ただひとたび思春期になってしまうと、将来は近づいてくるだけではない。彼女の肉体に根を下ろし、最も具体的な現実となる。つねにそうだったように、将来は逃れられない性質のものである。思春期の青年が大人の年齢に向かって積極的に進むのに対して、若い娘の方はこの予知できない新しい時代の始まりをうかがっている。

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第二章 娘時代

本表紙 第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール著 中嶋公子・加藤康子監訳

第二章 娘時代

 女の子は、子ども時代を通じて束縛され、去勢されてきた。にもかかわらず、彼女は自分を自律した個人として捉えてきた。両親や友人との関係のなかで、勉強と遊びのなかで、彼女は自分を超越的存在(用語解説)として見出していた。将来受け身の存在になるだろうと思い描くだけだったのだ。

 ただひとたび思春期になってしまうと、将来は近づいてくるだけではない。彼女の肉体に根を下ろし、最も具体的な現実となる。つねにそうだったように、将来は逃れられない性質のものである。思春期の青年が大人の年齢に向かって積極的に進むのに対して、若い娘の方はこの予知できない新しい時代の始まりをうかがっている。

 すでにこの時代の策謀は張り巡らされていて、時が彼女をそこへ導いていく。子どもであった過去からもう切り離されてしまった娘にとって、現在は過度期としか思われない。そこにどのような納得のいく目標も見つけられない。だが、目前のさまざまな用事だけは見出している。多少とも偽りの姿で、彼女の青春を待つことに費やされる。彼女は《男》を待っている。

 たしかに、青年もまた女を夢に描き、求めている。だが、女は彼の人生の一つの要素に過ぎないだろう。女は彼の運命の全てを顕すものではないからだ。子どもの頃から女の子は、女として自分を実現したいと望んでいたにせよ、女であることの限界を乗り越えたいと望んでいたにせよ、男に自己の成就と逃避を期待してきた。

 彼の顔はペルセウス[ギリシア神話の英雄]や聖ゲオルギウス[270頃―303頃、ローマの軍人。十四世救聖人の一人。ドラゴンを退治した伝説上の勇者]のようにまばゆい。彼は解放者だ。金持ちにして権力者であり、幸福の鍵を握っている。彼はおとぎ話の《すてきな》王子さまなのだ。

 彼に愛撫されたら、母の膝で眠っていた時と同じように、《生命》の大きな流れに運ばれているような気持ちになるだろうと彼女は予感する。彼の優しい威厳に身を委ねて、彼女は父に腕のなかやで感じていたのと同じ安らぎを取り戻すだろう。そうして、抱擁と眼差しの魔術が彼女をふたたび偶像に固定するだろう。


 彼女は常に男の優位を納得させられてきた。この男の威信は子どもじみた幻想ではなく、経済的におよび社会的基盤によって支えられている。男たちはまちがいなく世界の主人である。誰もが若い娘に男の家来になることが身の為であると言い聞かせる。両親は彼女にそうするように勧め、父親は娘が勝ち取った成功を誇り、母親は恵まれた将来が約束されたと思う。友人たちは仲間のなかで男性の賛辞を最も多く集める女性を羨み、賞賛する。

 アメリカのカレッジでは、女子学生の優劣は掛けてもちしている「デート」の数で評価される。結婚は名誉あるキャリアであるばかりか、他の多くのキャリア大変ではない。結婚だけが女に完全な社会的尊厳を獲得させ、愛人としての、また母としての性的な自己表現を可能にするからである。まさにこのような形で、周囲の人々は娘の将来を思い描き、娘自身も自分の将来を思い描くのである。

 彼女にとって、夫――またはある場合には保護者――の獲得が最も大切な計画であるのは衆目の一致するところだ。男にとって、《他者》は女のうちに具体的姿をとって現れるように、女の目に《他者》はは男のうちに具体的姿をとって表れる。しかし、女にとって、この《他者》は本質的なものとして姿を現し、女は男[この《他者》]に対して自分を非本質的なものとして捉える。娘は両親のいる家庭から、母からの支配から解放されるだろう。

 だが、自分の未来を開くのは、能動的な征服によってではなく、新しい主人の腕の中でふたたび受動的に従順になる事によってである。

 女の子がこのような自己放棄を甘受するのは、肉体的にも精神的にも男の子よりも劣るようになり、彼らと競えなくなるからだとしばしば言われてきた。つまり、彼女はむだな競争を諦めて、自分の幸福を確実にしようと上層カーストの成員の一人にそれを委ねるのであると。実際は、彼女の恭順が彼女のすべての無能力を生むのである。恭順の原因は過去の少女時代、彼女を取り巻く社会、そしてまさに彼女に勧められる未来にあるのだ。

 思春期に娘の体形

 たしかに、思春期に娘の体形は変わる。身体は前よりも虚弱である。女の生殖器は傷つきやすく、その働きは微妙だ。不馴れでうっとうしい乳房は重い。激しい運動をするとき、乳房はその存在を思い出させる。一緒に揺れて、苦痛だ。この頃から、女の筋力、持久力、敏捷性は男に劣るようになる。

 ホルモンの分泌がアンバランスなために、神経と血管運動が不安定になる。月経時の変化は辛い。頭痛、だるさ、下腹部の痛みで苦しくなったり、あるいは通常の活動が出来なくなる事さえある。これらの不調に精神的な動揺が加わる。神経質になり、いらいらして、毎月、半ば自分であって自分でないような状態で過ごすことがよくある。

 中枢による神経系と交感神経系のコントロールが安定しなくなる。血液循環の不調やある種の自家中毒によって、身体は、壁となって女の世界を隔て、熱い霧となって女に重くのしかかり、その息を詰まらせ、彼女を切り裂く。調子の悪い、受け身のこの肉体をとおして、全世界は耐え難い重荷となる。

 苦痛に胸を塞がれて途方にくれた彼女は、自分が他の人々にとってそれまでとは異なる存在であることから、自分自身にとっても自分でないような感じになる。

 統一性は解体し、瞬間はもはや結びあわされず、他人は抽象的な認知によらなければもう認知することもできない。鬱(うつ)病的妄想の場合と同様に、論理性が損なわれずそのまま残っていれば、それは器官の変調のなかで剝き出しなる情動の存在をはっきり示すのに役立つだろう。以上の事実は極めて重要である。しかし、女がこれらの事実に重要性を与えるか否かは、これらの事実をどのように意識するかにかかっている。
 男の子たちが暴力とは何かを実際に学習し、攻撃性や権力への意志、挑戦への志向を発展させるのは13歳頃である。まさにこの時期に女の子の方は乱暴な遊びを諦める。女の子は前と同じようにスポーツをすることはできる。しかし、専門化し人為的ルールに従わねばならないスポーツは、習慣的で自然な力を使うものとは違う。それは生活の外側にあって、敵味方入り乱れた乱闘やケンカの予期せぬエスカレートほど、世界や自分自身について肌で教えてはくれない。

 スポーツをする少女は、仲間をやっつけた少年が感じる勝ち誇った気持ちを体験することはけっしてない。そのうえ、多くの国々では、娘たちの大半がスポーツの訓練を全く受けていない。揉み合いや激しいケンカを禁じられているので、彼女たちは自分の肉体に対して受け身の態度を取るしかない。

乳児期

におけるよりもはるかにきっぱりと、若い娘たちは自分に与えられた世界を越えて姿を現すのを、他の人々より優れていると示すのをあきらめねばならない。つまり、彼女たちには可能性の限界を探り、それに果敢に挑戦し、それを広げることが禁じられているのだ。

 とくに、若者にきわめて多い挑戦的態度は娘にはほとんど見られない。確かに女はどうしは比較し合う。しかし、挑戦はこのような受動的な比較とは別ものである。なぜなら、二つの自由は、世界に対する影響力をもち、その限界を押し広げたいと思っている限り、真っ向から対立するからである。仲間より高く登ること、降参させること、それは大地全体に対して自分の主張することである。

 このような征服的な行動は娘には許されない。とりわけ、暴力は許されない。おそらく、大人の世界では、暴力は平時には大きな役割を果たすことはないだろう。とはいっても、暴力は大人に世界につきまとっている。暴力の可能性を背景に秘めた男の行動は数多くある。

 街角ではよくケンカが起こるが、たいていはおさまる。だが、男が自分の主権を確認するには、拳のなかに自己主張の意志を実感できれば十分なのだ。自分を客体にしようとする、あらゆる侮辱、あらゆる企てに逆らって、叩いたり、殴られたり危険を冒すという有効な手だてが男にはある。

 他者によって超越されるままにならず、自分の主体性のなかに戻るのだ。暴力は男たちそれぞれが自分自身に、自分の情熱に、自分自身の意志に同意していることを示す真の試金石である。暴力を完全に否定することは、すべての客観的真実が断たれることであり、抽象的な主観性に閉じ込められることである。筋道をとおさない怒りや反抗は想像以上のものにとどまる。

 心の動きを大地のうえに刻めないというのは耐え難い欲求不満である。

 アメリカ合衆国の南部では、黒人が白人に対して暴力を用いることは絶対に不可能である。この禁止命令が神秘的な「黒人魂」を解くカギである。白人社会のなかでの黒人の感じ方、白人社会に適応するめに黒人が行動、黒人が求める代償など、黒人に強いられる受動性から説明される。

 ドイツ軍占領時代に、たとえ挑発された場合でも、ドイツ兵士に対する激しい行動は慎もうと決心したフランス人たちは――(利己的な慎重さによるものにせよ、そうせざるを得なかったにせよ)――根底から覆されてしまった世界における自分たちの状況に気づいたのだ。

 彼らの状況は、彼らが客体を変えてしまった他人によって左右されるものになり、彼らの主体性はもはや自分を具体的に表現する手段をもたず、副次的現象でしかなかったからである。

 このように、世界は、威圧的に自分自身を立証することが許される青年にとってと、感情を直接発揮できない若い娘にとっては、まったく異なった様相をもっている。一方は、たえず世界を問題にし、いつでもあらかじめ与えられた条件で反抗することができ、だから条件を受け入れる時には自分が積極的にそれを認めたのだと感じる。他方は、世界を耐え忍ぶだけである。世界は彼女抜きで決定され、その姿は不動である。このような身体的な無力さはより一般的な内気さとなって現れる。

 娘は自分の身体でたしかめられなかった力を信じることができず、思い切って企てたり、反抗したり、考え出したりしないのだ。従順さや諦めを運命づけられて、彼女は社会のなかですでに定められた位置を受け入れるしかない。彼女は物事の秩序をはじめからある条件をと考える。

 ある女性は、思春期のあいだ執拗な自己欺瞞によってずっと自分の身体的な弱さを否定していたと、私は語った。身体的な弱さを認める事は、たとえ知的領域や政治的領域においてから、何かを企てる意欲と勇気をなくすことだったのだ。

 私が知っている娘は、少年のように育てられ、並みはずれて強靭で、自分のことを男と同じくらい強いと信じていた。彼女はとてもきれいだったにもかかわらず、毎月生理痛に苦しんでいたにもかかわらず、自分が女であることをまったく意識せず、ぶっきらぼうで活気にあふれ、少年のように主体的だった。

 彼女は少年のように大胆だった。たとえば、子どもや女性が乱暴されているのを見ると、町中でもためらうことなく拳骨を固めて割って入った。一、二の不幸な経験から、暴力は男の味方だと気づいた。自分の弱さのほどわかったとき、自信の大部分消えてしまった。それが変化の始まりで、彼女は彼女らしくなるように、受け身のままで自己実現するように、存在を受け入れるように仕向けられたのである。

 もはや自分の身体が信じられなくなること、それは自分自身への信頼を失うことである。どんな主体も自分の身体を自分を客観的に表現するものとみなしていることを理解するには、若者たちが自分の筋肉に認めている重要性を見ればよい。

 若者の性的な衝動は

彼に自分の身体から引出される自尊心を確認させるだけである。彼はそこに自分の超越(用語解説)と力のしるしを見出す。娘も自分の欲望を認めることができる。だが、たいていの場合、このような欲望には恥ずかしさがつきまとっている。

 身体全体が不快な影響をこうむる。まったく子どもだった彼女が自分の「内部」に対して抱いた不信感によって、月経の開始は疑わしい性格のものとなり、それが月経の始まりが引き起こす精神的態度こそが、月経の拘束を酷く困難なものとするのである。

 一定期間自分にのしかかる脅威が彼女にとって耐え難く思われると、自分の不都合が知れたらどうしようという恐れから、遠出や気晴らしを諦めてしまうだろう。この不都合が抱かせる嫌悪感が身体にも影響を及ぼし、その不調と苦痛は増大させる。

 すでに述べたように、女性生理学の特徴の一つは、内分泌と神経調節が密接に関係している、つまり相互作用があることである。女の身体――とりわけ娘の身体――は、いわば精神生活とその生理学的実現とのあいだに距離がないという意味で「ヒステリックな」身体なのである。娘が思春期の変調を発見することによって引き起こされる精神的動揺が、この変調を大きくする。

 彼女には自分の身体が疑わしいものに思われ、それを不安な気持ちで見張るので、病気なのだということになる。すでに述べたように、たしかに、この身体は弱い。そこに生じる文字通り器官な変調もある。しかし、産婦人科医は異口同音に患者の十人に九人は気が病んでいる、つまり、彼女たちの不調には生理学的実体がまったくないか、器官の変調それ自体が精神的態度によって引き起こされるものであると言っている。女の身体を苦しめるのは、ほとんどの場合、女であるという不安なのだ。

 女の生物学的状況が女にとってのハンディキャップになるのは、それをどのように捉えるかに寄っていることが分かる。神経の虚弱さや血管運動の不安定も、それらが病的なものにならなければ、女がどのような職業に就くことも妨げない。男のあいだでも、体質は非常に多様なのだから。月に一日か二日の身体の不調はたとえ辛くても障害物ではない。

 実際、多くの女がそれに順応している。とくに月一回の「不運」によっていっそう嫌な思いをしかねない女たち、たとえばスポーツ選手、旅行家、きつい仕事をしている女たちもそれに順応している。大部分の職業は女が出せる力以上の力を必要としていない。

 また、スホーツにおいてめざす目標は、身体的能力と無関係な成功ではなく、それぞれの身体にふさわしい完成を達成することである。フェザー級のチャンピオンにはヘビー級のチャンピオンと同じ価値があり、スキーの女性チャンピオンは彼女より早く滑る男性チャンピオンに劣るわけではない。

 両者は二つ異なるカテゴリーに属しているからである。自分にふさわしい達成に積極的に関心を持ち、男と比較して自分のハンディキャップがあると感じることが最も少ないのは、まさに女性のスポーツ選手である。いずれにせよ、肉体的な弱さのせいで女は暴力の修業を体験できない。だが、もし、女が自分の身体をとおして自己主張ができ、別のやり方で世界の中に登場できるならば、このような欠陥は容易に補われるだろう。

 泳ごうとも、尖峰に登ろうとも、飛行機を操縦しようとも、自然の力と闘い、危険を冒し冒険を試みようとも、彼女は世界を前にして、私が語ってきたように弱気になったりはしないだろう。女に極めてわずかな出口しか残しておかない状況全体においてこそ、こうした女の個別性は、直接的にではなく、子どものときから彼女の心に根をはってきた劣等コンプレックスを強固にするかたちで、その意味を持ってくるのである。

 この劣等コンプレックスは女の知的完成にも重くのしかかっている。思春期が始まると、女の子は知的領域と芸術的領域で男この子に差をつけられるようになるとしばしば指摘されてきた。それには多くの理由がある。最もよく見られる理由の一つは、若い娘はその兄弟には与えられる周囲からの激励に出会う事がないというものである。

 それどころか、人々は彼女もまた一人の女であることを望み、彼女は職業上の責務と女であることに由来する責務を背負わなければならない。ある職業学校の女の校長は、この点に関して次のように指摘した。

 娘は突然働いてお金を稼ぐ存在になる。彼女には、もはや家族とはまったく関係のない新しい望みがある。相当な努力を要することもかなり多い・・・・夜、くたくたに疲れ切り、頭は昼間の出来事がすべて入った詰め物のようになって、家族の下に帰る・・・・そこで、彼女はどのように迎え入れられるのだろうか。母親は彼女をすぐに使い走りにやる。終えなければならないやりかけの家事があるし、自分の洋服の手入れもしなければならない。彼女はずっと心から離れない自分の状況と、家で果たすべき義務がなにもない兄弟の状況を比較して、憤慨する(*1、訳注説明)。

母親が学生や実習生である娘にためらいもなく強制する家事あるいは浮世の義理は、娘を過労状態に追いやる。戦時中に、私がセーヴル[パリ南西部]の女子高等師範学校の入学試験のための指導をしていた生徒たちが、学業うえにさらに加わる家の用事に押しつぶされるのを見てきた。

 たとえば、一人の生徒は脊髄カリスエに、もう一人は髄膜炎になった。母親は――いずれ述べるが――娘の解放にひそかな敵意を抱き、程度の差はあれ故意に娘を束縛しようとする。少年が一人前の男なるためにする努力には敬意が払われ、すでに彼には大きな自由が認められている。娘は家にいるように要求され、外出が監視される。娘が自分の娯楽や気晴らしを自分で手に入れる事はけっして奨励されないのだ。

 女だけの長めの小旅行、徒歩や自転車旅行を計画したり、あるいはビリヤードやペタンク[南仏起源の球技]のようなゲームにふける女たちを見るのは稀である。

 教育からくる自主性の欠如に加えて、慣習が女の自立を困難にしている。女が街をうろうろしていたら、まじまじと見られ、男に声をかけられる。私が知っている娘たちは、けっして臆病ではないが、自分たちだけでパリの街を散策しても楽しみが見いだせない。たえず邪魔され、つねに警戒しなければならないからだ。

 彼女たちの楽しみそれですべて台無しにされる。もし女子学生が、男子学生がやるように、集団で賑やかに坂道を下って行ったら、物笑いの種になる。大股で歩いたり、歌ったり、大声で話したり、ばか笑いしたり、リンゴを食べたりすることは挑発であり、彼女たちは侮辱されるか、つきまとわれるか、声をかけられるだろう。無頓着は即座に無作法になる。

 女の義務であり、「育ちのよい娘」の第二の本性となっているこの自己抑制は、自発性を殺してしまう。彼女の生き生きした有り余る活力は抑制される。その結果、緊張と倦怠が生じる。この倦怠は伝染しやすい。それで、娘たちはお互いすぐ飽きて、自分たちの狭い関係に互いに執着しなくなる。

 そしてこれが、彼女たちにとって男の子と一緒にいることがあれほど必要となる理由の一つなのである。このように自己充足できないことから内気さが生じ、それは生活全般に広がり、勉強の面にさえはっきりと現れる。

 彼女たちは輝かしい勝利は男に取っておかれると考え、あえて高望みはしない。すでに述べたように、15歳の女の子は少年と自分を比べて、「男の方がいい」と言い切る。このような確信はやる気をなくさせ、怠慢と凡庸へと向かわせる。

 ある娘が――男に特別な尊敬の念など全く持っていなかったのだが――ある男を卑怯だと言ってなじった。その娘は、彼女自身もひどく意気地がないと指摘されると、愛想よく「まあ、女は別よ」と言ったのである。

 このような敗北主義の根本的な理由は、若い娘が自分の将来に責任があると考えていない事と、自分の運命を左右するのは結局自分ではないのだから、自分に多くを要求しても無駄だと思っていることにある。

 自分が男よりも劣っていることを知っているから男に身を捧げるのではなく、男に捧げられているからこそ、自分は劣っているのだという考えを受け入れて、彼女は劣ったものになるのである。

 というのも、男からみて若い娘が価値を得るのは、人間としての価値を増すためではなく、彼らの夢に合わせて自己形成をするからである。まだ世間知らずのときには、その事を必ずしも理解しているわけではない。その結果も少年たちと同じような攻撃性を表に出すことがある。

 むき出しの権威や思いあがった素直さで彼らを支配しようと試みるが、このような態度によって彼女はほとんど確実挫折に導かれる。最も卑屈な者から最も傲慢な者まで、彼女たちは全て、好かれるためには誇りを捨てなければならないことを知っている。

 母親たちは娘たちに、これからは男の子を仲間として扱ってはならない、彼らに言い寄ってはならない、受け身の役割をあえて受け入れなさいと厳しく言う。友情や好意をそれとなく示したいならば、細心の注意を払って主導権を取っていると思われないようにしなければならない。

 男はおてんば娘も才女気取りも才女も好きじゃない。過度の大胆さや教養や知性、過度の個性は男をたじろがせる。大抵の小説では、ジョージ・エリオット[1819-80、英国の女性作家]が指摘しているように、男性的な性格の褐色の髪の毛に勝つのは、金髪の愚かなヒロインである。また『フロス河の水車場』[エリオットの小説]で、[主人公の]マギーはこの役割を逆にしようとして失敗し、結局は死んでしまい、スティーブンと結婚するのは金髪のルーシーである。

『モヒカン族の最後』[アメリカの作家、クーパー(1789-1852)の小説]では、好感のもてるジョーはローリーにとっては幼友達にすぎず、彼はつまらない巻き毛のエミイに愛を捧げる。女らしいとは、無力で、軽佻浮薄(けいちょうふはく)で、受け身で、従順であると示すことである。

少女は自分の身を守り、身なりを整えなければならないばかりか、自発性を抑え、その代わりに、年長の女たちが教えてくれるしとやかさをと見せかけの魅力を身につければならないだろう。自己主張はすべて、女らしさと誘惑の機会を減少させるのだ。

若い男の人生への出発を比較的容易にするのは、人間としての使命と男としての使命が矛盾しないからである。すでに彼の子供時代がこの幸せな運命を予告していた。彼が社会的な価値と同時に男性的な威信を獲得するのは、独立および自由として自分を実現することによってである。

野心家は、ラスティニャック[バルザックの『人間喜劇』の登場人物。立身出世主義者の典型]のように、金と名誉と女を一挙に得ようとする。彼は、女たちは権力があって有名な男をもてはやすと、繰り返し言っては自分を発奮させている。

思春期

若い娘はといえば、若い男とは逆に、文字通りの人間としての条件と女としての使命とのあいだに分裂を抱えている。思春期が、女にとってきわめて困難で決定的な時期であるのはそのためである。それまで自律した個人であったが、自分の主権をあきらめなければならないのだ。兄弟たちのように、彼女は過去と未来の間で、より深刻なかたちで引き裂かれるだけではない。

さらに、主体、活動、自由であるという本来の要求と、他方の、受け身の客体として自己を受容するよう促す彼女の官能の傾向と社会の要求、とのあいだで葛藤が起きるのだ。彼女は自発的に自分を本質的なものとして把握している。

それでは、どのようにして彼女は非本質的なものになろうと決心するのだろうか。しかし、私が《他者》として自己実現できないなら、どのようにして自分の《自我》を捨てるのだろうか。これが身を苛むジレンマであり、このジレンマに直面してこれから女になる娘は悪戦苦闘する。

欲望から嫌悪へ、希望から恐怖へと揺れ、望んでいるものを拒絶しながら、彼女は子どもとしての自立の時期と女としての服従の時期のあいだで相変わらず宙づりになっている。つまり、この安定のなさが、思春期の終わり頃に、青い果実の酸っぱい味を娘に教えるのである

若い娘は、彼女がこれまでした選択に従って、非常にさまざまなやり方で、自分の状況に立ち向かう。将来の家庭の主婦である「小さな妻」はこの変身をたやすく甘受するかもしれない。しかしながらまた、彼女は「小さな母親」という自分の条件から権威への志向を引き出し、それが彼女を男の束縛に対する反抗へと導くこともありうる。

彼女は性愛の対象と召使い

になるのではなく、母親権を築くことができるのである。こうしたことは、非常に若くして重大な責任を引き受けた長女の場合にしばしば起きる。「おてんば娘―できそこないの少年」は、自分が女であることを発見してときには激しい失望感を味わい、そのまま同性愛に至ってしまうこともある。

しかし、自立と暴力のなかで彼女が求めていたのは、世界を所有することであった。だから自分が女であることによってもつ力、母親としての経験、つまり自分の運命の一部をそっくり放棄することは望まないかもしれない。普通は、いくらかの抵抗を経て、娘は自分が女であることに同意する。すでに、子どもっぽい媚びを示す時期に、父親の前だ、あるいは、性的な夢想の中で、彼女は受け身でいることの魅力を知った。

彼女はその力を発見する。自分の肉体に抱く羞恥心に、やがて虚栄心が加わる。彼女の心をゆり動かしたあの手、彼女の心をかき乱したあの眼差し、それは訴えであり、祈りであった。彼女には自分の身体が魔力をもっているように思われる。それは宝であり、武器である。彼女はそれを誇りに思う。自律し子ども時代の数年間はたいてい消えている媚びが復活する。

化粧を試みたり、髪を結ってみたりする。乳房を隠す代わりに、大きくするために寄せ合わる。鏡の中で微笑みの練習をする。恋のときめきと魅力とは密接に関係しているので、性的な感覚が目覚めていない場合には例外なく、その主体には人に気に入られたいという願望がまったく見られない。

実験で示すところによれば、甲状腺不全に苦しみ、したがって、感情が鈍磨した無愛想な患者が、甲状腺の抽出液の注射によって元気になっている。患者たちは笑い出し、陽気になったり、しなをつくるようになるのだ。

大胆にも碓物論的形而(しこう)上学を信じ込んだ心理学者たちは、媚びは甲状腺によって分泌される「本能」であると明言してきた。しかし、このような漠然とした説明は、乳児期に関しても同様にここでも有効であるとは言えない。

 事実は、粘液質、貧血など器官上の欠陥の場合には必ず、身体に重荷として耐え忍ばれるという事だ。自分にとって疎遠で敵対的となった身体は何も望まず、何も約束しない。だが、身体がそのバランスと活力を取り戻すと、ただちに、主体は身体を自分のものと認め、身体をとおして他者に向かって自己超越(用語解説)する。

若い娘にとって、性的超越とは、獲物を手に入れるために、自分が獲物になる事である。彼女は客体になり、自分の客体として把握する。驚きとともに自分の存在のような新しい面を発見する。それで、彼女には自分が二重化するように思われる。自分とぴったりと一致するのではなく、いまや彼女は自分の外部で存在し始める。

このようにして、ロザモンド・レーマン[1903年生まれのイギリスの女性作家]の『ワルツへの招待』で、オリヴィアは鏡のなかに見知らぬ顔を発見する。それは突然彼女自身に向かい合って立つ彼女―客体である。そのことに、彼女は動揺を感じたが、それはすぐに消え去って、感動となった。

しばらく前から、こんなふうに彼女が足の先から頭のてっぺんまで自分を見つめる時には、特別な感動が生じていた。思いがけない、滅多にない形で、彼女は自分の前に見知らぬ女、新しい存在を見ると言うことがあったのだ。

それは二、三回繰り返し起きた。彼女は鏡のなかの自分を見つめ、自分を見ていた。でも、何が起きたのだろうか‥‥今日、彼女が見たのはまったく別のものだった。それは暗くしかも同時に輝いてもいる神秘的な顔であり、動きと力に満ちあふれ、まるで電流が走り抜けたような長く豊かな髪だった。

彼女の体は――ドレスのせいで――見事にほっそりとしているように思われた。引き締り、晴れやかで、しなやかであるとともに落ち着いている。つまり生き生きしているのだ。彼女の目の前には肖像画のようなバラ色の服を着た若い娘がいた。鏡に映ったその部屋のすべてのものが、「これはあなたですよ・・・・」とつぶやきながら、彼女を縁どり、描き出しているようであった。

オリヴィアを魅惑するのは約束であった。それを彼女は自分の子供の頃の夢が認められこの像、そして彼女自身でもあるこの像の中に読み取ったように思った。しかし、若い娘は、まるで別の娘の身体のように彼女を驚愕させるこの身体を肉体的存在として慈しむ。彼女は自分自身を愛撫する。肩の丸み、肘の内側をなで、胸、脚を見つめる。孤独な楽しみというのが夢想の言い訳になり、彼女はそうやって愛情をこめて自分を所有しようとする。

性愛の衝動

青年の場合には、自己愛と所有すべき客体に向かって自己を投げ出す性愛の衝動とのあいだに対立があるが、彼のナルシズムは概して性的に成熟すると消え去る。それに対して、女は自分にとって同様に恋人にとっても受け身の客体なので、その性愛には根源的なあいまいさがある。複合的な衝動のなかで、彼女は、男たちの賛辞をとおして、自分の肉体を賛美しようとする。

この肉体は男たちのためにあるのだから。彼女は魅了するために美しくありたいと、あるいは自分が美しいことを確かめるために魅了するのだと言えば、事は明快になるだろう。自分の部屋で独りきりになっているとき、客間で視線を引きつけようと試みるとき、彼女は男への欲望と自己愛とを分ける事がないのだ。

このような混乱はマリー・バシュキルッェフにはっきり見られる。すでに述べたように離乳が遅かったために、彼女は他のどの子どもより激しく他人から見つめられたい、いい子だと思われたいと望むようになった。五歳のときから思春期の終わりまで、彼女は自分の愛のすべてをじぶんのイメージに捧げ、自分の手、顔、優雅さを熱烈に賛美し「私は私のヒロインです・・・・・」と書いた。彼女は、群衆が驚嘆してみてくれるように、そして、その代わりに勝ち誇った眼差しで彼らを見下ろすために、歌姫になりたいと思っていた。

しかし、この「自閉症」は現実離れした夢となって現れる。12歳から、彼女は恋をしている。それは愛されたいからであり、相手に抱かれたい熱愛のなかに自分が自分に捧げた熱愛の確認をひたすら求めたいからである。彼女は恋しているH公爵が、一度も言葉を交わしたことがないにもかかわらず、自分の足元にひれ伏すのを夢見ている。「あなたは私の輝きに目を奪われ、私を愛するでしょう・・・・あなたは私がそうありたいと望むように女性にのみふさわしい方なのです」。これが『戦争と平和』のナターシャに見る両面感情[同一の対象に対して相反する態度や感情をとること]と同じである。

ママも私のことをわかっていない。ああ、まったく、私ってなんて頭がいいんだろう。「このナターシャは本当に魅力的だ」。自分のことを三人称で呼び、非常に男らしい立派な男性があたかもその驚きを口にしているかのように続けた。「彼女にはすべてがある、彼女の為にすべてがある。利発で、親切で、おまけにきれいで、器用だ。彼女は泳ぎ、乗馬を見事にこなし、歌も素晴らしい。そう、すばらしく、と言っていい―」・・・・

その朝、彼女はこのような自己愛に、自分に対する賞賛に立ち戻っていた。これは彼女のいつもの精神状態だった。「なんてこのナターシャはすてきなんだ」と、彼女は男性三人称集合名詞で言った。「彼女は若くて、きれいで、声も美しく、誰にもいやな思いをさせない。だから、彼女をそっとおいてあげよう―」

また、キャサリン・マンスフィールド[1888-1923、イギリス女性短編作家]も、ベルリンという登場人物をとおして、ナルシズムと女の運命の一つであるロマネスクな願望を緊密に連携に混ざり合うさまを描いた。

食堂で、薪の火のちらちらする微光に照らされて、ベリルはクッションに座ってギターを弾いていた。彼女は自分のために弾き、小声で歌い、自分を見つめていた。火のほのかな光が彼女の靴の上で、ギターの真っ赤な胴の上で、そして彼女の白い指のうえできらめいていた・・・・「もし私が外にいて、窓越しに家の中を眺めたら、こんなふうに私を見て、とても感動するだろう」と夢想に耽っていた。

彼女はずっと音を弱めて伴奏した。もはや歌う事はなく、聞いていた。「初めて私が幼いあなたに会った時、ああ、あなたは本当にひとりぼっちだと思っていたのね。あなたは小さな足をして、クッションの上に座り、ギターを弾いていた。とんでもないわ、けっして忘れたりはしない・・・・・」・ベリルは顔を上げ、歌い始めた。

月さえも疲れ果てて。

しかし、誰かが扉を叩いた。女中が真っ赤な顔を覗かせた・・・・あ―いやだ、彼女はこのばかな娘に我慢できないのだろう。薄暗い客間に逃げ込んで、部屋の中を行ったり来たりし始めた、ああ、彼女は苛立ち、落ち着きを失っていた。マントルピースの上には鏡が掛けられていた。両腕を支えにして、青白い自分の像を見つめた。なんと彼女は美しいのだろう。だがそれに気づく者は誰もいなかった、誰も・・・・。ベリルは微笑み、それが本当の可愛い微笑みだったので、また微笑んだ・・・・(『前奏曲』)

このような自己崇拝が自分の肉体への情熱となって現れるのは、なにも若い娘だけとはかぎらないのだ。若い娘は自分の全てを所有し、賞賛したいと望んでいる。

それこそそれらの[出版を予想していない]私的な日記をとおして追求される目的である。そこに彼女は自分の心情を進んで吐露するのだ。たとえばマリー・バシュキルッェフの日記は有名であり、この種の日記の典型である。

若い娘は、ついさっき自分の人形に話しかけていたように、自分の日記帳に話しかける。それは友だち、心の許せる友だちであり、あたかもそれが一人の人間であるかのように呼びかける。ページのあいだには、両親や仲間、教師に隠している真実が書き込まれる。そして、書き手は独りでうっとりとなる12歳の女の子は20歳代まで日記をつけたのだが、冒頭に次のように記した。

私は小さな日記帳
優しく、きれいで口が堅い、
あなたの秘密はなんでも私に打ち明けて
私は小さな日記帳(*2)

娘たちの中には、「私の死後にのみ読むこと」、あるいは「私の死後には焼却すること」などと書いておくのもいる。思春期の女の子にあって発達する秘密への鋭い感覚は、秘密の重要性をいっそう大きくする。彼女は執拗に孤独のなかに閉じこもる。そして、自分では真の自己と思っているが、実際には想像上の人物でしかない隠れた自己を、周囲の人々に明かすまいとする。

たとえば、トルストイのナターシャのように踊り子に、マリー・ルネリュがしたように聖女に、あるいは単に彼女自身というこの特別優れた女になったつもりになる。このようなヒロインと、彼女の両親や友人が彼女を認める客観的な顔とのあいだには、つねに非常に大きな落差がある。

だから、自分は理解されていないと思い込む。それで、自分自身との関係はより熱のいったものにならざるをえない。彼女は孤立状態にうっとりし、自分を型破りで、優れていて、特別だと思う。未来はいまの凡庸な生活に仕返しするかのように素晴らしいはずだと期待する。こうした窮屈でいじけた生活から夢によって脱出する。

彼女が夢見ることがずっと好きだった。だから、これまで以上にこの性向に身を任せるだろう。彼女を怖気づかせる世界を詩の決まり文句で覆い隠し、男性を月の光やバラ色の雲やビロードの夜を飾り、自分の肉体を大理石や碧玉や螺鈿(らでん)の寺院になぞらえる。そして、自分自身に幼稚な夢物語を物語る。彼女がこれほどしばしば愚かな行為にふけるのは、世界への手がかりをもたないからである。彼女が行動すべきならば、はっきりと自分の行動を見極めなければならない。

それなのに、彼女は霧のなかで待ってしまう。若い男も夢をみる。とりわけ、自分が積極的な役割を演じる冒険を夢見る。娘は冒険より奇蹟を好み、物と人の上にぼんやりした魔法の光を振りまく。魔法の観念は、一つの受動的な力の観念である。若い娘は受動性を運命づけられているために、にもかかわらず力を得たいと望むので、魔法を信じるしかないのだ。

男を服従させる彼女の肉体の魔法を、なにもしなくても彼女を満たしてくれる運命一般の魔法を信じなければならない。現実の世界については、彼女はそれを忘れようとする。

「時々、学校で、どんなふうにしてかわからないけれど、説明されているテーマから逃れて、夢の国に飛び立つのです・・・・・」と、ある娘は書いている(*3)。「その時には、甘美な空想に浸っているので、完全に現実の観念を失っています。椅子に釘付けになり、気がつくと、自分が部屋にいるのにびっくりしてしまいます」

「詩を書くより夢想に耽る方がずっと好きです」と、別の娘は書いている。「頭のなかですてきなおとぎ話のあらすじをとりとめもなく考えたり、星明りに照らされた山々を見ながら伝説を考えだしたりする方が好きです。それは、より漠然としてて、安らげて元気が出るような気がするから、それだけで素晴らしいのです」

 夢想は病的な形をとって現れることがあるし、また次に示す場合のように存在全体を侵すこともある(*4)

 マリー・B・・・・は、頭がよく夢見がちな子どもであるが、14歳頃にはじまる思春期に、誇大観念をともなった精神的興奮の発作に見舞われる。「突然、彼女は両親に自分はスペインの王妃なのだと宣言し、尊大な態度をとり、カーテンを身にまとい、笑い、歌い、指図し、命令する」。二年間、このような状態が月経中に繰り返し現れた。それから八年間は、正常な生活を送ったが、非常に夢見がちなで、贅沢が大好きで、しばしばつらそうに「私は勤め人の娘なんだわ」と言った。23歳頃無気力になり、周囲の人々を軽蔑し、野心的な考えを表明するようになった。

 あまりにも衰弱したので、聖アンナ精神病院に収容され、八カ月間過ごした。それから、家族のもとに帰り、そこで三年間床についた。「不愉快で、意地悪で、粗暴で、気まぐれで、何もせず、周囲のすべてのものに本物の地獄の生活を味わわせた」。彼女は再び聖アンナ精神病院に連れて行かれて、もはやそこから出る事はなかった。

 彼女はベッドに伏せったままで、何に対しても関心を持たなくなった。一定の期間――月経の時期に対応するようにおもわれる――彼女は起き、毛布を身にまとい、芝居がかった態度をとり、もったいぶり、医者に微笑みかけ、あるいは彼らを皮肉っぽく眺めた・・・・彼女の言葉はしばしばある種の官能性を表わし、また、彼女の尊大な態度は誇大妄想的な考えを顕していた。

 彼女は次第に夢想にはまり込み、その間、彼女はもはや化粧をまったくせず、自分のベッドさえも汚した。「彼女は奇妙な飾りを得意げに身に着ける。下着を着けず、裸身をさらしていないときは、しばしばシーツが掛かっていない毛布にくるまり、頭を銀紙でできた王冠で飾り、腕、手首、肩、くるぶしには紐状とリボン状のおびただしい数のブレスレットを着けた。そして同じような指輪が指を飾った」

 こんなふうであるにもかかわらず、ときには、自分の状態について完全にはっきりした意識で打ち明けることがある。 「かつて経験した発作を思い出します。心の底で、これは本当ではないのだと分かっていました。私は、人形で遊びながら、人形が生きていないことをよく知っていて、でも生きていると思いたい子どものようでした・・・・自分の髪を結い、ゆったりとしたひだのある服を身にまといました。それは私を楽しませ、それから少しずつ、心ならずもという感じでしたが、魅せられるようになりました。

 それは夢を生きているようでした・・・・ある役を演じる女優みたいでした。私は想像の世界の世界にいたのです。それからは生きたいくつもの人生で、そして、これからの人生のすべてにおいて、私は主役でした・・・・ああ、私は何とたくさんの異なった人生を生きてきたことでしょう。ある時は、金縁眼鏡をかけたとてもハンサムなアメリカ人と結婚し・・・・私たちは大邸宅をもち、それぞれに自分の部屋がありました。なんとすばらしい祝宴を催したことか・・・・私は穴居人時代を生きました・・・・かつて放蕩三昧の生活もしました。一緒に寝た人の数をすべて数えたことはありません。ここの人たちは少し遅れています。

 私が裸になって太ももに金のブレスレットを着けるのを理解できないのです。以前は、大好きな男友だちがいました。私の家で宴会を催しました。花が、香水が、オコジョの毛皮がありました。男友だちは工芸品、彫像、自動車をくれました・・・・シーツのなかで裸になるとき、私はかつての生活を思い出します。

 芸術家として、鏡のなかの自分を熱愛していました・・・恍惚のなかで、私は私が望むとおりのものでした。愚かなこともやりました。モルヒネ中毒、コカイン中毒にかかったのです。何人かの愛人がいました・・・・彼らは夜になると私の家に忍び込んできました。二人で来ていました。彼らは理髪店を連れてきて、そして、郵便はがきをみていました」。

 彼女はまた医者の一人が好きで、自分は彼の愛人だと言い切っている。彼女には三歳になる娘がいたらしい。また六歳の娘もいるが、とても裕福で、いまは旅をしている。父親は非常にシックな男性である。「おなじような話がこの他にも十ほどある。どれも彼女が想像のなかで体験した作りものの生活の話である」

 このような夢想は病的ななによりも、自分にふさわしい人生を送っていると思えず、また存在の真実に立ち向かうのを恐れる若い娘のナルシズムを満たすためのものであったことが分かる。マリー・B・・・・は、思春期の多くの女性に共通した、補償の過程を極限まで推し進めたにすぎない。

 しかしながら、自分に捧げるこの孤独な崇拝だけでは、若い娘には十分ではない。自分を開花させるためには、他人の意識の中に存在することが必要だ。彼女はしばしば仲間に救いを求める。もっと幼い時には、母親の囲いから逃げ出し、世界、とくに性的世界を探検するために、心の友が支えてくれた。

 いまでは、心の友は、彼女をその自我の限界から救い出す客体であると同時に、彼女の自我を返す証人でもある。お互いに裸体を見せ合い、乳房を比べる女の子たちもいる。おそらく、寄宿生たちのこうした大胆な遊びを描いた『制服の処女』のシーンが思い浮かぶだろう。彼女たちは漠然とあるいは歴然と愛撫を交わしている。コレットが『学校のクロディーヌ』で描いたように、またそれほどあからさまではないが、ロザモンド・レーマンが『砂ぼこり』で示したように、ほとんどすべての娘には同性愛的傾向がある。

ナルシスト的歓喜

このような傾向はナルシスト的歓喜とほとんど変わらない。相手のうちに、それぞれの娘が渇望するのは、自分自身の肌の柔らかさや端正な曲線である。また逆に、彼女が自分自身に抱く熱愛には、一般的な女らしさへの崇拝がふくまれる。性的に、男は主体である。だから普通、男たちは自分とは異なる客体へと彼らを何かに向かわせる欲望によって互いに引き離されている。

だが、女には欲望の絶対的な客体である。それで、高等学校や各学校、寄宿学校、職場においてたくさんの「特別な友情」が花開く。あるものは純粋に精神的であり、また他の者はぎこちないながらも肉体的である。前者の場合は、女友だちのあいだで互いに心を開き、打ち明け話を交わすことがとりわけ大切にされる。

最も情熱的なしんらいの証は意中の女性に自分の日記を見せることである。性的な抱擁はないが、友だち同士でもこの上ない優しさを示し合い、また、しばしば遠回しに自分の気持ちを身体的な証に託して与え合う。このようにして、ナターシャはソーニャへの愛を証明するために赤く焼けた定規で自分の腕を焼いた。

彼女たちは特に様々な優しさを込めた名前で呼び合い、熱烈な手紙を交換する。たとえば、ここにニューイングランドの清教徒であるエミリィ・テ゛ィッキンソン[1830-86、アメリカノ女性詩人]が女友だちに書いた手紙がある。

今日は一日中あなたのことを考え、昨夜も一番中あなたの夢をみました。夢の中で、私はあなたと一緒にこの上なくすばらしい庭を散歩していました。私はあなたがバラの花を摘むのを手伝っていましたが、私の籠はけっして一杯になりませんでした。

それで、こうして一日中、あなたと散歩が出来るように祈っています。そして、夜が近づくと、私は幸せな気持ちになります。私と闇と私の夢はけっして一杯にならない籠をつなぐ時間が来るのをいらいらしながら待ちわびています・・・・

『思春期の女性の心』で、マンドゥーハは同じような手紙を多数引用している。

 いとしいスザンヌ・・・・私はここに『旧約聖書』の「ソロモンの雅歌」の数節を書き写したいと思っています。あなたはなんと美しい。わが友よ、あなたはなんとうるわしい。神秘の許嫁、あなたはシャロンのバラ、谷間の百合にどれほど似ていることか。そして、神秘の許嫁のように、私にとってあなたは平凡な乙女にははるかに優る存在でした。あなたは象徴、たくさんの気高く美しいものの象徴でした・・・・そしてゆえ、汚れなきスザンヌよ、私はあなたを純粋に献身的な心で愛しています。そこには何か宗教的なもますのがあり。

 別の少女はさほど気高いとは言えないときめきを日記のなかで告白している。

 私はそこで、私の腰はその小さな白い手に抱きしめられ、私の手は彼女の丸みのある肩の上にかけられ、腕は彼女のむき出しの生暖かい腕の上におかれ、彼女の柔らかい胸に押し付けられていた。私の目の前で、彼女の可愛い口がその小さな歯をのぞかせながら少し開いた・・・私は震え、顔が焼けるように熱くなっているのを感じた(*5)

 エヴァール夫人も『思春期の女性』のなかで、このような真情の吐露を数多く集めている。

 私の最愛の妖精、愛しい人へ。私の可愛い妖精。ああ、私をまだ愛していると言ってください。私は寂しい、私はあなたをとても愛しているの、ああ、私のL・・・・あなたに私の思いを打ち明けられない、十分に言い表せない、私の愛を語るための言葉がないのです。私が感じていることに比べれば、偶像崇拝などという言葉では足りません。

ときどき私の心臓は破裂しそうになります。あなたに愛されること、それは高望みというもので、ありえないことのようにおもわれます。ああ、私の可愛い人、言ってください。あなたはこれからもずっと私を愛してくれるのかしら・・・・

娘たちはこのような熱烈な愛情から、思春期の若者特有の罪深い愛へと簡単に移っていく。ときには、二人の娘の一方が他方を支配し、サディズム的な権力をふるうことがある。しかしたいていは、侮辱も争いもない相互的な愛である。与えられる受け入れる喜びは、二人でカップルになる前の、それぞれがお互いに別々に愛情を抱いていたときと同じように無垢のままである。

けれども、この汚れのなさそのものが味気ない。思春期の娘が実際の人生に入って、《他者》に近づきたいと思う時、彼女は自分のために父の眼差しという魔法を甦らせたいと願い、髪のごときものの愛と愛撫を求める。彼女は、男ほど未知でも恐ろしくもないが、男の威信を分かちもつ一人の女に向かう。たとえば、職業を持ち、自活し、ある種の社会的な信用を得ている女は、男と同じくらい魅力的だろう。

女学生の心に女教師や女の生徒監督に対する「炎」がどれほど数多く灯されたかはよく知られている。『女性連隊』で、クレメンス・デーン[1887-1965、イギリスの女性作家]は灼熱の激しい情熱がとる清らかなかたちを描いている。娘が心の友に深い恋心を打ち明けることもある。二人はそれを共有し、それぞれが今まで以上に激しく恋心を感じているのを誇りに思うことさえある。と言う訳で、女学生はお気に入りの仲間に次のような手紙を書く。

私は風邪をひいて、ベッドに居ます。私にはXさんのことしか考えられません・・・・女性をこれほど愛したことはありません。すでに一学年のとき彼女をとても愛していました。でも今では本当の恋です。私はあなた以上に夢中だと思っています。彼女を抱きしめているような気がしています。半ば気を失いそうに。また学校に戻れて彼女に会えるのを喜んでいます(*6)

もっと多いのは、娘が自分の感情を情熱の対象そのものに大胆にも告白する場合である。

親愛なるマドマワゼル、私はとても言葉に言い表せないような状態であなたと向き合っています・・・・あなたとお会いしていないので、あなたとお会いするためなら、何もかも投げ捨ててしまえるほどです。絶えずあなたのことを考えています。

あなたを見かけると、私の目は涙であふれ、隠れてしまいたくなります。私はあなたにとってあまりにも取るに足りない存在で、あまりにも無知です。あなたが私に話しかけてくださるとき、私は当惑し、感動します。妖精の優しい声と、愛情のこもった、言いようのないものざわめきを聴くようなきがします。私はあなたのちょっとした仕草をうかがい、もはや会話にはならない、取るに足りないことをつぶやきます。

親愛なるマドモワゼル、あなたはきっと訳が分からないとおっしゃるでしょう。でも、とてもはっきりしているのです。それは私が心の底からあなたを愛しているということなのです(*7)

ある職業学校の女の校長は次のように語っている(*8)

私自身の青春時代に、若い女教師の一人にお弁当を包んできた紙を生徒同士で奪い合ったこと、またその切れ端に20ペニッヒものお金を払ったことが思い出されます。彼女の期限切れなった地下鉄の切符もコレクターの女の子たちの熱中の対象でした。

愛される女は男の役割を演じなければならないので、結婚していない方がよい。結婚しているからといって必ずしも恋する若い娘の気をそぎはしないが、気詰まりを感じる。自分の崇拝の対象が夫または恋人の支配下にあるように見えるのが嫌なのだ。しばしばこのような情熱は密かに、あるいは少なくともまったくプラトニックに繰り広げられる。とはいえ、具体的な性愛への移行は、愛される対象が男である場合よりもこちらの場合の方がはるかに容易だ。

たとえ同じ年頃の友人との気楽な経験がなかったにしても、女に肉体は娘を恐がらせない。彼女は姉妹や母との関係で、愛情にごくわずかな官能性が入り込んだ親密さをしばしば経験してきた。愛する女性の傍らで、うっとりみとれるうちに、愛情は性的悦びへと気づかない形で移っていくだろう。

『制服の処女』のなかて、ドロテア・ヴィークがヘルタ・ティーレの唇に接吻したとき、このキスは母性的なものであると同時に性的なものであった。女たちのあいだには、羞恥心を和らげる共犯性がある。一般的に、一方が他方のうちに呼び起こす性的興奮には暴力的なものはなにもない。

同性愛の愛撫には破瓜(はか)も挿入もないクリトリス型の性愛を満たす

彼女たちは、不安を感じる新たな変身を必要とせずに、子どもの時代のクリトリス型の性愛を満たすのだ。疎外されていると深く思わずに、娘は受動的な対象としての使命を果たすことが出来る。

それがルネ・ヴィヴィアン[1877-1909、フランスの女性詩人]が次のような詩で表現していることである。この詩で、彼女は「却罰を受けた女たち」とその女の恋人たちの関係を描写している。

私たちのからだは彼女たちのからだにとって親しい鏡、
私たちの夢のような口づけはほのかに甘く
私たちの指は頬の産毛を押しつぶすこともない
そして、帯がほどけるとき、
私たちは恋人にして姉妹(*9)

また次の詩において、

私たちは優美さと繊維さが好きなのだから
私はあなたを自分のものにしても、あなたの乳房を傷つけたりはしない・・・・
私の口からあなたの口を激しく噛むことなどありはしない(*10)。

「乳房」とか「口」とかいう語を詩に使うのは不適切であるが、これらの語を用いて彼女がその友人にはっきりと約束するのは、友人を暴力的に自分のものにしないということである。また、思春期の娘がしばしば初恋を男性よりむしろ年上の女性に捧げるのは、部分的には暴力、レイプに対する恐怖のせいである。

 男性的な女は娘にとっては父と母を同時に体現する。父という面で言えば、そのような女は権威や超越を手にし、価値の根源と尺度であり、現実の世界の彼岸に姿を現わす。彼女は神である。しかし、彼女はやはり女のままである。思春期の娘が子どもの頃に母の愛撫からあまりにも早く引き離されたとしても、あるいは逆に、あまりにも長いこと母によって甘やかされたとしても、彼女は兄弟たちと同じように温かい乳房を夢想する。

 自分の肉体に似たこの肉体の中に、離乳によって打ち砕かれた生命との直接的な融合を心おきなく取り戻す。そして、彼女を包んでくれるこの他人の眼差しによって、彼女を個別化している分離が乗り越えられる。もちろん、すべての人間関係は衝突を、すべての愛は嫉妬をともなう。

 とはいえ、処女と最初の男の恋人とのあいだに起こる困難の多くは、ここでは取り除かれている。同性愛の体験は本当の愛のかたちをとることもある。この経験は思春期の娘にとても幸せな安定をもたらすのであるので、彼女はこれを永続させたい、繰り返したいと思う。または、その郷愁的な思い出を持ち続けるだろう。さらに、こうした同性愛の性向を明らかにするかもしれないし、生じさせるかもしれない(*11)

 しかし、たいていの場合、同性愛の経験は一つの段階を示すにすぎないだろう。その容易さそのももせいで見切りがつけられるのだ。年上の女性に捧げる愛のなかには、娘は自分自身の未来を渇望する。だから、偶像に一体化したいと思う。だが、並外れた優越性がないかぎり、偶像はたちまち霊気を失う。

 偶像の正体がはっきりし始めると、年下の女は判断し比較する。自分に似ていて怖くないというまさにその理由から選ばれた他者は、ずっと必要とされるほどの他者ではない。男神たちは、彼らの天空がはるか彼方にあるために、より安定して鎮座している。

 好奇心や官能性が思春期の娘をより激しい抱擁を求める方向に向かわせる。ほとんどの場合、彼女は最初から同性間のアバンチュール経験を過度的段階、通過儀礼、待ち時間としか見なさなかった。彼女は愛、嫉妬、怒り、虚栄、喜び、苦しみを演じた。それは多少とも一般的に認められた見方からすれば、夢見るがまだ思い切ってしたことがない、あるいは体験する機会のなかったアバンチュールを大した危険も冒さず真似たということなのだ。

 彼女は男に捧げられている。それを彼女は知っている。
 そして、女としての普通の完全な運命を生きたいとと思う。

 男は彼女を魅惑するが、怖がらせもする。彼に抱く矛盾した感情に折り合いをつけるために、彼女は、彼の中の自分を脅かす雄の部分と恭しく崇拝する輝かしい神性とを切り離す。男の子の仲間に対してはつっけんどんであまり付き合わないようにするが、はるか彼方にいる素敵な王子さまを偶像のように崇拝する。たとえば、映画俳優の写真をベッドを見下ろす位置に張り付ける。

 それは亡くなったかあるいは生きている、だがいずれにせよ近づけない。偶然見かけた面識のない、そしけっして面会しないことがわかっているヒーローである。このような愛はいかなる問題を引き起こつない。多くの場合、彼女が実際に近づくのは社会的または知的威信はあるが、その肉体は性的な疼きを掻きたてない男である。

 少し変わり者の老教授などだ。このような年齢の男たちは思春期の娘閉じ込められている世界の外で注目を集めているので、彼女は密かに彼らのようになりたいと思い、神に身を捧げるつもりで彼らに献身できる。

 このような献身には屈辱的なところがまったくなく、肉欲において彼らを浴しているのではないから、気兼ねなくできる。小説じみた恋する女は、意中の人が風采の上がらない、醜い、少々滑稽な男でもえてして受け入れる。より安心できるからだ。だが本当は、彼に現実的な関係を求めるのは不可能であるので、だからこそ彼を選んだのである。

 このようにすれば、恋愛を抽象的で純粋に主観的な経験にできるし、それが彼女の純潔を脅かすこともない。胸は高鳴り、彼女は不在の苦しみ、そばにいる苦痛、悔しさ、希望、恨み、熱狂を味わう。だが、現実には何もなかった。彼女自身は何もなかった。

 選ばれる偶像は遠くにいればいるほど輝くというのは面白い事実である。毎日会っているピアノの教授が変わり者で醜いというのは好都合だ。だが、手の届かない世界で生きている外国人を好きになるならば、ハンサムで男らしい方がよい。重要なのは、どちらの場合にも性的問題は起こらないということである。

 このような頭のなかでの恋愛は、《他者》が現実には存在せずに、性愛が本人の内在においてのみナルシスト的な態度を持続させ、堅固にする。思春期の娘はそこに具体的な経験をうまく避けられる口実を見出すから、しばしば並外れて強烈な想像上の生活を繰り広げるのである。

 彼女は自分の幻想と現実を混同することを選ぶ。その他の例のなかでも、H・ドイッチュ(*12)は非常に興味深い例を報告している。それはきれいで魅力的な娘の例である。彼女ほどならば少なくともたちまち言い寄られただろうが、自分の周囲にいる若者との交際をことごとく拒んでいた。にもかかわらず、彼女は13歳のときに、17歳の少年を密かに崇拝することにしたのだが、彼はどちらかといえば醜く、彼女に言葉をかけたことがなかった。

 彼女は彼の写真を一枚手に入れ、そこに自分自身で献辞を書き、三年間毎日、口づけや情熱的な抱擁を交わしたという想像上の体験を日記に綴った。それらのなかには、ときには涙の場面もあり、実際に彼女は赤く泣き腫らした目をしていた。

 それから二人は仲直りして、彼女には花が贈られたなど。転居によって彼と離れると、彼女は彼に手紙を書いていたが、送ったことは一度もなく、自分自身で返事を書いていた。この話が、彼女が恐れていた現実の体験に対する防衛だったことは極めてはっきりしている。

 この例はほとんど病的である。しかし、H・ドイッチュは、この例を拡大して見せることで、通常見受けられる一つのプロセスとして描いているのだ。マリー・バシュキルツェフに、想像上の愛情生活を示す衝動的な例を見る事が出来る。彼女は自分の愛人だと言い張っていたH公爵とは話をしたことがなかった。実を言うと、彼女が望んでいるのは自分の自我の高揚である。

 だが、彼女は女であったので、しかもその時代に、彼女が所属していた階級のなかで女であったから、自律した存在であることによって成功を勝ち取るなどというのは、問題外だった。18歳の時、彼女ははっきりと書き留めている。「私は男だったらよかったとC宛の手紙に書いています。

 私はひとかどの人物になれると思うけど、ペチコートをはいてどこに行けるというのでしょう。結婚が女には唯一のキャリアなの。男にはいくらでも可能性があるけれど、女にはただ一つしかない。トランプで親元のお金がゼロと同じなのよ」。だから、

 彼女には男の愛が必要なのだ。だが、彼が自分に至高の価値を付与できるためには、彼自身が至高の意識でなければならない。

 彼女は次のように書いている。「私より程度の低い男では、私は決して満足できないでしょう。金持ちで自立心の強い男性には誇りとある種の心地よい雰囲気があるのです。自信のある人には勝利の雰囲気のようなものがあります。私はHのあのわがままで、尊大で、冷酷な雰囲気が好きなのです。彼にはネロ[37-68、ローマ皇帝]のようなところがありました」。さらに、次のようなことを書いている。

ナルシズムはマゾヒズムに導く

「愛する男の優越性を前にして女がこのように自分を無にできると言うのは、優れた女が体験できる自尊心のこのうえない喜びに違いありません」。このように、ナルシズムはマゾヒズムに導く。この結びつきはすでに、青ひげ、グリゼリディス、殉教した聖女たちのことを夢想する子どものうちに見出せるだろう。

 自我は他者によって他者に対するものとして形成される。したがって、他者に権力があればあるほど、自我も富と権力をもてる。自我は主人を魅了することによって、主人が持っているすべての徳を自分の内に包み込む。ネロに愛されたなら、マリー・バシュキルツェフはネロになっただろう。

 他者を前にして自己を無にすることは、他者を自分のうちに同時に自分に対して現実化することである。本当のとこは、こうした無への憧れは、存在したいという傲慢な意志なのである。事実は、マリー・バシュキルツェフは、その人をとおして自分を無にしてもよいと思えるほどすばらしい男に会ったことがなかったのだ。

 自分自身を作り上げた、遠くに離れたままの神の前でひざまずくのと、生身の男に身を委ねるのとはまったく別のことである。多くの娘たちはずっと現実世界を介して自分たちの夢を実現しようとしてきた。彼女たちの地位、功績、知性の点で他の全ての人より優れていると思われる男を求める。彼女たちは、既にこの世で地位を獲得し、権威と威信を享受している年上の男を望む。

 財産や名声が彼女たちを魅了する。選ばれた男性は絶対的な《主体》のように思われ、彼への愛を通して、彼の栄光とかけがえのなさが彼女に波及するだろう。彼の持つ優越性が、娘が彼に抱く愛を理想化する。

 したがって、彼女が自分を彼に捧げたいと願うのは、彼が一人の男だからではなく、このような選り抜きの存在だからである。「超人と結婚したいけれども、男しか見つからないのよね」と、最近ある女友だちが言っていた。こうした高望みから、娘はあまりにも平凡な求婚者をはねつけ、性の問題を巧みに避ける。

 また、彼女は夢想の中で、何の危険もなしに、イメージとして彼女を魅了する自己像を慈しむ・だが、そのとおりに実際なろうなどとはまったく思っていないのだ。たとえば、マリー・ル・アルドゥアン(*13)は、本当は彼女の方が独裁的であったにもかかわらず、一人の男に完全に捧げられた犠牲者としての自分を想像するのは楽しかったと語っている。


 夢の中では誰も知らない生まれつきの性質をあれほど発揮していたのに、実生活ではなんだか恥ずかしくて、どうしても出せませんでした。自分という者がわかってみると、私は確かに傲慢で、がさつで、結局のところうまく適応できないのでした。

 私は必要な時はいつも自己放棄をして、自分のことをただ義務に生きる偉い女、一人の男を愚直なまでに愛し、その男のどんなささいな気持ちも察するように努める偉い女。とよく思いました。私たちはみっともない貧乏生活のただなかで頑張っていました。夫は仕事で身をすり減らし、夕方には、げっそりやつれて帰宅しました。

ナルシズムの自己満足

 私は明かりもつけずに窓辺で夫の衣類を縫い、目を悪くしました。煙の充満する狭い台所で、夫のためにいく皿か貧しい料理をこしらえました。私たちのたった一人の子の命は、たえず病気に脅かされていました。それでも私の唇には優しい苦悩に満ちた微笑みがいつもかすかに浮かんでいました。でも、実生活でいやいやながらも黙って私を支えた勇気は、目に凄まじい表情となって現れました。

 こうしたナルシズムの自己満足のほかに、指導してくれる人や師の必要をもっとはっきり感じる娘もいる。
 両親の支配から脱すると、それまで馴染みのなかった自律というものにすっかり戸惑ってしまう。彼女たちはそれを否定的なかたちでしか用いることのできない。気まぐれになり無茶する。あらためて自由を放棄したくなる、良識的な男が、気まぐれで鼻つ柱が強く、反抗的で手に負えない娘を愛情深く手なずける話は、通俗小説や映画によくあるテーマである。

 この紋切型に男も女も感激する。『なんて可愛い子』のセギュール夫人などの話がとくにそうだ。ジゼルは子供のころから、あまりにも寛大な父親に愛想が尽きて厳格な老伯母を慕った。少女になると、口うるさい青年ジュリアンの影響を受ける。ジュリアンは彼女の本当の姿をえぐり出して見せ、恥じ入らせ、矯正しようとする。

 彼女は無気力な金持ちの公爵と結婚し、夫の傍らにいるあいだは非常に不幸だった。だが、未亡人になって師とする人の注文の多い愛を受け入れた時、ついに歓喜と悟りの境地を見出すのだ。ルイーザ・オールコットの『良き妻たち』(『若草物語』の第二部)では、自立心の旺盛なジョーが、自分の軽率な行為を未来の夫に厳しく非難されて、彼に惚れこむ。彼もまた彼女をよく叱り、そして、彼女はいそいそと謝り、従うのである。

 ハリウッド映画は、アメリカの女たちの自尊心を傷つけるにもかかわらず、恋人や夫が手のつけられない女の子たちをためになる暴力で手なずけるのを何度も見せてくれた。往復びんたをくらわし、さらにお尻を叩くのが誘惑への確実な道のようである。しかし、現実には精神的な愛から性愛への移行は単純ではない。

 多くの女は、多かれ少なかれ万人が認めるとおり、幻滅が恐ろしいので情念の対象に近づくのを注意深く避ける。英雄、巨人、半袖が娘に吹き込んだその恋に応え、それを現実の経験にしようとすると、娘は怖気づく。偶像が一人の男となると、がっかりして背を向ける。

「面白い」あるいは「かっこいい」男を誘惑しようとあらゆる策を講じるコケティッシュな娘もいる。あまりにも露骨な感情が返ってくると、逆に苛立つ。近寄りがたく見えたから好きだったのだ。恋に落ちれば月並みになるのである。「ふつうの男と同じだわ」。娘は零落したと恨めしく思う。

 それは、処女の感受性をたじろがせる肉体的な接触を拒否する口実になる。たちえ《理想の男》に身を任せても、無感覚のまま抱かれている。シュテーケルによれば、「《理想の男》が本性を顕して”乱暴な獣”になるので、想像していた愛の体系はすっかり壊れる。このような場面の後に、興奮した娘は自殺(*14)することもある」。娘は、男が友だちに言い寄り始めるとその男を好きになる事がよくある。

 妻帯者を選ぶこともかなり多いが、これまた不可能な愛を好むからである。娘はドン・ファンにうかつにもひっかかる。この誘惑者に服従し、どんな女も絶対に引き留めておけない彼の気持ちをつなぎ留めたいと思い、改心させてみせると望みをつなぐ。

 とはいえ、実はこの企てに失敗することは彼女にはわかっていて、それこそが彼を選択した理由の一つなのだ。現実の完全な愛を、結局は永遠に知る事が出来ない娘もいる。彼女たちは到底不可能な理想を求めるだろう。

 これは、若い娘のナルシズムと、彼女のセクシャリティによって運命づけられる経験とのあいだに葛藤があるからである。女は、自己放棄のただなかで自分を本質的なものとして見出すという条件でのみ、自分を非本質的なものとして受け入れるのである。客体となることによって、女は偶像となり、その中に誇らしげに自己を認めるのだ。

 だが、非本質的(用語解説)なものに戻るように強い冷酷な弁証法は拒否する。女は人が手にすることのできるモノではなく、魅惑する財宝でありたい。みられ、触触わられ、傷つけられる肉体としての自分を見つめるのではなく、魔法の息吹きを放つすばらしい崇拝物(フエテイツシユ)として現れたい。こうして、男は獲物になる女を可愛がり、鬼のようなディテル[ギリシア神話の女神。冥府の王に娘を誘拐され、娘を捜すために各地をさまよった]からは逃げ出すのである。

 男の気を引き、賞賛の的になると得意そうにする女は、逆に男の巧みに引き寄せられる憤慨する。思春期になって、彼女は羞恥心を学んだ。だが、羞恥心には男の気を引こうとする気持ちと虚栄心がない交ぜになっている。

 男の視線は彼女を得意がらせると同時に傷つける。見せているところだけしか見て欲しくない。眼差しはいつもあまりに鋭い。このように一貫性がないので男は狼狽する。胸元、脚を見せびらかしているのに、見られると顔を赤らめて怒る。

 男を超発して喜ぶが、男に欲望が起こったとみると、嫌悪感をあらわに身を引く。男の欲望は侮辱であり賞賛でもある。自分の魅力に責任を負えると感じるかぎり、魅力を自由に使いこなしとているように見える限りは、勝利に酔いしれる。

 しかし、顔立ち、姿、肉体が差し出され、受け身の者となると、それを欲しがる相手の無遠慮な自由からそれを隠したがる。これこそが羞恥心本来の深い感覚であり、これは思いがけないことだが、最も大胆な嬌態にも混ざっている。女の子は、自分の自主性が受け身の状態の自分を示しているのに気付かないために、驚くほど大胆なことである。

 だから、それに気づくと、すぐに怖気づいて怒る。視線ほどあいまいなものはない。距離を置いていれば、この距離のために、敬意を抱いているようにみえる。だが視線は知覚した像をこっそり独占する。経験の乏しい若い女はこの罠にかかってもがく。身を任せかけるがすぐに緊張し、自分の中の欲望を殺してしまう。

 まだ迷っている肉体には、愛撫はときに優しい快楽として、ときに不快なくすぐりとして感じられる。最初は接吻に感動するが、それから突然笑いだす。愛想を言った後で、いちいち反抗する。接吻させておいて、わざとらしく口を拭く。にこやかに優しくしたかと思うと、突然皮肉っぽく冷淡になる。約束しながらわざと忘れたりする。

 マチルド・ド・ラ・モル[スタンダール『赤と黒』の登場人物]がそうだ。彼女はジュリアン[『赤と黒』の主人公]の美貌と類まれな資質に魅せられて、恋愛をつうじて並外れた運命に到達したいとおもっていたのだが、自分自身の官能や外部の意識に支配されるのは断固拒否する。

 卑屈であるかと思えば、傲慢になり、哀願するかと思えば軽蔑する。与えた分はすぐに取り戻す。マルセル・アルラン[16991986、フランスの小説家]が描写した『モニック』もそうだ。彼女はときめきを罪と混同する。彼女にとって愛は恥ずべき自己放棄であり、血は沸き立つのにその熱を嫌い、反発しながらも従うのである。

 「青い果実」が男から身を守るとき、子どもっぽい恐るべき性質を見せる。たいてい、若い娘は野性味半分、賢さ半分の姿で描かれてきた。とくに、コレットは『学校のクロディーヌ』で、また『青い麦』のなかで、魅力的なヴァンカの姿のなかにそれを描いた。ヴァンカは目の前に広がる世界に燃えるような関心をもちつづけ、そこに女王然と君臨する。

 だが彼女もまた好奇心と男に対する官能的でロマネスクな欲望をあわせてもっている。ヴァンカは茨でひっかき傷をつくり、エビを取り、木登りをするが、男友だちのフィルの手が触れるとびくっとする。彼女は身体が肉体となるときめき、女として初めて自分を女だと感じるときめきを知る。ときめいて美しく成りたいと思い始める。ときおり髪を結いあげ、化粧をし、透けるオーガンジーを身に着け、男の気をひくおしゃれを楽しみ、誘惑するのを面白がる。とはいえ、他者に対してばかりではなく自分に対して存在したいと思うので、ときには酷い古着をはおり場違いなパンタロンをはいてみっともない恰好をする。

 彼女の内には媚態を非難し、それを責任放棄と考える部分がある。だから、わざと指にインクをつけ、髪もとかさず、だらしのない姿で現れる。彼女はこうした反抗のために自分がぎこちなくなっているのを感じて悔しい。それで、苛立ち、赤面し、不器用さを倍加させたあげく、誘惑の試みが挫折したのを憎悪する。

 この段階にくると、若い娘はもう子供でいたいとは思わない。しかし、大人になることは受け入れず、自分の幼稚さを責めたり、女としてのあきらめを後悔したり、交互に繰り返す。彼女は終始一貫拒否の態度をとり続ける。

 これこそ若い娘の性格を示す特徴で、彼女の行動を解くカギの大部分を与えてくれる。自然や社会が割り当てた運命を彼女は受け入れない。だが、積極的に拒絶するわけではない。世界との闘いを始めるには、あまりに内部が分裂しているのだ。現実逃避するか、形ばかりの抗議をするだけにとどまる。

 若い娘のさまざまな欲望の裏にはそれぞれ不安がつきまとう。未来を手に入れるようになりたいと渇望するが、過去を断ち切るのは怖い。

 一人の男を「もつ」ことを願うが、男の獲物になるのはいやだ。そはて、それぞれの恐怖の後ろには欲望が隠れている。レイプには嫌悪を抱くが、受け身でありたいと切望する。だから、彼女は欺瞞と策略をめぐらさざるをえない。若い娘は、あらゆる種類の否定的な強迫観念をもつ傾向があり、それが欲望と不安の両面性となって現れるのだ。

 冷笑は、思春期の娘[十~十八歳くらい]に非常によく見受けられる抗議のかたちの一つである。女子高生や売り子、お針子などは、恋愛や淫らな話をしながら、あるいは自分たちの好きな人のことを話しながら、男とすれ違うとき、恋人同士が抱き合っているのを目にするとき、「吹き出す」。

 私はただ笑うために、わざわざリュクサンブール公園[パリの公園]の恋人たちの小道を通る小学生の女の子たちを知っている。また、私が知り合った別の女の子たちは、重そうなお腹に乳房の垂れた太った女たちを見つけて笑うために、蒸し風呂に通っていた。

 女の体を嘲弄すること、男を笑いものにすること、愛を笑うこと、それはセクシャリティを否認する一つの方法である。こうした笑いは、大人に挑戦しながら自分自身の戸惑いを克服する一つの方法である。性の危険を魔法で消すために、イメージや言葉を使って遊ぶ。

 たとえば、私は、第四級[日本の中学三年生]の生徒たちが、ラテン語のテキストに腿という言葉を見つけて「吹き出す」のを見たことがある。ましてや少女は、抱擁されたり愛撫されたら、相手の鼻先であるいは仲間とともに、仕返しに笑う。ある晩、鉄道のコンバートメントで、思わぬ幸運に有頂天になった乗客の会社員が、二人の少女代わる代わる甘い言葉をかけていたのを思いです。

 彼女たちは合間合間にけたたましく笑って、性を意識したしぐさと羞恥心のない交ぜになった思春期のふるまいをみせていた。娘たちは、大笑いと同時に言葉に救いを求める。その下品さに男の兄弟でも顔を赤らめるような語彙(ごい)を口にする娘もいる。あそらく知識が生半可なため、使う表現があまり鮮明なイメージを喚起しない分だけ怖気づかないのだ。

 もっともその目的はイメージの形成を妨げるためでないにしても、少なくともイメージから毒気を抜くことにある。女子高生の語り合う卑猥(ひわい)な話は、性本能を満足させるよりも性行為を否定することにはるかに向けられている。性行為を機械的な操作かほとんど外科手術のように見て、おもしろおかしく考えようとしている。

 しかし、笑いと同じように、下品な言葉を使用するのは抗議であるだけではない。それはまた大人への挑戦であり、一種の冒涜であり、故意にやる悪意ある行動なのである。若い娘は自然と社会を拒否しながらそれらを挑発し、多くの奇妙な行動をとおして、それらに果敢に立ち向かうのだ。

 少女に見られる癖奇食がよく指摘される。鉛筆の芯、封書用の固形糊、薪の切れ端、生きたエビを食べ、アスピリンの錠剤を何十錠も呑み込み、さらにハエ、クモを食べる。私はそんな一人の娘と知り合いになった。彼女は非常に落ち着いていたが、コーヒーと白ブドウ酒でひどい混合液を作り、我慢して飲んでいた。

 ある時は酢に浸した角砂糖を食べていた。また別の娘だが、サラダにジムシ[コガネムシの幼虫]を見つけても、毅然として食べるのを見たことがある。子どもはみんな、目や手、さらに深く口や胃で世界を体験するのが好きである。だが、思春期の女の子は、消化の悪い、ぞっとするようなもののなかに世界を探検するのがとりわけ好きだ。

 非常にしばしば、「むかつく」ようなものに惹かれる。或る女の子は、気が向いて身だしなみを整えればきれいでコケティッシュなのに、なんでも「汚れ」見えるものに、ほんとうに心を奪われていた。昆虫に触り、汚れた生理用品を眺め、擦り傷の血を吸うのだった。

 不潔なものをいじるのは、明らかに嫌悪を克服する一つの方法である。こうした感情は、思春期には非常に重要性をもつ。女の子はあまりにも肉感的な自分に体に、月々の血に、大人の性行為に、自分が捧げられる男に嫌悪を抱いている。嫌悪感を催させるあらゆるものと、まさに馴れ馴れしくて楽しむことによってそれを否定するのだ。

「毎月、血を流さなければならいのだから、傷口の血を飲んで血なんてヘッチャラだってことを証明するわ。酷い試練を耐えなければならないのだから、ジムシぐらい食べられるわ」。こうした態度はこの年頃によくある自傷のなかに、より顕著なかたちで見られる。

 娘はカミソリで腿を切り、タバコの火で火傷して、切り傷、すり傷をつくる。娘時代のある友人は、退屈な園遊会に行かなくていいように、ナタをふるって足の骨を折り、六週間、床に就いたほどだ。このサド=マゾ的行為は、性体験の先取りであると同時にそれに対する反抗である。

 このように試練にも強くなり、そうやって初夜を含めた試練をことごとく取るに足らないものにする必要があるのだ。若い娘がナメクジを胸に乗せるとき、アスピリンを一瓶飲み込むとき、我が身を傷つけるとき、彼女は未来の恋人に挑戦している。私が自分にしていることよりひどいことなど、あなたは私にはできないわ、と。これは傲慢で侘しい、性のアバンチュール入門である。

 受動的な獲物になるように運命づけられた若い娘は、苦痛と嫌悪を耐え忍ぶことにまで、自由を主張する。ナイフの切り傷、消し炭の火傷を自らにつきつけるとき、彼女は処女を失わせる貫通に抗議しているのだ。彼女は、自分の行動において苦痛を受け入れるのだからマゾヒストではあるが、しかし、なによりもサド的である。

サド=マゾ癖にふけるのは

 自律的主体として、この従属的な肉体を、服従を宣告された肉体を鞭打ち、嘲弄し、虐待するのだから。彼女は肉体を嫌っていながら、肉体と自分を区別しようとしない。というのも、彼女はこうしたあらゆる局面で、ほんとうに自分の運命を拒否することはないのだ。サド=マゾ癖は根本的な欺瞞を含んでいる。女の子がサド=マゾ癖にふけるのは、拒否をとおして女の未来を受け入れるからである。

 自分をまず肉体とて認めるのではないのなら、憎々しげに自分の肉体を深く傷つけることはないだろう。激しい怒りの破裂も、その底には諦めがある。少年が父親や世界に反抗するときは、効果的に暴力をふるう。彼は仲間に言いがかりをつけ、殴り合う、拳骨によって主体であることを明確にする。自分を世界に認めさせ、世界を超越するのだ。

 しかし、若い娘には自分を主張し、自分を認めさせることが許されないので、まさにそのために、心の中にあれほどの反抗心が生まれるのである。彼女は社会を変えようとも、社会から浮かび上がろうとも思わない。彼女は束縛されることを知っており、少なくともそう思っており、多分そう望んでさえいる。
 だから、壊すことしかできない。憤怒のなかには絶望がある。いらいらする晩にはコップやガラス、花瓶を割る。これは運命を克服するためではない。形ばかりの抗議に過ぎないのだ。少女は現在の無力をとおして、未来の隷従に反逆する。

 おまけに彼女の怒りの爆発は無駄骨で、束縛から開放するどころか、しばしば束縛を強めるだけなのだ。自分自身に対する。あるいは自分を取り巻く世界に対する暴力は、つねにマイナスの性格をもっている。効果をもたらすというより、人目を引いてしまう。

 岩に登ったり、仲間と殴り合う少年は、肉体的な苦痛や傷、瘤(こぶ)を、自分が没頭している積極的な活動の取るに足りない結果とみる。彼はそれを求めもしなければ、そのために逃げもしない(劣等感のために女と同じ状況に置かれた場合以外は)。

倒錯症

 一方、少女は苦しむ自分を見つめる。暴力や反抗の結果に興味をもつよりも、むしろ自分自身の心の中に暴力や反抗への性向を求める。子どもの世界からほんとうに脱出できないのか脱出したくないのか、彼女はそこにしっかり錨を下ろしたままなので、倒錯症が起きる。

 籠から出ようとするより、むしろ籠のなかでもがく。彼女の態度は否定的で内省的で象徴的なものでしかない。倒錯症が困った形で出る場合もある。盗癖のある処女の娘はかなり多い。盗癖は肘ように説明しにくい「性的昇華」である。たしかに。盗みをした娘にあっては、法律に違反し、タブーを犯す意志、禁じられた危険な行為のもたらす陶酔がきわめて重要である。

 しかし、これには二つの側面がある。権利がないのに物を取るのは、傲慢に自律性を主張し、盗品と盗みを非難する社会を前にして主体として振る舞い、既成の秩序を拒否し、その番人に挑戦することである。だが、この挑戦にはマゾヒスト的な側面がある。盗みをした娘は危険を冒すことに、捕まれば落ちる奈落に引かれる。捕まる危険があるから盗みは非常に官能的で魅力を持つのである。

 だから、非難に満ちた視線のもとで、肩に置かれた手の下で、恥辱のなかで、彼女は客体として助けを求めることなく完全に自己を実現するのである。獲物になる不安のなかで捕まらずに盗むこと、それは思春期にある女のセクシャリティの危険な遊びだ。

 若い娘に見られる倒錯した違法行為の全てにはこれと同じ意味がある。もっぱら匿名の手紙を送る娘がいる。周囲の人をだまして喜ぶものもいる。14歳の少女は、ある家に幽霊が出る村中に信じ込ませ。彼女たちは自分の力をこっそり試し、社会に反抗し、挑戦し、仮面を剥がされる危険を同時に楽しむ。

 さらにやっていない過ちあるいは罪を認めることさえある。客体となることを拒否しているうちにふたたび客体になってしまうのは驚くにあたらない。これはあらゆる否定的な強迫観念に共通する過程である。ヒストリー性麻痺の場合、患者は麻痺を恐れらながら、麻痺を望み、そして実際に麻痺が起きる。これはたった一つの感情の動きから生じる。

 つまり、麻痺のことを考えるのをやめなければ治らない、ということだ。精神衰弱患者のチェクについても同様である。若い娘が偏執、チック、反抗、倒錯症といったタイプの神経症患者に似るのはその自己欺瞞の深さのためである。すでに指摘した欲望と不安の両面感情のせいで、彼女たちのなかには多くの神経症の症状が見受けられる。

 たとえば「家出」はかなり頻繫に行われる。あてもなく出て行って親の家から遠く離れてさまよい、二、三日後に自分から帰ってくる。それはほんとうの出発、家族との断絶という真実の行為ではない。単なる脱出劇で、周りの人からずっとかくまってあげると言われると、たいていはとても戸惑ってしまう。

 ちょっと離れたいだけで、そんなことは望んでいないのだ。家出は、ときに売春の幻想と結びつく。娼婦になるのを夢見て、多かれ少なかれおずおずと、その役を演じる娘もいる。派手な化粧をし、窓に寄りかかり、通行人に流し目する。場合によっては家を出る。芝居が行き過ぎて現実と混同するのだ。

性的欲望に対する嫌悪、罪の意識

 この行為には性的欲望に対する嫌悪、罪の意識が現れていることがよくある。
「こうした考え、欲望をもつものだから私は娼婦のようなものだ。私は娼婦だ」と彼女は考える。ときにはそこから解放されようとする。けりをつけよう、最後まで行ってやれ、と思う。どんな男にも身を任せ、性行為は大したことはない、と自分に証明しようとする。

 同時に、こうした態度が、母親の厳しい貞節を嫌っているにせよ母親自身の身持ちが悪いのではないかと疑っているにせよ、娘の母親に対する敵意を表していることがしばしばある。あるいは、無関心すぎる父親に対する恨みを表明しているのだ。

 いずれにせよこの強迫観念には――すでに触れた、そしてこれによく結びつけられる仮想妊娠の場合と同じように――精神衰弱性幻惑の特徴である。反抗と共犯のもつれ合った錯乱が見いだされる。娘がこうした行為すべてにおいて、自然と社会の秩序を越えようとせず、可能性の限界を広げようとも価値基準を変えようともしないのは、注目すべきである。境界と法律が保全されている既存の社会の真ん中で、反抗を示すだけで満足している。

 これはよく「悪魔的」と定義される態度で、本質的には現実のごまかしを前提としている。善は嘲弄つれるために認められ、規制は違反するために定められ、聖なるものは冒瀆が可能になるように敬われるのだ。若い娘の態度の大部分は、自己欺瞞(用語解説)という不安の闇のなかで、彼女が世界と自分自身の運命を受け入れながら拒否しているという事から説明される。

 それでも、娘は置かれた状況に消極的に異議を唱えるだけではない。その不十分なところを補おうともする。彼女は未来に脅かされ、現在に不満だ。女になるのを躊躇する。まだ子どもである事に苛立つ。すでに過去とは別れた。だが、新しい生活は参加していない。時間は潰れるが、何をする訳でもない。名をする訳でないから何をもつわけではないし、何者でもないのだ。

 彼女は茶番とまやかしでこの空白を埋めようとする。狡くて噓つき「作り話」をする、とよく非難される。事実は、秘密と嘘が彼女の運命なのだ。女は十六歳で、すでにつらい試練を経ている。思春期、月経、性の目覚め、最初のときめき、最初の情熱、恐怖、嫌悪、いかがわしい経験、こうしたものすべてを心に閉じ込めた。彼女は注意深く秘密を守ることを学んだのだ。生理用ナップキンを隠し、月経を秘密にしなければならないというだけで、すでに嘘へと誘われる。

『過去の人々』という小説の中でK・A・ポーター[1890-1980、アメリカの女性作家]が、1900年頃のアメリカ南部の娘たちはダンスパーティーに行くとき月経を止めるために食塩とレモンの混合液を飲んでは気分が悪くなっていた、と書いている。隈のできた目、手の感触たぶん、匂いから自分の状態が相手の青年にわかるのではないかと思い、そう考えると彼女たちは気が動転してしまったのだ。

 股間には血の付いた下着を感じるとき、もっと一般的に言えば、自分が肉体であるという生来の不幸を知ったとき、アイドル、妖精、遠い国のお姫様を演じるのは難しい。羞恥心は、自分の肉体として捉えれることを反射的に拒否することであり、偽善に通じている。しかし特に、思春期の娘に強いられる嘘は、自分を不安定でばらばらの存在のように感じ、自分の欠陥を知っているのに、自分が客体であるかのように、それも見事な客体であるかのように装わなければならないことである。

化粧、パーマ、ゲピエール[ウェストを締める下着]、「パット入り」ブラジャーは嘘である。顔そのものが仮面になる。技巧的にいかにも自然な表情を漂わせ、受け身でうっとりしたふりをする。女の機能が発揮されているときの姿態をとつぜん見つけて、その日頃の様子を知っていたりすると、もうこれ以上の驚きはない。彼女の超越性は変節し、内在性を模倣する。

 視線はもはや感じ取るのではなく、映し出す。身体はもう生きるのではない。待つのだ。すべての身振り、微笑が呼びかけになる。無防備で、どうにでもなる若い娘は、もう差し出された花、摘み取られる果実でしかない。男は釣りたくて、娘をそそのかして餌に食いつく気にさせる。そのあと男は苛立ち、非難する。しかし、手練手管のない少女に対しては冷淡そのもので、反感さえ抱く。

 彼は罠を張る女にしか誘惑されない。差し出されている女の方が獲物を狙うのだ。受け身は企てに役立ち、娘は禁じられているから、駆け引きと計算をするしかない。しかも、彼女の価値はただで差し出されているように見えることだろう。だから、彼女は不実だ、裏切り者だと非難されることになるだろう。確かにそうだ。

 だが、男が支配を要求するから、男に服従の神話を捧げざるを得ないと言うのも本当だ。それに、人々は、そんなときに彼女の最も本質的な主張を断念するように要求できるだろうか! 彼女の媚びはもともと変質するしかないだろう。それに、彼女はただ単に熟慮の末の策略によって誤魔化すのではない。

 すべての道は塞がれ、するのは許されず、あるべきである、というのだから、どうしようもない不運が彼女の頭上にのしかかっているのだ。子どもの頃は踊り子や聖女を気取った。のちには自分自身を気取る。真実とはいったい何か。彼女が閉じ込められている領域では、これは意味のない言葉である。

 真実、それは暴かれた現実であり、暴露は行為によってなされる。しかし、彼女は行動しなかった。

 若い娘にとって、日常生活の平凡な記録よりも、自分自身について自分を語る――そして他人にもしばしば物語る――絵空事のほうが、自分の中に感じている可能性をよく表してくれると思われる。彼女には自分の大きさを計る手段がない。それで、芝居をして自分を慰める。

 ある人物を演じ、その人物に重きをおかせようとする。彼女は明確な活動をとおして個性を発揮することができないので、突飛な行動で目立とうとする。彼女はこの男社会で自分には責任がなく、取るに足らない存在であることを知っている。だから、「もめごとを起こす」ほかは本気ですることがないのだ。
 
 ジロドゥー[1882-1944、フランスの作家]のエレクトラ[ギリシア神話。アガメムを殺した母クリュタイムネストラを、弟オレステスに協力して殺害する]はいつも揉め事を起こす女だ。本物の剣で実際に殺人を成し遂げるのはもっぱらオレステスの役目なのだから、娘は注意を引いて員数に入るために、子どものようにいざこざや怒りで疲れ果て、傷つき、ヒステリー障害を起こす。

 他人の運命に介入するのも員数に入るためである。手段は何でもよい。秘密を暴き、秘密をこしらえ、裏切り、中傷する。生活そのものに救いを見いだせないから、生きていると感じるためには、周囲に悲劇が必要なのだ。

 気まぐれもおんなじ理由からだ。私たちが生み出す幻想、心を紛らわすイメージは矛盾している。行動だけが多様な時間を統一する。若い娘は本当の意志ではなく、ただ欲望を抱き、脈略もなくあちらからこちらへと飛び移る。この脈略のなさがときに危険になるのは、瞬間ごとに、夢想のなかで参加しているだけなのに、自分のすべてを賭けて参加するからだ。

 彼女は非妥協的で要求の多い立場をとる。決定的なもの、絶対的なものを好む。未来を自由にできないので、永遠なる者を手に入れようとするのだ。

 マリー・ルネリュは「決してあきらめまい。いつでもすべてを望もう。人生を受け入れるためには人生が好きでなければならない」と書く。ジャン・アヌイ[1910-87、フランスの劇作家。『アンチゴーヌ』は傑作]のアンチゴーヌ[ギリシア神話。オイディブスの娘]は、この言葉に答えて「すべてを、今すぐ望みます」と言う。

 この子どもじみた帝国主義は、自分の運命を夢見る人だけに見られる。夢は時間と障害物を消滅させるが、現実性の乏しさを補うために過激になる必要がある。本当の計画を持つ人はみんな有限性を知っているが、これはその人に具体的な力がある証拠なのだ。若い娘は自分に属するものが何もないからすべてを受け取りたがる。

 このために、大人、とくに男の前で、「恐るべき子ども」の性格が出るのである。彼女は、人が現実の世界に組み込まれる時に課せられる制限を認めない。制限を越えてごらんと、人を挑発するのだ。たとえば、ヒルデ(*15)はスールネスが王国をくれるのを待つ。王国を征服しなければならないのは彼女ではない。だから、彼女はあくまでも王国を欲しがる。

 彼女は彼に、かつて建てられたうちで最も高い塔を建てて、「建てたところまで高く登っていく」ことを要求する。彼は登るのをためらい、めまいを恐れる。地上に残って見守る彼女は偶発性と人間の弱さを否定し、現実が大きな夢に制限を加えるのを許さない。

 彼女には大人がいつもこせこせと用心ばかりしているように見える。自分は危険にさらすものを何ももたないから、どんな危険を前にしてしり込みすることがない。夢の中で途方もない大胆な試みをして、ほんとうに私と同じことができるかと、大人を挑発する。実際の試練にかけられる機会がないから、反発を恐れることなく最も素晴らしい勇気の持ち主を気取る。

 しかまた、この抑制のないところから不安定さが生まれる。彼女は自分が無限であると夢想する。とはいえ、他人の賞賛の的になると思う人物のなかに自分を疎外する。人物の選択は他人の意識に左右される。自分と同一視するこの分身、受け身でその存在の影響を受けるこの分身のなかにあって、彼女は危うさにさらされる。それで、彼女は怒りっぽくて、虚栄心が強いのだ。

 その人が少しでも批判され、からかわれると、自分自身が危うくなる。彼女が自分の価値を引き出すのは、自分の努力ではなく気まぐれな支持によっている。それは個々の活動によって決まるのではなく、世評という全体の声で定まる。だから、数量的に計算できるように見える。

 商品はありふれてしまえばその価値が下がる。たとえば、若い娘が傑出して、例外的で、注目に値し、並外れているのは、ほかに誰もそういう者がいない時だけなのだ。仲間はライバル、敵である。仲間をけなし、否認しようとする。彼女は嫉妬深くて意地悪だ。

 思春期の娘が非難される欠点は、どれも彼女の状況を現わしているにすぎないことがわかる。希望と野心を抱く年頃に、生きる意欲、現実に場所を得ようとする意欲が高まる年頃に、自分が受動的で従属的であることを知るというのは辛い条件である。

 女はこの自信に満ちた年頃に、自分にはどんな征服も許されず、自分を否認しなければならず、自分の未来が男たちの意志にかかっているのを知るのだ。社会的な事でも性的なことでも、新しい息吹が女の中に目覚めても、満たされないままでいるように強いられる。生の躍動も精神の躍動もすべて、すぐに阻まれてしまう。

 彼女が心の安定を取り戻すのに苦労するのはもっともである。情緒不安定、涙、ヒステリーは、生理的な弱さの結果というより、深刻な不適応のしるしなのだ。

 しかし、若い娘が本来の道でない無数の他の道を通って逃れるこの状況、これを彼女が真正に受け取ることもある。彼女は自分の欠点をうんざりする。だがときには、独特の長所に驚かされる。どちらも源は同じだ。彼女は世界の拒絶を、不安な持ち時間を、自分の無意味さを踏み台にする。そしてそのとき、自分の孤独と自由のなかから浮かび上がらせることができる。

 娘は心を明かさず、苦悩し、錯綜した葛藤にさらされる。こうした複雑さは彼女を豊かにする。彼女の内面生活は兄弟より奥深く展開する。自分の心の動きに兄弟より注意を払うので、心はいっそう陰影と変化に富むようになる。

 外部の目的に向かっている少年たちよりも、心理的感覚が豊かである。彼女は、自分を世界に対立させるこうした反抗に重みを加える事が出来る。彼女は真面目と順応主義の罠はよける。周囲の人々が共謀してつく嘘は、彼女の皮肉に出会い、鋭い目で射貫かれる。

彼女は日々、自分の条件の両犠牲を経験する

だから、不毛な抗議を越えて、定着している楽観主義、型にはまった価値観、偽善的で安心させる道徳を問い直す勇気をもてるのだ。これが、『フロス河の水車場』のなかで、あのマギーが示してくれた感動的な例であり、ジョージ・エリオットはヴィクトリア朝のイギリスに対して抱いた青春時代の疑いとけなげな反逆をマギーに込めたのだ。

男の主人公たち――とくにマギーの兄トム――は、みんなが受け入れる考え方をあくまでも肯定し、道徳を形式的な規則に固定する。マギーはそこに活気ある息吹き吹き込もうとし、それらをひっくり返し、孤独の果てまで行き、そして硬直化した男の世界の彼方に、純粋な自由として現れる。

思春期の娘はこの自由を消極的にしか使えない。だが、彼女の柔軟な思考は、貴重な感受性を生み出すことができる。それで、彼女は献身的で、注意深く、ものわかりがよく、愛情豊かに振る舞う。ロザモンド・レーマンの描く女主人公たちは、こうした素直な心の広さのせいで際立っている。『ワルツへの招待』では、まだ内気でぎこちなく、男の気をそるには程遠いオリヴィアが、翌日デビューする社交界を、感動に満ちた好奇心をもって探求するさまがみられる。

彼女たちは傍らに次々とやって来る踊り相手の言うことを心底から聞き、彼らの望むとおりに答えようとし、彼らのこだまとなり、感動に震え、差し出されるものすべてを受け入れる。『砂ぼこり』の女主人公ジュディも、同じような魅力的な資質の持ち主である。彼女は子ども時代の楽しみごとを捨てない。

夜、公園の小川で一糸まとわず泳ぐのが好きだ。自然、本、美、人生を愛する。彼女はナルシストのように自分を崇めたりしない。嘘がなく、自己中心的でない彼女は、男たちを通して自分の自我を称えようとはしない。

彼女の愛は与えることなのだ。彼女は男だろうと女だろうと、ジェニファーだろうとロディだろうと、魅かれればどんな人物にも愛を捧げる。自分を失うことなく自分を捧げる。彼女は自立した学生を送り、自分の世界、自分の計画をもっているのだ。しかし、彼女が少年と違うのは、その待つ姿勢、優しい従順さである。彼女はそれでも微妙な仕方で《他者》の方を向く。《他者》のは、彼女の目には素晴らしい広がりを持っているように見え、彼女は隣の家族の青年たち全員、彼らの家、彼らの姉妹、彼らの世界を一度に愛してしまうほどだ。

彼女がジェニファーに惹かれるのは、友としてではなく《他者》としてなのだ。そして、彼女は、ロディとその従兄弟たちを、彼らに順応し彼らの望みに合わせられる素質によって魅了する。彼女は忍耐、温和、甘受そして沈黙の苦悩である。

マーガレット・ケネディの『操堅きニンフ』のなかで、飾らず、野性的で献身的なテッサは、慈しむ人々を心に受け入れるそのやり方によって、ジュディとは違うが、また魅力に見える。彼女は何事も自分から放棄するのは拒む。装身具、化粧品、偽装、偽善、わざとらしいお愛想、慎重さ、女の従順さが大嫌いだ。愛されたいと願うが、仮面は付けない。彼女はルイスの気分に従う。

だが、卑屈にはならない。彼を理解し、一緒になって感動する。しかも、もし口論すれば、彼女を愛撫で服従させられないのはルイスが知っている。居丈高で虚栄心の強いフローレンスは接吻で征服されるのに、テッサの方は、恋をしながら自由であるという驚くべきことに成功し、そのために、彼女は敵愾心(てきがいしん)も傲慢さも持たずに愛する事が出来る。

彼女の飾り気のなさは、技巧がもつあらゆる魅力をそなえている。彼女は気に入られるためにけっして自分を損なわず、卑下せず、あるいは客体に自分を固定したりしない。音楽的創造に全存在をかけた芸術家たちに囲まれていても、自分の中にそうした貪欲な悪魔を感じない。全身全霊で彼らを愛し、理解し、助けることに没頭する。

彼女は努力しなくても、優しく自然な寛大さからそうしているのであり、だから、他人のために我を忘れても、完全に自律しているのだ。この純粋な本来性のおかげで、彼女は思春期の葛藤を免れている。

彼女は世界の厳しさに苦しむかもしれないが、彼女自身の内部は分裂しない、呑気な子どものように、そして同時に、非常に賢明な女のように、彼女は調和がとれているのだ。繊細で寛大で、感受性が鋭くて情熱的な娘は、大恋愛をする準備がすっかり整っている。

恋愛に出会わなければ、詩に出会うことがある。彼女は行動しないのだから、見て、感じて、記録する。ある色、ある微笑が心の琴線に触れる。というのも、彼女の運命は外部に、すでに建設された町に、成熟した男の顔の上に散らばっているのだから。彼女は青年よりも夢中になって、同時になんの見返りを求めずに、触れ、味わうのだ。

人間の世界にうまく溶け込めずに適応しにくいので、子どものようにそれを見る事が出来る。物事に影響力をもつことだけに関心をもつのではなく、その意味にこだわる。ものごとの変わった特徴、思いがけない変貌をとらえる。彼女が自分の中に創造する勇気を感じることはめったになく、しばしば自己表現する技術にも欠けている。しかし、会話、手紙、随筆、書きなぐったもののなかに独創的な感受性の見られることもある。

若い娘は、まだ超越性を損なわれていないから、熱心にものごとに身を投じていく。そして、何も成し遂げていない。何者でもないために、彼女の飛翔はますます熱がこもる。空虚で無限の彼女が、無のただなかにあって到達しようと求めるもの、それは《全》である。だから、彼女を《自然》に独特な愛を捧げる。

思春期の青年よりもいっそう自然を崇拝する

制圧されない、人間的でない《自然》は、非常に明瞭に、存在するもの全体を示す。思春期の娘はまだ世界のどんな小さな部分も手に入れていない。手に入れていないせいで、世界は丸ごと彼女の王国なのである。彼女がそれを所有する。コレット(*16)はしばしばこの青春の大饗宴の話を書いた。

なぜなら、私は夜明けがもう好きになっていたので、母はご褒美を許してくれた。私は三時半に起こしてもらって、両腕に一つずつ空の籠をもち、小川の小さな起伏に隠れている菜園の方へ、イチゴ、クロスグリ、とげのあるグーズベリーの方へと行ったものだ。

三時半にはあらゆるものが本来の、湿ってあいまいな青色のなかにもまどろんでいて、砂道をおりていくと、重みでよどんだ霧が、まず私の脚を、それから形のよい小さな上半身を包み、体のどの部分よりも感じやすい唇、耳、鼻へと漂ってくる‥‥・私はこの道でこの時刻に私の価値を、言葉につくせない恵みを感じ、最初に吹く風、最初の小鳥、昇ったばかりでゆがんだまだ楕円形の太陽と共謀しているようなきがしたものだった・・・・私は最初のミサの鐘で帰宅した。

とはいえ、好きなだけ食べ、たった一匹で狩りをする犬のように森のなかを大きく一回りし、私の大切な忘れられた二つの泉の水を味わってからのことだったが・・・・・

メアリー・ウェッブ[1883-1927、イギリスの女性作家]もまた『ドーマーの森の家』のなかで、若い娘が見慣れた風景にくつろいで味わう熱烈な歓喜を描いている。

家の中の空気があまり険悪になると、アンバーの神経は切れんばかりに緊張した。そのようなとき、彼女は丘を通って森まで行ったものだ。すると、ドーマーの人々は掟の監督下に生きているのに、   森は衝動だけで生きているように見えた。彼女は自然の美にすっかり目覚め、美を独特に認識するようになった。共通点が見え始めた。自然は小さな細部をたまたま寄せ集めたものではもうなく、ある調和、厳粛で壮厳な一遍の詩なのだ。ここでは美が支配し、花や星の光でもない光が輝いていた・・・・・神秘的で魅力的なかすかなわななきが、光のように森中を駆け抜けたように思われた・・・アンバーがこの緑の世界に行くのは、なにか宗教儀式めいていて。

すべてが穏やかなある朝、彼女は《小鳥の果樹園》に上った。こせこせしていらだたしい一日が始まる前に、彼女はよくそうしていた・・・・・小鳥の世界の常軌を逸した支離滅裂さに、彼女はいくらか元気を取り戻したものだ・・・・彼女はついに《森》の頂上に到着する。すると、たちまち美との格闘になる。

自然との会話には、彼女にとって文字通りなにか戦いのようなもの、「お前が私を讃えるまで、お前を行かせないよ・・・・」と命じる、なにか気配のようなものがあった。野性のリンゴの木の幹に寄りかかっていると、一種の心の聴覚によって、彼女は突然樹液が上っていくのを感じた。それは非常に生き生きとして力強く、潮のように鳴っている気がした。

そのあと、花が房状になって咲く木の下をそよ風が駆け抜けると、彼女は現実の音に、風変わりな葉の演説に目覚めた・・・・花びら、葉っぱの一枚一枚が音楽を口ずさんでいるようだった。そして、この音楽もまたそのゆかりの深さを思い出させるものだった。優しくふくらんだこれらの花々は、その可憐さからすればあまりにも重厚なこだまで満ちているように思えた・・・・・丘のうえからかぐわしい風がさっと吹いて枝のあいだに滑り込んだ。

形があり、形の死すべき運命を知っている事物は、そこを通る、形のない、表現できないこの物を前にしておののいた。これがあるおかげで森はもはや単なる集団ではなく、星座のような、輝かしいひと揃いのまとまりなのである・・・・これ自体が、持続的で不変の存在のなかに自己を保っていた。自然が生息するこの場所でアンバーを惹きつけ、息が停まるほどの好奇心でとらえたのはこのことだった。そのために、いま、彼女は独特な恍惚感のなかで動けなくなっていた・・・・・


エミリィ・ブロンテ[1818-48、イギリスの女性作家]やアンナ・ド・ノアイユのような、さまざまな女たちが青春時代に――さらにその後生涯を通じて――同じような情熱を経験した。

 引用した文章は、思春期の娘が畑と森にどんな救いを見出すかをよく示している。父親の家では母親、決まり、習慣、日常の惰性が支配しており、娘はこうした過去に別れを告げたい。今度は自分が絶対的主体になりたい。しかし、社会には、妻になることによってしか大人の生活に到達できない。
 彼女は自己放棄と引き換えに解放を手に入れる。他方、動植物のあいだでは彼女は人間である。家族と男から同時に解放され、彼女は主体、自由なのだ。彼女は森の秘密のなかに自分の魂の孤独のイメージを、平原の広い地平線に超越の明確な姿を見出す。

 彼女自身、あの果てない荒れ地であり、空にそびえるあの木の梢である。見知らぬ未来に向かうあの道、それを彼女は辿ることができるし、辿るだろう。彼女は丘の頂上に座り、足元に広がり、差し出された世界の富をすべて支配する。水のきらめき、光の揺らめきを通して、彼女はこれまで知らなかった歓喜、涙、恍惚を予感する。

 池のさざ波、太陽の黒点は、彼女自身の心の冒険を、彼女に漠然と予告しているのだ。匂い、色は不思議な言語をしゃべるが、その言語の「生」という言葉が、圧倒的な明瞭さで浮かび上がってくる。存在は、役所の帳簿に登録されている抽象的な運命であるだけでなく、未来であり肉体という財産である。

 肉体をもつことはもう恥ずかしい欠陥とは思われない。思春期の娘は、母親の視線のもとで拒絶するあの欲望のなかに、木のなかの昇樹液を確認する。もう呪いは解け、葉や花との類似性を堂々と主張する。彼女は花冠をくしゃくしゃにして、生身の獲物が彼女の空の手をいつか満たすことを知るのだ。肉体はもう汚れではない。歓喜と美なのだ。

 空や荒れ地と融合した娘は、世界を活気づけ、燃えたたせるあの判然としない息吹であり、ヒースの一枝である。土に根を下ろした個人、無限の意識である彼女は、精神であり生命である。その存在は、大地そのものの存在のように、絶対的で決定的である。

 彼女はときおり《自然》の彼方に、なおいっそうはるかでまばゆい現実を求める。神秘的恍惚に浸りたいと思う。信仰の時代には、多くの若い女の魂が、神に自分たちの空白を埋めてくれるように求めた。シエナの聖女カタリナ[14世紀イタリアのドミニコ会修道女]、アヴィラの聖女テレサ[16世紀スペインの修道女]は、幼年期にその天性を現わしたのだ(*17)。ジャンヌ・ダルクは若い娘だった。

 その他の時代では、最高の目標となったのは人類である。だから、神秘的な気持ちの高まりは明確な計画となって現れる。しかしやはり、絶対に対する若い欲求はロラン夫人[フランス革命で夫ともに活躍。反対派に処刑される]、ローザ・ルクセンブルク[1870-1919、ポーランドの社会主義者、経済学者]のなかに火をともし、その火が彼女たちの生を養った。娘は隷属のなか、欠乏のなか、拒否の奥底から、最も大胆な試みを汲みだすことができる。

 彼女は詩に出会う。ヒロイズムにも出会う。社会にうまく溶け込めないという事実を受け止める一つのやり方は、その限られた地平線を乗り越えることである。 持って生まれた豊かさと力、幸運な環境のために、大人の生活に入ってからも思春期の情熱的計画を続けられる女の何人かはいる。しかし、これは例外である。

 ジョージ・エリオットがマギー・タリヴァーを、マーガレット・ケネディがテッサを死なせてしまうのは理由のないことはない。これはブロンテ姉妹[シャーロット・エミリィ、アン。イギリスの女性作家三姉妹]が体験した厳しい運命である。若い娘は弱くてたった一人でも世界に立ち向かうので感動を誘う。だが世界の力はあまりにも強い。

 強情に世界を拒否していると挫折する。辛辣さと機知の独創性でヨーロッパを魅惑したベル・ド・ゾイレン[シャリエール夫人の愛称で、ゾイレンの美女の意味]に、求婚者たちはみなたじろいだ。彼女は譲歩をいっさい拒否したので、長い間やむなく独身だったが、彼女は「処女と殉教者」という表現は冗談法[同義の表現を繰り返し用いること]だと明言していたから、独身というのは重荷だった。

 こうした頑固さは珍しい。多くの場合、娘は闘いがあまりに一方的であるのを知って、結局譲歩する。ディドロ[1713-84、フランスの啓蒙思想家]はソフィー・ヴォラン[1717頃-84、ディドロの愛人]に「あなた方はみな15歳で死ぬのです」と書き送っている。闘いが――たいていそうであるように――形ばかりの反抗でしかなかったとき、敗北は確実である。

少女は、夢の中では要求が多く、希望に満ちているが受動的で、大人の憐れみ混じりの微笑を誘う。大人は娘をあきらめに導くのだ。そして、実際、反抗的で風変わりな子どもと別れたのに、二年後に再会すると、落ち着いて、女の一生に同意する準備ができている。これはコレットがヴァンカに予言する運命である。

モーリヤック[1885-1970、フランスの作家]の初期の小説の女主人公たちも、このように描かれている。思春期の危機は、ラガーシュ博士[1903-72、フランスの精神分析学者]が「喪の仕事」と呼ぶものに似た、一種の「仕事」である。娘は子ども時代を、自分という自律した絶対的なあの個人を、ゆっくり埋葬する。そして、大人の生活におとなしく入っていく。

もちろん年齢だけで、はっきり類別できるわけではない。一生、子どもっぽい女もいる。ここに記した行動は、ときには年齢を重ねたあとまで続く。しかしながら、全体として15歳の「若い娘」と「年頃の娘」には大きな違いがある。後者は現実に適応している。もうほとんど想像によって動くことはなく、以前ほどには自分のなかで分裂していない。マリー・バシュキルツェフは18歳の頃、次のように書いている。

青春時代の終わりに近づけば近づくほど。無感動が私をおおうようになる。私は全てに心をかき乱されたていたものだが、いま私の心をかき乱すものはほとんどない。

イレーヌ・ルウェリオティはこう書き留めている。

男にうけいれられるためには、彼らのように考え、行動しなければならない。そうしないとあなたは嫌われ者になり、孤独があなたの運命となる。私はいまは孤独はもうたくさん、大勢の人に、私の周りどころか私と一緒に、いてほしい・・・・・いまを生きること、そしてもう存在するのを辞めること、待ち、夢見て、口を閉じて体を動かさずすべてを自分の中に語ること。

さらに次のように記している。

 あまりにお世辞を言われたり言い寄られたりするので、私は非常に野心的になった。それはもう15歳の頃の、おののき感嘆するような幸福ではない。人生に仕返しをする、のし上がるという、冷たく厳しい一種の陶酔だ。私は恋の真似事をし、愛する振りをする。だが、愛しはしない・・・・私より知的に、より冷静になり、日常もより明敏になる。心は失われていく。割れ目のようなものが生じた・・・・私は二ヶ月で子ども時代の別れを告げた。

次の19歳の娘の打ち明け話も、ほとんど同じ調子である。

 ああ、今世紀と相いれないような心の状態と今世紀自体からの呼び掛けとのあいだに、かつてはなんという葛藤があったことか! いまは穏やかな心持ちだ。新しい偉大な思想は、それぞれ私のなかに入って不快な大混乱を引き起こしたえず破壊と再構築を繰り返すのではなく、すでに私の中に在ったものと見事に適合する・・・・いま私は理論的思考から日常生活へと、ゆっくりと立ち止まることなく移っている。

 娘は――とくに醜くないかぎり――結局、自分が女であることを受け入れる。そして、たいていは、最終的に自分の運命に落ち着くまで、そこから引き出される快楽と勝利を気ままに享受して幸福である。どんな義務もまだ要求されず、責任もなく自由な持ち時間にいて、といって、現在は一つのステップに過ぎないのだから、彼女にとってそれは空白とも期待外れとも思われない。

 化粧と恋の戯れにはまだ遊びの軽さがあり、未来の夢がその無意味さを隠してくれる。ヴァージニア・ウルフ[1882-1941、イギリスの女性作家]は、夜会に出ている一人のコケティッシュな娘の印象をそのように描く。

 暗がりの中で自分が輝いているのを感じるの。絹のストッキングをはいた両足が優しくこすれ合う。
 ネックレスの宝石が喉元にひんやりとおさまっている。着飾って、用意はできたわ・・・髪は理想的にカールしている。唇は念入りに濃く塗ってあるわ。階段を上がっていくあの男の方たちや女の方たちのお仲間入りしても大丈夫。あの方々は私の仲間。私がみなさんを見つめたように、私は皆さんの視線にさらされて皆さんの前を通るの・・・・この香りのなかに、輝きのなかに、巻いていた葉を広げるシダのように、私は開くの・・・・私の中に無数の能力が生まれるのを感じる。

 私は次々とお茶目になったり、陽気になったり、しょんぼりしたり、ものうげになったり、深い根を張ってはいるけれど、私は揺らめくの。全身黄金色になり、あちらに揺れてはその青年ら「いらっしゃいな・・・・」と言うの。近づいてくる。私の方に来るわ。いままでに経験したことのないときめきの瞬間。どぎまぎする。ゆらゆらめくわ・・・・サテンのドレスを着た私と、黒と白ずくめの彼が、こうして一緒に坐っていると、私たち素敵でしょ。私の仲間たちは、男の方も女の方も皆さん、いまは私をしげしげとご覧になっているかもしれない。

 私はみなさんを見返してあげるの。私はあなた方一人。ここは私の世界・・・・ドアが開くわ。ひっきりなしに開くわ。この次開いたら多分、それで私の人生はすっかり変わるの・・・・ドアが開くわ。「あら、いらっしゃい」と、大輪の金の花のように、その青年の方に身をかがめて言うと、その方は私の方にいらっしゃるわ。

 しかし、若い娘は成熟すればするほど母親の権威に圧迫されるようになる。もし、家で家事に従事する生活をしていれば、手伝いしかないことに悩み、自分の家庭、自分の子どものために働きたいと思うだろう。しばしば、母親に対するライバル意識が募る。とくに、弟妹がまだ生まれるようだと、姉はいらいらする。彼女は、母親の「兵役は終わった」、これからは自分が子を作り、権力を振るう番だ、と思っているのだ。もし、家の外で働いていれば、帰宅すると自律した個人でなく、まだ単なる家族の一員のように扱わられるのに悩む。

 彼女は以前ほど空想に耽ったりせず、恋愛よりも結婚のことをはるかに考え始める。もう未来の夫をきらびやかな栄光で飾り立てたりしない。彼女が望むこと、それはこの世の安定した場を得ること、妻の生活を始めることなのだ。V・ウルフは田舎の裕福な娘の夢想をそんな風に描いている。

 もうすぐ、スイカズラの回りをミツバチが飛び回る暑い昼時になると、私の恋人が来るわ。あの人がたった一言発すると、私は一言だけ答えるの。私のなかにできたものをあの人にみんなわけてあげよう。子どもをもつわ。エプロンを付けた女中とほうきをもった下働き女中を雇うわ。お台所を手に入れるの。病気の子羊をバスケットにいれて温めにいったり、ハムが梁からぶら下がっていたり、数珠つなぎのタマネギが輝いているお台所を。私は母と同じようになるわ。黙って、青いエプロンをつけ、手に戸棚の鍵をもつの。

 同じような夢は、哀れなブルー・サーンにも取り憑いている。

 一度も結婚していないというのは実に恐ろしい運命だと思っていました。娘はみんな結婚します。そして娘が結婚する時は一軒の家とたぶん、夕方、夫の帰ってくる時刻にともすランプの手に入れます。ろうそくしかなくてもまったく同じこと、窓の傍に置けますから。すると、夫は「妻がいる、ろうそくを点けたな」と考えます。そして、いつかビギルディ夫人が革の揺籠を作ってくれる日が来ます。

 そしてまたいつか、そこに厳かできれいな赤ん坊がお目見えし、洗礼式の招待状が送られます。そして、隣人たちは、女王蜂のまわりのミツバチのように、母親のそばに駆け付けます。物事がうまく行かない時、私はよく「何でもないわ、ブルー・サーン、いつかあなたは自分の蜜房の女王になるわ」と思ったものです。

 大部分の年頃の娘にとって、勤勉な生活をしていようと浮ついた生活をしていようと、父親の家に閉じ込められていようとある程度解放されていようと、夫――止むを得なければ本気の恋人――を射止めることが次第に緊急の仕事となる。これに気を取られていると、しばしば、女の友情にとって不味いことになる。

「親友」は特権的な場を失う。娘は友だちのなかに、相棒よりもむしろライバルを見る。知的で才能に恵まれているのに、自分を「彼方の国のプリンセス」のように思ってしまった娘を私は知っている。彼女は詩や随筆のなかに自分をそのように描いた。幼馴染に未練はない、と素直に認めていた。醜くてばかな友だちは気に入らなかった。

魅力的な友だちは怖かった。男をじりじりしながら待つというのはたいてい駆け引き、奸計、屈辱を意味し、娘の前途に立ちふさがっている。彼女はエゴイストで冷酷になる。そして、《すてきな王子様》の登場が遅れると、嫌悪感と気難しさとが生まれる。

若い娘の性格と行動は、彼女の状況を説明している。だから、状況が変われば思春期の娘の姿も違ったものになる。今日では、自分の運命を男に委ねず、自分の手に握ることもできる。勉学、スポーツ、職業研修、社会活動、政治活動に没頭すれば、男に対する強迫観念から解放されて、恋愛や性の葛藤に心を奪われることはずっと少なくなる。

とはいえ、若い娘が自律した個人として自己実現するには、青年よりはるかに苦労する。すでに指摘した通り、家族も習慣も彼女の努力に手を貸さない。そのうえ、たとえ自立を選ぶにしても、彼女の人生において男や恋愛がある程度の場を占めることになる。何かの仕事にすっかり打ち込むと、女の人生に失敗するのではないかと心配になることもよくあるだろう。

こうした感情に自分でも気づかないことが多い。しかし、それは存在し、固まっていた意志を揺るがし、限界を示すのだ。いずれにせよ仕事を持つ女は、仕事上の成功と全くの女としての成功を両立させたいと願う。だからといって、必ずしもお化粧やお洒落に多くの時間を割かなくてはならないわけでもない。だが、もっと重大なのは、これが彼女のきわめて重要な関心事を分裂させることだ。

男子学生は授業のないとき、戯れにはあれこれ考えて楽しむが、そこから最良の思い付きが生まれる。女の夢想はまったく別の方向に向かう。彼女は自分の容姿のこと、男のこと、恋愛のこと考えるだろう。彼女は学業、職業に必要最低限しか割かないのだが、この分野では余計なものが必要なのだ。

ここで問題なのは、精神的な弱さや集中力の不足ではなく、関心が分裂し、両立困難なことなのだ。悪環境がここから始まる。女が夫を見つけ、あまりにも簡単に音楽や勉強、仕事を投げ出すのを見て驚かされることがよくある。

これは彼女が自分の計画にほんのわずかしか身を入れていなかったので、やりとげても大した利益が見出されなかったからである。すべてが一致して彼女の個人的野心を抑えようとする。しかも、大きな社会的圧力が、結婚に社会的地位、正当性を見出すように彼女を仕向ける。

彼女がこの世に自分の場を自分で創造しようとしないのは、あるいはおずおずとしかしないのは当然である。完全な経済的平等が社会に実現されないうちは、また、習慣が妻や愛人である女に対して一部の男たちが握っている特権を行使するのを許しているうちは、女のなかに受動的な成功の夢は生き続け、自分自身の自己実現は抑えられるだろう。

しかし、娘がどのようなかたちで大人の生活に近づいても、見習い期間は終わらない。ゆっくりと成されるにしてもいきなりにしても。性の通過儀礼を受けなければならない。それを拒否する娘もいる。性的なつらい事件が子ども時代に強い影響を及ぼしていると、そして、不用意な教育のせいで彼女たちのなかに性に対する嫌悪がゆっくりと根を下ろしてしまうと、思春期の娘の嫌悪感を男に対してもちつづける。そんなつもりはないのに、いつまでも処女のままの女もいる。

しかし、大部分の場合は、多少とも年齢を重ねると、娘は性的運命をまっとうする。彼女がこれに向かい合うかは明らかに彼女の過去全体と密接に関係している。しかし、そこには思いがけない事態から生まれる新しい経験もあり、それに対して彼女は自由に反応する。これから私たちが、検討しなければならないのは、この新しい段階である。

つづく 第三章 性の入門