女の性の入門は、ある意味では男と同じようにごく幼少期から始まる。口唇期、肛門期、性器期から成年期まで、理論と実践の見習い期間が連続する形でつづく
 若い娘の性愛の体験は、それまでの性的活動の単なる延長ではない。それはたいてい、思いがけず不意にやって来る。そして、かならず新しい事件となって過去を断ち切る。そこを通過するとき、彼女に突き付けられる問題はどれも差し迫った深刻な様相で現れる。

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第三章 性の入門

本表紙 第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール著 中嶋公子・加藤康子監訳

性の入門、口唇期、肛門期、性器期、性愛、セクシャリティ、愛撫

女の性の入門は、ある意味では男と同じようにごく幼少期から始まる。口唇期、肛門期、性器期から成年期まで、理論と実践の見習い期間が連続する形でつづく。

しかし、若い娘の性愛の体験は、それまでの性的活動の単なる延長ではない。それはたいてい、思いがけず不意にやって来る。そして、かならず新しい事件となって過去を断ち切る。そこを通過するとき、彼女に突き付けられる問題はどれも差し迫った深刻な様相で現れる。

この危機はある場合にあっさり解決されてしまうが、自殺か発狂によって、自分で自分にケリをつけるほかないという悲劇的事態になる事もある。いずれにしても、女はそれに対する対処の仕方によって、自分の運命の大半を縛ることになる。どの精神科医も、女にとって性愛の開始はきわめて重要であるという点では一致している。それが女の残りの全人生に影響をもたらすからである。

ここにおける状況は、男と女とでは生理的、社会的、心理的観点から見て、非常に異なっている。男が子どもの性欲(セクシャリティ)から成熟期に移行するのは比較的単純である。性愛の快感は内在的(用語解説)な実在のなかに実現されるのではなく、超越的な存在に向けられ、客体化されるからだ。

勃起はこの欲求のあらわれである。性器、手、口、身体全体で男は自分を相手に差し出すが、この活動の最中でも、男は知覚する客体と操作する道具を前にしてほとんどいつも主体であり続ける。男の自立性を失うことなく他者の方に身を投げ出す。

男にとって女の肉体は獲物である。そして、男は、自分の官能性があらゆる客体に要求する資質をこの肉体のうえにとらえる。多分、彼はそれらの資質を自分のものにすることはできないだろう。だが、少なくともそれらを抱きしめることはできる。

愛撫、接吻はほぼ完全な失敗でしかない。しかし、この失敗自体が刺激であり喜びである。愛の行為はその自然な完成であるオルガスムスのなかにその統一性を見出すのだ。性交には明確な生理学的目的がある。男は射精によって自分を悩ませる分泌物を放出する。

性的興奮の後には、つねに快感を伴いながらの完璧な開放が得られる。だが、たしかに快感だけが目的だったわけではない。あとに失望が来ることもよくある。欲望が満たされたというより消えたのだ。いずれにせよ決定的な行為が全うされたのに男の体は無傷である。彼が種に果たした貢献は、自分自身の悦びと一体となっている。

女の性愛ははるかに複雑で、女の状況の複雑さを反映している。すでに見たように(*1)訳注、第三章、種の利益は雌の個別の目的とかけ離れていて、雌は種としての力を個体生活に組み込まずに、種の犠牲となるのである。この矛盾は人間の女において頂点に達する。それはとくに二の器官、クリトリスと膣の対立に現れる。小児期の女の性愛の中心は前者だ。膣で感じる女の子もいると主張する精神科医がいるが、この意見は疑わしい。いずれにしろそれには二次的な重要性しかないだろう。

クリトリス系統は成年期になっても変化せず

女は一生涯この性愛の自律性を保つ。クリトリス(*2。第三章)の痙攣は男のオルガスムと同じように、ほとんど機械的に得られる一種の性行為後の勃起消退である。しかし、これは正常な性交とは間接的にしか関係せず、生殖になんの役割も果たさない。

 女は膣によって性的関係を結び、妊娠する。膣は男の介入があって初めて性愛の中心になるが、男の介入はいつも一種のレイプである。かつて、女は、本当には形式だけはともかく、略奪によって子どもの世界から引き離され、妻の生活に投げ込まれた。女を少女から妻に変えるのは暴力だ。

 だから、少女の処女を「奪う」といい、花を「手折る」[破瓜(はか)]というのである。破瓜は、連載的に発展していって心地よく到達したものではなく、過去との断絶であり、新しい周期の始まりだ。そうなって、快感は膣の内側の表面の収縮により得られる。この収縮が、明確で決定的なオルガスムスに変わるのだろうか。

 この点についてはまだ議論されている。解剖学的なデータは非常にあいまいだ。たとえば、キンゼー報告によれば「解剖学と臨床医学は、膣内の大部分に神経が分布していないことを十分に証明している」「膣内の多くの外科手術は麻酔薬の助けを借りずにできる。膣内部の神経は、クリトリス底部に近い内壁の部位に局限されていることが証明された」。だが、

 この神経の分部されている部位を刺激するほかに、「とく膣の筋肉が収縮するとき、雌[女]は膣内に客体が侵入してくるに気づく。しかし、こうして得られる満足は、おそらく神経が性的に刺激されたというより筋緊張が関係している」というのだ。とはいえ、

 膣の快感が存在することは間違いない。それに膣での自慰行為自体――成年の女においては――キンゼーが言うよりはるかに多いように思われる(*3)。だが、確かなのは膣の反応は非常に複雑な反応で、精神―生理学的反応と言えることだ。なぜなら、それは神経系統全体に関係するだけでなく、主体が生きる状況全体にも関わっているからである。

 膣が反応するためには、その個人が心から同意することが要求されるからである。最初の性交で始まる新しい性愛のサイクルが確立するには、まだ輪郭はできていないがクリトリス系統を包み込む形の形成、神経系の一種の「モンタージュ[組み立て]」が必要である。

 この形が形成されるには長い時間がかかるし、まったく造り出されないことも時にはある。女が、一方は少女時代の自立を保つサイクル、他方は自分は男の子どもに捧げるサイクル、この二つのサイクルの間で選択の余地があるというのは驚くべきことだ。通常の性行為はたしかに女を男と種に従属させる。

 攻撃的な役割を持つのは男――ほとんどすべての動物と同じように――で、女は男の交接を受け入れる。ふつう、女はいつでも男に捕まえられうるが、男は勃起している状態でなければ女を捕まえられない。処女膜以上にしっかりした女を封じてしまう膣痙攣のような徹底的な抵抗を除けば、女の拒絶は乗り越えられる。膣痙攣の場合でも、男は筋力で肉体をどうにでも従わせることが出来、肉体から満足を得る方法が残されている。

 女は客体であるので、動かなくてもそれで生来の役割が根本的に変わる事はない。ベットを共にする女が性交を望んでいるのか、ただ従っているだけなのか、多くの男は知る気も起こさないほどだ。死んだ女と寝ることさえできる。性交は男の同意なしにはありえないし、その自然な結末は男の満足だ。

 女はまったく快感を感じなくても妊娠する。そのうえ、女にとって妊娠は性の過程の最後を示すどころではない。逆に、この瞬間に種が要求する女の仕事が始まる。それは妊娠、出産、授乳というかたちで、ゆっくりと多くの苦労をともないながら、成し遂げられるのだ。

 こう見ると、男と女の「解剖学的運命」は根本的に異なっている。両者の精神的社会的状況も同じように異なっている。家父長制の文明は女を貞操をささげた。男が性欲を満足させる権利は多かれ少なかれ公然と認められたのに対して、女は結婚に閉じ込められた。

 女にとって肉体的行為は、法典、秘蹟によって神聖化されていないものであれは、過失、堕落(だらく)、敗北、弱さだ。彼女は貞節と名誉を守る義務がある。もし彼女が「身を任せ」たり「落ち」たりすれば軽蔑を招く。それにひきかえ、彼女をものにした男に浴びせられる非難のなかにさえ賞賛が含まれるのだ。

 原始時代の文明から今日に至るまで、人々はいつも、女にとってはベッドが「勤め」であり、男は贈り物をするか生活を保証することでそれに謝意を示すことを、認めてきた。しかし、勤めること、それは主人をもつことである。この関係にはまったく相互性がない。結婚の構造も、売春婦たちの存在もその証拠である。

女は身を任せる。それに対して報酬を与えることで、男は女を手に入れるのだ。男が自分より劣った女を支配し、自分のものにするのを禁じるものは何もない。召使いとの情事はいつも黙認されてきた。だが、運転手、庭師に身を任せたブルジョア女性の社会的地位は下がった。

アメリカ南部の人々はあれほど人種偏見が強いのに、南北戦争前もいまも、黒人女性と寝るのは慣習上いつも許されてきたし、領主然とした傲慢さでこの権力を行使している。もし、白人女性が奴隷制の時代に黒人と関係を持ったら殺されていただろうし、いまならリンチされるだろう。

女と寝たと言うために、男は女を「手に入れた」とか「ものにした」と言うために、「セックスした」と下品に言う事もある。ギリシア人は、男を知らない女を「パルテノス・アデモス」屈服しない処女と呼んでいた。ローマ人は、メッサリナ[25頁―48、ローマ皇帝クラウディウスの妃。愛人と陰謀を企て処刑される]がどの愛人からも快感を得られなかったから、彼女を「征服できない」形容した。ということは、愛する男にとって愛の行為は征服であり勝利だ。

勃起は、ひとごとだと自発的行為のつまらない茶番のようにふつうに見えるとしても、自分のこととなると、誰でも少し自惚れを込めてみる。男の性愛用語は軍隊用語に発想を得ている。愛する男は兵士のように血気にはやり、性器は弓のように引き締まり、射精し「発射する」とき、それは機関銃であり大砲だ。男は攻撃、襲撃、勝利という言葉を使う。男の性的興奮のなかに、なにかしらヒロイズム志向がある。

ペンダ[1867-1956、フランスの思想家、Ⅰ巻11頁参照]は、「生殖行為は、ある存在が別の存在によって占領されることであり、一方には、征服者という考え、他方には、征服されたモノという考えを起こさせる。だから、いくら文明が進んでも恋愛関係を論じる時には、戦争の概念に愛の概念をピッタリ重ねて、征服、攻撃、包囲とか防衛、敗北、降伏という言葉を使う。この行為は、ある存在を汚すことである。汚す側には一種の誇りを、そして、汚される側には同意の上であってもいくらか屈辱の念を起こさせる」と書いていた(*4)。

この最後の文は新たな神話を導入する。つまり、男は女を汚すというのだ。実は、精液は排泄物ではない。「夜の汚れ[夢精]というのは、これでは生来の目的から外れるからだ。だが、コーヒーが薄い色のドレスにしみをつけるからといって、これはゴミだとか、それは胃を汚すと告発する人はいない、逆に、「体液で汚れている」のは女で、彼女が男を汚すのだから女は汚れているのだと主張する男もいる。

いずれにしろ、汚す者であるということは、どうにでも解釈されるあいまいな優越性にしかならない。男の有利な状況は、実際は、その生物学上の攻撃的な役割が、長として、主人としての社会上の役割として一体化していることから来ている。生理学的なさまざまな差異は、社会的役割をとおして全面的な意味を持つのである。

この世界は、男が支配者だから、男は自分の欲望の激しさを支配のしるしとして主張する。精力絶倫の男のことを、彼は強いとか、逞しいと言う。これは彼を活力、超越性として指し示す形容言辞だ。逆に、女は単に客体だから、女のことは、彼女は熱いとか冷たいと言う。つまり、女は受動的な性質しか発揮できないのだ。

こうしてみると、女が性欲に目覚める風土は、青年が自分の周りで出会う風土とはまったく異なっている。そのうえ、女がはじめて男に立ち向かうとき、彼女の性愛の姿勢は非常に複雑だ。処女は欲望を感じないとか、官能を目覚めさせるのは男だ、とよく言われるが、これは正しくない。この伝説もまた、男の支配志向を暴露している。

男は相手の女に自主性がないこと、男に対する女の欲望さえも自律的でないことを望むのだ。
実際には、男の場合も、女に触れて欲望を掻き立てられることはよくあるし、逆に、大部分の若い娘は、まったく手を触れたことがなくても、愛撫を熱烈に求める。イサドラ・ダンカン[1898-1927、モダン・ダンスを創設したアメリカの女性舞踊家]き『わが生涯』のなかで書いている。

前日には少年のようだった腰が丸みを帯び、かぎりない期待に胸を膨らませている自分を、体内を突き上げてくる呼び掛けを体中で感じました。その意味はあまりにも明らかでした。夜は眠れず、熱っぽく苦しく寝返りをうち、興奮したものでした。

シュテーケルに自分の人生の長い告白をした若い女は次のように語る。

 私は情熱的に男とつきあいはじめました。私には「神経のくすぐり」(原文のまま)が必要でした。
 情熱的な踊り手である私は目を閉じて、この快感に完全に身を委ねながら、踊ったものでした・・・官能が羞恥心に打ち勝ったので、私は踊りながら一種の露出症的趣味を示しました。
 最初の一年間、私は情熱的に踊りました。私は眠るのが好きでよく眠りましたし、毎日、たいてい一時間マスターベーションをしたものでした・・・汗だくになって、疲れて続けられなくなって寝入るまで、私はよくマスターベーションをしたものでした・・・私はうずうずしていて、私を落ち着かせてくれる人なら誰でも受け入れていたでしょう。私は人間ではなく男を求めていたのです(*5)

 処女の疼きはどちらかというと明確な欲求となって現れない。処女は自分が何を望んでいるのかは
っきり分からないのだ。彼女の中には子どもの時代の攻撃的な性愛が生き残っている。彼女の最初
の衝動はつかむことだったし、彼女はまだ抱きしめたい、所有したいという欲望をもっている。自分が渇
望する獲物、彼女はそれが味覚、嗅覚、触覚をとおして価値として認められる性質を備えていること
を願う。なぜなら、性欲は孤立した領域でなく、官能の夢と喜びの延長なのだから。男の子も女の子
も、青年も娘も、滑らかなもの、クリーム状のもの、サテンのようなつやのあるもの、ふわふわのもの弾
力性のあるものが好きだ。

 崩れたり分解したりしないで、力が加わるとたわみ、視線にさらされた指が触れるとするりとぬけてし
まうものが好きだ。女も男と同じように、あれほどよく乳房にたとえられる砂丘の温もりのある柔らかさ、
絹の軽い手触り、羽毛布団の産毛のような柔らかさ、花や果物のビロードのような柔らかさに魅了さ
れる。

 そして、特に若い娘はパステル調の淡い色、チュールやモスリンの軽さを大切にする。ごわごわの布、砂利、小石、苦味、きつい匂いは好まない。まず愛撫し大切にするのは、兄や弟と同じように母親の肉体だ。そのナルシズムのなかで、漠然とかはっきりとかはともかくとして、同性愛的経験のなかで、彼女は主体のように存在し、女の肉体を所有しようとしていたのだ。

 男と向き合うとき、彼女は、手のひらや唇で、積極的に獲物を愛撫したいという欲望をもつ。だが固い筋肉、ざらざらしたたいていは毛むくじゃらの肌、不快な匂い、荒削りの顔立ちをした男には欲望をそそられず、嫌悪感を覚える。これを表現しようしてルネ・ヴィヴィアンは次のように書いた。

 私は女、私は美しいものに権利がない
 ・・・・私は男の醜さを押しつけられた
 あなたの髪の毛、あなたの瞳は私に禁じられた
 というのも、あなたの髪の毛は長く、かぐわしいから

 最も強い女にあってつかむ性癖、所有する性癖が残ると、それはルネ・ヴィヴィアンのように同性愛に向かうだろう。または、女のように扱える男にだけ愛着を感じるだろう。たとえば、ラシルド[1860-1953、フランスの女性作家]の『ヴィーナス氏』の女主人公は、若い愛人を買って情熱的に愛撫して楽しむが、破瓜は許さない。13,14歳の少年あるいは子どもを愛撫するのが好きで、成人した男には体を許さない女もいる。

 しかし、大部分の女にあっては、子ども時代から受動的な性欲もまた発達してきたのが認められる。女は抱かれ、愛撫されるのを好み、そして、とくに思春期以降は男の腕の中で肉体になりたいと思う。普通、主体の役割は男のものだ。女はそれを知っている。「男は美しくなくてもよい」と繰り返し聞かされた。

 彼女は彼のなかに客体の不活発な性質ではなく、男らしくて逞しさ、強さを求めなければならない。こうして、女は自分の中で分裂する。逞しい抱擁によって自分がわななくモノに変えられてしまいたいと思う。だが同時に、荒々しさ、強さを、不快を感じながら耐えなければならず、それは彼女を傷つける。

 彼女の官能性は肌と手の両方に局部化される

そして、一方の要求ともう一方の要求がある部分で対立する。彼女も出来る限り妥協を選ぶ、男らしいが十分に若くて魅力的で欲望をそそる客体である男に身を任せる。彼女の渇望するあらゆる魅力は美少年に見出せるだろう。

「ソロモンの雅歌」の妻の歓喜と夫の歓喜には均衡がある。妻は夫の中に、夫が妻の中に求めるもの、地上の動植物、宝石、小川、星を認めるのだ。しかし、彼女にこれらの宝を手に取る方法がない。身体構造のために宦官(かんがん)のように不器用で無力でいるほかない。所有したいという欲望はあってもそれを具現化する器官がないから挫折する。

 しかし男は受動的な役割を拒否する。そのうえ、若い娘が成りゆきから男の獲物になって、男の愛撫には興奮を感じても、自分が見つめ愛撫する側にまわると少しも楽しくないというのはよくあることだ。欲望に混じる嫌悪には、男の攻撃性に対する恐怖だけでなく、奥深い欲求不満の感情があることは十分に言われていない。

 男なら、触れたり見たりする喜びは、いわゆる性の快感と溶け合うのに、女は性的快楽を自発的な官能の躍動に逆らって獲得しなければならないのである。

受動的な性愛の諸要素そのもの両義的である。接触ほど曖昧なものはない。手で何をいじろうと平気なのに、草や動物が触れるのを嫌がる男は多い。絹やビロードに触れると、女の肉体は、ときに心地よく震え、ときにぞっとする。私の青春時代のある友だちは、桃を見ただけで鳥肌が立ったのが思い出される。

疼きから心地よいくすぐりに、不快感から快感へと、たやすく変わる。体を抱きしめる両腕は、保護し守ってくれるが、また、閉じ込め息を詰まらせもする。処女がおかれる状況は矛盾しているので、この両義的性はずっと続く。彼女の変身を果たす器官が封印されているからだ。肉体の不確かで燃えるような願いは、性交がなし遂げられるまさにその場所を除いて、身体全体に広がる。処女が能動的な性愛を満足させる器官はない。しかも、彼女は自分を受動的に捧げている器官を実際に試したことがない。

とはいえ、この受動性はまったく不活発なのではない。女がときめくためには性感帯の神経支配、いくつかの勃起組織の膨張、分泌、体温上昇、脈と呼吸の昂進といった能動的な現象が器官内に起こらなければならない。欲望と性的快楽には、男と同じように女にも生命の消耗が要求される。

女の欲求は影響を受けやすいが、ある意味では能動的で、それは筋緊張、神経緊張が高まることに現れる。活力のない痩せた女はつねに不感症だ。だが、これは体質的不感症なのかどうかを調べるという問題である。

なるほど、女の性愛能力に関しては心理的要因が主導的な役割を果たす。しかし、生理的な弱点や生命力の乏しさが、とりわけ性的無関心となって現れるのは確かである。逆に、もし生命力が自発的活動、たとえばスポーツに消費されれば、それが性的欲求になることはない。

スカンジナヴィアの女は健康で頑丈だが不感症だ

「色好みの」女は、イタリアの女やスペインの女のように物優さと「火」を両立させる女を両立させる女、つまり、熱烈な生命力をすっかり肉体に流し込むような女だ。自分を客体にすること、受け身にすることは、受け身の客体であることとはまったく別のことだ。

恋する女は眠る女で死んだ女でもない。恋する女には、たえず落ち込んではたえず甦る躍動がある。躍動が落ち込むと恍惚が生まれ、欲望はそこに生き続ける。だが、情熱的であることと身を任せることの間の均衡はすぐに崩れる。

男の欲望は、緊張であり、神経と筋肉が張り詰めている肉体に侵入することができる。姿勢や動作は器官が自発的に協力することを要求し、それを阻止するどころかしばしば助ける。反対に、すべての意志的努力は、女の肉体が男と「結ばれる」のを邪魔する。だから、女は本能的(*6)に動きと緊張を要する性交の体位を拒むのである。あまりにも度々、あまりに急に位置を変えたり、わざとらしい活動――身振りあるいは言葉――が要求されたりすると恍惚が壊れる。猛り狂う勢いの激しさから痙攣、引きつり、緊張の起こることがある。女は引っかき、あるいは噛みつき、その体はいつにない力を出して突っ張る。

だが、この現象はある絶頂に達したとき起こるだけで、絶頂に達するのは、はじめにどんな司令も――精神的にも生理的にも――なく、活発な全精力が性に集中できるときだけである。つまり、若い娘にとってされるままになっていればそれでよいのではない。彼女が従順で、生気がなく、心がそこになければ、彼女は相手も自分自身にも満足させられない。彼女の清らかな肉体も、タブー、禁止、偏見、要求を詰め込まれた意識も乗り気になれない情事において、娘には積極的な関わりが求められるのである。
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女の性愛開始は容易ではないのがわかる

これまで書いてきたような条件のもとで、女の性愛開始は容易ではないのがわかる。すでにみたように、子ども時代や青春時代に起きた出来事が、女のなかに根深い抵抗を生むこともかなり多い。こうした抵抗をどうしても克服できないこともある。たいていの場合、若い娘は無視しようとするが、その結果、彼女のなかには激しい軋轢(あつれき)が生まれる。厳しい教育、罪の恐怖、母親に対する罪悪感が強い障害となる。

 多くの階層において、処女にはつねに高い値がつけられるので、法律婚の外で処女を失うのは本当の災難のように見える。誘惑にのって、不意を突かれて、身を任せる娘は、辱しめを受けているのだと考える。「初夜」とは、ふつう処女を彼女が本当に選んだのではない男に引き渡し、性の入門全体を数時間――あるいは瞬時に要約しようというもので、これまた生易しい体験ではない。

 一般的には、どんな「通過」も、その決定的で不可逆的な性質のために不安を掻き立てる。つまり、女になること、それはお手上げの状態で過去と断絶することである。だが、この通過は他のどんな通過よりも劇的だ。昨日と明日のあいだにただ溝を作るのではない。若い娘の生活の大部分が展開していた空想の世界から娘を引き渡し、彼女を現実の世界に投げ込むのである。

ミシェル・レリス[1901-90、フランスの作家、民族学者]は、闘牛との類比から初夜の床を「真実の闘牛場」と呼ぶ。

処女にとってこの表現は十全で、最も恐ろしい意味をもつ。口説かれ、交際し、婚約している期間中、どれほど未発達だったとしても、彼女は相変わらず礼儀正しさと夢想のなれ親しんだ世界に暮らしていた。求婚者はロマンチックな言葉か少なくとも丁寧な言葉を話した。まだ誤魔化しがきいた。それが突然、彼女は本当の目で見られ、本当の手でつかまれる。こうした視線、こうした抱擁の冷徹な現実に彼女は怖気づく。

解剖学的運命と慣習の両方によって、導き手の役割は男に与えられる。たぶん、若い童貞の男にはやはり最初の愛人が導き手となる。しかし、彼には勃起がはっきり表明する性愛の自律性がある。しかし、彼の愛人は、彼が既に渇望していた客体、すなわち、女の肉体を現実に彼に委ねるだけなのだ。娘は自分自身の体を自分に知らしめるために男を必要とする。

 彼女の依存ははるかに根源的である。男は普通、相手を金で買おうと、まがりなりにも言い寄ってそそのかそうと、初体験のときから活動し決断する。逆に大部分の場合、娘は言い寄られ、そそのかされる。たとえ彼女の方がまず男を挑発したにしても、彼がその関係を引き受け直す。彼は年上で経験を積んでいることが多い。

 それに、彼女にとって新しいこの情事の責任を取るのは彼だというのは一般的に認められている。彼の欲望の方が攻撃的で絶対的である。恋人だろうと夫だろう、彼女をベッドまで導くのは男で、そこではもう身を任せ、従うほかない。彼女は頭のなかでこの権威を認めていたとしても、実際にそれに耐えなくてはならないときパニックに陥る。

 まず自分を呑み込みそうなあの視線が恐ろしい。彼女の羞恥心はある部分は、教育の結果である。しかし、その根は深い。男も女もみな自分の肉体に恥ずかしさを持っている。動ない単なる存在、正当化されない内在のなかで、肉体は、事実性の不条理な偶然のように他人の視線にさらさらて存在する。だが、それでも肉体は自分自身だ。

 人は肉体を他者のための存在にしまいとする。それを否定しようとする。勃起しなければ女に裸を見られるのはたまらない、という男がいる。事実、勃起によって肉体は活動、権力になり、性器はもう無力な客体ではなく、手や顔のように主体の尊大な現れとなる。

 これは若い男が羞恥心のせいで機能停止になってしまうのが女に比べてはるかに少ない理由の一つである。攻撃的な役割のために、男はそれだけ視線にさらされなくてすむ。また仮にそうなっても、愛人から求められるのは不活発な性質ではないから、男は評価を下されるのはほとんど恐れない。

 彼らのコンプレックスはむしろ愛の力強さ、快感を上手に与えられるかどうかに向けられる。少なくとも男は身を守ること、ゲームに勝とうとすることはできるのだ。女は肉体を意志にかえることができない。つまり肉体を視線から守り切れなくなると、無防備のままそれを委ねる。

 愛撫してもらいたくても、見られる触られるのだと思うと抵抗を感じる、乳房やお尻はとくに肉付きがよくむっちりしているのでなおさらだ。服を着ていても背中から見られるのは耐えられないという大人の女は多い。

 恋をしたうぶな女が自分の体を見せる気になるまでに、どんな抵抗感を克服しなければならないかは容易に想像される。たぶん、フリュネ[前四世紀、アテナイの高級娼婦]のような女は視線を恐れず、それどころか得意気に脱ぐ。彼女の美しさは彼女の着物なのだ。

 だが、たとえフリュネのようであっても、娘はそうしたことにまったく確信がもてない。男の賛美が若い虚栄心を満たしてくれないかぎり、自分の体に尊大な誇りをもつことはできない。そして、彼女がたじろぐのはまさにそのことである。恋人は視線よりさらに恐ろしい。彼は裁判官だ。ありのままの彼女の姿を彼女自身にみせる。自分の姿にうっとりしていても、娘はみな男の判定が下るときには自信がなくなる。

 だから、彼女は暗がりを求め、シーツで身を隠す。鏡の中の自分の姿に見とれていたとき、娘はまだ自分を夢見ていた。男の目を通して自分で空想した。いま、その目はそこにある。誤魔化せない。逆らえない。不可解な自由が判断を下し、その判断は絶対的なのだ。

 性愛体験の現実の試練のなかで子ども時代、青春時代の強迫観念は、ついに発散されるかまたは永久に擬固するからだ。多くの娘たちが太すぎる足、貧弱すぎたり大きすぎる胸、細すぎる腰、いぼに悩んでいる。あるいは、人に言えないなんらかの奇形を心配している。シュテーケルは次のように言う。

 どんな娘も、自分で認めるのもはばかられるような、あらゆる種類の奇妙な不安を抱えている。どれほど多くの娘が肉体的に異常だという強迫観念に悩み、正常な体という確信を持てずに密かに苦しんでいるかを信じてもらえないだろう。

 たとえば、ある娘は「下の口」あるべき場所にないと思っていた。性の関係はおへそを通して行われると思っていたのだ。おへそが塞がっていて指が入らないのを悲しく思っていた。また別の娘は自分は両性具有だと思っていた。また別の娘は自分が不具で、けっして肉体関係を持てないと思い込んでいた(*7)

不感症の女

 このような強迫観念に無縁でも、彼女たちは、自分に対しても誰に対しても存在しなかった肉体のある部分、とにかく絶対に存在しなかった自分の肉体のある部分が、突然明るみに出て来るような気がして脅える。若い娘が自分の物として受け入れなければならないこの、みしらぬ姿かたちは嫌悪を招くか、無関心を招くか、皮肉を招くか、男の判断を甘受するしかない。賭はなされたのだ。だから、男の態度は非常に深い影響をもつだろう。

 男の熱意、優しさは女に自分自身に対する自信を与え、その自信はあらゆる反証に耐え抜くだろう。彼女は八十歳になるまで、ある晩、男の欲望で開花した西ドイツ諸島のあの花、あの鳥のつもりでいるのだ。逆にもし、恋人または夫が不器用で彼女にコンプレックスを抱かせてしまうと、しつこいノイローゼに結びつくことがよくある。そして恨みを感じ、それは頑固な不感症となって現れる。これに関してシュテーケルは驚くような例を報告している。

 三十六歳のある婦人は十四年来ひどい腰痛に悩み、何週間も床に就かなければならないほどだ・・・・彼女は初夜にはじめてこの激痛を感じた。破瓜(処女喪失)のとき大きな痛みを伴ったが、夫は「だましたな、処女じゃない・・・・」と叫んだ。痛みはこのつらい場面の固着だ。

 この病気は夫への罰であり、彼はありとあらゆる治療に大金をつぎ込まなければならなかった・・・この女性は初夜に感じなかったし、結婚生活のあいだもずっと感じないままだった・・・・彼女にとって初夜はその後の全生涯を決定する恐ろしい心的外傷後ストレス障害だったのだ。

 ある若い女性がいくつかの神経障害とくに絶対不感症のために私の診察を受けに来ている・・・・初夜に夫は彼女をみて「あっ、なんて君の足は短いんだ」と言ったらしい。それから彼は性交に挑戦したのだが、彼女は痛いだけで何も感じなかった・・・彼女は不感症の原因が初夜の侮辱であることをよく知っていた。

 別の不感症の女性は、初夜、夫に深く傷つけられた、と言う。彼女が服を脱ぐのを見て「やせっぽちだなあ」と言って、それから愛撫したらしい。彼女にとってこの瞬間は忘れがたく、恐ろしかったようだ。なんという乱暴。

 Z・W夫人もまた完全な不感症だ。初夜の大きな心的外傷後ストレス障害を負った、最初の性交渉に夫が「大きな穴だな、だましたな」と言った事らしい。

 視線は危険だが、手はまた別の脅威だ。女は普通暴力の世界には近寄れない。若い男が子ども時代に、思春期のけんかをとおして乗り越えてきた試練を経験したことがない。つまり、他者の影響力が及ぶ肉体というモノでいる試練を。それなのにいま彼女は捕まえられ、男の方が絶対に勝つ取っ組み合いに引きずり込まれる。

 彼女はもう自由に夢見たり、後ずさりしたり、術策を弄することが出来ない。男の手に委ねられ、彼の意のままになる。一度もレスリングをしたこともないのに、レスリングにも似た抱擁に恐れおののく。彼女は婚約者の、友人の、同僚の、行儀がよくて礼儀正しい男の愛撫に身を任せた。

 それなのにその男は見覚えのない、利己主義者の強情な様子をしている。もうこの見知らぬ男に対して打つ手はない。娘の初体験が本当のレイプとなり、男がとんでもない乱暴な態度を示すことも稀でない。とくに、田舎は風習が粗野で、半ば同意、半ば抵抗のうちに、農家の娘がどこか溝の窪地で恥ずかしさと恐ろしさのなかで処女を失う事はよくあることだ。

 いずれにしろ、あらゆる階層あらゆる階級で、利己的で一刻も早く快感を得たい恋人が、または妻の抵抗を侮辱のように思って傷つき、破瓜(はか)が上手くいかなければ猛り狂いかねない、結婚の権利を笠に着た夫が、処女を手荒に扱うのは珍しくない。

 それに、たとえ男が謙虚で礼儀正しくても、最初の挿入はいつもレイプである。若い娘は唇による乳房の愛撫を願っているから、またたぶん腿のあたりにすでに知っている、ないしは予感している喜びを渇望しているから、男の性器はとつぜん彼女を引き裂く、招かれざるところに入り込んでいたのに、性器の秘密の場所に予期しなかった痛みを感じ、夫または恋人の腕のなかで気を失う処女の痛ましい驚きが、しばしば書かれてきた。夢は消え、ときめきは去り、愛は外科手術のようになるのである。

 リープマン博士が集めた告白(*8)「三章」の中から、典型的な話を次に取り上げよう。下層階級に属する、性的に非常に無知な娘の話だ。

「私は接吻を交わすだけで、子どもが出来るかも知れないとよく思いました。満18歳のとき、私はある男性と知り合いになり、俗に言う、ほんとうの熱々でした」
 彼女は彼といっしょによく外出したが、話をしているうちに彼が、男は性関係なしに生きることはできないのだし、結婚するだけの資格を持たない限り男は誰かに他の娘と関係を持たざるを得ないのだから、彼女が自分を愛しているなら身を任せるべきだ。と言い出した。彼女は反対した。

 ある日、彼は一夜を共に過ごす計画をした。彼女は彼に手紙を書き、繰り返し「これは自分にとってあまりにも失うものが大きすぎる」と訴えた。約束の日の朝、彼女はその手紙を彼に渡したが、彼は読まずポケットにしまい、ホテルに連れて行った。彼は彼女を精神的に支配していたし、彼女は彼を愛していた。彼女は彼について行ってしまった。

 「私は催眠術にかかったようでした。道中、勘弁してちょうだいと頼みました・・・・どうやってホテルまで行ったか分かりません。ただ一つ残っている記憶は、体中が激しく震えていたことです。相手は私を落ち着かせようとしました。でも私は、長いあいだ抵抗し、そのあとやっと平静になりました。もうそのとき私の自分の意志をどうすることができず、心ならずもされるがままでした。その後、外に出たとき、すべてが単なる夢で、私はちょうど夢から覚めたところのような気がしました」

 彼女はこの経験を繰り返すのを拒み、その後九年間男を知らなかった。九年後に彼女は一人の男と出会い、結婚を申し込まれ、同意した。

破瓜(処女喪失)は一種のレイプだ

 この場合、破瓜は一種のレイプだ。だが同意の上でも、それが辛いこともある。若いイサドラ・ダンカンがどんなにのぼせて悩んだかはよく知られている。彼女はすばらしい美しい俳優に出会い、一目惚れし、彼の方も彼女に熱心に言い寄った(*9)

 私もときめきを感じ、頭はくらくらし、もっと強く彼を抱きしめたという抑えがたい欲望が体のなかを上がってきました。ついある晩、彼は自制を失って怒り狂ったようになり、私は抱かれてソファーに連れて行かれました。恐怖にかられ、エクスタシーにうっとりし、それから、痛さの叫び声をあげ、愛の手ほどきを受けたのです。

告白すれば、第一印象はぞっとする恐怖、何本もの歯を一度に抜かれたような酷い痛みでしたが、最初は手足をもがれ、拷問を受けているような気がするだけでしたが、彼自身が感じているらしい苦痛に哀れを誘われて、逃げませんでした。・・・・・(翌日)、そのときの私のうめきと叫びのなかで再開されました。体が壊れてしまうような感じでした。

 彼女は間もなく、まずこの愛人を相手に、その後はほかの愛人たちを相手に楽園を経営するようになり、それを情熱的に書いている。

 しかしながら、少し前の処女の空想と同じことで、現実の体験で最大の役割を演ずるのは痛みではない。挿入という行為の方が最も重要なのだ。男は性交に外部器官しか巻きこまない。女は自分自身の内部まで侵される。たぶん女の秘密の暗闇に、不安を感じないで身を投じる青年は多くない。

 彼らは洞窟、墳墓の入り口に立つ子どもの怯え、万力の歯、鎌、狼の罠を前にした子どもの恐怖をふたたび感じる。彼らは大きくなったペニスが粘膜の袋にはまってしまうかもしれないと思う。女はいったん挿入されてしまえばこうした危険は感じない。だがその代わり、肉体が疎外されるのを感じるのだ。

「立ち入り禁止」と宣言して、地主は土地の、主婦は家の権利を主張する。とくに、女は超越性を奪われているから私生活を大事に守る。寝室、たんす、きれいな小箱は侵しがたいものだ。コレットは、ある日、老娼婦が「部屋に男を入れたことなんてないわ。男とやるのに、パリは十分広いもの」と言った。と書いている。

 彼女は他人の立ち入り禁止した狭い土地を、自分の体の代わりに、とにかく所有していた。逆に、若い娘は自分の所有物として自分の体しかもたない。これが彼女の最も貴重な宝物だ、その宝物に入る男はそれを彼女から奪う。この奪うという俗語は、現実の体験に裏付けられる。

 彼女は予感していた屈辱をつぶさに体験する。支配され、服従させられ、征服されるのだ。ほとんどすべての雌と同じように、彼女は性交のあいだ男の下にいる(*10)。アドラーは、その結果、劣等感が生まれることを非常に強調した。子どもは時代から、上方の観念、下方の観念は最も重要である。

 木登りは立派な行為だ。天は大地の上にあり、地獄は下にある。下がる、下りる、これは下落することであり、上がるは高揚することである。レスリングでは相手の両肩をマットにつけた方が勝ちとなる。さて、女はベッドの上に敗北の姿勢で横たわる。

 男が手綱と轡(くつわ)で御する動物のように馬乗りになったりすれば、さらに酷い。いずれにしろ、彼女は自分が受け身であるのを感じる。愛撫され、挿入されて女は性交を耐えるのに、男は積極的に自分の体を動かす。たぶん、男性器は意志が命令する横紋筋ではない。鋤の刃でもなければ剣でもなく、ただの肉だ。

 だがこれは、男が女に伝える自発的な運動だ。男は行き、帰り、止まり、繰り返すのに、女は彼をおとなしく受け入れる。愛の体位を選び、性交の時間と頻度を決めるのは――女が未経験ならとくに――男なのだ。彼女は自分が楽器のような気がする。自由はすべて相手にあるのだ。

 これが詩的に表現されると、女はヴァイオリンに、男はそれを奏でる弓になぞらえられる、と言われる。バルザック(*11)[1799-1850、フランスの作家]は「愛において女は、精神面はさておいて、弾ける男にだけ秘密を漏らす竪琴のようなものだ」と言う。男は女を相手に快感を得る。男は女にそれを与える。こうした言葉自体、相互性を含んでいない。男の性的興奮に輝かしい性格を与え、女のときめきは恥ずべき降参だとする集団表象が、女には染み込んでいる。彼女の性的体験はこの不均衡を確認する。

思春期の男と女では、自分の肉体についての感じ方が大きく違うことを忘れてはならない

男はそれを平静に受け入れ、その欲望を誇らしげに主張する。女にとって、それは、ナショナリズムあるにかかわらず、馴染みのない不安な何者なのだ。男の性器は指のように清潔で単純だ。

 それを無邪気に見せびらかされるもので、男の子は仲間に、自慢げに挑発するように見せることがよくある。女の性器は隠され、苛まれ、粘液を出し、濡れていて、女自身にとって不可解だ。毎月出血し、ときに体液で汚され、秘められた危険な生命を持っている。

 女がその欲望を自分のものと認めないのは、女はたいてい自分をそこに認めないからだ。女の欲望はおずおず表明される。男は「勃起する」のに、女は「濡れる」。まさにこの言葉に、おしっこをしたかったのにみすみすうっかりそのままにしていたためにベッドを濡らしてしまった、幼い頃の思い出が重なる。

 男は無意識の夢精に対して同じ嫌悪感を味わう。尿や精液など、液体を発射するのが屈辱なのではない。これは能動的な作用だ。だが、液体が受動的に濡れると屈辱だ。なぜなら、そのとき身体はもう筋肉、括約筋、神経が脳の命令を受け、自覚ある主体を表現する有機体ではなくて、尿瓶、自動力のない物質でできた、機械的な気まぐれに翻弄される収水タンクなのだから。

 もし肉体が――古壁や死体がじめじめするように――じめじめしていると、肉体が液体を放出しているようには見えず、液化しているように見える。これは崩壊の過程であり、嫌悪を催させる。女の性的興奮、これは貝の弱弱しい痙攣だ。男は血気にはやるのに対して、女は忍耐するしかない。ずっと受け身のまま待ちながら、それが情熱になることもある。

 男はワシやトンビのように獲物に襲いかかる。女は昆虫や子どもが足を取られてしまう食虫植物や沼地にように、じっと狙う。吸引、吸盤、腐植土であり、そして、松脂、鳥もちであり、動かずに人の気を引く、べとべとした呼びかけだ。

 だから、彼女のなかには、自分を服従させようとする男に対する反抗ばかりでなく、内面の葛藤があるのだ。教育と社会を起源とするタブーや禁止に、性経験そのものから来る嫌悪、拒絶が重なる。両者が相まって強化される結果、かなりしばしば、女は最初の性交後、自分の性的運命に対して以前よりいっそう反発心をもつようになる。

 最後に、男を冷淡にさせ、性行為を重大な危険に変えてしまうもう一つの要因がある。それは子どもの脅威だ。大部分の文明においては、婚外子は未婚の女にとって社会的経済的に大きな障害となるので、娘が自分の妊娠を知って自殺したり、未婚の母が新生児を殺したりすることが起きる。

 こうした危険な性行為に対する強力な歯止めとなり、多くの娘は慣習の要求する婚前の純潔を守る。歯止めが不十分だと、娘は恋人に身を任せるが、恋人が彼女のお腹に隠す恐ろしい危険に怯える。シュテーケルはとくに、性交のあいだじゅう「何も起こりませんように、何も起こりませんように」と叫んでいた娘の例を取り上げている。

 結婚していても、女が子供を望まなかったり、彼女の健康が十分でなかったり、若い二人にとって子どもは荷が重すぎたりすることはよくある。恋人なり夫となり、彼女が相手を全面的に信頼していなければ、彼女の性愛は用心のあまりすくんでしまう。あるいは、心配しながら男の行動を見守り、性交が終わるとすぐにトイレに駆け込んで、心ならずも体内に入れられた命の芽をお腹から出さなければならいだろう。

 この衛生的な作業は愛撫という官能的な魔術とはっきり対立し、一つの同じ悦びに溶け合っている二つの肉体を、きっぱりと引き離す。このとき、男の精液は有毒な芽、汚れのように見える。女は汚れた尿瓶を洗うように自分の体を洗うのに、男は全く無傷のままベッドで休んでいるのだ。

 ある若い離婚した女性が私に、楽しさすらはっきりしない初夜のあと、夫は吞気にタバコに火をつけたのに、自分は浴室に閉じこもらなければならなかったときの嫌悪感を話してくれた。この瞬間に夫婦の崩壊は決まったようだ。イチジク洗浄器、灌注器、ビデに対する嫌悪感は、よくある女の不感症の理由の一つだ。もっと確実でもっと便利な避妊方法があれば、女の性の開放に非常に役立つ。

 こうしたことが広く行われているアメリカのような国では、結婚まで処女でいる娘の数は、フランスに見られる数よりはるかに少ない。彼女たちは愛の行為のなかでもっと自然になれるのだ。しかし、それでも若い女は、自分の肉体を一つのモノのように扱う前に、嫌悪感を克服しなければならない。

 男に「貫通される」のをぞっとせずには受け入れられなかったと同じように、彼女は男の欲望を満足させるために諦めていそいそと「蓋をされ」たりしない。自分の子宮に封印し、精子に死をもたらす蓋のようなものを自分に付けるというなら、肉体と性器の曖昧さを意識している女は、この冷たい事前工作にうっとうしさを感じるだろう。

 避妊具の使用に嫌悪感を持ってみる男も大勢いる

性行動のさまざまな瞬間を正当化するのは性行動全体だ。性愛の力をまとって身体が輝いているときは、細かく見れば不快な行動が、自然らしく見える。だが逆に、身体と行動がばらばらで意味のない要素に分解されると、これらの要素はたちまち不潔、猥褻(ワイセツ)になる。

恋をする女なら挿入を、愛する男との結合、融合として喜んで体験するだろう。だがもし、それがときめき、欲望、快感の外で行われると、子どもの目に外科的な汚れを帯びてみえたその性質が甦る。これは、避妊具を慎重に使用した結果起きたことである。

 いずれにせよ、すべての女にこうした用心が出来るわけではない。多くの娘は妊娠の脅威に対する手立てを全然知らずに、自分の運命が身を任せる男の好意にかかっていることに不安を感じている。

 数多くの抵抗を通して被る試練が非常に重い意味を帯び、しばしば恐ろしい心的外傷後ストレス障害を生み出すのはもっともである。潜在している早発性痴呆症が、最初の情事によって現れることもかなり多い。シュテークルはその例をいくつかあげている

 19歳のM・G嬢は突然激しい錯乱に陥った。私は彼女が自分の部屋で喚きながら、いつまでも次のように繰り返しているのを見た。「いやよー いやー いやよー」彼女はドレスをはぎ取り、裸で廊下を走ろうとした・・・・・精神病院に入れなければならなかった。そこで錯乱はおさまり、緊張病(カタトニー)の症状に変わった。この娘はタイピストで、働いている会社の代理人に恋をしていた。一人の女友だちと二人の同僚と一緒に田舎に出かけた。

 同僚の一人が彼女に「ただふざけるだけだから」と約束して、彼の部屋で夜を明かすように求めた。彼は三晩続けて処女を犯すことなく、彼女を愛撫したらしい・・・・彼女は「犬の鼻面のように冷たい」まま、それは卑猥な行為だと言い放った。ほんのわずかのあいだ、彼女は情欲をかきたてられ、アルフレッド、アルフレッド―(代理人の名前)と呼んだらしい。彼女は後悔した[母が知ったらなんと言うだろうか]。家に帰ると、彼女は頭痛を訴えて寝込んでしまった。

 L・X嬢はすっかり落ち込んで、よく泣くし、食べないし、眠らなかった。幻覚をもちはじめて、もはやまわりの人々を認知しなくなった。窓の手すりに飛びあがって通りへ飛び降りようとした。そこで療養所に送られた。私はその23歳の若い娘がベッドに座っているのを見た。彼女は私が入っても気づかなかった。顔つきには不安と恐怖が表れていた。身を守ろうとするからのように両手を前方に突き出し、組んだ両脚は痙攣したかのように動いていた。彼女は叫んだ。

「いやー いやー いやー けだもの― こんな人たちは逮捕しなけりゃ― 痛いー ああー」。それからわけのわからない言葉が続いた。突然表情が変わり、両目は燃え、接吻のように口を前に突き出し、両脚は動きを止めて力なくゆっくりと開き、彼女はむしろ快楽を表す言葉を発した・・・・発作は静かなとめどない涙のクライマックスのうちに終わった・・・・病人はまるでワンピースをまとっているかのように寝巻をひっぱり、いつまでも「いやー」を繰り返していた。

 彼女が病気のとき、既婚の男の同僚がよく訪ねてきて、はじめ彼女はそれをうれしく思っていたのだが、やがて自殺の誘惑を伴う幻覚をもつようになっていたことがわかった。彼女は治癒したが、もうどんな男も近づけず、きちんとした結婚の申し込みも拒絶した。

 ほかのケースで、同じような引き金で発生した病気でもうこれより軽いのもある。次にあげる例では、処女を失ったことへの後悔が、最初の性交のあとの精神的動揺のなかで主要な役割を演じている。

 23歳のある娘はさまざまな恐怖症にかかっている。フランツェンバートで、接吻かトイレでの接触で妊娠するのではないかという恐れから病気は始まった・・・・たぶん、男がマスターベーションをしたあと水中に精液が少し残っている、と言って、彼女は目の前で浴槽を三度洗うように要求し、また正常な姿勢で排便しようとしなかった。

 そのうち処女膜が破れるのではないかという恐怖症が起こり、踊ったり、飛び上がったり、柵を越えたりしようとせず、小股でしか歩こうとしなかった。杭があるのに気づくと不器用な動作をして、処女を失うのではないかと恐れ、震えながら遠回りした。

 彼女のもう一つの恐怖症は、汽車の中や群衆のなかで男にうしろから陰茎を挿入されて処女を奪われて妊娠するのではないかというようなことだった・・・・病気の最後にはベッドや肌着に針があってそれが膣に入るのではないかと恐れた。毎晩、病人は部屋の真ん中で裸になり、不幸な母親はつらい下着検査に励まなくてはならなかった・・・・・彼女はいつも婚約者への愛情は確かなものだと言っていた。

 分析によって次のことが明らかになった。彼女はもう処女ではなく、それが婚約者にわかっていまわしい結果になることを恐れ、婚約を伸ばしていたのだった。彼女はテノール歌手に誘惑されたことを婚約者に打ち明け、その婚約者に打ち明け、その婚約者に打ち
明け、その婚約者と結婚し、病気は治った(*12)

 他の例では――官能的満足によって補償されない――後悔が精神的錯乱を引き起こしている。

 20歳のH・B嬢は女友だちとイタリアへ旅行したあと、ひどい抑うつ症状を示している。彼女は部屋から出ようとせず、一言もしゃべらない。療養所に連れて行かれたが、そこで症状は悪化した。自分の悪口を言う声を聞いたり、みんなが自分を嘲笑っている、などと思い込んでいた。

 両親の家に連れ戻されたが、部屋の隅にじっとしているだけだった。彼女は医者に尋ねた。「どうして私は罪が犯される前にやってこなかったのでしょうか」。自分は死んでいる。すべてが消え失せ、すべてが破壊されてしまった。私は汚れている。もはや音符の一つも歌えず、世界との橋は断たれていた・・・・・彼女の婚約者が、ローマで彼女に会い、長い抵抗ののち彼女は彼に身を任せたと打ち明けた。

彼女は激しく泣いた・・・・彼女はその婚約者とはまったく快感が得られなかったと告白した。彼女は、彼女を満足させる新しい恋人を得て結婚したときに、治った。

本書ですでにその子ども時代の告白を要約した「ウィーンの可憐な小娘」前章記載は、非常に印象的な彼女の大人になる初体験を詳しく語っている。――彼女の大人になる前の情事は非常に早熟なものであったが――それでもなお、彼女の「入門」はまったく新しい性格をもつことに気づくだろう。

16歳のとき私は或る会社に入りました。17歳半のとき初めての休暇があり、それは私にとってすばらしい時期でした。いろいろな男から言い寄られました・・・・私は会社の若い同僚を愛しました・・・・一緒に公園に行きました。1909年4月15日のことでした。

彼はベンチに並んで腰かけさせました。私は接吻し、唇を開くように強く言いましたが、私は口をひきつったように固く閉ざしました。それから、私の上着のボタンを外し始めました。私は快くそれを許したかったのですが、バストが貧弱なことを思い出しました。私はもし触られたら感じたはずの官能的興奮をあきらめたのです・・・・4月7日に、既婚のある同僚から一緒に展覧会を見に行こうと誘われました。

夕食にワインを飲み、私は少し慎みをなくし、誤解されるような冗談を言い始めました。彼は私が嫌だといっているのに、馬車を呼び、私を押し込み、馬が走り出すや私に接吻しました。彼はだんだん馴れ馴れしくなり、ますます手を進ませます。私は力の限り抵抗しましたが、彼が目的を果たしたかどかすらも思い出せません。

翌日、私は会社に行きましたが、気持ちは動揺していました。彼は私がつけた引っ掻き傷をだらけの手を見せました・・・・彼はもっと会いに来るように言いました。それほど気乗りはしませんでしたが、好奇心いっぱいで、言われたとおりにしました・・・彼が私の性器に近づくと、私は身を振り払って自分の席に戻りました。

しかし一度、私より策士の彼は先手を打って、おそらく指を私のヴァギナのなかに入れました。私は痛くて泣きました。それは1909年6月のことで、私は休暇に出かけました。私は女友だちと旅行をしました。二人の旅行者に偶然出会って、一緒に行かないかと誘われました。私の連れになった男は私の友だちに接吻しようとして、げんこつ食らいました。私の方にやって来て、うしろから私を羽交い絞めにして接吻しました。

私は抵抗しませんでした・・・彼は私に一緒に来るように誘いました。私は手を彼に委ね、森の奥に入って行きました。彼は接吻しました・・・・彼が私の性器に接吻したので、私はとても憤慨しました。私は言いました。「どうしてそんないやらしいことができるの?」。私は彼の陰茎を持たされました・・・・私はそれを愛撫しました・・・・突然、彼は私の手をどけて、何が起きているのか私に見せないようにハンカチをあてました・・・・二日後、私たちは一緒にリージングへ行きました。

人里離れた野原で、彼は突然上着を脱ぎ、草の上に敷きました・・・私は倒され、彼は片脚を私の両脚のあいだに入れました。私はまだ自分の立場が危険だとは思いませんでした。私は「私の一番きれいな洋服」を脱がされるくらいならいっそ殺してほしいと思いました。

彼はとても淫らになり、卑猥な言葉を使い、警察に言うといって脅しました。彼は私の口に彼の手を押しあてて、そしてペニスを挿入しました。私は死ぬときが来たのだと思いました。胃がひっくり返るような思いでした。ついに、彼が終わったとき、私は許せると思い始めました。私は横たわったままだったので、彼は私は起こさなければなりませんでした。彼は私の目の前と顔を接吻でおおいました。私は何も見えず、何も聞こえませんでした。

 彼が支えてくれなかったら、私は目が見えない状態で倒れ、車の下敷きになっていたでしょう・・・私たちは二人きりで二等車のコンパートメントにいきました。彼はまたズボンの前を開いて、私の方に向かってきました。私は叫び声をあげ、車両の中を一番後のステップまで駆け抜けました・・・ついに彼は私を追うのをやめ、げびた甲高い声で笑いました。私は、自分が何が良いことか知らない愚かな娘だという自戒の念を込めて、あの笑いをけっして忘れないでしょう。彼は私が一人でウィーンに帰るままにしておきました。

ウィーンに着くと私は急いでトイレに行きました。腿にそっと何か温かいものが流れるのを感じたからです。ギクッとしました。血のあとを見たのです。家でそれをどうのように隠そうか? 私はできるだけ早く寝て、何時間も泣きました。ペニスを押し込まれたために、ずっと胃の圧迫を感じていました。私のおかしい様子と食欲不振が何かあったことを母に悟らせました。

私は母にすべてを打ち明けました。母はそんなに怖がることはないと・・・・同僚は、私を慰めるために、できるかぎりのことをしました。彼は暗くなる夕方を利用して私と公園を散歩し、そして私のスカートの下を愛撫しました、私は許しましたが、ただ、ヴァギナが濡れてくるのを感じるとすぐ身を離しました。とても恥ずかしかったからです。

彼女は何度か彼とホテルに行ったが、彼と寝る事はなかった。彼女はある大金持ちの若い男と知り合い、彼と結婚を望んだ。彼と寝たけれども、彼女はなにも感じず。嫌悪感をもった。同僚との関係を蒸し返したが、その男にもうんざりし、そして斜視になり、痩せ始めた。サナトリウムに送られるが、そこで、ロシアの青年とあやうく寝るところだったが、最期の瞬間に彼をベッドから追い出した。

ある医者と、またある軍人と、彼女は関係しかけたが、完全な性関係には同意していない。精神的な病になったのは、その当時で、彼女は治療後、彼女は自分を愛する男に身を任すことに同意し、そのあと彼と結婚した。結婚生活で彼女の不感症はなくなった。

多くの類似した事例から選んだこれらのいくつかの例では、相手の男の粗暴が、少なくとも情事の突発性が、いつも心的外傷後ストレス障害や嫌悪を引き起こす原因になっている。性の入門に最も好ましい場合とは、暴力も不意打ちにも、決まった指示や正確な期日もなしに、若い娘が少しずつ羞恥心に打ち勝って、相手の男と親しくなり、その愛撫を好むようになるときである。そのためには、アメリカの若い娘たちが享受し、フランスの娘たちがいま獲得しようとしている風俗の自由を認める以外ない。

フランスの娘たちは「ネッキング」も「ペッティング」もほとんど知らずに完全な性関係に入っていく。性の入門がタブー的な性格をもたなければもたないほど、若い娘が相手に対して自由に感じれば感じるほどそして、相手の支配的性格が目立たなければ目立たないほど、入門は容易だ。相手の恋人も若くて、未経験で、内気で、対等ならば、若い娘の抵抗は少なくなる。

 しかしまた、女への変貌は徹底しないだろう。たとえば、『青い麦』のなかで、コレットの登場人物ヴァンカはかなり乱暴に処女を奪われた翌日に平静さを示したので、男友だちのフィルが驚く。それは彼女が「所有された」と感じなかったので、逆に、処女から解放されたことに誇りをもち、動転するような混乱など感じなかったのだ。

実際、フィルが驚くのは間違いで、彼の女友だちは男を知ったわけではないのだ。クロディーヌ[コレットの自伝的小説クロディーヌ・シリーズの主人公]はルノーの腕に抱かれて踊った後で、もっと傷ついている。まだ「青い果実」の段階にとどまっているフランスの女子高生の話を聞いたが、彼女は男友だちと一夜を過ごした翌日、女友だちのところに駆けつけて告げた。

「私、C・・・・と寝たのよ。とても面白かったわ」あるアメリカの中学生の教師が、そこの生徒たちは女になるずっと以前から処女ではなくなっている、と言っていた。彼女たちの相手は彼女たちの羞恥心を傷つけるにはあまりにも彼女たちを尊重し、彼女たちのうちに魔を呼び覚ますにはあまりにも若く、彼自身非常に恥ずかしがりやである。

性愛体験に身を投じ、それを何度も繰り返して、性の不安を逃れようとする娘たちがいる

そのようにして、自分の好奇心や強迫観念から解放されたいのだ。しかし多くの場合、彼女たちの行動は形だけのもので、それが、他の娘たちが先回りして浸る幻想と同じように、そうした行動を現実感のないものにしている。

挑戦、恐れ、清教徒的な合理主義に基づいて体を与えるのは、本当の性愛体験を実現することではない。危険もなく深く味わうこともなく、代用品に到達するだけだ。ときめきは表面的で、快感が肉体を満たしていないので、性行為に不安も羞恥心もともなわない。このようにして処女を失うと、いつまでも若い娘の状態にとどまる。

そして、享楽的で威圧的な男と向かい合うようになったとき、彼女たちが処女のような抵抗をすることもありうる。今のところ彼女たちはまだ一種の思春期にいる。愛撫されるとくすぐったく。接吻されると笑いだすことがあり、肉体的な愛を遊びのように見て、彼女たちがそれを楽しむ気になっていないと、恋人の要求はすぐに煩わしく卑猥に思えてくる。

彼女たちは嫌悪や恐怖症や娘時代特有の羞恥心を持ち続けている。この段階を越えないと――アメリカの男たちの言うには、アメリカの女の多くのケースだそうだが――彼女たちは半・不感症の状態で一生を送ることになる。興奮と快楽のなかで自己の肉体化に同意する女にしか、真の性的成熟はないのだ。

けれども、燃えやすい気性の女なら困難はすべて解消すると考えてはならない。逆に、こうした女は激しすぎるのだ。女の性的興奮は男の知らない強烈さに達することができる。男の欲望は激しい局部化されていて、男は欲望の為に――おそらく痙攣の瞬間を除いて――自意識を失わない。女は反対に自分がまったく無になってしまう。多くの女にとって、この変貌は愛の最も官能的で最も決定的な瞬間だ。

しかし、その変貌はまた魔的で恐ろしい性格を持っている。男は抱いている女を前にして恐怖を感じることがある。それほど女が感じる興奮は男の攻撃的狂熱よりずっと根源的変質である。この情熱が女を羞恥心から開放するのだが、目が覚めたときには、羞恥心と恐怖を起こさせもする。

破瓜[処女喪失]は娘時代特有の官能性の幸福な成就ではない

女がその情熱を悦んで、また誇らかに受け入れるには、少なくとも快感の炎となって悦びにあふれなければならないだろう。女が欲望を満足させる見事に満たしたならば、その欲望は自分のものと主張できるだろう。そうでなければ、女は欲望を怒りをこめて拒絶する。

ここで、女の性愛の非常に重要な問題にふれる。すなわち、女の官能的生活の出発点において、女の自己放棄が激しく確実な歓びによって補償されないということである。もしそのように補償されて天国の門が開かれるのならば、女はもっとたやすく羞恥心も自尊心も捨て去るだろう。

しかし、すでに見たように、破瓜[処女喪失]は娘時代特有の官能性の幸福な成就ではない。それどころか、それは大変異様な現象なのだ。膣快感はすぐには始まらない。
シュテーケルの統計――これは多くの性科学者と精神分析者が確証している――によれば、最初の性交から快感を得る女性はわずか四%で、五〇%は数週間、数ヶ月、また数年も経たないと膣快感に達しない。

心理的要因がここでは根本的役割を演じている。女にあっては、意識的事実とその事実の器官による表現とのあいだに普通は距離が全くないことが多いという意味で、女の身体はとりわけ「ヒステリック」である。精神的な抵抗は快楽の現れを妨げる。この抵抗は何ものによっても補償されないので、いつまでも続き、だんだん強くなることが多い。

多くの場合、悪環境になる。恋人の最初の不手際、ひとこと、不器用な動作、傲慢な薄笑いが蜜月のあいだずっと、あるいは夫婦生活にすら影響する。すぐ快感を経験できなかったことに失望して、娘はそのことに恨みを持ち続け、その恨みのせいでもっと幸福な経験をしたいと気がなくなってしまう。

なるほど、正常な満足が得られなくても、男はいつでもクリトリスの快感を与える事ができ、その快感は、教訓的言い伝えとは逆に、女に弛緩と鎮静をもたらすことが出来る。しかし、女の多くはそれを拒否する。膣快感よりもっとそれは押しつけに思えるからだ。

なぜなら、女は自分自身の満足のことしか考えない男のエゴイズムに苦しむが、また女に快感を与えようとする露骨な意志にも傷つけられるからだ。シュテーケルは言う。「他者を楽しませること、それは他者を支配することを意味する。誰かに身を任せること、それは自分の意志を放棄することである」。うまくいった正常な性交のように、快楽が男自身の得る快楽から自然に流れだすように思えるなら、女はそれをずっと簡単に受け入れるだろう。

「女は相手が自分を従わせようと望んでいないと分かれば、喜んで従う」と、さらにシュテーケルは言っている。しかし反対に、その意志を感じると、女は逆らう。女の多くは手で愛撫されるのを嫌がる。手はそれが与える快感に関わらない一個の道具であり、活動であって、肉体ではないからだ。性器も欲望が浸透した肉体ではなく、巧みに利用される道具のように見えると、女は同様の反感を抱く。

それに、代償行為はすべて、彼女には女の正常な感覚を知る事が出来ないのだということを認めているように思えるだろう。シュテーケルは数多く観察したあとで、いわゆる不感症の女の欲望はすべて次のような基準に向かうと指摘した。すなわち「彼女たちは正常な女のようにオルガスムスを得たいと望んでいる。他の全てのやり方は彼女たちを精神的に満足させない」

 だから、男の態度はきわめて重要になる。男の欲望が激しく粗暴だと、相手は男の腕のかなでまったくの物体に変えられたように感じる。しかし、自制がすぎてあまりにも淡白だと、男は肉体になりきらない。男は女が自分に影響を与えることなく客体になる事を要求する。いずれの場合も女の自尊心は反抗する。

女が、肉体の客体への変貌と主体としての要求を両立させるためには、自分が男の獲物となりつつ、また男を自分の獲物としなければならない。女が頑固な不感症になるのが非常に多いのはそのためだ。恋人が魅力に欠けていたり、冷ややかだったり、投げやりだったり、不器用だったりすると、女の性欲を呼び覚ますのに失敗するか、あるいは女を満たされないままにしてしまう。

しかし、恋人が男っぽくて熟練していても、拒否の反応を引き起こすこともある。女は男の支配を恐れるのだ。気が小さくて、才能のない、あるいは半ば不能であっても、恐怖を与えないような男とでなければ快感を見いだせない女たちもいる。恋人をとげとげしくさせたり怨ませたりするのは男には簡単だ。

女の不感症の最も普通にみられる原因は怨みである

ベッドで、女は、自分が受けたと思っているあらゆる侮辱に対して馬鹿にしたような冷淡さで仕返しする。彼女の態度にはしばしば攻撃的な劣等コンプレックスがある。

あなたは私を愛していないから、私にはどうせ気に入らない欠点があるのだから、私は軽蔑されているのだから、私も愛や欲望や快楽に身を任せたりしない、というわけである。こうして、男が女をいい加減に扱って屈辱を与えたり、嫉妬心を掻き立てたり、いつまでも愛を打ち明けなかったり、女は結婚したがっているのに恋人にして置くといったような場合、女は男と自分自身とに対して同時に復讐する。

不満の種は突然現われ、はじめはよかった関係の途中でこうした反動が起きることもある。このような敵意を引き起こした男がその敵意に自分で打ち勝つのは稀だ。けれど、愛と尊敬の説得力ある証をたてて、状況を変えることもある。恋人の腕のなかで警戒心強く頑なだった女が、結婚指輪をはめると変わってしまうのはすでに見た。幸せになり、お世辞を言われ、良心にやましところがなくなると、女はいっさい抵抗しなくなるのだ。

しかし、恨みがましい思いを抱いている女を幸福な人妻に一変させてしまうのは、新しく出現した丁重で、自分を愛してくれる、思いやりのある男である。彼が女を劣等コンプレックスから解放してやれば、女は彼に激しく身を任せるだろう。

シュテークルの著書『不感症の女』は、とくに女の不感症における心的外傷後ストレス障害の役割を証明しようとしている。次にあげるいくつかの例は、不感症が、きわめて多くの場合、夫や恋人に対する恨みからの行動であることを示している。

G・S嬢はある男と自分と結婚してくれるのを待ちながら、彼に身を任せていたが、「自分は結婚に執着しているわけではないし、束縛されたくない」ということを強調していた。彼女の自由な女を気取っていた。実際は、彼女の家族と同様、彼女も道徳の奴隷だったのだ。しかし、彼女の恋人は彼女の言う事を信じて一度も結婚の話をしなかった。彼女の意固地はだんだん強くなり、なにも感じなくなってしまった。

ついに男が結婚を申し込んだ時、彼女は自分が無感覚症だと打ち明け、もう結婚の話は聞きたくないといって復讐した。もはや幸福になりたいとは思ってもいなかった。彼女は待ち過ぎたのだった・・・・彼女は嫉妬にさいなまれていた。そして傲慢な態度で彼の申し込みを拒絶するために、彼が申し込んでくるのをじりじりして待っていたのだ。それから、その恋人を極めつけのやり方で罰してやろうと、ただその為に自殺しようとした。

その時まで夫に快感を感じていたのだがとても嫉妬ぶかいある女は、自分の病気中、夫が自分を裏切っていると思い込んでいた。退院したら夫に冷たくしていようと決心する。夫は自分を尊重しないで必要な時しか用いようとしないから、これからはもう夫に興奮させられてなるものかと。

帰宅してから彼女は不感症になった。はじめ彼女は興奮させられないようにちょっとしたトリックを使った。彼女は夫が彼女の女友だちを口説いていると想像した。やがて、苦痛がオルガスムスに取って代わるようになった。

17歳の娘がある男と関係をもち、強い快感を得ていた。19歳で妊娠した彼女は、恋人に結婚するように求めた。彼は決心がつかず、彼女に中絶をすすめたが、彼女は拒否した。三週間後、彼は彼女と結婚する気になったと宣言し、彼女は彼の妻になった。しかし、彼女は三週間苦しんだことを絶対に許さず、不感症になった。のちに、夫と話し合うことで、不感症は克服された。

N・M夫人は、夫が結婚して二日後に昔の愛人に会いに行ったことを知った。それまで彼女が感じていたオルガスムスは永久に消えた。彼女はもう夫に気に入られないのだという固定観念を持つようになった。自分は永久に失望させたのだと思ったのだ。彼女にとって、それが不感症の原因だった。

ある程度長く時間がたってから、女が自分の抵抗を乗り越えて、膣快感を知っても、困難がすべてなくなるわけではない。なぜなら、女の性欲のリズムと男の性欲のリズムは一致しないからだ。女はオルガスムスに達するのに男より時間がかかる。

男全体のおそらく四分の三が、性関係が始まってから二分のうちにオルガスムスを経験する

――とキンゼー報告は伝えている。高い階層の女たちの多くは、その境遇が性的状況にきわめて不向きで、オルガスムスを知るにはかなりの刺激を十分から十五分必要とすること、またかなりの数の女が一生を通じてオルガスムスを一度も体験しないことを考えるなら、当然、男は相手と調和できるようにするために射精しないで性的行為を引き延ばすための非常に特殊な能力を必要とする。

インドでは、夫は妻への性行為の義務を果たしながら、自分自身の快感を抑えて、妻の快感を引き延ばすためにパイプをふかすのが普通だそうである。西洋では、カザノヴァのような男が自慢するのはむしろ「回」数で、彼の最高の自慢は相手にもうやめてと言わせることだ。エロスの伝統によれば、こういうことは誰もがそうそう成功できる快挙ではない。

とにかく男たちは連れ合いのすさまじい要求を嘆く。それは熱狂的な子宮、人喰い鬼、飢えた女だ。彼女が満たされることはけっしてない。モンテーニュはこうした見解を『エセー』の第三巻(第五章)に示している。

女たちはわれわれとは比較にならないほど愛の営みにたけ、熱心である。はじめは男でのちに女になった昔ある僧侶もそのようなに証言している。・・・・さらに我々の知るところでは、かつて別々の時代ではあるが、その道の巧者で名をとどろかせたローマのある皇帝[ティトゥス・イリウス・プロクルスのことだ。プロブス帝の時代に王位を奪おうとしたが、淫蕩にふけり失敗して死刑にされた]とある皇帝[ローマ皇帝クラディウスの妃、メッサリナ。愛人と通じ、陰謀を企てたために処刑にされた]が、自身の口からそう語っている(この皇帝は一夜で捕虜にした乙女10人の処女を奪った。だが、皇后の方は、欲望と好みまかせて、相手を次々に変え、一夜に実に25回も成し遂げた)。

オルガスムス

陰門は収縮し、興奮の余韻に火照りながら男たちに飢(つ)かれ、心は満たされぬまま退いた(*13)

また別に、カタロニアで、ある妻が夫の求めがあまりに過ぎると訴え出た。私の考えによれば、これは、妻がそのことを不快に感じていたからではない。(というのも、信仰における以外の奇跡を私は信じないからだ)・・・・・それで、アラゴンの女王がかの注目すべき判決を下された。聡明な女王は熱慮のうえの審議を重ねたのち・・・・正当にして必要な限度として、その回数を一日六回と定めた。したがって永遠かつ不変の形式を定めるため、女性の欲望を大幅に抑えてしまったということである。

実際に女の快感は男の快感とはまったく様相が違うことなのだ。膣快感がやがて決定的なオルガスムスに達するかどうかは正確にはわからないことはすでに述べた。この点について女の告白はあまりない。正確に述べようとしている場合でも、非常にあいまいのままにとどまっている。反応はそれぞれ違うようだ。

確実なことは、男にとって性交にはっきりした生物学的な目的である射精があるということである。この目的がひとたび達せられれば到達点とみなされ、欲望の充足でないにしても、少なくともその消滅とみなされる。逆に女の場合、目的ははじめから明確でなく、また生来、生理的であるよりも心理的なものだ。女は興奮を、一般には快感を望むが、女の肉体は愛の行為の終わりをはっきり現わさない。女にとって性交が完全に完了しないのはそのためである。

それはどんな目的も宿していないのだ。男の快感は急上昇する。そしてある域に達すると完成し、そしてオルガスムスのうちに突然消滅する。その性行為の構造は限定され、不連続である。女の快楽は身体全体に広がり、生殖器官にだけ集中されているのではない。それで、実際のオルガスムスよりもむしろ膣の収縮が波動系統を形成し、それがリズミカルに生まれ。消え、つくりなおされ、ときどき絶頂に達し、混乱し、けっして完全に消滅することなく元に戻る。

女にあってどんな最終段階も定められていないので、快感は無限をめざす。その結果、女の官能性の能力の限界になるのは、はっきりとした満足感よりむしろ、神経や心臓の疲労とか心理的な満喫であることが多い。満たされても、疲れきっていても、女はけっして完全に解放されない。ユウェナリス[67頃―130頃、古代ローマの詩人]の言葉によれば、「疲れても、なお、飽きることなし」である。

男は相手に自分のリズムを押しつけようとしたり、夢中になってオルガスムスを与えようとすると、大きな過ちを犯す。たいていの場合女が女特有のやり方で享受している快楽の形を破る事にしかならないことが多いからだ(*14)。その形は、かなり柔軟に自分に一つの終わりを与える事が出来る。

つまり膣や生殖系統全体に局部化されているある種の痙攣や身体全体から発するある種の痙攣は解消させることが出来るのである。こうした痙攣がかなり規則的に、オルガスムスと同一視できるほど激しく起こる女たちもいる。しかし、恋している女は男のオルガスムスのなかに自分の気持ちを沈め満足させる終結を見出す事も出来る。そしてまた、断続することもなくスムーズにエロスの形状が穏やかに消滅することもある。

性交に必要なのは、細心だが単純すぎる多くの男たちが思い込んでいるように、快感の数学的な同時性ではなく、複数のエロスの形状を生じさせることなのだ。女を「歓ばせる」のは時間と技巧、つまり激しさの問題だと想像するものが多い。彼らは女の性欲が女の状況全体によってどれくらい条件づけられているか知らないのだ。

女の快楽はすでに言ったように、一種の呪い術のようなもので、相手にすっかり身を委ねることを要求する。言葉や身振りが愛撫の魔術に逆らうと、呪術は霧散してしまう。女がしばしば目を閉じる理由の一つはそれである。生理学的には瞳孔の拡大を埋め合わせるための素早い反応なのである。しかし、暗がりのなかでも女は瞼を閉じる。女はあらゆる背景を消し去り、その瞬間の、自分自身の、恋人の、独自性を消し去って、母の胸のように定かでない肉体の闇のただなかで、自分を失ってしまいたいのである。

そしてとくに、女は、男と融合したいと願うのだ。すでに言ったように、自分を客体にしつつ、主体のままでいたいと思う。全身が欲望であり、官能の疼きであるあるゆえに男より深く自分を無にする女は、相手との結合によってしか主体でいられない。二人にとって受けることと与える事は、一つにならなければならない。男が与えずに取るだけにとどめたり、あるいは快感を得ないで与えるだけだと、女は操られたと感じる。

女は《他者》として自分を実現するや、非本質的な他者となる。女は他者性を否定しなければならない。だから、互いの肉体が離れる瞬間には女はとてもいつもつらいのだ。男は性交のあと、寂しいと、或いは楽しいと感じるにせよ、自然によって騙されたと感じるか、それとも女を征服した気になるにせよ、いずれにしても肉体を否認する。

彼は廉潔な身体に戻り、眠ったり、入浴したり、タバコをふかしたり、大気のなかに出かけて行きたくなる。女は、自分の肉体にした呪術が消えてなくなるまで、肉体の接触を引き延ばしていたい。離れるのは新たな乳離れのように身を切られるほど辛い。女はあまりにも唐突に身を離す恋人を恨む。しかしもっと女を傷つけるのは、ひと時信じていた融合を疑わせるような男の言葉である。

マドレーヌ・ブルドゥークスの語ったところによると、ジルの妻は夫に「いった?」と聞かれると、体をこわばらせ夫の口に手を当てる。言葉は快楽を内在的で分離した感覚にしてしまうので、大概の女は嫌がるのだ。「もういい? もっと? よかった?」と質問すること自体が別離を表明し、愛の行為を男がその方向を決める機械的作業に変えてしまう。そしてそれこそは男が質問する理由なのだ。融合や相互性よりもはるかに、男は支配を求める。カップルの結合が解かれると、男は唯一の主体となる。

このような特権を放棄するには、大きな愛情と寛大さが必要である。男は、女が心ならずも辱しめられ所有されたと感じるのを好む。男はいつも女が得るよりも少し多く取りたいのだ。愛の行為を一つの闘争だと考えさせるようなたくさんのコンプレックスを男が引きずっていなければ、女は多くの困難を避けられる。そうなれば、女はベッドを闘技場のように考えなくてもよくなるだろう。

けれども、ナルシズムや自尊心と同時に若い娘には支配されたいという欲望も見られる。マゾヒズムは女の特性の一つで、そうした性向のおかげで女はそのエロスの宿命に適応できるのだという精神分析者もいる。しかし、マゾヒズムの概念は非常に錯綜しているので、私たちは細かく検討しなければならない。

マゾヒズムを三つの形態に分ける

精神分析者たちは、フロイトにしたがって、マゾヒズムを三つの形態に分ける。第一は苦痛と快楽との結合のなかにあり、第二は女がエロスの面で男に依存することの承諾であり、第三は自罰のメカニズムに立脚しているという。破瓜と分娩では快楽と苦痛が結合しているゆえに、また、女は自分の受動的な役割に同意しているのだから、女はマゾヒストというわけである。

まず最初に、苦痛に官能的価値を与えるのは受け身の従順な行為をすることではまったくないことを注意しなければならない。しばしば、苦痛は苦痛を感じている個人の活力を高めたり、興奮と快楽の激しさそのもので麻痺した感覚を蘇生させるのに役立つ。

それは肉体の闇に輝く鋭い光であり、冥界で恍惚としている恋する男をただちにもう一度冥界へ落とすために、引き上げる。苦痛は普通、性愛の狂熱の一部をなす。相互的な慶びのための肉体であることを陶然としている二つの肉体は、できるかぎりの方法で、出会い、結合し、向かい合おうとする。性愛のなかには、自己遊離と陶酔とエクスタシーがある。苦痛もまた自己の限界を打ち破る一種の超越であり、激発なのだ。

苦痛はつねに饗宴では大きな役割を演じる。心地よいものと苦しいものが相通じていることは周知の通りである。愛撫は拷問となりうるし、刑罰が快感を与えることもある。抱きしめることから、かんたんに嚙んだり、つねったり、ひっかいたりできるようになる。

こうした行為は一般的にはサディズム的なものではない。それらは破壊ではなく融合への欲望を表している。それらに耐える主体も、否認されたり辱しめられたりするのではなく、結合を求めている。もっとも、こうした行為は男性的な特徴ではない。まったく違うものである。事実、苦痛は隷従の表明として捉えられ望まれる場合のみ、マゾヒズム的な意味をもつのだ。

破瓜の苦痛に快感がないのははっきりしている。女は誰も出産の苦しみを恐れているが、幸いに最新の方法によって苦しまなくてすむようになった。苦痛は女のセクシャリティにおいても、男のセクシャリティにおけるのとはまったく同じ位置を占めている。

女の従順さは、これもまた非常にあいまいな観念である。すでに見たように若い娘はだいたい想像のなかで、半神、英雄、男の支配を受け入れるものだ。しかし、それはまだナルシズム的な遊びに過ぎない。そうした権威の肉体的な表現を実際に身にこうむる覚悟をそれでできるわけではまったくない。

その反対に、若い娘は彼女の感嘆し尊敬する男をこばみ、風采の上がらない男に身を任せるというのはよくあることである。具体的な行為の鍵を幻想の中に求めることは間違っている。幻想は幻想である限り、つくりだして愛撫するものだからである。

恐怖とうっとりした気分がいりまじった思いでレイプを夢見る少女は、レイプされるのを欲望しているわけではない。そんな出来事が起こったら、耐え難いほどの破滅だろう。すでにマリー・ル・アルドゥアンにこの分裂の典型的な例を見た。彼女は次のように書いている。

けれども自分を消し去る途上で、私は鼻をつまみ胸をどきどきさせてでなければ入れないある領域が残っていた。それは愛の官能の追求を越えて、即物的な官能の快楽へ私を導く領域なのだ・・・・夢の中で密かに犯さなかったおぞましい行為は一つもない。できるかぎりの方法で自分を確認したいという欲求に苦しんでいた(*15)

マリー・バシュキルツェフの場合も思い出す必要がある。

私は生涯を通じて、自分の意志で、なんらかの見せかけの支配のもとに身を置こうとしてきた。しかし、私が試してみた人はみな、私と比べると平凡すぎて、嫌悪を抱くだけだった。

一方、女の性的役割の大部分が受動的なものであるのは事実である。しかし、その受動的な状況を直接に生きることは、男の普通に見られる攻撃性がサディスト的でないのと同様、マゾヒスト的なのではない。女は、愛撫、興奮、挿入を、自分自身の快楽へ向けて超越することができ、そうすることで、自分の主体性を確立する。

また、恋人との結合を求め、自分を彼に与えることもでき、それは放棄ではなく自分を乗り越えることを意味する。マゾヒズムは個人が他人の意識によって純粋なモノにされ、じぶんでじぶんをモノとして想像し、モノになったつもりになろうと決める時に現れる。「マゾヒズムは自己の客体性によって他者を魅惑する試みなのではなく、他人に対する自己の客体性によって自分自身を魅惑する試み(*16)である」。サド[1740-1814、フランスの作家、思想家]のジュリエットや『閨房(けいほう)の哲学』の若い処女は、できるかぎりの方法で男に身を任せるが、彼女たちは自身の快楽が目的なので、まったくマゾヒストではない。

チャタレイ夫人やケイト[ロレンス『恋する女たち』の主人公]は男に身を任せることに同意しているのだからマゾヒストではない。マゾヒズムを語るには、自己が設定されていなければならず、この自己が疎外された分身となり、それが他人の自由に基づいて生み出されたと見なさなければならない。

こうした意味で、実際に、ある種の女たちには本当のマゾヒズムが見いだせるだろう。若い娘にはその傾向がある。なぜなら、若い娘はナルシシストになりやすく、またナルシシズムは自分の自我(エゴ)のなかに自分を疎外することで成り立つからである。

若い娘が性愛入門の最初から激しい興奮と欲望を感じるならば、彼女は自分の経験を本当に生きたことになり、その経験を彼女が自己と呼んでいる観念的な的へむけて投影するのを辞めるだろう。しかし、不感症だと自己は自分を主張しつづける。その場合、自己を一人の男のモノにすることは失敗だと見なされる。

ところで、「マゾヒズムは、サディズムと同様、有罪を認めることがある。たしかに、自分が客体であるという事実だけで私は有罪なのだ」。このサルトルの考え方は自罰というフロイトの観念に通じる。若い娘は自分を他人に委ねるのを罪だと思い。屈辱と屈従をことさらおおげさに考えて自分を罰する。すでに見たように、処女は未来の恋人に刃向かうが、やがて服従するようになるという理由で、さまざまな苦痛を自分に課して、自分を罰する。

恋人が現実に現れてもあくまでもこの態度をつづける。不感症そのものが女が自分にも相手にも加える懲罰として現れる事はすでに見た。虚栄心を傷つけられた女は相手と゜自分自身を恨んで、自分に快楽を禁じるのだ。マゾヒズムの場合、このような女はひたすら男の奴隷となり、男に崇拝の言葉を言い、辱しめられ殴られたいと思う。彼女は疎外されることに同意したその勢いに駆られて、ますます自分を深く疎外する。

これは明らかに、たとえば、マチルド・ド・ラ・モルの行動である。彼女はジュリアンに身を任せたことを後悔している。そのために、ときどきジュリアンの足下にひれ伏したり、彼のどんな気まぐれにも従おうとしたり、自分の髪を彼に捧げたりするのだ。しかし同時に、彼女は自分に対するのと同じように、彼に反抗する。彼の腕のなかにいても氷のように冷たいのだろう。

マゾヒズムの女は男にうわべだけ身を任せても、快感をさえぎる新たな障害をつくってしまう。そして一方で、彼女はこうした快感を知る事ができないということによって、自分自身に復讐するのである。不感症からマゾヒズムへの悪循環は永久に続くこともあり、その場合には、補償としてサディズム的な行動をともなう。また、性愛の成熟が不感症ナルシシズムから女を開放したり、性的受動性を引き受けて、その受動性を演じるのではなく、直接生きるということもある。

なぜなら、マゾヒズムの逆説とは、主体が自分を捨てる努力をするときさえ絶えず自分を再確認することだからである。主体が自分を忘れられるのは、何も考えず他者に自分を与える時であり、他者と向かう自発的な運動においてである。だから、女の方が男よりマゾヒズムの誘惑に駆られるというのは本当だ。

受動的な客体という性愛の面での女の状況は女に受動性を演じるように仕向ける。その演技は、自罰である。女は、ナルシシズム的反抗とその結果である不感症によって、自罰に導かれるのだ。実際、多くの女、とくに若い娘はマゾヒストである。コレットは、彼女の初恋の体験を語りながら、『私の修業時代』のなかで告白している。

若さと無知も手伝って、私はまず陶酔することから始めた。罪深い陶酔、若い娘の醜悪で不純な感情のほとばしりだった。ようやく年頃になるかならないかで、壮年の男の目を楽しませ、玩具となり、卑猥な傑作になるのを夢見る娘は多くいる。

彼女たちは、思春期特有の神経症、つまり、チョークや炭をちびちびかじったり、歯磨きの水を飲んだり、淫らな本を読んだり、手のひらにピンを刺したりする習慣をともなう欲望を満足させつつ、その見苦しい欲望の罪をあがなうのである。

これ以上の言い方はできないが、マゾヒズムとは若者特有の倒錯の一つである。それは女の性的運命によって生じる葛藤の本当の解決にはならず、その運命のなかで七転八倒しつつその運命を逃れようとする一つのやり方なのだ。マゾヒズムは女の性愛の正常で幸福な成熟を表すものではまったくない。

この成熟は、――恋愛、愛情、快楽の追求のうちに――女が自分の受動性を克服して、相手と相互的な関係をつくることを前提とする。男女の闘いがあるかぎりは、男と女の性愛の非対称性は解決できないさまざまな問題を生み出す。こうした問題は女が男に欲望と尊敬を同時に感じるときにたやすく解決できる。男が女の自由を認めつつ肉体として女を欲しがるなら、女は客体になる瞬間に自分を本質的なものと再発見し、自らが同意した服従のなかでどこまでも自由である。そのとき、恋人たちはそれぞれのやり方で共通の快楽を知る事が出来る。

それぞれが相手のうちにその源泉をもちながら、自分のものとして快感を得るのだ。受け取ると与えるという言葉はその意味を交換し、喜びは感謝となり、快感は愛情となる。具体的で肉感的なかたちをとって、自己と他者の相互的な認識が他者と自己の最も研ぎ澄まされた意識のなかで実現する。自分の中にある男の性器は自分自身と一体のように感じるという女たちもいる。

ある男たちは自分を自分が侵入している女であるように女であるように感じる。こうした表現は明らかに不正確だ。他者の次元は残っている。けれども、他者がもう敵の性格を持っていないのはたしかだ。性行為に感動的な性格を与えるものは、この分離における身体の結合の意識である。自分たちの限界をともに情熱的に否定しまた肯定する二つの存在は、似ているけれども違っているだけに、それだけ衝撃的である。

この差異がしばしば両者を切り離し、再び結合したときに深い感動の源泉になるのだ。女を燃えさせる動かぬ炎、女はその逆の姿を男の激情のなかに見つめる。男の強さとは、女が男に及ぼす力である。この生命の膨張した男の性器は、男に快感を与える女の微笑が男のものであるように、女のものでもあるのだ。

男であることと女であることが持っている豊かなものはすべて反映し合い、互いに相手をとおして取り戻され、揺れ動く恍惚の結合をつくりあげる。このような調和に必要なものは洗練された技巧だけでなく、むしろ、直接的な官能の魅力を基盤にした、身体と精神との相互的な寛大さである。

しばしば、この寛大さは、男の場合は虚栄、女の場合は臆病によって妨げられる。女はさまざまな抑圧を克服しない限り。この寛大さを発揮できないだろう。女の場合、一般的に性的成熟がかなり遅れるのはこのためだ。女が官能的に頂点に達するのは35歳頃である。残念ながら結婚していると、その頃には夫は妻の不感症には馴れきっている。女はまた新しい恋人を誘惑することもできるが、容色は衰えはじめている。時間はない。多くの女がやっと自分の欲望を本気で受け入れようと決心するときには、既に男の欲望をそそらなくなっている。

女の性生活はさまざまな条件の中で展開するが、それらの条件はこれまであげてきたあらかじめ与えられた条件だけに支配されているのではなく、女の社会経済的状況全体に支配されている。そうした背景をぬきにして、女の性生活の研究を先に進めようとしても抽象的になるだろう。とはいえ、いままでの検討から広く有効な結論がいくつも出てくる。

性愛の経験は最も衝撃的なやり方で人間に人間の条件の両犠牲を発見させる経験の一つである。人間はその中で、肉体として精神として、また他者として主体として自分の経験をするのである。この対立は女の方が劇的性格をおびる。女はまず自分を客体としてとらえ、すぐには快感に確かな自律性を見出さないからだ。女は肉体の条件を受け入れながら、超越する自由な主体の威厳をどうしても取り戻さなければならない。これは困難で危険に満ちた企てなのだ。

しばしば挫折する。しかし、女の状況そのものの難しさが、男だと担がれやすいまやかしから女を守ってくれる。男は、その攻撃的な役割とオルガスムスに満たされた孤独に含まれる偽りの特権にとにかく騙されがちである。男は自分を全くの肉体として認めるのをためらうのだ。女の方が自分自身について本当に体験をする。

受け身の役割には多少とも正確に適応するにしても、女は能動的な個人してはいつも満たされない。女が男をうらやむのは彼の所有する器官のためではなく、彼の獲物のためである。男が優しく、愛情のある、柔らかな感覚的世界、女性的な世界で生きているのに、女は困難で厳しい男性的な世界で生きるというのは、奇妙な逆説である。

女の手は柔らかな肉体、溶けそうな果肉、若者、女、花々、毛皮、子どもを抱きしめたい欲望をもちつづけている。自分自身の一部を自分の意のままにできるし、男に委ねる宝とおなじ宝を自分も持ちたいと思う。多くの女に多少とも潜在的にではあるが同性愛の傾向があるのは、これで説明がつく。複雑な原因が合わさって、この傾向がとくに強く現れる女もいる。

女たちがみな、社会が唯一公認する昔ながらの解決策をそのまま受け入れて、自分の性の問題を解決しているわけではない。非難される道を選んだ女たちのことも、私たちは考察しなければならない。 
 つづく 第四章 同性愛の女