると主張するのは、必ず偽善、嘘、反感、不幸を生み出す残虐行為である。

結婚の伝統的形態は変化しつつある

しかし、いまだに、結婚は一つの圧力になっていて、夫婦双方がそれをさまざまなかたちで感じ取っている。夫婦の享受する抽象的な権利だけを考えれば、夫婦は今日、ほとんど同等である。かつてより自由に互いに相手を選択しているし、離婚もずっと容易にできるようになっており、とくにアメリカでは離婚が流行のようになっている。

夫婦の年齢差、教養の差は以前より縮まっている。夫は、妻が求める自律性をもって進んで認めるようになった。夫婦が家事を平等に分担する場合もある。夫婦の娯楽は共通している――キャンプ、サイクリング、水泳、等々。妻は一日中、夫の帰りを待って過ごしてはいない。スポーツをしたり、協会やクラブに所属していて、外で活動し、時には少しお金の入る簡単な仕事をしている。若い夫婦の多くは完全に対等な印象を与える。

しかし、男がカップルの経済的な責任を保持している限り。これは錯覚にすぎない。夫婦の居所は、夫が自分の仕事の必要に応じて決める。妻は夫に従って地方からパリへ、パリから地方、植民地、外国へと移る。生活水準は夫の収入に応じて定まる。一日の、一週間の、一年間のリズムは夫の仕事に基づいて規定される。

交際や交友はたいてい夫の職業に左右される。夫は、妻より積極的に社会に組み込まれているので、知的、政治的、道徳的な領域におけるカップルの指導権を握っている。離婚は妻にとって、自活の手段がない場合には抽象的な可能性にすぎない。

アメリカでは「扶助料」が男にとって重い負担になっているにしても、フランスでは、あきれるほど少額の扶養料をもらうだけでの捨てられた妻、母の境遇はひどいものである。しかし、根深い不平等は、男が具体的に仕事や活動において自己実現するのにひきかえ、妻の場合は、妻としての自由は消極的なかたちしかとらない。

とくにアメリカの若い女の状況は古代ローマ頽廃期に開放されたローマ女性を思い起こされる。すでに見たように、ローマ女性は二種類の行動様式と価値観を受け継いでいた。もう一方の女たちは無益な大騒ぎをして時を過ごしていた。

これと同様に、アメリカでも、一方の女たちは伝統的モデルにのっとって「家庭婦人」のままでいる。もう一方の女たちは大部分が自分の力と時間を浪費することしかしていない。フランスでは、夫にどれほど誠意があっても、若い妻は母親になると、かつてと変わらず、たちまち家庭の任務が彼女に重くのしかかってくる。

現代の家庭生活では、とりわけアメリカ合衆国では、女が男を隷属させている、と決まり文句のように言われている。これは何も新しいことではない。古代ギリシア時代から、夫たちはクサンチッペ[哲学者ソクラテスの妻、悪妻の典型のように言われる]の専制を嘆いてきた。実際は、女が、それまで女の立ち入りが禁じられていた領域に入って来た、ということなのだ。

たとえば、私は大学生を夫に持つ女たちが夫を成功させようと熱中しているのを知っている。彼女たちは夫の日課や食事の仕方を定め、勉強を監視し、娯楽を厳禁するのだ。夫を監禁しないのがまだしもだが。また実際に、男もこうした専制に対しては、かつてより無防備な権利を認める。それに、女がそうした権利を男を通じてしか具現化できないのを知っている。

男は女が強いられている無力、不毛さを自分が埋め合わせしてやろうというのだ。男女の提携のなかで明白な平等が実現されるためには、男の方が余計に与える必要がある。なぜなら、男の方が余計に所有しているからだ。まさしく、女が受取、奪い、要求するのは、女の方が貧しいからなのだ。主人と奴隷の弁証法の最も具体的な適用例がここにある。

抑圧することによって、ひとは抑圧されるようになる。男はまさに自分の支配権によって束縛されている。男だけが金を稼いでいるからこそ、妻が小切手を要求するのだ。男だけが職業に従事しているからこそ、妻が彼に成功するように強いるのだ。男だけ超越を体現しているからこそ、妻が彼のプロジェと成功を自分のものにすることで彼の超越を奪おうと思うのだ。

そして逆に、妻が行使する専制はまさに妻の依存性を表しているのだ。彼女は夫婦生活の成功、彼女の将来、幸福、正当化が相手の手中にあるのを知っている。彼女が懸命になって彼を自分の意志に従わせようとするのは、彼女が彼の中に疎外されているからである。自分の弱さを彼女は武器にする。だが事実は、彼女は弱いのである。

夫婦生活の拘束は日常化していくにつれて、夫にとってだんだん苛立たしいものになる。だが、妻にとってはもっと深刻なものになる。自分が退屈だからといって、夫を何時間も自分の傍に引き止めておく妻は、夫に嫌気を起こさせ、夫の重荷になる。要するに夫の方は妻よりも容易に相手なしにすませるわけだ。夫が妻を捨てれば、妻の方は自分の生活が破滅してしまう。

大きな違いは、妻においては依存が内面化されているという点である。彼女は、あからさまに自由にふるまっているときでさえ、奴隷である。一方、男は本質的には自律的であり、彼は外部で束縛されているのだ。男が自分の方が犠牲者だという気がするのは、彼の背負っている重荷の方がはっきり目に見えるからなのだ。

妻は寄食者のように夫に養われている。しかし、寄食者は勝ち誇った主人ではない。実際は、生物学的には、雄と雌はけっして互いの犠牲になっているのではなく、雄雌がともに種の犠牲になっているのであり、これと同じように、夫婦はともに、自分たちの作ったものではない制度の抑圧をうけているのである。男は女を抑圧していると言われると、夫は憤慨する。彼の方が抑圧されていると感じるのだ。

確かに男は抑圧されている。しかし事実は、男の法律が、男たちによって男たちの利益のために作り上げられた社会が、女の条件を、現在では男女双方にとって苦痛の種となっているようなかたちに定めたのである。

男女共通の利益のためにこそ、結婚が女にとって「キャリア」であるというようなことは許さないようにして、状況を変える必要がある。「女はもう今でさえ、厄介すぎる」というのを口実に自分は反フェミニストだと認める男たちの議論はあまり論理的ではない。まさに結婚が女を《カマキリ》《ヒル》《毒》にするからこそ、結婚制度を変える、従って女の条件全体を変える必要があるのだ。

女は、自分自身に頼るのを禁じられているからこそ、こんなにも重く男にのしかかるのである。男は女を開放することよって、つまり、女にこの世界でなすべきものを何かを与えることによって、自分も解放されるだろう。

すでに、こうした積極的な自由を手に入れようと試みている若い女たちがいる。しかし、自分の研究や職業を長く続ける者は滅多にいない。たいてい、彼女たちは自分の仕事の利益が夫の経歴の犠牲になるだろうとわかっている。彼女たちは家庭に副収入をもたらすにすぎない。彼女たちは自分を結婚生活の拘束から抜け出させはしない企てに遠慮がちにたずさわるにすぎない。

重要な職業にたずさわっている女たちでさえ、そこから男と同じ社会的利益を引き出してはいない。たとえば、弁護士の妻には夫の死亡に際しての年金を夫に受給する権利がある。だが女性弁護士については、本人の死亡に際しての年金を夫に支給することは一貫して拒否されている。つまり、働く女が男と同等に配偶者を扶養しているとはみなされている。

 しかし、多くの女たちとっては、「外の」仕事は結婚の枠内では疲労が追加さることしかならない。そのうえ、たいていは、子どもが生まれると余儀なく主婦の役割に閉じこもる事になる。目下のところ、仕事と出産の両立はとても難しいのだ。

伝統に従えば、まさに子どもこそが、他の目的は課されないですむという具体的な自律性を女に保証してくれる。女は妻としては完全な個人ではないにしても、母親として完全な個人となる。子どもをとおして女は性的にも社会的にも自己実現をはたす。つまり、子どもによって、結婚制度は意味をもち、目的を達するのである。したがって、この女の成長の最高段階を検討することにしよう。
つづく 第六章 母親