不感症や欲求不満の女、オールドミス、結婚に失望している女、高圧的な夫から孤独で虚しい生活を強いられている女は、こうした苛立ちや怨恨に喜びを見出していたのだ。私が知っている例の中には、毎朝五時に起き、戸棚を調べてはその片づけをやり直していた老婦人がいた

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第五章Ⅱ 不感症や欲求不満の女

本表紙 第二の性 体験 ボーヴォワール著

不感症や欲求不満の女

ジョン・スタインベック[1902-68、アメリカの作家]は『カナリア街道』で、夫と住んでいる大きい土管を意地になってカーペットとカーテンで飾り立てようとする浮浪者の女を描いている。窓がないのだからカーテンはいらないと夫が言っても無駄なのである。

 この種の気遣いは女に固有のものである。普通の男は周囲にあるものを道具と見なす、そしてそれらにあてがわれた目的にしたがって置き場所を決める。女にはたいてい乱雑としか見てとれない男の「秩序」は、手の届く所にタバコ、書類、小道具を置き放しにすることなのだ。

 なかでも一定の素材を用いて世界を再創造するはずの彫刻家や画家などの芸術家は、自分が寝起きする環境にまったく無頓着である。ライナー・マリア・リルケ[1875-1926.オーストリアの作家]はオーギュスト・ロダン[1840-1917、フランスの彫刻家]について書いている。

 初めてロダンの家に行ったとき、彼にとってその家は最低限の必要以外の何物でもないことがわかった。それは寒さ凌ぎ、寝るための場所なのだ。家はロダンの関心を引くこともなく、その孤独や精神集中にいかなる影響も及ぼしていなかった。ロダンが家庭をすなわち木陰、隠れ場所、平安といったものを見出すのは、自分の内部なのだ。彼は自分自身の空、森、そして何者も流れを止めることのできない大河になっていた。

 だが自分の内部に家を見出すためには、まず作品や行為の中に自己を実現していなければならない。男が家の中にあまり興味をもたないのは、顔を全世界の方に向けているからからであり、諸処のプロジェで自己を主張できるからである。

 それに対して女は、夫婦共同体の中に閉じ込められている。そこで女はこの牢獄を王国に変えることが必要なのだ。家庭に対する女の態度は、一般に女の条件を規定しているのと同じ弁証法に操られている。女は自分を獲物にすることで相手を捕らえ、何もかも断念することで自由の身となる。女は世界というものを諦めて。ある一つの世界を征服しようとする、と言う訳である。

 女は何の未練もなく家に閉じこもるわけではない。娘時代は地球全体が祖国であった。さまざまな森も自分のものだった。それなのに今は狭い空間に閉じ込められている。大自然はジュラルミンの鉢一つの大きさになってしまい、壁が地平線を遮っている。V・ウルフのある
主人公(*24)はつぶやく。

 私が夏から冬になったのかわかるのは、もう草原や荒野のヒースの様子からではなく、窓ガラスの湯気や結氷によってなのだ。私も以前はブナの森を散歩し、浮浪者や羊飼いに途中で出会ったりしたものだ‥‥今は羽根箒(ほうき)を手に、部屋から部屋へと歩き回る。

 しかし女はこうした制約を何としてでも否定しようとする。地球上の動植物、異国、過去の諸時代を、少しばかり金のかかるかたちで室内に閉じ込め、それから、自分にとって人間集団の擬縮である夫と、未来全体を簡便なかたちで与えてくれる子どもをも、そこに閉じ込める。

 家庭は世界の中心になり、世界の唯一の真実にさえなる。バシュラールが的確に指摘しているように、家庭は「一種の宇宙または反対の宇宙」で、避難所、隠れ家、洞窟、胎内として、内部を外の脅威から守る。非現実になるのは、この雑然とした外部の方なのだ。とりわけ夜に鎧戸が閉められると、女は自分が女王だと感じる。真昼に自然の太陽があたりを照らす光は彼女はまぶしい。

 夜になると、女はもう何も奪われずに済むようになる。自分が所有しない物は消し去ってしまうからだ。彼女はランプシェードの下で彼女自身のものである光、もっぱら彼女の住まいだけを照らす光が輝くさまをながめる。他のものはまったく存在しない。V・ウルフの次の文章は、外の空間が崩壊する一方、現実が家の中に凝集するさまを描いて見せる。

 夜は今や窓ガラスの向こうに遠ざかっていた。窓ガラスは外の世界を眺め正確に示すのではなく、奇妙なやり方でそれを歪めてしまい、秩序も不動性も揺るがない大地も室内に居座ったかのようだった。逆に、外にはもはや反射しかなく、そこで事物は流体になって、揺れ動き消えていった。
女は、普段の性生活では満たされぬままに自分につきまとう官能を、身辺のビロード、絹、磁器によって部分的に満足させる。女はまたこうした身辺の品物を、自分の個性の表現と見なすだろう。
 諸々の家具や置物を、選び、こしらえ、「掘り出した」のは彼女であり、なるべく対称的になるよう気を付けながらそれを配置するのも彼女なのだ。

 それらの品物は彼女の生活水準を社会的に示しつつ、自分独自のイメージを彼女自身に見せてくれる。したがって、女にとって家庭は地上で割り当てられた取り分であり、自分の社会的価値およびもっとも奥深く隠された真の姿の表現である。女は何を成すことがないので、自分が持つものの中に貪欲に自分を探し求めるのだ。

 女がその「巣」を私物化することができるのは、家事労働によってである。だからこそ、「使用人がいる」場合でさえ、仕事に自分も手を下そう固執するのである。少なくとも、監視し点検し批評することで、使用人がもたらした成果を何とか自分の物にしようとするのだ。

 女は住居を管理して自分を社会的に正当化しようとする。彼女の任務はまた食事と衣服に留意すること、つまり一般的に言えば、家族共同体を維持するために気を配ることである。そうすることで彼女自身もまた、自分を一つの活動として実現するわけである。だがこれは、後に見るように、女はその内在性から引き離しもせず、自分自身を個的に確立できるようにもしない活動なのだ。

 家事労働の詩情はさかんに称賛されてきた。たしかに、女は家事労働のおかげで物質と格闘して諸々の対象と親密な関係を結ぶようになるし、この関係は存在を解明するものであるから、女を豊かにする。マドレーヌ・ブルドゥークスは『マリーを探して』で、レンジにクレンザーを塗り拡げる主人公が感じる喜びを描いている。彼女が指先に感じている自由と力の輝かしいイメージは、よく磨き込まれたレンジの鋳鉄に象徴されるのである。

 地下室から再び上がってくるとき、踊り場ごとにだんだん重くなるこのバケツが彼女は好きだ。独特の匂いやざらつきや輪郭のある単純な物質が、彼女はいつも好きだった。だからこそそれらの扱い方を知っているのだ。マリーの両手はためらったり後ずさりしたりせずに、その消えたかまどや石鹼水の中に入り込み、鉄の錆びを落とし、油を差し、ワックスを塗り、大きくぐるりと一回りするだけでテーブルの野菜くずを集める。彼女の手のひらと彼女が触れる物とは完全に理解し合った仲、仲間どうしである。

 数多くの女性作家が、アイロンをかけた洗い立てのリネン類、青みがかった石鹼水の光沢、白いシーツ、ピカピカの銀製品などを、愛情を込めて語ってきた。主婦が家具を磨き立てるとき、「ワックスで木目の美しさを際立たせる手が優しく根気強いのは、浸透の夢に支えられているのだ」とバシュラールは言う。仕事が完了すれば、主婦はその出来栄えにうっとり見とれる喜びを味わう。

 しかし、テーブルの艶、燭台の輝き、糊付けしてアイロンをかけたリネンの光沢のある白さといった貴重な美質が現れるためには、まず消極的な作業がなされなければならない。すなわち、あらゆる悪の原理が追放されなければならない。それは行動的な清潔第一主義の夢、不潔に抗して勝ち取れる清潔の夢である。バシュラールは次のように描いている(*25)

 したがって、清潔を目指す闘いの想像力は挑発を必要とするように思われる。この想像力は、意地の悪い怒りで刺激されなければならないのだ。銅の蛇口にクレンザーを塗る時、口元に何という敵意に満ちた微笑みが浮かぶことだろう。働き手は、汚物まがいのねばねばするクレンザーを含ませた汚いべとべとの古雑巾を持って、銅の蛇口に突進する。心中は苦々しさと敵意でいっぱいだ。

 何で私がこんな卑しい仕事を? だが乾いた布巾で拭く段になると、陽気な意地の悪さとなる。逞しい饒舌な意地の悪さだ。蛇口よ、汝はピカピカになるであろう、鍋よ、汝は太陽と輝け! そしてついに、銅が感じのいい男の子のように屈託なくきらきら笑い出すとき、和解が成立する。主婦は光り輝く自分の勝利に、うっとり見とれるのである。

 またフランシス・ボンジュ[1899-1988、フランスの詩人]は、洗濯釜の中での不潔と清潔の闘い(*26)を描いている。

 少なくともひと冬、洗濯釜と親しく暮らさなかった者は、実に感動的なある種の物質と感情を知るまい。汚れた布で一杯の洗濯釜を――よろよろしながらも―― 一気に地面から持ち上げ、竈(かまど)の上まで運ばなければならない。竈の上で、釜を何とかひきずり、それから正しい位置に落ち着かせるのだ。

 窯の下の火種をかき立て、少しずつ釜をぐっぐっ泡立たせなければならない。生温かい、あるいは火傷しそうな内側を、頻繫に手を触ってみながら、そして釜の中の深い音を聴き、そうなると何度も蓋を持ち上げて、吐き出し具合や水の出を調べなければならない。

 最後に、まだ沸騰中の釜をまた抱きかかえて、地面に下ろしてやらなければならない。
 洗濯釜の原理はこうである。汚れた布の山を詰め込まれ、その内的感情すなわち釜が汚れ布に感じている煮えたぎる憤激は上の方に導かれて、釜の心を揺さぶる汚れ布の山に雨を降り注ぎ、これが絶え間なく繰り返され、最後には浄化にいたるのである。

たしかに布は、洗濯釜に入れられたとき、すでにざっと汚れを落とされていた・・・・
 それでもやはり釜は中にあるものが、漠然と汚れていると思い、感じ、大いに揺れ動き、沸騰して、奮闘してついに打ち勝ち、染み抜きに成功する。そのあと、布はふり注ぐ冷水ですすがれて、真っ白になるだろう。
 そして実際、奇跡が出現したのだ。
 突如、無数の白旗が翻る――降伏ではなく勝利のしるしなのだ。それに、多分これは単にそこの住人の身体が清潔だという印にすぎないわけではない・・・・

 この弁証法は家事労働にゲームの魅力を付け加える。とかく女の子は、銀器をピカピカにしたりドアのノブを磨いたりして面白がる。だが女が家事労働に積極的な満足を見出すためには、自慢の家の内部をかいがいしく管理する必要がある。

 そうでなければ、その努力の唯一の褒賞として、仕事の出来栄えにうっとり見とれることも、けっしてできないだろう。南部の「貧しい白人(グア・ホワイト)」と数ヶ月暮らしたあるアメリカのルポライター(*27)は、あばら家を住み心地よくしようと必死にやってみたがうまくいかずに疲れ果てたアメリカ女の運命を描いている。

 この女は、南京虫がうようよし、煤(すす)で真っ黒な壁の丸太小屋に、夫と七人の子供と一緒に住んでいる。彼女は「わが家をきれいにしよう」とやってみたのである。メインルームには、青みがかった漆喰塗りの暖炉とテーブル、壁にかけられたG夫人は目に涙を浮かべて言う。「ああ、こんな家大嫌い! どうしたってきれいになりっこないと思えるわ!」。 

 このように、多くの女たちが、けっして勝利をもたらすことのない闘いの果てに得るものと言えば、ただ疲れだけである。そして、それが際限なく繰り返されるのだ。もっと恵まれた場合でさえ最終的な勝利を得ることはない、主婦の任務ほどシシュフォス[ギリシア神話のコリントスの王。地獄で、押し上げてもすぐに転がり落ちる岩を永久に山頂に押し上げるという刑罰に処せられた]の拷問に似たものはまずない。毎日毎日皿を洗い、家具の塵を払い、繕い物をしなければならないが、明日になるとまた汚れや埃がたまり、破れてしまうのである。

 主婦は同じ場に足踏みして身をすり減らす。主婦は何一つ作り出さない。ただ現状を永続させるだけだ。主婦は、自分が積極的に善を手に入れるのではなく、きりもなく悪と闘っているような気がする。それは毎日繰り返される闘いである。

 主人の長靴を磨くことをものうげに拒否したという召使いの話がある。彼は言ったものだ。「何になる? 明日もまた磨かなきゃならんのに」。まだ自分の人生に諦めきっていない娘たちの多くもこうした意欲喪失に陥っている。私は16歳の女子高生の作文を覚えているが、それはだいたい次のように始まっていた。「今日は大掃除。ママが客間に掃除機をかけている音が聞こえる。逃げだしたい。私が大人になったら、自分の家には絶対大掃除の日なんかつくらないと決めた」。子どもは未来を、何処か分からない頂上へと無限に上昇していくものだと思っている。それがある時、母親が皿を洗っている台所で女の子は理解するのだ。

 何年も毎日午後の決まった時間に、両手は汚水にもぐり、ごわごわした布巾で磁器を拭いてきた。そして死ぬまで両手はこの儀式に従わせられるだろう。食べ、眠り。掃除する・・・・年月はもはや天へ上昇するのではなく、同じ灰色の月日が水平面に広がるのだ。毎日が前日のコピーにすぎない。役に立たず希望のない現在がいつまでも続くのである。コレット・オードリーは『ほこり』という題の中編小説(*28)で、時間と全力で闘う活動の痛ましく虚しいさまを巧みに描いた。

翌日長椅子の下を掃除していると何か出てきた。彼女は最初、古綿の塊か大きな羽毛だと思った。だがそれは。ほこりの塊だった。掃除がついなおざりになる大きな戸棚の上や、家具の後ろの壁と裏板とのあいだにできるもの。この奇妙な物質を前に、彼女はしばらく考え込んでいた。そう、彼女たちがこの部屋で暮らし始めてもう8~10週間たち、ジュリエットが気をつけていたにもかかわらず、ほこりの魂は子どもの頃に恐がったあの灰色の虫のように、物陰で形を成し、太る時間があったのだ。

 細かいほこりの粉ならまだ怠慢と投げやりの初期段階にすぎず、それは人の呼吸や衣擦れや開けた窓からの風が残していった微細な堆積である。しかしこういう塊になったものはすでに、ほこりの第2段階、勝ち誇るほこり、形を成して堆積からごみになった擬個物なのである。見た目はほとんど美しく、木苺の房のように透明で優美だったが、もっと澄んでいた。

 ・・・・ほこりが形を成す速さには、どんな吸引力も及ばなかった。ほこりは世界を占領しつくしていた。もはや掃除機は、人間が労力や物質や創意工夫を無駄に使って汚れと闘ったあげくに敗退するということを示し証明する役を負っているだけだった。掃除機は、道具にみえるごみだった。

 ・・・・すべての原因となるのは二人の共同生活であり、彼らの食事が屑を作り出し、二人の埃はいたるところで、混ざり合っていた・・・・どの家庭もこうした小さなゴミ屑を分泌する。屑は捨てられねばならないが、それは新たに出て来る別のゴミに場所を譲るためなのだ・・・・何という生活を送っている事か――それは、通りすがりの者の眼差しを引きつける皺のないシャツで外出するためであり、夫の技師が普段の生活で人に好感を与えるためなのだ。

 マルグリッドの頭を、またいつもの想念がよぎった。床の手入れを忘れないようにしなくちゃ・・・・銅製品を磨くのに誰か雇って・・・・彼女は、平凡な二人の生活に死ぬまで維持する責任を負っていた。

 洗濯し、アイロンをかけ、掃除して、戸棚の陰に隠れた綿ほこりを追放する。これは死を阻止しながらも生を拒否することである。それと言うのも、時間は同じ一つの運動で創りかつ壊すからだ。主婦はその否定的な方、つまり壊すことしか目に入らない。主婦の態度は善悪二元論のマニ教徒のようだ。

 そして善徳二元論の特質は、善と悪の二つの原理を認めることだけでなく、善の廃止によってなされると考えることである。この意味でキリスト教は、悪魔の存在を認めるにもかかわらず二元論ではない。なぜなら、人が悪魔と最も巧みに戦うのは神に身をささげることによってであり、悪魔に勝つことに没頭することによってではないからだ。
 超越と自由を説く教義はすべて、悪を敗北させることより善に向かって進むことが先決だとする。しかし女は、より良い世界を建設するように求められてはいない。家、部屋、洗濯物、床などは固定化された事物である。女はそれらに紛れ込んだ悪しき原理をきりもなく追放するしかない。女は、ほこり、しみ、泥、垢を攻撃する。

 女は罪と闘い、悪魔と闘う。だがそれは積極的な目的の方に向かう代わりに、絶え間なく敵を撃退しなければならないという嘆かわしい運命である。主婦は激しく怒りながらそれに耐える事が少なくない。

 パシュラールは主婦に関して「意地の悪さ」という言葉を使っている。

それはまた精神分析学者の書いたものに見出せる。彼らは、家事への偏執をサド=マゾヒズムの一形態と考える。偏執や悪徳の特徴は、自分で欲していないものを自分から進んで欲するように仕向けるということだ。

 偏執的な主婦は、否定性、汚れ、悪を手に入れたくないから、嫌でたまらない境遇にみずからはまり込んで猛然とほこりを食ってかかる。あらゆる生の発展にともなって残されるごみ屑を通して、主婦は生そのものを非難するのだ。生きている者が自分の領域に入って来るや、彼女の目は邪悪な炎でらんらんと燃えだす。

 「靴を拭って。何でもごちゃごちゃにするんじゃないの。それに触らないで」。まわりの者には呼吸さえしないでもらいたい。どんなささやかな息でも迷惑の種なのだから。あらゆる出来事が徒労の原因となりうる。子どものとんぼ返りは、繕わなければならいかぎ裂きのもとである。生に解体の予兆、きりのない骨折りの必要性しか見ない主婦には、どんな生きる喜びもなくなる。

 その目つきは厳しく、つねに不安げないかめしい顔で警戒している。用心と出し惜しみによって身を守る。たとえば、窓を閉める。日差しと一緒に虫やばい菌やほこりが入って来るからだ。それに陽光は壁掛けの絹を傷める。

 また、古い肘掛け椅子にはカバーをかけてナフタリンの匂いを放たされる。電灯の光で色が褪せてしまうからだ。客にこれらの宝物を見せびらかして楽しむことさえできない。客が感心して触るとしみになるからである。彼女は用心深くあまりとげとげしくなり、生きている者すべてに敵意を感じるようになる。

 家具の上には目に見えないほこりが残っていないか確かめるために白手袋をはめるという田舎のブルジョア女がよく話題になったが、こうした類の女たちこそ、数年前にパパン姉妹が殺害した女なのだ。こうした女たちの汚れに対する憎悪は、すなわち、召使いへの憎悪であり、世界と自分自身とに対する憎悪であったのだ。

 こういう陰気な悪徳を、若い時から早々と選ぶ女はごくわずかである。人生を十分愛する女はこの悪から守られる。コレットはシドについて述べている。

 つまり、彼女は敏捷で活動的だったが、勤勉な主婦ではなかっのだ。清潔で小ざっぱりとして神経質ではあったが、彼女はナプキンや角砂糖や中身の詰まった瓶を数えるような偏執的で孤独な素質など、いささかも持ち合わせていなかった。フランネルを手にした彼女は、隣人とふざけながらだらだら窓ガラスを磨いている女中を監督しつつ、思わずヒステリックな叫び声を出してしまう。それを抑えきれない自由への叫びだ。

「中国磁器のカップを時間かけて丁寧に拭いていると、老け込んでしまうような気がする」と言うのだ。しかし彼女はきちんと仕事は最後までやり終える。今度は階段を二段またいで庭に入る。直ちに陰気な興奮と怨恨は醒めるのだった。

不感症や欲求不満の女、オールドミス、結婚に失望している女、高圧的な夫から孤独で虚しい生活を強いられている女は、まさにこうした苛立ちや怨恨に喜びを見出していたのだ。私が知っている例の中には、毎朝五時に起き、戸棚を調べてはその片づけをやり直していた老婦人がいた。彼女も25歳の頃は陽気でおしゃれだったらしい。

 妻を顧みない夫と一人息子と共に人里離れた屋敷の中に閉じ込められた彼女は、他の者なら酒に溺れるところが、片付けものにはまり込んでしまったのだ。
『夫の記録(*29)』のエリーズに見られる家事狂いは、一つの世界に君臨したいという激しい欲望、有り余る生命力、そして、対象が見つからずに空振りに終わる支配欲の結果である。それはまた、時間、世界、人生、男たち、存在するすべてのものへの挑戦である。

 夕食後、九時から彼女は洗い物をしている。今は十二時。私はうとうとしていたが、彼女の猛烈な働きぶりは私の休憩を怠慢のように見せて侮辱するようで、おもしろくない。

 エリーズは言う。「清潔を保つには、何よりも手を汚すのを気にしないことよ」
 そして間もなく家は清潔になりすぎて、誰もあえてそこには住めなくなるほどだろう。寝椅子はあるが、その脇で床の上に寝なければならない。クッションは新品そのもの。そこに頭や足を載せて、しわをつくったりよれよれにしたりしてはならない。そして私が絨毯の上を歩く度に一本の手がつきまとい、道具や布切れで私の足跡を消し去る。
 夜・・・・
「終わったわ」
 朝起きて夜寝るまで、彼女にとっていったい何が大切なのか? あらゆるもの、あらゆる家具の位置を変え、家の床、壁、天井を隅から隅まで触ってみることである。

 目下、彼女の家政婦精神が他を圧倒している。戸棚の中のほこりを払ったら、窓辺のジェラニウムのほこりを払う。

 母親は言う。「エリーズはいつも忙しくて、自分が生きていることに気づいていないのよ」
 実際、家事のお蔭で女は自己から限りなく遠ざかることができる。ジャック・シャルドンヌ[1884-1968、フランスの小説家]は正当にも言っている。

 それはとめどもなく続く、細かく無秩序な仕事である。女は、家の中で。自分は人を喜ばせていると確信しながら急速に気力と体力を使い果たし、放心して心充たされなくなり、自分でなくなってしまう・・・・

 この逃避、女が外の事物と自分とを同時に攻撃するこのサド=マゾヒズムは、多くの場合まさしく性的な性格をもつ。「身体的活動を必要とする家事というものは、女が行くことが出来る売春宿なのである」とヴィオレット・ルデュック(*30)は言う。清潔志向が、女たちが情熱的でないオランダ肉体の悦びより秩序や純潔の理想を説くピューリタン文明の国々で極端に重んじられているのは注目に値す。南仏の地中海沿岸の人々が陽気に不潔のなかで生きているのは、水不足のせいだけではない。

 彼らは肉体とその獣性を愛するが故に、人間の匂い、垢、そしてノミ、シラミの類まで寛容に受け入れてしまうのである。

 食事の支度は掃除より積極的な仕事であり、多くの場合もっとも楽しい。段取りとしてまず買い物があり、それは多くの主婦にとって一日のうちの特別な時間なのだ。
 単調な仕事は魅力がないから、女には家での孤独が重荷である。南仏の街では、女はドアの敷居に座りおしゃべりをしながら、縫い物や洗濯や野菜の皮むきができて幸せだ。世間から半ば隔離されたイスラムの女にとって、川に水くみに行くことは大冒険に匹敵する。

 カビリア[アルジェリア北部の地方]の小さな村で、行政担当者が広場に建設させた給水所を女たちがめちゃめちゃに壊すのを、私は見たことがある。毎朝みんなで一緒に丘陵の麓を流れるワジまで降りて行くのは、彼女たちの唯一の楽しみだからだ。

 また女たちは、買い物の時、列をつくって待ったり店の中や街角に立ち止まったりして、「主婦の価値」を確認させてくれる。本質的なものが非本質的なものと対照をなすように、女たちは――しばらくは――男社会に対置それるもう一つ別の共同体の構成員であることを感じるのである。だが何よりも、買物は奥深い喜びだ。それは一つの発見、ほとんど発明ともいえるものなのだ。

 ジッドはその『日記』で、イスラムの男は賭け知らないが宝探しがその代用品になっていると指摘している。宝探しには金儲け主義の文明の詩情と冒険がある。主婦は賭けの無償性を知らない。だが、みごとなキャベツの球やよく熟したカマンベール・チーズは、抜け目なく隠している商人から掠め取るべき宝なのだ。

 売り手と買い手のあいだに戦闘と戦略が交わされる。この場合買い手にとっての賭は、できるだけ安くできるだけ良い品を手に入れることである。ごく少額の得をすることをこれほど極端に重視する主婦の態度は、苦しい懐具合への配慮からということだけでは説明できないだろう。勝負に勝てねばならないのだ。

 並べられた商品を疑わしげによくよく調べている間に、主婦は女王である。彼女がそこから戦利品を勝取れるように、世界はその富と罠と共に彼女の足下にひれ伏している。そして家に帰ってテーブルの上に買物袋をぶちまけるというとき、彼女は束の間の勝利を味わうのだ。

 将来の備えとなる保存食品、傷むおそれのない食品を戸棚に並べる。そしてこれから自分の権力に従わせる剥き出しの肉や野菜を満足して眺める。

 ガスと電気のせいで火の魔術は失われた。しかし田舎にはまだ、生気のない木切れから生きた炎を引き出す喜びを知っている女が数多くいる。火を焚き付けられると女は魔女に変身する。片手を動かすだけで――玉子を泡立てたり粉をこねたりする――、また火の魔術により、女は物質を変質させる作業をする。材料が食べ物になるのだ。コレットはこの錬金術の魔力をも描いている。

 両手鍋、やかん、寸胴鍋とその中身を火の上に置く瞬間から、テーブルの上で湯気を立てる料理の蓋をとる。かすかな不安ととろけるような希望に満たされた瞬間までになし遂げられることはすべて、神秘であり魔法であり魔術である・・・・

 コレットはとりわけ、熱い灰だけがなしうる変化を得々と描く。

木灰は自分に委ねられたものを美味しく焼き上げる。
熱い灰の中に入れられたリンゴやナシは、出て来る時しなびて薫製になっているが、皮一枚下はモグラのお腹のように柔らかだ。そして、調理用レンジでリンゴを「ボンヌファム」風に焼いても、風味に満ち――扱い方を心得ていれば――蜜が一滴も落ちずに皮の内に閉じ込められたこのジャムには、まるで及ばない・・・・高い三脚つきの鍋の下にはふるいにかけられた灰があるが、火は全く見えない。

 でも、黒い脚で消し炭の上に据えられた鍋の中からは、互いにくっつかないように並べられた馬鈴薯が、雪のように白く、焼けるように熱く、中が鱗片状になって出てくる。

 女性作家たちは、とりわけジャムの詩情を讃えている。銅鍋のなかで固形の純粋な砂糖と柔らかな果肉を結合させるというのは大仕事である。出来上がった物質は、泡立ち、粘つき、火傷するほど熱く、危険である。沸騰する溶岩、それを主婦が手なずけて、誇らしげに瓶に流し入れる。瓶に硝酸紙を被せて勝利の日付を書付るとき、彼女が征服するのは時そのものである。

 彼女は砂糖の罠で持続性を捕らえ、生命を広口瓶に入れたのだ。料理人は、物質の内部に侵入し、それを明らかにするということ以上のことをする。物質を新たに造形し、再創造するのである。生地作りの作業をしながら、料理人は自分の力を実感する。「手も、眼差しと同じように、それ自体の夢想、それ自体の詩情をもっている」とバシュラール(*31)は語っている。

 そして彼は「完璧なしなやかさ、手を満たし、素材から手へと、また、手から素材へと限りなく反映されるしなやかさ」について語る。パン生地をこねる料理の女の手は「幸運の手」であり、焼き上げがさらに生地に新しい価値を与える。「焼き上げは、だから、大いなる物質的生成である。淡い色から黄金色へといたる、生地から皮へといたる生成(*32)である」。

 女はケーキやパイの成功には独特の満足感を見出すことができる。というのも、この成功は誰にでも得られるといったものではないからだ。それには才能がいる。「生地作りの技術ほど複雑なものはない。これ程規則通りにいかないもの、これほど覚えにくいものはない」と、ミシュレは書いている。

 この分野でもまた、少女が年上の女の真似をして夢中になって楽しむのは当然のことと思える。粘土や草で、代用品を作って遊ぶ。小さな本物のレンジを玩具にもらったときや、母親から台所に入るのを許され、菓子の生地を手のひらで丸めたり、熱いキャラメルを切り分ける仕事をさせてもらえたときは、もっと喜ぶ。

 しかし、ここでも、事情は家事と同じである。反復がすぐに喜びを失わせてしまうのだ。トルティーヤ[トウモロコシの粉のクレープ]を主食とするアメリカ先住民の場合、女たちは半日かけて、生地を練っては、どの家でも同じ、何代にもわたって同じクレープを作っている。。彼女たちは竈(かまど)の魅惑はほとんど感じ取れない。

人は毎日、買物を宝探しに変えたり、水道の蛇口の輝きにうっとりなどしていられない。こうした勝利を抒情(じょじょう)的に讃えているのは、とくに男たちと女性作家たちである。というのも、彼らは家事をしていない、あるいは稀にしかしていないからなのだ。日常的であれば、この仕事は単調で機械的になる。これは待つ事だらけの仕事なのだ。

お湯が沸くのを待たなければならず、焼き肉がほどよい加減に仕上がるのを、洗濯物がかわくのを待たなければならない。さまざまな作業を計画的に配分してみても、やはり受動的で手持ち無沙汰な時間は長い。こうした作業はほとんどの段階が退屈のうちになされる。

現在の生活と明日の生活のあいだにあって、非本質的な仲介となっているにすぎない。作業を行う人間自身が生産者、創造者であれば、こうした作業は身体器官の機能と同じくらい自然に自分自身の存在と一体化する・だから、日常的な雑役も、男によってなされる場合には、もっとずっと暗く見えるのだ。

こうした雑役は男にとって否定的で副次的な一時的なものにすぎず、彼らは急いでそこから抜け出す。しかし、女を全面的に一般性と非本質性へと導く分業が、小間使いとしての女の運命を報われないものにしている。住居、食料は生活の有用であるが、生活に意味を与えはしない。

主婦の直接的な目的は真の目的ではなく、手段であるにすぎず、そこには個性を欠いたプロジェが反映されているにすぎない。仕事に打ち込むために、女が自分の個別性を仕事に投入しようとし、得られた結果に絶対的な価値を与えようとするのはもっともなことだと思われる。女は自分自身の儀式的ならわし、迷信をもっていて、自分自身の食器の並べ方、応接間の整頓の仕方、繕い物の仕方、料理の作り方にこだわる。

自分の代わりにロースト肉やゼリー寄せを作っても誰もこれほどうまくできはしないと信じ込んでいる。夫や娘が彼女の手伝いをしたがり、彼女なしでやろうとすると、彼らの手から縫い針や箒(ほうき)を取りあげてしまう。「あんたにはボタンをつけるのは無理よ」と。

ドロシー・パーカー(*33)[1893-1967、アメリカの女性作家]は、家の調度の配置に個性的な特徴を与えなければならないと思い込んでいながら、どのようにしたらよいか解らない若い女がうろたえている様子を、同情のこもった皮肉な筆到で描いている。

アーネスト・ウェルトン夫人は整頓のいきとどいたリビングルームをさまよいながら、この部屋になにかしらちょっとした女性的な効果を添えようとしていた。彼女は効果を造り出す技術に特別に詳しい訳ではなかった。アイデアはすばらしいし、気をそそる。結婚前、彼女は自分が新しい住まいの中を静かに歩き回りながら、ここにはバラを活け、あそこでは花の活け方を直すというふうにして、家を「家庭」に変貌させるのを想像していた。

結婚後七年たった今でも、彼女はこの優雅な仕事に没頭している自分の姿を想像するのが好きであった。しかし、毎晩、バラ色のシェードのついた電灯がともるとすぐに一生懸命にやってみながらも、インテリアに他と全くちがった特徴をだすような、こまごました奇跡的な成果をおさめるには、一体どのようにしたら良いのだろうかと自問するのであった。

・・・・女性的な効果を添えるというのは妻の役割なのだ。そして、ウエルトン夫人は自分の責任を巧み交わすことのできるような女ではなかった。気の毒なくらい不安げな様子で、彼女はためらいながら暖炉に手を伸ばし、小さな日本製の壺を取り上げ、壺を手に立ち尽くしたまま、絶望的な眼差しで部屋を眺め回していた。

・・・・ついに、後ずさりし、自分の改革の成果を見つめた。この改革が部屋にこれほど小さな変化しかもたらさなかったなんてとても信じられなかった。

こうした独創性あるいは個的な完璧さの追求に女は多くの時間と労力を浪費する。まさにこのことが、女の仕事に、シャルドンヌの指摘しているように「とめどもなく続く、細かく無秩序な仕事」という性格を与えているのであり、また、実際に主婦の気遣いとなって現れている仕事を評価するのを難しくしているのである。

最近のアンケート調査(1947年、日刊紙『コンバ』にC・エヴェールの署名記事として掲載されたもの)によれば、既婚女性が家事(家の掃除、食料の調達、その他)に割く時間は平日には約三時間四十五分、休日には八時間、つまり週三十時間であり、これは生産労働者ないし事務系労働者の女性の週労働時間の四分の三に相当する。

この仕事が職業労働に付け加えられる場合には、大変な時間数となる。他にも何もする必要のない女の場合には、僅かな時間数である(それに、この場合、生産労働者、事務系労働者の女性が費やさなければならない通勤時間に相当するものもない)。子どもが多ければ、子どもの世話で女の疲労は著しく増す。

貧しい家庭の母親は一日中、不規則な仕事に精力を費やす。反対に、手伝いをしてもらえるブルジョア階級の女はほとんど暇である。そして、こうした閑暇の代償は倦怠である。退屈しているからこそ、彼女たちの多くは自分の義務を際限なく複雑化し、増加させていき、そのために、この義務が職業労働よりも過重なものになってしまう。

つづく 第五章のⅢ 抑鬱状態を経験してきた女友だちは次のように私に話した。