抑鬱状態を経験してきた女友だちは次のように私に話した。
健康状態のよいときには、ほとんど無頓着に家事をこなしたうえ、もっとずっと骨の折れる仕事をする時間もあった。神経衰弱のために他の仕事に携わることができなくなっときには、家事にのめり込んでいたが、丸一日かけても、けりをつけるのは難しかったという。

トップ画像

第五章のⅢ 抑鬱状態を経験してきた女友だち

本表紙 第二の性 体験 ボーヴォワール著

抑鬱状態を経験してきた女友だちは次のように私に話した。

健康状態のよいときには、ほとんど無頓着に家事をこなしたうえ、もっとずっと骨の折れる仕事をする時間もあった。神経衰弱のために他の仕事に携わることができなくなっときには、家事にのめり込んでいたが、丸一日かけても、けりをつけるのは難しかったという。

いちばん残念なのは、この労働がまさに永続的な創作物につながらないことである。女は――丹念にやればやるだけ――自分の作品を目的そのものと見なしがちである。オーブンから取り出したケーキを見つめながら、ため息をつく。これを食べてしまうなんて、ほんとうに残念だ、ワックスをかけた寄せ木張りの床を夫と子どもが泥足で歩き回るなんて、ほんとうに残念だ。品物は使われるとすぐに汚れたり壊れたりする。すでに見たように、女は品物をまったく使われないようにして置こうとしがちである。

カビが生えるまでジャムを保存しておく女もいれば、客間に鍵をかけたままにしておく女もいる。しかし、時を止める事はできない。備蓄食品にはネズミが集まって来るし、虫が湧く。毛布、カーテン、衣類は虫に食われる。世界は石造りの夢ではなく、変質のおそれのある濁った物質からできているのだ。

食材はダリ[1904-89、スペインのシュールレアリスムの画家]の肉の怪物と同じくらい曖昧である。活性がなく、無機物のように見えていても、隠れた幼虫がそれを死骸に変えてしまう。自分を物のなかに疎外する主婦は、物と同じように、世界全体に従属している。衣類は黄ばみ、ロースト肉は焦げ、磁器は壊れる。これはまったくの厄災である。なぜなら、物は、だめになってしまうと、とりかえしがつかないからのだから。物を通じて永続性や安全性を得るのは不可能だ。略奪と爆弾をともなう戦争が戸棚、家を脅かしているのである。

 つまり、家事労働の産物は消費されなければならない。自分の作業が結局はその作業の破壊に終わるしかない女は絶えず諦めることを求められる。女が心置きなくそれに同意するには、少なくとも、こうした細々とした犠牲がどこかしらで喜び、楽しみをかきたてる必要がある。しかし、家事労働は現状を維持することに尽きるのだから、帰宅した夫は乱雑さを手抜かりには気づくが、彼には整頓や清潔は当然のことと見える。夫はうまくできた食事にはもっと積極的な関心を示す。

料理する女が勝利を得る瞬間は、彼女が上手く作れた料理を食卓に置く瞬間である。夫と子どもたちが、言葉によるだけでなく、嬉しそうに食べることによって、料理を心から歓迎するのだ。料理の錬金術は続き、食料が体液、血液になる。肉体の保全は床板の保全よりももっと具体的で、生命的な意義をもつ。明らかに、料理する女の労力は未来へ向けて乗り越えられる。

しかしながら、自分の外にある自由に頼ることは、自分を物に疎外することより虚しくはないにしても、同じように危険である。料理する女の仕事がその真価を見出すのは、もっぱら会食者の口のなかだけである。料理する女には会食者の支持が必要である。彼女は会食者が彼女の料理を賞味し、おかわりすることが必要なのだ。会食者がお代わりをしないと、彼女は苛立つ。

 フライド・ポテトが夫のためにあるのか、それとも夫がフライド・ポテトのためにあるのかわからなくなるほどだ。こうした曖昧さは家事好きの女の態度全体に見受けられる。彼女は夫の為に家事を切り盛りする。しかしまた、夫が稼いだ金をすべて家具や冷蔵庫を買うのに使うように求める。

 彼女は夫を幸せにしたいと思っている。夫の活動については、彼女が築いた幸せの枠内におさまる活動しか認めないのである。

 こうした望みが全体的に満たされていた時代もあった。幸福が男の理想であって、男が何よりも自分の家、家族を大切にしていて、子どもたち自身も両親、伝統、過去によって自分を規定するように決めていた時代のことである。当時は、家庭を統治している女、食卓を取り仕切っている女が支配者と認められていた。

 家父長制的文明

を散在的に存続させている一部の地主や裕福な農家では、今でも女がこうした輝かしい役を演じている。しかし全体としては、今日、結婚生活は過去の慣習の遺物であり、妻の立場は以前よりかなり報われないものになっている。というのも、妻は依然として同じ義務を抱えているが、それらの義務によって同じ権利を与えられはしなくなっているからである。

 妻は同じ任務を抱えていながら、それらの任務を遂行することで報酬も名誉も得られはしないのだ。男は、今日では、結婚して内在性に根をおろすが、内在性に閉じこもりはしない。家庭を欲しがるが、自由にそこから抜け出すこともできる。身を固めても、たいていは、心の中では放浪者のままでいる。幸福を軽視しはしないが、目的そのものはしていない。

 反復は男を退屈させる。男は新しいもの、危険なもの、克服すべき抵抗や、自分を二人きりの孤独から救い出してくれる仲間つき合い、友だち付き合いを求める。子どもたちは夫にもまして家庭の境界を乗り越えようとしたがる。

 子どもたちの人生は別のところ、未来にあるのだ。女は永続的、連続的な世界を築こうとする。だが、夫と子どもたちは、女が作り出す状況、彼らにとって予め与えられた条件に過ぎない状況を乗り越えたいと思う。

 それだから、女は、自分の一生が捧げられている活動の不安定さを認めたくないとなると、自分の仕事を無理強いすることになる。母親や主婦から、継母や意地悪女になるのだ。

 このように、女が家庭内で行っている労働は女に自主性を与えはしない。この労働は直接的に共同体の役に立つこともなく、未来に通じてもいないし、何も生みだしはしない。この労働が意味と尊厳をもつのは、生産あるいは行動において社会へ向けて自己を超越する存在に同化された場合だけである。つまり、この労働は既婚女性を解放するどころか、夫や子どもに従属させるのである。

 夫や子どもを通じて彼女は自己証明する。彼女は非本質的な媒介物として彼らの人生に係わっているにすぎないのだ。民法典は妻の義務から「服従」を削除したが、それでも妻の状況はまったく変化していない。妻の状況は夫の意志にかかっているのではなく、夫婦共通財産制という構造そのものにかかっているのである。

女には建設的な仕事をなすことが許されておらず

したがって自分が完成した人格であることを明らかにすることが許されない。尊敬されるにしても、女は従属的、脇役、寄生者なのだ。女が重くのしかかっている大きな不運は、自分の存在の意味そのものが自分の手に握られていないという事である。

だからこそ、結婚生活の成功、失敗が男より女にとってずっと重みをもつのだ。男は夫である前に市民、生産者である。女は何よりもまず、そしてたいていはもっぱら、妻である。女の労働は女を女の条件から救い出しはしない。逆に、女の労働が女の条件から女の労働の価値を引き出さなかったりするのだ。愛情に満ちていて、惜しみなく献身していれば、女は嬉々として任務を果たすだろう。

恨みを抱きながら任務を行っていれば、それは女に無味乾燥な苦役に思えるだろう。女の任務は要するに女の人生において非本質的な役割しかもたない。結婚生活の災難のなかで、女の任務は頼りにはならない。そこで、基本的に寝床の「勤め」によって定義される地位、女が自分の従属的身分を受け入れる事でしか尊厳を見出せないという地位がどのように具体的に生きられているかを見る必要がある。

若い娘が幼児期から思春期に移行する時期は一つの危機である。若い娘が大人の生活へと駆り立てられる時期はいっそう深刻な危機である。少し乱暴な性の入門は女の心中に動揺を生じやすいが、そのうえ、ある立場から別の立場への「移行」すべてに固有の不安が加わる。
ニーチェはこう書いている。

恐ろしい雷撃にうたれたかのように結婚によって現実と知識のなかに投げ込まれること、愛と羞恥心の矛盾したさまを見つけること、神と獣が予想外に類似しているせいで、ただ一つの対象のなかに恍惚、犠牲、義務、憐憫(意=なさけをかける)、恐怖を感じなければならないこと・・・・ここから、自分の同等者を虚しく求める魂の錯綜が生じたのだ。

伝統的な「新婚旅行」の興奮は、部分的には、こうした混乱を覆い隠すのに役立っていた、何週間かのあいだ日常的な世界から放り出され、一時的に社会との繋がりがまったく断たれているために若い女はもう空間、時間、現実の中にはいなかったのだ(*34)

しかし、遅かれ早かれ、彼女は現実に立ち戻らなければならないのであった。そして、新家庭に帰る時は必ず不安がともなう。父の家庭との結びつきは、若い女の方が若い男よりもずっと緊密である。家族の元を離れるのは最終的な離乳である。

そのとき、若い女はまったく不安な遺棄と目がくらむほどの自由を感じる。別離は場合によっては辛さの度合いが違う。自分を父親、兄弟姉妹、そしてとくに母親に結びつけていた絆をすでに断っていれば、悲劇的な場面なしに彼らと別れられる。いまだに彼らに支配されていて、事実上その保護のもとにとどまって感じられないだろう。

しかし普通は、たとえ父の家庭から逃れ出たいと思っていたとしても、自分の溶け込んでいた小社会から引き離され、自分の過去から、安全な規範、保証つきの価値をそなえた子ども時代の世界から切り離されるとなると、戸惑いを感じる。情熱的で充実した性愛生活のみが若い女をふたたび内在性の平和に浸らせることができる。

しかし普通、先ず最初は若い女は満足するよりも動揺している。性の手ほどきは、多少なりともうまくいったとしても、彼女の混乱をつのらせるだけである。結婚直後の若い女には、彼女が初潮に対して示した反応の多くが見受けられる。たいてい、自分が女であることをこの上なく明らかにするものに直面して嫌悪を感じ、この経験が繰り返されるのだと考えると恐怖を感じる。また、失望も味わう。初潮を迎えてから若い娘は自分が大人の女ではないのに気づいて悲しんでいた。処女を失って、若い大人の女になった今、最後の段階が越えられた。でも、今後は? そもそも、こうした不安な失望は処女を失う事だけでなく本来の意味での結婚とも結びついているのだ。

すでに婚約者を「知っている」あるいは他の男を「知っている」女でも、彼女にとって結婚が大人の生活に完全に到達することを意味している場合には、同じような反応を示すことが多い。一つの企ての始まりを体験するのは心がときめくものだ。しかし、自分が手掛かりを持たなくなった運命を発見することほど辛いものはない。

こうした決定的な、変わりようのない背景のもとに、自由がきわめて耐えようのない無償性をもって立ち現われるのだ。かつては、両親の権威の庇護のもとにあった若い娘は、自分の自由を反抗と希望のうちに行使していた。彼女は一つの条件を拒否し、克服しようとして自分の自由を利用していたのだが、また、その条件のもとにあって彼女は保護されていた。

彼女は家族の温もりの懐から出て、まさに結婚へと向けて自分を乗り越えようとしていたのだ。今や、彼女は結婚している。そして、もう彼女の前には別の未来はない。家庭の扉がふたたび彼女の背後で閉じられた。これこそが地上での彼女の運命すべてになるのだ。彼女はどのような任務が自分を待ち受けているか正確に知っている。

自分の母親が果たしていたのと同じものだ。毎日、毎日、同じ儀式が繰り返されることだろう。若い娘は、手はからっぽだった。希望と夢想のうちに、すべてを所有していたのだ。今や彼女は世界の一かけらを手に入れ、不安げに思う。これだけに過ぎないだ。永久に。永久に、この夫、この住まいなんだ。彼女にはもう何も持つものはなく、もう何もたいしたことは望めない。

その一方で彼女は自分の新しい責任を恐れている。たとえ夫が年上で、権威をもっているにしても、彼女が夫と性的関係を持つことで、夫は威光を失う。夫は父親代わりにはなれないし、ましてや母親代わりにはなれない。それに、彼女を彼女の自由性から解放してやることもできない。

新しい家庭の孤独のなかで、もう子どもではなく妻となり、今度は自分が母親になる定めにあって、彼女は身も凍えるような思いでいる。母親の懐から決定的に引き離され、どんな目的も自分を呼び寄せない世界のただなかで途方に暮れたまま、冷やかな現在のなかに打ち捨てられている彼女は、純然たる事実性というものの倦怠と味気なさを発見する。こうした悲嘆が、若いトルストイ伯爵夫人の日記に衝撃的なかたちで述べられている。

彼女は憧れを寄せていた大作家に大喜びで結婚を承諾した。ヤースナヤ・ポリャーナ[トルストイの領地]の木のバルコニーで激しい抱擁を受けた後、彼女は肉欲的な愛に吐き気を感じている。彼女は親戚から遠く離れて、自分の過去と切り離され、一週間前に婚約した、17歳年上の男、彼女にはまったく無縁の過去と関心をもつ男のかたわらにいる。

彼女は総てが虚しく、冷ややかに見える。彼女の人生はもう眠りしかない。ここで、彼女が結婚当初のことについて記している話と、結婚初期数年にわたる彼女の日記の数節を引用しておかなければならない。
1862年9月23日、ソフィアは結婚して、実家を出る。

辛い、苦しい気持ちが私の喉をしめつけ、私をとらえていた。そのとき、家族や、私が深く愛していた、そしていつも一緒に暮らしていた人たちみなと永遠に別れる時が来たと感じた・・・・別の挨拶が始まった、とても辛かった・・・・最期の時がきたのだ。母にサヨナラを言うのは、わざと最後に残しておいた・・・・私が抱擁から身をもぎはなして、振り返らずに馬車に乗ろうとした時、母が心を引き裂くような叫び声をあげた。これは、一生、忘れる事が出来ない。

秋雨が降り続いていた・・・・座席の片隅にちぢこまり、疲労と苦痛にさいなまれながら、私は涙を流していた。レフ・ニコラエヴィッチはとても驚いているみたいだった。それに、不満そうだった・・・・私たちが町を出たとき、私は闇の中で恐怖を感じた・・・・闇が私を息苦しくさせていた。

最初の駅――間違っていなければ、ビリオウレフ――まで私たちはほとんど何もしゃべらなかった。レフ・ニコラエヴィッチがとてもやさしくて、私にこまごまと気を遣ってくれたのを覚えている。ビリオウレフでは、皇帝の間という客室をあてがわれた。赤い横畝織りの布を張った家具のある大きな部屋がいくつかついているが、まったく親しみが感じられない。サモワールが持ってこられた。

長椅子の端っこにうずくまって、私は罪人のように黙りこくっていた。「さて、もてなしてもらおうか」と、レフ・ニコラエヴィッチが私に言った。私は言いつけに従って、お茶を振る舞った。私はどきまぎしていて、ある種の恐れから逃れることができなかった。

レフ・ニコラエヴィッチのことをなれなれしい言い方で呼ぶ勇気がなく、名前で呼ぶのを避けていた。それからも長い間ずっと、彼に「あなた」と言っていた。

24時間後、彼らはヤースナヤ・ポリャーナに到着する。10月8日、ソフィアは再び日記をつけ始める。彼女は不安に駆られている。夫に過去があることに悩んでいるのだ。

思い出せるかぎり以前から、いつも私は、完璧な、みずみずしい、純潔な人を愛するのを夢見ていた・・・・私には、こうした子どもの頃の夢をあきらめきれない。彼が私を抱くとき、私は彼がこんなふうに抱くのは私が初めてではないのだと思う。

翌日、ソフィアはこう記している。

心が締め付けられている感じ。昨夜は悪い夢を見たし、そのことをずっと考えているわけでもないが、やはり心苦しい。夢に出てきたのはお母さんで、それがとても辛い。まるで、私が目を醒ましていられずに眠っていたかのようだ・・・・何かが私に重くのしかかっていく。愛の肉体的な面は、彼の場合はとても大きな役割を演じているけれど、一方、私の場合は、何の役割も演じていない。

若い妻が、この六ヶ月のあいだに、肉親との別離、孤独、自分の運命がとった決定的な様相に悩み苦しんでいるのがわかる。彼女は夫との肉体的関係を嫌悪し、憂鬱になっているのだ。コレットの母親が兄弟に押し付けられた最初の結婚の後に涙がでるほど実感しているのも、これと同じ憂鬱である。

彼女はそこで暖かなベルギー風の家、ガスの匂いのする地下の台所、熱いパンとコーヒーと別れた。ピアノ、ヴァイオリン、父の遺品のサルヴァトール・ローザの名画、煙草壺、長い管の精巧な陶製パイプ・・・・、開かれた本、しわくちゃになった新聞と別れて、新妻となって。森林地帯の厳しい冬が取り囲む階段つきの家に入った。

その家の一階には意外にも白く金色の客間があったが、二階は粗塗りしたかしないかで、納屋みたいになおざりにされていて・・・・寒々とした寝室は愛も安らかな眠りも語っていなかった・・・・友だちや、無邪気で陽気な人付き合いを求めていたシドが自分の住まいで出会ったのは、狡猾な奉公人、小作人だけであった・・・・

彼女は広い家を飾り付け、陰気な台所を白く塗り、自分自身でフランドル風料理を監督し、干しぶどう入りのケーキの生地を練り、初めての子どもを待ち望んだ。《野蛮人》は遠出の合間に彼女に微笑みかけては、また出て行くのだった…・ごちそう作り、忍耐、ワックスがけをしたあげく、シドは、孤独に瘦せはてて、(*35)泣いた・・・・

マルセル・ブレヴォーは『結婚したフランソワーズへの手紙』のなかで、新婚旅行から戻った若い女の動揺を描いている。

彼女はナポレオン三世風、マクマオン風の家具、絹綿ビロードの鏡覆い、黒い桜材の戸棚、彼女がとても古臭くて、ばかげていると思っていた家具一式をそなえた実家の住まいのことを想う・・・・こうしたもの総てが、彼女の思い出の前に一瞬、現実的な避難所、ほんとうの巣、彼女は私利私欲のない愛情によって、どんな悪天候、どんな危険からも守られて、保護されていた巣として描き出される。

新しい絨毯の匂い、剥き出しの窓、雑然と並んだ椅子といったように、なにもかも即興的で滑り出しのまずい様子がする今の住まい、これは巣ではない。これは、巣を作る場所といったものに過ぎない・・・・彼女は突然、ひどい悲しみをおぼえた。砂漠に置き去りにされたかのように悲しかった。

 こうした動揺がきっかけに、若い女が長期の鬱病やさまざまな精神病になる事が多い。とりわけ、さまざまな精神衰弱的強迫現象のもとで、こうした女は自分の空虚な自由の眩感を感じる。たとえば、すでに若い娘の場合について見たように売春妄想を示す。ピエール・ジャネ(36)は、窓際に立って通行人に流し目を送りたくなってしまうので、ひとりで家にいるのが耐えられないという若い妻のケースを挙げてている。

他にも、「本物のように見えない」し、幻影やボール紙に描かれた背景で満たされているといった世界を前にして無感動の状態でいる女たちがいる。成人という自分の条件を拒もうとする者、この条件を生涯頑なに拒む者もいる。たとえば、ジャネがQiという頭文字で示している患者(*37)の場合がそうだ。

Qi――36歳の女性――は、自分が10歳から12歳くらいの子どもだという考えに取り憑かれている。とくに一人きりで入るときは、思わず跳ねたり、笑ったり、踊ったりしてしまい、髪をといて肩にかかるようにし、少なくとも一部を切ってしまう。彼女は自分が女に子であるという夢想に完全に浸っていたいと思うのだ。

「この子が皆の前で隠れんぼや悪戯ができなくて、とても残念です・・・・私はひとから可愛らしいと思われたいのです。自分が酷く醜いのではないかと恐れています。ひとから愛されたい。話しかけてもらいたい、あやしてもらいたい、小さな子どもを愛するように私のことを愛しているといつも言ってもらいたいのです・・・・ひとが子どものことを愛するのは、子どもが悪戯好きだから、あどけない心をもっているから、可愛らしいことをするからだし、それに、ひとは子どもに見返りを求めはしませんよね。

相手を愛する、ただそれだけのこと、それが、いいところなのです。でも、そんなことは夫には話せん。夫は私の言っていることがわからないでしょうから。そう、私は小さい子になりたい、そして、私を膝にのせて、髪を撫でてくれるような父親か母親が欲しいと、とても望んでいるのです・・・・でも、だめ。私は奥様だし、一家の母なのだから。家の中をきちんとして、まじめにして、一人きりで考えなくてはならないのです。ああ、なんて暮らしでしょう!」

男にとってまた、結婚はしばしば一つの危機である。その証拠に、男の精神病の多くが婚約期間中や結婚生活の初期に発症している。若い男は、その姉妹より家族との結びつきが弱く、なんらかの団体――高等専門学校、大学、研修所、チーム、仲間の団体など――に属していて、そのおかげで孤独にならずにいられる。そして、本格的な大人の生活を始めるために、そうした団体を離れる。

そうした若い男は将来の孤独を恐れていて、たいてい、それを回避するために結婚する。しかし、集団が抱かせる幻想、夫婦とは「結婚による結社」であると思わせる幻想に騙されている。愛の情熱が燃え上がるほんの短い間を除けば、二人の個人は互いにそれぞれを世界から守るような世界を形成することはできないだろう。こうしたことを、二人とも結婚の翌日に実感する。

 じきに打ち解け、服従する妻も、自分の自由を夫に隠してはおかない。妻は負担であって、逃げ道ではない、妻は夫の責任を軽減しはせず、反対に、もっと重くする。性の違いは年齢、教育、状況の違いを意味することが多く、こうしたことのせいで、ほんとうの相互理解はまったく成り立たない。

 夫婦は慣れ親しい仲であっても、他人なのである。かつては、夫婦の間に、真の溝がある場合が多かった。若い娘は、無知で、世間知らずの状態に育てられた、まったく「過去」を持っていなかったが、一方、その婚約者は「経験」があり、彼が彼女に実生活の手ほどきをすることになる。

 なかには、この難しい役割を担うのを自慢に思う男もいる。もっと聡明な者は、自分と未来の伴侶を隔てている距離を推し量って、不安を感じるものだ。イーディス・ウォートン[1862-1937、アメリカの女性作家]は『無邪気な時代』という小説のなかで、1870年代のアメリカの一青年が自分の手に委ねられる将来の伴侶をまえにして感じる懸念を描いている。

 敬意のこもった畏怖の念で、彼は自分に魂を委ねようとしている若い娘の清らかな顔を、まじめな眼差し、無邪気で陽気な口元を眺めた。自分に属し、信頼を寄せている社会制度の作ったこの恐るべき産物――すべてに無知で、すべてを望むといった若い娘――は今、彼には無縁のように思えた・・・・女性に礼節を尽くす男として、自分の過去を婚約者に隠しておくのが自分にとっての義務であり、過去を持たないことが婚約者の娘の義務であるとすれば、いったい自分たちは相手について本当に知っているのだろうか・・・・みごとに仕立て上げられた、こうした欺瞞システムの中心である若い娘は、その素直さと大胆さによって、いっそう解きがたい謎になってみえた。

 彼女は率直だった、哀れな、いとしい娘は。何も隠すものがないからだ。彼女は信頼しきっていた。自分を守らなければならないなどと思っていないからだ。そして彼女は、なんの準備もしないまま、一夜のうちに、「人生の現実」と呼ばれるもののなかに沈められてしまうにちがいない。

 この簡潔な魂を何度となく検討してみて、彼は落胆しながら、結局はこう考えるのであった。この不自然な純真さは、母親、おば、祖母、さらには遠い昔の清教徒の祖先の女たちの共謀によって、これほど巧妙に作り上げられたものであって、彼の個人的な好みを満足させるために存在してるにすぎない、つまり、彼がこの純真さに対して領主権を行使し、それを雪の像のように壊してしまうために存在しているにすぎない、と。

 今日では、若い娘はそれほど不自然ではなくなっているので、夫婦の溝もそんなに深くはない。若い娘は人生についてもっとよく知っているし、準備もととのっている。しかし、妻の方が夫よりずっと年下であるということが多い。これが重要な意味を持つということは、これまであまり強調されていない。成熟の度合いが違うことから生じる結果なのに、それを性の違いのせいにしていることが多い。

 多くの場合、妻が子どもじみているのは、彼女が女だからではなく、実際にとても若いからなのだ。夫やその友人の厳めしさが彼女に重圧を与える。ソフィア・トルストイは結婚後一年ほどたった頃、こう書いている。

 彼は年寄りだし、仕事に熱中しすぎている。そして私は、今でも、とても若い気がしているし、ばかげたことをしたくてたまらなくなる。寝てもしまわずに、ピルエット[バレエで、片足を軸に旋回する動き]をやってみたいと思ったりする。でも、誰と?

 老いの雰囲気が私を取り巻いていて、あたり一面が年寄りくさい。私は若さの躍動を抑え込むように努めている。この分別じみた環境にはそぐわないように見えるから。

 一方、夫は妻のなかに「赤ん坊」を見て取る。夫にとって妻は彼が期待していたような伴侶ではなく、彼はそのことを彼女に気付かせる。妻はそれに屈辱を感じる。おそらく、実家を去るとき、彼女は指導者を見つけたいと思っているが、それと同時に、自分が「大人」として見られたいとも思っている。子どものままでいながら、一人前の女でありたいと思っているわけだ。だが、年上の夫は、けっして彼女を全面的に満足させるように彼女を扱う事はできない。

 年齢差がたいして問題にならない場合でも、やはり若い女と若い男は一般にまったく異なる育てられた方をされていることには変わりはない。女は女性的で貞淑さ、女性的な価値の尊重を教え込まれている女の世界から立ち現れるが、男の方は男性的道徳の原理が染み込んでいる。この両者にとって互いに理解し合う事はたいてい非常に難しく、まもなく衝突が起こる。

 結婚は普通、女を従属させることから、夫婦関係の問題はとりわけ女の方に深刻なかたちでつきつけられる。結婚の逆説とは、結婚には性的な機能と社会的な機能が同時にそなわっていることである。この両面性は若い妻の目に映る夫の姿に反映されている。

 夫は男性的な威信をそなえ、父親の代わりになる半神である。夫の庇護のもとにあってこそ、妻の人生は花開くはずだというわけである。夫は諸価値の保持者、真理の保証、夫婦の倫理的根拠である。しかしまた夫は、しばしば屈辱的な、異様な、おぞましい経験、あるいは衝撃的な経験、いずれにしろ偶然的な経験をわかちあう雄である。夫は妻を自分と一緒に動物的に溺れるように促すが、その一方で、妻を確固たる足取りで理想へと導くのである。

 ある晩、旅行の帰りがてら立ち寄ったパリでのこと、ベルナールはミュージック・ホールの舞台を見て憤慨し、これを見よがしに外に出た。「外国人がこんなものを見るんだぞ! なんて恥ずかしいことだ。こんなことで、われわれが判断されるんだからな・・・・」。テレーズは、この恥じらいのある男が、これから一時間もしないうちに、闇の中で根気よく奇妙な思いつきを自分に強いる男と同一人物なのだと、呆然たる思いであった(*38)。

 指導者と半獣神とのあいだには、いくつもの中間的な形態が考えられる。時には、男は父親であると同時に恋人であり、性行為は神聖な饗宴となり、妻は夫の腕のなかに、全面的な責任放棄と引き換えに手に入れた究極的な救済を見出す恋人となる。このような、結婚生活における情熱恋愛はきわめて稀である。また時には、妻は夫を精神的には愛しているが、あまりに尊敬する男の腕に身を委ねるのを拒むこともある。

 こうした妻のケースをシュテーケルが報告している。「D・S夫人は非常に偉大な芸術家の寡婦で、現在40歳である。夫を熱愛していながら、夫に対してまったく不感症であった」。逆に、妻が夫を相手に、二人とも堕落の虜になっているように思え、夫への評価も敬意も失せてしまうような快楽を経験することもありうる。

 また一方、性愛が失敗に終わると、夫は、精神面でも軽蔑されることになる。これとは逆に、すでに述べたように、軽蔑、反感、恨みのせいで女は不感症になる。夫が、性的経験の後も動物的な弱点を大目にみられ、依然として尊敬される優越者のままでいるという場合もとても多い。とくにアデル・ユゴー[19世紀フランスの作家ヴィクトル・ユゴーの妻]の場合などはそうだったようだ。

 また、夫が威信はないが快いパートナーとなるという場合もある。K・マンスフィールドは『序曲』という中編小説のなかで、こうした両面性のとりうる形態の一つを描いている。

 彼女は彼をほんとうに愛していた。彼をいとおしみ、称賛し、とても尊敬していた。おお、この世の誰よりも。彼女は彼のことを知り尽くしていた。彼は素直さそのもの、尊厳そのものであり、その実体験にもかかわらず、純真で、まったく無邪気で、わずかなことで満足し、わずかなことで腹を立てるのだった。せめて、彼があんなに大声でわめき、あんなに貪欲で、情欲に燃えた目で彼女を見つめながら、彼女に飛びかかってこなければいいのに。

 彼は彼女にとって強烈過ぎた。子どもの頃から彼女は自分に迫って来る物事が嫌いだった。彼のことが恐ろしくなって、ほんとうにおそろしくなって、「私を殺す気なのね!」と力の限り叫びそうになったことが何度かあった。そういうとき、彼女は手厳しいこと、嫌なことを言いたくなる・・・・そう、そのとおり、それは本当だった。スタンレーを愛し、尊敬し、敬服していながら、彼女は彼を嫌がっていた。こうしたことをそれほどはっきりと感じたことはけっしてなかった。

 こうした感情すべてが彼女の目に、明瞭で、決定的なもの、どれもが真実のものとなった。そして、他ならぬ、この憎しみという感情も、それ以外の感情を同じようにまさしく真実であった。彼女はこれからの感情をそれぞれ小さな包みに仕分けて、スタンレーに贈ってやれればと思っていた。憎しみという感情を思いがけない贈り物として彼に送り付けて、彼がそれを開ける時の眼付を想像してみたいと思うのである。

 若い女が自分の感情を正直に打ち明けるという事は滅多にない。夫を愛すること、自分が幸せであること、これは自分自身と社会に対する義務である。また、家族が彼女の期待していることである。あるいは、親が結婚に反対する態度をみせた場合は、彼女は親に反証を突きつけたいと思う。普通、若い女はまず、結婚生活の状況を自己欺瞞のうちに生きることから始める。

 自分が夫に大きな愛を感じていると意図的に信じ込む。そして、この情熱は、女が性的に満足していないとそれだけ偏執的なもの、独占的なもの、嫉妬深いものとなる。最初は自分で認めようとしない失望を和らげるために、夫が自分の傍にいることをしつこく求める。シュテーケルはこうした病的な愛着の事例を数多く引いている。

 ある女性は小児的固着のせいで、結婚初期の数年間、不感症であった。そこで、彼女のうちに、夫が自分に無関心だということを認めたがらない女によく見受けられるような、過剰な愛情が肥大した。彼女は夫としか生きていなかったし、夫のことしか考えていなかった。

 彼女はもう意志がなくなっていた。夫は毎朝、彼女の一日の予定を立てて、彼女が買うべきもの等々を彼女に言わなければならなかった。彼女はすべてを入念に実行するのであった。夫が何も指示しておかないと、彼女は何しないで、夫のことを恋しがって、自分の部屋にじっとしていた。

 彼女は夫がどこに行くにも一緒について行かずにはいられなかった。一人きりでいる事が出来ず、夫と手をつないでいたがった・・・・彼女は不幸で、何時間も泣くし、夫のことをひどく心配し、しんぱいの種がなければ自分で作りだすのだった。

 また別のケースは、一人で外出するのが恐ろしいので、まるで牢獄にいるかのように自分の部屋に閉じこもっているという女性のケースである。私は彼女が夫の手をつかんで、ずっと自分の傍にいてほしいと懇願しているのを目にした・・・・結婚して七年たつが、夫はまだ一度も妻と肉体関係を結べずにいる。

つづく 第五章 Ⅳ  ソフィア・トルストイは結婚してすぐ、自分は夫を愛していないと気づき絶望の叫び、倦怠・悲しみ、無関心の告白には、
情熱的な愛の抗議が入り混じっている。彼女はいつも自分の傍らに愛しい夫がいてほしいと思っている。夫が離れていくと、すぐに彼女は嫉妬に苦しめられる。