フランス法典では服従はもはや妻の義務に属するとは見なされていない。しかも、女性市民は選挙権を持つようになった。経済的自立が伴わなければ、この市民としての自由は抽象的なものでしかない。妻であれ愛人であれ、扶養されている女は、投票用紙を手にしたとしても、男から自由になったわけではない。

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第十四章 自立した女

本表紙第二の性 Ⅱ体験 ボーヴォワール 中嶋公子・加藤康子監訳

第四部 開放に向かって

かつてのほど慣習による制約を押し付けられなくなったとしても、こうした消極的な自由によって、女の状況は完全に変わったわけではない。女は依然として従属的地位に閉じ込められたままである。女が男を隔てていった距離の大部分を乗り越えたのは労働によってである。労働だけが実質的自由を女に保証してくれる。

寄生的な生き方を辞めたときから、依存することが成り立っていたシステムは崩れ、女の世界の間に男の仲介はもはや必要ではなくなる。従属者としての女につきまとう不運は、何もしないでいることしか許されないことだ。そうなると、女はナルシシズムや恋愛や宗教をとおして実現不可能な存在の追求にしがみつく。

一方、生産的で活動的な女は超越を獲得する。彼女たちは自らの投企(プロジェ)を通じて自分の主体として確立する。自分の追求する目的に対して、また、自分が手にする金銭と権利に対して責任を感じる。

多くの女たちはこの利点を自覚している。最もつましい仕事についている女でさえそうだ。私は日雇いの女がホテルのホールのタイル磨きしながらこう言っているのを聞いた。「私は何一つせがんだりしたことはないよ。これまでたった一人でやってきたのさ」彼女は自活しているという点ではロックフェラー[アメリカの富豪]と同じくらい誇りをもっているのだ。

しかしながら、単に選挙権や職業を並べたことが完全な解放であるとは信じられない。現代の労働は自由を意味しない。女が働くことによって自由を獲得できるのは社会主義社会においてだけである。今日、労働者の大部分は搾取されている。女の地位の向上によって社会構造が根本的に変化したわけではない。

つねに男のものであったこの世界はいまだに彼らがそこに刻印した姿のままである。女性労働問題の複雑さはこうした事実から来ていることを忘れてはならない。要職にある保守的な一人の女性が、ルノー自動車工場の女子工員を対象とした調査を行った。

その結果、女たちは工場で働くより家庭にいる方を好んでいると彼女は断言する。おそらく、女たちは経済的に抑圧された階級においてしか経済的自立を獲得しないだろう。だが一方、工場で仕事をしているからといって、家庭での辛い仕事を免除されるわけではない(*1)

もし、週四十時間の労働を家庭あるいは工場のどちらかでやるか選べと提示されたら、たぶん、彼女たちは前とはまったく違った答えをしただろう。そして、労働者として自分の世界になるはずの世界にしっかり組み込まれ、喜びと誇りを持ってその建設にかかわっていけるとなれば、恐らく彼女たちはいそいそと工場労働者と家庭の仕事の兼務を受け入れるだろう。

現在、農村の女たちはもちろんだが(*2)、働く女たちの大部分は伝統的な女の世界から抜け出していない。彼女たちは実質的に男と対等になるのに必要な援助を社会からも夫からも受け取っていない。政治的信念をもち、組合で活動し、未来を信じる女たちだけが、報われない日々の労役に倫理的意味を与えることができる。

とはいえ、余暇を奪われ、服従の伝統を受け継いできた女たちがいまようやく政治的、社会意識を高めはじめたばかりだとしても、それは当然のことなのだ。仕事と引き換えに、期待できる精神的、社会的利益が得られないのだから、女たちがいやいやながらも制約を受け入れているのも当然のことである。

また、女の店員、事務員、秘書が男の後ろ盾という特典を放棄したくないのもわかる。すでに述べたが、自分の身を委ねるだけで加入が許される特権カーストの存在は若い娘にとって抵抗し難い誘惑がある。自分の給料はわずかなのに、社会的には人並みの生活水準を維持したいので、娘は男の甘言にすがってしまう。

自分の稼ぎだけに満足してすれば、のけ者にしかなれない。住むところも服装もひどく、気晴らしや恋愛さえもできない。徳を重んじる人々は禁欲主義を説く。実際、その食生活はカルメル派修道女と同じような粗食であることが多い。ただし、誰もが神様を恋人にすることなどできない。だから、女はとしての人生を成功させるには男に気に入られなければならない。

その結果、援助を受けるようになる。これこそ皮肉にも雇い主が期待していることで、生活費が足りない給料しか支払われないことになる。ときには、こうした援助が状況の改善と真の自立の獲得に役立つこともある。ときには反対に、扶養してもらうために、職を棄てることもある。

たいていは両方を兼ねる。仕事によって恋人から解放され、恋人のお蔭で仕事から逃れるというわけである。だがまた、仕事と男の庇護という二重の束縛を経験する。結婚した女にとって、自分の給料はふつう補助的なものでしかない。「援助を受け取っている女」にとって、男の援助は本質的なものには見えない。しかし、いずれの場合も、個人的努力によって完全な自立を獲得しているのではない。

とはいえ、現在、職業をもつことで社会的、経済的自律を見出している恵まれた女たちがかなりいる。女の可能性や未来が問われるとき、問題にされるのはそういう女たちである。だからこそ、まだ少数派でしかなくとも、彼女たちの状況について注意深く検討することがとりわけ興味深いのだ。フェミニストと反フェミニストとの論争はまさに彼女たちをめぐって続いている。反フェミニストは現代の解放された女たちは世界のなかで重要なものを何も勝ち取っていないし、心のバランスをうまく取れていないでいると主張する。

一方、フェミニストは自分たちの勝ち取った成果を過大評価し、自分たちの混乱には目をつぶっている。実際のところ、彼女たちが間違った方向に進んでいると言う根拠はなにもない。とはいえ、彼女たちが新しい条件のなかですみやかに居場所を確保できたのではないのは確かである。彼女たちはまだ道半ばまでしか来ていないのだ。

経済的に男から解放されている女は、だからといって男と同じ道徳的、社会的、精神的状況にいるわけではない。女が職業生活に入り、それに専念していく仕方は、彼女の生活形態全体が作りだす状況に左右される。ところで、若い娘が大人の生活に入っていくときに背負っている過去は、男の子と同じではない。

また、社会から同じ目で見られているわけでもない。彼女にとって世界は男の子と異なる展望の中に現れる。女であるという事実は、今日では、自律した一人の人間に特別な問題を課すのである。

男が手にする特権、子どもの頃から自分にあると感じている特権、それは人間としての使命が男としての運命を制約しないということである。男根(フアルス)と超越の同一視によって、社会的、精神的成功が男の男性的威信を与える事になるのだ。男は分裂していない。

一方、女には、女らしさを完成させるために、自分を客体、獲物にすること、つまり絶対的主権をもつ主体としての要求をあきらめることが求められる。まさに、この葛藤が、解放された女の状況をとりわけ特徴づけられているのだ。彼女は去勢されたくないので女の役割に閉じ込められるのを拒否する。

しかし、自分の性を捨てるのは去勢されることだ。男は性をもつ人間である。女もまた男と同じように性をもつ人間でなければ、完全な一人の人間であると言えない。自分が女であることを捨てるのは、自らの人間性の一部分を捨てることだ。

女嫌いの男たちは理知的な女たちを「身なりにかまわない」としばしば非難しておきながら、こんなふうに忠告する。「ぼくたちと同等になりたいなら、顔を塗りたくったり、マニキュアをつけたりするのをやめたまえ」。この忠告はばかげている。

なぜなら、まさに女らしさという観念は習慣や流行によって人為的に定義され、外部から女一人ひとりに押し付けられるものだからだ。この観念が変わることがあるとすれば、それは、その規範が男の採用する規範に近づくかたちをとるときである。

たとえば、海岸ではズボンが女らしいということになった。だが、そんなことは問題の本質を変えはしない。自分の思うように女らしさの観念に馴染まない女は性的に、そしてその結果、社会的に価値を下げる事になるのだ。社会が性的価値を取り込んでしまっているからである。

女の属性を拒否しても、男の属性を得られるわけではない。男装したからといって男にはなれない。男に仮装した女でしかないのだ。すでに見たように同性愛もまた一つの特定化である。つまり、中性はあり得ないのである。

否定的態度をとれば必ずその代償を支払わなければならない。しばしば、若い娘は慣習なんか無視していいのだと考える。だから、それを態度で示す。彼女は新しい状況を作り出し、その結果を自分で引き受けなくてはならない。

既存の規範を逃れた途端、人は反乱者となる。とっぴな格好をした女が「気まぐれにやっているの。それだけよ」とさりげない様子でいうとき、彼女は嘘をついている。気まぐれが続けば、常軌を逸していると見られるのがよくわかっているのだ。逆に、風変りと見られたくない女は一般的にしきたりに合わせる。

具体的効果のある行動でなければ挑戦的態度を選ぶのは割に合わない。時間や力の浪費だ。顰蹙(ひんしゅく)を買いたくない、社会的信用を失いたくないと思っている女は、女としての条件を生きなくてはならない。職業上の成功のためにそうせざるを得ないことも多い。だが、男にとっては、慣習が自律的で能動的な個人の要求にそって定められているので、順応するのはまったく自然である。

一方、女の方は、彼女もまた主体であり能動性でありながら、女を受動性に留めておこうとする世界のなかで生きなければならない。女たちは女の世界に閉じ込められ、そこでの義務の重要性を肥大させてしまったため、その義務はそれだけ重いものになっている。たとえば、女たちは服装や家事を難しい技術にしてしまった。

男は自分の着るものをまったく気にかける必要がない。男の衣服は男の活動的生活に合っていて気やすく、男の服は洗練されているべきだとは考えていない。衣服が男の人間性の一部となることはほとんどない。さらに、その手入れを自分ですることなど誰からも期待されていない。報酬を払う払わないにせよ。誰か女が世話をしてくれる。

それに対して、女は、人から見られるとき、外見が自分と切り離して見られないのを知っている。彼女は身なりから、判断され、尊敬され、性的魅力をとやかく言われる。女の衣服はもともと女が自由に動けないようにできていて、傷みやすかった。ストッキングは破れ、靴のかかとは減り、明るい色のブラウスはやワンピースは汚れやすく、ブリーツは折れ目が取れてしまう。

それなのに、たいていは自分で直さなくてはならない。他の女が無報酬で来てくれるわけではない。それに、自分でできることにお金を使うのは気が咎める。パーマ、セット、化粧品、新しいドレスはそれだけでもかなり高くつく。秘書や学生はいつも夜帰宅してから、ストッキングをかがったり、ブラウスを洗ったり、スカートにアイロンをかけたりする。十分な生活費を稼ぐ女はこうした苦労はしないで済むだろう。

だが、彼女たちはより凝ったおしゃれをしなければならず、買い物や仮縫いなどに時間を費やす。伝統的に、女には――独身であっても――家庭のことに一定の気配りをすることが課せられている。新任地に行った男の公務員は簡単にホテル住まいをする。だが、それが女だったら、「自分の家」を構えようとするだろう。そして、それを入念に手入れして維持しなければならない。なぜなら、男の家なら当然なだらしなさも女の家では許さないからである。

しかしながら、女が美容や家事に手間暇をかけるように仕向けるのは、世間への気遣いだけではない。彼女は自己満足のために、本当の女でいたいと思う。母親や、子ども時代の遊び、青春時代の
夢想によってすでに準備されていた女としての運命と自分で作り上げた人生とを折り合わせてはじめて、彼女は現在・過去をとおして自分を是認できる。

 女はナルシシスト的な夢をつちかってきた。彼女は、男の男根的誇りに対して自己のイメージへの崇拝を対立させ続ける。彼女は自分を見せびらかし、人を魅了したいと思う。母親や姉たちから彼女は巣への関心を吹き込まれてきた。自分自身の家というものが自立の夢の原型だった。

 他の道で自由を見つけたとしてもその夢を否定するつもりはない。男の世界で居心地の悪さを感じるかぎり、女は隠れ家を求める気持ちを持ち続ける。それは自分自身のなかに求めるのが慣習となった内的逃避のシンボルである。

 女の伝統に従って、自分で床を磨き、男の同僚のようにレストランで食べに行く代わりに自分で料理を作る。彼女は男と女として両方をともに生きたい。だから、仕事も疲れも増えてしまうのである。

 彼女が完全な女でありたいと望むのは、他方の性に最大限の勝算をもって近づきたいからである。最大の難問が生じるのは性の領域においてである。女が完全な個人に、男と対等な人間になるためには、男が女の世界に近づかなければならない。ただし、他者の要求が男女の場合では対照的ではない。

 財産、名声を獲得すると、それらは内在的美点のように見えるため、女の性的魅力を一段と引き立てることが出来る。しかし、自律的能動性のある人間であることと、彼女が女であることとは矛盾する。彼女にはそれが分かっている。自立した女――とくに自分の状況を考える理知的な女――は女としとして劣等コンプレックスに苦しむ。男を誘惑することしか考えていないコケティッシュな女と同じように美容のための念入りな手入れをする時間はない。専門家のアドヴァイスに従おうとしてもうまくいかない。

彼女はおしゃれの領域ではまったくの素人でしかない。女らしい魅力のためには、超越は内在に堕落し、もはや肉体のかすかな痙攣(けいれん)となってしまわなければならない。理知的な女は自分が身を差し出しているのがわかっている。自分が一つの意識であり、主体であることを自覚している。彼女は思いのままに自分の眼差しを殺したり、自分を雲間に見える小さな空や水たまりに変えたりなどできない。

世界へと向かう身体の躍動を確実に押しとどめて、その身体を漠とした震えによって生気を与えられた彫像に変身させることなどできない。理知的な女は失敗の恐れがあっても、それに負けないくらいの情熱をもって努力する。しかし、この意識的な熱意はやはり一つの能動的であって、目的を達成しそこなう。彼女は閉経期に女が犯しやすい間違いと同じ間違いを犯す。年を感じ始めた女が自分の年を否定しようとするように、彼女は自分の才知を否定しようとする。

娘のような格好をし、花やフリル、けばけばしい布をごてごてと身につける。また、子どもっぽい、うっとりとした仕草をして目立とうとする。はしゃぎ、飛び跳ね、たわいもないことをぺらぺら喋り、無遠慮、軽率、衝動的な行動をとる。ある種の筋肉が緩む感動を経験したことがないために、瞼や唇の端を緩めるのではなく、伏し目にしたり、唇を下げてぴくつかせて意志力で拮抗筋を収縮させる役者に似ている。

このように、理知的な女は身を委ねているさまを身振りで示すために痙攣するのだ。それを自分で感じ、苛立つ。愚かな言動に取り乱した顔を、鋭すぎるほどの知性がきらりとよぎる。期待をもたせるような唇がぎゅっと閉じる。彼女がなかなか気に入られたいと本気で思っていないからである。誘惑したいという願望がどれほど激しくとも、それは骨の髄までしみこんでいない。

自分が不器用だと感じた瞬間、彼女は自分の卑屈さにいらいらする。男の武器を使ってルールを守りながら反撃したいと思う。彼女は聞く代わりに喋る。わかりにくい思想や新奇な感情を開陳する。話し相手に賛成する代わり反論をする。相手に勝とうとする。スタール夫人は電撃的勝利を得るために二つの方法をかなり巧みにとり混ぜた。

彼女に太刀打ちできる男は稀だった。しかし特に、アメリカの女たちに多いこうした挑戦的態度は、男たちに勝つというよりはむしろ彼らを苛立たせた。だがそもそも、彼らの方が自分たちの不信感のせいで女に挑戦的な態度を取らせているのだ。もし、男が一人の奴隷ではなく、自分と対等な一人の女を愛そうとするなら――最も男の中には横柄さも劣等感ももたずに、そういう愛し方が出来る人もいるのだが――、女の方も女らしくあるために気遣いに悩まされなくてもすむはずだ。

そうなれば、彼女は自然らしさで素直さを手にできるし、それほど苦労せずに女であることができるだろう。いずれにしろ女であるのだから。

事実は、男たちが女の新しい立場を支持し始めているということだ。女はもはや自分に先天的に欠陥があると感じることはなく、非常にゆとりがもてるようになった。現在、女は働いているからといって自分が女であることを無視していないし、性的魅力を失ってはいない。しかしながら、この成功は――平等へむけて一つの前進を示すものだが――まだ不完全である。

他方の性と望ましい関係を築くのは、いまでも男よりも、女にとっての方がはるかに難しい。女の性生活や感情生活は多くの障害にぶつかっている。もっとも、こうした面では、従属している女は少しも有利ではない。妻や高級娼婦の大多数は性的にも感情の面でも根本的に欲求不満である。

自立した女の場合に困難がよりはっきりと現れるのは、彼女が諦めではなく、闘いを選んだからだ。生きるという問題はかならず死のなかに密かな解決を見つける。だから、生きようと努力する女は自分の意志や望みを葬った女よりもよりいっそう引き裂かれてい。とはいえ、後者の女を見習うよう勧められても、彼女は受け入れないだろう。自分が不利な立場にいるとわかるのは、ただ男との比較においてのみできるのからである。

頑張って責任ある地位に就いていて、世間の抵抗に抗する闘いの激しさを知っている女は――男と同様に――幸せなアヴンチュールによって肉体的欲望を満たすだけでなく、休息や気晴らしを得たいと思う。ところが、女にこうした自由を実際に認めない環境が依然としてある。この自由を行使すれば、評判を落とし、キャリアを台無しにする恐れがある。

少なくとも、世間は彼女に偽善を要求し、それが彼女に重くのしかかる。社会的に重要な地位を占めるのに成功すればするほど、人はえてして目をつむってくれる。しかし、とくに地方では、たいていは厳しく監視される。最も恵まれた環境においてさえ――世間を恐れる必要はないときでも――この点に関しては、女の状況は男と同じではない。この違いは伝統から来ると同時に、女の官能性の独自から生じる問題からも来ている。

男はともかく肉欲を鎮め、精神的にリラックスできる束の間の抱擁を容易に経験できる。女性のための売春宿を開くように要求した女も少数だがいる。『十七歳』と題された小説のなかで、一人の女が「タクシーボーイ(*3)」と呼ばれる男を作ってほしいと提案していた。こういう場所が一つサンフランシスコに最近まであったらしい。

足しげく通っていたのは商売女だけだが、今までお金を支払われていた彼女たちは、今度は自分たちが支払うことを楽しんでいたようだ。だが、彼女たちのひもがそこを閉店させてしまった。こうした解決策は現実離れしているうえにあまり望ましくない。おそらく成功しないだろう。すでに見たように、女は男と同じように機械的な「安らぎ」を得ることはない。

大部分の女は、こうした場は快楽に身を委ねるのにあまり適していないと見るだろう。いずれにせよ、今日はこの解決策は女たちには拒否されているというのが事実だ。一夜または一時間を共にするパートナーを街で拾ってくるという解決法は――仮に、強靭な性格であらゆる自己抑制を解放してきた女が嫌悪感をもたずに試みたとしても――、男より女にとってはるかに危険が大きい。性病の危険は女にとってずっと深刻である。

なぜなら、感染の予防措置は男がすべきことだからだ。また、どんなに用心しても、女は子どもができるかもしれないという危険に対して完全に安心できない。とくに見知らぬ者同士の関係――粗野なレベルの関係――においては、体力の違いがものをいう。男は自分の家に連れ込んだ女をそれほど恐れることはないし、多少用心すれば十分だ。女が男を家に入れた場合は同じようにはいかない。

こんな話を聞いたことがある。パリに着いたばかりの二人の娘が、「世の中を見たくて」、豪遊したあと、モンマルトルの女好きのする売春婦のひもを二人夜食に呼んだ。翌朝、彼女たちは身ぐるみ剝がれ、乱暴され、ゆすられるはめになったという。もっと意味深いケースをあげてみよう。

三人の大きな子どもと老いた両親を養うために一日中つらい仕事をこなしてきた四十歳代の離婚歴のある女性の場合だ。まだきれいで魅力的なのに、ごく普通に誰かを誘惑してみるという余裕はまるでなかった。もっともそんなことは面倒だったのかもしれない。しかし、性欲は旺盛で、男のようにそれを鎮める権利があると考えた。

ときおり夜になると、彼女は街をぶらつきに出かけ行った。男を引っかけようといろいろやった。しかし、ある夜ブーローニュの森の茂みのなかで一、二回時間過ごした後に、帰ろうと思っても相手が承知しない。名前や住所を知りたがり、再び会いたいとか、一緒暮らしたいと言った。断ると酷く殴られ、あざだらけとなって、恐怖に震える状態で置き去りにされたのだ。

愛人の気持ちをつなぎとめる仕方に関していえば、たとえば、男がしばしばするように、愛人を扶養したり援助することで愛人の心をつなぎとめるというようなことは、裕福な女にしかできない。次のような取引をして間に合わせてしまう女たちもいる。男に金を払って、男を道具にしてしまうのだ。そうすれば、横柄な男を使い捨てにすることができる。

しかし普通は、かなり年配の女でなければ、これだけ露骨に性愛と感情を分けることはできない。すでに見たように、思春期の娘の場合は両者の結びつきは大変深いのだ。男にもこうした肉体と意識の分離をけっして受け入れない者が多い。まして、大多数の女たちはそうしたやり方をしてみようと思わないだろう。

それに、そこに欺瞞があって、男より女たちの方がそれに敏感である。つまり、お金を払う客もまた道具になっていて、相手は生計の手段としてそれを利用するということだ。男は自尊心から性愛のドラマの曖昧な面をみないでごまかす。男は無意識のうちに自分を偽るのだ。

また、女は男より屈辱を受けやすく感じやすいので、男より明敏である。女はもっと狡猾な自己欺瞞がなければ真相に目をつぶることはできない。自分のために男を買っても――女がその手段をもっているとしてだが――、一般的に女にとってそれで十分だとは思えないだろう。

大部分の女にとって――男にとってもそうだが――ただ欲望を満たすだけでなく、それを満足させながら人間の尊厳を守ることが重要なのだ。男は女との性的快楽を楽しむとき、そして女に性的快楽を与える時とき、自分を唯一の主体として定める。威圧的な征服者として、寛大な贈与者として、あるいは、両者を兼ね備えた者として。

女の方は相手の男を自分の快楽のために服従させても、自分を捧げることで男を満たしているからか互い様だと主張したい。だから、男に恩恵を約束したり、男の騎士道精神を当てにしたり、駆け引きによって男の欲望をそのまったくの一般性のうちに目覚めさせたりすることによって、男と自分を認めさせるときでも、女は男を満たしていると思い込みがちである。

 この自分に都合のよい確信のおかげで、自分は寛大な心で行動するのだと言い切れるので、女は辱められたと感じることなく男を誘惑できるのだ。たとえば『青い麦』のなかで、フィルの愛撫を求める「白衣の婦人」は、横柄な態度で彼に言う。「私を愛するのは、物乞いか飢えた者だけなの」。実際には、彼女は巧妙に仕組んで、彼に懇願させようとしたのだ。

 そこでコレットは次のように言う。「彼女は狭く薄暗い王国へと急いだ。そここそは、彼女の自尊心が、嘆きは苦悩の告白の表れだと思い込める。そして、彼女のようなしつこく嘆願する女が自由の幻影を飲む場所であった」。ヴァラン夫人は、自分の欲望は寛大さから来ているのだと見せるために、若い恋人や不幸な恋人、低い身分の恋人を選ぶ女たちの典型だった。

 だが、もっと大胆不適な女たちもいる。彼女たちはたくましい男を誘惑し、男を満足させたと悦にいるのだが、男の方は礼儀あるいは恐怖から誘惑に屈したにすぎないのだ。

 一方、その逆に、男を罠に捕らえた女は相手に身を捧げているとのだと思い込もうとし、自分の身を捧げる女は自分の方が捕らえるのだと言い張る。「私は男を捕まえる女よ」と、ある日、若い女性ジャーナリストが私に言った。レイプの場合を除けば、実際、誰にも相手を本当に捕らえることはできない。

 しかし、女はここで二重に嘘をついている。なぜなら、事実は、男はしばしば激情に駆られてあるいは攻撃をかけて誘惑し、積極的に相手の同意を奪い取るからである。すでに引用したスタール夫人のような特別の場合は別として、普通の女の場合はこのようにはいかない。女にできるのはもう身を任せることぐらいしかない。

 というのも、男たちの大部分は自分の役割に非常に執着しているからである。彼らは女の欲求をその一般性において満たすために選ばれたいと思うのではなく、女のうちに個別的な官能の疼きを目覚めさせたいと思うのだ。男は、選びとられと、搾取されたように感じるのである(*4)

 「男に恐怖感を持たない女は、男には恐ろしい存在だ」と、ある若い男が私に言った。また、「女が主導権を握ると思うとぞっとする」と、大人の男たちが言うのをよく耳にしたものだ。どんなに女が大胆に自分から申し出ても、男は知らん顔をする。征服したいのだ。だから、女は自分を獲物にすることによってしか捕らえることができない。

 受動的なモノになることで、つまり、従属の約束をしなければならない。もし成功すれば、女はこの魔術的陰謀をみずから行ったことになり、自分を主体として発見するだろう。だが、女は男に軽蔑されて無用なモノに擬固させられてしまう危険を冒している。そのために、男に言い寄って拒否されると、女は深く辱められるのである。

 男もまた弄ばされたと思って怒ることはよくある。しかし、彼は一つの企てに失敗したにすぎない。それ以上ではない。女は疼きを期待、約束のなかでみずからを肉体にすることに同意してしまったのに、自己喪失することによってしか勝てない。自分を失ったままである。このような敗北を甘受するには、ひどく理性に欠けているか、すばらしく明晰でなければならない。

 また、誘惑が上手く行ったとしても、勝利したかどうかは曖昧である。実際、誰に言わせても、勝利したのは、つまり、女を手に入れたのは男なのだ。女は男のように自分の欲望を満たすことが許されてはいない。女は男の獲物である。男は種としての力を個性のなかに取り込んでいると了解されている。

 一方、女の種の奴隷であるという(*5)。あるときには、女はまったくの受動性とみなされる。「マリー、ここに寝てごらん。女の体の上を通過しなかったのはバスだけなんだよ」というわけだ。それは一つの、自由に処分し、使える道具のようなものなのだ。

 彼女には官能の疼きに魅了されたまま、おずおずと譲歩する。木の実をとるように彼女を摘む男に魅了されるのだ。またあるときには、女を疎外された能動性とみなされる。子宮のなかには足を踏みならす悪魔がいて、膣の奥では、男の精液をたっぷり飲み込みたがる一匹のヘビが様子をうかがっているといのだ。

 いずれにせよ、女が単純に自由であると考えてはならない。フランスでは、自由な女と誘惑されやすい女がしつこいほどに混同されている。されやすいという観念は、抵抗力、抑制力がないこと、一つの欠如を意味し、自由そのものを否定ですらある。

 女性文学はこの偏見と闘おうとしている。たとえば『グリゼリディス』のなかで、クララ・マルローが強調するのは、主人公は誘惑にあくまで譲歩しないが、自分の要求する行動は必ずやり遂げるという事実である。アメリカでは、女の性行動に自由が認められていて、これは女に有利に働いている。

 しかし、フランスでは、男たちは「すぐ寝る女」の愛情は利用するくせに、彼女たちを軽蔑の念を抱くので、大多数の女たちは動きが取れない。自分のせいでこんなふうに言われるのかもしれないとか、自分がネタにされてこんな言葉が使われたのでは、と思うのがたまらなく嫌なのだ。

 たとえ女がこうした匿名のうわさを無視したとしても、パートナーとの肉体関係において具体的な困難を感じる。なぜなら、世間の意見が彼の中に具現化しているからだ。
つづく 十四章 Ⅱ 「自尊心に固執する女はたちのほとんどは不感症になる」
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